2024年4月22日月曜日

29.神国日本 TO図

29.神国日本

29.神国日本

 中世ヨーロッパの世界地図をTO図という。
 地図の中心、世界の中心にエルサレムがある。東が上にあり、天国(パラダイス)とある。エルサレムは、三大陸の要にあたる。世界政府が置かれる予定の地という。 90度右回転すれば、わかりやすい地図になる。さて、典型的なTO図の一つにイギリスのヘレフォード聖堂につたわるヘレフォード図がある。このヘレフォード図には、絹の国とされたセリカ(中国)の東にエデンの園(パラダイス)がある。パラダイスは天国をさす。ちょうど日本の位置にあたる。視点を変えれば日本も現在の超大国米国、中国、ロシアに囲まれた要の土地にある。

 「神である主は、東の方エデンの園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。」(創世記第二章8-9 新改訳)とある。聖書によればエデンの園で全てを創造された。
 エデンの園は、メソポタミア(今日のイラク)あるいはバーレーンあたりにあったとされているが、TO図、特にヘレフォード図の位置関係を見るとき、キリスト教世界にも何らかの伝承が伝わっていたのではないかと思う。そして、その伝承では、TO図の示す通り日本こそエデンの園であり、万物と人類の創造の地とされていたのではないか。
また、イギリスの詩人エドウィン・アーノルド(1832年~1904年)の1889年の来日スピーチで日本のことを

「『地上で天国(パラダイス)あるいは極楽(ロータスランド)にもっとも近づいている国だ』と賞賛し、『その景色は養成のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである』と述べた。」(「逝きし世の面影」渡辺京二著[1998年 葦書房]15頁~16頁)

 人類創造の「エデンの園」であるからこそ、明治にいたってもなお、そして現在も尚、世界の中のひとびとから地上の天国・楽園であるといわれるほどの高度の精神性を残しているのではないだろうか。
 
 また、古代中国では、東の海上に仙人の住むといわれている蓬莱島がある、とされていた。中国の正史である後漢書「東夷伝」には「秦の始皇(始皇帝のこと)、方士徐福を遣わし、童男女数千人をひきいて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむるも得ず」とある。この神仙つまり仙人が住むという蓬莱島こそ、日本の位置にある。
 魏志倭人伝には、日本のことを「窃盗せず、訴訟少なし。」、隋書倭国伝には「人はすこぶる物静かで、争いごとが少なく、盗賊も少ない。‥‥気候温暖で、草木は冬でも青く、土は肥えて美しい。‥‥性質は素直で雅風がある。」とある。
 時代がくだっても日本の印象がすこぶるよい。江戸時代の1775年にオランダから来日したツンベルグの「江戸参府随行記」には「国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に冨み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き。率直にして公平、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く(これらはキリスト教徒でないということ)、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。」とある。
 まさに、天国の風景ではないか。日本は、神の豊かな恵みを受けて、気候温暖・土地は肥えていて風光明媚である。パラダイスつまりエデンの園、天国つまり神の国といえるのが、古来の日本に対する伝承ではないか。

日本書紀(巻第九 神功皇后)に
「新羅の王は、‥‥『東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり天皇という‥』」
とある。
 新羅の王をもって語らせている理念こそ古代日本の天国の姿にほかならない。天照大神(太陽神)の子孫である万世一系の天皇が現人神として君臨する国。神々の恵みをうけた神道の国が日本であると意識されていた。

 やがて、552年(538年)日本に仏教が伝わると、その優れた仏教芸術と仏教文化ゆえに、仏教受容派が、神道派を圧倒する。太陽神の子孫である天皇は、神道の大本であるはずであるのに、仏教に傾倒してゆくことになる。587年神道派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子との争いは、崇仏派の蘇我馬子の勝利に終わり、神道国家の日本は仏教国家に衣替えをすることとなった。752年東大寺の大仏の開眼供養にあたり、聖武太上天皇は、「三宝(仏、法、僧)の奴」と称し、神の国の日本は、仏の国となった。

 やがて、鎌倉時代(1192年~1333年)頃になると、仏の慈悲によって仏は神に化身して衆生を救うために現れたものであるという本地垂迹説があらわれる。
 つまり、仏教の中心である須弥山から遙か離れた辺境の地である日本の民を哀れに思われて、仏が神に化けて出現された。たとえば、大日如来は、天照大神として日本に出現されたということになる。「和を以て貴しとなす」日本の同化力(日本化)によって、仏教国家日本即神国日本という解釈により、仏教と神道の共存共栄が図られることとなった。あくまでも、仏教が主であり神道が従であるということになる。
 この文脈の中で、北畠親房(1293年~1354年)が、「神皇正統記」を著し、

「大日本は神国である。天祖国常立尊がはじめてこの国の基をひらき、日神すなわち天照大神がながくその統を伝えて君臨している。わが国だけにこのことがあって他国にはこのような例はない。それゆえにわが国を神国というのである。」

と説いた。
 鎌倉時代半ばより、神道の反撃が始まり、反本地垂迹説が唱え始められる。これは、神が本来の姿であり、衆生を救うために仏として現れたという説である。しかしこの反本地垂迹説は主流にはならなかった。
 聖武天皇の大仏開眼供養(752年)によって決定づけられた、仏の国日本は、明治維新の廃仏毀釈(1868年神仏分離令)までつづくことになる。

 神武創業(前660年神武天皇が神倭朝の初代天皇として即位して国を拓いたこと)を建国の理念とした明治維新により国家神道として、神国日本が宣伝された。そして、欧米諸国の植民地にならないという決意のもとに富国強兵策をとりながら、昭和の時代を迎える。

 昭和12年(1937年)5月に文部省により「国体の本義」という本が出された。国体というのは、日本の国柄とでも置き換えることができる。
 初めに、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ、我が万古不易の国体である。」とある。また、神武天皇は、「六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。(国の中を一つにして都をひらき、八紘(あめのした)をおおって宇(いえ)とすることは好いことではないか。)」と言われて天皇に即位された。これが「国史を一貫する精神である。」とある。これが、「八紘一宇」の精神である。そして「国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。」と「国体の本義」は、結んでいる。

 日中戦争の最中の昭和15年(1940年)1月には内閣声明として「今事変(日中戦争)の理想が、わが国肇国の精神たる八紘一宇の皇道を四海に宣布する一過程として、まず東亜(東アジア)に日・満(満州国=中国東北部)・支(支那=中国)を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり。その究極において、世界人類の幸福を目的とし、当面において東洋平和の恒久的確立を目標としていることは、政府のしばしばの声明をまつまでもなく、けだし(思うに)自明のことである」と宣言した。

 つまり、日本の天皇は、天壌無窮の神勅(天地が続く限り、天皇の位も天照大神の子孫が継承しづづけるという天照日大神の言葉)により、永遠に栄え、天皇の国である日本も永遠に栄え続ける神国=神の国である。神武天皇が国を肇められたときの理想が、「八紘一宇」の精神であり、これを世界に広める事が日本の使命である、ということになる。

 「国体の本義」そのものは、西欧化によるモラル崩壊のなかで、日本の古き良き伝統に学び、天皇の下に「和を以てと貴し」という精神を守りましょうというキャンペーンであったので、戦後GHQによって、軍国主義を喧伝した書物として排除されるものではないことは、読めばわかることである。
 しかし、ABCD包囲陣によって「窮鼠猫をかむ」の状況において無謀な日米戦争(1941年12月8日から1945年8月15日)を戦うにあたっても、日本は、天壌無窮の神勅により立てられた天皇を戴く神国だから負けるはずがない。必ず神風が吹き、日本が勝利すると国民を鼓舞する指導原理として「国体の本義」が利用され、神州不滅が喧伝さることとなる。
 この自己中心的で偏狭なナショナリズムは、日本の敗北によって否定された。
 この結果、平成12年(2000年)に森首相が「天皇を中心とした神の国」という発言がマスコミに取り上げられると、時代錯誤も甚だしい。即刻首相をやめろという運動にもなった。森首相のスピーチの記録をよめば、宗教の大切さを説いた上で、日本には、神道があり、神に手を合わすことの大切さを説いた。そして、神道の頂点には天皇がいることを神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年祈念祝賀会ので説いたにすぎない。明治よりの国家神道の誤りゆえの過剰反応である。

 神国日本というのは、昭和の時代の戦争遂行のための指導理念では、元々はなかった。戦争を鼓舞するための思想でもなかった。
 神国日本は、古代よりの江戸時代にいたる一貫した日本人の認識であったことを否定することはできない。国家神道となることにより、明治以来、特に昭和に入ってからの偏狭なナショナリズムに利用されたとはいえ、日本の重要なアイデンティティであることには、変わりないと思うがいかがだろうか。

  世界に比類無き豊かな自然界の恵みと、宝石箱の様な多様な自然、優雅で豊かな国民性。豊かな文化と歴史の継続性。まさに、聖書で言うエデンの園、仏教でいう極楽浄土、イスラム教で言う楽園にふさわしい。まさに、日本こそ神の祝福を受けた神国ではないか。

参考図書

國體の本義(昭和12年 文部省)
○「日本待望論」オリヴィエ・ジェマントマ著 吉田好克訳(産経新聞ニュースサービス 1998年)

  「私は日本に対して深い親愛感を抱いております。‥‥何よりも惹かれてきたものは、日本の霊性(spiritualtité)、これであります。
  神道の奥義に触れようとして、多大の時間を割いてまいりました。あまたの社をめぐってえがたい経験を積み、いまやそれは我が人生の宝となりました。この経験からして、断固、こう言うことができます―
  神道なくして日本はない、と。
  そして、秘めたる自然の精髄をさししめすその表しかたからして、神道は、来るべき世紀(21世紀)に、枢要欠くべからざる役割を演ずるに至るであろう。なぜなら、そのとき、ついに人間は、自然とのコミュニオン(合一)なくしては生きられないと悟であろうから、と。

  しかし、ここ数年来というもの、あなたがたのことを考えては、私は驚きを禁じえないでまいりました。なぜ皆さんが、かくもご自分自身について疑い、ルーツから遠ざかっていらっさやるのか、理解に苦しむのです。日本の皆さんはり、人類史上最大の精神文化の一つの継承者です。不幸にして一敗地にまみれたとはいえ、まさに奇跡としか言いようのない努力を傾注して、世界第二の経済大国を樹立されました。ならば、なぜ、この気概を、あらゆる領域で積極的に発揮しようとはなさらないのですか。何故、もっと重要な役割を国際場裡で果たし、もっと毅然と、千古脈々たる「大和魂」を発揚しようとはなさらないのですか。
  このところ、貴国は経済危機に見舞われています。この禍を転じて福となしえないものでしょうか。いっそ、これを奇貨として、日本の伝統に蔵せられた秘宝の何たるかに、もっと目を向けてはいかがなものでしょうか。といって、他の制覇に乗り出すのではなく、世界画一化のもとに喉元を締めあげられた現代世界において、貴国の特殊性をもって貢献せんがために、であります。
  ・・・パリに帰って、いま、これを世に送るにあたり、永遠に日の昇る国の遙かな空に向けて、心から希望のアピールを発します。
  日本よ、すみやかに誇りと主権を取りもどされんことを!
  日本万歳!と。」(p3~p6 自序)

 「日本には亀裂が生じています。その最大の原因は、現下の日本人が日本本来の文化と社会構造のすばらしさを信じていないという点にあります。しかも、この亀裂は大きくなるいっぽうで、そのことを幾つもの兆候がさししめしています。贈収賄、理想なき若者たち、高年齢化社会、核家族、オタク族、等々。もし、いまにして日本が目覚めなければ、この国は、釈迦の譬えた、陶工なき轆轤(ろくろ)のようなものになってしまうでしょう。轆轤というものは、陶工が手を休めても、しばらくは回りつづけますが、やがて止まってしまうこと必定であります。
 歴史上、いかなる文明も、エゴイズムより強い絆によって民族団結が行われずして花と栄えたためしはありませんでした。貴国においては、この絆は、一にかかって日本それ自体の肯定を国際的な場において断行することにあると言って、過言ではありません。つまり、貴国には、飽くまでも日本の伝統に忠実であることによって果たすべき使命がある、ということであります。一個の民族が、決意して大目標をもって進むとき、いかなる社会問題がありましょうとも、その解決が見いだされないということはありません。」(p177) 

○「神国日本」佐藤弘夫著 ちくま新書(筑摩書房) 2006年
○「世界の偉人たちの驚きの日本発見記」波田野毅著 日本の息吹ブックレット⑤(明成社)平成20年
○「続世界の偉人たちの驚きの日本発見記」波田野毅著 日本の息吹ブックレット⑦(明成社)平成21年
○「新版 日本賛辞の至言33撰」波田野毅著 ごま書房 2006年

平成23年06月16日作成   平成25年05月28日最終更新  第071話

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