安寧天皇から考察
安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日-安寧天皇38年12月6日)。
和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。
神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
●系譜
父:第2代綏靖天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では事代主神の娘の五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)とする。
兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。
皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛)
『日本書紀』本文による。鴨王(事代主神の孫)の娘。
ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とし、『古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする。
第一皇子:息石耳命(おきそみみのみこと)
『紀』一書・『記』では、息石耳命に代えて常津彦某兄(常根津日子伊呂泥命)を入れる。
第二皇子:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代懿徳天皇。
皇子:磯城津彦命(しきつひこのみこと、師木津日子命) - 猪使連の祖(紀)。子に和知都美命(蠅伊呂泥・蠅伊呂杼姉妹の父)(記)。
『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。
●事績
『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。
『日本書紀』によると、綏靖天皇25年1月7日に立太子。綏靖天皇33年5月10日の父天皇の崩御を受け、同年7月3日に即位。そして翌々年の安寧天皇2年に宮を片塩浮孔宮に遷した。
その後、安寧天皇38年12月6日に在位38年にして崩御した。時に『日本書紀』では57歳、『古事記』では49歳という。懿徳天皇元年8月1日、遺骸は「畝傍山南御陰井上陵」に葬られた。
●宮
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮。
◆安寧天皇 片塩浮孔宮阯碑(奈良県大和高田市)
宮の伝説地については、次の3説がある。
- 奈良県橿原市四条町付近 (『帝王編年記』『和州旧跡幽考』)
- 奈良県大和高田市三倉堂・片塩町 (『大和志』『古都略紀図』)
- 大阪府柏原市 (『古事記伝』『大日本地名辞書』)
安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。大和高田市では石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている。なお、現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:浮孔駅)は、全て第2説を基にした近代以降の復古地名になる。
●陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県橿原市吉田町にある畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ、に治定されている。公式形式は山形。俗称「アネイ山」(山形墳)。
陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている。(wikipedia 安寧天皇より)
◆安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵(奈良県橿原市)
先にいっておきますが、事績については何らわかりません
…それでは例の如く阿波徳島説として考察して参りましょう。
鴨王(事代主神の孫)の娘である渟名底仲媛命を娶っていることは、先代綏靖天皇と似たような流れで、この代においても母系を事代主神で継いでいきます。
また、諡号である磯城津彦玉手看天皇(古事記では師木津日子玉手見命)、皇子:磯城津彦命(子に和知都美命)
宮の名前が、『紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『記』では片塩浮穴宮。
まず諡号からですが、"磯"という字を用いています。
水を意味する文字の中でも、海にしか使わない漢字です。
"玉手看(見)"も、浦島太郎が乙姫との約束を破って玉手箱を開けて中身を見てしまったことで年寄りになってしまうお伽話はあまりにも有名。
また、皇子の名である"和知都美命"に関しても、海神・綿津見(わだつみ)を連想させる文字となっており、そして住まわれた宮の名称も、"片塩浮穴宮"と、これでもかとキーワードが並んでいます。
これは誰が何といおうと「海」をさしています。
ご存知だと思いますが、奈良県は海に面しておりません。
堂々と碑を建ててまで所在を奈良県へ持って行かれていますが、、、
勝浦川を下流に降りると(この場合方角は北になる)「片志」(かたし)の地名があります。
この"片志"が往古の片塩郷(かたしほ)であり、徳島藩への勝占神社の申上書には、「片汐」(かたしお)と書かれてあります。
岩利大閑氏や高木隆弘氏は、この地を片塩浮孔宮の所在した場所に比定しているようです。
◆綏靖天皇から考察 からの位置関係
Flood Mapsで当時の様子を再現してみると、
北東に見える日峰はすっかり島になり、片志周辺も海になっているのがわかります。
また、陵に関しましても、兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵となっており、またしても"遠陵"と書かれています。
名称も『紀』では「畝傍山西南御陰井上陵」、『記』では「畝火山の美富登(みほと)」となっておりますが、畝傍山と畝火山、共に"うねび"と読んでいますが、正しくは"うねほ"と思われます。
・傍…[音]ボウ(バウ)(呉) ホウ(ハウ)(漢) [訓]かたわら そば わき(デジタル大辞泉、goo国語辞典)
音訓(読み): ボウ、かたわ(ら)、ホウ[常用外]、そば[常用外]、そ(う)[常用外]、はた[常用外]、わき[常用外](漢字・ひらがな・カタカナの「筆順(書き順)」解説)
つまり、火は"ひ"とも"ほ"とも読めるのに対し、傍は"ほう"とは読めますが、"ひ"とは読めないからです。
続いて、
安寧天皇の御陵が、畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)
ちなみに、
神武天皇の御陵が、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
現時点での私の考察では、畝傍山は現在の眉山(旧 渭(いの)山・猪山・以乃山)の事と考えていますが、これを地図で見ると、東北(うしとら)と西南(ひつじさる)の方向に伸びているのがお分かりいただけると思います。
ですから、神武天皇陵は、うしとらのすみ、つまり眉山の東北側であり、安寧天皇陵は、さるひつじ、つまり、眉山の西南のみほどのいのえというところになります。
そして、東北(うしとら)方向にズームすると、、、
なんと、ここには明治天皇の命で建てた神武天皇像が鎮座するのです。
◆神武天皇銅像
日清戦争の記念として1895年(明治28年)に建立され、銅像は高さ約6mほどあり、銅像としては日本国内に2体しかない希少なものだそうです。
◆明治時代の写真
なぜ徳島県に、それも眉山の東北側に初代神武天皇の銅像を建てたのか。
現在の徳島県民にとってはなんのこっちゃわからない、ましてや県外の方だと摩訶不思議なはずです。
これは、私は皇統には全てを伝え残している証拠であると考えています。
「道は阿波より始まる」によりますと、明治天皇の指示で乃木大将(乃木希典)が私費を払って建てさせたもので、鋳造師が「神武天皇を知らない。」ということで、乃木大将は明治天皇の写真を持参し製作させたそうです。
徳島市からは一円の寄付も集められていないとも記されています。
乃木希典は、陸軍大将であり、第10代学習院院長。昭和天皇の教育係を務めた人物。明治天皇を慕い殉死したことでも有名です。
…またしても脱線してしまいましたが、(;´Д`A ```これだと神武天皇の話(笑)
安寧天皇の御陵、畝傍山西南御陰井上陵は、直訳しますと、畝傍山(この場合眉山)の西南の女陰?の井上(いのえ)にある陵となります。
井上とは和名類聚抄にある阿波國名方東郡井上(ゐのべ)郷
◆旧井上郷予想範囲
結構な広範囲となり、眉山西側鮎喰川沿い周辺となります。
この旧井上郷 南井上村に、井戸寺というお寺があるのですが、
井戸寺(いどじ)は、徳島県徳島市国府町井戸にある寺院。宗派は真言宗善通寺派。四国八十八箇所霊場の第十七番札所。瑠璃山(るりざん)、真福院(しんぷくいん)と号す。本尊は薬師仏を中心に1体、左右に3体ずつ安置した七仏薬師如来で、聖徳太子作と伝えられている。
●歴史
寺伝によれば、天武天皇の勅願により673年に創建した妙照寺が前身とされる。伝承では弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩、十二神将、四天王、日光菩薩、月光菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も井戸寺と改めたという。(wikipedia 井戸寺より)
awa-otokoさんの記事よりお借り致します(。-人-。)
awa-otoko's blog →山幸彦と豊玉姫の出会いの場所(瑠璃山 井戸寺)より以下抜粋
南井上の地は昔の井上(ゐのべ)郷の中心に位置し海神の住み給う処であり、神代神話にあらわれた山幸彦、海幸彦が釣針の争いから、山幸彦は塩椎翁(航海の神)の教えによって海を渡り釣針を求めて「綿津見の宮」に行かれました。
その地は当時の井上郷、南井上村なのです。
古事記に「魚鱗(うろこ)の如く造れる宮、それは綿津見神(海神)の宮なり、其の神の御門に至りましなば傍の井の上に湯津香木あらむ」とあり。
井門(いど)の地名もここから生まれたもので、井門は井戸に転化したものと称されています。
寺伝によれば、天武天皇の勅願により673年に創建した妙照寺が前身とされます。
豊玉姫を祀る「和多都美豊玉比賣神社」も妙照寺の境内であったと伝わるほどの広い寺領。
南井上村はほぼ全域が妙照寺の境内であったといいます。
◆式内社 和多都美豊玉比賣神社
◆井上八幡神社
山幸彦は塩椎翁の申す通り海神の宮の門の傍の井の上にある桂の樹上に上られて待って居られると、海神の侍女は器を以て水を汲みに来り、井内の静かな水面を眺めると思い掛けぬ高貴な神様の御姿がうつっている。
この侍女の驚きに対して山幸彦は清水を所望されたので侍女が器に汲んで差上げると、飲給わず、首飾りの玉をといて口中に含まれ器中に落し入れられた。
すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器を豊玉姫に差し上げて事情を話した。
不思議に思って外に出た豊玉姫は、山幸彦を見て一目惚れした。父である海神も外に出て、そこにいるのが天孫邇邇芸命(ににぎ)の子の虚空津日高(そらつひこ・山幸彦の尊称)であると言い、すぐに豊玉姫と結婚させた。こうして、海神の元で三年間暮しました。
国府町和田に王子神社、新居村西崎に雨降神社それぞれ豊玉姫を祀り、花園諏訪神社は海神を祀る天佐能和氣宮よりの転なりと伝えらるあり、又井戸寺境内に御姿の井戸あり。
山幸彦が桂の木の上に上って姿を写した井戸が「ここ」にあったので「井の上」。
それが「井上」になったとあり、そして、その井戸は今も残っていて井戸寺境内にある「御姿の井戸」がそれです。
◆面影の井戸
名方郡9座ある式内社の中に、2つ豊玉比売を祀る神社があり、
1つは、徳島市眉山町にある天石門別豊玉比売神社、もう1つは、3社論社ある和多都美豊玉比売神社です。
再びFlood Mapsで当時の海域を確認してみますと、
丁度眉山周辺から井上郷辺りは広大な平野(湿地帯?)と海岸との接地帯となります。
また、各式内社及び論社は全て当時の海との接地帯に建てられていることがわかります。
御陵の考察に戻りますが、「紀」では、畝傍山西南御陰井上陵、「記」では、畝火山の美富登(みほと)と書かれていますが、ちなみに"みほど"は女陰の意味。(*ノωノ)
「ほと」についてwikipediaで調べますと、(`・ω・´)
ほとは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。
現在ではほぼ死語になっているが、転じて女性器の外陰部のような形状、形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形をさすための地名として残っている。
●地名
日本各地に「ホト」「ホド」の音を持つ様々な表記の地名が残っているが、民俗学者の柳田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地(「陰」部から)などの特徴から名付けられたとされる。アイヌ語で川や河口を生殖器になぞらえるのと類似している。
つまりここでのキーワードは、井上郷周辺、眉山の西南、日の出が差す東からして陰になる場所、湿地帯+河口(土地の割れ目)となり、グーグルマップで確認すると、
全て一致する場所は、辰ヶ山と眉山との間を流れる鮎喰川が真っ二つに裂けている周辺の赤丸内周辺(で陰になる場所は東側眉山寄り)に安寧天皇の御陵があると推測されます。
簡単にいうと、眉山カントリークラブの辺りです(笑)
この辺りの古墳というとわかっているものだけでも、八人塚古墳、うばのふところ古墳、諏訪神社古墳、節句山古墳群、穴不動古墳があります。
式内社から考察してみても、眉山から西側の名西郡石井町にかけて、海神(わだつみ)を祭祀していた理由がわかります。
しかも、記紀に表れる天皇の系譜に連なる神です。
このように、安寧天皇のファミリーとその宮陵の推測される位置や名称から考察すれば、この時代に海人族と深く関わっていることを示唆しているものと思われます。
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