四国八十八ヶ所霊場と剣山の関係
空海による剣山への想いを込めた遍路の創作
四国八十八ヶ所霊場とは
空海は四国において88ヶ所の寺院を選び、霊場を開創されたと伝えられています。それらの霊場は「四国八十八ヶ所」と呼ばれ、すべてを巡ると全長1200㎞にも達します。四国全体を囲む札所をぐるりと一周する遍路巡りは、元来、修行の場として知られていました。
行者らは俗世を離れた象徴として白衣を着て、手には念珠を携え、菅笠をかぶって杖をつきながら歩きます。杖を持つことで、弘法大師に導かれ、遍路の素晴らしさを体験すると語り継がれてきたのです。今日、空海を崇拝する多くの参拝者が、空海ゆかりの地としての「四国八十八ヶ所」を巡り歩いています。
剣山を囲むように四国一周する遍路道
「四国八十八ヶ所霊場」の中心に聳え立つのが剣山です。西日本では2番目の標高を誇る剣山ですが、周辺に聳え立つ山々の峰に囲まれていることから、「四国八十八ヶ所霊場」を結ぶ遍路道からは、ほとんどその頂上を見ることができません。それでも、その剣山を囲むように、遍路道がスタートします。
出発地点である第一番札所の霊山寺(りょうぜんじ)は、四国の北東に位置する鳴門の近郊にあります。そこからまず西方に向けて、およそ平坦な道を歩き始めます。四国を一周するはずが、何故か西へと向かうのです。一番・霊山寺から十番・切幡寺(きりはたじ)までの遍路道の途中、遠く南方には剣山周辺に聳え立つ山々を眺めることができます。そして十番・切幡寺の333段にもなる階段を上りつめ、その高台にある奥の院まで足を運ぶと、晴れ渡った日には遠く南方に、剣山の頂が山々の彼方にほんのわずか、突き出ているのが見えます。剣山の山頂を望むために、わざわざ西方向へまず、歩いてきたとも考えられます。
十番・切幡寺からは南方向へと進み、吉野川を渡った後、十一番・藤井寺に着きます。そこから南方に聳え立つ剣山の方に向かう十二番・焼山寺(しょうさんじ)への山道は大変険しく、丸1日かけてやっとたどり着けるかと思うほど、長い急斜面が続きます。冬場なら一旦、道に迷えば凍死も覚悟しなければならない険しい道だけに、いつ死んでもよいという心構えの表れとして、白い衣を着るようになったとも言われています。
ところがせっかく長時間かけて剣山の方向に歩いてきても、いつしか大自然の険しい峡谷の壁が立ちふさがり、すぐそばにあるはずの剣山の頂上を望むことが、どうしてもできないのです。人間の力では神の聖地を見届けることはできないものかと、剣山の展望を断念する所に佇むのが、十二番・焼山寺です。その由緒は、大蛇が火を噴いて全山が火の海になり、空海がその大蛇を岩に閉じ込めたことにあると語り継がれています。それは古代、邪馬台国の時代、剣山がまるごと火で焼かれたことを物語っているようにも聞こえます。
焼山寺を最後に、遍路道は剣山を背にして紀伊水道に向かって東方へと進み、十三番札所・大日寺に到達します。「此の地は霊域ならば一宇を建立すべし」という大日如来の御告げにより、空海が建立した寺と語り継がれています。その大日寺からさらに東方に進み、十七番・井戸寺(いどじ)に達した後、徳島県日和佐にある二十三番・薬王寺まで南方に進むと、四国の海岸線に到達します。そこから海岸沿いに高知方面へと進み、室戸岬にある二十四番・最御崎寺を経由して足摺岬の最先端に建立された三十八番・金剛福寺に到達します。そして四国西側の海岸に沿って北方へ向かい、愛媛方面へと遍路道は続きます。
四国の西岸近くにある四十三番・明石寺へ到達すると、そこから一旦、遠く東方に聳え立つ剣山の方向に進むがごとく、険しい山道を登り続け、その山奥にある四十四番・大寶寺や四十五番・岩屋寺へ到達します。その近くには、西日本最高峰の石鎚山が存在します。そこから瀬戸内に向けて北上し、その後、香川方面、東方に向けて瀬戸内海沿いに遍路道を進みます。そして最終的に海岸近くから再び、南方に聳え立つ剣山の方向に向かうと、八十八番・大窪寺に到達し、88ヵ所の寺院をすべて巡り回ることになります。
剣山へ向けて7度も迂回する遍路の意味
四国八十八ヶ所霊場の場所を、空海がどのように厳選したかについては、さまざまな説があります。いずれにしても、空海が剣山の存在を念頭に、霊峰を注視しつつ、それを囲むようにぐるりと四国を一周することを目論んだことは、遍路のルートを検証するだけで理解することができます。
四国八十八ヶ所霊場のルートは、剣山を中心として四国を海岸沿いに一周するだけでなく、遍路の途中、所々で剣山の山頂に向かって少しでも近づくために迂回しているような形跡があります。単に四国を一周するだけならば、海岸沿いの歩きやすい道のりを辿れば良いはずですが、わざわざ遍路道の途中で、歩くことさえ困難な険しい山道を、明らかに剣山の方向へ何度も進んでいるのです。それは霊峰なる剣山を思い、参拝するためとしか考えられません。四国の遍路道を歩み続けながらも、苦難を度外視して山奥の限界まで剣山に向かってアプローチしようとする意気込みを、遍路道の不可思議な迂回ルートから察することができます。
四国を一周するとてつもなく長い遍路道の中で、少なくとも7ケ所、遍路道が歪な形で迂回していることに気が付きます。迂回ルートに存在する札所の中には、剣山に向かって進むも、霊峰から一定の距離までに留まり、そこに札所となる寺院が建立されている事例も確認されています。剣山から同距離の場所に複数の札所が定められているのです。これらもまた、遍路のルーツに剣山が見え隠れしていることの証と考えられます。また、迂回した遍路道沿いの山奥に建立された寺院の中には、剣山と同緯度に位置付けられているものもあります。険しい山岳に建立されている寺院だけに、明らかに剣山を意識しているようです。これらの事例を地図上で確認することにより、四国八十八ヶ所霊場の遍路道は元来、剣山と紐付けられながら定められたと推測できます。
剣山を目指す最初の迂回
四国八十八ヶ所霊場は、今日の徳島県、吉野川沿いにある一番・霊山寺からスタートします。四国を一周するには、霊山寺から紀伊水道沿いの海岸と並行して南下し、日和佐にある二十三番・薬王寺に向かうだけで良いはずです。ところが何故か空海は、ほぼ逆方向にあたる西方へと向かって歩むことを考え、十番・切幡寺を目指したのです。
四番・大日寺の高台までくると、南方には祖谷の山々を遠くに望むことができます。そこからさらに五番・地蔵寺、六番・安楽寺と西方へ進む遍路道では、その南方一体に剣山を囲む四国山脈の山々を眺めながら歩くことができます。そして十番・切幡寺まで到達し、その奥の院の高台からは、天気が良く、空気が澄んでいる日には、遠くに剣山を望むことができます。
なぜ、四国一周するために霊山寺からまず、南方に進むことを考えず、遍路道を西方に向かったのでしょうか。何故、十番・切幡寺の奥の院という高台まで、わざわざ上りつめたのでしょうか。その答えはただひとつです。空海は、八十八ヶ所の遍路道を歩み始める最初の段階で、霊峰剣山の頂上を遠くに見届けることを大切に考えていたのでしょう。その剣山の雄姿を遠くに望み、心に刻むために、スタート直後から遍路道は逆方向に迂回し、切幡寺へ向かったと想定されます。
剣山を目指す2番目の迂回
2番目の迂回は、剣山へ向かう険しい山道です。十番・切幡寺から南方へ向かって吉野川を渡り、十一番・藤井寺を経て、十二番・焼山寺に向かう遍路道こそ、四国八十八ヶ所霊場巡りにおいて、体力を最も消耗する急斜面が連続する山道として知られています。切幡寺から焼山寺までの歩行距離は30㎞を超え、標高差も700m以上あります。実際の遍路道の高低差は、その途中の山道が上下することから1,000mを超え、岩場を伴う急斜面も多く、丸1日かけてやっと目的地に辿り着くことができるような過酷なルートです。その焼山寺への山道は、剣山へ向かうルートとも重なっていることから、この迂回経路を辿ることにより、四国八十八ヶ所霊場遍路のスタート直後から、まず、剣山へ近づける恵みを、身をもって体験することができたのです。
十二番・焼山寺に到達すると、剣山頂上までは、25㎞の距離が残されるだけです。その時点で、遍路道は東方へと方向を転換し、今日の徳島市にある十七番・井戸寺へと向かい、その後、紀伊水道沿いに南下し、十八番・恩山寺へと歩き続けます。焼山寺までの長距離を迂回してでも、剣山へとアプローチする姿勢を見せることが、空海によって目論まれたのでしょうか。この過酷なまでの遍路迂回ルートから、空海の剣山に対する強い憧れの思いを垣間見ることができます。
剣山を目指す3番目の迂回
十二番・焼山寺を後にして東方へ向かい、30㎞ほど山道を下ると、今日の小松島市にある十八番・恩山寺に到達します。次の十九番・立江寺(たつえじ)も海岸沿いに存在する寺院です。よって、そこからは紀伊水道を東方に眺めながら、海岸沿いを南下して歩いていけば、室戸岬に達します。
ところが、せっかく焼山寺から川沿いに山を下ってきたばかりなのに、何故か、立江寺から再び西南方向に険しい山道を登っていくことになります。山道と言っても河川が流れる地域でもあり、立江寺からは今日の那賀川沿いを、まず上ったことでしょう。川沿いに歩くことが早道でしたが、それでも途中からの山道は起伏が激しく、二十番・鶴林寺(かくりんじ)を経て、山道を二十一番・大龍寺へと進んだのです。
紀伊水道の海岸沿いに到達した後、再び険しい山を登って南西方向に進むという意外な迂回が、2つ目のアプローチです。それは剣山に再び近づくための努力の結果と言えます。鶴林寺から剣山山頂までは、38㎞程の距離があります。焼山寺からの25㎞より長い距離ですが、それが遍路道の限界だったのではないでしょうか。そして那賀川を渡り、その南方4㎞少々の場所にある二十一番・大龍寺へと向かったのです。その場所は、剣山からおよそ40㎞の距離にあります。その後の遍路道において、この40㎞という数字も重要な意味を持つことになります。
もう一つ重要なポイントは、若杉山遺跡の存在です。日本の古代史において、昨今の発掘調査から判明した古代、最大の辰砂工場となる四国徳島の若杉山遺跡こそ、魏志倭人伝などの中国史書に記され、邪馬台国時代に中国大陸にも名を馳せた、倭国最大の辰砂発掘のルートとなる場所なのです。空海が考案した遍路道は、単に紀伊水道の海岸から剣山に向かって西南方向に進むだけでなく、二十番・鶴林寺から二十一番・大龍寺に向かって那賀川沿いを上り、山道を東方に向かうことにより、若杉山遺跡を囲むように、ぐるりと回っていたのです。この遍路道のルートからしても、空海が若杉山の存在を知っていた可能性が見えてきます。
剣山を目指す4番目の迂回
剣山を目指す3番目の迂回が、四国の西岸、愛媛の宇和島と八幡浜の中間にある四十三番・明石寺(めいせきじ)から四十五番・岩屋寺(いわやじ)までのルートです。何故か空海は、明石寺から四国の西岸を瀬戸内海方面へ北上し、大洲、内子町を経て、松山方面へ向かうという安易な道のりを選ばず、あえて内子町からは、剣山が聳え立つ東方に向かい、再度、険しい山道を歩み続けることを考えたのです。
注目すべきは、今日の愛媛県西予市、海岸から近い四十三番・明石寺から内子町を経て東方へと進み、四十四番・大寶寺(たいほうじ)へ辿り着いた直後のルートです。すぐに北上すれば、およそ20㎞で四十六番・浄瑠璃寺(じょうるりじ)に辿り着き、そこから瀬戸内海沿いを東に向かって進むことにより、旅の難を避けて四国一周がもっと楽になるのです。ところが驚くことに空海は北上せず、四国八十八ヶ所の遍路の中で、最も厳しい山道が続くと言われる東方の険しい山道を、四十五番・岩屋寺に向かって進んで行ったのです。
岩屋寺は岸壁が連なる急斜面の中腹に存在し、歩くのでさえ大変危険な場所にあります。常識では寺院を建立できるような場所ではなくとも、何故か、四十四番・大寶寺から四十五番・岩屋寺への遍路が重要視されたのです。その背景には、剣山の存在があったと考えられます。明石寺から岩屋寺まではおよそ86㎞もの距離がありますが、その道のりの途中、内子町から登る遍路道が進む方角の遠い先には剣山が聳え立っています。無論、四十四番・大寶寺から四十五番・岩屋寺へ向かうルートも剣山の方角を向いています。よって、明らかに剣山を意識した遍路の霊場が選別されたと想定されます。
剣山の方を向いて歩むために意図的に迂回することを目論んだことは、岩屋寺を後にした道のりからもわかります。四十五番・岩屋寺からはなんと、これまで登ってきた山道を四十四番・大寶寺に向かって逆戻りするのです。そこから石鎚山を迂回するように一旦北上し、海岸から瀬戸内海沿いを遍路道が続きます。遍路道をUターンしてまで東方へ向かったのは、一見、ルート上のエラーにも見えますが、まさに剣山を参拝するとう強い意思表示の表れではないでしょうか。
また、四十五番・岩屋寺から北東方向15㎞の地点には、西日本最高峰であり、記紀にも記されている霊山、石鎚山が聳え立っていることも重要です。岩屋寺に向かうことにより、剣山を正面に遍路道を進むことができるだけでなく、神代の神々が降臨された石鎚山の麓にも近づくことができたのです。
剣山を目指す5番目の迂回
四国八十八ヶ所霊場の遍路道は、今日の愛媛県、瀬戸内海沿いに到達した後も、不思議な迂回を続けます。五十九番・国分寺から六十番・横峰寺の遍路道に注目です。瀬戸内海沿いにある国分寺からは、海岸沿いに東方へと移動するだけで、最短距離を経て遍路の出発地点へと戻ることができます。ところが今日の今治市にある国分寺から西条市の伊予に向かった後、遍路道は海岸沿いに東方へ向かうことをせず、再び急斜面の続く山岳地帯へと南方に向かうのです。その山道への迂回距離は、片道だけでおよそ20㎞にも及びます。しかも驚くことに六十番・横峰寺に到達した後、ここでもUターンして北方へと逆戻りし、六十一番・香園寺へと向かうのです。何故でしょうか。
その理由はただひとつ、石鎚山と剣山の経度と緯度が交わる交差点まで、到達することを目論んだからと想定されます。六十番・横峰寺は、石鎚山とほぼ同じ経度、すなわち真北に位置します。石鎚山の頂上、天狗岳からはおよそ7.7㎞離れた場所です。その横峰寺から東方に向けて同緯度線を引くと、剣山頂上の周辺にあたります。正確には頂上から2.4㎞南を通り抜けますが、誤差の範疇と考えられます。つまり、横峰寺の場所は、剣山の緯度と、石鎚山の経度が交差する、地の力を結集するパワースポットだったのです。よって空海は何としても遍路の途中で、たとえ迂回せざるをえなくとも、横峰寺に到達することを熱望したのです。横峰寺への迂回は、遍路を剣山に紐づけるための究極の策だったと言えます。
剣山を目指す6番目の迂回
六十一番・香園寺からは、四国の北部を瀬戸内海沿いに東方へと、四国八十八ヶ所霊場の遍路は続きます。今日の新居浜市を過ぎて、海岸沿いの観音寺市に向かって進めば、四国を一周する遍路のゴールに近づいてきます。ところが瀬戸内に近い四国中央市にある六十五番・三角寺からは海岸沿いを進まず、改めて東方に向けて遍路道は続くのです。そして高低差930mにも及ぶ27㎞もの山道を、山奥に建立された六十六番・雲辺寺(うんぺんじ)まで進みます。何故、そこまで迂回してでも、雲辺寺に辿り着く必要があったのでしょうか。
その答えは、剣山からの距離にあります。何故か、空海は剣山から40㎞という距離に着眼したようです。すなわち、剣山の頂上から雲辺寺までは40㎞の距離があるのです。四国八十八ヶ所遍路道でも四国の東方、徳島県にあたる遍路道沿いにある二十一番・大龍寺も、剣山から40㎞に位置しています。どちらも普通に考えられる楽な遍路道から大きく迂回して山の中に入り、その山奥に建立された寺院を札所としているだけでなく、それぞれが剣山から40㎞という共通の証をもっていたのです。これはもはや偶然の一致ではなく、明らかに札所が等距離に位置することを空海が目論んだ結果と言えます。
剣山を目指す7番目の迂回
剣山を念頭においた迂回路として、最後に考えられる剣山へのアプローチは、遍路道の最終段にある八十六番・志度寺(しどじ)から八十八番・大窪寺へのルートに見られます。ごく普通に考えれば、志度寺から遍路道のスタートポイントである一番・霊山寺へ向かうには、海岸沿いを東南方向にまっすぐ進むだけで良かったはずです。ところが空海は、志度寺から突如、真南に向かって南下する迂回路を選択し、八十七番・長尾寺から八十八番・大窪寺へと向かい、そこを最後の札所としたのです。
志度寺から大窪寺までの歩行距離は21㎞少々あります。その後半、およそ半分の距離が山道であり、高低差も580mあることから、容易い迂回道とは言えないでしょう。四国八十八ヶ所の最終段においても、意図的な迂回策が考えられたのです。
その理由は2つ挙げられます。まず、四国を一周して八十八ヶ所霊場を巡り歩いてきただけに、最後の道筋は、何としてでも剣山に向かって真っすぐ南方向に歩むことが望まれたと考えられます。志度寺を越えてさらに東方へ進んでしまうと、剣山の方向が南西へと変わってしまい、進行方向と逆に進まなければならなくなります。よって、フィナーレとなる遍路道としてふさわしく、志度寺から剣山目指して一直線に南下し、大窪寺へ向かうことにより、その先に聳え立つ剣山を臨む思いで遍路の旅を終える、という意識が高まります。
また、最終地点となる結願の寺院が八十八番・大窪寺であり、その場所は剣山からちょうど40㎞離れた場所にあることも重要なポイントです。つまり大窪寺は、二十一番・大龍寺や六十六番・雲辺寺と同じく、40㎞という剣山からの距離を共有していたのです。いずれも遍路道を迂回し、剣山の方へ向かって限界までアプローチした結果、40㎞という距離が残されています。また、大窪寺は標高776mの女体山の山腹、標高450mに位置し、「こんぴらさん」の名で親しまれている金刀比羅宮と同緯度に並びます。よって、40㎞という距離をもって他の霊場と結び付いているだけでなく、金刀比羅宮にも紐づけられ、その南方向に剣山を拝することができる場所として、四国八十八ヶ所霊場の最後にふさわしい場所と考えられたのです。
四国を一周するはずの四国八十八ヶ所遍路ですが、実際には一番・霊山寺まで戻ることなく、その手前の大窪寺で、遍路道は終焉を遂げます。どうやらその理由は、剣山の存在に隠されていたようです。剣山を意識しながら四国を一周してきた結果、最後のフィナーレにふさわしい遍路道のルートは剣山に向かって歩く一本道だったのです。
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