2024年4月29日月曜日

橿原市の史跡を巡る【本明寺(石川精舎跡)】仏教はここから始まった!?~石川池周辺を歩くその4 | みくるの森

橿原市の史跡を巡る【本明寺(石川精舎跡)】仏教はここから始まった!?~石川池周辺を歩くその4 | みくるの森

橿原市の史跡を巡る【本明寺(石川精舎跡)】仏教はここから始まった!?~石川池周辺を歩くその4

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マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。

今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている「本明寺(石川精舎跡)」と仏教の始まりについてご紹介します。

橿原まちあるきまっぷ

橿原市の史跡を巡る【石川池周辺を歩く】橿原神宮前駅~石川池(孝元天皇陵)

仏教の始まりは蘇我馬子の自宅から「石川精舎」

飛鳥時代、日本列島の中心地であった飛鳥には、さまざまな文化や思想が大陸から入ってきました。仏教もそのひとつです。

「豊浦寺」の始まりは蘇我稲目の「向原の家」

仏教は六世紀中頃に百済から伝えられましたが、仏教の受容には賛否があり、国をあげて信仰されることにはなりませんでした。当初は賛成派の蘇我氏が本拠とする飛鳥が仏教の中心地となり、百済からもたらされた仏像は、蘇我稲目の小墾田家おはりだのいえ向原家むくはらのいえに安置されました。

日本書紀』欽明天皇13年の条に「(蘇我稲目は)小墾田おはりだの家に(百済の聖明王より賜った仏像を)安置し、ねんごろに仏道を修めるよすがとした。向原むくはらの家を清めて寺とした。」とあります。

蘇我稲目が向原の家を清めて寺としたのが始まりとされる「豊浦寺」についてはこちらの記事でご紹介しています。
飛鳥時代はここから始まった!【推古天皇の豊浦宮】豊浦寺跡(向原寺)

豊浦寺跡

しかし、疫病の流行を機に反対派によって寺や仏像は破却されてしまいました。

物部氏に反対されたのちの「石川精舎」

敏達天皇13年(584年)、鹿深臣かふかのおみが百済から弥勒石像を持ち運んできます。同年、蘇我馬子は司馬達等の娘のしま善信尼ぜんしんに)たち3人の女性を出家させ、石川の自宅に仏殿を作ります。

このことを『日本書紀』は「仏法のはじめこれよりおこれり」と記します。

馬子が石川の自宅に作った仏殿が本記事でご紹介している「石川精舎」です。

享保19年(1734年)に著された『大和誌』という書物には、石川精舎は石川村の本明寺のこととされていて、そこに建つ石浮屠いしふと(浮屠=仏陀)は石川精舎のものと書かれています。

本明寺(石川精舎跡)
本明寺

本明寺に建つ「五輪塔」のことを「石浮屠」として、石川精舎の古跡としています。

本明寺の五輪塔(馬子の塔)
本明寺の五輪塔(馬子の塔)

その五輪塔は室町初期のものと推定されていて、石川精舎のものではないという結論が出ているのですが、その経緯から「馬子の塔」と呼ばれています。

馬子の塔と入鹿の首塚

「入鹿の首塚」も五輪塔なので、冗談で「馬子の首塚」と呼ばれたりもするそうそうです。

入鹿の首塚
入鹿の首塚

「馬子の五輪塔」と「入鹿の首塚」はなんとなく似ていますね。

入鹿の首塚は飛鳥寺の境内を西に抜けた所に、甘樫丘を背に立つ五輪塔です。645年の乙巳の変で飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子らに暗殺された蘇我入鹿。その際にここまで飛んできた首が執拗に中臣鎌足を追い回そうとするので、供養のために建てたと伝わります。

五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代の建立と考えられています。

供養塔の前には花畑が広がり、その向こうに入鹿の祖父の蘇我馬子が建てた飛鳥寺が見えます。

飛鳥寺

本明寺は「石川廃寺」または小字名を取って「ウラン坊廃寺」とも呼ばれるのですが、『日本書紀』敏達13年の記述にかなう出土遺物はまだ見つかっておらず、石川精舎の場所は確定していません。

本明寺の本堂と石仏

本明寺の本堂は入母屋造で三間四面で庫裡に接続しています。本尊は釈迦如来、文殊、普賢の両脇侍があります。五輪塔は高さ2.3mもある立派なものです。

本明寺の本堂

五輪塔は『越智家譜伝』によると、大永3年(1523)2月19日の久米寺石川の合戦に討死した32人の追善供養の為に越智家栄が立てたとされます。もとは久米町イモアライ地蔵境内にあったといわれ、越智氏の先祖を守るために置いてあったものを移したと言われています。(石川精舎跡(本明寺)|観光スポット|橿原市観光情報サイト

本堂の左側は小規模の墓地になっていて、第二次大戦で戦死した村の兵隊たちの墓標と石仏が並びます。

本明寺の石仏

役行者の石造もありました。台座には「岩井講中」と刻まれています。

本明寺の役行者像

馬子が石川の自宅に作った仏殿「石川精舎」の場所は確定していませんが、石川池(剣池)の辺りにあったと考えられています。この辺り一帯に飛鳥時代に権勢を振るった蘇我本宗家の大邸宅が建っていたのかもしれないと、想像してみるのも楽しいことでした。

『日本書紀』皇極天皇3年(644年)の条に「剣池の蓮に一本の茎に花が咲いていた。蝦夷は蘇我氏が栄える兆しだと考えて、金の墨で書いて、法興寺の仏に献上した」と記述がある「石川池(剣池)」はこちらの記事でご紹介しています。
橿原市の史跡を巡る【石川池(剣池)】で古代からの美しい景観を楽しむ~石川池周辺を歩くその5-1

石川の自宅に仏殿を作った翌年に、馬子は大野丘の北に塔(大野丘北塔)を建て、司馬達等から譲り受けた仏舎利をおさめています。その「大野丘北塔」を「和田廃寺」に充てる説があります。
橿原市の史跡を巡る【和田廃寺】大野丘北塔?葛木尼寺?~石川池周辺を歩くその7

本明寺(石川精舎跡)へのアクセス

奈良県橿原市石川町

駐車場はありません。
近鉄橿原神宮前駅から徒歩11分ほどです。

こちらの記事で石川池周辺の史跡をまとめてご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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