2024年4月29日月曜日

蘇我氏などの邸内の仏堂の瓦が示す推古朝の寺の実態:清水昭博「蘇我氏の邸宅と瓦」 - 聖徳太子研究の最前線

蘇我氏などの邸内の仏堂の瓦が示す推古朝の寺の実態:清水昭博「蘇我氏の邸宅と瓦」 - 聖徳太子研究の最前線

蘇我氏などの邸内の仏堂の瓦が示す推古朝の寺の実態:清水昭博「蘇我氏の邸宅と瓦」

 推古朝の仏教の実態については諸説があります。『日本書紀』推古2年春2月丙寅朔条では、「皇太子及び大臣に詔し、三宝を興隆せしむ。是の時、諸の臣連等、各の君親の恩の為に、競いて仏舎を造る。即ち是れを寺と謂う」と記され、推古朝末期の32年条には、「是の時に当たりて寺卌六所・僧八百十六人・尼五百六十九人幷一千三百八十五人有り」と記されているものの、実際に寺がどの程度できていたのか、仏教の浸透度はどの程度のものだったか、疑問であるためです。

 この問題を考えるうえで有益な近年の論文が、

清水昭博「蘇我氏の邸宅と瓦ー畝傍の家と橿原遺跡の瓦ー」
(『手塚山大学考古学研究所研究報告』XX、2018年1月)

です。日本と韓国の瓦を追求してきた清水氏は、寺だけでなく、邸宅の瓦にも注目します。

 まず、蘇我本宗家の邸宅のうち、稲目の小墾田の家については、『日本書紀』欽明天皇13年(552)に、百済の聖明王が隣国との激しい争いのさなかに日本と韓国釈迦の金銅像が献上してきたため、欽明は受容に賛成する稲目に授けて試みに礼拝させたところ、稲目は小墾田の家に安置して礼拝に努め、向原(むくはら)の家を寺としたとされています。

 小墾田は飛鳥北方の地であり、向原は、現在の向原寺(こうげんじ)が有る豊浦あたりですね。清水氏は、「浄捨向原家為寺」という箇所を、「向原家を浄めて寺とし」と訳してますが、「浄捨」は執着せず清らかに寄付するということで「喜捨」の意であって、浄めの儀礼をやったかどうかは無関係です。向原寺は、桜井道場を経て豊浦寺になったことが知られています。

 次に馬子の家としては、敏達13年(584)に、馬子が最初の尼たち三人を世話して、家の東に仏殿を造っており、また百済から得られた弥勒の石像を安置し、石川宅を改造して仏殿としたとあります。この仏殿は後に石川精舎と呼ばれており、橿原市の石川町あたりにその後身と思われる石川廃寺がありますが、石川宅の位置は不明です。

 有名なのは、馬子が飛鳥川の傍らに池を造ったため、嶋大臣と呼ばれたという嶋の家であって、池の遺跡が発見されている現在の島庄遺跡ですね。

 次が豊浦大臣と呼ばれた蝦夷の豊浦の家です。叔父の蝦夷が病気となった際、山背大兄は見舞いに来て豊浦寺に入っていますので、蝦夷の邸宅はこの付近にあったことになり、豊浦の北側の古宮遺跡がその候補地です。

 次に、畝傍山の東麓にあった家は、皇極元年(642)に蝦夷大臣が百済の義慈王の子や蝦夷を招いていますので、豪壮なものだったでしょう。

 皇極3年になると、蝦夷と入鹿は、畝傍山の東に邸宅を構え、池を掘って城とし、常に50人の兵士に守らせたと記されます。また、甘樫の岡に邸宅を建て、大臣の家を上宮門、入鹿の家を谷宮門と呼び、子供たちを「王子」と呼んだとされますが、このあたりの記述は蝦夷・入鹿を逆臣扱いして書かれていますので、注意すべきところです。その蝦夷・入鹿は殺され、甘樫丘の邸は焼かれました。

 さて、清水氏は、寺を建てる場合、邸全体を「捨宅」したのではなく、邸宅の一部を改修したり、一画に仏堂などの建物を建てた場合が多いことに注目し、飛鳥寺が飛鳥真神原に建立されたのは、それまでの邸宅では、大伽藍を造営するだけの土地が確保できなかったためと推測します。

 問題は、馬子邸とされる島庄遺跡と蝦夷・入鹿邸とされる甘樫丘東麓遺跡から寺で用いられた瓦が出ていることです。島庄遺跡のうち、第一期は7世紀初めから前半にかけての時期ですが、一辺42メートルの方形の池の中や周辺から、7世紀前半の土器とともに瓦が出土しており、しかも飛鳥寺の瓦と同笵のものが見つかっているのです。

 また、甘樫丘東麓遺跡は、『日本書紀』の記事通りに焼け跡が発掘調査で発見されたことが知られていますが、ここからは、豊浦寺や古宮遺跡、葛城寺の遺跡(和田廃寺)の瓦と同笵のものが出ています。

 言うまでもなく、飛鳥寺と豊浦寺は蘇我氏本宗家が建てた僧寺と尼寺ですし、葛城寺は蘇我氏系の葛城臣の寺と見られています。

 大伽藍は、礎石の上に巨大な柱を据えて造営し、瓦葺きでしたが、この当時は宮殿でさえ掘立柱であって板葺きでした。斉明元年(655)に小墾田宮を瓦葺きにしようとしてうまくいかず、中止になっていることに注目する清水氏は、この当時の瓦はもっぱら仏教施設に用いられたとします。

 しかも、不思議なことに、7世紀後半に建立されたと推定されている葛城市の只塚廃寺の金堂跡からは、7世紀前半の飛鳥寺や豊浦寺と同笵の瓦が出ているのです。こうした例は、坂田寺、巨勢寺、中宮寺、平隆寺など、意外に多い由。

 このため、清水氏は、これらの瓦は本格寺院ではなく、邸宅内の仏堂で用いられていたものと見て、そうした例として斑鳩宮をあげます。山背大兄一族が住んでいて焼き討ちにされたこの遺跡からは、若草伽藍や中宮寺と同笵の瓦が出土しているためです。つまり、大きな邸宅の一画に瓦葺きの仏堂が造られていたと見るのです。

 そこで、清水氏は、橿原市の大久保町あたりの遺跡から、宇治の隼上り瓦窯で焼かれて豊浦寺(おそらく、金堂に次ぐ塔)で用いられたのと同笵の瓦が出ていることから見て、蝦夷の畝傍の家はこの大久保町あたりにあり、瓦葺きの仏堂があったと推定します。

 これまで紹介してきた内容は、きわめて興味深いものです。冒頭にあげた推古2年条では、諸臣が競って寺を造り始め、推古朝の終わりには46寺あった記されているものの、実際には最初期はこうした邸内ないし邸の近くの仏堂であったと考えられるからです。

 大伽藍を建立する場合、一つの建物は3~5年かかり、門や回廊などまですべて完成するには20年はかかります。しかし、邸内や家の近くに仏堂を造ってそこに小型の仏像を安置し、礼拝する数人の僧ないし尼を側の建物にかかえる程度であれば、推古朝の中頃にはかなりの数になっていたとしても不思議はありません。それらが推古朝以後になって、次第に本格的な寺院へと建て替えられていったと思われるのです。

 推古天皇の時期に建てられた大伽藍は、蘇我馬子の飛鳥寺→馬子の姪である推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺→父方母方とも蘇我氏の血を引き、推古天皇の甥である厩戸御子の斑鳩寺(若草伽藍)、という順でした。これはまさに当時の権勢の順序どおりと見るほかありません。そして斑鳩寺の金堂が完成した時点で四天王寺の金堂建設も始まったようです。

 あとは、後に中宮寺となる宮の仏堂を寺とする工事が始まっていたかどうか、蘇我氏の仏教を推進して技術面で支えた渡来系の鞍作氏の寺(坂田寺)、蘇我氏の傍系氏族である葛城氏の寺とされる葛城寺(和田廃寺)と、聖徳太子との関連が伝承されるものの不明な点が多い橘寺がどこまで造営されていたか、といったあたりでしょう。

 つまり、蘇我氏、蘇我氏の血を引く皇族、蘇我氏の傍系氏族、蘇我氏と関係深い渡来系氏族が、優先的に瓦を供給されて仏堂を建て、しばらくしてから蘇我氏配下の技術者たちを派遣されて、都の周囲に都を防御するような形で伽藍造営を始めた程度であったと考えられるのです。斑鳩は、後には近隣の関係深い氏族に瓦を供給するようになっていきます。

 大山誠一氏の聖徳太子虚構説では、厩戸王は斑鳩に宮と寺を建てたものの、都から離れた場所に、当時46もあった寺の一つを建てたにすぎないと論じていましたが、とんでもない間違いです。

 46寺というのは推古朝末期の数字であって、その大半は仏堂か邸の建物の一部を改めて小型の仏像を置いた礼拝施設程度だったでしょう。推古朝の前半に大伽藍を建立するのは、国家的と言って良いほどの大事業でした。しかも斑鳩は、難波の港と飛鳥の都を結ぶ交通の要衝でしたし。

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