2024年4月16日火曜日

藤原是公 - Wikipedia

藤原是公 - Wikipedia

藤原是公(ふじわらのこれきみ)

727~789

藤原 是公(ふじわら の これきみ)は、奈良時代後期の公卿。初名は黒麻呂。藤原南家、武部卿・藤原乙麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈従一位。牛屋大臣と称された。

経歴

天平宝字4年(760年)に父の乙麻呂が没するが、翌天平宝字5年(761年)従五位下に叙爵し、神祇大副のち左勇士佐に任ぜられる。

天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に、播磨守次いで山背守と地方官を務める。称徳朝では俄に昇進し、天平神護元年(765年)従五位上・左衛士督に叙任、翌天平神護2年(766年)には従四位上まで昇叙された。またこの間に黒麻呂から是公に改名している。のち称徳朝では、内豎大輔・侍従・内蔵頭を歴任した。

光仁朝に入っても順調に昇進を続け、宝亀4年(773年)正四位下、宝亀5年(774年)参議に任ぜられ公卿に列した。宝亀10年(779年)従三位。この間、左衛士督・左大弁など文武の要職を歴任するとともに、皇太子・山部親王の春宮大夫も務めた。

天応元年(781年)春宮大夫として仕えた山部親王が即位(桓武天皇)すると天皇に重用され、さらに光仁朝以来の大官であった藤原魚名(左大臣)・大中臣清麻呂(右大臣)・石上宅嗣(大納言)・藤原田麻呂(右大臣)らが相次いで没したこともあり、急速に昇進を果たすことになる。同年正三位・中納言に叙任されて、同い年ながら10年近く早く参議となっていた同じ南家の藤原継縄に肩を並べ、翌天応2年(782年)継縄を越えて大納言に昇進する。延暦2年(783年)には右大臣に任じられ、桓武朝に入ってわずか3年ほどで一介の参議から太政官の筆頭にまで昇り詰めた。延暦3年(784年)従二位に至る。

延暦8年(789年)9月19日薨御。享年63。最終官位は従二位右大臣兼中衛大将。即日従一位が追贈された。

人物

大柄な体つきであり、加えて威厳があった。その時に応じた政務に通暁した有能な官人であり、てきぱきと裁断し滞ることがなかったという。[1]

官歴

『続日本紀』による。

系譜

『尊卑分脈』による。

脚注

  1. 『続日本紀』延暦8年9月19日条
  2. 『公卿補任』

参考文献

  • 木本好信「『牛屋大臣』藤原是公について」『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう、2004年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

0 件のコメント:

コメントを投稿