二つの豊玉比賣神社(上)
阿波国名方郡には二つの「豊玉比賣」の名を冠する延喜式式内社が鎮座しております。一つは「天石門別豊玉比賣神社(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)」
徳島市眉山町の春日神社境内に祀られております。
一つは「和多都美豊玉比賣神社(わだつみとよたまひめじんじゃ)」
徳島市不動西町「雨降神社」
徳島市国府町和田「王子和多都美神社」
名西郡石井町高原「王子(玉子)神社」
三社が論社とされております。
まず知っておいていただきたいのが、御祭神を豊玉比賣とする豊玉比賣神社(とよたまひめじんじゃ)は、全国各地に鎮座しているおりますが、豊玉比賣を冠する延喜式式内社は阿波国にしかないということです。
最初の「天石門別豊玉比賣神社(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)」については徳島城のあった城山山頂にある「清玄坊神社」の由来を見ていただきましょう。
「清玄坊神社」
清玄坊の由来について
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後
に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑とし
てこれに応じない為、公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通
行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたか
で、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業を
しながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。
由来書には以上のように書かれてます。
この「清玄坊」こと「大林院素月」が生命をかけて守った城山、実は多くの
神社が祀られていた、いわゆる霊山であるのです。
山頂には神明社(伊勢神宮、後に城の鬼門の守護神として中常三島に遷座)
山麓の東寄りに諏訪社(佐古の諏訪山に遷座)
山麓西側には住吉社
南側には弁天社
南嶺西寄りには稲荷社、龍王宮
西側に竜王神社。
この龍王宮が「天石門別豊玉比賣神社」に比定されており、明治8年(1875)の徳島城取り壊しのとき、眉山の麓にある伊賀町1丁目の国瑞彦神社に合祀され、その後、徳島市眉山町の春日神社境内に遷座され現在に至っております。
上の写真の場所(石垣の上)が徳島城内「天石門別豊玉比賣神社(龍王宮)」跡地です。
それが一旦「国瑞彦神社」に合祀され
下の写真が現在の春日神社境内に移された「天石門別豊玉比賣神社(龍王宮)」で
下の写真が「龍王宮」で実際に使われていた手水鉢です。
ただし水戸光圀編纂の「大日本史」を見れば
「和多都美豊玉比賣神社」が「今在徳島城中」と記載されており、「阿波志」をも引き合いに出しておりますが、「阿波志」には
「和多都美豊玉比賣祠」「舊属井上郷」とあるのみで、城中にあるとは記載されておりません。
また「天石門別豊玉比賣祠」についても「今廃」とあり、所在について詳しい記載はないのです。
ただ、「阿波志」は続けて「神代紀云井上一湯津社樹枝葉扶䟽時彦火火出見尊就其樹下......」と古事記の記載そのままを挙げ「和多都美豊玉比賣祠」の説明としております。
これは「南井上村誌」でも書かせていただきましたが、「阿波志」でも「南井上村誌」でも事実の記録として扱っているのです。
阿波国式社略考においても
天石門別豊玉比売神社
徳島城内ニ龍王宮ト云アリ、是也ト赤堀氏云ヘリ。
今城郭築キ玉ハサル巳前ヨリ在シ祠ナラバ、必此處ナリ。
恐ラクハ國初ノトキ勧請セサセ玉ヒシニハ有ス歟。
尚、尋正スベシ。
今按、備後國安那郡天石門別豊玉姫神社ト云ハ、此社ト
同神ト聞エタリ。(人へんに者の字)此社ニ天石門別テフ
語アル事ハ、土佐國吾川郡天石門別安國玉主天ノ神ノ
社ハ此社ノ御父神豊玉彦命ニシテ、彦火ゝ出見尊兄火酢
芹命ノ為ニ海宮ニ吟(さまよ)ヒ玉ヒシヲ其豊玉彦ノ
赤キ直キ清キ深キ智(サトリ)以テ、遂ニ皇統ヲ本ノ
ゴトシロシメシ玉ヒシハ言幕(いわまく)モ尊キヤ
天照大御神ノ無状(アジキナキ)ヲ榲(へんがりっしんべん)
リマシ、天岩戸ニ隠リ坐シゝニ八意思兼命遠キ思ヒ計ニテ
再ビ日神天石屋戸ヲ開キ出サセ玉ヒテ長ク目出度大御代ト
成シニ同ジケレバ、天石門別安國ト云御名ハ負玉ヒシナリ。
玉主トハ、干満ノ両珠ヲ傳ヘ持玉ヒシ故ナリ。
天ノ神トハ伊弉諾ノ尊ノ御子ナレハ也。
例セバ高皇産霊尊ノ御兒少彦名ニ命ヲ山城ニテハ五條ノ天神
出雲ニテハ手間ノ天神ト云カ如シ。
サル功勲高キ豊玉彦ノ御女メナレハ此冠辞アル事ト知ラレタリ。
と「天石門別豊玉比賣神社」の説明として「徳島城内ニ龍王宮ト云アリ」と記しており、
いよいよ分からない状況となっております。
ただ、双方の説に共通するのは、豊玉比賣が彦火火出見尊と出会う古事記の部分を出し
「この部分の記載にある事象の主である豊玉比賣を祀るのがここですよ」
と言っているのですね。
続いて「和多都美豊玉比賣神社(わだつみとよたまひめじんじゃ)」についてですが
まず論社の写真より
「雨降神社」
ちなみに、この写真は現在のものじゃありません。
現在社殿は台風による被災で撤去されています。
「王子和田津美神社」
「王子(玉子)神社」
別名「烏の森」
ちょっと長くなりすぎてしまいました。
くどくどと何が言いたいのかといえば、なぜ「豊玉比賣神社」が二社あるのか、また徳島城内の「龍王社」はどちらなのか、どういう由来で祀られてきたのか、そこ辺りを知りたいと言いたいわけなのですよ。
そして、あわよくば定説を(少しだけ)ひっくり返してやろうかなとも(笑)
例えば「清玄坊神社」の由来には
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
とありますが、蜂須賀家の阿波国入国は天正13年(1585)。
「阿淡年表秘録」によれば城主が「龍王宮」に参拝した記録が残るのは
元禄五年 壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
元禄九 丙子年六月八日 公松厳寺、勢見山観音、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
が初出なので、元禄五年は1692年(笑)、100年以上「龍王宮」へは参拝していないというお話。
すぐには書けないかもしれませんが、(中)(下)巻とお待ちくださいませ。
結構「くる」ものがありますので(笑)
0 件のコメント:
コメントを投稿