唐本御影
ん聖徳太子を描いたものとして有名だ。
聖徳太子の存在及びその姿については,古くから様々な議論がある。
桑野梓「法隆寺僧顕真と聖徳太子勝鬘経講讃像」
http://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/46/kiyo4606.pdf
石川知彦「二臣を従えた聖徳太子像-静岡・個人蔵太子三尊像と「垂逃太子」像の諸相-」
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/site(SHAO)/web%20library/no2/2-3.pdf
阿部泰郎「聖徳太子絵伝の世界像-平安期における太子宗教テクストの複合的生成とその布置-」
http://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/11_%E9%98%BF%E9%83%A8%23_No.8.pdf
大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3146/1/HirodaiKokushi_
100_4.pdf
しかし,『唐本御影』を中国・西安にある永泰、章怀、懿德等の合葬墓の壁画にある男性人物像と比較すると,ありとあらゆる点で酷似している。
同時期の絵師が模範本として描いたものが日本国に渡来し,それを元にして後代に日本国内で作成されたものではなかろうか。それゆえ『唐本御影』との名があると解釈すると,非常にわかりやすい。唐から伝来した祖本を手本にした直接の模写本という趣旨に理解することができる。
中央の人物の左右に立つ者の髪型(みずら)が契丹の遺跡からの発掘品にもあることは既に述べた。もし『唐本御影』の作成時期が8世紀以降だとすれば,矛盾はない。
遼寧省文物考古研究所編『凌源小喇嘛溝遼墓』
http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-1958.html
また,合葬墓の壁画にある人物は,男女の別を問わず,現在の日本人の中にも酷似する容貌の人をみつけることができる。私の身近にも何人か存在する。
唐代の貴族が日本国に渡来し,その子孫として遺伝子を伝えているのだろうと思う。
聖徳太子の存否に関して,『新唐書』には「目多利思比狐(めたりしひこ)」とは用明天皇のことだと書いてある。そのように解する場合,推古朝は実際には存在せず,用明天皇の治世が続いていたということになるのだろう。そして,その用明天皇の氏が『古事記』及び『日本書紀』の編纂時には「蘇我」として記録された人々と同じ氏だった可能性は否定されない。
私見では,「たりしひこ」とは「帯方郡の王」または「帯方郡から来た王」を意味するものと一応解釈することにしているのだが,更に検討中。ここでいう「帯方郡」とは,魏晋の時代の帯方郡を意味する。襲名される敬称・尊称の一種であり,実名ではない。
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