箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない:3つの根拠はいずれも不十分
奈良県桜井市の纏向[まきむく]遺跡にある箸墓[はしはか]古墳は、魏志倭人伝に登場する卑弥呼の墓だと言われることがあります。
※トップ画像:箸墓古墳(2020年10月撮影)
卑弥呼は239年に中国の魏に使いを送り、247年に魏からの使節を受け入れた頃に死んだことが書かれています。箸墓古墳が卑弥呼の墓なのであれば、3世紀中頃の古墳ということになります。
「箸墓古墳は3世紀中頃」にはどのような根拠があるのでしょうか。意外と知られていないと思います。主な根拠としては、銅鏡を根拠とする考古学的手法※で2つ、炭素14年代測定を根拠とする科学的年代測定※で1つの根拠が出されています。
※ワード解説
考古学的手法:年代がある程度特定できる遺物・遺構との前後関係から、年代を推定する手法
科学的年代測定:出土した遺物の炭素14年代、木材の年輪幅、年輪の酸素同位体比などを測定して、年代を推定する手法
まず、3つの説の根拠を一覧表で紹介します。
3番目の国立歴史民俗博物館(歴博)の炭素14年代測定は、メディアでも取り上げられ、聞いたことがある人が多いかもしれません。
第1章~第3章ではこれらの根拠を検証してみました。その結果、3つの説はいずれも根拠として不十分であることがわかりました。それぞれ結論のみ述べると、以下のとおりです。
第1章/寺沢説:たとえ、中国鏡の製作年代が特定できたとしても、日本に流入して使用され、古墳に副葬されるまでの期間は様々だったはずで、中国鏡では箸墓古墳の年代は特定できない。
第2章/福永説・岸本説:仮に古いタイプの三角縁神獣鏡の製作年代が240年代だったとしても、前方部がバチ形の古墳には新しいタイプの三角縁神獣鏡も副葬されている。箸墓古墳がバチ形だからといって、3世紀中頃の古墳とは特定できない。そもそも三角縁神獣鏡は下位の鏡であり、魏から卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」とは考えられない。
第3章/歴博説:「箸墓の製造直後は240~260年」とした炭素14年代測定は、根拠となる年代モデル(試料のグループ化・前後関係)の統計学的適合度が16%にとどまることが明らかになった(合格点は60%)。根拠が破綻しており、年代モデルの再検討が必要。適合度の計算式も紹介。
どの説も根拠はややこしく、その検証も複雑になります。詳細は本文をご覧ください。
第4章~第7章の内容は以下のとおりです。
第4章:科学的年代測定の1つである、酸素同位体比年輪年代法について紹介しました。酸素同位体比年輪年代法でも、纏向遺跡の年代が推定されています。
第5章:僕も箸墓古墳の年代に挑みました。その結果、箸墓古墳の年代は300年前後(±15年)となりました。炭素14年代測定を使いましたが、歴博とは異なる年代モデルから推定しました。
第6章:箸墓古墳が300年前後になることの影響を提示しました。これは衝撃です。現在の邪馬台国近畿説が土台から崩れるからです。
第7章:考古学的手法と科学的年代測定が両輪となって、弥生時代の実年代が明らかになってほしいという僕の願いです。
では早速、3つの説の検証から見ていきましょう。
(最終更新2024/4/17)
【更新履歴】
2024/4/17 第5章 添付ファイルにIntcal変更方法、09・04の較正結果追加
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