2024年6月29日土曜日

契約の民の流浪史

契約の民の流浪史

 一方、神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)に率いられる北九州の豪族は、その後朝鮮半島に新羅を建国したらしい。しかし邪馬台国も大和王権もしばしば新羅に出兵し、百済よりの外交姿勢を採った。応神天皇の時代にも二度出兵し、新羅の妨害を退け、秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて日本に帰化するのを助けた。イスラエルの調査機関アミシャーブによれば、秦氏はマナセ族の末裔らしい。仮に『本朝皇胤紹運録』の記述が正しいとすれば、継体天皇直系の現皇室もマナセ族の末裔と言うことになりそうだ。
http://www.seanewsonline.com/ebook/intro0506.htm

契約の民の流浪史



契約の民の流浪史 (キリスト教の起源)



村上厚

 

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[序文]  チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアからパレスチナにかけた地域には、古くから農耕民と遊牧民が共生する都市国家が興亡して来た。大部分の都市国家の主役は農耕民だったが、遊牧民は、西方のエジプトのみならず東方のインドや中国とも交易し、異文化融合の触媒を務めて来た。
 これらの遊牧民には、メソポタミアやエジプトの文化的背景を有するルベン族、シメオン族、レビ族、ユダ族、ゼブルン族、イッサカル族、ダン族、ガド族、アシェル族、ナフタリ族、ヨセフ族、ベニヤミン族以外に、チベット人や日本列島の先住民縄文人に特徴的な『Y染色体D』遺伝子を保持し、古モンゴロイド(Paleo-Mongoloid)に属すると見られるエフライム族とマナセ族が含まれ、それぞれ異なる氏神を奉じていたが、今から3000年乃至4000年前に単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合を組織、農耕民に替わって歴史の表舞台に登場した。契約の民の誕生である。
 ユダヤ教は元来排他的で内向的な宗教だったが、イスラエルの十二部族が、古モンゴロイドに属し外向的且つ融和的なエフライム族とマナセ族を取り込んだことにより、ユダヤ教やキリストは、地中海沿岸地域のみならず、中央アジアやインド中国、さらには日本列島まで伝播、また東方キリスト教諸教会の原点とされる景教が、イスラム教の誕生や大乗仏教運動の起爆剤の役割を担った。こうしてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒として、生き続ける契約の民の総数は,今や34億人に達すると言う。




第四部:トマスの東方伝道
[9]トマスの北京伝道と倭国のえにし

 さて久保有政氏によると、トマスはイエスが昇天した2年後、したがって西暦35年頃、アッシリアからインドに赴いた後、チベットを経由して中国に伝道、西暦62年に現在の北京に至り、教会(会衆)も組織したらしい。それにしても、トマスは何故後漢の帝都洛陽や長安ではなく、薊県(けいけん)と呼ばれた北辺の地方都市に赴いたのだろうか。パウロにしろヨハネにしろ、当時の使徒達は皆、ユダヤ人コミュニティーがすでに存在した地域に伝道しており、恐らく当時の北京にもユダヤ人コミュニティーが存在していたものと見られる。
 そういえば、中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、秦の王賁(おうほん)将軍が魏の王都大梁(現在の河南省開封)を陥落させた紀元前231年に同市に最初のユダヤ人コミュニティーが形成されたと記されていると言う。そのほぼ十年後の紀元前226年に王賁将軍は燕の王都薊城(北京)を陥落させ、紀元前222年に燕を滅した。
 秦の母体と見られる羌族(きょうぞく)は文字通り羌(ひつじ)を放牧する遊牧民で、イスラエルの失われた十部族の帰還援助組織アミシャーブによれば、典型的なマナセの末裔という。
 このため王賁将軍には直属のユダヤ人傭兵部隊が存在し、同将軍が転戦した地域にはこうした傭兵部隊の家族のコミュニティーが形成されたのではなかろうか。
 ちなみに春秋戦国時代から秦漢時代に書かれた中国最古の地理書『山海経』には「蓋国は燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」と記されている。これが中国の書籍に『倭』が登場する最初の例とされる。どうやら春秋戦国時代から秦漢時代にかけて『倭』は『燕』の一部と見なされていたようだ。だとすれば、トマスが燕の古都薊城を訪れた当時、同地のユダヤ人コミュニティーは、饒速日尊がエフライムの協力の下に近畿地方に建てた大和国や、応神天皇の時代に日本に帰化したマナセ族の末裔の秦氏と密接な関係を保持していた可能性がありそうだ(後述)。



○エフライムとマナセが皇室の朝鮮ルーツを媒介

 日本書紀と古事記の記述は、皇室が新羅と百済双方と血縁を有することを暗示しているが、イスラエルの失われた十部族の中のエフライム族とマナセ族がどうやらその媒介を務めたようだ。
 最初に降臨した饒速日尊が近畿地方に王権を樹立した際、天遜族の証しとして『ヤーウェの民』を意味するアラム語『ヤー・ウマト』にちなんで自らを大和王権と称したことから縄文人を含む日本列島居住者がヤマト族を自称するようになり、その後誕生した邪馬台国の国号にもなった。
 北九州の筑紫地方を地盤とした朝鮮系豪族(磐井?)の東征将軍(神武天皇)は、近畿地方を制圧した際、大和王権の名称を引き継ぐとともに、自らを『サマリヤの王、ヤハウェのエフライム族の高尚な創設者』を意味する神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと:カム・ヤマト・エフライム・ペコ・シュメロン・マクト)と称した。このことから、饒速日尊はエフライム系ユダヤ人の協力の下に大和王権を樹立し、神武天皇もその伝統を引き継いだことが窺える。
 一方、神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)に率いられる北九州の豪族は、その後朝鮮半島に新羅を建国したらしい。しかし邪馬台国も大和王権もしばしば新羅に出兵し、百済よりの外交姿勢を採った。応神天皇の時代にも二度出兵し、新羅の妨害を退け、秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて日本に帰化するのを助けた。イスラエルの調査機関アミシャーブによれば、秦氏はマナセ族の末裔らしい。仮に『本朝皇胤紹運録』の記述が正しいとすれば、継体天皇直系の現皇室もマナセ族の末裔と言うことになりそうだ。
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