https://www.amazon.co.jp/「笛吹き男」の正体-──東方植民のデモーニッシュな系譜-筑摩選書-浜本隆志-ebook/dp/B0BN1JHDMT/ref=tmm_kin_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=&sr=
2023年2月2日に日本でレビュー済み
子供の頃、グリム兄弟の『ハーメルンの笛吹き男』という童話を読んだ人は多いことでしょう。中世、鼠の大群に襲われて困っていたドイツのハーメルンの町に、不思議な男が現れます。市民たちから報酬を約束されたこの男は、笛を吹いて町中の鼠どもを河まで連れていき、溺れさせてしまいます。だが、鼠の災難を免れると、市民たちは男への報酬支払いを拒みます。激しく怒った男は町を出ていくが、再び現れ、今度は笛を吹いて町中の子供たちを連れていき、子供たちもろとも山に消えてしまったというのです。この童話の基となった、1284年6月26日に実際に起こった笛吹き男と130人の子供たちの失踪事件は、多くの謎――笛吹き男とは何者か、なぜ130人もの子供たちが失踪したのか、そして子供たちはいったいどこへ消え失せたのか――に包まれています。
39年前に読んだ『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』(阿部謹也著、平凡社)には、知的好奇心を掻き立てられました。「ハーメルンの笛吹き男」の謎に挑戦していたからです。阿部謹也は、笛吹き男はドイツ東部への植民請負人ではなかったかという説を紹介しつつ、「『ハーメルンの笛吹き男伝説』が最終的に『解明』されることは、おそらく近い将来にはないだろう」と結んでいます。
ところが、今回、手にした『「笛吹き男」の正体――東方植民のデモーニッシュな系譜』(浜本隆志著、筑摩選書)では、史料を駆使し、笛吹き男の正体が明らかにされるだけでなく、130人もの人々がどのようにして連れ出されたかが、臨場感豊かに再現されているではありませんか。
「筆者は『笛吹き男』がハーメルンで子供たちを連れ去ったのは、(通説の6月26日ではなく)1284年6月22日の夏至祭であったことを説明した。かれが実際にハーメルンの町へ入ってきたのは、遅くとも夏至祭の数日から10日ほど前のことであろう。当時のロカトール(植民請負人)は通常、ヨーロッパ北西部地域の人びとを50~60人集めて東方へ連れていき植民させていたが、からがこれだけの人数を集めるために短時間では不可能であったからである。植民に参加する側も自分の人生を決める重大なことであったので、1日や2日で決断ができる話ではなく、家族や仲間との相談、そして準備も必要であるからだ。ロカトールは精力的に郊外の農奴を中心にリクルートを始めていた。(人々が浮かれる)夏至祭の行事もその追い風になった」。
「希望のない毎日を送る下層の人びとにとっては、ロカトールの語りは魅力的であった。かれは条件を提示する。入植すれば租税は一定期間免除とか、自由農民として一定の土地を付与すること、あるいは入植時の世話はロカトールがすること、新天地へ移住するのは神の思し召しであることなど、ロカトールは人の気持ちを動かす言辞を並べ立てる」。
「ロカトールは最初から子供を狙うことはなく、あくまで成人の移住者を集める目的で、ハーメルンへやってきた。子供たちの失踪は、祭りの日であったので、子供たちが巻き込まれたのは偶然の出来事と推測される。・・・東方植民に参加する人びとは、通常、50~60人のグループで移動したので、ハーメルンの市内の貧民街から『笛吹き男』の笛の合図で、三々五々約束の場所に集まってきたと考えられる。・・・集合の合図ともいえるロカトールの笛の音は、静まりかえった下層住民の住んでいる地域に響きわたる。遅れてくるものもいるので、笛の演奏は続いた。それにつられて早起きの子供たちも集まってくる。祭りの真っ最中なので、誰もその光景を怪しむものはいない。移住する集団がそろい、やがて大人たちだけでなく子供たちも、『笛吹き男』の後に付いていき、祭りの練り歩き(プロセッション)のような光景が生まれる。かれらはアルテ・マルクト通りから、北上していった。・・・子供たちは自分の意思で参加している。興味半分や付和雷同も含めて、かれらは集団妄想にかかった様相を呈していた可能性が高い。・・・子供たちの中には上流階級の子もいたはずであり、グリム兄弟の記述では、市長の娘も加わっていたという。・・・ロカトールの方も、6~13歳の子供であれば少し待てば入植地で大きな戦力になるから、連れていった。当時、東方植民の子供攫いも発生しているので、渡りに船であっただろう。時は気候のいい夏のことで、子供もそれほど足手まといにならない。こうして『ハーメルンの笛吹き男』伝説は子供たちが主役にクロースアップされてくるのである。笛吹き男を先頭に子供たちが前に、その後に年長の若者たちの『プロセッションン』が繰り広げられていった。130人というのはリクルートした大人50~60人と、それに合流した子供たちの総人数であって、子供たちだけの数ではない。この数についてどこにも異説はないので実数であろう」。
「子供たちを巻き込んだ一団がここ(事件後、『舞踏禁止通り』と名付けられる)から東門を通り、コッペンへ向かっていったという伝説は、おそらく事実であろう。なお市内では、大量の失踪事件の光景を見た人がいた(リューデ氏の母)ので、その証言から東門からでていったということも明らかである」。
「上流階級の市参事会員やツンフトの親方たちは、街の中心地のマルクトの市庁舎、会館、教会などで宴会を開いていた。下層階級の人びとは飲食店に集まっていたし、移民する当事者たちは、出発の準備で忙殺されていた。誰もが子供のことは眼中になかった。では子供たちの両親は、いつ頃異変に気づいたのであろうか。おそらく早くから子供たちがいないことを確認していたものはいたかもしれない。しかし祭りの日であり、子供たちがその会場や近所に遊びに行っていると軽く考え、親たちは祭りのことで頭がいっぱいであった。・・・市民たちが半狂乱になって探し回っても、結果的に行方はわからない。とくにパニックになったのは、上流階級の子供たちも含まれていたからだ」。
「1284年のハーメルンの入植組の多くは、ブランデンブルク辺境伯領の東方部のマルク・ブランデンブルク、ポメルンあたりに着いた。ここは人口の過疎地帯のため、植民を必要としている地域でもあった。・・・だれがロカトールに植民を要請したのか証拠は残っていないが、ヨハン1世の嫡男オットー4世の可能性が高い」。「ロカトールは(下級)貴族の出身者もいたが、自由農民から上昇して富裕化したケースもある」。
本書の後半では、中世の東方植民と後世のヒトラーの東方植民政策との共通性にも言及されています。
知的好奇心を満足させる、読み応えのある一冊に出会うことができ、大満足!
39年前に読んだ『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』(阿部謹也著、平凡社)には、知的好奇心を掻き立てられました。「ハーメルンの笛吹き男」の謎に挑戦していたからです。阿部謹也は、笛吹き男はドイツ東部への植民請負人ではなかったかという説を紹介しつつ、「『ハーメルンの笛吹き男伝説』が最終的に『解明』されることは、おそらく近い将来にはないだろう」と結んでいます。
ところが、今回、手にした『「笛吹き男」の正体――東方植民のデモーニッシュな系譜』(浜本隆志著、筑摩選書)では、史料を駆使し、笛吹き男の正体が明らかにされるだけでなく、130人もの人々がどのようにして連れ出されたかが、臨場感豊かに再現されているではありませんか。
「筆者は『笛吹き男』がハーメルンで子供たちを連れ去ったのは、(通説の6月26日ではなく)1284年6月22日の夏至祭であったことを説明した。かれが実際にハーメルンの町へ入ってきたのは、遅くとも夏至祭の数日から10日ほど前のことであろう。当時のロカトール(植民請負人)は通常、ヨーロッパ北西部地域の人びとを50~60人集めて東方へ連れていき植民させていたが、からがこれだけの人数を集めるために短時間では不可能であったからである。植民に参加する側も自分の人生を決める重大なことであったので、1日や2日で決断ができる話ではなく、家族や仲間との相談、そして準備も必要であるからだ。ロカトールは精力的に郊外の農奴を中心にリクルートを始めていた。(人々が浮かれる)夏至祭の行事もその追い風になった」。
「希望のない毎日を送る下層の人びとにとっては、ロカトールの語りは魅力的であった。かれは条件を提示する。入植すれば租税は一定期間免除とか、自由農民として一定の土地を付与すること、あるいは入植時の世話はロカトールがすること、新天地へ移住するのは神の思し召しであることなど、ロカトールは人の気持ちを動かす言辞を並べ立てる」。
「ロカトールは最初から子供を狙うことはなく、あくまで成人の移住者を集める目的で、ハーメルンへやってきた。子供たちの失踪は、祭りの日であったので、子供たちが巻き込まれたのは偶然の出来事と推測される。・・・東方植民に参加する人びとは、通常、50~60人のグループで移動したので、ハーメルンの市内の貧民街から『笛吹き男』の笛の合図で、三々五々約束の場所に集まってきたと考えられる。・・・集合の合図ともいえるロカトールの笛の音は、静まりかえった下層住民の住んでいる地域に響きわたる。遅れてくるものもいるので、笛の演奏は続いた。それにつられて早起きの子供たちも集まってくる。祭りの真っ最中なので、誰もその光景を怪しむものはいない。移住する集団がそろい、やがて大人たちだけでなく子供たちも、『笛吹き男』の後に付いていき、祭りの練り歩き(プロセッション)のような光景が生まれる。かれらはアルテ・マルクト通りから、北上していった。・・・子供たちは自分の意思で参加している。興味半分や付和雷同も含めて、かれらは集団妄想にかかった様相を呈していた可能性が高い。・・・子供たちの中には上流階級の子もいたはずであり、グリム兄弟の記述では、市長の娘も加わっていたという。・・・ロカトールの方も、6~13歳の子供であれば少し待てば入植地で大きな戦力になるから、連れていった。当時、東方植民の子供攫いも発生しているので、渡りに船であっただろう。時は気候のいい夏のことで、子供もそれほど足手まといにならない。こうして『ハーメルンの笛吹き男』伝説は子供たちが主役にクロースアップされてくるのである。笛吹き男を先頭に子供たちが前に、その後に年長の若者たちの『プロセッションン』が繰り広げられていった。130人というのはリクルートした大人50~60人と、それに合流した子供たちの総人数であって、子供たちだけの数ではない。この数についてどこにも異説はないので実数であろう」。
「子供たちを巻き込んだ一団がここ(事件後、『舞踏禁止通り』と名付けられる)から東門を通り、コッペンへ向かっていったという伝説は、おそらく事実であろう。なお市内では、大量の失踪事件の光景を見た人がいた(リューデ氏の母)ので、その証言から東門からでていったということも明らかである」。
「上流階級の市参事会員やツンフトの親方たちは、街の中心地のマルクトの市庁舎、会館、教会などで宴会を開いていた。下層階級の人びとは飲食店に集まっていたし、移民する当事者たちは、出発の準備で忙殺されていた。誰もが子供のことは眼中になかった。では子供たちの両親は、いつ頃異変に気づいたのであろうか。おそらく早くから子供たちがいないことを確認していたものはいたかもしれない。しかし祭りの日であり、子供たちがその会場や近所に遊びに行っていると軽く考え、親たちは祭りのことで頭がいっぱいであった。・・・市民たちが半狂乱になって探し回っても、結果的に行方はわからない。とくにパニックになったのは、上流階級の子供たちも含まれていたからだ」。
「1284年のハーメルンの入植組の多くは、ブランデンブルク辺境伯領の東方部のマルク・ブランデンブルク、ポメルンあたりに着いた。ここは人口の過疎地帯のため、植民を必要としている地域でもあった。・・・だれがロカトールに植民を要請したのか証拠は残っていないが、ヨハン1世の嫡男オットー4世の可能性が高い」。「ロカトールは(下級)貴族の出身者もいたが、自由農民から上昇して富裕化したケースもある」。
本書の後半では、中世の東方植民と後世のヒトラーの東方植民政策との共通性にも言及されています。
知的好奇心を満足させる、読み応えのある一冊に出会うことができ、大満足!
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