日本紀元(Nihon Kigen) 東洋をつくった景教⑩達磨と使徒トマス
インドから中国に禅の仏教を伝えた人とされています。 しかしこのだるまに関し、京都の金戒光明寺に、 興味深い絵が保存されています。 景教研究家のエリザベス・A・ゴードン女子が、 住職の許可を得て撮影した仏教画ですが、 もとは中国から伝来したといいます。 法然上人によって発見されたとの伝説があり、 従って12世紀以前に描かれたものでしょう。 絵は、上中下の3段から成り、 下段では達磨(頭に布をかぶっている人物)が、 人々に語っている光景となっています。 中断では、一同が空虚な墓の前に行っています。 そして上段では、聖者が後光を放ち、雲に乗って昇天するのを、一同が拝んでいる。かつて仏教の僧侶からキリスト教の牧師になった経歴を持つ道籏泰誠氏は、この絵について、 「これは言うまでもなく、キリストの復活・昇天の絵を仏教化したものだ」 と述べている。ゴードン女史も、 「中世のイエスの絵と同じく、これは主イエスの復活と昇天の絵に違いない」 という。この絵は、達磨が聖者の復活・昇天について人々に語っている、という体裁をとっている。だが達磨の姿を見てみると、頭に布をかぶり、顔にひげを生やしていて、どうみても中近東の人々特有の格好だ。とくに、ユダヤ人の格好である。カール・ルートビック・ライヘルト博士は、 「ダルマの絵を見ると、その容貌は中国人やインド人ではなく、まったくユダヤ人の特徴がある」 と述べている。かつてキリストの使徒トマスは、先に述べたようにインド、中国方面に伝道に行った。この絵は、使徒トマスが復活のキリストに出会った時の体験を人々に語っている光景を、仏教化したものに違いない。すなわち、使徒トマスが達磨に置き換えられ、仏教画に作り替えられているのだ。 では、達磨と、トマスはいったいどういう関係なのか。達磨は使徒トマスのことなのか。それとも、達磨とトマスは別人なのか。達磨伝説と、トマスのことが習合しただけなのか。 達磨は、伝説化されていて、謎だらけの人物である。達磨は一般には禅宗をおこした人物とされ、6世紀に生きたと言われている。ところが達磨が書いたという「二入四行の説」には、禅の思想がない。また6世紀に生きたというのも、多くの異説や矛盾点があり、信憑性がない。達磨は南インドの生まれと言われている。そこは、トマスの宣教地でもあった。一方、ダルマの出身をペルシャとする書物もある。『開元目録』(8世紀)には、 「ときに西域の沙門菩提達磨という者がいた。彼はペルシャの人だった」 とある。ペルシャは景教徒たちの故郷だ。使徒トマスも、インドに来る前はその地域で伝道した。 さらに、禅宗において達磨の忌日は10月5日である。しかし、仏教では死んだ日の前日に仏事を行なう習慣があるから、本当の彼の命日は10月6日だろう。これは、ギリシャ正教会がトマスの召天日として祭日にしている10月6日と、一致する。 また、トマスはインドでは「トマ」(Toma)と呼ばれていた。それがなまって「達磨」(Dharma)の名になったのではないか。TとDは発音が近いから、入れ替わりやすい。中国ではとくにそうだ。このように、どうもトマス伝説が仏教化されて、達磨になっている。 達磨は「インドから中国に禅の仏教を伝えた人」ということになっている。しかしトマスも、インドから中国へ伝道に行っている。トマスは北京あたりまで伝道に行って、それからまたインドに帰っている。つまり、6世紀頃にも達磨伝説を形成する仏教僧がいたと思われるが、やはり達磨伝説のおおもととなった人は使徒トマスだろう。 ところで、ダルマ人形というのがある。頭に赤い布をかぶって、ひげを生やした人物の、あの丸い人形だ。倒してもまた起きあがる――「七転八起」の言葉を表した人形である。ところがこの「七転八起」というのは、もともと聖書の思想である。今から約3000年前に記された旧約聖書・箴言24章16節に、 「正しい者は七たび倒れても、また起きあがるからだ」 と記されている。「七転八起」は聖書の思想なのである。使徒トマスは七転八起の人だった。このようにダルマ伝説には、使徒トマスの伝説が習合している。ここに、もう一つの「仏教の中のユダヤ」がある。
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