2024年6月12日水曜日

大成経

『大成経』出現  

 延宝七年(一六七九)、当時、江戸の出版界では知られる存在だった戸嶋惣兵衛の店か ら、不思議な本が出版された。それは『神代皇代大成経』という総題が付された一連の神 書であり、神儒仏一体の教えを説くものであった。 

 序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、推古天皇が四天 王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものである。さらにその原史料とな った文書は、小野妹子と秦河勝が、それぞれ平岡宮(河内の枚丘神社?)と泡輪宮(?) で、神から授けられた土簡(タブレット)に刻まれていたという。 

 その内容は次の通りである。
 首一・神代皇代大成経序、首二・先代旧事紀目録、巻一・神代本紀(天地開闢と祭祀の 発祥)、巻二・先天本紀(偶生神七代の系譜)、巻三・陰陽本紀(国産み・神産み神話) 、巻四・黄泉本紀(黄泉国神話)、巻五~六・神祇本紀(三貴子の出生)、巻八~九・神 事本紀(天岩戸神話)、巻九~十・天神本紀(ニギハヤヒの事蹟)、巻十一~十二・地祇 本紀(出雲神話)、巻十三~十四・皇孫本紀(ニギハヤヒの子孫の事蹟)、巻十五~十六 ・天孫本紀(日向神話)、巻十七~二二・神皇本紀(神武~神功)、巻二三~二八・天皇 本紀(応神~武烈)、巻二九~三四・帝皇本紀(継体~推古)、巻三五~三八・聖皇本紀 (聖徳太子伝)、巻三九~四四・経教本紀(神道教理)、巻四五・祝言本紀、巻四六・天 政本紀、巻四七~四八・太占本紀、巻四九~五二・暦道本紀、巻五三~五六・医綱本紀、 巻五七~六〇・礼綱本紀、巻六一~六二・詠歌本紀、巻六三~六六・御語本紀、巻六七~ 六八・軍旅本紀、巻六九・未然本紀、巻七十・憲法本紀、巻七一・神社本紀、巻七二・国 造本紀、以上、全七二巻・付録二冊。 

 なお、『大成経』の本格的刊行が始まる前に、延宝三年、経教本紀の中の「宗徳経」、 翌四年には同本紀の中の「神教経」が刊行されている。また、延宝三年には、憲法本紀と 同じ内容の本が『聖徳太子五憲法』と題して刊行された。版元はいずれも戸嶋惣兵衛であ る。『聖徳太子五憲法』とは、一般に聖徳太子の十七条憲法として知られているものが、 実は五憲法の一つ「通蒙憲法」に過ぎず、太子は他に「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲 法」「神職憲法」各十七条をも発布していたとする文献である。また、「通蒙憲法」にし ても、その内容は『日本書紀』所載のものとやや異なり、『日本書紀』で第二条とされて いる「篤く三宝を敬へ」が『大成経』では第十七条とされている上、三宝の内容も「仏法 僧」から「儒仏神」に変えられている。 

 五憲法はいずれも儒仏神三教調和の思想を基調としている。それはまた『聖徳太子五憲 法』に限らず、その後に刊行された『大成経』各巻でも繰り返される主張である(五憲法 の内容については野澤政直『禁書聖徳太子五憲法』新人物往来社、一九九〇、参照)。 

 さて、『大成経』は世に出るや、たちまち江湖の話題を呼び、学者や神官、僧侶の間で 広く読まれるようになった。

http://www.rendaico.jp/kodaishi/jyokodaico/kujikico/kujikico.html

 【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その2】

 もとへ。先代旧事本紀の話に戻る。我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺、815年に新撰姓氏録と云う順になる。先代旧事本紀は、これらの前に綴られたのか以降に記されたのかの詮議をしなければならない。  

 先代旧事本紀の序文によると、聖徳太子と蘇我馬子が著したとしている。実際の編纂者として、興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)が推定されている。興原敏久氏は、「諸系譜」によれば物部系の人物(元の名は物部興久)であり、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ。物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫であるとされている。平安時代前期の官吏にして明法博士から大判事となり、「弘仁格式」、「令義解(りょうのぎげ)」の撰修に関わっている。その興原氏の活躍の時期が先代旧事本紀の成立期と重なっている。これを踏まえて、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお、1812-92)は、著書「先代旧事本記折疑」で、概要「先代旧事本紀の序文はおかしいが本文はよろしい。その選者は興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)であろう」と述べている。異説として、興原敏久説の他に石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。

 その執筆年代の手掛りとして、先代旧事本紀には807年成立の古語拾遺からの引用が為されているからして、成立は807年以降と推定される。但し、その稿は、後の転写者が書き加えたと推定することも可能であり、原文がそれより先に完成されていた可能性は残る。今日に伝わる先代旧事本紀を前提として執筆年代を確認することにすると、研究者の間では、平安朝初期の大同年間(806年~810年)、弘仁年間(810年~824年)、延喜年間(901年~922年)の延喜書紀講筵(904年~906年)以前の間と考えられている。特に807年~833年とみる説が有力である。

 本文の内容は古事記、日本書紀、古語拾遺と同文箇所も多い。これをどう見るかと云うことになる。国学者・本居宣長の「古事記伝一之巻」の中の「旧事紀といふ書の論」という一節での先代旧事本紀論が参考になるので確認しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す)

 「世に旧事本紀と名づけたる十巻の書あり。これは後の人の偽り輯(あつ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子の命の撰び給いし真の紀には非ず。『序も、書紀の推古の御巻の事に拠りて後の人の作れる物なり』。然れども、無き事をひたぶるに造りて書くるにもあらず。ただこの記と書紀とを取り合せて集めなせり。それは巻を披(ひら)きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑わん人もあらば、神代の事記せる所々を心とどめて看よ。事毎にこの記の文と書紀の文とを、皆本(もと)のままながら交へて挙げたる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接(つげ)りとか云うが如し。又この記なるをも書紀なるをも並べ取りて、一つ事の重なれるさえ有りて、いといとみだりがはし(粗雑である)。すべてこの記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのケジメいとよく分れてあらわなり。又往々(ところどころ)古語拾遺をしも取れる、それもその文のままなれば、よく分れたり。『これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に嵯峨の天皇と云うことも見えたれ』。かくて神武天皇より以降の御世御世は、専ら書紀のみを取りて、事を略して書ける。これも書紀と文全く同じければ、あらはなり(明らかである)。且つ歌はみな略しけるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載せたる。仮名まで一字も異ならずなん有るをや。

 さて又、某本紀、某本紀とあげたる巻々の目(名前)ども、みなあたらず(内容と合致しない)。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻の尾張の連、物部の連の世次(系譜)と、十の巻の国造本紀と云う物と、これ等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。『いづれも中に疑わしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし(見分けるべきである)』。さればこれらのかぎりは、今も依り用いて助くること多し。又この記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、これもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。『旧事大成経という物あり。これは殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀というものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者という徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなる多し。古学を詳しくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし』」。

 本居の上述の観点で明らかなように、江戸期の国学以降の通説は、先代旧事本紀をして、古事記、日本書紀、古語拾遺の文章を適宜に継ぎ接ぎしたイカガワシイ記述姿勢が目立つと見立てている。しかし、これは逆裁定ではなかろうか。少なくとも、先代旧事本紀も含めて記紀、古語拾遺が下敷きにした原文が存在しており、各書がその編纂動機に添って任意に都合のよいところを抜き書き編纂しているに過ぎないとも窺うべきではなかろうか。あるいは、先代旧事本紀執筆者の姿勢は、記紀、古語拾遺の記述を「継ぎ接ぎ」したのではなく、記紀、古語拾遺の記述を前提にして踏まえつつ、新たに挿入したい伝承を「継ぎ接ぎ」したと窺うべきではなかろうか。つまり、「継ぎ接ぎ」の主体を「記紀、古語拾遺と同文」の側ではなく、「新たに挿入した歴史史料」の方に向けるべきではなかろうか。「継ぎ接ぎ」と云う言葉は同じだが、この言葉が指している意味を理解する方向が逆であることを確認したい。

 つまり、先代旧事本紀が、記紀、古語拾遺と同文箇所が多いのが「継ぎ接ぎ」ではなく、記紀も含めて他の史書にはない独自の伝承や神名を挿入しているところが「継ぎ接ぎ」と窺うべきではなかろうか。先代旧事本紀の真価はここにこそある。よって、先代旧事本紀編纂者の意図と動機の解明こそが窺われるべきではなかろうか。そういう意味で、「継ぎ接ぎ」を「記紀、古語拾遺と同文」に求めるような逆さ観点よりする世の偽書論は何の役にも立たない。とりわけ注目されるのは、記紀が記述を抑制した出雲王朝、三輪王朝につき相応の言及をしていることである。そういう意味で、いわゆる古史古伝の祖とでも言い得る意義を保っている。これが先代旧事本紀の値打ちと云えよう。してみれば、先代旧事本紀は偽書説で遇されるべきではなく、記紀を補足する第三国撰史書とも云うべき位置づけを獲得しているのではなかろうか。

 2010.8.11日 れんだいこ拝

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