ユダヤ人景教僧
「静岡県浜名湖の奥山、半僧坊(はんそうぼう)の本尊はユダヤ人景教僧アキバだとも言われる」
https://nihonjintoseisho.com/blog001/2018/01/29/japanese-and-jews-92/【日本とイスラエル】手島郁郎の研究
日本とイスラエルに関連した事柄について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。
手島郁郎
日本に、「原始福音」または「キリストの幕屋」の名で呼ばれるキリスト教のグループがある。イスラエルでは最も有名な日本人グループである。その創設者・手島郁郎は、私が日本に来て最初に話した日本人であった。手島郁郎も、イスラエル十部族やユダヤ人、また景教徒、秦氏について深く研究した人であった。
八幡神社
手島によれば、日本全国の神社の中で最も数が多いのが「八幡(やはた)神社」である。「八幡」を今では「はちまん」と読むこともあるけれども、昔は「ヤハタ」と言い、もっと古くは「ヤハダ」と言った。ヤハダの神は、日本に渡来した秦氏の信奉した神であった。
ユダヤの神
手島によれば、秦氏はおそらく佐伯教授の述べたようにユダヤ人景教徒であり、「ヤハダ」とはもともとはヘブル語のイェフダー、つまり、ユダヤ(またはユダ)の意味であろうという。つまり「ヤハダの神」は、ユダヤの神の意味になる。古事記にも、ヤハダの神は「蕃神(ばんしん)」、すなわち外国の神だとはっきり書いてある。
景教伝来の記録
手島はまたこう書いている。「『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、天平8年(736年)11月に、聖武(しょうむ)天皇が、『中臣朝臣名代に従四位を授け、景人(景教徒)・皇甫、ペルシャ人・李密医らに位を授けて差あり』と、遣唐使の随員の労をねぎらい、叙位された記事がある。これは公式の記録だが、それ以前にも、太秦寺(広隆寺)を中心に、ウズマサ(イエス・メシヤ)の伝道と布教が行なわれていたことが明白である」
景教の漢訳の経典
「景教の漢訳の経典を見ると、イエスを『世尊(せそん)』と訳したりしてある。世尊といえば釈迦のことだが、この世尊布施論を親鸞上人も読んだと西本願寺では言い伝えられていて、宝物として残っている」
ユダヤ人景教僧
「静岡県浜名湖の奥山、半僧坊(はんそうぼう)の本尊はユダヤ人景教僧アキバだとも言われる」
ダビデの星
「我が国では、戦前までの風習として、赤ちゃんが産まれると、産衣(男児には白、女児には赤)のチャンチャンコの背中に、絹糸で✡の紋が縫うてあるのを御祝い品に贈ったものだった。これ、まさしくダビデの星である。この星のマークは昔から『十二針で縫わないと縁起が悪い』と言われてきたのだが、十二とはイスラエル十二支族の数である」
この「ダビデの星」については、前章で述べた考証を参考にしていただきたい。しかし、「十二の針で縫う」というのは、たしかにユダヤ的である。
エンヤラヤ
「桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は誰でも知っている童話だが、エンヤラヤとは『私は主を賛美する』というヘブル語(エァニ・アーレル・ヤー)となる。
妙見社の御祭
熊本の八代(やつしろ)の妙見社の御祭を見物したことがあるが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ、・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』とヘブル語そのままに歌っていた」と書いている。いずれも興味深い記述である(キリスト聖書塾刊『生命の光』250号)。
秦氏の墓
手島はまた、京都に幾つもある秦氏の墓について、それらが古代ユダヤ人の墓のつくり方によく似ていると書いている。(写真は京都にある「天塚古墳」。秦氏の墓と言われている。)古代ユダヤ人は、岩を積み上げたり、岩をくりぬいたりして横穴式の墓をつくったが、秦氏の墓もそういう形式なのである。
約2500年前のオイル・ランプ
また、奈良県の大神(おおみわ)神社の近くの山で、約2500年前のオイル・ランプが発見されているという。手島が、このオイル・ランプは古代イスラエルで使われていたものであると述べていることも興味深い。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統に深い関係があると考えられます。キリスト教の教典という考えはひとまず脇に置いて、聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 7章24~30節
ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮らしている人々なら、宮殿にいる。
では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。)
神様を中心にして生きること
バプテスマのヨハネは聖書に預言された人であり、この地上ではそれ以上の人物はいないとイエスが言ったことが記されています。そしてイエスは、神様を中心にして生きるなら、最も小さい者でも、彼より大きいと言ったのではないでしょうか。この地上のどんな偉大な人物よりも、神様を中心にして生きることは大きなことだということではないでしょうか。
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2018年2月2日(金)タピ大決定!
今回は「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係(3)~キャンピングカーで行く古代ユダヤ人ゆかりの地を巡る旅」と題して、昨年の夏に訪問した石川県宝達町にある「モーゼの墓」、京都府丹後にある日本最古の神社の一つ「元伊勢籠(この)神社」のレポートを、道の駅情報などキャンピングカーの旅行の魅力を交えながらお伝えしたいと思います。お近くにお住いの方はぜひお出でください。参加費無料、予約も要りません。お待ちしております。詳しくはタピ大をご覧ください。
本をお求めください
Amazonから「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」を出版しています。(Amazonのサイトはこちらです。)日本人の高い国民性は聖書と関係があること、「日本人の信仰」の中にはイエスの教えが引き継がれていることについて書きました。ぜひ、読んでみてください。詳しくは書籍情報をご覧ください。
目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
投稿者: 吉村 忠敏
全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/87/Suppl/87_KJ00009362923/_pdf
キリストの幕屋と日猶同祖論
山本 伸一
日本人の一部がユダヤ人、特に北イスラエル王国の失われた十部族の末裔であるという主張は、薄弱な根拠と荒唐無稽な議論にもかかわらず、これまで多くの人々を引きつけてきた。この日猶同祖論に肯定的な態度を示した者たちのうち、もっとも顕著な勢力が日本のプロテスタントのなかから現れた事実は、決して宗教史の偶然ではない。教会の権威、それによって保証される秘跡や典礼ではなく、日本独自のキリスト教の確立と新旧約聖書の学習に重きを置いた神学者たちは、ユダヤ人イエス・キリストの歴史的実像にキリスト教精神の源泉を求め、ユダヤ人の贖いに終末の予兆を見いだそうとした。そして、西洋から移植されたキリスト教ではなく、日本的なキリスト教を打ち立てるために、日本人とユダヤ人との間に歴史的実証性を越えた関係を主張する者たちまで現れた。この事実は彼らの教義や精神性に深く根差していると言える。
小谷部全一郎、中田重治、佐伯好郎、 川守田英二、酒井勝軍といった日猶同祖論に親和的なキリスト教伝道者にまさって主体的に関心を示し、実践的な活動のなかでユダヤ人やイスラエル国家と密接に関与した人物が、キリストの幕屋の創設者、手島郁郎(一九一〇―一九七三)だ。 内村鑑三の無教会主義に共鳴して伝道を行った手島は、日猶同祖論に関する論考を著した。ベンアミ・シロニーなどの理解によると、この仮説がキリストの幕屋によるイスラエル国家支持の理論的な基盤のひとつになったとされる。ところが、手島の議論を詳細に検証すると、彼がそれほど単純に日猶同祖論を受け入れていたわけではないことが分かる。『太秦ウズマサの神――八幡信仰とキリスト景教について』 では、秦氏が失われた十部族の末裔であるという、ネストリウス派研究者佐伯好郎の仮説、および日本の古い民謡がヘブライ語の詩歌であるという、サンフランシスコの牧師川守田英二の仮説をもとにして、日本人とユダヤ人の近親性が論じられている。しかし、「私は何も日本とユダヤの同祖論を説くわけではない」と明言しているように、手島がこの一見して奇異な説に極めて慎重な態度を示したことに注意を払うべきである。
むしろ、彼の目的は別のところにあったと考えることができる。それは秦氏(ユダヤ系のキリスト教徒)による八幡信仰(日本的一神教)の普及を、キリストの幕屋の主要理念である原始福音の再興の前駆的な運動として見ることだった。 手島はこれを「原始ヤハタ信仰への回帰」とも呼ぶ。ユダヤ人を祖とする渡来系の秦氏が、八幡信仰として一神教を日本の神道に導入しようとしたが、彼らはそれを達成することができなかった。その痕跡は言語や習俗として神道文化のいたる所に残されている。かつて神道のなかに一神教を実現しようとした秦氏の志を範として、ユダヤ人イエス・キリストが語った教えを日本的な精神のもとによみがえらせることこそが、原始福音の再興を掲げるキリストの幕屋の使命である。 手島は日猶同祖論に親和的かつ慎重な立場を取りながら、このような主張を展開したのだ。
とはいえ、キリストの幕屋のユダヤ・イスラエルに対する友好的な態度や神道文化との習合を呈する教義が、 手島の日猶同祖論に託した教えと密接に関係していたことは間違いない。したがって、現在の幕屋のエルサレム巡礼と皇室への崇敬も、決して異質のものではないのだ。そのような意味において、キリストの幕屋と日猶同祖論の関係を明確にしておくことは、その教義を理解するうえで重要だ。また、教団を越えて相互の影響関係が存在したことを想起すれば、キリスト教神学者による日猶同祖論の展開、およびその他の宗教家や政治家、ユダヤ人側からの肯定的な受容を研究するための不可欠な議論でもある。
『宗教研究』87巻別冊(2014年)第7部会 むしろ、彼の目的は別のところにあったと考えることができる。それは秦氏(ユダヤ系のキリスト教徒)による八幡信仰小谷部全一郎、中田重治、佐伯好郎、川守田英二、酒井勝軍といった日猶同祖論に親和的なキリスト教伝道者にまさって主体的に関心を示し、実践的な活動のなかでユダヤ人やイスラエル国家と密接に関与した人物が、キリストの幕屋の創設者、手島郁郎(一九一〇―一九七三)だ。内村鑑三の無教会主義に共鳴して伝道を行った手島は、日猶同祖論に関する論考を著した。ベンアミ・シロニーなどの理解によると、この仮説がキリストの幕屋によるイスラエル国家支持の理論的な基盤のひとつになったとされる。ところが、手島の議論を詳細に検証すると、彼がそれほど単純に日猶同祖論を受け入れていたわけではないことが分かる。『 太秦ウズマサの神││八幡信仰とキリスト景教について』では、秦氏が失われた十部族の末裔であるという、ネストリウス派研究者佐伯好郎の仮説、および日本の古い民謡がヘブライ語の詩歌であるという、サンフランシスコの牧師川守田英二の仮説をもとにして、日本人とユダヤ人の近親性が論じられている。しかし、「 私は何も日本とユダヤの同祖論を説くわけではない」と明言しているように、手島がこの一見して奇異な説に極めて慎重な態度を示したことに注意を払うべきである。とはいえ、キリストの幕屋のユダヤ・イスラエルに対する友好的な態度や神道文化との習合を呈する教義が、手島の日猶同祖論に託した教えと密接に関係していたことは間違いない。したがって、現在の幕屋のエルサレム巡礼と皇室への崇敬も、決して異質のものではないのだ。そのような意味において、キリストの幕屋と日猶同祖論の関係を明確にしておくことは、その教義を理解するうえで重要だ。また、教団を越えて相互の影響関係が存在したことを想起すれば、キリスト教神学者による日猶同祖論の展開、およびその他の宗教家や政治家、ユダヤ人側からの肯定的な受容を研究するための不可欠な議論でもある。から移植されたキリスト教ではなく、日本的なキリスト教を打ち立てるために、日本人とユダヤ人との間に歴史的実証性を越えた関係を主張する者たちまで現れた。この事実は彼らの教義や精神性に深く根差していると言える。(日本的一神教)の普及を、キリストの幕屋の主要理念である原始福音の再興の前駆的な運動として見ることだった。手島はこれを「原始ヤハタ信仰への回帰」とも呼ぶ。ユダヤ人を祖とする渡来系の秦氏が、八幡信仰として一神教を日本の神道に導入しようとしたが、彼らはそれを達成することができなかった。その痕跡は言語や習俗として神道文化のいたる所に残されている。かつて神道のなかに一神教を実現しようとした秦氏の志を範として、ユダヤ人イエス・キリストが語った教えを日本的な精神のもとによみがえらせることこそが、原始福音の再興を掲げるキリストの幕屋の使命である。手島は日猶同祖論に親和的かつ慎重な立場を取りながら、このような主張を展開した
隠された聖徳太子
第一節 手島郁郎と一神教的古神道 手島とその幕屋運動は今まで、複数の視点から研究されてきた。日本におけるユダヤ人観の変遷を検討した宮澤正典およびベン゠アミー・シロニーを始めとして(5)、幕屋運動そのものに焦点を当てた宗教社会学者のマーク・マリンズ(6)、そしてより最近ではユダヤ思想史専門の山本伸一や(7)、日本における景教観の変遷を詳しく検討したジェームズ・モリスも(8)、それぞれの視点から手島の思想と行動を考察している。それぞれ着眼点は異なるが、いずれの研究も共通して指摘しているのは、手島の神学における近代国家としてのイスラエルの位置づけである。 手島はもともと、内村鑑三(一八六一─一九三〇)が提唱した無教会主義に共鳴していたが、一九四八年に自身の運動として「キリストの幕屋」を起こした。宮澤によれば、敗戦後に故郷の熊本に帰った彼は、地方学校の廃止をめぐって占領軍と衝突し、逮捕を逃れるために阿蘇山の洞窟で二週間も過ごした。そこで、正しい聖書の教理を広めるようにと命ずる神の声を聞いたらしく、その神秘体験を経て、幕屋運動を始めようとした(9)。彼の活動を戦後キリスト教史の発展の上に捉えるマリンズは、無教会派との決別は癒しおよび異言など、ペンテコステ派的特徴の導入のために行われたものだと説明しており(10)、つまり手島はそのキリスト教体験において、神秘的な要素に重点を置いていたのである。 ただし、決別したとはいえ、手島は無教会派における原典主義の態度を継承し、ヘブライ語やギリシャ語などの原語で聖書の言葉を考えることも重視していた。他方で、一九六一年にイスラエルを訪問して以来、そこにまた新たな要素が加わった。すなわち、イエスやその使徒が生きたとされるイスラエルの地を体験し、かつ彼らのユダヤ教の伝統を知ることの重要性である。こうして「原始福音」への回帰を唱えた手島は、典礼に関しても十字架をユダヤ教のメノーラーに置き換え、ヘブライ語の歌を導入した。そして一九六四年から、幕屋運動はイスラエルへの大巡礼を開始してこれを毎年続け、一九六七年六月の「六日戦争」(第三次中東戦争)の際には、イスラエル援助のため自己の弟子を派遣すらした。そのことによって手島はイスラエルの人々に感謝され、彼の名前はユダヤ民族基金の「ゴールデン・ブック」に記載されることとなった(11)。 以上のように、イスラエルへの憧れが強かった手島が最も探求していたのは、恐らく、西洋を介さないキリスト教の体験である。その信仰のルーツへ回帰する際に手島が着目したのは、「日本人」のアイデンティティのルーツであり、記紀神話など神道の古典がそこで重要な役割を果たすようになった。つまり、ユダヤ教への憧れと、日本精神への愛着という両要素をベースとしていた手島の思想は最終的に、多くの他の論者と同じく秦氏の正体をめぐる思索へとつながっていった。それが以下に見る通り、彼の聖徳太子論をも生み出すことになったのだ。 †佐伯好郎の後継者 手島は最晩年にあたる一九七一年に、『太秦ウズマサの神──八幡信仰とキリスト景教について』を幕屋運動の「東京キリスト教塾」から発表する。三〇頁ほどの短いパンフレットで、今となっては極めて入手困難な著作である。だが、初版の刊行後に版を重ね、世界各地にその英語版も配布され(12)、それなりの影響力をもったようである。その内容はタイトルの通り、秦氏が崇拝していたとされる「八幡の神」の正体をめぐる考察であり、その作業にあたって手島は基本的に、先行者である佐伯好郎の秦氏論を大きく踏まえている。実際、手島は同書の「はしがき」で、かつて佐伯に「秦河勝がユダヤ人の景教徒」という説の「実証」を頼まれたと語るが、自身の「無学」のためにそれを断り、「他の若い人を推薦した」という(13)。 その「他の若い人」は何者だったのか気になるところだし、かつ最晩年の段階で、発表されてから約半世紀も経過した自説の実証がまだ必要であると感じた佐伯の姿勢も興味深い。ただし、依頼を断ったはずの手島が『太秦ウズマサの神』で実際に佐伯論の「実証」を試みており、佐伯と二人の写真(図3‐1)を掲載しているところからも、自身を佐伯の後継者に見立てようとしている印象を与える。 手島は前章で取り上げた佐伯の一九六一年論考「日本及び三韓経由の原始キリスト教について」を参照し、そして帰化人としての秦氏が主に崇拝していたのは八幡神であるとしつつ──無論この前提自体に問題もあろうが──次のように述べている。 彼ら〔秦氏〕の尊崇する神を単に「大神」と呼んだり、ヤハダ(八幡)と称したりしていました。秦(波陀)氏の神という意味でしょう。またはユダ─の変音でしょう(五頁)。 全国に「八幡」Yahataの名称を有する神社が〔平安時代の段階で〕296カ所以上あり。…「Yahada又はYawataという言葉は、Ya-fu-da(Yufuda)ユダヤ人とかユダヤ教の発音」と佐伯博士は語られた(一一頁)。 手島は「神」に「ヤハ」というルビを振り、それは『旧約聖書』において、モーセに啓示された神の名を指す言葉の「ヤハウェ」のことである。「ヤハダ」はすなわち「秦のヤハウェ」であるか、あるいは佐伯が指摘する如く、単に「ユダヤ」の変音だ、ということである。いずれにしても「八幡」とは聖書で描かれる唯一神であり、その信仰は九世紀の日本列島で広く行われていたとの主張である。手島はここまで、基本的に佐伯が最晩年に示した説を繰り返しているだけに思えるかもしれないが、実のところ、それをよりセンセーショナルに展開させている。
†「古神道」とヤハタ信仰の一致
手島は、平安期の段階で全国的に広がっていた「八幡=ヤハタ」(あるいは「ヤハダ」)信仰を、従来考えられてきたよりも大きな現象として捉える。いわく、ユダヤ教からキリスト教への初期改宗者とされる秦氏は、日本的一神教としてのヤハタ信仰を全国的に広めるよう努力した。つまり、いわゆる「古神道」とヤハタ信仰は基本的に一致するのだ。その証拠としては例えば、「古神道の神社には、他の寺院や教会と違って何ら偶像を置」かないが(一七頁)、『日本書紀』で描かれている通り、聖徳太子が秦河勝に与えたとされる仏像という例外がある。手島は、その仏像は広隆寺の宝冠弥勒であるという説を前提とし、新羅からもたらされたその「御顔は、朝鮮人でも、日本人でもな」く、「中央アジア人の顔である」と述べている(一六頁)。 また手島は弥勒信仰の起源について、それはゾロアスター教の光明および大乗仏教の阿弥陀に触れたユダヤ教のメシア思想から成立し、紀元二世紀末に発生したものとする。渡来の段階ですでに「ヤハダ宗」を拝んでいた秦氏は、進んで弥勒的なメシア信仰も受容した。宇佐八幡社の弥勒寺はその証拠である。なお、ヤハタ信仰と弥勒的なメシア信仰の「融合」をめぐって、彼は次のように説明している。 すでに古代のヤハタ信仰は変質してしまい、八幡社には応神帝や神功皇后が祭神として一般に祭られだしたことに対して、セム系の絶対唯一神の宗教を奉ずる秦氏としては不快に思い、信仰の修正が子孫のためにも必要だったのではないかと思います(一七頁)。 すなわち、広隆寺の宝冠弥勒は「ヤハダ宗」の本質を取り戻すために必要とされたというわけだ。そしてその仏像を秦氏に与えたのは、聖徳太子である。手島は、太子が秦氏によるヤハタ信仰の全国普及という政策に関わったかどうかも、「ヤハダ宗」の困難を認識した上で弥勒像を与えたのかどうかも、明言しない。ただし少なくとも、この重要な展開に太子が影響したという印象は読者に与えられ、太子政権と秦氏の宗教政策とのつながりも間接的に示される。
なお、平安期へ移行する過程で変質しつつあった古神道を、秦氏は「糾す」ことも試みた。『日本書紀』における河勝と「常世神」のエピソードがその例として挙げられる。本来は八幡神に関係があり、「尊厳な信仰」であった常世神が、「現世利益を求める淫祠邪教に堕落した」ため、河勝があのように「宗教界の粛正に乗り出したわけ」である。手島によれば、これによって「ウズマサ」──すなわち「イエス・メシア」──の「御名は、神々の神として全日本に大きく聞こえるようになった」のである(二一頁)。 †「日本人」キリスト者のアイデンティティ問題 手島がこの秦氏の事業を「宗教改革」(二一頁)と呼んでいるところもまた興味深いが、その「改革」はやがて、未完成なもので終わってしまう。しかし、その歴史から現代の日本人キリスト者が学ぶところも多い。山本伸一が指摘するように、「かつて神道のなかに一神教を実現しようとした秦氏の志を範として、ユダヤ人イエス・キリストが語った教えを日本的な精神のもとによみがえらせることこそ」、手島の運動たる「幕屋の使命」なのである(14)。換言すれば、手島の秦論は、戦後日本における「日本人」キリスト者のアイデンティティ問題の解決を試みたものとして、位置づけることもできよう。
なお、手島説は二十一世紀の現在に連なる太子関連の奇説の重要な土台を提示しているので、それを確認しておきたい。古神道はユダヤ教の影響下にあり、もともと一神教的なものだったという発想は、昭和初期の中心的な日ユ同祖論者たる小谷部全一郎などの著作に見られるもので、戦後になっても、例えば米国サンフランシスコ市在住の日本人プロテスタント牧師・川守田英二(一八九一─一九六〇)の業績に確認できる。川守田は一九五六年に膨大な『日本ヘブル詩歌の研究』全二巻を刊行、その題目からも想定できるように、現代日本語にヘブライ語の詩歌を見出そうとした。彼は、天皇家を始めとする日本の人々はもともと、イスラエルの神「エホバ」を信仰していたと述べるが、聖徳太子および蘇我馬子の事業によって仏教が導入されると一つの「宗教改革」が起き、「エホバ神道」が次第に忘れられ、ただし一部の民謡などに残ったとされる(15)。
直接の言及も含め、川守田への柳田国男(一八七五─一九六二)の民俗学の影響は明らかで、仏教伝来は上記のように、固有の日本文化の有様をその終焉に向かわせるものである。すなわち、川守田は一神教的古神道に対する聖徳太子の影響を明らかに否定的に捉えているが、本節で確認した通り、手島は必ずしもそうでない。むしろ、手島説では、秦氏時代の「宗教改革」の事業に聖徳太子が間接的な役割を果たしたことになっている。
第二節 梅原猛と怨霊説の登場 これまで見てきたように、聖徳太子関係の奇説は基本的に、秦氏との関係で展開してきた。しかし一九七〇年代の初頭に、秦氏とは必ずしもリンクしないような太子論が登場する。それは「法隆寺=太子鎮魂の寺院」と唱えた梅原猛(一九二五─二〇一九)の怨霊説である。これは学説としては発表当初から古代史の専門家らに反論されているが、太子論としてはオリジナリティに富むものであった。梅原の怨霊説は、今も多くのトンデモ説のインスピレーションの源であるため、その内容と影響力について少し考えてみたい。 前章でも簡単に取り上げたが、聖徳太子研究者として有名な人物に小倉豊文がおり、彼は一九六三年に、戦後の太子研究に大きく影響した『聖徳太子と聖徳太子信仰』という作品を綜芸舎から刊行している。戦中から太子研究に取り組んでいた小倉は、九年後の一九七二年に同書の増訂版を発表し(16)、その著作の「序記」でなかなか重要なことを指摘している。すなわち、長年にわたって聖徳太子の実像を求め続けた小倉はその作業を断念し、「人間太子」の可能性は歴史研究よりも恐らくフィクションの中にあると述べているのだ(17
1 浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社、一九八三年)。
2 宮沢正典『ユダヤ人論考』(新泉社、一九七三年)、一七六頁、そしてベン・アミー・シロニー『ユダヤ人と日本人──異端視され、迫害されながら成功した両民族』(仲山順一訳、日本公法、一九九三年)、三四八─三四九頁。 3 マーヴィン・トケィヤー「ユダヤ人と日本人」(連載第7回、『実業の日本』四─一、一九七二年四月)、九六─九七頁。 4 M・トケィヤー『ユダヤと日本──謎の古代史』(箱崎総一訳、産業能率大学出版部、一九七五年)、八六─九〇頁。
5 宮沢『ユダヤ人論考』、一八五頁、シロニー『ユダヤ人と日本人』、三四二─四五頁。 6 マーク・R・マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(高崎恵訳、トランスビュー、二〇〇五年)、一五七─一六九頁。 7 山本伸一「キリストの幕屋と日猶同祖論」(『宗教研究』八七巻別冊、二〇一四年)、三一三頁。 8 James Harry Morris, "Rethinking the History of Conversion to Christianity in Japan: 1549-1644," (Ph.D. Dissertation, University of St. Andrews, 2018), p. 346. 9 宮沢『ユダヤ人論考』、三四三頁。 10 マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』、一六〇頁。 11 シロニー『ユダヤ人と日本人』、三四四─四五頁。 12 Ikuro Teshima, The Ancient Jewish Diaspora in Japan, the Tribe of Hada: their Religious and Cultural Influence (Tokyo Bible Seminary, 1971)など。
13 手島郁郎『太秦ウズマサの神──八幡(やはた)信仰とキリスト景教について』(東京キリスト教塾、一九七一年)、三頁。以下、本節における頁番号のみの引用は、この著作からである。
14 山本「キリストの幕屋と日猶同祖論」、三一三頁。 15 川守田英二『日本ヘブル詩歌の研究 下』(日本YMCA同盟出版部内・日本ヘブル詩歌出版委員会/教文館、一九五六年)、五一五─一八頁。 16 この点については仏教学者の石井公成が以前から注目しており、彼の研究から大きく示唆された。例えば「人間聖徳太子の誕生──戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷」(『近代仏教』一九、二〇一二年)、八〇頁の他、同「聖徳太子といかに向き合うか──小倉豊文の太子研究を手がかりとして」(『教化研究』一六六、二〇二〇年)も参照。
17 小倉豊文『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、一九七二年)、一七頁。
18 菅原潤『梅原猛と仏教の思想』(法藏館、二〇二二年)、五頁。 19 梅原猛「私の履歴書」(白川静・他『知の越境者──私の履歴書』日本経済新聞出版社、二〇〇七年)、三九〇頁。初出は二〇〇一年五月『日本経済新聞』連載。 20 梅原猛『隠された十字架──法隆寺論』(新潮社、一九七二年)、一頁。 21 梅原『隠された十字架』、二頁。 22 石田による調査結果の内容は、彼の「法隆寺若草伽藍址の発掘に就て」(『日本上代文化の研究──聖徳太子一三二〇年御忌奉讃記念論文集』法相宗勧学院同窓会、一九四一年)に確認できる。なお、この一九三九年の発掘の背景については、菅谷文則『甦る法隆寺──考古学が明かす再建の謎』(柳原出版、二〇二一年)の七九─八八頁に詳しい。これらの文献については、石井公成から示唆を得た。同「校正中に亡くなった考古学者が残した法隆寺再建論」(二〇二二年十二月九日公開、ブログ『聖徳太子研究の最前線』、https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog、二〇二三年三月三十日アクセス)。 23 この一九六八年からの調査の様子については、石田茂作『法隆寺雑記帖』(学生社、一九六九年)、二八五─二九四頁参照。なお、法隆寺の「謎」も取り上げるこの石田の作品は、『隠された十字架』を構想中の梅原に大きな影響を及ぼした。 24 梅原『隠された十字架』、三九八頁、四〇六頁。 25 梅原『隠された十字架』、三九九頁。 26 田村円澄「『隠された十字架』に反論する──梅原猛氏の大胆な仮説に 上下」(『東京新聞』夕刊、一九七二年六月二十~二十一日、四面)。なお、本論は「『隠された十字架』の問題点」というタイトルの下、田村の『西と東』(永田文昌堂、一九七四年、二六─三六頁)に収録されている。 27 坂本太郎「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』三〇〇、一九七三年五月)。後に「法隆寺怨霊寺説について(一)」として、同『日本古代史叢考』(吉川弘文館、一九八三年)収録。 28 梅原『隠された十字架』、四三九頁。 29 坂本太郎「法隆寺怨霊寺説について(二)」(前掲『日本古代史叢考』収録)、一七六頁。なお、蘇莫者の大陸的起源については、石井公成「梅原猛の珍説(1):太子の怨霊である蘇莫者は蘇我の莫(な)き者」(前掲ブログ『聖徳太子研究の最前線』、二〇二〇年十二月十九日公開、二〇二三年三月三十日アクセス)も参照。 30 直木孝次郎「わたしの法隆寺」(同『わたしの法隆寺』塙書房、一九七九年)、四三頁。初出は「いかるがを愛する会」の機関誌『ぽっぽ』(一九七四年五月~七五年二月)に連載。 31 直木孝次郎「法隆寺は怨霊の寺か──梅原猛氏の『隠された十字架』批判」(歴史教育者協議会編『危険な日本史像とその背景──「新編日本史」の分析と批判』あゆみ出版、一九八六年)、七二─七五頁。なおこのことはより分かりやすく、石井公成によって説明されている(「梅原猛の珍説(2):救世観音の頭に打ち込まれた呪いの釘」前掲ブログ『聖徳太子研究の最前線』二〇二〇年十二月三十日公開、二〇二三年三月三十日アクセス)。 32 梅原猛「聖徳太子」(『聖徳太子鑚仰』総本山四天王寺、一九七九年)、一〇九頁。 33 梅原猛『聖徳太子Ⅰ──仏教の勝利』(小学館、一九八〇年)、九頁。 34 梅原猛『塔』(集英社、一九七六年)、七頁。以下、本節における頁番号のみの引用は、『塔』からである。 35 多田一臣「梅原猛氏の怨霊史観──『水底の歌』を中心に」(『ユリイカ』五一─五、二〇一九年四月臨時増刊号)、一二一頁。 36 多田「梅原猛氏の怨霊史観」、一二八頁。 37 碧海寿広「梅原猛の仏教思想」(『ユリイカ』五一─五、二〇一九年四月臨時増刊号)、二一九─二二七頁。 38 前掲菅原『梅原猛と仏教の思想』参照。
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