2024年6月19日水曜日

新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦

日本に景教を紹介した人々には何人かあり、その人物について取り上げたいと考えています。その一人が景教博士の異名を持つ佐伯好郎(1871〜1965)です。佐伯は1935(昭和10)年に『景教の研究』という千ページを超える大型版を著しましたが、最初のものは1911(明治44)年の『景教碑文研究』でした。


https://dl.ndl.go.jp/pid/824420/1/1


英文でも発表しています。景教研究の動機は『景教の研究』の自序で述べています。彼は最初ローマ法を学び、ユダヤ人研究を学んで、景教の研究に入ったと述懐しています。

彼は1871(明治4)年、広島県廿日市(はつかいち)市に生まれ、19歳の時に英国聖公会の東京築地の聖パウロ教会で三上九満三牧師より洗礼を受け、内村鑑三とも親交があり、のちに交わりを断っています。漢学は幼少の時から学び、1890年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、93年に渡米。カナダのトロント大学で言語学・英文学を学びました。欧州にも渡って帰国後、英語教師をし、33歳の1904(明治37)年春から景教や中国研究に転じ、数人の研究者たちの影響により、08年にペリオが発見した景教三威蒙度讃ほかの景教諸経典を英訳で発表。『景教の研究』を出版するに至ります。その書をひも解けば、漢文や漢籍に精通し、シリア語にも造詣が深く学識豊かといえるほどです。

彼が景教関係の書物を世に出すに至ったのは、1931(昭和6)年7月からの中国旅行中に、北京の房山区に遺る十字寺跡からシリア語の詩篇の句が彫られた石碑2基を発見したことから始まります(拓本画像)。そして同年11月に東方文化学院東京研究所所員に命じられ、研究の援助を受けて中国各地を回ることができたことや、多くの学識ある研究者に恵まれていたことを述べています。

新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦

『景教の研究』(937ページ)に掲載されている十字寺碑のシリア語付き大理石の拓本画

佐伯は、東京帝国大学と早稲田大学から博士号を授与され、景教研究者として名をあげましたが、実は教育者で政治家でもありました。上京して衆議院議員の秘書となるも政界に失望し、専門学校を退学しつつも英語やギリシャ語、ラテン語を学んでいます。そして留学し、学びを深めます。

帰国後、幾つかの大学や教育機関で教え、学長も経験しました。そして、晩年の76歳(1947[昭和22]年)には廿日市町長に就任しましたが、「自治というのはむずかしい」とその経験を語っています。

一方で、歴史的証拠もないのに「日猶(ユダヤ)同祖論」(日本人の先祖とユダヤ人の先祖は同じとの説)を述べたことは、賛否論争を引き起こす結果となりました。佐伯から話を聞いた服部之総のメモ書きに、ユダヤ人の注意を日本に向けさせユダヤ人の大資本を導入するために、日本にユダヤ人が来たとか、景教徒が来たとの説を述べたとあります。その参照として「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(明治41年、『地理歴史』に発表)があります(『佐伯好郎遺稿並伝上』[法本義弘編、大空社、1996年]309ページ〜)。

彼は94歳で息を引き取り、葬儀告別式は菩提寺の蓮教寺で執り行われました。葬儀がどこで行われるかはそれぞれであると考えますが、受洗したキリスト者ならキリストの名の下でなされるのが最後の神の栄光を現す姿と考えています。そのことを考えますと、仏式で行われたことは残念といえます。

著者は、佐伯好郎の景教関係の書物(写真参照)から多くのことを参考にし、今も学ぶことができていることに大いに感謝しています。

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※ 参考文献
景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教
佐伯好郎著『景教の研究』(名著普及会、1935年)
佐伯好郎遺稿並伝上・下』(法本義弘編、大空社、1996年)

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