人吉地下室遺構の謎に迫る 人吉市でシンポ
人吉城跡(熊本県人吉市)の敷地内にある地下室遺構は何だったのか――。その謎に迫るシンポジウムが9月24日、同市で開かれた。遺構は、人吉・球磨を治めた相良藩の家老、相良清兵衛(せいべえ)の屋敷跡で約25年前に発見され、ユダヤ教の身を清める沐浴(もくよく)施設「ミクヴェ」ではないかとの見方が有力とされてきた。シンポでは、3人の識者が見解を発表。「ミクヴェ」説を疑う見方も出たが、ほかの説も決め手を欠き、謎解きは今後に持ち越しとなった。
妙見信仰との関連に迫る 東大准教授・岡美穂子氏
「いろいろ文献を研究した結果、別の結論にたどりつきつつある」。東大准教授の岡美穂子氏(日本キリスト教布教史専攻)は、ユダヤ教のミクヴェ説を迂回(うかい)して、北極星や北斗七星を神格化した妙見信仰と清兵衛との関係から地下室遺構の謎に迫る見解を説明した。妙見信仰にも神官の沐浴があることなどの状況証拠をいくつか挙げた。
岡氏は、戦国時代から江戸時代初期にかけて九州などにいたキリスト教宣教師や南蛮貿易商人の中に、ポルトガルやスペインでキリスト教に強制改宗された「改宗ユダヤ人」(コンベルソ)が多数いたとされることに着目。清兵衛が京都から招いた易学者の鈴木寿庵(じゅあん)の存在を紹介したうえで、寿庵がコンベルソからユダヤ教を学び、妙見信仰を母体にユダヤ教の儀礼を取り入れて清兵衛に伝えた可能性に触れた。
また、メキシコの銀山のある町で近年、人吉城跡の地下室遺構と似たミクヴェが発見されたことを紹介。清兵衛が隠居したあさぎり町にも銀山があり、相良藩がそこから産出された銀を使って長崎で高価な買い物をした可能性を指摘した。
仏教者が使っていた場では 山形大名誉教授・松尾剛次氏
山形大名誉教授の松尾剛次氏(日本宗教史専攻)は地下室遺構について「沐浴の場であることは間違いないが、ユダヤ教ではなく、仏教者が使っていた場ではないか」と、ユダヤ教のミクヴェ説を否定した。
13世紀後半~16世紀の中世で、九州も含めて最も勢力があったといわれる律宗(りっしゅう)を興した鎌倉時代の僧、叡尊(えいそん)を紹介。叡尊は殺生禁止などの戒律を重視したほか、寺内に漢方式病院を建設、ハンセン病患者らの救済にも取り組んだ。キリシタンと勢力を争い、キリシタン大名に寺院を破壊されたこともあるという。
松尾氏は、地下室遺構が清兵衛や息子の屋敷の「持仏堂」などの地下にあることを踏まえて、「律宗の僧たちと沐浴に使ったのではないか」と話した。
本来の使い方をしたか疑問 東大名誉教授・市川裕氏
東大名誉教授の市川裕氏(ユダヤ教専攻)は3年前、人吉市の郷土史家らから地下室遺構がユダヤ教のミクヴェかどうかの判断を依頼された。一昨年に現場を見て「わき水などの流水、冷水、全身つかることが可能という条件が整っている。ユダヤ教徒でもミクヴェとして使うことはできる」と感じたという。
だが、人吉に日本人の大名とつながりがあるユダヤ教徒はいたのか? キリスト教に改宗させられたコンベルソがまたユダヤ教に戻れば、ポルトガルなどで異端審問にかけられ処罰されるような時代だった。
また、市川氏はミクヴェが、ユダヤ教の夫婦間の子作りを促す目的にもつながっているとみているが、その考えは当時の日本人に理解されていたのか?
考えた末、「設備の点ではユダヤ教の条件を備えているから、沐浴施設という意味でミクヴェといえる。だが、ユダヤ教徒が本来の目的で使っていたのかどうかはわからない。たぶん違うと思う」との結論に達したという。
「ミクヴェ説」に慎重な姿勢を示す一方で、人吉での地下室遺構の存在が「15~17世紀の大航海時代の世界と何らかの形でつながりを持っているというのが、一番大事な意義じゃないか」と強調した。
約250人が傾聴
会場には県内外から約250人が集まり、識者の見解に耳を傾けた。
ユダヤ教のミクヴェ説を否定し、仏教者たちが沐浴に使ったのではないかという松尾氏の見方について、郷土史家の一人は朝日新聞の取材に、「当時勢力の大きかった律宗の僧たちが沐浴に使っていたのなら、全国各地に地下室遺構のような場があるはずだが、人吉でしか見つかっていないのはなぜか」と疑問を示した。
また、地下室遺構が秘密の場所のように隠されていたことから、「仏教僧たちと一緒に沐浴するなら、隠す必要はなかったはずだ」と指摘する声もあった。
岡氏が提示した清兵衛と妙見信仰との関係についても、聴衆の一人は「妙見信仰に関係のある神社などの施設で人吉の地下室遺構に似た施設が見つかっていない以上、関係があるのかわからない」と納得していないようだった。(村上伸一)
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<地下室遺構> 国指定史跡の人吉城跡の整備に伴う発掘調査で、1997年から98年にかけて偶然見つかった。人吉・球磨地域を約700年にわたって治めた相良家の家老職、相良清兵衛(1568~1655)の屋敷跡で、持仏堂の地下に石積みの壁に囲まれた南北5・2メートル、東西6メートルの空間があり、深さ2・3メートルの浴槽(階段付き)のような施設があった。約120メートル離れた清兵衛の息子の屋敷跡でも似た構造の地下室遺構が発見された。
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