2024年6月29日土曜日

天皇の王冠は「イスラエルとユダの統一紋章」! 古代日本史・古代イスラエル/ユダヤ史ファンにとって必読のバイブルである。


https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/aw/review/4198618879/R3JKEH367B4IZN

山中英雄
2015年10月24日に日本でレビュー済み
 ノーマン・マックレオドは明治初期の日本に約12年間滞在したスコットランド商人で、「日本ユダヤ同祖論」を説いた人物としても有名である。本書は国会図書館に埋もれていたノーマン・マックレオド著「日本古代史の縮図」掲載の「挿し絵集」300点余を紹介し、いわゆる「日ユ同祖論」の論点の幾つかを解説したものである。 本書の興味ポイントをまとめると下記のようになるが、最大のポイントは、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」は、古代日本に古代北イスラエル国王家エフライム族が渡来し、その後に秦氏等のダビデの血をひくユダ族が渡来して、イスラエルとユダ統一の天皇家になった物的証拠であり、今も皇室に保管されていると思われることである。
 私見だが、平安京遷都した桓武天皇以降の天皇家はイスラエルとユダの統一王家であり、平安時代以降の日本は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)の再興と思われる。つまり、平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)の再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿で、内宮には新約聖書のイエス・キリスト、外宮には旧約聖書の唯一神ヤハウエが祀られている。 この時に、イスラエルとユダの統一王家実現を記念して、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」が製作されたと思われる。
 これ以外にも数多くの興味深い古代イスラエル/ユダヤ関連情報が満載されており、古代日本史・古代イスラエル/ユダヤ史ファンにとって必読のバイブルであり、このレビューが今後の購読者の参考になれば幸いです。

(1)挿絵図は当時の日本人画家が描いたものだが、繊細・精緻でよく書けている
 特に、天皇が使った王冠、京都御所清涼殿の天皇座前にある獅子とユニコーン像、天皇即位式に使われる高御座のユニコーン像などは、どのようなツテで描いたのか不思議であるが、恐らく政治家、役人などに多額の賄賂を使ったのだろうね。

(2)驚くべき日本語とへブル語の類似性
 京都の護王神社で神官見習いをしたユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、日本語にはへブル語起源の言葉が非常に多く、日本語とへブル語の間に、意味も発音も似通った5000以上の類似語を見出している。本書には、その内の代表的な約100の日本語とへブル語の類似例が紹介されているが、双方の発音と意味がよく似ている言葉が多いのに驚かされる。やはり、日本語(大和言葉)起源のひとつはへブル語だね。

(3)「ひい、ふう、みい・・・・」がへブル語とはびっくり!
 ユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、日本語で数をかぞえるときに用いる「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とうお」はへブル語で、すこしの訛りを修正すれば、「ひゃ、ふぁ、み、よつ、ついあ、ま、なーね、やあ、かへな、たうお」となり、「ヒャファ、ミ、ヨツイア、マ、ナーネ、ヤカヘナ、タウオ」と発音される。 その意訳は、「誰がその美しいかた女神を連れ出すのでしょう。彼女が出てくるために、誘いにいかなる言葉をかけるのでしょう」あるいは、「たが、そのうるわしめを出すのやら。いざないに、いかなる言葉をかけるやら」という美しい詩文になる。
 これは女祭司コヤネが女神アマテラスを岩屋戸から出そうとした言葉としてぴったり当てはまっているのである。日本人は神話とこうした言い方の関係を忘れ、ただ数をかぞえるときの言葉として用いるようになったが、これは古代の日本にへブル語を理解する人がいた証拠だと主張。単なる数をかぞえるときの言葉と思っていたが、全く驚きの意味だね! 神話もちゃんと意味があるのだね。神話時代の日本人は普段からへブル語を使っていたのかな。。。。
そうすると、これはへブル語が日本語(大和言葉)起源のひとつである証拠だね。

(4)八咫鏡の裏面にある文字はへブル語?
 八咫鏡裏面の文字の解読については二つの説がある。一つはヘブル語とする説であり、もう一つは古代日本の神代(じんだい)文字の一種「ヒフ文字」とする説である。
 元海軍のエリート将校の矢野祐太郎氏は細心の注意を払って八咫鏡裏面の模様を書き写したという。だがヘブル語を知らない彼のことだから、どこまで正確に書き写せたか、という問題もある。それに八咫鏡は非常に古いものである。若干の傷みや、しみ等もあるであろう。そのために、もとの模様を読みとるのが難しい部分もあったに違いない。現代ヘブル語と古代ヘブル語のアルファベットの形は若干違う、という問題もある。 古代ヘブル語も地域によってまた違う。これらの問題もありこの写しの中央の七文字がはたして本当にヘブル語なのかということは、まだ断定できないのが実状である。矢野祐太郎氏が伊勢神宮の八咫鏡を見て書いたという写し円内の文字はエヘイェ・アシェル・エヘイェ(我は在りて有る者)? それともオール・ヤハウェ( )?

(5)古代日本に北イスラエル国王家エフライム族が渡来して古代天皇家になった証拠
① 旧約聖書と日本神話の類似性
 日本の神話におけるニニギ尊からウガヤフキアエズ尊、神武天皇に至る系図は、旧約聖書におけるヤコブ、エフライム、ヨシュアに至る系図に物語の骨子が瓜ふたつである。
  
② キルギス人の伝説
 中央アジアのキルギス人に「マナス叙事詩」があり、キルギス人はマナセ族の子孫であることを示している。その伝説によれば、昔ふたりの兄弟がいて、ひとりは山の方へ行ってキルギス人の先祖となり、もうひとりは海の方へ行って日本人の先祖になった、つまり、キルギス人と日本人は兄弟という。
 この伝説は日本にある「山幸彦・海幸彦」によく似ており、双方の起源は同じで、両民族の先祖は繋がっている。ヨセフの息子はマナセとエフライムであり、キルギス人がマナセの子孫ならば、そこから分かれた日本人の先祖となった兄弟はエフライムであり、エフライム族が日本にやってきたことになる。

③ 神武天皇の和風諡号はエフライム族出自の証明
 神武天皇の和風諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」であるが、ユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、これはヘブル・アラム語で、すこしの訛りを考慮すれば、「カム・ヤマトウ・イヴリ・ベコ・シュメロン・マクト」と発音され、その意味は、「サマリアの王、ヤハウエのヘブル民族の高尚な創設者」あるいは「ヤマトの創始者はヘブル人であり、その王国サマリアから渡来した」である。サマリアとは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家である。 つまり、神武天皇は北王国イスラエル=サマリアから渡来した王家のヘブライ人であり、日本の天皇家はエフライム族の王統を継いだものということになる。

④ 天皇家のシンボル「獅子とユニコーン」
 ユニコーンは頭に角がひとつある動物で、架空の動物、想像上の動物だが、日本の皇室に古くから伝わっている。 京都御所の清涼殿にある天皇の座の前には獅子とユニコーンの像があり、天皇の即位式に使われる高御座にもユニコーンのデザインがある。 
 また昔、天皇が使った王冠にもユニコーンの図柄があった。 麒麟と獅子が盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている図柄になっています。ノーマン・マックレオドは、この麒麟を一角獣のユニコーンと捉え、ユニコーンが北イスラエル王国の王家の属するエフライム部族の紋章・シンボル、そして、獅子が南ユダ王国の王家の属するユダ族の紋章・シンボルであることから、この図柄を「イスラエルとユダの統一紋章」と解しました。
▼天皇の冠は獅子とユニコーンが盾を左右から支えている図柄で、「イスラエルとユダの統一紋章」である。 その中央上部は天皇の冠でユニコーンが描かれている。 
▼王冠の下には十六菊花紋と12頭の獅子がいる(10個の獅子と2個の獅子)。 
これはイスラエル12部族に由来する。
▼ユニコーンの起源は古代イスラエルにあり、もともとエフライム族とマナセ族が属するヨセフ族の紋章、シンボルだったのである。 ヨセフの末子相続人のエフライムがこの紋章を引き継いでいる。
▼京都御所の清涼殿にある天皇の座の左右に獅子とユニコーンがあった。
▼天皇即位式に使われる「高御座」にユニコーンのデザインがある。
▼古代の京都御所の門には、10頭の獅子、2頭の子獅子、統一イスラエルの紋章、雄獅子、雌獅子、ユニーコーンが門に描かれていた。また、雌牛バアル(金の子牛)の2つの像が見えるが、これらは疫病が発生したときに、それを遠ざけるために置かれたものである。現在は焼失して存在していないが、西本願寺の唐門が似ていると言われている。

 獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」は、古代日本に古代北イスラエル国王家エフライム族が渡来し、その後に秦氏等のダビデの血をひくユダ族が渡来してイスラエルとユダ統一の天皇家になった物的証拠であり、今も皇室に保管されていると思われる。
 これは私見だが、平安京遷都した桓武天皇以降の天皇家はイスラエルとユダの統一王家であり、平安時代以降の日本は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)の再興ではないかと思われる。
 なぜならば、歴代天皇で桓武天皇のみ煌びやかな衣装と王冠の肖像画、桓武天皇は平安京遷都に際し、イスラエル人が一貫して行っていた「旧約聖書」の「創世記」から登場する儀式の燔祭(ハンサイ;主に羊などの動物を祭壇で灰になるまで焼いて神に捧げる儀式)を行い、更に、エルサレムはへブル語で「平安な都」の意味、つまり平安京である。
 あるブログによれば、実は、このユダヤ教の燔祭を、かのソロモン王が行っているのだ。しかも、エルサレム城とソロモン神殿が完成したときに、である。 「王はすべての民と共に主の御前にいけにえをささげた。ソロモン王は牛二万二千頭、羊二万二千匹をささげた」(「列王記・下」第7章4節)
 数は別にして、まったく同じである。桓武天皇と行った儀式は同じである。城の完成の記念として行われた儀式という性格もまったく同じだ。秦氏は原始キリスト教徒エルサレム教団の南朝ユダ族で、この日本にエルサレム城=平安京を建設しようとしたのだ。だからこそ、あれほどまでに躍起になったのだ。一族をあげて、なんの見返りも期待せずに、あれほどの巨大事業を行ったのは、まさしく神聖な信仰からくるものだったからなのだ。しかし、平安京が日本のエルサレム城だとすると、どうしても腑に落ちないことが、ひとつだけある。平安京とは宮都である。秦氏の都ではない。秦氏が建設したのには違いないが、秦氏の首長「太秦」のための都ではない。あくまでも天皇の都である。当時であれば、桓武天皇のために建設された都なのだ。
 ところで、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されおり、日本の公式記録によって皇室に百済の血が入っていることが確認できている。中丸薫著「古代天皇家と日本正史」によれば、飛鳥~奈良時代の天皇はすべて百済・新羅系天皇で、桓武天皇祖父の天智天皇は百済・武王の王子と主張している。この場合は現天皇家始祖の百済・武王出自が問題であるが、高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)次男の百済初代温祚(オンソ)に繋がれば、扶余族~北イスラエル王国王家エフライム族出自となり、神武天皇の古代天皇家と同じ出自になる。
 従って、桓武天皇の時またはその前に、ダビデの血をひくユダ族の秦氏の血が天皇家に入ってイスラエルとユダの統一王家が実現したので、秦氏は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興であるエルサレム城の平安京建設と、ソロモン第3神殿の伊勢神宮建設に邁進したと思われる。
 つまり、平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿である。ちなみに、伊勢神宮の内宮には新約聖書のイエス・キリスト、外宮には旧約聖書の唯一神ヤハウエが祀られている。そして、この時に、イスラエルとユダの統一王家実現を記念して、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」が製作されたと思われる。
 日本の神社には入り口の左右に狛犬があり、今は左右両方とも「狛犬」と呼んでいるが、本来は右側を「獅子」、左側を「狛犬」、すなわち「獅子とユニコーン」である。ユニコーンの起源は古代イスラエルにあり、もともとエフライム族とマナセ族が属するヨセフ族の紋章、シンボルだったのである。
 神社の狛犬は必ず「阿吽」の形になっており、一方は口を開け「阿」、一方は口を閉じている「吽」。
この阿吽は、元来へブル語やギリシア語の「アーメン」の意味である。また阿吽は、日本語の「あ」「ん」に相当し、最初と最後の文字である。神社の狛犬のうち、「あ、阿」は獅子(ユダ族)であり、「ん、吽」はユニコーン(エフライム族)で、歴史はユダ族に始まり、エフライム族の回復によって終結するので、終わりの日に両族はひとつとなる。 
 エフライム族のシンボルはユニコーンで、東北アジアで頭に角のある動物は「鹿」しかいないので、「エフライム族の末裔の扶余族は鹿をトーテムとした」のではないかと思われる。

⑤ Y染色体DNAのD2系統の多い日本本土・琉球とチベット近辺にのみ、それぞれエフライム、マナセとしての古代ユダヤの伝統が受け継がれている。Y染色体DNAのD2系統を持ち、なおかつ、ユダヤ文化の独自性を持った大きなグループが、短期間で東の方へ移動して、朝鮮半島から日本に入って住みついた、としか考えようがない。このD2系統には、特徴的な変異:「YAP」(ヤップ)とよばれる挿入部分(300塩基)をもち、これは D、E系統のみに含まれ、他には存在しない。
 12部族のうちのエフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統であり、現在、エフライムを自称する民族は多いので、神様は、この特別な変異のしるしを エフライムとマナセだけに与えたのではないだろうか?  ヨセフ族、エフライム族にはリバイバルにかかわる特別な祝福が預言されている。
XY(ヨセフ)+ XX (YAP)(DE *:アセナテ)→ XYYAP(D:マナセ、エフライム)

⑥ エフライム族末裔の夫余族の「夫余はヘブル=フル」のヘブライの意味
▼大和民族となる前の呼び名のシウク、またはシウクシクは震えのことである。扶余のフヨ、またはプヨとはシウクと同じ意味のフルエ、またはフルからきている説がある。シウクが大和王朝や大和民族の古い呼び名なのかというと、それは朝鮮半島にあった騎馬民族の辰王朝が、わが国に渡って来たという説によっている。
 辰国の本当の名称はシウクであって、その王朝はシウクシと言った。意味はふるえる、または、ゆらゆらと言うことであるらしい。それを中国風にあらわしたものが辰国であり、辰国の名称と大和民族となる前の呼び名は同じシウク、またはシウクシクである。その後、辰王朝は九州へ渡ったが、残った分家と同系部族がまとまって作ったのが百済となった馬韓である。辰国のもう一つの跡地に、百済とは別に、百済から分かれた氏族と、秦の亡命貴族との合体によって作られたのが新羅である。
▼扶余(フヨ)はツングース語で鹿(プヨ)の意味としているが、これはずばり、ヘブライ人によくある名前のフルからきているのかもしれない。
▼古代北イスラエル王国エフライム王家の紋章は一角獣(ユニコーン)であり、北東アジアで角のある鹿が選ばれ、鹿(プヨ)=扶余(フヨ)となったのではないかと思われる。
▼高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)の長男沸流(フル=ヘブル)の子孫が出雲に渡来してスサノオノミコトが出雲王国を建国した。
▼スサノオノミコトの父は(フツ)、スサノオノミコトは(フツシ)、ニギハヤヒミコト(フル=ヘブル)として石上神宮に祭られていることから、スサノオノミコトの出雲王国とスサノオノミコト5子のニギハヤヒミコト建国の大和出雲王国は、エフライム族末裔による古代北イスラエル王国再興であり、この大和出雲王朝の末子相続人イスケヨリヒメに邪馬台国女王卑弥呼孫の磐余彦尊が婿入りして大和出雲王国と邪馬台国が統合した「大和朝廷」が成立し、磐余彦尊が「神武天皇」即位している。
そうすると、神武天皇の和風諡号の意味が理解できる。
 つまり、スサノオノミコトは高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)→満州の北扶余国王 解慕漱(ヘモス)・解夫婁(ヘブル)→古代北イスラエル王国王家エフライム族に繋がるが、「神武天皇」の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、 これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明している。

⑦ 万世一系の天皇家は世界で最も長く続いている王家
 聖書預言によれば、今もエフライム王室が古代から絶えることなく世界のどこかで存在していることであり、それに当てはまるのは日本の皇室しかない。北朝正統論の立場でいうと、北王国が正統なのは実は議論するまでもなく明白なのです。
 仮に聖書の記述を信ずるならば、イスラエル=ヤコブの嫡子ヨセフの嫡子エフライムと続く正系、嫡流が聖書に明記されているから。だからこそ北王国が「イスラエル」と呼ばれたのです。
 ユダ王国などは建て前上、反乱勢力にすぎない。失われた10部族=北王国の方が正統であり、この「失われた10部族」がそろわない限り南王国の子孫にすぎないユダヤ人が「イスラエル」を自称することは本来まちがっているのです。
 イスラエルによる「エフライムの、その子孫は、多くの国民となる」という預言は当たらなかったのだろうか。 いや、エフライム王家の血統である天皇家を擁く日本民族はその預言を実現している!
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