2024年6月19日水曜日

5章 大秦景教流行中国碑頌(2)


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5章 大秦景教流行中国碑頌(2)
         (前半の教義に関する部分の訳注)
【本文】
是於 
我三一分身景尊弥施詞 
戢隠真威同人出代 
神天宣慶 
室女誕聖於大秦 
景宿告祥 
波斯覩燿以来貢 
【訳】
しかし、私たちが信じ告白する三位一体神の分身、景尊・弥施訶(景教の尊主メシア)は、真の姿を隠し、人として現われてくださった。そのとき天使は喜んだ。 
大奏(ローマ帝国シリア領)において、聖なるメシアは室女(処女マリア)を通して降誕された。星も喜びを告げ、ペルシアからは星の輝きを見て宝物を捧げに来る者もいたほどであった。 
【注】
【是於】「是(これ)に於)おいて」。石碑の原文では「是於」までで切れている。しかし、「是於」を次の「我三一分身」へつなぐ読み方をする〔佐伯『景教碑文研究』138頁〕。 
【我三一分身景尊弥施詞】「我が三一の分身こそ、景尊弥施詞(めしあ)」。「三一分身」は、先の「三一妙身」と同じで、「父と子と聖霊」の三位一体から出ていること。「景尊」は景教の世遵のことで、「分身」は「独り子」を指す。「景尊弥施詞(けいそんめしあ)」は景教徒が「御子イエス」を指すときの用語である。ちなみに、景教の碑文や経典には、ギリシア語の「クリストス(キリスト)」が出てこない〔川口『景教』25頁〕。 
隠真威同人出代】「真威を(しゅう)に隠し人と同くして代に出で」。「隠(しゅういん)」は納め隠すこと。「人と同くして代に出で」とは、神の子が人性を採って通常の人と等しくなり、この世(代)に現われたこと〔佐伯『景教碑文研究』139頁〕。 
【神天宣慶】「神天慶を宣べ」。「神天」は天使のこと。ルカ2章8~14節参照。 
【室女誕聖於大秦】「室女大秦に於いて聖を誕(う)む」。「室女」は処女のことで、母マリアを指す。「大秦」はシリアのことである〔佐伯『景教碑文研究』139頁〕。ただし、正確には、シリアではなく、パレスチナのユダヤのガリラヤにある寒村ナザレのこと。 
 「大秦」には、当時のパレスチナとシリアとローマ帝国領との区別がないのかもしれない。諸説をあげると、(1)ローマ帝国、(2)東ローマ帝国、(3)ササン朝ペルシア、(4)「大秦(タチン)」はシリアを指す、(5)『景教宣元本経』には「大秦国那薩羅(なざれ)」とあるからイスラエル領のこと、(6)「イシュ(人)マシァ(メシア)」というアラム語から「太秦(うず・まさ)」(現在の京都市右京区太秦とも関係)、すなわちイスラエル説などがある〔川口『景教』26頁〕。「聖」とは知徳完備の人格を具えた全知全能者のこと。 
【景宿告祥】「景宿を告げ」。「景宿」は「めでたい星」のこと。「告祥(こくしょう)」とは幸いな兆しを告げ示すこと。 
【波斯覩燿以来貢】「波斯(ぺるしゃ)燿(よう)を覩(と)し以て来貢す」。ペルシア(の博士たち)は、燿(とよう)、すなわち輝きを観て来貢した。マタイ2章1~11節を参照。 
  
【本文】
圓廿四聖有説之舊法 
理家國於天猷設 
三一浄風無言之新教 
陶良用於正信 
制八境之度 
練塵成真 
啓三常之門 
開生滅死 
懸景日以破暗府 
【訳】
メシアは『旧約聖書』24巻(景教の『旧約聖書』はユダヤ教と同じく24巻)を成就し、 
世界を御手の中に治められた。 
また、私たちが信じ告白する三位一体の浄風(聖霊)は、無言の新しい教えにより、 
良用(信者)を正しい信仰へと導かれる。世界を救い、塵を練って真を成される。 
信・望・愛の心を開き、生を与えて人を死から解放される。 
景日(主の日、主の復活の日)を掲げ、暗府(よみ)を破り、悪魔をくじかれる。 
【注】
【圓廿四聖有説之舊法】「廿四聖有説之舊法を圓じ」。「圓じる」は完成すること。「廿四聖」とは旧約聖書の著者とされている24人の聖者のこと。「二十四聖」とは、旧約聖書を書いたとされる24人のことだろうか?旧約の24巻を書いた著者(必ずしも一人が1巻とは限らないが)という意味なら、その「24巻」とは、「トーラー」(モーセ五書)の5巻と、「先の預言者」(ヨシュア記/士師記/サムエル記/列王記)の4巻と、「後の預言者」(イザヤからマラキまでの15名)の合計24巻のことだろうか。 
【理家國於天猷設】「家國を天/大猷(ゆう)に於いて設け理(おさ)め」。「理(り)す」とは治めること。「猷(ゆう)」はほんらい「はかりごと」のことであるが、ここでは「道」のこと。「天/大」とあるのは、石碑の文字の上の部分が欠けていて「天猷」〔川口『景教』20頁〕とも、「大猷」〔佐伯『景教碑文研究』126頁〕とも読める。おそらく「天」のほうが正しい。 
【三一浄風無言之新教】「三一浄風無言之教を新たにし」。「三一浄風」三位一体の神から降る聖霊のこと。「浄風=聖霊」は敦煌の石窟の遺跡にも出ている。「無言之教」は、老子の『老子道徳経』の2章に、「処無為之事行不言之教」とあり、続けて「万物作焉而不辞」とある〔佐伯『景教碑文研究』140頁〕。「無為之事」とは無為自然であること、「不言之教」とは言葉を超越した教えのこと。「聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行なう。万物の自生にまかせて作為を加えず」〔蜂屋邦夫訳『老子』2章より。岩波文庫(18~21頁)〕。 
【陶良用於正信】「良用を正信に於いて陶し」。「」とは薫陶し養育すること。「良用」は「良材」のことであるが、霊的に成長する見込みのある信徒を指す。「正信」は正しく正当(正統?)な信仰のこと。英訳では、"he(Messiah) rendered virtue subservient to direct faith"とあるから、「種々の人の美徳も帰するところは信仰にある」の意味に解している。 
【制八境之度】「八境之度を制し」。「八境之度」とは八階級の制度のことであり、これは景教の僧位が八つの階級に分かれていたことを指す〔佐伯『景教碑文研究』140頁〕。「制する」は定めること。欧米の学者によれば、「八境」をイエスによる八つの山上の教えだとする解釈もあるらしい。 
【練塵成真】「塵を練り真を成し」。「塵」は、仏教の「六塵」(目、耳、鼻、舌、体、心)から出た用語で、人間の性質を表わす。「練」は精錬すること。「成真」は人ほんらいの真の品性を取り戻すこと。 
【啓三常之門】「三常之門を啓(ひら)き」。「三常之門」は仏教で言う「三門」あるいは「三業」のことで、「身体」「言語」「思想」の三つを清浄にすることを「三常の門を啓く」と言う。これを第一コリント13章13節による「信仰と希望と愛」の三つのこととする解釈も欧米の学者から出ているが、佐伯はこれを「服し難し」としている〔佐伯『景教碑文研究』140頁〕。 
【開生滅死】「生を開き死を滅し」。人類の救済の最終的な完成を指すという解釈もあるが、「三一浄風」の前後から判断するなら、メシアによる「この世における」人への働きかけを指すととるほうが適切であろう。 
【懸景日以破暗府】「景日を懸け以って暗府を破る」。「景日」は「日輪」「大日(教)」のことであるが、ここではメシアの輝きを指す(ヨハネ8章5節参照)。「暗府」は「陰府(よみ)」のことであるが、ここでは新約聖書(と仏教)で言う「地獄」のこと。 
  
【本文】
魔妄於是乎悉摧 
棹慈航以登明宮 
含霊於是乎既濟 
能事斯畢 
亭午昇真 
徑留廿七部 
帳元化以発霊關 
法浴水風 
滌浮華而潔虚白 
【訳】
恵みの船に私たちを乗せ、天の宮に上らせされる。 
こうして人は救われ、神のみわざは成った。 
まさに太陽が真上にのぼりつめた有り様である。 
私たちは『新約聖書』27巻を持っている。 
三位一体神の創造の力は、霊の関を開かれる。 
その御教え、洗礼、聖霊は、虚飾にみちた人の心を洗い清める。 
【注】       
【魔妄於是乎悉摧】「魔妄、是(ここ)に於(お)いて乎(か)悉(ことごと)く摧(くだ)く」。「魔妄」は前出のサタンのこと。「摧(さい)」は砕けること。 
【棹慈航以登明宮】「慈航(じこう)に棹(さおさ)し以(も)って明宮に登る」。「慈航」は慈悲の航路。「明宮」は「神霊の宮」のことで「天」を指す。『梁簡文帝』の「慈波、浄宮に流る」にちなんだものか〔佐伯『景教碑文研究』141頁〕。魏の初代皇帝文帝(在位220~226年)は、暴君と言われながらも、文才にめぐまれて五言詩にすぐれていた。その著書『典論』の文章は「経国の大典」として名高い〔平凡社『世界百科大事典』安田 二郎〕。 
【含霊於是乎既濟】「含霊是(これ)に於(お)いて乎(か)既(すで)に濟(すくわ)る」。「含霊」霊を具えた者、すなわち人類のこと。「既濟(きさい)」は、救いが完了していること。周代にさかのぼる五経の一つで、陰陽五行の占いについて述べた『易経』に「火水既濟」とある。 
【能事斯畢】「能事斯(こ)れ畢(おわ)り」。「畢(ひつ)」は「万事がことごとく終わる」こと。「能事」は、生涯をかけた大業の意味で、ここでは、イエス・キリストの十字架の死による贖いの業を指す〔佐伯『景教碑文研究』141頁〕。    
【亭午昇真】「亭午は真(てん)に昇る」。「亭午」とは正午のこと。「昇真」は、「原真」すなわち(イエス・キリストが)神の下へ昇ること。 
【徑留廿七部】「徑廿七部を留め」。「徑廿七部」は(新約聖書)27巻の経典のこと。 
【帳元化以発霊「元化を帳(は)り以って霊(れいべん)を発す」。「元化」とは天地の「大徳」を以て「化する」、すなわち徳へと改め導くこと。易経では「元者善之長也」とある。「張る」は延長する/拡張すること。ここでは、神の救済を拡大すること。「霊(れいべん)」とは、人の霊魂を開いたり閉じたりする門の弁のことであり、「発する」は「開く」こと。人類の霊魂を救済へ導く門戸を開いたこと。
 關」の文字は、石碑では門構えの中が「弁」である。これに相当する文字が無いので、佐伯『景教碑文』と川口『景教』に従って「關」をあてた。
【法浴水風】「法は水風に浴し」。「法」とは「定め」のことであるが、ここではとりわけ「典礼」を指すと思われる。「水風に浴す」は、洗礼の水と神の霊風を浴びること。「霊風」を「天地の精気」とする解釈もある〔佐伯『景教碑文研究』142頁〕。 
【滌浮華而潔白】「浮華を滌(あら)い而して白を潔(いさぎよ)からしむ」。「浮華」とは「実(じつ)無く外形のみ華やぐこと」〔佐伯前掲書〕。「白」は「虚無」(飾らない)にして「淡白」な心を指す。「潔(いさぎよ)からしむ」は、極め徹底させること。 
  
【本文】
印持十字 
融四照以合無抅 
撃木震仁惠之音 
東礼趣生榮之路 
存鬚所以有外行 
削頂所以無内情 
不蓄臧獲 
均貴賤於人 
不聚貨財 
示罄遺於我 
【訳】
私たちは印に十字架を持つ。世と和解し、自由の中に生きる。 
木を打ち鳴らして愛と恵みを人々に知らせ、東方に礼をして日出ずる道をたどる。 
髭のあるのは心を外に向けたしるし、 
一方、頭の頂の毛をそるのは、心に悪意のないしるしである。 
私たちは奴隷をもたず、貴賎の別を設けず、財産を蓄えず、身もとに残すものもない。 
【注】
【印持十字】「印(しるし)として十字を持ち」。信仰のしるしとして「十字」を持ち歩くのは、初代キリスト教からの慣習であるが、唐の長安においても、これが行なわれていたことを証ししている。 
【融四照以合無四照を融(ゆう)し以って無(むこう)を合(あわ)す」。「四照とは太陽が照らす四方」を指す。「融する」とは和をもって合わせること。「無抅(むこう)」とは「手がかりなき者」のことで、仏教で言う「縁なき衆生」のこと。 
【撃木震仁惠之音】「木を撃(う)ちて仁惠之音を震わせ」。教典を読みながら柝木(たくぼく)を打つこと。仏教においては経文を唱読しながら柝木を打つが、唐の時代の景教においても同様のことが行なわれていた〔佐伯『景教碑文研究』143頁〕。これを「仁惠の音を奮(ふる)い起こす」と言う。 
【東礼趣生榮之路】「東に礼して生榮之路に趣(おもむ)く」。「東礼」は、太陽が昇る東を向いて礼をすること。「生榮の路」とは、生命の繁栄と祝福を受ける方法のことであるが、ここでは、とりわけ聖餐を頂く際の作法に関係するのだろうか。 
【存鬚所以有外行】「鬚を存するは外行有りとする所以(ゆえん)なり」。口髭を保つことは、外部に向かって果たすべき義務があることを示す。これは、景教の僧が仏教の僧と大きく異なるところである。 
【削頂所以無内情】「頂(ちょう)を削(そ)るは内情無しとする所以(ゆえん)なり」。頭を剃るのは仏教僧と同じである。「内情」とは、外部に対して隠すべき内々の事情など存在しないこと。髭を蓄え頭を剃るのは、当時の長安の仏教的な文化に接して、景教の宣教師が苦労したことを示すものであろう〔佐伯『景教碑文研究』143頁〕。 
【不蓄臧獲】「臧獲(そうこく)を蓄(たくわ)え不(ざ)るは」。「臧獲(そうこく)」は男女の奴隷のこと。景教の僧は、妻帯を許されていたが、妾は、奴隷の一種と見なされていたようである。 
【均貴賤於人】「貴賤を人に於いて均(ひとしく)するなり」。人間の平等と無差別は、景教の特長の一つであった。 
【不聚貨財】「貨財を聚(あつ)め不(ざ)るは」。 
【示遺於我】遺(けいい)を我に於いて示すなり」。「遺(けいい)」の「(けい)」は「すべて/一切合切」を意味し、「遺(けいい)」は「(すべてを)遺贈/贈与すること。 
  
【本文】
斎以伏識而成 
戒以静慎為固 
七時礼讃 
大庇存亡 
七日一薦 
洗心反素 
真常之道 
妙而難名 
功用昭彰 
強稱景教 
惟道非聖不弘 
聖非道不大 
道聖符契 
天下文明 
【訳】
清めは思慮深い心で行い、戒律は謹んで堅く守る。 
日に7度の礼拝を捧げ、生者と死者のために祈る。 
とくに七日に一度の主日礼拝には、心を洗い清め、原点に立ち返る。 
真理の道は不思議で名づけられないが、功徳は明らかである。 
それを強いて名づけるなら景教という。 
景教の真理は、聖でなければ広まらない。 
聖は真理でなければ広まらない。 
聖と真理とは、ふたつに割った契約の札のように相符号して働く。 
その天下にこそ真の文明が生まれる。 
【注】
【斎以伏識而成】「斎は伏識を以て而して成し」。「斎(さい)」とは断食すること。「伏識」の「識」は、仏教的な用語で、人の根源にあって物事を識別する心と意思そのものを指す。「伏す」は「屈服する」ことであるから、「伏識」は、(断食によって)人の我欲を屈服させること。 
【戒以静慎為固】「静慎(せいしん/じん)を以て戒(かい)を固(こ)と為(な)す」。「固(こ)と為す」は「静慎は即(すなわ)ち戒(かい)なり」〔佐伯『景教碑文研究』144頁〕の意味。『禮記』に「戒は慎(おしん)なり守なり」とある。謹(つつし)んで静まることこそ、戒律の成就にほかならないという意味。 
【七時礼讃】「七時(ななどき)に礼讃するは」。「七時に」は「日に七度(礼拝する)」こと。 
【大庇存亡】「大(おおい)に存亡を庇(かば)う」。「存」は生きている人、「亡」は亡くなった人を指す。一日七度の礼拝によって、生者と死者との霊の慰安を祈祷することは景教の大事な勤めであったことが分かる。「亡霊慰安」は儒教の先祖崇拝にさかのぼるが、景教もこれに準じることを言う。 
【七日一薦】「七日に一薦(せん)すれば」。七日に一度、薦祭(せんさい)を行なうこと。ここではメシアのパンと葡萄酒を頂く聖餐のこと。 
【洗心反素】「心を洗い素(もと)に反(かえ)る」。「素」とは「もとの心」、本心に戻ること。聖餐での懺悔(ざんげ)を通じて人の本性に戻ることを言う。 
【真常之道】「真常之道こそ」。「真常」とは真理にして不変なこと。 
【妙而難名】「妙にして而して名(なづ)け難し」。景教の道は、霊妙で名称し難い。 
【功用昭彰】「功用(くよう)は昭(あき)らかに彰(あら)われ」。「功用(くよう)」は功徳のこと。 
【強稱景教】「強(しい)て景教と稱す」。「強稱(ごうしょう)」は、名付けがたいものをあえて称すればの意味。「真常之道」から「聖非道不大」までは、老子の経典の「周行(しゅうこう)して殆(やす)まず。以て天下の母と為す可(べ)し。吾れ、その名を知らず、之(これ)字(あざな)して道と曰(い)い、強いて之(これ)が名を為して大と曰う」(蜂屋邦夫訳『老子』25章)が反映していると指摘されている〔佐伯『景教碑文研究』145頁〕。景教には道教の教えも影響している。
【惟道非聖不弘】「惟(こ)れ道は聖に非ずんば弘まらず」。「聖」とは全知全能の神の霊を宿す聖人を言う。 
【聖非道不大】「聖は道に非ずんば大ならず」。「道」は先に「真常之道」とある真理のこと。宗教は、神から出て初めて広まり、宗教は、真理に根ざして初めて大いなる発展を遂げる〔佐伯前掲書〕。 
【道聖符契】道聖符契(ふけい)して」。「符契」とは割り符(ふ)のことで、紙などに文を書いて、その中央に印を押し、二つに裂いて(割って)双方が持ち、後日その割ったものを合わせることで確認すること。 
天下文明】「天下文明なり」。「文明」は教えが人の知徳に行き渡ること。碑文の後半には、景教を国教とした唐の皇帝への賛辞が記されている。したがって、前出の「聖」には、国家の主権者である皇帝が含まれていると観ることができる。「聖なる皇帝」を得て、初めて天下に文明が行き渡ることを示唆するのであろう〔佐伯『景教碑文研究』145頁〕。 
               
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