2024年6月22日土曜日

箸墓

箸墓

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この報道では、「四世紀初めの大量の土器」となっている が、桜井市教育委員会に電話をし、うかがった話では、これ は、「布留1式」の土器が出たという意味に理解してよい、と のことであった。

「布留式土器」の初現は、西暦300年ごろからとみる研究 者もたしかに多い。しかし、一方、橿原考古学研究所の関川 尚功氏のように、「布留式の初現を四世紀の真ん中前後」(つ まり、350年前後)(『三世紀の九州と近畿』河出書房新杜 刊)と考える研究者もいる。

「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」という事実について、いくつかの解釈ができる。
  • 解釈1 布留1式土器の初現年代を300年ごろとする説にあわせて、馬具の年代をくりあげる。(桜井市教育委員会の解釈)

  • 解釈2 これまでの馬にかかわる遺物の出土状況との連続性や、文献などを考慮して、布留1式土器の初現年代を350年ごろにくりさげる。(関川尚功氏の年代を採択する解釈)
解釈2のほうが、ずっと自然なのではないか。 その理由を、以下にのべる。


  1. これまでに、「馬具」「馬形埴輪」「馬形石製品」などの 出土した古墳の、ほとんどすべては、五世紀以後の築造 とみられる。
    箸墓古墳周濠出土の馬具のみ、四世紀のはじめにもって 行くと、年代がはなれすぎる。つまり、四世紀後半の年 代の与えられる馬具などが、もっとでてきてもよさそう であるが、現在では、ほとんど皆無に近い状況であるよ うにみえる。

  2. 『日本書紀』の「垂仁天皇紀」に、皇后の日葉酢媛(ひぱすひめみこと)の命 がなくなったときに、その陵墓に、「人・馬および種々の 物の形」(つまり、埴輪)をつくって、樹(た)てたとの記事 がある。

    従来、垂仁天皇の時代に、馬の埴輪は、まだあるはずが なく、『日本書紀』の記事は、造作か、あるいは、単なる 伝承と考えられてきた。 しかし、天皇一代平均在位年数約十年説によれば、垂仁 天皇の活躍年代は、西暦355年~370年ごろとな る。

    つまり、そのころ、「馬形埴輸」がつくられたとし、 今回出土の馬具を、四世紀後半ごろのものとすれば、年 代はよく合致する。その意味で、今回の箸墓古墳周濠か らの馬具出土情報は貴重である。 「垂仁天皇紀」の記事には、なんらかの根拠があったの ではないか。

  3. 天皇一代平均在位年数約十年説によれば、第十代の崇 神天皇の活躍年代は、西暦340年~355年ごろとな る。
    また、崇神天皇陵(行灯山古墳)の築造年代を、四世紀 中ごろから後半ごろのものとみるのは、考古学界の多数 意見である(たとえば、円筒埴輪の編年について、画期 的な業績を示した筑波大学の考古学者、川西宏幸氏は、 崇神天皇陵古墳の築造年代を、360年~400年とす る(『古墳時代政治史序説』〔塙書房刊〕)。

    平均在位年数約十年説による崇神天皇の推定活躍年代 と、崇神天皇陵古墳の築造年代とは、ほぼ合致してい る。

  4. 『日本書紀』によれば、箸墓古墳は、第十代崇神天皇の 時代に、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の墓として、築造されたとい う。
    そして、箸墓古墳の築造年代を、さきに紹介した関川尚 功氏は、四世紀中ごろのものとする。
解釈2のストーリーは次のようになる。

西暦350年ごろに、倭迹迹日百襲姫の墓所として、箸墓古墳が築造された。
それと同 時期に、周濠に、落葉が、つもりはじめ、20~30年のち に、馬具の輪鐙が、投棄された。 また、これと前後して、布留1式の土器も投棄された。
その時期は、西暦370年~380年ごろとなる。 これは、おおよそ、垂仁天皇の時期に合致する。

すなわち、箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓とする伝承や、垂仁天皇の時代の日葉酢媛の伝承と整合し、また、これまでの馬に関する遺物の出土状況とも整合する、きわめて適切な解釈であると考えられる。

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