2024年6月22日土曜日

じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい[これについては、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書、2009年刊)、58ページ以下などにくわしい]。

第400回活動記録

じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい[これについては、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書、2009年刊)、58ページ以下などにくわしい]。

第400回 邪馬台国の会 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない これは、四世紀中頃以後の崇神天皇の時代の、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓である

これは、四世紀中頃以後の崇神天皇の時代の、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓である。

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■東大教授、考古学者、斉藤忠(さいとうただし)氏の見解
埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳の発掘によってもしられ、東大教授などであった考古学者の斉藤忠氏は、箸墓古墳の築造年代について、つぎのようにのべる。

「『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端でなく、平地にある。古墳自体の上からいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。
「この古墳は、編年的に見ると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。恐らく、崇神天皇陵の築浩の後に営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号、1966年)

そして、斉藤忠氏は、第10代崇神天皇の天皇陵古墳について、つぎのようにのべる。
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える---」(同上「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」)

崇神天皇陵古墳の築造年代が、四世紀の中ごろ、または、それをややくだるころであり、箸墓古墳の築造年代が、それよりも時期的に下降すれば、箸墓古墳の築造年代は、四世紀の中ごろ以後であることになる。卑弥呼の没年よりも、百年以上ほどあとのことである。
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■考古学者、関川尚功(せきがわひさよし)氏の見解
箸墓古墳の築造年代については、奈良県立橿原考古学研究所の所員であった考古学者関川尚功氏も、四世紀の中ごろ前後のものとする。

関川氏はのべる
「箸墓古墳からは壺や特殊埴輪が出土している。箸墓古墳出土の壺は、桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳出土の壺と同種のものである。これは布留式の古いところ、布留1式期のものとみられる。
箸墓古墳出土の特殊埴輪は、他の古墳での特殊埴輪と埴輪との共伴出土状況から判断すると、埴輪の1期の時期にあたるころのものとみられる。これらから、箸墓古墳とホケノ山古墳とはほぼ同時期のもので、布留1式期のものであり、古墳時代前期の前半のもので、四世紀の中ごろ前後の築造とみられる」(『季刊邪馬台国』102号、2009年刊)

この関川氏の見解にしたがうと、「古墳時代前期前半」と、「布留式の古いところ、布留1式期」とは、矛盾しない。
関川氏の見解によるとき、箸墓古墳をふくめ、これらは、四世紀中ごろ前後のものであり、卑弥呼の時代よりも、百年ほどのちのものである

関川尚功氏は、つぎのようにものべている。
「(箸墓古墳で)採集された壺は、吉備系の装飾壺のほかに畿内系の二重口縁の大型壺があり、これは装飾のない古墳時代前期の布留式にみられるものです。この壺はすでに桜井茶臼山古墳でも以前から知られており、今回の鏡が多く出た再調査でも発掘されております。この大型壺は箸墓古墳の壺と細部までよく似たほぼ同形のものであるので、この二つの古墳の時期はあまり変わらないことが知られます。
ところでこの桜井茶臼山古墳ではかつての発掘によって副葬品がかなり出ておりまして、碧玉などで作られた玉杖などが有名ですが、腕輪の形をしたものなどこうした石製品がかなりみられます。このような石製品は五世紀初めの古墳でもたくさん出ているように、これまでの古墳編年ではこれがみられるのは時期が下った頃とされていました。桜井茶臼山古墳は箸墓古墳と共に最も古い古墳の一つであるにもかかわらず、やや新しくされていたわけです。
また、箸墓古墳より古い古墳とされてきたホケノ山古墳の発掘においては、庄内式に多い壺と共にこれまで四世紀とされていた布留式の小形丸底壺が一緒に出てきました。庄内式の壺が布留式まで残存しているわけですが、これをみればホケノ山古墳は箸墓古墳より古いなどとはとてもいえません。」
古墳の編年からみれば箸墓古墳もほぼ四世紀の中頃くらいにみておくのがいいのではないか、というのが私の結論であるわけです。」(以上『情報考古学』Vol.17、No.1.2[2011年])

なお、崇神天皇陵古墳の築造年代については、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も、「四世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの。」とされている(『シンポジウム 古墳時代の考古学』学生社刊)。

森浩一氏は、その著『古墳時代を考える』(森浩一著作集第1巻、新泉社、2015年刊)の87ページで、根拠をあげて、「崇神陵の構築年代は、四世紀中頃から後半とするのが妥当である。」と記す。

円筒埴輪の研究で著名な筑波大学の考古学者・川西宏幸(かわにしひろゆき)名誉教授も崇神天皇陵古墳の築造時期を、「360年~400年」としている。

■奇妙な騒動
ところで、箸墓古墳の築造年代については、2009年に奇妙な事件というか、騒動がおきている。
箸墓(はしはか)は卑弥呼(ひみこ)の墓である---。こんな説が新聞やテレビのニュースで大々的に報道され、週刊誌もとりあげ、大騒動となった。
(下図はクリックすると大きくなります)
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いったいなぜ、こんな大騒動が起きたのだろうか。
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の研究グループが、「炭素14年代測定法」という「科学的な方法」を用いて、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、ほぼ邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼が死んだとされる西暦240~260年ごろに築造されたことが推定できた、と発表した。
ところが、このような「推定」が科学的には成立しえないとするデータや根拠が、他の研究機関や研究者から、同じく炭素14年代測定法を用いるなどして、すでにいくつも報告されていたのである。

いま、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」という仮説を「歴博仮説」と呼ぶことにしよう。すると、歴博仮説は成立しえないという、歴博仮説に対する明確といってよい反証が、いくつも挙げられる。どうも他の機関や研究者が、歴博の研究グループの一連の炭素14年代測定法の研究結果に対して、有力な反証や批判を提出するたびに、この種の騷動が意図的に引き起こされているようにみえる。
歴博の研究グループは、反証や批判が報告されると、その反証を押し潰すためにマスメディアを巧みに動員しているのではないか? 歴博仮説にとって有利な結果がまたも得られました、と大報道に持ち込むことによって批判や反証を封じようとしているのではないか? こんな疑念が研究者たちの間で広がり、波紋は大きくなった。

マスコミへの事前リークにより、『朝日新聞』をはじめとするマスメディアでの華やかな大宣伝(5月29日)のすぐあと、2009年5月31日(日)、早稲田大学で、開かれた日本考古学協会の研究発表会で、歴博の研究グループは、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」説を強い確信の言葉とともに述べた[発表者は春成秀爾(ひでじ)氏を中心とするメンバーである]。ただ、この発表は、日本考古学協会の審査員による事前審査を受けたのちの発表というものではなく、日本考古学協会の会員であれば、だれでも発表できる質疑応答をふくめて25分という短いものであった。質疑の時間は、もめにもめた。マスコミへの事前リークという姿勢そのものへの違和感も大きかったようにみえた。

発表会の司会者で、日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授が、そのとき、報道関係者に次のような「異例の呼びかけ」を行ったことを、『毎日新聞』が報じている。 
会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」(『毎日新聞』6月8日付夕刊)

そして、北條教授はその後、自身のヤフーのブログで次のように記している。
「私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったのか。その理由を説明することにします」

「問題は非常に深刻であることを日本考古学協会ないし考古学研究会の場を通して発表したいと思います」

「彼らの基本戦略があれだけの批判を受けたにもかかわらず、いっさいの改善がみられないことを意味すると判断せざるをえません」

「歴愽発表」は信用できない、これは事情をよく知る学者、研究者たちの間で広がりはじめている共通認識のようにみえる。
それは、歴博研究グループが発表した際の会場の雰囲気や、続出した質問などからもうかがえる。ここで、「続出」という言葉を用いたが、これは私の判断ではなく、『毎日新聞』も「会場からはデータの信頼度に関し、質問が続出した」と報じている(2009年6月1日付)。

じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい[これについては、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書、2009年刊)、58ページ以下などにくわしい]。

さすがに、『毎日新聞』はこの疑問点について、2009年6月8日付夕刊で、歴博の研究グループの小林謙一氏に問いただしている。ところがこの質問に対する小林氏の回答は、記事では、次のように一言で記されている。
理論的にはこの布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるが、『考古学的にありえない』として退けられた
小林氏のいうように「考古学的にありえない」は正しいのであろうか。正しくない。
すでに紹介したように、東大の考古学者、斉藤忠教授は、箸墓古墳の築造年代は四世紀の中ごろまたはそれをやや下降する時期に築造された崇神天皇陵古墳よりも、さらにおくれて築造されたものとしておられるのである。

また、奈良県立橿原考古学研究所の考古学者で、纏向遺跡を発掘された関川尚功氏は、ホケノ山古墳や箸墓古墳は、いずれも、ほぼ同時期の布留1式期のもので、四世紀の中ごろのものであることを、ここ四十年近くにわたり、相当な根拠をあげて主張しておられる。[関川氏の古い論文には、「近畿・庄内式土器の動向」(『三世紀の九州と近畿』河出書房新社、1986年刊所収)があり、比較的最近の著書に『考古学から見た邪馬台国大和説-畿内ではありえない邪馬台国』(梓書院2020年刊)がある。]

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このような斉藤忠氏や関川尚功氏らの見解を、「考古学的にありえない」として、あっさりと退けるのである。
炭素14年代測定法という科学的方法によった客観的年代であるように標榜しながら、じつは、炭素14年代測定法によってえられた結果のうち、みずからの「考古学的立場、判断」不都合なデータは、あらかじめ、とり除かれているのである。
小林謙一氏らが、もし、斉藤忠氏や関川尚功氏などの見解をご存知ないとすれば、四億円をこえる「学術創成研究費」を得ての研究としては、あまりに不勉強ではないか。

■研究交付金は、四億二千万円ほど!!
四億二千万円ほどの膨大な金額の研究費(国民の血税)が、歴博研究グループが描いた学説(誤った学説とみられる)を「立証」し、宣伝・PRするために費消されている。
研究費を分配する権限を持つ官僚学者も、それを費消する官僚学者も、ともに、「邪馬台国畿内説」の学者であるという構図になっているようにみえる。
旧石器捏造事件のときも、官僚学者たちが、みずからの説を支えるような結果を、つぎつぎと出してくれる人物・藤村新一氏に血税をそそぎこんでいた。よく似た話である。

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なお、上の表の数字は、インターネットで見ることができる。歴博研究グループが、斎藤忠氏や関川尚功氏などの見解を認知しているかどうかは別として、歴博研究グループののべていることは、炭素14年代測定法による測定データが示している客観的事実そのものにもとづくものではない。みずからがあらかじめもつ考えに、つごうの悪いデータは、無造作かつ乱暴にはずし、つごうのよいデータだけをとって、特定のマスコミにリークするという典型的なチェリーピッキングの方法によっている。そして、それがあたかも、炭素14年代測定法によってえられた客観的事実であるかのように、マスコミに流している。これは、科学的な不正行為のうちの、「矛盾するデータの隠蔽(いんぺい)」にあたるものである。アメリカには、「科学における不正行為が行なわれていないかどうかを監視する政府系機関」として、「研究公正局」がある。1992年に創設されたものである。
アメリカ政府は、「研究過誤に対する政策指針を示している。そこでは、研究者の不正行為は、「捏造[Fabrication(ファブリィケィション)]」「偽造、または、改竄(かいざん)[Falsification(フォールスフィケィション)]」「剽窃(ひょうせつ)、または、盗用[Plagiarism(プレィジァリズム)]」の三つに分類されている。これらは、英語の頭文字をとって、FFPとよばれる。みずからの考えに「有利なデータや材料だけを使い、不利なものを除去する」「矛盾するデータの隠蔽」は、「偽造、または、改竄[Falsification(フォールスフィケィション)]」のうちにはいる。「偽造、または、改竄」は、誤った結論をもたらす。

つごうの悪いデータが、全体の1、2パーセントならば、それを無視するのもあるていどわかる。しかし、私が正しいと思うとりあつかい方による炭素14年代推定値では、あとの「箸墓古墳の桃核資料が西暦300年以後のものである確率」の図に示すように、四世紀の中盤以降の推定値をとり除くことは、得られた推定値全体の3/4以上をとり除くことになる。ほとんど無茶苦茶な議論である。炭素14年代測定法が真実をあきらかにするための手段ではなく、みずからがあらかじめもっている説を宣伝するための手段となっている。

■考古学者 森浩一氏の見解
考古学者の森浩一氏は、つぎのような見解をのべている。
「現有の日本政府は気の遠くなるほどの借金をかかえている。政府だけでなく都道府県や市町村のかかえる借金も膨大だといわれている。ところが政府でも都道府県でもそれほど節約に努めている気配はない。」

「ぼくの考えでは、学問というものは自分の甲斐性でやるものである。早い話、江戸持代の国学者の本居宣長をみても、本業は開業医であり、その職業の合間に『古事記伝』という不朽の名作を生みだしたのである。宣長は藩からも、まして幕府からは、一文の援助をうけることなく研究をつづけたのである。」

「宣長のような学者をぼくは町人学者とよんでいる。」

「今日の政府のかかえる借金は、国立の研究所などに所属するすごい数の官僚学者の経費も原因となっているだろう。各研究所からどれだけの研究成果が生まれたのか。それは国民の血税を使うに値することだろうか。研究所などに所属する人たちからの自己点検が待たれる。」

「ぼくはこれからも本当の学問は町人学者が生みだすだろうとみている。官僚学者からは本当の学問は生れそうもない。」(以上、森浩一「国が学者を雇うということ」[『季刊邪馬台国』102号、2009年8月、梓書院刊])

「僕の理想では、学問研究は民間(町)人にまかせておけばよい。国家が各種の研究所などを作って、税金で雇った大勢の人を集めておくことは無駄である。そういう所に勤めていると、つい権威におぼれ、研究がおろそかになる。」(『森浩一の考古交友録』[朝日新聞出版、2013年刊]157ページ)

■崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命との活躍年代
第10代崇神天皇や、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫命の年代が、卑弥呼よりも百年以上あとの西暦350年以後ごろである根拠は、他にもいろいろあげられる。
そのうちでも、とくに有力な根拠になると私が考えるのは、天皇一代平均在位年数にもとづく統計的年代論である。

わが国の古代の諸天皇において、その存在や、在位の時期が確実なのは、第31代用明天皇からといってよい。
まず、用明天皇の活躍年代を出発点として、第10代崇神天皇ごろまでの諸天皇の活躍年代や没年を推定してみよう。
用明天皇は、在位期間が足かけ3年ていどで短い。活躍年代が、ほぼピンポイントで定められる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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上に示す図の[A]のところに示した上の表に、『古事記』『日本書紀』に記されている用明天皇についての記事を整理した。
この表をみれば、つぎのようなことがわかる。

(1)『古事記』『日本書紀』は、ともに、用明天皇の没年を西暦587年であると記している。『古事記』『日本書紀』ともに、4月になくなったと記す。ただ、これは旧暦の4月であるから、グレゴリオ暦(現行の太陽暦)になおせば。5月になる。

(2)用明天皇の即位年を、『日本書紀』は585年と記す。しかし、『古事記』は、即位年を記していない。

(3)用明天皇のまえの第30代敏達天皇の没年を、『古事記』は、584年4月のこととする。『日本書紀』は、585年8月のこととする。1年あまりの違いがある。

(4)以上をまとめれば、西暦586年は、『古事記』『日本書紀』のいずれによっても、用明天皇の短い在位期間のうちにふくまれることになる。
そこで、この586年によって、第31代用明天皇の「活躍年代」を代表させることにする。古代の年代推定の一つの「基準点」とする(図の[基準点Ⅱ])。
また、図の[A]にみられるように、もう一つの基準点として、第50代桓武天皇の「活躍年代」を代表させる値として、「794年」をとる(図の[基準点I])。

この794年を、桓武(かんむ)天皇の、「活躍年代」の代表値としたのは、つぎの二つの理由による。

(1)「794年」は、桓武天皇が、平安京に都をうつした年である。

(2)桓武天皇の在位期間は、「781~806年」である。
この在位年数期間のまん中の値、すなわち中数(781と806とを足して二で割ったもの)をとれば、793.5となる。これを四捨五入すれば、「794年」となる。

いま、図の[A]のように、第50代桓武天皇の「活躍年代」の「794年」を[基準点I]とし、第31代用明天皇の「活躍年代」の「586年」を、[基準点Ⅱ]とする。すると、[基準点I]と[基準点Ⅱ]とのあいだの長さは、19代(桓武天皇の第50代から用明天皇の第31代を引いたもの)で、208年間(桓武天皇の活躍年代794年から、用明天皇の活躍年代586年を引いたもの)となる。

この間の1代平均在位年数は、10・95年となる。
この平均在位年数を用い、過去の天皇の「活躍年代」を推定してみる。
すると、図の間に示したとおり、つぎのようになる。

(1)第21代雄略天皇の「活躍年代」の推定値は、第31代用明天皇の「活躍年代」586年から、10代109.5年[平均在位年数10.95(年)×10(代)=109.5(年)]さかのぼって「477年」となる。この雄略天皇の「活躍年代」の推定値「477年」は、雄略天皇とみられる倭王武が、中国の宋へと使いをだした475年と、1年しか違わない。

(2)同様にして、第10代崇神天皇の「活躍年代」を推定すれば、つぎのようになる。
第10代崇神天皇は、第31代用明天皇の21代まえ[31(代)-10(代)=21(代)]の天皇である。

1代平均在位年数を10.95年として、21代230年[10.95(年)x21(代)=229.95(年)]さかのぼれば、「356年」となる。つまり、4世紀の中ごろとなる。

『日本書紀』は、この崇神天皇のころに、箸墓古墳がきずかれたと記している。この箸墓古墳を、3世紀の中ごろに没した卑弥呼の墓とする説があるが、無理である。およそ100年の違いがある。

■第21代雄略天皇の「活躍年代」を[基準点Ⅱ]とすれば、・・・・
前節で、第50代桓武天皇の「活躍年代」を、[基準点I]とし、第31代用明天皇の活躍年代を、[基準点Ⅱ]として、その間の平均在位年数をもとに第10代崇神天皇の「活躍年代」を推定した。

この前節での推定の、ややつらいところは、二つの基準点間の期間(天皇の代で、19代)よりも、[基準点Ⅱ]から推定すべき崇神天皇までの期間(天皇の代で、21代)のほうが、長いことである。推定するための射程距離が、やや遠いかな、という感じもする。身の丈をこえて、とびあがろうとしているようにもみえる。

そこで、こんどは図の[B]のように、第21代雄略天皇の「活躍年代」として、倭王武が、宋へ使いをだした478年をとることにする。今度は、これを[基準点Ⅱ]とする。
478年は、『古事記』『日本書紀』の記述でも、雄略天皇の在位期間のうちにはいるといえる。また、図の[A]の推定でも、雄略天皇の「活躍年代」の推定値の「477年」と、倭王武が宋へ使いをだした「478年」とは、1年しか違わなかった。
雄略天皇の「活躍年代」として478年をとり、これを[基準点Ⅱ]とすれば、つぎのようになる。

(1)[基準点I]から[基準点Ⅱ]までの期間は、天皇29代で、316年間となる。天皇1代の平均在位年数は、10.90年である。300年以上にわたる期間の諸天皇の平均在位年数が、10年あまりなのである。

(2)この平均在位年数10.90年を用いれば、第21代雄略天皇から6代まえの第15代応神天皇の活躍年代推定値は、413年となる。

(3)とすると、応神天皇の1代まえと伝えられる神功皇后の活躍年代は、402年を中心とする前後となる。これは、高句麗の広開土王の活躍年代(在位391~412)と、ほぼ正確に重なる!! [広開土王の在位期間391~412の中数(二つの数字を足して、二で割った値)は、401.5年で、402年と、ほとんど一致する。]

『古事記』その他の文献などが記すように、わが国に、もともと、神功皇后の朝鮮半島への出兵伝承は、存在していたとみられる。ただ、それが、いつごろの話であるのか、『日本書紀』の編纂のころには、わからなくなっていたとみられる。
そのため、『日本書紀』の編纂者は、海外とも交渉をもった人ということで、402年ごろの人である神功皇后を、239年ごろの人である卑弥呼にあてはめている。年代推定と人物比定とを誤っているのである。神功皇后と卑弥呼とのあいだには、160年ほどの年代差があるとみられる。

(4)図において、第10代・崇神天皇の活躍年代の推定値は、[A]の方法によっても、[B]の方法によっても、356年となる。
こ年代は。すでに紹介した考古学の斎藤忠氏や森浩一氏らの、「崇神天皇の活躍年代を4世紀の中頃、あるいは中頃よりもすこし後の人と考えている」という説と、ほぼ正確に合致している。
考古学者のとく年代と、文献にもとづく統計的推定年代とが、合致しているのである。

■下の年代からのつみあげエビデンス(証拠)も必要
炭素14年代測定法によって得られた結果は、さまざまな原因により、真の年代からは、はなれている可能性がある。とかく、古い年代が出がちである。
したがって、下の年代からのつみあげの、エビデンス(証拠)によってどのような条件のもとで、どれだけ真の年代からはなれるか、などをしらべて検討しておく必要がある。
ここで、下の年代からのつみあげのエビデンスが必要というのは、つぎのようなことをさす。
たとえば、銘文のある鉄剣の出土した埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳、そしてまた、真の継体天皇とみられるもので、すでに発掘されている大阪府の今城塚古墳など、あるていど築造年代がわかっている古墳などがある。
このような古墳などからの出土物について、炭素14年代測定法によって年代を測り、たしかに妥当な年代が得られているのか、あるいは、もし、ずれているとすれば、どのような理由により年代のずれが生じたのかなど、下の年代から証拠や検討をつみあげた上で、上の年代、古い年代にせまって行くという方法をとることが必要である。

そのような下の年代からのつみあげがなく、いきなり、古い邪馬台国や、縄文時代のはじまりの年代や、弥生時代のはじまりの年代をとりあげ、これは炭素14年代法で測定したのだから正しいはずです、信じて下さい、といわれても、ちょっと困ってしまう。

炭素14年代測定法の結果は、他の、より確実とみられるデータから得られた年代と合わないことが、しばしばある。
たとえば、数理考古学者の新井宏氏は、その著、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007年刊)のなかで、中国の戦国墓などから出土した遺物を、炭素14年代測定法で測定してえられた年代が、実年代とみられるものより、200年ほど古く出ている例などを示しておられる。

名古屋大学名誉教授の中村俊夫氏によれば、湖水、河川水、地下水などに含まれる炭素は陸上の堆積物中の古い炭素の影響を受けている可能性が高いという(淡水リサーバー効果)。陸水産生物では、現生のものでも、一万年前より古い炭素14年代を示すことがあるという[中村俊夫「放射性炭素法」(長友恒人編『考古学のための年代測定学入門』所収)古今書院、1999年刊]。

文献にもとづく統計的年代推定では、下の年代からのつみあげエビデンスを示している。こちらの方が、炭素14年代推定法よりも、推定の誤差の幅が小さいとみられる。

日本考古学協会は、日本で最大の会員数を擁する考古学関係の学会である。
九州大学の教授であった田中良之(よしゆき)氏と西南学院大学の教授であった高倉洋彰(ひろあき)氏とは、ともにその日本考古学協会で会長職を経験された方である。
田中良之氏と高倉洋彰氏とは、ともに『AMS年代と考古学』[AMS法(加速器質量分析法)は炭素14年代測定法のー種。試料中の炭素14の数を、直接測る方法。それまでの方法にくらべ、試料の量も時間も、すくなくて測定できる。]

この本では、人骨および鹿骨をサンプルとして用いれば、歴博研究グループの測定年代よりも、はるかに新しい年代が得られることなどが述べられている。

この本の「あとがき」には、つぎのような文章がある。
「田中の論考は、理化学的な分析によっても国立歴史民俗博物館のチームが唱えるAMS年代をこのままでは使用できないことを明らかにしたもので、考古学の側の問題提起が頑迷固陋(がんめいころう)によるものではないことを示しています。」

「マスコミを利用するという学問的でない最初の土俵が、もっと健全な形で果たされていれば、活用あるいは否定のいずれであっても、この研究はもっと学問の俎上(そじょう)に載ったであろうと思います。」

高倉洋彰氏は、その著『行動する考古学』(中国書店、2014年刊)のなかでも、歴博研究グループのAMS年代測定にふれてのべている。
「学問の世界にマスコミの支持を得るための世論操作をもちこむ姿勢、あるいはもちこんだと疑わせる姿勢は好ましいものでない。」

2009年5月31日の歴博グループの発表の一つまえに研究発表を行なった考古学者の岡安光彦氏は、歴博の発表に関して、翌6月1日のご自身のプログのなかで、つぎのように記している。
「さて、〔歴博研究グループの〕箸墓の築造年代に関する問題の発表は、例によってAMSの結果をかなり恣意的に使っていて、危うい感じがした。脂肪酸分析の二の舞〔安本註。旧石器捏造事件のさい、捏造発覚以前に、石器から『ナウマン象』の脂肪酸が見出されたとの鑑定結果を発表した学者がいて、その後、その石器が捏造であることが判明し、笑いものになった事例をさす〕にならなければいいけれど。何か決定的なものが出土して物語が崩壊する可能性もある。『出したい結果』が見え見え。もう少し『野心』を押さえたほうがよい。」

岡安光彦氏は、6月6日(土)のブログでもつぎのようにのべる。
「マスコミ主導のC14(炭素14)年代はいつ躓く?
大砲発達後の戦闘では、攻撃準備射撃が行われるようになった。敵陣への突撃を開始する前に、雨あられと砲弾を打ち込んで炸裂させ、可能な限り敵を無力化しておく作戦である。
マスコミを使った攻撃準備射撃を常套手段とするのが、歴博C14年代測定チームである。学界で正式な発表をする前に、まずはマスコミに情報を流す。このため、発表会場には記者や一般の古代史ファンが詰めかけ、異様な雰囲気に包まれる。
考古学協会の質疑応答は5分程度しかないから、十分な議論などできようはずがない。結局は、発表者がその主張を宣言する場になってしまう。そして翌日の新聞には、『科学に導かれた新しい有力な学説!』が記事になって踊るわけだ。
学界で深く議論される前に、ある一つの主張、特定の成果が世の中で一人歩きしだして、定説であるかのように羽ばたき始める。抗(あらが)うのが次第に困難になる。
こういうパターンに覚えがある人は多いだろう。そう、例の旧石器捏造の過程で進んだのと同じパターンだ。あの時も考古学の大戦果が次々に大本営発表され、それにマスコミが乗っかった。『科学』が標榜(ひょうぼう)されるところもそっくりだ。」

「それにしても、マスコミというのは、反省しないものだ。とくに某大新聞がその代表格。デタラメ脂肪酸分析の片棒を担ぎ、赤っ恥を掻いたのはつい最近のことなのに。また、同じパターンで『科学』を御神輿(おみこし)に騒ぎを繰り返している。
反省したふりはするが、本質的な反省はしない。時流にのって、その時々の御神輿を取っ替え引っ替え担ぐのが好き、というのが某大新聞の性(さが)であろうか。本質的に大本営発表が好きなんだよね。」[6月6日(土)]

このように、学界において肯定的に認知されていない説が、マスコミの分野で肯定的に大きくとりあげられ、社会で、ひとり歩きする傾向がある。
また、国立歴史民俗博物館名誉教授の白石太一郎氏は、このような騒動ののちも、「炭素年代測定の結果」にもとづき、「箸墓=卑弥呼の墓説」をのべている(白石太一郎著『古墳の被用者を推理する』(中央公論新社2018年刊)

■統計的年代推定論再論
炭素14年代測定法によるばあい、どのような資料を測定するか、などによって、誤差の幅が数百年となる。したがって、あらかじめ自説をもっているばあい、その広い幅の中に、自説にあてはまる年代を見出すことは、容易となる。これにくらべれば、統計的年代推定論は、誤差の幅が、はるかに小さい。

『日本書紀』によれば、箸墓古墳は、第10代崇神天皇の時代に、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓として、築造されたという。
『日本書紀』は、倭迹迹日百襲姫を、大市(おおち)[奈良県桜井市の北部]に葬ったという。
そして、『日本書紀』は記す。
「時の人は、その墓を名づけて、箸墓(はしのみはか)といった。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。大坂山(奈良県北葛城郡二上山の北がわの山)の石を運んで築造した。そのとき、山から墓に至るまで、人民が立ちならんで、手から手へ石を渡して運んだ。時の人は歌をよんでいった。大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手逓伝(たごし)に越さば 越しかてむかも(大坂山に下から上まで続いている石は、重くて大変だけれども、手渡しで渡して行けば、渡せるだろうかなあ。)」

この『日本書紀』の記述では、箸墓は、「大坂山の石を運んで築造した。」とある。
そして、『日本古代遺跡事典』(吉川弘文館刊)の「箸墓古墳」の項には、つぎのように記されている。

「箸墓古墳の葺石は黒雲母(うんも)花崗岩と斑糲岩(はんれいがん)で近くの初瀬川 から採取されたらしいが、石室材はカンラン石輝石(きせき)玄武岩で大阪府柏原市国分(かしはらしこくぶ)の芝山産と推定され、伝承(『日本書紀』の記述)と一致する。」このように、『日本書紀』の記述を、裏づけるような事実もある。

『日本書紀』では、箸墓古墳は、崇神天皇の時代に築造されたものとして記述されている。ただ、そうすると、箸墓古墳は、崇神天皇の生前に築造されたことになる。では、後でなくなった崇神天皇の陵が、なぜ、箸墓古墳よりも、時代的に古い形をしているのか、という問題が生じる。
『日本書紀』の記述が正しいとすれば、崇神天皇陵古墳は、寿陵(じゅりょう)[生前に作られた陵]であったことなどが、考えられよう。

『日本書紀』の「仁徳天皇紀」に、仁徳天皇が、寿陵を作った話がみえる。
いずれにしても、崇神天皇陵古墳と箸墓古墳とは、築造の時期が、それほど離れたものではないであろう。

■日本情報考古学会でのシンポジウム
2010年の3月27日(土)に、大阪大学で日本情報考古学会というこの分野の専門の学会で、「炭素14年代と箸墓古墳の諸問題」というテーマのシンポジウムが行なわれた。
このシンポジウムで、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとする説は、方法も結論も誤りであると、ほとんど、全面的に否定されている。このシンポジウムの内容は、日本情報考古学会の機関誌『情報考古学』のvol16、No2(2010年刊)以下に、連載で掲載されている。

そのなかで、さきの中村俊夫教授はのべている。
「炭素14年代は測定する対象によって、信頼度という点においてだいぶ違うことがあります。本日は、かなり土器付着炭化物の年代測定が叩かれておりましたけれど、確かにおっしゃるように年代測定してみると、試料によっては、例えば北海道産の土器付着炭化物試料は確実に実際の年代よりも古くなる傾向にあります。」

「最適な試料は陸産植物ですね。しかも単年生(たんねんせい)のもの(ある特定の一年に生じたもの)。」

「例えば今日、私か10点測って誤差の範囲内で非常によく一致するという話をしましたけれど、あれはオニグルミ(野生のクルミ)です。(中略)ああいった保存の良い試料については心配なく測れる。」

「それに対して、土器付着炭化物というものは、何を煮炊きして出来たものかよく分かりません。例えば、海産物起源のものですと、海の炭素リサーバーの影響が出てきまして、先ほど言いましたように、古い年代が得られる可能性が非常に高くなる。」

「試料の処理の仕方ですが、試料の化学洗浄処理をすると、土器付着炭化物が溶けて無くなってしまうので、少しお手柔らかにしようという風に手加減してやると、例えば試料に後から付着混入したものが十分に排除し切れないという問題が起こり得ます。そんな訳で、C14年代を測定依頼される方も、あるいは提出された年代を自分の理論に利用される研究者も、年代値を使われる際には、それがどんな試料を基に出た年代値であるのか、それが信頼できるのかどうか、自分の希望したぴったりの年代値が出てきたからといって、それに飛びつくことなく、冷静に判断して頂ければと希望します。」(以上、『情報考古学』vol18、No1・2、2012年刊による。)

要するに、あらかじめ「自説」をもっていて、その「自説」に「ぴったりの年代値」を、誤差の幅の広い炭素14年代測定値の中から見出して、マスコミ発表するという方法ではいけない、ということがのべられているのである。
箸墓古墳のばあい、測定試料として、なにを用いるかによって、500年以上の年代差を生ずるのである。
考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏がのべておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」[『古墳と被葬者の謎にせまる』(祥伝社、2012年刊)]

この常識をもってすれば、箸墓古墳の築造年代は、もっとも新しい年代を示す桃の核によって定められることになりそれは、おもに、4世紀ということになる。これは、卑弥呼の時代とは、重ならない。

なお、日本情報考古学会のシンポジウムでは、歴博研究グループの方にも、出席していただくよう招待をしたが、出席されなかったときく。

■箸墓古墳が、卑弥呼の墓ではありえない八つの理由
第1の理由
天皇一代在位年数約十年説で4世紀
上の「第10代崇神天皇の活躍年代上推定図」参照。

第2の理由
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、卑弥呼などではありえない
倭迹迹日百襲姫と卑弥呼とは、時代が重ならないばかりではない。
『日本書紀』の伝える倭迹迹日百襲姫についての記述は、『魏志倭人伝』や『後漢書』などの伝える卑弥呼についての記述と、基本的な点で合致していないところが多い。
たとえば、『魏志倭人伝』と『後漢書』とは、卑弥呼が王になった事情を、つぎのように記している。
「その国は、もと男子をもって王としていた。倭国が乱れ、たがいに攻伐しあって年をへた。そこで、一女子を共立として王とした。名づけて卑弥呼という」(『魏志倭人伝』)
「(卑弥呼の死後、)更(あらた)めて男王を立てたが、国中がそれに従わなかった。」(『魏志倭人伝』)

「倭国は大いに乱れ、たがいに攻伐しあった。歴年、主がいなかった。一女子があった。名を卑弥呼という。ともに立てて王とした。」(『後漢書』「東夷伝」)

これらの文章によれば、もとは男子の王がいたが、卑弥呼の時代には男王がいなかったということになる。
倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるとすれば、当時は、男王崇神天皇がいたことになり、「更めて男王を立てた」「歴年、主がいなかった」という『魏志倭人伝』や『後漢書』「東夷伝」の記事と、はっきり矛盾することとなる。

第3の理由
報告書『箸墓古墳周辺の調査』に示されている炭素14年代測定値
報告書『箸墓古墳周辺の調査』(奈良県立橿原考古学研究所、2002年刊)に、示されている布留0式期の桃核資料にもとづく年代値は、西暦320年を中央値とするものになっている。これについては、2021年8月22日の第390回「邪馬台国の会」で説明している。

第4の理由
報告書『ホケノ山古墳の研究』に示されている炭素14年代測定値
報告書『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所、2008年刊)に、示されている庄内式新段階の「最外年輪を含むおよそ12年輪の小枝試料にもとづく年代値は、西暦340年を中央値とするものになっている。これについても、2021年8月22日の第390回「邪馬台国の会」で説明している。

第5の理由
諸報告書にみられる庄内式新段階、布留0式期の桃核、小枝資料の炭素14年代測定値の加重平均にもとづく年代推定値
寺沢薫氏によれば、箸墓古墳は、布留0式古相期の築造とされる。箸墓古墳以外でも、奈良県桜井市の東田大塚古墳からも桃核資料が出土している。箸墓古墳、ホケノ山古墳、東田大塚古墳などの桃核資料、小枝資料などの炭素14年代測定値の加重平均を算出し、それによって年代の推定値を求めれば、下の図のようになる。

400-07

これについても、2021年8月22日の第390回「邪馬台国の会」で説明している。

第6の理由
箸墓古墳と同時期とみられる古墳、または、箸墓古墳と関連をもつ古墳で、現在までに発掘されたものは、ことごとく竪穴式石槨または、木槨をもつが、これは、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記事にあわない

これについては、二つの拙著『古代年代論が解く邪馬台国の謎』(勉誠出版、2013年刊)、『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)の中で、つぎの八つの古墳をとりあげ、ややくわしく論じている。
(1)日葉酢媛(ひばすひめ)の命(みこと)の陵墓
(2)ホケノ山古墳
(3)黒塚古墳
(4)神原神社古墳
(5)柳本天神山古墳
(6)桜井茶臼山古墳
(7)浦間茶臼山(うらまちゃうすやま)古墳
(8)下池山(しもいけやま)古墳

これらのうち、たとえば、「ホケノ山古墳」のばあい、つぎのような議論になる。
奈良県立橿原考古学研究所編『ホケノ山古墳 調査概報』(学生社、2001年刊)によれば、ホケノ山古墳においては、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その中心に木棺があった」「栗石積みの石囲いに覆われた木槨と木棺があった」という。
ホケノ山古墳の「木槨」は、『魏志倭人伝』の記述にあわない。北部九州の「甕棺」や「箱式石棺」、あるいは、「木棺直葬」などは、「棺あって槨なし」の記述に合致する。ホケノ山古墳の、槨のある墓制は、時代的に、邪馬台国よりものちの時代の墓制ではないか。

『三国志』の筆者は、葬制には関心をもっていた。つぎのように各国ごとに、いちいち書き分けている。
『韓伝』……「槨(外箱)ありて棺(内棺)なし。」
『夫余伝』……「厚葬(贅沢な埋葬)にして、槨ありて棺なし。」
『高句麗伝』……「厚く葬り、金銀財幣、送死に尽くす(葬式に使い果たす)。石を積みて封(塚)となし、松柏を列(なら)べ種(う)う。」(この記述は高句麗の積石塚とあう。)
『東沃沮(とうよくそ)伝』……「大木の槨を作る。長さ十余丈。一頭(片方の端)を開きて戸を作る。新(あら)たに死するものは、皆これに埋め、わずかに形を覆(おお)わしむ(土で死体を隠す)。」
『倭人伝』……「棺あって槨なし。土を封じて冢(つか)を作る。喪(なきがら)を停(とど)むること十余日(もがりを行なう)。」

このように、倭人の葬制が「韓」「夫余」「高句麗」「東沃沮」のいずれとも異なっていることを記している。

日本で「もがり(死者を埋葬する前に、しばらく遺体を棺に納めて弔うこと)」が行なわれたことは、『古事記』『日本書紀』に記述がみえるし、沖永良部(おきのえらぶ)島では明治のころまで行なわれていた(斎藤忠『古典と考古学』学生社、1988年刊)。

畿内のばあい、「木槨木棺墓」も「竪穴式(たてあなしき)石室墓」も、時代のくだる「横穴式石室墓」も、一貫して『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわない。
邪馬台国がかりに畿内にあったとすれば、魏の使いはそれらの葬制を見聞きせずに記したのであろうか。
時代のくだった『隋書倭国伝』は、「死者を斂(おさ)めるに棺槨(かんかく)をもってする。」と記す。隋の使いが畿内に行ったことは、『日本書紀』に記されている。西暦600年ごろ、日本の墓には棺槨があったのだ。中国人の弁別記述は鋭い。

いっぽう、九州の福岡県糸島市の平原(ひらばる)遺跡からは、40面の鏡が出土している。平原遺跡では、土擴(墓穴)のなかに割竹形木棺(丸太を縦二つに割り、それぞれの内部をくりぬいて、一方を蓋(ふた)、一方を身とした木棺。断面は円形)が出土した。
平原遺跡の割竹形木棺は、輻1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲った部屋」などはない。『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述に合致している。
平原遺跡の時期は、1998年度の調査で周溝から古式土師器(はじき)が出土し、また出土した瑪瑙(めのう)管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」『東アジアの古代文化』大和書房、1999年春'99号)。これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。また、平原遺跡出土の仿製鏡の製作年代は、西暦200年ごろと考えられている[前原市文化財報告書の『平原遺跡』、(前原市教育委員会、2000年刊)]。

九州では、古墳時代初頭の土師器の出土した福岡県福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳なども、割竹形木棺が直葬されていた。
九州でも時代が下り、竪穴式石室や横穴式石室が行なわれるようになると、「棺と槨」とがある状態となる。このことは、「棺と槨」とがある葬制は時代がやや下るのではないかという疑いをもたせる。

第7の理由
いわゆる「西晋鏡」にもとづく年代
拙著『データサイエンスが解く邪馬台国』(朝日新書)や、2021年7月25日の第389回「邪馬台国の会」などで、データをあげて述べたように、「位至三公鏡」などの、「いわゆる西晋鏡」は320年~350年ごろまで、北九州を中心に分布する。「位至三公鏡」は、中国では墓誌とともに出土している例があり、年代がほぼわかる。「位至三公鏡」の地域的分布は、おもに、「庄内式土器」の時代の鏡の分布状況を示す。したがって、そのあとの「布留式土器」の時代が、前方後円墳の時代にあたる。前方後円墳時代のおもな鏡は、「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」である。したがって、箸墓などの「前方後円墳」の時代は、「いわゆる西晋鏡」の時代のあとの350年以後ごろと考えられる。

第8の理由
箸墓古墳周濠から木製の輪鐙(わあぶみ)が出土している
箸墓古墳の周濠の上層から、布留1式期の土器とともに、木製の輪鐙が出土している。馬具が出土している(下図)。

馬具は、ふつう四世紀の終わりごろから五世紀のあたりに出土しはじめる。

西暦400年前後以後に築造の古墳から出土する。
いっぽう、布留0期、布留1式期の期間は、それぞれ、20年~30年ていどとみるのがふつうである。
西暦400年前後から、布留0式~布留1式はじめまでの40年~60年さかのぼれば、およそ、350年前後となる。卑弥呼の死亡の時期より、百年ほどあとである。
四世紀型古墳から馬具が出土している唯一の例は、福岡県の老司(ろうじ)古墳のばあいだけのようにみえる。畿内の古墳で、四世紀型古墳から馬具が出土している例を、私はしらない。
その福岡県の老司古墳も、『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)は、築造の時期を、「四世紀末葉の年代が考えられよう」とする。
畿内の古墳のばあい、馬具が出土する古墳は、まずは、西暦400年以後ごろと考えられよう。
そして、一つの土器の型式の存続期間は、20~30年ていどとみるのがふつうである。
たとえば、奈良県の纒向学研究センターの考古学者、寺沢薫氏は、つぎのようにのべる。「それでは、この(箸墓古墳の)『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいのだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは現状では不可能といってもいい。
しかし、そうもいってはおれない。私は、製作年代のわかりやすい後漢式鏡などの。中国製品の日本への流入時期などを参考に、弥生時代の終わり(弥生第4-2様式)を西暦三世紀の第1四半期のなかに、まだ、日本での最初期の須恵器生産の開始を朝鮮半島での状況や文献記事を参考にして西暦400年を前後する時期で考え、これを基点として、この間の時間を土器様式の数で機械的に按分する方法をとっている。つまり、それは180~200年を九つの小様式で割ることになり、一様式約20年、ほぼ一世代で土器様式が変わっていく計算になるわけだ。」[寺沢薫「箸中山古墳纏向遭跡』(学生社、2005年刊所収)]。ただし、傍線は、安本)

下図に示したように、馬具の出現を、西暦400年ごろとし、そこから、三様式ていどさかのぼっても、四世紀代のなかにおさまる。卑弥呼の時代には、とうていとどかない。
まして、「布留0式古相~布留0式新相」の時期を、二様式の続期間よりも短いとする考古学者の見解もあるのである。

400-09

卑弥呼の墓を、箸墓古墳にあてると、もうそろそろそのころから、日本で乗馬の風習がはじまることとなる。しかし、それは『魏志倭人伝』に、倭の地に「牛馬なし」と記されていることとあわない。『魏志』の「韓伝」には「牛馬に乗ることを知らない。牛馬はみな副葬に使用する」とある。

このように布留0式でも、古い時代にもって行けない。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと考えられる。

以上、8つの理由を述べたが、結論から言えば、全然見当違いであり、箸墓古墳は崇神天皇の時代の360年前後に築かれた墓であり、卑弥呼の時代から100年以上後の時代であって、それを卑弥呼の時代にもって行くのは話にならない。

「原始、女性は太陽であった。」
天地は開闢(かいびゃく)し、やがて、日本の古代の空に、二つの女性の太陽がのぼった。卑弥呼と天照大御神とである。
卑弥呼の名は中国の史書にあらわれ、天照大御神の名は日本の史書にあらわれる。
いま、この二つの太陽の軌道を追う。二つの軌道は一致しているか否か。

■パラレル年代推定法-古代への階段(きざはし)
倭の国(日本)は、卑弥呼の時代に、中国の魏の国と国交をもった。そのあと、西晋の国、東晋の国、南朝(江南、南中国)の宋の国など、連続する中国王朝と国交をもった(右の中国王朝の年代参照)。

南朝宋についての歴史書『宋書』に、西暦478年にあたる年に、倭王の武が、宋王朝に使いをつかわし、文書をたてまつったこと、宋の第8代皇帝の順帝の準(じゅん)が、倭王の武に「安東大将軍、倭王」などの称号を与えたことなどが記されている。
この倭王の武は、次の理由により、わが国の第21代の天皇の、雄略天皇のことであるとみられている。

(1)『古事記』によっても、『日本書紀』によっても、478年は、雄略天皇の治世の時代とみられること。すなわち、雄略天皇の没年を、『古事記』は489年にあたる年と記し、『日本書紀』は479年にあたる年と記している。

(2)倭王の武の「武」の名は、雄略天皇の名である「大長谷若建の命(おおはつせわかたけのみこと)」(『古事記』)、「大泊瀬幼武の天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)」(『日本書紀』)などの「建(たけ)」「武(たけ)」と関係があるとみられること。

(3)埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文により、471年[辛亥(しんがい)の年]が雄略天皇(獲加多支鹵)時代とみられること。

以上から、わが国の第21代の雄略天皇を、中国の南朝宋の第8代皇帝順帝準と同時代の人であるとみとめる(下のパラレル年代推定法の表を参照)。

そして、雄略天皇から n代さかのぼった天皇は順帝準から n代さかのぼった中国の皇帝と、大略同時代の人と推定することにする。

中国の皇帝については、史書の「帝紀」などに、くわしい記載がある。下のパラレル年代推定法の表の中国がわの、皇帝の在位期間データは、しっかりとしたほぼ確実なデータである。下のパラレル年代推定法の表は、一応それによって、はっきりとはしない日本の古代の天皇のおおまかな活躍年代を推定する方法である。

このような方法によると、第21代の雄略天皇から、機械的に25代さかのぼった天照大御神の時代は、中国の魏の廃帝芳(ほう)[斉王(せいおう)、在位239~254年]の時代にほぼあたることになる。そして『魏志倭人伝』は、239年、243年に、卑弥呼が魏の国に遣使したこと、斉王芳の在位期間の247年か248年のころに、卑弥呼が死去したことを記す。

すなわち、廃帝芳(斉王)の治世時期をてがかりに、卑弥呼と天照大御神の同時代性が浮かびあがってくる。つまり、第21代の雄略天皇の時代から、同じ代数だけ古代への階段をさかのぼった日本の天皇や祖先神と中国皇帝らのペアが、それぞれまったく同じ在位年数をもっていたならば、天照大御神の時代は、卑弥呼の時代に、ほぼちょうど重なりあうことになる。
ペアになる中国の皇帝の治世年代によって、日本の古代の諸天皇のおおまかな年代を推定しよう、というわけである。この方法を「パラレル年代推定法」と名づける。

「パラレル年代推定法」では、ペアとなる皇帝と天皇との在位年数が、完全に同じでなくても、推定期間における「在位年数の平均値」が中国と日本とで同じならば、同様の推定結果がえられることになる。そして、古代皇帝や天皇の在位年数の平均値が中国と日本とで、それほど変わらないと判断されるデータについては、次節で説明する。

(下図はクリックすると大きくなります)401-02

■日本、中国の天皇・皇帝・王の在位年数
前回(第400回、6月19日)の「邪馬台国の会」でも、説明したところであるが、日本の天皇と、中国の皇帝・王などの「平均在位年数」は古代から現代にむけて、きわめて近い形で推移している。400年ごとにまとめた「平均在位年数」の推移の状況は、下図のとおりである。

401-03

上の図の99天皇ののべ在位期間は、1454年間。
(プラス)と(マイナス)が消しあい]99天皇のそれぞれの在位期間が、中国の王の平均在位年数にしたがうとき、そののべ在位期間は、1450年となり、両者の差は4年しかない。
およそ、1500年でも、誤差の累積(年代推定値のくいちがい)は4年程度ということも、考えられる。

津田左右吉は、戦前、『神代史の新しい研究』(1913年)、『古事記及び日本書紀の新研究』(1924年)、『神代史の研究』(1924年)(以上いずれも、岩波書店刊)など、一連の著述をあらわし、『古事記』『日本書紀』などの文献の、史料としての価値についての研究をおこなった。
今から、およそ、百年まえのことである。
津田は、主として、『古事記』『日本書紀』の記述のあいだのくいちがいあるいは、相互矛盾をとりあげ、そこから、『古事記』『日本書紀』に記されている神話は、天皇がわが国の統一君主となったのち、第29代欽明(きんめい)天皇の時代のころ、すなわち、六世紀の中ごろ以後に、大和朝廷の有力者により、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする政治的意図にしたがって、つくりあげられたものである、と説いた。

しかし、欽明天皇(在位539~571)のころまで、中国では、女性の皇帝の例はまったく存在しない。中国の唯一の女性皇帝は、唐の則天武后(在位684~705)で欽明天皇の後の時代である。
わが国でも、欽明天皇の時代までに、女性の天皇の例は、一例も存在しない。わが国最初の女性天皇は第33代の推古天皇(在位593~628)。以後、合計8人、10代(二度天皇になった女性が、二人いる)。
中国でも日本でも、欽明天皇の時代までに、女帝は、一人も、知られていない。
卑弥呼と天照大御神とは、考え方によっては、時代が合うと言うのは、偶然ではなかなか起きそうでないのに、ともに女性の最高主権者的存在であるというのは、偶然では、さらに起きそうもないことである。
天照大御神が、のちに作られた神ならば、なんのために、女神にしなければならなかったのか。

上のパラレル年代推定法の表をみれば、箸墓古墳築造の年代(崇神天皇の時代)を卑弥呼の時代にもって行くのは、とうてい無理である。 津田左右吉説よりも、新井白石の「神は人なり」説、あるいは、「神話史実主義(エウヘメリズム)」をとったほうが、ずっと自然な説明ができる。

紀元前300年ごろに、シチリア島に生まれたとみられる神話学者、エウヘメロス(Euhēmeros)は、神話は、史実にもとづくとする説をたてた。
すなわち、ギリシア神話の神々は、人間の男女の神話化したものと説いた。神々は、元来、地方の王または征服者、英雄などであったが、これらの人々に対する人々の尊崇、感謝の念が、これらの人々を神にしたとする説(エウヘメリズムeuhemerism)である。

第二次大戦後のわが国では、津田左右吉流の立場から、神話と歴史とは峻別すべしということで、エウヘメリズムは、批判の対象とされることが多かった。しかし、エウヘメロスの考えは、シュリーマンの発掘によって、実証された部分があるともいいうる。
ヘレニズム(ギリシア精神)のなかから、もろもろの科学が芽ばえた。
エウヘメリズムは、神話についての合理的説明をこころみたものとして、もう一度みなおされる必要がある。

そもそも、「事実」や「史実」の、神話化や伝説化は、古代においては、容易におきうることである。「史実」と「神話」の峻別は、原理的に不可能である。神話をすてれば、それとともに史実も捨てることになりかねない。
「ことば」の「表現形式(声によるものであれ、文字によるものであれ)」は、その表現形式がさし示す「ことば」の「表現内容(意味内容)」とずれがちになることは、むしろ、ふつうである。(ここでは、「ことば」は、「表現形式」と「表現内容」とが、表裏となって合わさったものである、とする立場をとる。これは、言語学者、ソシュールの説いた立場で、言語学の分野では、わりに広くみとめられている立場である。)
リンゴは食べることができるが、リンゴということばは食べることができない。

現代でさえ、『古事記』『日本書紀』の神話は、後代の創作物で、史実をふくむとはみられない、というような、見方によっては、神話そのものが示している「内容」とずれたレッテルはりの解釈がひろく行なわれている。「神話」そのものについての、「内容」からずれた理解、すなわち、一種の「神話化」がみられるのである。神話化の要素を、すこしでも含むものは、すてるべし、という立場をとるならば、津田史実の全体も、またひとつの神話として、すてなければならなくなる。
「神話」は「史実」でない部分をふくむからといって、「神話」の全体をすてさるのではなく、どの部分が史実であるかを、ふるいわけ、とりだす技術をみがくことこそが重要である。

■「世代差による年代間隔」と「在位期間」とは異なる
「世代差による年代間隔(世代間年代差)」と「在位期間(在位年数)」と異なる。この二つは、よくゴッチャにして議論されている。
「在位期間」は、現代でいえば、総理大臣職にあたるような「国政担当期間」、あるいは「名目的政治代表者である期間」で、天皇あるいは皇帝という一種の「職」にある期間である。
「在位期間」はふつう、「世代間年代差」よりも小さい。

コラム 世数と代数
古代の天皇の活躍年代(あるいは、即位年代、在位年代など)を推定しようとするばあい、天皇の「代数」を基本的な変数(独立変数)と考える立場と、天皇の「世数」を基本的な変数と考える立場とがある。
たとえば、右上の系図のようなばあい、第二十四代仁賢天皇は、第十六代仁徳天皇から数えて「八代目」の天皇である。しかし、世数からいえば、「三世目」の天皇である。「世数」では、親子関係によって、何世目かを数えるわけである。

401-04

天皇の継承で、父から子に長く続いた例は少なく、
第119第光格天皇から現在の今上天皇の例で、8代続いているのが最長である。

その前は5代続いた例が、平安時代の第71代後三条天皇からと、戦国織豊時代の第102代後花園天皇からと、江戸時代の第112代霊元天皇からの3例である。(下図参照)

それなのに、伝承時代は第1代神武天皇から第13代成務天皇までの13代と続いている。

401-05

この例から、平安時代の第71代後三条天皇から崇徳天皇までのつながりを詳細にみると、下記となる。
401-06

このように、白河天皇は没するまでに、子供の堀川天皇(8歳で即位)、孫の鳥羽天皇(5歳で即位)の後見役となっている。白河天皇の存命中に3代の天皇が即位していったことになる。
つまり、一世二世の数え方は、天皇の在位年数を数える時に役に立たない。
一般的な戸主を考えるように、親がやめたら、息子が戸主になり、その親がやめたらその子(最初の孫にあたる)が戸主になるというようにならない。

だから、天皇の一世、二世で考えるより、天皇の一代、二代で考える方が良い。

■代数情報は、父子関係情報・兄弟関係情報よりも信頼できる
たとえば、古代の百済の王の系譜の例をみてみよう。
百済王の代数情報については、『日本書紀』と、朝鮮の史書『三国史記』とで、伝えるところが一致している。しかし、王の系譜の父子関係、兄弟関係などは、『三国史記』とで、かなり異なっている(下の系図参照)。401-07

時代の古いところで、その異なりは大きい。しかも、『日本書紀』と『三国史記』とは、それぞれ文献としての長所をもっている。すなわち、つぎのとおりである。

(1)『日本書紀』の成立は、720年である。『三国史記』の成立は、1145年である。『日本書紀』のほうが、『三国史記』よりも、400年以上はやく成立している。すなわち、古い情報をとどめている可能性が大きい。

(2)『三国史記』は、地元の朝鮮で成立した文献である。外国の史書『日本書紀』の記事よりも、伝聞的要素が少ないはずである。
上の系図にみられるように、『日本書紀』によるとき、第二十代毗有王(ひゆうおう)の四世目(父子関係で、四世代目)の孫が、第二十七代威徳王(いとくおう)である。いっぽう、『三国史記』によるとき、第二十代毗有王(ひゆうおう)の孫が、第二十七代威徳王である。王の代数は『日本書紀』も『三国史記』も、威徳王は毗有王(ひゆうおう)から数えて、同じく七代目で一致している。しかし、世数は四世目と六世目とで異なっている。
このように、世数情報(父子関係情報)は、あやふやであるが、王の代数情報は、よりよく伝えられているようにみえる。

考古学者の笠井新也は、つぎのようにのべている。
「わが国の古代における皇位継承の状態を観察すると、神武天皇から仁徳天皇にいたるまでの十六代の間は、ほとんど全部父から子へ、子から孫へと垂直的に継承されたことになっている。しかし、このようなことは、私の大いに疑問とするところである。なぜならば、わが国において史実が正確に記載し始められた仁徳以後の歴史、とくに奈良朝以前の時代においては、皇位は、多くのばあい、兄から弟へ、弟からつぎの弟へと、水平的に伝えられているからである、かの仁徳天皇の三皇子が、履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)と順次水平に皇位を伝え、継体天皇の三皇子が、安閑(あんかん)・宣化(せんか)・欽明(きんめい)と同じく水平に伝え、欽明天皇の三皇子・一皇女の四兄弟妹が、敏達(びたつ)・用明・崇俊(すしゅん)・推古と同じく水平に伝えたがごときは、その著しい例である。したがって、この事実を基礎として考えるときは、仁徳天皇以前における継承が、単純に、ほとんど一直線に垂下したものとは、容易に信じがたいのである。

山路愛山(やまじあいざん)は、その力作『日本国史草稿』において、このことに論及し、『直系の親子が縦の線のごとく相次いで世をうけるのは、中国式であって、古(いにしえ)の日本式ではない』。それは、『信ずべき歴史が日本に始った履中天皇以後の皇位継承の例を見ればすぐわかる』『仁徳天皇から天武天皇まで通計二十三例のあいだに、父から子、子から孫と三代のあいだ、直系で縦線に皇位の伝った中国式のものは一つもなく、たいてい同母の兄弟、時としては異母の兄弟のあいだに横線に伝って行く』『もし父子あいつづいて縦に世系の伝って行く中国式が古の皇位継承の例ならば、信ずべき歴史が始ってからの二十三帝が、ことごとくその様式に従わないのは、誠に異常なことと言わなければならない。ゆえに私達は、信ずべき歴史の始まらないまえの諸帝も、やはり歴史後と同じく、多くは同母兄弟をもって皇位を継承してたであろうと信ずる』と喝破(かっぱ)しているのは傾聴すべきである。」(「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」『考古学雑誌』第十四巻、第七号、1924年【大正十三年】四月、所収)

慶応大学の教授であった橋本増吉、大著『東洋史上よりみたる日本上古史研究』(東洋文庫、1956年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「父子直系のばあいの一世平均年数が、ほぼ二十五、六年ないし三十年前後(じっさいはもうすこし短い)であることは、那珂博士の論じられたとおりであろうけれども、わが上代のおよその紀年を知るために必要なのは、父子直系の一世平均年数ではなく、歴代天皇のご在位年数なのであるから、那珂博士算出の平均一世年数をもって、ただちに上代の諸天皇の御在位平均年数として利用すべきでないことは、明白なところである。」

笠井新也は、邪馬台国問題に関連して、卑弥呼を「わが古代史上のスフィンクス」と呼び、およそつぎのようにのべている。
「邪馬台国と卑弥呼とは、『魏志倭人伝』の中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。そのいずれか一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋であるか、あるいは、大和朝廷に関係のある女性であるかの問題は、おのずから解決する。また、卑弥呼が何者であるかという問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。したがって、私は、この二つのうち、解決の容易なものから手をつけて、これを究明し、そののちに他に考えおよぶのが、怜悧な研究方法であろうと思う。」(「邪馬台国は大和である」〔『考古学雑誌』第十二巻第七号、1922年3月〕)

「思うに、『魏志倭人伝』における邪馬台国と卑弥呼との関係は、たがいに密接不離の関係にあり、これが研究は両々あいまち、あい援(たす)けて、初めて完全な解決に到達するものである。その一方が解決されたかに見えても、それは真の解決とは言いがたいのである。たとえば錠と鍵との関係のごとく、両者相契合(けいごう)[割符(わりふ)のあうようにあうこと]して初めてそれぞれ正しい錠であり、正しい鍵であることが決定されるのである。」(「卑弥呼の冢墓と箸墓」〔『考古学雑誌』第三十二巻第七号、1942年7月〕)
つまり、「邪馬台国問題」については、つぎの二つが、同時に解決されなければ真の解決とはいえない、というのである。

(1)邪馬台国はどこか。
(2)卑弥呼はだれか。

より統一理論を求めよ、ということである。統一理論を求めよ、ということは、妥当な見解である。

笠井新也の説
箸墓古墳=倭迹迹日百襲姫の墓=卑弥呼の墓
(これでは、男王 崇神天皇が、卑弥呼と別にいることになる。)

「パラレル年代推定法」によれば、魏の国の斉王芳が、卑弥呼、天照大御神の三者の年代が、ほぼ正確に一致する。かつ、卑弥呼と天照大御神とのあいだには、ともに女性であるという一致がみられる。

以上のべてきたように、卑弥呼は神話時代の天照大御神の時代にあたる。崇神天皇の時代に構築された箸墓古墳が卑弥呼の墓であることはありえない。百年以上年代が違っているとみるべきである。

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