中将姫さまと當麻曼荼羅
當麻寺はもともと弥勒仏さまの寺として創建されたのですが、いつからか當麻曼荼羅の寺として親しまれています。この當麻曼荼羅は奈良時代に成立したもので、その謂われとして藤原家の郎女・中将姫(ちゅうじょうひめ)さまの尊い物語が伝わっています。 中将姫さまは、天平19年(747)藤原豊成の娘として奈良の都にお生まれになりました。観音さまに祈願して授かった子で、姫さま自身も観音さまを篤く信仰されました。4才の時には『称讃浄土経』と出会い、幼少の頃からこの経典を諳んじていたといわれています。しかし、5才の時に母を亡くし、豊成が後妻を迎えるようになると、その継母に妬まれるようになり、次第に命さえ狙われるまでになります。周囲の助けで命を長らえながらも、あえて継母を恨むことなく、14才の時、雲雀山へ逃れ、読経三昧の隠棲生活を送られました。
その時の姫さまの境地を伝えたものとして『中将姫山居語』というものが残されています。これは「男女の境界もないので愛欲の煩いもない」からはじまり、「山の中で灯をともす油もないが、自分の心の月を輝かせばよい」など、心のありようを説いた姫さまの尊い言葉がつづられており、中之坊霊宝館に収蔵されています。
隠棲生活から晴れて都に戻った姫さまは、『称讃浄土経』の写経をはじめられました。毎日欠くことなく筆を採り、経典を書き写し続け、1000巻の写経を成し遂げられた16才のある日、太陽の沈みゆく西の空に神々しい光景を見たのでした。夕陽の中に阿弥陀仏が浮かび上がり、夕空一面に極楽浄土の光景が広がったのです。
その光景に心を奪われた姫さまは、あの夕陽の中に見たほとけさまにお仕えしたいという一念で都を離れられます。観音さまを念じながら姫さまはひたすら歩かれました。そして、観音さまに手を引かれるようにたどり着いたのが、夕陽を象徴する山・二上山の麓だったのです。 そこに當麻寺がありました。
当時の當麻寺は男僧の修行道場であり、女人禁制でした。入山が許されなかった姫さまは、門前にある石の上で一心に読経を続けられます。数日後、不思議にもその石には読経の功徳で姫さまの足跡が刻まれました。その奇跡に心を打たれた当時の當麻寺別当(住職)実雅和尚は、女人禁制を解いて姫さまを迎え入れたのでした。この時の霊石は「中将姫誓いの石」として、現在、中将姫剃髪堂の横に移されています。
翌年、中院の小堂(現・中将姫剃髪堂)で、剃髪の儀が執り行われました。天平宝字7年(763)6月15日のことです。姫さまは法如という名を授かり尼僧となられました。
翌16日、法如さまは前日剃り落とした髪を糸にして、阿弥陀さま、観音さま、勢至さまの梵字を刺繍します。そして、あの日夕陽の中に見た阿弥陀仏の姿、夕空に広がった浄土の姿を今一度拝ませて欲しいと一心に願われました。
その想いにみほとけがお応えになります。翌17日、一人の老尼が現れ「蓮の茎を集めよ」とお告げになりました。その言葉にしたがい、父・豊成公の協力を得て大和のほか河内や近江からも蓮の茎を取り寄せたところ、数日で百駄ほどの蓮茎が集まりました。そして、再び現れた老尼とともに、蓮茎より糸を取り出し、その糸を井戸で清めると、不思議にも五色に染め上がったといいます。
22日の黄昏時、ひとりの若い女性が現れ、五色に染まった糸を確認すると、法如さまを連れて千手堂の中へ入ったのでした。
三時(みとき)の時間が過ぎた翌23日。
法如さまの目の前には五色の巨大な織物ができあがっていました。そこには、法如さまがあの日の夕空に見た輝かしい浄土が表されていたのです。
これが国宝・綴織當麻曼荼羅です。
織物の中央には阿弥陀仏。その左右に観音さまと勢至さま。さらにさまざまな聖衆が集っていました。周囲には、『観無量寿経』に説かれているお釈迦さまの教えも描かれています。
多くの聖衆や鳥たちまでもがお互いに慈しみ合って調和の世界を築いている、
すなわち「マンダラ(mandala)」世界。
阿弥陀仏と観音さまが、それぞれ老尼と織女に姿をかえて起こした奇跡。
法如さまの願ったものがそこにありました。 曼荼羅の輝きに心を救われた法如さまは、人々にその教えを説き続けます。 そして12年後、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということですが、曼荼羅の教えはその後も生き続け、人々の拠り所となっていきます。鎌倉時代以降には転写本も次々と作られて、代々受け継がれていきました。 また、法如さまの信仰された観音さまは、平安時代に木彫に刻まれ、こちらも多くの人々の支えとなりました。今でも、中将姫さまの守り本尊「導き観音」さまとして、広く信仰を集めているのです。
中将姫さまの願いによって織り表された當麻曼荼羅は千手堂に祀られ、次第に多くの人々に知られるようになっていきます。その信仰の広まりとともに、千手堂は解体され拡張され、現在の大きな曼荼羅堂となり、當麻曼荼羅はいつからか當麻寺のご本尊として拝まれるようにまでなっていきました。 平安時代のはじめ。嵯峨天皇さまがある時、お大師さま(弘法大師・空海)に當麻曼荼羅の印義をお尋ねになりました。それを受けて弘仁十四年(824)秋、お大師さまが當麻寺をお訪ねになります。お大師さまは二十一日間曼荼羅堂にお籠もりになり、當麻曼荼羅の前で瞑想されました。この時、お大師さまは中将姫さまの想いを観じとられたのです。
それは「マンダラ(maṇḍala)の教え」でした。 マンダラ(maṇḍala)とは、仏法の境地や世界観を視覚的・象徴的に表したもので、主に、仏画でそれを表した「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」が"両部の曼荼羅"として知られています。仏教は唯一神や絶対仏を説きません。「真言宗は大日如来が絶対仏」と誤解される方もありますがそうではありません。「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」では、たくさんの仏菩薩たちが大日如来さまを中心にそれぞれの役割・はたらきをもってお互いに支え合い、補い合っています。これを「相互礼拝」「相互供養」といい、それが完成された調和の世界を「密厳浄土」とお呼びします。そしてその「密厳浄土」をこの世で実現しようというのが「マンダラ(maṇḍala)の教え」なのです。 當麻曼荼羅には、多くの仏菩薩、天人そして鳥たちまでもがお互いに慈しみ合って調和の世界を築いています。中将姫さまの願われた美しい「マンダラ(maṇḍala)」世界です。 そしてそのマンダラ世界を築くため、當麻曼荼羅の左縁(右辺)には、『観無量寿経』に説かれている観想法も記されております。心を調えてひとりひとりが菩薩さまの心に近づくための教えです。
當麻曼荼羅は、単なる極楽浄土の風景画ではなく、この世に調和の世界を築こうという願いと、それを実現しようという教えと、それを支えるほとけさまが描かれているのです。 お大師さまは、當麻曼荼羅から感得した「マンダラ(maṇḍala)の教え」を、中院(現・中之坊)院主・実弁和尚にお授けになりました。この時より當麻寺は中之坊を中心として真言宗の寺院となっていきます。 お大師さまが参籠された曼荼羅堂には「参籠の間」がのこっており、お弟子の真雅僧正さまと智泉法師さまとともにお大師さまの肖像画が張壁で描かれています。 この部屋では「いろは歌」をお作りになったという伝承も残っており、また、當麻寺の境内右奥手には「大師堂」が創建され、當麻寺において大師信仰が盛んであったことを物語っています。
この大師信仰と、中将姫さまの女人信仰が重なって、當麻寺(中之坊)は「女人高野」としても信仰されました。中之坊霊宝殿には「當麻寺女人高野大師」と刻まれた江戸時代の版木が残っています。 ところで、お大師さまが當麻寺を訪ねられた理由には、嵯峨天皇に當麻曼荼羅の印義を説くほかに、もうひとつ理由があったとも考えられています。 それは、非業の死を遂げ二上山に葬られた大津皇子の魂を鎮めるためであったということです。折口信夫博士が『死者の書』で藤原郎女(中将姫さま)に託された役割を、実際にはお大師さまが果たしておられたのですね。
それは「マンダラ(maṇḍala)の教え」でした。 マンダラ(maṇḍala)とは、仏法の境地や世界観を視覚的・象徴的に表したもので、主に、仏画でそれを表した「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」が"両部の曼荼羅"として知られています。仏教は唯一神や絶対仏を説きません。「真言宗は大日如来が絶対仏」と誤解される方もありますがそうではありません。「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」では、たくさんの仏菩薩たちが大日如来さまを中心にそれぞれの役割・はたらきをもってお互いに支え合い、補い合っています。これを「相互礼拝」「相互供養」といい、それが完成された調和の世界を「密厳浄土」とお呼びします。そしてその「密厳浄土」をこの世で実現しようというのが「マンダラ(maṇḍala)の教え」なのです。 當麻曼荼羅には、多くの仏菩薩、天人そして鳥たちまでもがお互いに慈しみ合って調和の世界を築いています。中将姫さまの願われた美しい「マンダラ(maṇḍala)」世界です。 そしてそのマンダラ世界を築くため、當麻曼荼羅の左縁(右辺)には、『観無量寿経』に説かれている観想法も記されております。心を調えてひとりひとりが菩薩さまの心に近づくための教えです。
當麻曼荼羅は、単なる極楽浄土の風景画ではなく、この世に調和の世界を築こうという願いと、それを実現しようという教えと、それを支えるほとけさまが描かれているのです。 お大師さまは、當麻曼荼羅から感得した「マンダラ(maṇḍala)の教え」を、中院(現・中之坊)院主・実弁和尚にお授けになりました。この時より當麻寺は中之坊を中心として真言宗の寺院となっていきます。 お大師さまが参籠された曼荼羅堂には「参籠の間」がのこっており、お弟子の真雅僧正さまと智泉法師さまとともにお大師さまの肖像画が張壁で描かれています。 この部屋では「いろは歌」をお作りになったという伝承も残っており、また、當麻寺の境内右奥手には「大師堂」が創建され、當麻寺において大師信仰が盛んであったことを物語っています。
この大師信仰と、中将姫さまの女人信仰が重なって、當麻寺(中之坊)は「女人高野」としても信仰されました。中之坊霊宝殿には「當麻寺女人高野大師」と刻まれた江戸時代の版木が残っています。 ところで、お大師さまが當麻寺を訪ねられた理由には、嵯峨天皇に當麻曼荼羅の印義を説くほかに、もうひとつ理由があったとも考えられています。 それは、非業の死を遂げ二上山に葬られた大津皇子の魂を鎮めるためであったということです。折口信夫博士が『死者の書』で藤原郎女(中将姫さま)に託された役割を、実際にはお大師さまが果たしておられたのですね。
創建当初の當麻寺は奈良仏教の学問寺院で、特に三論宗が盛んであったようです。これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでした。 平安時代はじめ、中院(現・中之坊)院主の実弁和尚がお大師さま(弘法大師・空海)に教えを授かり、當麻寺は真言宗の寺となります。「空」の境地を体得するだけでなく、それによって得た智慧を生かし、この世に調和の世界「密厳浄土」を実現しようという「マンダラ(mandala)の教え」で、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。 これにより當麻寺は、学問寺院から、修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として変化します。それに伴い、密教文化が花開き、十一面観音像や妙幢菩薩像、紅頗梨色阿弥陀如来像など優れた密教美術を遺すことになりました。 しかし平安中期以降、當麻氏の勢いが衰えることによって當麻寺の寺勢も衰え、さらに平安時代末期、大きな危機が訪れます。治承4年(1180)に起こった平家による南都焼討の際、当時、興福寺の勢力下にあった當麻寺も別働隊の攻撃を受けたのです。講堂は全焼、金堂も大破するという惨事でした。 その危機を救ったのはやはり當麻曼荼羅の存在でした。鎌倉時代以降、末法思想の広がりとともに、浄土教が隆盛していきます。特に証空上人が當麻曼荼羅を再評価してから、當麻曼荼羅は数々の写本が作られ、全国に広がり、「欣求浄土」の象徴として絶大な信仰を集めました。 金堂は寿永3年(1184)には再建され、仁治2年(1242)~3年(1243)、源頼朝らの寄進によって當麻曼荼羅の厨子が修理され、須弥壇が造られています。講堂も乾元2年(1303)に再建され、正中3年(1326)には金堂の大規模な修理も行われています。
私寺ながら、多くの人々の支えによって、少しずつ守られて来た様子がうかがえます。 さらに浄土信仰が広まることにより浄土宗や浄土真宗などの教団が成立し発展していくと、「欣求浄土」の象徴としての當麻曼荼羅がそうした教団から注目されるようになります。 南北朝時代の応安3年(1370)、京都知恩院が當麻寺に目を向け、境内奥に往生院(現・奥院)を創建しました。真言宗に浄土宗が同居するようになったのはこの時からです。
やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになり、曼荼羅堂での行事に限っては伝統行事にも参加していくようになりました。また、當麻寺の護持運営にも少しずつ関与するようになって二宗共存の今の形ができていきます。
そして、現在は真言宗五ヶ院(中之坊・西南院・竹之坊・松室院・不動院)に加え、浄土宗八ヶ院のうち二ヶ院(護念院・奥院)が當麻寺の護持・運営に携わっているのです。 現在では、この真言宗・浄土宗の二宗共存について注目される方が多いようですが、法会を真言宗・浄土宗の両宗で勤めるのは曼荼羅堂においてだけで、それ以外の金堂、講堂などで行われる伝統法会は今も真言宗の塔頭だけで勤められています。むしろ興味深いのは、そうした真言宗で行われている當麻寺の伝統法会が、真言宗の作法だけで行われているわけではないというところでしょう。南都寺院伝統の悔過(けか)作法や、最勝王経、法華経の講読など、真言以前のものから中世以降に影響を受けたものまで、さまざまな儀式・所作が混在して残っており、こうした部分にこそ當麻寺らしさを感じることができるのかもしれません。 當麻寺で最も大切な行事である「蓮華会(7月23日)」では、曼荼羅堂にて勤行が早朝に勤められていますが、一時絶えていた古式の「蓮華会法則」に基づく法会が近年再興され、中之坊写佛道場にて午後にもう一座勤められています。中之坊においてはこのような伝統の復興も行われている反面、「導き観音祈願会(毎月16日)」では「音楽法要」などの新たな試みがとり入れられています。
故きを大切にしながらも固執することなく、宗派にとらわれることもなく、伝統と革新を繰り返してきた當麻寺の象徴的な姿をここに見ることができます。
私寺ながら、多くの人々の支えによって、少しずつ守られて来た様子がうかがえます。 さらに浄土信仰が広まることにより浄土宗や浄土真宗などの教団が成立し発展していくと、「欣求浄土」の象徴としての當麻曼荼羅がそうした教団から注目されるようになります。 南北朝時代の応安3年(1370)、京都知恩院が當麻寺に目を向け、境内奥に往生院(現・奥院)を創建しました。真言宗に浄土宗が同居するようになったのはこの時からです。
やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになり、曼荼羅堂での行事に限っては伝統行事にも参加していくようになりました。また、當麻寺の護持運営にも少しずつ関与するようになって二宗共存の今の形ができていきます。
そして、現在は真言宗五ヶ院(中之坊・西南院・竹之坊・松室院・不動院)に加え、浄土宗八ヶ院のうち二ヶ院(護念院・奥院)が當麻寺の護持・運営に携わっているのです。 現在では、この真言宗・浄土宗の二宗共存について注目される方が多いようですが、法会を真言宗・浄土宗の両宗で勤めるのは曼荼羅堂においてだけで、それ以外の金堂、講堂などで行われる伝統法会は今も真言宗の塔頭だけで勤められています。むしろ興味深いのは、そうした真言宗で行われている當麻寺の伝統法会が、真言宗の作法だけで行われているわけではないというところでしょう。南都寺院伝統の悔過(けか)作法や、最勝王経、法華経の講読など、真言以前のものから中世以降に影響を受けたものまで、さまざまな儀式・所作が混在して残っており、こうした部分にこそ當麻寺らしさを感じることができるのかもしれません。 當麻寺で最も大切な行事である「蓮華会(7月23日)」では、曼荼羅堂にて勤行が早朝に勤められていますが、一時絶えていた古式の「蓮華会法則」に基づく法会が近年再興され、中之坊写佛道場にて午後にもう一座勤められています。中之坊においてはこのような伝統の復興も行われている反面、「導き観音祈願会(毎月16日)」では「音楽法要」などの新たな試みがとり入れられています。
故きを大切にしながらも固執することなく、宗派にとらわれることもなく、伝統と革新を繰り返してきた當麻寺の象徴的な姿をここに見ることができます。
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