南方熊楠全集3(雑誌論考Ⅰ)、618頁、平凡社、1971.11.29(93.9.20.13p)
(5)《東洋学芸雑誌》
オリーヴ樹の漢名
六月十三日の『大阪毎日新聞』にいわく、「本草学者牧野氏の説によれば(中略)オリーブ樹も、ずっと昔から漢名を誤られた植物で、古い本にも橄欖《かんらん》と書いてあるが、原来オリーヴ樹は欧州地方に産する木犀科の一種で、橄欖は支那産の橄欖科の植物である。かく科は異なっておるが、その果実などがよく似ておるので、西洋人が橄欖をチャイナ・オリーヴと呼びしを、支那人が『バイブル』を訳する時、オリーヴを橄欖と訳したのが、そもそも誤りの基であった。今日は教科書などにはすでにこの誤りを正されておるが、一般に漢名を用いるなら、日本薬局方の阿列布の正しきに従いたいものである」と。
按ずるに、従来支那地方にオリーヴなき由を述べたる書多し。Huc の'L'Empirec chinois,'1854,tom.ⅱ,p.382 に引ける九世紀のアラビア人の支那紀行に、唐朝の博徒、銭なくて指を賭して輸贏《ゆえい》を争うとて、あらかじめ身側に油を備え、打ち負けたる者、指を切り落として直ちにこれに浸し療ずることを言えるに、殻果(茶、山茶の種子等をいうか)あるいは胡麻《ごま》の油を用ゆ、この土オリーヴなければなり、と弁じ、十三世紀に元の世祖に仕えしマルコ・ポロは、支那への途上バダクシャンにオリーヴ油なく、殻果および胡麻の油あり、胡麻の油はその味諸他の油に優ると言い、一三〇七年に筆するハイトンの『東国史』(Bergeron,'voyages,'La Haye、1735 にその仏訳を収む)には、支那の諸隣島に最高価なる希品はオリーヴ油なり、王侯薬用してはなはだこれを重んずと見え、サルタニヤ大僧正の『大汗書』(一二三(6)〇年ごろの著という)にも、オリーヴ油と葡萄酒は支那になしと記せり(Yule,'Cathay and the Way Thither,'1866,vol.i,p.243)。近世に?《およ》んで、Navarrete は支那にオリーヴなきを明言し、Le Comte 支那のオリーヴはおのずから欧州の物と異にして、もって油を作ることなしと記せるに、ひとり Du Halde は、『図経本草』等によって、形色産地の相似より推して、橄欖、オリーヴを一物とし、欧州と同法もて調えなば、同じ味を生ずべし、と言えり(Astley,'Voyages and Travels,'1847,vol.ⅳ,p.290)。
阿列布の字は新しき音訳にして、漢名というほどの由来なければ、わが邦には仮字でオリーフと認《したた》める方、勝れること万々なるは言うまでもなし。ただし、強いて一字も字数少なくて意に基ずきて作れる漢名らしきものを用いんとならば、洋橄の二字可ならん。F.P.Smith,'Contributions towards the Materia Medica and Natural HistOry of China,'1871,p.160)に出でたり。
また実はこの樹の外国名の音訳ながら、その出処の古き、今日ほとんど漢名たるの観あること、鮓荅《さくとう》(脱脱《タタール》語の jadahtash)、胡盧巴(アラビア語の hulba)、瑠璃(梵名 vâidûrya の略)のごとくなるものを求められんには、予は千歳以上の古えに成れる『酉陽雑俎』巻一八に載せたる斉暾樹をもって答うるに躊躇せず。いわく、「斉暾樹は、波斯《ペルシア》国に出で、また払林国に出ず。払林にては、呼んで斉※[がんだれ/虚](音は湯兮の反なり)樹となす。長《たけ》二、三丈にして、皮は青白く、花は柚に似て、きわめて芳香あり。子《み》は楊桃に似て、五月に熟す。西域の人は、圧して油を為《つく》り、もって餅菓を煮《に》ること、中国の巨勝を用うるがごとし」。これ疑いなくオリーヴのことにして、巨勝は黒胡麻なれば、末の一句は、中古のアラビア人、欧人が、アジアの東部に入りて、胡麻を見ればすなわちオリーヴを想起せしに対して興味あり。払林はギリシア語のポリンにて、ビザソチュムを指す名なれば(Yule,l.c.,p.lvii)、そのころ広大なりしビザンチン、すなわち東ローマ帝国のアジア領のことならん。その辺の諸民がオリーヴを呼ぶ名に、斉?敬に合い、または近きもの多し。ヘブリウの sait また zeit,ペルシアの seitun,アラビクの zaitun,トルコ人およびクリメヤ脱脱《タタール》seitun,梵語の jit,ヒンズス(7)タニの zetun 等なり。
後世字似て音同じく、かつその主用は果にあるをもって、斉暾樹を斉?果として、『本草綱目』の夷果類に右の『雑俎』の条をそのまま載せたり。これらのことに支那の学者一向気づかざりしと見え、『綱目』の外これを載せたるは、『食物本草』のみなりと覚え、さしも博蒐せる『淵鑑類函』、『古今図書集成』、『植物名実図考』にも見当たらず。ただし『図経』に謂《い》うところの、「?州《ようしゆう》にまた一種の波斯橄欖あり、これと異なるなし。ただし、その核《さね》は三弁を作《な》し、子《み》は蜜漬けにしてこれを食らう」とは、ある特態のオリーヴにあらざるか。しかして予の寡聞なる、いまだド・カンドルの『培養植物紀原』、ブレットシュナイデルの『支那植物篇』、その他の西書に、斉?果はオリーヴなる由を記せるものあるを承り及ばず。
わが邦には、『本草啓蒙』等に斉?果をエゴノキに宛てたるを因襲して、今にその当否を議する人なきようなり。したがってエゴノキ科を事々しく斉?果科と書くが常なれども、前述の事歴に資《よ》つて小むつかしく論じなば、これ取りも直さず、原語のオリーヴ科、すなわちわが邦目今通称の訳名、木犀科なるものを意味するに外ならず。
そもそも生物の支那に産し、あるいは漢名を享けたるもの、ことごとく本邦にも産すべきにあらざるは、早く貝原先生の『大和本草』にも言われ、米国の草木の名に欧州の正伝に違《たが》えるもの多きごとく、日本にて楓、榲?《おつぼつ》など心得たる品、多くは支那の真物と異なるを、オリーグと橄欖の混雑の誤りと共に、ブレットシュナイデルの'On the Study and Valie of Chinese Botanical Works,'1870,p.121 に摘挙し、今日までも植物の科目、種名に漢字を用うるの無益なるは、牧野氏みずからまたこれを説けり(『東洋学芸雑誌』一八巻二三五号一七一頁を見よ)。されば今までのことは致し方なしとして、予は自今、エゴノキと仮名にて手軽く書きうるものを、何の穿鑿もなく、本草家の旧説などに傚《なら》いて、むつかしく斉?果と筆するごとき、杜撰徒労の新例を生ぜざらんことを望む。
ちなみに言う。古アラビア人はジェルサレムをオリーヴにちなんで斉?邑 Zaituni-yah と呼び、また七、八世紀の(8)ころより支那の泉州をも斉?と呼べり。当時の唐人が泉州府を楚桐城と Tseu-tung-ching と綽名せしを、オリーヴのアラビア名と混じてのことなり。弘安の役に元寇この湊《みなと》より出で立ちしなり(Yule,'The Book of Sir Marco Polo,'1875,vol.ii,pp.219-220)。
胡元任の『?渓漁隠叢話』後集巻九に、「『復斎浸録』にいわく、『羅浮山記』に、平地を望めば樹|薺《なずな》のごとし、故に戴嵩《たいすう》の詩に、長安の樹は薺のごとし、と。ある人の樹を詠める詩に、遙かに望む長安の薺、といえるは、これ耳学の過ちなり、と。余、よって浩然《こうねん》の万山に登るの詩を読むに、天辺の樹は薺のごとし、江畔の洲《す》は月のごとし、と。すなわち知る、孟は真に嵩の意《こころ》を得たることを」。これは山上より平地の樹を見下ろして薺に比せるなり。薺と樹の二字、いささか本題に関係あれば付記すること爾《しか》り。 (明治四十年十二月『東洋学芸雑誌』二四巻三一五号)
(9) ダイダラホウシの足跡
喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻の四にいわく、「大太ボッチと言うは、『平家物語』八、豊後・日向両国の界に、姥ヶ嶽という山の下に岩穴ありて大蛇すむ。こは日向国|高知尾《たかちお》明神神体なり。豊後国に、大太夫《だいたいふ》という者の娘にこの大蛇通じ、妊みて男子を生む。七歳にして元服して、名を大太《だいた》という、とあり。『紫の一本』大太橋条に、大太ボッチが掛けたる橋の由言い伝う。肥後国八代領の内に百合若塚というあり、云々。所の者いわく、百合若は賤しき者なり。世に大臣というは大人なり、大太ともいう。大人にて、大力ありて強弓をひき、よく礫をうつ。今大太ボッチとは百合若のことなり、ボッチとは礫のこととぞ、云々。また上州妙義山の道にも、百合若の足跡また矢の跡とてあり。この外にも、大太ボッチが足跡、力業の跡、ここかしこにありといえり、云々、と。古え大勇の業の跡、誰とも知られぬを大太ボッチといいしなり。ボッチを『紫の一本』に礫のことというは非なり、例の法師ということにて、大なる人というほどの義なり。今大なるを大ぼやしというもこれなり、云々」。(『源平盛衰記』巻三三にも出ず。)
この大太法師より転訛して、本誌に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の俚伝を Benjamin Taylor,'Storyology,'1900,p.11 に列挙せる中に、「路側の巌より迸《ほとばし》る泉は、毎《つね》に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり」とあるを合わせ考うるに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の説は正見と謂うべし。再び攷うるに、『宇治拾遺』三三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。そ(10)の人体?偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか、中古巨漢を呼ぶ俗間の綽名《あだな》と思わる。果たして然《しか》らば、大太は反って大太郎の略なり。
八年前の拙著「神跡考」(Kumagusu Minakata,"Foot-Prints of Gods,etc.,"in Notes and Queries,9th ser.,vi,1900,pp.163-165,223-226,322-324)に、神仏、人仙、動物の足跡と称するものの例を多く集めたるに、多くは岩石上に存するものに係り、鈴木氏の質問に言うごとき、地面にあるはすこぶる希《まれ》なり。ただし、支那の史乗に、大沢中に巨人の跡を履《ふ》みし婦人が、たちまち伏羲《ふつき》、また棄を孕めりとあるは、あるいはかかる窪穴の、実に地上に存せしに基づける旧伝にもあらんか。(サウゼイの『一八一五年秋|和蘭《オランダ》遊記』に、スパ付近にルマクル尊者の足跡あり、婦女妊を欲する者詣りてこれを踏む、とあるは石に彫り付けたるなり。)しかして藤原氏の通信に見る、ダイラボッチが八ヶ岳を作るに臨み、力足を踏んで茅野に残せりという足跡にやや似たるは、サモア島の創世に、神チイチイが、天を地と割《さ》き、押し上げんとて岩上に留めたりという足跡と、漢土の昔、華山と首陽と連なりて、黄河の流を妨げしより、巨霊神、洪水の患を除かんと、二山を折開し、ために手印を華山頂に、足印を首陽麓に留むという話となり。
いわゆる足跡石はタイロル氏もいえるごとく、天然また人工に成れる岩石上の凹窪の形、多少人間あるいは動物の足跡に類せるものにして、往々過去の世紀に生存せし動物の化石的遺蹟もあるべし。俚俗これらを神仏、鬼仙、偉人およびこれに関係ある動物の足跡と見|做《な》して、幾分か宗教上の信念を加う。その最も名高きはセイロンのアダムス・ピークに現在する長《たけ》五フィート幅二フィート半のものにて、仏徒はこれを釈迦の跡といい、梵徒はこれをシヴァの跡とし、回徒はアダム、ノスチク徒はイウェウー、キリスト教徒は、あるいはトマス尊者、あるいはエチオピア女王カンダセの閹宦《えんかん》の遺《のこ》すところとし、支那人はこれを盤古氏の留むるところとなす。ジェルサレムのオリヴェット山なる、キリスト左足の跡これに次いで顕われ、欧州諸邦に天主教諸尊者の蹤《あしあと》と号するもの、はなはだ衆《おお》し。
回教はもとかかるものを拝するを厳禁したるにかかわらず、ジェルサレム(I.Burton,'The Inner Life of Syria,'1875,(11)vol.ii,p.88)およびインド(H.Blochmann,in the journal of the Asiatic Society of Bengal,vol.xli,pt.i,p.339,1872)に、回祖の足跡と称するものあり。本邦には由来正しき仏足石七あり、と『一話一言』巻一二にあり。なかんずく薬師寺のものは、『万葉集』に和歌あるをもって著わる。この他『唐大和尚東征伝』に載せたる、唐の越州の迦葉《かしよう》仏の足跡、平壌洞側の岩上なる、高麗始祖騎馬の蹄痕、チベット・ポタラ殿内の牛酪に印せる宗喀巴《そうかくは》の手形・足形、シャム・フラバット山にある仏および随伴の虎・象の蹤、インド・マレプールのトマス尊者最後の足印、ダニウブ河の岩に残せしヘルキュルスの跡、ヘロドタス前にオシリス神へエジプト人が捧げし足跡石、アフリカ・ベキュアナランドの神モジモの洞より出でたる諸獣の跡、南米コロンビアの神使キミザパグアの跡、ニューゼーランドとハワイの刑死酋長の跡等、枚挙するに遑《いとま》あらず。
また遊覧紀念のため、塔の屋根の鉛板等に、おのが足跡を画鐫することは、今も欧州、エジプト等に行なわる(Notes and Queries,9th ser.,iv,1899)。英王ウィリアム三世の足跡、そのトルベイに上陸せし点に存して今も見るべしという。漢土にも古くより行なわれしことと見えて、『韓非子』外儲説、左上、第三二に、「趙の主父《しゆほ》、工《たくみ》をして鉤梯《かけはし》を施し、潘吾に縁《よ》じ、疎人の迹《あしあと》をその上に刻ましむ。広さ三尺、長さ五尺。しかしてこれに勒《きざ》みていわく、主父かつてここに遊ぶ、と」とあり。
未開世間の人が、箇人また社会の安寧を謀らんがため、自他の足跡に注意すること綿密を極むるは、Waitz und Gerland,'Anthropologie der Naturvölker,'1861,iii,p.222;Petherick,'Egypt,etc.,'1861,pp72,98,222;Galton,'Finge-Prints,'1892,p.23;『法苑珠林』巻四五(この話、バートン英訳『アラビア夜譚補遺』一八九四年板、一〇巻三五五頁にも出ず)等、その例に富めり。さればその遺風として、今も清国人の契券に足印を用い(Schmeltz,in International Archive für Ethnographi,vii,p.170,1895)、カンボジアの俗、師父の足跡を絹に押して弟子敬礼す(MOura,'Le Royaume du Cambodg,'tom.i,p.197)。R.Smyth,'The Aborigines of Victoria,'1878,ii,p.309 に、ある濠州土人が岩上に手(12)形を画く法を記せるも、紀念のためならん。南米の土人が石に足跡を刻んで事を記せるは、一八九一年、『英国人類学会誌』三七八頁等に出で、欧州にも、ブリタニーの有史前の遺碑に、人の双足を彫れるあり。スウェーデンの青銅器時代の岩の刻紋に、跣および草鞋穿ちし足の図多き由、Émile Cartaillac,'France préhistorique,'1889,p.237 に見ゆ。これらはいずれも紀念記事のために遺《のこ》せるもののごとし。
人の足跡は、その陰影および映像と等しく、居常身体に付き纏いて離るること罕《まれ》なるものなれば、蒙昧の諸民これを陰影映像同様に、人の霊魂の寄托するところと思惟せしは、足跡に種々の妙力を付せしにて知らる。メラネシア人が嫌を避くるとて、兄妹、姉弟、姑婿、互いにその跡を踏むを憚り、ドイツの鄙人《ひじん》が、仇の履《ふ》みし芝土を乾かしてこれを羸弱《るいじやく》ならしめ、イタリアの俚俗、ガウトを療せんとして足跡に唾して呪《まじない》し、支那の上古に、巨人の足跡を履んで孕むと信じ、古アイルランドの酋長、新たに立つごとに、祖先の足跡を石に彫れる上に立ちて、万事旧風を渝《か》えまじき誓言を受けし等これなり。故に最初紀念のために遺されし足跡が、おいおい神異不可測の機能ありとして、崇拝せらるるに及ぶは自然の勢いなり。
予いまだゲイダラボウシの足跡を見ず。その記載またはなはだ簡にして、果たして何物たるを知るに由なしといえども、類をもってこれを推すに、あるいは上に見ゆる、趙の武霊王が潘吾山頂に刻せしめしごとき一種の紀念品なるを、後日に神怪の誕《はなし》を付せしにあらざるか。
付言。紀州にはダイダラボウシなどの名なく、岩壁上天然の大窪人足の状を呈するものを、弁慶の足跡といい、当地近傍にも一つ二つ見受けるなり。
(明治四十一年四月『東洋学芸雑誌』二五巻三一九号)
(13) 寄書
ペストと鼠の関係
左の文は、前年、予英国博物館に読書中見出だし、明治三十年ごろの『ネーチュール』に訳載せるもの〔"Plague in China,"Feb.16,1899〕にて、十八世紀の支那人がペストと鼠の間に多少の関係あるを知りしを証するに足る。
「趙州の師道南は、今の望江の令師範の子なり。生まれて異才あり、年いまだ三十ならずして卒す。その遺詩を『天愚集』と名づけ、すこぶる新意あり、云々。時に趙州に怪鼠あって、白日に人家に入り、すなわち地に伏し、血を嘔《は》いて死す。人その気に染まば、また立ちどころに殞《いのちおと》さざるなし。道南、「鼠死行」一篇を賦す。奇険怪偉にして、集中の冠たり。数日ならざるに、道南もまたすなわち怪鼠をもって死す。奇なるかな」(『北江詩話』巻四)。
この書の著者洪亮吉稚存は、一七三六年に生まれ、一八〇九年に歿せり。(洪、右の文を書いた時、師道南の父が現存すとあるから、道南の死は一八〇〇年前後にあったらしく、そのころペストが趙州に行なわれたと察せられる。) (明治四十年十月『東洋学芸雑誌』二四巻三一三号)
(14) 「桜の記」
本誌二三巻三〇一号四四四頁に、ケンプフェルの著すでに日本の桜を記せるを、「E.Bretschneider の'History of European Botanical Discoveries'(1898)には、これを引用せず」とあり、読みようによりては、ブ氏始終このことに気づかざりしがごとくなれども、その著'Botanicon Sinicum,'Shanghai,1893,p.300 には、すでに明らかにケ氏の件《くだん》の条を引用せり。
(明治四十年十月『東洋学芸雑誌』二四巻三一三号)
動物の保護形色
段成式(西暦第九世紀の人)の『酉陽雑俎』巻二〇に、「およそ禽獣は、必ず形影を蔵匿《かく》し、物類に同じくす。これをもって、蛇の色は地に逐い、茅《かや》にすむ兎は必ず赤く、鷹の色は樹に随う」とあり。『淵鑑類函』巻四四六所引『投荒雑録』(唐代の書という)に、「南海に蜂あり、橄欖樹の上に生ず。形、木の葉に類《に》、手足あり、枝を抱いてみずから付き、葉と別つなし。商人の取る者は、まず樹を伐り仆《たお》し、葉の凋《か》れ落つるを候《ま》ち、弁《わか》ちてこれを取る、云々」とあるは、千余年前のある支那人は、動物の形色自護の用をなすものあるを知りしこと明らかなり。
予、右の『雑俎』の条を、明治二十六年の『ネーチュール』に訳載して西人の注意を喚びしことあり。その後、ローマ人プリニウスの『博物志』を繙《ひもと》きしに、八巻第五九章に、蛇が隠るる所の土と色を同じうするは世あまねくこれを知ると見え、別に、例のカメレオンおよび章魚《たこ》が場処に応じて変色すること、またタンドルスなる獣が愕くときは、(15)諸木諸花や、潜みおる地の色を現わして、ために捕わるることすこぶる罕《まれ》なる由をも記せり。この獣のことは虚誕なるべきも、とにかく西暦紀元ころの欧人中、またすでに多少保護色の智識なきにあらざりしを知るべし。
予段氏の謂うところの「必ず赤し」を「赤を帯ぶ」の意に訳せしに、『ネーチュール』の校字者、赤き兎あるべきはずなしとて、擅《ほしいま》まにこれを削り、茅と色を同じくすとして出板せり。しかるに後日、予プリニウス八巻八一章を見しに、アルプスの兎、冬は白く、雪解くるに及んで赤を帯ぶ、と載せたり。東西とも、古えは兎の色を赤と視たること面白ければ付記す。
(明治四十年十二月『東洋学芸雑誌』二四巻三一五号)
言葉のかずかず
ヘブリウ語に酌人を mashq?hと呼ぶは s?qi より出ず、日本に酒をサケと称うるも同源なるべしと、Christopher Watson(in Notes and Queries,July 30,1904,p.91)の説なり。またサケにはなはだ近き英語 sack あり。スペインの名物にして、沙翁《シエキスピア》の戯曲『顕理《ヘンリ》四世』に出る無頼漢フォルスタフの嗜むところ、並びに英国の徒歩旅行家コリウト(一六一七年死す)が飲み過ぎて身を亡ぼせし品として著わる。ウェブスターの字書等に、この名ラテンの siccus(乾燥)より出ずとすれど、実は語原確かに知れずという。
『兎園会集説』に、屋代弘賢、三十一字の歌を浜の真砂のごとく尽くる期なしと言い伝えたれど、四十七言をもて、三十一を得用うれば、尽くる期なきことあらじと思わるるとて、その精算を示せり。古今諸方の言語、その音多しといえども、小異を駆って大同に帰せしめなば、その数まずは百を踰《こ》えじ。今一百未満の語音より、僅々二、三音ずつを採り、綴り合わせて無際涯の森羅万象に名づけんには、同一また酷似せる事物に、同一また酷似せる名称の期せず(16)して偶着するもの、はなはだ尠《すくな》からざるべきは睹《み》やすきの理なり。左に、わが邦通用するところに近似せる名詞の、全くあるいはほとんど同意味にして、ずいぶん思い懸けなき他国に存するもの若干を挙げて、これを証す。
ナカ(中)。コロンブス、クバ島発見のみぎり、クバナカンという地あり。島人の語に、ナカンは真中の義(Washington Irving,'The Lif and voyages of Christopher Columbus,'bk,iv,ch.3)。
ボウズ(坊主)。西北ヒマラヤ山地にて、仏陀をバウズ baudou という由、英訳 Tavernier,'Travels in India,'1889,vol.ii,p.256 に見ゆ。馬琴がホトケを浮屠家と解せしと事かわり、実はボウズなる邦語は、坊の主を意味せず、直《じか》に梵名 buddha(浮屠また仏陀と音訳す)を訛れること、西北ヒマラヤ地方と同轍なりしにあらざるか。原意は一つながら、仏陀は如来、浮屠は僧徒のことと心得たる人今も多し。
スコ(頭蓋を紀州辺にて卑しみいう詞)。英語 sconce に近し。下賤の詞ながら、沙翁《シエキスオイア》も所々に用いたり。この辺にてスコと併用する、スコウベ(西沢一鳳の『脚色余録』にも見ゆ)を略して、スコを生ぜしこと疑いなし。コウベを卑しんでスを冠するは、面を卑しんでシャツラというごとし。トルコ語に、ある場合の名詞に is を冠すること、ややこれに類せり。
トカケ(蜥蜴)。James Low,"Legends of Islam,"The Journanl of the Indian Archipelago and Eastern Asia,vol.iv,p.202,Singapore,1850 にいわく、tukke は蜥蜴の一種にして、インドシナの諸国に産し、トッケ、トッケと鳴くゆえに名づく。シャム人は tupke と呼ぶ、と。わが邦のトカゲは別に鳴かざれども、その名の相近きは奇なり。
バハン(八幡)。『和漢三才図会』巻一〇にいわく、「海賊を、俗に婆波牟《ばはん》と言う。相伝う、往昔《むかし》、倭船の窃《ひそ》かに唐に入りて強盗をなすものあり。その船の幟《しるし》に八幡の神号を銘し、もって海上の鎮護となす。華人これを暁《さと》らず、すべて海賊をもって八幡《ばはん》と称す。また一笑なり、と」。案ずるに『古今図書集成』日本部紀事に、日本海賊船のことを詳載せるも、神號幟のことなし、「倭刀の上に、あるものは八幡六薩(大菩の誤)薩、春日天(大の誤)明神、天照皇大神宮(17)と鑿《ほ》る」とあるのみ。予現に字書を有せず、したがって確言しがたしといえども、スペイン語の forban, フランス語の fourbin, いずれも海賊を指す名なりと記臆す。しからば、バハンとフォーバン、またフールバンの音相近くして意同じ。当時海上欧亜人の交際繁かりしを思うに、バハンはあるいはこれらの欧州語の訛《なま》りにて、八幡神号云々は後日の付会説なるも知るべからず。
シメ(七五三繩)。カンボジア国の祭式に、邪鬼を禦ぐ界線として、宮室、供物等を囲繞するに用うる木綿繩を sema と名づく(Étienne Aymonier,ap.Cochinchine franç aise,No.16,p.183,Saigon,1883;J.Moura,'Le Royaume du Cambodge,'1883,tom.i,p.172)。その用も名もほとんどわが国のシメ繩に同じ。明治三十年夏、ブリストルに開ける英国科学奨励会の人類学部にて読みし、予の「古代日本斎忌考《ゼ・タブー・システム・イン・アンシャント・ジャパン》」にこのことを言えり。
(明治四十一年四月『東洋学芸雑誌』二五巻三一九号)
幽霊に足なしということ
本年一月十一日の『ノーツ・エンド・キーリス』三四頁に、予きわめて短くこのことを論ぜり。そのこと足跡に関係多きをもって、冀《ねが點わくは前条にちなんで少しくその説を述べしめよ。
邦俗あまねく幽霊は足なしと心得たるが、他国またその例なきにあらず。リチュアニアのカクシエン沼に棲める鬼魅《きみ》は、好んで人間の宴遊に参《まじわ》り、村女と偕《とも》に踊るに、脚部なきをもって、人その足を履《ふ》まばその靴たちまち潰《つぶ》るるにより、鬼物たるを識るという(NOtes and Queries,Aug.31,1907,p.168,)。また、ある支那人が、サンフランシスコの支那街にて目撃せし支那人幽霊は、膝より下全くなく、両腿上下に動きて止まざること、あたかも自転車を使うがごとくなりしとぞ(Ibid.,Oct.17,1903)。
(18) 熊野地方にカシャンボの話盛んなり。これは西国にいわゆる川太郎のごとく川に住み、夜厩に入りて牛馬を悩ますこと、欧州のフェヤリー、またエルフに斉《ひと》し(Cf.Hazlitt,'Faith and Folklore,'1905,i,p.223)。昨年五月、当町に近き万呂《まろ》村に、この物毎夜出でて涎《よだれ》を牛の全身に粘付し、病苦せしむることはなはだしかりければ、村人計策して、一夕灰を牛舎辺に撒き、晨《あした》に就いてみれば、蹼《みずかき》を具せる足の跡若干あり。よって、カシャンボは水鳥様の物と知るに及べり。
按ずるに、灰を撒きて妖怪の足跡を見出だすこと、決して新案にあらず。楊慎が『丹鉛総録』巻二六に、「夏后氏《かこうし》は金の徳なり、初めて葦?《いこう》を作り、云々。『荘子』にいわく、葦を戸に挿し、灰をその下に布《し》く。童子は入るに畏れず、しかして鬼はこれを畏る。これ鬼の智、童子に如《し》かざるなり」といえる葦?は、わが邦にヒイラギ、アリドオシなど、刺《はり》多き物を戸に挿《さしはさ》んで、鬼を却《しりぞ》くるに似、「灰をその下に布《し》く」は、鬼が足跡を見つけらるるを畏れて、近づかざるためと見ゆ。また『酉陽雑俎』続集巻六、「成都の妙積寺に、開元の初め、尼の魏八師なる者あり。常に大悲呪を念ず。双流県の百姓劉乙、名は意児、年十一にして、みずから魏尼に事《つか》えんと欲す。尼、これを遣《はら》いしも去らず、常に奥室にて立禅す。かつて魏に白《もう》していわく、先天菩薩、身をこの地に見《あらわ》す、と。よって灰を庭に篩《ふる》うに、一夕、巨《おお》いなる跡《あしあと》の数尺なるが、輪《まる》き理《もよう》を成就《な》せり」とあれば、観自在大士も灰に遇わば跡《あしあと》を露わすを免れざると見ゆ。この他、フィージー島人が、竈灰に印せる手足の跡を見て、癩神サクカが宅裡に入りしを識《し》り、ルソン島人と、インドのホスが、葬後亡魂家に還るを験せんとて灰を布き、古メキシコの祭祀に、日神廟に玉蜀黍《とうもろこし》粉を撒きて、その足跡を睹《み》てその入来を祝し、ドイツの俚俗、灰上に鶩《あひる》もしくは鵞《がちよう》の足形を見て、罔両《もうりよう》あるを知るといい、英国旧慣として、四月二十五夜竈灰に印せる足形を相して年内に死すべき人を察するなど、タイロルの『プリミチヴ・カルチュール』一五章と、予の「神跡考」二二五頁に、多く妖怪と精霊の足跡の例を挙げたり。
そのうち最も著名なるは、ヘブリウの古伝に、魔魁アズモデウス、形を隠してソロモンの妃に通ぜしに、王、灰をその牀辺に布き、鶏足の跡を印するを見て、魔魁の姦を認め得たりという話なり。惟うに、魔魅の跡多くは鳥趾に似(19)たりと言い、したがって東西ともに邪鬼の指を鳥の指のごとく画くは、過ぎ去りし地質期に、吾人の祖先が巨大異態の爬虫類と同時に生存して、甚《いた》くこれを怪しみ怖れし遺風なるべし。知人 W.F.Kirby 氏の'Hero of Esthonia,'1895 にも、諸国|蛟竜《こうりゆう》の誕《はなし》はかかる古生物のことを転訛せるならん、と言えり。実際において、鳥跡と爬虫跡と分別しがたきもの多く、『五雑俎』巻九、画竜三停九似の説にも「爪は鷹に似る」とあり、またユカタンにて、夜小児を独り灰を布ける地に置き、翌朝何なりとも一動物の跡をその上に印せるを祭して、その動物をこの児の守り本尊とすというは、真正の動物の所為《しわざ》たること疑いを容れず。
已上《いじよう》諸例は、実体なき幽霊と、実体ありてかつて地上に生活し、もしくは現存する禽獣より訛り生ぜる妖怪、すなわち変化の物とを通じて、同じく細灰、穀粉等に足跡を留むべしとせる迷信なり。この説によれば、幽霊に足あるは当然にして、『英国不思議研究会報』に見ゆる、一八八二より七年ばかりの間、ロンドンのカプテーン・モルトン氏邸にて、およそ二十人が目撃せる寡婦の幽霊のごとき、つねに足ありて歩むを見るのみならず、像を現ずること?《ようや》く止むの後に及んでも、なお足音を聞くことしばしばなりしという(Myers,'Human Personality,'1903,vol.ii,pp.389-396)。
一方には、また実体なき諸精霊は足跡を留めず、実体ある諸怪物は、たとい魔力をもってよく形を隠すとも、必ず足跡を残すべしという説も、古くより行なわれしは、『法苑珠林』巻五三に、『竜樹菩薩伝』等を引いて、前記魔魁アズモデウスのことにはなはだ似たる譚を述べたるにて知らる。すなわち竜樹若かりし時、三友人とともに隠形の薬を得、遊行自在となり、「すなわちともに相ひきいて、王の後宮に入る。宮中の美人みな侵掠され、百余日ののち懐妊する者|衆《おお》く、尋《つ》いで往いて王に白《もう》し、罪咎《ざいきゆう》を免れんことを庶《ねが》う。王これを聞きおわって、心大いに悦ばず。この何ぞ不祥にして、怪をなすこと、かくのごときかと、もろもろの智臣を召して、ともにこのことを謀る。時に一臣あり、すなわち王に白していわく、およそかかることには二種あるべし、一は鬼魅にして、二は方術なり。細土をもってこれを門の中に置き、人をして守衛せしめ、往来を断つべし。もし方術なれば、その跡《あしあと》おのずから現わる。もし鬼魅(20)の入るなれば、必ずその跡なし。人は兵をもって除くべく、鬼は祝《いのり》をもって除くべし、と。王、その計を用い、法によってこれをなすに、四人の跡門より入るを見る。時に防衛の者、驟《はし》りてもって王に聞《もう》す。王、勇士およそ数百人をもって刀を空中に揮《ふる》わしめ、三人の首を斬る」。しかるに、国法、王に近き七尺内に刀を用うるを禁ずるをもって、竜樹その内に走り入り、王の側に立ち、わずかに命を全くし、その時立願して仏に帰せり、となり。
すべて鬼魅幽霊の属は現世に生活せざるものゆえ、生人に比して不足の部分ありとするが通例なること、英国にて両村間の荒地に??《しようよう》する幽霊、多くは頭なしといい(Notes and Queries,June 10,1905,p/448)、ハイチ島の旧土人、亡魂男子に化して婦女に近づくことあるも、臍なきをもってたちまち露顕す(Pietro Martire,ap.Ramusio,'Navigationi e Viaggi,'Venetia,1906,tom.iii,fol.36a.)と信ぜるなどにて知らる。これらと等しく、足跡は必ず生人に伴うものなれば、幽霊に欠如すというは、ずいぶん道理ある考えにて、他の幽霊も変化の物も共に足跡ありというに比して、分別精確なりと言うべく、ムーラの『柬浦寨《カンボジア》王国誌』一巻三一四頁に、その民、鬼魅は日中に影なしと信ずと記し、応劭の『風俗通』に、「丙吉いわく、かつて聞く、真人には影なく、老翁の子もまた影なし、と」とあるも、多少類似の信念に基づくならん。ただし、シュレッゲルの『歴史哲学』に、天人に推理力なしと言えるは、実にその神通の大なるを意味せるがごとく、幽霊に足跡なきが、すなわちその霊たる所以《ゆえん》にして、この点について人幽霊を笑わば、これまことに?《やすで》の多足をもって蛇の煩い少なきを憐れむものならん。
惟うに、わが邦に幽霊は必ず足なしというも、たぶん実体なき諸精霊は足跡を現ぜずと信ぜしより出で来たれる見解なるべし。ただしこの信念の、太古よりわが邦に存せしや、はた他国よりの伝来なりやは、今にわかに断ずべきにあらざるなり。根岸肥前の守の『耳袋』初編三三章に、聖堂の一書生、妓楼に宿して幽霊|階子《はしご》を上がるを聞く話あり。普通に足なしとする幽霊に、足音ある由はしばしば聞くところなり。無碍《むげ》にこのことを解せんとならば、次のある英人が昨年インドより、ロンドン『タイムス』に通信せる語を心得置くを要す。いわく、「東洋人の心は論理の常規を(21)脱し、よく同時に二つの正反対せる事譚を信認す。東洋人をしてたやすく信を置かしめんとならば、その誕全く信ずべからざるものたらざるべからず、と」(Frazer,'Adonis,Attis,Osiris,'1907,p.4,note)。かかる矛盾説は西洋人にも多し。何ぞ特に東洋人を尤《とが》めんや。
(明治四十一年四月『東洋学芸雑誌』二五巻三一九号)
人名を氏の義に連ねて命ずること
本誌二五巻三二四号三八四-五頁に、武藤元信氏は、烏枝鳴、羅衣軽等、古支那人の名を挙げて、矢野文雄氏の「出鱈目の記」に、「支那にも、欧米にもなく、日本に一種の風とも見るべきは、人名をその姓と連続せしめて、意味を作るの一事なり」とあるに対し、支那またかかることあるを証せり。熊楠思うに、矢野氏が、このこと欧米になし、といえるもまた非なり。
Notes and Queries,March 19,1904,p.237 に、かつて実在せし英人の姓名を列せる中に Seth Plater(在職箔工)、Patience Winter(耐忍冬)、Eldred Rose(可怖《おそるべき》薔薇、名の後半に紅の義あり)、Comfort Dormer(閑窓)、Damask Rose(深紅薔薇)などあり。クロムウェルの世に有名なる、長座議会に上席を占めたる 韋《なめしがわ》売り Praise-God Barebone(讃神瘠夫)(一五九六年ごろ生まれ、一六八〇年死す)も、妙に意味ある姓名と謂うべし。ジスレリの『文界奇観』、名の影響の条に、著者が親しく見及べる紳士の姓名 Blast us Godly(われを萎縮せしめて神に忠なれ)なる者あり、こんな人が僧正などにならんとしなば、衆の信心|為《ため》に乱るるに及ばんといい、またもっとも温和なる宗教改革家の一人、初めの姓名は Hertz Schwartz(黒土の義)なりしを、あまりに卑俗なれば、雅美に聞こゆるようにとて、ギリシア語に訳し、みずから、Melanchthon と名乗るに及べり、とあり。くわしく調査せば、ラテン語の姓名などにかかる例多かるべし。
(明治四十一年十一月『東洋学芸雑誌』二五巻三二六号)
(22) 飛行機の創製
本誌三二六号四八三頁、斥?生の「飛行機三種」に、「十八世紀の末葉初めて風船の試乗ありてより、禽鳥のごとく飛翔する術を講ずるもの尠《すくな》からず」と言い、われらも左様心得おりしところ、今年二月二十日ロンドン発行の『ノーツ・エンド・キーリス』一四五頁に、D.J 生、投書して言えらく、一八七一年ライプチヒのブロクハウス出版 Ersch and Gruber,'Encyclopaedia of Arts and Sciences,'p.156,Hopf 筆の一項に、伊国チヴィタヴェッキア市出身にて、多年インドにありしといえるジェスイト宣教師グリマルジ、鷲形の一機を製し、一七五一年(宝暦元年)、わずかに一時間かかりて、仏のカレーより海を横ぎり、飛んで英のドヴァーに達せる記事あり、このこと他の書にも見えたり、と。されば飛行機の創製、実は十八世紀の末葉ならずして、その中ごろにありしもののごとし。
東洋にて、飛行機に関する話多く古書に見及ばず。『和漢三才図会』巻一四に、王圻の『三才図会』を引いていわく、「奇肱《きこう》国は、一臂《いつぴ》国の北にあり。よく飛車を為《つく》り、風に従いて遠行す。湯《とう》の時、車をもって西風に乗り、豫州に至る。湯、その車を破る。のち十年にして東風至り、すなわち車に乗りて国に帰らしむ。その謂うところの一臂国は、西海の北にあり。その人、一目一孔、一手一足、半体もて肩を比《なら》べ、なお魚鳥の相合して独り行くあたわざるもののごとし」といい、『山海経』には「奇肱の国、その人、一臂にして三目あり、陰と陽とありて、文馬に乗る」とあれば、類をもって推すときは飛車の話の虚談たること知るべし。ただし古支那人が、何とか機巧を労せば、人も飛べそうなものくらいの、希望を持ちしことなきにあらざる一証ともなるなり。攷うるに古えの国名支那音の奇肱に相当するものありて、この二字を宛て来たりしを、後に強いてその義を解せんとて、一臂の誕を生じ、また奇なる腕仕事の意に取りて、「よく飛車を為《つく》る、云々」の伝説を生ぜしなるべし。
(23) 試みにやや強いて解説をなさんに、ヘロドツス、一および四の巻に、むかしマジエス王シリア人を率いて遠征し、パレスタインより引き還せし時、歩に後れし少数の輩、アスカロンにて女神ヴィヌスの最も古き堂を侵掠せしかば、神罰永く子孫に報いて、いわゆるエナレー(半男女)となり、男子生まれながらにして女人のごとく、女人の業を務む。ヴィヌス、この輩に樹皮占の術を授く。他の人もこの病を避けんがため、これらの半男女を尊敬す、と。十八世紀に至り、ライネグス、北コーカサス・クバンのノガイ族中に、病後老後の男子、鬚脱し皮皺み、容貌老女のごとく変じ、女装して女工を営み、男子と伍せず、婦人間に常住する者あるを見(J.Reineggs,'Allgemeine Historisch-Topographische Beschreibung des Kaukasus,'Gotha u.St.Petersburg,1796,1teer Theil,S.270)、ポットキ伯、これを古エナレーの遺伝とせり(Le Comte Jean Potocki,'Histoire,Primitive des Peuples de la Russe,'St.Petersburg,1802,p.175)。またヘロドツス、四巻一一〇-一七章によれば、シジア近隣に、男装せる女人国アルヨパタかつて存せり。
支那古伝に謂える奇肱の人「陰と陽とあり」は、これら外相上の半男女を指せるにて、シジアの婦女、常に車中に住みしことヘロドツスに見え、もとより著名の遊牧民なりければ、多く斑文ある馬に乗りしこともしばしばあった。『山海経』にその一臂なるを言えるは、シジア人が騎するに、もっぱら一臂にて手綱を操りしより生ぜる訛伝なること、あたかも古欧人が、インド人歩むに傘をかかさぬを見、過って東方に、生まれながらにして一巨手全身を蓋うに足る民ありとし、欧人を見たことなき韃靼族が、英人夫婦を見て、両《ふたり》ながら男子なりとし、二男の間に一児を儲けたるを、神の奇工極まると称讃し(Mrs.Atkinson,'Recollections of Tartar Steppes and their Inhabitants,'1863,p.153)、近日までも、バシュキル人、生まるるより常に髪を剃るを、ヘロドツス誤って、その地に禿頭の天賦なるアグリパエイ族ありと記し、寒天に露国小百姓の子供、つねに襯衣《シヤツ》の胸上に両手を交え、ために外套の袖不断垂れ動くを目撃せる外人輩、露人は手なしに産まると伝え(G.A.Erman,'Reise um die Erde,'1ster Band,1833,S.427-429)、露領の民、支那人|索?《そうめん》を喫《く》うを蚯蚓《みみず》を食うと心得違い(Ib.,2ster Band,1838,S.125)、本邦にも、『和漢三才図会』に載せたる、「阿蘭(24)陀《オランタ》人、常に一脚を提《あ》げて尿を去る。貌《かたち》、犬に似たり」は、股引の製|然《しか》らしむるなるを察せずして、吾輩幼時まで、西洋人は畜類など心得たる人多かりし(百家説林所収『春波楼筆記』、織田某が著者司馬江漢に談《かた》れる辞看るべし)等と同例といいうべく、また十六世紀の末、支那で車に帆かけて疾走するを見し話あれば('Histoire de la Navigation de J.H.van Linschoten etc.,'Amsterdam、1638,p.44. ただし Navarrete,'Tratados Historicos…de la Monarchia de China,'Madrid,1677,p.33 には、この話は水車の訛伝なり、とあり)、古シジア人の乗車にもかかる設備ありしを、当時の支那人おびただしく驚異して、飛車の譚を生ぜりとも言いうべし。
菅茶山の『筆のすさび』(初板百家説林一所収、九八頁)に次の条あり、法螺話に過ぎざるようなれど、多少の事実を含めることと思わる。「備前岡山の表具師幸吉という者、一鳩を捕えて、その身の軽重羽翼の長短を計り、わが身の重さをかけ比べて、みずから羽翼《つばさ》を製し、機《からくり》を設けて胸の前にて操り搏《う》ちて飛行す。地よりすぐに?《あが》ること能わず、屋上よりはうちて出ず。ある夜|郊外《まちはずれ》を翔《かけ》り廻りて、一所野宴するを下《くだ》し視て、もし知れる人にやと近寄りて見んとするに、地に近づけば風力弱くなりて、思わず落ちたりければ、その男女驚き叫びて遁れ走りける。跡には酒肴さわに残りたるを、幸吉飽くまで飲み食いして、また飛び去らんとするに、地よりは立ちあがりがたきゆえ、羽翼を収めて歩《かち》して帰りける。後にこのこと顕われ、市尹《まちぶぎよう》の庁《やくしよ》に呼び出だされ、人のせぬことをするは慰みといえども一つの罪なりとて、両翼をとりあげ、その住める巷《まち》を追放せられて、他の巷に移しかえられける。一時の笑柄《わらいぐさ》のみなりしかど、珍しきことなれば記す。寛政の前のことなり」。この話、久しく世に伝わりしにや、明治八年ごろ、大阪下りの芸人が、和歌山丸の内にて催せし影画戯《かげえしばい》にせしを、予も往きて観たり。
(明治四十二年五月『東洋学芸雑誌』二六巻三三二号)
【追記】
本誌三三二号所掲、小生の寄書に、次の文を引くを遺《わす》れたれば、ここに追記す。
(25) 段成式「酉陽雑俎』続集巻四に、「『朝野僉載』によるにいわく、魯般《ろはん》は粛州|燉煌《とんこう》の人なり、年代を詳らかにするなし。巧みにして造化《ぞうか》は侔《おな》じ。涼州にて浮図《てら》を造りしとき、木の鳶を作り、つねに楔《くさび》を撃つこと三下《みたび》にして、これに乗り、もって帰る。いくばくもなくして、その妻|妊《はら》む。父母これを詰《なじ》るに、妻つぶさにその故を説く。父のちに伺いて鳶を得、楔を撃つこと十余|下《たぴ》して、ついに呉会《ごかい》に至る。呉人もつて妖となし、ついにこれを殺す。般、また木の鳶を為《つく》り、これに乗りて、ついに父の屍を獲たり、云々。六国の時、公輸般もまた木の鳶を為り、もって宋の城を窺う」。
熊楠案ずるに、『韓非子』巻一一、外儲説左上第三二に、「墨子、木の鳶を為《つく》る。三年にして蜚《ひ》をなし、一日にして敗《やぶ》る」と言えり。蜚は飛と通ず。周末の乱世に、敵勢を察せんため、飛行機を目論見《もくろみ》たる者、多少ありしことと見ゆ。
(明治四十二年八月『東洋学芸雑誌』二六巻三三五号)
【再追記】
西暦六三五年に生まれ、七一三年に死したる、義浄が訳せるところの『根本説一切有部毘奈耶破僧事』巻一〇に、古インド人も多少飛行機を想像しおりたるを証すべき話あり。
その略を述べんに、むかし妙巧なる機関《からくり》師あり。妻を娶り、子を生み巧容と名づけ、久しからずして父死す。その子他村に往き、師に就いて機関の一技を学ぶ。また余邑に向かい妻を求めしに、一長者あり、その女《むすめ》を与え妻となすべし、ただし某の日に必ず来たり迎えよ、もし期を外さば破約せんと言う。巧容還りて師に報じけるに、師いわく、しからばその期を外さぬよう、われ汝とともに赴くべしとて、木製の孔雀に乗り飛び、その所に達し、婦を取り、三人ともに孔雀に登り、「機関《からくり》の転《うご》きて発し、にわかに太虚《おおぞら》を凌《わた》り」、たちまち故邑に帰る。巧師、巧容の母に告げて、「この機関《からくり》の象《つくりもの》は、汝これを蔵《かく》すべし。児もし索《もと》むる時は、必ず与うべからず」、児の術未熟なるに、みだりにこれに乗らば苦厄に遭わん、と言う。しかるに、後日その児しばしば母に木孔雀を索《もと》め、われ、しばらくこれに乗りて旋遊し、多人をしてわれに帰伏せしめん、往還の術われすでに並びに知れり、師心慳にして、わが術を行なうを嫌忌す(26)るなり、と言う。女人心軟にして、ついに機関をその子に授く。子これを得て、ついに機を動かし、ただちに空中に登るを、衆人嘆美す。巧師はこれを見て、この児一たび去りてまた還らじ、と言う。巧容、空中にありて、さらに機関を転ずるも、往くのみにて返るあたわず。大海上に到りけるに、雨多く晴少なく、機の繩みな爛《やぶ》れ断ち、終《つい》に海に落ちて死す。諸天これを見て偈を説いていわく、「諸有《もろもろ》の悲憐《あわれみ》に益ある論《おしえ》を出だせしに、その教えに従わずして、みずから心に随《まか》せ、木象に師なくして強いて乗りて去《ゆ》き、終《つい》に大海に身の沈むを見《げん》じたり」、この巧師は釈迦の前身、巧容は提婆達多《だいばだつた》の前身なり、提婆達多は前身にも現世にも、仏の教誨に背きて殃《わざわ》いを受くという譚なり。
(明治四十四年九月『東洋学芸雑誌』二八巻三六〇号)
【追記補】
本誌前号掲載の拙文脱稿後、また次の一条を見出だせり。わが邦後年、飛行機史編纂の節、なるべく遺漏なからんことを望み、抄出して呈上す。
梁の僧慧皎(西暦五五四年歿す)の『高僧伝』巻五に、釈道祖の弟子慧要、「また経律を解し、しかしてもっとも巧思に長ず。山中に漏刻なければ、すなわち泉水のなかに十二葉の芙蓉《はちす》を立て、流波の転ずるによって、もって十二時を定む。?《ひかり》の影の差《たが》うことなし。また、かつて木の鳶を作り、飛ぶこと数百歩なり」。別に人を乗せたと記さざれど、墨子や魯般の故事と対照すれば、やはり人を乗せんとて作り出でたると見ゆ。慧要の年代を詳らかにせざれど、その師道祖は、七十三歳にて元煕元年(西暦四一九)卒せり。
(明治四十四年十月『東洋学芸雑誌』二八巻三六一号)
「鼠の嫁入り」の話について
本誌四〇六号四六六頁以下、松村武雄君のこの話の研究論文を拝読して、多くいまだかつて知(27)らざるところを識りえたるを感謝す。さて松村君は、この話が「いかなる時代より伝承せられいるかは、現存せる文献の証徴をもってしては精確にこれを知ること難しといえども、明和四年に残したる岡白駒の『奇談一笑』中にこの物語を挙げたれば、すでに宝暦・明和ごろに民間に流布したること明らかなり」と言わる。
熊楠按ずるに、『嬉遊笑覧』一二上に、「また鼠の嫁入りということ、『薬師通夜物語』(寛永二十年、飢饉の時の双紙)、古えは鼠の嫁入りとて果報のものと世に言われ、云々。白鼠、野鼠、小鼠、二十日鼠、こねら、おねら、おねの子、産屋の内の赤鼠に至るまで、みなこれ飢饉に及び申し、云々。こねらは子鼠、おねらは雄の子鼠か。『狂歌咄』、古き歌に、よめの子のこねらはいかになりぬらん、穴美しとおもほゆるかな。『物類称呼』に、鼠、関西にてよめ、また嫁が君、上野にて夜の物、またよめ、またおふく、またむすめなど言う。東国にもよめと呼ぶ所多し。遠江国には、年始にばかりよめと呼ぶ。其角が発句に、明くる夜もほのかに嬉しよめが君。去来がいわく、除夜より元朝かけて鼠のことを嫁が君と言うにや、本説は知らずとぞ。今按ずるに、年始には万《よろず》のこと祝詞を述べ侍る物にしあれば、寝起きという詞を忌み憚りて、いねつむ、いねあくるなど唱うるたぐい数多《あまた》あり。鼠も寝の韻《ひぴき》侍れば、嫁が君と呼ぶにてやあらん、と言えり。この名あるより、鼠の嫁入りという諺は出できしなるべし。また鼠を夜の物、狐を夜の殿《との》という、似たる名なり。思うに狐の嫁入りは鼠の後なるべし」と載す。
この『笑覧』の説によれば、松村君が引きたる宝暦・明和のころより百年ばかり前、寛永十二年すでに「古えは鼠の嫁入りとて果報のものと世に言われ」と書きし物語本もありたるなり。ただし、これは単に鼠の嫁入りという諺ありしか、また今行なわるるごとき説話ありしか、いずれを指すと定かならざるに似たれど、たしか『三養雑記』その他に、大岡忠相、物祖徠の博識を験せんとて、鼠の嫁入りの話の出処を尋ねしに、すなわち一々記臆のまま明答せりとありつれば、この話が宝暦より前享保のころ世に行なわれたるは明らかなり。
以上書きおわりて『沙石集』巻八の一四章を見るに、「ただ未来無窮の果報、目出たかるべき浄土菩提の道を冀《こいねが》(28)いて、すでに定まれる貧賤の身、非分の果報を望むべからず。鼠の、女《むすめ》を設けて天下に双《なら》びなき聟を取らんと、おおけなく思い企て、日天子こそ世を照らし給う徳、目出たけれと思いて、朝日の出で給うに、女《むすめ》を持ちて候、貌形《みめかたち》なだらかに候、参らせんと申すに、われは世間を照らす徳あれども雲に逢いぬれば光もなくなるなり、雲を聟にとれと仰せられければ、まことにと思いて、黒き雲の見ゆるに逢いてこの由申すに、われは日の光をも隠す徳あれども風に吹き立てられぬれば何にてもなし、風を聟にせよと言う。さもと思いて山風の吹きけるに向かいてこの由申すに、われは雲をも吹き木草をも吹き靡かす徳あれども、築地に逢いぬれば力なきなり、築地を聟にせよと言う。実《げ》にと思いて築地にこの由をいうに、われは風にて動かぬ徳あれども、鼠に掘らるる時堪えがたきなりと言いければ、さては鼠は何にも勝れたるとて鼠を聟に取りけり。これも定まれる果報にこそ」とありて、同氏の文はこれを訳出したるらしし。『沙石集』は、弘安二年書き始め六年に成りしものなれば、宝暦・明和より四百七、八十年の昔、すでに鼠の嫁入り話が本邦にありしを知るに足れり。
(大正四年八月『東洋学芸雑誌』三二巻四〇七号)
(29) 質問
ホトトギスについて
前ロンドン大学校頭 F.V.Dickins 氏より、小生を経て左の件貴答を得たき旨申し越し候につき、質問御伺い申し上げ候。同氏、近日『万葉集』をローマ字および英訳にて出版致し候につき、その注に貴答を加えたきとのことに御座候。
ホトトギスとはいかなる鳥か。Cuculus poliocephalus か。また欧州に尋常なる C.canorus も日本に産すれば、それをも言うにや。これらは夜飛ぶことなし。しかるに『万葉』巻九に、「終日《ひねもす》に鳴けど」とありて、付属の端歌には「雨のふる夜を霍公鳥《ほととぎす》」とあり。支那にて杜鵑、子規など呼ぶは、ホトトギスにあらずしてヨダカ(goat-sucker)なり。(熊楠案ずるに、これ独人モレンドルフの説なり。)『万葉』の詞人、昼鳴くホトトギスと夜啼くヨダカを混ぜるにあらずや。
答。ホトトギスは、学名を Cuculus poliocephalus という。郭公(C.canorus )と異なれり。両者酷似したる鳥なれど、ホトトギスはやや小形、しかして鳴き声において全く異なれり。支那にては如何《いかが》あらんかなれど、日本にては、ホトトギスを杜鵑と書く。夜鷹と混同すること決してなし。(飯島魁)
(明治三十七年七月『東洋学芸雑誌』二一巻二七四号)
(30) 本邦産淡水生紅藻について
貴誌第一八巻二三五号一七一頁、岡村博士の演説によれば、当時わが国に知られたる邦産淡水生紅藻は Batrachospermum と Compsopogon の二属なりしがごとし。しかるに、小生当那智山一の滝下および三の滝上の急湍《きゆうたん》中にて、一昨冬来多く Hildenbrandia rivularis Agardh と覚しき紅藻、岩に付けるを見(別封l)、また山中の飛泉より Chantransia chalybea Lygl. ごときを獲(二)、筧《とゆ》の底および中流中より、これと同属の紅藻(三および四)を獲候も、何分参考の書品乏しく所用の顕微鏡|麁《そ》にして、詳しく種名を定むること能わず。伏して同博士また他の専門家の検定を乞い、あわせてこれらは、右の演舌後すでに見出でたることありやを問う。すなわち?品にプレパラートを副え、別封として差し上げ候。
(五)は、当県南部沿海岸の中流中にしばしば見る Batrachospermum vagum Roth.var.keratophyllum Bory. かと存じ候えども、松村博士の『植物名彙』、この属の諸品を列記してこの種を載せず。これまたその種名御教示を仰ぐ。
付白。岡村氏『海藻学汎論』一〇二頁に、「マクリは四国南端の島および日向島の浦島に至りて始めて見《あら》わる」とあり。当県田辺港および勝浦港にもマクリ生じ候。また一〇三頁に、日向大島以南に Halimeda Tuna 生ず、とあり。小生は勝浦近処にて先冬 H.Opuntia を獲候。
答。添付せるプレパラートおよび?葉標本について検するに、左のごとし。
第一号 Hildenbrandia rivularis J.Ag. 第二号 Batrachospermum sp. の単性生代。第三号同上。第四号? 第五号 Batrachospermum vagum Roth.var.keratophyllum Bory.
(31) すなわち第一号および第五号は、質問者の検定のごとし。第二号および第三号は、従来 chantansia 属とせられたる植物と一致すれども、現今はカワモズク属の単性生代と認むるもの多し。現品二種ともに同属中のある種の単性生代と思わる。第四号は、カワモズクの発生期にあるもののごとくなれども、生殖器を欠くをもつて明らかならず。第一号および第五号は、ともに従来わが国に産するを聞かず。邦産淡水藻類の研究はいまだ充分ならざるものあるをもって、少しくこれに意を注げば発明するところ決して少なからざるべし。岡村氏『海藻学汎論』一〇二頁に記述する海産植物分布の説は、紀伊南部および四国南岸を精査せる後に断定せるものにあらざるがごとくなるをもって、これをもって必然的分布説と認定するを得ず。(遠藤吉三郎)
(明治三十七年七月『東洋学芸雑誌』二一巻二七四号)
再び本邦産淡水生紅藻について
明治三十七年七月発行、貴誌二七四号三三五頁に、従前の本邦産淡水生紅藻目録に、予が発見の一、二属を加えたることを載せたり。
只今小包郵便にて送呈する紅藻、長さ半|乃至《ないし》二インチ、形、太き猪毛様にて、麁《そ》に分枝し、本来オリヴ縁、数月間フォルマリン水に貯え置かば、漸次美なる紺色を呈するものは、客年十一月、当国東牟婁郡請川村川湯にて、予が見出だし採れるなり。この地、河水中、数処に温泉|涌《わ》き、その温かさ華氏百五十八度と記したれど、土俗、鉄砲水とて、筏を下さんがため、不定時に上流に抑留せる流れを切り落とすことしばしばなれば、確かなことは知れがたし。何に致せ、温泉の下流にあるゆえ、他処の用水に比して多少温かなる流中の、小石および岩壁に、この藻散在して固着せり。
しかして予が用いおる顕微鏡は、なさけなきほど麁末《そまつ》の品にて、その上眼はなはだ宜しからねば、ほんの肉眼にて繰り返し見得たるところ、Sachelia また Tuomeya もしくは岡村博士が本邦にて創見せる Compsopogon 属のものらし(32)く思わるれども、参考書備わらざれば精査の手懸りなし。しかれども、斯学専門家に取りて多少の興味ある発見品かとも思われ、他に便りもなければ、慎んで貴社に寄送し、然《しか》るべき学者の鑑定指名を冀う。
付白。前年予が那智山にて見出だせし Hildenbrandia rivularis J.Ag. は、欧州には処々山中に生ずれども、北米には少なしと見え、一八八七年板、ワレ氏の『合衆国淡水藻図識』六二頁に、その産地唯一所を名ざせり。本邦にはあまり希有の品にあらざると見え、その後当国日高郡川又、西牟婁郡十丈峠、大和国吉野郡田戸付近および玉置山にて、あるいは飛泉裏に、あるいは小流中に多く見出だせり。田戸付近にて客冬余が見しは、長さ十二間ばかりと覚しき、狭長き瀑布の裏と、かたわらの岩壁全くこの固着紅藻に被われ、その上に所々に、Chantransia violacea Kg. と覚しき、毛茸紅藻を点生し、真紅の滑壁に菫紫色の斑紋を画けるごとく、なかなかの美観なりし。
答。Compsopogon sp. なり。この属はかつて岡村博士が武州多摩川上流にて、また矢部学士は堀の内より大宮八幡への通路に当たる小流にて発見したる外には、いまだ広く産するを聞かず。
(明治四十二年七月『東洋学芸雑誌』二六巻三三四号)
梅について
貴誌第一八巻二三五号二七一頁、松村博士の説、「梅は天平九年ごろに伝来せしものならん」とあり。しかるに、一昨年初めごろの『大阪朝日新聞』に『古今要覧』を引いて、梅のことは人麿(『三十六人歌仙伝』に天智後文武帝在位間の人とあり)の「梅の花咲ける岡辺に家居せば」の歌が初めて、詩には『懐風藻』の葛野王の「素梅《そばい》、素靨《そよう》を開く」の詩が初めならん、とあり。
『続日本紀』に、慶雲二年(天平九年より三十二年前)葛野王卒四十五歳とあり、また『懐風藻』に釈智蔵の「花鶯を翫《はや》す」五言一首あり。師友土宜法竜僧正の教示に、智蔵という僧正二人あり、一人は呉人の子にして、白鳳二年、(33)「僧正に任ず」、今一人『懐風藻』に出でたるは純粋の邦人にして、持統帝の時(天平九年より四十一至五十年前)僧正となる、時に年七十三、この人梅を見て天平九年以後に一首詠ぜしとならば百十三、四歳の時とならんこと、ずいぶん奇態なり、とあり。もっともこの僧、弘文帝の時入唐し、持統帝の世に東帰の途に上る、とあれば、件《くだん》の詩は在唐中の作かとも思わるれども、すでに人麿の歌、葛野王の詩、外に今一、二人、天平九年より前、梅の詩を『懐周藻』に載せたり、と記臆す。この人々ことごとく梅を見ずに外国産を伝聞のまま吟詠せしとも思われず。
『続紀』、天平十年、相撲叡覧の時、「殿前の梅樹を指さしていわく、云々、去春より、この樹を翫《め》でんと欲し、いまだ賞翫するに及ばず」とあるのみ。別に昨今新舶来の由叡旨も見えず、如何《いかが》のことに候や。
答。梅、本朝に渡来の年代古きほどなお宜しとす。余が説は、年代を精確に調査するをもって目的とはせざりき。ただ本邦産ならざることを説明せんがため、天平九年、云々、と手近の覚書より引用せるまでのことなり。あるいは本邦従来の産なるやも知るべからずといえども、ウメの語は支那伝来と言わざるべからず。(松村任三)
(明治三十七年七月『東洋学芸雑誌』二一巻二七四号)
芸州吉田川の食用藻について
今を距《さ》ることおよそ二百四十六年前、黒川道裕が撰せし『芸備国郡志』巻上(続々群書類従本、三四五頁)にいわく、「河水、苔を生ずるは稀《まれ》なり。高田郡吉田川には、冬月苔を生ず。形状風味は海苔に似、柔脆《じゆうぜい》にして食らうに堪う。また河蜷を生ず。倭俗、爾奈《にな》と訓ず。その形小さくして螺《にし》のごとく、その味淡くして蜆《しじみ》に似たり。吉田村多治井には、芹《せり》を生ず。その根白くして緒《いと》のごとく、風味他産に勝《まさ》れり。民間に伝え言う、不端の三物は吉田の名産なり、と。しかして毛利元就、州に知《ち》たるの日、この三物をもって朝廷に献ずという」。
(34) ここに言える河のりは、例をもって推して、定めて緑藻(Monostroma,Enteromorpha など)もしくは青藻(Nostoc など)なるべしと思い、広島陸軍幼年学校教諭栗山昇平氏の斡旋にて、郡役所に依頼し、所員の好意もて故老の口伝により、件《くだん》の吉田川の食用藻と称するものを採集し、早速余に届けられしは昨年二月中旬のことなりき。しかるにその藻を一見するに、緑藻にも青藻にもあらで、全然紅藻 Batrachospermum 属の一種、帯褐オリヴ色にして(日を経れば色淡く紫を帯ぶるに至る)、この辺に多き、紫にして帯褐、あるいは深緑にして帯青なる B.moniliforme Roth. の常態と同じからず。枝ぶりもまた異なるようなり。
これまた前項の質問ついでに郵寄するゆえ、同様精査の上、その正確なる種、また変種名を示さるれば幸甚。しかして、かりに故老の口伝により、この品を食用に供しうべしとするも、この他に内外とも、この属の藻を食用する実例ありや。これまた教示を垂れよ。現品はフォーマリン液に浸しあるゆえ、食い試むること能わず。ちょっと近地の産を採りて食えば可なるようなれども、かかるへんなものを余みずから食うことを好まず、人に勧むるも、自分が食わぬ物を食えとは怪しとて、一向応ずる者なし。
答。Batrachospermum moniliforme の一の種形ならん。
(明治四十二年七月『東洋学芸雑誌』二六巻三三四号)
油木について、並びにトネリコについて
昨年十一月十四日、東牟婁郡小口村鳴谷といえる幽谷を尋ね、谷の端より直下する滝を、絶崖頭に一本のみ立てるヒノキにすがりて瞰下《かんか》す。俗に、那智の一の滝より、この滝米三粒だけ短しという。見おわりて弁当を開く前に、案内に立てる土民、高さ八尺ばかりの樹の生皮を剥ぎ、巻いて蝋燭のごとくし、火を点ずるに光明らかに久しく、漸次徐々として燃ゆること蝋燭に異ならず。諸般の用を弁ずるにはなはだ便なり。驚奇して名を問うに、アプラキと(35)いう由。この辺にて、夜山中を行く者の知るを要する品たり。余浅学、これまで聞きしことなきものなれば、その?葉《さくよう》、当時花なく紅実を結べるもの一双を呈し、その学名およびこの効用を記せる書物ありやを問う。
再白。これに似たること V.Ball,'Jungle Life in lndia,'1880,p.65 に言う、炬火樹《トーチ・ウツド・トリー》(Cochlospermum gossypium DC.)は、毎年三月ごろもっとも繁茂し、その木を切ってまだ生なる最中にも、精製の炬《たいまつ》同然によく燃ゆるよりこの名あり、と。また E.J.Andrew('Folk-lore,'vol.vi,p.93,London,1895)の説に、英国デヴォンシャーの百姓男ら、聖誕夜、森に趣き、柴を刈り、最も厚き枝を中心としてこれを積み燃やし、中心の柴焼き尽くるまで宴飲す。柴としてこの夜用うるに、特にアッシュを採る。この木は他の諸木とかわり、切りし当座、生木ながらよく燃え、かつキリスト、ベツレヘムの厩中に生まれて、この木の火にて暖められたればなり、と。アッシュは、邦産トネリコとともに、フラキシヌス属に隷し、『改正増補植物名彙』に、この属の邦産植物すべて五種を列せり。
予、去る十一月十九日、十津川深山無人の境に菌類を採り、途を失い日暮れて、止むを得ず峻嶮極まれる山頂に一夜を明かせしに、火を焚く料乏しく、寒気骨に徹り、脚ために痿《な》えて蓐《じよく》に臥し、今に外出しえず。その翌|旦《あさ》、自分が座しいたる傍を見しに、十津川地方に多きトネリコそこここに生いいたり。当夜かねて欧州アッシュのことを知りいたらば、一番にトネリコを捜し求め、得て焚き試むべかりしをと臍《ほぞ》を?《か》むも及ばず。むかし陶貞白、つねにいわく、「一事を知らざれば、もって深く恥となす」と。いわんや、ただこの一事を知らざりしがゆえに、十四旬を病牀に過ごすなど、一身に取っての大利害を惹き起こす場合なきにあらざるをや。よって謹んで邦産トネリコ属中、また生木ながらよく燃ゆるものありや否を乞い問う。
答。参考品二個、アブラキとあるものは Ilex Sugeroki Max. クロソヨゴ。『理科大学標品目録』三五頁に、紀州高野山の産地を載せたるものこれなり。小野蘭山の『本草啓蒙』三一巻一四丁秦皮の条に、この木にも白?を生ずること水?樹《いぼた》と同じ、とあるのみにして、?燭のごとく火を点じて燃ゆることを記さず。本邦産にて、生木のよく燃ゆること?燭のごとしと形容すべ(36)きほどのものあることを聞かず。樺の樹皮を松明とすることは皆人の知るところなり。
(明治四十二年七月『東洋学芸雑誌』二六巻三三四号)
葉なき蘚について
昨年十二月朔、予西牟婁郡と東牟婁郡の間なる、拾《ひら》い子谷《こだに》を急ぎ過《よぎ》るとて路傍の僵木《きようぼく》に躓《つまず》き、足大いに痛み、暫時立ち止まりしが、後進の輩、同じ難に遭わんことを哀しみ、これを除きやるもまた陰徳の一事と存じ、ずいぶん重かりし木を道より遠ざくるうち、その木に丁子《ちようじ》様の植物少数ながら付きたるを見当たり、嚢子菌なるスパチュラリア、ミトルラなどと早合点して取り収め、帰宅後熟視するに、全く菌でなくて、Buxbaumia の一種と覚しき蘚《こけ》の雌本、見たるところ、いささかも緑葉なく、茎頭に斜瓶状のやや大なる子嚢を戴くのみ。
東京博物学研究会発行、『植物図鑑』第二版八七二葉に Pogonatum pelluceus Besch の図ありて、「地に接して鋭尖形の緑葉数個を有するほか、絶えて葉を有せず、云々。一見緑葉を見ざるをもって、葉不見苔の意をもって名づけたるものなるべし」とあるに比しては、今送呈する余発見の蘚は、緑葉皆無なれば「葉ナシゴケ」とも名づくべきものなり。あえて問う、この蘚の種名|如何《いかん》。英国等に産する B.aphylla は、予の記臆によればこの品より長大なり。また今送るところは、深山産の性質のものなるに、かの種は、蘇学者ジェップ氏の直話に、ウィンゾルごとき、比較的人家多き地にも、朽木に付くものの由なれば、二者別種ならんと思わる。『植物名鑑』上巻には、この属の蘚一つも見えず。
答。この品は珍し。いまだ調査に従事せず。遠からず何とか属名だけも別《わか》るようしたし。
(明治四十二年七月『東洋学芸雑誌』二六巻三三四号)
(37) カシノキ数種について
日高郡川又村にて、カシの名を付け呼ぶ樹四種あり。別封?葉、付箋(一)シラカシ、(二)アオガシ、(三)アカガシ、(四)オオガシと書けるこれなり。これらはおのおの学名を何と呼び候や。余多くこれらの樹に付ける菌類および粘菌類を海外の学者に贈るに、なるべく正確に寄主の種名を付記したき望みにて、伏して教えを乞うなり。また(五)も、これらに似たるものとおぼしく、西牟婁郡栗栖川村産、十月上旬開花せり。これも種名を教えられたし。
答。(一)Quercus myrsinaefolia Bl.? ウラジロガシ、方言シラカシ。(二)Quercus myrsnaefolia Bl.var.? 方言アオガシ。(三)Quercus glauca Bl.アラカシ、方言アカガシ。(四)Quercus acuta thb. アカガシ、方言オオガシ。(五)Quercus thalassica Hance. シリブカガシ。
(明治四十二年七月『東洋学芸雑誌』二六巻三三四号)
熊野産顕花植物および羊歯数種について
別封差し上げ候顕花植物十種、羊歯一種は、過ぐる七年間、小生熊野諸地にて採集せるもののうち、万事不自由がちの当地にては、その学名を識る便りなき品々にて、今断じて貴社に寄せ候間、それぞれ学名を示されんことを望む。
(一)明治三十八年四月九日、当町近き奇絶峡の断岸側に、ただ一株を獲。打ち見たるところ菊科のものと見え、当時他に事多くて、わずかに記憶せるところとては、その時近傍を見廻りしも、この一株の外なかりしことと、舌状の周囲花の数《かず》十に足らず、きわめて淡き桔梗色にて、一向目立たぬものたりしことのみなり。
(二)当地近傍の小山および十津川の高山二千フィートばかりの所にこれを見る。菊科の物たることはたしかなれど(38)も、予が見当たりたる、十至十一月には、いずれも花弁は謝し去り、実を結びおれり。
(三)外見 Lathraea 属のものたるがごとし。初夏、西牟婁郡|水上《みなかみ》の山林また那智山クラガリ谷にて見る。生時全体白く、一見ある種のクラヴァリア菌叢生せるごとし。時を歴れば、ようやく黄を帯ぶ。
(四)四年前八月、当町近き小丘、シイノキの林下におびただしく群生せり。シャクジョウ草かと思う。果たして然《しか》らば、その本種 Monotropa hypopithys L. は、英国某地の海近き低地に生ずる由、先年『ネーチュール』にて読みしことあり。シャクジョウ草は従来、本邦にて深山に生ずることのみを聞きしが(那智山奥にて小生多く採れり)、只今送り申し上ぐる品のごとく、海近き低地に生ずることも多く例ありや。
(五)大坂峠産。ちょっと見たるところ、木も葉も柿に似たり。高さ一丈余。
(六)ニラバランか。当地近き泥海に瀕せる沢辺に多き所あり。
(七)ナギランか。『植物名鑑』下巻前編二四〇頁に、その学名を載せたれども、産地を挙げず。今写生図と共に送るところは、五年前の四月、那智山麓の竹林中に、結実せるものを多く獲、当地に持ち来たり、家庭に植えたるに、翌年七月わずかに四、五株花咲きしを採れるなり。故榊原芳野氏蔵本、小野蘭山『紀勢採薬志』を小生写し持てるその内に、紀州東牟婁郡向島にてこの蘭を採れることを書きつけたり。向島は太地浦の近所にありときく。小生、飯沼翁の『草木図説』にて、この蘭南紀山中に生ずる由を見及び、百方探索すれども、今送る品の原産地の外に見当たりしことなし。
(八)ヒナノシャクジョウか。当地近き瀬戸村、オガタマノキの下、および那智山諸部杉林下、腐葉堆裏に多し。図副う。
(九)前種に似たる腐生単子葉植物にして、那智山、樹下腐葉堆中に夏生ず。前種ほど多からず。図副う。
(十)明治三十六年七月二十六日、那智一の滝辺の杉株の下に、ただ一本、暗紫花を開けるを獲(図副う)。明年九月(39)未、同山の奥、深林下の岩窪に腐葉積もる中に、わずかに八本、花なく果のみあるを採る(前種数本も雑り生じおれり)。小生一向不案内のことながら、Le Maout et Decaisne,'Traité général de Botanique'ヒナノシャクジョウ科の条に、この植物に似たるものを図せりと覚え、またこの植物、色暗く全体細小に、樹陰曖昧の場所に生じ、すこぶる見出だしがたければ、『植物名鑑』(上出、二三四頁)に、琉球に一種産すと見えたる Cryptonema(洒落で「忍び緒」とでも訳すべきか)属のものならずやとも思う。
(十一)キクシノブか。当地近き稲成村、および那智村字天満の、薬研石という岩多き丘腹に産す。前年故安藤直行男より望まれ、予|栽《う》え置きし品を贈り、東京某の園芸共進会とかへ出し、好評ありしとか聞く。『植物名鑑』上巻三〇二頁、台湾および伊勢を産地として載せたり。
答。(一)Erigeon canadensis L.(二)Gerbera anandria Schult.(三)Phacellanthus tubiflorus S. et Z.(四)一茎一花のものは Monotropa uniflora(ギンリョウソウ)、一茎数花のものは Monotropa hypopithys L.(シャクジョウソウ)。(五)Diospyros Lotus L. シナノガキなるべし。(六)Microtis parviflora R.Br. ニラバラン。(七)Cypripedium laucifolium Hook. ナギラン。(八)(九)Brumannia japonica Max. ヒナノシャクジョウ。(十)Sciaphila japonica Makino. ホンゴウソウ。(十一)Davallia pedata Sm. キクシノブ。
(明治四十二年七月『東洋学芸雑誌』二六巻三三四号)
(41)
『大日本時代史』に載する古話三則
近刊『大日本時代史』に載する本邦著名の古話に、予の注意を惹けるもの、およそ三あり。米糞聖人の話(「平安朝史」一六一頁)、醍醐天皇哭声を聞きて婦人の姦を知りたまいし話(同、三四五-六頁)、毛利元就箭を折りて子を誡めし話(「安土桃山史」一九二-三頁)これなり。
この書全部一人の手に成らざれば、筆者が古話を究むるの法また一途に出でずとみえ、第一・第二の話は史実もしくは史実らしきものと見なされたるに、第三の話は、その巻の著者これを支那の故事によりて摸造せるものと断ぜり。
今諸方の古話を比較するに、遼遠相関せざる地に箇々特生しながら、人情と範囲の同じきより、酷似偶合の談を生ぜるあり。予が只今住する紀州田辺の一商人好んで妾を蓄えしを、その妻きわめて怨望すときき、一日従容として妻のもっとも好むところを問いしに赤飯と答う。よって日々赤飯のみを食わしむるに、すこぶる飽き足れりと言うに及び、その夫われもまた最も卿を愛すれども、毎日卿の顔のみ見て住《とどま》ることは飽かざるを得ず、と笑いしことあり。この人二十年ばかり前に歿したれども、親しくこの事実を見聞せし輩多く現存し、予のために語ること異口にして同音なり。さて欧州にほとんどこれと符合する談あり。仏国の俗諺に「毎度パードリッス」(Toujours perdrix)と言うは、アンリ四世|嬖幸《へいこう》いと多かりしを、王后のためにある僧これを諌めしに、王命じて毎食ただパードリッス鳥の肉のみを彼に饗し、他品を供うるを禁ず。これこの僧の最も嗜むところたりしも、日々同饌なるにあきはて、ついには「毎度(42)毎度パードリッスのみなるかな」と嘆ずるに対して、王いわく、孤《われ》もまた毎度毎度王后のみにしてよく厭かざらんや、と。かくて双方おのおの欲することを恣《ほしいま》まにして相|忤《さから》うことなきに及べりと言う、に出ず。一説に、この王をルイ十四世とし、パードリッスを鷸《しぎ》とす。友人 A.Collingwood Lee その"Two Old Proverbs,"in Notes and Queries, August 17,1907,o.136 に広く類似の話を蒐めたるをみるに、東アジアのもの一つもなければ、この田辺ごとき、今日すらやや僻陬《へきすう》なる小市の俗人にして、当年はるかに欧州の故事を知りえたりとも思われず。要は遭際の同じきに起こる暗合なるべし。
かのキリスト刑場に牽かるる時、罵言を加えしユダヤ人が、今に至って死所を得ず、四方に奔走して瞬間も住《とどま》るを得ずと言える、あまねく欧州に行なわるる譚のごときは、『雑阿含経』、『請賓頭盧経』等の賓頭盧《びんずる》尊者の伝、また張華の『博物志』などにみえたる蘇生の奴常に走る談と、いずれも命終わりえずして不断走り廻ることのみ同一にして、委細の 鮫末はなはだ相異なるものなれば、三話偶合と言うべきのみ(Nature,vol.liii,p.78,1895 および Notes and Queries,Aug.12 & 26,1894;April 28,1900 に出せる拙文"The Wandering Jew"をみよ)。
『万葉集』を読みたる人の必ず知れる、香久と耳梨の二山が畝傍山を懸想して争闘せしという話は、わが隣邦に似たるものあるを聞かざれど、マレー半島のビヌア人間に趣きこれに似て意異なる談あり。また暗合ならん。いわく、彼らがロング・ルルムット脈の三山を人間創生の所となし、おのおの魂ありとて尊崇大方ならず。なかんずくルルムット山は夫にして、チムンズング山は老妻、ベッチノック山は少妻たり。最初三山相隔たり無事なりしが、一日老妻その夫が少妻を寵することおのれに超えたるを妬み、少妻の髪をきる。少妻また大いに怒り、足を揚げて老妻の頭をけり歪む。ここにおいて、夫ルルムット両妻雑処の害を悟り、その大?幹を挺してみずから二人の間におり、隔てて相近づくことなからしめて今日に至れり、と(J.R.logan,"The Orang Binua of Johore,"in The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia,Singapore,NOv.1837,p.279)。
(43) また「奈良朝史」四九九頁なる、蜂に螫《さ》されて道鏡の陽にわかに未曾有の偉物となりし大珍説も、十五世紀にアメリゴが筆せる『南米紀行』('Summatio Amerigo Vespucci,Fiorentino,di sue Navigationi,'in Ramusio,'Navigationi e Viaggi,'Venetia,1583,vol.i,p,131)に、ある民族の婦女荒淫にして、一種の草汁を男子に飲ませてその陽を膨脹せしめ、なお足らざる時は毒虫に咬ませてますますこれを大にす、ために過って睾丸を囓み去られ閹人《えんじん》となる者多し、とあると同則なれども、時代土地の隔絶せる相互間の連絡あるべきにあらず。
また、各国の古話を対照するに、一邦に生じて他疆に徙《うつ》り、時として風土世態の異なるより、多少の損益変遷を経ながら、帰化同塵して永住するあり。例せば『宇治拾遺』の丹波の愚僧輩死してヒラ蕈《たけ》に転生せし話は、唐の呉融の『冤債志』、庵僧化蕈の条より出で、『太平記』、三井の鐘叡山へ取られて鳴るを肯んぜざりし譚は、『酉陽雑俎』の神磬《しんけい》光政寺を恋いしことに基づき、弘法大師が鈷《こ》をなげ落つる地を尋ねて高野に登りし伝(『江海風帆草』には、伝教唐より帰らんとて独鈷《とつこ》と壇鏡を日本に向かって抛げ渡し、筑前の立花山に落つる、とあり)と、『衛蔵図識』に、ラッサの北十里、色拉《セラ》寺中に一|降魔杵《ごうましよ》を置く、蕃民呼んで多爾済(ドルジすなわち鈷)となす、大西天より飛び来たる、その寺の堪布《カンボ》これを珍とす、蕃人必ず歳《とし》に一たび朝観すとあるに考合して、密教の伝統いまだ日本、チベットと分かれざる前、はや飛鈷の誕《はなし》行なわれしが、その宗旨とともに本邦に渡れるを知る。
『水鏡』に、押勝の娘美なりしを、鑑真見て、この人千人に遇う相ありと言いしを信ずる者なかりしに、父誅せらるる日、軍士千人ことごとくこの人を犯してき、と筆せるは、『十誦律』所載、妙光女を相師占して、「この女、のちまさに五百の男とともに通ずべし」と言いしに、死後果たして五百群賊に汚さるという誕によって作れるならん。(アラビアにも、一女生まれし時、占婦これを卜して、のち必ず婬を五百人に売らんと予言せるが中《あた》りしこと Burton,'Supplementary Nights,'London,1894,vol,i,p.185 にみゆ。たぶん本邦と斉《ひと》しくインドの説を承けしならん。インドには、仏説以外にもこんな譚多し。例せば、Kingscote and Natêsa Sastri,'Tales of the Sun,'1890,Ch.xix に聖(44)人ジュニヤーナニドヒの不在中、その妻女子を産む時、梵天その室に入り、その子の額にこの女長じて売婬すべしと書きつけ、去るに臨んで聖人の弟子スブラーマニアにかく告げたので、ス大いに憂いしが、のちかの女子父母に死なれて大いに窮し、婬女となり生を聊するをスが訪れ慰め、奇謀をもってこれを救い出した譚あり。)
また故アーノールド氏の詩によって、本朝貞婦の亀鑑と名を海外に馳せたる袈裟御前の苦節談は、『盛衰記』本文の末に、作者ほとんどその支那における出所を自白せり。あるいは『晋書』苻融伝の、菫豊の妻新梳枕臥してみずから姦夫に殺されし話の翻案にもありなんか。『甲子夜話』続篇六五に出たる、河内藤井寺の美童幸松丸を挑みし男、師坊を殺さば汝の望み通りになるべしと言うを聞きて、一夜これを斬り、首をみれば幸松丸なり。「恨めしや松にかかれる藤井寺、河内の国に名を流しけり」と詠んで池に入りて死す。これ袈裟御前の死より三百年ほど前のこと、という譚は、袈裟御前を美童にふり替え、藤井寺の藤によって松をその名としたので、『盛衰記』よりのちの手製と見ゆ。降って安土桃山時代に及んでも、陶母の蹟に擬して光秀の妻が夫のために髪を売りしことを話し、狄青《てきせい》の蹤を踏んで、秀吉両面一様の銭もて全勝を占いえたる譚を造りしなど、今も昔も盛んなるは摸倣|依様《いよう》の談なり。
上のごとく説くといえども、諸古話について一々その源を見出だすこと、すこぶる難し。東洋において古話を論ぜるもの、遠くは応劭の『風俗通』、段成式の『酉陽雑俎』、近くは蟠竜子の『俗説弁』、簑笠翁の『質屋庫』等ありて、その出所を探り、沿革を詳らかにするに力を致せり。近世泰西に比較古話の学起こるに及び、広く材料を地球の諸部に集め、はるかに系縁を上古の亡国に求むるをもって、その種数の浩漠たる、同異の雑揉《ざつじゆう》せる、精力過絶せる人士輩出して、これに仮すに年月をもってし、天下一切の諸話を総括整列せるの後にあらずんば、決してこの譚はこの国に生ぜり、かの談はかの伝によると確言しえざるを知るに至れり。さりながら、精究の完成かくのごときは、到底昨今に望むべきにあらざるをもって、単に予がかつて集めたる材料のみによって、左に『時代史』所載前記三話の由来を弁じ、そのわが邦の特生に係るか、海外よりの輸入によるかを判ずるも、また止むに勝るの少益ありなんか。
(45) 米糞聖人の話
『文徳実録』に、これを斉衡元年の事実として、六月乙巳、備前よりこの伊蒲塞《うばそく》を貢せし由を記せり。イタリア人ヨサファ・バーバロの、一四三六より十六年間に渉れるタナ紀行('Viaggio di M.Iosafa Barbaro alla Tana,'in Ramusio,vol.ii,p.111)にいわく、「ここに回教の一聖人あり。野獣のごとく裸にして行《ある》きながら説法し、民の信仰厚ければ、庸衆群集して追随す。聖人なおもって足れりとせず。公言すらく、密室に入定し、断食四十日して、出ずるに及びよく精神健やかに、身体いささかも恙《つつが》なからん、と。よってこの辺にて石灰を製するに用うる石を林中に運ばせ、一円廬を構えて入定す。四十日ののち、出で来たるを見るに、心身安泰なりければ、みな驚嘆す。一人細心にして、廬傍の一処、肉臭の気を放つを?《か》ぎ知り、地を発掘して積粮を見る。事、官に聞し、聖人獄に繋がる。一弟子また囚えられ、拷問を重ねざるに自白すらく、廬の壁を穿ちて一管を通じ、夜中ひそかに滋養品を送り入れしなり、と。ここにおいて師弟あわせて誅せらる」と。
諸国に売僧《まいす》が種々の方法をもって人を欺くこと、古今例多ければ、本邦と裏《カスピ》海地方に、この相似たる二話あるは偶合ならん。『実録』に日付をすら明記したれば、多少所拠とする事実はありしなるべし。ただし、馬琴の『質屋庫』末段に、見台先生明夜の会合に論ずべき題号を挙ぐる中に、米糞聖人のことあれば、曲亭はたぶん『実録』と『宇治拾遺』の外より、これに似たる、日本もしくは支那、インドの古話を若干集めおきたりしならんが、『質屋庫』の続編版行なかりしゆえ、その考は世に出でずして已《や》みたるにや。
(46) 延喜聖主、女の哭くを聴きてその姦を知りたまいし話
段成式の『酉陽雑俎』は、この話の出たる『今昔物語』より約二百年前の著にして、その続集巻四、特に貶誤部を設け、多く旧伝古話の起源と変遷を述べたるは、西人に先立ちて、比較古語の学に着鞭せしものとして、東洋のために誇るに足れり。その第二葉にいわく、相伝えていわく、韓晋公滉、潤州にあり、夜従事と万歳楼に登り、飲んでまさに酣《たけなわ》なり。杯を置きて悦ばず。左右に語っていわく、汝婦人の哭くを聴くや、まさに何の所に近かるべきぞ、と。対《こた》えて某街にありと言うに、詰朝《きつちよう》、吏に命じ哭者を捕えてこれを訊《と》う。信宿にして獄具わらず。吏罪せられんと懼れ、屍のかたわらに守る。たちまち大青蠅ありて、その首に集まる。よって髻《もとどり》を発《あば》いてこれを験するに、果たして婦隣人に私し、その夫を酔わせてこれを釘殺せり。吏もって神となし、晋公に問う。晋公いわく、われその哭声を察せしに疾《や》んで悼《いた》まず、強いて懼るる者のごとし、と。王充の『論衡』にいわく、鄭の子産、晨《あした》に出でて婦人の哭くを聞き、僕の手を拊《ふ》して聴く。間あり、吏をして執えてこれを問わしむるに、すなわち手ずからその夫を殺せり。異日その僕問うていわく、夫子何をもってこれを知る。子産いわく、およそ人その親愛するところにおいて、病と知りて憂い、死に臨んで懼れ、すでに死して哀しむ。今すでに死せるを哭して懼る、その姦を知るなり、と。
予案ずるに、『論衡』(西暦紀元ころの書)よりは二百余年の昔に成る『韓非子』難三第三八、すでにこの談あるを、さしも博覧の段氏は逸せり。その文大同小異にして、やや『論衡』より詳し。人々の音声を聞きて、その心底を察する誕《はなし》、和漢のみに止まらざるは『アラビア夜譚』(バートン訳、第九四八夜)に、回教主ハルン・アル・ラシッドが、豪賈アブ・ハサンの妻の悲歌するに感じて、その夫が、この女|近曽《ちかごろ》両親を喪《うしな》えりというに係わらず、これ父母を失える声にあらず、別れし男を慕う音《こえ》なり、と断ずる語あるなどにて知るべし。ただし、九条堀河の小家の女のなく声が清(47)涼殿の夜の殿までも達せしこと怪しむべし。かつ、そのころ本邦の婦人、夫死せしを悲しむとても、支那人のごとく大声を放って叫びしにやいぶかし。もって支那譚を移して延喜帝に托したものたるを知るべし。
【増補】
『一休諸国物語』二にも、一休哭声を聞きてその女の姦を知る話あり。夫の頭に針打ち入れて殺し、家に火を掛けた、とある。韓晋公の話の釘を針と作ったものか。家を焼いたとは、下に出す厳遵の話から出たらしい。
『大日本時代史』に引いた『今昔物語』二九の一四「九条掘河に住む女、夫を殺して哭きし語《こと》」にいわく、「今は昔、延喜の御代に、天皇、夜、清涼殿の夜のおとど(殿)におわしましけるに、にわかに蔵人《くろうど》を召したりければ、蔵人一人参りたりけるに、仰せ給いけるよう、この辰巳《たつみ》の方に女の音《こえ》にて泣く者あり、速やかに尋ねて参れ、と。蔵人仰せを奉《うけたま》わりて、陣の吉祥《きちじよう》を召して、火を燃《とも》させて内裏の内を求むるに、さらに泣く女なし。夜|深更《ふけ》にたれば、人の気色《けしき》だになければ、返りてその由を奏するに、天皇、なおよく尋ねよ、と仰せ給えば、その度《たび》は八省の内を、清涼殿の辰巳に当たる所の官々《つかさつかさ》の内を尋ね聞くに、何《いどこ》にも音する者なければ、また返り参りて、八省の内には候《さぶら》わぬ由を奏するに、さらば八省の外をなお尋ねよ、と仰せありければ、蔵人、たちまちに馬司《うまのつかさ》の御馬を召して、蔵人それに乗りて、吉祥に火を燃させて前《きき》に立てて、人あまた具して、内裏の辰巳に当たる京中を行《ある》きて、あまねく聞くに、京中みな静まりて、あえて人の音せず。いわんや、女のなく者なし。ついに九条堀河の辺《ほとり》に至りぬ。一つの小さき家のあるに、女の泣く音あり。蔵人、もしこれを聞こしめしけるにやと、あさましく思いて、蔵人はその小さき家の前に打ち立ちて、吉祥をもって走らしめて、京中みな静まりて女の泣く音なし、ただし九条堀河なる小家になん、女のなく、一人候う、と奏しければ、すなわち吉祥返り来て、その女をたしかに搦《から》めて将《い》て参るべし、その女は内に謀《たばかり》の心をもって泣くなり、と宣旨《せんじ》あり、と言えば、蔵人、女を搦めさするに、女のいわく、おのれが家は穢気《きたなげ》なり、今夜《こよい》盗人入り来て、わが夫すでに殺されにたり、その死にたる夫、家の内にいまだあり、と言いて、音を挙げて叫ぶこと限り(48)なし。しかれども、宣旨、限りあるによりて、女を搦めて内に将て参りぬ。その由を奏すれば、すなわち内裏の外にして検非違使《けんびいし》を召して、女を給いて、この女大きなる偽りあり、しかるに内の心を隠して、外に泣き悲しむことあり、速やかに法に任せて勘問して、その過《とが》を行なうべし、と仰せ給いければ、検非違使、女を給わりて罷り出でぬ。夜明けてこれを勘間するに、しばしは承伏せざりけれども、責めて問いければ、女落ちてありのままに申しけり。早う、この女は蜜夫《まおとこ》と心を合わせて、実《まこと》の夫を殺してけるなりけり。然《さ》てこれを歎き悲しむと、人に聞かせんがために泣きけるを、女ついにえ隠さずして落ちにければ、検非違使かく聞きて、内に参りてこの由を奏しければ、天皇聞こしめして、さればこそ、その女の泣きつる音は、内の心に違《たが》いたりと聞きしかば、あながちに尋ねよとは仰せられしなり、その蜜夫たしかに尋ね搦めよ、と仰せ給いければ、蜜夫をも搦めて、女と共に獄《ひとや》に禁《いまし》められにけり。されば心悪しと見ん妻《め》には心を免《ゆる》すまじきなりとぞ、これを聞き見る人みな言いける。また天皇をぞ、なお只人《ただびと》にもおわしまさざりけり、と人貴び申しけるとなん語り伝えたるとや」と。
享保十五年の八文字屋本『善悪身持扇』上の一に、奈良の墨屋の九郎助、春日の社の大鳥居辺で小判五十両入った財布を拾い、宿に帰れば女房は待ち兼ね、隣りの又六の所には、にわかに誰ぞ死んだか、先ほどからあれ聴かれよ、夫婦の泣き声、娘のお蘭がな頓死したか、夕《ゆうべ》まで別のこともなかりしが、何にもせよちゃっと見舞いに行かれよと言えば、九郎助、夫婦が泣く声を聞いて、いやいや死んだ時の泣き声にあらず、孔子の『家語』という書にあるとて、さる物知りの言われしを耳に挿みて覚えておるが、孔子、衛の国におわせし時に、顔回に向かい、今隣家に人の哭声の強く悲しきを聞けり、何ごとを歎く声と知るやと尋ね給えば、顔回答えて、この嘆きの声は死人のためになくにあらず、生きて別れたる者のために悲しむものなり、桓山の鳥、子を四つうみ、羽翅《はねつばさ》生い揃いて四方へ別れ飛ぶ時に、その父母の鳥悲しみ鳴きて四つの子を送る、その鳥の哭声に、今哭く人の声よく似たりとありしとかや、われらしき勿体なくも、その顔回の足の裏の黒子《ほくろ》ほどもない身で、四鳥の別れの嘆きの声をしるにはあらねど、死んだ泣き声と(49)はさらにきかぬ、そち行きて様子を聞いてこいと遣わせしに、少時《しばらく》ありて女房隣の妻を伴れ来たり語るを聞けば、その夫、人受けに立ち、その人主家の金を持ち逃げたので、これを償うため娘を遠く博多の遊女に売る、長き別れの悲しさに朝から泣いてばかりおる、と言ったので、九郎助拾うた財布より三十両出し救い遣った次第を述べある。
『孔子家語』は偽書だと聞くが、桓山の鳥子別れの悲鳴は古来言い伝えたとみえ、『抱朴子』一二にも、「完山の鳥の生を売り死を送るの声は、孔子もこれを知らず、すなわちまた顔回ただひとえにこれを解すべしと謂《い》うぺけんや。太山の婦人の哭するを聞き、これに問いて、すなわち虎その家の三人を食いしを知るも、またこの婦人の何をもって徙《うつ》り去らざるかの意を知らず、答えを須《ま》ちてすなわち覚《さと》る」と言った。太山の婦人が大いに哭くを何故と孔子が問うと、家内三人まで虎に食われたと答え、なぜ虎のない所へ徙《うつ》らぬかと尋ねると、苛政は虎よりも恐ろしいから暴政の地へ行きたくない、と言ったのだ。『太平広記』一七一に、揚州の刺史厳遵が管内を巡行した。道傍に女が哭く声哀しからず、夫が焼け死んだという。遵その尸《しかばね》を載せ来たらしめ、番人を付けおくと、尸の頭に蠅が聚まった。よく視れば、その頭を錐で貫きあつたから拷問すると、この女淫行を匿《かく》さんとその夫を殺したと分かった由。総じて女の巧みずいぶん旨くとも、どこかに手抜かりある一例は、北宋の彭乗の『続墨客揮犀』にいわく、張杲卿が潤州知事たりし日、ある家の主《あるじ》出でて数日帰らず。たちまち人あり、畠の井中に死人ありと報ず。家の妻驚き往き覗いて、これはわが夫だと哭いた。杲卿、吏をして隣人どもと見に往かしめたところ、井が深くて誰の屍と判らず、引き揚げて検視しようと一同が言った。張公聞いて、誰の死体とも見分かちがたいものを、ちょっと覗いてわが夫とは手廻しが早過ぎる、必定その女のがその井戸穴同前、深すぎて亭主の物では夏の夜の短い契りに飽きたらず、月夜烏ほど長いのを望んで、仇し男を拵《こしら》えたものと睨み、拷問すると果たして間男と共謀して夫を殺したと分かった、と。
『大唐西域記』八に、むかしマーズハヴァ僧?《サンキヤ》の法を習い、学内外を究め、名前烈より高く、徳当時に重く、君王珍敬して国宝と謂う。その時南天竺の徳慧菩薩、幼にして敏達、学三蔵に通ず。マーズハヴァの大名を聞き、書を三年(50)続け贈った口上に、よろしく出精して旧学を習いおかれよ、三年の後われ汝の美名を摧《くじ》かん、と。最後にまた、もう期限が過ぎたから出懸くる、左様心得よ、と書き送った。マ大いに懼れて、門人と邑民に、今後沙門がきたら宿すことなかれ、と命じた。徳慧到着したが、誰もとめてくれないから、邑外の林中に泊り、それより王宮に行ってマと論議を望み、王すなわち論場をしつらい、マを請じて論議せしめた。マは王の使者より論議の相手が徳慧だと聞いて心勇まず。詮方なさに論場へ出ると、国王大臣士庶豪族みな集まって片唾をのむ。徳慧まず立って、日の暮まで宗義を演《の》べると、マは年老い智昏み速答しがたいから、帰って静思の上|対《こた》えたい、と言って退いた。翌朝論場へ出たが、ろくな答弁もせず。毎日その通りで六日めに血を吐いて死んだ。命終わる刹那その妻に、汝高才あり、今度のわが恥を忘るるな、と言った。妻は夫の喪を秘し葬儀を営まず。滅法著飾って論場へ出るをみて、一同、さればこそ、マーズハヴァは徳慧ごとき者と対論するに不相応なほど高才だから、妻に代弁せしむるので、優劣明らかに分かったと、判官|贔屓《びいき》でマをほめ立てた。時に徳慧、マの妻に、よく汝を制する者をわれすでに制したというと、妻はそのまま退去した。王、彼女はなぜ汝の語を聴いて黙り込んだかと問うと、徳慧答えて、マーズハヴァは死にました、しかしてその妻が私と論議にきました、と言った。なぜそれが判るかと問うと、徳慧、その妻の来たるや、面に死喪の色あり、言哀然の声を含めり、故にこれを知ったと答えた、とある。この女はよほどの才女だったらしいが、なお感情が声色に多少表わるるを隠しえなんだのだ。(昭和二年九月三十日記)
およそ『今昔物語』本朝部に載せたる古話に、インドと支那より転訛せるもの多し。その二四巻、百済河成飛驛匠と芸競べの条は、『世説新語』に出る。いわく、魏の鍾会かつて詐りて荀?の手書を作り、?の母に就いて宝剣を取り去る。会まさに宅を造る、?潜かに在って会の祖父の形を壁に画く。会の兄弟、門に入り、これをみて感慟し、すなわちその宅を廃す、と。インドにも、南天竺の画師が北天竺の巧師を訪うと、無類の美女が出て給侍した。夜分も(51)その側に侍せるを呼んでも一向近づかず、前《すす》んで牽くと木造りの女だった。そこで。画師はおのれが頸縊った壁画を作り、牀下に隠れおると、明朝主人の巧師見て大いに怖れ、刀で繩を絶たんとする時、画師が牀下より出たので、二人おのおのの妙技に感じ、親愛をすて出家修道した、と『雑譬喩経』四にある。これだけ予見出だして『郷土研究』一巻三号一六六頁に載せた。また、川成が従童を逃がし、その顔を畳紙に画いて下部に渡すと、市の群集中よりたちまちその童を認め捉え来たという記事の類話として、明の戴文進のことを同巻九号五五一頁に出した。
右いずれも予に無断で、故芳賀博士の『攷証今昔物語集』に、自分の発見のように転載されおる。戴文進は川成より五百年も後の人だが、頃日《さきごろ》、川成の卒した仁寿三年より千二百年ほど前在世、ギリシアの画聖アペルレスにもかかる伝説あるを見出でた。プリニウスの『博物志』三五巻三六章にいわく、アペルレス、かつてプトレマイウスとアレキサンドル王に事《つか》えて隙《げき》あり。プがエジプト王たるに及び、ア暴風に漂わされてエジプトの首府アレキサンドリアに著いた。平生アを?《ねた》む画師ら王の中臣を嗾《そそのか》し、王命を矯《いつわ》つてアを王の宴席に招かしめた。プ王呼びもしないアが押し掛けきたのをみて大いに怒り、何者が命を伝えたかを詰《なじ》ると、ア有合せの消し炭を採って、やにわに壁上にかの小臣の面を画き初めるや否、王はかの小臣が所為と認めたという、と。
また『今昔物語』巻三一、人を打ちて馬となした話は、天竺安息国大王の談に出で(『宝物集』一。『日蓮上人御遺文』弘安三年千日尼御返事にも引けり。『狂言記拾遺』の人馬はこれに基づくか)、同巻、湛慶阿闍梨還俗のことは、井沢長秀もすでに注せるごとく、『続幽怪録』の韋国の伝を摸せしならん。ただし、この話および二六巻人産まるる時鬼その死を告ぐる談は、ともに前に引いたアラビアの一女五百人に婬を売る話中に似たことあり。唐代アラビア人多く支那に往来したれば、その伝説を訛りて支那のこととせしを、また本邦に移したるならんか。(この拙見誤れり。実は仏説より出たので、『根本説一切有部毘奈耶』四九、青蓮花尼伝が本《もと》だ。話が長くなるから別に述べよう。)
(52) また二六巻、犬頭より蚕糸を得た話は、『捜神記』に、高辛氏の老婦耳疾あるを、「医、ために挑治し、一物を得たり。大いさ繭《まゆ》のごとし。婦人これを盛るに瓠《ひさご》をもってし、これを覆うに槃《たらい》をもってす。俄頃《しばし》して化して犬となる。その文《いろ》、五色なり。槃瓠《ばんこ》と名づく」と、槃瓠なる名を説明せんとて、こじつけた話あり。その繭、婦人、その文五色等の文字より取り合わせ、思いついた物語にて、原話相応の杜撰な話なり。さて同書に、「三国の時、呉に徐光という者あり。常《かつ》て市里《まちなか》にて術を行ない、人に従《つ》いて瓜を乞うに、その主、与うるなし。すなわち従《つ》いて瓣《うりのみ》を求め、地を杖《う》ってこれを種《う》う。にわかにして瓜生じ、蔓延して花を生じ実を成す。すなわち取ってこれを食らい、よって観る者に賜《あた》う。鬻《ひさ》ぐ者|反《ふりかえ》って出売《うりだ》せる所を視るに、みな亡耗《なくな》れり」とあるに倣《なら》うて、巻二八、「外術《げじゆつ》をもって瓜を盗み食われし語《こと》」を草せるならんか。かかれば醍醐帝哭声を聞きて姦婦の罪を知りし話も、また全く韓非・王充の書、もしくは『酉陽雑俎』の文を倭装せるに過ぎざること明らけく、実在せし史実にはあらじ。
毛利元就、箭を折りて子を誡めし話
前日、予がロンドンの随筆問答雑誌 NOtes and Queries,July 13,1907,p.25 に出せる「矢を折りて教訓す」と題せる拙文を訳せば左のごとし。
バックルの『英国文明史』二巻三章に、リンドセイの『スコットランド史』によっていわく、ゼームス二世ダグラス伯を惨殺せるにより、伯の一族旧交乱をなすに及び、ケンネジー僧正が王を誨《おし》えしところのものは、巧みに諷諭して僧侶の特技を発揮せり、すなわち一束の箭を手にして、聚まれば折りがたく別つ時は破りやすきを示せしに、王これを視て、すなわち貴族輩を分離して一々これを滅すべきを解せり、と。
この「分かって治めよ」なる成語の実践と反対に、「一致は勢力なり」という確言の事例として、日本の修身諸(53)書に次の話あり。毛利元就病重くなりて、その子を集め、兄弟の数ほど矢を取り寄せ、多くのの矢を一にして折りたらんには細き物も折りがたし、一筋ずつ分けて折りたらんにはたやすくおるるよ、兄弟心を同じくして相親しむべしと遺言せられしに、隆景その時、争いは欲より起こり候、欲を罷《や》めて義を守らば、兄弟の不和候うまじと言いしかば、元就悦んで、隆景の詞に従うべしと言われしとぞ(『常山紀談』一六巻二章)。今年四月の『早稲田文学』に、中尾氏、この日本話は『イソップ物語』の「小枝の束」より出でし物ならん、と言えり。大概磐渓の『近古史談』にも芸侯のこのことを記し、付言して、「崔鴻の『西秦録』にいわく、吐谷渾《とこくこん》の阿柴、卒するに臨んで、子弟を呼ぶ。謂いていわく、汝らおのおのわれに一隻の箭を奉《ささ》げよ、と。にわかにして、母弟《おとうと》の慕延に命じていわく、汝の一隻の箭を取ってこれを折れ、と。またいわく、汝十九隻の箭を取ってこれを折れ、と。延、折ること能わず。柴いわく、汝曹《なんじら》知れ、単《ひとつ》なるものは折りやすく、衆《おお》きものは摧《お》りがたし、力を戮《あわ》せ心を一つにし、然るのち社稷《しやしよく》回かるべし、と。言い終わりて卒す、と。これ芸侯のこととはなはだ相|類《たぐい》す。けだし暗合ならん」といえり。
また、一三〇七年、シリアの小王ハイトンが筆せる『東国史』(Haiton,'Histoire orientale,'en P.Bergeron,'Voyages faites principalementen Asie,'à la Haye,1735,ch.i,cols.31-32)には、成吉思汗《ジンギスカン》をこの話の主人公とせり。いわく、ここにおいて汗その十二子を喚び出し、常に相親和すべしと教訓し、その例を示さんとて、毎子一箭を持ち来たらしめ、十二矢を集めて、長子をして折らしむるに能わず、二男、三男また然り、然るのち、成吉思、さらに十二矢を散解して箇々これを折れと末子に命ずるに、容易に折り尽しうる。汗、これをみて顧みて諸子に問う、何の故に汝ら折りえざりしか。みな答う、箭多くして束ねたればなり、と。また問う、何の故に季弟一人よく折りえたるか。答う、一々別って折りたれはなり、と。汗、諸子のかく答うるを聴きていわく、その汝らにおけるもまた然り、一和すれば長《とこしな》えに栄え、相離るればたちまち亡びん、と。
(54) 右の拙文刊行されてのち、たまたまバートンの『アラビア夜譚補遺』巻一をみしに、バクト王とアル・ラーワン大臣の話第五夜に、老人三子に繩を示して、単条切りやすく、複条断ちがたきに鑑みて、ますます和合すべし、と勧むることあり。
(その後多く類話を見出だしたうち、二、三を記せば、一九〇九年板、ボムパスの『サンタル・パルガナス俚譚』四一頁に、老人五子と一所に住むを、五人の子婦《よめ》好まず。その夫を勧めて別居を父に請わしめた。老父すなわち大きな丸太を持ち来たらせ、一人一人これを折らしむるに能わず。次に六つに切った上折らしむるに、苦もなく折れた。そこで父子六人共棲せば強勢だが、別れおると微弱になると諭《さと》したという。元魏の沙門慧覚訳『賢愚因縁経』一二に、波羅奈《はらな》国の富人二子あり、父滅するに臨み、汝ら分居するなかれ、という。然る所以《ゆえん》のものは、たとえば一糸の象を繋ぐに任《た》えぬごとし、多く糸を集むればすなわち象を制すべし、たとえば一葦のひとり燃ゆるあたわざるごとし、合わせて一把を捉らば火滅すべからずと訓え、二子命に随うたが、父の亡後、弟の妻の勧めで兄弟分居した、とあり。同じ元魏朝の訳『雑宝蔵経』五にもあって、たとえば一糸の象を係《くく》るあたわざるごとし、多く諸糸を集むれば絶つあたわず、兄弟並び立つはまた糸多きがごとし、と載す。今の『イソップ物語』は、西暦紀元前六、七世紀の人イソップの名を借りて、十四世紀の僧マキシムス・プラヌデスが編んだものというから(『大英百科全書』一一板、一巻二七六頁)、これら仏経の方がこの話をもっとも古く載せたものかとも惟う。ただし、仏経には枝や矢を折った話はなし。)
また、中尾氏は、『早稲田文学』明治四十年四月の巻、一七五頁に、「『イソップ物語』のわが邦における翻訳の最初のものは、オランダ訳から取った寛永(?)板の物であるということはかねて聞いておる」由を言えり。板行の本はさもありなん。もし一般にこの物語の訳本を尋ねんには、これより古きもの全くなかりしにはあらず。予、明治十八年ごろの新聞紙切抜きを集めたる中に、『絵入朝野新聞』第七九一-二号、香雪散人の「旧訳伊曽保物語考」あり。要を抄せんにいわく、「日下部鳴鶴が、このごろある方より得られたる『伊曽保物語』三巻、云々、表紙は紺紙に金(55)泥もて、蓮水草など由ある様に描き、丹色の標題に、紅の唐糸の組紐をつけ、草彫りつけたる鍍金軸を付けられたり。すべての装飾は、足利将軍の代の中ごろより、元亀(熊楠按ずるに、元亀二年、元就七十五で卒す)天正以前ごろまでの物語文の古写本、また仏経などに類多し、云々。これもまた、かの耶蘇の教の行なわれしころ、外国人の口ずから教えられしを、何人かよく質問して、かく皇詞に書記し、云々、筑紫の大友か、周防の大内の家などに受けえたるものならんか、下略」。もって元就の存日、業《すで》にイソップ譚の渡来ありしを知るべし。
西書に元就を大膳殿という。その官大膳大夫たりしをもってなり。(ある雑誌に、某氏これを弾正少弼松永久秀がこととせるは、字音相近きよりの混同ならん。久秀、日蓮信者にて耶蘇を好まざりしこと、渡辺世祐氏の「安土桃山史」二五三頁に見ゆ。『理斎随筆』六に、久秀、志貴の城主となり、始めて天守また長屋を作る、志貴に毘沙門あり、よってこれを多門と号《なづ》く、とあるを推し考うるに、天守の名は仏経の天部の天に出で、耶蘇教の天主に出でざるに似たり。)天主教師、この人に謁して好遇されしことを、何かでみたりと覚ゆれど、今その書名を忘る。しかしてその耶蘇教を忌みしことは所見なし。生存中に孫輝元を、天主教の大主張者たりし大友の婿とし、かつ一時耶蘇教の盛行せし大内の旧地を領したれば、たとい特にこれを尊奉するまでこそなからめ、必竟は元世祖、大内義隆、織田右府同様、仏、耶ふたつながら寛容せし人ならんか。予先年大英博物館にて閲せし、目天正十七年至十八年、日本および支那よりジェス教会総長に呈せる書簡('Lettera del Giapone,et della Cina,degl'Anni M.D.LXXXIX et M.D.XC.scritte al R.P.Generale della Compagnia di Giesu,'in Venetia,1952,p.15)に、「筑後国に Toxirodono あり、フランシスコ王(大友義鎮)の女 Massentia を娶る。夫妻ともにキリスト教を奉ずることきわめて厚し」とあるは、元就の末子にて、世に久留米侍従と称えし藤四郎秀包をさすなり。その耶徒となりしは、大友氏の縁に引かれしかもしれざれども、とにかく毛利の一家中には、有馬・大村諸族に起こりしごとき、外教の好き嫌いより内訌を生ずるほどのことなかりしを託するに足れり。(『義残後覚』六に、秀包、馬が嶽の客僧を冤殺して発狂し、秀吉より出仕を止めらるることあり。仏教を尊(56)信せざりし人と見ゆ。)
英人クラウストン(Clouston,'Popular Tales and Fictions,'London,1887)、古語を二に分かつ。一つは、話すところ神怪奇異にして人力を超越し、世間実際これをみること絶無もしくはきわめて稀有なるもの、今一は話すところ特に人為を外れず、必ずしも他人の故智を襲い、先例に倣《なら》わずして、みずから案出し、みずから行ないうるものなり。すでに容易に行ないうるほどならば、その談を作るの容易さを知るべし。
例せば、南宋の世に成りし『折獄亀鑑』の懲悪門に載せしは、孫?杭州に知事たりし日、左の一手なき丐者《かいしや》、右の手にも指二本しかなし。細民の釜を盗みしとて法廷へ引き出さる。丐者臂を揚げ、泣いていわく、われ手なきによく釜を盗まんや、と。 汚これを然りとし、細民を叱り出し、釜を丐者に与うるに始めは受けず、再三慰めると、丐者二本の指で釜をつまみ、徐かに臂で挙げて首にのせて出た、?、追い捕え、その二指を断って市に示した、と。『古今著聞集』偸盗部には、中納言兼光、建久二年検非違使別当になりし時、賤者の小屋に小釜の失せたりけるを、隣なる腰居(いざり)が盗みたりけりと言いつぎありて、贓物を捜し出したりけるに、腰居申しけるは、手を持ちてこそいざり歩《あり》き候え、手を離れては争《いか》でかとり侍るべき、他人ぞ盗みおきて侍るらん、と陳じければ、云々。別当、云々、ただこの釜を腰居に取らすべしと仰せ下したりければ、腰居悦んで、頭に打ち冒《かず》きていざり出でけるをみて、云々、科に行なわれけり、とみゆ。小説としては、無手人よりも躄《いざり》とせる方面白ければ、『著聞集』の談は、それより百二十一年前に成る『亀鑑』の話を改良して設けたるもののごとくなれども、この両様の不具人、ともに頭に戴くにあらずんば、釜を持ち去るあたわざるは明らかで、躄が釜を盗むと作らんには、別に支那書より窃まずとも、この手段を出すの外なし。されば前条の米糞聖人のことと同じく、二話おのおの特生にして偶合なるも知るべからず。
翻って本条、元就子を誡めし話を攷うるに、弓矢の用を知らざるパタゴニア人、アリユーチャン島人、濠州土人のごときはしばらく措《お》き、いやしくも弓矢の用を知る民、なかんずく、もっぱらこれをもって畋猟《でんりよう》、戦争に従事せし輩(57)にして、古来信を表し令を伝え勝負を卜し距離を測る等、事に臨んで手近き矢を用いしこと絶えてなき者はあらず。去れば元就矢を折りて諸子を誡めたればとて、怪しむべきにもあらず。また必然他国の先例に擬せりとも謂うべからざること、なお上述の釜盗める躄人《いざり》の譚のごとくならん。然りといえども、『藩翰譜』の系図によって、元就歿せし時の諸子の齢を推すに、次男元春四十二、三男隆景三十七、四男元秋はしれず、五男元清二十一、六男元政十二歳、七男元康はしれず、八男秀包五歳なり。その過半は壮年以上の文武に名高き人々なれば、兄弟一和すれば繁昌すというほどの道理を、瀕死の老人が、わざわざ矢を多く取りよせ、所作もて示さねば解しえざるはずなし。それよりも一層切迫せる後事処分にして遺言を要すること多々ありたるべければ、死に臨んで子を誡めんとて箭を折りしというは後人の付会たるや必せり。
思うに当時わが邦に渡りし天主教の教化法たる、わが邦在来の仏僧と一軌なるもの多く(Nature,April 30,1903,p.611 に出せる拙文 "The Discovery of Japan"参照)、善男善女の読経はラテン文の『聖書』の棒よみに依らしめて意義の深旨を知るを必とせざること、今も伊・仏・西・葡諸国におけるがごとく、浅近の談に資《よ》つて勧懲を訓えんためには、『イソップ物語』、『ゲスタ・ロマノルム』また『フィショログス』等の、解しやすく入りやすき外典を用いしこと、中古欧州僧侶の所為に異ならざりしならん。(当時邦人の誦せし経文をみるに、いずれも仮名にてラテン読みそのまま書きつけたること、今も村夫鄙婦の真言陀羅尼を仮名書きして見るに便にするがごとし。元亀・天正のころ、すでに『イソップ物語』の邦訳ありしことは上にいえり。『ゲスタ』等の訳話は、支那に帰化して往々存在す。)
加之《しかのみならず》、中尾氏も言えるごとく、これらの諸譚はわが舌切雀、猴蟹合戦の属に均しく、当時わが邦に来たれる水夫、厮役《しえき》の徒に至るまで、到る処に現出伝播せし結果は、仏教盛時の教義が、現今その遺趾の地に忘られたるに、小乗律、譬喩経等所載の小話は、遺趾の近傍に存するのみならず、さらに溢れてインドの外の諸国に出で、仏の名号をすら知らざるの地にあまねく行なわるるがごとくなりし、とみゆ。そもそも室町将軍家その鹿を失いてより、元和|偃武《えんぶ》の際(58)に至るあいだ、千戈|永《とこし》えに動き攻戦止まず。人情常軌に違《たが》うことはなはだしきの極、父子兄弟の至親にしてなお相残害せるの例もっとも少なからざるの時に当たり、毛利の宗家を両川の二叔が扶翼怠るなく、もって大なる過ちなからしめたるは、必ずそのころ天下美譚の最とせしところなるべければ、有識の人思うてここに到るごとに、『イソップ』「小枝の束」を連想せしは自然の成行きにて、最初は単に、元就、一日最も武士の身に近き矢を折りて子を試めしことありというほどの談を作りしに止まりしを、後日支那の史乗に通ぜる輩が、『西秦録』阿柴のことをみ出だし、その酷似を悦ぶのあまり、同じくこれを臨終の際とし、さらに隆景の名言などを加えて趣きを添えたるなるべし。(隆景は賢人の聞えすこぶる高かりければ、多く仮托の説も生ぜること、『日本歴史評林』に、その綸旨《りんし》を申し下して陶賊を討ちしことの弁あるなどにてしるべし。)
儒学盛んなりし徳川時代の書に、漢土の事跡を邦人の所為とせしもの、この他はなはだ多し。惟うに『イソップ物語』は譬喩啓蒙の古童児訓なるに、吐谷渾阿柴、元太祖と毛利元就と、いずれも見識衆に挺《ぬき》んでたる俊傑にして、しかも子多かりしこと、また『イソップ』の小枝折りしという翁に類すれば、その人を賞揚せんとするのあまり、本邦と支那と西アジアとの人が、期せざるに同じくこのきわめて相似たる三話を作り、英雄終始心動かざりし状を演《の》ぶるため、故《ことさ》らに、死に臨んでこの幼稚園教誨風の振舞いありし由を述べたるは、時千載を差《たが》え、道万里を隔つといえども、人情は兄弟なるを証するに余りありというべし。
(明治四十一年六月『早稲田文学』三一号)
(59) 涅歯について
『東京人類学会雑誌』二六〇号六八-七〇頁に載れる、米沢安立君の「婦人の月経に関する迷信と涅歯《でつし》」に、越中のある地方の俚伝に、女子成女期に及ぶと同時に、胸中に小蛇入りて血の池に棲み、その血月ごとに流れ下るを経水とす、古え智者あり、神の詔を奉じ、この蛇の成長して男子を食い尽すを妨げんがため、鉄漿《かねつけ》を歯に付くることを案出せるとある由を言えり。
按ずるに、今歳発行、平出氏の『室町時代小説集』所収『富士の人穴草紙』一〇四頁に、「男の地獄へ落つることは稀《まれ》なり。ただ多くは女が地獄へ落つるなり。されば女の思うことは悪業より外は心に持たぬものなり。コウの虫の泣く涙積もりて月のさわりとなるなり」とある。「コウの虫」は悪業の虫にて、耶蘇教に蛇を誘惑者とせるがごとく、仏経に女人を毒蛇に喩えたること多ければ、取りも直さず胸中に棲む蛇を指すなるべし(業の虫については、「『郷土研究』一至三号を読む」の「伊勢神宮の子良」の条を見よ)。この小説と越中の古記といずれが古きかは、今これを知るに由なしといえども、ふたつながら疑いなく釈氏の所談に基づけるものにして、古話の方は、わが邦在来の婦女涅歯《でつし》の風の原由を、後世仏説によって故事《こじ》つけ設けたるものと思わる。明治三十年夏ブリストルに開きしブリチッシュ・アッソシエーションの人類学部へ、予が提出せし「古代日本斎忌考」(Kumagusu Minakata,"The Tabu System in Ancient Japan")に、本邦人の妻妾並びに貴人の涅歯は、斎忌(タブ)を標識せるに基づくならんといいたり。もとより所拠《よりどころ》あつての言(60)ながら、現に原稿を存せざるをもって、ここにその詳を述ぶるを得ず。
(蛇が鉄を忌むことは、『古今著聞集』、摂津のふきやの女に落ち懸からんとして、その襟に付いた針を畏れて躊躇した蛇の話を始め、例多し。したがって鉄漿は蛇のはなはだ忌む物とした。むかし利根川へ網打ちに行った男、急に帰宅し、気色大いに衰えたるをみて、その妻酒を進むれど飲まず。よくみれば大きな蛇がその中腹を纏い、頭を胸へ出し、尾で敲く。妻さあらぬ風情で鉄漿をよく付けて奉書紙でしかと蛇の首を包み、しかとくわえるとバラバラと解けて、皮肉骨腸四方へ別れたという(青山某の『葛飾記』上)。『斐太後風土記』二に、鉄漿《かねつけ》蛇を載す。天正十二年五月、松倉城主三木自鋼、その弟鍋山城主鍋山顕綱を殺す。顕綱の妻、城後に逃げ出でしがまた殺さる。その怨霊かね付けたる蛇となり、下手人の子孫鍋山に登れば必ず現わる、と。この蛇のみは鉄漿を忌まぬとみえる。)
『嬉遊笑覧』巻一に、『和名抄』に「今婦人に黒歯の具あり」とあれば、古えよりあらざりしことしるしとあれど、こは単に、現今も行なわれおるというほどのことなるべく、日本武尊衛歌に美姫の歯を菱実の黒きに比したることあれば、それよりもはるか古き代より、本邦に固有の習慣なりしということ、田口氏の『社会事彙』に見えたり。
ポリネシア等の人、種々の方法にて妻女貴族を斎忌することについては、Waitz und Gerland,'Anthropologie der Naturölker,'vi,pp.343-363,1872;'Encyclopædia Britannica,'xxiii,p.19,1888 等を見よ。わが邦には『風俗画報』に、某地方の男子、婦を欲する時、その友人徒党してその女子を途に擁し、掠めて男の宅に運び納れ、強いてその歯に鉄漿を塗る、と載せたるを、確かに見た。と記臆す。また、『万葉集』巻三、余明軍の歌一首「しめゆひて、わが定めてし、住の江の、浜の小松は、後もわが松」、巻一三、相聞歌「打ちはへて、思ひし小野は、遠からぬ、その里人の、しめゆふと、聞きてし日より、たてらくの、たづきも知らず、云々」。女子を樹木あるいは地所に譬えたる辞ながら、タブを表する注連《しめ》結ぶとあるにて、妻と思い定めたる女を他人より避忌するの意を寓せるを見る。ニュージーランド、サモア等にて、箇人が所有物件、家屋、領地等に印して、斎忌を付くるなどこれに似たり('Encyc.Brit.,'(61)l,c)。
しかして、外国の斎忌を標示するに涅歯する一例と見るべきは、ペトロ・アルヴァレスの航海記(一五〇〇年ごろ筆するところなり。Ramusio,'Navigationi e Viaggi,'in Venetia,1638,vol.i,fol.125 F.)に、インド・カリクットの下等ならぬ男女、居常|蒟醤葉《きんまのは》を咀《か》み、歯ために黒し、もし死人の喪に遇わば、数月間これを廃し、別剤を用いて涅歯す、とあるこれなり。わが邦にも、婦女に限らず、貴族の男子も涅歯せしにて、その斎忌の標識たりしを知る。少年のみこれを施せしにあらざれば、物茂卿の『南留別志』等に、男色より起これりといえるは謬りなるべく、『海人藻芥《あまのもくず》』に、鳥羽院の時に始まるなどいうも、その時よりもっぱら装飾として盛んに行なわるるに及べり、と。タシツスの記、ヨセフスの『猶太《ユダヤ》軍記』等に、鉄も土瀝青《どれきせい》を破るあたわず、ただ経水に汚れし衣よくこれを破るといい、Notes and Queries,10th ser.,vii,1907,pp.189,256,295 によれば、今日も経行中の婦女、酒を作ることをスペイン、フランスの人忌み、果物を漬け蔵むればたちまち酸敗すと、ドイツにてあまねく信ぜらるという。
和漢ともに、月水を非常の破壊力ある穢物として禁忌するは、人みな知る。『和漢三才図会』巻一二にいわく、「およそ女人|月《つき》に入れば悪液|腥穢《せいわい》なり、故に君子はこれを遠ざく。その不潔にして、よく陽を損じ病を生ずるがためなり。戒を持し、性命を修錬する者は、みなこれを避け忌む。『博物志』にいわく、扶南国に奇術あり、よく刀にて斫《き》れども入らざらしむ、ただ月水をもって刀に塗ればすなわち死す、と。これはこれ穢液、人の神気を壊《やぷ》るなり。故に薬を合するに、これに触るることを忌む。この説、はなはだ拠《よりどころ》ありとなす、云々。按ずるに、伊勢、加茂等の大社の地女、および大内の官女、みな経行の時に臨んで別室に蟄居すること七日、これを待室《たいのや》と謂う」、巻七七、「丹後国|竹野《たかの》社、祭神は伊勢両宮のごとし。里民のいわゆる斎宮これなり。当国熊野郡市場村の人、もし女を産めば、すなわち四、五歳に曁《およ》んで斎宮となし、もって神に奉仕す。深夜ひとり坐すといえどもあえて怖畏することなし。ようやく成長して月水を見るに至れば、たちまち大蛇出でてこれを逐《お》う。よって居るを得ず。これよりおのが家に還り、新たなる女《むすめ》(62)と相交代するなり」。
ユダヤには、モセスの法、厳に男子が経行中の婦女に近づくを制し、耶蘇教国にも、四世紀にニセーの会議にて、后妃公主といえども、月信のさい寺門に入るを禁ぜしことあり(Dufour,'Histoire de la Prostitution,'tom.i,p,66;tom.iii,p.115,Bruxelles,1852-3)。セイロンの女人は、月事あるに臨んで、みずからその由を呼ばわり、行人の来たり近づくを予戒し(R.Knox,'An Historical Relation of Ceylon,'1681,p.94)、マオリの婦人は、月水に汚れたる布を竿頭に掲げて、タブを知らすことあり(Waitz u.Gerland,l.c.,p.346)。ソロモン、ニューブリツン、ニューアイユランド等の南太平洋諸島、および濠州の北端ケープ・ヨークの俗、正に成女期に達せる女子を、数月暗廬裏に閉じて斎居せしめ、日光を見ざらしむ(英訳 Ratzel,'The History of Mankind,'1896,vol.i,p.271;Nature,Nov.9,1899,p.43)。
小川顕道の『塵塚談』上巻に、「白山御殿近辺御家人の家は、みなこけら葺にて蠣《かき》屋根なり。月役と言うて、長さ一間に幅一寸四、五分の割木をのじにし、それより板にて葺く。その上に蠣を敷き並べることなり、云々。月役は、田舎にて、婦女の経行の節は別居して、その節の仕業に屋根へ使う割木を拵えしものゆえ、月役と号《なづ》けしとなり。享保・延享のころはのじはみな月役にて、今の小舞貫を用いざりしなり。伊豆国七島などにては、経行を他屋《たや》と唱え、住居を隔て小家を村々に作りおき、経行のみぎりの者は七、八日、産婦は五十日も過ぎて家へ還る由なり」とある、そのことこれに近し。他屋は、上に見たる待室(たいや)の略か。
(一九一〇年板、セリグマンの『英領ニューギネアのメラネシアンス』一四〇頁に、コイタ人は天癸《てんき》初めて到るとも何たる式を行なわず、またその時の処女を特に忌み避くることなし、とある。しかし、その上文に経行中の婦女は最近拵えた畑に入らず、その前に設けた畑は構いなし、また昼は夫と同家に住むも夜は外出せず、夫と別に眠る、とあるを見ると、以前は月事の慎み深かったが、近時その斎忌大いに弛《ゆる》んだものと察する。二十余年前までは、この田辺町の婦女、経行中に宮詣りする者なかったが、今は一向平気で詣るに等しかるべし。)
(63) フレザー氏いわく、斎忌の制はポリネシア(ハワイとニュージーランドの間)その発達を極むといえども、その痕跡は他の諸多の地にも見るを得べし、と('Encyc.Brit.,'l.c.,p,15)。されば支那にも、『礼記』、道家の書典等に斎忌のことしばしば見え、王充『論衡』に、漢代、人家犬子を産むを忌むことを論ぜり。本邦の古え、斎忌その煩に堪えがたきまで頻繁にて(ためにしばしば神宮、住家を移す等)、ついに大いに公安を擾《みだ》すに及びしは、国史および諸社の縁起、記録等に明らかなり。
『日本紀』巻二五、大化二年の詔にて禁ぜられし、新婚者を妬《ねた》んで祓除《はらえ》せしめ、「また、役せらるる辺畔《ほとりのくに》の民あり、事おわりて邦に還るの日、忽然《にわか》に疾《やまい》を得て路頭に臥死す。ここにおいて路頭の家、すなわちこれに謂いていわく、何の故に人をして余が路に死なしむるか、と。よって死者の友伴《ともがき》を留めて、強いて祓除《はらえ》せしむ。これによりて兄の路に臥死すといえども、その弟収めざる者多し。また、百姓《ひやくせい》あり、河に溺れ死す。逢う者すなわちこれに謂いていわく、何の故にわれに溺れたる人を遇わしむるか、と。よりて溺れたる人の友伴を留めて、強いて祓除せしむ。これによって兄の河に溺れ死すといえども、その弟救わざる者|衆《おお》し。また、役せらるるの民あり、路頭に飯を炊《かし》ぐ。ここにおいて路頭の家、すなわちこれに謂いていわく、何の故に情《こころ》の任《まま》に余が路に飯を炊ぐか、と。強いて祓除せしむ。また、百姓あり、他《ひと》に就きて甑《こしき》を借りて飯を炊ぐ。その甑、物に触れて覆る。ここにおいて甑の主、すなわち祓除せしむ、云々。また、百姓あり、京に向かう日に臨みて、乗るところの馬の疲れ痩せて行かざらんことを恐れ、布|二尋《ふたひろ》、麻|二束《ふたつか》をもって参河《みかわ》、尾張両国の人に送り、雇いて養飼《か》わしむ、云々。もしこの牝馬、おのが家にて孕めば、すなわち祓除せしめ、ついにその馬を奪う」など、いずれも禁忌の力を借りて、祓除料を課し、理不尽に人の弁償を要せし悪弊にあらざるはなし。(一八五七年に成ったリヴィングストーンの『伝道行記』一八章を見れば、当時南阿に大化ごろまでの日本同様の習慣法多かったのだ。誤って唾を他人の足にかけたとか、知人と思い違えて知らぬ人に話しかけたとかを言い立てて、贖《しよく》を課せらるること繁く、ために道路通じがたくて、リ氏大いに困った状がありありとみえる。)(64)よって類をもってこれを推すに、上世の俗、天癸《て人き》初めて到れる女子をも、既嫁の婦人をも、均しく涅歯もて斎忌を標示する風ありしを、のち、その混雑不便を除かんがため、一汎成婚ののちのみこれを行なうこととなれるにあらざるか。
中古までも童女涅歯の俗ありしは、『堤中納言物語』虫めづる姫の巻に「人はすべてつくろうところあるは悪しとて、眉さらに抜きたまわず、歯黒め、さらにうるさしきたなしとてつけ給わず」とあり。なお、『嬉遊笑覧』巻一およびこの文の末に『用捨箱』を引けるを参考すべし。
果たして然らば、米沢氏記すところの越中の古語は、外国伝来の仏説を付会して、婦人涅歯の原因を、胴中血池の、惡蛇制伏に帰せる妄譚なると同時に、その終りに、初めは月事を見てただちに涅歯せしが、後に一変して成婚の表証となれりというは、尋常史籍を覧るのみにて知りえざる、本朝古代の事実を保存して今に?《およ》べるものにして、たまたまもって近刊 G.L.Gomme,'Folklore as an Historical Science')に、「いずれの国民も、その歴史を力の及ぶだけ遠き世に泝《さかのぼ》り究むるの権利を有せり。ただし、これをなすには、必ず比較俗伝学の助勢を須《ま》つ」と言えるの虚ならざるを証するに足らん。
ちなみに言う、南洋に涅歯の風行なわるればとて、すなわち日本人種は南洋より来たると断ぜんとする論者あり(例せば、昨年出板、久米邦武氏の『日本古代史』六〇頁に引ける『史海』の説)。しかれども、このこと南洋に限るにあらざるは、後インド、黒河地方の民が安南人、カンボジア人をケオ(歯の義にて黒歯を指す)と称えて、インド人、支那人と別ち(G.Nicolai,"Notes sur la Région de la Rivière noire,"Cochinchine française,Hanoi,tom.xv,p.19,1890)、マダガスカル内地林中の民が、ラニゴなる抹料をもって歯を交互に黒白にし(Ratzel,l.c.,p.458)、南米パリア湾の土俗、歯を健にせんとて、真珠蠣殻とある植物の葉を焼き灰となし、水にて塗りてこれを炭黒にし(G.Benzoni,'The History of the New World,'pub.Hakluyt Soc.,1857,p.9)、またラドロネ島人、歯を赤もしくは黒くして美となし(Pigafetta,'Premier(65) voyage,'Paris,1801,p.60)、ボルネオとアチンの女人、黒歯鮮かにしてますます重んぜらる(Tavernie,'Les six Voyages,'1676,tom.i,p.491)と同様に、葡領インド・ジーウー市の婦女、特に唇を締め口を張り、涅歯を人に示してその艶に誇り(G.Balbi,'Viaggio dell'Indie Orientali,'in Venetia,1590,fol.60 a.)、ブハラの貴女歯を真黒に染め(A.Burnes,in the Journal of the Asiatic Society of Bengal,vol.ii,p.234,1833)、大ロシアの婦人、頬に紅し歯を涅する(Haxthausen,'Studien über die innern Zustünde u.insbesonderer die lä ndlichen Einrichtungen Russlands,'i,S.76,Hannover,1847)等にて知るべし。すなわち涅歯の行なわるるは、人種の同異および起原に関係なきことなり。
頬紅のことは、漢土にも、謝氏の『五雑俎』巻一二に、「丹《に》をもって面《かお》に注《しる》すを的という。古え、天子諸侯の?妾《ようしよう》、次をもって進御するに、月事のある者は口をもって説きがたし。故に、これを面に注《しる》して、もって識となす。射の的あるがごとし。その後、ついにもって両|腮《ほお》の飾となる」と言えるを併せ攷うるに、件《くだん》の大ロシア人の習慣もまた、ふたつながら月事より生ぜるに似たり。本邦にも享保のころまで、頬紅を婦人の容飾せしを、元文の初より娼妓の所行に傚《なら》うて廃止に及びしこと、山崎美成の『瓦礫雑考』等に見ゆ。種彦の『用捨箱』中の巻(七)に、「今の少女何にもあれ、花の散りたるを採りて、煩あるいは額へ唾にて押《はる》戯《たわぶ》れをすることあり。こは煩紅をつけしころ、その学びをなしたるが、煩紅廃れてのちも童遊びに残りしにて、茄子《なすび》の皮を口に含みて鉄漿《かね》を付けたるまなびをする類《たぐい》なり。『花おふこ』享保十四年刻、云々、『頬紅も額も椿盛りにて』云々、椿の葩《はなびら》頬紅に似たるゆえ、この戯《たわぷ》れこの花に起こりしなるべし。また、『水馴棹』云々に『花待つ心それが金持』という句に『似合ふかと袖留め前の茄子鉄漿《なすびがね》』と付けたるあり、椿頬紅、茄子鉄漿おかしき対なり。中略。今オフクというものを画きても、仮面《めん》に作りても、頬を赤く隈《くま》どるはこの余風なり」とあるもまた、古えの成女期の女子、頬紅涅歯せし遺痕というべし。
(明治四十一年九月『東京人類学会雑誌』二三巻二七〇号)
(66)【追記】
ついでにいう。『松屋筆記』に、お多福(すなわちおふく)の面、寛保年中の画にみたることあり、とあり。熊楠謂う、寛保元年より二十五年前、享保元年京都出板『軽口福蔵主《かるぐちふくぞうす》』二の四に、正月早々お福の面をつけて、門々を女の装束してゴザッタゴザッタ大黒殿がゴザッタと言うて廻る、とあり。松屋大人の発見より二十五年早し。またいわく、本邦に、南洋土人の涅歯はみな檳榔《びんろう》をかむによると心得た者多し、大きな誤りだ。例せば、ツベツベ島人は十歳か十二歳になる前から檳榔をかむが、歯を茶黒く染むるには、特に瀝青質の埋れ木(タリ)を用ゆ。その方法は、一九一〇年ケンブリッジ板、セリグマンの『英領ニューギネアのメラネシア人』四九二頁に詳し。一七八八年板、キートの『ペリュー島記』三一九頁に、ペリユーすなわちパラオ島人を英船に載せて英国へ航する途上、セント・ヘレナでノボロ菊の一種を採って咬んで歯をする、船長それは食えぬ物だと注意すると、パラオ人いわく、全く食うのでない、この草わが島にあって他の四種の草と少しの石灰に合わせて餅とし歯にあてて臥し、夜は取り去る、五日間こうして食事を減じ辛抱すれば歯が黒く染まる、はなはだ面倒かつ病むことである、と言った、と載す。熊楠、『藤原元真集』をみるに、とうかいあぜち殿(東海按察使か)の北の方、歯黒《はぐろ》めすみを舟に積みてすみ遅き由をある所に、「をりはへて君がたたきにこぐ舟は住の江にこそ程はへにけれ」。すみは炭か墨か分からねど、とにかくそのころ歯を黒める特種の物があったのだ。鉄漿ではなかろう。元真は朱雀・村上二帝の時の人だ。後世までも涅歯をもって人妻を他人より避忌する標示と心得たる証拠は全くなきにあらず。例せば、享保二十年に並木大輔作『万屋助六二代|※[衣偏+帋]』《かみこ》上巻に、助六の妻お松が下女腰元を引きつれて山吹の花みに出ずるを、群衆が見てほむる辞に「テモ見事の山吹より奇麗な花、折るべからずの禁制におは黒を付けたまいしは、いずくの閨にさく花ぞ」とある。(大正十五年九月記)
(67) 一枚歯――歯が生えた産れ児
明治十年ごろ和歌山で句読を授かった儒者武田万歳先生(そのころ四十歳ばかり)語りたまいしは、むかし紀州に歯食《はぐい》鬼右衝門とて一枚歯の人あり、誰かが汝も鍋を?《くら》うことは成るまじと問うと、はい食いますと言ったので鍋を出すと、即座に?み割ってしまったと言われた。いつのころの人と承らなんだ。
按ずるに、『武江年表』に「天保十二年九月、両国橋西広小路へ、紀州若山の生れにて歯力《はりき》鬼右衝門という者見世物に出る。磁器の茶碗をかみわり、あるいは鎧の竜頭を口にくわえ、その余重き物をくわえて自在に扱う」と載せて、一枚歯なる由見えず。明治十七年ころ、毎日曜人出多きを宛て込み、東叡山の上り口で米国帰りの四十余ばかりの男がかかる芸を示すを見たが、ただ歯並至って揃えるのみ、一枚歯ではなかった。『淵鑑類函』二六〇に、『春秋元命苞』にいわく、「武王は駢歯《へんし》なりとは、これ剛強なるを謂う」、『孝経鉤命訣』にいわく、「夫子(孔子)は駢歯なり。鉤星を象《かたど》れるなり」。これらも歯の並びが至って好かった義だろう。
東晋訳『観仏三味海経』一に、仏の身相を説く。いわく、「おのずから衆生の、如来の口に四十の歯ある相を観《み》るを楽《この》む者あり。おのずから衆生の、如来の歯白く斉《ととの》いて密なる相を観るを楽む者あり。おのずから衆生の、如来の歯の上に文《もよう》を印《しる》せる相を観るを楽む者あり。おのずから衆生の、如来の歯に界《さかい》を画けるを観るを楽む者あり」。唐訳『方広大荘厳経』に、仏の三十二大人相を列ねたるに、「七には、四十の歯あり、斉《ととの》いて光潔なり。八には、歯密にして疎ならず。九には、歯白くして軍図花のごとし」。(軍図花は、梵名のムダ、黄蓮花と訳し、睡蓮の一種で、象牙(68)のごとく帯黄色の花を開く。本邦でも、歯は少し黄色を帯びたを尚《たつと》び、犬牙のごとく純白なるを畜生歯と呼び、嫁入の徴とすときく。)いずれも仏の歯が常人より八本多く、きわめてよく並んで生えた由を言ったのだ。竜樹大士の『大智度論』四には、仏三十二相のうち「二十二には、四十の歯ある相にて、多からず少なからず。余人は、三十二の歯にして、身《からだ》に三百余の骨、頭に骨九つあり。菩薩は四十の歯にして、頭に一つの骨あり。菩薩は歯と骨多く、頭骨は少なし。余人は歯と骨少なく、頭骨多し。二十三には、歯の斉《ととの》える相にて、諸歯|等《ひと》しく、麁《ふと》きものなく細きものなく、出でず入らず。歯の密なる相を、人の知らざる者は謂《おも》いて一歯となす。歯の間に一毫《いちごう》をも容れず」とあって、歯が至って密に駢《なら》びおるを、知らざる者は一歯と謂う、と述べられた。まずこの通り、日本でもすこぶるよく並んだ歯を一枚歯と言ったものだろう。
しかるに、欧州にも一歯の人を記した例が多少あって、歯並立ちがよいと書かずに、一枚歯の由を明示しある。ヘロドトスの『史書』九巻八三章に、プラタイアで戦死の屍骸肉落ちた内から珍物を見出だした、一つは頭顱《とうろ》全く一骨から成って少しも罅線《かせん》なきもの、一つは前歯奥歯すべての歯が合して一骨と成って生えた上齶、今一つは長さ五クビツなる骸骨だった、とある。頭顱一骨が仏の一骨頭に合っておるも妙だが、諸歯合して一骨を成すとは、仏の四十歯間一毫を容れぬよりはるかに奇だ。またプリニウスの『博物志』七巻一五章に、ビチニア王プルシウスの男児は上齶の歯の代りに一骨横に続いて生えた、とある。カリーの注に、キレニア人エウリフェウス、またキプルス王エウリプトレムスも同様だった、という。プルタークスの『列伝』に、エピルス王ピルスは剛勇無双だったが、上齶に歯の代りに骨一枚横に続き、その前面に歯の透き間のような細線が並びおった、とある。何によったか知らぬが、Collin de Plancy,'Dictionnaire infernal,'Bruvelles,1845,p.158 には、ピルスの上下齶とも、かかる骨が生えおった、と出ず。またサン・フォアの『論集』一を引いて、ペルシアにかような骨が生えたまま産まるる人種があると載せ、またサルグの説を引いて、ゴルゴネス共和国の婦女一同の間にただ一眼と一歯あり、よって止むを得ず転々相貸借して用を達(69)す、と述ぶ。これは歯がただ一本あるばかりで、一枚歯でない。
予これら語例を萃《あつ》めて、かかること実際世にありやと問いを出せしに(拙文"Single Tooth,"Notes and Queries,9th ser.,vi,p.488,London,1903)、わずかに三答を得た。すなわちアベリストウィス大学のベンスリー教授は、メランクソンの『デ・アニマ篇』からラテン語の短文を引き示された。ルイネブルグ公エルネスト・デル・ベケンネル(一五四六年薨ず)の前で、一人の素女徳高きがその歯続いて骨一枚と成りおるを示した、とある。も一つは米国コンネチカット州のフォレスト・モルガン氏から、かの州に二代続いて数人真の歯なく、その代りに歯質が一枚の環状を成し、常の歯の長さほどの幅で歯同前の役に立つものが生まれた一家あり、と報ぜられた。これが事実なら、今も稀《まれ》に真の一枚歯があるらしいが、かの州とばかりで所や人の名を出さぬは遺憾だ。三番目に、英国ブラドフォードの歯科大博士フォルショー、この人は英国で最も多く歯に関する書籍を蔵するが、十七世紀より当年までの記録雑誌数百巻を閲《けみ》するも、一枚歯のことは一つも見えず、ただし聞いたことはある、と答えられた。(応永七年、釈海寿撰「無関大和尚塔銘」に、「無関、生まれて版歯あり」とは、一枚歯らしい。)
これを要するに、世のいわゆる一枚歯は、透間《すきま》ほとんど見えぬほどよく生え並んだ歯を指す名である。上述ピルス王の例などはずいぶん名高い物だが、マハッフィー教授は、これもきわめて密に生えた歯に過ぎじ、と言われた(Mahaffy,'Greek Life and Thought,'1887,p.51)。しかし、上記モルガン氏の話が真実なら、稀に真の一枚歯も欧米に存し、したがってわが国で俗伝に言うところも、もと左様な畸形の実例があったから出たことであろう。もしかかる例を見聞せば、何とぞ本誌へ報告されんことを読者諸君に望みおく。さてフォルショー氏の付記にいわく、「予は固く信ずらく、現時箇々分別せる歯は、もと横に続ける一枚の骨に、今のと同じく歯質《デンチン》やセメンツムなど具わったものより進化した、と」と。文短くて精しい意味が分からぬが、人間より低度の現在過去の諸哺乳動物、大抵みな歯が箇々分別しおるより推するに、人が人となった後までも一枚歯でおったことはなく、人の直系祖先だった諸他の哺乳動物も一(70)枚歯は持たなんだはずで、もし果たして米国の一例のごとく今も真の一枚歯の入|罕《まれ》に生ずるは人の祖先が一枚歯だった証拠だと言わば、そはダーウィンが、婦人の月事が過去世に人の遠祖が海に棲み、月の盈虚が潮の乾満に、それからまた海棲諸生物の生態に大影響を及ぼした時の遺跡を示すと言えるごとく、全く人の遠祖が哺乳動物にならぬ時に一枚歯だった証拠と解して、わずかにやや首肯さるるほどのことと惟う。
初めに記した武田先生は、国史所載反正天皇の瑞歯は一枚歯だと語られたついでに、鬼右衛門のことを話されたのだ。『書紀』一二に、「瑞歯別天皇《みつはわけのすめらみこと》、初め淡路宮に生《あ》れませり。生れましながら、歯《みは》、一骨《ひとつほね》のごとし。容姿|美麗《うるわ》し」とあれば、まずはピルス王と同様らしい。しかるに『古事記』多治比宮の巻には、「水歯別命《みずはわけのみこと》、多治比《たじひ》の柴垣宮《しばかきのみや》に坐《ま》しまして、天の下|治《し》らしめしき。この天皇、御身の長《たけ》、九尺二寸半、御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉《ととの》いて、すでに珠を貫《ぬ》けるがごとくなりき」と書かれたるを見ると、やはり釈尊の歯同前歯並すこぶる好く、かつ歯が常人より特に長大だったのだ。『古事記伝』には、ある書に長さ一寸を一寸八分、また一寸一分なども言えり、とあるから、浅草の観音様ほどの大きな御歯と見える。ただし九尺二寸の御身長で御歯の長《たけ》一寸では、常人に比してざっと歯が二倍長でずいぶん非凡な御歯相と察し奉る。支那の書に方歯とあるは、かかる大きくてよく揃うた物を指す名だろう。歯が非常に長大な例は、『和漢三才図会』七二に、「田原又太郎忠綱は、その身に三絶あり。いわゆる力は百人に当たり、声は十里に聞こえ、歯の長きこと一寸なり」。たしか『東鑑』にもこのことを載せあつたと思う。十六世紀にエチオピアに長旅したポルトガル僧フランシスコ・アルヴァレツの紀行('Viaggio nella Ethiopia al Prete Janni fatto per Don Francesco Alvarez Portugese,'in Ramusio,'Navigationi e Viaggi,'Venetia,1588,tom.i,fol.209 A.)に、当時のエチオピア王アデア王の女を娶り、到って見れば、その前歯非常に大きかったので機嫌向かず、さりとてすでに国風に随つてキリスト教に化した女を今さら回教を奉ずるアデア王方へ還すを欲せず、左思右考の末これをその一大臣に妻《めあわ》せた、それよりアデア王と隙《げき》を生じ戦争に及んだ、と見ゆ。しからば、この女の犬歯は瑞歯どころか、大災難を生じた凶歯じ(71)ゃ。これに反し、仏も、武王、孔子、ピルスも、あるいは大聖あるいは剛強をもって聞こえ、駢歯や一枚歯をその特徴と伝えたのを見ると、まずはかかる歯を吉瑞とするは東西一致らしい。老子だけは生まれながらにして疎歯なりしという。これはこの人万事世間を疎略に見たような主張より推して、かく言い伝えたのだろう。
また老後歯が落ちてまた生ずるを瑞とした例もある。『唐書』に、則天武氏六十七で即位し、「左右その衰えを悟《さと》らず、にわかにして二歯を生ず。詔《みことのり》して長寿と改元す」。和漢、仙人や神僧の伝に、老後歯脱してまた生じた例少なからぬと記臆する。プリニウスの『博物志』一一巻六三章にいわく、老人歯落ちてまた生ずることあるは世人よく知れり、ムシアヌスはみずからサモツラケの住人ツオクレスが百四歳を過ぎて新歯一組を生ぜるを見たと記せり、と。Cameron,'Across Africa,'1885,p.79 に、著者が一八七三年カニエニエの酋長を見しことを記せるに、バートンが一八五七年この者と会いし時と異《かわ》らず有力なり。その臣輩いわく、彼、現に三百余歳で、七年ほど前第三度目の諸歯落ち、只今第四度目の歯生える最中なるより、肉を食うあたわず、他の一切の食は身分上触るるべからざる制なるゆえ、ポムベ酒のみで活きおる、と。予|睹《み》るところをもってすれば、この人百歳をずっと踰えたこと疑いなく、その孫どもみな白髪の老翁なり、とある。四度まで歯が生えるとはまことに瑞歯じゃ。
欧州の史籍で最も名高い瑞歯は、シレシアの金歯であろう。一五九三年、シレシアの小児七歳で歯を替えた時、新たに生えたうち一本金歯があったという評判拡がり、ヘルムスタット大学の医学博士ホルチウス書を著わして、これはトルコ人に圧せられおるキリスト教民を慰安せんため天が降した瑞兆だと論じたが、金歯とトルコ人と何の関係あるか、また金歯がどうして民人を慰むるかさっぱり分からぬ。それよりルランズス、インゴステルス、リバヴィウス等の大学者、この歯の吉凶について大議論を出し相攻伐したが、何はともあれその歯が果たして金か否《しか》らざるかを検するが肝要と気がつき、金工を呼んで実物を見せると、これはしたり、尋常の歯に金薄《きんぱく》を巧みに貼りつけた物と分かった(Collin de Plancy,op.cit.,p.159;Prof.Edward Bensly,"Silesian Tooth,"Notes and Queries,10tb ser.,xi,p.336, 1909)。(72)それから実地を突き留めずに空論を闘わすをシレシアの金歯と言うて熟字となり、Sir Thomas Browne,'Pseudodoxia Epidemica,'1646,Book iv,ch.vi などに使われおる。ベーンの『論理書』に、往年英国学士会院で魚が死ぬと生きた時よりも重くなるという問題を出した人あって、甲駁し乙難じ容易に纏まらなんだところ、気点《きてん》を利かす者あって実物を秤量して見ると、死魚が決して生魚より重くないと判り、流石の碩儒一同茫然自失した、とあったのも同例だ。
それからまだ一層詰まらぬは、この辺の俗伝に歯の数が尋常より多い女は男を食い殺すほど恋情が深いと聞いて、ちょうどそんな?女《えんじよ》が当地にあったので、予一度食い殺されて見んと志を立て、ちと大層だが馬を下る時は銀を与え馬に上る時は金を贈るばかり寵愛したが一向食い殺されず、黄白ために竭《つ》きて御存知の大貧乏となりおり、その女は人の妻となって、つい前刻もこの篇を綴りおる窓前を盛装して通った。(この拙文発表後四年ほどへて、魚学の元締め田中芳穂氏が訪れ、一所に町を歩くうち、また件《くだん》の女に逢うた。本書が幸いによく売れて第二板が出る時には、きつとこの別嬪の写真を巻頭に掲げます。)これはシレシアの金歯と反対で、何の考慮を費やさずただちに実試に懸かった失敗で、とかく物事は議論にも実試にも偏寄《かたよ》らず、双方を酌量してその中を執るが第一と、世間はずいぶん広し、自分より一層先見の足らぬ人どもに示しおく。金歯のついでに言う、『今昔物語』二七の三一に、三善清行凶宅に宿して美女銀牙ある怪を見た譚を載す。
それから世に鬼子ということあり。『奇異雑談』上巻一四章に、「京の東山獅子の谷の一村は小里なり。明応七年のころも地下人の妻、産の時奇異なる物を産むこと三度に及ぶ。一番の産には男子を産む、常の人なり、これ嫡子なり。二番の産には異形の物を産む、その形|委《くわ》しくは聞かず。三番の産には槌の子を産む、目鼻口なきがゆえに、やがてこれを殺しおわんぬ。四番の産には鬼子を産む、産まれ落ちてすなわち大なること三歳の子のせいなり。やがて走りてあるくゆえに、父追つ懸け、取り詰めて膝の下に推しつけて見れば、色赤きこと朱のごとし。両の目のほかに、また額に一目あり。口広くして耳に及ぶ。上に歯二つ、下に歯二つあり。父嫡子を呼びて横槌を持ち来たれと言えば、鬼(73)子聞きて父が手に?みつくを、槌をもってしきりに打って叩き殺すなり。人集まりてこれを見ること限りなし。その死骸をば西の大路真如堂の南の山際の岸に深く理みたり。その翌日野人三人、おのおの拗子《おうこ》をかたげて同道して行くに、岸の下に土動けるを見て、土竜《うごろもち》ありとて拗子の先にて突けば鬼子出でたり。三人大いに驚き、こは聞き及びし獅子の谷の鬼子なり、ただ打ち殺すべしとて、三人拗子をもって叩き殺すに終《つい》に死なざるを、しきりに打って殺しおわんぬ。繩を付けて引きて京に至る路中、多くの石に当たるといえども、その皮膚強くして少しも破れず。京中の人見て打ちひしぎ爛《ただ》らかして捨つるなり。このこと常楽寺の栖安新琳公、幼少喝食の時、岸の下にて打ち殺すをまのあたり見たり、と言えり」と記す。これは三眼朱面広口四歯、真に羅刹の画の通りだから最合格の鬼子だが、普通に鬼子と呼ぶはそんな念の入った物でなくとも、ただ歯が生えて産まるる児を指すらしい。
当田辺町、予の住宅より遠からぬ街に、弁慶松とて高名の木あり。古来奥羽より熊野に詣る連中、その落葉を拾い十襲して持ち去る、瘧を落とす効ありと言う。その近所に弁慶産湯の井戸という奴があつたのを維新後潰しおわった。何年のことと定かならねど、件《くだん》の松のすぐ側の家に住んだ大工が、常の鉋《かんな》に二倍大なるを使うほど剛力の名人だった。その妻、子を生むと非常に大きく歯が生えおり、握った手を開くと弁慶の二字あり、自在に走りありく。かかる者を活かしおかば両親危うかるべしとて、そのまま殺したという。『義経記』に、熊野別当弁正、二位大納言師長の独り娘十六なるを奪い妻とし、孕ませ十八ヵ月にして弁慶を生む(『弁慶物語』には妊娠三年三月とす)。大きさ二、三歳の児のごとく、髪は肩の隠るるほどに生えて、奥歯向う歯ことに大に生えて産まれた。弁正、これは鬼神だろう、水に沈め、また深山に磔《はりつけ》にせよと言ったのを、その妹が乞い取って鬼若と号《なづ》け育てた、とある。三浦常心の『見聞集』六に、江戸の溢《あぶ》れ者の巨魁大鳥一兵衛、みずからその生い立ちを語るに、その母十王に祈って十八ヵ月孕みこの者を生む。骨柄《こつがら》逞しく面赤く髪|禿《かむろ》に生え向う歯あり、立って二足歩んだので、皆人悪鬼生まれけるかと驚いた、とある。『因果物語』上に、河内国茨田郡小兵衝の妻、悪心の者で、時々鬼面を冒《かぶ》って夫の母を脅《おびや》かす、姑《しゆうとめ》歿して妻|牙《きば》八寸ほど(74)生えた女児を生んだ、正保二年のことだと載せ、『新著聞集』奇怪篇に、備後神石郡神辺町池屋久兵衛の妻四子を生めり、三子は男、一子は女なり、四人目に産まれしは髪黒く生い歯ことごとく生じ、額に角二本ありしかば、怖ろしくて捨て遣りしに少しも泣くこともなかりし、と見ゆ。
『郷土研究』三巻七号に、紀州那賀郡の俗伝、差し下駄に腰掛くると歯の生えた子を生む、とあり。予が西牟婁郡で聞くところは、妊婦が下駄に腰掛け洗濯すればそんな子を生む、と。また同郡川添村で、児女が玄猪《いのこ》の餅を乞い廻る時、「亥の子の餅くれぬ者、鬼婆《おにばば》うめ、蛇《じや》うめ、髪の生えた子生め」と唱う。鬼婆とは歯の生えた女児なるべく、生まれながら髪長く生えた子と共に凶相としたのだ。英国の古物語に名高い術士メルリンは、魔が酒に酔った素女を乱して孕ませた子で、相好すこぶる美だったが、黒き長髪を被って生まれたという(Ellis,'Specimens of Early English Metrical Romances,'1811,vol.i,p.223)。ただし歯が生えおったとは見えぬ。万亭応賀の『釈迦八相倭文庫』二四に、阿闍世王《あじやせおう》生まれながらにして歯あり、乳母の乳房を噛んでこれを殺した、とあるは何によつたか知らぬ。たぶん本邦鬼子の諸譚から採ったらしく、一切経中にそんなことなし。Schiefner,'Tibetan Tales,'trans.Ralston,1906,p.84 には、この王胎中にあった時、その母、夫王の肉を食い、その血を飲まんと望んだ、また出産に際し血の雨が降った、とあるばかりで歯を具して生まれたことは見えぬ。
欧州にも鬼子の話はあって、スコットランドで、精魅《フエヤリース》がいまだ洗礼受けぬ美わしい嬰児を、不具で昼夜啼き続くるものに化し、母の乳房を?み裂かしめたことと、アイルランドで、精魅の所為で生後一年内に口中一盃の大きな歯が生えた児があった由を Keightley,'The Fairy Mythology,'in Bohn's Library,1884,pp.356,522 に載す。プリニウスの『博物志』七巻一五章に、嬰児歯生えて産まるる者、時としてこれありとて、著名の例二つ挙げ、さていわく、ローマの王政時代に女子が歯生えて産まるるを凶兆とせり。たとえば、ヴァレリア歯生えて産まれた時、占者いわく、この女の持ち往かるる所、必ず壊《やぶ》らるべし、と。よってこれを当時大繁昌なりしスエッサ・ポメチアに送りしに、の(75)ち果たして破壊されたり、と。ロムルス、レムス、セルヴィウス・ツリウス、プラトン、アレキサンドル王、セレウクス、スキピオ・アフリカヌス、アウグツス帝、アリストメネス、マルチン・ルーテル等、古来魔と人と交わって生んだと称せらるる者多い(Siniいtrari,'Demoniality,'Parisu,1879,p.55)。その中には、歯を具して生まれたと伝えられたも少なくないだろう。英国のリチャード三世の悪王だったは沙翁《シエキスピア》の戯曲で名高いが、この王胎にあること二年で、母の体内より引き離さるるにまず足から出で、両顎に歯生い髪長く肩に到りおったといい(予未見の書 Dr.Gairdner,'History of the Life and Reign of Richard Ⅲ,'1878,quoted by J.T.Page in Notes and Queries 10th ser.,v,p.115,1906)、ミラボーも誕生の時、頭異体に大きくして不具に近く、一足|捩《ねじ》れ、その舌|繋帯《フレヌム》に結びつけられ臼歯二本生出ありしという(予未見の書 Smith,'Mirabeau,'ch.iii,quoted by C.B.in N.& Q.,ibid.)。予内外の知人かつて生まれながらに歯を具えた児を見た人に聞き合わすと、いずれも親に咋《か》み懸かったり乳房を?み切るような者を睹《み》たことなく、尋常生まれて七、八月にして生え初むるごとく、向う歯四枚、ことに下の向う歯二枚がほぼ露われあるまでだそうな。たぶんそれしきのことを敷演《ふえん》して、種々に上述の怪譚を拵えたものならんか。(大正四年十月十八日)
(大正四年十一月『人類学雑誌』三〇巻一一号)
【追記】
『奇異雑談』や『新著聞集』から引いた鬼子にあまり劣らぬ例が『歴代皇紀』巻三に見ゆ。いわく、「崇徳天皇天治二年二月、二条大宮前に奇異の児あり、一目片耳にして、上唇に牙歯あり」。
(大正五年一月『人類学雑誌』三一巻一号)
(76) 無言貿易
鳥居竜蔵「東北亜細亜における無言貿易について」参照(『人類学雑誌』三二巻八号)
一九〇三年、グリエルソンの『無言貿易論《ゼ・サイレント・トレード》』が出た時、予一書を『ノーツ・エンド・キーリス』に寄せ、支那で古く鬼市と言ったは無言貿易の一、二の異態を指したのだろう、と述べた(Kumagusu Minakata,"Ghosts'Markets,"Notes and Queries,10th ser.,i,p.206,London,1904)。
そこに引いた『五雑俎』巻三にいわく、「『歳時記』に、務本坊の西門に鬼市あり、冬夜かつて乾柴《たきぎ》を売る声を聞く、これ鬼のみずから市《あきない》をなすなり、と。『番禺雑記』に、海辺には時に鬼市あり、半夜にして合い、鶏鳴いて散ず、人ともに交易し、多く異物を得たり、と。また済?《せいとく》廟の神は、かつて人と交易す。契券《わりふ》をもって池中に投ずれば、金すなわち数のごとく浮き出ず。牛馬百物も、みな仮借《か》るべし。趙州の廉頗《れんぱ》の墓もまた然り。これ鬼の人と市《あきない》するなり。秦の始皇は、地市を作り、生人をして死人を欺くを得ざらしむ。これ人の鬼と市するなり」。『歳時記』の例は、顔を見られぬよう暗夜声を出して売り行《ある》くので、正しく無言貿易とは言えぬ。『番禺雑記』から引いたのは、必定無言貿易のことであろう。『法顕伝』に、師子国(セイロン)のことを述べて、「その国もと人民なく、ただ鬼神および竜あってこれに居るのみ。諸国の商人ともに市易《あきない》す。市易する時、鬼神はみずから身を現わさず。ただ宝物を出だし、その価直《あたい》を題《しる》すのみ。商人はすなわち価直によって物を取る、云々」。これは異貌奇体な蛮民、今日のヴェダ人などを鬼神とし、竜種すなわち帽蛇(コブラ・デ・カベロ)を族霊《トテム》とする民を竜と見たので、その輩が外来の商人と交易す(77)るに、その身を現わさなんだのだ。仏教よりわが邦の伝説に移った、隠れ簑隠れ笠を被《き》て鬼が身を隠すという譚(『類聚名物考』二九九巻)も、こんなところから出たであろう。それから済?廟や廉頗墓の一件は、取りも直さず椀貸し伝説じゃ。秦始皇の作った地市とは何のことか、只今ちょっと分からぬ。
要は未聞民が他方の民と直接に近づき触るるを忌むゆえ、かかることが起こったので、右に引いた務本坊西門の例のごとく、売り手がもっぱら買手に見られぬよう声を出して形を見せぬもあれば、この類の貿易を無言貿易と概称するは、婦女を非道行犯するを婦女の男色と言うと同様|悉《つく》さざるところあれば、除外例を要する。人種学や民俗学に生物分類学同様出処正しき古名を採用すべき規定があるならば、右体《みぎてい》の売手と買手相近づかざる貿易を鬼市と概称するがよかろう。さて二二九頁に鳥居君が引かれた、斉明帝六年、阿部臣が粛慎人とこの風の貿易を試みたのも、そのころ邦人が外国人と近づくを忌んだからで、その証は、それより百十六年前、欽明帝五年十二月粛憤人が佐渡へ来た時、島人これを鬼魅とし怖れたのみかは、所《ところ》の神も太《いた》くこれを忌んだ由、『日本紀』に見ゆ。
『大清一統志』二〇二、江西の上洛山の条に、「『輿地志』にいわく、山に木客多し、すなわち鬼の類なり。形は人に似、語《ことば》もまた人のごとし。はるかに見れば分明《あきらか》なるも、近づけばすなわち蔵隠《かく》る。よく杉・枋《ほう》を斫《き》り、高峻なる上に聚《あつ》む。人と交市《とりひき》し、木をもって人の刀斧と易《か》う。交関《とりひき》する者は前《すす》みて枋の下に置き、却《しりぞ》き走ってこれを避く。木客|尋《つ》いで来たり、物を取って枋を下ろす。人に与うるは物の多少に随う。はなはだ信直《りちぎ》にして欺かず」。『本草綱目』に『幽明録』を引き、いわく、「木客は南方の山中に生まる。頭面語言、全くは人に異ならず。ただ手脚の爪は鉤《かぎ》の利《と》きがごとし。絶岩の間におり、死すればまた殯?《かりもがり》す。よく人と交易するも、その形を見《あらわ》さず。今、南方に鬼市あり、またこれに類す」。わが邦で天狗を木客と書いた物もあるが、木客とはそんな妖怪でなく、実は山中に住む蛮民だが、他部の民に接近するを忌むことはなはだしきあまり、ついに鬼類と思われ、その特異な貿易法を鬼市と呼んだらしい。大和の前鬼、後鬼などいう部落も、同様の訳により同様に怖れられたものだ。
(78) それから鳥居君が二三〇頁に述べられた武装的無言貿易も、むかしはアジアの南部にも行なわれたらしい。『大唐西域求法高僧伝』下に、唐の義浄の渡天を記せるうち、「鞨荼《かつど》より北に行くこと十日余にして、裸人国に至る、云々。その人、容色は黒からず、量等《おしなべ》て中形なり。巧みに団《まる》き藤の箱を織《つく》り、余処《よそ》のもののよく及ぶなし。もし共に交易せざれば、すなわち毒箭を放つ。一たびこれに中《あた》る者は、また再び生くることなし」とある。この裸人国はどこか確かならぬが、「伝え聞く、この国は蜀川の西南の界《さかい》に当たる、と」とあれば、まずは後インドかマレー半島の沿海の地と見える。(九月二十六日) (大正六年十月『人類学雑誌』三二巻一〇号)
(79) 邪視のこと
南方「出口君の『小児と魔除』を読む」参照
(『東京人類学会雜誌』二四巻二七八号二九六頁)
『改定史籍集覧』第一〇冊所収『塵塚物語』(天文二十一年著)四三頁に、当時本邦にこの信ありしを徴すべき文あり。いわく、「ある人のいわく、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分かたず心得あるべし。人気《ひとけ》罕《まれ》なる所にて、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇猛獣を見つけたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合わすべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛《たけ》き人も、頭髪立ちて、足に力なくふるい出て、暁鐘を鳴らすこと勿論なり。これ一心?倒するによりてかかることあり。この時|眼《まなこ》を見合わすれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死すものなり。外の物は見るとも、かまえて眼ばかりは窺うべからず。これ秘蔵のことなり。たとえば暑きころ、天に向かいて日輪を見ること、しばらく間あれば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明|熾《さかん》なるがゆえに、肉眼の明をもってこれを窺えば、終《つい》に眼根を失うがごとし。万人を降して、平等に愍れみ給う日天さえかくのごとし、いわんや魔魅障礙の物をや。毫髪なりとも便《たより》を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、目を見るべからすとぞ」。
また背縫(『東京人類学会雑誌』二七八号三〇〇頁に出ず)は、同冊『老人雑話』五頁、秀頼五歳参内の時、太閤むりょ(80)うの闊袖の羽織に、烏を背縫にせし由見えたり。
(明治四十二年七月『東京人類学会雑誌』二四巻二八〇号)
人名を呼んで児啼きを止むること
南方「出口君の『小児と魔除』を読む」参照
(『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号三〇八頁)
欧米人の姓名、もって児啼きを止むるに足る者、既記の外、英のグリムショーあり。ワレン・ヘスチングス死して五十年なるに、インド人なおその名を唱えて、小児を静め眠らせたる由、マコーレーは言えり。またウェルシュ人は、モルガンの霊今に湖中に棲み、不順の児童を捕え沈むと信ずるをもって、これを呼び、子供をおどす(Notes and Queries,July 17,1909,pp.53-54)。
日本人、むかし英国黒船の猛威を伝称して、児輩を威せしことはすでに述べたるが、これと等しく明末の支那人、日本海寇を懼るることすこぶるはなはだしかりしなり。『古今図書集成』辺裔典、第三八巻二四葉に、「明の世を終うるまで、倭《わ》に通ずるを禁《いま》しむることはなはだ厳し。しかして閭巷《りよこう》の小民は、倭と指さしてたがいに詈罵《ののし》るに至り、はなはだしきは、もってその小《おさ》なき児女の噤《くちをつぐ》ましむという」と見ゆ(予の"Names terrible to Children,"Notes and Queries,may 1,1909,p.356 参照)。『松屋筆記』巻九三にいわく、「『南史』巻四〇劉胡伝に、「蛮はなはだこれを畏《おそ》れ憚《はばか》る。明帝即位して、越騎校尉に除《じよ》せらる。蛮これを畏る。小児の啼くに、語って劉朝来たると言えば、すなわち止む、云々」。『常山紀談』に、朝鮮人は、今に至るまでも、小児の啼く時、鬼将軍(清正)来たると言いて泣き止めけるとかや」。
『改定史籍集覧』第一五冊所収『高橋紹運記』に、「北原鎮久、武功利才の名人にて、人相は人に異なり、おのずから泣く子も、鎮久と言えば、声を止むるほどの権威強き禅門なれば、云々」。また同書第七冊中の『南海通記』巻一(81)四によれば、天正十年、讃州十河城の三好隼人、粮に究するのあまり、強盗を仕立て、民家を襲い、財を奪い取る、「その張本人前田甚丞という者は、六具とて、鑓に角取紙《すみとりがみ》を付けて差物にし、弓矢を持ちて六尺の塀を越ゆる、軽業の者なり。ことに弓は百矢を外《はず》さずして、人の恐るることはなはだし。幼児を畏《おど》すにも、甚丞がそれと言えば、啼く子も止みぬ、云々」。
(明治四十二年九月『東京人類学会雑誌』二四巻二八二号)
馬頭神について
陸中国遠野郷の部落ごとに、必ず一旧家あって、オシラ様という神を祈る。桑木を削り作れる偶像にて、古製は馬頭を冠り、やや新態なるは烏帽子《えばし》を被《かぶ》る、定めて二様あり。むかしは馬頭を戴くもの、女神と称せし由なれど、馬頭変化して、烏帽子を戴く男となりしが、これに関する土地の伝説、並びにその二体なること、また同じ桑の木の一本枝にて造ること、ことに女人多く拝むより考うるに、恋の神ならん、と佐々木繁氏の説なり(柳田氏『石神問答』書簡二三摘要)。『遠野物語』五五頁に、その異伝を載す。いわく、貧にして妻を亡える百姓、美しき娘あり。この娘家に養える馬を愛し、夜々厩中に就いて同臥す。父このことを知り、馬を桑の木に釣り下げて殺しぬ。その夜、娘始めてこれを知り、桑下に往き、死馬の首に縋り泣きいたるを、父|悪《にく》みて、斧もて馬の首を切り落とせしに、たちまち娘その首に乗りて昇天す。オシラ様は、この時より成りたる神なり。馬を釣り下げたる桑の枝にて、その神の像を作りしが、三つありきとて、その所在を挙げたり。
熊楠按ずるに、享和三年新刻、上垣守国の『養蚕秘録』巻下、二-三葉に、「一説に、中華舜の御代に、官人馬を引き出でて庭上に放し置きぬ。折ふし皇女、玉簾を挑《かか》げ馬を見たまう。かの馬、皇女を深く見入りて止みぬ。ある夜の夢に、かの馬告げて言うよう、われ畜類ながら、姫の艶色に牽かれて思い入ること切なり。しかれども、人間ならざれば力(82)及ばず、死して一方の蚕と生じ、真綿に引かれて、皇女の御身に添うべし、と告げて夢覚めぬ。翌日かの馬果たして死す。故に野外に埋めしかば、その地に虫多く生じ、あたりの桑の葉を食い繭作る。これを真綿に引かせける、と古書に見えたり。また唐土に馬を飼う人あり、云々。(馬娘を愛せしを悪み殺し皮剥ぎけるに)馬皮娘を絡《まと》い、ともに化して蚕と成りけるとかや、云々。生皮をそのまま置く時は、虫わくこと馬の皮に限るべからず、云々」と見ゆ。『捜神記』に、「旧説にいう。人あって遠征し、家に一女と馬一匹あり。女《むすめ》は父を思い、すなわち馬に戯れていわく、爾《なんじ》よくわがために父を迎うるを得ば、われまさに汝に嫁《とつ》がん、と。馬すなわち 程《つな》を頓《やぶ》って去り、父を迎え得て来たる。のち馬、女《むすめ》を見てすなわち怒る。父これを問い、女つぶさにもって父に告ぐ。すなわち馬を殺して皮を庭に曝《さら》す。女、皮の所に之《ゆ》きていわく、爾は馬なり、しかるに人を婦《よめ》となさんと欲し、みずから屠《ころ》され剥がるることを取《いた》す、何如《いかん》、と。言いまだ竟《おわ》らざるに、蹶然《けつぜん》としてたちまち起《た》ち、女を巻きて行く。父、女を失う。のち大桑樹の枝間に女および皮を得たるに、ことごとく化して蚕となり、樹上に績《つむ》ぐ。その繭は厚く、大いさ常に異なる。隣の婦これを取って養い、その収《みいり》また倍す。今の世に蚕を謂いて女児となすは、古えの遺語なり」とあるを訛伝して、かかる里伝を生ぜしやらん。
すべて蚕の頭は馬の頭に似たるゆえ、支那に蚕馬同気の説あり(『和漢三才図会』五二、原蚕の条に出ず)。昔人昆虫変化についての観察はなはだ麁《そ》なりし例は、予が Baron C.R.Osten-Sacken,'Bugonia-Superstition,'Heidelberg,1897 および"Notes on the Bugonia-Superstition,"Nature,1898 に挙げたる、古支那人が田亀虫《たがめ》を鼈《すつぽん》と誤察して、馬歯筧《すべりひゆ》を水に浸せば鼈児を生ずと思い、古ヘブリウ人、アラビア人が、死獅、死牛よりブンブン虫を生ずるを見て、獣屍蜜蜂を出すとなせるなど、その類多し。上垣氏が、馬皮|蛆《うじ》を生ぜしを、古人が蚕児と見謬りしと察知せるは、万事漢土の書を妄信せし当時にあって、慧眼を具せし人と謂うべし。
よって考うるに、この桑の枝にて作るオシラ様双体は、最初支那伝来の養蚕の神にて、養蚕はもとより婦女の本業(83)なれば、もっぱら女人これを拝みしが、転じて恋の神のごとくなり来たりしこと、あたかも七夕の双神は、女子手工の巧ならんことを祈りしものなると同時に、愛敬の神となりしがごときか。
(明治四十三年十一月『東京人類学会雑誌』二六巻二九六号)
誕生日に小児の生い立ちを卜うこと
伊能嘉矩「台湾の漢人に見らるる生子関係の慣習および迷信(二)」参照
(『東京人類学会雑誌』二六巻二九七号九二-九三頁)
この儀古くより和漢ともに行なわれたるにや。『和漢三才図会』巻四にいわく、「周歳の児の取るところの物を観るを試周《ししゆう》という。宋の曹彬《そうひん》の周歳の日、父母百玩の具を羅《つら》ね、その取るところを観る。彬、左の手に千戈を提《と》り、右の手に俎豆《そとう》を取り、斯須《しばらく》して一印を取る。のち果たして、枢密使相となり、卒して済陽郡王を贈らる。(本朝の人は、三歳の時を試周となす。)」ギリシアのシキノス島にもこの式行なわる。「小児生まれて初めの誕生日に、すべて親戚を招聚し、盆に筆、銭、職工用具、また卵等を列ね示し、その最初手に触るる物を観て、将来何ごとが最もその児に適するかを判ず。一区長予に語りけるは、その子周歳の節、筆を取りしゆえ、成長後、アテネの大学に遣りしに、成績すこぶる良かりし、と。さて小児もし卵を取らば、これを悪兆としてはなはだ懼る。その訳つまびらかならねど、社会の棄《すた》れ物たること、あたかも鶩《あひるの》卵に等しという意味にもありなんか」と、J.Theodore Bent は言えり(予の"Childtelling its own Fate,"Notes and Queries,2nd ser.,i,p.305,London,1910 を見よ)。また今も紀州にて言い伝うるは、周歳の節、小児の前に饌を供え、正服整容して、叮嚀にその前生の家門姓名を尋ぬれば、必ず明答を得、と。このこと『元亨釈書』僧某の伝中にも出でたりと覚ゆれど、座右その書なければ、現にその本文を引くに由なし。
(明治四十四年二月『東京人類学会雑誌』二六巻二九九号)
(84) 仏経に見えたる古話二則
本誌三〇〇号三六頁に仏教東漸後筆せし『風俗通』に記せる黄覇の裁判、また『季継記』に載せたる実基公の裁判は、イスラエル王ソロモンの伝話に基づける由を言えり。
しかるに近日、『賢愚因縁経』巻二、檀膩※[革+奇]《たんにき》縁品を見るにこのことあり。いわく、「時に檀膩※[革+奇]、云々、王の前にあって、ふたりの母人、ともに一児を諍《あらそ》い、王に詣《いた》ってたがいに言えるを見る。時に王(名は阿波羅提目伽《あぱらだいもつか》、端正と訳す)は明黠《めいかつ》にして、智をもって権計《はかりごと》をなし、ふたりの母人に語るらく、今ただ一児なるに、二母これを召《まね》く、汝二人のおのおの一手を挽くを聴《ゆる》す、誰かよく得れば、すなわちこれその子たり、と。その母にあらざる者は児に慈《いつく》しみなく、力を尽して頓《とみ》に牽き、傷損を恐れず。生みしところの母は、児に慈しみ深く、随《つ》き従いて愛護し、?挽《ひ》くに忍びず。王、真偽を監《しら》べ、力を出だす者に語るらく、実に汝が子にあらざるに、強いて他の児を謀る、今王の前において汝の事実を道《い》え、と。すなわち王に向かって、われ審《あき》らかに虚妄《こもう》にして、枉《ま》げて他の児に名づけたり、大王聰聖にして、幸いに虚《いつわり》の過《つみ》を恕《ゆる》したまえと首《もう》す、児をその母に還し、各爾《おのおの》放ち去らしむ」。このインド譚、かのイスラエル譚と、いずれかまず生ぜしを知らざれど、和漢のこの種の伝話は、このインド譚より出でたるなるべし。
また二二一頁に掲げたる、『デカメロン』第七日第六譚についても、二二二頁所引『韓非子』中の一話よりも、一層これに近似せる譚、『旧稚譬喩経』巻上に見ゆ。いわく、「むかし四姓《ばらもん》あり、婦《よめ》を蔵《かく》して人に見《あ》わしめず。婦、青衣《めしつかい》をして地窟《あな》を作らしめ、琢銀児《ぎんざいくや》とたがいに通ず。夫のちに覚《さと》る。婦いわく、われかつて行なわず、卿《けい》は妄《みだ》りに語《ものい》うなかれ、と。夫いわく、汝を将《つ》れて神樹の所に至るべし、と。婦いわく、佳《よ》し、と。持斎して、七日のあいだ斎室に入る。婦ひそかに琢銀児《ぎんざいくや》にいわく、汝まさに云何《いかん》となす、汝|詐《いつわ》りに狂乱を作《な》して市《まち》に投じ、人に逢わば抱持《いだ》きてこれを(85)牽引《ひ》け、と。夫、斎《ものいみ》しおわって、すなわち婦を将《つ》れて出ず。婦いわく、われかつて市《まち》を見ず、卿はわれを将れて市を過《よぎ》らしめよ、と。琢銀児すなわち抱持《いだ》きて、地に臥して為すところあらんとす。婦すなわちその夫に、何すれぞわれを抱持《いだ》かしむるや、と哮呼《さけ》ぶ。夫いわく、これ狂人なるのみ、と。夫婦ともに神の所に到る。叩頭していわく、かつて悪をなさず、ただこの狂の抱くところとなりしのみ、と。婦すなわち活《い》くるを得たり。夫黙然として慙《は》ず。婦人の奸詐《いつわ》ること、すなわちまさにかくのごとくなるべし」。
(明治四十四年六月『人類学雑誌』二七巻三号)
魔除に赤色を用ゆ
出口米吉「魔除に赤色を用いる由来」参照
(『人類学雑誌』二七巻一号一六-一七頁)
紀州西牟婁郡諸村(例せば富里村)に、牛小屋の関木《かんぬき》を赤く塗り、魔除《まよけ》とする者多し。また熊野地方一汎に、牛を売買顔見世につれ行く時、必ずその体の諸部に、赤き装飾を加う。これその外見を美しくするためなりと伝うれど、実は大切の日なれば、特に重く魔を禦《ふせ》ぐ古俗に出でしことならん。(一八八一年、グレゴールの『東北スコットランド民俗誌』一八八頁に、妖巫が牛を犯すを禦ぐ良方は、ナナカマドの木で小さい十字架を作り、緋色の糸で牛の尾に結びつけるのだ、と見ゆ。)
今日も、エジプト人、駱駝等の家畜を灼然たる装飾して、邪視を禦ぐと言い(Budge,'The Gods of the Egyptian,'1904,vol.i,pp.13-14)、古え欧州人、小児と諸幼畜、ことに邪視に犯されやすしと信じ、『聖書』に駱駝の頸飾りとあるも、邪視の害を避くるためなるべしと言えるなど(『大英類典』一一板、一〇巻二一頁)、考え合わすべし。
(アフリカのソマリ国のエエサ人の男は、頸のぐるりに其赤な革紐をまきつけ、その紐の前に琥珀《こはく》また蜜石二個を付ける。女は琥珀や有色ナンキン玉や珊瑚より成った頸飾りを付ける(一八五六年板、バートン『東|阿《アフリカ》初入記』三章註)。(86)支那でも、『日下旧聞』三八に、北京で「六月十二日、御厩にて馬を積水湖に洗う。導くに紅き仗《つえ》をもってす。中に数頭の錦の箔《すだれ》をもってこれを覆えるあり、云々」。)
(明治四十五年一月『人類学雑誌』二八巻一号)
白馬節会について
出口米吉「白馬節会につきて」参照
(『人類学雑誌』二八巻一号八頁以下)
白馬を貴ぶ例、諸邦に多し。漢の高祖、白馬を斬って盟《ちか》いしこと、『史記』に見ゆ。古インドにも、白馬を牲するは王者に限りしと記臆す。『仏本行集経』巻四九いわく、仏前生鶏尸馬王たり、「身体の白浄なること、なお珂雪《しらゆき》のごとく、また白銀《しろがね》のごとく、浄《きよ》き満月のごとし」。この馬王、多くの商人が羅刹女の難に遇うを救いし話、『宇治拾遺』にも載せたり。『大薩遮尼乾子受記経』巻三にも、転輪聖王の馬宝は、「色白きこと、かの拘牟頭華《くむずげ》のごとし。身体はまさしく足り、心性は柔軟なり。一日に三遍《みたび》閻浮提《えんぶだい》に行きて、疲労の想いなし」とあり。古インド人白馬を尊べるを知るべし。
マルコ・ポロいわく、元世祖、上都に万余の純白馬を畜《か》い、その牝の乳汁を自身と皇族のみ飲む。外にホリアッド族、かつてその祖父|成吉思汗《ジンギスカン》を援けて殊勲ありつれば、白馬乳を用うる特典を得たり、と。ユール註に、当時、元日に白馬を貢献したるなり。この風康煕帝の世まで行なわれつ。チムコウスキは、諸蒙古酋長が白馬、白駝を清廷に貢する常例、十九世紀まで存せりと言えり、と(Yule,'The Book of Sir Marco Polo,'1871,Bk.i,ch.lxi)。同書二巻一五章、元日の条にいわく、この日皇帝以下貴賤男女、みな白色を衣《き》る。白を多祥として、年中幸福を享けんと冀《ねが》うに因《よ》る。また相|遺《おく》るに白色の諸品をもってす。この日諸国より十万以上の美なる白馬を盛飾して奉る、と。ラムシオの『紀行彙函』に収めたるマルコの紀行には、「多大の馬を奉る。その馬あるいは全身白く、あるいは体の諸部多く白きもの(87)に限る。九の数を尊ぶゆえ、一県より九九八十一疋の白馬を奉る」とあり、日と馬の数こそ和漢の白馬節会と異なれ、そのことはなはだこれに近し。
さて『公事根源』に、白馬の節会を、あるいは青馬の節会とも申すなり。その故は、馬は陽の獣なり、青は春の色なり。これによって、正月七日に青馬を見れば、年中の邪気を除く、という本文あり。(中略)天武天皇十年正月七日に、御門小安殿におわしまして宴会の儀あり。これや七日の節会の始めなるべからん、と言えり。『日本紀』二九の本文には、白馬のこと見えず。白馬を「あおうま」とのみ訓《よ》みしは、『平兼盛家集』に「ふる雪に色もかはらで曳くものを、たれ青馬と名づけ初めけん」。高橋宗直の『?響録』巻下に、室町家前後諸士涅歯のことを述べて、白歯者と書いて、アオハ者と訓ず、白馬をアオ馬と言うがごとし、と言えるにて知るべし。
すべて色は、温度、電力等と違い、数度もて精しく測定しえず。したがって常人はもとより、学者といえども、見るところはなはだ同じからず。予この十二年間、数千の菌類を紀伊で採り、彩画記載せるを閲するに、同一の色を種々異様に録せる例はなはだ多し。これ予のみならず、友人グリエルマ・リスター女の『粘菌図譜』、昨年新板を贈り来たれるを見るに、Diderma Subdictyospermum の胞嚢は雪白と明記され、D.nieumも、種名通り雪白なるべきに、図版にはふたつながら淡青に彩しあり。されば古え色を別つことすこぶる疎略にて、淡き諸色をすべて白色と言いし由、L.Geiger,'Zur Entwickelungsgeschichte der Menschheit,'S.45-60 等に論じたり。高山の雪上の物影は、快晴の日、紫に見ゆるゆえ、支那で濃紫色を雪青と名づくと説きし人あり(A.Sang,in Nature, Feb.22,1906,p.390)。紫を青と混じての名なり。光線の具合で白が青く見ゆるは、西京辺の白粉多く塗れる女等にしばしば例あり。かかる訳にて、白馬を青馬と呼ぶに至りしなるべし。
(明治四十五年三月『人類学雑誌』二八巻三号)
(88) スペリカンスという遊戯
明治四十一年五月三十日、予平瀬作五郎君の依頼により、田辺郊外に「ふうせんも」を捜り、多く獲て帰るとて西の谷村を過ぐる時、二、三の小児異様の遊戯をなすを見る。たとえば、竹を削りて五寸ばかりの細長き串様の棒となし、多数乱錯して積み置き、一本ずつ抜き去ること多きを勝とす。抜かんと志す棒に組み重なれる棒多き時は、茶匙のごとく曲げたる細き竹棒もて鉤《か》け除《の》ける。抜き去る棒の外の棒いささかも動かば、その児手を止め、他の児代わって抜きに懸かる。竹一本抜き取るにおびただしく暇を潰すゆえ、予見果てずして帰れり。その時かの児にこの遊戯の名を問いしも知らず。帰って人に話せしに、その人いわく、古くよりこれに似た遊びあり、一柄二葉の松葉を多く積み累《かさ》ね、一本の松葉の瑞を曲げて、少しも他の松葉を動かさずに、一対ずつかけて取ること多きを勝とせり、それも別に名はなかりしとなり。
たまたまそのころ郵着せし、同年一月四日と二月八日の『ノーツ・エンド・キーリス』を見しに、この遊びに酷似せるスペリカンスという戯を記せること詳《くわ》し。また一昨々年出たる『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一板巻二五にも、その記載あり。今ふたつながら参取して、ここに摘要せん。
この遊戯、英語で spellicans また spillikins, これはオランダ語 spelleken(小さき簪《かんざし》)より出ず。欧州古代の簪、種々の物形を彫り成すこと、今のスペリカンスのごとしと言えば、むかしは簪を積み累ねてこの戯を行ないしならん。また jackstraws と呼ぶは、もと jerk-straws(藁退《わらの》け)と言いしを訛《あやま》れり。また pushpin(簪退《かんざしの》け)とも称う。仏語で jonchets, 独語で Federspier,蘭語で knibbelspel.熊楠|謂《おも》うに、これら諸名いずれも、この遊戯初めは特にその具なく、単に有合せの藁や骨や鳥の羽などを積み累ねて多く抜き取るを競いしこと、上述わが邦の児童が竹籌や松葉を玩ぶと同様なり(89)しを示すらし。
一八六八年ロンドン板、ラウトレッジの『毎童書《エヴリ・ボーイス・ブック》』にいわく、「スペリカンスは、象牙の薄片を槍、鋸等、種々器物の形に刻み、同形のもの幾つもあるもあり、ただ一つなるもあり、形異なるに随い価異なり、五を最低価、四十を最高価とす。この価は五六七八と順次増進せず、五、十六、二十五という風に不規則に増進す。その形の異なるに随い相当の価数を鐫《ほ》り付く。(熊楠案ずるに、長さ三インチより六インチくらいの細長き牙製また木製の棒の一端を、簪頭のごとく、種々の器具形に彫作し、形相応の価数を鐫り付くるなり。)別に僅数の骨製の鉤《かぎ》あってスペリカンスを鉤《か》け除《の》くに用いらる。まず一人、あらゆるスペリカンスを聚めて案上に落とし、乱錯して積み重ならしめ、二人また数人かわるがわる手をもって一本一本抜き去る。上の方のものは相互の係累少なければ抜き取りやすきも、下の方になると相互の係累繁ければ、鉤の尖《さき》もて徐《しず》かに分かち離すにあらずんば抜き去りがたし。スペリカンスことごとく取り去られてのち、毎人取りえたるスペリカンスの価数を合算して、最も多きを勝とす。もし一本取るとて少しなりとも他のスペリカンスを揺《うご》かさば、これを堆中に還し入る。また一法あり。二人また数人かわるがわるスペリカンスを抜き取るかわりに、一人まずスペリカンスを取り通し、取らんと志すものの外のスペリカンスを揺かすに及び、次の人取り試み始め、その人また過《あやま》って他のスペリカンスを動かすに及び、また他の人が試《や》り始むるなり」と(以上、ラウトレッジの文)。遊び止めば、スペリカンスを鉤ともに匣に入れ置く。鉤二つとスペリカンス二十四入るるあり。また二十六あるいは五十もあり。鉤一つと弓弦状の鉤一つと入るるもあり。鉤三つ入るるもあり。この遊びすこぶる手間取り、また微《すこ》しく動いた、少しも揺かなんだの争論絶えず。これをもって、あまり行なわれず、今日英国では人その具を見ても何物たるを解せざる地方多し。スペインのカール二世とその最初の后マリア・ルイサ(二年余スペインに住んで、一六八九年崩す)と数時間この戯れを行ないしことありと言えば、十七世紀すでにありし遊びなり。
(大正三年四月『人類学雑誌』二九巻四号)
(90)【追記】
三年前出た『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一四板には、全くスピリキンスの条を除いた。近年この遊戯がさらに行なわれないからだろう。田辺町辺でもさらに見聞しない。ただしやや似た遊戯は、予の少時より今も多少行なわれおる。これをキンフリと号し、小児はもとより、大人も往々食品などを賭けてこれを玩ぶ。まず将棊《しようぎ》の駒を無造作に積み聚め、拇戦《ぼせん》に勝った者が一番に、指もておもむろに一々その駒を抜きとるに、少しでも他の駒を揺かせば失敗となり、次の人代わって抜きとる。抜き取った駒が玉だったら、その五側面を底にして、順次転がし立つること二度、それが無事にすめば、その駒初めてその人の物となる。そのあいだ駒が扁《ひら》たく仆るれば失敗として、次の人が転がし立てて試みる。抜き取った駒が飛車また角ならば、右同様に五側面を底にして、一度だけ転がし立つるを要し、その他の駒は一切ただその基を底として無事に立て得さえすればその人の所有となる。かくて、積み聚めた駒がことごとくその人々の所有に帰したのち、金将の駒四枚を人々順次に両掌間で振って抛げ、その俯仰の多寡に随い、人々の持ち駒の総価が、あるいは増し、あるいは減じ、その一人|終《つい》に破産するに至って止む。この嬉遊は勝負のつくまで久しく懸かり、しばしば倦んでくるから、四枚の金将をふるに及ばず、積んだ駒を抜き取るだけで、勝負を定むることあり。それだけの遊びをツミ(積)と名づく。『嬉遊笑覧』四の盗み将棊のことだろう。(昭和七年十月二十日夜)
月見の祝儀
『関秘録』巻四、月見の祝儀の条にいわく、「諸家の男女、十六夜の月を見て袖留むるなり。その夜碁盤の上に賀茂川の青石を二つ置いてこれを踏み、饅頭あるいは丸茄子の中を丸く穴をあけ(萩の箸にてくり明くるなり)、その穴より月を見てのち袖を留めらる。これによって袖留めの祝儀を御月見の祝儀と言うなり」と。
(91)(『川柳末摘花』第三編に「雪隠《せついん》へ下女が茄子《なすび》で穴があき」とは、吉舌過長のものを茄子開《なすびつび》とよぶをこの作法に寄せた滑稽だ。)
インド・グジャラット地方のヒンズー人は、その暦の三月、望日未通女家の屋楼上で手ずからその夕食を調え、その食団の真中に明けた穴より月を覗くと同時に、「満月の精よ、米と豆を合わせて楼上で煮、この兄弟の姉妹が自分の食を食う」と繰り返し誦す。その食団とは、通例米と乳を合わせ煮た物、もしくは米を乳で煮たるに砂糖を加味し、または麦の麁粉を水またはギー(牛酪を煮澄し油様にした物)で煮、砂糖か糖蜜で味つけた物で、その未通女がこれを食うに先だち、その兄弟の許しを得るを要し、兄弟これを許さざれば終日断食す。この式を行なえば、行なう女の兄弟や未来の夫が長生すと信ぜらる(Enthoven,'Gujarat Folklore Notes,'vol.i,p.18,Bombay,1914)。
日本の月見の祝儀は何のためにしたと明記がなけれど、インドの例に似たところから推すと、その男女の未来の妻や夫の長寿を月に祈ったのが本体であったものか。
(大正八年十月『人類学雑誌』三四巻一〇号)
(93) マンモスに関する旧説
一八三三年ベルリン板、ゲー・アドルフ・エルマンの『世界周遊記』一巻七一〇頁に、シベリアのオブドルフ辺のことを述べて、この辺にマンモス牙多し、住民刻んで、橇《そり》とその付属品の骨とし用ゆ、海岸の山腹浪に打たるる時、露われ出ずることしばしばなるを、サモイデス人心がけ往き採るにより、彼輩これを海中の原産物と心得たり、と言えり。
またいわく、北シベリアに巨獣の遺骨多ければ、土人古えその地に魁偉の動物棲みしと信ずること固し。過去世の犀 Rhinoceros tichornus の遺角、鉤《かぎ》のごときをもって、その地に往来する露国商人も、土人の言のままにこれを鳥爪と呼ぶ。土人中ある種族は、この犀の穹窿せる髑髏《どくろ》を大鳥の頭、諸他の厚皮獣の脛骨化石をその大鳥の羽茎と做《な》し、彼輩の祖先常にこれと苦戦せることを伝え話す。この辺に金を出だせしことあれば、ヘロドツス、三巻一一六節に、怪禽グリフィン(半鷲半獅という)ヨーロッパの北にすみ、黄金を守るを、一目民アリマスピアンスこれを窃《ぬす》み取るとみえたるは、これらの遺骨に基づける訛伝ならん、と。
支那にも、北方に一目民あるといい、また西海の北にありといい、小人鳥に呑まるることを言いたれど、一目民が鳥と闘う話なし。(『和漢三才図会』巻一四、「東方に小人国あり、名づけて竫《せい》という。長《たけ》九寸、海鶴遇いてこれを呑む。故に、出ずる時はすなわち群行す」、「一臂国は西海の北にあり、その人、一目一孔、一手一足、云々」、「一目国(94)は北海の外、無※[啓の口が月]《むき》国の東にあり、その人、一目その面《かお》に当たって、手足みな具われり」。いずれも、明の王圻の『三才図会』より引けり。)北洋に鯨族今も跋扈《ばつこ》するに、マンモスをも海中にすむと信ずる民あると、右の過去の巨鳥の誕《はなし》を合わせ攷うるに、荘周が「北の冥《うみ》に魚あり、その名を鯤《こん》となす(中略)、化して鳥となり、その名を鵬《ほう》となす」の語も、多少拠るところなきにはあらじ。
『淵鑑類函』巻四三二、「東方朔『神異経』にいわく、北方に層冰万里、厚さ百丈なるあり。?鼠《けいそ》あって氷下より出ず。その形は鼠のごとく、草木を食らう。肉の重さ万斤、もって脯《ほじし》となすべく、これを食らえば熱を已《や》む。その毛、長さ八尺ばかり、もって蓐《しとね》となすべく、これに臥せばもって寒を却《しりぞ》くべし。その皮、もって鼓に蒙《は》るべく、その声《おと》千里に聞こゆ。美しき尾あり、鼠を来《まね》くべし(この尾のあるところ、鼠すなわちここに入って聚《あつ》まるなり)」。氷の厚さ百丈、氷下の大鼠、肉の重さ万斤など、大層な談《はなし》ながら、全文の要はマンモスを意味するに似たり。百年ばかり前、シベリアで一マンモスの全?氷下より出でし時、熊集まり来たりてその肉を啖《くら》いしと聞けば、「もって脯《ほじし》を作り、これを食らうべし」の一句、さまで怪しむに足らず。毛皮を蓐とすというもまた然《しか》り。北方の古人、象を見しことなければ、これを鼠の類とせしならん。
『晋書』に驢鼠の記あり。驢山の君なり。大いさ水牛のごとく、「灰色にして卑《ひく》き脚をし、脚は象に類す、胸前尾上みな白く、大力にして遅鈍」、来たつて宣城下に到りしを、太守殿浩人をして生け擒りせしめ、郭璞《かくはく》に卜わしむ、と。予惟うに、『晋書』は二十一史中もつとも無稽の談に富めるものと称せらるれども、すべて全く種なき啌《うそ》はつけぬものにて、上文記載するところ、正に今日マラッカおよびインド諸島に産する獏《タピルス》に恰当《こうとう》せるは、現に大阪動物園に畜《カ》うところを観て、首肯すべし。『本草綱目』などに、二者を別条に出せるは、実物を見ざりしによる。この獏というもの、現今全く足底相対する最遠距離の二地方(上に記するところと中南米)を限りて、僅々数種を存するのみなれど、以前は広く北半球に瀰漫し、種数も多かりしこと、化石学の証するところたり。よって察するに、『梁書』にいう、「倭(95)国に、山鼠の牛のごときあり、また大蛇のよくこれを呑むあり」も、多少拠るべき事実ありしにて、その獣は今日跡を絶って、空しく外国の史籍に留めたるならん。
マンモス牙がわが国に齎《もたら》さるるは、今日に始まるにあらず。二十余年前、日光山に詣でし折、幕政時代に蘭人が将来せるものの由にて、たしか二本、神庫にありしをみたり。(明治十八年七月十六日自分参詣の記に、拝殿を出て右し、舞屋に如《ゆ》く、ここに宝物を陳列して衆に示す、云々、とあって、次にその名目を挙げた中に前世界大象牙とある。)
(後記)古え中国の人、象を見し者なく、その形をいろいろ想像せしゆえ、象と名づくということ、『呂覧』か『韓非子』にて見しと覚え、象を見しことなき者が、マンモスや獏を鼠の属とするは、止むを得ざることにて、八丈島の人が馬を大きな猫と言いしに等し。
(明治四十二年七月『動物学雑誌』二一巻二四九号)
【追記】
鼠属とその近属クニクルスやクリケツルスなど北アジアの土に穴居するもの多く、外貌鼠に近きムグラモチやヒミズは不断地下に動静し、支那人、?鼠《ふんそ》、??《くせい》など名づけて全く鼠扱いにすること久し。よって西漢時代、すでにシベリアのマンモスが地下にもっぱら住むと聞き伝え、これをムグラモチの巨大なものと考えて、特種の鼠としたものと惟うた。しかるに『大清一統志』三五五、鄂羅斯《オロス》(露国)の条に、「麻門?窪(ママント)、華の言《ことば》にて鼠なり」とあれば、マンモスを巨鼠と見立てたは北地住民で、支那人の創作でないらしい。すなわち『神異経』には北地住民の説を伝え記したのだ。さていわく、「極の東北にして海に近き処、牙特庫の地に産す。身《からだ》が大いなること象のごとく、重さ万|?《きん》あり。地中を行き、風を見ればすなわち死す。つねに河浜の土の内にこれを得。骨の理《きめ》の柔ら潤にして潔白なること、象牙に類す。かの人、その骨をもって、製《つく》って椀、?《さら》、梳《くし》、箆《くしへら》の類となす。肉の性きわめて寒にして、これを食らえば煩熱《はんねつ》を除くべし。この地最も寒しという。北海の大洋を距たること一月の程《みちのり》(96)なり。昼は長く夜は短し。夜もまたはなはだしくは暗からず。日落ちて夜深しといえども、なお博奕《ばくえき》をなすべし。数刻ならずして、東方すでに曙《あ》く」と。
法螺も大分|雑《まじ》っておるが、マンモスをよく記載しおる。漢医説に極寒性の物は淫慾を消すというから、如今世上みなこれのみなるエロ党撲滅に、マンモス肉を食わせたら神効があるだろう。それから右の文中、「風を見れば、すなわち死す」。風がみえるものかとハリコミかかる人もあらんが、大正十二年の『太陽』、「猪に関する民俗と伝説」中に説きおいた通り、英国で豕《ぶた》の目はよく風を見るという俗信あり。沍寒《ごかん》の地で拙者なども実際風をみたことがあります。また蟻に尿道を咬まるると、陰茎が夢をみるという奇事も経験した。こんなことは自身で難行苦行して初めて識る。猥りに俗士庸衆に説くべきにあらざるなりとけつかる。(昭和七年十月二十八日記)
(97) 猫一疋の力に憑って大富となりし人の話
ホイツチングトン物語は、わが紀文大尽伝と等しく、英国で誰も知れる成り金譚なり。予このごろ一篇を綴り、ロンドンの『ノーツ・エンド・キーリス』に遺《おく》り、この物語の起原を論じたるを、柳田国男氏の勧めに従い、いささか増補して貴誌に寄す、採録あらば幸甚なり。
この物語の大概は、ジック(リチャードの略)・ホイヅチングトン少にして孤なり。富商サー・ヒュー・フィツヴァレンの厨奴《ちゆうど》たり。主厨に虐せらるるに堪えず、脱走せしが、道側に息《やす》んで、ボー寺(ロンドン)の鐘声を聞きしに、ホイッチングトン主家に還らば、三たびロンドン市長たらんと言うがごとし。よって主家に還る。その後ほどなく、主人の持船出航に莅《のぞ》み、ホイッチングトン、唯一の所有物たる猫一疋を船長に委托す。その船バーバリーに到りしに、国王宮中に?《はつかねずみ》多きを憂うる最中なりければ、高価もて猫を買えり。船帰るに及び、ホイッチングトン猫の代金を受け、商売の資本に用い、大富となり、主人の娘を娶り、その業を紹《つ》ぎ、男爵に叙せられ、三度までロンドン市長となりしとなり('Webster?s lnternational Dictionaru of the English Language,'Springfield,1896,p.1715)。一六〇五年出板で現存せざる戯曲'The History of Richard Whittington'以降、この話おいおい俗間に大いに持て囃さるるに及べり(今年出板『大英類典』二八巻六一五頁、下同じ)。
ホイッチングトンの史実はすこぶる物語に異なり。いわく、この人もと孤貧ならず、ウィリアム・ホイッチングト(98)ン男《だん》の子、十四世紀に生まれ、一四二三年死せり。営業は雑貨商にてすこぶる富めり。一代に四回までロンドン市長となり、しばしば英皇ヘンリー四世と五世に大金を貸しつ。世伝に、一四二一年、この人ヘンリー五世夫婦を饗《もてな》し、宴|畢《おわ》って、かつて彼に貸すところの六万ポンドの証文を焼きて誠忠を表せり、という。子なかりしをもって、死に臨んで一切財産を公益慈善の事業に遺《のこ》せり。生存中の善業また多かりしゆえ、後世その徳を称することおびただし、と。
英人、故クラウストン(W.A.Clouston,'Popular Tales and Fictions,'1887,vol.ii,pp.65-78)、欧州諸邦に行なわるる本話の異伝数多く挙げたり。今その露国に伝われるを引かん。いわく、貧孤児あり。富人に事《つか》うること三年、賃金三|厘《コペク》を受け、児輩が猫を苦しむるを見、三|厘《コペク》を挙げて買い取る。去って他の商人に傭わるるに及び、その商人たちまち暴《にわ》かに富めり。商人利を求めて長航海に出立せんとし、船中の?《はつかねずみ》を駆るために、孤児の猫を伴い去る。遠国に着し旅宿に舎《やど》せしに、主人そのはなはだ富めるを見て、?《はつかねずみ》と鼠群棲せる寝室に臥さしめ、夜中食い殺されんことを冀《ねが》う。さて翌朝往き見るに、商人安穏にて?鼠《けいそ》ことごとく横屍《おうし》し、猫、商人の腕上に喉鳴らしおれり。宿主大いに驚奇し、一嚢の黄金もて猫を買い取る。商人事済んで航し還る。船中おもえらく、かかる大金をかの孤児に渡すは愚なり、と。よってこれを私有せんと決心するに、たちまち暴風起こり、船まさに覆らんとしければ、大いに悔を天に祈り謝罪し、風すなわち止み、帰国を得たり。よって正直に大金の猫代を孤児に授け、孤児大いに悦んで、まず多量の香を購い、焼いて、上帝に酬恩せり、と。
アヴァズラの『波斯《ペルシア》史』にいわく、シラフ市の人カイス、父の遺産を蕩尽し、二弟とともに市の対岸の小島に移る。のちこの島をカイスと呼ぶ。そのころの風として、商舶《しようはく》貿易に出る前に舶主《はくしゆ》貧民より多少の贈品を受け、なるべく上手にこれを他国で売り、事業成功して帰国ののち、贈品の価に利足《りそく》を付し、別に礼物を副《そ》えて貧民に与えたり。これ不在中、貧民朝夕商舶のために祈?しつればこそ、この贏利《えいり》ありしと信ぜるに由《よ》る。さて、一商舶あり、シラフよりインドに赴くに莅《のぞ》み、船長市中に残され貧しく暮らせるカイスの老母に贈り物を求めけるに、倅《せがれ》ども使い果たして、(99)これのみ存せりとて、一猫を与えつ。その船インドのある港に着し、船長その地の王を訪い、厚く贈遺せしかば、王悦んでこれを饗す。ここに珍事なりしは、卓上の皿ごとに、棒持てる僕《しもべ》一人ずつこれを守る。これ室中|?《はつかねずみ》多く、少しく油断すればたちまち食物を盗まるる故なり。船長これを見て思うところあり、翌日かの老母の猫を籠《かご》にし、持ち行きて放ちしに、殺獲《さつかく》無数なり。よってこれを王に献じ、その故を告ぐ。王大いに悦び、船長に賜物多く、別に土産珍宝と、女奴《によど》、貨銭、および珠?《しゆき》を積ましめ、かの老女に与えよと委任す。この船長しごく親切にて、帰港してただちに、王が遺《おく》れる諸物を老女に与え、老女|欣嬉《きんき》して三子を招く。しかるに三子すでに島地に多人を聚《あつ》め開拓しおりたれば、反って母をその島に招き徙《うつ》らしめ、この度手に入り来たれる財宝もて、船舶多く買い、広く海外に貿易し、また外国船十二を奪い取り、ついに海賊軍を編成す。爾後年々盛興して王国を建てしが、およそ二百年続きしのち、ペルシア帝に滅ぼさる、一二三〇年のことなり、と。
クラウストン結論していわく、上述の露国伝話をラルストン評しけるは、焼香等のことは、この譚の仏教に基づけるを示すとなり。これ真に近からん。ただしラルストンは、ペルシアにすでに史実としてこの話書ける物ありしを知らざりしごとし。想うにその根本たりし仏説は、支那を経て露国に達せしにや。ただし一方、ペルシアに伝わること久しくて、史実らしく持て囃されしほどなるに、今までこの種の物語インドより見出だされず。アジアの史書に小説を雑《まじ》うること多く、したがってカイスの母、猫に資《たす》けて卒《にわ》かに富めりという話、史実ならずと断ぜんに、この話|何方《いずこ》より来たりしか。インドよりペルシアに入りしや疑いを容れず。さればインドはホイッチングトン譚《ものがたり》の根源地にて、北は蒙古人、南はトルコ人を経て欧州に入りたるなるべく、その英国に行なわるるものは、北方伝来たること、ほとんど疑いを容れず。吾人はなお、この話の根本説がインドより見出ださるべきを期待す、と。
このクラウストンの期待に反し、今に至るまで、かかるインド原話が発見されざりしは、今年出板『大英類典』(上出)に明らかなり。いわく、あるいはいわく、この話の元は北海の貿易に猫《キヤツ》と名づくる船を用いしにあり、と。あ(100)るいはいわく、仏語アシャー(買入)とシャー(猫)と音近きに出ず、と。しかれども、トマス・ケートレー(Thomas Keightley,'Tales and Popular Fictions,'1834)は、少なくとも十三世紀にすでに猫が本主《ほんしゆ》を富ませし話、ペルシア、デンマーク、イタリアに存せるを証せり、と。この他別にインドに似た話あることを言わず。また件《くだん》の三国の外に、ブリタニー、ノルウェー等またこの話あるをクラウストンが証せるを引かず。クラウストン、またケートレーの発見を一言せざるは、いずれも麁略《そりやく》な仕方なり。
熊楠、このごろ一切経を抄写するうち、義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』巻三二、仏が愚路|?芻《びつしゆ》の因縁を説けるを読むに、次の物語あり。これおそらくは、仏在世すでにインドに存せし古話にて、仏滅後数百年|経《た》たぬうち、仏説に編入し記載され、その後種々変態を生じて、ペルシアと欧州諸邦の、猫によって巨富となりし人の物語となれるものなるべし。
いわく、むかしある村に富人あり。妻を娶って久しからぬに、男子容貌端正なるを生む。すでに子ある上は自然費用多かるべしとて、海中に往きて珍宝を求めんとし、妻も承諾す。富人|念《おも》うに、もし多く財を留めて婦人に与えなば、必ず驕《おご》り出で、ろくなことあるまじとて、少許を妻に与え、同村に相|識《し》れる一商主に悉皆《しつかい》余財を預け、告げていわく、予が不在中妻子|究乏《きゆうぼう》せば済《すく》い給え、と。さて財貨を持ち、大海を航せしに、破船して死しおわりぬ。金預りし人は、一向死人の妻子に構わず、かの富人の妻、親族の力を仮《か》り、自営して子を育てけるが、ようやく長じて、母にわが先祖は何して暮らしたるぞと問う。母しかじか海を航して交易せりと答えなば、この子また海中に往き、遭難すべしと憂いて、汝の先祖はこの地にて商売したりと答う。子、母に白《もう》して、われに銭を与えよ、われも商売せんと乞う。母いわく、われ今まで貧にして、親族の力を仮り、わずかに汝を育てたり、汝に与うべき財物少しもなし、ただしこの村の某甲《ぼうこう》商主は、もと汝が父の知人なり、往きて助力を乞え、と。
子すなわち商主の家に詣《いた》る。時に、この商主より三度銭を借り、三度利を失いし人あり。商主|瞋《いか》ってその人を召し、(101)叱責最中なり。ところが家婢、糞掃《ごみ》とともに死せる鼠を持ち出て棄てんとす。長者これを見てかの人に向かい、汝知らずや、金儲け上手な者はこの下女が棄てに往く鼠一疋を資本としても、大身代を仕上ぐるぞと詈《ののし》る。かの若者これを聞いて、もっともなことと感じ、婢の跡に随い行き、坑《ほり》に棄てし鼠を拾い、大市中に到る。ある家に、饑えたる猫を柱に繋げり。鼠を示すに欲しがりて跳り廻る。主人出で来たりて一|捧《ほう》の豌豆《えんどう》をもって死鼠と交易す。若者、瓦を熱し豆を煎り、衣裾《いくん》に?《つつ》み、冷水を瓶《かめ》に盛り、村外|樵夫《きこり》の停息すべき処に向かい、彼輩《かれら》の還るを待つ。日晩《ひぐれ》に樵夫群れ帰るを見て、若者、今日は暑かった、しばらく息《いこ》い給えとて、豆と水を与えければ、樵夫ら、小弟汝は何処へ往かんとするかと問う。若者われ薪《たきぎ》を取りに往くなりと答うるを聞き、時刻|晩《おそ》ければ、往くも益なしとて、おのおのの薪一把ずつくれたり。若者これを集めて一担《ひとにな》いとし、市に往き売り、得るところの貝歯《たからがい》もて豌豆を買い、ことごとく 煎り、冷水一瓶とともに持って、翌夕また樵夫に給す。樵夫ら大いに悦び、汝日々ここに来たれ、我輩おのおの一樵もて酬《むく》ゆべしと約す。かくしつづけて多く利を獲《え》つ。
この時若者諸人に告ぐ、兄らみずから柴を持って市に向かうは面倒はなはだし、すべてわが舎に積め、われためにこれを売り、計算して価を酬《むく》ゆるは如何《いかん》、と。諸人これに従う。ある時、七日雨降り止まず、柴の価大いに騰り、多く贏利《えいり》す。この上柴を売って人に賤《いや》しまるるは面白からずとて、雑貨商店を開き、獲利|転《うた》た多し。これも恥ずべき業なりとて香具屋となり、また大儲け、それから両替店を開き、ますます繁昌し、他の両替店みな流行《はや》らなくなるゆえ、同業者嫉んで、鼠一疋から成り上がった店なればと蔑視し、鼠金舗主《そきんほしゆ》と綽号《あだな》す。一同集まりて、かの店あってはわれら廃業の外なし、何とか彼を激して、その父同前、航海貿易して、難船で死せしめばやと議定す。よってともにかの店近く、話の聞こえる処に赴き、大声で話すらく、すべて世の中を観るに、先祖の偉業は、必ず子孫の代に及んで、日に衰え往く。たとえば、最初象に乗ぜし富人も、だんだん馬に乗るようになり、次に駕籠と変わり、終《つい》には膝栗毛《ひざくりげ》で徒歩するがごとし。この鼠金舗主も、先祖以来、みな大海に入って好珍宝を齎《もたら》し、みずからも富み、人をも済《すく》い、(102)遠近に称歎されつるに、この人はようやく小さき店で、貝歯《たからがい》の両替なんてけちなことで暮らし、日夜「チョウチョウカイノカイノ十丁《じっちよう》十丁」などと、貝の勘定をやらかし、辛苦|生《せい》を求むるが好き実例じゃ、と。舗主《ほしゆ》これを聞いて諸人に尋ね、先祖の委細を知り、黙然家に帰り、母に、わが先祖は航海貿易して富人たりしか、と問う。母さては誰かに聞きしと見えたり、この上隠し立ても無用と惟い、いかにも祖先みな航海して大富たりしと答う。
これよりその子、海に入りて珍宝を求めんと言い張りて止まざりければ、母ついに許可す。ここにおいて大舶を調え、長風に乗じ、ただちに宝洲に至る。(原文ここに、商主|柁師《だし》をして広告せしむる語中、乗舶者の一族知友、僮僕《どうぼく》等、そのために沙門《しやもん》、婆羅門《ばらもん》等に給施し、善根を植ゆべしという言あり。上に引きたるシラフの貧民、朝夕商舶のために祈?せる風と合わせ攷《かんが》うべし。)多く珍宝を収むること、稲麻穀豆のごとく、すなわち船中に傾置して、贍部《せんぶ》に還る。かくのごとく前後七度みな安穏に事遂げ、鼠金舗主、大富無双となる。その母、汝もはや妻を娶れと勧めしに、子答えて、われ債を還してのち、母の教えに随わんと言う。母、汝、祖先以来他人に負債せしことなかりしと訝《いぶ》かるに、子われみずから債あるを知れりとて、金、銀、玻?《はり》、琉璃《るり》の四宝もて鼠四疋を造り、銀盤に砂金を満《み》てたる上に置き、みずから持って父の旧識なりし商主を訪う。その時あたかもかの商主諸人と会し、諸君知れりやと、かの鼠金商主大福徳あり、もし瓦石を執《と》るもことごとく金宝に成すと、大法螺《おおぼら》最中のところへ、門番の案内で鼠金商主入り来たり、宝鼠、金盤を奉っていわく、この鼠が永々|恩借《おんしやく》の資本、金盤は利足、よろしく改めて受け取り下されませ、と。商主これを聞いて大いに痛み入り、かつて金子を御用立て申せし覚えなしと言う。そこで鼠金子、われ十分覚えありとて、往日棄鼠を拾いし因縁を詳説せしに、商主、汝は誰の子ぞと問う。よって亡父の名を述べければ、商主いわく、汝すなわちこれわが知識《ちしき》の子、われよろしく汝を子とすべし。汝の父出立の日、多少の財物をわが処に置けるを、いまだ還さざりしとて、すなわち長女をもって彼に許して妻たらしめ、瓔珞厳飾《ようらくげんしよく》し、送ってその宅に至る、と。
この長話は、時代の先後より言わば、ベルシアおよび欧州諸国の「猫で成り金の物語」の祖先たること疑いを容れ(103)ざるがごとし。ただしペルシアと欧州の諸譚、みな猫を大働き手とせるに反し、鼠金舗主の富は鼠に主因すとせり。何故この大違いを生ぜるかを研究せんがために、予はこれら諸譚の根本地たるアジアにて、古え異宗教の諸民が、いかに猫と鼠を、あるいは愛しあるいは憎みしかを調査すべし。
只今予は田舎におり、身辺書籍完備せざるがゆえに、釈迦仏出世前のインド人が、猫と鼠をいかに扱いしかを知悉せず。ただ一つ知れるは、『マヌの法典』(西暦紀元前九百年、もしくは千年ごろ成ると J.F.Clarke,'Ten Great Rekigions,'1889,pti,p.101 に見ゆ)、すでに狡黠《こうかつ》なる猫が、発心《ほつしん》せりと詐称して、鼠を捕え殺す話を引けることなり(Gubernatis,'oological Mythology,'1872,vol.ii,p.54)。この話仏経にも出ず。『根本説一切有部毘奈耶破僧事』巻二〇等なり。『雑宝蔵経』巻三には、猫が山鶏《やまどり》の妻となり、これを紿《あざむ》き殺さんとせり、鶏は仏の前身、猫は提婆達多《だいばだつた》の前身、とあり。Tavernier,'Les six Voyages,'Paris,1676,tom.i,p.442 に、拝火教徒《ゲーベル》は、蛇、蝮《まむし》、蛙、蟾蜍《ひきがえる》、蟻、蝦《えび》、鼠、?《はつかねずみ》等を忌む。特に猫をきわめて魔性ある獣とて嫌い、鼠?《そけい》がいかに家内を荒らすも、むしろこれを寛容し、猫を宅に飼うことなし、と言えり。梵教、もと拝火教と同根に生じ、諸事一致せること多きを攷うるに、古梵教徒もまた、かくのごとく、猫を忌むのあまり鼠属を寛恕せしならん。『大英類典』一一板二八巻七五五頁に、今日インドの妖巫は猫を使う、とあり。かつてインドの回教徒は猫を好遇するに反し、ヒンズー教徒(梵教の紹続人)は甚《いた》くこれを虐待するの状を筆せるを読みしことあり、V.Jacquemont,'Voyage dans l'Inde,'Paris,1841 か F.G.Younghusband,'The Heart of a Continent,'London,1896 と記臆す。
仏教|原来《がんらい》梵教に抗して起こりたれど、はなはだ教義に障《さわ》らぬ限りは、無数の作法・伝説を梵教のまま襲用したり。されば猫を忌み鼠を恕すること、また梵教に基づけるか。仏教ことに殺生を忌み、弱者を憐れむこと、一層この風を助長せしなるべし。『大勇菩薩分別業報略経』に、「邪貪にして厭《あ》き足ることなく、両舌《にまいじた》にして親友を離す」、『分別善悪所起経』に、「怪貪《けんどん》にして邪誑《じやおう》、多く盗賊を行なう」、かかる人死後猫となる、とあり。『根本説一切有部毘奈耶』(104)巻四六には、世を欺きし法師、死して猪に生まる、と言えり。本邦の俗伝に、仏涅槃《ぶつねはん》の時、諸畜生これを悲しみしに、猫のみ笑いしとて、涅槃相の絵にこれを描かず。猫これを歎き、兆殿司《ちようでんす》に請いしゆえ描き入れたるが東福寺とかにありという。また、猫死人に近づけば死人|起《た》ちて踊るなどいう(欧州にも似たことあり。Tozer,'Researches in the Highlands of Turkey,'1869,vol.ii,p.85)。慶長中に筆せる『猫の草紙』に、猫はインドより来たれりと言えるなど参考するに、かかる迷信はインドより徙《うつ》れるものか。『宇多天皇御記』、「寛平元年二月六日、太宰少弐源精、秩《ちつ》満ちて来朝す。献ずるところの驪猫《りびよう》一|隻《ぴき》、云々、先帝愛翫したまう。数日の後、これを朕に賜う。朕、撫養すること今に五年、毎旦《まいあさ》これに給するに乳粥をもってす、云々」などあるを見合わすべし。
支那には、『礼記』郊特性第二、?《さ》の祭を説けるに、「古えの君子は、これを使いては必ず報ゆ。猫を迎うるは、その田鼠《もぐらもち》を食らうがためなり。虎を迎うるは、その田豕《いのしし》を食らうがためなり。迎えてこれを祭るなり」。これ古え支那に猫崇拝の俗ありしなり。仏教入るに及び、上述インドの風に染まり、猫を魔物とせり。『北史』にいわく、「独孤陀《どつこだ》、性、左道を好む。その外祖母の高氏、先に猫鬼に事《つか》う。転じて陀の家に入り、つねに子《ね》の日の夜をもってこれを祀《まつ》る。猫鬼はつねに人を殺し、その財物を取り、猫鬼に事《つか》うるところの家に置く。鬼もし人に降《くだ》れば、すなわち面《かお》は正青《まつさお》にして、牽曳せらるるがごとし。陀のちに敗れ、死を免る」。『朝野僉載』にいわく、「隋の大業の季《すえ》、猫鬼のこと起こる。家に老猫を養い、厭魅《まじない》をなし、すこぶる神霊《ふしぎ》あり。たがいに相|誣告《ぶこく》す。京都の県邑の誅戮《ちゆうりく》せらるる者数千余家、覇王秀もみなこれに坐す。隋室すでに亡び、そのこともまた寝《や》む」。(『淵鑑類函』巻四三六に引けり。)Filippo de Marini,'Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,'Roma,1665,p.134 にいわく、東京《トンキン》国の俗、除夜に閾上に仏と猫を描き、鬼が家に入らんとするを防ぐ、と。けだし東京にも、古え支那と等しく、猫崇拝の風ありし遺痕なるべく、たまたまもつて、ネーリング博士が、家猫二源あり、一は東南アジア、一は西北アフリカより出でたりという説を確かむるに足りなんか(『大英類典』五巻四八八頁参照)。
(105) 回教徒が猫を好遇すること、すこぶる梵教、仏教、拝火教諸徒に反せるは、所見多し。例せば、A.G.Busbequius,Travels into Turkey,'London,1744,p.140 にいわく、トルコ人は、狗《いぬ》を猥褻汚穢の蓄とし、これを卑しめども、猫を貞潔温良の獣とす。
熊楠案ずるに、いかに賢き犬も、猥行の節人目を憚らず、しかるに猫は交会の状を人に見することはなはだ稀《まれ》なり(A.Lacassange,"De la Criminalité chez les Animaux,"Revue Scientifique,3me sé rie,tom.iii,p.37)。
事の起りは、マホメット猫を特愛し、かつて机上書を読みしに、猫その袖上に睡れり、礼拝の時到って起《た》たんとせしが、猫を覚《おこ》すを憚り、袖を切って寺に赴けりとは、漢の哀帝が、董賢を嬖幸《へいこう》して、ために断袖せしと、東西好一対の談なり。バウムガルテンの記行'The Travels of Martin Baumgarten,'in Churchill,'Voyages and Travels,'1732,vol.i,p.428 にいわく、予輩ダマスカス市を歩行せし時、壁を取り廻らせし大屋に猫充満せるを見、老翁にその所由を問いしに、答えて言いしは、マホメットここに住みける時、常に袖中一猫を安置し、これを撫で養い愛せり、けだし猫の所為を観て自分の動作を制せしなり。回教徒これに倣《なら》い、争って猫を飼い崇奉し、これに食を与うるを、ことのほか善業とす。もし猫を飼いて餓えしむる時は、その人上帝に見放さるとなす。故に市場に猫に飼わんためとて、牛の肉と肝また心臓を乞う者多し、と。ただしシリアむかしエジプト人に服しおりたれば、エジプトより猫崇拝を伝来せしならん、と。
支那語、古エジプト語、ならびに猫をマウと呼ぶ、その鳴声に拠るなり。Notes and Queries,8th ser.,xi,p.351 に、ある人寄書して、猫の睛《ひとみ》、日の高さに随つて増減変化するゆえ、古エジプトで猫を日の神の愛物とせしなり、と説けり。同巻一六と二三五頁に、支那とセイロンで、猫眼を視て時を知ることを言えり。『和漢三才図会』巻三八、『塩尻』巻一二等にも出でたり。
仏典には、猫と反対に、鼠を性|善《よ》き獣とせる例多し。少許を挙げんに、『仏説興起行経』巻下、また『大唐西域記』(106)巻六に、婆羅門《ばらもん》女、仏説法中に押し寄せ、仏われを妊ませたりと公言し、その膨《ふく》れたる腹を示せし時、帝釈《たいしやく》化して一鼠となり、女の衣に入り、帯を?んで、懐中せる盂《う》を落とし、化けの皮を顕わせり、と載す。薬師十二神将は、鼠頭神《そとうじん》を首とす。日本の俗、七福神中、大黒天あり、鼠を愛すと伝う。これもとインド仏寺の厨神なる由(『南海寄帰内法伝』巻一)。厨神、鼠を愛すとは、けだしインドの伝説に基づきしならん。
仏僧が鼠を愛せし例は、『続高僧伝』巻二〇、「岑闍梨《しんじやり》という者、『金光明経』を誦し、四天王の来たり聴くを感ず、云々。鼠百余頭みな馴《な》れ擾《したが》い、争い来たって人に就《つ》く。鼠の病むものあれば、岑、手をもってこれを摩?《な》ず」などあり。支那には、軍神兼福神たる毘沙門天《びしやもんてん》、鼠を使うとせり。『宋高僧伝』巻一、「天宝中、西蕃、大石、康の三国、兵を帥《ひき》いて西涼府を囲む。不空《ふくう》に詔して入らしむ。帝、道場に御《みゆき》す。空、香炉を秉《と》り、『仁王《にんのう》蜜語』を誦すること二十七遍す。帝、神兵五百|員《にん》ばかりの殿庭にあるを見、驚いて空に問う。空いわく、毘沙門天王の子、兵を領《ひき》いて安西を救う。云々。四月二十日、果たして奏していわく、二月十一日、城の東北三十里ほど、雲霧の間に神兵の長偉なるを見る。鼓角|喧《かまびす》しく鳴り、山地崩れ震い、蕃部驚いて潰《つい》ゆ。かれの営塁の中に鼠の金色なるあり、弓弩《きゆうど》の弦《つる》を咋《か》んでみな絶つ。城北の門楼に光明ありて、天王怒り視る。蕃帥大いに奔《に》ぐ、云々。よって諸道に勅し、城楼に天王の像を置かしむ。これその始めなり」。四十一年六月の『早稲田文学』六六頁に、予が言いたる通り、『理斎随筆』巻六、松永久秀、志貴の城に始めて天守を造り、また長屋を作る、志貴に毘沙門あり、よってこれを多門と名づく、とあり。田中博士は、天守の設備は永正ころよりあり、と述べらる。今案ずるに、唐玄宗の朝すでにこれありしなり。
また不空三蔵《ふくうさんぞう》より約百年前、玄奘三蔵が筆せる『大唐西域記』巻一二には、瞿薩旦那《くさたんな》国王が毘沙門天の後胤と自称する由言いて、金色の鼠その国難を拯《すく》いしことを記す。不空の伝に載せたるは、これより出でたるやらん。いわく、「王城の西百五、六十里、大沙磧の正路中に堆阜《おか》あり、みな鼠の壌墳地《つか》なり。これを土俗に聞くに、いわく、この沙(107)碩ぼ中に鼠の大いさ蝟《はりねずみ》のごときあり(『今昔物語集』巻五には、?遮那《くつしやな》国、鼠王、金色《こんじき》にして三尺ばかり、とせり。)その毛はすなわち金と銀と色を異《こと》にし(Metallicly Tridescent に恰当《こうとう》す)、その群の首長たり。穴を出で遊び止まるごとに、すなわち群鼠|従《とも》をなす。むかし匈奴の王、数十万の衆を率いて辺城を寇掠《こうりやく》し、鼠墳のかたわらに至って軍を屯《たむろ》す。時に瞿薩旦那《くさたんな》の王、数万の兵を率い、力の敵せざるを恐る。もと磧中の鼠を知る。奇とすれども、いまだ神とはせざりしなり。寇の至るに 泊《およ》んで、救いを求むるところなし。君臣震い恐れ、図計《はかりごと》を知るなし。かりそめにまた祭を設け、香を焚いて鼠に請い、その霊あって少しく軍力を加えんことを冀《ねが》う。その夜、王、夢に大鼠を見る。いわく、敬《つつし》んで相助けんと欲す、願わくは早く兵を治め、旦日《あすのあさ》合戦せよ、必ずまさに克勝《か》つべし、と。王、霊の祐《たすけ》あるを知り、ついに戎《ぶき》、馬、甲《よろい》を整え、将士をして未明に行き、長駆して掩襲《ふいうち》をせしむ。匈奴の聞くや懼《おそ》れざるなし。まさに乗《うま》に駕し、鎧を被《つ》けんと欲するに、もろもろの馬鞍、人服、弓弦、甲縺《よろいのいと》、およそその帯糸《ひも》は鼠みな?んで断つ。兵寇すでに臨み、面縛して戮《りく》を受く。ここにおいてその将を殺し、その兵を虜《とりこ》にす、云々。王、鼠の厚恩を感じ、祠《ほこら》を建て祭を設けて奕世《えきせい》遵《したが》い敬《うやま》い、特に深く珍異《くしきもの》とす。故に、上は君王より下は黎庶《れいしよ》に至るまで、みな礼を修めて祭り、もって福祐を求む。行きてその穴に次《いた》れば、乗《うま》を下って趨《おもむ》き、拝してもって敬を致し、祭りてもって福を祈る。あるいは衣服、弓矢、あるいは香華《こうげ》、肴膳《こうぜん》をもってし、またすでに誠を輸《いた》し、多く福利を蒙る。もし享《そな》え祭ることなければ、すなわち災変に逢う、と」。
この話|法螺《ほら》多けれども、多少の拠《よりどころ》なきにあらじ。中古まで、東トルキスタンに、金毛の小獣、やや鼠に似たるもの存せしならん。また、今日存するも知れず。鳥、魚、昆虫と異なり、獣類の毛色はあまりに多様ならざれど、虹彩《こうさい》ある金属色のもの、欧州の水麝鼠《すいじやそ》Desman, 日本のヤマムグラ Urotrichus, アフリカの金ムグラ Chrysochloris と食虫獺 Potamogale velox(以上食虫獣)、濠州の水鼠 Hydromys(?歯獣)、南米の二趾食蟻獣 Cycloturus およびピチシャゴ Pichiciago(ともに貧歯獣)等あり。また東トルキスタン人、実際鼠を崇拝せしは、前年、スタイン氏その遺墟より鼠(108)神像を掘り出し、これを証せり(M.A.Stein,'The Sand-Buried Cities of Khotan,'1903)。ついでに言う、欧州諸邦に、稀《まれ》に寒中、群鼠の尾、相連纏粘着して容易に解けず、異観をなすを、鼠王の冠と称す。E.Oustalet,'La Nature,'9 Juin,1900,pp.19-20 にその図解を出せり。
『松屋筆記』巻八一に、この故事を並べて、『吾妻鏡』巻一、治承四年八月二十五日の条を引けり。その大意は、平家方俣野景久、駿河国|目代《もくだい》橘遠茂と兵を合わせ、甲斐源氏を襲わんと、昨夜、富士の北麓に宿せしところ、景久並びに郎徒が帯せる百余張の弓弦、鼠に喰い切られ、思慮を失う。安田、工藤ら、これを討ちしに、弓弦絶たれて防戦する能わず、景久打ち負けて逐電す、となり。
以上、予はまず古インドに行なわれたる鼠金舗主の話を述べ、次に仏徒と回教徒が鼠と猫とに対する感想の異なる所以《ゆえん》を序せり。読者これによってまさに知るべし。仏徒間に初めて行なわれたる鼠が人を富ませし物語が、回教徒の手を経て変態し、ついに欧州に入って、ホイッチングトン等、「猫で成り金の譚《ものがたり》」と成りおわれるを。けだし回徒特に猫を好愛するより、これをもって仏徒談中の鼠に代えたるなり。両譚その源《みなもと》を異にせざるは、共通同似の箇所|尠《すく》なからぬを見て明らむべし。すなわち主人公の最初貧しく暮らせしこと、その暴富は、ある一獣と、航海貿易によれること、終りにかつて自分に不信切なりし人の娘を娶りしこと等なり。
(付言)『宇治拾遺』に、貧独の男、長谷観音に福を祈りけるに、七日目の夜、大士《だいし》夢に現われ、速やかに門を出で、手に当たる物を掴《つか》め、と誨《おし》ゆ。そのごとくせしに、門外に蹶《つまず》き倒れ、覚えず藁《わら》一本を掴んで起《お》き行くほどに、虻《あぷ》一つ飛び来たり離れず。よって藁もてこれを縛り、持ち行く。貴族の小児《こども》これを欲しがり、虻を取って代りに橙《だいだい》三つ賜わる。なお進み行く途上、婦人の渇に苦しむを見、ことごとくその橙を与えし礼に、布三疋を授かり、携え歩む。騎士あり、その好馬|暴《にわ》かに死す。その人|布《ぬの》一をもって死馬に代え、皮剥がんとするに、たちまち蘇る。これに騎し京に入るに、遠行のため馬を欲する人に逢い、馬を与えて、宅地、田畑を受け、かくて藁一本より身を起こして、大富と(109)なれりという。これあるいは、仏説の鼠金舗主成功譚に模倣して出来しものなるなきや。
(明治四十五年一月『太陽』一八巻一号)
【追加】
前号掲載の「猪一疋の力に憑って大富となりし人の話」の記事中、一六八頁、マホメットと猫の関係を述ぶる処、左の件々を脱漏せしにより、ここに追加す。
トルコ人|確《かた》く信ずらく、マホメット猫を愛し、一日|起《た》ちて礼拝に赴かんとして、猫の袖上に眠るを覚まさんことを憚り、断袖して堂に往けり、さて堂より還れば猫すでに寤《さ》めたり、マホメットを見て、たちまち起ちて背を穹窿《アーチ》にし、これを礼す、マホメットその意を悟り、必ず楽土に往生せしむべしと誓い、手ずからこれを撫でること三度、これより猫みな妙力を禀《う》け、いかに不意に落下するも必ず?《たなごころ》まず地に触れて失脚することなしと、J.Collin de Plancy,'Dictionnaire Infernal,'Bruxelles,1845,p.125 に見ゆ。わが邦で、猫が彩色原料の所在を教えて、兆殿司の涅槃相の絵中におのれを加え貰いしという譚にやや似たり。
十四世紀の初め、仏国で絶滅されたるテムブラールスの罪状中に、彼輩ボホメットの頭なる像を祀《まつ》れば、魔黒猫の形を現わし、彼輩と問答せりと、同書四三八頁に載せたり。去年出版の『大英類典』二六巻に拠れば、そのころ欧州人マホメットをボホメットと訛称し、人性を享《う》くる魔王と做《な》したるなり。惟うにこれまた十字軍の徒が回教徒とくに猫を愛重するを観《み》て生ぜし誤伝ならんか。
橘春暉の『西遊記』に、肥後と天草の間なる鼠島辺で三味線を忌む由載せ、昨年九月の『人類学雑誌』に、前田太郎君、平戸の安満岳、紀伊高野山等で、猫と三味線を忌むという本文を引きたり。猫もと外国より来たれるゆえ、わが国の山神これを忌みたる上に、仏教また猫を悪性の物とせるより、かかる信念を生ぜしやらん。
ついでに言う。前陳猫高処より落つるに必ず正しく地上に立ち得る、その動作の説明と写真図、一八九四年十一月二十二日の『ネーチュール』八〇頁に出でたり。好奇の士就いて見るべし。 (明治四十五年二月『太陽』一八巻二号)
(110) 支那民族北方より南下せること
『太陽』一月号八六頁に金沢博士、王者南面と言うは支那民族の南下を意味するの説あり。氏特に明言せざれど、多分は氏の独案より出でし創見ならん。
しかるに世には期せずして会すること多く、王者南面また支那人特に磁鍼《じしん》が北を指すを枉《ま》げて指南と号《なづ》けし等はたしかに支那民族が北より南に進入せし証なりと論じたる人、最《いと》晩《おそ》くとも二十年前欧州にありし。今その名を記せざれど、たしか女にて、バビロニアと支那の開化を論ぜる二冊本を出し、当時相応に売れたりと聞く。その時、予が件《くだん》の女史の説を補うとて『ネーチュール』に寄せたる書翰、一八九四年十一月八日の同誌三二頁〔"On Chinese Beliefs about the North"〕に掲げられ、現に眼前にあるをもって、約二十年後の今日、再び金沢博士の説を翼《たす》くるため次に訳出す。
当時この書翰を見て、米国ボストン大学総理(名は忘る。回教の経典に精通せし人にて、大英博物館《ブリチシユ・ミユゼウム》図書目録によれば、かつて人類は北極地方に初めて生ぜりという論文を出だせり)より熊楠の説|肯綮《こうけい》に中《あた》れりと感状を贈られ、かの人の友人オーブリエンも英国に存生中にて、その著『諸神の夜《ナイト・オヴ・ゼ・ゴツズ》』に同似の説ある由自筆にて教示されしも、大冊ゆえ借覧はしながら読み果たさざりし。よっていわゆる同似の説は何様《いかよう》なりしを知らず。当時在エジンポロ故楢原陳政氏も拙見を是認せられし、と福田令寿氏より聞けり。また面白かりしは、只今正金銀行ロンドン支店支配人たる巽孝之丞氏が当時拙文を読んで、なんだ、こんなむつかしい引用書類を挙げるまでもないものだ、北から支那人が討ち入って負軍《まけいくさ》に北へ退《の》いたから敗北だ、と言ったのは学説に合うておるが、日本人も北から来たので北をきた〔二字傍点〕と呼ぶ(111)のだと言ったは今に受け取りがたい。
支那の古礼、父母歿して葬るにその衣を易ゆる前復という作法を行なえり(『礼妃』檀弓篇等に見ゆ)。『周礼疏』に見ゆるごとく、復は招魂の法なり。司馬温公その委細を簡明に述べていわく、清浄なる衣を持って屋棟上に昇り、北に向かうて死者の魄《たましい》復《かえ》りたまえと三度|号《よ》び、その衣を巻きて持ち下り、かくして復したる魂を留めおくために帛紐《きぬひも》もてその衣を結び、生きた親に事《つか》うる同様飲食を器《うつわ》に盛ってこれに供え、その衣を尸《しかばね》に著《き》せて葬る、と。熊楠按ずるに、この復の法一つに支那上古の信念三つを包んで保存せり。第一に、死人の魂は呼べば復《かえ》るという信念で、近代までインドのホス、南洋バンクス島人、またフィジ人もかく信ぜり(ハーバート・スペンサー『社会学原則《プリンシプルス・オヴ・ソシオロジー》』三板、一巻八三章)。第二に、死人の魂を招ぶと同時に衣を結べば、その魂を留めて去らざらしめ得との信念。これは日本にも、『拾芥抄』に「魂《たま》は見つ主《ぬし》は誰とも知らねども、帯び留めつ下かへのつま」、「人魂を見る時、この歌を吟じて著《き》るところの衣の褄《つま》を結ぶべし。男は左、女は右」と見ゆ。第三に、インドのクキ人と同じく、支那人、上古幽界は北方にありと信ぜしなり。
支那上古の宇宙誌は今その詳を亡《うしな》えりといえども、儒教、道教ふたつながらその一斑を伝存せり。この二教ともに北方の神を玄冥《げんめい》と称う。『白虎通』に、玄冥は冥に入るの義、とあり。張華、道教の幽都方二十万里なるが北方の地下に存するを言い(『博物志』一巻二章)、段成式は「炎帝甲は北太帝君たり、天下の鬼神を主《つかさど》る」と言えり(『酉陽雑俎』巻二)。南斗は生を注し北斗は死を注すという俗信(『五雑姐』巻一)も、死人の魂は北に赴くという信念より出たらしく、したがって『演義三国志』巻三五所載、趙顔十九を死すべき天命を、管輅その美容を惜しみ教えて北斗に賂《まいない》せしめ、死すべき者の名簿に加注《かきいれ》しもらい九十九歳まで長生きせし譚《はなし》なども生じたるなるべし。密教に北を事業成弁の方とし、よって入涅槃の方と立てしも、あるいは人死して北に帰すとの古支那信念によるものか(『曼陀羅私抄』金剛界の巻)。
儒教の聖人孔子は幽界を全く不可知とせるもののごとし。子路の「死を問う」に答えて、いまだ生を知らざるにいず(112)くんぞ死を知らんと言い(『論語』一一篇)、子貢死者知るありやと尋ねし時、汝死んでのちみずから明らめえんに決して晩《おそ》くはあるまじと告げたる等その証なり(『風俗通』九巻九章)。孔子かくのごとく不可知論家《アグノスチク》たりしも、孔子およびその徒が輯述せる諸経中には、古支那人がもっぱら幽界北に存すと信ぜるを徴するに足るべき語句多し。例せば『礼記』檀弓篇に、北方に葬り北首するは三代の達礼なり、幽に之《ゆ》くのゆえなりと言い、『荀子』二八篇に死者の位牌を安《お》く室《へや》を北堂《ノルス・テムプル》(?原語忘る)と呼ぶ等これなり。「檀弓」に孔子歿して魯都の北に葬らる。都邑の北方に葬るは三代を通じて然《しか》り(『白虎通』四巻一〇章)。
ハーバート・スペンサーいわく、アフリカのダマラ人は、尸《しかばね》を理むるに顔を北向きにし、その祖北より来たりしを標《しる》す。南米のインカ人は、初め東よりペルーに入るゆえに、葬るに当たって尸の顔を東向きにし、先祖が住みし地に還らんことを期す。しかるに、本来のペルー土人はかかることを做《せ》ず、と(『社会学原則』一一二章)。けだし支那人の葬るに必ず北を尚びしは、その始祖が北方に起こりしを標すなり。『続博物志』八に、沮渠氏《そきよし》の王子の墓より出でし男女二屍は頭東に向かいおりたり、と載す。これ支那に住みながら支那人と別族の人たれば、葬るに北を尚ばざりしなり。スペンサー博蒐せる材料を考覈《こうかく》して結論すらく(一一五章)、他国に移り入りし諸民族は、その祖先が住みし地をもって自分らの楽土とし、身死してのち魏その地に赴くと信ずるが通例なり、と。想うに、支那人が北方に幽界ありとし、葬るに北を尚ぶもまたこの通例に洩れず、その祖先が北方より現住地に移動せしを証するものならん。
上古来、支那人は、北を陰の方とし、蟄伏《ちつぷく》、休止、幽陰、破壊等の方とせり。故に、五行説に水と冬を北の特質とし(『白虎通』二巻初章)、『呂氏春秋』に、北天を元天、西北天を幽天とし(元天は闇天の義なりしと記憶す)、『風俗通』に、帝王が崇拝する五嶽中、北嶽を恒山と言うを解して、「恒は常なり。万物の北方に伏蔵して、常あるなり」と言い、『鋭苑』巻一九には、北は殺伐の方位なればとて、孔子が子路の北音で琴を鼓するを戒めし由見えたり。およそ陰の最も多くの諸性質を兼備せるは死に勝《まさ》るものなし。されば北を陰の方位とする古支那人の理想は、死人を住所の(113)北に葬むるにより、死人を住所の北に葬むる古俗は、彼輩の祖先が最初北地より南下侵入し来たりしに起源す、と愚考す。 (大正三年二月『太陽』二〇巻二号)
(114) 戦争に使われた動物
一
只今の欧州大戦争が長びくについて種々の妙計奇謀も出で、中には珍無類の愚案も尠《すく》なからず発表されるが、場合次第ずいぶん実行の成りそうなのもあれば、実行されたのもある。ここにリヴァープール大学のポストゲイト博士が、昨年八月ロンドン発行『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』に一問を掲げたは、西暦紀元前一世紀に成ったローマのルクレチウスの長賦『デ・レルム・ナツラ』に、古人が象、野牛、野猪《いのしし》、獅《しし》等の野獣を戦争に利用したと詠んだ、このほかに古今かようの例ありや、とのことだった。よって予昨年十二月と今年四月の同誌に二篇の答文を出だし、第一には人が故《わざ》と謀って諸動物(主に鳥獣、そして牛馬等の知れきった例を除く)を軍事に使ったことを論じ、第二にはそう決著に特に使われたでなく、ありあわせた動物が戦争中の人間を偶然利益し、扶助し、もしくは敗亡せしめた例を説いた。爾後《そののち》もおいおい材料が集まったから、件《くだん》の二文を合わせた上、大いに増補して御覧に入れる。その中に某氏説某氏説と註せるは、いずれも予の答と前後してかの雑誌に載ったものである。また断わりおくは、カーター著『戦争奇事集《キユリオシチース・オヴ・ウワー》』に「戦争中の動物」なる一章あり、読んで見な、面白いわと教えくれた英人があったけれど、とても昨今手に入らず、したがって予のこの篇は少しもこの事の恩を蒙らず、記名諸氏の答文のほか一切の材料ことごとく熊楠みずから聚《あつ》め(115)たのである。
アベリストヴィス大学の古文学教授ベンスリ博士説に、上に引いたルクレチウスの賦に見える戦争に野獣を用いた一件は、古バビロニア人とパルティア人が軍《いくさ》した時のことという。しかしてこの伝説を解釈するとて、前面すこぶる広い両軍相対して曠野を走るに、獅《しし》等の猛獣が愕き起《た》っていずれかの軍隊に向いて逃げるのが、ちょうど敵に使われておるごとく想われたから生じたであろう、と論じた。東アジアで野生動物を戦場に繰り出した譚の最《いと》古きは、支那の黄帝が熊、羆《ひぐま》、豼貅《ひきゆう》、?虎《ちゆこ》等の猛獣を教えて炎帝と戦い克《か》ち、また応竜(翼ある竜)をして蚩尤《しゆう》を殺さしむ、というのだ(『史記』一。『山海経広注』一四)。註に、士卒を教え戦いを習わし、猛獣の名で名づけ敵を威《おど》したのじゃ、とある。米国のミッソリー・インジアンなど、族霊《トテム》崇奉に基づき軍隊に動物の名をつけた(英訳、ラツェル『人類史《ヒストリー・オヴ・マンカインド》』巻二)。ただし王維楨は、上古の聖人よく禽獣を馴《な》らす、その理自然にしてそれ誣《うそ》と謂《い》うべからず、と評した。
連年新年号に毎々書いた通り、あまり俗務で手が塞《ふさ》がりおらぬ暇多い人や金銭に居常《いつも》忙殺されぬ蛮夷などは、偉大な野獣や怖ろしい猛禽や鰐、鮫、大蛇までも馴らして使う例が多い。ピューマは西大陸の獅と呼ばるる猛獣だが、畜《か》い馴らしたのを予《みずか》ら睹《み》た。主人を慕い行《ある》くさま犬に同じ。ローマ帝国の盛時、虎に車を牽《ひ》かすこと行なわれた。忽必烈《クブライ》がしきりに弄んだ猟豹《チータ》も猛獣で、アフリカと南アジアの産だ。アフリカ人は猟殺してその皮を用うるのみ。しかるに、西暦紀元前九世紀ころよりペルシアでこれを使うて?鹿《しようろく》を取らしめてより、インド、蒙古まで大流行となった。眼を覆《かく》し車に載せて?鹿群近く伴れ往き、たちまち眼覆しを撤《と》れば駆け往きて?鹿を捉えること鷹使うに同じ。また誰も知る通り、現存の象は頭長く額|凹《へこ》み耳尋常大なアジア種と、頭短く額|凸《とびい》で耳すこぶる大なるアフリカ種と二様ある。二千百余年前、ハンニバルが用《も》つてアルプスを越えた象は、そのアフリカ種だった。けれども今日飼養役使さるるはただアジア種のみで、アフリカ象はその牙がことに巨《おお》きいゆえ間断《たえま》なく狩り苦しめらるるから、日ましに捨鉢気味になりきって暴《あば》れおる。同じくアフリカの産たる花驢《ゼブラ》は古来馴らし騎《の》った者なかったが、近年とうとう乗りおおせ(116)た人がある由承る。
ハックスレー、かつての講席で人間発達の測《はか》られざるを述ぶるとて、羊を殺して飽くことなき狼を畜《か》うて、羊を守って百に一を失わざる牧羊犬をシエパード・ドツゲ》を作り成した人間の前途は無窮悠遠だと寿いだ。本邦にも、狼より出たという犬種が熊野にある。寛政九年板、玉田永教著『御恩《みたま》の種《たね》』に、但馬《たじま》の養父《やぶ》大明神は狼を使い者とす、寛政六年、その社を造営せんと神体を仮殿へ移すに、狼二疋来たって供養せしは諸人の見聞するところなり、と見ゆ。大台原山、玉置《たまき》山、秩父|三峰《みつみね》等の例を合わせ考うると、これら山祠に古来お犬、山犬など唱え、なかば飼い馴らされた狼があったらしい(『東京人類学会雑誌』二九一号三二八頁、『人類学雑誌』二八巻二号一二二頁の拙文参照)。二十年ほど前、南パタゴニアの窟《いわや》から発見された巨大な貧歯獣グロッソテリウム・リスタイの皮と骨と糞は、ちょうど予帰朝の少し前英国に渡れるを睹《み》得た(図記の委細は、一九一一年板、プリチャードの『巴太臥泥亜通行記《スルー・ゼ・ハート・オヴ・パタゴニア》』に出ず)。その窟内の様子から推して、あまり遠からぬ世に土人に畜《か》われおったものであろうと言い、あるいは今も生存することと信ずる学者もある。現時土人は種々奇怪の説を立て甚《いた》くこれを怖れるに反し、過去の俗、別段何の用もないながら好奇心からこの巨獣をなかば馴育《じゆんいく》しおいたらしい。
さてすべて物の怖ろしいと愛らしいと、怖ろしくも愛らしくもないのとに一定の限界がなく、予などは実際自分の妻の顔を見ても怖ろしい時愛らしい時が猫の眼玉のように転変きわまりなしだ。されば、諸方の民多くは蛇を厭えども、インド人はこれを優美至れるものと賞讃し、欧人は蟾蜍《ひきがえる》をこの上なき醜かつ有毒なものと見るに、日本、支那等にはこれを福々しき貌《すがた》ありとて愛重する人が多い。『続史籍集覧』に収めた『武功雑記』下に、「秀頼公、河口に御出で候うて牛を御覧なされ御怖れ候うを如何《いかが》と沙汰あり。権現様(家康)御意に、すべて見つけぬ物を初めて見れば驚くものなり。秀頼公の牛を御驚きもっともなり。われらなども初めて見たらば牛などは別しておそろしかるべし」とある。これまことに適論で、プレスコットの『墨西哥征服史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》』を読むに、かの国民がわずかなスペイン(117)人に打ち従えられた重立った理由の一つは、従前《これまで》見たことなき騎兵を二頭八肢の異神が天降ったと誤認し恐縮したので、おいおい馬は死にもすれば傷つきもする、ただの畜類と判ってからは、土人も勢いを盛り返し、徒手で騎兵を襲撃するに及んだ。ピザロがキトに侵入した時、土人|夥《おお》く前途に立ち塞がった。その時一人の騎兵|過《あやま》って落馬せるを、彼輩《かれら》視て一つの生物が自在に身を二つに分かちうるものとなし、仰天して為術《せんすべ》を知らず呆《あき》れおるところを押し通った。西《スペイン》軍に取ってかの騎兵こそ怪我《けが》の大高名と言うべきなれ(プ氏『秘魯征服史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー》』二巻三章)。
『韓非子』六に、人生きた象を見んと希《ねが》えど叶《かな》わず、死象の骨を得、その図を按じて生きた象を想像す、故に諸人目視る能わず意《ここ》ろ》もて想像するものをみな象と謂うとあれば、現象などいう語はこれから出たらしい。右は韓非の牽強《こじつけ》かもしれぬが、とにかくこれをもって推すと、戦国のころ象は支那でちょっと見られぬ物だったと判る。唐の代に支那に往ったアラビア人の記に、支那に象なく、またこれを輸入するをも好まず、この獣来たれば凶事ありとす、と出ず(一八四五年板、レーノー仏訳『西暦九世紀|亜刺伯《アラビア》人|波斯《ペルシア》人印度《インド》支那航記』一巻五八頁)。しかるにインド人は象を吉祥とし、仏徒も、歓喜天は象面、普賢《ふげん》菩薩や帝釈天《たいしやくてん》の乗物は象、それから仏の大弟子を竜象に比《なぞら》え、如来自身を象王に喩《たと》えなどして、象を柔和慈仁なものとし敬愛するより、後世の支那人象を嫌い怖るることなきは古今人心が変化したのだ。
まずこの通りゆえ今日思いもよらぬ野生動物で、むかし畜い馴らされたのも多々あるべければ、上に引いた王維楨の評も多少はその理あり。それに加えて東西とも火器盛行せぬうちは、戦争に迷信虚儀作法を重んじたことおびただしく、もっぱら軍容の備わった方が単に無茶苦茶に強い兵よりも人心を帰伏させた。されば、ヘロドテがペルシア王のギリシア征伐行陣の体《てい》を記して、異方殊俗の勇士それぞれ固有の装いし練り歩むさまを詳述せるは、『仏本行集経』に、あるいは犀、象に騎《の》り、あるいは水牛に跨《またが》れる魔軍が菩薩を攻め来たる委細の筆録を出だせるに異ならず。実際の戦闘力よりも、祭儀行列風の壮観で敵勢を威圧するに腐心したと見える。しかしてわが源平時代と等しく、遊君、児《ちご》、若衆も多く随行したインドなどにこの風近世まで息《や》まず。ややもすれば象隊へ大砲を打ち込んだとか、食後|楊枝《ようじ》を使(118)う時間に会釈もなく襲撃したとか、欧人兵隊に対して軍《いくさ》の作法を弁《わきま》えざる由小言をあびせた(タヴァーニエー『六度旅行記《レー・シ・ヴォヤージ』)。
こんな訳だから、後世多人数に対して何の力もなき名刀や悍馬を大将一人持ってさえ大いに味方が心強かったごとく、ずっと上世には異態猛勇な野獣を随えて出陣すると敵軍大いに気《き》沮《はば》んだなるべく、それより禽獣を使うて戦いに克ったなど触れ散らしたことと惟《おも》う。タヴァーニエーがゴルコンダへ往つた時、城中に妓女二万人あり。税を納めぬ代りにかわるがわる王前に舞う。まことに稽古が積んで支?《しく》軽く軟らかなり。王マスリパタムへ行く時、九妓たちまち象体を組み成し、四妓は四脚、四妓は胴、他の一妓は長鼻と現われ、この仮象の背に王座を設け、王これに坐して繰り込んだ、とある。こんな軍容なら拙者も遣《や》ってみたいが、読者のうち誰かが金主になってくれまいか。
『史記』を補うとて唐の司馬貞が書いた『三皇本紀』に、「庖犠氏《ほうぎし》は竜の瑞あり、竜をもって官に紀《しる》す。神農氏は火徳の王なり、火をもって官に名づく」、『索隠』に、「黄帝は土徳なり、黄竜|見《あら》わる」、それから「その子|少昊《しようこう》の立つや、鳳鳥まさに至る。故に鳥をもって官に紀す」。これらは特に戦争に関することならねど、目出度《めでた》いことのあった時著しく現われた物を瑞としたので、勝軍《かちいくさ》に先だって現われた物を瑞としたのは、源氏がいつも鳩を瑞とし、南部氏の祖が舞鶴を家紋とした等、例多くある。ただし武田信玄は源氏ながら、信州発向に臨み鳩一羽庭樹に飛び下り、衆これを見て勇み立ち、出陣のおり鳩来たれば軍大利を得ざることなしと申すを、聞きもあえずみずからこれを銃《う》ち落とし出陣した。この後出陣に際し鳩来たらずば一同弱るべしと慮《おもんばか》ってのことという(『翁草』一)。『韓非子』に、勾践《こうせん》呉を伐たんとて越人の死を軽んずるを欲す。出でて怒れる蛙を見てこれに会釈し、かくのごとく勇気ある蛙は敬うべし、と言った。士人これを聞いて蛙の勇気あるをすら王が会釈する。いわんや士人の勇ある者をやと言い囃して興奮した、と見ゆ。一説には、斉の荘公、車に乗りて出猟する時、螳?《かまきり》足を挙げてその輪を搏《う》たんとす。御者、公に対《むか》いこの虫は向う見ずの命知らずだと言うと、公これは天下の勇虫だと讃めて車を廻しこれを避けた。あらゆる勇士これより公(119)に帰したそうじゃ。蜻?《とんぼ》が雄略天皇の臂《ただむき》を?《くら》い參らせおる虻《あぶ》を捉ったのを賞めて歌を詠み、そこを蜻蛉野《あきずのおの》と命《なづ》けたまいし由、『日本紀』にある。
これらいずれも武人のために吉兆と祝われたもので、なかんずく蜻?は『類聚名物考』二五八、銭を数うる異称の条、「四銭をハネと呼ぶ。礼家に言い伝うるは蜻蛉《とんぼ》結びを武器に用う。この虫を将軍虫と言う。その羽四なるゆえ言うにや」。『中原高忠軍陣聞書』に、「万《よろず》の革の先をば蜻蛉頭《とんぼがしら》にするなり。蜻蛉は先へ行きて跡へ帰らぬものなり。それに依りたる儀なり」。『皇都午睡』に、雄略帝鹿を射んとして虻に妨げられたまいしを、蜻蛉虻を喰い去って鹿を射たまう。今日の功により武具の紋に蜻蛉を付くべしと宣《のたま》いしより、今に弓道具に蜻蛉付けると言った。拙妻|話《はなし》に、その亡父言いたるは、蜻蛉を勝虫《かつむし》と呼び、自分長州征伐に行きし時故実通り下著の模様にその形を捺《お》した、と。またある人|話《はなし》に、むかしは具足櫃に必ず笑画《わらいえ》を入れた。陣中凶聞多く鬱悒極まる時、密《そつ》と眺めて一笑し心持|快《よ》くなれば戦いに勝つより、これを勝画と呼んだる由。
以上、東洋で軍中吉相と担《かつ》がれた動物どもだが、泰西にもこれに類したこと多く、そのうちにはずっと込み入った迷信が重畳したのも少なからぬ。十九世紀にコーカサスの聖将となって露軍を苦しめたシャミルは、大戦前ごとに三週間|屏居《へいきよ》断食して祈れば、回祖《マホメツト》が鴿《はと》形を現じて勝利の方策を教える、とみずから言った(ハクストハウセン『高迦索民族誌《ゼ・トライブス・オヴ・カウカサス》』英訳一二二頁)。古ギリシア人は鷲を大神ゼウスの使い者とした縁から、ファーサリアの戦いに鷲来たってポムペーの陣上に金色の電《いなずま》を落とし、シーザルの陣へ飛び往って大捷を予告したなど、軍中に鷲を吉兆とした例多く、那翁《ナポレオン》三世も鷲を馴らし教えて式場に自分の頭上に飛び来たらしめ、もって仏国将士の(120)心を収攬せんとしたことあり。ローマ帝国の大隊旗を単に鷲(アクウィラ)、これを持つ者を鷲持(アクウィリフェル)と呼び(第一図)、シャーレマンはアアシエン宮に青銅の鷲像を設け、まさに討たんと欲する国の方へその嘴を向けた。古メキシコのトラスカラ共和国の大旗は金鷲を画いた。郵便切手を集むる人が熟《よく》知《し》る通り、鷲を徽章とした邦古今多く、現時戦争中の仏、露、独、墺、それから米国みなこれを用う。『列子』にいわく、「黄帝、炎帝と阪泉の野に戦い、熊、羆《ひぐま》、狼、豹、?虎《ちゆこ》を帥《ひき》いて前駆となし、鵰《おおわし》、?《やまどり》、鷹、鳶を旗幟となす。これ力をもって禽獣を使うものなり」。上古支那でも猛鳥を旗としたのだ。プルタルクスの『列伝』二九によれば、セルトリウス、スペインを固めて久しくローマに対捍《たいかん》しえたは、主として白い鹿の児を神物として愛重し、毎度その夢の告げによって勝利を得と部下に深く信ぜしめしによった。『玉葉』五五に、春日社に詣ずる者鹿に逢うを吉慶第一とすとあれば、むろん藤原氏の将士は軍中鹿現ずるを祥瑞としたるべし。
鳥のことのついでに言いおきたきは戦役に大功ある伝書鴿《でんしよばと》で、バートン説に(『千一夜譚』第九六夜註)、一三二二年に成ったというマンドヴィルの紀行に、当時シリア国内の領主同士の通信にもっぱら鴿を用いたと見え、それより先に十二世紀の末|回主《カリフ》アル・ナーシル・リ・ジニラー甚《いた》く伝書鴿を好《す》いたというが、支那の方が大分早くこの鳥を記しおる。すなわち九世紀に筆せられた『酉陽雑俎』に 「大理丞の鄭復礼いわく、波斯(ベルシア)の舶上に多く鴿《はと》を養う。鴿よく数千里を飛行す。すなわち一隻《いちわ》を放って家に至らしめ、もって平安の信《たより》となす、と」とあればこの応用はペルシア人が発明実行したらしい。十世紀に成った『開元天宝遺事』に、「張九齢、少年の時、群鴿を養い、親知と書信もて往来するごとに、ただ書をもって鴿の足上に繋《つな》ぎ、教うるところの処に依って、飛び往きてこれに投ぜしむ。九齢これを目《なづ》けて飛奴となす。時の人、愛《め》で訝《おどろ》かざるなし」。しからば八世紀にすでに稀《まれ》に伝書鴿を用いた支那人があったのだ。『南唐近事』に、陳誨が任地を転《か》えた前一月かねて畜《か》いおいた鴿千余羽がことごとく先だって出発した、とあり。十四世紀の著書『輟耕録』が、l地方官へ遠方の父が鴿に托して書を送りしに、転任して今までの所に住ま(121)ず、鴿届け先を知らず盤桓《とびめぐ》るを小児が彈殺《うちころ》す。その父愕いてその書をかの官人に届けしに、われこの鴿を畜《か》うこと十七年、家書あるごとに数千里を隔つるもみなよく届けくれたと言った、と載せたのを見ると、宋元の世には伝書鴿|往々《まま》用いられたと判る。
真偽は知れぬが、鳥が書信を致した例は鴿に限らぬ。例の蘇武の雁書、百合若の鷹便りの外に、天竺の善友太子が鷹から母后の書を得たる(『源平盛衰記』)、唐の長安の富商任宗、旅して久しく帰らざりしに、その妻詩を書いて燕の足に付けると、燕遠くその夫に致し、夫感泣して帰り来たれる(『天宝遺事』)、ウェールスの勇士ミルンが天鵞《はくちよう》を憑《たの》んで二十年間情婦と慇懃を通ぜる(一八一一年板、エリス『古英国稗史賦品彙《スペシメンス・オブ・アーリー・イングリシユ・メトリカル・ローマンセス》』一巻一七四頁)等の諸譚あり。また『淵鑑類函』四二八に言う、宋の任福、道傍に数箇の銀泥合が密封され、中で何か動く様子なるを見、これを開くと家鴿《いえばと》百余たちまち出で盤《めぐ》り飛ぶを望み、卒《にわ》かに夏の兵四方から至った。また宋の張 汝、曲端の軍を巡見せしに一人もなし。浚|異《あや》しんで点検を望めば、端、その所部の五軍籍を呈す。浚命じてその一部を点ぜしめしに、端、籠から一の鴿を縦《はな》ったが、ほどなく点ずるところの軍隊が来た。浚驚いてことごとく招集せよと望むと、端すなわち五羽の鴿をみな縦つを見て、五軍|頃刻《しばらく》にして集まった、と。これ宋時の支那人、伝書のほかに信号としても鴿を利用したのだ。
火攻めに鳥類を使うた例は、『類函』二一三に、「按ずるに周亮輔《しゆうりようほ》纂『孫子』に、火墜を火隊に作る。註にいわく、戦いに臨むの時、火?《かほう》、火車、火牛、火燕の類を用いて、その隊伍を焚焼して乱れしめ、よってこれを撃つ」と言い、火禽とは胡桃《くるみ》の空殻《から》に艾火《ほくち》を充《み》て孔二つ開けてまた合わせ、野鶏《きじ》の頸下に繋ぎ、その尾に針さして縦《はな》てば草叢に入り器|放《やぶ》れ火発す。また『隋書』に載せた火杏とは、杏《あんず》の核《さね》を磨《す》って中空《から》にし艾《ほくち》を充《み》てて雀の足に繋ぎ、火を加え薄暮に群がり放つと、城塁に入って積聚廬舎《ものつみごや》に宿るうち須臾《しばらく》に火発するを言う、と載す。実に怪しからぬ危険思想じゃが、遣《や》って御覧《ごろう》じ、いけそうにもない。しかし、茅屋藁葺など多かつた世には、ずいぶん見事に成功しただろう。なかんずく燕は捷く飛ぶ上、事あるごとに必ず人家の巣へ還れば、件《くだん》の火燕の法で放火もたびたびあつたであろう。それ故(122)か燕を火性の鳥とした例少なからず。ペルシア人言う、むかし不信心なアラビア人が象軍を起こしてメッカを犯した時、上帝《アラー》燕をして熱石を堕として群象を滅尽せしめた、と(一八一一年板、シャーダン『波斯行記《ヴオヤージ・アン・ペルス》』八巻四八六頁)。
紀州では、燕、秋葉山の神使たり、殺さば火難に逢うと言い、近江、飛驛、阿波、薩摩でも然《しか》伝う(『郷土研究』二および三巻)。秦の始皇の時、呉宮の守吏火をもって燕窟を照らし誤って呉宮を焼いた(『類函』四二四)。川口孫治郎氏説に、飛驛は板葺、草葺屋根多き国ゆえ、烏が墓場に供えた?燭の余燼を銜《くわ》え去って屋上で味わうた屑より火災起こると言い伝う、と(『飛驛史壇』大正五年一〇月号二三頁)。『本草集解』に「蜀の徼《さかい》に火鴉あり、よく火を銜《ふく》む」とは、まさにこれだ。幼時、中山白川「営中問答」の講談を聴きたるに、このことの起りは、白烏を朝廷へ献じたのを郊外に放ちしに、たちまち火に化し京師を焼いたからだ、と言うた。北米のツリンキート種や西南濠州諸部土人の伝説に、最初火を人に伝えたは烏だという(『郷土研究』三巻一二号七三一頁の拙文を見よ)。要するに、古来鳥類が火事を起こしたことは多少あったに相違ない。欧州には、むかし軍中伝書に燕を用いたと言えど、放火に遣《つか》うたとは聞かぬ(グベルナチス『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』二巻二四一頁)。
東洋で猛獣を軍《いくさ》に用いた最も有名な例は、明治十一年ごろ全国小学教科書だった文部省の『万国略史』に図を出しあった昆陽の戦いである。王莽《おうもう》漢祚《かんそ》を簒《うば》い新室を立てた時、劉秀(東漢の光武皇帝)兵を進めて昆陽を徇《したが》えたので、莽その一族王邑、王尋二人をしてこれを伐たしめた。その節、「莽、天下のよく兵法をなすもの六十三家数百人を徴し、みなもって軍吏となし、武衛を選練せしめ、猛士を招慕す。旌旗《せいき》、輜重《しちよう》、千里絶えず。時に、長人|巨無覇《きよむは》あり、長《たけ》一丈、大いさ十|囲《かかえ》、もって塁尉《るいい》となす」。この者は、輅車《ろしや》載する能わず、三馬勝つこと能わず、太鼓を枕にして臥し、鉄の棒を箸にして食事した。また諸猛獣、虎豹犀象の属を駆って威武を助け、軍勢すべて百余万と称し、秦漢以来|師《いくさ》を出すの盛んなることこれに過ぎたるはなし、と『後漢書』にあれば、よほど行列に張り込んだのだ。王莽は古学を尚《たつと》んだ人だから、上古黄帝が熊羆狼豹を用《も》つて蚩尤《しゆう》を征《う》った伝説に倣《なら》うて虎豹犀象を繰り出したなるべし。しかるに、(123)いよいよ昆陽の戦いとなると、秀が敢死の者三千人とその中堅を衝《つ》き乱し、王尋を殺したところへ、城兵も打ち出で中外|鼓譟《こそう》の声天地を動かす。たまたま大雷風雨と来たので、虎豹みな股《あし》戦《ふる》え、?川《ちせん》に溺死する者万数、せっかくの大男巨無覇も巨獣象犀も総身へ智慧が廻らず、未曽有《みぞう》の大敗走を遂げた。
熊野で以前狼害しきりだった所の村老《としより》に聞くは、狼が夜間村に入ると牛馬その臭《かざ》を知って、少しも静処《しずまら》なんだ由。したがってこれを山神また獣王とし、鼠に咬まれた大患の者に狼肉の煎汁を飲ませた。シシリーでは狼の頭を戴く者大勇となるといい、ギルゲンチでは狼皮の靴を履かせば小児強く育ち、また一度狼に?まれた獣が生存しえば已後《いご》一切の創を受けず痛みを知らぬ、と言う(グベルナチス、二の一四六頁)。狼さえこの通りゆえ、それより猛き虎豹やそれより巨きな犀象は一層諸畜に懼れらるとしたのだ。『十誦律毘尼序』下に、六群比丘、獅《しし》、虎、豹、豺《さい》、羆《ひぐま》の脂を脚に塗り、象、馬、牛、羊、驢を驚走せしめ、われら大神力あるゆえと誇るを、諸居士罵りて言う、猟師の習い惡獣の脂を脚に塗り畜生をして?《か》いで驚走せしむ、と。また獅の皮の履は象を威すという(『毘奈耶雑事』一九)。ラヤード言う、クジスタンで獅近づき来たると、馬これを見ずとも大いに怖れて絆を切って逃げんとす。よって諸酋長、獅の皮を剥製して馬に示し、その貌《かたち》と臭《かざ》に狎《な》れて惧《おそ》れざらしむ、と(『波斯《ペルシア》スシヤナおよび巴比崙《パビロン》初探検記』一の四四三頁)。
臭を聞くばかりでさえかくのごとしだから、猛獣を偽造して馬や象を驚かしたのもある。唐の朱滔《しゆとう》は帛《きぬ》を絵《えが》いて獅の像を作り猛士百人に蒙《かぷ》らせ、鼓騒奮馳せしめて敵の車馬を乱し大いに破ったが、それより三百余年前支那兵|林邑《りんゆう》国を討った時、宗?《そうかく》謀って獅の形を製し象車を走らせ、林邑に克った。それから千余年前、城濮《じようぼく》の戦いに晋の胥臣《しよしん》虎皮を馬に蒙《かぷ》らせて楚の軍馬を驚かし大勝した。これに似た狂言を、日本人も海外でやらかしたらしい。『一話一言』一に『明清闘記』を引いていわく、暹羅《シヤム》、六昆両国、累年相伐って決せず。暹羅王その国にある日本人五百人をして六昆を攻めしむ。その辺の習い軍《いくさ》に先だち両軍より象を出だし闘わしむ。日本人、敵の黄象に対し神象一を出す。額に二角、背に大いなる翼あり。身鉄石のごとく、叫ぶ声雷電のごとし。鼻をもって剣戟を巻いてよく人獣を服す、と称(124)す。次に、日本人|甲冑《かつちゆう》幌旗《ほろはた》五百人立ち並び見せけるほどに使者興を醒まし、走《は》せて六昆王に告ぐると大いに恐れ、一戦に及ばず講和したとあって、山田長政のことを聞き伝えたのであろうと書きおるが、これまことに贔屓《ひいき》の引倒し、日本人が今に至るまで陰嚢《ふんぐり》の小さきを表白するもので、現時とても海外で邦人が首を昂《あ》げた新聞に按すると、それは、西郷隆盛のなれの果てだろうとか大塩平八の孫であろうとか途方もないことを言い囃し、つまり外国で一事を成すほどの者は、日本中に数の知れた人々やその子弟に限るように想い定め、自余《じよ》の者どもは到底発展の見込みがないと絶望し潜まり返りおる輩滔々みなこれだ。よく聞く奴だが、後インド諸国で成功したり高名した日本人は決して長政一人でなく、その長政の事蹟とては一向|彼方《かなた》の書に見えぬに反し、わが邦人がかつて聞きも記しもせなんだ同胞先輩がかの邦々で種々史籍に名を留めた例を潜心調べおいたが、誰もあんまり飲ましくれず、ロハ読みロハ聴きで足元が彼方へ向いておる奴ばかりだから、ちょっとは述べぬこととしょう。
『武功雑記』に竹中重治はいつも牛に騎《の》って軍《いくさ》へ往ったとあるが、牛に何たる殊能あるでなく、この人至って沈勇だったから牛に乗っても動ぜなんだであろう。田単や義仲の火牛は誰も知れば、また贅言《ぜいげん》せず。十六年ほど前、南阿の将軍デウェットほとんど英軍に囲まれた時、牛群を駆って鉤線《かぎはりがね》を破りその勢を全うした。一五八六年、ドレイク元日をもってサンドミンゴ島に上陸せしのち、スペイン人四百牛を駆ってその軍を犯せしことあり。一六七〇年正月十八日、モルガン寡兵をもってパナマ市の大軍を破った時、市の知事インジアンをして野牛二千を逐うて英人の陣を衝《つ》かせたが、乱戦の声に惧《おそ》れ遁亡し、僅数《わずか》たまたま英軍を突貫せしも、隊旗を裂くのほか何の効なきうちに銃殺し尽された(ベンスリ教授鋭)。タヴァーニエーの『印度《インド》紀行』にこれと似たことあり、いわく、「戦争に象大功を奏すと思う人多きが、いつも左様とは限らぬ。敵陣を蹂躙せしめんと象を駆るうち反って味方へ寝返りを打つことがあるからだ。
かつてオーランゼブが四千人を率いてわずか八百人籠れるダマン城を囲んだ時、守将夜半に騎兵を出し、敵陣中二百象ある所を夜討ちし、しきりに火器を発射せしむると、象ども仰天して騒ぎ立ち象奴静むるに術《すべ》なく呆《あき》れおる刹那、(125)群象怒り狂うて味方を襲い、二、三時間にその軍勢の半ばを亡いしかば、王、止むを得ず三日後囲みを解いて去った」と、マルコ・ポロの書一卷五二章に、忽必烈《クビライ》ビルマを征《う》ちし時、ビルマ軍に二千大象あるを見て蒙古の軍馬|戦《おのの》き退く。将軍ナスクラチン令して、馬を樹に繋ぎ、騎兵ごとに射せしむ。群象矢を避けて林中に入り、載するところの房《へや》および人を砕く。蒙古勢この時乗馬し大いに敵を破り、捕虜のうちよく象を識《し》る輩を使うて戦象二百余を獲。これ忽必烈、象を畜《か》うに及んだ因縁なり、とある。されば都々逸の口調で言えば、「象も見懸けによらぬ物」で、あまり憑《たよ》りにならず。いわんや、象よりずっと粗暴なる牛輩においてをやだ。
さて一七四六年板、アストレイの『新編紀行航記全集《ア・ニユー・ゼネラル・コレクション・オブ・ヴオエージス・エンド・トラヴェルス》』三巻三六二頁に、妙な記事ありていわく、南アフリカの下等蛮民なるホッテントット人バッケレエル(戦牛の意)という牛を飼い、アジア人が象を用うるごとく、その牛をして敵を破らしむ。また、この戦牛はよく牛群を守り盗と野獣を防ぐゆえ、土人に大益あり、よく人の相図を視て迷える牛を戻し納れ、諸牛を纏めて圏中に伴《つ》れ還る。村内の人々をことごとく識り、よくこれに順《したが》うこと犬に異ならず。もし見馴れぬ人が村へ来れば、たちまちこれを触《つ》き殺すゆえ、嘯《うそぷ》きまた銃を発して追い去るを要す。土人この種を育て上げるに、老年と稚牛の角を維《つな》ぎ合わせ、時々|撻《う》ってこれを馴らす。この牛の働き驚くべきにつけても、彼ら蛮人の天才あるを仰ぐべし、と。チベット野生の?牛《ヤク》は怒れば非常に危険らしい。一九〇九年板、スヴェン・ヘジンの『トランス・ヒマラヤ』一の八四板等に、その人を襲う図がある。この牛を戦争に利用した例を聞かぬが、その尾は古来武装に用いられ、わが邦にも輸入され、かの杉左近が「唐《から》の頭《かしら》に本多平八」を歌うた唐の頭がこれで、黒きをコグマ、白きをハグマ、赤く染めたのをシャグマと呼んだ(予の「話俗随筆」を見よ)。『マルコ・ポロの書』三巻一八章に、インド人牛を神視するのあまり野牛の尾を騎兵の馬の頸や歩兵の楯また頭上につけ戦えば創つかずとて高価もて購うとあれば、最初は厭勝《まじない》、次に装飾となったのだ。
『類函』二二一に、明の山雲、広西の蛮賊を討った。賊、嶮山を保ち木をもって藤に掛け、石をその上に積み、官軍(126)来たれば藤を断ち木石を落とし近づく能わざらしめた。雲計って夜半火を牛羊の角に束《つか》ね縦《はな》つと、賊誤って官軍至ると心得、藤を断ちて木石を落とし尽した跡へ官軍登り撃って賊塁を破った。また王倬《おうたく》、賊を討つに、賊山上より石を落とし官軍進む能わず。倬、夜白羊千頭を山下に放ち鼓譟《こそう》してこれに従い、賊矢石を発し尽したのち兵を進め大いにこれを破った。また唐の賈公鐸、二勇士をして羊皮を衣《き》て敵の羊群に混じ、囲みを潜《くぐ》りて味方の城中に入らしめたとあれば、羊が生きても死後にも軍用に立ったのだ。それから火獣の法とは、艾《もぐさ》に火をつけ、孔四つ開《あ》けた瓢《ひさご》に入れて野猪《いのしし》、?《くじか》、鹿の頸上に繋ぎ、その尾の端に針立てて狂乱せしめ敵中に放てば、車中に奔り入って瓢|敗《やぷ》れ火発する例の放火法である(『類函』二一三)。
『八犬伝』や『太平記』で知れ渡った、高辛氏《こうしんし》の瓠犬《こけん》が募りに応じて敵将の首を取って来たり、畑時能《はたときよし》の犬獅子が毎度敵塞を陥れた外に、東西とも犬が戦争に関《あずか》った話少なからぬ。むかしアフリカのトノバリ人は、犬を王とし、その挙動を察して命令を奉じた(プリニウス『博物志《ヒストリア・ナチユラリス》』六巻三五章)。これ神犬の行いを視て平和、戦争などの可否を占うたと見ゆ。ストラボンは、ケルツ人もっぱら犬をもって戦い、当時英国よりおびただしく戦犬をガウルに輸入した、と言うた。古ウェールスでは、戦場に野犬を放って敵を猟《か》った(エチ・アイ・ビーの説)。スペイン人西インド諸島を占領して土人跡を絶ったは、西人《スベイン》、戦犬を濫用した一事その主因たり。なかんずくファン・ボンセ・デ・レオンの飼犬ベレチョは、よく土人の敵味方を識《し》り別ち戦功多人に優れければ、給料や賞品や分取別前《ぶんどりわけまえ》を陣中最高の俸給受くる弩士《どし》と等しく受けた。終《つい》に土人を追うて海を游《およ》ぎ毒矢のため死んだが、その後裔多く存して永くその雄名を伝うとあれば、まずは犬中の華族様で素餐《くいつぶし》の子孫が多かったろう。まことや人は一代名は末代と言えど、犬は二代も豪いのが続くにや。ベレチョの悴レオンシノは、貌《かお》も勇も父に異《かわ》らず、ヴァスコ・ヌニエツに事《つか》えて精忠を尽した(アーヴィング『コロムブス伝』一八八一年ベル父子出板、二巻七八五頁)。また犬を軍用通信の使いとしたは、太田三楽、武州岩槻・松山両城で犬百疋ほど飼い、岩槻で飼うたるを松山に、松山で飼うたのを岩槻に置き、敵に囲まれ飛脚叶わざる際、書(127)札を犬の頸につけて片時に信を通じ、即時に後詰《ごづめ》して大利を獲たという。(『奥羽永慶軍記』一九)。
諺に犬と猴《さる》と言うから、これからが猴の順番とくる。『太平記』一七、延元元年叡山の軍《いくさ》に、山王の霊験により猴が鐘を撞くを聞いて官軍打って出で大勝を得たことを載す。猴が戦争に参加したもっとも著名なは、インドのラーマ王を助けてラーヴァナ鬼王を平らげたハヌマン猴と、唐の玄奘《げんじよう》三蔵の西天行に随い無数の妖怪悪人と闘い勝ったという孫行者であろう。十世紀のアラビア人マスジは、アビシニアにヌビア人と呼ぶ猴あり、ヌビアの人間と同じく色|淡黒《うすぐろ》く身|矮《ひく》し、人に伴《つ》れられ戦争に往く、と言った。タイラーの『原始人文篇《プリミチヴ・カルチユール》』に、未開民は多く身|矮《ひく》き野蛮人種を猴類と混同する由多例を挙げて論じおる、その言すこぶる理あり。猴の合戦譚は多く矮人種族を誤伝したなるべし。例せば、十五世紀にインドを巡視した露人ニキチンの紀行(ヴィエルホルスキ伯英訳、一三頁)にいわく、猴に王あり、兵器持てる猴どもに護られ、林中に棲む。もし人、猴を捕うることあらば、余猴これをその王に訴え、王、猴兵を派し捜索せしめ、猴兵市中に入って家を崩し人を打つ。この猴輩《さるども》固有の語を話し、おびただしく子を生む。生むところの子父母に似ざれば官道に棄つるを、インド人拾い取って諸般の手工や踊りを教え、これを売るに夜をもってす。昼売れば道を覚えてたちまち還るゆえなり、と。アラビアの大旅行家イブン・バツタも、インドの猴王を四猴棒を持って侍衛す、と言いおる。
『酉陽雑俎』四に、「婆弥爛《ばみらん》国、云々。この国の西に山あり。巉巌《ざんがん》峻険《しゆんけん》にして、上に猿多し。猿の形《からだ》はなはだ長大にして、常に田《はたけ》を暴《あら》す。年ごとに二、三十万あり。国中、春以後より起《はじ》めて、甲兵を屯集し、猿と戦う。歳《とし》に数万を殺すといえども、その巣穴を尽す能わず」。これより奇抜はるかに上なるは、宋の趙?《ちよういつ》火?《かどう》の法で、この人晏州の夷酋《いゆう》卜漏を討った時、賊の廬舎《こや》みな茅竹作りなるをもって、夜、?《むくげざる》の背に麻の炬《たいまつ》を括《くく》りつけ膏?《こうろう》を灌《そそ》いだ奴を数千頭用意し、土丁をして挈《さ》げて賊柵に近づき炬を燃やして?を放つと、狂い跳《は》ねて屋根に上り焼き立てた騒ぎに、賊何が何だか別《わか》らず崖《きし》から堕ちて死んでしまうた(『類函』二一三)。『五雑俎』九に、福清の石竺山に猴多く、百千群をなす。(128)明の名将戚継光、倭寇《わこう》を討つとてここに屯せし時、軍士に銃を放つ稽古せしむるを、猴|窺《のぞ》き習うた。すなわち軍士をして猴数百を捕えしめ、よく養うて鉄砲を教うるうち、賊が来たので兵を山谷中に伏せ猴群をしてその営を闖《うかが》わしめると、賊の不意に乗じ猴が鉄砲を放ち賊大いに驚くところへ伏兵発して殲《みなごろし》にしたとあって、「むかし鍼尹《しんいん》は象に燧《うちび》し、田単は牛に火《ひとも》し、江?《こうゆう》は鶏に火す。今、戚公はすなわち狙《さる》に火すをもつてす。智者の相師《しようし》たるは、おおよそこれに類す」と評しある。田単のことは誰も知る通り。鍼尹は呉楚の戦いに象の尾に火を繋いで呉の師を驚走せしめ、東晋の江?は長繩で数百鶏を連ね、その脚に火をつけ一斉駆り放ちて敵営を焼いたのだ。
『汀州志』にいわく、「唐の大暦中、猴数百あり、古田の杉林中に集まる。里人、木を伐ってこれを殺さんとす。中に一老猴あり、たちまち近隣の一家に躍り去《ゆ》いて、火を縦《はな》ち屋《いえ》を焚《や》く。里人|懼《おそ》れ、すみやかに走って火を救う。ここにおいて群猴脱れ去る」(『類函』四三二)。『博物新編』などには、猴が人と全く懸隔するは火を作るを知らざる一事で、猴多き林中で焚火した跡へ必ず猴が集まり煖《あた》るが火が消えかかるも直《じき》側《そば》にある木を添え加えずに去る、とあった。しかし、それは野生の猴で飼い馴らした奴はどうだろうか。手近に猴ある人の試験を望む。ただし日本の猴はすこぶる火に慧《さと》いもので、猴|舞《まわ》しが木賃宿に舎《やど》りて桶で猴を覆《ふ》せて眠るに、二、三町距てて火災あれば人に先だって猴これを知り桶下に踊り躁《さわ》ぐ、と宿主《やどぬし》から聞いた。予ロンドンにあった時|皇立水族館《ロヤル・アクワリウム》という大観場《おおみせもの》で海狗《おつとせい》が発銃するとて大評判だった。それから推すと、教うれば猴も木から堕ちもすれば鉄砲を放つであろう。猴が木石を投ぐるということに関して最も高名なは、アラビアの水夫シンドバッドが漂着した猴が島の人が、袋に石を容れて林下に至り石を抛げ上ぐると、樹上の猴は仕返しに椰子を摘《むし》り擲げ下すを、拾い取って利潤を獲たという。グロッシェーは、支那人が茶林に入って猴を瞋《いか》らすと、猴輩《さるども》茶の枝葉を摘《むし》り投げつけくれるので、身を労せずに多く茶を集め得と言ったが、確かな拠《よりどころ》なく匆卒支那の絵を見てかかる誤説を作ったらしい(ハーバート・サウサム説)。
ストラボの『地理香《ゲオーグラフイカ》』一五に、インドの猟師、猴が好んで人真似するにつけこみ、奇法もてこれを捕う。すなわ(129)ち猴の見る所で盆の水で眼を荒い、さてひそかに黐《とりもち》を盛った盆もて水の盆とすり替え退《しりぞ》いて守るうち、猴樹から降りて黐を両眼に塗り浄瑠璃の腹切場でもう眼が見えぬと来たところを、苦もなく捕うるのじゃ、と載す。日本にも猴の人真似の話あれど、いずれも右ほどの大法螺でなく、予輩幼時毎度聞きしは、山中で人が石を拾い猴に投げれば猴も石を拾うて人に投げる、もし人|懐《ふところ》より石を出して投げれば猴は身毛を摘《むし》って投げるということで、『西遊記』に悟空が毛を飛ばして無数の猴を化出したとあれば、猴が自分の毛を投げる譚は支那にもあったのだ。予かつて熊野の撞木山《しゆもくざん》という好い景色の山腹で、杣《そま》が木を伐る傍の樹上の猴を下から犬が吠えかかるを、山下の河岸から久しく眺めおって、人も畜生も自分もともに一幅の画中にあるごとく覚えた。その時猴種々狂い跳《は》ねて犬を脅すを見たが、いささかも物を抛つ体《てい》を見なんだ。しかし、明治十六年始めてお江戸へ上り上野動物園を観た時、同伴の津田義治氏(東京で今も弁護士)一疋の雄猴に揶揄《からか》うをよせば好いにと思いおるうち、猴、尻を吾輩《われら》に向け糞垂れるや否、左の脚で?んで後へ抛げたのがちょうど逃げ出す予の羽織の背紋に命中し、大いに傍の人々に笑われた。十六世紀にスペインのフェルナンデツ・デ・オヴィエド筆『西|印度《インド》歴史および博物誌』は、ラス・カサスこれを「一頁ごとに一|※[言+虚]《うそ》ある書」と罵ったが、それは愛国心強かった著者が何につけても自国人士の所為《しわざ》を称揚し過ぎたにより、博物学上の記述はもっとも誠実に当時見聞のままを録《しる》した(『大英百科全書』一一板、二〇巻)。そのうちに著者が心安かったフランセスコという男がたちまち歯四、五本失うた因縁を聞くに、人々猴どもに石を抛ぐるに、若干《そこばく》樹上に留まり、猴それを採りて人に抛げる一つの石が行き合わせたかの男の口に中《あた》ってかくの次第だった、とある。
プリドーいわく、一九〇六年九月二十九日の『ランセット』雑誌に最近の事報あり、いわく、ジブラルタルの官憲、雨水を聚め貯えんとて襞《ひだ》起こせる鉄葉《ブリキ》で沙丘の腹を被うた。丘上の巌間に棲む猴ども、それが気に入らず、時々大石を高所へ運び鉄葉《ブリキ》の上へ落として、ついに数孔を穿ったゆえ、月も水も溜らばこそ下なる沙へ浸《し》んでしまう。したがって不断孔の世話を焼かにゃならぬとは、聞きようによってしごくおかしい。事の仔細を稽《かんが》うるに、猴輩《さるども》沙の上ほ(130)どたやすく鉄葉《ブリキ》の上を走りえぬからの腹立ちならん。古来ジブラルタルが敵に攻められたる幾回なるを知らずといえども、小さき猴勢に撃たれたのは今度が始めなり、と。いわゆるジブラルタルに住む猴は、英語でバーバリー猴《エープ》、仏名マゴ、尾至って短く、全体日本の猴に近く(第二図)、北アフリカ、バーバリー国に住み、また海峡を隔てたジブラルタルの岩地にも棲み、欧州ただ一種の猴だったが、件《くだん》の鉄葉《ブリキ》攻撃より二、三年後、伝染病のために全滅し、欧州に猴の天然産が一疋もなくなった由、当時の『ネーチュール』誌で読んだ。ダーウィン説に、喜望蜂のある士官、毎度一バブーン猴を苦しむ。ある日曜日、猴かの士官盛装して来たるを見、水を土穴に注ぎ急に濃き泥を作り、かの人わが前を過ぎる時巧みに打ちつければ一同笑い動《どよ》めく。その後永くこの猴かの人を見るたびに勝ちに誇るの色ありし、と。その他猴が種々人同然の振舞いし器具を使用せる例、おびただしくロメーンズ著『動物知慧論《アニマル・インテリゼンス》』に見える。されば、猴が鉄砲を放って倭寇を破ったなどは大法螺たること無論だが、小勢同士の喧嘩に主人に助勢して有り合わせた物を放り擲げたくらいのことはありそうだ。
このついでに言う。今日火器は種々込み入った結構の物きわめて多くなれるに、弓矢はどこまでも弓矢でそれ以上少しも発達せぬから、鉄砲の発明を人間の最大事業だったように想う人が多い。しかるに米国のモルガンの『古代社会篇《アンシエント・ソサイチー》』二章に、弓矢はしごく精密に諸種の力を結合しえて後はじめて発明せるものと論じ、その発明が鉄砲の発明よりも人間発達に大功あった由を諷しおるようだ。予考うるに、自然の順序としては、どうも火器よりも弓矢の発明の(131)方はるかに上進しおる。すべて人間外の動物に弓矢様の機巧《からくり》あるものなし。
支那に?《いき》、一名|射工《しやこう》また水弩《すいど》という虫、口に弩《いしゆみ》様の構造あって、人影を射て、病みまた死せしむというが、それはまず邦俗カッパノシリヌキなどいう虫の外観を誤りての言で、決して事実でない(第三図)。しかるに砂?子《すりばちむし》、英語でいわゆる蟻獅《アント・ライオン》は、沙中に作った擂鉢《すりばち》様の窪穴《くぼみ》の底より熊坂長範物見の松という体《てい》で蟻滑り落つるを竢《ま》つて捉え食らい、蟻逃げんとすれば、その頭《かしら》もて散弾様に砂粒を弾き飛ばしてこれを射落とす(第四図)。ケルモ・ロストラツスは、インドの河や濠州の河口近く住む魚で、水上に垂れ下がった草木に留まれる蠅を水中より覘《ねら》い、火吹筒《ひふきだけ》状の嘴から一滴水を飛ばしてこれを射落とすに、五、六尺隔てても過《あやま》たず。ジャワ人などこれを大鉢に畜《か》い虫を射させて面白がる。また先年故ウィリアム・フォーセル・カーピー氏、蟻について一書を著わし贈られた。そのうちに、ある蟻は巣の中にグレナジャー・ビートル(砲兵虫)を飼い置き、寇《あだ》到ればかの虫をして屁を放《ひ》って禦《ふせ》がしむとあって、その図を見るにわが邦のヘヒリムシと異なり。これらの機巧《からくり》い (132)ずれも原始の鉄砲類と幾分似ておる。
また精神作用が動物に比して皆無とも謂うべき植物中に、大砲のごとき働きを備えたのがあって、しかも植物としては下等な物だ。第五図スフェロボルス・スチルラツス、この菌《きのこ》日本では明治三十四年予始めて和歌山市で見出だしたが、その後紀州到る処多くあるを知り、また同属のものこの他に二種見出でた。この菌古い壁や木や竹に群がり著き、外胞嚢が内胞嚢を包み、内胞嚢中に多数の胞子あり。外胞嚢は皮二層より成り、胞子成熟すれば従前円かつた外胞嚢の上半が星様に裂け開き、その皮の外層は旧《もと》のまま据《すわ》りおれど、内層たちまち縮み締まって、たった今まで凹《くほ》んだ底が急に円き頂となって強く跳ね起きる。その力でこれまで包みおった内胞嚢を遠方へ弾き飛ばす。この菌|径《わたり》三ミリメートルを踰《こ》えず。しかるに、その音は十畳、十二畳の室中聞こえ渡る。すべての容子すこぶる臼砲《モルチユール》のごとし。
第六図ピロボルス・クライニイは、欧州では諸畜の糞に生え、高さ四分の一インチを踰えることあれど、予が今年春田辺町の泥溝より見出だし培養数月にわたったものは八分の一インチを過ぎず、辛うじて肉眼で視《み》得たほどなれど、胞嚢飛ぶ時その下に敷いた雲母の薄板が動いた、また音も聞こえた。茎の尖《さき》が罌状《とくりのさま》に膨れ、頂に黒い胞嚢を戴く。この罌状《とくりのさま》の処へ水が堪《こた》えきれぬほど満つる刹那、上なる胞嚢を突いて発射する体《てい》全く水鉄砲に同じ。すべての火器は、かく菌《きのこ》ごとき微物すら繁殖のために利用しおる力と機巧《からくり》を積み累ねて、水鉄砲、紙鉄砲様な物を仕上げたところへ、一方に硝石を医用するついでに火薬ができ、最初は爆竹など迷信上鬼魅を威《おど》し去るに専用されたのが出合わし来たって、終《つい》に鉄砲ができたのだ。
蜂は霊智あること、ある意味においては、たしかに人より上だ。インドや欧州諸邦で、蜂飼うた家の主《あるじ》死んですぐさまその由を蜂に報《しら》せねば、ことごとくその蜂を亡うと言い、オーストリアのレオポルド一三八六年セムパッヒの敗軍をあらかじめ蜂が示したとか(コックス『民俗学入門』二四および一〇九頁)。浅野が吉良を刃傷した前に、山蜂が赤穂城で蜂王の仇を討った(『義士伝一夕話』一)とか、不思議な話多し。『東大寺要録』四に、金鐘寺の執金剛神像頂髪(133)の右方の飾り切れ落ちたるは、将門一乱の時この飾りが大蜂と化《な》って将門を喫《くら》うた、そのさい神像汁を流したという。『古事談』によれば、この像をここに安置した金鐘行者、東大寺建立のことについて辛国《からくに》行者に法戦を挑まれた時、辛国|方《かた》より大蜂数万|螫《さ》しに来るを金鐘大鉢を飛ばして打ち払うたとあって、鉢が蜂を平らげたるを怨み、その後辛国行者つねにこの寺に仇《あだ》したそうじゃ。この東大寺はよくよく蜂に縁深かったらしく、弘法大師の『行状集記』に、この寺へしばしば長《たけ》五、六寸の大蜂出で寺僧を六人まで螫し殺し、誰も住むこと成らず天魔の所為《しわざ》と歎じたところへ、大師勅によって来たり住むと蜂が出なくなった、と見ゆ。
蜂がよく恩と讐《あだ》を記念せる例、唐の陸孝政という官人、蜜蜂が思うままに箱へ移らぬを怒り、熱湯を注いで皆殺しとやらかすと、翌年|庁《やくしよ》で昼寝中蜂に舌を螫《さ》されて死んだ(『法苑珠林』九一)。カンボジアの俗信に、一人蜜蜂の巣を見出だし標《しるし》つけたのを他人盗まんとすれば、蜂|瞋《いか》って螫し殺す、と(エイモニエー『柬埔寨《カンボジア》俗信記』)。ステッドマン大尉『一七七二至一七七七年シュリナム遠征記』(一七九六年板、二巻二三七頁)に、大尉の宅に野蜂あって人を螫すゆえ滅却を命ずると、一老黒奴進んでいわく、この蜂公を嫌わばこれまでに公が螫されたはずなり。しかるを、かつて螫さざるは自分ら公の宅地を借りて棲みおると知ればなり。かれら決して公と公の家人を螫さじ、試みてちょっとでも螫さばいかな罰をも甘受すべし、と。そこで大尉かの黒奴を樹に縛り置き、一小童をして裸で蜂の巣に近づかしめしも螫さず。自分登ってその巣を振るうと蜂騒ぎ飛び廻ることおびただしかりしも、なお少しも螫すことなかったので黒奴を釈《ゆる》し、ラム酒一ガロンと鳥目《ちようもく》五シリングを賞与した、と出ず。
『十訓抄』に、太政大臣宗輔公、蜂を多く飼うてそれぞれ名をつけ呼べば来たる。家来を罰するに蜂の名を呼び刺し来たれと言えば螫しに往った。この人出仕の時、車の上を蜂飛びながら随《つ》き行く。公留まれと言えば蜂車に留まった、とある。ロメーンズの『動物知慧論』四章に、蜜蜂も蜂も人を見分け自分が見慣れた人を親しむ由を論じ、一珍談を載す。それは、ウィルドマンという養蜂家、秘訣あっていつでも思うままにその頭なり肩なりどこへでも蜜蜂を群聚(134)させた。また自分の頭から顔へ一寸以上の厚さに蜜蜂を留まらせ、蜂とともに酒を飲んだとあるから、南方先生、わしゃ蜂になりたいと言うと、読者一同、オーオーごもっともでござります、と嘲り笑うだろう。さて、かの人また蜂を訓《おし》えて机上に種々分隊し操練行列せしめ、いかなことでも観客を螫さざらしめたという。こんな実例もあれば、蜂が軍《いくさ》に出たり賊を卻《しりぞ》けたりした譚《はなし》多きも有内《ありうち》のことで、むかし瓊州の黎人|叛《そむ》きしを、※[田+比]邪山の神蜂して禦《ふせ》がしめ官軍利を得たので、今にこれを祀る。『宣験記』に、劉宋の時、寺に入りて財を掠《かす》むる山賊、蜂に破られた話を出す(『類函』四四六)。
『古今図書集成』日本部紀事一二張表に、「呉の石湖先生は北兪塘に居めり。倭寇の入りて犯せし時、独り七歳の小蒼頭《しもべ》とともに浩然桜に坐し、読書して自若たり。すでにして数《いくたり》かの倭闖入し、壁間に畜《か》うところの蜜蜂の一房あるを見、刀をもってこれを撃つ。蜂その面《かお》を擁《おお》い、倭驚いて草中に仆《たお》る。すでにして群《おお》くの倭みな共に蜂を撃つ。蜂ことごとく出でて倭を螫し、面目《かお》癰腫《はれふさが》る。ともに相戒め、あえて犯さず。これをもって浩然楼独り存す。しかして東西五里余り、ともに焚劫《ふんきよう》を免る。先生に、園蜂寇を逐うの歌あり」。摂州島下郡|味舌寺《まじたでら》、土伝に、天平中、賊この地に起こり、官軍勝利なくこの寺に退き観音に祈ると、殿内より数千の馬蜂出でて賊を螫し、ために死者多く怖れて退散した。その蜂地に落ちたるを集め蜂塚を設けた(『摂陽群談』九)。むかし仏人アラゴンのドム・ペドレを伐ちし時、ゼローン村に入ってナルシス尊者の墓を発《あば》くと、希有《けう》の巨蜂出でて兵卒四万人、馬二万四千匹を殺せしゆえ、この尊者を蜜蜂の守護神としたとはいかにも山酣《やまかん》過ぎた話で、かの村へギッシリ詰めたところで一万人と六千馬しか這入らぬ由(コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙《ジクシヨネール・クリチク・デ・レリク・エ・デ・イマージ・ミラクロース》』一八二一年板、二巻二一〇頁)。
『今昔物語』二九には、家にありていつも蜂に酒を呑ませ祭りし商人、鈴鹿山で群賊に劫《おびやか》された時大蜂群がり到って賊を鏖《みなごろし》にし、商人盗まれた物を取り返した上に、賊の年来取り貯えた物を獲て返り大いに富んだ由見え、『十訓抄』には、大和の余五太夫なる兵者《つわもの》、妻敵《めがたき》に攻め破られて窟《いわや》に隠るるうち、蜘蛛の網に懸った蜂を救いし報恩に蜂無(135)数の助勢を得、敵三百余騎を殺しおのが城を取り返した物語を載す。『拾遺記』に、周の武王紂を伐つとて川を済《わた》る時、状《かたち》丹鳳のごとき大蜂飛んで王の舟に集ま。よって旗に蜂を画き紂に克つ。その船を蜂舟と名づく。魯の哀公二年、鄭人趙簡子を撃ってその蜂旗を得、とあり(『類函』四四六)。古フランクス王で五世紀に猛威を奮うたシルデリクも蜂を旗とした(上に引いたコラン・ド・プランシーの書、二巻三六三頁)。
かくさまざまの故例多きが、実際蜂を戦争に使用した記載は予ただ一を見出だした。すなわち唐の義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』四に、法官は蠍《さそり》と蜂をもって罪人を苦しめて白状せしめ、また多く償金を出さしむ。城を守る者は甕《つぼ》の内に多く諸種の蜂を貯え、放ちて敵を螫さしめ四散逃走せしむ。海商客も多く諸蜂を瓦器中に養い、海賊来たり侵せば蜂甕を賊船に擲げ入れ、また戦う能わず退散せしむ、とある。この本文の拙訳を昨年十二月ロンドンで出し、まるで忘れおったところ、これを読んで思いついたでもあるまいが、今年五月十八日ニューヨーク特電として『大阪毎日』に載せたは、英国ランカシャ綫銃兵隊、独領アフリカの某地に上陸せしに、その所蜜を産するをもって著《あら》われ、土人は木の空胴《うつろ》内に蜜蜂を呼んで巣を作らせ、蜜を採るを業とす。独兵、土人をして英軍の上陸地点に無数の蜂の巣を造らせ、その巣を連ねて針金を繋ぎ、その針金を叢《くさむら》の中に隠し、人これに触ればその一端に白旗の現わるる構えとす。英軍夢にもかかる詭計ありと知らず、独軍を追うて進むとて隠したる針金に触り白旗翻りて相図をなすと同時に、無数の蜂四方に起こり独兵の弾丸雨下するゆえ、英軍非常に困りおる、とあった。事実か虚報か知らぬが、日の下に何一つまるで新しい物はなく、蜂多き地には甕詰にして擲つと電気で激怒せしむるの差こそあれ、蜂をもって敵を苦しむる思いつきは数千年前も変わらぬ。
右の通り東西とも蜂に螫されて死んだ話が多いが、フムボルトはこれを大いに疑うた。氏は目今ヴェネズエラ国の内なるピミチンで道側に十字架もて宣教師が蜂に螫し殺された処を標《しる》せるを見た由記し、熱地でかかる話多く聞けど実際見たことなし。ただ気候のせいでちょっと螫されても、他の地方で大創受けた時同様、ややもすれば強熱を発(136)すること多い。この宣教師ごときも、実は蜂の毒よりも熱の疲れで死んだのだろう、と説かれた(英訳『回帰線内墨洲紀行《トラヴエルス・ツー・ゼ・エクイノクチカル・レジオンス・オヴ・アメリカ》』ボーン文庫本、二巻三六七頁)。しかし、螫された疵から熱起こって死んだのを螫し殺されたと言うは、酒に大毒とてなけれど酒を飲んで死んだと言うと同じく、十分|訳《わけ》は聞こえおる。加之《そのうえ》かかる疵を受けた時、精神の感じ様で酷《ひど》く痛み、はなはだしきは死ぬ例も多かろうから、平生毒蜂に螫されたら必ず死ぬと聞き慣れおった者は死にもするだろう。ボールの『印度藪榛生活《ジヤングル・ライフ・イン・インジア》』二九八-九頁に、毒蛇に咬まれたる者の疵を見て、何のことだ荊《いばら》で刺《つ》かれたんじゃないかと言うて、構わず速く歩ましむるとさらに害を受けず。また毒蛇に咬まれた者その辺に毒蛇なしと聞き眠ってしまうたが、六、七時間ののち眼覚めて件《くだん》の蛇が近所で鳥を殺せしを睹《み》、たちまち死んだ、とある。つい前月も予鮨を貰い、食余しを竹の皮に※[果/衣のなべぶたなし]《つつ》み近所の床屋の弟子に食わせたところへ親方帰り来たり、南方|様《さん》が曰《いわ》くのつかぬ物をただくれるものか、それは癩病人の握った鮨だと語りおわらざるに、かの弟子は嘔《へど》吐《つ》き始め、それより病みつき二十里ばかり山河|踰《こ》えて郷《さと》へ去《い》ってしまった。プリニウス(一一巻二六章および一一六章)に、蛇の肉を啖《くら》うた蜂は人を螫し殺す、また大黄蜂《やまばち》の刺《はり》を二十七受くれば人死すとあるが、一度でさえ御高免だ。二十七本螫さるるまで静《じつ》とおる奴があるものか。
それから蟻も人を?み殺す話があって、プリニウス説に、インドの北ダルダエ国の巨蟻《おおあり》は大いさ狼のごとく、穴掘りて金を積み出す。インド人最も迅《はや》く走る駱駝に乗って盗みに往くに、ややもすれば蟻に引き裂かれ断片《ずたずた》にされる、と。また、エチオピア辺の民が毒蟻に全滅されたことを記した。リレイいわく、近世もギニアの赤蟻が大毒あって大破壊を行なう話盛んなれば多少の拠《よりどころ》ある言《こと》だろう、と。『日本霊異記』中に、紀伊の上田三郎、その妻が受戒のため僧の説教場へ行きしを将《つ》れ返り、汝はかの僧と通じただろうと瞋《いか》って、すなわちこれを犯すうち、にわかに蟻その陰に嚼《く》いつき、ために痛んで死んだ、とある。
予、大正二年夏、オニゲナという菌《きのこ》の発生研究のため毎日塵塚《はきだめ》に坐るうち蟻に陰を咬まれ、全身|?魚《すえたうお》に酔うたよう(137)な紫斑《むらさきまだら》となり、発熱数日喉渇くことおびただしく、一月ばかり昼夜酒を飲み続けてわずかに癒った。しかるに、昨年春また近所の銭湯で毎度陰嚢を蟻に咬まれ、例のごとく喉渇き困った。その時拙妻その他女湯の方でも咬まれた者六人までありしを知る。医士などが陰部には一種の臭脂ありて自然に虫害を防ぐと言えど、われら夫妻繰り返し彼処《かしこ》を咬まれたのだから論より証拠だ。当時『不二新聞』でこのこと他にも例ありやと衆に問いしに、親切な応答委細に贈りくれた人少なからず。大抵陰部を咬む蟻は身ことに大にして群棲せず、単独《ひとり》木の孔より疾走し出ずるものらしきが、小児の陰を咬み、また梅雨中大人のを咬むは身小さくて群居するもののごとく、受害者の容体大要予輩と異ならざるもののごとし。件《くだん》の銭湯はこのことより苦情しばしば聞こえ、ついに夏中休業して改築した。
全体日本には、俗人はもとより読書人まで真面目な者至って少なく、右様の少々|異《かわ》ったことを言うと、すぐさまこれを嘲笑裡に葬り去る。それゆえ書籍に載ってないことは事実の方が虚構《うそ》のごとく想われ、先人が述べた以外に何たる新研究もせねば、新発明、新発見もできぬのじゃ。それから見れば、仏が慰周陵伽《いしゆうりんが》虫陰を?んで起欲せしむと説き(『四分律蔵』五五)、阿闍世王《あじやせおう》の一子虫に陰を?まれて病を生ぜしことを挙げ(『摩訶僧祇律』二)、細虫|瘡門《そうもん》より入りて相悩ますを防ぐべき法を諸尼に訓えたまえるなど(『毘奈耶雑事』三)、今人よりもはるかに用意の深厚なるを見る。惟うに、熱地暖国には虫蟻に秘処を?まれてより生ずる身心の患《うれ》い多かるべければ、済世に志ある人々に、何とぞ本文を読んで一笑に付し去らず、不断注意してこのことを研究されんことを望む。
さて戦争に蜂を使うた実例あれど、蟻を用いたのは一もない。しかし、伝説に蟻と戦争を連ねたのがある。『今昔物語』一に、帝釈《たいしやく》、阿修羅《あしゆら》と戦い、負けて逃げ行く道に蟻多く這い出でたり。帝釈われなお逃げて行かば多くの蟻を踏み殺すべしと遠慮して引き返す。阿修羅これ帝釈さらに軍を増して追い来たるなりと誤察し、逃《のが》れて蓮の柄の穴に潜んだ、とある。芳賀博士がこの話の原《もと》として引いた『雑阿含』の文には、帝釈逃ぐる道で林下金翅鳥の巣に鳥の子多くあるを見、むしろ還って殺さるるも物を殺すべからずとて、御者をして車を転《かえ》さしむると、阿修羅軍さては(138)帝釈|詐《いつわ》りて逃げ只今引き返すわと怖れ、大敗走した。これ帝釈慈の力もて勝利を得たと仏が説いた、とある。アラビアかドイツに、某王子が敵に遂われ走る路上、蟻が水に溺れかかるを助け遣《や》りし返礼に、その蟻また王子を救う話あったと記臆すれど、ちょっと見当たらぬ。デンマークの古話に、スヴェンドなる若者、王の婿たらんと望むに、王、小麦七バレルとライ麦七バレルを混合して一堆《ひとつみ》とし、かの者これを選り分けえずば娘を遣らぬと言う。スヴェンドかって蟻に食を恵んだ。その蟻大勢連れ来たりて麦粒を選り分け、恩人をして王の婿たらしめたとあるなど、いささか趣きが似ておる。
二
動物が軍隊を嚮導した話は、斉の桓公、孤竹を伐ち、春往きて冬返り迷惑して道を失うた時、管仲、老馬の智用うべきなりとて老馬を放ち、随うてついに道を得た(『類函』四三三)。西暦五〇七年、フランク王クロヴィス、その敵ヴィンゴス王アラリクとヴィエーに決戦し、手ずからこれを討ち取った前に、ヴィアンヌ河を渡る時、不思議の牝犬その軍を嚮導した(コラン・ド・プランシーの上書に引く、三巻四頁)。日本武尊、東征事|平《たい》らいで帰りたまう途次、信濃の大山《みたけ》で道を失い、「出ずる所を知らず。時に白き狗《いぬ》、おのずから来たり、王《みこ》を導くの状《かたち》あり。狗に随いて行《》いでて、美濃に出ずるを得たり」(『日本紀』七)。例の神武帝の皇師《みいくさ》を熊野から吉野へ嚮導《みちぴき》進《まいら》せた八咫烏《やたがらす》は、『古事記』の序に大鳥とあり、あるいはこれを神とし人とするもあれど、とにかく上古烏が人を導くという信念があったからかかる譚《はなし》も伝わったので、外国にも古ギリシア、テーラの貴人バットス、鴉《からす》の案内によって新たに国を見出だし殖民し、鴉の義に基づいてその地をキレーネーと命じ、『酉陽雑俎』に、人行くに臨み烏鳴いて前引せば喜び多し、とある。ノアも、ノルウェーのフロキも、烏の案内で陸地に安着した(『郷土研究』三巻一二号七二三-四頁なる拙文を見よ)。
(139) 鳥が人を助けて闘うた例もあつて、紀元前三四九年、ガウル人イタリアに攻め入った時、その勇士身ことに偉大なる者一騎打ちの勝負を挑んだので、ローマ勢の中よりヴァレリウス出でて闘うと、烏一羽来たってその兜《かぶと》上に留まり、ヴ剣をもって敵を撃つと同時に、翼と嘴《くちばし》で敵を襲い、とうとう敗死せしめた。爾来《それから》ヴはコルヴス(烏)を氏号《うじな》とした(一八四五年板、スミス『希臘羅馬《ギリシアロ―マ》人伝神誌字彙』一巻八六一頁)。ウェールスの古史に、群烏オウェインに従い敵を撃ち、アイルランドの物語に、クフリンに随いし二つの烏は敵近づけば必ずあらかじめ主人に告げた、と見ゆ(ド・ケー『古欧州鳥王篇』四六頁)。
禿鵰《ヴアルチユール》第七図)は、アジアとアフリカの熱地の産、その容貌動作烏に似たこと多く、腐肉穢物を食らうて掃除の功大なるより古エジプトでこれを神とし、中世にもその反哺《はんぽ》の孝ある由言い伝えたは全く東洋の烏に同じ(『郷土研究』三巻一二号七二六頁、拙文)。エリアヌス(西暦二百年ごろのローマ人)の『動物性質記《デ・ナチユラ・アニマリウム》』二巻四六章に、この鳥死屍と瀕死の人の上を飛び廻り人肉を食らう。また戦場へ随行して戦士の死を予知するものに似たり、と言うた。クリメヤの戦いに、禿鵰おびただしく遠方より来たり、人馬の屍体を喫《くら》い大いに掃除を助けたと聞く。烏も禿鵰同然、人死に臨める上を飛び廻り、また人屍を食らわんとて従軍せしなるべく、自然かねて人の死を知らすとか、烏鳴きが悪いなど言わるると同時に神使と見なされ、軍《いくさ》の嚮導をした話も起こったのだ(委細は『東京人類学会雑誌』二九一号、『郷土研究』三巻一二号の拙論に譲る)。『宣室志』に「およそ軍《いくさ》の出ずるに、鳶烏《えんう》あってその後に随うは、みな敗亡の徴《しるし》なり」。埒もない説のようだが、敵が敗るる時は敵の屍を多く食いたさに烏らが進み、味方が敗るる時は味方の屍をまず食うゆえ前へ進まぬところから、鳶烏が軍の先に立たず後に随《つ》き行けば敗軍の徴と言い出したらしい。
(140) 鳶《とび》が軍《いくさ》に関《あずか》れること、『書紀』に、金色の霊《あや》しき鵄《とび》、皇弓《みゆみ》の弭《はず》に止まりて異光を発し、長髄彦《ながすねびこ》の軍卒をして皇師《みいくさ》に対《むか》うて力戦する能わざらしめたことあり。金鵄勲章の名の因《もと》である。ヒンズー教の『ラーマーヤナ』に、悪王ラーヴァナ托鉢道士に化けてラーマ王の不在にその后シーターを奪い去る途上、大|鵄《とび》これを遮り戦い敗《やぶ》れ傷つく。三国の代に漢訳した『六度集経』には巨鳥、治承のころ平康頼が書いたという『宝物集』には大いなる鳥とあり(『考古学雑誌』四巻一二号、予の「古き和漢書に見えたるラーマ王物語」)。シーター后を救わんとてラーヴァナに傷つけられた鳥は、英語で梵志鵄《ブラミニ・カイト》、学名ハリアスツル・インズスで、韋紐天《ヴイシユヌ》が騎《の》る金翅鳥《ガルダ》はこれだといい、日曜ごとに梵教徒これに食を施して功徳とす。好んで海蛇を食らえば、仏経に謂う「金翅、竜を食す」の説に合《かな》う。セイロンで両軍対戦前に、この鵄来たって上を飛び廻る方が必勝と言う(テンネント『錫蘭《セイロン》博物誌要』二四六頁注)。どうやら国史の金鵄に似ておるが、梵志鵄《プラミニ・カイト》は学問上鵄よりも鶚《みさご》に近い物の由。
それからこの頃動物の蹤《あしあと》を追って道を見出だすことより始めたから、同じく動物の跡に関することで終わらんに、唐の楊朝晟の師《いくさ》、方渠に次《とどま》りし時水乏し、青蛇あり、険を降り下走す、その跡を見るに水従って流れければ、朝晟|防《つつみ》を築いてこれに環らし、ついに渟淵《ふち》となり兵士みな飲み足るとあるが、酒でないから詰まらない。しかし、時に取って大出来ゆえ、詔《みことのり》して祠《やしろ》を置き、その泉を応聖と命《なづ》けた(『類函』二二〇巻)。
レオナードの『下《ラワー》ニゼルおよびその諸民族』三二二頁に、ニゼルの民は世に偶然の出来事あるを認めず、何ごとにまれ人か人以外の物が故意に謀ってなすところに外ならずとする。例せば、戦闘等危い仕事のために出で往く人に鳥の糞が落ち掛かれば必ずたちまち引き返す。それは、その鳥その人に縁あるにより特に糞を仕掛けてこの度往かばきっと殺さるると知らすので、その糞は決して偶然落ち中《あた》ったのでないと固く信ずるのだ、とある。これと同様の理窟で、サモア島人|軍《いくさ》に出で立つ前に必ず神助を祈り、次に前兆を候《うかが》うた。例せば、マノノ部の勇士、隊の前に梟《ふくろう》が飛び往けば吉として進むが、梟が道を横ぎり飛べば凶として行軍を見合わせ、また魚狗《かわせみ》を族霊《トテム》とする村兵は、魚狗その(141)隊前に飛び進めば捷ち《かち》、その隊に向かい飛び来れば敗軍の兆《しるし》とし、ある魚速やかに游《およ》げば勝、廻り游げば負、烏賊《いか》が海岸近く現わるれば吉、遠ければ凶、蜥蜴《とかげ》軍隊の前に往き、また屋上より真直ぐに下れば利あれど、道を横切り、もしくは左右に曲がり行《ある》きて降れば、大不祥として進軍を見合わせた(一九一〇年板、ブラウン『メラネシアンスおよびポリネシアンス』一七五頁)。日本でも、承久の役に諏訪の大祝《おおはふり》敦信、神前に卜い吉だったので、悴信重を発向せしむ、宮烏数百、陣前に飛び行《ゆ》いた(『諏訪大明神絵詞』上)とあれど、皇室に対し弓を彎《ひ》く徒《ともがら》に吉兆を示すとは神も世間並みに眼が暗《くら》むものだ。
また周の武王、師《いくさ》を興し河を渡る時、白魚、王の舟に躍り入った。殷家の正色は白だから、殷の兵衆、周に与《くみ》する象《しるし》という。果たして二年ののち紂を滅し天下を取った(『史記』四)。わが邦でもこれに倣《なら》うて、新田義貞、春宮《とうぐう》と一宮《いちのみや》を奉じ金崎に籠城せし時、一朝船遊び管絃の最中、御船へ魚飛び入りしは勝軍《かちいくさ》の兆とて大いに勇んだが、結局|五月《いつつき》経《た》たぬうち落城し、春宮は後に毒害せられ、一宮はその場で自殺し給う。『太平記』によると、その時舟に入った魚を調えてその胙《ひもろぎ》を奉り春宮御盃を傾けさせ給いける時、島寺の袖という遊君、御酌に立ちたりけるが拍子を打ちて、「翠帳紅閨、万事の礼法異なりといえども、舟中波上、一生の歓会これ同じ」と歌うたので、儲君儲王|恭《かたじけ》なくも叡感の御心を傾けられ、武将官軍も斉《ひと》しく嗚咽《おえつ》の袖をぞ沾《ぬ》らされけるとあって、乱世のことと言いながら賤しき遊君が皇太子の御前へ出たり武将軍士が泣いたりしたので、せっかくの吉兆もフイになったんじゃと、さる老人は言われた。
西暦紀元六二年、駐英ローマ兵士がイケニ種の寡后ボアジケアを打ち、その二女を強辱せしより、后その民を聚め懐より兎を出すと、驚いて遺《は》せ廻る様子が卜法の大吉上に中《あた》った。一同さては大勝疑いなしと一致して兵を起こし、たちまちローマ方七万人を鏖《みなごろし》にしたが、ついに軍敗れて后みずから毒死し、英国|永《とこしな》えにローマの領分となった。ただしローマ人また兎を神獣として卜《うらない》に用い決して食わなんだ。慶長三年、泗川《しせん》の戦いに島津義弘城より討って出んと門を開く時、赤白の狐二疋戦闘最中の場へ走り込みしを櫓上より見て、これ戦勝の祥なりと義弘が言うたので城(142)兵勇み立って戦い克《か》った(『征韓偉略』五)。ローマの占法《うらかた》に蜜蜂軍営に集まれば凶と言ったが、ドルススがアルバロで大勝の前にこの兆があった(プリニウス、一一巻一八章)。
壇の浦の戦い前に海豚《いるか》の群、潮吹きながら来たりしを、安倍晴延考えてこの海豚食い返れば源氏に疑いあり、食い通れば御方《みかた》に憑《たのみ》なしと言ううち、ことごとく平家の船底を過ぎたので今は絶望と晴延落涙し、二位尼幼帝を抱き奉りて入水した(『源平盛衰記』四三)。一方源氏の方には、この軍《いくさ》に先だち六人で持ちかぬるほどの大亀一つ陸に上りしを、大将範頼吉兆なればと禁制を加え簡《ふだ》つけて放ち遣りしに、三月二十三日また源氏の船の前に泛《うか》ぶ。簡でその亀と識《し》り、範頼これ勝利の亀の告げよとて勇み進んで大捷し、また平家の人々海に沈む時、白鳩二羽源氏の船屋方《ふなやかた》の上に舞うた(『東鑑』四)。それから三百六十年ののち(天文十四)三月二十日午の刻、大亀一つ小田原の浜へ這い上がる。今度は八人で持ち煩う。北条氏康こいつは吉相と大酒宴を催し、神前に法楽の能四番あり、亀を海へ放つに浦を離れず浮かびおった。熊楠|謂《おも》うに、紀州の浦々へ今も海亀が上がると旧弊連これを買い取り、その腹へ南無阿弥陀仏年月日某々これを放つと朱書し酒を飲ませて海へ送り出す。その時亀必ず涙を流し一たび沈んでまた浮き出でこなたに向かい礼を述べて去るという。これ大法螺で、魚類と異《かわ》り鰓《あぎと》を持たず空気を呼吸せんため浮き出るので、涙を流すは酒に苦しんでのことじゃ。そんな酒があるなら僕に飲ますがよい。さて氏康は亀の吉相あってから五日のち河越へ出馬し、明年四月二十日の同じ午の刻に日刻違わず一戦に上杉を追い払い、関八州を治めた(『北条五代記』八)。信長が松山某をして高野山を伐たしめた時、四所明神の使者日赤の二犬、一文字に松山の軍勢に向かうと見るほどにたちまち総崩れとなった(『義残後覚』一)。ニュージーランドの軍士、進行の隊上をタラタラエ鳥飛べば凶、梟飛べば大凶とし、フィジー人は陣に臨んで緑色の蜥蜴を見るを不吉とした(ラツェル『人類史』巻一)。
以上、多くは偶然動物に邂逅《でくわ》せその挙動を覩《み》て軍《いくさ》の勝敗を判ずるのだが、進んではあらかじめ指定した動物を使用して吉凶を攷うるのも多い。田辺の湛増が日赤七番の鶏を闘わせしに、赤鶏一度も番《つが》わず逃げたれば決心して源氏に(143)加わりしは名高い咄《はなし》で、諸国に闘鶏《とりあわせ》盛んなるは、もとこれをもって軍《いくさ》の勝負を占うたものと予は惟《おも》う。唐の玄宗闘鶏を好み、長安の雄鶏、金尾、鉄距、高冠、昂首のもの千数を鶏坊に養《か》い、六軍の小児五百人をして飼わしめければ、貴臣、外戚みなこれを尚び、貧者あるいは木で作った鶏を弄ぶ。識者これは兵乱の象《しるし》と言うたが果たして然《しか》りし由で、鶏はどの国でも戦鳥と見なされた。むかしペルシア軍ギリシアを伐った時、テミストクレスこれを邀《むか》え戦わんと行軍中、二鶏の闘うを見、兵卒に向かい、この鳥は他の意なし、ただ負けるが嫌いで闘うんじゃと言ったので、一同興奮して大勝した。それからアテネで少年の勇気を鼓舞するため闘鶏を奨励した(ハズリット『信念および民俗』一巻一三五頁)。ミルチアデースもマラトンの戦い前に鶏を闘わせて士気を張り、古デーン人は軍中二鶏を携え、一は報更《ときしらせ》、一は士気を激するためにした(グベルナチス、二巻二九〇頁)。また古スエヴィ人は公費もて神林に馬を養い君主と大司教のみ触り得、神の車を括りつけてその嘶声《いななき》と身|揺《ぶる》いの状《さま》を観て占うた(一八四五年四板、コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』一二七頁)。中古ルイゲンでは祈?ののち僧が白馬を牽き出し、槍の尖《さき》を下にして三列立てたるを横ぎり歩ましむるに、右足まず踏み出さば戦利あり、左足先だてば利なしと知った(コックス、九頁)。わが邦で葦毛馬を忌むも、もとこれを神の寄るものとし、臨時卜いに用いたから、俗人の家に置くべからずとしたのでなかろうか。
それから『常山紀談』にいわく、「野間左馬之進物語に、田螺《たにし》を折敦《おしき》の片隅に三、また片隅に三寄せて両方へ分けて一夜置く時、その合戦勝負の負の方を追い込み勝の方は追い出ずることなり。大坂陣の城中、秀頼木村大野と称して盆の一方に三、また一方に関東方家康公井伊藤堂と称して三、田螺を置きて一夜置くに必ず関東方の三の田螺、内方《うちがた》の三の田螺を追い込みたるとなり。勝負の吉凶を兆《うらな》うことこれより良きはなしとなり。『武備志』にもこの兆《うらない》を出したり、考うべし」と。『古今図書集成』卜筮部紀事二の一五張裏に『番禺雑編』を引きて嶺表の諸卜を挙げた中に田螺卜あり。一八八三年サイゴン板『仏領交趾支那雑誌《コシヤンシン・フランセ―ズ》』一六号にエイモニエー氏言う、カンボジア国へ外寇攻め入る時、その民多く二つの田螺を採り、盆に沙を入れ水に浸し、香燭を供え国の守護神に?れば、戦いに勝つべき方を(144)表わせる田螺が負くべき奴を推し?《たお》す、と。二十年ほど前、予これらを聚めて『ネーチュール』に投じ〔"On Augury from Combat of Shell-fish,"May,13,1897〕他に類例ありやと問いしに、あるインド人答えを同誌に載せ、ボルネオのダヤク人が争いありて理非を証するに、磯の小螺《きしやご》を甲乙おのおの一つずつ持ち来たりて一緒に置き、レモン汁を搾《しぼ》り掛くると酸味に堪えかね、まず這い出す方を直、後れて行き始めるを曲とす、と言われた。
次に肩骨卜《スカブロマンシー》は、元の李冶《りや》の『敬斎古今※[?の草冠なし]』四に、「契丹《きつたん》、行軍するに日を択《えら》ばず。艾《》もぐさを用《も》って馬糞に和し、白羊の琵琶骨《びわこつ》の上にて炙《あぶ》り、破《わ》るればすなわち出で行き、破れずんばすなわち出でず。李子いわく、琵琶骨を炙《や》くは独り契丹のみならず、すべて蛮貊《ばんばく》はみなこれをなす、と」。『夷堅志』に、「西戎《せいじゆう》は羊を用《も》って卜《うらな》い、これを跋焦《》ばつしようと謂《い》う。艾をもって羊の髀《もも》の骨を灼《や》き、これを死跋焦と謂う。また、まず粟に呪《まじない》し、もって羊に食らわす。羊、粟を食らえば、すなわちおのずからその首を揺《うご》かす。すなわち羊を殺して、その五臓を視る。これを生跋焦と謂う」。支那で亀の甲を灼き、本邦上古鹿の肩骨《かたぼね》を灼き、その罅裂《ひびわれ》を視て卜いしもこの類だ。契丹ではもっぱら羊の肩骨で行軍の吉凶を占うたらしきも、英国やフランドルでは軍事もそのほかの件をも占うた。例せば、ヘンリ二世の時、マングネルなる者、夫妻とも卜法に精《くわ》し、ある時夫卜うて妻が夫の甥に通じ孕めるを知り、ひそかに卜法通り自家の羊の肩骨を調え隣家の羊の骨と称し、妻をして就《つ》いて占わしむると、やや久しく攷えたのち大いに笑うてその骨を投げ去ったから訳を尋ねると、その羊を今まで飼うた家の主婦はその夫の甥の子を妊みおると答えた。それほど秘事が判るのに、何故その骨はどこの羊の物ということに気がつかぬであろうか、とセルデンが笑評した(ハズリット、一巻一八一頁)。
獣や魚や虫等も戦争の卜《うらない》に用いられたが、鳥類が最も多く用いられた。支那やインドその他に鳥語を解した人の譚《はなし》多きは、鳥卜が盛んに行なわれた証《しるし》である。プリニウス七巻五七章にいわく、鳥卜はメガラ王カールが創《はじ》め、その後半神人オルフェウスが鳥のほかの諸動物で卜い始め、デルフスは諸動物の臓腑を視、チレシアスは鳥の臓腑を相《み》て卜う蹄を教えた、と。ボストク注に、ここにいわゆる鳥卜(アウギュリー)は、諸鳥の飛ぶと鳴くと食うとの様子を視て(145)卜うたので、犠牲に供えた動物の臓腑を視て占う臓腑卜《ハルスピシナ》よる上等の業《わざ》と認められたという。ただし、古バビロニアおよびアッシリアすでに、祝官が人の依頼に応じて牲羊児《にえひつじのこ》の肝及び鳥の飛び様、また、犬、豕《ぶた》、蛇、蠍《さそり》の動作を視て占うた(『大英百科全書』一一板、二三巻三一七頁。一九〇八年板、コソダー『人の興起』一八二頁)というから、鳥卜等諸卜法はギリシアばかりで発明されたでもなければ、ギリシアが最も古いでもない。支那でも、『抱朴子』に「軍術〔篇〕にいわく、衆鳥の群れ飛んで車の上を徘徊すれば、三日を過ぎずして暴兵の至るあり。鳥、軍中に聚《あつ》まれは、将軍まさに功を賞し秩《ちつ》を増すべし。鳥、将軍の旗に集まれば、将軍は官を増す。鳥の軍中に集まってその名を知るなければ、軍《いくさ》敗る、と」。宋の許洞の著わした兵書『虎鈐経』には、鳥を視て占う法ばかりに四章を費やしおる。『古今図書集成』虫豸異部彙考二に、蟻が軍営中に鳴けばその営空しくなるとあるは、同じく土中のものゆえ螻蛄《けら》鳴くを日本で蚯蚓《みみず》鳴くと誤るごとく支那で蟻鳴くと誤ったらしいが、とにかく陣中で鳥鳴を気遣うたあまり土中の虫の音まで注意したと判る。わが邦にも「神代巻」に天探女《あまのさぐめ》が雉の声を不吉として天稚彦《あめわかひこ》に殺さしめ、「神武天皇紀」に兄磯城《えしき》が八咫烏《やたのからす》悪《あ》しく鳴くとて射ることあり。
一八四九年板、ビーカーの『ダヤク人鬼神誌』に言う、むかし有力な酋長死せし時、その妻その子サムビラ・チオングに必ず人の首|刎《は》ね持ち来たり宴会し、首主の魂を亡父の奴として随《つ》れて冥土へ往かしめよと教えのままに、サムビラ・チオング旅人を暗殺し首持ち帰り客を招き大饗した。妓女高歌して死んだ酋長と殺された旅人を讃め、お静かに極楽へ入らっしゃいと囃す最中サムビラ・チオングたちまちアンタング鳥に化《な》り、長い赤い翼を叩いて妓女輩の上を飛び廻《めぐ》り、戸口より去って山中の湖辺に到った。それよりこの鳥多く殖えてインド諸島に蕃《はびこ》つた。ダヤク人これを尊ぶこと大方ならず、大事ごとにその飛び様を視て判断し、盛宴を張ってこれを謝すとあるが、鳥が盛宴に構うものか、やはり人間が飲みたいのだ。さてダヤク人この鳥を自分らの老友、同国人として親しむにすこぶる聞こえぬは、きわめて鶏を好き、毎度おびただしく捉《と》り去り啖《くら》う一事で、あまりしばしば御入来では堪まりきれず、戸口に並び立(146)って大呼してこれを断わるが発銃はせぬ、と。また英国の人類学者リングロス氏は、故福沢英之助氏と校友たり。予も時に文通する。斯学上大著述数あるうち、『サラワクおよび英領北|婆羅《ボルネオ》土人篇』一巻に右の話の異伝を解りやすく述べおり、その梗概は海《シー》ダヤク人は七種の兆鳥《うらないどり》を察せずに家建て、畑仕事、行陣に取りかからず。これを察するに、儀軌あって左右前後鳥声を聞く位置等定まりおり、吉音《よきね》を聞くまで著手を見合わす。件《くだん》の七鳥はシンガラン・ブロングの婿で、シンガラン・ブロングは鳥ながら軍神兼首狩りの守護神で、大空に棲み大鷹と現ず。この鳥王の娘が人の妻たりしも、夫を見捨てて海を踰《こ》えて去った。夫と子とこれを追って上天し鳥王宮に入り、その子が真に神孫たるを証《あか》したので、神これに漁猟、農作を教え、毎事鳥王の七婿の示しに随うべしと命じ、父子家に還りてその民を教育したということじゃ。
ダヤクの鳥卜よりもはるかに込み入ったのは古ローマの鳥卜で、鳥卜の官職(アウグレース)は開祖ロミュルス創めて設くという。為政者、軍旅《いくさ》その他の大事を行なうに神意に合《かな》うや否を伺うことを掌り、初めは王と二貴人より成りしが、のちに六人となり、次に四貴人、五平民の九人、スラの世に十五人、シーザルの時十六人となり、爾来帝国の代々通じて変りなく、西暦四世紀の末まで存在した。政治上重要の職たれば、名門高徳の人のみこれに任じ、もっとも衆の羨むところだった。鳥卜官《アウグレース》の正装は、紫の縁、緋の条ある朝服(トラベア)と節《ふし》なく頂《さき》曲れる如意(リツウス)より成る(第八図)。その卜は次の五兆を視、種々の伝受書によって判じた。一に天象、雷電、隕星等。二に鳥象、鷲、禿鵰《ヴアルチユール》等は飛ぶ方向、梟、烏と?《はしぶと》は鳴き声を聞く。平日軽き事件の吉凶を卜うには、単に何鳥が出て来たかを問うのみ。三に鳥食、これはおもに鶏に肉を食わしむるに口より一粒落とせば吉とし、すこぶる簡単だから多く行なわれ、ことに軍陣にこれを行なわんため、一僕に鶏を籠に入れて預けた。四に動物象、これは獣類、爬虫が行く方向および鳴き声を観察した。五に警戒象、これは上述諸象のほかすべての異常な現象で、大抵|凶《わる》いに極まっており、国事を卜う時のほか卜官の採らざるところだった(『大英百科全書』一一板、二巻。サイフェルト『希臘羅馬《ギリシアローマ》考古辞典』一九〇八年板、(147)八六頁)。と書き並べると大層立派だが、わが国の神職輩が愛国、赤誠などを口癖にして私慾我利を恣《ほしいま》まにするごとく、鳥卜官《アウグレース》も共和ローマの末すでに心底からその職を奉ずる者なかったと見え、シセロンは鳥卜官《アウグレース》二人笑わずに相|対《むか》うを得る例なしと嘲った。その前にクラウジウスなど、すでに鳥卜を信ぜず。この人カータゴ軍を撃たんとする時、人来たって神鶏穀を食わぬゆえ戦いを見合わすが好いと言うと、乱暴千万にも食うが嫌《いや》なら飲ませてやれとて、これを海に投げ込ませた。軍勢一同さても不信心な大将でござる、ろくなことはあるまいと喪心し、ローマ軍敗亡に及んだ。アフリカのワフマ人は鶏を飼えど食らわず、臓腑を見て卜うことにのみ用う(コックス、二五頁)。ビルマ人は戦争また訴訟を卜うに珍法あり。獅《しし》、牛、象の三像を握り飯で作りて鳥に食わしむるに、獅の像先だてば勝利、牛の像先だてば講和、象の像まず食わるれば敗北と断ずる(一八九三年坂、サンゼルマノ『緬甸《ビルマ》帝国』一四四頁)。
臓腑卜《ハルスピシナ》は、西半球ではペルーで、ライミ祭に供えた駝羊《ラマ》の牲《いけにえ》の臓腑を見て、卜うた(プレスコット『秘魯《ペルー》征服史』一巻三章)。東半球には、諸国これを行なう者少なからず。ローマでこれを職とする者良家の出に限った。第一に生きたる牲、第二にその臓腑を開き、第三にその肉を焼く火?《ほのお》を見て卜うた(コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』五板、四六頁)。牲牽き出しがたく、あるいは祭壇より逃げ出し、その心臓痩せ肝臓もしくはその包皮二あり、また心なく肝なき時は大凶、また牲を焼くに、その畜《けだもの》の尾が曲ったり?が腎虚した様に弱かつたり透明《すきとお》らなんだりするも、事不成就の兆だった。かつてハンニバルがビチニア王プルシアスにローマと戦えと勧めしに、王、臓腑占《ハルスピシナ》不吉を示せばとて聴かず。ハンニバル、噫《ああ》王は老将よりも羊の告げを重んずるかと歎じた。臓腑卜《ハルスピシナ》の最も古く弘まったのは、(148)神に牲にした畜の肝を取り出し、その様子を視て占う、いわゆる肝卜《ヘパトスコピー》で今もボルネオ、ビルマ、アフリカ等に行なわれ、西暦紀元前三千年すなわち現世二十世紀から千年|剰過《つり》を差し上げにゃならぬ疾《とう》の昔すでにバビロニアで羊の肝《きも》視て占うた。それから伝えたものか、エトラスカ、ギリシア、ローマ、また盛んにこれを行なうたが、インド、エジプトにこの卜法なし。
全く原始の人間は肝に魂おり、全体のうちもっとも賢い部分としたから肝卜が起こったので、おいおい知識が進んで心臓、ますます進んで脳髄に魂ありと判った。のちも魂の働きをこの三物に割り当て、考慮、思想等は脳、愛情、勇気は心、さて忿恚《いかり》、嫉妬《ねたみ》など下劣な働きを最初霊魂の座所とされた肝より出るものとプラトンなどは考えた、と米国ジャストロー教授の説だ。支那では、心は君主の官、神明ここに出ず、肝は将軍の官、謀慮出ずとまで言ったが、脳は魂の真の座所と判らんだらしい。日本にも肝に魂坐るとした証《しるし》『万葉集』などで見出し置いたが、しっかり覚えぬ。勇者を肝《きも》太いと言うは、支那で肝の腑《ふ》たる胆《い》を決断の出所とし、胆大いなれば勇に富むとしたからだろう。
去年、塹壕戦で長く働く人々を毛が生えた兵士と呼ぶこと仏国で流行《はや》った時、ドンネーこれを釈《と》いて彼輩《かれら》鬚剃らず長《の》びるに任せたゆえの称だと言った。ピエルポン説には、プリニウスの『博物志』に大剛の者の心臓に毛が生えおった話あり。しかし現時言うところはそれによったでなく、体の毛多き者は少なき者よりも強しという俗信から出た、とあった。プの書一一巻を見るに、心に毛生えた人、勇気、精力等|倫《たぐい》なし。メッセニアのアリストメネスは、一生にラケデモン人三百名を殺した。かつて虜《いけど》られて石掘り穴に投げられしに、狐に出口を示されて助かった。再度虜られた時は番兵熟睡せる間に、身を火の中に転がし込み、縛繩を焼き切って逃れた。三度目に捕われた時、敵生きたままその胸を剖《さ》くと心臓一面毛を被《かぶ》りおった、と出ず。日本では剛の者の肝《きも》に毛ありと言ったと見え、蒲生忠邦の臣罪ありて切腹するに、浴後検使に乞うて熟睡し、起きてのち吾輩《われら》ごとき強勢の者には肝に毛の生えるとむかしより申す、某《それがし》が肝にも毛あらん、必ず見たまえと頼んで切腹せしを、立ち寄りて見れば果たして毛生えたりとぞ(『新著聞集』勇烈篇)。
(149) 西洋で解剖学の起こりはバビロニアの肝卜《ヘパストコピー》だとジャストローは言ったが、支那には古く盗跖《とうせき》などまど人の肝を食うた話もあり、日本と違い人肉をも鳥獣をも食うたが、肝卜も始まらねば解剖学も精しくなかったは、全くその辺へ気がつかなんだのだ。欧人が久しく屎《くそ》小便が肥料になると知らなんだ例もあれば、むやみに東洋人を笑うべきでない。ついでに言いおくは、スロッソンは、一九一四年ベルグソンの『夢論』を英訳した序文に、五千年前すでに行なわれた星占法《アストロノミー》も夢卜法《オネイロマンシー》もふたつながら間違ったものだが、星占研究の結果物理学ができたるに反し、夢卜は今に一種の迷信として滞りおる、と言った。それと等しく、ほとんど五千年前すでに行なわれた肝卜法《ヘパトスコビー》はついに解剖学を起こしたるに、鳥卜法《アウギユリー》はさしもローマ時代にその発達を極めながら、後世それから何たる好結果を出さず、わずかに欧州の田舎漢《いなかもの》が今も鶯鳴けば慶び梟啼けば憂い、銭持ちて郭公の初鳴きを聞けば利を獲、烏頭上に鳴くは死の兆、右に飛ぶは災難迫れるを示し、左に飛ぶは用心せば避けうるを知らすなど信ずるに止まるは、卜法にさえ物になるとならぬの運命が定まれるか否か、それこそ一つ占うて見ねばならぬ。予在英中同じ博物館にあったリチャード・ガーネット氏(『大英百科全書』一一板にその伝あり)は、いつも星占法はずいぶん真理を含み、決して無茶に斥くべきでない、と主張した。予も年久しく諸般の動物占を調べ実際について精査するに、無根の言《こと》も多きと同時に根のある言も多く、根のある分は大いに動物の心理、習慣の研究の資《たすけ》となれば、根のなき分もまた古今人間が全く脱しえざる事理錯誤、実物歪観の標本として十分精査すべき価値ありと知った。世間全く無用の物なしとはこのことだんべい。
支那の兵家が占候というて学んだうちには、争うべからざる理由あるものがある。例の孫子が鳥起これば下に伏兵あり、烏集まれば陣|虚《むな》しと言えるごとき、八幡公が金沢攻めに大いに間に合ったそうだが、実は「低く飛ぶ雁ありさては水近し」という召波の句と同じく、分かりきったことだ。西洋にもベントの『ゼ・シクラジス』三九四頁に、ギリシアのアンチ・パロス島民はパロス島民これを蔑《みさ》げて烏と呼ぶ、彼輩《かれら》以前は毎事烏を視て占うた。例せば、烏が樹に止まるに北側ならまず無事だが、南側なら海賊海峡に入れる徴《しるし》とし忙ぎ走って邑《むら》の門を閉じたとあるは、迷信でな(150)く十分理窟あり。烏は眼至って明らかに注意深いものゆえ、自然南にある海峡へ海賊来たるを気づいてそなた向いて望み守るのじゃ。この島は北側より上陸は難しと見える。一三〇七年に成ったハイトンの『韃靼史』仏訳一七三五年ヘーグ板七一行にいわく、ホチタイの軍兵カルバンダ国を攻むるに寒時六ヵ月中のみレデルベント道より討ち入り得、しかるにその国人シバという地に砦《とりで》と隍《ほり》を設けてこの道を守禦し、敵たびたび忍び入らんとすれど能わず。その仔細はその辺にモンザ原あり。セイセラチとて雉の大きさで羽美しき鳥冬中多くここに棲み、少しでも人その原に入れば一同飛び起ちて隍の上を過ぎる。砦の兵ども、そりゃ敵が遣って来たと気づいて防戦の備えを厳にするからだ、と。これらは最初人が頼まぬに偶然鳥の挙動が人を助けたのだが、中にはこれを吉例として自然その鳥を保護しまた飼養するに及んだのもあろう。誰も知る通り、ガウル人がローマの議政堂を夜ひそかに囲んだ時、犬は黙ったが鵝《が》は噪《さわ》ぎ鳴いて警報した。それから鵝を神使として尊び飼い、センソルの職に就《つ》く者、諸事に先だち神鵝に与うる餌の世話をした。『類函』四二六に、法志林が、鵝はよく盗を警《いま》しめ、また蛇を却《しりぞ》くるに、当時劉宋の代、雨を祈るに鵝の項《うなじ》を割《さ》き血を取り鵝とともに奠《そな》うるは不幸な鳥だと言ったとあれば、支那でも古くその夜警の功を賞めたのだ。また唐の憲宗|詔《みことのり》して呉元済を討たしめし時、李愬雪、夜、蔡州城旁の鵝鴨《がおう》の池を撃たしめ、水鳥の騒ぎで軍声を聞かざらしめ、城に攻め入って元済を擒《とりこ》にしたは大出来だが、平家の軍勢が富士河の水鳥の騒声に驚いて逃げ上ったは臆病の手本として長く伝えられた。
右の通り動物が軍の助けとなった実例が少なからぬところから、おいおいそのことを敷衍《ふえん》して、真偽判じがたく、もしくは嘘としか考えられぬ譚も多く生じた。嘘に縁ある狐から始めると、永禄九年小田原勢館林城を攻めしに、風雨の夜、城兵七、八十人討ち出で敵陣大いに騒ぐ時、大袋山より松明二、三百敵陣の後へ廻ると見え、敵軍敗走す。さて、かの山を望むに最前の火影なし。夜明けて見るに牛馬の朽骨山谷に充満し、獣の足跡多ければ尋ね見るに、城の鎮守稲荷の社地に至って留まる。この館林城はもと赤井但馬入道法蓮が、途上、小児輩狐の子を穀さんとするを助(151)け、その父狐の教えによりて築き、その狐小男と現われたのを稲荷と崇めたのだ(『関八州古戦録』四及び八)。加賀の家中長九郎左衛門の家に多く狐を住ましむること犬のごとく、犬を禁じて門内に一疋も入れず。家の先祖、能州合戦の際、狐軍功を助けしゆえという(『三州奇談』後編三)。『紳書』一〇には、長氏の家にその祖信連時代の老狐あり。今に平日出ずる、凶事ある前に見えず。信連能登へ下りし途で飢えたりしに、この狐死人を送った枕飯を食わせし由で、長の家では元朝餅より先に枕飯を参らすとあるから見ると、信連に枕飯を与えた狐が信連の後胤の合戦に助勢したらしい。越後の城氏の祖繁盛は、幼時狐に養われ刀を貰うたと言えば、城氏の軍《いくさ》を狐が助けたという話もあったであろう。これに反し、薩摩陣に驍名を馳せた宮部善祥坊の子長房は、関ヶ原の役に狐に魅《ばか》され軍《いくさ》の間に合わず、ために鳥取二十四万石を棒に振ったと何かで読んだ。定めて狐を虐待した報いということだろう。
御幣担ぎが尊奉したり未開民が族霊《トテム》と仰ぐ物が変に臨んで人を助くる例、『徒然草』に、平素|蘿蔔《だいこん》を尊び食らいし者敵に襲われし時、蘿蔔が人に化《な》つて来たり救うたと載せ、ハウィットの『東南濠州土民《ネチヴス・トライヴス・オブ・サウスイースト・オーストラリア》』一九〇四年板四〇〇頁に、長尾驢《カンガルー》を族霊《トテム》とすると、蕃人が他《ひと》に襲われんとする節、必ず一老長尾驢来たつてその顔を眺める、とある。古エジプトへアッシリア勢攻め入りし時、士族どもかねてエジプト王を恨みしゆえ敵を禦《ふせ》がず。王哀しんで神に?ると、必ず助け遣わすから士族などに構わず戦えと夢の告げあり。よって商工輩を随え出陣す。その夜、野?《のねずみ》無数敵営に入って箙《えびら》、弓弦、楯紐を喫《く》い尽しければ、敵戦うことならず、翌朝逃げ去った(ヘロドトス、二巻一四一章)。『西域記』に、瞿薩旦那《くさたんな》国王(『宋高僧伝』には西京府の営塁)敵に攻められた時、金色の鼠、敵の兵器の帯系《ひも》、弓弦をみな?み断ったので、大勝を得たという。本邦にも『東鑑』に、平家方俣野景久ら甲斐源氏を襲わんと富士山下に宿りし夜、景久並びに郎等の百余張の弓弦鼠に絶たれ、詮術《せんすべ》を知らぬところを安田、工藤らに討たれ敗走した、と出ず。
戦い放れて身危うき大将を動物が救い、それより運を開いて鴻業を建てた話が諸国にある。わが国で最も著名なは、頼朝が石橋に放れ杉山の臥木《ふしき》の中に隠れしを、梶原景時尋ね当て、頼朝自害と見えたので哀れを催すうち、蜘蛛糸を(152)穴口に引く。景時不思議と思い、その糸を弓筈《ゆはず》、甲鉢《かぶとのはち》に引っ懸け出で、跡より来たって強いて捜らんという大庭景親に示し、人この穴に隠れたらんに蜘妹の糸懸かるべしや、この上不審するはわれを疑うのだと怒ったので、大場もさすが穴へ這入らなんだが、弓を入れて捜って見ると頼朝の鎧の袖に当たった。頼朝その時深く八幡を念ずると、たちまち臥木の中から山鳩二羽はたはたと羽打ちして出たから、疑い少しく晴れたところへ大雷雨と来たのでひとまず去った跡で、頼朝は真鶴まで落ち延びたという(『源平盛衰記』二一)。
木に匿《かく》されて命助かるは少しも珍しからず。『日本紀』三に、孔舎衛坂《くさえのさか》の戦いに人あり、大樹に隠れて難を免れ、その樹を指して恵み母《おも》のごとしと言うた、時人よってその地を母木邑《おものきのむら》と言ったと見え、『盛衰記』には、聖徳太子、天武天皇いずれも軍《いくさ》危うき際、椋《むく》と榎《えのき》がおのずから二つに割れて中に隠し奉ったという。俗に伝う、摂州天王寺七村中粟を植えず、太子守屋に逐われ粟圃《あわばたけ》に隠れしに粟の穂風に聞いて隠れえなんだから、と(『和漢三才図会』七五)。清朝の始祖、支那人と戦い負けて独り地に坐し死を俟つところへ、その母フェグラ神女一つの鵲《かささぎ》を降《くだ》してその頭に留まらしめしを、敵遠く望んで古木に鳥留まれりと誤認し、清祖命を全うした、故に清朝厳法をもって鵲を保護した(一八七五年『チャイナ・レヴュー』三巻六号三六八頁)。ハイトンの『韃靼史』には、成吉思汗《ジンギスカン》軍敗れて樹下に隠れし時、その枝にブボ鳥来たり留まる。敵これを見て来たり捜らず、命助かった。それより韃靼人|甚《いた》くこの鳥を敬し、その羽を得ば大吉とし頭上に戴き行く、と言うた。斉・梁の世、名高かった宝誌和尚方へ殷斉之という地方官が告別に行くと、和尚紙に烏が樹に止まったところを画き示し、急な時この木に誉れと言うた。その後斉之軍敗れて房山に逃げ入り追騎《おつて》及ばんとせしに、林中樹上烏あって前《さき》に誌が画いた通りゆえ悟って樹に登りしも烏去らず、追手は烏を見て人なしと謂《おも》い往ってしまって斉之は免れた(『神僧伝』四)。『類函』四二五、『地里志』を引いて、?陽《けいよう》に厄井あり、漢の高祖、項羽を避けてこの井に入りしに、ふたつの鳩井の上に集まり難を脱れた、故に漢の世元旦鳩を放ったと言い、四四九には『郡国志』を引いて、?柴陽に厄井あり、伝説に高祖敵に追われこの井に匿れしに、蜘蛛あり網を結うてその井の
(153)
盛衰記』同様ちゃんと鳩と蜘蛛を一の話に入れたのがある。回祖《マホメツト》アブ・ベケルとともにメッカを出てメジナに夜遁れ、天夜《よあけ》にトール山麓に着いた時、追手の足音を聞き洞《ほら》の中に竄《かく》る。追手洞口に至ればアカシアの木そこに生え塞り、鳩その枝に巣くい卵を温め、また蜘蛛あり罔《あみ》もてこれを蔽えり。人がおるべき様子なければ他方を捜しに追手みな去った(アーヴィング『回祖伝』一三章)。『地理志』は知らず、『郡国志』は唐の章懐著わす。回祖《マホメツト》は支那陳の世に当たって生まれ、唐初武徳五年メッカを遁れメジナでその宗旨を興し、貞観六年六十一で死んだ。唐代回教を奉ずる民多く支那へ渡りしは、上に引いた『西暦九世紀|亜喇伯《アラビア》人|波斯《ペルシア》人|印度《インド》支那航記』やマスジの『金野宝山篇』に見え、唐の鑒真《がんじん》本邦へ渡る海上、万安州大首領馮氏に宿りし。馮氏、毎年|波斯《はし》船を劫《おびや》かし、物を取り人を奴《ど》とした。また広州の江中で婆羅門《ばらもん》、波斯等の舶《ふね》無数なるを見た(『唐大和上東征伝』)。『続紀』一二、天平八年、波斯人李密医、拝朝、位を授かる。はるかのち延喜の朝、長秀法師波斯より来たる(『塵添?嚢抄』一五)。『北辺随筆』に、鶏を古えクダカケと言ったは、もと百済から渡り、鷂《はしだか》という鷹は始め波斯国より来たのであろう、『宇都保物語』に、俊蔭、波斯国に往きし由出で、『江談抄』に波斯国語一より千までの読みを出したほどゆえ、むかしは本邦と疎《うと》からぬ国らしい、とある。波斯《ペルシア》より良き鷹を出した由は、マルコ・ポロなども言うた。
『江談抄』の波斯《はし》数字の読みは、多くは誤写ゆえか何国語とも確然《はつきり》判らぬが、二を止《ト》アと読めるがいささか波斯《ペルシア》語の二(ドウー)に似るのみ、他は全く波斯語と合わぬ。しかして『江談抄』の波斯読みに、一ササカ、二|止《ト》ア、四ナムハ、五|利摩《リマ》、六ナム、九|佐伊美羅《サイビラ》、十|沙羅盧《サラロ》、二十|止《ト》ア盧《ロ》、百サ|羅止雨《ラトウ》とあるは、むろん訛聞誤記もありながら、マレー語で、一サツ、二ズア、四アムパット、五リマ、六アナム(北ボルネオでヌム)、九サムビラン、十サプロ、二十ズアプロ、百サラツスと数うるに、あるいは合い、あるいは近い。惟うに、当時|波斯《ペルシア》船に多くマレー人が乗り込みおったの(154)で、マレーその他|波斯《ペルシア》人に使われた諸種族|水手《かこ》の語が混合して、『江談抄』にいわゆる波斯《はし》読みとなったこと、後年伝えた南蛮語やオランダ語にインド諸島やインドシナの語がスペイン、ポルトガル、オランダの語に混じた例多かったごとくだろう。大食《タージ》すなわちアラビア人が唐のころ日本へ来たことも調べおいたが、二十年も前のことゆえ今ちょっと筆記が見当たらぬ。しかし、例の遣唐副使|大伴古麿《おおとものこまろ》が玄宗の前で賀正の座位を争い勝ちて、東畔第一大食国の上に坐したこともあれば、邦人が唐国でアラビアその他の回教民と言談したは確かだ。
したがって、上述|回祖《マホメツト》が鳩と蜘蛛とアカシア樹に助けられた譚《はなし》を、直接回教民より聞き、もしくは唐人より再伝したのが、後年頼朝鳩と蜘蛛と臥木で助かった談《はなし》となったのかとも惟う。回祖|件《くだん》の譚は決して正伝でないが、根本すこぶる早くできたものと見え、欧州にも南洋にも異伝あり。紀元前三世紀に、ユダヤ人ベン・シラが書いたは、ダヴィッド一日《あるひ》園中に坐して、蜂が蜘蛛を食らうと痴漢《あほう》が棒持ち来たり逐うを見、この蜂は蜜蜂と違い蜜を作らず物を損ず、蜘蛛は常に糸を織れど着物ができず、痴漢は人を害し何も知らぬ、何のために神がこんな無用な物を三まで作ったか合点行かぬと言いしに、たちまち上帝の声あって、汝今この三物を嘲るが、やがてかれらに救われて初めてわがかれらを作った訳《わけ》が分かるであろう、と言うた。その後ダがサウルに追われて洞中に隠れた時、蜘蛛来たつて罟《あみ》を洞口に張った。サさてはここに人なしと心得て行き過ぎた。次にダがアチシュの前に在った時、痴漢の擬《まね》した。アの娘もとより痴《あほう》だったから、ア困りきってダを構いつけず。よって脱れてサウルが午眠《ひるね》せる洞に向かうにアブネル脚を曲げて洞口に睡れるを潜り入って水瓶《みすがめ》を取り出でんとするに、ア両脚を延ばしたから出る能わず。ダここにおいて上帝に嘆願すると、蜂来たつてアの脚を螫《さ》す。痛さに覚えず脚を挙げた透間を通って出るを得、なるほど上帝の作に無用の物なしと悟ったという。ジェームス・ロー説に、南洋の回教徒は蜘蛛を敬う。それはいずれの時か、回祖身を井の中に隠せしに、蜘蛛黒き網を井の口に張った。しかるに、守宮《やもり》が声を立てたので敵が気づいて井を捜し、回祖《マホメツト》を見出だしたからだ、と。
(155) バートンの『千一夜譚《サウザンド・ナイツ・エンド・ア・ナイト》』六巻三八二頁注には、俗伝に言う、回祖《マホメツト》例の洞に潜んだ時、鳥が追手に対してガール、ガール(洞々《ほらほら》)と鳴いたから、回祖これを憤り、爾来常にガール、ガールと鳴いて自分の罪を白《あらわ》し、かつ尽未来際、黒い喪服して不吉の鳥たるを示さしめたという、と。またパルグレーヴの『一八六二、六三年中央および東部亜喇比亜《アラビア》紀行』三章には、一八二〇年ごろ、アブダラなる者敵に追われ走る途中賊に襲われ、従類みな殺され、アも喉を切られ臥しおりたるに、沙漠の蝗《いなご》来たり囲み翼を鼓し足を?《け》って熱沙を傷口に投げ込み、終《つい》に血を止めた。そのあいだ、その辺に多きカタ鳥、アの上に群飛して熱日を障り、彼を休めた。この鳥群飛して陰を作るは、喉切られたアブダラのみならず、実際沙漠を旅する者の毎度感恩するところだ。ところへダマスクスの一豪商通り合わせ、この体《てい》を睹《み》てこの人かかる天佑あるは尋常人でないと勘づき、伴れ帰りて療養させた上、兵と糧を給してアラビアへ還し、それより開運してついにはーエル王となった、とある。この人ちょっと偉かったゆえ、回祖の古い伝をいささか翻案《つくりかえ》て付会されたらしい。
動物に命を救われた譚あれば、また動物近くあったために亡びた例もなきにあらず。真偽は知らぬが、アストレイの書(上に引く、二巻五三一頁)に、アフリカのマノウ国のファントン鳥、大きさ雲雀のごとく、獣隠れたる近処の木に棲《とま》り猟人近づけば高声で鳴く。猟人その時トントンケーン(汝に蹤《つ》いて行こう)と応うれば、鳥ただちに獣の上へ飛び往いて案内し討たしむ、と見ゆ。桐山力所の『飛驛遺乗合府』(大正三年板、二六二頁)に、三島将監、碁のことより内島為氏と戦い、敗れて深山に匿れ誦経しおりたるに、里犬の鳴き声を聞きつけて敵攻め来たり、勢い尽きて自害し郎党みな討死す。乳母のみようよう二歳なる男子を懐き川を渡るところを追手駆けつけた。乳母|賢《さか》しくもかの子を抱いて一足二足立ち戻り男根を彼の方へ引きつけて川を隔てて示すと、さては女子なり殺すに足らずと宥《ゆる》して去った、とある。『八犬伝』五一に、里見義弘、国府台にありしを北条勢攻むるうち、台のうしろの岐川《えだがわ》に鵠《こう》降り立てるを見て浅瀬なるを知り、渡り襲うて里見勢を破ったという伝説に基づいて、「遠くとも向かへは隠れなき敵の見えぬうしろ(156)に要心をせよ」という歌を馬琴が出しおる。異本『小田原記』一に言う、日本武尊、東征の帰途この河の浅深を知らず渡りかね給うところに、鵠一羽来たり瀬踏みをしてこの台に上り、尊に向かうて羽を垂れた。尊大いに感じ給い、鵠にこの山を与えて永代山の主とし鵠|許多《あまた》棲んだから鵠台《こうのだい》と名づく、と。されば見る人の立場次第で、同じ鵠ながら害にも益にもなる。
現時マレー半島に住むサビムマ人は、もとバッタム島でかなり繁昌しおりしに、海賊に荒らされたこと数知れず、全然絶望のあまりことごとく旧慣を廃して全くの野蛮となり、誓って農を勤めず居宅を構えず林中に漂浪し、ことに毎度鶏が鳴いたために敵に在処《ありか》を知られ、掠略、殺傷されたるを憾《うら》み、鶏を飼いも食いもせぬ(一八四七年シンガポール板『印度群島および東方亜細亜雑誌』一巻二九六頁)。紀州西牟婁郡将軍山に、日向玄徳という武人住みしとて遺蹟多し。十年ほど前まで、その辺の人鶏を飼わず。玄徳の霊|太《いた》く忌むゆえと言うた。その他にも鶏を忌む所、熊野に若干《そこばく》ありし。予深山を歩むに、妖怪《ばけもの》の出そうな場所で鶏鳴を聞きつけ往って見ると、土に穴を掘りほとんど地面と平続きに茅屋根を覆い、その内に小児遊びおる。父母いずれも林中へ仕事に出おる様子、帰り来るまで待って話すに、炭焼きまた木地屋等なりし。この次第ゆえ戦闘大流行の世に、鶏は山籠りに禁物だったと見える。ただし『常山紀談』に、池田輝政、鶏を領分の百姓譜代の士《さむらい》と併せて武将の三の重宝とし、他の相図は敵の耳目に懸かれば敵国にてなしがたし、鶏は誰もその相図と知らぬゆえ、敵国の鶏の一番声で人衆を起こし、二番声で食事、三番声で打ち立つなどと定めても敵が勘づかぬと言われた通り、これも用い様で大いに軍用に立ったもので、鶏をもって敵営を焼いたことは最前すでに述べた。またかの日向玄徳は、将軍山に籠りしを正成が攻めた。ある朝烏多く飛び来たる。その羽|旭《あさひ》に輝くを正成の兵抜刀しておびただしく寄せ来ると誤認し、詮方《せんかた》尽きて自殺した。それから今に玄徳の邸趾《やしきあと》の樹に烏が巣くわぬと言い伝える。
これを要するに、むかしは種々の動物を戦争に用いたこともあつたが、人間殖え動物減じ、機械がますます働きを(157)増しゆくに伴れて、象はもちろん、牛、馬、駱駝までも用途が少なくなりゆけば、火鶏、火牛などは一場の昔談《むかしばなし》とないおわり、たまたま今年独領アフリカで蜂を軍《いくさ》に利用したごときことあるも、何たる大功ありしを聞かぬ。食用、運送、騎乗のほかに、動物を軍用することはほとんどなくなったのである。(大正五年十月二十九日脱稿)
本文書きおわってのち、サウシの『随得手録《コンモンプレイス・ブツク》』三輯を読むに、十字軍の時、回将サラジン、キリスト徒の営中へ投げ込むため二大蛇を籠に入れ廻漕するを、キリスト軍に捉られたことあり。京伝の『優曇華物語』大蛇《おろち》太郎という賊が人造の大蛇で旅人を嚇し荷物を奪うた小説のような談《はなし》だが、むかしの軍《いくさ》には真の大蛇までも使うたのだ。また元治元年七月、京都|軍《いくさ》に上った長士のうち老猿二疋引率相違|無之《これなき》由、大の方はおよそ長《たけ》五尺もあるべくやと相見え、佩刀裁付著《かたなたつつけちやく》の由、もっとも何の用とも相分かちがたき由、全く志士のうち猿好きの人引き連れ候ことか、強いて深き議論あることにはあらざるべし、とそのころ大阪よりある紀州人へ宛てた書翰に載ったと見た。そのころ大評判だったらしいが、何の故に猴《さる》を軍《いくさ》に伴れ行きしか、識者の教えを竢つ。
(大正五年十二月『太陽』二二巻一四号、大正六年五月『太陽』二三巻五号)
(159) 常世国について
石巻良夫「常世国」参照
(『人性』八巻一〇号三六八-三七一頁)
紀州田辺の一老嫗の識れる子守唄に「大和万歳とちわ〔三字傍点〕のつばめ」。下の句を、予今は忘却せり。嫗言いしは、大和万歳も燕も、春来たりて秋故郷に帰るゆえ、かく唄うなり、とちわ〔三字傍点〕は燕の故郷なり、と。これを聞いて後、明治四十一年六月上旬、七里ばかり隔たる栗栖川村大字水上という山邑に遊び、中林近蔵と言える老人に聞きしは、この辺にとちわびき〔五字傍点〕あり、緑色の線条ある蛙にて、鳴き声高し、むかし日本になかりしが、蛇に乗りて渡海し来たる、報謝に脚を与えんと約しながら、今に履行せず、蛇これを恨み毎度この蛙を食うに必ずその脚より始むとぞ。この話の最中に、かの蛙鳴き出したれば、中林氏に乞いてこれを捉え来たらしめ、検査するに、尋常の「とのさまがえる」なりき。
ちなみに言う。蛇が蛙を食らうこと、わが邦の古語に城州|蟹満寺《かにまたでら》の伝記等その例多し。欧州には如何《いかが》なりや知らず。仏経に見えたる例を少々書きつけんに、竜樹大士の『大智度論』巻一二にいわく、「提婆達多《だいばだつた》のごときは、本生《はんじよう》かつて一の蛇たり。一の蝦蟇《かえる》と一の亀と、おなじ池の中にあり、共に親友として結ぶ。その後、池水の竭《か》れ尽き、飢窮困乏するも、控《うつた》え告ぐるところなし。時に、蛇、亀を遣わし、もって蝦蟇を呼ばしむ。蝦蟇、偈《げ》を説き、亀を遣わして言わしむ、もし貧窮に遭いて本心を失わば、本義に准《よ》らずして食を先になすなり、汝わが声《ことば》を持して、もって蛇に語《つ》げよ、蝦蟇は終《つい》に汝が辺《もと》に到らず、と」。元魏の朝に訳されし『雑宝蔵経』巻三に、迦尸《かし》国の竜王兄弟、国王の殺生(160)を忌み、一小竜の住所に到り寄りしに、小竜これを悪口することはなはだしかりければ、「弟竜王、きわめて大いに忿怒《いか》り、これに語っていわく、これ汝小竜は常に蝦蟇を食らうのみ、われもし気をもって汝を吹かば、眷属《けんぞく》みな消滅せしめん、と」。兄竜王これを戒め、共に本処に還る、と見えたり。また『菩薩宿命経』に、波桓提国に大蛇生じ、人民を食いしを、二道人ありて、一人蝦蟇となりこれを誘い、一人裘奈となってこれを逐い却《しりぞ》けし話あり。裘奈は奈裘羅(ナクラ)の誤りならん。ナクラは、先年渡瀬博士が将来せしモングースの梵名、よく毒蛇を平らぐる獣なり。梁の僧旻等の『経律異相』巻四八に、「竜、神力もてみずから百味の飲食《おんじき》と化し、最後の一口は変じて蝦蟇となる。もしみずから卷属を化《け》し、道心を発し、?《くろ》き衣を施し乞《あた》え、よく諸竜をしておのおの供養を興さしむれば、沙は身に雨《ふ》らず、及び衆《おお》くの患《くるしみ》を離れん(またいわく、変身して蛇?《だき》等となれば、蝦蟇および金翅鳥《こんじちよう》に遭わず、と)、云々」。これ尋常の竜蛇、本来悪業重く、熱沙その身に降下し、金翅鳥に食われ、また蝦蟇を食うを免れず、とせるなり。
『和漢三才図会』巻四二に、『本草綱目』に、秋の社日《しやにち》に燕去って窟穴の中に蟄《ちつ》す、その海を渡ると謂うは謬りなり(プリニウスの『博物志』巻一〇にも似たる弁あり)とあるを引き、「和俗にもまた、燕の常盤の国に往来すと謂うは、みな非なり」と註せり。いわゆる「とちわ」は常磐国なること疑いなく、南方熟地、草木常緑の地あるを伝称して、漠然これを呼びたる名なるべし。また鳥群飛び去るを見て、その方に国また島あるを知り中《あ》つる例少なからず(『平治物語』の為朝の話等)。冬寒に先だちて燕等の諸鳥南に去るを見て、その方に常緑の暖地あるを察知するも自然の成行きなり。
すべて漁猟で生を営む民は鳥魚のことにのみ不断懸念す。四年前本宮近辺より、舟にて北山川を溯り、大和に往きし途上、人々の話すところ、全く年魚《あゆ》のことの他なし。ルッソー『自懺篇』に、介の化石を宅地より掘り出して以来、そのことばかり話す人を介偏狂(コンキリオマニア)と嘲称せるを想い出で、可笑《おか》しく覚えたり。さて『採薬使記』に、(161)外が浜あたりには、毎年秋、雁の来るころ、ここにて羽を息《やす》め、嘴に一尺ばかりの木枝を含み来るを捨て置き、南へ飛び去り、来春帰るころ、捨て置きたる木をまた一本ずつ含み北海へ帰る。しかれども帰る雁は稀《まれ》にして、右の木の枝残れる数多きを、土人採り聚めて湯を焚き、諸人に浴せしむ。他国にて多く人のために捕われたる雁の供養とて、毎年の例とす。俗に外が浜の雁風呂湯と言う、と見ゆ。五年前、十一月十五日の『大阪毎日』紙に、つぐみ毎年十月下旬より十一月下旬まで無数渡来す。北陸近海の漁夫は、鳥拾いとて、日本海に出漁する際、海に落ちたるつぐみを、時により一人にて五、六百羽も拾う。東濃にてつぐみを捕ること盛んに、仮に一羽四銭として、八十万羽捕るとすれば三万二千円、わずかの間にこの地方に落つる、云々、とありき。鳥類減少の非難高き今日すら、かくのごとく多く到る地方もあるなれば、古え、人少なかりし世に、鳥類おびただしく来たりしこと知るべく、したがって人民一汎その去就に注意深かりしを察すべし。
『本草啓蒙』巻四四に、燕、秋社より南方暖国に渡る、『中山伝信録』に「七月、玄鳥来たる。註に、燕この月に至って始めて来たる、という。また、燕の七月に来たるは人屋に巣くわず、という」、この文によれば、実に南国に帰り去ると見えたり、と出ず。予は鳥学を識らず。ただし燕の品種一ならずと聞けば、必ずしも内地と琉球と、同種の燕が異時に到るにあらざるべしと思えど、とにかくかかることを伝聞して、古人が、燕が常磐国に来去するという信念をますます固めたるなるべしと惟う。
仏経の楽土、花樹常に盛り、ヘシオッド記するところの仙島、毎年|菓《み》三度結ぶなどを攷え合わせ、また音便の相近きより推すに、常磐国は常世国の一名にあらざるか。果たして然らば、いずれも最初は南方海を隔てし暖国を指したる号《な》にて、後にもっぱら楽土仙境の義を具うるに及べるものならん。一向不案内のことゆえ、記して大方の教えを待つ。
楽土の位置に転遷ある例、Seyffert,'A Dictionary of Classical Antiquities,'London,1908,p.212 に、ギリシア(162)人の楽土、エリシュム、初め世界の西端の美なる野原、次に海中の仙島、後には地下にありと做《な》されたる由を言えり。鶏を常世の長鳴鳥と言うも、最初南方の異国より渡りしに由るか。ダーウィンの説に、鶏に四種あり、しかして一切の家鶏その源を赤藪鶏(レッド・ジャングル・ファウル)に発せり、と。この種はインド、ビルマ、交趾《こうし》、マレー半島および諸島に野生す。
(追記一)古エジプトの墓中に、人の霊魂を鳥形に画けるものあるを見しことあり。耶蘇教徒の画に、天使、天童を鳥翅あるものに画けり。Leo Frobenius,'The Childhood of Man,'trans.Keane,1909,p.254 に、鳥は高く飛ぶものゆえ、動物中最高位のものとするは当然なり。バゴス人、雨候に諸鳥飛び去るを見て、これ吾人の祖先が、日常に照り、病なく、洪水なき国土に往くなり、と言う。古ドイツにも多少似たことあり。西アフリカ土人は、人の死屍に鳥を結びつけ、南洋諸島民は棺を鳥形にし、霊魂鳥に乗って上天すと信ぜり、と言えり。日本武尊白鳥の故事は誰も知るところなり。ハーバート・スペンセルの『社会学原理』一巻二二章に、古えは洞窟に埋葬する風盛んなりしゆえ、洞窟に多き梟《ふくろう》と蝙蝠《こうもり》を死人の変化と做《な》せり、とあり。G.L.Gomme,'Ethnology in Folklore,'1892,p.159 に、死人の魂を飛ぶものと見立てしより、ついに鳥と虫を死人の托するところと信ずるに及べる例を挙げていわく、英国ヨークシャーの村民、夜飛ぶ蛾を霊魂と呼び、アイルランドの某地には蝶を祖父の魂と名づく。(立山に蝶を亡者の魂とし、駿河で蜻蛉を正雪の霊とするごとし。)ロンドンにてすら、雀を死人の魂と想いし例あり。マヨ郡には、不犯にて終わりし素女《きむすめ》天鵞《はくちよう》となると伝え、デヴォンシャーに、死して鳥に托するという一族あり。コーンウォールには、アーサー王死して鴉となり現存すと言い、ニッダーデールの鄙人は、洗礼受けず夭せし児の魂、夜鷹に寄ると言う、と。わが上古の民もまた、燕等がときを定めて必ず南渡するを観《み》て、祖霊鳥に乗って暖温常緑の楽土に帰るとせしにあらざるか。欧亜諸邦に、燕を神使とせる例多く、予の「燕石考」(未刊)に集めたり。紀州には今もこれを秋葉の神使とす。デンマークの吉介塚に諸鳥の骨を埋めたるも、二種の燕の骨を全く見ずという(C.Harwick,'Traditions,Supersti(163)tions, and Folk-lore, '1872,p.243。また、いずれの地にも燕を神鳥とす、と言える学者もあるなり(Kelly, 'Curiosities of Imdo-Europian Traditions and Folk-lore, '1863.p.177)
(追記二)マケドニアの耶蘇教徒、またことに回教徒は、鸛《こうのとり》を吉鳥とし、その到来を平和の徴とし、トルコ人これを巡礼者と呼び、年々鸛が南に飛び去るをメッカ聖地に巡礼のためとす(Abbott,'Macedonian Folklore,'1903,p.109)。古ローマ家神の使い物は燕にて、古ロデス民は、燕来るごとに讃唱してこれを迎うる式を行なえり(Brand,'Popular Antiquities,'1870、vol.iii,p.188)。古スウェーデンの暦に、春分、秋分を標するに燕をもってし、今もこれを殺すを惡兆とす(Lloyd,'Peasant Life in Sweden,'1870,p.225)。 (大正元年十一月『人性』八巻一一号)
【追加】
前号に掲げし常世国について、その後見当たりたるものあれば、重ねて追加すべし。呉の月支国|優婆塞《うばそく》支謙が訳せる『仏説七女経』に、拘留《くる》国の摩訶蜜|婆羅門《ばらもん》の七女、塚間に死屍を観て、おのおの偈を吐き死人の魄を救う。第二女いわく、「雀、瓶《かめ》の中にあり。その口を覆蓋《おお》えば、出でて飛ぶあたわず。今、瓶すでに破《わ》れ、雀飛びて去る」と。古エジプト人が霊魂を鳥形に画けるとほぼ同意なり。また『正法念処経』巻二七に、仏寺、僧房を造飾せる諸工匠師、「命終えて天に生まるれば、衆鳥の身を受く。雑業《ぞうごう》を造作して持戒せざるものも、この鳥身と作《な》る。あるいは鹿の形、衆蜂の身を受け、常に快楽を受く」。これ無智ながら善業を造りし者は、天上の鳥となり、色蜂となり、妙音を出して遊ぶと做《な》せるなり。巻二八には、三十三天の第十一地の諸天衆、鳥と遊戯し、天と畜生と差別なし、と載せたり。
(大正元年十二月『人性』八巻一二号)
(165) 白米城の話
中川長昌「白米城の話」参照
(『郷土研究』四巻三号一二九頁)
白米城の話は、予も今年四月八日、ロンドン発行の『ノーツ・エンド・キーリス』に出した(Kumagusu Minakata,"Horse Washed with Rice,"Notes and Queries,12th ser.,i,p.289)。その緑あるによって、中川君の御説を少々補おう。
『伊勢参宮名所図会』には、白米城を応永三年北畠清雅が築く、時に足利義満よりこれを攻めて後には水を取り切る、しかるに鳥屋尾《とやのお》重澄が計らいで白米もて馬を洗うと見せ、寄手これに計られて囲みを解いたとあるが、『三国地志』三九には、「『南朝紀伝』にいわく、応永二十二年春、国司は阿射賀《あさか》の城を守りたまう。またいわく、夏四月、諸軍伊勢国司を攻め、阿射賀城を囲む。城堅固にして落ちず。国司まず垂水、鳥屋尾、方穂、朴木等を岩田川、雲出川に遣わしてこれを防ぐ。垂水、藤方、今徳、榊原は、田、天花寺、曽原、船江、波瀬、岩内、大淀、玉丸等の城を守ってこれを防ぐ。この城高山にして取りがたし。おりおり不定に出て夜討す。この城北に天花寺が城あり。東に出城二、南に地獄谷あり。よって京勢若干討たれぬ。大将土岐持益、計を廻らし、四方の水の手を留むる。この故に城水乏しく、ようやく渇に望む。時に国司てだてをなし、櫓の前に馬を立て、柄杓《ひしやく》にて白米をくしかけ馬を洗うごとくにす。寄手これを見、退屈して水を断つことをやむ。この後この城を世俗白米の城と号《なづ》く」と見え、この方が詳しい。中川(166)君が、防禦軍がわざわざその力を割《さ》いて守らねばならぬ地点とは思われぬ、と言われたるに反し、『南朝紀伝』の載するところ、国司は当時もっぱらこの城を本拠とし、牙城要塞を多く取り繞らし、必死になって防いだので、火器を用うるを知らなんだ世には、毎度かかる高峻の山に城守しただろう。(旧知、寺石正路氏、この説文を読んで申し越されしは、いかにも火器を用いぬ世には峻岨な山に拠るを第一と心得たので、奥州で北畠勢が籠つた霊山など、非常に雲臭い難処ときいた、と。)
さて『武功雑記』(続史籍集覧本)上に、また異伝あっていわく、「伊勢国主、大河内城を借り籠城の時、信長五万の人数にて責めらるる。地下人《じげにん》を捕え、この城は何方《いずかた》に不堅固の所ありや、兵粮、用水は不足なきか、と尋ねらるる。かの者申すよう、水は常に少なし、人|数多《あまた》して呑まば有之《これある》まじく、と言う。かの城水高処より窺い見るに、水沢山にて馬を洗う体《てい》なり。また夜々信長窺い御覧あるに、本城二の郭は門を開き提灯にて往還の体なり。これを信長御覧ありて、用水は沢山なり、衆議一味したると見えたるとて、和談にて引かれ候。後に聞けば、水と見たるは、国主家老水谷播磨、米をもって馬を洗わしめ、遠き所よりは、かの米を水と見えたり。門を開き往還せさせたるは、国主の家老とやのを石見、わざと門を開き提灯を執らしめ、往還と見せたり。両人の謀をもって城和談になる」。ここに言える伊勢国主信長に攻められたと言えるは、その前足利勢に囲まれたという満雅の五世の孫具教であろう。
『三国地志』四二によると、具教が大河内城に籠ったのは永禄十二年で、その先祖満雅が阿射賀に城守したという応永三年もしくは二十二年より、百七十三年あるいは百五十四年後だ。ただし、『参宮名所図会』に応永三年義満の軍勢が満雅を攻めたとあるは間違いで、二十二年の方が正しかろう。何となれば、応永三年は満雅の父顕泰在職で、この人が南北朝一統後足利氏と争うたことを聞かぬ。さて伊勢国司六代の間に米で馬を洗うて二度まで敵を騙《だま》したとは、いかにも受け取りにくいから、いずれか一つが多少|拠《よりどころ》あったことで、他の一つはその訛伝だろう。また上引三書を参するに、北畠家に鳥屋尾氏なる家老その職を世々《よよ》にし、時に巧い謀を出す人を出したこともあった、と判る。なお(167)中川氏は挙げておらぬが、九州にも同例がある。天正中、利光宗魚、豊後の鶴が城にに籠り、島津家久に囲まれ戦ううち、宗魚矢に中《あた》って死す。城兵これを色に顕わさず、遊興の舞楽し、白米で馬を洗うを、薩摩城中用水乏しからずと心得て、水の番を引いた、云々(長林樵隠『豊薩軍記』八)。
またいずこのこと、誰の所為ということを覚えぬが、ある所で籠城の輩が例の白米で馬を洗うて水多きを示したので、攻囲車の主将奇態に思い、篤《とく》と実際を察するため使者を城中へ差し立てた。その使者城に入って守将と面談の末、小用を済ませ、手水《ちようず》を乞うと、守将、小姓二人して大盥《おおだらい》に満々と水を入れ持ち来たらしめ、使者手を洗いおわりて後、件《くだん》の小姓をして惜し気もなく多量の水を庭上に撒かしめた。使者帰ってその由を語るを、さては城中真に水多しと断じて、和談を結び、囲みを解いた、と何かで見た。酢でも蒟蒻《こんにやく》でも食えぬ今日の人情から考えると、奥底の知れきった話のようだが、大盥の水を撒き去ったのは、白米で馬を洗うより巧みな仕方で、また白米の馬洗いぐらいではいかにも受け取れぬと智慧ついたればこそ、こんな咄《はなし》もできたものと知らる。この譚は何の書にありや、大方の教示を仰ぐ。(寺石氏の教えに、これは柴田勝家が近江の長光城を守り、佐々木承禎父子が攻めた元亀元年六月の出来事で、『常山紀談』に見ゆ、と。)
支那にも白米洗馬一件の話はありそうなものと、ずいぶん探したがちょっと見えぬ。ただし、『宋書』また『南史』に伝えた檀道済の一条も、米で敵を紿《あざむ》いたのゆえ付載する。檀は劉宋の名将、兵を用いるに老し、魏人これを怖る。宋の文帝、讒を信じてこれを誅した時、道済、目光|炬《きよ》のごとく、?《さく》を脱し地に投げて、すなわち汝の万里の長城を壊《やぶ》ると呼ばわって殺された。ほどなく宋軍魏を伐って大敗し、魏軍乱入、殺掠ほとんど尽き、その過《よぎ》るところみな赤地となり、春燕帰り来て林木に巣くう。宋帝、石頭城に登り北望して、檀道済もしあらば、あに胡馬をしてここに至らしめんやと歎《かこ》つたという。元嘉八年、この人北伐して魏軍と二十余戦多く捷《か》ち、歴陽城に至りしが、粮《かて》竭《つ》きしゆえ引き還す。時に、宋人魏に降れる者つぶさに糧食すでに?《つ》きたる由を敵に告げたので、宋兵憂懼して固き志なし。ここ(168)において道済その卒をして、終夜沙を量ること米を量るごとくし、高声にその数を唱えしめ、その跡へ米を少し散らして退却した。明旦魏軍これを見て、宋勢資粮余りありと惟《おも》い、また追わず。降兵をもって偽言者とし、斬って懲らしめにしたそうだ。(五月三十一日)(大正五年八月『郷土研究』四巻五号)
【追記】
白米城のこと支那にもある。雲南の米花洗馬山は、むかし土人この山に拠りしを漢兵が攻めた時、城兵米花(米の粉か)で馬を洗うを見、さては水乏しからずと思い、あえて逼らなんだ、と『大清一統志』三〇六で見出だした。なお類話は、今年三月一日の『日本及日本人』九三号七一頁に出した。(大正十五年九月二日)
【追記】
欧州人は米を常食とせぬゆえ、白米城の話を一つも出さなんだは当然だが、持合せに任せて白米城類似の奇計を施した例はある。一八四九年七月、英国の植物学者サー・ジョセフ・ダルトン・フッカーが、英領インドの国境を越えシッキムに入らんとした時、その国の官人来たって応接し、百方|依違《いい》して進ましめず。けだし、フッカーの一行が携え来た糧食乏しかるべく、かれこれいい延ばす内に、食うことがならなくなって引き返すべしという料簡だった。ところが一日、フッカーが登らんと望んだ霊山キンチンジョウの話をして、官人にその形を示せと請うと、彼は砂をその山の形に積み上げようとした。その時フッカー、従者に米を持ち来たらしめ、この米を山の形に積んで見せよとて、内実多くも持たぬ米をわざと惜し気もなくこぼし散らした。それを見て、さては此奴《こやつ》糧食に困らぬわいと、官人大いに力を落として退いたという(フッカー『ヒマラヤ日記』二巻七一頁)。(昭和二年二月四日)
(169) 針売りのこと
「紙上問答」閏(三四)参照
(『郷土研究』一巻六号三八一頁)
『淵鑑類函』三五六に、漢の曹大家の「鍼縷《しんる》寝の賦」にいわく、「秋金の剛精を溶《と》かし、形は微妙にして直端、性は遠きに通じて漸《ようや》く進み、庶物に博《あまね》くして一もて貫く。これ鍼縷の迹《あと》を列ぬるや、信《まこと》に広博にして原《たず》ぬるなし。退くこと透?《いい》として、もって過ちを補《つくろ》い、素糸《しろいと》の羔羊《こうよう》に似たり。何ぞ斗?《とそう》の算《かぞ》うるに足らんや。咸《ことごと》く石に勒《きざ》んで堂に升《のぼ》す」と引いたごとく、衣食住のうち、衣はぜひ針を俟って後に完成するもので、人文発達の緒を啓く最も必要の具だが、今のように機械で鉄線を截《き》り磨いてこれを作りうるまでは、人間がよほど脳髄を悩まし、年所を歴たもので、斧を研《と》いで針を作った譚すらあり、なかなかちょっとできたものでない。(一八五七年板、セント・ジョンの『東洋林中生活』一巻三二八頁に、著者がボルネオで一青年に道案内料として布と真鍮の細針金を授くると、その者ただちにその針金を三インチ切りとり一端をたたき扁《ひら》め、他端をとぎ尖らせて針とし、妹が糸を持ち来たり、自分が今受けた布をナイフで切り、鋭意精励してその晩までに腿引《ももひき》を仕立ておわった、と記す。精励は精励として、こんな手細工の針ではろくな物が仕上がらぬはずだ。)
諸国有史前の針は骨や牙で作り、今も蛮民は然《しか》する。御多分に洩れずわが国も最初は左様であったと見えて、予は小畔《こあぜ》四郎氏が横浜の宅地から見出だした骨製の針を一本貰い持っておる。ただし、本邦のごとく竹のある国では、原《もと》は竹を多く針にしただろう。今日とても中アフリカ土人は竹で針を作る。しかし鉄針を尚《たつと》び、欧人の荷持ちを務むる(170)者や乞食の主として請う物は鉄針か石鹸だそうで(一九〇六年板、ワーナー『英領中亜弟利加土人篇《ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリチシユ・セントラル・アフリカ》』一九六頁)、針欲しさに婦女がその身を外客の翫弄に委した例は多く見聞した。したがって蛮民に好遇さるるよう、そのもっとも悦ぶ諸品を持ち旅する欧人の荷物に、必ず針を多く用意するは予|親《みずか》ら覩《み》たところで、一八八五年、カムルンの『亜弗利加横断《アクロス・アフリカ》記』三五二頁を見れば、氏が旅中縫針を盗み尽されて、いかに用を欠きしかが判る。されば、『左伝』に「楚、魯を伐つ。賂《まいな》うに鍼《はり》を執るもの百人をもってす」。『荀子』に「鍼を亡《うしな》う者、終日これを求むれども得ず、云々」。『淮南子』にいわく、「女は必ず一刀一鍼あって、しかる後に女たるを成す」。いずれも針を重んじたからで、『醒睡笑』三に、商人、遠島より古郷《ふるさと》へ便りあるという時、妻の許へ文《ふみ》ならびに音信《いんしん》をしけるが、「わざと一筆《ひとふで》、針三本、千松泣かすな、火の用心、かしく」とも書きたりとあるを見て、わが邦でも徳川幕府の初め、なお辺鄙に針を重んじたことが判る。また針仕事する者、年に一度折れ針を集めて埋め、折れざるものを祭り、針供養を営むも、針を尊びし余風に相違ない。
今の鉄針はムールがヨーロッパへ始めて伝えたので、一三七〇年、ヌレムベルグですでにこれを作つたという(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、一九巻)。欧州では骨や牙の針に次いで、青銅の針を用いたというが、支那では何を用いたのか知らぬ。ただし『英雄記鈔』に、「虞翻《ぐほん》、云々、年十二なり。客、その兄を候《うかが》う者あり、翻を過《おとず》れず。翻、追って書を与えていわく、僕聞く、虎魄《こはく》は腐芥を取らず、磁石は曲鍼を受けず、と、過《おとず》れて存《と》わざるも、また宜《うべ》ならずや、云々、と。これに由って称せらる」。これ磁石必ず針を吸うと呑み込んで言ったのだから、そのころの針はむろん鉄だ。したがって、わが国に外国から始めて貢した縫衣女も、すでに鉄針を使うたのだろう(『和漢三才図会』三六)。建保二年の『東北院職人歌合』に針磨《はりすり》の歌あり。足利氏の世に成った『七十一番歌合』にも、針磨、半円形の板に針十三本さし、その頭ごとに一々舞錐で孔を穿《うが》つ図を出し、歌に「情なき人に心をつくし針みつからなとか思ひそめけむ」。すなわち筑紫の針を賞用したらしく、それは支那から古く輸入した余勢だろう。
(171) 三浦浄心の『見聞集』三に、「さてまた針の始まることは、聖徳太子の御姉御前にたつた姫〔四字傍点〕と申す女人あり、天皇の御息女にてましませども片輪《かたわ》なる人なり。大内を追い出されてここかしこを迷い行き給うを、人目見苦しとて小屋を作り姫を入れ置き、業《なりわい》のためとて針ということ太子教え給う。それより針ということ出で来たり、太子の御嫡女ゆえ、みな姉小路《あねがこうじ》の針と申し伝えたり」。予壮年のおり、博識な足芸師と交わりしに、その人香具師を十八番具と言うてそれぞれ由緒ありとて教えくれしを、書き留めなんだのでみな忘れたが、いずれも賤業なるに似ず、その本締《もとじめ》どもは官号を受領し、多く高貴の落胤など名乗ること、盲法師が盲親王を開祖とすると一般だった。近古商売ごとに系図由緒を言い張ったは、醋《す》売り、薑《はじかみ》売りの狂言でも知れる。想うに、浄心が伝えた皇女針作りを始めて営業としたというのも、京都の針作りがその業を賤しまれぬように捏造した説であろう。
さて、吾輩幼時、越中富山から売薬商年々来たり、旧年置いた薬と新しい薬と更《か》えて行くに、多少とも旧年の分を用いた家で代金を受け取り、新しい薬に添えて麁末《そまつ》な彩色刷《さいしきず》りの芝居絵と針を礼に置いて去った。これ往時、田舎で針乏しかったから、今のアフリカ人同様これを渇望する者多かった遺風じゃろ。(西鶴の『懐硯』(貞享四年刊)三の五に、「皆々お暇《いとま》給わる内に、物縫のゆたは、云々、着替どもとりに来たり、私が手馴れし大事の針がみえませぬ、云々、それは百五十里あなた、京のみすや伊予《いよ》が上磨《じようみが》き、男なれば刀脇差と同じ私が針というに、もっともなり」とあって、上製の針を女が男の刀剣におけるごとく貴んだのだ。)
吾輩幼時、六、七十の老人の話に、むかしはどこからとも知らず、老女が手で鼓を拍って針を売りに来た。小児輩これを「計やポンポン」と呼んで興じ、つき歩いた、と言った。(田辺町の辻本豊助氏は、多年諸国へ行商し、種々の俗習を知る。その言に、以前は大和万歳、その在所で元日に式を行なう、これを座《ざ》と言う。座がすんでのち四方へゆく。一人で鼓をうちながら、「わしは大和のお安がとさま(夫のこと)、お安可愛そうにまたきたわいな、針買わんせんか」といい、少しずつ銭を貰い、また針を売った、と。)
(172) 『類函』三五六に、『宋書』にいわく、「傅?《ふえん》、山陰の令となる。鍼《はり》売りと糖《あめ》売りの老姥《ろうば》、団糸を争い、来たって?に詣《いた》る。?、団糸を柱に挂《か》けて、これを鞭うち、密《つまびら》かに視るに鉄屑あり。すなわち糖《あめ》売りの者を罰す」。千五百年ばかり前、支那でも老女が針を売ったので、わが邦今日も、孤児院や廃兵、また生活難中の老女、寡婦などが針を齎《もたら》して哀を乞うに参して、古今人情の渝《かわ》らぬを見るべし。『一語一言』六に、岡野某の「秀吉出生記」を抄載して、秀吉十六の時、父の遺金少分持って清洲《きよす》に行き、下々の木綿布子《もめんぬのこ》を縫う大針を調え、懐中してまず鳴海《なるみ》まで行ってこの針を食に代え、また針をもって草鞋に替え、かくのごとく針を路行の便として浜松に行く。たまたま浜松城主飯尾豊前守を訪わんとて久能城主松下加兵衛来たる途上、秀吉を見てその容貌を奇とし、これを召使うたといい、豊前守の娘は著者の祖母で、親《まのあた》りその状を見た、とあるから実話だろう。(また、秀吉島津を攻める前に、仙石秀久、針商人となって薩摩を偵察した、と何かで読んだ。)針は容量少なくて目立たず、そのころ珍重された物ゆえ、孤児の粮料にしごく恰好の品だったらしい。(宝永十八年に成った『傾城禁短気』六に、「外の客より上をしょうと高う登って、紋日《もんび》物日《ものび》も一人として請《う》け取り、心よう女郎の気にあうように勤めてとらしては、針を蔵に積みてもつづかぬものなり」とある。)
このついでに述べるは、紅《べに》は、針よりまたはるかに容量少なくて価は高く、貴重な物だった。紀州伊都郡|飯降《いぶり》村とかに、木綿屋という旧家の豪富が今もある。むかしその辺を他国から馬に紅を積んで売りに来た者が通った。ここの大家はいずれと道傍の農夫どもに問うと、いずれも木綿屋を指ざし、その富を計《かぞ》え誇った。時に紅売り、それほどの身上《しんしよう》ならこの馬一疋に負わすべき紅の半額の値に足らぬとか言い放って去った、と聞く。
さて、予去年夏の夜湯屋往きの帰途、薄闇い街上に小児が蛙のごとく蹲《つくば》うて問答するを視《み》て珍事と思い、還って妻に問うに針売り〔三字傍点〕という遊戯だろうと答えた。翌日、前夜そのことに預った女児どもを招集し尋ねると、果たして北の方の言のごとし。よって彼輩に菓子を与え、眼前再三演ぜしめて当座にその状を筆記したのをここに出そう。けだし、(173)むかし旅の針売りが往来した時行なわれた遊びで、この田辺ごとき僻邑すら、おいおい世間多忙、行人|雑閙《ざつとう》となっては、夜分街頭静かな時でなくてはできず。それも見つかれば教員や警吏に叱らるるゆえ、遠からぬうちに影を留めぬが必定と惟い書き留めるなり。たとえば、二間ばかり距てて甲乙二児相対して蹲《つくば》い、乙の背後に丙、丁、戊、己と四児、一行に列なり跼《うずくま》る。(四児でなくとも、幾人でもよろし。)さて問答する次第、乙「向いで小便ひるターレ」、甲「いつも来る針売り」、乙「針売りにごんせ」、甲「もういきたった」と言って、蛙のごとく蹲いながら一歩飛ぶ。乙「車でごんせ」、甲「もういき足《た》った」と言って、また飛ぶ。それより「お駕籠でごんせ」、「お舟でごんせ」など言うごとに、甲、前同様に答えて一歩ずつ飛び進み、終《つい》に乙の直《じき》前に至ると同時に、甲「針や針や」と呼ぶ。乙「なに針」、甲「くそ針」、乙「入らぬ、入らぬ」。それより甲が順次に丙、丁、戊、己まで、かく呼び、かく問答して、ことごとく「入らぬ、入らぬ」と断わられ本《もと》の所に戻り、また乙に対い「針や針」と呼び、「なに針」と問われ、今度は「きぬ針」と答え、乙「一本」と注文すると、乙の肩を叩く。丙、丁、戊、己みな、かく問答し肩を叩きて、甲また本《もと》の所に還るを俟って、一同各自その前な児の帯を固く?んで立ち上がり、己を子とし甲を鬼とし、甲、己を捉えんと走り廻るを、乙以下一行になったまま種々奔馳して、これを禦ぐ。さて己が甲に捉われば、己が甲の代りに鬼となり、再び如上の演習をなすのだ。
(大正五年九月『郷土研究』四巻六号)
(174) 橋の下の菖蒲
「紙上問答」問(一六四)参照
(『郷土研究』三巻四号二五三頁)
『嬉遊笑覧』巻一二にいわく、「『中山集』に、橋の下の菖蒲《しようぶ》は勢田の大蛇かな。この童謡は、今も童が草履を脱いでぞうりけんじょうということすなり。ある物にこの童謡を言えるは、一りけんじょう、二けんじょう、三りけんじょう、四けんじょう、しこのはこの上には、えもはもをとり、十方|鵯《ひえどり》豆なかえだよ、黒虫は源太よ、あめうしめくらが杖ついて通る処、それはそこへつんのけ(その訳もあれどおぼつかなし)。(この作りかえらしきもの、『郷土研究』四巻五号三一三頁、陣内銕一「肥前小城郡の子守唄」に出ず。)許六が『鎌倉賦』に、金洗沢星月夜《かねあらいざわほしづくよ》の井の、橋の下の小歌はあめ牛めくらが威勢を譏《そし》り、小栗《おぐり》の説法は横山が強盗を語るとあるも、鎌倉に威《いきおい》ある盲人ありしと見ゆ。橋の下の小歌と言えるは、橋の下の菖蒲の童謡なり。この言古きことと見えて、猿楽狂言『つとう山伏』などに、山伏が祈りの詞に、橋の下の菖蒲は誰《た》が植えし菖蒲ぞ、と言えり。こは元より山伏の唱うべきことにはあらず。ただ童謡を取りて祈りの詞めかしたるなり。されば同じく祈りの詞に、いろはにほへと、と言える言もあり。口語に熟したることを言うにて興あることなり。今小児が僧の経読むまねしてダブダブと言うも、同じほどのことなり。『伽羅女草子』に、幇間が物語をする処、七年|已前《いぜん》に越後町扇風方にて、橋の下の菖蒲はたが植えたと足拍子|踏《ふ》みし、云々。(かくあれば、足拍子してこれを言うことのようなれど、祐信がかける絵に、童ども草履を脱いで屈《かが》みおり、一人それを算《かぞ》うる体なるは、今もする児戯なるぺし。)さて件《くだん》の童謡いと長々とあれども、橋の下のということなし、誤り(175)ありと見ゆ。(今童のいうは、ぞうりけんじょけんじょ、おてんまてんま、橋の下の菖蒲は咲いたか咲かぬか、まだ咲き揃わぬ、みょうみょう車《ぐるま》を手に取《と》て見たれば、しどろくまどろく、じゅうさぶろくよ、と言えり。)これによりて思えば、一りけんじょう、こけんじょう、おてんまてんま、橋の下の菖蒲は咲いたか咲かぬか、まだ咲き揃わぬ、あめうしめくらが杖突いて通る、しどろにもどろ、それそこへつんのけ、と言えるなるべけれど、そのこと弁《わきま》えがたし」(以上、『笑覧』の文)。
文中、ある物にこの童謡を言えるは、云々(その訳もあれどおぼつかなし)、と註せるは、たぶん『南畝莠言』上に、「羅山先生『徒然草野槌』にいわく、云々、俗間に伝うる頼朝の時、鎌倉の謡歌に、一りけんじょう……それはそこへつんのけ、これは鎌倉の町はりの一間町、二間町などいう義なり。しこのはことは厠に久しくおるをいう。この時、局の女房、君の寵ありしが、かくありしとなり。えもはもをとりとは、右衛門八《えもはち》という者、君の気に入りて鳥をとるなり。十方をありきて鵯を取り、豆を餌《え》にするなり。豆がなくば餌よという義なり。黒虫は烏蛇《からすくちなわ》のことなり。源太これを取りて黒焼にし、君へ参らするなり。あめうし目くらとは、これも時の威勢ある者、盲目なり。そのありくを人々恐れてあたりをのけという義なり。またこの時の俗歌に、橋の下の菖蒲は、折れども折られず、苅れども苅られず、伊東殿、土肥殿、土肥が娘、梶原源八、介殿のけ太郎殿。これは蒲御曹子の御連枝なれど、弱きにも強きにも何の用に立ち給わぬを、菖蒲の折れども折られずというなり。その外伊東殿より下は、時の大名権柄の人にて、もて扱うたりという心なり。また一説に、上の歌は最明寺の時のことなり。あめ牛は最明寺を申すなりとも言い伝えたり」とある羅山の説を指したが、林家へ憚りて羅山の名を挙げなんだものだろう。
新井白蛾の『牛馬問』一に、正保二年ごろ、将軍伺候の面々、羅山に種々の俗諺を問うに、みな釈《と》いて滞ることなかった。その一つ、「堀田加州尋ねていわく、童部《わらんべ》どもの遊びに友を集めて、左右の手を寄せて数え、鬼の皿ということをす(『郷土研究』三巻二号、拙文「一極めの言葉」およびその「頭の皿は」の詞参看)。その計《かぞ》え詞に、ダイ殿(176)ダイ殿、ダイが娘は梶原、アメウジ盲《めくら》が杖を突いて通る処を、さらばよってついのけ、と言う。これもまた故あることにや。答えて、これは頼朝卿の御時、御意に叶い出頭して威を振るいたる人を算え立てたるなり。その仔細は、ダイ殿とは御台所政子の御方なり。一も台殿、二も台殿にて、続けて算うべき者なしという義にて、台殿台殿と重ね呼ぶなり。台が娘とは、頼朝の大姫君、清水冠者の北の方を言う。これまた寵愛の姫にて威勢あり。次に梶原とは平三景時なり。次にアメウジとは、安明寺とて北条時政の妻牧の御方の一族なるが、盲人となって頼朝の御咄《おはなし》相手となり御伽し、御免にて座席も杖を突いて歩行す。安明寺に行き逢う者は傍に寄りて通すゆえ、さらば終《つい》にのけとは言うなるべし」とある。『牛馬問』の堀田と羅山の問答には菖蒲のこと全く見えず。
『野槌』の羅山説では、一りけんじよう云々の歌と橋の下の菖蒲の歌は、まるで別物らしい。それが『笑覧』の説のごとく後に合し、最後につんのけ〔四字傍点〕という語があるより、一極《いちき》めの言葉に用いられたものか、予は速断する能わず。ただし、予が、かつて引いた「隠れん坊に雑《まじ》らぬ者は」の詞といずれ前後はつまびらかならぬが、この「橋の下の菖蒲」と「一りけんじょう」の混成歌も、現に伝存する一極めの言葉中最も古いものの一たるを失わじと惟わる。紀州の一極めの言葉に菖蒲入りのはないが、橋の下の菖蒲という手鞠歌は今もあるから、例の通り細君の内助でここに筆記しよう。いわく、「エーエー、大名スイミョウ、波に風に、ちくしげな(美しげな?)小供衆や、簑きて笠きて、通る処を、コイヨコイヨと、招き衆や、ジャンガラガンノ、ガンガラガン、橋の下の菖蒲、誰が植えた菖蒲、源八きずやの、佐介どんが、植えたがほんや、一株、二株、三株、四株……ここの株、十株」と次第に算う。
(大正五年六月『郷土研究』四巻三号)
(177) 栗鼠の怪
早川孝太郎「神かくしの類例五ツ」その二参照
(『郷土研究』五巻一号三六-三八頁)
「南方随筆』に、次のごとく書いた。「紀州西牟婁郡二川村大字|兵生《ひようぜ》で聞いたは、栗鼠《りす》は魔物で一疋殺さば殺したあたり栗鼠だらけに現わる。かく魔術心得たものゆえ、同地方で聞いた猴退治の話にも、栗鼠を山伏としおるのだという。予、深山で栗鼠に遇いしこと何度というを知らぬが、あまり人を畏るる体見えず。追えば樹を繞りて登り、たちまち枝上に坐して手を合わせ、祈念するの状《さま》をなす。これよりかかる迷信を生じただろ。おまけに尾を負うて頭に戴く状、また山伏が笈《おい》を負い巾《きん》を冒《いただ》くに似たり。(下略)」
いわゆる猴《さる》退治の話は、本誌一巻三号一七〇頁へ出し、故高木敏雄君の『日本伝説集』一九一-一九二頁に収められた。猟師が二犬を伴って奥山に入り、老猴が化けたと知らず、その小屋に宿り、主人すなわち猴が飯を炊ぐうち一睡する。夢に神の告げあり。よって戸外に二つの盥をふせ、その下に二犬を隠しおく。夜が更けると、主の猴は何故と知らず、しきりに悩み、牛鬼の医者を招きみてもらうに、生命が危ないという。兎の巫《みこ》を招いて祈らせても効なし。栗鼠の山伏を呼んで占ってもらうと、「チンとガン、大盥かえせば親猴に祟り、小盥かえせば子猴に祟る」と答う。やがて神が出で来たり、囲炉裏に吊しある鍋をチンと叩く。これを聞いて猟師外へ出で、大小の盥二つを覆えせば、二犬たちまち出て親子の猴を襲い、猟師も発砲して終《つい》に猴どもを平らげた。爾来、山小屋で鍋の縁を叩くのを忌むということだ。
(178) この話を本誌へ出しおわって十余年後に、たまたま享保十七年板『太平百物語』巻二に、ややよく似た譚あるを見出だした。九州の武士玉木蔭右衛門が鎌倉へ行くに、小袋坂で日暮る。異形の者来たり、主人方へ泊れとて誘いゆく。朱塗りの門を入って大厦に宿り饗応さる。頭長く五体丸き者来たり、われ常に好んで卜う、主人の患いこの客人にあるを知るから、早く殺すべしと勧むるを、主人怒ってその者を殺す。夜更けて一同眠り、蔭右衛門また眠らんとするに、天裂けんとするごとき音す。よって目さめ、あたりをみれば大なる巌穴に臥しおり、主人は大猴の形で、他に狐、鹿、狼など、みな臥して正体なし。さきに殺された卜者は大亀なり。自分の家来と馬はみな食われて、手足と首だけ残る。驚いて忍び出で、その所の長に告げ、地頭まで訴え、数百人して巌を砕き、ことごとく怪物を誅し、鶴岡に至る、と。
熊楠調べたところ、この話は支那譚を翻訳したもので、もと趙宋の太宗の世ごろに、楽史が撰んだ『広卓異記』、しばしば略して『広異記』と呼ばるる書に出たのだ(『欽定四庫全書総目』六一。一八八一年上海刊、ブレットシユナイデル『支那植物篇』一巻八六および一六四頁。『太平広記』四四五)。唐の開元中、成都の人張?が、有司に補せられえず、蜀へ帰る途中巴西で日暮る。巴西侯の家来という者が来たり、わが君貴公の宿所なきを知り、とめてあげたいというからご一所にと請われて、山道に入ると、朱門はなはだ高く、人物はなはだ多く、甲士環り衛るあり。入って主人にあうと、珍客が来たから一献差し上げたいとて、使いを走らす。久しうして、六雄将軍、白額侯、滄浪君、五豹将軍、鉅鹿侯、玄丘校尉と名のる者六人来たり、愉快きわまる今夜の酒宴となり、また美人十数、あるいは歌い、あるいは舞い、その妙を窮めた。時に白額侯、張?に向かい、われ今夜食いたい物がある、君よくわれに一飽せしめくれぬか、と問うた。何物を食いたいかと尋ねると、君の?を食い飽きたいと言うから、?懼れて退いた。巴西侯、宴席の上でお客さまの気に逆らうことをいうなと咎めると、白額侯、ホンの冗談に言った、と陳じた。ところへ洞玄先生とて黒衣を著し、頸長く身はなはだ広い人が来たり、巴西侯に謁し、某は卜いを善くするが、今夜宿った客人は君を害せん(179)と図る者、今除かずば後難が必ず起こる、と告げた。巴西侯、この歓宴の邪魔をするは怪しからぬとて、これを殺した。夜半ならんとして一同臥し、?もまた仮寝した。暁近くなってたちまち寤《さ》めると、巴西侯は大猿、六雄将軍は大熊、白額侯は頂白い虎、滄浪君は狼、五豹将軍は豹、鉅鹿侯は大鹿、玄丘校尉は狐で、みな酔い臥しおり、先刻殺された洞玄先生は亀だった。?大いに驚き、山を出で里中の人に告げ、百数人が弓矢を佩びてそこに至ると、猿驚き起き、洞玄先生の言を聴かずして果たしてかくのごとし、と歎いた。一同はそんなよまい言《ごと》に構わず、ことごとく諸怪獣を殺し、太守へ報告した、とある。
兵生で聴いた猴退治の話には鉄砲あり。鉄砲伝来後の作らしい。また二犬や盥など、張 鍵の話にないから、根本その話の翻訳でも模倣でもない。ただ兩譚ともに、ある一動物が卜者として参加するあるは、二つながら、卜占が至って人間に必要な業と信ぜられた世に作られ行なわれたと証する。亀卜は、神農が蓍筮《しぜい》、張良が碁卜、京房が銭卜を創めしに先んじて、伏羲《ふつき》が始めて造ったというから、まずは支那でもっとも古い卜法だ(『潜確居類書』八二)。張?の譚に亀が卜者と化したとあるは、この伝承に拠る。それに対して、熊野最難処の一たる兵生の猴退治譚に、栗鼠が卜者と化したとあるは、古くかの地でいかに栗鼠を神怪視したかを示す。栗鼠を神怪視した理由は種々あるべきも、前述通り、一疋殺さば、そのあたり栗鼠だらけに現わるというのが、その主なる一理由だ。ちょっときくと虚談らしいが、蟻、蜂等の群棲動物はしばらくおき、さほど群棲せざるイボガエル、ヒメガニ、ムカデ、マムシなどを殺すと、続々活きた奴が現われ来たり、気味悪くなって逃げてきたことが、予の日記にしばしばみえる。琉球の海馬と縁類で、発見後永からず全滅したステルレル氏海牛は、こんな性癖を墨守して亡びおわったと、かの類専門の学者より聞いた。
よって考うるに、今も栗鼠多い地では、時に本誌五巻一号三七頁にみえた風に、ほとんど無数の栗鼠が、一疋殺されて跡へ現われることがなきにしもあらずで、おいおい栗鼠を魔物視するに及んだであろう。予がみずから知るところと、人から聴いたところと合わせ稽《かんが》うるに、ある一動物を殺した跡から、続々同種の物が出て来るは、炎天の水辺(180)と、餌に富んだ地と、今一つはかれらが交尾期に入った時季に多いようだ。この拙宅に蜈?《むかで》多く、夏の夜、障子を這うを見つけ次第、火箸で断ち殺すと、必ず一疋は出て来る。それを殺した後、また一疋見出だして殺すと、きつと第四疋めの奴が出て来る。これなどほ、どうも雄雌相追随して両《ふたつ》ながら殺さるるらしく思わる。(三月二十四日午前三時) (昭和六年七月『郷土研究』五巻三号)
(181) 陸奥女人の話
三善為康は、後冷泉天皇の永承四年生れ、五十一歳より色欲を絶ち、念仏を修し、七十二歳より永く肉味を絶ち、七十七歳より酒をやめ、崇徳天皇の保延五年に九十一で死んだ。『拾遺往生伝』は五十一歳(康和元年ごろ)の著らしく、桓武帝より鳥羽帝ごろまでの仏教篤信者の伝を列ねた(『元亨釈書』一七)。それに泄《も》れたのを集めて『後拾遺往生伝』と成ったは著者の死際《しにぎわ》近かったとみえて、書中に保延二年のことあり、その巻下に、陸奥に一女人あり。若年の時、艶を立て色を好み、定夫これなし。衆人ともに来たるも、あえてこれを厭わず、みなもつて許容す。のちさらに一人として来たる者なく、寡宿年を経、親人由緒を問うあり。答えていわく、われ聞く、人情に随う、これ菩薩たり、これによって男来たるを返さず。また聞く、愛欲これ流転の業と、これによって交会の時、一念愛著の心を生ぜず、弾指合眼して不浄を観ず、人ありて欲事をなすの時、この念いよいよ盛んなり、よって衆人みな恥じて来たらざるなり、云々。のち比丘尼となり、念仏を業となす。臨終病悩の時、眼を閉ずれば、すなわち金色の仏、空に満ち、星夜に星を見るごとし、云々、とある。
この話を筆した為康の死より百五十六年前成った『太平広記』一〇一に、『続玄怪録』を引いて、やや似た話を載す。いわく、「むかし延州に婦女《おんな》あり。白皙《はくせき》にして、すこぶる姿貌あり。年は二十四、五ばかりなり。城市《まちなか》を孤り行きて、年|少《わか》き子《おとこ》、ことごとくこれと遊ぶ。狎《な》れ昵《したし》んで枕を薦《すす》め、一《ひとり》として却《しりぞ》くるなし。数年にして歿す。州人、悲しみ惜《いた》まざるなく、ともに喪具を醵し、これがために葬る。その家なきをもつて、道の左に?《うず》む。大暦中、にわかに胡(182)僧の西域より来たるあり。墓を見て、ついに座具を趺《し》き、敬礼して香を焚く。囲繞《いによう》して讃嘆すること数日なり。人見て謂いていわく、こは一《ひとり》の淫縦《いんじゆう》なる女子にして、人ことごとく夫《おつと》なり、その属《みうち》なきをもって、故にここに?む、和尚何ぞ敬するや、と。僧いわく、檀越《だんおつ》の知るところにあらず。これすなわち大聖なり。慈悲もて喜捨《きしや》し、世俗の欲に、徇《したが》わざるなし。こはすなわち鎖骨《さこつ》の菩薩にして、順縁すでに尽きたるなり。聖者というのみ。信ぜざれば、すなわち啓《ひら》きてもってこれを験せよ、と。衆人すなわち墓を開き、遍身の骨を視るに、鉤結してみな鎖《くさり》の状《かたち》のごとく、果たして僧の言のごとし。州人これを異とし、ために大斎を設け、塔を起《た》つ」。開元十五年、西域の釈安静、東遊して、定陶の丁居士の墓に詣り、これを発《あば》くと五色の雲立ち上がり、その骨みな金色、連環して?のごとく長さ五丈ばかり、金属の音を出した。宋の慶元四年、南豊の旅舎で死んだ毛道人を火葬した時、骨みな連環断えず、おまけに碁子形の舎利あり、透かしみると、跏趺《かふ》して坐った人形を含みおった由(『宋高僧伝』一九。『夷堅三志』壬一)。これが十地《じゆうじ》菩薩たる証拠だそうな。陸奥の婬女も骨を検査したら右の通りだったろうに、見届けなんだと見えて、その詳を記せず。
中山太郎君の『売笑三千年史』に、件《くだん》の陸奥の女人の伝を抄し、『法華』の普門品なる、男もしくは女を求むる者には意に従ってこれを得せしむ、とある観音菩薩の理想を実行したものと断じた。しかし、只今眼前『妙法蓮華経』の普門品第二五を読むに、「もし女人あって、かりに男《むすこ》を求めんと欲し、観世音菩薩を礼拝供養すれば、すなわち福徳智慧のある男を生まん。かりに女《むすめ》を求めんと欲すれば、すなわち端正|有相《うそう》の女の、宿植《しゆくじき》の徳本ありて、衆人に愛敬《あいぎよう》せらるるを生まん」とありて、女人が男児もしくは女児を産みたくて、観世音を礼拝供養せば、願いのままに、男なり女なり、よい子を設くる、というのだ。「また、応《まさ》に婦女の身をもって度《すく》うことを得べき者には、すなわち婦女の身を現《げん》じて、ために法を説き、応に童男童女の身をもって度うことを得べき者には、すなわち童男童女の身を現じて、ために法を説かん」とあるが、これは肉身を施して得度するのでなく、文字通り、婦女身、童男童女身を現じて、下の口てなく上の口て、相手相応の法を説いて得度するはず、というのだ。普門全品中、男女に関する文句は右二つだ(183)が、いずれも中山君が謂ったごとき、男もしくは女と交会するを欲する者には、意のままにこれを得せしむという意味でない。
西晋朝に訳せる『大浄法門品経』に、絶世の姪女、名は上金光首、文珠が化した美少年に化度され、畏間長者子と遊楽中、たちまち死して尸《しかばね》の腐変をみせ、これを感化した。仏説く、この姪女九千二百千|劫《ごう》を過ぎて仏となり、宝光明如来と號すべく、かの長者子これに随って菩薩となり、かの如来滅後、また仏となり、特?如来と号すべし、と。眺秦訳『楽瓔珞荘厳方便経』に、仏弟子中、解空第一の須菩提《しゆぼだい》尊者が逢った王舎城長者家の女人は、端正第一、盛色|微妙《みみよう》にして大威徳あり。夫は不在かと問われて、わが夫は一人ならず、「もし衆生《しゆじよう》の楽欲を熹《この》むあって、荘厳《しようごん》方便もて調伏《じようぶく》を得る者は、みなわが夫主《おつと》なり」と答え、またよく三十二盛壮男子に化し、一切女人をも教化すべしと、やにわに変身してみせ、種々の高論なかなか面白い。また羅什訳『大樹緊那羅王所問経』二に、仏、三十二法浄方便波羅蜜を説く、「下劣を教化するために現じて下劣となり、諸衆生をして口業《くごう》を護持せしむ。女人の像《かたち》を現じては諸年少を化《け》し、現じて童子と作《な》っては諸童女を化《け》す、云々。百歳持戒するも、一人を化すために、この戒を放捨す、云々。一切の外道《げどう》法中に示現《じげん》して、出家の行を修し、仏法を呵《とが》めず。現じて婬女となり、もし王宮にあれば妙女身を現ず。婬欲に堅著する衆生を化するために、大衆中多くの人の集まる処において、衆《おお》くの技術を現ず。あるいは簫笛琴瑟鼓具を現じて、常に第一たり。この衆中において歌舞戯笑し、みな法音を出だして、衆《おお》くの技術を現ず。諸衆生の享楽するところのものに随つて、ために教化するが故にこれを示現す」。
唐の実叉難陀訳『大方広仏華厳経』六八に、婆須蜜多《ばしゆみつた》女、善財童子に説く、「われは菩薩の解脱《げだつ》を得、貪欲の際を離ると名づく。その欲楽に随って、ために身を現ず。もし天のわれを見れば、われは天女となり、形貌|光明《あきらか》にして殊勝無比なり。かくのごとくして、ないし人非人等のわれを見れる、われはただちに人非人の女と現じ、その欲楽に随って、みな見るを得しむ。もし衆生あって、欲意に纏《まと》われ、来たってわが所に詣《いた》れば、われはために法を説かん。か(184)れは法を聞きおわれば、すなわち貪欲を離れ、菩薩の無著境界三味《むじやくきようがいざんまい》を得ん、云々、もし衆生あって、われを抱持すれば、貪欲を離れ、菩薩の摂《せつ》一切衆生|恒不捨離《ごうぶしやり》三昧を得ん。もし衆生あって、わが脣吻《しんぶん》に?《しよう》すれば(唐朝、接吻という語があったのだ)、すなわち貪欲を離れ、菩薩の増長一切衆生福徳蔵三味を得ん。およそ衆生あって、われに親近すれば、一切みな貪の際を離るを得て、菩薩の一切|智地《ちじ》の現前する無礙解脱《むげげだつ》に入らん」。どうしてそんなにえらくなったかと問われて、答えたは、「われ念ず、過去に仏の出世するあり、名づけて高行となし、その王都城は名づけて妙門という。善男子よ、かの高行如来は、衆生を哀愍《あわれ》んで王城に入り、かの門の?《しきみ》を踏むに、その城の一切|悉皆《ことごと》く震動し、忽然《こつねん》として広博《ひろ》し。衆宝の荘厳《しようごん》して、無量の光明は逓相《たがい》に映徹《てりかがや》き、種々の宝花はその地に散布す。諸天の音楽は同時に倶奏し、一切の諸天は虚空に充満す。善男子よ、われはかの時に長者の妻となり、名づけて善悪《ぜんね》という。仏の神力を見て心に覚悟《さとり》を生じ、すなわちその夫とともに仏の所に詣《いた》り、一宝銭をもって供養をなす。この時、文殊師利童子、仏の侍者たり。わがために法を説き、阿耨多羅三藐《あのくたらさんみやく》三菩提心を発せしむ。善男子よ、われはただかくのごとき菩薩にして、貪の際を離れて解脱す」とあって、妙門が如来に開かれて、たちまち広くなり、宝花を散らし、音楽倶奏したなど、可笑《おか》しな意味に取れば取りうるが、要するに、上に引いた諸経、いずれも諸菩薩が相手に応じて、女給や女優、絃妓舞女から婬女と現じ、もっぱら説法してその貪欲を離脱せしむと説いたまでで、外道諸派のごとく、肉身を施して感化せしむるとはいわない。後世経中に雑見する外道の諸説を誤り混じて、陸奥の一女人や延州婦人の所為を、菩薩行のごとく心得た者も往々あったのだ。(四月十三日午前六時成る) (昭和六年七月『郷土研究』五巻三号)
(185) わが子を生まんがために他子を養うこと
三国の呉の康僧会が訳した『六度集経』五に、釈尊、前世貧家に生まれ、養育叶わぬゆえに、その首に千銭を付けて夜分四辻へ捨てられた。夜が明けると、今日は吉日とあって貴賤野に出て遊ぶところへ梵志《ぼんじ》がきて、今日生まれた子は男女ともに貴くかつ賢い、と言った。富んで子なき者、捨子があるかと人をして探さしめると、ちようど子を拾うた女があると聞き、就いて乞うと、しからば首に付けた千銭を自分が頂戴して、子ばかり遣《や》ろうと言った。それを貰うて数月育つると、富人の妻が孕んだ。実子を孕んだ上は、他人の子は無用と言って、穴の中に棄てた。ところへ牝羊が毎日来て乳をのます。牧人見つけて取り帰り、羊乳で育てる。これを聞いて富人後悔し、捨子を取り戻して数月育つると、いよいよ実子が生まれた。また養児をいやがり出して、車轍中に捨てた。翌朝商人が数百の牛に牽かせ、ここまでくると躓《つまず》いて進まず。仔細を検すると捨子あり。拾うて二十里も車を進めると、子なし婆が望んだので与えた。富人これを聞いてまた後悔し、婆に宝を与えて取り戻し、実子とともに養うたが、数年の後、養児が実子よりも賢きをみて恵《にく》むこと一方ならず、?《ぬの》に包んで山へもち行き、竹の中に入れ置いて帰った。養児懸命に竹を揺すると地に堕ち、それより転がって渓水側に至った。折から樵人がこれをみて、上帝が子を落としたと心得、抱き帰って育てた。富人伝え聞いてまた後悔し、宝を与えて養児を請い取り、育て上げると、聖儒と言わるるまで諸道に達した。
富人また兇念を生じ、七里距てたところの鋳物師あての書状を認《したた》め、この子を養うてから病人ばかりできて身代がへる、占わせてみると、この児ゆえの災難だそうな、よってさっそくこの児を火に投げ入れて殺してくれと命じ、養(186)児には、われ老いて終りが近い、汝一生を送るほどの財を鋳物師に托し置くから、この状を渡して勘定してこい、と言った。養児が出かけた途上で、実子が遊びおり、兄も一所に遊ばぬか、という。われは父の命で鋳物師方へ書状をもちゆくというと、われ行くべしとて、その状を奪い走り行く。その状を見て鋳物師は、富人の実子を養児と心得、火に投じ殺した。富人これを知って廃疾となり、また毒念を生じて遠方の代理人へ書状を認め、この子到らば、疾《と》く石を腰に縛って深淵に沈めよと頼み、これを密封して養子に渡し、かの代理人は銭を費やし過ぎる、汝往って勘定し返れ、と命じた。養子、その状を持ち馬に乗って半道行くと、養父が相識る梵志の宅あり。乗り打ちも失礼と訪問すると、学者集まり来たり種々疑問するを解きやるに、一同欣ばざるなし。疲れて眠りおるところへ主人梵志の娘が来て、養子の腰に佩びた封書を披見すると、この子を沈めよ、とある。為す様こそあれと引き裂いて、別に状を書きかえ、われ年老い疾重し、この梵志はわが親友で、その娘は賢い、かつ一高、二饅、三はまぐり、四蛸の諸相兼ね備わる、こんな絶好の配偶はないから、速やかに聘礼《へいれい》を厚くして夫婦たらしめよ、と。代理人これを読んで少しも疑わず。たちまちみごとな新夫婦ができたので、富人は計画全く外れ、結忿内塞して落命したそうだ。
沙翁《シエヰスピア》の『ハムレット』の封書書替えの一条は、遠くこの話に胚胎しおるようの拙考を、往年『日本及日本人』へ出しおいたが、一昨年出た『大英百科全書』第一四輯をみるに、洋人はまだこのことに気づかぬらしい。
さて紀州のある町辺には、従前、子なき者が捨子を拾い養うて実子同様に親切なれば、必ず実子を産むと信ずる人が多い。むかし著名の富家に捨子を拾い、養育するうち実子ができたので、同様に二児を育て上げ、実子に家を嗣《つ》がせたが、その養子にも、本家にあまり劣らぬ産を分かって、別家を立てさせた。後年、別家は肺患か何かで数代歴て亡び、本家は盛《さか》えおる。また二十余年前、予郊外を歩くと、小児が集まり噂しおる。尋ぬると、今ここで捨子が拾われた、と言う。女学教師か何かが私生児を産んだのを密約しておきて、子のない家の近処に捨てると、さっそくその家へ拾い取って養うたので、ほどなくその家に実子が生まれた。分け隔てなく二児を育てたが、いつとなく自分は他(187)人の子ということを聞いたらしく、年長ずるに従い、怏々《おうおう》として楽しまず、数年前より無言となり、しばしば近処の人跡少なき林中に絶食して潜み、いわゆる神隠しの体となって、終《つい》に殃死したように聞いた。
上に引いた『六度集経』の富人は、梵志から、吉日に生まれた子は必ず貴くして賢いと聴き、捨子を求め養うたとばかりあって、捨子をよく養うたら、きっと実子ができると聴いたと明記しおらぬが、あるいはインドに古くかようの信念があったのかと惟う。紀州外の諸地にもかかる俗信ありや。また、かようの目的で養われた捨子は、行く末吉とか凶とかいう俚説もありや。読者諸君に乞い問う。
『藩翰譜』七下などを按ずるに、丹羽長秀が三男仙丸は、四歳の時、羽柴秀吉その弟秀長に子なければとて、請うて秀長の子となされ、その歳、柴田、羽柴不快に及びし時、秀吉、仙丸を取って但馬出石城におく。畏秀、柴田に組すまじき人質なり。仙丸十歳の時、秀吉命じて藤堂高虎が子とし、高吉と名づく。のち高虎、実子高次を生むに及び、高次を世嗣とし、高吉は家臣のごとくなったという。前陳の捨子でないが、捨子が拾われた成行きに似た気の毒な人ではある。(四月十三日朝八時半) (昭和六年九月『郷土研究』五巻四号)
(188) 孕婦の屍より胎児を引き離すこと
板行年月も作者も不詳ながら、まずは八文字屋本類似の『当世貞女容気』七の一に、近江国の本陣宿主塩方武右衛門、堅田《かただ》の漁夫|与茂《よも》九即が娘、所《ところ》育ちよりは姿の見よげなるを乞い求めて娵《めと》ったものだが、あまりに情濃きに飽き果てた折から、竹生島で傾城|揚《あが》りの優しい女を見初め、近処へ囲うて夜通いする。「女房は胸のほむら、わが置く手さえ熱く焦がるる思いに万事の覚悟乱れて、ある夜この家にとまりし旅人の枕をむりに半分借りませんと、打ち付けたる戯《たわぷ》れ、始めは旅人も宿の妻女なることを知ったる上なれば、なかなか不義なること無用と言えども、聞かぬ女の風情、由なや心の外なる契りをなして、明けて別るる時はたがいに心に物ありながら、旅人は上方を指して上りける。因果と女房その夜の情《なさけ》の水よどみて、腹に帯して人目を忍ぶつらさ、その旅人は何国《いずこ》の人やら、名は何というとも聞かず。腹立紛れの無分別、相手の知れぬ不義、大武右衛門に吟味にあい、言訳立たず、ぜひなく首|括《くく》って死顔浅ましく、うき恥を堅田の親にできかせて亡骸《なきがら》を貰い、在所に伴れ帰りて、せめて身二つにして取り置かんと、かく持ち籠りにて死せし者は左《ひだり》鎌にて腹を割《さ》くこと、事を知りたる人のいうに任せて葬礼の場にて腹を割いてみるに、さりとはふしぎや、古き唐網を孕みけり」。親なる漁夫数年殺生の報い、などと書きある。
趙宋の洪邁の『夷堅志補』一八に、呂生の妻、宿怨ある児を孕み、胎中で母の腸を執って放たざるを、屠酔と呼ばるる鍼医が二度まで出したが、三度めにまた孕んだ時はかの医すでに亡く、呂の妻ついに難産で死んだ。その時呂生、俗説に狃《なら》いていわく、婦懐胎して死する者、幽趣に沈淪して永く出期なし、と。みずから刀を持ちてその腹を剖き、敗(189)胎を取ってこれを棄てた、とあるをみると、件《くだん》の日本の俗説も支那から来たのであろうか。左鎌で割かねばならぬと『夷堅志補』に見えねど、日、韓、琉球ともにシメナワを左に綯《な》い、インドでも邪鬼を攘《はら》うに左索を用うるなど(『民俗学』三巻三号、今村鞆君の文、一三九と一四二頁『大灌頂神呪経』一)、厭勝《まじない》には、平生右にする処を左にするが常事ゆえ、かかる開剖の際は、支那また左手で刃物を執ったと察する。(四月十三日朝九時)
(追記)貞享三年板、西鶴の『本朝二十不孝』三の一、大和国吉野の里の晒葛屋《さらしくずや》の彦六、娘を五人もちたるが、四人が四人とも、嫁入って孕むと、出産せずに死んだ。その第二女死して、「野辺の送りせし時、さる人の差して言えり、かくある死人は左鎌を打たせ、その身二つになさでは、浮かむことなく、後の世おぼつかなしと言うにぞ、なお悲しく、沐浴その通りに念仏講中を頼みける」とある。孕婦が身二つにならずに死んでは、成仏しえないと信じたのだ。(四月十八日夕五時)
(再追記)享保十七年板、恵忠居士の『太平百物語』二の一四に、孕婦の幽霊人に逢うて、その腹を刀もて剖きもらうて悦ぶ譚あり。孕婦は死んでも、胎児は死せざるゆえ、胎内はなはだ苦しと言った、とある。そんな想像から、孕婦と胎児を引き離さねば、往生成らずといい伝えたとみえる。(四月二十三日) (昭和六年九月『郷土研究』五巻四号)
【追加】
五巻四号の拙文に追加す。それには支那の例をただ一つ、南宋の洪邁の『夷堅志補』から引きおいたが、そののちそれより約七百年の昔、劉宋の劉敬叔が書いた『異苑』にも、このことを記しありと知った。原書は手許にないから、ここには『古今図書集成』人事典三三より孫引きとする。いわく、「元嘉中(西暦紀元四二四-四五三年で、允恭天皇の御代)、沛《はい》国の武漂の妻林氏、懐身《みごも》れるに病を得て死す。俗、胎を含んで柩《ひつぎ》の中に入るるを忌み、すべからく割《さ》いて出だすべしという。妻の乳母、これを傷痛《いた》み、すなわち尸《しかばね》を撫し、祝《いの》っていわく、もし天道に霊あらば、死して擘裂《さ》かれしむることなかれ、と。須臾《しゆゆ》にして尸の面《おもて》に赧然《あからみ》の色|上《のぼ》る。ここにおいて婢を呼び、共にこれを扶《たす》く。俄頃《しばらく》にし(190)て児堕ち、尸倒る」と。
さて去年十月五日大分市出、波多野宗吾君来書に「この地方では孕婦の屍骸より胎児を引き離さずば、さき参り(極楽往生)ができないという考えより、わざわざ医師を頼み、屍を割いて児を出した例を聞きおります。母体は死んでも、胎児は生きおるものと考えおるらしい。また宮崎県の片田舎には、屍骸と胎児の引離しを頼みしも、医者が肯んぜず、止むを得ず、子別れのお経という物を、僧侶に頼んで読んでもらい、葬った実例あり」とあった。(三月十三日午前五時) (昭和七年八月『郷土研究』六巻二号)
(191) 山人の衣服について
前号に山男《やまおとこ》の衣服のことあり。山男には衣服は不用と存ず。衣食住とは申せど、このうち衣は全く不用のこと多し。熱地はもちろん極寒の地にても、南米南端のフュージアン人、北極のエスキモー人等、裸体のこと多し。また山男の草履など申すも無用のことにて、アビシニアなど地荒れ刑棘《けいきよく》多き国では、旅行の白人までも跣足《せんそく》を尚《たつと》ぶ。小生西インドにありし日など、白人にも多く跣足を見る。こはチガと申し、蚤《のみ》の類で足の爪の下に食い入り、腹が大きく脹《ふく》れ、何とも仕様《しよう》なく痒痛《かゆいた》きものなり、履《くつ》はけば必ず爪下に入るゆえに跣《はだし》を尚ぶ。森林に住む民は裸体にて、自体に灰や土を塗り、皮を堅くし、虫を防ぐ者多し。小生自身も左様したり。今もその癖つき、寒中にも裸で快きこと多し。まことに困ったことなり。乞食なども、内外国とも裸の者多し。また、この辺でも衣類着て榛《こもり》中に人らば、帰って浴湯せずば何ともならぬほどダニつく場処多し。故に衣服を要するような山男は真の山男にあらじ。 (大正三年八月『郷土研究』二巻六号)
(192) 羊の語源について
ある博士はヒツジはヒタウシを約《つづ》めたのだと言った由だが(『郷土研究』二巻一二号七六六頁)、予、実はヒタウシは何の義かを解せぬ。分からぬを分からぬとするは牽強に優るゆえ、予はヒツジやキサの語源は今日その緒を失いおわったものだろうと言うが最上と惟う。強いて多少似寄った外国名を拉《と》り来たらば付会しえざるにあらねど、良心が安心せぬ。例せば、仏領コンゴで象の名がンゾー、その支那の今の音シヤンよりも邦名ゾウに近いが、この名の移転経歴を知った者は、ゾウは支那から渡り、決してアフリカから来たのでなきを疑わぬ。瑞獣|?豸《かいち》、一名神羊、不直な者を知って触れる由。トルコ語で山羊をケチと言うが?豸《かいち》に近い。熊野で河童をカシャンボと呼ぶ。国により、これをガメと称《とな》え、『尤の草紙』にも、童部《わらんべ》の川水遊びは亀に取らると言い、レオ・アフリカヌスとプルシャワルスキの記に、エジプトや蒙古でも鼈《べつ》が人を魅殺する由見え、『抱朴子』等には?《げん》という大鼈が人を魅し病ましむ、とある。さて亀、鼈の梵名はカシャパスゆえ、カシャンボはそれから出たとも言いうるが、支那の罔両《もうりよう》の記が、あるいは河童、あるいは火車に似ておるので(『大和本草』および『本草啓蒙』その条を見よ)豸、本邦でこれに倣《なら》い、混じて河童を火車坊と呼んだと見る方が正しかろう。
すべて世界中にある語音の数は知れたもので、物の名一つに二十音も三十音も綴ったのはまずない方だから、順列法、錯列法で算《かぞ》えて見ても、物名の数には限りがある。されば遠近に関せず、本邦の物の名に似た外国名が同似の物に付きおったとて、必ずそれを本邦名の元祖と言うべからず。上述カイチはトルコ語から、カシャンボほ梵語から、ゾーはアフリカ語から来たというように解かば、本邦の一切の物名外国から入《はい》らなんだものなく、本邦は物名を付けるに万国ことごとくに後れたと説かねばならぬこととなる。この流義の釈名が果たして首肯さるるなら、ヒツジの語(193)源を手当たり次第に推し当つるは決して難事にあらず。試みに手近い梵語字彙を取って閲《けみ》するに、牡山羊がチャーギー、これ山羊の邦名ヤギの原語で、『大和本草』や『和漢三才図絵』に野牛としあるは牽強だ。それから牡綿羊がブヘダスまたフズスまたヴリシュニ、これら約変せばヒツジとなるは容易なことで、ベダス、フズス、ビシュニ、いずれもヒツジを出した梵名だと吹きうる。 (大正五年五月『郷土研究』四巻二号)
頭白上人縁起
「頭白上人縁起」(『郷土研究』一巻七号参照)に引いた『奇異雑談』下巻、京都霊山の開山在俗の時の妻、死後その幽霊が毎日餅を買いに来て墓中の赤子を養うた話の出処かと思わるるのが、『淵鑑類函』三二一に出で、「『間居録』にいう、宋の末年、姑蘇の餅《だんご》を売る家にて、鬻《あきな》いしところの銭を検するに冥幣を得たり。よってこれを怪しみ、餅を鬻《ひさ》ぐごとに、必ずその人とその銭とを識《しる》す。これを久しうするに、すなわち一婦人なり。その婦を跡つくるに、一塚に至って滅す。ついにこれを官に白《もう》す。塚を啓《ひら》くに、婦人、柩《ひつぎ》のなかに臥し、小児あってその側に坐せるを見る。その人に覚らるるところとなりしかば、必ずやふたたび出でずして、小児を餓死せしむるにいたらんことを恐る。好事の者あって、収《いだ》き帰ってこれを養う。すでに長じては常人と異《かわ》るなし。その姓を知らず、郷人これを呼びて鬼官人という。元《げん》の初めになお在《い》きてあり。のち数年にして方《はじ》めて死す」とある。
これと事は異《かわ》るが、往年紀州西ノ谷村の初王子《はつおうじ》の社辺を掘って、古銭おびただしく得て匿しおいた者があった。毎夜小児をして田辺|江川町《えがわちよう》の酒店に小銭持って酒を買いに往かしめると、妙に毎度古銭が交《まじ》つておったので、酒屋の亭主不思議に思い取り調べると、右の次第と判ったという。跡はどうなったか知らぬ。(『続南方随筆』所収「『郷土研究』第一巻第二号を読む」を参照すべし。) (大正五年六月『郷土研究』四巻三号)
(194) 山オコゼのこと
柳田国男「土佐高知より」参照
(『郷土研究』四巻七号四四四頁)
大正三年の予の日記に、「四月二十二日朝、下芳養《しもはや》村大字堺の漁夫一人来たり、山オコゼという物を欲しいと言う。子細を問うに答えけるは、山オコゼは北向きの山陰のシデの木などに付く長さ一寸ばかりの小介、殻薄きものなり。かの村にこの介を持ち、常に漁利また博奕利を獲る者あり。袋に入れて頸に掛け、人に見せず。二年ほど前、そこの駐在巡査谷口某のみこれを見得たり、と。予それは定めてキセルガイの一種であろう。予が熊野で集めただけでも十余種はあり。現に田辺町のこの住宅のはね釣瓶《つるべ》の朽ちたる部分にも棲《す》んでおる。今少し委細にその形状を言わねば、いずれの種が山オコゼか分からぬ、と言うて返した」と記してある。
さて、この八月十三日に、『南国遺事』を著者寺石君から受けて山オコゼの記事を見、それはキセルガイのことであろうと書き送ると、同三十日付で返書あり、山中の林藪に生ずる小螺なりとて略図を示されたのを見れば、あまり大ならず、また小ならざる、一寸ばかりのキセルガイだった。土佐方言ゴウナとも謂う、と付記せられた。『和漢三才図会』によると、ゴウナとは小螺中に蟹が棲むもの、東京でいわゆるキシャゴノオバケである。紀州でゴンナイと呼ぶは水流に住む蜷《みな》のことだが、とにかくかかる小螺をすべてゴウナと呼んだものらしい。(十月二日) (大正五年十一月『郷土研究』四巻八号)
(195) 赤山明神のこと
岡崎清安君は赤山明神《せきざんみようじん》を泰山府君《たいざんふくん》と称して人の生命を司る神とする理由を説かれたが(『郷土研究』三巻一〇号五七七頁以下)、これを祀《まつ》れば商売の掛金がよく取れるという訳《わけ》は解かれておらぬ。
予『慈覚大師伝』を見るに、慈覚、開成四年帰朝の途上、登州赤山の法華院に冬を過ごし滞留、明年の春この山神に弘法成就を祈ると、その夜の夢に嚢《ふくろ》を持って大師の前を三度通る者あり、何人ぞと問うに、商人と答う。隣房の和上《かしよう》が何を持つぞと問うと、汝の買うべきものでないと言う。大師が問うと、商人、わが持つところは三千大千世界を懸ける秤子《はかり》だと答えたので、大師これを買うて大地を懸け見るうち、自分も地におりながら、その秤に随いて上昇し、それより自然万事を知るを得た。夢覚めてのち思惟すらく、わが心まさに大千世界無上法王秘密法門を得べし、云々、と出ておる。
大千世界をすら懸けて取らす神だから、十両や百両の目腐《めくさ》り金《がね》の掛取りは造作もないことと言うところから、掛取り集金の神としたことであろうと思う。件《くだん》の伝は、寛平入道親王撰、大師滅後四十九年という句あり、『改定史籍集覧』第一二冊に入っておる。 (大正五年十二月『郷土研究』四巻九号)
【追記】
寛平入道親王とは、醍醐天皇の御弟で、菅公のことに連累した斉世親王のことらしい(この伝の跋文と『本朝皇胤紹運録』参考)。ローマ帝ヴェスパシアヌス、かつて夢に、大殿中に天秤あり、一方の皿にクラウジウスとネロの二帝、今一つの皿にヴェスパシアヌス帝とその子供を盛って、目方平均するを見た。後年勘定すると、この二系統の諸帝の治世の総年数が相等しかったという。また唐の中宗の時、詩賦をもって鳴った名姫上官昭容は、孕まれた時、母の夢に(196)巨人が大きな秤をくれて、この秤で天下を量れと言ったが、成長して中宗夫婦と当時豪勢の二公主の詩賦の代作を勤め、それから政治上に大勢力あり、終《つい》に玄宗に誅せられた(大正十四年六月二十日の『ノーツ・エンド・キーリス』、拙文「秤を夢みること」)。(大正十五年九月二日)
シュンデコ節
明治二十一年ごろ、米国ミシガン州アンナバーで、日本学生が一夜会合して芸尽しをやった時、東北生れの某氏が、このシュンデコ節をやった。どんな唄だったか、まるきり忘れたが、ちょうどその時国元から届いた我自刊我本の『嬉遊笑覧』付録に、「(『仮名手本忠臣蔵』六段目)みさき踊りがシュンダルほどに、云々。こは山崎辺在郷の踊りなるべし。シュンダルと言うシュンは、旬字なるべし、字書に「十日を旬という」と言えり。思うに、物のちょうどよき盛りのところを言うなり。また按ずるに一段色濃きを一入《ひとしお》というごとく、染《そ》むことの深きに喩え言うか。染むをシムとも言えり。シュンダルはシミタルの譌言《かげん》にや。今阿州の俗、七月の踊の合拍子に、シュンデキタ、シュンデキタと言う。シュンデキタは染《し》みてくるなり」とあったので、シュンデコはシュンデクルの意と解しおった。その座でこれを唄うた人は、幼少から東京住居で、シュンデコの何たるを知らなんだ。
延宝元年成った『西翁十百韻』に、「丸がたけ比べ腰付きなまめきて」「君と躍りはシュンデクルシュンデクル」。同七年板、西鶴の『両吟一日千句』に、「大夫でもとても話さば葛城を」「シュンデ来ました霜といふ物」。話のシュンデくるに、寒さ身にシムを懸けたのだ。紀州で、今も鰹や桜の季節の盛んな季節をそのシュンというが、また話が進んて傾聴するあまり一座静かになると、話がシュンデきたという。シュンデコ節もそんな意味よりの称えと思いおったが、植物シオデの仙北辺の方言と、五巻一号五八頁の説明で初めて判然した。その地方に無縁(197)な者が方言を解くは難事と悟った。 (昭和六年五月『郷土研究』五巻二号)
虱が人を殺した話
『古今著聞集』魚虫禽獣第三〇に、「ある田舎人、京|上《のぼ》りして侍りけるが、宿にてひなたぼこりして居たりけるに、背の痒かりけるを探りたれば、大きなる虱の食いつきたりけるなり。それをあとなくて、腰刀を抜きて、柱を少し削り懸けて、その中にへし込めて、働かぬように押し覆いてけり。さて、この主田舎へ下りぬ。次の年上りて、またこの宿に留まりぬ。ありし折の柱をみて、さてもこの中にへし入れし虱、いかがなりぬらんと、おぼつかなくて、削り懸けたる所を引き明けてみれば、虱の、身もなくて、やせがれていまだあり。死にたるかとみれば、なお働きけり。ふしぎに覚えて、おのがかいなに置きてみれば、やおらずつ働きて、かいなに食いつきぬ。いと痒く覚えけれども、いまだ生きたるが無漸さに、事の様みんとて、なお食わせおりけるほどに、次第に食いて身赤みける折、払い捨ててけり。その這いたる跡浅ましく痒くて、かき居たりけるほどに、やがて腫れて、いくほどもなくおびただしき瘡《かさ》になりにけり。とかく療治すれども叶《かな》わず。ついにそれを煩いて死にけり。虱は、下臈《げろう》などはなべてみな持ちたれども、いつかはその食いたる跡、かかることある。これは去年よりへし詰められて過ぐしたる思い通りて、かく侍りけるにや。白地《あからさま》にも、あどなきことをばすまじきことなり」と出ず。
これも支那から伝わった話でなかろうか。『夷堅志』支丁八にいわく、処州松陽の民王六八、箍《たが》かけを業とす。縉雲に至り周氏方で甑《こしき》に箍かくるうち、腰間いと痒《かゆ》し。捫《ひね》って一虱を得、戯れに甑に鑽《きり》もみて竅《あな》を成し、その中へ虱を納れ、木を?《けず》って栓とし、つめて去った。一年後また周氏方へゆくと、同じ甑を直させた。たちまち前事を憶し、竅を開くと、虱死せず、蠕々《ぜんぜん》として動く。王匠これを掌におき、爾《なんじ》久しく餓えを忍んだ、今爾に与えて一飽せしめんと(198)祝すると、急に掌心《しようしん》を?んだ。血少し出たが、癢《かゆ》さいかんともすべからず。これをかくと癰《よう》となり、久しくして手の背へ攻め透った。療ずべき薬がなくて、ついに死に至った、と。(四月十三日朝九時半) (昭和六年九月『郷土研究』五巻四号)
ハマボウとハマゴウ
本誌五巻一号三四頁、矢野君の「『雪国の春』を読みて」に、普通ハマボウと言うは、ムクゲに類した黄色の花さく物で、「御説の植物はハマゴウと申し候。ただし、これは一般植物学者の用いるところにて、由来学者は本にある名を正しとし、土民の用いるところを誤りと致し候えば、必ずしもいずれが正しとは申しがたく、なお研究を要することと存じ候えど、御参考までに申し上げ置き候」とあり。
『雪国の春』という書物を、矢野君の寄書で初めて承った予は、『雪国の春』にどんなことを記しあるかを知らねど、察するところ、その筆者は、沙浜に叢生する潅木で、紫の花さく馬鞭草科の一植物、今日普通の教科書などにハマゴウとしおるものをハマボウと書いたとみえる。これは矢野君が言うごとく研究を要することで、予の幼時、毎夏、ハマゴウの茎葉を松江浦辺の少年など荷なうて和歌山市中を売り歩くに、一種定まった声調で、「ホーカズラヤーイ、ホーカズラヤーイ」と呼んだ。薬湯にして浴するに用いたものだ。『紀伊続風土記』九五に、蔓荊、海部・名草両郡の海辺沙地に多し、本国にてホウカズラ、とあるもこれだ。
『重訂本草啓蒙』三二でみると、土佐でこれをホウまたホウノキと言うのが、紀州の方言ホーカズラに近い。これをハマポウと言うは安芸の方言、同名あり、とみゆ。同名とは、ムクゲに似て黄花を開く黄槿を指す。畔田翠嶽の『古名録』三一に、「蔓荊、今名ハマポウ、黄槿と同名。『倭名類聚抄』にいわく、蔓荊、和名波万波比。『本草類編、波(199)末波伊。『新撰字鏡』にいわく、蔓荊、波麻波比、またいわく波麻奈須弥」とあり。浜を這うの意で、古くハマハヒまたハマハイと称せられ、ハマハヒの名が醍醐天皇の昌泰年中に成った『新撰字鏡』に出でおり、ハマハヒが少し変わって、安芸のハマボウ、またハマを略して土佐のホウ、それにカズラを添えて紀伊のホーカズラとなったので、紫花開く蔓荊をハマポウというのは由緒すこぶる正し。これをハマゴウと言うは、『本草啓蒙』を参考するに佐渡の方言で、さらに平安朝の古書などに見えぬ。故に植物の名称を正す場合には、ハマゴウよりもハマボウを蔓荊の名とせねばならぬ。(そこまで穿鑿せずに、維新後、学校教科書など編するとき、二木同居の混雑を防ぐため随意に、一をハマゴウ、一をハマボウと定めた、と見える。)
黄槿は蔓荊ほど古く文献にみえず。それは蔓荊のごとく薬用されなかったゆえに、支那の「本草」に載らなんだからだ。これをハマボウまたホウノキと呼ぶは伊豆の方言らしい(『本草図譜』八七)。宝永七年、武州染井の花戸伊兵衛著『増補地錦抄』五、木槿の類に、ハマボ、花形木槿のごとく、色うこんとあるのが、たぷん黄槿が邦書に初めて見えた例だろう。ハマボとは、浜穂また浜帆の意か。最も早く文献に載せた名を正称とするのが当然ならば、蔓荊をハマボウ、黄槿をハマボとして別つべきはずだ。物の名の正謬をかれこれ言うには、古書の穿鑿を要すること、論を竢たず。(二つの異なる植物が今に同名で、いとややこしいものをそのまま置きある例は、石蒜科のショウキランと蘭科のショウキランである。)(四月二十四日)
(追記)『和漢三才図会』八四に、黄槿よりは、蔓荊によく似た木を図し、蔓荊子、和名波末波非、浜に匐《は》うの義かと書き添え、『本草綱目』の蔓荊の記載文を引き、按ずるに、蔓荊子、形状、上説のごとし、ただし花黄色の単弁、すこぶる木槿(ムクゲ)花に似たり、穂を作《な》すと謂うものと同じからず、紀州より出るもの良く、播州の産これに次ぐ、とある。これは支那でいわゆる蔓荊は『和名抄』のハマハヒで、昨今の教科書にいわゆるハマゴウと知らず、またハマゴウを見ずに、ハマハヒをハマボウと呼ぶ所もあるより、今一つのハマボウすなわち黄槿と混同して、疑いを述べ(200)たのだ。薬店などもそのころ二物を混同したとみえる。(八月二十七日午後三時) (昭和六年十月『郷土研究』五巻五号)
【追記】
本誌五巻五号三二五頁に、蔓荊をハマボウと言うは安芸の方言と述べおいた。ところが今朝神戸の宮武省三君より、「小生、門司市大久保海岸に住居中、この葉ある木を、同地方でハマンボウと呼ぶと老人より教えられ候。大正九年九月二十七日のことで、その時採りたる葉を御覧に入れ候」とあって、送り来たれるをみるに、蔓荊に相違なし。されば山陽道諸国では、この木をほとんど、一汎にハマボウまたハマンボウと言うと察せらる。(十月二十四日午前十一時) (昭和六年十一月『郷土研究』五巻六号)
秘しおった年齢を自分で露出した語
同治甲戌一笑軒新板『笑林広記』二巻四五葉に、ある人老妻を娶り、面に皺紋多きを見、汝年いくつと問うと、四十五、六と答えた。夫いわく、婚書には三十八歳とあったが、顔をみると四十五、六どころでない、本当を話せ、と。婦、実は五十四歳と言った。夫承知せず。再三|詰《なじ》れど五十四歳と言い張った。「床に上がりて後も、さらに過心《きをゆるさ》ず」。すなわち巧みに一計を生じ、ちょっと起きて塩甕《しおがめ》を蓋して来よう、鼠に食われるとわるいからと言うと、妻が馬鹿を言いなさんな、今六十八まで活きたが、鼠が塩を倫《ぬす》むと聞いたこたアないといった、とある。この書は乾隆中の輯というが、この話を模したものか、ただしは邦人の創作か、同式異体の話がここもとにも厶《ござ》る。
宝永五年板、西沢一風作『野傾友三味線』二の三に、「遠慮すべきこと、芸子の一座にて歳穿鑿、と古人の詞にみえたり。されば二代先の中村数馬は、背小さく、異《かわ》りたる声を使わず、そもそも若衆方となって舞台をふむこと三十八年のあいだ、風俗ついに変わることなき子供なり。公界《くがい》十二歳より勤めて、四十九歳の秋まで、孫ほどなる客にも(201)だいてねられける。野郎始まりて例なき」世語りとはなりぬ。世の人心のかわりたる物好きとて、若衆の盛りは二十より上、毛臑《けずね》生えたるこそよけれとて、ある国の守は児姓の元服三十歳にならざれば許し給わず、と聞きふれたることなり。ころは両国橋の花火みに出て、二、三人友とせる相口、この熱さ常の宿堪えがたかるぺし、いざと誘う水に任せて、木挽町の裏筋に、しれる亭主に音《おと》ずれ、物ずきさまざまなる中に、庄一と申す男、何と年は十八、九までは苦しからず、小作りなる男色を望みの由。主飲みこんで、花井品之助様と申して、いまだ板つきの御身にはあらず、おとしは十六、七とみゆれども、小作りにて、十二、三のおいとしぼ、これに御|極《きわ》めと勧むれば、幸い有顔《ありがお》にてまつ所へ、品之助様御出で、亭主が申すに違《たが》わず、十三、四とみえて、酒あい一座、いやなること一つもみえず。庄一思いの外なる喜悦の眉を聞き、残る両人も馴染みの方へ使いを立つれば、いずれも差し合い、是非なく品之助一人を一木の花の眺めにして、酒よきほどにしみて、面白う遊ぶ最中、地心《じしん》どろどろとなると、地震けしからず、茶桶の水をゆりこぼす。行燈の油浪うって、燈火《ともしび》を消す。これはこれはと肝を潰して、勝手へ逃げこみ、雪隠に匿れ、念仏を申す。花車《かしや》にわかに血の道起こりて、鉢巻を尋ぬる。心強き客も、互いに貌《かお》をみ合わせて、しばしは無言の行人、座禅の一座のごとし。しかるに品之助一人、ちっとも騒がず、三味線を抱えて寛闊、一休の相の手を、小野川流に調べて、何ともない貌つきなり。ようようゆりやみて、人々生き返りたる心地にて、印籠より気つけを出して、水にて息をつぎて、かような時には、見事なる盞《さかずき》に仕れと、鉢飲みを始めて正気になりて、さてさて我《が》を折りましたは品之助様、微塵こわげなく、張り上げて唄うておられた、結局子供衆と引きかえ、この木男ども只今のうろたえよう、面目なしと大笑いすれば、品之助、えくぼの入りたる貌もちにて、いずれも様は御存知あるまじ、この四十六年以前の地震、かような物にてはござんせなんだ」。(五月二十四日午前四時) (昭和六年十一月『郷土研究』五巻六号)
(202) 蜘妹を闘わすこと
「学界消息」他人会の条参照
(『那土研究』五巻六號四〇六頁)
紀州日高郡|山地《さんじ》諸村や、この田辺町近方でも、秋末、児童が女郎蜘蛛を闘わす。ただし、このこと紀州に限らず。
旧友右松有寿氏(平壌攻陥の前夜、陣営で薩摩琵琶を唱うた人)在米の時、予に語りしは、明治九年末、氏がまだ子供で、村の神林で女郎蜘蛛を闘わしおったところ、青年輩が兵器を携えて三々五々走り往った。それが西南戦役の最初の騒ぎだった、と。されば薩摩にも、この慰みが古く行なわれたのだ。宮武省三君の『習俗雑記』一七八頁にも、「鹿児島県加治木では、毎年旧五月五日、山蜘蛛合戦とて、女郎蜘蛛を捉《とら》え、互いに闘わす風あるが、これは豊公朝鮮征伐の時、陣中無聊の将卒ども、蜘蛛を闘わし、遊んだのが、今遺風として存するのじゃ、と称されている」と見ゆ。
女郎蜘蛛は分布広い物ゆえ、定めて他の諸地にもこのことは多かろう。支那には、山人王固が数十の蠅取|蜘《ぐも》を鼓声に応じて対陣演習せしめた談《はなし》あり(『酉陽雑俎』五)。日本に延宝より正徳ごろまであった蠅取蜘して競うて蠅を取らしめた戯れは、『閑窓自語』や『足薪翁記』三に出ず。(十一月二十一日午後九時) (昭和六年十二月『郷土研究』五巻七号)
辻占果子
明の馮応京の『月令広義』五に、『開元遺事』、都下、上元の日、麪繭《めんけん》を造り、官位帖子をもってその中に置き、熟してこれを食らい、もって高下相勝つを得て戯となす、『歳時記』、麪繭はすなわち厚皮饅頭なり、と見ゆ。
(203) 近年とんと外出しないから見及ばぬが、六十年も以前より二十年ばかりの昔まで、大阪の町外れや和歌山、田辺等の市町諸処に、辻占|果子《かし》という物を売った。目方も味も、いと軽い煎餅質の果子を、八角なるシキミの実を三角にした形に造りある。それを破れば中から辻占を書いた紙片が出た。これと同様の果子に、小児の玩《あそ》びにする鉛製の天神や鳥居やメンコなどを入れたのもあった。それを包み菓子と言った。また昆布の小片に辻占紙片をたたみ込んだのもあった。この辻占果子は、唐代の上元日の麪繭の移化したものならずとも、その趣向はいとよく似おり、しかるに『嬉遊笑覧』、『守貞漫稿』などを通覧しても、辻占果子を載せおらぬようだ。よって、この果子が本邦文献にいつごろから現われおるかを諸君に乞い問う。(昭和六年十二月二十六日午前六時) (昭和七年三月『郷土研究』六巻一号)
蛙を神に供うること
本誌五巻五号三三八頁に立花君が参照された通り、『統南方随筆』に、『書紀』巻一〇や『諏訪大明神絵詞』より推して、古え本邦処々に蝦蟆《ひきがえる》を珍味とする風があったと知れる由を述べおいた。
頃日、趙宋の章淵の『稿簡贅筆』(『説郛』四四所抄)をみて、支那でも、古く蛙を珍味として神に供えたが、後には偏民のみこれを食い、都会人士は膳に上さなんだと識《し》った。いわく、「韓退之の「柳柳州が蝦蟇を食らうに答う」詩にいう、予初めは喉を下らず、近ごろまた能《よ》くすること稍々《わずか》なり、常に蛮夷に染まんことを懼《おそ》れ、平生は性《こころ》楽《よろこ》ばず、と。漢の武帝の上林苑を除かんとせしに、東方朔《とうぼうさく》進んで諫めていわく、土は薑《はじかみ》と芋に宜《よろ》しく、水には※[圭+黽]魚《あぎよ》多し、貧者もって人|給《た》り家足るを得て、飢寒の憂いなし、と。顔師古《がんしこ》註していう、※[圭+黽]《あ》はすなわち蛙《あ》にして、蝦蟇に似て小さく長脚なり、けだし人また取ってこれを食らう、と。霍山いわく、丞相|擅《ほしいまま》に宗廟の羔《こひつじ》、菟《うさぎ》、※[圭+黽]を減ず、と。師古いわく、羔、菟、※[圭+黽]はもって祭祀に供うるところなり、※[圭+黽]は古え上はもって宗廟を祭り、下はもって食貨に給す、しか(204)るに退之の爾《しか》いうは何ぞや。白楽天の張十六の「蝦蟆」の詩に和せるにいう、嘉魚は宗廟に薦《すす》め、霊亀は邦家に貢す、竜に応じてよく雨を致し、わが百穀の芽を潤す、蠢々《しゆんしゆん》たる水族のうち、用うるなきは蝦蟇なり、と。また、漢の書を読むこと熟《くわ》しからざるなり」と。
ついでにいう、故山座円次郎氏|談《はなし》に、九州ではヒキガエルを煮食う者多く、氏もまたしばしば喫《く》うた、爪を除かずに煮ると味が苦くて食いにくい物だ、と。先師鳥山啓先生話に、鹿児島人は、ヒキガエルを煮る時芋を入れると、おのおの芋一を抱いて煮殺さる、それを芋とともに食う、と。先生は薩摩へ行ったことなし。伝聞によった言と思わる。ところが昨夜『古今図書集成』禽獣典一八六を繙くと、『南楚新聞』、「百粤《ひやくえつ》の人、蝦蟇をもって上味となす。まず釜の中に小竿を置き、湯の沸くを俟つて蝦蟇を殺す。すなわち竿を抱いて熟す。これを抱竿糞と謂う」と記す。このことを本邦のこととして述ぶるに臨み、竿の字と芋とよみそこねて、ヒキガエルが芋を抱いて死ぬと伝えたものかと想う。が読者の中には現に鹿児島に住まるる方も多かろうによって、右様の調理方が、かつてかの地方に行なわれたか否を、聞き合わせて一報されんことを望む。(昭和六年十二月九日午前七時)
(追記)本文に出た『南楚新聞』は、『四庫全書総目索引』にみえず。しかるにその発送後、『説郛』七三に抄記あるを見ると、尉遅枢の所筆とあり、『新唐書』五九に唐末の人とある。『説郛』には竿の字をことごとく芋に作りある。これが本当らしい。故に伝来か偶合か分からぬが、蝦蟇を煮て抱芋羮とするは、薩摩に限らず、五代の南支那にもあったと知る。(十二月十日夜) (昭和七年十一月『郷土研究』六巻三号)
蓮燈
清の屈大均の『広東新語』九にいわく、「(広東で)八月十五の夕、児童、番塔の燈を燃《とも》し、柚火《ゆか》を持って、道(205)に踏歌して、灑楽仔、灑楽児、無咋糜、という。塔は砕けたる瓦をもってこれを為《つく》る。花塔に象《かたど》れるものはその燈多く、光塔に象れるものはその燈少なし。柚火は紅き柚《ゆず》の皮をもって人物花草を彫《ほ》り鏤《きざ》み、中に一つの瑠璃《ガラス》の盞《さかずき》を直《た》つ。朱《あか》き光|四《あたり》に射《さ》し、素馨《そけい》・茉莉《まつり》の燈と交映《うつりあ》う。けだし素馨・茉莉の燈は香をもって勝《すぐ》れ、柚の燈は色をもって勝る」。『嬉遊笑覧』六下に、この文を引いて、この方にて、西瓜の肉を削り取りて、中に火をともして、青く見ゆるも同じ類なり、と記す。
今は知らず、五十年ほど前まで、和歌山市の夕涼み場で、小児が小さい西瓜(方言、源五兵衛)をそんなに仕立て、火を点じて持ち歩くを毎々見受けた。それと同時に、蓮房より実を抜き取り、食いおわつたのち、房の一側に窓を穿ち、そこから房内を削り浄め、房頂の裏に?を点じ、短き?燭を立て、火を点じて持ち歩いた。蓮房がその茎の上に直立しては好都合ならず。茎より曲がり傾いたものを択《えら》み用い、聖徳太子の像に見る柄香炉を俯《うつむ》けた風に、茎を地面に並行させて持つを要した。それを何と称えたか知らず。ただ蓮に火をともすと言った。このこと一向文献にみえぬようだが、他府県にもあったものか、また何と称えたか、諸君の教えをまつ。
『宋高僧伝』一五に、唐淇州聞照寺鑑源は何許《いずこ》の人と知らざるなり。「素行|甄明《あきらか》にして、律の道に範囲《のつと》り、?蒭《びつしゆ》の表率《てほん》たり、何ぞこれに由るなからんや」。のち『華厳経』を講じ、号して勝集となす。日に千人に粥食を供う。その倉箪中の米粟わずかに数百斛、これを取るに竭《つ》きず。夏に沿い秋に渉《わた》り、いまだかつて匱《とぼ》しきを告げず。その冥感かくのごとし。その山寺越に徴応多し。慧観禅師あり、三百余僧蓮燈を持ち空を凌いで去るを見る、歴々として流星のごとし、と出ず。ここにいわゆる蓬燈は、和歌山の小児が弄んだ蓮房に火を点じたと同様の物かと想う。しかし、支那で蓮房を燈に便用すること、果たしてありや、これまた諸君に教えを乞う。
清の朱彜尊の『日下旧聞』二八補遺に、清の張遠の『?志』を引いて、燕市、七月十五夜、児童争うて、長柄の荷葉を持ち、燈をその中に燃《とも》し、街を繞りて走る、青光|?々《けいけい》として燐火のごとく然り、と書いたは最も近いが、蓬房と(206)なくて蓮の葉の中に燃したというだけ差《ちが》う。かつどうして荷葉中に燈を燃しうべきかをつまびらかにせぬ。それから『古今図書集成』考工典二三〇に、元の謝宗可の水燈の詩あり。いわく、「波明るく?《ほのお》煖《あたた》かなり晩風の間、泡影の飛び来たるを鏡の裏《うち》に看る、万点の芙蓉は碧《あお》き沼に開き、一天の星斗《せいと》は冰《こおり》の盤《さら》に落つ。珠《たま》は赤き水に浮かび光なお湿《ぬ》れ、火は丹《に》の池に浴して夜いまだ乾かず、照らし破る魚竜波底の夢、幽宮は怕《おそ》れず五更の寒さを」。またその蓮燈の詩は、「万点の芙蓉は午夜《まよなか》に芳《かお》り、酔うて看る疑うらくはこれ水雲の郷かと、蘭缸《らんこう》照らし破る西湖の夢、火樹焼き残す太液《たいえき》の香り、?煖くしてまさに夜雨を擎《ささ》うるを愁《なげ》くべし、燼《もえのこり》寒《つめた》くして為に秋霜を倒《もど》さず、元宵の庭院東風の暁、零落の紅衣|画梁《がりよう》より落つ」というので、いずれも蓮と燈を一緒に詠みあるが、蓮房にも蓮葉にも燈を点じたとは見えぬ。また同典二三一に、『拾遺記』、「穆王《ぼくおう》の三十六年、王は大騎の谷を東巡し、春宵宮に指《おもむ》き、方士仙術の要《おくぎ》を集む、云々。時すでに夜ならんとし、王は常生の燈を設け、もってみずから照らす、云々。また冰荷《ひようか》なるものあり、泳《こおり》の壑《たに》の中に出ず。この花を取ってもって燈を覆うこと、七、八尺、光明をして遠からしむるを欲せざるなり」。これは氷の中に生うる蓮の花を燈にかぶせて、その光を減じたというのだ。(六月十一日早朝) (昭和八年八月『郷土研究』七巻六号)
(207) 紙上問答
質問
一三 ざさんさ
『心中宵庚申』、半兵衛の辞世「はるばると浜松風にもまれ来て涙に沈むざさんさの声」。松村操の『実事譚』一〇篇、由井正雪丸橋に問いて、貴殿の管槍《くだやり》にて何程《いかほど》の手柄こそ候わんと言うを、忠弥聞きて、一人仕留めばずいぶんの手柄にて候と言うを、正雪急に忠弥が口を押さえ、一人とは如何《いかん》と問うに、忠弥、ざさんさ浜松の音は、と言いて止めけり。また井上円了博士の『妖怪学講義』に越後の七不思議を挙げたるうちに、ざさんさの松というがあつたと覚える。ざさんさ〔四字傍点〕とは何のことなりや。 (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
答。「浜松の音はさざんざ」は、むかし流行した囃《はやし》で、狂言の中にしばしば見受ける。自分の記憶しているところでは、『烏帽子折』に出ている、さざんざ浜松の音はさざんざ、というのであるが、「さざんざ」に別に意味ありそうにも思われぬ。「さのさ」ぐらいのものだろう。ただし、松風の声に通うといわばいうぺし。(?生) (大正二年六月『郷土研究』一巻四号)
答。試みに答えてみますが、『心中宵庚申』の「ざさんざの声」は「さんざ時雨か、かや野の雨か、音もせで来て濡れかかる」の意味がわかったら、わかる文句です。重頼かの句にも正月の門松を詠んで、そんなことを言ったものがあります。つまり、さんざめく声とか、さざめく松とか言うところを、面白く調子づけたものです。こういう調子で面白いのは、山谷《さんや》とか、三叉《さんさ》(208)とか、三荘《さんそう》太夫とか、みな文学や色恋や物語に縁があって、それらの言葉を研究するに参考となるものです。問いは文学の範囲に属するものと思います。(中) (大正二年十月『郷土研究』一巻八号)
答。さざんざは、今浜松市外に、さざんざの霊を祀るさざんざ社ありて、颯々神社と書く。音はさざんざとあれば、松に風の渡る音か。ただし、神社は唄によりて造りしものならん。さざんざの松は云々、は『狂言記』などにやたらにあり。「鳴るは滝の水」などと同じく、唄の囃子詞のように口癖にうたいしと見ゆ。(樋口功) (大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)
三 鉄漿つけ
明治二十三、四、五年ごろの『風俗画報』に、本邦某地方に、男子妻を望む時、その友人が徒党して、かの男が欲する女子を途に要し、掠めて男の宅に運び納れ、強いてその歯に鉄漿《かね》を塗る風があると載せたのを、確かに見てこの通り略抄しおいたが、正しく何年何月の分に出で、何地方のことであると、なろうことなら全文を写して示されたい。 (大正二年六月『郷土研究』一巻四号)
答。明治二十七年七月『増刊風俗画報』七五号(日本婚礼式上巻)に、淡路国津名郡由良町のこととして、「独身の男子には、その友人ら相談して、誰彼の家の娘は妻としてよかるべきやなど語らい、その夜より種々心を砕きて娘を連れ来たらんことを工夫し、ついには二、三人、日没ごろ娘の家の前に隠れおって娘の外出するを待ち、これを取り巻き、手を執りて友人の家に連れ行き、鉄漿をつくるなり。娘否めば、友人の一人鉄漿を含みて娘の口へ吹き込む。かくせば諾否の如何《いかん》にかかわらず、妻たるべからざる由なり。しかして娘の親は、怒ることはさておき、かえって昨夜かつがれたりなど言いて、すましおるとぞ。もちろん、それは中等以下のことと知られたし」。(親切生) (大正二年十月『郷土研究』一巻八号)
三五 猪熊入道
文政十二年発兌、九の『串談《じようだん》しっこなし』後編上に、狩野古法眼が人の腕に猪熊《いのくま》入道の首鎧の袖を咬《くわ》えしところ(209)を画きしことあり。また子供の揚ぐる紙鳶《たこ》に猪熊の首を画くことあり。猪熊入道とは、いかなる形のものにて、いかなる伝説ありや。 (大正二年八月『郷土研究』一巻六号)
四三 鍋屋町
和歌山で、以前小児が「岡の宮の巫女殿《いちごどん》は、舞を舞うとて放庇《へへ》って、鍋屋町へ聞こえて、鍋三つ破《わ》れて」と唄うて舞ったことは、『郷土研究』第一巻二号の一二二頁に出したが、その後明和八年板、増舎大梁著『傾城気質』巻一の二章の発端に、「観世与左衛門の笛には馬が出て踊り、常世《じようぜ》が針口《はりぐち》の音《ね》には白鼠が中廻《ちゆうがえ》りし、櫟水が小唄には味噌が腐り、巫が屁こけば鍋屋町へ聞こゆる例《ためし》、善悪ともに神の感通には非情の物を動かす」とある。巫が屁を放てば鍋屋町へ聞こゆるというは、何の訳なりや。 (大正二年十月『郷土研究』一巻八号)
八四 ウニ
本邦にて海胆(ウニ)に関する俗話あらば衛報知を乞う。 (大正三年六月『郷土研究』二巻四号)
八五 ムケカラ宗
『続史籍集覧』に収めたる『甲斐妙法寺記』享禄五年の条に、「この年、ムケカラ宗というもの天下にはびこりて諸宗を責め申し候。ことさら法華宗を一向に失うべき談合を申され候。去る間、ムケカラ宗は二十万、法華は五百ばかり御座候。いずれも経文に身をまかせ候て弓矢を取り申され候。去る間、法華宗切り勝ち候てムケカラ宗散々に責め失い申され候。こは京にてのことに候。このことが天下へ聞こえ候てムケカラ宗を責め失うこと無限、云々。この年ムケカラ宗を退治めされ候て、年号を改め食《め》され候、云々。この年熊野余良(由良?)もムケカラ宗焼け申し候」。こ(210)のムケカラ宗は一向宗のことに相違ないらしいが、ムケカラとは何の意味あるか。予の幼時和歌山で、頭広く禿げて周囲に髪残れるをムケソコと言った。小児の頭この風に剃られたのをも左様に呼んだ。天主教僧がトンシュールとて頭の真中を剃り円めるのは誰も知る通りだが、一向宗をムケカラ宗と言ったのも、何か頭の剃りように由ったのではなかろうか。 (大正三年七月『郷土研究』二巻五号)
一六三 スガイ遊びの囃
スガイという介の蓋を数箇酢の中に入れると、炭酸気泡を遊離し、泡の力で蓋が動いて皿の底を滑り行《ある》く状《さま》、あたかも生きた介が相追うごとし。紀州田辺の江川浦の小児、これを見て遊ぶ時、「サンダイブツブツ、親の目に掛からぬうちに早う逃げて行け」と囃《はや》す。他の地方では何と囃すか承りたい。 (大正四年六月『郷土研究』三巻四号)
一六六 『三世相大雑書』のこと
維新前もっぱら俗間に行なわれた『三世相大雑書』は、いつごろ始めてでき、また刊行せられたものに候か。 (大正四年七月『郷土研究』三巻五号)
一六七 カセおよびカセ子
遠藤冬花君の報告せられた阿波名西郡の言い習わしの中に(『郷土研究』三巻二号一二四頁)、カセを煮た湯で子供を洗うとカセ子になるという、とある。右のカセおよびカセ子とは何の義なりや。同君または他諸君の教えを乞う。 (大正四年七月『郷土研究』三巻五号)
答 カセ子のこと。これは阿波の方言で、栄養不良の小児を言う。また痩せて発育不完全なることをカセル、カセタなど首う(211)のである。(阿波冬花)
一七三 犬と寺社
高野山では古く牝犬を畜《か》うことを許して牡犬を禁制したが、牝牡ともに禽獣を禁制し、もしくは牡のみ畜うことを聴《ゆる》した寺社があるか、承りたし。 (大正四年八月『郷土研究』三巻六号)
一七八 難船の釘を拝すること
以前諸国で難船を掠め盗んで不意の利を得た者ども、その破船の釘を拾い尊拝して、さらに難船の近づき到るを?ったと聞く。(似たこと、英国コーンウォル州などにありし。)その式作法の委細なり大略なり聞きたし。 (大正四年十一月『郷土研究』三巻九号)
一八三 女を男に男を女にする水
インドには、男を女に、女を男にするという水の話が多い。例せば、マーン・サロヴァル湖について次の話がある。いわく、二王相約して最初に生まるる子供を夫婦とすべしと言う。子が生まるるに及び、双方ともに女だった。その一王、自分の生んだは男子なりと詐り、年長じて他の王女の婿とした。王女もちろん婚後ただちに夫の女なるを知り双親に告げると、双親これを実験せんとて婿を招き、婿怖れて犬馬各一疋を伴れて脱走した。途上で犬も馬も渇を医せんとこの湖の水を呑むと、いずれも牝だったのが、即座に牡となった。これを見て婿も水を飲むと、すなわち男に化し、還って目出度《めでた》く其の偕老を遂げたと伝う(一九一四年板、エントホヴェン著『グジャラット民俗記』四二頁)。日本に、男を女に、女を男に化する水とか食物とかの話ありや。飲食によらずしてたちまち男女変化した話が『奇異雑談』や(212)『因果物語』に出ておるのは知っておる。 (大正五年二月『郷土研究』三巻一一号)
応答
一 大唐米
問。大唐米《だいとうまい》、太米《たいまい》、赤米《あかごめ》、またはトボシなどと称する一種の米がある。漢名は?《せん》とある。瘠地にもよく育ち、虫害も少なく成熟も早く、飯《めし》にしては不味《ふみ》なれども多産であると謂う。この米の種類、耕作方法、用途、並びにその由来その他の話を御承知の方は細大ともに御教示を願いたい。(柳田国男) (大正二年三月『郷土研究』一巻一号)
趙宋の法賢訳『金剛薩?説頻那夜迦天成就儀軌経』巻二に、「紅?米《こうこうべい》を用《も》つて頻那夜迦天《ひんなやかてん》の像を作り、蜜を用つて像の腹に灌《そそ》ぐ。また紅?米を用って自《おのれ》の妻の形を作り、已《おわ》ってすなわち大明《だいみよう》を誦し、水牛の生酥を用《も》って、かの天の像および自の妻の形に塗り、已《おわ》つて持明《じみよう》の者すなわちかの二像を食らえば、常に自の妻の愛敬《あいぎよう》親近し、承《したが》い事《つか》えてしばしも離れざるを得ん」。次に、白?米ほか三品をもって人の?骨《せんこつ》に入れ、隠身の術を行なう法を説けり。
?は粳に通じ、糯《もちごめ》のほか粘らざる米を総称す。「とぼし」は、その一種にて、多く赤きものなり。宋朝に支那に入りし由『本草綱目』に見えたれば、それをも呪法に用いたるにやあらん。『松屋筆記』巻六一、『犬筑波』に「日本のものの口の広さよ」「大唐をこがしにしてや飲みぬらん」、この大唐は今のとうもろこしなりとあれど、『世事談綺』にとうもろこし天正の初め渡るとあって、『犬筑波』は宗鑑撰せしゆえ、その前の句なり。大唐米すなわちとぼしのことなるべし。唐より渡り、乾飯にし、それをこがしとせしゆえ、唐ほしいと言いしならむ。これに似たるゆえか、とぼしがらという草もあり。 (大正二年十二月『郷土研究』一巻一〇号)
(213)三 南天の葉と二俣大根
問 南天《なんてん》の葉を目出度《めでた》いときに用うることについて、南天の音ナンテンを難転《ナンテン》にこじつけて、難を転ずるというところから起こつたのだ、という説は、よく聞いているが、すこぶる怪《あや》しい説明だと思う。二股《ふたまた》大根の最初の音が、福徳の最初の音とおなじく「フ」であるから、目出度いことに使うのだ、という説明も、やはりこじつけとしか思われない。大根の方は二股に何か意味があるらしく、南天の方は葉の形その他に何か意味があるらしく思われるが、果たして自分の想像が当たっているとすれば、その意味は何であるか。この疑問に答えてもらいたい。(南天木) (大正二年三月『郷土研究』一卷一号)
二股大根を目出度いことに使うのは、人の身体、ことに兩脚と下腹部に似たるよりのことで、欧州と西アジアに古く行なわるる押不蘆《やつふるい》(マンドラゴラ)を祭りて福を求むる等、類似の例多く、余が「ゼ・マンドレイク」と題して、道家に商陸根《しようりくこん》を祀る等と比較して論ぜる二篇、一八九六とその翌々年の『ネーチュール』に出で、オランダ國レイデン出版の『通報《ツングパオ》』にも転載されたり。
南天は、「本草」に草木之王〔四字傍点〕と称し、その枝葉を久しく服すれば、長年し、また饑《う》えず、と言えり。寛政元年成りし『増補頭書訓蒙図彙大成』卷一九に、凶夢見たる者、この木を見ればその夢消ゆるゆえに、多く手水鉢《ちようずばち》の向うに植え置く、とあり。『和漢三才図会』に、山陽の地に大木あり、作州、土州の山に長さ二丈余、周圍一尺二、三寸なるあり、枕に作つて邯鄲《かんたん》の枕と俗称す、希有の物ゆえ名づくるのみ、とあれど、凶夢を厭《まじな》う意味で作りしかもしれず。また同書に、これを庭中に植うれば火災を避くべく、はなはだ驗あり、と言えり。
十年ばかり前、東牟婁郡色川村の浦地健治という人、南天の大木を伐り、博覧会へ出し誇りおりたり。公文山《くもんざん》とて、三里《みさと》村近き地に神木多く、これを伐りて異樣の凶死せし者十四、五人あり。この山に徑一尺六寸ほどの大南天一本あり。毎度見つけて、さてこれを伐らんと支度して、また往き見れば一向なし。他の樹木に変相するなり、という。むかし土小屋《つちごや》の神社に、生きたる「おこぜ」魚を献じ、水乏しかりし川に大水を招き出し、十津川より材木十万を一朝(214)に下し、大いに細民を救いし人あり。この人|件《くだん》の大水出るを見て歓喜に堪えず、径八寸ある南天の大木に乗り、流れに任せて失せ去りし、と言い伝う。
すべて南天、消毒の名高く、魚類、餅、飯など遣《や》るに添うること、あまねく知るところたり。実はその葉外観に似ず汁多く、味苦し。葉を塩で揉みて汁を取り飲めば滞食を吐く。また、その実《み》三顆を嚥《の》めば犬子籠《いぬごもり》を治す。犬子籠とは、脚を多く使う者、足の付根の内側に灸するに、灸瘡爛れて股の付根に塊《かたまり》を生じ、また腕の瘡爛れて肩に塊を生ずるなどを総称す。前年大工職の人、余の近街の家角を歩むに、犬の子様の物付き纏い来る。変な気持して帰宅せしに、たちまち発熱し、障子を隔ててその犬の子あり。これを見ると、たちまち体の皮内に塊生じ、触るると飛んでもなき所々《ところどころ》に動き移り行《ある》く。祈?師を頼み癒えしという。灸瘡等爛れて生ずる塊も、もとは犬の子の霊が籠りしと信じて起これる名ならんか。(欧米に、近年も犬に幽霊あるを見しと確言する人あり。一九〇三年出版、マイヤースの『ヒューマン・パーソナリチー』一巻六三五頁を見よ。)
田辺の俗伝に、一つの葉柄《ようへい》にすべて七小葉ある南天のその部を採り、袂にして伝染病で死せし者の葬送に随行せば、病毒を受けずという。七小葉のものきわめて少なし。付して言う、南天、学名ナンジナ・ドメスチカ、めぎ科に属し、本属の植物この種ただ一あり、支那と本邦の特産と聞く。しかるに、古くその和名を聞かず、漢名をもって通称す。その鰭葉《ぎよう》の柄も小葉も必ず対生し、また時に三椏を分生するを見るに、古え三枝《さいくさ》(福草また三茎草)と言いしはこの木にあらざるか(『玄同放言』一四章参照)。(三月二十六日)
(追加)昨年末、余の近街に住む活版職工、貧苦のあまりクロム酸|加里《カリ》を服しけるを、宿主気づき、ただちに南天の葉を煎じ飲ませしに、ことごとく毒分を吐いて命を全うせり。十七世紀の仏人タヴァーニエールの『印度《インド》紀行』六章に、カブル辺のアフガン人、毎朝ある特種の植物の根の曲がれる一小片もて舌を刮《けず》り、多量に嘔吐す。ペルシアとインドの境に住む輩も同事を行なえど、朝多く吐かず、食事にまず二、三口を吃《くら》えは必ず吐く、さて快く食事を済ます。(215)かくせざれば、三十歳に及んで必ず病死す、と言えり。また同人の『波斯《ペルシア》紀行』に、シルカシアの女巫、病人を按摩しながら、みずから?おびただしく出し、もってその病を療す、とあり。病人に代わりて病毒を吐き去る意ならん。中世、大黄|下剤《けざい》として支那より欧州に輸入され、きわめて貴ばれたり。薬剤を神とし尊びし例、インド、支那等に多し。南天を神物とせるも、主としてその吐毒の薬功によれるならん。(三月二十六日夕) (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
予の答に追加す。田辺のある老人いわく、南天の木が軒より高く伸びると、その家が衰え始める、と。また南天の枝が南に向かえる下に、歌を書いた紙を埋めて吉夢を求むる法があったが、その歌を忘れたという。隋沙門灌頂纂『国清百録』巻二、隋の晋王広が智者大師へ贈品の目録中に、楠榴夾膝《なんりゆうきようしつ》一枚、また南榴枕《なんりゆうまくら》一枚、とある。楠南相通ずで、同一の木を指したらしい。何の木と分からぬが、前述南天の木で邯鄲の枕を作る邦俗、また今も紀州などで「なるてん」と呼ぶなど攷え合わすと、南榴は南天で、むかし支那でも南天で枕を作ったのかと思われる。 (大正二年六月『郷土研究』一巻四号)
アフガン人が毎朝吐剤を用うる(『郷土研究』一巻三号)と同様の例、西半球にもあるを近ごろ見出だした。マルカムの『アマゾン流域遠征記集』(一八五九年ロンドン板、一六六頁)に、ヘベロス人、毎|旦《あさ》グワユサ葉の浸液を服し、夜来不消化の積食を吐き尽し、空腹で狩に出るに便にす、とある。蒙昧の世、不消化をもっぱら食う民には、吐剤すこぶる必要なるは、今も洋行して肉食に馴れぬ日本人に、不断下痢剤を用うる者ある類だろう。その上、国と時代により、毒害大流行のことあり。『紀侯言行録』上に、頼宣言う、国主は外をば申すに及ばず、兄弟の方にても無差《むさ》と飲食せざるを一大事と心得、毒害を禦ぐべし、と。『塵塚物語』その他戦国前後のこと記したものに、害毒の注意法多く、犀角、鳳頂から三稜の銀杏まで、防毒の品に価を惜しまず。されば南天が人家に多く栽えられた一原因は、たしかにその吐毒の効にあるならん。ついでに言う、南天葉を食物に敷くこと、大永八年の判ある『宗五大艸紙』、天文四年書せし『武家調味故実』等にあれば、四百年ばかり前すでにその風あったのだ。 (大正二年八月『郷土研究』一巻六号)
(216)七 いわゆる特殊部落の名称
問。いわゆる特殊部落には、地方によっていろいろちがつた名称および風習があるようである。自分は久しくこの問題を調べておる。どうか諸君の近村に居住する彼らの名称、生業、その他特殊の事項をお知らせください。(沼田頼輔) (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)
和歌山市辺で旧えたを「よつ」と言った。四足《よつあし》の義とも、また彼輩は東京人と同じくひ〔傍点〕の音を発しえずし〔傍点〕と言うから、四《し》の訓を取って「よつ」と呼ぶのだとも聞いた。 (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
紀州田辺で喧嘩の仲裁などする時、「ウジともサジとも言わずに仲直れ」と言うが、何のこととも分からず。しかるに古老の伝えに、ウジもサジもえたの別称で、この言句の起りは、むかし別処のえた男と女がおのおの真人間と婚せんと志し、大阪に出てある商店に奉公を励んだ甲斐あって、年季満ちて夫婦になり店を出し、おのおの満足、家業繁昌、子まで儲けたのち、ある日夫が妻に向かい、?《なんじ》われに嫁して子までできたに国元から祝い状の一本も来ぬは不審だ、まさかウジでもあるまいにと言うと、妻ござんなれという顔つきで、御身もこの年ごろ郷里から手紙一つ著いたことない、サジでないかと疑念が断えなんだと打ち返し、双方相問い詰めて到頭えた同士の夫妻と判り、素性は争われぬもの、せっかく出世して志を達したと思うたが、やはりえたはえたと縁が定まっておる、この上はウジともサジとも言わずに天の定めた分際に安んじ、和楽して家業を励むのほかなし、と協議が調うたということだ。『風来六六部集』や『嬉遊笑覧』に見えた「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を巡って猴《さる》となるんの」という唄の佐治兵衛など、猟師また屠者が猴を多く殺した報いに猴となったということらしく、サジとは古くこの輩を呼んだので、佐治兵衛という戯名もこれから生じたのかと惟う。 (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)
一二 五大力菩薩
(217) 問。西鶴の『永代蔵』に、五大力菩薩とそめぞめと筆をうごかしける、とあり。この一句について、いまだ満足すべき説明をきかず。願わくは博識なる人の教えに接せんことを。(本郷赤門生) (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)
『日本永代蔵』一の二、扇屋主人、寺詣りの帰途、男が女郎に封金状を宛てたのを、拾うた傭女《やといおんな》の手より取って見ると、「『花川様参る、二三より』と裏書、即飯《そくい》つけながら念を入れて印判押したる上に、『五大力菩薩』とそめぞめと筆を動かせける」。
唐の不空訳『新翻護国仁王般若経』巻下に、「もし未来世に、もろもろの国王にして、正法《しようぼう》を建立し、三宝を護る者あれば、われは、五方の菩薩|摩訶薩《まかさつ》衆をして、往きてその国を護らしめん。すなわら、東方金剛手菩薩は手に金剛杵《こんごうしよ》を持ちて青色の光を放ち、南方金剛宝菩薩は手に金剛|摩尼《まに》を持ちて日色《につしょく》の光を放ち、西方金剛利菩薩は手に金剛剣を持ちて金色の光を放ち、北方金剛|薬叉《やくしや》菩薩は手に金剛鈴を持ちて瑠璃《るり》色の光を放ち、中央金剛波羅蜜多菩薩は手に金剛輪を持ちて五色の光を放つ」。『翻訳名義集』の鬼神篇と、アイテルの『支那仏教語彙《ハンドブツク・オヴ・チヤイニース・ブジズム》』を参考するに、諾伽那《ナグナ》また摩訶諾伽那《マハーナグナ》は、露形神《ろけいしん》また大力神《だいりきしん》と訳す、すなわち執金剛力士《しつこんごうりきし》なり、とある。かつて高野山で見た右の五方菩薩の画像も、露形大力で咆哮する体《てい》だった。したがって五大力菩薩と言うのだろ。俗に翫ぷ五大力の長唄に「互いの心打ち解けて、上べは解けぬ五大力」とあるを合わせ攷《かんが》えると、状袋の封じ目が途上で解けぬ厭《まじな》いに、五大力の三字か、また五大力菩薩の印《いん》を筆《しる》す風があったものと見える。
似た例を挙げるなら、『世間用心記』(饗庭篁村いわく、元禄物の再版ならん、と)二の五に、「橋は勢至菩薩の御背中《おんせなか》、蹈《ふ》み行く足の恐れ、覚えぬ人の罪咎《つみとが》や」。これは劉宋の朝に訳された『観無量寿仏経』に、大勢至菩薩は身長八十万億|那由他由句《なゆたゆじゆん》で、「智慧の光をもって普《あまね》く一切を照らし、三塗《さんず》を離れて無上の力を得しむ。この故にこの菩薩を号《よ》んで大勢至《だいせいし》と名づく」とあって、一切衆生に無上力を与うるほどだから、菩薩自身はいかなる重荷にも耐ゆるはずと見込んで、橋は勢至菩薩の御背中と信じたのであろう。それと等しく、五大力菩薩の大力で封じた状は、尋常《なみ》の力で解(218)くあたわずと想うたんだろう。 (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
本誌一巻三号一八九頁に答が出て後、元文三年穂積以貫著『浄璃瑠文句評註難波土産』巻三を見ると、五大力菩薩、縁守りの本尊なり、津国《つのくに》にも、住吉の神宮寺にもあり、と見ゆ。よって『和漢三才図会』七四、住吉社の所を閲《けみ》すると、神宮寺の次に、「当社の神宝|数多《あまた》の中に五大力の画像あり。筆者はいまだ詳らかならず。大幅の墨絵にして、筆勢最も凡ならず。俗に伝う、むかし明神、松の葉をもって図したまうところなりと、云々。『仁王経』にいわく、もし未来世にて諸国王の三宝を受持する者あらば、われ五大力菩薩をして、往きてその国を護らしめん。一は金剛吼菩薩にして、手に千宝の持輪を持つ。二は竜王吼菩薩にして、手に金輪燈を持つ。三は無畏十力吼菩薩にして、手に金剛杵を持つ。四は雷電吼菩薩にして、手に千宝の羅網を持つ。五は無量力吼菩薩にして、手に五千の剣輪を持つ。この五大力菩薩は五千の大魔神の王にして、汝が国中において大いに利益を作《な》さん、まさに形像を立てこれを供養すべし、と」とあって、五大力の名号と、所持の宝器に異伝あり、と載せおる。
また、一九〇頁に述べた勢至菩薩は、『翻訳名義集』巻一に、「摩訶那鉢《マハストハマプラプタ》、ここには大勢至という。思益にいわく、わが足を投ずるの処、三千大千世界および魔宮殿を震動せしむ、故に大勢至と名づく、と」。橋は人が通ると震動するから、この菩薩の背が橋だ、と言ったのだろう。 (大正二年七月『郷土研究』一巻五号)
西沢一鳳の『伝奇作書』拾遺上に、元文二年、薩州の士早田八右衛門、大坂北の新地で五人を斬殺し、明年二月梟首さる。後年、並木五瓶このことを戯曲『五大力恋緘《ごだいりきこいのふうじめ》』に作り、三都より伊勢、尾張までも行なわる。「五大力とは神か仏かの名にして、すでに住吉神宮等に在りて、そのころのはやり神なり。状の緘《ふう》じ目に、五大力と書きて送る時は、他見を忌みて滞りなく達するとて、そのころもっぱら流行しけり。源五兵衛、三五兵衛との役名より計らずこの五大力を遣いしが、今五人切りと言わんより五大力の方通名となれり、云々」。これにて予の推量|中《あた》りしを知る。 (大正二年十一月『郷土研究』一巻九号)
(219)一七 「きのめ」について
問。山の中で食べられる樹の実の種類を教えてください。栗や椎《しい》の実なら知っております。(大野芳宜) (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
『松屋筆記』巻八七、きのめづけ、通草《あけび》の葉なり、とある。石黒君の答に同じ。ただし、紀州和歌山から田辺辺できのめと言うは「さんしょう」の嫩葉《わかば》だ。
本誌一巻九号に追加す。貞享三年出版、黒川道祐の『雍州府志』巻六に、木の目漬、「洛北鞍馬の土人は、春の末、夏の初めに、通草《あけび》の葉を採り、忍冬《にんどう》の葉、木天蓼《またたぴ》の葉と合わせて、細かくこれを?《きざ》み、塩水をもってこれを漬け、しかる後に蔭乾《かげぼし》にしてこれを用う、云々」とある。しからば「あけび」「にんどう」「またたび」三種の芽を木の芽と言ったのだ。いずれも木本の蔓生植物だ。 (大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)
三九 厠籌のこと
問。奥羽方面の民家の便所の片隅に土で製造した女の人形を四つ五つ備えてあるのは、いかなる伝説に基づくや、高教を仰ぎたし。ついでに、岩手県陸前国気仙郡|長部浜《おさべはま》村付近の民家の大便所には、四、五寸ぐらいの竹をたくさん備えて、紙の代用としてあると聞きしが、昔時よりの伝習にや、またこの風今も他地方に見る所ありや。(磐城山男生) (大正二年九月『郷土研究』一巻七号)
厠籌(ちゅうぎ)のことは、明治二十四、五年ごろの『風俗画報』に土佐の古銭今井貞吉氏の詳説を載せてあったが、今座右にない。『類聚名物考』二三四に、明の胡応麟が『甲乙剰言』を引く、安平の俗男女、厠で紙を用いず瓦礫を用ゆ、この地は唐朝の博陵県で、『会真記』に名高い美女崔?々の郷里だが、大家の閨秀はまさか瓦石で尻を拭きはしまい、また斉の文宣帝厠に如《ゆ》き籌を用いたことが記されおる、とある。 (大正三年六月『郷土研究』二巻四号)
(220)四〇 筑摩鍋の祭
問。常陸国笠間町では、祭典の時に、妻が夫を三人持てば鍋を三個頭に被《かぷ》り、四人持ってからは四個被る習慣がある。その由来と分布|如何《いかん》。(鼠助) (大正二年九月『郷土研究』一巻七号)
筑摩鍋の祭の分布などの問は、編輯者これを押さえて掲載せぬがよろしからん。何となれば、石炭や木片の分布とかわり、かかることの分布を説かんには、必ずその式作法または理由の異同を述べざるべからず。小生かつて在外中「??《エフタル》考」と題し、このことを評論し、概略を『ネーチュー・ル』その他へ出したが、それを訳して『郷土研究』へ出したところが、到底載せられぬは知れたことなり。故に、かかる如何《いかが》わしき問は出さぬがよろしと存じ候。??すなわち欧人がいわゆる白匈奴は、一婦多夫で、夫の数ほど帽子に角を載きしなり。今もその辺はこの風|遺《のこ》る所多し。その他アフリカ等に類似のこと多し。 (大正四年四月『郷土研究』三巻二号)
四八 木挽の作法
問。木挽《こびき》が山入りをして、しばらく山の中に滞留する目的で小屋を建つる時に、またその山ではじめて木を倒す時に、どんな儀式を行ない、またどんな呪詛《まじない》をするか、詳細なことを御存知の方は遠慮なく知らせてくれ給え。(平野徳七) (大正二年十月『郷土研究』一巻八号)
木挽山入りの折の作法のこと、紀州西牟婁郡|上芳養《かみはや》村大字|古屋谷《ふるやだに》の中本徳松氏(四十六歳)、熊野の山中生活のことに詳しいと聞き、知人樫山嘉一氏に本問に関し尋ねんことを望み遣ると、返事あり、いわく、木挽のことは知らぬが炭焼小屋なら知っておる。その小屋を建つるに、最初エブリ四挺を切り(新調すること)、これを四角に組みてこの場所は自分の炭小屋の場なりと唱え、さて小屋を構えに取り懸かれば魔法等ささずとて、老練の炭焼は必ずこれをなすというが、その他に式あるを聞かず。エブリは炭を掻き出す道具なり、ちょっと鍬のごとき風にて切りたての新しき木(221)にて製し、柄の長さ一丈ぐらい、杉材を用い、?《へら》の長さ一尺二、三寸、松の生木《なまき》を可とす。炭焼小屋は普通二所より成る。炭窯の上に立つるを天上小屋(テンジョウゴヤ)、それ以外をオモゴヤと謂う。窯の口の二本の柱を鳥居(トリイ)と謂う。その外には柴の垣を柴垣と言うなど、別に常と異なる名なし、云々。
また田辺の人にて七十近き者、若い時諸方旅をした時見たとて話す。山に入り木を見て伐って可なるか否を知らんと思わば、神酒(ミキ)上げましょうか、斧(ヨキ)上げましょうかと言うて、斧を打ち込み帰るに、神木等の伐りて悪しきものは、夜間に斧はずれおる、と。天保十三年ごろ伊地知季安著『漢学紀源』巻四、僧如竹の伝に、掖玖《やく》山の杉を伐ると祟るというを、「如竹|以為《おも》えらく、斧斤の時をもって山林に入るは王道の一なり、と。すなわち山上に登り、伐らんと?《いの》ること数日にして、下ってこれに諭《さと》していわく、憂いなし、必ず斧斤を入れよ、神|叟《われ》に告げていう、前宵斧を樹下に倚《たてか》けしめ、明日倒れざれば、すなわち神の赦すところなり、と。それより皆これに従い、ここにおいて始めて斧斤を入るるを得、ついに故事となる、云々」とある。
また前年|新宮《しんぐう》の小林区署長がみずから語ったは、大樹を伐るはまことに遺憾ゆえ、やむをえず伐る時は、必ずまず神酒を供え、樹の霊を祭って後に伐ることとしたと誇りおったが、奇妙なことには、この人監督中おびただしく老樹の濫伐が行なわれた。チベットの仏徒はまず懺悔して後に犯罪し、予の知った絃妓に毎朝罪滅ぼしに寺に参ってその晩に客の眉毛を読むのがある。詰まらぬことながら、みだりに樹を伐るを慎み、または男を騙せば、必ず後日懺法を行なうた古民俗の残片として参考するに足る。 (大正四年三月『郷土研究』三巻一号)
五一 親戚婚の理由
問。配偶者死亡の後に、夫が亡妻の妹を娶り、または妻が亡夫の弟と婚する理由につき、子供のためとか家庭の平和のためとかいう外に、何か特に迷信じみた必要を説く地方ありや、承知致したし。(大蜂古日) (大正二年十一月『郷土研究』一巻九号)
(222) 劉宋訳『弥沙塞部五分律』一一に、釈種相約して麁姓《そせい》と婚姻せず、犯す者を重罪とす。釈種黒離車族の女、夫を喪い、その弟の妻に望まれしを嫌い逐電し、釈種蜂起してその女の引渡しを隣国に求むる話あり。姚秦訳『十誦律』四二に、跋陀《ばつだ》比丘尼、姉死せしを往きて問い、帰途賊に遭うを恐れ、その夜止宿す。亡姉の夫、財宝多きを説き、また他人を婦とせば姉の児によろしからずとて迫るを、辛うじて言い遁れ旦《あした》に遁れ帰ることあり。
わが邦の古え、血統を重んずるより、一族親戚婚を重ぬるを書きこととし、その風を今に伝えたところ多く、その言い前を聞くに、古インドと同じく、いずれも血筋を重んずると、継子|苛《いじ》めの予防の二事にあるがごとし。妻の臨終にその妻妹を夫に薦《すす》むる例少なからず。拙妻の見聞せるところ、死んだ妻の姉妹が二人も三人も同じ夫に嫁し、同様の病患(例せば難産)で引き続き死亡し、夫大いに迷惑する者多しとのことだ。偶然の出来事か、また前例に鑑みて心配するところから自然同様の病患を招致するのか、精査を要することと思う。 (大正三年一月『郷土研究』一巻二号)
五七 マダギについて
問。奥羽の境の山中にマダギという猟を業とする人民あり。時としてはマダギのみ一の部落を作り、冬は雪の峰伝いに上州、信州辺まで熊を撃ちに来る、と聞いた。この者の生活等について変わった話があるならば、その住居地と共に御報を乞う。(柳田国男) (大正二年十二月『郷土研究』一巻一〇号)
古インド、栴陀羅《センダーラ》(屠者)の一部に摩鄧伽《マータンガ》あり、兇祝《きようしゆく》と訳しある。摩鄧女《マータンギー》が阿難尊者の美貌に思いついて、その母なる巫女を頼み、阿難を魅せんと魔法を行なうたが、ついに仏法に帰し、出家して本性《ほんしよう》比丘尼となったこと、『摩鄧女経』、『摩鄧伽経』等に出ず。問わるるところのマダギと縁あることと思わねど、名が相似た卑民が外国にもあるという証拠までに報じおく。 (大正三年四月『郷土研究』二巻二号)
(223)六五 二月八日の御事始
問。二月八日の御事始に関する各地の習俗、御教示を仰ぎたし。(森彦太郎)
一九〇九年五月二十七日ロンドン発行『ネーチュール』に、予一書を出し、長々しく御事始に目籠を出す邦俗を、『用捨箱』『守貞浸稿』等より引いて述べ、東京《トンキン》国で除夜に目籠を掲げ、アフリカ・コルドファンで家内不在のさい同様の物を入口に置く等の例を列ねたが、同年七月八日の同誌に、カルカッタ・インド博物館のアンナンデール博士寄書して、カルタッタ等では家を建つるさい竿頭に目籠と箒を掲ぐ、二つながら下級掃除人の印相にてもっとも嫌わるる物ゆえ邪視を避くるためならん、と言った。『用捨箱』にも鬼は目籠を畏るとあったと記憶するが、イタリアで沙をもって邪視を禦ぐごとく、悪神が籠の眼の数を算《かぞ》えるうちに、邪視の眼力が耗《へ》り去るとの信念から出たのだろ。 (大正三年五月『郷土研究』二巻三号)
七一 燕を殺さぬ風習
問。いずれの地方でも、燕は至って捕えやすいにもかかわらず、これを殺さぬようである。その理由は、まずくて食えぬからという者もあるが、そればかりではあるまい。その理由をご存じの方はぜひ御一報を乞う。(大野芳宜) (大正三年四月『郷土研究』二巻二号)
イタリア人などは蠅を餌として燕を捉え食う。特別に味劣れりと聞かず。予在欧の間、イタリアの貧民多く燕を食い、ために仏国の地方に蚊多く殖えるとて抗議を持ち出せしことあり。燕は毎春時を違《たが》えず巣を定めたる家に来たり、夫妻|中《なか》よく栖《す》む等のことあるより、霊鳥として尊ぶ風俗いずれの国にもあり。例せば、和歌山辺には、燕は秋葉神の使い物なればこれを殺さば火災を招くと言い、ドイツには燕を殺せば凶事生じ、また霧雨すと言う(グリンム『独逸《ドイツ》神誌』二板、六三八頁)。ラルストンの『露西亜《ロシア》民謡篇』に、古スラヴ人は燕早く到るを豊年の兆とし、その家に巣をく(224)えば火災と落雷を避くとし、その?《す》を荒らす者は大凶事に逢うべしと信ぜり、とある。支那にも古く燕を玄鳥と呼んでその神異を記せること多く、鷹これを食えばすなわち死すなど言えり。(日本にも燕肉有毒と信ずる人あり。「燕肉は人の神気を損《そこな》う、食らうべからず」と『本草』に出ず。)古バビロニア人これを運命の鳥と呼び(一九〇三年板、ボスカウェン『第一帝国』三四四頁)、太古デンマークの介塚《かいづか》作りし輩も燕を神鳥として食わざりし証あり(ハードウィック『口碑、迷信および民俗』一八七二年板、二四三頁)。 (大正三年六月『郷土研究』二巻四号)
『甲子夜話』巻三〇にいわく、加賀にては、年々夏のうちに燕をおびただしく取り、塩漬けにして貯え兵食の料に備う。前田家の古法と見えて、昔よりそのごとくして、前年に塩漬けしたるは棄て、新と引き替え置くこと年々|違《たが》うことなし、という。あるいはいわく、息合《いきあい》の薬なるかと、林述斎語る、云々。 (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
八七 籾殻の利用法
問。諸君の御住村においては、米の籾殻《もみがら》をいかに利用しておりますか。養蚕用と灰肥用にすることなどは、すでに知っております。(安東危西) (大正三年七月『郷土研究』二巻五号)
紀州では、籾殻を焼いて肥《こや》しにする外に、里芋、甘藷、または鶏卵などの貯蔵用に供す。また寒中不断染屋の藍汁を暖めおくため、藍汁瓶の傍で籾殻を徐々に焼き続ける。また炮烙《ほうろく》で熬《い》りて細毛を去れば手ざわり穏やかになる。それを枕や帯揚げに入れる。また大阪等で鋳物師が仏具や鉄瓶を鋳るに、まず藁繩を巻き丸めた奴に粘土と籾殻を混じたるものを被《かぷ》せ、それに粘土と砂とを合わせたドベという物を被せて、志す内容の大きさにし、その外に?を熔かして志す物の厚さだけ塗り、その?にいろいろの模様を刻みつけ、さてまたドベを被せ、恰好に穴を明けてこの一団塊を熱すると、?が火化して遁げ去る。その跡へ件《くだん》の穴から金属の鎔汁を注入して、冷えた上で外のドベを除き去り、中の繩を繰り出し、籾殻や粘土を取り去り、中のドベを砕き去ると、立派に道具ができる。また焼酎を作る時、酒の(225)粕《かす》ばかりでは相粘着して固まり、粕の中に透間がなくなるゆえ、粕に籾殻を混じ、日に乾して蒸餾する。 (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)
九二 囲炉裏の四側の称呼
問。前年来、小生は山村における囲炉裏の四側を何と呼べるかを注意致しおる。入口に最も遠き一側を横坐(ヨコザ)と謂い、横坐より見て右側を客坐と言うは普通のことなり。他の二側すなわち横坐の人の左手の側、および入口に近き一側にあってはその名称区々なり。諸君の御郷里または旅行先において、これに関する御見聞、御記臆あらば承りたし。(柳田国男) (大正三年八月『郷土研究』二巻六号)
紀州熊野では、閾《しきい》を越えて内庭に入ると、その左もしくは右に囲炉裏があって、その長側が内庭と並行し、短側が閾外の道路と並行しておる。長側の内庭に近い方を庭の方(ニワノホウ)、内庭に遠い方を横座(ヨコザ)と謂い、短側の道路に近い方を寄付(ヨリツキ)、遠い方をば戸棚の方とか台所の方とか、間に合いな名で呼ぶ。すべて炊竈《かまど》と囲炉裏は荒神の祟《たた》りを畏れて不潔物を焼き焦がすを禁じ、足袋をあぶり乾かす節も汚物が入らぬよう注意する、と中本徳松氏話を樫山嘉一氏記して答えられた。 (大正五年一月『郷土研究』三巻一〇号)
九三 山路の笛
問。近ごろの小説に山路(サンロ)の牛ということを見ましたが、その書名を忘れました。その書名および山路の牛の由来を御説明くだされたい。(伊東東) (大正三年八月『郷土研究』二巻六号)
さんろの牛は知らぬが、さんろの笛ということは聞き及ぶ。その笛を吹く人の乗る牛を指すのだろ。『嬉遊笑覧』三に、「『新安手簡』白石の書に、この図を三弄と御答えなされ候由、笛にその縁|有之《これあり》候ていかにも左様|有之《これある》べく候様俗間に申し伝え候は、訳もなきことにて、用明帝牧童に御なり、まのの長者が娘の許へ御越し候を、さんろが夜の笛(226)など浄瑠璃にも候とて、老拙へもむかし問い候人有之候。玄宗、月中霓裳曲を笛にも写させ候ことも候。この御事は笛の名人、それも帝にて候ゆえ引き合わせ、用明の御事を三郎笛など申し候か、と答え候いき。ただ牧童図を申し候わんには三弄の方はるかに勝り申すべく候」。三弄とは何のことか知らぬが、『世説』に、「王子猷《おうしゆう》、桓子野がよく笛を吹くを聞けども、相識らず。桓の岸上を過ぐるに遇い、王は船中にあり、客にこれを識れる者あって、いわく、これ桓子野なり、と。王すなわち人をしてもって相問わしめ、いわく、聞く君よく笛を吹くと、試みにわがために一たび奏せよ、と。桓、時にすでに貴顕にして、もとより王の名を聞く。すなわち回《かえ》って車を下り、胡牀《こしよう》に踞《すわ》って、ために三〔傍点〕調をなし、弄〔傍点〕しおわってすなわち車に上って去る。客と主、一言も交さず」とあるから、まずそんなことだろう。
また『笑覧』六上に、「『謡曲拾葉』に、世に舎人《とねり》様なる姿の好き装束を着し、牛に乗りて笛を吹く、これを牧童の図とす、またこの童をさんろ殿という、これまたいぶかし、と言えり。按ずるに、『日本紀』に、弘計天皇《おけのすめらみこと》御兄弟、雄略を避け給い、牛を牧《か》い給えることを取りて、『烏帽子折の草子』に、豊後国まのの長者が娘を用明天皇召して后に立てんと勅ありしかども、進《まいら》せざりしゆえ、天皇御身をやつし、その国に下り給い長者が家の牛飼いになり、草刈童となりて御名を山路と呼ぶ。その処に神祭ありて流鏑馬《やぷさめ》を射ることなりしに、このことを知る者なかりしを、山路知りて射しゆえ、長者これを聟《むこ》となす。また八幡の御告げによりて天皇にましますこと顕われ、娘を召具して還幸ありし、ということを作れり。これ山路が草刈笛の起こるところなり。さて牧童をさんろと名づけしは、紀の斎名《ときな》が「暮春遊覧の賦」の序に、「山路日暮れて、耳を満たすは樵歌、牧笛の声」などとあるによりてなり、故に『烏帽子折』に、やまと竹に目を明けたる草刈笛にて候を、云々、これをもちてこそ夜更けて心澄めるをばさんろの草刈、夜の笛、云々、ともあり。『十二段』の浄瑠璃にこの文を取りて、やまと竹に目をあけてさんろが吹きし草刈笛、とあり」と出ず。
坪内博士が発見したウリッセースの伝から百合若の譚が出た外に、予も小栗・照手の話はアプレイウスの『金(227)驢篇』から多少趣向を取ったらしいと惟う節《ふし》あって、ちょっと高木敏雄君へ通告したことがある。それらと同類の『烏帽子折草子』の山路の譚も、或いは古い欧州物からの翻案であるまいか。なお研究を要することだ。宝永二年に出た近松門左の『用明天皇職人鑑』は、山路のことを述べ、長者の娘、名は玉世姫、この間に聖徳太子が出で来たとしたもので、道行きなどもあって面白い。それより十八年前(貞享四)に出た西鶴の『男色大鑑』二の三章に、多村三之丞、丸尾勘右衛門が死んだ跡へ尋ね来たり供部屋を覗けば、まだ七日も立たぬに小者集まり騒ぐ中に「むかし用明天皇は玉代の姫を恋い佗びて、と語るもあり」と見ゆ。何に致せ、山路の譚はそのころ普通に知れ渡りおったものらしい。 (大正四年六月『郷土研究』三巻四号)
一〇〇 消さぬ火
問。社寺でも普通の農家でも、昔から消したことがないという火が折々あるようです。その起原または理由などを、各地の実例について御報導ねがいます。書物に見えておるものでもよろしうござります。(桂鷺北) (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)
明治四十五年一月の『人類学雑誌』二八巻一号五七頁に『岩手日報』を引いて、東磐井郡八幡村(?)の豪家岩山氏に、宝暦二年来火種を継続せる記事あり。この家十代の祖先家を治むること厳格で、すべて火を大事にすることを訓《おし》え、毎夜家族寝たのち主人みずから明朝の火種を保存しおく制定だ、とある。また『紀伊続風土記』第二輯に、日高郡比井崎村の産湯《うぶゆ》八幡宮に、今に応神帝の産湯の井あり、天皇に産湯を奉りしより火を伝えて今に絶えず、故に村中火を打つこと絶えてなし。たまたま火の消えし家は隣家に伝えしを取りて用う。ただ田畑に出で煙草などを吸うには火を打つことありという、云々、千五、六百年を経て火を伝うること、いと珍しき風俗というべし、と見ゆ。天保のころかく記されたが、今はその火も伝わらず、またその話も聞かぬと、かの地の識者から聞いた。同郡|山地《さんじ》村その他東西牟婁郡の僻村には、二十年ばかり前まで囲炉裏に火種を絶やさぬ家多く、この火は三十年、かの火は四十年続きお(228)るなど誇ったが、今はことごとく絶えたらしい。
火を絶やさぬ風は海外にも多い。倒せば一九一〇年板、ヘドレイの『闇黒蒙古行記《トランプス・イン・ダーグ・モンゴリア》』三〇一頁に、蒙古人ことごとく火に火神ありと信じ、夏も冬もこれを絶やすことなし、と出ず。一九〇九年板、レオ・フロベニウスの『人の稚期《ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン》』四一二-三頁には、ニューギニアの内地に火種を絶やさぬ民あり、万一消えれば隣村へ貰いに往く。またアフリカのコンゴ内地に、火種を得んとて必死に戦う矮黒人ありて、火種を保存する小舎を厳守するから、それに近づくはすこぶる危険だ、とある。一九一〇年板『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一〇巻三九九-四〇〇頁にも論あるごとく、水火とも、もっとも人に必要だが、火ははるかに得がたい物ゆえ、これを持続するに力めたあまり、一聚落の盛衰は火の存否と相伴うと信じ釆たったらしく、したがって一家火を重んじ、その種を絶たざる間は繁栄すると心得たと見える。 (大正四年七月『郷土研究』三巻五号)
一〇九 優曇華の伝説
問。優曇華《うどんげ》についての各地の伝説を知りたし。(加藤又一) (大正三年十月『郷土研究』二巻八号)
優曇華の名で本邦に識らるるものが二つある。芳賀・下田二氏の『日本家庭百科事彙』(明治三十九年板)一〇七頁に、はなはだ簡瞭に説明を出しおる。よって、ここにはかの書に見えぬことのみちょっと書こう。
まず、この名の本物梵名ウズムバラ、優曇華と音訳す。ビルマ名ヤユタパン、パンジャブ名ルムパル等、みな同源らしい。いちじく属の木で、学名フィクス・グロメラタ、インドやセイロンの河岸に生じ、その実いちじくに似て味乏し。貧民これを食う。その木より貿易用の紫梗(ラック)を採り、根を薬料とし、また神を拝む時その木を焚く。一体、いちじく属の植物は、微細な花を未熟果の内部に開くので、精確な植物学智識が進まぬ世には無花果と謂われた。ちようど七重八重の山吹が実らぬは事実だが、一重の山吹には実が生《な》りながら一向目立たぬ物ゆえ、すべて山吹は花(229)は咲けど実が生らぬと日本で惟われたと同然だ。それからして、三千年に一度優曇華が開くとインド人が言い出したんだ。従って仏生まるる日この花咲くと仏教徒が信じた。しかし釈迦仏出世前からこの樹はインドの神木で、梵教でこの木を軍士の棒とし、人の妻孕んで四月になればこの果でその身を摩《こす》りて胎を鎮めた。また『委陀《グエーダ》』の婚儀に、当夜新婦自身の血に染みたる?襠(ゆぐ)を舅または梵僧に渡せば、優曇の木の棒でこれを受け取り、森中の一樹に掛けてこれを浄むることあり(バルフォール『印度事彙《ゼ・サイクロペジア・オヴ・インジア》』三板一一〇〇頁。グベルナチス『植物譚原《ミトロジー・デー・ブラント》』一八八二年板、二巻三六六頁)。『和漢三才図会』に優曇華はいちじくだとあるはほとんど中《あた》っておる。また、「鎌倉の浄密法師が庵に優曇華開き、遠近群がり集まる。二位の禅尼、左近の将監をしてこれを見せしむ。いわく、芭蕉の花なり、と。けだし、芭蕉は花開くこと希有《けう》なるをもって、人もって優曇華となすなり」。それから芭蕉と縁遠からぬ「だんどく」を曇華と称するなど、花の美を賞するあまり稀有の優曇華に比《なぞら》えてのことであろう。
第二に、邦俗もっぱら優曇華と呼ぶのは、英語でレース・ウィング・フライス(絽翼虫《ろのはねむし》)、本邦で「くさかげろう」という有益虫の卵で、紀州田辺等ではこの物が家内に現わるると至って吉《よ》いか至って凶《わる》いことがあると言う。東牟婁郡|請川《うけがわ》辺で聞いたは、この優曇華に金と銀と二様あり、金は黄色で吉、銀は白色で不吉の兆だ、と。ただし、家により夏中家の中に不断この物生ずるがある。したがってそんな家の人は何とも介意せぬが多い。 (大正四年二月『郷土研究』二巻一二号)
一三二 羊の語源について
問。羊を日本語にてヒツジと呼ぶ理由を説きたる書物あらば教えてください。また御自身の新説にてもよろしく。(大野芳宜) (大正三年十二月『郷土研究』二巻一〇号)
かつて某博士がひつじはひたうしを約《つづ》めたのだと『大阪毎日』か何かに出しおった。予は古老に、日中|未《ひつじ》の剋《こく》炎熱(230)もっともはなはだしいので、日が頭?(つじ)に昇る時配された畜ゆえ、日辻と名づけたのだ、と聞いたことがある。ひつじ、つじ、ともに『和名抄』に載せあるが、それより前にできた『新撰字鏡』には見えぬようだ。『日本紀』に羊はあるが、つじという語ありや否知らぬ。とにかく参考までに報告す。 (大正四年二月『郷土研究』二巻一二号)
一三九 二クと称する動物
問。熊野十津川、大和吉野地方に住するニクと名づくる動物に関する民間信仰承りたし。(藤里好古) (大正四年一月『郷土研究』二巻一一号)
ニクに関する民間信仰は一向聞かぬが、『古今要覧稿』五三三に、「『遷宮物語』、荒木田末偶、その子末寿、天明四年六月ごろより紀の大杉山に一月ばかりあり、云々。ニク、木に昇ること猿に等し。さて花にまれ何にまれ赤き物をいみじく好みて、その色だに見れば異事《ことごと》思わぬ物なり。されば杣えだちの若者など、廬《いおり》に有り合わせたる毛氈藍という物などを引き被りて踊りて見すれば、友などをも率いて来て、その色に見入りてすずろになりつつ、果てはては、おのれらももろともに立ち雑《まじ》わりて踊り戯《たわぷ》るるなり、云々。この夏の日蔭を避けんとて、日|裏《うら》なる木ぬれに登りて、かの曲がれる角を枝に打ち掛けて?《むくろ》は空に下がりて眠る、云々。いとよく熟寝《うまい》する物なり。『大和本草』、その皮、褥《しとね》にすべし、故にニクと言う」とある。今も毛付きの皮を敷くと何とかの病によいと安堵峰辺で聞いたが忘れた。
『本草啓蒙』四七に、「その角、本に横皺多くありて節なし(シーボルトがこれにアンチロペ・クリスパ、皺ある?羊《れいよう》と命名したのも角に皺多いゆえか)。この獣も夜は角を木石に掛けて臥す。?羊の「角を木の上に懸け、もって害を遠ざく」と言うに同じきゆえに、ニクを?羊とす。しかれども、角の大小形色みな異なる時は別物なり」とある。?羊はモレンドルフ説に、支那産アンチロペ・カウダタであって、ニクとは別物だ。真の?羊はどうか知らぬが、ニクの角は木石へ掛けるほど曲がりおらず、またそんなことを今は聞かぬ。西洋では、象が赤い物を見れば大いに瞋《いか》ると言い、また牛(231)の赤色を見れば怒るとて闘牛場で赤布で牛を揶揄して怒らすは予も見たが、熊野では今もニクはなはだ赤色を好むとて、猟師ニクを打たんとせば必ず赤切れを携え行きて、ニクを見つけるとさっそく棒の先にこれを付けて捩り廻す。ニク赤切れを見詰めて少しも動かぬところを銃殺するのだ。?羊類のある種はよく集まって跳り走るものだが、ニクが群立して跳り戯るるということは今に聞かぬ。プルシャワルスキの『蒙古とタングット国および北蔵の荒寥境』(一八七六年英訳、一巻一四一頁)に、アルガリ(盤羊。『爾雅』に謂うところの?羊《げんよう》)を著者みずから打つ時、赤いシャーツを棒の先に掛けて地に植《た》てると、かの羊群見とれて二十五分以上立ち留まるところを銃撃した、と見ゆるも同例だ。
また『本朝食鑑』に、ニクのことを述べて、「その肉は味|甘《うま》く、軟らかく浅《かる》きこと、鹿、猪に優る。故に世もつて嗜み食らい、しかして謂《い》う、羚羊(羚は?に同じ)は、身軽くしてよく飛び、角を懸けて木に棲む、その態、禽類に比して穢忌《わいき》なきをもつて、最も神詞に詣《すす》むるも、また害《さわり》なし、云々、と。予いまだその理を詳らかにせず」。スウェーデンのノルデンショールト、若い時、露国の僧徒が鯨は魚だから食つても構わぬと言うを嘲って、鯨は立派な哺乳動物だと言ったのが、露国を追わるる一原因じゃったと聞く。田辺の藩主の菩提寺の現住和尚は、最初牛乳の入った菓子を律に背くとて食わぬと聞き、予怪しく惟い、日中麻麦三粒樹下霜雪一宿の苦行全く無益と如来が大覚成道したは、一に村女が奉った牛乳味を聞こし召した刹那の結果なるに、はなはだしいかな俗僧の表面を繕うことと触れ散らしやったが、愚人どもかかる売僧《まいす》を信じて住職とするや否、大開けに開け給うて、今は大黒もあり、またひそかに人の娘に子を生ませたこと隠れなし。『呂覧』にも、禁ずるあたわずんば縦《はしいま》まにせよとあるに、とかく理窟を故事《こじ》つけて制戒を少しずつ破りたい心から、ニクは鳥ほど身が軽いから獣でなくて鳥類だなどと牽強して、当時獣肉禁食の祠官や氏子が食い始めたんだろう。兎を鳥と見做《みな》して家内神前で食うも忌まなんだことは、本年新年号『太陽』一四八頁にその理由を論じおいた。またニクは人に逢うとたちまち去らず、聢《しか》と見詰めて立つ癖がある。熊野では牛鬼という怪獣、人を見詰めて去らず、その人|終《つい》に疲れて死す、人の影を呑むからだ、と言う。人これに遇えば逃《のが》(232)るるあたわず。ただし、その時「石は流れる木の葉は沈む、牛は嘶き馬吼える」と、『曽我物語』に五郎が王藤内の斬らるるを見て詠んだ歌のような逆さま言を唱うれば害を免《まぬか》るなど言うは、ニクのことを敷衍したのだろうとの愚見を、明治四四十二年五月の『東京人類学会雑誌』二九六、七頁に出しおいた。 (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)
一四五 墓から生えたという植物
問。ある人の墓から始めて生じたという植物、たとえば支那の虞美人草のごとき例、日本にも有之《これあり》や、承りたし。(川上滝弥) (大正四年二月『郷土研究』二巻一二号)
墓から生えたという植物の伝説のこと、槃特《はんどく》比丘の墓から茗荷《みようが》が生え、異国の癩人や呉王后|西施《せいし》の塚から煙草が生えたといい(今年元旦の『日本及日本人』の拙文「石蒜の話」一五九および一六六頁)、水野某の『養生弁』には淡婆姑という女人の墓から煙草が生えたとあつたと記憶す。また和歌山などで石榴《ざくろ》は鬼子母神に食われた小児の墓から生えたと言い伝う。(〔『近江輿地誌略』巻一〇にあり。)これらは事を外国に係けて話が日本で作られたらしい。日本であったこととして日本で作られた例は、『山州名跡志』巻一三に、小野頼風の妻の塚より女郎花生じた、とあり(『藻塩草』には水死した妻の敗衣から生じたと言う)。良基公の『蔵玉和歌集』には『忌衣物語』を引いて、男女別時面影をうつした鏡を埋めた所より山吹を生じ、次年また槿花を生じたと言い、順徳院御作『野辺の昔』という物語から、ある人鳥の子を拾い、これその前生の子なり、その野に埋むべしとの夢の告げにより、埋めて明朝見れば、すみれ生えたり、と引いた。また元清作「定家」の謡曲には、定家の執心ていかかずらとなって式子内親王の墓を絡うたとあるが、定家の墓から生えたのではないらしい。 (大正四年九月『郷土研究』三巻七号)
(233)一五二 アグリという名
問 子供が何人も夭折するときに、次に生まるる子にアグリと命名する風あり。また中国辺には魚網でアグリと称するものありときく。一体アグリの語義は如何《いかん》。また、この種の命名の由来並びに分布如何。弘く御尋ね申す。(中尾清太郎) (大正四年三月『郷土研究』三巻一号)
アグリと命名する理由は知らぬが、かつて西村天囚氏が故重野安繹博士の四十七士復讐の実現を筆記出板した何とかいう書物に、浅野長矩の夫人戸田氏の名アグリとあったを覚えおる。この人の兄姉が果たしてみな夭折したものか。系図を見れば判然することであろう。 (大正四年十月『郷土研究』三巻八号)
(234) 川成と飛騨工の技を競べし話
川成《かわなり》と飛騨工《ひだのたくみ》の技を競べし話(『郷土研究』一巻一号五〇頁)に似た支那話が、『世説』に出ている。いわく、鍾会《しようかい》かつて詐《いつわ》りて荀?《じゆんきよく》の手書を作り、?の母に就《つ》いて宝剣を取り去る。会、時にまさに宅を造る。?ひそかに往きて、会の祖父の形を壁に画く。会の兄弟、門に入り、これを見て感慟し、すなわちその宅を廃す、と。鍾会は曹魏の咸煕元年、年四十で誅《ちゆう》せられ、『世説』の作者劉義慶は、劉宋の元嘉二十一年、四十歳で卒した。およそ百八十年相|距《さ》りおる。百済川成は仁寿三年八月卒す、と『文徳実録』五にあるから、鍾会の死より五百八十九年後れおる。
また一巻一号五一頁に引かれたるチベットの話と同規の話が、梁の僧旻等の『経律異相』に、『雑譬喩経』巻四より引いて出しおる。南天竺の画師が北天竺の巧師《たくみ》を訪うと、無類の美女が給侍に出た。夜分もその側に侍らせるを呼ぶも、一向近づかぬから、前《すす》んで牽くと、木作りの女だった。そこで画師は、おのが頸縊った壁画を作り、牀の下に隠れおると、明朝主人の巧師が大いに怖れ、刀で繩を絶たんとする時、画師が牀下より顕われたので、二人おのおのの妙技に感じ、親愛を捨て、出家修道した、とある。(三月二十七日) (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
(235) 鬼子母神が柘榴を持つ
鬼子母神が柘榴を持つのはインド本来の説なるにや。唐の不空訳『訶利帝母真言法』に、「右手の中に吉祥果を持つ」とある。『翻訳名義集』など見るも、吉祥果の梵語が分からぬが、二十年ほど前に、予が梵語で諸果の名を控えおいたのを見ると、柘榴の名号中に、マニ・ヴィーチャツ、マズフヴィーチャツなどある。字書が今ないから委《くわ》しく解らぬが、如意産、甘産の意と記憶す。目出度いから吉祥果と訳したのだろう。柘榴は、西北インドとアフガニスタンの自生で、古く南アジアにあまねく植えられた物の由(『大英類典』一一板二二巻。パルフォール『印度《インド》事彙』一八八五年板、三巻)。 (大正二年八月『郷土研究』一巻六号)
鰌取り
鰌《どじよう》取りなどを業とする人をポンと言う(『郷土研究』一巻五号二八九頁)は、タミル(南天竺)語で、黄金、金高《きんだか》、仏塔をポンと言う外にポンという語ある例を知らぬが、あるいは「すっぽんつき」の略語かと思う。西鶴や其碩・自笑の著にかかることを業とする者を、この名で呼んだところが多くある。『嬉遊笑覧』巻一〇を見ると、下賤の食たりしことが分かる。したがってこれを採る者もきわめて蔑《さげす》まれたろう。多くない物ゆえ、鰌などをもっぱら捕ったるなるべし。和歌山市辺から西牟婁郡の間には、鰻《うなぎ》釣り、鰌取りとのみ言い、ポンとは言わぬ。尾州知多郡では一処不住の賤民をポンと言う由。
朝比奈が鯱《しやち》を抱えた云々は、『東鑑』一六、正治二年九月二日、将軍頼家、小壺に遊びし時、朝比奈三郎海に入っ(236)て鮫二喉を抱え取ることあり。川口氏が見た絵は、これに基づくだろう。『今昔物語』巻二三に、駿州で私市《きさいち》宗平という力士、海水中より「わに」を陸上へ投げ上げた話がある。「わに」は「わにざめ」という鮫の一種だ。今日「わに」で通称する?《がく》でない。これを混じたものか、『絵本鎌倉五代記』とかいう物に、朝比奈が?(クロコダイル)を抱えたところを描いておった。 (大正二年八月『郷土研究』一巻六号)
美人を出す地
『嶺表異録』に、広西白州双角山下の緑珠井は、むかし梁氏の妻この井の水を飲んで美女緑珠を生み、晋の石季倫、真珠三|斛《こく》もてこれを買い、妾とせしが、この女より事起こり季倫も緑珠も横死を遂げた。伝えて言う、この水を飲む者は必ず美女を産む、と。閭里、美色時に益なきをもつて、ついに巨石をもってこれを鎮めた。爾後、美女を生みはすれど、七|竅《きよう》四体多く完具せず、という(『淵鑑類函』三四)。
飛騨吉城郡下吉田村なる白山宮は、もと上吉田村にあり。然れば村々美女出生し、傘松の城主よりいろいろ難題あり迷惑しけるゆえ、今の処に移し祀る、と『高原旧事』に出ず。かようの例なおあらば教示を乞う。 (大正五年四月『郷土研究』四巻一号)
五郎四郎柴
紀州和歌山辺では、五月五日男児ある家より?餅《かしわもち》を親属知人に配るが、同田辺辺では?の木が少ないゆえに、※[草がんむり/拔]※[草がんむり/契](エビツカズラ)の葉て餅を包み、これをイビツと呼ぶ。『和漢三才図会』巻九六には、五月五日とはなくて、「西国の(237)野人、※[草がんむり/拔]※[草がんむり/契]の葉を用いて麦餅(呼んで五郎四郎という)を包み、これを贈酬す。故に五郎四郎|柴《しば》と名づく」とある。何故に、この餅を五郎四郎と言うか。また、それについて何か伝説ありや。 (大正五年五月『郷土研究』四巻二号)
井鹿
和歌山県では田辺町近所まで人造の池が多いが、いよいよ熊野となると池がはなはだ少ない。これは農耕が少ないのと、渓水で事が足るから池が入らぬと見える。しかるに、那智の山腹なる上太田村大字井鹿(イジシ)という処に大きな池が一つある。この村名は、池をイジと言うより生じたものかもしれぬ。 (大正五年六月『郷土研究』四巻三号)
水量をもって年の豊倹を占うこと
水量をもって年の豊倹を占うことの和漢の例を挙げて、類例がインドにありそうだから、ぜひ南方さんの示教を仰ぐ、と石巻君が仰せられた(『郷土研究』一巻八号四八〇頁)。石巻君は、ずいぶん霊妙きわまる脳作用を持ちおらるると見え、氏の書いた物を見ると、真に博綜洪覧、砂を披《ひら》いて金を採るに至って巧なると同時に、引用材料の出処やこれを調べ上げた人々の姓名を造作もなく忘失するをさらに介意せぬは、よほどの豪傑、細瑾を顧みぬと讃《ほ》むる人もありなんか。ただし、かつて『人類学雑誌』で予が言った説を白井博士が言ったごとく述べたり、また全然自分が見たこともない経説を見たように書かれたなどは、これを言い、これを見出でた吾輩を徒労せしめて何とも思わぬ所為で、文字を列べると人情徳義とは全く没交渉といえばそれまでだが、他人が見ておっても不快に感ずるは、友人どもよりの来書にもしばしば見える。かかる人の問に答うるは、自分で自分の大馬鹿たるを公表するようで、す(238)こぶる面白からぬが、疑わしきことあれば問いて措《お》かずの心懸けより、水量をもって年の豊倹を占う例インドにもありやと、カラチ市の旧知医学博士バグタニ氏へ問い合わせたところ、済生の一方に多忙で延引の後、このごろようやく一例を見出でたとて、その本を贈られた。
それは一九〇九年十二月ナシックでインド愛国者に殺された内務官ジャクソンが、生時任地で募集し得た民俗記を、エントホヴェンが一昨年校訂編輯してボンベイで出板した'Folk-Lore Notes,vol.l-Gujarat'という書で、その六七頁に次の話を載す。いわく、サヤラの村人、祝僧数人とドホルとダーンクランを打つ楽人輩を伴い、シュラーヴァン月の明半の十五日、コジアール鬼王の祠に参り、祝僧綿糸一条もて全村を繞《めぐ》らし、これに牛乳また水を澆《そそ》いで疫病を防ぐ。この時四壮夫をして毎人頭に一土壺を戴いて村の溜池に入らしめ、水面その頸に及ぶ時、村長の相図と同時に、一斉水を潜り、ただちに出で来たらしむ。この四人はあらかじめ雨候四月に配当せられおり、池より出でて、その頭上の壺に入りし水の多少を検して、次年その月々降る雨の量を占う。さて、その場で四人その四壺を砕破し、村民その小片を拾うて自宅の穀瓶に入れ置けば翌歳収穫多しと倍ず。それより四人広場で競走し、勝った者一人に小犂頭と椰子一つずつを賞賜す。この勝者をハーリノ・ジチオと号《なづ》け、翌年中その事業ことごとく成功すと言い伝う、と。(一月二十二日) (大正五年六月『郷土研究』四巻三号)
衣類を算える童戯
和歌山市または田辺町などで、小児が自分または他の小児の著用する衣類を手で捜り算《かぞ》えるとて、「福、徳、幸い、貧乏、金持」と唱え、一枚著た物は福あり、四枚著た者は貧乏なり、と宣告して戯れとすることがある。他府県にもかかることあるべしと思うが、件《くだん》の唱え詞の異なるものがあらば御報告を乞う。 (大正五年八月『郷土研究』四巻五号)
(239) 若狭の人魚
このほど当地(紀州田辺)の好事家の蔵に、若狭の熊谷という小大名の旧蔵なりしという一幅を見、その画を写しおけり。彦火火出見尊《ひこほほでみのみこと》が塩土老翁《しおつつのおじ》の媒介で竜女と婚するところで、侍者はいずれも貝、螺、魚等を頭に載《いただ》く。別室にて貝を頭に載ける者二人、俎板《まないた》に人魚を載せ料理する。下の方に仙人、竜馬(麒麟様の馬、二角あり)に乗り、一女天人ごときが大なる鯰《なまず》に乗り宴会に趣く。詞書はなくて、別に添えた書付に、「竜宮の八百姫の掛幅一、慶応中までは旧三月十七日の祭に城主より麻上下の使者代拝ありしとなり。右は若狭三方郡井崎村五万石の城主熊谷直之、元和二年に平民となり四十六代小浜町に住む」とあり。思うに、遠藤明神と八百尼のことをごっちゃにせしものなり。(『囀り草』見るべし。) (大正五年九月『郷土研究』四巻六号)
つるべおろし
『世間用心記』(元禄刊、明和再刊かという)巻五にも、「つるべおろし」のことが出ておる。京都西の岡へ三人の侍往きて帰る途上、雨降り出し、「物すさまじき藪際の大木より、何かは知らず、鞠のごとき火のまろがせ、下りつ昇りつ見えければ」、二人驚き?《たお》れ、気を取り失う。一人、刀に手を掛けよくよく見るに、「この火さして外へもとび行かず、ただ下りつ昇りつぞしける。さては世にいう、これぞつるべおろしとかや。しばらく伺ううちに雨少し空晴れるけしき、東の方に月しろほのめくより、光物は次第に薄くなり、後はさらに見えず」。その一人、他の二人を呼び起こし、「あれは老木の火、陰に引かれて見ゆるものなり、云々」と語った、とある。 (大正五年十月『郷土研究』四巻七号)
(240) 切飯の風習
近ごろはあまり見ぬが、和歌山県到る処、オシヌキと称して蓋と底とのない、箱のような物に飯を詰め込み、上からその内空に恰当《こうとう》する板の真中に柄のあるもので飯を押しながら箱を上へ挙げると、その箱と同じ形の飯塊ができる。これを人足や信心講連の馳走にもっぱら用いた。この製法は古くいつごろからあったものか、また他の諸地方ではこれを何と謂うか、承りたい。 (大正五年十月『郷土研究』四巻七号)
柱の穴
一九の『東海道膝栗毛』六編に、弥次さんが京の大仏殿の柱の木にちようど人が潜《くぐ》りうるだけ切り抜いた穴あるをくぐろうとして、大いに困《くる》しむところがある。それにはただ戯れにしたように書いてあるが、かかる穴を潜りおおすれば何か効験があると言う地方もあると聞く。どこのことで、何の効験があると言うのか知りたい。 (大正五年十一月『郷土研究』四巻八号)
家の怪
欧州には、バンシーと称して、代々の主人が死ぬる前に、必ず女の声して叫ぶを聞く家があるという。わが邦にもこれと似たような話ありや。 (大正五年十一月『郷土研究』四巻八号)
(241) みおろし
紀州西牟婁郡では、神功皇后や竜王などの図像に見る宝珠をみおろしと呼ぶ。和歌山などでは、さらに通用せぬ名だ。みおろし〔四字傍点〕の意味|如何《いかん》。また他にもかく呼ぶ地方ありや否や。 (大正五年十二月『郷土研究』四巻九号)
歯のまじない
紀州一汎に、蛇の屍を叮嚀に埋め、それに線香を供えて拝むと、歯痛たちまち癒ゆ、と信じた。ために何とぞ蛇を一疋見出だし、打ち殺してくれと頼まれたこと少なくない。欧州でもスペインの天主教徒が名僧ロムアルド上人の遺体を獲て、分配して供養せんと熱心のあまり、彼を殺そうとした例もあれば、件《くだん》の依頼者をむやみに笑うこともならぬ。田辺へ近村上秋津から鰻《うなぎ》売りに来る七十余の翁いわく、歯痛む時、金盥中の水に全く浸《ひた》らぬように平らかな石また瓦一片を熱く焼いて入れ、その上に菜種油と葱の種子を落とすと煙|薫《ふす》ぼり立つところを、かねて用意の漏斗の口で覆えば、細い尻孔から煙出る。その尻の先を歯痛む方の耳に入るれば、歯を悩ます微細虫、あたかも竹中の?粉《しゆふん》ごときが、煙に駆られ漏斗の内面を伝うて水中に落つる。?粉なら浮くはずだが、活きた虫ゆえ水底に沈む。かくて歯痛はさっぱり止む。一昨年二月も親《みずか》ら試みて、毎度ながら神験あった、と。
熊楠、四十年ほど前和歌山で、ある真言僧が呪を誦して歯痛患者の耳と頬の間を撫でると、細かい虫おびただしく紙上に落ちて、痛みすなわち止んだのを睹《み》て吃驚《ぴつくり》した。しかるに拙妻話には、その幼時右同様の施術を目撃した跡で、篤《とく》とその虫を検すると、全く虫でなくて葱の種子だったそうな。鰯の頭も信心から、件の鰻売り翁も、葱の種子が水に(242)落ちたを歯痛の虫と心得て治《なお》ったものか。これに類したことども、『民俗』一年二報九八頁に載せおいた。 (大正五年十二月『郷土研究』四巻九号)
レンコという遊戯
今は知らず四十年ばかり前まで、和歌山市町家の児童、夕食後の遊びに、しばしばレンコと謂うを行なうた。家の入口等の壁に沿うて数児並び立ち、その現状を見能わざる別の処に一児立って、レーンコレンコと呼ぶと、数児一斉に「誰さん隣に誰がいる」と唱う。その時かの一児思い寄った二児の名を指して、「某様となりに某様がいる」と答う。それが中《あた》った節は、某児の隣におった某児が立ち代わって、またレーンコレンコと呼び、一同の問に答えにゃならぬ。また当たらなんだ時は、一同、「大きな間違い、でんぐりかえれ、でんぐりかえれ」と、笑罵半分大坪して順序を立て替え、再び問答を始め、言い中《あ》てるまで同じことを繰り返すのだ。他の諸地方にも必ず行なわれたことと思うが、果たして然らばこれを何と呼んだか、またレンコとは何の意味なるか。 (大正六年一月『郷土研究』四巻一〇号)
杉樹酒泉のこと
前号越後の杉樹酒泉の実例は面白し。杉または竹より芳烈はなはだしき酒(と言うよりもシャンパン、サイダー様)の香ある半流動体(?酵菌に疑菌または黴菌を混ぜるもの)音をなして涌き出ることは珍しからず。拙宅に去年生ぜるものなどは、艶なる董紫色(紫水晶の色)にて鼻を衝くばかり香《にお》いし。標品は白井博士に贈るため調えあり。竹より酒を見出だせしと言うた話も拠《よりどころ》あり。委細を川上氏に知らせ、越後の標品を貰い、比較せん(243)とす。故に川上氏の宿所を御知らせ下されたし。 (大正六年二月『郷土研究』四巻一一号)
庭木が家より高く伸びること
南天燭が軒より高くなるとその家が衰え始める、と紀州田辺で言い(『郷土研究』一巻四号二五二頁)、羽前荘内の所伝はこれに反して、その家主が長者になると言う、とあったが(同誌、一巻六号三八二頁)、伊予国|惣開《そうびらき》の六鵜《ろくう》保君より報ぜられたは、かの辺の俗伝には、つばきが家より高くなると、その家の主人を狙うものゆえ、柳の木と同様、決して家より高く伸ばすものでない、また、柳は主人のみならず嗣子をも狙うものである、とあった。 (大正六年二月『郷土研究』四巻一一号)
昔千軒あったという村
紀州西牟婁郡岩田村大字岡の老人が、五年ほど前、他大字の人々に向かい、「昔は岡千軒〔二字傍点〕と謂われた立派な在所の生れだ。そう侮ってもらうまい」と力味《りきみ》かえるを見たことあり。(これは千石〔二字傍点〕を正とす。故にこの本題に関係なし。)日高郡にも、たしか海浜に千軒をもって呼ばれた村が一つあった、と記臆する。三軒家、八軒家等の地名に反し、昔その地方で格別戸口殷富な聚落を、千軒と誇張もすれば過称もしたのらしい。
予が差しあたり知るところ、この語の早く見えた一例は、寛永十年に成った松江重頼の『犬子集』一二に、「千げんも棟《むね》をならぶる家つづき、駿河の国の神の宮たち」。すなわち千軒を浅間に取り成したのだ。(『能登国名跡志』乾巻、昔、越中国黒部川の湊に、玉椿の里として今|幽《さび》しくなれる処あり、そのころ玉椿千軒とて繁昌なる処なり(244)しに、云々。『摂陽群談』一六、西成郡加島村、所伝にいう、昔この所鍛冶千軒の地、よく兵家の具を作れり、云々。『閑田耕筆』一、石見《いわみ》の人いう、柿本の神の旧跡、高角山は外浜千軒、内浜千軒あって、北海一の大湊なりしが、元亀年間の津浪にて、山崩れ、家も人も亡びうせし後、半里ばかりを去って、今の所にうつせり。) (大正六年二月『郷土研究』四巻一一号)
モミナイという言葉
小生の外祖母(明治二十一、二年ごろ七十歳ばかりで死去)、毎度|旨《うま》からぬ食物をさして、これはモム〔傍点〕ナイと言った。それを拙母が、かの人は下劣な言葉を使うと眉をひそめたから、そのころ和歌山市中の上流では行なわれなんだ詞と知る。さて、四、五日前、拙宅の下女が何か試み食うて、「これはモミナイ」というと、拙妻がそれは何のことかと問うて、旨からぬ義と分かった。下女の生所は田辺町よりただ一里半|距《へだた》つた下芳養《しもはや》村大字境で、そこに現に行なわるる詞が、田辺町で五十年ばかり前に生まれた者には判らぬ。しかし、只今、六、七十歳の人々にきくと、その人々の父母の代には、田辺町でも、旨からぬ物をしばしばモミナイと言ったそうだ。(十一月二十一日) (昭和六年十二月『郷土研究』五巻七号)
【追記】
正徳三年大坂板、作者不詳『商人職人懐日記』一の三に、「京の人は(大坂を)田舎と呼びて、ただ一花気にて取締りなく、諸芸者の上手もしらず、下手ももて囃し、詞に片言多きは、味ないをモムナイとは、さりとはおかしきなどとそしり、云々」とあるを見るに、当時京都で「味ない」というところを、大坂人はモムナイと言ったと判る。菅谷君や中尾君が本誌六巻二八と四〇頁に書かれた通り、ウマウモナイが約せられてモムナイになったと頷《うなず》かれ、(245)またチトちとこじつけながら旨味(ウマミ)ナイがモミナイになったかとも察せらる。(四月十九日)
前回申し上げた『商人職人懐日記』より十一年前、元禄十五年京都および大坂板行『風流敗毒散』一の二、傾国の遊びに十徳一損ありと説き、素人が傾城に劣れる条々を列ねた第八条に、「かくおぼこ(野暮の義)なるわが身を、気の通りたる男が、一夜にても抱いてねてくれるさえ恭《かたじけ》ないに、まして赤子《やや》うむほどの縁《えにし》は、冥加に叶《かな》いたることと、褌を三度頂戴するがよいはずなるに、モミナイものの煮え太りたて、吝気に修羅《しゆら》を燃やし、癪が起こつたと言うてねるやら、血の道の持病は、さても秋風のあなめずらしからぬすねごと、云々」。この文を前に引いた『懐日記』の文と合わせ考うるに、元禄・正徳のころは、味なき物をモムナイともモミナイとも、大坂人がもっぱら称《とな》え、京都人はこれを田舎詞と誚《そし》つたと判る。(四月二十五日) (昭和八年五月『郷土研究』七巻五号)
【再追記】
五巻五号三三八頁立花正二君が言われたに、ほぼ同じ説が、曲亭馬琴の旧師、越谷吾山の『物類称呼』五に、すでに出でおる。「あじなし(食物の味わい薄きなり)。京、江戸ともに無味(あじなし)と言い(ただし江戸にてウマクナイとも言うなり)、東国にてマズイと言う。大和および摂河泉、または九州のうちにて、モミナイといい、またモムナイと言う。古え吉野の国栖《くず》の邑人、蝦蟆《かえる》を煮て上味として食う、名づけてモミと言える由、『日本紀』に出ず。今言うモミナイとは、モミナ物という心なるべし、イは助字なり」とある。(七月五日) (昭和八年八月『郷土研究』七巻六号)
(246) ヌシという語
今年五月発行『僧俗と民譚』一巻一二号二九頁に、武蔵の中野館の姫様が、堀のヌシになって今に存するという伝説が出でおる。雑賀君の『牟婁口碑集』には洩れておるが、田辺町からあまり遠からぬ西富田村の堅田の大池畔に、合祀厲行前、弁天の小雨あった。むかし大蛇ここへ来たり、草刈り男に、この池にヌシありや、と尋ねた。その時までヌシがなかったので、大蛇が池のヌシとなっては事むずかし、とさっそくの機転で、持ち合わせた鎌をソット池へ投げこみ、あれがヌシだ、と言うと、蛇は鉄を忌むからにげ去った。その鎌をその小祠に祀った、と土地の人に聞いた。
このヌシという語、『聊斎志異』巻八に、陳生なる者、洞庭湖で流矢に中《あた》った猪婆竜《ちよばりゆう》(この辺特産の?《がく》)を救い、後年その辺の山中で、その女児が美人と現じ騎射するを見、馭卒《ぎよそつ》らしい者に尋ねると、「答えていわく、これ西湖の主、首山に猟《かり》するなり」とある。池、湖等に住む精をヌシといい、主という。和漢同轍だ。(五月二十五日) (昭和八年五月『郷土研究』七巻五号)
山口君の「動物に関する壱岐の俗信」の一、二条
本誌七巻五号三三九頁、スンバクは寸白だろう。寸白虫とは、もとサナダ虫の漢名ということを、サナダ虫の長々しく『民俗学』二巻六号四〇四-四〇六頁に述べおいた。しかし山口君が説かるる蛞蝓《なめくじ》に類し、頭(247)が丁字形で、全身の長さ四、五寸の虫は、コウガイビルだろう。『和漢三才図会』五四、『重訂本草綱目啓蒙』三八等に、『本草綱目』の度古という毒虫に当ておる。『再版日本動物図鑑』一六七および一六七五頁に、その三種の図あり。カミナリビルと熊野で呼ぶ一種についての俗信は、『南方随筆』に記した。この類の虫、多少サナダ虫に似るから、誤って混同して寸白と呼ぶだろう。
三四〇頁、女陰に蛇入ること。宮武省三君の『習俗雑記』七三頁に、肥前には、湯巻の四隅と尻の当たる所に、特に糸を縫いつけおき、いよいよこの椿事が起こった節は、その糸を外して蛇の尾に縛りつけ引き出せば、ただちに出で来ると信ずる地あり。また三筋の糸を湯巻に縫いつけて、これに備える部落もあり、と出ず。(六月十七日) (昭和八年八月『郷土研究』七巻六号)
(248) 『郷土研究』の記者に与うる書
五月十二日の芳翰拝読。『郷土研究』は地方経済学の雑誌なることは、創立のさい貴下より承りたること有之《これあり》。しかるにこの地方経済学の分限、小生には分からず。地方成立の研究と言わば、これに伴いて必ず地方政治学研究の必要あり。かの神社合祀の利害また地方によろず利益事業を計画する利害のごときは、もっともこの雑誌にて論ずべきものなり。ただ椎茸を多く出すとか、柿を五百本植えたりとかにては、雲煙過眼閑人の思いのままの日記同前紙|潰《つぶ》れなり。必ずこれに今後の利害論を指示せざるべからず。しかして経済と言い政治と言い、地図と統計とを伴わずしては、地方地方のこと精確に知れず。地図のことはしばらく措《お》き、日本の地方統計というもの、思い思い地方小吏が勝手に数を見計らい、帳面と報告を合わすものなることはご存じの通り。
たとえば、当町(紀州田辺)の闘鶏社に樟樹《くすのき》二本しかなきに、役所の帳面は二十五本、これは全くのうそにもあらざるべく、すなわち従来植え付けたのが前後二十五本あり、樟樹などは栽えたらちょっと失せるものにあらざれば、二十五本ありと書き付けたるなり。しかるに、近来神林で物を盗むは常のことにて、何の取締りも行き届かず、神社で盗伐した木や柴をかつぎ、毎日神社の前を通り過ぎるを咎めぬほどなれば、二十五本あるべきものが、全く失せて二本しかなきなり。また蚕業の報告ごときはまるでうそにて、蚕業は年により興廃おびただしきものなれど、全く蚕業絶えたりと報告すると県庁のうけよろしからぬゆえ、蚕業なしと報告する村一つもなし。実際は蚕も見たことなき村でも、多少の蚕業あるごとく書き上ぐるなり。また地方の報知虚報多く粗陋多きは、実際|朝来《あつそ》沼の耕地は二十四町ば(249)かりなるに、県庁では四十三町、東京の官庁では百四十三町となりおるにて知れる。当地の江川浦は県下第一の大漁村なり。それすら年来県庁へ書き上げし通りの損益にては、漁夫らただ働き、また年々食い込む外なし。かくてはこの漁村今までつづくはずなし。まるで勘定合わぬなり。しかるにどうやらこうやら漁村続くのみならず、救済会とか何とか小言《こごと》いいながら金を出し積み立ておる。実は県庁へ年々の漁獲高十三万円と書くとすると、その実際は十七、八万円の漁獲あるなり。いろいろの費用課税おびただしきゆえ、加減して少なく書くなり。これに気づかず、また気をつくべきと言うことすら気づかず、かくては年々損失ばかりでその漁村は全滅するはずということにも気づかず。語を換えて言わば、漁利の外に何か内職あるべしという見解なり。かかる除外例多き統計は、学問上あつてもなくても何の益なき紙潰れの統計なり。
地方経済学は、地方に道ができた、犬に車を牽かす所と牽かさぬ所あり、むかし紙を作ったが今は布を作る、売淫女が片手に魚を乾す等のことを序列したばかりでは、日本中の一村一小字いずれも日々生業なき所なければ、人別《にんべつ》に骨相を記するごとく、事煩わしくして何の益なし。もしこれを学説らしきものとせんとならば、利害のよるところを攻究せざるべからず。産業の変改、地境の分劃、市村の設置、水利道路の改全、衛生事業、またことには地方有利の天然物を論ぜざるべからず。しかるに小生気がつかぬゆえか、地方経済云々を主眼とする『郷土研究』に、従来何たる地方経済らしき論文の出でしを見ず。ただ俳人の紀行にして俳句を抜き去りたるがごときもの二、三を見しのみ。
これは無理なことにあらず。地方経済、地方法制ということ、材料繁冗にして何の興味なきによる。これに加うるに、わが邦の官庁上下虚偽を事とし、肝心骨髄たるべき統計が右のごとく全く間に合わせ、公儀を繕うためばかりのものたるによる。何の学問でも数字を離れては学問にならず。ことに地方経済ごときは然り。しかるにこの数字上信頼すべき材料が一つもなきなり。また一つには地方経済のこと、わが邦では何たる興味を感ぜぬほど、材料が薄弱かつ乏しきなり。御承知の通り、礦物は岩石の(?)基にて、地球を成すものは岩石地層、それがみな礦物より成らざる(250)はなく、また一方には動植物、人間までも、もとは無機体すなわち礦物元素より成りおる。生物いずれも礦物より進化せしものたるは疑いを容れず。しかるにこの礦物の学というもの、専門家はありながら、いずれの国に往きても礦物学会もなければ礦物学専門の出版物も永く続かず。英国などには絶無なり。これは礦物を多く集めて一々観察すれば相応に面白いものながら、堅度とか電力とか実物についての外、書物で見たり書いたりしては一向それ相応の感念を生ぜず。いわば面白味なきゆえのことと存じ候。地方経済の学のごときもまずはこんなことにて、実際地方経済に身を処する人にはそれ相応の興味もあり、また利害はすこぶる厳しく感触せらるるものながら、その事項一々煩瑣にして規則立ちては筆に序述し尽しがたき上、一地方一地方に限ることは他地方の人が読んで何とも思わぬゆえと存じ候。故に地方経済の端緒としては、地方制度ぐらいから論を始められたきことなり。しかるにこれまで『郷土研究』を見るに、地方制度に関する論文またはなはだ少なく、小生などは何かあったくらいの記臆に止まり、何が論ぜられありしやを記臆せず。
地方制度にもまた記録を楯としては一向見出だしえぬ大要件多し。当地方の漁人が海上に魚(たとえば鰹)を見出だした時、一番船、二番船など言いて、鰹を釣るに船の順序と制限あり。また勝浦辺では入港のさい一つの株に二つ以上の船の繩を結び付くるに、一番、二番、三番を争う。そのことはなはだむつかしく、古老をわざわざ招き来たり即決に裁判させしを小生|親《みずか》ら見しことあり。筏流しが木を出す旧慣その他、かかることむつかしき古伝多し。全く記録には少しもなく、老人に聞きおくの外なし。その老人いずれも正しき先例を知悉せるにあらざれば、老人同士異説も多くあり。『日本紀』に一書にいわく、『戦国策』や『史記』にどちらが正しくどちらが勝ったか分からぬように、魏の国の条と秦の国の条に記事の全反対異同あるごとく、これらは双方とも一説とし控えおくの外なし。すなわち双方とも個々に正しと見たる説なり。
すべて古代のことや田舎のことは、一説を正、一説を否とすべきにあらず。同じ神にて一地方の伝に長生なりと言(251)い、他地方では蛇に殺されたと言う類多し。これは同名の異神、一は長生し、一は殺されたか、また一神長生し、一神殺されしを、後世同名と知りて同神と見たりする外なし。また他の神の伝を訛《あやま》り伝えたるもあるべし。さればとて、その伝全く虚偽と言うべからず。すなわちその神長生したる外に他の神が蛇に殺されたるなり。
去年、当地近傍鮎川村にて、夜這禁制のため壮丁夜出に必ず提燈を点《とも》し行かしむる法を設け、いろいろとむつかしき制規を定めたり。まことに都会の人が聞かば笑うべきのはなはだしきなり。しかし、そは笑う者の過《あやまち》にて、実は今日も地方に夜這ということの一夜も行なわれぬ所なく、これを郷土存立の大要件として村方に行なわれおるなり。夜這と言えばとて、弥次郎兵衛、北八の徒の行ないしごときことにあらず。むかしの物語に、貴紳が歴々の娘に忍び通いしごとく、中古欧州の記に多き serenade(妻恋い歌楽)、また米国創立のころの bundling(衣裳解かずに村の男女共臥すこと。衣裳解かぬに子の作《さく》はなはだ豊年とはおかしというような妙文、ワシントン・アーヴィングの作にあり)、また言わば今日欧州の男女年ごろになれば必ず相伴い遊ぶごときことにて、田舎は田舎だけにそのことやや露骨なるのみなり。娘をばはなはだしく付けあるき、一度嫁すれば一向知らぬ風する村あり。また娘をばすこぶる忌み、已嫁の婦のみ覘《ねら》う風の処あり。(『真臘風土記』に、真臘人は妻を人が付けまわるほど夫これを自慢す、とあり。チチスベオとて、イタリアなどに人の妻のみ専門の男多く、以前は夫が自分の妻他人と遊びあるくを一向構わぬを自慢の美風とせり。今日仏国辺の gallantry 全くこれに同じ。)
ちょっとかく書くを読むのみにては、一向卑猥淫奔のみのことと思うべけれど、実際は大いに然らず。都会の紳士が仲居を相手にするほどの不義にもあらず。婚嫁の成|大家《たいけ》にあらざる限りはみなこの夜這によりて定まることで、いろいろ試験した後に確定する夫婦ゆえ、かえって反目、離縁等の禍《わざわい》も少なく、古インドや今の欧米で男女自ら撰んで相定約するごとく、村里安全、繁盛持続のための一大要件なり。四角八面の道義家などこれを不埒なことのごとく論ずるも、欧州の若き夫婦が老父母にパンのかけを食わせておのれらが蜜を啜り肉を食うて口を相拭うごとく、実(252)はその老父母また若き時は彼らの老父母の前でかくしたるなり。今の老人また古えは夜這によって縁を組み今の若者を生みたるなれば、梁武のいわゆるわれよりこれを得てわれよりこれを失う、また何ぞ恨みんという奴なり。封建圧迫時代の旧慣を襲うて、せっかく生んだ子女を顕官富商の側室慰み物にして、御手《おて》が掛かったなど悦ぶ者よりはるかにましな了簡なり。この夜這の規条、不成文法ごときも、実は大いに研究を要することにて、何とか今のうちに書きおきたきことなり。それを忽諸《なおざり》に付し、また例の卑猥卑猥と看過して、さて媒灼がどうするの下媒人《したなこうど》に何人《なんびと》を頼むの、進物は何を使うのと、事の末にして順序の最後にあることをのみ書き留むるは迂《う》もはなはだし。田舎にては煤灼はほんの式だけのもの、夜這に通ううちの通わせ文、約束の条々等が婚姻の最要件であるなり。
熊野に、十年ばかり前まで松葉と小礫とを餽《おく》つてマツニコイシなど表示し、またその媒《なかだち》により生まれし少女を小石と名づくる等の風、小生も目撃せり。兵生《ひようぜ》に四年前ありし時、十四歳ばかりの少女風呂場に来たり、十七、八の木挽《こぴき》の少年に付けまわり、種臼きってくだんせとしきりに言う。解説は聞かなんだが、かかる年ごろの者の被素せられぬを大恥辱とするらしく、すなわち種曰切るとは破素のことなり。
とにかく隗より始めよで、地方経済、地方制度のことを主とする雑誌ならば、貴下みずからまず「巫女考」などを中止し、もしくは他の地方経済、地方制度専門で風俗学不得手の人に、しかるべく堂々たる模範的のしかとしたる論文を、隔月ぐらいに冊の初部に出させられたきことなり。
最初高木氏より『郷土研究』の初号に載せるとて、小生に民俗学の要領を求められし。また高木氏みずから一巻一号に書かれし「郷土研究の本領」には、地方経済、地方制度、比較法律、俚団(village community)研究等のことは少しもなく(民族生活の研究ということはありしも、それでは ethnology または ethnography すなわち人種学または記載人種学のにととなる)、主として民俗学また説話学のことを述べられし。この外にも誰も地方経済等の要領の論説ありしを見(253)ず。したがって読者一汎に郷土研究とは民俗学のことと思いおるは、資料報告の九分九厘はみな民俗学に関し、ことには珍話奇譚の居多《きよた》なるにて知るべし。もし郷土会の人々これを面白く思わぬなら、みずから進んで地方経済、地方制度の論文を出すか、せめてはこれに関する質問だけでも多く出さるるを要す。今日のところでは雑誌の半分以上を占むべき地方経済制度のことがその一小部分に減縮し、他の一部分を占むべかりし民俗学がはなはだしく膨大し、かつ民俗学に多少縁ありながら地方経済に何の必要なき説話学が別にまた著しく贅付をなしおるなり。
小生の今昔物語研究、また堀氏の窮鳥入懐談、高木氏の早太郎童話考、桃太郎の考、志田氏の国文学の杉等、いずれも本誌の要領に何の益も関係もなく除外せらるべきものなり。
かくのごときは最初創刊のさい郷土研究の何たるを説明するに、地方経済、地方制度を主眼とする由を明示せざりしにより、ことにその解釈なかりしによる。今回の御状のごとくば、一ツタタラ、山姥、山男等は一向本誌に掲ぐべきものにあらず。このさい郷土会の人々奮発してなるべく一人一論ずつ、またはせめて質問だけにても多く出さるべきなり。ただし従来かかる論文、質問、風俗学に比して少なかりしにて、実際地方経済制度の学に留意する人のはなはだ少なきを知る。
また貴状のごとくば、広告ごときも、今度の『民俗』に出せるごとく、地方経済に関する条項は少なく民俗学に関すること居多なるはいよいよ不適当ならずや。たとえば、商売、物貨交換、入質に関する在来法のごときはもっとも重要なる一目なれど、全然広告には見当たらず。社寺に関する口碑はあれど、これに関する習慣法も目録になし。地方制度より見れば、このこと最も重大にして、口碑などはほんの小事なり。たとえば熊野にては、寺を改築するに、従来三、四年住職を止《や》め無住にして節倹して儲蓄寄付し(住職みずから俸給を棄捐摘する意となる)、さて新築せしなり。このことに気づかず、書上《かきあげ》に無住とある寺を、何の差別もなくむちゃくちゃに合併したり、小寺に入れたゆえに、由緒正しき大寺にして亡びて田畑となり、何の益もなきこと多し。またこの辺に禅宗むかし大いにはやり、熊野地方は多(254)く禅宗坊主が開きし。今も地方の俗謡に禅語のみのもの多く、ちょっと聞きては何のことか分からず。この禅坊主が地方を開きし方法のごときは大いに研究を要す。諺に「天台公家、真言武家、浄土町人、禅百姓」と言いて、禅宗は百姓の教化《きようげ》をもっぱら力めしなり。また禅宗の尼は多く越前、美濃より来る。良家の女も多く、中には絶世の美女あり。蒙古人が子を多く喇嘛《ラマ》僧にするごとく、知らず識らずの間に人口増殖を防ぐ一具ともなりたることらし。かの辺にて一家ごとに一人僧尼になりし所ありときく。その割合など調べたきことなり。
要するに貴状垂示のごとくならば、貴下まず「巫女考」を中止し、制度経済の論文を巻頭に隔月くらいに必ず一つずつ出されたきことなり。しからざれば、到底目的の奇談、珍伝、また論文とても、郷土に関係少なき古語考や伝説編のみで満たさるることとなるべし。
ただし高木氏編輯中はその人に出ずる偏重も多かりしは、地方郡県誌などに古語学、民俗学の材料多きときは口をきわめてこれを誉め、また経済制度を主とする書や報告の批評少なかりし。
実業の日本、実業の何々と題して、実業のことは少しもなく、放恣なる英雄的の人伝、放言のみ書き連ねあると等しく、制度経済を主とする『郷土研究』に制度経済に関する論文少なく、資料報告に至っては、全く民俗、古伝説のことのみなるははなはだ名義に背く。故に貴状の意のごとくならば、何とぞ半分または三分一だけは必ず制度等に関することを述べられたきことなり。
次に論文または報告中には、虚文のみで紙数限りある雑誌に何の益なきことなきにあらず。堀氏の「窮鳥入懐譚」のごときは、短く書かばいかようにも書きうることなり。かかるもの『郷土研究』に出せしは心得られず。窮鳥入懐とは三国の時劉政の故事にて、仏説に関することにあらず。もし関することなりとせば、この古諺と仏説との連絡を述べざるべからざるに、一言もそのことなし。川口孫治郎氏の「捕魚の詰」、また「蜜蜂を徙《うつ》す話」等に、土地の風景や春色の序述でおびただしく紙面を埋めたるところ多し。これらは文章見る雑誌にあらざる以上は、編輯人全く刪
(255)除して可なりと思う。すなわち景色、形容等の文は、一行以上長きものは勝手に刪除することとせば、投書家ついに自警することと思う。
もしまた全誌の半分または三分一以上も地方経済制度に関する論文、材料、報告、質問で埋めえずとならば、これ地方制度経済の学は今日日本で成立せざるを示すものなり。公然綱領を改め、民俗・伝説学を主として経済制度を従とすることを望む。
貴書に「記事の少なくも三分一ぐらいは貴下の注文外のもの有之《これある》次第」とあれど、実は毎号三分一ぐらいどころか、五分一、六分一も小生注文外のものなきこと多し。また皆無に近きことしばしばあり。これ地方制度経済の学は、本邦で「らしきこと」を喋々し気取る人士は多少あるも、進んでみずからこれを論じうる人はなはだ乏しきを証す。すなわちその学が成立しおらず、発展の見込みもなきなり。一巻一号の「郷土研究の本領」には、地方制度経済学に関する指示少しも明らかならず。ただ日本民族の来由研究に関する指示あるのみ。それならば人種学 ethnology なり。またこの「本領」を筆せし高木氏自分は、一文も制度や経済に関することを書きおらず。したがって地方の者は、いずれも郷土研究とは民俗学のことと思いおれり。『人類学雑誌』昨年末再活の折の批評にも、「ばかに郷土研究じみた論文が多い」とありし。すなわち批評家(高木氏と思う)自身も、民俗学を郷土研究の異名と心得おりたるなり。何となれば『人類学雑誌』の十二月号は、出口、前田等諸氏の民俗に関する文のみ多く、経済制度に関する文はむろん一つもなかりしなり。
当地、今年雨多く菌類おびただしく生ず。八歳になる男児に十八歳になる阿房の下女添え、日々遊びに遣るに、必ず珍奇の新種二、三は採り来る。これを画くうちこの長の日も暮れる。夜分は例の眼悪く何もできず。故に論文はいつできるやら分からず。従来のごとき短きもの、また長くとも他人の論文や記事に付随して書き出すものは時々出来べきも、右のごときわけならば、何とぞまず小生の民俗、伝説のみに関する文は急がず、半年ばかりも、主として地(256)方経済制度に関する文を出されたきことなり。論文が集まらずばこれらに関する質問だけにても、多く出されたきことなり。小生はもと記憶よかりしゆえ、今もたぷんこんなことがあったぐらいのことは多々知りおるゆえに、時として書き始むれば底止《ていし》するところを知らぬこと多し。よってなるべく短く書かんと、はがき一枚を限り書き始むるも、なお知らず識らず、はがき二枚、三枚続くこと多し。要するに質問の答文や資料報告、また論文というほどのものならぬ(他人の論文や記事に付随する批評半分の)追加文ごときものは、いくらでも書き得、またいつでもできうるなり。地方経済制度等に関して民俗、伝説における小生ごとき人なきは遺憾なり。
本当に日本の地方制度経済を研究して外国のと比較論断する人あらんには、これ国家の慶事なり。またすこぶる大必要のことなり。それにはそれの準備なかるべからず。小生外国の書目だけ控えおくが、今ちょっと見えず。見出でたら写し申し上ぐべく候。風俗学や伝説学は一地方一地方の材料を集めたもの多く、総論というべきものはなはだ少なし。これに反し、比較制度経済の学論は歴然たるものはなはだ多く、ことにドイツに多し。
貴下、試みに地方の制度経済の学に関する綱領を作り見られんことを望む。水論の処置、野を苅るにいずれの村を先にし、いずれを後にするか、他村領に入りて取りて構わぬもの等、おびただしく事項はあることと存じ候。ただこれを網目にして前書申し上げたる民俗学の分類ほどに作り上げたるものあるを見ず。綱領を示さざれは、衆人は地方制度とは何のことか一向解しえず。早々以上。(大正三年五月十四日午前三時出す) (大正三年七、八、九月『郷土研究』二巻五、六、七号)
(257) 陰毛を禁厭《まじない》に用うる話
七月三十日『不二新聞』の三面に、「大阪西区四貫島町の波川きぬ(二十八)は、久しく子宮病で苦しんでおりましたが、ある人から、三十三歳の女三人から陰毛を三筋ずつ貰い受け守りとして持っておれば全治するとの話を聞き、さっそく小西きた(三十三)という知合いの女から貰いましたが、後の二人分が貰えぬので、きたに貰うたのを棄ててしまうたが、その後きたが熱病になったので、きぬが陰毛を棄てたのは自分を呪うたものに違いないと思い込み、毎夜丑三つごろに付近の地蔵堂で呪い返しをしていたそうです」とある。
僕は在英のおり、医学上|素女《きむすめ》と既婚女を見分けるが非常に困難で、ムーショーが引いた世諺に「鳥が空を翔《かけ》った蹤《あと》と、蛇が苔の上を匍匐《はう》た跡と、室女《しつじょ》が吉士《きつし》に誘われた実証ほど、見分けにくいものはない」とあり、未婚の女さえかくのごとくなれば、既婚の婦女の行為を判ずるは千層倍困難のことに気がつき、陰毛を検してある一定の時間内に房事ありしか否を断ずべき鑑定法の研究に取りかかり、多年潜心従事しおるが、四十歳まで女人に相触れず、その後も今まで日夜細君一人に他意なく順《したが》いおる身だから、実はよほど身分不相当の思い立ちだ。しかし、平山武者所季重の詞に、「歌人はいながらにして名所を知る。吉野|泊瀬《はつせ》の花の色、須磨や明石の月影は、その里人知らざれども数寄《すき》たる人こそ知る習いなれ。諸事において道をば道が知ることぞかし」とあるごとく、類をもって類を推さんに、何条《なんじよう》理則徹らざることあらんやと、種々考察した結果、研究の基礎ぐらいのものはできあがりおる。まことや桃李もの言わ(258)ざれども下おのずから蹊《こみち》を成す、司法省の谷何とかいう苗字の人が、十四、五娘の薄々《うすうす》とこのことを聞き込み、宮内省の高等官で僕としばしば文通する人を頼み、何とかかかる貴重の論文を私刊して同志に頒たせくれとの頼みで、厚志の段まことにありがたいが、嫁入りにはまだ早い室女《きむすめ》論文ゆえ、ちょっと遣《や》りにくい、と断わった。かほど身を入れて研究するには、ずいぶん陰毛大博士と呼ばれても不足ないほど陰毛に関する文献材料を聚めおるゆえ、撰択取捨は一に編輯人に任すとし、波川女史の椿聞あったのを機会として、この話を綴る。
原因、理由、結果など科学者がいつも用うる語で、近ごろわが邦に勃興しかけた民俗学を講ずる人々も、このことの理由はどうの、かのことの原因はどうのと論争する。なるほど事物ことごとく原因、結果のないのはないが、一つの原因から多くの結果を生じ、多くの因縁が相集まって一つの結果を出すが多いから、浅い人間の智慧で一々確からしく明言すると、大間違いが起こる。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻八に、「『下手談義』に、近きころも何やらの呪《まじな》いとて頭上に土器を載せ、その中へ灸をすゆるが能《よ》しと言い触らし、髭喰い反《そ》らして人に異見も言いそうな和郎《わろう》が、白昼に丑の時参りのように頂《つぶり》から立ち騰《のほ》る煙の跡方なき空言を信じて心|空虚《うわのそら》となり、自己《おのれ》が神《たましい》をくらます者少なからず、云々、と言えり。これは頭痛の呪いとか。今は土器にては事行かざるにや、擂盆《すりばち》を冒《かぷ》りて灸をする。その始めわずかに元文のほどなるべし、世に痴者《しれもの》あって無根のことを言い出し、そのことの流行《はやる》か否を勝負に定めて興ずるなどもありとか。または神仏の奇特をかごとにして怪しきことを言い触らし、愚人を惑わすこと昔より多し。その中にはたびたび同じ誑《たばか》りにて欺かるる人の心は懲らしめがたきものにや」と見え、五年前板、ゴムの『史学としての民俗学』の第三章にも、民俗は古伝に基づくこと勿論だが、その外に、愚民自己の思いつきから新たに生ずる民俗も多いと論じ、例を挙げたうちにいわく、十七世紀に六十ほどの老人の死際《しにぎわ》に、牧師がその信仰を種々問うと対《こたえ》が振るっておった。問「神はどんな方ですか。答「性の良い老父《おやじ》です。問「キリストは。答「職務《しごと》好きの若者です。問「霊魂《たましい》は。答「?《からだ》の中の大きな骨です。問「?《そなた》(259)の魂は死んだらどうなりますか。答「生きてるうちに善《よ》いことしたから死んでから快い緑《あお》い芝で息《やす》みます。
三十年ばかり前、肥後の五箇庄《ごかのしよう》で小学教師した人に聞いたは、学校で鯛はどんな物と尋ねると、生徒一向知らず、中に一人手を揚げたから答えを命ずると、鹹《しおから》い物です、と言った。全く塩鯛しか稀《まれ》にもこの村へ届かなんだのだ。去年六歳なりし僕の悴|蟇六《ひきろく》なる者、絵本を見るて僕に語りしは、虎は旧《もと》人間だったが、火で焼かれ頬を捻《ひね》られこんなになる、象は蛇だったからこの通り鼻が長い、鼠はもと尾を結び合わせあったが切られてこんなになる。誰に聞いたかと問うと、或人《えーひと》と答えた。つまり自分の手製だ。心の到らざるところ誰かこれを夢みんで、無智の老人、幼稚の児童、自分相応の考えを出したのだ。十年ばかり前に和歌山で七十余歳の多く書を読んだ老僧が言うには、畠山徳本は紀州を領したが、この人の家督分けが拙《まず》かったために応仁の大乱が起こった、徳川氏の中葉日高郡から出て江戸まで鳴った徳本上人は、全く彼人《かれ》が僧となって前生の罪を※[貝+賞]わんとて再生したんだ、と。僕そは誰に聞いたかと尋ねると、いや誰も未発の新説で、拙僧日夜考えるとどうもそうらしい、と答えた。読書した人すらこんな無鉄砲な言《こと》を吐くので推すと、愚昧|無丁字《むていじ》の輩がいろいろな珍説を発するは不思議でなく、もとより饒《おお》い材料も用意せぬから、『笑覧』に言うた通りたびたび同じ謀《たばか》りを世間に流布して、ついに一つの民俗となってしまう。
波川きぬが三十三歳の女の陰毛を三人から三筋ずつ貰うて子宮病の護符《まもり》としたなどはまあこんなことで、あまり遠からぬ世に誰かが手製で言い触らしたこと、それを三本の数は何の伝によった、三十三歳と限《き》めたはかくかくの理由と論ずれば、いかようにも言いうるが、真《ほん》の鑿説《こじつけ》に外ならぬ。と言ってまるで捨てたものでもなく、多少学問上の解説をつけうる箇処もある。民俗学専門の人には知れきつたことながら一般読者のために説くと、これはむろん陰毛は子宮の近処に生える物ゆえ、その病に効《しるし》ありとしたのだ。「厭術《まじない》の要は似た物同士相感ず。人の像を作りてこれを傷つけると本人が病む、人体の一部にほぼ似た石が人のその部の病を治す、植物や礦物が形色の似た所の病に験あり、と信ぜられた。赤い花を血の病に使い、血石《あかだまいし》を血止めに用いた」とコックスの『民俗学入門』(一八九五年板)に出(260)でおる。自分の物が自分に利かぬとして他人の陰毛を賞うたのだ。
さて小西きたが熱病になって、波川きぬがおのれの陰毛を棄てたのは、波川きぬが自分を詛《のろ》うたものと信じたのは面白い。コックスいわく、「人の精気は全体諸部に通在す。故に人体の一部を獲ばその人を病患《やまい》に罹らしめ得べしとの信念より、蛮夷は写真取らるるを厭う。自分の精気多少取り去られ害心ある者これを手に入れておのれを詛《のろ》い殺し得と惟《おも》えばなり。また同じ訳で髪、爪、唾等を人手に渡すを禦ぐ。今もイタリア人は髪束を他人に委《まか》すを嫌う」と。僕もイタリア人の娘の黒髪があまり美しいので一、二本所望して叱り飛ばされたが、そは呪殻に限らず女の髪を持って方術《まじない》を行なうと不知不識《しらずしらず》男の意《こころ》に随うを惧るるのだ。唐の陳蔵器説に、脱走人の髪を緯車《いとくりぐるま》の上で却転《さかさまにまわ》すと、その人迷乱して途方に暮れる、とあるも似たことだ。欧州で、むかし髪を粗末にして鳥ことに鵲《かささぎ》に拾われ用《も》って巣を作らるると本人が死ぬ、と信ぜられた(一九〇五年板、ハツリット『諸信および民俗《フエース・エンド・フオークロール》』巻一)。
劉宋の代の書『異苑』に、ある人誤って髪を食い病となり、好んで豬脂《ぶたのあぶら》を咽《の》む。ある時脂を咽まんと口を張ると喉から頭《くび》出し脂を受けたものあるんで、脂を小さき鉤《はり》につけ釣り出すと、蛇形で長《たけ》三尺余、全く脂から成った物だった。屋間《やねうら》に十日懸け置くと融け尽きて髪条が残った、とある。欧州にも、病婦の髪を馬糞を撒いた土へ埋め置くと春になって蛇に化しおる、と言った(大アルベール『秘訣』)。一六七九年板、ピラール・ド・ラヴァル『航行記』に、マルジヴ島人は食に人毛一本入りあれば食わず、鳥獣に抛げ与う、と載す。これらは場合によって髪毛を魔性のものと見たんだ。すべて術書に人毛とばかりあってどこの毛か分からぬが多いが、陰毛もむろん髪毛と等しく呪詛に用いられたんだ。日本の俗、飯に人毛あるを忌むのも、見苦しい外に呪詛を惧れた訳であろう。今年出板、フレザーの『霊魂不滅の信《ゼ・ビリーフ・イン・インモータリチー》』四三頁にいわく、濠州土人は、人は自然に死ぬものでないが病死は必ず呪詛によると信じ、敵に髪毛を盗まれたらきつと病み出し、盗んだ髪を焼かるると死に瀕すと確信す、とある。小西きぬ女が親切で遣った陰毛を棄てられて病たちまち起こったと信ずるは、豪州人の脳にはしごくもっともと惟わるるだろ。
(261) 『本草綱目』に、蛇に咬まれたら、その人の口に男子の陰毛二十条を含み汁を嚥《の》めば毒が腹に入らぬ、と出ず。これは、蛇は女と同様陰物だから、陽の男子の陰毛でその毒を制する意だろう。一八七五年ニューヨーク二板、ウェストロップおよびウェークの『古代印号崇拝《アンシエント・シンボル・ウオーシツプ》』、一昨年新板『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』蛇崇拝の条、また『郷土研究』今年七月号二九九頁以下僕の「伊勢神宮の子良」等に見えた通り、古アッシリア、インド已下《いか》諸国、大抵蛇を陰相に関係ありとし、また女子の印号《しるし》としちょる。ヘブリウ人など一神教の本元のように言うが、実はヘゼキア王の朝まで公然蛇を崇めた。諸国の鬼神誌にみな蛇尾また蛇髪の女巫《みこ》がある(コックス『民俗学入門』)。上にも述べた通り形が似てるので髪が蛇になるというはわが国でも言うことで、陰毛は髪の同類だから蛇にも縁あり、この点からも蛇咬を療ずるに用いられたのだろ。
『千金方』に、横生《よこご》逆産《さかご》を安産せしむるに夫の陰毛十四本を焼き研《す》り、豬膏《ぶたのあぶら》に和して大豆《まめ》大《ほど》に丸め呑むべし、とある。これも女の陰毛で子宮病を治する類の同感療法で、北涼訳『大般涅槃経』一七に、「はるかに籬間《かきま》の牛角を見てすなわち牛を見ると言う、牛を見ずといえどもまた虚妄にあらず。もし女人懐妊を見ればすなわちいわく欲を見る、欲を見ずといえどもまた虚妄にあらず」とあるはまことに如来様の金言で、小町から剰銭《つり》取るように澄ました別嬪でも、子がある已上《いじよう》は情事もし性欲も熾《さか》んと見え透きおる。しかるに女は浅墓《あさはか》なもので、子を産む時苦し紛れにややもすれば夫を恨む。僕などは毎々このことを言い立てられるから、その都度聞いて愕然刈萱道心《びつくりかるかやどうしん》となって夜遁げし、置き去りにして遣ろうかと思うが、また新枕《にいまくら》の睦言《むつごと》という奴を懐想して後髪を牽かれ?《ためら》いおる。
ここまでは詼謔《おどけ》だが、改め更《かわ》つて後漢の安世高訳『仏説明度五十校計経』に仏いわく、「婬佚《いんいつ》女、上頭《みずあげ》されて婬佚みずから已《や》むべきに、胞胎児《はらのこ》腹中にあって日に大なるを知らず、幾所か婬佚し妬女ためにまた婬佚みずから可《ゆる》す。児成就して十月、まさに生まるるに児|転《かえ》るべくしていまだ転《かえ》らず、生まるべきにいまだ生まれず。その母、腹痛自慙自悔|堕《うま》んとて痛む時、妬女の啼声第七天に聞こゆ。児生まれて後その母痛み愈《い》え、すなわちまた婬佚を念《おも》う。すなわち(262)慙《はじ》を念わず痛みを念わず。すなわちまた婬佚|故《もと》のごとし。かく苦言うべからざるに、妬女またみずから苦痛を覚ゆるあたわず」とある。これから見ると、南方先生「十五から酒を呑み出て今日の月」、四十六歳の昨春から断然酒を止めたのは見上げたものだ。
さて子はそう夫を恨むに及ばず、夫婦懸持ちで責任平分というところだが、上述のごとく産時妻の苦しみが苛《えら》く、とかく女は曲《ひが》んだもので大層に喚《わめ》くから夫も世間体が悪いので、国によると産の時夫が鉢巻して数日臥して呻吟《うなり》おる間に、妻が事済むとさつそく起き出て客の馳走を拵《こしら》え、はなはだしきは今生まれた児の胞衣《えな》を?《きざ》んで料理して客に食わす風俗が、支那南方の苗氏《ミヤウツエ》、スペインのバスク、その他インド、ボルネオ、シャム、ギアナ、またニューメキシコ、カリフォルニアの一部等に行なわれ、これをクーヴァードと呼ぶ。グリンランド、カムサツカ、インドのラルカ人等は、妻の出産の前後に斎忌《ものいみ》して働かぬ。拙者なども一昨年女子ができた前後五ヵ月ほど働かなんだが、一層妻の気に入ろうと、出産の前夜から次室でクーヴァードを行《やらか》し吟《うな》る真似をすると、そうされると頭痛すると産婆の小言が可笑《おか》しくて笑う拍子に屁一つ、妻も忍《こら》えきれず斜めならぬ御機嫌でいと安々と産んだ。その子が女だったので、屁之子《へのこ》と名をつけたらどうだと尋ねて、また大御目玉だった。とにかく夫婦懸持ちの子だから、難産の際夫の力を添うるためにその身体精気の楯籠《たてこも》った陰毛を十四本焼いて粉にして湯で呑むと安産とは、唐代の支那人相応な理屈はよく分かっておる。父が半分拵えた子だから父の毛が産に利《き》くので、ちょうど東西洋とも蝮《まむし》に咬まれた所へその蝮の肉を傅《つ》けると愈《い》ゆるとす。北欧の古史賦『エッダ』に、犬毛犬咬を医す、とある。支那の後漢か三国の高僧に幼時犬に咬まれると、犬主その犬を殺して肝を薬用せよと勧めたのを辞した人がある。そのころ支那にもかかる同感療法が行なわれおったと見える。 (大正二年十月一曰『不二』一号)
(263) 蟹の卜占
この話は欧州諸国に種々大同小異の態で行なわれおるが、今そのイタリアに行なわるるものを、一八八五年ロンドンで版行したクレーンの『伊太利俗譚《イタリアン・ポピユラル・テールス》』から訳出しょう。すでに日本で翻訳されおるかもしれぬが、僕のこの一篇は、この話の出処を論じ先月ロンドンへ送り今ごろやつと同市発行の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』へ出るはずの英文からみずから抄訳するのだから、始終そのつもりで見て欲しい。
ある王が最《いと》高価の指環を失い、どんなに尋ねても見出だしえぬ。よって勅して卜人《うらない》を求めた。蟹と名を呼ぶ貧な小農が読み書き一切心得ぬ癖にこれを聞き、大胆にも王に謁して臣は麁服《そふく》を著《き》はするものの星占には精しい、王が指環を失うたと知って卜いで見出だして上げようと思うて参つたと告《もう》すと、王大いに悦んで彼を一室に閉じ籠めて徐《しず》かに占わせた。その室には寝牀《ねどこ》と机あり、机上に大冊の占書一つと筆紙墨を載せあった。蟹助、解《わか》らぬなりに書を開き、紙へ無茶苦茶に何ともつかぬ物を書き探しおるを覗いて、王の僕輩がさすが大星占家の勿体だと感じた。その僕輩こそ実にかの王の指環を窃《ぬす》んだ奴原《やつばら》なので、室に入って蟹助に睨まるるごとにモー言わるるかモー言わるるかと恟々《びくびく》した。何とか機嫌を損ぜぬようとひたすら低頭して、星占先生と尊称した。蟹助、元来無文といえども十分|黠《ずる》い天稟ゆえ、僕輩の動作を見て、さては此奴《こいつ》らがしごく胡論《うろん》と了《さと》り、いよいよ取つたか取らぬかを確かめんと考案して、さりげなく一月のあいだ無駄書きを続けおると、妻が面会に来た。そこで妻を寝牀の下に匿《かく》し、僕が一人一人入り来るごとに、これで一人、これで二人と呼ばせた。その声がどこから出ると知れず、僕輩大きに愕き、この卜人はわれらが(264)指環盗んだと知っておるから、この上は隠すも無益《むだ》だ、何分王に告げぬよう頼もうでないかと相談の末、大分の金を袋に入れ、一同往いて蟹助に進上した。さて星占先生、貴君すでにわれらが盗んだと知ろし召されおるが、王に言わるると一同首がない、情願《どうか》貧の盗人恋の歌と愍《あわ》れんでこの度だけは匿してください、お礼の徴《しるし》までにこの金を差し上げる、との口上だ。
蟹助ここにおいてまずその金を領収《うけと》り答うるよう、特別の情もて汝輩《きさまら》が取ったと言わぬから安心せい、しかしおれの言う通りにせぬと助からぬ、さっそく盗んだ指環を王宮の裏庭に持ち往き、七面鳥に嚥ませておけ。僕輩胸撫で下ろして左様仕るべし、何分よろしくと頼んで辞し去った。翌日、蟹助、王に謁し奏しけるは、臣謹んで環の在処《ありか》を一月以上占いますと、どうも御裏庭の七面鳥が嚥んだに極まります、と。王大いに悦び臣下に件《くだん》の七面鳥を殺し腹を剖《さ》かしめると、果たして指環が出た。芸道精通の段感心の至りとあって、蟹助に黄金一大嚢を賜い、加之《おまけに》大宴に招かれた。賜饌《ごちそう》の内に蟹があったが、その国で至って稀品で、王の外にその何なるを知る者がなかった。王、今一度蟹助の占いを験《ため》さんと、彼にこの皿の中の物は何だと問う。蟹助ぎょっと行き詰まり何と考えも出でばこそ、詮方尽きて自分の名を呼び、「蟹殿、蟹殿、さても酷《きつ》い目に遭うたことじゃ」と独語した声が大きくて王の耳に入る、さてこそ朕の外に一人も知らぬ物の名を蟹殿と指し中《あ》てた、卜占《うらない》無双の名人と驚歎して、その由を王が一同に告げ、一同起立してまことに国家偉人を得たと祝賀した。
右のイタリア話に、蟹助計って指環盗んだ傍輩入り来るごとに、これで一人、これで二人と自分の妻に寝牀の下から呼ばせて、彼輩《かれら》が盗んだに相違なきを確かめたとあるが、同様の趣向を一五五〇年に始めて出版したストラパロラの『快夜譚集《ピヤツエヴオリ・ノツチ》』に出しおる。すなわち母が痴児《あほう》に「今日」を求め出して来いと誨《おし》えて外へ出すと、町の大手門の辺に仰臥して出入の輩を眺めおった。その日郊外で隠財を見出だし内証で取って還る三人連れが、かの痴児の様子を見て薄気味悪く、「今日は」とおのおの挨拶すると、痴児母が求めて来いと言われた今日とはこの者どもと思い、「これ(265)で一人、これで二人」と三人まで算えた。三人の者隠財を私《わたくし》したのを見出だされたと早合点し、その筋に訴えぬようと痴児に憑《たの》み配分《わけぶん》を遣った、とある。これもイタリアの譚《はなし》だ。
一八八七年版、英人クラウストンの『俗談および小説《ポピユラル・テールス・エンド・フイクシヨンス》』二の巻に、この話に似た物をスウェーデン、ドイツ、ペルシア、インド、セイロン、蒙古等の諸書から引いておる。大抵似ておるからここに出さぬが、ただインド譚が大分|異《かわ》り物ゆえ訳出しょう。
いわく、某村に阿房《ハリサルマン》と名づくる梵士《ぼんじ》あり、名の通り阿房で貧乏で子供が多くて職業《しごと》がない。家内|伴《つ》れて乞丐《こじき》し、ある市に入って富人に仕え、妻は下女、子供は牛飼い、自分は仲間《ちゆうげん》となった。主人の娘の婚礼日に、今日こそ飲ませくれるだろと俟《ま》ち構えおつたのに名も呼んでくれぬ。大きに悒《ふさ》いでその夜ひそかに妻に語るらく、何と貧すればこそこんなに人の数に入れてくれぬ、何かパッとした奇功を奏してこの主人に敬われたい、よって機会を見て、卿《おまえ》、予が神通を得ておると主人に語れ、と。尋《つ》いで夜分人静まったのち主人の聟の乗馬を盗んで隠してしまった。旦《あした》に一同聟殿の馬がないと騒ぎ出し捜しても見えぬところへ阿房梵士の妻が来て、夫に言い含められた通り、妾《わたし》の夫は神通力を得ておりますのに何故皆様が問うてみぬか、と言った。そこで主人、梵士を召《よ》んで卜占《うらない》を頼むと、昨夜御馳走に呼んでくれぬ者を今朝呼ぶとは何ごとぞ、と罵る。主人謝り入り、今後は失敬をせぬから何分頼むと言う。梵士すなわちこむつかしく卦を案じた末、盗人が馬を取ってこの邸の南界に隠しある、今夕遠方へ牽き去るべければ早く探しに往きたまえと教えた。衆人往ってみると、果たしてそこにあったので馬を牽き帰り、卜占の名人と崇めて阿房梵士を主家でやや久しく優遇した。
しかるうち盗《ぬすびと》が王宮に入って黄金珠玉を夥《おお》く掠め去った。かねて阿房梵士の高名を聞きおったので招いて盗品の在処《ありか》を問うと、明日答えると言ったので、一室に入れ厳しく衛《まも》らす。実は王宮にジッヴァ(舌)という名の女中あって件《くだん》の盗みを行《や》ったので、その舌媛《したひめ》は疵持つ足の恐ろしさに夜分阿房梵士が閉じ籠められた室の戸に耳を中《あ》てて様子を(266)探ると、中には梵士ありもせぬ神通力を持つと大言したからこんな眼に遭うと後悔のあまり、「面白い目をしょうとて舌が遣り過ぎて仕出かしたのだ。籠舎《ろうしや》さるるは当然《あたりまえ》」と呟きおった。これを聞いて度を失いし舌媛は、ひそかに室内に入って足下に臥《ひれふ》し、妾《わらわ》こそ只今盗人と中《あ》てたまうた舌媛なれ、一時の心得違いで金玉を盗んで宮後の園の柘榴《ざくろ》の樹下に?《うず》めました、軽少ながら有合せのこの金を呈《さしあ》げるゆえ、情願《どうぞ》命を助け下さいと言うと、阿房梵士心中独語の奇中に驚きながら左《さ》る顔見せず、悪い奴だが縦《ゆる》し遣る、その代りありだけの金を悉皆《みな》持って来いと命ずる。諾《はい》と応えて舌嬢は去る。梵士、翌朝王を伴れてかの園に到り盗まれた財宝を掘り出し、少々足らぬは盗《ぬすびと》が持って逃げたと申す。王悦んで梵士に封邑《りようぶん》を与《やろ》うとする。時に大臣、王に向かい、かかる痴物《しれもの》がそう旨く盗を言い中てたは怪しい、必ず盗賊と夥《ぐる》になっておるんだろ、何とか今一度試みたまえ、と言った。王もっともと領き、瓶《かめ》に蛙一疋容れ蓋を厳重にして、梵士願わくは瓶中に何があるか中てて見よ、と問うた。梵士とても言い中てえぬから、今は最期と観念し呻吟するうち、幼時父が自分を愛して蛙と呼んだことを臆いだし、ああ蛙よこの壺のためにお前は死ぬのだ、と独語《つぶやい》た。王さればこそこの人無上の神通力あり、大臣由なき疑いを起こしたものだと感ずること大方ならず、封邑と黄金傘および種々の乗物を与え、諸侯のように立身させた。
熊楠謂う、右の一話は『カタ・サリット・サガラ』六巻三〇章に出ず。これは梵語で譚《はなし》の流れの大洋という義で、まず支那の書『吉川学海』と似た名だ。西暦六世紀にグナドヒア作『ブリハット・カタ』出たが後に伝わらず、十二世紀の初めカシユミル国のソマデヴァ・プハッタがその残分を修補して『譚流大洋』《カタ・サリツト・サガラ》を作る。十八巻に渉《わた》った長詩で、いろいろの物語を述べ、当時インドの風俗を察する好材料だ。クラウストンが言える通り、蟹助の卜占の偶中《まぐれあたり》一流の譚多きうち、この書に載った阿房梵士の伝が一番古いらしいが、盗品や盗賊のことがなくとも出任せに吐いた独語が聴者《ききて》によって効験《ききめ》を奏したという趣向でなら、僕の知るところでずっと古いのが仏書にある。
後漢すなわち最も晩くとも西暦二百年ごろ失訳人名『雑譬喩経』巻下に、むかし、ある国の寺に百余僧あって宿り(267)学ぶ。近処に一居士あり、経文に明らかにて、日々一僧を請《しよう》じ食を供う。百余僧一々順番に彼の請を受け往く。食を受くるは好いが、必ず居士が経義を問うので浅学の僧輩は往きたがらなんだ。ところが老い出家し何にも知らぬ一僧ありて順番に当たったが、問答しかけられて返事できぬは知れきっておるので、道中|遅々《ぐずぐず》する。居士これを見て、この老僧|行歩《あゆみ》庠序《おちつい》たり、必ず大智慧者じゃろと喜んで上等の食を与え、それが済むと高座を施し説法を乞うた。老僧、座に上ったものの何一つ知らぬから困りきって覚えず独語《ひとりごち》て、人愚にして知るなきは実に苦なり、と言った。居士これを聞いて、いろいろ翫味《あじわ》うた末、なるほど十二因縁に累《かか》りあう者はいつまでも生きては死に、死んでまた生まれ、生死絶えず、かかる者は苦悩《くるしみ》おびただしい。これをこの上人が人愚にして知るなきは実に苦と諭されることと考えついて、即座に悟道の初階たる須陀?《すだおん》道を得た。あまり難有《ありがた》さに白毛氈を老僧に布施しょうと蔵に往った間に、老僧、馳走を食いながら何一つ説法しえず無作法にも狂語《たわごと》を吐いたからどんな眼に遇うも知れぬと惧《おそ》れて、急に逃げて寺へ還り戸を閉じて房《へや》に隠れおる。居士は、どれどれ報謝進上と毛氈|持《も》て来てみると、老僧さらに見えぬ。いかにも消え失せ様が速いので、神通で飛び去ったと思い、ますます崇敬して寺へ往って尋ねた。寺の長老は六通を得た高僧で、定《じよう》に入って観じて子細を了《さと》り、かの老僧を召して、お前は知らずに言った語でも、居士はそれを便りて初果を得たんだから礼物を受けると好いとて納受させ、居士が解した意味を言い聞かせたんで、老僧も悟って初果を得た、とある。
近世日本の田辺という所に、南方先生とて「美人これ血を盛るの嚢《ふくろ》」と悟りきった今聖人があったが、ある時、四、五輩と酒宴して芸妓などに拘《かま》わず牛飲して散会となる時、小金《こかね》という年増が三絃の撥《ばち》を忘れて引っ返し、また出様《でさま》に亭主に流視《ながしめ》して、また招んでよ、と言った。まさにこれ、この婦態|雲行《うんこう》のごとく姿|王立《ぎよくりつ》に同じく、朱唇|綻《ほころ》ぶるところ嬌|解語《かいご》の花に同じ。先生、自分一人にまた招んで欲しいと言いたくて故《わざ》と撥を忘れたんだ、と悟りどころか大きに迷いを開き、大分討死を遣ったそうである。久米仙の再生かもしれぬ。ワハハハ。 (大正二年十月十五日『不二』二号)
(268) 月下氷人
――系図紛乱の話――
一 天人は対笑相視を至楽とし、遺精や手淫で子を生むという説
百四十六年前ロンドン発行『紳士雑誌《ゼントルマンス・マガジン》』に、その年のうち英国で挙行された著しき婚礼の目録を列ねた中に、
デヴォン州のウィリヤム・ローランドがマリ・マッチウス女と婚し、一男児を産んだが、その児の母がその児の祖母にもなり、その児の父がその児の義兄で、その児の姉がまたその児の母に中《あた》る、とあり。何とも解りかねるということで、四年前、考古学者ロバート・ピエルポアンが公けに問いを発した。予これに対し答文を贈つたのが彼国《あちら》へ著かぬうちに、スノーデン・ワード氏の答えが出た。いわく、こはローランドが自分の娘を妻として男子を生んだ。すなわちその男子はローランドの子でも孫でもある。その男子の姉が母で祖父の妻ゆえ祖母にも当たる。またその子の母がその子の姉で、姉の夫たるその子の父が姉婿すなわち義兄だ。一層進んでこむつかしく論ずると、次のような大珍件を見出だす。たとえば、この子は自分の母の弟だから、自分が自分の叔父だ。またこの子の父はこの子すなわち父の妻の弟の父にも当たるゆえ、英国民法によると自分の亜父《おやぶん》でもある、と答えた。
熊楠いわく、この父は自分の妻たる娘の父ゆえ、自分が自分の舅だ。またこの娘は自分の父の妻ゆえ自分の継母だ。(269)英国など文明の中心と言われながら、こんな変わったことが折々ある。これは、いわゆる文明国では家賃が高くて一家父母子娘が狭い一室に押し重なって棲む例が多い。したがって内実貧民間に至親の間の猥事が多い。これと事情は異なるも、キリスト教が起こったユダヤ人は、家族制を重んじ、今のインド人同様同祖先より出た子孫兄弟がどんなに殖えるも一棟に住んだ。したがって至親の間の密事がしばしば行なわれた。その弊に懲りて、キリスト教はもっとも同族間の結婚を厳制し、三、四年前まで英国で死んだ妻の姉妹を娶るをさえ禁じおったのは、角《つの》を枉《た》めて牛を殺すで、世間狭い貧民などは多く犯罪者となる、その弊さらにおびただしいのに気がついて、亡き兄弟の妻を娶るは違法だが、死んだ妻の姉妹は構わぬことになった。
明治二十四、五年のあいだ、予植物学研究のため、西半球の半熱地を広く旅したが、貧乏極まってやむをえず種々の曲馬軽業師の団体に雑《まじ》わり、面白くもまた痛《つら》くも諸方を旅し廻った。その芸人などいう者は一所不住で遭際《しあわせ》が定まらぬ。よって、妻と分かれて年ごろの娘と伴《つ》れ行《ある》いたり、兄妹二人で一芸を演《や》つたり、叔父と姪が一組になったりするのが多いについては、彼輩《かれら》同士に異様な醜聞が立ち、ピストル騒ぎもなきにあらず。至親同血の人に取ってはなはだ奇怪なことと思うたが、キリスト教国のいかがわしき部落で説教する坊主必携ともいうべき書に、貧民等に行儀を教える箇条中に、「子供の見知るべき場所で夫妻たりとも私事《ひそかごと》すべからず」と歴然と載せたが少なからぬ。例せば、一七八二年初板一八八〇年ルアン新板、フェリン和尚の『既婚人教訓問答《カテシスム・デ・ジヤン・マリエー》』が只今座右にある。それに四、五歳|已上《いじよう》の小児を両親と同牀《いつしよ》に寝させぬよう、また幼《いとけな》くとも男児と女児を同臥せしむるな、と繰り返し訓えある。すべて倹約の由掲示する村は浪費者多く、ちょっと貸し仕らずと貼り出した店は借倒しが多い。それと同じく、かかる知れきったことを執念《ひちくど》く訓えるので、欧州には住室臥牀の構造に左右されて夫妻の秘事を子供が見知る場合が多く、したがって至親間の隠謀も大流行だ、と知られる。わが邦にもずいぶん多人数押し合うて棲む家も多いが、割合にかかることが少ないのは、欧米ほど戸障子の締りが密ならぬ等、いろいろの理由があるだろうが、ここには措いて論ぜずとしょう。
(270) さて前述ピエルポアン氏の問いに答えた予の一篇は、ワード氏に先を制せられたが、予の答文中英人に耳新しい所々は抄して一昨年の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』に連載された。ずいぶん骨折って調べた物をこのままにしてしまうのも惜しいから、大略を月刊『不二』雑誌へ出すこととした。
ピエルポアン氏が質問したような、系図が紛雑した家族は罕《まれ》にわが国にもあったらしい。ただし西洋の諺に「例外は通則を助成す」とある通り、かかる例を最《いと》珍しげに国史に明記したのを見て、いよいよわが邦にこんなことがはなはだ少なかつたと知れる。『日本紀』巻一五に、仁賢天皇六年、日鷹《ひたか》の吉士《きし》を高麗《こま》に使わし巧手者《てひと》を召す。出立の後、女人《おみな》難波の御津《みつ》におりて哭《ねな》きていわく、於母亦兄《おもにもせ》、於吾亦兄《あれにもせ》、弱草吾夫※[立心偏+可]怜《わかくさのあがつまはや》矣。哭く声はなはだ哀しく、人をして断腸せしむ。菱城邑人鹿父《ひしきのむらぴとかかそ》その故を問いしに、女人答えていわく、秋葱之転双納《あききのいやふたごもり》、可思惟矣《おもうべし》。鹿父すなわちその意を了《さと》りしが、同伴者悟りえずその訳を問う。鹿父答えていわく、難波玉作部?魚女《なにわのたますりべのふなめ》、韓白水郎※[漢のさんずいが田]《からまのはたけ》に嫁して哭女《なくめ》を生む。哭女、住道《すむち》の人|山寸《やまき》に嫁して飽田女《あくため》を生む。韓白水郎※[漢のさんずいが田]も、その女《むすめ》哭女も死す。哭女の夫住道の人山寸、その妻哭女の母玉作部?魚女を上《さき》に?《おか》し、麁寸《あらき》を生み、麁寸が飽田女を娶る。ここに鹿寸、日鷹の吉士に従いて高麗に発《た》ち向《ゆ》く。その妻飽田女、別れを惜しんで哭いたんだ、とある。
必竟、?魚女という老婆、まことに好淫《すけべい》で夫の死後自分の女婿《むこ》山寸と通じ麁寸を生み、麁寸が?魚女の娘と山寸のあいだにできた飽田女を妻とした。熊楠かかる乱倫なことは読むも胸悪く迷惑千万ながら、行き懸り拠《よんどころ》なく系図〔省略する〕を作ると、ざっとこんなものだ。『紀』の本註に見えた通り、古えは兄弟長幼を言わず、女は男を兄《せ》と称し、男は女を妹《いも》と称した。兄《せ》とは兄弟を言う。麁寸も飽田女も山寸の子で、飽田女の母哭女も麁寸も?魚女の子だから、母にも自分にも兄弟たる弱草《わかくさ》の吾夫《あがつま》はやと慕うて哭いたのだ。もし麁寸と飽田女のあいだに子が産まれたら飽田女に取って自分の子兼|従弟《いとこ》となり、?女にはまた孫兼|曾孫《ひまご》に当たる。(271)その他右の系図中人々相互の関係をいろいろ攷《かんが》えたら面白いから、毎々薬取りあ貸金催促で待たさるる人、客待ちする車夫、それから例の女郎に振られ明かす野暮郎などは、必ず月刊『不二』本号を購《あがな》い繙《ひろ》げ見て、哭女は母と姉妹分になり、山寸は妻と兄弟分に当たるなどと、いろいろ組み合わせて暇を潰すがよい。
伴信友の『蕃神考』に述べたごとく、飽田女一家に似た乱倫の例が、永禄二年藤何某著『塵塚物語』巻六に出ず。いわく、「源義経、兄頼朝と仲悪しくなって、天地も狭く覚え、弁慶一人随えて吉野を忍び通らるる時、十歳あまりの童《わらわ》三、四歳なる子を負うて遊びしが、互いに叔父叔父《おじおじ》と言うを聞いて、義経すなわち了《さと》り、ああ不義の奴原《やつばら》かなと言うて行き過ぎしに、弁慶は終夜考えてようやく解《わか》りしと言うなり。たとえば夫婦の中に二人の子あって、その男子は母親に通じて男一人を生み、また女子はその父に通じて男一人を生む。その父と娘と嫁して生める子とその母と男子と嫁して生める子と二人寄って言う時は、すなわち両方ともに叔父叔父なり」と。この物語より七十六年後に落語の上手策伝が作った『醒睡笑』巻六には、これを作り替えていわく、義経東国落ちの途上、弁慶が旅宿《やどや》の主婦《かみさん》に幾人《いくたり》子を持つかと尋ぬると、妾《わたし》の子が六人、亭主の子が六人、合わせて九人の子が厶《ござ》る、と答えた。義経即座にこれを解したが、弁慶とんと合点往かず、終夜考えても解らず、翌日も一生懸命に案じて足が遅れ、ついに考えついた時は主人義経に七里歩み後れおった。かの主婦の意《こころ》はこうだった。まず亭主と前妻のあいだに子三人、亭主と今の妻のあいだに子三人ある。また今の妻と前の夫のあいだに子三人、今の亭主とのあいだに子三人ある。みんなで十二人のはずだが、その内三人は今の亭主と今の妻の両持ゆえ、十二から三を減《ひ》いて実数九人となる訳だ、とある。
『醒睡笑』から六十一年後れて西鶴が出した『本朝桜陰比事』は五巻物で、それと名指しておらぬが、実は板倉重宗が京都の所司代だったあいだいろいろむつかしい事件を見事に裁決した諸例を、虚実混淆に吹き立てた物らしい。その巻一第三章に、「御耳に立つは同じ言葉、血で血を洗う在所川《ありところがわ》、牛より劣りの系書《つりがき》のこと」と題し、面白く書いておる。西鶴の妙文に猥褻な句が多いのは誰も知るところで、予は天性|蚯蚓《みみず》と美女《べつぴん》の放屁《おなら》とことに猥褻は大嫌いだが、(272)この文にはその気もないから大安心で全文を写そう。
「むかし都の町に西の岡屋と言える葉茶商売の者あり。故郷《ふるさと》出でて十三ヵ年あまり町屋住居《まちやすまい》をせしが、先祖より手馴れたる鋤《すき》鍬《くわ》牛《うし》を使いし野道と商《あきな》いの道とは格別に違いて、年々|資金《もとで》を減らし、身代つづきかねて今一たび振りを替える相談極めしに、金銀の才覚京にて成りがたく親の譲られし田畠《でんばく》一門に預け置いて作らせしが、これを代《しろ》なす胸算用して、里の親類に子細を語れば、欲のことに目の無い者ども一つになって、田地は買い取れり、預らぬ、と言う。しからばその証文があるかと言えば、そなたは預け置いたる証文があるかと横《よこ》(無理)を申し懸けられ、さりとは盗人という者なり、みな遁《のが》れぬ中《なか》(親類のこと)なれば手形も取らずして、今後悔なれど効《かい》なし、これは内証にては堪忍なりがたく、段々書付をもって御訴訟申し上ぐる。相手の百姓召し出だされ、すでに裁許に及べり。里人声|喧《かしま》しく我儘《わがまま》言ううちに、伯父者人《おじじやびと》手形もないこと申されな、と言う。京の者|腹立《ふくりゆう》して、伯父ないことが御前へ申し上げらるるものか、と両方より伯父と言える詞《ことば》御前の御耳に留まりて、まず公事《くじ》は外《よそ》になって、汝等《おのれら》畜生同前なり、先祖の祖父《じじ》今世にあらば屹度《きつと》申し付くべき(処刑《しおき》すべき)曲者《くせもの》なり、この出入り重ねて聞くことにあらず、内証にて和談すべし、世間
男子……………公事相手
祖父-嫡子――
女子-
男子……………公事相手
祖父-
の法を背けば汝等が系害《つりがき》してその町の者どもにこれを見すべしと仰せ付けられしを、いずれも合点《がてん》参らず、いろいろ思案致しても落著せざりしを、御前には即座に聞こし召し分けさせらるること諸人感じける」とあって、大要上のごとき系図を一層念入れて掲げある。
『塵塚物語』の乱倫譚は、父が女子《むすめ》に男子を生ませ、母が男息《せがれ》に男子を生ませ、その男子同士が互いに叔父呼ばわりをしたのだが、西鶴が筆したのは男女二人の孫を持った祖父がその孫女に男子を生ませ、その男子すなわち曽孫《ひまご》と孫男とが叔父と相呼んだのだ。
(273) 祖父が孫女に子を生ませた話はよそにもある。十九世紀の初めごろ太平洋諸島にキリスト教を弘めた熱心な伝道師ウィリアム・エリスの『多島洋の研究《ポリネシアン・レサーチス》』巻一に、今も南洋第一の美女を多く出すタヒチ島民が、キリスト教に化し終わらぬ時祀った諸神を序したうちにいわく、最初世に現われたタアロア神、その娘ヒナに通じてアパウヴワル女神を生んだ。アパウヴワルもまた祖父タアロアの妻となり、相|視詰《みつ》めて男神マタマタアルを生み、つぎに男神チチーポを
タアロア神 マタマタアル神
タアロア神 チチーポ神
アパウヴワル女神 ヒナエレーレモノイ女神
タアロア神 ヒナ女神
生み、最後に女神ヒナエレーレモノイを生んだ、と。これは『桜陰比事』の例に比して、タアロア神が自分の孫女に子を生ませた上に、自分の娘すなわち孫女の母にも子を生ませただけ、一層系図が込み入っておる。アパウヴワル女神は、タアロア神の子でも孫でもあり、その三子はタアロア神の孫兼曽孫である。アパウヴワル女神は、ヒナ女神の子で妹にもなり、その三子は祖母ヒナの弟妹ゆえ母アパウヴワルの叔父母《おじおば》となり、タアロアはヒナの父にも天にも女婿《むこ》にもなり、三子神の父兼祖父兼曽祖父にも中《あた》り、また三子神は母の弟妹でも祖母の弟妹でもあるゆえ、自分で自分の叔父母にも大叔父母にもなる。
ここにちょっと言っておくは、タアロア神が娘ヒナ女神また孫女アパウヴワル女神と眼を視詰めて子を生んだとあるのが、『日本紀』巻一に、天照大神その弟素盞嗚尊と天安河《あまのやすのかわ》を隔てて相|対《むか》い見て誓約《うけい》し、六男神、三女神を産みたまいし、とあるにやや似ておる。これと一つ話にならぬが、『天台四教儀集註』等に見えた通り、仏教に天人の交接を五品を分かち、地居天《じごてん》は体交わること人に異《かわ》らず、夜摩天《やまてん》は勾《かか》え抱くのみ。兜率天《とそつてん》は手を執《と》るを交われりとす。現に章魚《たこ》などは、雄の足に男精充ちたる時、雄の体を離れ、泳いで雌の足に女精熟せる所へ行き当たりて孕ます。雄章魚の足が一本長くなったり切れて去ったりするを見て、蛇が章魚になったとか腹|空《へ》って自分の足を吃《く》ったなど言うのだろう。さて化楽天《けらくてん》は対《むか》い笑うを歓極まるとし、他化自在天《たけじざいてん》は相視るを至快とす、とある。予三十年ばかり前、高(274)野山の青巌寺の襖子《ふすま》に優美極まる天人が笑うところや横視《よこみ》するところを画けるを見たが、みな相視るを究竟《くきよう》とする態《さま》を描いたものと、そのころ高名の老字匠に聞いた。『聖書《バイブル》』にも、婦女《おんな》を眺むるをすでに身を犯せしに等しき罪としたところがある。今は高野山に婦女も夥《おお》く住むそうだから、末法の坊主どもいかでか対笑や相視で満足せん。執手勾抱《しつしゆこうほう》より進んで大喜楽仏|定《じよう》に入り、金剛杵《こんごうしよ》もて紅蓮幸《ぐれんげ》を撃開し、金剛蓮華の二種清浄乳相を成就し、二相中に一大菩薩善妙の相を出生し、快哉妙楽無有上《かいさいみようらくむゆうじよう》、諸有正士応当修《しよゆうしようしおうとうしゆう》、今此秘密妙法門《きんしひみつみようほうもん》、有罪染者不応受《ゆうざいせんじゃふおうじゆ》、秘密蓮華此無上《ひみつれんげしむじょう》、金剛嬉戯即彼法《こんごうきぎそくひほう》、金剛蓮華教亦然《こんごうれんげきようえきぜん》、総摂毘盧遮那智《そうせつひろしやなち》と如来の説偈《せつげ》を実地に演《や》ってみるため、件《くだん》の襖子の絵などは遠《とお》の昔に引っ剥いで売り飛ばされたことと想う。
さて右のタヒチ島のタアロア神の系図は実に乱雑極まるもので、非道千万なことと笑う人も多からんが、古え貴族や王家すなわち神の子孫と呼ばるる家は極めて血筋を重んじ、みだりに他族卑下の輩《やから》と婚を結ばなんだ。民俗学のダーウィンと推さるるフレザー氏の大著述『金椏篇《ゴルズン・バウ》』にその実証を多く列ねおるから、ここにはほんの手近い一、二例を挙ぐると、釈迦の先祖なども兄妹が婚して生《た》り立ちしもので、『日本紀』などにも同父異母の兄妹婿が高貴のあいだにしばしば行なわれたと見える。小野篁《おののたかむら》など、同姓は娶らずという支那の学問に精通しながら、妹に贈れる恋歌あり。元良親王が叔母と親しかつた由、撰集に見えおる。エジプトのクレオパトラは沙翁《シエキスピア》の戯曲で誰も知悉した美人だつたが、国法に順《したが》い二度まで弟王の后となり、ローマの諸帝に至親の女と通じたのが多きも、古俗の遺伝という訳もあろう。
とにかく今日のみを定規として事情全く異なりし古代をむやみに笑うべきにあらず。その時の風俗人情が今と異なるので、むかしの人がみな無法でも淫乱でもなかつたのだ。かの曽我兄弟の復讐など千歳の後までも人を感動せしむるものだが、事の起りは今から見ればしごく詰まらぬ。しばらく『曽我物語』を実説近いものとして読み下すと、最初楠見入道寂心、男子|余多《あまた》早世して跡絶えんとするを哀しみ、内々|継女《まなむすめ》に通じて工藤武者祐継を生み、嫡子に立てて(275)跡を譲り、早世せし実の嫡子の子伊東二郎祐親を祐継の弟としたので、祐親これを怨み箱根別当して祐継を詛《のろ》い殺し、その領地を横取りす。祐継の遺子祐経、鬱憤のあまり祐親の子祐泰を暗殺し、後年、祐泰の子曾我兄弟が祐経を討って復讐したのだ。寂心が嫡孫祐親を措《お》いて継女に生ませた祐継に跡を譲ったから見ると、真に跡の絶えなんことを哀しんだよりは継女の色香に愛《め》でてのことらしく見える。
ハクストハウセンの説に、近世までもアルメニアで父が幼子の妻とて幼子よりずっと年上で美壮な女を迎え遣《や》り、実はおのれ幼子のお先へ失礼してその女に子を孕ます風行なわるる由。十七世紀にモゴル国に帝たりしシャア・ジェハン、その子オーランゼッブにアグラ城に幽閉されて終わったが、その間つねに実の娘ベグム・サハブと?《した》しく、回教の金言、「自分が蒔き生やした樹の果を食うて差し支えなし」というを引いて気息《きやす》めとしたが、ベグムが情夫を蓄うるを嫉妬し、数人を殺したという。これらはいずれも真に系統を重んじて至親婚を行なう風すでに廃れたのち、なおこれに托して肉慾を逞しくしたもので、ここに論ずるに足らぬ。
フレザーの『金椏篇』に立証したごとく、蒙昧の世に貴族の血統を重んずるところから至親間の婚姻が盛んだったとは、疑いを容るる余地なしとして、熊楠|謂《おも》うに、諸国の神誌に上述タヒチ島神のごとく祖父が孫と婚したり父が娘に子を生ませたりする譚が多いのは、その民間にそんな実例が多少あったほかに、今一つは人間の原始を究め推して考え出して、どうも偶然一対の男女が揃うて忽然と生ずるはずがないから、まず男神独り生じて独りでに娘を生み、それと婚しておいおい子孫を殖やしたと信じたによるのだろう。ユダヤ教、キリスト教にも、上帝まず男を作り、男の体の一部より女を作った、と説く。仏教には、最初の衆生《しゆじよう》に男女の別なかりしが、地肥を食うて顔色を相看るに欲心多き者どもが変じて女人《おんな》となり、共に相愛著して、ついに婬欲を行なうて夫妻となる、とある。これは男女同時に生じたとする説だ。しかし、インドには女が男より先だって出たと立てた説もある。例せば、玄奘の『西域記』一〇に、劫初人物これ始まり野居穴処して宮室を知らず。のち天女あり、降って恒河《ごうが》に遊び、流れに濯《そそ》いでみずから媚ぶ。(276)霊を感じて娠《はら》み、四子を生み、贍部洲《せんぶしゆう》を分かち、おのおの都を建て邑を築く、とあり。天女が水中で独り娯しんで四男を生んだのだ。これに似た例が、一九〇四年板、バッジの『埃及諸神譜《ゼ・ゴツズ・オヴ・ゼ・エジプシアンス》』一の二九七頁に出ず。すなわち創世の神ケペラ、相対の女神なき世に出で、みずから創世を序していわく、われはわが手を合し、わが影に著してこれを抱き、わが口に種子《たね》を注ぎ入れ噴《は》いてシュとテフネットの両神を生めり、と。これらは女神また男神まず独り生じ、みずから淫して子を生むとしたんだ。
東晋訳『観仏三味海経』巻一には、地劫成る時、光音諸天、世間に飛行し、水にあって澡浴す。澡浴のゆえをもって四大精気すなわち身中に入り、身触れ楽しむゆえに精水中に流れ、八風吹き去って泥中に堕とし、自然、卵を成す。八千歳を経てその卵すなわち開き一女人を生む。青黒色で泥のごとく、九百九十九頭あり。頭ごとに千眼と九百九十九口あり、口ごとに四牙あり、牙の上に火を出す。状《かたち》霹靂《いかずち》のごとく二十四手あり、手中みな一切の武器を執《と》る。その身高大で須弥山のごとし。大海中に入って水を拍《う》ってみずから楽しむ。旋嵐風《せんらんぷう》あり、大海水を吹く。水精その体に入って妊み、八千歳にして体長《みのたけ》その母に四倍せる毘摩質多羅阿修羅王《ぴましつたらあしゆらおう》を生んだ。これが天上無双の美女で帝釈の正后たる舎脂《しやし》夫人の父で、帝釈他の?女と池中に戯るるを見て嫉妬し、帝釈われを愛せずと父に告げたので、有名な天と阿修羅の大合戦が始まった、とある。本文に言える光音諸天は、人間いまだ堕落せぬ時男女の別なく、空中に飛行し身から光を放ったのを言う。『海経』の文によると、かかる無性の諸天も、身に地水火風の四大精気が入ると快を感じて遺精し、それより偉大の女怪が生まれ、その女怪がまた水中でみずから娯しんで修羅王を孕み生んだ。遺精や手淫で子を生むとは怪しいようだが、風の精や水の精を受くとか、またエジプトの神のごとく手と合すと言えるなどは旨い言い振りじゃ。
とにかく風や水の精また遺精や手淫を人や鬼神の起因《おこり》とする智慧に比しては、娘が父と交わり、孫女が祖父と婚しなど、至親同士の婚合から人間が殖えたとする説は蒙昧の世態に恰当《こうとう》した上、理屈もすこぶる聞くに堪えたり、と言(277)わねばならぬ。西鶴の『男色大鑑』序に、「『日本紀』愚眼に※[貝+穴]《のぞ》けば、天地はじめてなれる時一つの物なれり、形|葦牙《あしかび》のごとし、これすなわち神となる、国常立尊《くにのとこたちのみこと》と申す。それより三代は陽の道ひとりなして衆道《しゆうどう》の根元を顕わせり。天神四代よりして陰陽みだりに交わりて男女の神出で来給い、何ぞ下げ髪のむかし当流の投げ島田、梅花の油臭き浮世風に撓《しな》える柳の腰|紅《くれない》の内具《ゆぐ》あたら眼《まなこ》を汚しぬ」云々と見ゆ。戯語《たわむれごと》ながら諾・冊二尊以前は、三神純陽にして女神なく、次に六神偶生したれど交会の術を知らざりし由『日本紀』に見えるから、同性愛もしくは異性摩触して究竟《くきよう》とせしと判ずるのほかなく、西鶴の所見も理《ことわり》ありと謂うべしだ。さて諾・冊二尊|已後《いご》同族内の婚すこぶる多かりしは、『古事記』『日本紀』を見れば分かるからここに述べぬ。
言い掛けて言い尽さぬと病になると言うから、本題に縁遠いながら、前に叙べたタヒチ島のタアロア神の子にも曽孫にもなる三子神の結局《しまい》をつけて置こう。そのうちの女神ヒナエレーレモノイ至って美貌だった。よって男に犯されぬよう、その母で姉に当たるアパウヴワルがこれを密閉して不断番しおった。二兄神マクマタアルとチチーポが何とかこの妹を犯さんとて一計を案じ、初めて箚青《ほりもの》を体に施し妹に見せると、妹大いにこれを愛し、自分も同様の箚青をしてもらうため密室を破って出で来たり、二兄に箚青しもらい、またその意《こころ》に随うた。これがタヒチで箚青の嚆矢《はじめ》で、今も女を誘惑するために箚青し、島民|件《くだん》の二男神を箚青の神とし、箚青の成就と心懸けた婦女《おんな》を靡かす願をその像に懸け祈るそうだ。
フレザーその他が彙《あつ》めた伝説を見ると、外国には知りながら親が子に愛著《あいじやく》する話が多い。わが国には至親同士の恋とては異母の兄妹に行なわれた。これはヒュームも石原正明も論じたごとく、ギリシアでも本邦でも、むかしは夫が妻をそこここに拵《こさ》え置いて在って会し、一棟に妻妾ともに棲むことはなかった。したがって、異母の兄弟姉妹は成長するまで全く相知らず他人同前だから、兄妹相|恋《した》うも罪とか猥《みだ》りとか感ぜず、反って同父より出た血統を厚くし保存する意に心得たのだ。後世|戯曲《じようるり》などに兄妹の恋を叙べたのがあるが、いずれも兄妹と知らずにしたこととしおり、知(278)ってこれを犯さんとした唯一の例は(「知ってこれを犯さんと」以下「予は知らぬ」までの文句により、罰金百円に処せられしなり)、今も熊野等の碇泊地で船頭や船鰻頭が唱う、「所は京都の堺の町で、哀れ悲しや兄妹《おととい》心中、兄は二十一、その名は軍平、妹《いもと》は十八、その名はお清、兄の軍平が妹に×て、それが病の基《もとい》となりて、ある日お清が軍平眼元にもしもし兄上御病気は如何《いかが》、医者を迎うか薬を取ろうか、医者も薬も介抱も入らぬ、一夜頼みよ、これお清さん、これこれ兄様何言わさんす、人が聞いたら畜生と謂わん、親が聞いたら殺すと言わん、私《わたし》に一人の夫がごんす、歳は二十一、虚無僧でござる、虚無僧殺して下されますりや、一夜二夜でも三八夜《さんぱちや》でも、妻となります、これ兄上よ、そこでお清はある日のことに、瀬多の唐橋笛吹き通る」。これより先は近処に知った者がないが、虚無僧に化けた妹を殺し気がついて大きに慙《は》じ、兄も自殺するので仕舞いじゃ。十二年ほど前、勝浦港の平見《ひらみ》という閑処《かんじよ》で夜深く海藻を鏡検しておると、森浦のお米《よね》という売色の大将軍が港内に冽《さ》え渡る美声でこの唄を唱うを聴いて青衫《せいさん》ために湿《うるお》うた。その場の光景今に忘られぬから長々と書いておく。いずれそのうち学資を募り習いに出かけるつもりだが、読者の中に心得た人があらば終局《しまい》のところを葉書で知らせてくれ。何に致せ、知りつつ兄が妹に懸想した本邦の例はこのほかに予は知らぬ。
知らずに至親同士が恋した譚は知ってしたのより一層外国に多く、仏典を見ると、知る知らぬにかかわらず、こんな話がわが邦よりはるかに多い。わが邦のかかる譚の多くは仏典を通じてインド譚に倣《なら》い設けた物と思う。例せば『宝物集』四を『類聚名物考』一七一に引いて、京極の御息所《みやすどころ》は志賀寺の上人に恋われし女なり、左大臣の女《むすめ》延喜の女御《にようご》に参り給う夜、寛平法皇の出で立ち見んとて御幸《みゆき》ありて見給いけるに、心に美《め》で給いけれ、老法師に賜わりぬとて推し取り給う人の御事なり、とあって宇多法皇ほどの聖主を唐の玄宗同様|子婦《よめ》を奪うたとしておる。また、明連律師は下野《しもつけ》の人なり、幼少にして天台山に登りようやく学問して人となりけるままに、生国へ下りて母を見んと思うて下るほどに、母もまた天台山へ登りし子の恋しかりければ見んとて登りけるほどに、旅宿に行き逢うて母とも知らで犯し(279)たるなり。順源法師は知りながら娘を嫁《とつ》ぐ。この道において忍びがたきこととぞ見え侍るめりと言うは、流転生死の往因を観じていずれの人かわが父子ならぬはあるとて娘を妻とするなり、ついに往生の素懐を遂げたる人なり、などを載せたるは、いずれも仏典より案出して本邦に実在せるごとくかかる咄《はなし》を作り出したるか、不品行の僧が経文に資《よ》って過失を蓋うたらしく、その出処|所拠《よりどころ》は一々控えあるが今これを略する。『雑宝蔵経』巻七に、子が母の美貌に著し病となり、母に推し問われてその由を告ぐると、母その子の死なんことを怕《おそ》れ、「すなわち児を喚び、その意に従わんとす。児まさに床に上がらんとするや、地すなわち擘裂《さけ》て、わが子即時に生身陥入す。われ、すなわち驚怖し、手をもって児を挽き、児の髪を捉え得たり。しかしてわが児の髪は、今日なおわが懐中にあり。このことを感切し、この故に出家せり」とて、その母尼となって美貌無類なりしも至って行い正しかった、と出ず。
唐玄奘奉詔訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻九九に、「むかし末土羅《まどら》国に一商主あり。少《わか》くして妻室《つま》を娉《よ》び、一男児|顔容《かんばせ》端正《きれい》なるを生み大天《だいてん》と字《あざな》す。久しからざるに商主貿易のため遠国へ往き久しく還らず。その子成長して母に染穢《せんえ》しけるが、のち父還ると聞き淫行露わるるを怖れ、母と計ってその父を殺し、彼すでに一|無間業《むげんごう》を造る。事ようやく彰露《あられれ》に及び、その母を将《つ》れて波?梨《はたり》城に隠るるうち本国で供養した阿羅漢比丘《あらかんびく》に逢い、旧悪を言わるるを恐れ、計って彼を殺し、すでに二無間業を造る。のちその母他人と交通するを見、恚《いか》っていわく、われは母と親しくなったために二重罪を造り、他国に移流《さすら》え始終安からず、しかるに母|好婬《すけべい》で今われを捨てさらに他人を好く、かかる倡穢《きたなさ》誰か容れ忍ぶべきとて方便《てだて》してまた母を殺し、三無間業を造る。かかる悪人ながら善根力断えざるによって出家し高名となりしが、王の内宮《おおおく》に召されて説法し、出でて寺にあるうち不正思惟《よからぬかんがえ》して夢に失精《もうぞう》し、弟子をして汚れた衣《きもの》を浣《あら》わしむ。弟子|白《もう》さく、阿羅漢は諸漏すでに尽くと承る、しかるに今阿羅漢たるわが師が失精とは心得ぬ、と。大天強弁すらく、これ天魔の《みだ》すところ汝怪しむなかれ、漏失に煩悩と不浄の二種あり、煩悩漏矢は阿羅漢に全くなきも、不浄漏失を免《のが》るることあたわず、大小便|涕《はな》唾《つばき》等のことは阿羅漢なお免れず、魔、仏法を嫉み修善者を?《みだ》して失精せしめたんじゃ、(280)と。これを初めとして大天五つの惡見を出だし、鶏園寺の学僧、上座大衆の二部に分かれて大難論し、上座部の諸聖ついに虚《そら》を凌《しの》いで迦湿弥羅《かしゆみら》国に去り、仏教大天の遺精より事起こって氷炭相容れざる二派に分立することとなった」とある。
また『付法蔵因縁伝』六に、釈尊から二十一代目の祖師|闍夜多《じややた》尊者は大功徳あり、漏失あることなし。世尊が予言せる最後の律師たり。かつて一比丘あり、その嫂《あによめ》寺に至り食を餉《おく》る。婬火|熾盛《さかん》なりければ、すなわち共に交通し重禁を犯す。事おわつてみずから悔責しきわめて慙ず。ことごとく衣鉢を三奇杖《みつまたのつえ》の上に置き、処々遊行し高声に唱えていわく、われこれ罪人また仏法の染衣を著すべからず、罪すでに重ければ必ず地獄に入らん、いずこにて救護《すくい》を得べきか、と。闍夜多その比丘を諭《さと》し、みずから猛火坑に投ぜしめしに、慚悔の力で猛?清流に転じ、わずかにその膝に斉《ひと》しくすべて傷害せず、すなわちために説法し羅漢道を得せしむ、とある。
二 種々の親族姦を仏が戒めたこと
因縁は切つても切れず自分が殺した女と副《そ》い遂げたこと
仏教に親族姦を厳に戒めたことは律蔵に見え、これに対する地獄の刑罰もなかなか怖ろしく書き備えおる。倒せば、『大毘婆沙論』巻一一九に、畜生がその父母を殺さば人と同じく無間《むげん》地獄に落つべきやという難問に答えて、聡慧な畜生は落つるが聡慧ならぬ者は落ちぬと言って、畜生に聡慧な奴がある証《しるし》として、かつて聞く人あり、竜馬《よきうま》の種を取り置こうとて母馬と含《つる》ましめたのち、その馬覚りてみずから勢《せい》を断《かみき》って死んだ、と引きおる。西洋でも仏国のアンリ・エチアンが一五六六年公けにした『アポロジー・プール・エロドト』第一〇章に、当時欧州貴族が親族姦おびただしく行なうたのを責めた終り、犬が自分の子と交わらざりし例と、知らずに自分の子と交わった母馬がそれと知(281)ったのち、数日絶食して自滅したことを引いて、人をもって畜生に及《し》かざるべけんや、と嘆じた。
元魏訳『正法念処経』一三には、あるいは酒に酔い、あるいは欲盛んにて、姉や妹に淫した者は大焦熱地獄の髪愧烏処《はつしゆううしよ》に生じ、熱炎銅炉《あつくもゆるどうろ》で消洋《とろけ》ては、また生き還ること幾度となく、それから鉄砧《かなとこ》に置いて鉄槌《かなづち》で打たれ、打てば死に槌を拳ぐれは生きる。それから鼓中に置いて獄卒が鼓を打って畏ろしき声を出すと、罪人の心臓|破《わ》れ散り幾度となく生死《いきしに》する。ようやく地獄を脱して人に生まれても、常に物に驚きやすく、むやみに官人に横枉繋縛《むりにくくらるる》を畏れ、寿命きわめて短く心驚いて安からず、とあるから、今日どこかの国の人民がむやみと官人を畏るるのは前生に姉妹姦を行《や》った者が多いのかもしれぬ。次に人あり、斎会《さいえ》中悪邪法を見て姉妹と行欲する者は大焦熱獄の悲苦吼処《ひくくしよ》に落ち、獄卒に熱炎鉄杵《あつくもゆるてつのきね》で擣《つ》き爛《ただ》らされ、次に鉄地に入り熱炎鉄《あつくもゆるてつ》を踏み大苦悩を受くるうち、向うに寂静樹林《しずかなもり》に衆鳥鳴き遊ぶを望み、彼処《かしこ》で休もうと林中に入る。その時、衆鳥たちまち千頭の大毒竜となり、罪人を食い殺してはまた活かすこと幾度というを知らず、ようやく逃れて清水の池に入ると、たちまち大火坑となってきわめて苦しむ。のち人に生まれても貧究《きゆう》多病、人に使われ、また巷《まち》に乞食し身体|倭短《みじか》い、とある。
日本には古来ないが、外国には祭りに骨肉姉妹を問わず乱婬する例がある。また至親姦を咎めず吉事《よいこと》と主張する宗派もあった。『大毘婆沙論』一一六に、インドの西に目迦《もつか》なる宗徒あり、母、女《むすめ》、姉妹、児妻《よめ》等と行欲するもことごとく罪なし、一切女色は熱果や道路、橋、船、階梯《はしご》、臼等のごとし、用いさえすれば役に立つ、遠慮に及ばぬと主張す、とある。近代もかかる者なきにあらず。一八六八年板、リナン・ド・ベルフォン氏の『レトバエ誌』に、アマラー族の人は兄弟や従兄弟《いとこ》の妻と通ずるを常とす、と見え、ピエル・ソソネラの『一七七四より六年のあいだ東|印度《インド》および支那航行記』には、南インドのファログイス族は人死して魂全滅すと信じ、したがって父|女《むすめ》、母子、兄弟姉妹、相通ずるも少しも罪なしと信ず、とある。一六一六年、イタリア人ピエトロ・デラ・ヴァレがバグダッドから出した状に、彼処《かしこ》の拝日宗の徒、至親姦を一向構わぬ由出で、十二世紀のベンジャミンの『東遊記』に、ドルー(282)ス人の父が娘と婚するが常にて、年に一度男女祭りに寄り集まり、宴《さかもり》した跡で骨肉も何も構わず乱婬す、と載せ、十八世紀にバウムガルテンは、トリポリ辺で耶蘇教徒と自称する輩が時を定めて暗洞中に集まり、父|女《むすめ》、兄妹雑婚し、生まれた子が女ならば養育し、男なら針で突き殺し血を取って神を祭る、とある。上に引いた仏経に斎会中姉妹と行欲とはこんなことを指したんじゃろ。
さて『正法念処経』一三に、自分の子の妻に婬した人は大焦熱地獄の無悲闇処に落つ、獄卒に熱鉄地上に百千遍上下|翻覆和集同煮合《うらがえしかきまぜにまぜ》て一塊とし、杵《きね》で擣《つ》き固めらるること百千歳苦しみ止まず、とあるから、ざっと人間がセメントになるんだ。その後九百世|餓鬼《がき》に生まれ、さてやつと人に生まれても、貧究常に疾《や》み常に怨家《かたき》に破られ、悪国に生まれ、人間中最も鄙劣で短命だ、という。『経律異相』四九にいわく、姪佚|無道《ぶどう》で浄戒を守る尼や自分の姉妹や親戚の女に逼《せま》って悪事を造《な》した者は、死に臨んで風刀《かぜのかたな》で身を解かれ偃臥《ねふし》定まらず、楚撻《むちう》たるるごとく、その心|荒越《あらく》、発狂痴想《きちがいもうそう》して、おのれの室宅《へやいえ》男女大小一切みな不浄の物で屎尿《くそしようべん》盈《み》ちて外に流るる、と見る。ところへ獄卒来たり、大鉄叉《おおさすまた》をもって擎《ささ》げて阿鼻獄に入れる。もろもろの刀林化して宝樹および清涼池と作《な》り、火?《ほのお》化して金葉の蓬花《れんげ》となり、諸|鉄觜虫《てつしちゆう》化して雁や鳧《かも》となり、罪人苦痛の声は詠歌のごとし。これを聞いて面白く思い、蓮花に坐るとたちまち火?となり、雁鳧は鉄觜虫となってその身を分かち、狗《いぬ》来たつてその心《しん》を食らい、にわかにその身鉄火となり苦しむこと八万四千|大劫《だいごう》だ、とある。
『正法念処経』一四には、人あり、境界《きようがい》に乱され、あるいは欲心により、あるいは悪友に近づき、あるいは酒に酔いて、その母と行欲し、行已《やりおわ》つて心|惶《おそ》れながら悪友に勧められ、また幾度も同じ罪を行ない楽しみ、また他人を勧めてかく行なわしむる者は阿鼻地獄の無彼岸長受苦処《むひがんちようじゆくしよ》に堕つ。獄卒、熱鉄の鉤《かぎ》もてその男根《いちもつ》を鉤《ひつか》け臍《へそ》より出し棘針《いばらはり》もて男根を刺し、臍にも鼻にも耳にも針を入れ、また口を断つなど、一方ならず苦しんだのち、四千世餓鬼に生まれて糞を食う、四千世畜生に生まれていつも焼け死に、それから人に生まれても貧究常に病み身分踐しく、妻が不貞、おのれ(283)も他人《ひと》の女を犯して捉《とら》わり、罰として男根を抜かれ、乞食して道路《みち》に倒れ死ぬ、とある。『観仏三昧海経』に、七種の重罪あり、その一を犯す者、八万四千大劫のあいだ阿鼻地獄に堕つ。七種重罪とは、一に因果を信ぜず、二に十方仏《じつぽうぶつ》を毀無《そしりなみ》す、三に般若を学を絶つ、四に四重|虚食信施《きよしよくしんせ》を犯す、五に僧祇物《そうのもの》を用ゆ、六に浄行比丘尼《じようぎようのあま》を逼掠《ごうかん》す、七に六親《ろくしん》に不浄行す、だ。唐訳『大乗造像功徳経』下に、また四縁あり、諸男子をして心常に女人《おんな》の愛欲《のぞみ》を生じ、他の男子《おとこ》がおのれに丈夫《おとこ》のことを行なうを楽しましむ。一にはあるいは嫌《きら》い、あるいは戯れて人を謗毀《そし》る、二には女人の衣》服荘飭《きものよそおい》を用ゆるを楽しむ、三には親族の女に婬穢事《きたなきこと》を行なう、四には実無勝徳妄《なんのとくなしにみだ》りに人の礼を受く。この四因縁をもって諸丈夫《おとこ》をしてかかる別異《へんな》煩悩を起こさしむ、と見ゆ。
男子《おとこ》が女人《おんな》の性慾をもって生まれ、女よりも他の男に合うを好む者が欧州その他に今も多く、むやみにこれを妨ぐるは不便《ふぴん》だから、そんな者は望み次第|然《しか》るべき方法で男同士の結婚をさせ遣るべし、と論じた人もある。ドイツのウルリッヒ、英国のシモンズなどだ。件《くだん》の経説によると、かかる女魂《おんなだましい》の男子のある者は、前世で親戚の女を犯した報いでかくのごとく生まれたんじゃ。
右に引いた経文は大抵釈尊より後においおいできた物で、載するところの実例も釈尊後のことが多い。しかし、忠孝を主張した孔子の在日《ざいじつ》、君父《くんぷ》を弑《しい》せる者が非常に多かつた。鎌田栄吉氏かつてロンドンで予とこのことを論じて、『春秋』に見えた纂弑《さんし》の例は当時の貴族を限って書き留めたのだ、それさえ数百もあるんだから、無位無教育の下民間に何ほど大逆徒が播《はびこ》りおったか分からぬ、と言われた。それと同様に、釈尊や釈尊前の諸仏の在世にも、実は親族姦や不浄事はすこぶる多かつた。多かったればこそ仏が出て制戒もし説法もされたんで、恰好《ちようど》罪人|絶無《まるなし》となつたら巡査や看守の口が乾上《ひあ》がる理屈じゃ。
律蔵は釈尊の裁判筆記のような物で、比較的確かな事実譚だが、まず『十誦律』四二に、跋陀《ばつだ》比丘尼の姉死す、尼往きて問い帰路《かえり》に賊に遇うを恐れ、その家に宿す。姉の夫これに著《じやく》し所有財宝《あらゆるしんだい》多きを説き、また他人を娶ると姉の児(284)に苛《ひど》く当たるからと、慾と義理の二途《ふたみち》で口説《くど》いたが尼聴かず。中夜《よなか》後夜《よなかすぎ》にも強いられしを、ようやく言い延ばし早朝遁げ帰る。仏これを聴いて、比丘尼の一身独宿を禁ず。一身独宿とは灸の「やいと」と同様、念の入った重言《じゆうごん》だが、熊楠の言い損《そこな》いじゃない、お経の文句通り写したのだ。すべてこの「月下氷人《むすぶのかみ》の話」は、主として律蔵諸典から原文のまま引いた物で、仏教は律を根本とする。西洋でも大博士号に俗法博士と両法博士とある。両法博士とは俗法のみか僧法すなわち教律にも精通したという意味だ。一社会に住んでその社会の法律すなわち俗法を知らねば他にどんなことを知っておっても大学者と言えぬ。故に初果《しよか》の大博士を俗法に精通した者と推尊して俗法博士と言い、さて俗法の外に霊魂界を支配する教律僧法をも兼ね明らめた奴に擬して上果《じようか》の大博士を両法博士と言うんだ。日本でも聖徳太子の憲法十七条など首《はじ》めに仏法のことを言っておる。その他法律に仏教を基としたことがすこぶる多い。浅薄な輩が西洋から入ったように心得おる、二罪倶発とか情状酌量とか罪の重きに随うとかいうことは、みなちゃんと仏教の律蔵に出ておる。その律蔵に詳しい奴を律師と言う。雲照《うんしょう》律師など近ごろ名高かった。
予なども二十年も律蔵を捻《ひねく》りおるから、大抵のことは暗誦《そらよみ》だ。まことに惜しいもんだが、末世の衆生を化度《けど》し、歓笑《にこにこ》のあいだに善に導き遣らんとて種々考慮の末、兜率天《とそつてん》から降《くだ》り見ると、どうも『月刊不二』が一番弘法に適しおるから、眼病と疥瘡《たむし》、それからこの夏『日刊不二』で公けにした通り、菌《きのこ》の研究中蟻にして遣られた男根《いちもつ》の創今に癒えぬをも拘《かま》わず、孤燈下に本文を綴るんじゃから、竜華《りゆうげ》の三会《さんね》に逢うたつもりで随喜渇仰して一日に五度も十度もこの月下氷人の一篇を読め。前年、平田譲衛氏予に語ったは、日本の法律は俗間の前例を勝手に引き廻すのほか何たる基礎のない物だ、と言ったように臆える。有賀博士の『日本古代法典』とかいうを見たが、それにも支那律までは調べ探りおるが、肝腎の律蔵と少しも比較しおらぬは遺憾だ。法曹界の大立物たる人々さえ気のつかぬ律蔵を、思いきって大通俗的に月下氷人の話などと誰でも好く名題で講じやるんだから、司法の大臣高官はもちろん、地方の裁判所長より検事、判事、書記、廷丁、茶酌み、それから彼輩と相引《あいび》きする芸妓仲居までも、必ずこの篇の出た『月刊不(285)二』を講読することじゃ。常在|霊鷲《りようじゆ》の金口《きんこう》は一言一句を改《か》えても口が ※[鍋の旁]《ゆが》むと言うゆえ、この篇引くところの諸文ことごとく経律の本によって少しも変ぜず、故にそれが気に入らずば仏教を厳禁するのほかない。そは仏教の御影《おかげ》で現に極楽にある無数の日本人の祖先をして永々お世話になりましたと捨台詞《すてぜりふ》で地獄へ宿乾《やどがえ》せしむる訳だ。これあに忠孝を口癖に説く人々の所行ならんやだ。
且把話頭一転《それはさておきここにまた》、劉宋訳『弥沙塞部五分律』一一に、仏、舎衛城《しやえじよう》に在《おわ》せし時、諸釈種ともに作要《やくそく》し、麁姓《かとうにん》と婚姻せば重罪に処すべし、と言う。時に釈種|黒離車《こくりしや》の女、夫を喪う。夫の弟、その寡婦《ごけ》を娶らんと三度まで望むも聴き入れず。弟、こは他に情夫《いろおとこ》あるゆえだろう、何とか殺して遣らんと謀り、兄の法会を営むとてかの婦《おんな》を招き酒を飲ませて不浄を行なう。さてその肉を抓《つか》み傷つけ、官司《やくにん》に告げて、こはわが婦《つま》たるに今|外人《よそのひと》と私通した、と言う。かの女醒めて自身処々傷|破《つ》けられたるを見、姦通罪として殺さるるを恐れ、舎衛城に奔り出家した。釈種の国から舎衝に照会して送還を求めたが、舎衛の波斯匿王《はしのくおう》すでに比丘尼となった者は有罪でも引き渡すことならぬと言い、両国のあいだ不快となった。仏これを聞いて有罪者を度《ど》して尼となすを僧伽婆尸沙罪《そうぎやばししやざい》とした。この話をちょっと聞いたばかりでは、弟が兄の後家に執著して酒で酔《え》わせて強辱し、加之《おまけ》にその身に傷つけ情夫と戯れた時の傷だと詐《いつわ》り訴え姦婦として求刑したんで非常に弟が悪いようだが、前文にこの一族が属する釈種すなわち釈尊が生まれた種族が当時|血統《ちすじ》を重んじ下等の族姓と婚するを重罪とした、とある。もとこの釈種は継母の讒《ざん》に退いて雪山下に遁れた甘蔗王《かんしやおう》の四王子がおのおの親株を捨てて異母妹を取って妻とし、男女子を生み一種族を立てた。父甘蔗王このことを大臣より聞き、わが子|能《よ》くかかることを作《な》すかと問うと、大臣答えて彼ら能くすと言うを聞き、呆れて長く右手《めて》を舒《の》ばしわが子能くかかることをなせり、と歎じた。よって、かの種族を釈迦(能くす、すなわちえらいことを行《や》つたという義)と名づけた(唐義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻三四)。そんなに兄妹相婚してさえ他種族と血統が混ぜぬを重んじた釈種が、おいおい風儀乱れて劣等民と雑婚するようになったのを防がんとて、仏舎衛にありし日に一日会議して、なるべく同族婚のみして外(286)族と混ぜぬようと約束したので、従って黒離車の後家を亡夫の弟が娶ろうとするを一同しごく賛成し、それを嫌うて他国へ出奔して尼となったのを挙《こぞ》って悪《にく》み、引き渡し貰うて死刑に処し、もって以後同族婚を忌む女を懲らさんとしたに相違ない。
『史記』の列伝第五〇に、中行説《ちゆうこうえつ》、漢を恨み「必ずわれ行かば、漢の患《うれ》いをなさんものなり」と言い放って匈奴に入り、その主|単于《ぜんう》の参謀となり、漢の大患をなす。漢の使い匈奴に語るらく、匈奴の父子《おやこ》穹廬内《こやのうち》に同臥し、父死すれば子がその後母《ままはは》を妻《めと》り、兄弟死せばことごとくその妻を娶る、かつ婚姻に冠帯の飾り闕庭《けつてい》の礼なし、と言うと、中行説いわく、匈奴は急な時は騎射を習い、寛なれば無事を楽しむ、約束軽くて行なわれやすい、君臣簡易にして一国の政《まつりごと》一身のごとし、父子兄弟死してその後家を妻《めと》るは種姓《いえすじ》の失せるを悪《きら》うゆえだ、故に匈奴国乱れても必ず宗種《おもや》を立つ、支那は豪《えら》そうに中国と自称するものの、親属|疎《うと》くなるとたちまち相殺して姓を易《か》えるが常じゃ、その失は父兄の妻を娶るに劣る、かつ礼義の弊上下こもごも怨望してむやみに大建築を立つるから、きつと生産力が窮する、農桑を力《つと》めて衣食に汲々し、城郭を築いてみずから備うるから、その民急な時戦功に習わず緩なれば作業に罷《つか》る、汝漢人ら多辞《しやべく》るなかれ、一昨日《おととい》来いと遣り込めた、とある。中行説、何《いか》なる怨みあるにもせよ、自国を背いて他国を弁護し、自国の使いを説破《やりつ》けたはろくな奴でないが、その言い分は一理ある。礼義の弊を言ったところなど、わが国の心ある人の一考を要する。ことに政府に糊口する官吏《やくにん》輩は、熟《とく》と読んで置きなはれ、熊楠菩薩の引言《ひきこと》はみな良薬じゃほどに。
先年『風俗画報』に、泉州にそのころまで「差当り」と呼んで似合わしき妻がない時、自分の姪を娶る風行なわるる、とあった。これも決して猥《みだ》らなことでなく、全く血統を重んずる古風が残ったのだろ。こんなことを述べると、直《じき》に例の半可通のハイカラ輩や新米の耶蘇牧師など、大旱《ひでり》に雲霓《うんげい》を得たごとく、それだからどうも東洋は野蛮だなどと言うが受合いだが、物を知らぬにも程がある。故リチャード・バートンが言った通り、『旧約全書』ほど猥褻乱倫の多い書が天下になく、ヴォルテールが論じたごとく、キリストの先祖ほど、買娼《じよろかい》、親族姦、内揩外泄《ないかいがいせつ》、蓄妾、その(287)他あらゆる淫事に富んだやからはない。降《くだ》って欧州や米国に古来こんなことは東洋人がとても企て及ぶべからざるほど多いが、あまり旨に痞《つか》ゆるから今は措《お》いて論ぜぬ。こんなに言うと、また腥坊主《なまぐさぼうず》ら大悦びで南方さんはまことに十地《じゆうじ》の菩薩だ、耶蘇徒の猥褻乱倫を指摘して大いに正教を張って下さるなど言うに極まっておるから、公平を保つために諸仏在世にもかかる詰まらぬ例が多かったということを、今少し示しおこう。
姚秦訳『四分律蔵』五五に、時に舎衛国に比丘尼と比丘|母子《おやこ》、夏安居《げあんご》し、母子しばしば相見る。すでにしばしば相見て、ともに欲心を生ず。母、児に語るらく、「汝ここより出でしが、今またここに入る。犯すことなきを得べし、と。児、すなわち母の言のごとくす」。仏このことを聞きて波羅夷罪《はらいざい》に処した、とある。蜀山人が何かの図に関を出でて故郷を望むと題したのは、この句に拠ったのかもしれぬ。仏弟子|?陀夷《うだい》は釈尊の父|浄飯王《じようぼんのう》の大臣だったが、仏|得道《とくどう》して父王に見《まみ》える前に出家せねば仏の使いとなる訳に往かず、やむをえず出家した。本心からでないゆえ出家後いろいろの婬行あつたが、ついに得道して十八億衆を化度《けど》したが、ある家の婦《つま》が賊と密通するところへ行き合わせ、その賊に殺された(『一切有部毘奈耶』巻一七と一八と三九)。
東晋訳『摩訶僧祇律』六に、優鉢羅《うはつら》比丘尼、沙弥尼《しやみに》、字《な》は支梨《しり》をして、衣を持って優陀夷《うだい》に与えしむ。優陀夷|好《よ》く持って房中《へやのうち》に置けと命じ、尋後《あとを》逐うて房内に入り、すなわち「手に把って持抱《いだ》き、適意し已《おわ》つて須臾《しゆゆ》に放ち去る」。支梨尼泣いて優鉢羅尼に、「長老|優陀夷《うだい》、われを随《お》うて房に入り、把持《かか》え抱き弄《たわむ》れて悩触を極む」と告げ、優鉢羅尼これを仏に白《もう》す。仏すなわち因縁を説く、むかし嵩渠《すうきよ》氏の婆羅門《ばらもん》あり、田を作り生活す、美妻を娶り一女また美麗なるを生み、姓によって嵩渠と名づく、年長じ諸婆羅門族が婚を求むれど、われを愛せば嫁すなかれ、と言う。四隣そのよく志を守り梵行《ぽんぎよう》を修するを愛念す。父は毎日田を耕し、妻常に食物を送る。一日《あるひ》、妻事あり、女《むすめ》嵩渠して父に食を送らしむ。「父、不正思惟《よからぬかんがえ》をなし、すなわち慾想を生じ、婦至らばまさに共に行欲せんと憶念《おも》う。食を持って来たるを見、すなわち犂《すき》を捨てて往き迎う。欲心迷酔してみずから覚《さと》るあたわず。触るるべからざる処、父すなわちこれに(288)触る。時に女《むすめ》の嵩渠すなわち涕泣して住《とど》まる。時に婆羅門すなわち念じていわく、この女嵩渠の常に欲を楽しまざるは、衆人の歎ずるところなれど、今われこれに触れしに、しかも大いに喚《さけ》ばざるは、欲の意《こころ》あるに似たり、と。すなわち偈《げ》を説く、われ今汝の身《からだ》に触るるに、低頭して長く歎息す、まさにわれと共に婬欲の法を行なわんと欲するにあらずや、汝先に梵行を修し、衆人の敬するところなり、しかるに今|?《やさ》しく相|見《まみ》ゆるは、世間《ひとのよ》の意《こころ》あるに似たり、と」。
女、頌もて答う、「われ先に恐怖の時、仰いで慈父に憑《たよ》る。もと依怙《えこ》するのところにして、さらにこの悩乱に遭う。今深き榛《しげみ》の中にあって、また何の告ぐるところを知らん。たとえば深き水の中にあって、さらに火を生ずるがごとし。根本《もと》覆《かば》い護るの処なるに、今や恐怖を生ず。畏《おそ》れなき処に畏れを生じ、帰《たよ》る所にて反《かえ》って難に遭う。林樹のもろもろの天神、この非法なるを証知す。生養の恩を終《かえ》さずして、一朝|困《くる》しめ辱しめらる。地わがために開かず、いずくにか身命を逃れん」。
父この女の頌を説くを聞き、大いにみずから慙《は》じて去る。この父は優陀夷、妻は優鉢羅比丘尼、女嵩渠は支梨沙弥尼の前身だ、前生かつてこの女に慾想を生じ、今生まで続いてまた起こったのだ、と因縁を説き、優陀夷を僧伽婆尸沙《そうぎやばししや》罪としたまう、とある。
仏の従弟|提婆達多《だいばだつた》は、後に仏を殺さんとして生きながら阿鼻地獄に落ちた男だが、常に仏の妻に懸想し、仏出家して学道中、その妻|羅喉羅《らごら》を生みし時、これ実はわが子だなど悪名を振れ廻り(隋訳『仏本行集経』五一)、さすが悟りきった仏もこれを聞いて恚《いか》った(北涼訳『阿毘曇毘婆沙論』三四)。また仏の従弟で、仏より第三代の祖師となった阿難《あなん》の母は、仏の母の妹で仏の父の弟の妻だが、仏在俗の日、功徳|魏々《ぎぎ》威力|顕赫《けんかく》たるを見て染心《ぜんしん》を生じ、種々邪異の言《こと》を吐きしも、仏、叔母のゆえをもって黙過した。そのゆえ仏出家後も阿難を出家せしめなんだ、とある。こは婬心なお止まなんだゆえ、自分の子を仏弟子とすると、いよいよ子の師とおのれの間が遠ざかり、もはや近づくこともならぬを憂いたのだ(『仏本行集経』巻五と五八)。一体そのころインド貴族の風習に、今の日本の平人すら不埒千万と思うこ(289)とを平気でしたらしい例が多い。上述沙弥尼を抱いて罪を得た優陀夷が、あるアマニその衣を作り遣ろうとて作り与え、人に示すなかれ、と言った。仏の叔母で尼の総管たる大愛道尼が道上でこれに遇い。その衣を披《ひら》き見ると、これはしたり、優陀夷が種々の色※[糸+しんにょう+壬]《いろいと》もて衣の中に男女交会の像を縫いつけおった。路人見て掌《て》を撫《う》つて大笑いせざるなく、かの尼大いに羞じたが、大愛道尼その淫像を持って自分の甥たる仏に示した(『五分律』巻七)。
また仏弟子|迦留陀夷《かるだい》、波斯匿王《はしのくおう》の宮中に入りし時、王、末利《まり》夫人と昼日共に眠れり。夫人、迦留陀夷入り来たるを見、惶《あわ》てて衣を失し露形し、慙じて蹲《うずくま》りおるを見て、迦留陀夷去る。王、夫人に問う、かの比丘汝の形を見たりや。夫人答う、見るといえども兄弟姉妹と異なるなければこのこと苦しからず、と。迦留陀夷、寺に還り諸比丘に、波斯匿王第一の宝われ今ことごとく見る、と語る。諸比丘それは何宝ぞと問うに、われ末利夫人の形露《はだか》ことごとく見得たり、と答う。仏聞いて僧が内宮に入る十過失を説き、種々こむつかしく結戒した(『十誦律』一八および『四分律』一八)。仏まことに良いところへ気がついたものだが、末利夫人の語を按ずると、そのころ王族の兄弟姉妹が露形して相見るは一向構わなんだらしい。
もっとも『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』一一板、服装《コスチユーム》の条にも見える通り、欧州人が居常《いつも》ちょっと足を出しても嫌うに、宴会に肩から胸を露わして他人と抱き合うて跳《は》ね舞わるを盛事とする。また田辺辺で、吾輩《われら》十二時を五分でも過ぎて芸妓と同席しようものならたちまちちょっと来いと拘引だが、一県風教の元締めたる県庁のお役人や神職取締りがござると、芸妓を下女の風《なり》に仕立てさせて終夜《よもすがら》高尚極まる感化を授けたまう。前年、吾輩|草莽《そうもう》の微臣さえ昼夜戦慄して成行きを気遣うた、ある大事件を調べに来た東京より派出のお役人も、宋の陸秀夫が崖山《がいざん》の戦殲前《せんせんぜん》に『大学』を船中で講じた度胸で、かかる大事件前にも綽々余裕あるところを示さんとてか、例の芸妓を下女に仕立てさせて雲雨正に酣《さかん》な隣室に酔うて臥しあった人が、あまりの騒動に起きて逃げ来たり話された。文明をもって誇る欧米、忠孝無双自慢のわが邦さえこの通りだから、古インドのことなどは、捨置《すてお》け放置《ほつと》け、チャッチャンチャンリンかもしれぬ。しかし、(290)お役人など、いつ蚰蜒《げじげじ》が降り来るとも分からぬに、あまり下女を行《や》り散らすと穏婆様《とりあげばあさん》呼んで来《こ》かの難に遭うから、老婆心で注意し奉りおく。
それから怪しからぬは、仏在世に波羅奈城《はらなじよう》の長者子|阿逸多《あいつた》、その母に婬慝《いんとく》し、これを覆《かく》さんとて父を殺し、その後母が外人《よそのひと》と通ずるを怒って母をも殺し、相識れる阿羅漢がこれを知れるを愧《は》じてこれをも殺し、祇園精舎《ぎおんしようじや》に詣《いた》って出家を求めたが、三逆罪を犯した者ゆえ出家を拒まれた。ますます瞋《いか》って僧坊を焚《や》き人死《ひとじに》多し。のち王舎城で仏に会い説法を聴くにつけて、重罪|漸々《ようやく》軽微《うすら》ぎ得道した(『大般涅槃経』一九)。仏の眼前にさえ、こんな無法者があった。して見ると、仏に劣ること万々たる今日|当職《とうしよく》のお役人などは、よほど注意して品行を慎み、悪い手本を示さぬように願いたい、とある官吏に語ると、汝《きさま》は時世を知らぬ迂人《ばかもの》だ、仏が説法し尽してすらそんな者が出るを免れない、仏ほどの誠意なき政府や地方庁の小働きする吾輩《われら》が何程《どんなに》拮据《ほねおつた》って何がなるものか、特種部落へ料理屋から取り寄せた御馳走食いに往つて感化して食物まで改良させたとか、古社を漬して跡へ女郎屋を立てさせて有税地が殖えたとか、旧《ふる》い神林を伐らせたり立派な畑を潰して柴を植えさせたり、猫の限玉同様毎日|異《かわ》ったことを遣り通させて地方を改良したと啌《うそ》さえ書き上ぐれば、それが統計表に出て実際のことにお構いなくお上《かみ》の受けが善いと、当代の維摩居士《ゆいまこじ》と土宜《どぎ》法竜が舌を捲いた南方先生を何の苦もなく凹《へこ》ませたは、日本一の模範お役人と呆れながら讃めておく。こんな奴が十年も立つと大臣になるのじゃろ。さて、かくのごとく仏在日すでに乱倫極まる大逆人があったのみならず、『陀羅尼雑集』九によると、仏前生|迦倫羅《かりんら》国の商客《あきゆうど》たり、母を愛して父を殺し、のち悔いて出家し、三十七年のあいだ泣き続けたが、集法悦捨苦陀羅尼《しゆうほうえつしやくくだらに》を感得して罪を除いた、とあって永々しくその陀羅尼を載せおるが、母を婬し父を殺した人でなければ要用《ようじ》ない物ゆえ、ここに略する。
上に述べた通り、インドにはずいぶん親族姦の例が多いが、最も名高く最も興味あるこの種の因果物語は青蓮女《せいれんによ》の伝を白眉とする。その物語を述ぶる前に、ちょっとそのうちの一段に似た話を序《の》べおこう。
(291) 『今昔物語』巻三一、「湛慶阿闍梨《たんけいあじやり》、還俗《げんぞく》して高向公輔《たかむこのきんすけ》となりし語《こと》、第三」にいわく、今はむかし某帝の御代に湛慶阿闍梨とて慈覚大師の弟子で真言の法を極め、内外《ないげ》の文道に通じ、芸道を究めた僧あった。忠仁公|不例《ふれい》のおり召されて祈?がよく利き病|愈《い》えたが、今しばらくここに候えとて留め置かるるうち、若き美女が給侍《きゆうじ》に出た。これを見て堪えがたかったので互いに契り始《そ》めて女色に堕落した。その後隠すとすれど、誰も彼も知ることになった。この前、湛慶|懃《ねんご》ろに不動明王に仕えた時、不動尊夢の中に告げて宣《のたま》わく、汝もっぱらわれを憑《たの》むから、われも汝を護り遣ろう、ただし汝前生の縁によって某の国某の郡の某なる者の娘に落とされ、夫妻《みようと》となるに定まりおる、と告げ給うと見て覚めた。われ何の故にか女に落とさるべき、われその女を捜《さぐ》り出し、殺して後日の患《うれ》いを除くべしと思い定めて修行の似《ふり》してそこへ尋ね行くと、まことにその家あり。その家へ行って伺《のぞ》くと、十歳ばかりな美しい女児が庭に走り出て遊び行《あり》く。湛慶その家より下女が出るを俟《ま》って問うと、かの小女《こむすめ》はこの殿の独り娘です、と答えた。次の日行って南面の庭におると、昨日通り女児出で来たり遊ぶところを走《は》せ寄って女児を捕え、頸を掻き斬ったが知る人がない。はるかに逃げ去って京に帰る。安心して修行しおりたるに、ふと忠仁公の内で思い掛けぬ女に堕落した。不動尊が先年夢に告げたまうた女は殺してしまう、今別にこの女に落とされたは奇的烈《きてれつ》、と自分の不謹慎を外《よそ》にしてひたすら女の素性を訝《いぶか》りおったが、ある夜この女と倶臥《ともね》してその頸を捜ると大疵あって灸《や》き綴った跡だった。
湛慶その所由《いわれ》を問うと、女いわく、妾《あたし》は某国某という者の娘だが、幼《ちいさ》い時家の庭に遊びおると知らぬ者が出て来て頸を掻き斬った。のちに家人が見つけて?《さわ》いだが、行方知れずで止めた。その時切口を灸き綴って切られの与三《よさ》じゃないが、不思議に命が助かった。それから事の縁《ゆかり》あってこの殿へ奉公に出ました、と聞いて吃驚《びつくり》湛慶阿闍梨、さては不動尊の示現《じげん》が違《たが》わなんだ、よくよく深い縁あればこそ切るに切られぬ切口の綴《つな》ぎ合わせとは故事《こじ》つけだが、必ず見捨てまいぞえ、見捨てるなと、これらは原文にはないが、原文ことのほか下手に書いておるゆえ、熊楠が入言《いれこと》しおく、女も哀れに思うて永き夫妻となった。忠仁公聞こし召して、湛慶ほどの名僧が濫行に落ちたのは南方先生ほどの聖人(292)が時々大飲みすると双《なら》んで遺憾じゃ、しかし内外道を極めた者をいたずらに棄つべきでない、速やかに還俗して公けに仕えるべしと定《じよう》あって、還俗して公輔と名づく。本姓は高向《たかむこ》という妙な姓だ。すなわち五品に叙して奉公し、高太夫《こうたゆう》と通称す。ついに讃岐守《さぬきのかみ》に任じて家いよいよ豊かに繁昌した。この人還俗後も真言の密法を精《くわ》しく知りおったので、極楽寺という寺に木像の両界の曼陀羅の像があった、金剛界が千四百六十一、胎蔵界が四百十一尊ある、久しく諸尊の座位|違《たが》うてもろもろの真言僧が直しかねた。高太夫これを聞いて尻軽く走り向かい、楚《むち》を執って、この仏はここに御《おわ》せ、かの仏はそれに御せと指すに従って、仏たち人も手も触れぬに踊って楚の指すところに行って座つたのを、見物の群集これはロハで面白い手品を拝見しますと泣く泣く貴んだということじゃ。
右少々|啌《うそ》も雑《まじ》っておるが、大正二年十一月四日昼飯食ったきり目痛きを忍んで、只今夜九時まで書き続けた空腹愈《すきばらいや》しに入れたんで、別に大意に差し障らぬ上に読むと面白いから善根功徳になる。
三 前世の悪業によって五百賊に合うた美人の仏教譚
前号のこの篇(二)の末に引いた、湛慶阿闍梨が不動尊の夢告《ゆめつげ》により、おのれを堕とすべき女の幼時忍び入ってその女児《こむすめ》を害し、後年忠仁公の邸で美女に堕落し一夜|倶臥《ともね》のおり、その頸の庇を見出でて由来を聞くと、果たしてその女が往日《さきのひ》自分に頸を掻き斬られた女児の復活《いきもど》ったのだったという譚は、『今昔物語』を大分改変して出した井沢長秀が註したごとく、唐の韋固《いこ》の伝より作り出した物であろう。
すなわち『続幽怪録』にいわく、唐の韋固、婚を求めて宋城の店《はたご》に宿《とま》りしに、客あって議すらく、潘昉《はんぼう》が女《むすめ》は明旦《あす》隆興寺の門《かど》で期約すべし、と。韋固行き見れば、老人|布嚢《ぬのぷくろ》に倚って階に坐して月に向かい書を見る。韋固立ち寄りて、何の書ぞと問う。老人これは天下婚姻の書だと答う。嚢中を問うに、答えて赤繩子《あかきひも》あり、男女の足に繋げば讐敵《かたき》同土(293)でも遁《のが》れず必ず婚すべし、と言う。固、われ潘昉が女を娶らんと思うが事成るべしや、と問う。老人いう、汝の婦《つま》は今わずかに三歳《みつ》だ、十七になって君が門に入るべし、と、固その女の所在《ありか》を問うと、老人、店北の市に菜を売る嫗《ばば》の女だ、と教えた。夜明けて老人固を市に誘《つ》れ行き嫗が女|甚《いと》醜《みにく》きを抱けるを指し、これだと示してたちまち消え失せる。固あんな醜《みぐるし》き女を娶るとは情ないと思案の末、一奴《あるやつこ》に万銭を与うべしと約して、かの女児《こむすめ》を刺さしむ。明日《あけのひ》奴市に行き、かの嫗が抱いた女児を刺して去つたが、一命に障《さわ》りなく眉に創《きず》ついたばかりだった。十四年経って、相州の太守王泰その女《むすめ》を韋固に嫁す。常に眉間《みけん》に花鈿《はなぼたん》を貼《ちよう》じ、容色無類だ。年ごろ相馴れてのち問うと、妾《わたし》は王泰の養女で父は宋城の宰だった、父死後乳母に養われ市に出て菜を売り活計《くらし》とした、一日《あるひ》賊来たって刺したが眉を傷つけたばかり命に別条なかった、泰妾を哀れんで養女とした、と言った。それから韋固が不思議の老人に遇うた店《はたご》を定婚店と名づけた、とある。
結縁神《えんむすびのかみ》を月老また月下老と呼ぶはこれによる。また媒人《なこうど》を氷人と言うのは、晋の令狐策という男、氷上に立って氷下の人と語ると夢み、何のことか解らぬところへ友人|索?《さくたん》来たって解いていわく、氷上は陽で男だ、氷下は陰で女だ、君氷上にありて氷下の人と語つたと夢みたは男のために女と語ったんで、君が人に媒を頼まれ相談調うて春氷が?《と》けて目出度《めでた》く婚姻が済む占《うら》でござる、と。果たして太守田豹その子のために令狐策を媒として張氏の女を求め、仲春氷?けて婚成った(『淵鑑類函』一七五)。この二つの故事を合わせて媒人を月下氷人と言うんだ。また月老赤繩子《むすぷのかみあかいひも》で夫婦の縁を結ぶとあるゆえ、夫婦の縁を赤繩子と呼び、「えんのいと」など訓《よ》むのじゃ。
本邦にも『俊頼口伝集』上にいわく、「東路《あづまぢ》の道の奥なる常陸帯《ひたちおび》かくばかりにも逢はんとぞ思ふ。こは常陸国に鹿島明神と申す神の祭の日、女の懸想人《けそうびと》数多《あまた》ある時に、その名どもを布帯に書き集めて神の御前《おまえ》に置くなり。それが中に夫とすべき男の名書きたる帯のおのずから裏返るなり。それ撰《よ》り取りて禰宜《ねぎ》が得させたるを、女みて左《さ》もと思う男の名ある帯なれば、やがて御前に懸帯のように被《かず》くなり。それを聞きて男|歎《かこ》ち掛けて親しくなるなり。たとえば占い(294)などするようなることなり」。帝国書院刊本、天野信黄の『塩尻』巻六五に、「伊行《これゆき》の歌、『解けやらぬ人の心は辛《つら》からで結《むすぶ》の神を恨みつるかな』。公朝の歌、『衣手《ころもで》の常陸《ひたち》の神の誓ひにて人の妻をも結ぶなりけり』。『草芥和言集』常陸帯の条下にいわく、常陸国には男女の中《なか》らいを占わんとては苧《お》という物を帯にして、一つには懸想する男の名を書き、一つにはわが名を書きて、鹿島の神の御前にて祝詞《のつと》を申して帯を折り返して名をば隠して末を禰宜に結ばするなり。それを悪《わろ》かるべき中らいは、離れに結ばれ、善かるべきは掛帯《かけおび》のように円《まろ》に結び維《つな》がるるを、さもと思うようの男なれば、やがて掛帯のように打ちかけつと、云々。これわが国往古婚を成し侍るに、神に占うてその縁を定むる風俗なり。されど公朝の歌、人の妻をも結ぶと言うは、不貞不義のことも野俗の習わしにありしにや。濃州|垂井《たるい》の駅にや、結明神《むすぷのみようじん》あり、俗伝に小栗《おぐり》が故事なんど言うは甚《いと》卑しげなり。それむすぷの神とは、産霊《むすぶ》の字を用いておよそ生物《いきもの》の始気《はじめのき》を崇む。男女の婚合《まぐわい》も万世《よろずよ》の始めなれば、産霊の神に占うと言うはその謂《いわ》れなきにしもあらず」とむつかしく論じおる。
何に致せ、常陸帯の一件は今日その詳しきを知ることならぬが、人が帯と帯を結び合わせて善く結ばれた帯の持主同士男女を夫妻と定めたので、今時|神鬮《みくじ》を伺うようなこと、したがって月下老《むすぶのかみ》が赤繩子《あかきひも》で夫婦の縁ある男女を結び維《つな》ぐという支那説とは別だ。公朝の歌の意《こころ》、特に既婚の他妻《ひとづま》をも神意《かみのこころ》で帯が善く結ばれさえすれば犯すも咎《とが》めなしといったように『塩尻』に論《あげつら》いあるは、固《こ》なるかな信景が詩を解くや、と難ぜざるをえない。これはただ鹿島の神の誓いで人々の妻を夫と結び定めたまう、さてさて有難い、粋《すい》な神様じゃと敬讃したのに違いなかろう。
外国にも似た例が多いが、支那の例一つだけ挙げんに、『山堂肆考』に、唐の宰相張嘉貞、五女《ごにんむすめ》におのおの一糸を持って縵後《のれんのかげ》にあらしめ、郭元振して前《すす》んで牽きえた者を妻《めと》らしめると、五色の糸のうち紅線《べにのすじ》を引いて第三女を得た、とある。福引で嫁取りとは捌《さば》けた仕方だ。必竟元振が堂々たる人物で、張宰相の娘もいずれ劣りなく五人とも才色双全かれもこれも捨てがたい標致《きりよう》だったから、手早く福引で決定《けつじよう》したのだろ。本邦にも女郎や?童を鬮取《くじと》りにした(295)ことがしばしば西鶴や自笑もの本に載っておる。半可通輩が文体が|温謹《おんきん》にして些《ちと》の淫辞なしと崇むる米国の文豪ワシントン・アーヴィングの『旅人譚《テイルス・オヴ・トラヴエラース》』の第三篇「若き強盗の自白」に、山賊|輩《ども》十六歳の処女《おとめ》を鬮取りて凌辱し輪《まわ》り、さて親元から贖《あがない》を納《い》れぬと刺し殺すところを詳述しある。かかる物を傑作など賞美する西洋人の気が知れぬ。
明治四十一年六月の『早稲田文学』六四頁にちょっと記しおいたごとく、唐の韋固が月下老人より自分の妻たるべき女を知りえた譚の類話が、一八九四年板、バートン訳『アラビア夜譚拾遺』巻一にある。少々稽固《けいこ》して近所の寺で和尚代りに演《や》つたら安酒《ビール》二十本ぐらいにきつとなる面白い談《はなし》だが、近来禁酒だから大意を無代価《ただもんめ》で述べるとこうだ。
むかしアラビアで主婦《かみさん》が月盈ちて女の児を生む時、ジンといって嬰児を悩ます鬼を防ぐため火を隣家《となり》へ求めに僕を遣った。僕が火を求め歩《あり》く途端、女占者《おんなうらない》に遇うと、お前の主人の子が今生まれたらしいが男か女かと問うから、女だと対《こた》えた。女占者即座に、気の毒かな、その子成長して百人の男に婬を売り、次に只今その子の家に奉公しおる僕の妻となって、終《しまい》に蜘蛛に殺さるることよ、と言うた。僕これを聞いて、今その家の奉公人とては自分ばかりだ、百人に売婬した古釜《ふるがま》を戴くも気が利《き》かねえと憂いて一計を案出し、直《じき》に家に帰って今生まれた女児《こむすめ》を奪い取り腹を割《さ》いて逐電《ちくてん》し、二十年|経《た》って金を儲けて故郷へ帰ると、むかし見た人々の跡方もない。一人|住《ずま》いも如何《いかが》ゆえ、ある老婆《ばばあ》に金多く遣って当分懸かり合うべき売女を求めると、ちょうどこの辺に名高い奴があるとて、往つて懸け合いくれたが、女、もはや売婬は止めた、是非にとならば正妻にして欲しい、と答えた。様子を聞くと無双の美女なり。また売婬を罷《や》めて正妻になりたいとの望みも怜《いたいけ》なり。すなわち妻として相愛すること至れり。
久しく棲《す》んでのち、一日《あるひ》夫その妻の腹に瘢《きずあと》あるを不審し尋ぬると、妻いわく、自分生まれた時のことゆえ一向覚えぬが、亡き母に聞いたは、冬の夜|妾《わたし》が生まれる時、僕に火を取りに遣ると少《しばら》くして帰り来て、何故《なぜ》とは知らず、妾を奪い取り腹を割いて行方《ゆきがた》知れずなりました。とても助からぬと見ながら母の情で創《きず》を縫い合わせ養育するうち、創(296)合うて瘢《あと》のみこの通り残ったとやら、と答えた。なお尋ねて見ると、父母の名、自分の名を明かし、今は双親とも亡くなり、頼りにするは貴君《あなた》ばかりと流涕|滂沱《ぼうだ》たり。そこで天の定めた運命は避くべからずと悟って、われこそ汝《おまえ》の腹を割いて逐電した旧時《むかし》の僕《しもべ》よと告白し、そんな酷《むご》いことをしたのもその時逢うた女占者が云々《しかじか》と語ったからだと打ち明かすと、女も睾丸《きんだま》釣り上がるばかり驚いたが、持合せがないゆえ代りに子宮でも釣り上げただろ。何がさて呆《あき》るること半?《はんとき》ばかりで、まことに運星は争われぬ物、仇《あだ》し仇浪《あだなみ》浅妻船《あさづまぶね》の浅猿《あさまし》や、エヘンエヘン、「わが恋は行衛《ゆくへ》も知らず果てもなし、逢ふを限りと思ふばかりぞ」。そもそも上頭《みずあげ》の始めより十や二十のことかいなあ、心柄《こころがら》とは言いながら浮きたる船に乗せ掛けて一日も波に沾《ぬ》れぬ日ぞ、内々取った嫖客《おきやく》の数がちょうど百人|御座《ござ》るてや、思えば思えばその時に今些《もちつ》と大事の急所をば、いっそ奥深う突いてくれたなら、妾ゃ死にます死にます死んだはず、いつの世いかなる報いにてかく交わしたる枕の数々憐れみたまえとばかりにて声を放って哭《なげ》きける。
倩《つくづく》聴きおった夫が心中|最《いと》心元《こころもと》なかつたは、かの女占者の言《ことば》が、百人に売婬したのと生まれた時ただ一《ひとり》の奉公人だった自分の妻となったまで、この女の成行きに聢《ちやん》と合っている。一つ残るは蜘蛛に殺さるる一件だ、なろうことなら免《のが》れさせたいと、南方君同然なかなか妻に孝行な男で、態々《わざわざ》市外へ石と煉土《ねりつち》で堅固な宅を建て、蚤一疋入らぬよう内部を漆喰《しっくい》で塗り詰めたゆえ、蜘蛛の来るべき隙《すきま》もなし。加之《おまけに》二人の婢《こしもと》を置いて不断拭き掃除して蜘蛛を防がせた。それに夫婦永く住んで無事だつたが、一日《あるひ》どこからともなく天井に蜘蛛一つおるを夫が見つけると、妻これこそ妾の命取るべき敵《かたき》だ、先んずれば蜘妹を制す、何分妾が手ずから殺し遣ろうと敦圉《いきま》くを、夫制すれど聞き入れず、木片《きぎれ》を取って蜘蛛を打つ力余って木片折れ飛び、その屑が妻の手に刺《た》ち、手から腎《ひじ》、それから体、それから心臓まで腫れ及ぼして死んだとは、何と生まれる時から人の運命は定まった証拠でないか、と書いておる。
このアラビア譚と韋固の支那話とどれが古くできたか分からぬが、前回述べた湛慶阿闍梨の日本談は韋固の話から作り替えたものとしか見えぬ。
(297) 熊楠、五年前の『早稲田文学』六月号で注意しおいた通り、『今昔物語』巻二六の一九、東《あずま》に下る者、宿《とま》った家の主婦《かみさん》その夜急に子を産む。時にこの旅人の側《そば》を通って長《たけ》八尺ばかりの鬼が外へ出樣《でさま》に、年は八歳《やつつ》死様《しにざま》は自害、と言って去った。人に語《つ》げずに暁《あけ》疾《と》く出でて国に下って、九年目に返り上る途中、その家を憶いだしてまた宿《とま》り、前年宿った時生まれた子はどうなったかと尋ねると、主婦泣いて、糸《いと》清気《きよげ》な男児《おのこ》だったが、去年八歳で高い木に登って枝を切るうち木から落馬して鎌を頭に立てて死んだ、と語る。よって前年鬼が予言した子細を話してますます泣いた、とある。
西鶴の『男色大鑑』七に、道頓堀の楊枝屋の悴生まれた夜、文殊菩薩、地蔵尊に、この子のち芸子《げいこ》になって盛えるが十八歳の正月二日の曙に自殺のはず、と告ぐるを立ち聞いた旅人が往つて見ると、果たしてかの家に美しき男児《おのこ》生まれあり。のち戸川早之丞とて名高き若衆方役者となったが、義理に詰まって文殊の予言の通り十八歳の正月二日自殺した、と出でたるは同じ趣きだ。
また『根本説一切有部毘奈耶雑事』二五に、妙光女、長者の家に生まれた時、相師《にんそうみ》その後ついに五百男子と行欲すべきを言う。妙齢に及んで威光挺特、挙世無双、久米仙は更なり、南方の熊僊《くません》も通力を失うほどの美人だった。しかるに相師の予言を嫌うて満足な家から望まれぬ。時に室羅伐《スラバスチ》城に殺婦《つまころし》という富人あり。七度まで妻を娶るに、続いてみな死す。婬女《じよろう》や寡婦《ごけ》を求めても応ずる者なし。よって妙光女を迎えて妻とし、かの予言を虞《おもんばか》つて家中に鎖閉《とじこめ》て、家風だからとて仏僧を供養するほか一切他人と相面《あいあ》わざらしむ。ある日、長者用事あって出た途中、僧に逢い、拙《やつがれ》は数日|不在《るす》となるが妻が内にある、情願《どうぞ》平日通り昼食に来て下され、と頼んで旅立った。僧輩《ぼうずども》、例のごとく食《じき》を受けに来ると、そのうち好男《よいおとこ》の僧の前で妙光女が姿態《しな》を現《つく》つて嬌媚《おかし》な相《つき》を作《な》す。僧輩寺に還って、さあ大変だ、あんな家へ亭主の不在《るす》に往ってはどんな椿事が起こるもしれぬ、以後往かぬことにしょうと議定して全く跡を絶った。長者帰(298)ってこのことを聞き、覿然《てつきり》妻が色仕懸けを始めたのだと気づいて寺に往き、かように妻の落度のため御一同《ごいつとう》今さら足を停められては外聞|宜《よろ》しからぬ、何卒《どうぞ》従前ごとく来臨をと望むので、僧輩また来て供養を受けた。長者、妻がまた無礼をなすを気遣い、自分僧に食を供うるあいだ妙光女を一室に密閉す。妙光女室内で某甲聖者《あのおつさん》は如是足端《あんなあしつき》、如是腰背《あんなこしせなか》、胸頭面目乃至頭頂《むねあたまかおめつきないしあたまのてっぺんのなり》と繋念分別《いつしんにしなさだめ》して、すなわち極重愛染を《ごくじゆうあいぜん》生じ、ついに欲火に内外焼き燃やされ、遍体《へんたい》汗流れ奄《おお》い命過《しんてしまつ》た。長者、僧を供養しおわり室に入って見ると、事切れたり。やむをえず日晩《ひぐれ》に五色の毛氈《もうせん》で妙光女の屍《しかばね》を裹《つつ》み林中に葬るところへ、卒《にわか》に五百群賊襲い来たるゆえ、諸親葬を停《や》め屍を捨てて城に入り防ぎ守る。諸賊、葬具の荘厳《りつばさ》を見怪しんで往って観、衣を去って妙光女の体を見ると、神亡《たましいな》しといえども儼然活《れつきとい》けるごとし、その容貌《すがた》を観るに平生に異ならず。共に相謂っていわく、この女の妍華昔《うつくしさかつて》いまだ見ざるところ、縦令《たとい》遠く覓《もと》むるも此類難求《またとたぐいなし》、おのおの染心《ぜんしん》を起こし、共に非法を行ない五百金銭を斂《おさ》め、側に置いて去った。天暁《よあけ》に及び四遠|聞徹《ひようばん》すらく、妙光死すといえども余骸なお五百人に通じ金銭五百を獲《う》、と。
如来このことを聞いて、妙光の因果を説く、むかし人寿二万歳の時、迦葉《かしよう》如来、婆羅尼斯《ばらにし》城に出で教化|畢《おわ》って入滅せしを、吉栗枳王《きりきおう》と諸人火葬し、舎利を収めて高塔を立つ。居士の女《むすめ》あり、塔を見て渇仰し明鏡《かがみ》を奉りて塔の相輪中に繋ぎ発願《ほつがん》すらく、われこの功徳をもって来世|所在生処《どこにうまれても》光明|照耀《かがやき》、日光のごときがわが身より出ずべし、と。この因縁によりかの女世々美女に生まれて身より妙光を出だす、これが妙光女と今も生まれたんだ。梵授王《ぼんじゆおう》の時、業因によって婬女と生まれ、賢善と名づく。顔容端正《かおかたちうるわしく》、人楽しみ見るところたり。王の親舅《しゆうと》と先与交通《かねてかかりあい》せり。時に五百の牧牛人《うしかい》が公園中に遊び、まことに今日は面白いが、別嬪ないが闕陥《ことかけ》だ、と言う。誰を招《よ》ぼうかと議すると、賢善女に限ると決し、往って請うと、金銭千文をくれるなら行こう、と言う。牧牛人いわく、まず五百銭を輪《わた》し、歓戯|罷《おわ》ってさらに五百銭を済まさん、と。賢者承諾し、まず五百金銭を受け、厳飾《よそおい》して往くからまず往って公園で待っておれと言うゆえ、牧牛人去る。賢善女熟慮するに、五百人という多勢に身を任せては生命《いのち》が覚束《おぼつか》ない、もし往かねは破約で数(299)倍の罰金を取られる。何とか免《のが》れ様《よう》のありそうなものと、かつて王の舅と得意《こころやす》かったのを憶いだし、婢《ひ》を王の舅に遣わし説いて、王の力により婬女ついに公園に往って五百の牧牛人と遊ばず、五百金銭を留めて還さずに事済んだ。そのころ辟支仏《びやくしぶつ》あって城中へ来る。五百の牧牛人これを供養し、この善根をもって願わくは賢善女と楽しまん、縦令《たとい》かの女身死すとも約束の千銭のうち五百銭は既済《すんだ》ゆえ、残る五百銭さえ渡さば必ずかの女と交通せんと発願した。刺《よ》せば善いのに舌切雀、さしも前世の功力《くりき》で無上の美女と尊ばれた賢善が、慾と色との両天秤で牧牛人を担《かつ》いだ悪戯《いたずら》の宿業で、死中諸流転を受け五百生内常に五百銭を与《く》れてかの牧牛輩の後身《うまれかわり》に非法を行なわるるのじゃ。何と因果の勘定は現銀|至極《しごく》で、酒屋の払いが善いからと言って炭屋に借りた物を払わずに済まぬ。何に致せ、妙光女ごとき婬乱な女の宅へ食《じき》を受けに行ったので、こんな騒動も持ち上がったんじゃと、如来広長舌を振るった末、妖媚《なまめかし》く容姿《しな》を作る女ばかりの処へ出懸けて過失《あやまち》を生ずる僧を越法罪と結戒したまうた。『十誦律』には、妙光女死して婬念なお已《や》まず、婬竜となった、とある。
清姫の譚《はなし》など、これに基づいたものか。本文に引いたアラビア譚にこれらの話の趣きを数種綜合しおるは、古話学者《ストリオロジスツ》が東亜と西亜の古話の伝統を論ずるに熟考を要すること、と注意しおく。
仏教の三蔵中、業因のため知らずに乱倫に累《かか》り一家の系図紛乱の極に達した話は、青蓮華比丘尼に止まる。この尼の伝の初方《はじめつかた》に、自分が生んだ女児《むすめ》に自分が傷をつけて家を立ち退いたが、後年その疵痕に便《たよ》って親子と判ったことがある。最《いと》古く書き留められた譚が必ず最も古く行なわれた物ならんには、日本、支那、アラビアその他に行なわれたこの種の諸話は、多少この青蓮華尼伝によって作られた物と言いうるはずと考えて、混雑の起こらぬようまず如上の諸類話をのべた次第である。
これからいよいよ主として唐三蔵法師義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』巻四九を経《たて》とし、七年前出板ラルストン英(300)訳、シェフネルの『西蔵諸談《チベタン・テイルス》』第一〇章を参取して、少々手製の滑稽《おどけ》を雑《まじ》え、本伝に取り懸かると口上|左様《さよう》。むかし釈尊、王舎城竹林園中に在《おわ》せし時、得叉尸羅《たくしやしら》城に長者あり、妻を娶って久しからぬに一女を生めり。身に三徳を具うること青蓮華のごとし、一には身黄金色で、なお華鬘《けまん》のごとし、二には眼紺青色で華葉《はなびら》のごとし、三には香気|氛馥《ふんいく》、なお幸香《けこう》のごとし、とある。青蓮華、梵名ウトパラ、唐で※[口+媼の旁]鉢羅華《うばらげ》と訳し、また音義兼訳して青※[口+媼の旁]鉢羅華《しよううばらげ》とす。「頼光《らいこう》よりみつの穴《けつ》の穴《あな》」と言うごとき重言《じゆうごん》だが、意が善く解るように念を入れたのだ。
一体、蓮はインド固有の物でわが国や支那にあるのはインドから伝えたのかと思う。とにかく蓮はインドで上古から人の目を惹き、したがってその色香に愛《め》でて早く培養し、いろいろと変種も出で諸仏の印相として仏徒に尊ばれ、今のヒンズー教人も毘紐天《ヴイシユニユ》の印相とし、またその妻カマラ(蓮のごとしの義)の愛物としてこれを重んず。仏教にも、しばしば蓮を美女に諭《たと》え、真言宗には、女陰を紅蓮に比《たぐ》えたところが多い。エジプトでも、最初創生の神レガヌン大海に泛《うか》んだ蓮花から生まれたという(『大英類典』九巻五一頁)。蓮と女陰崇拝の関係は、一八七五年ニューヨーク再板、ウェストロップおよびウェークの『古代印号崇拝《アンシアント・シムボル・ウオーシツプ》』を見て明らめよ。仏経に種々蓮を分別して、分陀利《ブンダリカ》(満開白蓮)、迦摩羅《カマラ》(半開白蓮)、屈摩羅《クマラ》(未開白蓮)、鉢特摩《パドマ》(紅蓮)、摩 詞鉢特摩《マハパドマ》(大紅蓮)、拘勿投《クムダン》(黄蓮華)等ある(趙宋普潤大師法雲編『翻訳名義集』八)。このうち、紅白の二種が日本にも見る通り本当の蓮で、黄蓮花は然らず、蓮と同類別属|睡蓮《ひつじぐさ》の一種だ。
しかるに珍なことには、極楽の絵の通りの黄金色の花咲く真《まこと》の蓮が西半球にある。故矢田部良吉博士の遺著『日本植物篇』一の一〇七頁に、黄蓮花《おうれんげ》は西インド島にのみ生ずるよう書きあるは、弘法にも筆の謬《あやま》りで、米国東部に多い。二十三年前、予、埼玉県人飯島義太郎という大学生とヒューロン河を溯り、湖水様な広所《ひろみ》に出ると満目金黄の蓮の花で?《うず》まりおったんで、「極楽の前を流るる阿弥陀川、蓮《はちす》の外に異草《ことくさ》もなし」と桜井基俊が手製の歌を証として宗祇を凹ませたというが、米国人には河に蓮を詠んだつて怪しまれぬことと感心したが、腹は空《へ》る、極楽往生にはよほど早過(301)ぎる。今少し娑婆《しやば》で罪業を積むが面白いと合点して引き返したことである。高野の御廟《みびよう》前の瓶に投《さ》した金被《きんきせ》の蓮を大層なことに言うが、右のヒューロン河へ往って御覧、それはそれは真《ほん》に壮観だ。本邦の仏徒も奮発して彼所《かしこ》を買い占め、嬉鬘歌舞《けまんかぶ》の活菩薩《いきぼさつ》を伴れ行いて正真《ほんとう》の極楽座を開業すると、女好きの米人はみな仏に帰するだろ。
さて本伝に関係もっとも厚き※[口+媼の旁]鉢羅《うばら》(正しく言うとウトパラ)すなわち青蓮華は、学名ニムフェア・ケルレアで、これも睡蓮属に隷《つ》き本当の蓮属の種でない。下エジプトとインドの信度《シンド》辺に自生す。むかしはエジプトでこれを神草と尊んで盛んに培《う》えたそうだ。至って優美な花ゆえ、仏や美人の限相《めつき》をこの花に喩えた文が多い。支那にはない物らしい。山岡明阿の『類聚名物考』二六に、仏眼を青蓮花に喩えしは花弁《はなびら》にはあらず、天竺に細葉《ほそば》の蓮あり、その葉の形狭く長くして、下の方少しく丸く、上方ようやく広し、その形の仏の眼に似たれば喩えて言うなり、目頭の方は丸くて目尻の方細く長きを言うなりとて、『新訳華厳音義』を引き、「その葉狭く長くして、下に近きは小《やや》円《まる》く、上はようやく央《ひろ》し。仏の限これに似たれば、経に多く喩えとなす。その葉蓮に似て、稍《すこ》しく刺《はり》あるなり」とあるが、蓮属にも睡蓮属にも狭長い葉あるを聞かぬ。すでに上に引いた本文にも、青蓮女の眼紺青色で華葉《はなびら》のごとし、とある。葉とは常の葉でなく華葉すなわち花弁に相違ない。さて、下に「その葉蓮に似て、稍《すこ》しく刺《はり》あるなり」とは花苞《はなぶさ》外に刺《はり》あるを指したんだろ。しからば『華厳音義』に青蓮華に宛てたのは、日本、支那、インドに産する?《みずぷき》、俗に鬼蓮《おにばす》のことだろ。これは蓮科ながら蓮や睡蓮と別属のもので、紫花を開く。東国には少ない物と見えて、往年山師が不忍池中へ少々植えて花咲いた時、豊年の徴《しるし》に紫の蓮が出たと吹き廻り、賃船《ちんぶね》で渡し観せて儲けた、と聞いた。河内、和泉、紀州の和歌山より東北に多いが、それより南には一向見えぬ。浜寺公園宮武氏邸に近い小池にもある。よって『不二新聞』の景気添えに蕃殖《はびこら》せて、その実を支那で鶏頭、雁頭など呼び食らうから、餅でも作って配《くば》ったら佳かろう。ただし、鶏頭餅では毛唐持ちと聞こえ、雁頭餅《かりくびもち》では鄙猥《みだら》に近いから考え物かね。
青蓮華の講釈によほど暇取って本伝を忘れそうゆえ、また発端から遣り直す。インドの得叉尸羅《たくしやしら》城の長者、妻を娶(302)り、久しからずして青蓮華同然の三徳すなわち黄金色《きんいろ》の身《からだ》、紺青の限、蓬車の香気を具えた女《むすめ》を生んだ、二十一日めにインドの風習《ならわし》のまま親族集まり議して青蓮華色と名づけた(梵語でウトパラヴァルナ)。一人娘で兄弟《はらから》とてもあらざれば、養子婿取りて家を嗣《つ》がそうと尋ねるうち、同じ城内長者の子が近ごろ両親を喪うて一人住む仁体《じんたい》尋常の者があったので、青蓮華女の婿に取り来て舎《いえ》に入るるとまもなく父は死んだ。母は操正しからぬ者でおいおい独り寝の淋しさに堪えず、と言って他人を引き入るることもならず、間《ま》がな暇がな女婿《むこ》に妙な限つきをして見せると、隴《ろう》を得て蜀《しよく》を望むの劣情から、いつとなく妻の眼を忍んで姑《しゆうとめ》と親しくなった。そのうち青蓮華女、夫の子を孕んで臨産の際に下女して母を招かせた。下女母の室に往つて見ると、母と婿とが私語の最中だから妨げてはどんなお目玉に逢うも知れぬと室外に躊躇した。しばらくして事済んで母立ち出ずるを見て、主婦《かみさん》が貴女《あなた》を俟っておられます、と告げて帰って見れば主婦すでに女子《むすめ》を産んだところで、汝《おまえ》はなぜ運かったかと詰《なじ》る。下女、当惑のあまり、「汝《そなた》の母公《ははぎみ》と尊夫《ごていしゆ》の御中《おんなか》が好くて結構でござります」と対《こた》えた。変な物の言い振りかな、全体何の訳ぞと押し返し問われて、事実をくわしく話したが、青蓮華女、何か下女が意趣あって母と夫を讒誣《ざんぶ》するんだろ、と疑うた。下女|真《まこと》を告げて疑わるるを哀しみ、時節到らば親《みずか》ら見分《けんぷん》なされ、と言った。次回にまた母と夫が室内に籠ったのを見定め、下女が主婦に告げた。主婦往って見ると、あろうことか婿と姑が非法を行ないおる。青蓮女見て怒り心頭より発し以為《おもえら》く、この悪婆はいかに男に事欠いて婿と契るぞ、またこの凶人《わるもの》はどれほど女に事欠いて姑と?《したし》むぞと、無明《むみよう》の業火《ごうか》直上三千丈、何とも堪《こら》え兼ねて夫に向かい、汝悪人今よりのち勝手に姑と何なりとも做《な》せと詈《ののし》りさまに、わずかに生まれて数日なる女児《むすめ》を夫に抛げつけると、見当外れて閾《しきみ》の上に落ち頭を破《わ》って血|迸《ほとばし》る。
青蓮女、今は雪隠《せつちん》の火事で焼糞になり、恥を覆《かく》さんため頭巾を冒《かぶ》り跡をも顧《み》ずに家を出で、心宛てもなく進み行くと、未度《マツラ》城へ向かう商隊に逢い、旅は道伴れ世は情けと入夥《なかまいり》して出で立った。商主、青海女の儀貌端正なるを見、属魂《ぞつこん》恋着して汝《そなた》は誰の妻ぞと問うに、われに夫なし、誰にまれわれに衣食を姶する人の妻となります、これ旦那、と答(303)う。商主大悦びで即座に夫婦となって末度城に著し、商売事済んで自宅に青蓮女を置くこと多年の後、青蓮女に留守を預け、また金を持って商隊を組み、青蓮女の故郷得叉尸羅城に向かう。無事に到著《ゆきつき》て営業中、諸商主交代にこの商主を饗《ちそう》して、吾輩《われら》かく汝《そなた》を饗するになぜ汝は一度も吾輩を饗せぬぞ、と問う。青蓮女の夫答うるよう、卿らいずれも妻を伴れあれば饗応の準備《したく》自在だ、われは妻青蓮女を末度城の宅に留め独り旅ゆえ饗応などできぬ、と言う。諸人《もろびと》、そは不便の仕方だ、商人《あきんど》の例として到る処に妻を設け、かかる便利を謀るが常法だ、卿もこの地に然るべき新妻を迎えおいては如何《いかが》と勧む。青蓮女の夫答うらく、こう言うと諸君を見下すようだが、僕はわが妻青蓮女の外にまた女という物は絶えてなしと思い込みおる。かれの美貌《きりよう》に比べては女の片砕《かたわれ》とすら呼ぶべき女が一人も見えぬ、だからかれの外に一切女を見向く気はない。しかし、万一あれほどの美女が別にあらば特別の思召《おぼしめし》もて嬶《かか》としもしよう、と言った。いかにも自分の妻に惚《のろ》けきった怪しからぬ言い分と一同呆れ、また憤ってそも卿《そなた》の妻はどれほどの標緻《きりよう》ぞと尋ぬると、商主その妻青蓮女の様子を一切|談《かた》り陳《つら》ねた。一同大きに驚き入り、何とそれはこの世界の女じゃなかろう、全く転輪王の玉女宝天下妻君の亀鑑《かがみ》というものであろう、しかし世界は浩蕩として広い、青蓮ほどの美女がまた一人とないにも限らぬ、もし見当たったら伴れ来て差し上げんと誓うて、その場は散じた。
かくて商主あんまりその妻青蓮女を讃め揚げるを悪《にく》く思うて、諸友が懸命になって得叉尸羅城中を捜すと、青蓮女の標緻に少しも違わず、年は彼女《かれ》の娘と言うても通るほど若い黒上《こくじよう》大々吉、加之《おまけ》に一向男知らずの素女《きむすめ》を見出だしたから商主に告げると、そんな甘い詐《うそ》に欺されるものかと笑いながら共に往って見ると、果たして人言《ひとのこと》のごとくだった。商主鼠色の涎《よだれ》を垂らして打ち悦び、何分宜しくと諸友に世話を頼む。話纏まってこの素女を娶って第二の妻とした。さて貨物《たから》を売って金を儲け末度城へ還ったが、はや城近くなるとちょっと要事に行って来るとて岩山の辺に荷物と新妻を置き、一人|空手《からて》で宅へ帰るその姿こそ淋しけれ。留守はことさら女気の、旅商主《たびあきんど》を亭主に持ち、江戸長崎国々へ往かしゃんしたその跡で、一年待てどもまだ見えぬ、実《げ》に商人は利を重んじて別離を軽んず、二年待てどもまだ戻ら(304)ぬ、是奴《こいつ》は情女《いろ》ができたのだろと心配するは、余所《よそ》の嬶どもの不仕合せ。それと異《かわ》って鼻毛で妾《わらわ》を絡まぬばかりの此方《こち》の人に限って露《つゆ》心替りのないは知れたこと、と言うて今度の帰りの遅さ、もしや道中で不測の災難に罹ったのではあるまいかと夫を思う真実心、夜《よ》の眼《め》も合わさで愁いおる。ところへ突然夫が帰る、妻の悦び喩うるに物なく、商売の景況《ようす》を聞くと、今さら権頭《ごんのかみ》を伴れて来たとも言い兼ねて、金は大分儲けたが、今の前《さき》この近くでことごとく賊に奪い取られたと詐《いつわ》り答う。それになぜ疾《と》く追っ懸けたまわぬぞ。夫|報《こた》えていわく、久しく離れていたお前の顔を、一眼三井寺焦がるる胸を和女《そなた》は察して晩《くれ》の鐘だから還って来た、サアこれから追っ懸けようと足を駛《はや》めて出でて往く。
まだ一町も往くまいと思うころ、夫の旧知《しりあい》で今度も夫と同時に戻って来た友人が訪れて、主人《あるじ》はと問う。青蓮女答えて定めて汝《そなた》も知っての通りせっかく長旅して儲けた金を少し前にことごとく奪い取られた、その賊を追うとて只今出て往ったというと、友人大きに笑い出し、和女も人が良過ぎるぜ、ここの主人が今度ほど大儲けで無事に帰ったことはかつてない、全く和女《そなた》ほど貞実な国色《きりようよし》を妻に持ちながら、今度得叉尸羅から若い新妻を伴れて来た、その美《うるわ》しさと言ったらお前ほどの美人が切《せめ》て御側《おそば》の下女なりと、と唄うて足を洗わせ貰おうと願うても、寄り近《つか》れぬほどの尤物《わざもの》だと存分焚きつけて辞し去った。思い懸けなき注進に、青蓮女は黙ったまま茫然として坐しおりたり。しばらくして夫が帰る。青蓮女腹立たしさを涙と共に忍び、盗まれた金は復《かえ》ったかと問うと、天幸《しあわせ》と旨《うま》く取り還して来たと言う。青蓮女は眼も湿《うる》み、夫妻《みようと》の間で何隠さんす、子細は聢《ちやん》と知っておる、金取られたとは真赤な詐《いつわ》り、得叉尸羅から若い女を伴れて来たと確かに聞いておる、遠慮は入らぬ将《つ》れてござれ、嫉妬《りんき》なしに三人ここで住みましょう、諺に二軒の家に住み歩《あり》く男の身代は直《す》ぐ潰れると申します、と折れて出ると、夫大いに痛み入り、まことに虚言《うそ》を吐《つ》いて済まぬことじゃ、だがまた諺に室に両妻あれば水を飲む暇さえなし、と言う。
すでにもって漢の呂后《りよこう》は戚夫人《せきふじん》を妬《ねた》み、その手足を断ち目を去り耳を熏《ふす》べ?薬《おしぐすり》を飲ませ簀巻《すまき》にして、さしも高帝の寵愛を一身に聚めた美人を糞壺《くそつぼ》に投じ、広川王の后《きさき》昭信は王の幸姫《みにいり》陶望卿を焼鉄《やきがね》もて灼き、苦しさのあまり井《いど》に投じ(305)て死したる屍を取り出し、陰中《かくしどころ》に?杙《くいをう》ち込み、支解《きりはな》して毒薬と共に?《おおがま》で煮|靡《ただ》らして見物したと『漢書』に見え、日本ではむかし止事《やんごと》なき高貴の夫人|三人《みたり》まで嫉妬の勢いで巴《は》の字になって組討ちの乱戦を演じ、三目錐《みつめぎり》と異名をつけられ、また加藤|重氏《しげうじ》は妻と妾が双陸《すごろく》して居眠るうち髪が蛇となって?み合うを見て厭になって出家した、と言い伝う。欧州にも紀元六一三年、アウストラシアの美后ブルイニルドが七十三の高齢で仏王クロタール二世の命により三日続けて兵卒や創手《くびきり》に強辱された上馬裂きにして尸《かばね》を焼き棄てられたは、若かつた時嫉妬の争いに事起こり(一八四三年パリ新板『万国人名字書《ビオグラフイー・ウニヴエルサル》』巻六)、十世紀の末近くアキテン公ギロム四世、トワル子爵の城に宿してその夫人と通歓す、公の夫人エンマ妬んで復讐《しかえし》を謀り、子爵夫人の外出に乗じ多勢を率いて包囲し、夫人を馬より落とし、全夜衆をして交替凌辱、身半ば露《あらわ》し疲餓瀕死せしめ、観てもって娯楽とした(ジュフール『鬻靨史《イストワー・ド・ラ・プロスチチユシヨン》』巻三、一八五二年板、二七二頁)。
これらは青蓮女よりずつと後の出来事だから、むろん本伝には出ていない。しかし女の嫉妬《ねたみ》ほど恐るべく慎むべきものはないという教訓のため書き入れたのだ。法螺《ほら》は少しもないから読むと損にならぬのみか、大いに子女の心得になる。また本文唐訳により「室に両妻あらば水を飲む暇さえなし」という諺を出しあるが、シェフネルの『西蔵諸談』には「家に両妻あらば羮汁《あつもの》しばしば冷たし」と訳しおる。律蔵の唐とチベットに伝わった本が大分相差《ちが》うところあるのだ。
この通り女の嫉妬ほど煩《うるさ》い物はまたとない、今この家へ新妻を納れたらきっと?《そなた》とかれと競争不和悪語の断え間とてはあるまいと、こう夫が理を分けて啌《うそ》言うた弁解をしたが、青蓮女はますます柔順《おとな》しくそんなことはお構い遣《や》るな、早うその女を伴れて来なさい、侶《つれ》がなくて毎《いつ》も淋しいもの、その人|妾《わたし》より少し若くば妹と見、ずつと若くば真実娘のように心得て和融《なかよく》一所に暮らしやしようと、心底《しんてい》から親切に望まれて夫も大きに心落ち著き、走《は》せ往いて新妻を伴れて来た。これからいよいよ南方流の艶《つや》も実《み》もある教訓体の妙文で後を書くと飯も雪隠《せつちん》行きも忘れるほど面白くなるん(306)だ。畢竟青蓮女その故郷から来た新婦に遇うていかなる椿譚《ちんだん》をか惹き起こす、そはまた次が号の発行を俟って知りねかし。(未完)
(307) 虎に関する笑話
故サー・リチャード・バートン説に、インド、エジプト、ペルシア、トルコ諸国の史籍に、名君が臣下の忠勤を賞し美人を賜わる例が多いが、くわしく穿鑿《せんさく》すると名前ほどに有難くはない、実はみな一度なり幾多度なり君主の手を経た女を譲られたのだ、とある。欧州にも古え素女権とて君主が民の新婦をみずからまず婚する風あり、後世それが婚姻税に変じた。委細は、一昨年七月十五日の『此花』、僕の「千人切りの話」に見えおる。これとひとしく近ごろは一つの物を二様三様に書き換えて二、三の雑誌へ出し、題号ばかり別に立てて酬金を二重取りし、読者を紿《あざむ》くこと、ちょうど一度手を経た女を素女《きむすめ》と称して臣下に賜わるような仕方の人少なからぬと聞く。よって弁じおくは、僕がここに出す一篇は、故クラウストンの『俗話小説の移化《うつりかわり》』を主とし諸他の書を参考して、特に『不二』雑誌へ出す初物で、決して『太陽』『日本及日本人』等へ出した古釜の蒸返しじゃないから、読者みな安心賞翫して七十五日生き延びられたい。ただし虎に関する笑話と正しく言うべきものは、支那の『笑林』等にあるが至って短い。ここに述ぶる譚《はなし》は面白きを第一と撰んで、虎はほんの付属品に過ぎぬ。
一九〇六年板、英訳シェフネルの『西蔵説話《チベタン・テイルス》』二二章、あながち虎ばかりの譚でないが、虎も入りおるから訳出する。太古、湖畔にヴィルヴァ樹の林あり、中に六つの兎が住んだ。ところが、一本の樹が湖水に陥って大きな音を発すると、兎ども大いに懼れて逃げ走る。野干《やかん》これに逢うて訳を聞くと、大音がしたという。野干大いに憧れ逃げ出す。猴これに逢うて大音したと聞き、また逃げ出す。?《くじか》が猴に逢い、野猪《いのしし》?に逢い、次は水牛、次は犀、次は象、それか(308)ら熊、斑狼《ヒエナ》、豹と、いずれも出逢い次第に大音と聞いて驚き走る。虎が豹に逢うて訳を聞いて走る途上、獅《しし》が虎から伝え聞いて山麓まで逃げた。そこに鬣《たてがみ》あたかも王冠のごときを戴いた獅王あり、逃げて来た獅どもに向かい、汝ら爪も牙も強きに何とてかく見苦しく敗亡するぞと問うた。獅どもが大音がしたと聞いたゆえと答うると、獅王一体どこで大音がしたかと問う。獅ども、「一向存じません」。獅王、「箆棒奴《べらぼうめ》、どこで大音がしたと確かに知らずに逃げる奴があるものか。そんなことを誰に聞いたか」。獅ども、「虎から聞きました」。そこで獅王、虎に追いついて尋ねると、豹から聞いたという。豹に尋ねると斑狼《ヒエナ》、斑狼に尋ねると熊、それから象、犀と本元を尋ね究めてとうとう兎に尋ねると、われら実際大音を発する怪物を見たからそこへ案内しょうと言うた。獅王、兎が導く所へ往き見ると、樹が水に落ちたんだと判ったので、こんなことに懼れることがあるものかと叱って、諸獣一同|安静《おちつい》た。この時、神|偈《げ》を説いていわく、もろもろの人、いたずらに他言を信ずるなかれ、すべからくみずから事物の実際を観よ、ヴィルヴァ樹一たび落ちて林中獣類空し、と。
これはインドの仏説だが、支那でも、一犬|虚《うそ》に吠えて万犬真似をするの、衆口《おおくのくち》金を鑠《とろか》すの、と言う。僕が入監中、今ごろは熊楠様《くまぐすさん》どこにどうしてござろうやらと妻が左《さ》こそ歎かん不便《ふぴん》やと察して、暁の鴫《しぎ》の羽掻き云々と書いたのを聞き誤って、外骨が外聞惡くも手扁《いぇへん》などと虚伝を書き散らしたのも、これに似たことだ。信じてはいけません。
インドのサンタル人の話に、兄弟二人山に入って食用の根を掘り歩くと、虎の巣に出くわせた。拠《よんどころ》なく、焼いた食用根と佯《いつわ》って炭粉を虎に供え、半?《はんやけ》の根を自分らが取っておいて食うつもり、と言う。虎二人を馬鹿にし、謎を懸ける、「一つは朝飯、今一つ似たのを夕飯に食うつもり」と。これ兄と弟を二度に食ってしまうつもりという意味だ。二人答えて、「その謎は判らぬが、吾輩《われら》も一つ謎を懸けよう。一人は耳を、一人は尾を捻《ね》じて遣《や》ろうとはどうだ」と言うと、虎大いに惧《おそ》れ逃げ出す。その尾を兄が捉え、かれこれ捫合《もみあ》ううち尾がまるで切れた。虎、痛みを耐《こら》えて走り往き、多く虎群を連れて還って視ると、兄弟すでに樹梢《こずえ》に登りおった。無尾虎《おなしのとら》発議して自分が樹下に俯し、その上に他(309)の虎どもが重なり昇ったら、一番上の虎が梢に近づき二人を捉えうる。サア遣ろうと一同重なりかかる時、兄の男、弟にその斧を仮《か》せ、無尾虎奴を斫《き》ってしまおうと言うと、無尾虎|驚転《ひようてん》して逃げようとする機会《はずみ》に上に重なりおった虎どもが頽《なだ》れ堕ちて無尾虎を圧し殺し、一同懼れて逃げ去った。
レゼールの『露国譚集《ロシアものがたり》』に似た話がある。いわく、狼あり、餓えて食を覓《もと》むれども獲ず、空しく人に打たれ蹴らるるのみで這い行《あり》くこともできぬ。ところへ、裁縫匠《したてや》来合わすを見て虚勢を張り、われは天帝の命に依って汝を食うから覚悟せよ、と言う。裁縫匠大いに愕いたが、やがて落ち着き払い、「何、汝が狼とは信《う》けにくい、狼にしては小さ過ぎるから犬だろう、一つ度《さ》してみたら判る」と言いながら、その尾を執《とら》え、その身《からだ》を彼方此方《あなたこなた》と延《ひつぱ》り廻して狼の息が外《はず》むまで引き伸ばし、到頭尾が切れてしまった。その時、裁縫匠この長《たけ》一アルチン(わが二尺三寸一分)と唱《よば》わる。狼は身の痛さを忍び、逃げて他の狼どもに事情を告げ連れ来てみると、裁縫匠は木梢《こずえ》に登りおった。無尾狼、何とおれが一番下になって樹に縁《かか》って立つから、お前たちが一疋ずつおれの上に重なって梯《あが》ろでないかと言うと、一同もっともと応じてその通りする。一番上になった奴が、「やいこら裁縫匠、さあ食うぞ」と呼ばわると、裁縫匠それじゃあ仕方がない、最期にちょっと鼻莨《はなたばこ》を遣らせてくれ、と鼻莨を捻《ひね》って鼻の孔に傅《つ》けた。
鼻莨を用うる人は本邦にあまりないらしいから、ちょっと講釈する。鼻莨、英語でスナフ、仏語でタバカプリゼー、独語でシユヌッペ、煙草粉に塩や諸料を加味して鼻の穴に少々傅けると快く酔うて、顔を皺《しか》め嚔《くさめ》をすると爽然《さつばり》として精神興奮する。遣り続けに遣ると利かぬから経済が良い。欧米の官署や博物館、図書館内など禁煙の処でも用いうるので便利だ。しかし、嚔と共に洟《はな》や鼻糞が飛ぶから、胴衣《チヨツキ》などはわが国の鼻垂小僧の前垂同様まことに見苦しくなる。前年、僕合祀反対で田辺監獄に入れられた時、和歌山から親族が来て保釈を願うた。僕に面会の上本人承諾なら許すとのことで面会となったが、僕は元来金銭で罪をしばらくも釈《ゆる》さるるをはなはだ人道に戻《もと》ったことと思うから、保釈を断わった。一向知らぬ人ながら木下尚江という人が非常に感心したと後に聞いた。それまでは立派だったが、また(310)実に詰まらぬことをした。というのは、性来至って煙草好きなを入監以来断念して三、四日おったところ、毎朝檻外で散歩を許さるる、その際ふと獄内の砂地におびただしく「ときんそう」という小草が生えおるを見出だし、大分拾うて袂に入れた。看守の眼につかぬでもなかつたが、何様|海南及時雨《かいなんきゆうじう》と呼ばるるほどで平生《ひごろ》の名虚伝ならずと一同感心しきった最中ゆえ、看守もみな『水滸伝』で言うと美髯公《びぜんこう》朱同、挿翅虎《そうしこ》雷横の格で、僕の所為《しわざ》を大眼に見てくれた。この「ときんそう」は、一名|嚔《はなひ》り草《ぐさ》、多少の麻酔性あり、その花粉を少し鼻孔に傳《つ》くるとたちまち魂《こん》飛び魄《はく》散ずるほど快くなって嚔ること鼻莨に同じ。このことを知っておったから、僕は檻房に入って読書しながら少しずつ鼻に傅けて面白く日を過ごした。おいおい看守も気がついて何を拾うかと聞くので訳を語ると、叱りどころでなく、それは佳報《よいはなし》を聴いたと甲伝え乙|試《ため》して彼方《あつち》にも斯方《こつち》にもハックショーンの声相応じおったから、今も多少|試《や》っておる人もないに限らぬ。得てしてこんなことが訛伝されやすい。むかしこの監獄へ弘法大師が入らせられて貧乏世帯に満足な煙草はむつかしかろうとて伝受された弘法莨とはこれだなどと後々に遺《のこ》るかもしれぬから、僕がその大師の権化《ごんげ》だったと明言しおく。しかし、この外に手扁はもとより何一つ後暗いことはなく、何と勧めても保釈で出ぬから、十八夜めに責付《せきふ》にして出された。
さて裁縫匠|少許《すこし》の時間を乞い、最期の鼻莨を鼻孔に傅けると、アチまたアチと嚔が出た。物は言い様聞き様で、日本で嚔を「くさめ」、支那で嚔の字音テイ、いずれもその声に象ったらしいが、一八九三年板、オウェン女史の『老兎巫蠱篇《オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー》』によると、米国の黒人も邦人同様その声をアクウィシャ一と呼ぶ由、それに露国では嚔の声をアチと言うよう聞くのだ。今裁縫匠が鼻莨を?《か》いでアチアチと嚔したのを無尾狼が聞くとアルチンと尺度《さし》の目を呼んだと心得、さては裁縫匠またまた狼|輩《ども》の?《からだ》を一々引き伸ばし身長《みのたけ》を度《さ》しおる、二度もあんな目に逢うてたまるもんかと驚き竦《おのの》き身を脱《はず》すと、上にあった狼一同転げ落ち大いに瞋《いか》って無尾狼を咬み殺したんで、裁縫匠は無事に家に帰りえた。
カシュミル国の譚《はなし》に、一日《あるひ》百姓が畑で牛に犂《からすき》を引かせおると、虎が来てわれは天帝の命によってこの二頭の牛を(311)食いに来た、と言う。百姓|畏《かしこ》まり、然らばちょっとお待ちなさい。二頭の牡牛の代りに味旨《うま》い牝牛一疋牽いて来て差し上げようと言う。家に還りて妻に語ると、妻承知せず、夫の一番好い衣類を着、小馬に騎《の》って虎が待つ処に行き向かい、一昨日虎三頭退治して食ったきり虎肉を食わぬ、情願《どうか》この辺に虎があれば好いと呼ばわる。虎大いに懼れて藪に潜り入る。野干《やかん》一疋来合わせ何でそんなに逃げるかと問うと、彼方《あそこ》へ虎食う鬼が来るゆえと答う。野干|冷笑《せせらわら》うて、案じなさるな、あれは女だ、「その跡で稲田大蛇《いなだをろち》を丸で呑み」と詠まれて特種の大蛇と男を呑む女というものだ、日本田辺の偽聖人南方先生など若いうちに面白い目を做《せ》なんだ者は、老いてこれを戒むるは色にありで、女を恐《こわ》がるはずさ、しかし何で虎を女が呑みも食いもするものか、逃げるに及ばぬ落ち着きなせーと、自分の尾で虎の尾を搦み留めた。すると機転あくまで利いたかの百姓の女房が、「これは野干殿、よくお気がつかれて太った虎を将《も》って来てくれました。お前の父親の処にはたくさん虎が擒《いけど》ってあるから、とてものこと二疋|将《つ》れて来てくださればよかったね」と言うたので、虎、一層怖れて野干を尾で引きずりながら逃げ出し、野干石に打ち中《あ》てられて命終《しんでしま》った。
ジュリアンの仏訳『譬喩経』付録支那誕に、これに似た話を載す。いわく、虎が猴を捉えて啖《く》おうとすると、猴何とかして虎口の難を遁りょうと頓智を出し、私は小さいから啖ったところが真《ほん》の一口に過ぎない、いっそ私を保釈としなさい、お礼にずんと大きくて旨《うま》い代物《しろもの》へご案内申そう、と言った。虎悦んで猴を免《ゆる》し、導かれて近所の山中へ往くと鹿がおった。この鹿智慮ある奴でさっそく猴に向かい、「これは何たる間違いぞ、汝は十匹の虎を伴れて来ておれに食わせると約しながらただ一疋では勘定が済まぬでないか」と呼ばわると、虎|周章《あわて》て猴ほど黠《ずる》いものはない、おれを鹿に啖わすつもりで誑《おび》き出したのだ、と言って逃げ去った。
またカシュミル国の話に、ファッツという小男、一日布織る杼《ひ》を投げて蚊七疋殺した。これほどの手並みある上は天下に恐ろしきものなしと自覚して、杼と手荷物とそれから餅一つ手巾《ハンケチ》に包んで武者修行に出た。ある都に到ると、大悪象あって日々一人ずつ食わる。侍ども征伐に出かけても、みな生きて還らぬと来た。ファッツこれを聞いて、そ(312)りゃこそ腕を見せる機会《おり》が到来だ、杼を一度投げて蚊七疋を殺した武芸から見ると、象一疋ぐらいは児戯同然に倒してみせるとて、国王に謁して、確かに自分一人でかの悪象を平らぐべしと奏す。国王最初これは狂人だろと思うたが、あまりに言い募るから朕に取って汝が死んだところが何の損にならぬことだ、勝手に遣ってみろと勅命あり。象が出て来る時となって、かの小男一本の杼ばかり持って立ち出ずるを見て、槍か弓矢を持って行けと勧めても聞き入れず、年来試しおいた杼の腕前を静かに見ていろ、と広言吐いて行き向かう。都下の人民みな城壁に登ってこれを見る。しかるところ悪象身を現じファッツに走りかかると、ファツツたちまち広言を忘れ、精神散乱して手荷物も杼も餅も打ち落として命|辛々《からがら》逃げ走る。原来|件《くだん》の餅は尋常の餅ならず、ファヅツの妻が夫の介性《かいしよう》なさに飽き果てて、どうか途上でコロリと参って再び生きて還らぬようと、餅に大毒を仕込み、それと勘づかれぬようおびただしく香料と砂糖を和して渡したのだったが、今象がファッツを追うて走る道中、かの餅の香があまり高いのでちょっと嘗《な》め試みると至って甘いから、何の考えもなく一嚥《ひとの》みにやらかしながら、ファッツに追いついた。ファッツも今は詮術《せんすべ》尽き、焼糞になって取って還し、一生懸命に象に武者振りかかる途炭《とたん》、ちょうど毒が廻って大象が倒れた。定めて小男は圧し潰されたろうと思うて、一同城壁から下りて往ってみると、ファッツ平気で象の屍骸《しがい》に騎《の》つており、落ち着き払ってちょっと突いたらこの通りだ、象は?が大きいが造作もなく殺されるものを、と言う。国王叡感斜めならず、ファッツを即時元帥となした。時に暴虎あり国中を悩ますので、王元帥に命じ討ち平らげしむ。ファッツ虎を見ると恐ろしくて溜まらない。よって樹上に登ると、虎が気長くその下で七日まで待ち通した。八日めに虎も草臥《くたぴれ》て炎天に昼眠《ひるね》するを見澄まし、ファッツそろそろ下りる音に眼を寤《さ》まして飛びかかる。この時晩くかの時早く、ファッツが戦慄《ふるえ》て落とした懐剣が虎の口に入って虎を殺した。王はそんな怪我の高名と思いも寄らず、武勇なる者まさに絶美の女に配すべしとて、艶色桃花のごとき姫君を由緒も知れぬかの小男の妻に賜わった、とある。国王の姫君だからこればかりはお古でなく、ファッツは定めて面白い目をしたろうと言うと、また外骨が手扁云々と言うに相違ないから、以下略とする。
(313) 熊楠いわく、この話古く支那の蕭斉の天竺三蔵求那毘提訳『百喩経』下に出でおる。むかし一婦あり、荒婬度なし。欲情|殷熾《さかん》にして、その夫を嫌い、種々|計《はかりごと》を求めて殺さんとする折から、その夫君命を奉じ隣邦に使いす。妻ひそかに計って五百の歓喜丸を作り毒を入れ、夫に語りて汝途中|饑《う》え困らばこれを食いたまえ、という。夫これに随い歓喜丸を持ち行きしが、いまだ食らわず、夜|闇《くら》くして露宿するとて猛獣来たり襲うを畏れ、丸を樹下に置き、自分は樹上
に上り宿す。その夜五百偸賊、国王の馬五百疋と種々の財宝を盗み来て樹下に到り、饑えを救わんとて五百歓喜丸を見、おのおの一丸ずつ食らい、みな中毒して死す。樹上の男、翌朝下り来て子細を見、賊の刀と箭で賊輩の尸《しがい》を散々傷つけ、五百馬と財宝を収めてかの国に向かう。かの国王|兵衆《いくさ》を将《ひき》い賊を逐い釆たるに逢い、われ君のために群賊を平らげ五百悪漢を鏖《みなごろし》にし、盗まれたまえる物一切取り還し奉る、と告げた。王その親信《みうち》を遣わし祝せしむると、果たして五百賊みな傷を蒙り死んでおった。王大いに感じ、封邑《りようぶん》を賜い爵位を加えた。王の旧臣みなこの男を妬み、遠方から素性の知れぬ者が来て、旧功の士の上に出ずるは怪しからぬと呟く。かの男聞いて、然らば汝らわれと武芸を競べ見よと言うと、一人も進み出ずる者なし。その時曠野に悪獅あり、人を殺して道行くこと絶えたり。旧臣議して、かの者武勇無双と誇れば、この獅を平らげて力のほどを見せられよ、と言う。王すなわち刀仗《かたな》をかの人に賜い、獅を討たしめた。やむをえず獅の所に向かうと、獅大いに吼えて飛びかかる。かの男|周章《あわて》て樹上に昇ると、獅口を開きて樹に向かう。かの者怖れて刀を落としたが、獅の口に入って往生した。王子細を知らず寵遇|倍《ますます》加《ま》し、国人みな敬伏してその武功を讃めた、とある。
虎に関する笑話はまだまだ多く蓄えあるが、手扁の弁解に多く頁数を費やしたから、まずこれで止める。読者これを遺憾とせば、すべからく外骨が手扁など由ないことを書いたのを責むべしだ。 (大正三年一月一日『不二』六号)
(315) ミイラについて
【林若樹「不思詠な薬品」参照(『風俗』一巻四号八頁)】
本邦で人?《じんせき》(マムミー)をミイラというは、スペイン、ポルトガル、イタリア諸語のミルラ(mirra)に基づく。漢名|没薬《もつやく》で、『和漢三才図会』八二にも没薬の蛮名|女伊羅《メイラ》とある。古ギリシア名ムルラ、それからラテン語のムルルハ、さていわゆる南蛮名ミルラ、それより邦名ミイラとなった。アラビアやアフリカの諸邦に産する橄欖科のバルサモデンドロン属の諸木から取る脂《やに》で、古くエジプトで、人の屍骸をマムミーとする薬の要分として用いた由、ヘロドトスの『史書』二巻八六章に出ず。
(西暦一二〇三(建仁三年、源頼家廃せられ、弟実朝が将軍に立てられた)年、アラビア人の大医アブダラチフがカイロで書いた『埃及《エジブト》談抄』(一八一四年板、ピンカートン『水陸記行全集』一五巻八一六頁)に、古エジプト人のマムミーを見た記事あり、いわく、これらの屍骸の腹と頭顱《とうろ》中に多量のマムミーという物あり、地方の民、町へ持ち来て売る。予はこの物で盈ちた人頭三つを半ジレムで買った。この薬売りがこれを満載した畚《ふご》を示すをみると、この物で盈ちた死骸の胸と腹もあった。骨までもこの物がしみ渡って、まるでマムミーになりおるよう見えた。(中略)このマムミーは瀝青《れきせい》ほど黒く、極熱の日光に曝《さら》すと鎔《と》けて触《さわ》る物ごとに粘著し、炭火に投げ込むと湧き上がり煙を出す。その臭《にお》い土瀝青また白瀝青に似る。一汎に最も信ぜらるるは、このマムミーは白瀝青と没薬の混合物だ、と。さて真のマムミーと(316)いうは、山の頂上より出で渓水に混じて流れ下り、のち瀝青礦ごとく固まり白瀝青と土瀝青を混じたごとき臭いを放つものだ。ガレン説に、マムミーは瀝礦や石脳油同様に土より湧き出ず、と。あるいはいわく、こは瀝青礦の一変種で、山の月水と称えらる、と。エジプトの屍骸の腔中に見出ださるるマムミーは、その性分マムミー礦と微《すこ》しく違うばかりで、マムミー礦手に入りがたい時、代用して妨げなし、と。)
さればマムミーの薬効は主としてミルラによるという点からマムミーをミイラと呼んだのだ。諸名の根源ともいうべきは、アラビア語ムルル(murr)、苦いという意で、この物苦味著しきより出たという。英語でマール(myrrh)、仏語でミール、独と蘭語でミルレ、いずれも myrrhe とかく、みな没薬を指す。古伝にクプロスの王キヌラスの娘ムルラ、その父に愛著し、穀女神の祭会に乗じ変装してこれに据膳して絶世の美童アドニスを生んだ。のち父王そのことを知り、大いに怒りムルラを斬らんとし、ムルラにげ廻ってサベアの野で疲れ死ぬ際、自分を天上にも地下にもあらず、死にきらず、また生ききらぬ物にしたまえと諸神に祈って、没薬樹に化し、罪業を愧《は》じて泣く涙が脂《やに》となる、これすなわち没薬(ムルラ)だそうな。
(没薬樹の図は、一八九七年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントルの『植物自然分科篇』三輯四巻二五四頁に出ず。ユダヤ人は没薬をもって諸祭具に塗り、その油を婦人を浄むるに用いた。キリスト死んだ時、ファリシー人ニコデムス重量百ポンドほどの没薬と蘆薈《ろかい》の混物を持ち来たり、その屍内に?めようとした。古エジプト人が薫香とし、また人屍をミイラにするに用いたクフィは、没薬をその一成分とす。日神の母で農作の大神たるイシスの祭式には、没薬等の諸香で?めた牛を牲した。プトレミ帝の時、ある祭礼行列に金器に没薬とサフランを焚き、百二十童子これを持って歩いた。日都ヘリオポリスで日神レを祀るに、毎日三度焼香した。日昇る時松脂、日中は没薬、日没はクワィだ。古ペルシア王は、通常没薬とラブズスより成る冠を戴いた。中世欧州の王はクリスマスより十二日めに寺へ奉物《たてまつりもの》を進じた。この風後世に遺《のこ》って、一七六二年英皇ジョージ三世、チャペル・ロヤルに黄金、乳香、没薬を献(317)じたことあり。けだし、この三物はキリスト誕生の直後、東方の三賢人が星に導かれてベスレヘムに来たり拝した時奉ったという。それについて珍譚あり。十八世紀にベルギーのブリュッセルで、皇族高僧列坐の前で一法師三賢来拝のことを説いて、第一の賢人は乳香を献じ、第二の賢人は黄金、没薬を献じ、と二物をごっちゃにまぜて言いおわったので、第三の賢人はと言ったきり跡が続かず。エーエ、エーエと引き延ばすうち、幸い向うの大きな額に三賢来拝を画いて、その一人を光線の加減で黒くしあるをみつけ、エーエ、わが真実愛する諸兄弟よ、第三の賢人は何も持って来なんだ、よって耶蘇怒って、それそこに画いたように彼の顔を黒くしましたと吹き、それより手んぶらで寺へ参るは不信心の至りなる旨を説教したそうだ。没薬は、かく薫香として重んぜられたほかに、酒を匂わすに用いられた。薬用としては痰を駆り、喉痺《こうひ》、喘息、慢性|咳嗽《がいそう》、肝臓強硬、腹の虫、瘡腫、月経滞閉、その他婦人諸病また走馬疳を治すとアラビアやインドでいうが、欧州では単に駆風剤また歯磨きに使い、婦人諸病にその油を使うは旧説の残習に過ぎずという。漢方には、没薬もっぱら血を散ずるゆえ、よく痛みを止め、腫を消し、肌を生じ、金瘡、杖瘡、諸悪瘡、痔漏、卒下血、目中翳暈や産後心腹血気痛を治すという。アラビア等では没薬堕胎すというに、支那ではその堕胎後の痛みを治するをいう。また女人の月水が禽獣形をなし来たって人を傷つけんとする異疾あり。まず綿で陰戸を塞ぎ、没薬末一両を頓服せばすなわち愈《い》ゆ、とある。(一八八四年板、フォーカード『植物俚伝』四五三-四頁。一八二二年パリ板、コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙』三巻四二頁。一八八五年板、パルフォール『印度《インド》車彙』一巻二五三頁。一八七二年板、ラインド『植物界史』一四九頁。『大英百科全書』一一板、一九巻一一五頁。『本草綱目』巻三四))
(『和漢三才図会』八二に、没薬、蛮語|女伊羅《メイラ》、外科の要薬なり、オランダ流の膏薬バジリコンに用いて痛を止め腫を消す、乳香、没薬、松脂、?、麻油をもって煉り成す、各分量口伝あり、と出ず。『譚海』一五に、雁瘡にバジリコンよし、この膏薬紙につけて張り替え張り替えすべし、売薬店は東海道川崎宿いさこ町大坂屋又兵衛所にあり、貝にいれ十六銭ずつなり。ウェブスター大字書に、バジリコンは?、松脂、瀝青、オリヴ油、豕脂または他の脂分より(318)作れる軟膏なり、とあり。必ずしも没薬を必要とせぬらしいが、本邦では「本草」説に随つてもっぱらその薬効を没薬に帰し、没薬を外科の要薬とし、切った切られたの繁かった世には、はなはだしく没薬を貴んだので、昨今画具としてエジプトの人?を尊ぶごとく、エジプトの人?にしみ込んだ没薬を一層重宝がったので、ついに人?をミイラと呼ぶに至り、ミイラもと没薬の南蛮語たるを忘れおわったのである。『初音草噺大鑑』(林若樹氏説に元禄ごろの印本という)三に、「似せ薬種売買御停止の札ありながら、近年ミイラ沢山になることは世間ににせが多し。念を入れて売りやれと言えば、薬種屋|腹立《ふくりゆう》して、正身《しようしん》の確かなる証拠には人形《ひとがたち》そのまま見せて売ります、という。みれば肌に着けたる帷子に、角の内に小の字の紋所あり。人々手を拍《う》ちて、さてもさても唐にも嵐三右衛門という者があるか、大方にせを売りおれ、と言うた」。そのころ人?盛んに売れしを見るに足る。)
英語マムミーは、ペルシア語ムミアイ(石漆すなわち土瀝青アスファルトの意)に出ず。石漆またエジプトでマムミーを作るに用いられ、また古くより薬用された。後人マムミーとその包被《つつみ》中より石漆を獲、医用《やくよう》して効をみしより転じて、マムミーにされた人屍の断片を薬に使い、終《つい》には刑死人の屍を乾かし製して、これを用い売買した。この風十八世紀まで行なわれ、十九世紀の中ごろまでも中欧のある部分に残存した。
支那でマムミーを木乃伊とかくは、ベルシア語のムミアイを中央アジア辺でムナイとか何とか訛伝《かでん》したのを元朝の人が音訳したのであろう。近時も人を殺して木乃伊にするという話、支那の辺陲《へんすい》に行なわるらしく、一八七二年板、ロバート・ショーの『高韃靼《ハイタータリ》、ヤルカンドおよびカシュガル記行』三五二頁にいわく、「一八六九年四月四日、カシュガルで聞きしは、以前この地支那人の治下にあった時、支那人つねに奴隷の頭よりムミアイを採れり。ムミアイは東洋人が百般の創と病にきくと信ずる不思議の霊薬で、戦勝国民はすべて俘囚を牲にしてこの薬をとると言い伝え、英人もこの数にもれず。数年前ヤルカンドよりギルギットに逃げ帰りし一奴語りしは、他の奴二十人とともに一園中に閉じ込めらるること二十日、そのあいだ葡萄を飽食せしめ、さて赤く熟した煎鍋《いりなべ》の上に倒懸して、剃刀《かみそり》をその頭顱《とうろ》(319)に切り込み、ムミアイを鍋の内に落とす。かの奴は遁れえたが、他の諸奴はみなムミアイにされただろう」と。
予は只今ミイラ取りがミイラになるという諺の正しき起因を言い中《あ》てえず。されど、この諺がずいぶん起こりそうな譚《はなし》が、むかし欧州に行なわれたるを知る。一五〇二-一五一〇年ごろまで広く東方に旅したローマ人ルドヴィコ・バルテマの『記行《イチネラリオ》』一四章に、一五〇三年メジナよりメッカに至った間の沙漠の様子を述べて、「ここで不幸にして南に行く者、北に向かいて吹く風に遇えば、たちまち砂起こって道を没し、わずかに十歩を隔てて人を見るあたわず。故に土人ここを過ぐるに身を木籠に入れて駱駝にのせ、案内者羅針盤と方向図を持ちてこれを導くこと、海上を航するに異ならず。ここを旅する者また多く渇して死し、たまたま良水を見|中《あ》つれば飲み過ぎて死するも多し。この沙漠中にモミアあり、これこの砂中に没して日熟で乾ける人の肉で、砂乾けるゆえ人身腐らず、この乾肉は医薬の効ありとて貴ばる。また別に一層貴重なるモミアあり、諸帝王の身を乾?したもので、永年保存されて腐らぬ」とある。林君が引かれた『紅毛談』中の話は、こんなことを伝え訛《あやま》ったものか。(バルフォール『印度事彙』巻三、モミアイとマールの条。『大英百科全書』一一板、エムバルミングとマムミーとマールの条。グベルナチス『植物譚原』二巻、ミールの条。『ノーツ・エンド・キーリス』一一輯一〇巻四七六頁と同輯一一巻四三八頁に載せたる拙文「薬用木乃伊《メジシナル・マムミース》」参照)
(大正六年六月『風俗』二巻四号)
【増補】
林君が引かれた文は、明和二年板、後藤梨春著『紅毛談』(予未見の書)に次のごとくある由。「みいら、むかしより番人の物語に、この物西天竺の方にノビスパンヤという国あり。その国大熱国にて、ことに夏のころは砂石も焼けて火のごとくなるゆえに、道行く者も鉄にて拵《こしら》えたる車にのり、その中にてみずから轆轤《ろくろ》をまき道を往来す。しかるにここにわかに大風起こることたびたびあり。もしその夙に逢いぬれば、車を覆すことあり。過って乗りたる人の砂石の上に落ちぬれば、たちまちに焦《や》かれてこの物となる。また跡より来たる者鉄の熊手をもって、かの焦かれたる人?(320)を取りうる、となり。また一説には、その国の死罪に極まりたる者を臓腑を抜き開き、諸薬を腹内につめ地中に埋め置きてミイラとなす、とも言えり。また一説には、いろいろの獣の血を搾り、乳香、松脂等にて煉り合わせ作りたるものともいう。紅毛人さだかに知らざることなれば、怪しき説またいろいろの説多し。番人もかようなる説を聞き及びぬればにや、元禄時代持ち来たれるミイラに、全体人間に異なることなきをそのままにて持ち来たれり。疑うらくは偽作ならんか。こは陶宗儀が『輟耕録』にのせたる、むかし天方国に独りの老人あり、諸人のためにわが身をもって薬とせんとて、常の食事を絶ち、常に蜜を食らい、終《つい》に死す、その屍を棺に入れて、これも蜜にてつめ、蓋の上に年月日時を書し、百年をへて取り出すべしとて土中に理めける、その後その時に至りて取り出し、万病に用うるに癒えずということなしとぞ、これを木乃伊ともいい、また蜜人ともいうとぞ。これらの説によって、人形のミイラを作りたるならん。後の獣血に諸香、乳香等を煉り合わせたるミイラは、『本草綱目』に所載の質汗《しつかん》なるべし」。
この文に元禄時代人間全体のミイラを持ち来たったとあるは、上に引いた『初音草噺大鑑』の話と合う。『紅毛談』が成ったころは、欧州にも親しくマムミーを発掘した研究家も至って少なく、多くは伝聞のままエジプト、ペルシア等諸方の事物を混雑して記したのが、和漢に訛伝して一層混雑を来たしたのだ。その混雑の中にあって、ミイラにも種々あることを看破叙述した後藤梨春の炯眼を多とせにゃならぬ。『紅毛談』にいわゆるノビスパンヤはメキシコで、そこに熱化したミイラがあるとは、西半球諸邦から出る乾製薫製の人?を訛伝したらしい。蜜人の話も丸啌《まるうそ》でなく、歴山《アレキサンドル》大王の屍を保存するにその肉を蜜でつめ、スパルタ王アゲシポリスが熱病で陣没した時もその屍を蜜に漬けて郷国へ持ち帰った(『大英百科全書』一一板、九巻三〇六頁)。質汗は、唐の陳蔵器説に、西番に出ず、?乳《ていにゆう》、松涙、甘草、地黄ならびに熱血を煎じてこれを成す、番人この薬を試むるに小児の一足を断ち、この薬を口中に入れ、足をもってこれを踏むと即時よく走れば良し、とある。金瘡傷折、?血《おけつ》内損の妙薬で、筋肉を補い、婦人産後諸血結、腹痛内冷不下食に、並びに酒に解《と》かして服し、また病処に付く、また室女経閉を治す、とある(『本草綱目』三四)。松涙とは松(321)脂が自然に涙のごとく出たものらしい。?乳はギョリュウの木中の脂で、質汗を作るに用ゆ、河西沙地に生ず『重修植物名実図考』三五下、引『嘉祐本草』)。質汗は番語とあって今さだかに分からぬが、?乳は気味を『本草』に記さぬから見ると支那になかった物で、たぶんエジプト、アラビアよりアフガニスタンまでの諸国の沙漠に生ずるギョリュウの一種タマリクス・マンニフェラが虫に螫されて出すマンナであろう。したがって、質汗は唐のころ北アフリカや西南アジアより入ったと察せらるれど、蔵器の説によると、マムミーを去ることやや遠い物と惟わる。
それからミイラ取りがミイラになる諺にやや似たことが今一つある。一八〇〇年十月、エジプト科学および巧技調査委員ヴィロトーがグールネイ村付近でマムミーを捜した記にいわく、吾輩が探ったマムミー窟ほごみだらけで入りがたく、多分は四つ這いでのみはいり得、常態の?を持った人すら這い込むこと大困難、ちっとでも肥えた人は到底その望みなし。かくて多少損じたマムミー群の手足頭胴の上を這いて、いよいよマムミー窟の本部に入ると、よほどの深さに、混乱してマムミーが多く積み累《かさ》なりおり、何故か知らず火で損じたものあった。そこで吾輩や従僕が手にしあった炬火を少しでもここで落としたら大変と気づいた。けだし吾輩を取り囲んだマムミーはことごとく極めて燃えやすき樹脂に満ちおり、一たび火に触れんか、たちまち消すことのならぬ大火事となったはずだからだ。吾輩その一窟から引き出した時、数個のマムミーに火の移りやすきを目撃して驚いた。同伴の一水夫が不注意にもそこで煙草の火を点じ、風に吹き飛ばされて一つのマムミーに燃えつくと、たちまち播《ひろ》がって大火となり、数日|息《や》まず、可燃性の物質一切焼け終わってようやく止んだ、と(ピンカートン『水陸記行全集』一五巻八三六頁)。されば、ミイラ取りがこんな災難を起こして、ミイラになるまでもなくミイラとともに焼けおわったこともしばしばあっただろう。
剥製法や防腐剤を用いずとも、体質や空気の工合で人屍がマムミーになった例は、欧州にもあり、ペンナントの『一七六九年|蘇格蘭《スコツトランド》記行』の付録五に、ポープはストロマ島のケンネジー家の死人の屍がマムミー化し、子が父の屍の腹の上で太鼓を打つ由、載せある。有名な越後の弘智法印、さては白井真澄の『齶田《あきた》の仮寝』にちょっと見えた出(322)羽の開口寺の住僧の屍の類とみえる。漢土には、呂后や馮夫人の屍が没後二百年また七十余年変わらず、生けるがごとく群賊に犯されたというから、よほど巧妙な保存術があったのだろう。本邦には、藤原清衡、基衡、秀衡三代の屍も数百年保存されたらしい(『東遊雑記』九)。『古今著聞集』には、後鳥羽帝の時、伊予の一島に天竺の冠者なる者、その母の屍の腹中の物を取り捨て乾し固めて上を漆で塗って祠に祀り、妖言を触れ散らして財を集め、召し捕られた談あり。これがもっともマムミーに近い。(大正十五年九月三十日)
【追記】
『伴天連記』に、伴天連の名医ベルナントがローマ帝の癩病を療じたことを記して、ベルナントまず帝に洗礼を受けて吉利支丹にならば平癒すべしと勧めしに、帝これに随う。さて「ベルナントもとより工《たく》むことなれば、ミイラという油、眼に物見(瞳子)を二つ持ちたる人の肝、白子のつぶり(頭)の脳、三合わせて水にてとき、バウチイスモと名づけて、されば帝の五尺の御全体に残る所もなく塗り、七日療治しければ、たちまち快気し給うなり」とある。いわゆるミイラは没薬で、この記の筆せられたころは、邦人もっぱら没薬をミイラと呼んだと判る。(昭和二年二月四日)
(323) かんぼく
「浮世床輪講、二」、「舌かきの付きたるかんぼく〔四字傍点〕の楊子でみがきながら来たる」。三田村氏はかんぼく〔四字傍点〕を柳であろうくらいに考え居給うらしい。しかし、かんぼく〔四字傍点〕は忍冬科に属し、山野に自生する落葉灌木で、学名ヴィブルヌム・オプルス、只今この田辺地方の丘巒《こやま》に多く咲きおり、秋になれば小豆《あずき》の大きさの赤き実を結ぶ。『和漢三才図会』巻八四に、正字未詳とて仮《かり》に※[木+感]木と書きおる。明治四十一年東京博物学会編纂、牧野富太郎氏校訂『植物図鑑』九二二頁に、かんぼくの材、白色柔靱なるをもって、もっぱら総楊枝《ふさようじ》を作る、とある。(五月二十七日) (大正六年七月『風俗』二巻五号)
王粛の逐鼠丸
「浮世床輪講、四」参照
(『風俗』二巻五号二九頁上段)
唐の段成式の『酉陽雑俎』巻一〇、物異部(元禄十年京都和板、六葉表)に、「鼠丸。王粛、遂鼠丸を造るに、銅をも(324)ってこれを為《つく》る。昼夜自転す」とある。紀州などで、舞い鼠を箱の中に飼うて置くと、夜分その車を転ずる音に怖れて鼠ども遁れ去ると言い、現にその試《ため》しに予の宅の書斎と台所へ各一箱飼うて置くと、果たして鼠が二百日あまりも来なんだが、最近もはや狎《な》れたと見えて少々出て来た。王粛のも、機械で夜中間断なく丸《たま》を転がし鳴らして鼠を懼れしめたもので、久しく行なううちには鼠が一向気に留めなくなったものであろう。(七月十二日) (大正六年八月『風俗』二巻六号)
質問
二十四年前ロンドンにあって、当時水晶宮等で興行した足芸師の親方から聞き取り筆記しおいた唄、節《ふし》調子まるで鈴木主水の唄に同じく、その文句は、「恋という字にわが身を破る、ここに吾妻《あづま》も名は高繩の聞くに稀《まれ》なるその風景は、天に溢れて白浪高く、沖に白帆はつながる景色、庭の色さえ御殿の春よ、七重八重なる八ツ山桜、茶屋は家々賑わう中に、意気な世渡り松永佐吉、元は流石《さすが》の侍《さむらい》なれど、恋に迷うは若気の習い、奥の女中と不義|徒《いたず》らのとがで互いの勘当受けて、今はこの地に住居を致し、細き煙の筆子の指南、朝な夕なのうき世渡りに、悔やむ夫の心を酌んで、妻の小藤は思案を極《きわ》め、夫に隠してわが身を売って、金子百両佐吉に渡し、主《ぬし》もまめでと嘆きのうちに、籠をつらせて門口よりも、早くおじゃれとせり立つ声に、涙ながらに別れて行きゃる、やーれ」。
この唄を教えくれた人は、明治二十六年に四十五歳ばかりだった。その若い時江戸辺で流行《はや》った由ゆえ、年代もほぼ察知しうるが、この松永佐吉と小藤との事件は右の唄ばかりでは始末が分からず。概略御存知の方は教示を吝《おし》むなかれ。
またついでに伺うは、右の流行唄を教えくれた人が、芝明神九月の祭礼に土生姜《つちしようが》を買うところを作った大津絵節を(325)毎度唄い、江戸出来の大津絵にこれほどの上作はない、と褒められた。その文句を全く忘れおわって残念でならぬ。御存知の方は直接葉書で教え下されたい。ずいぶん骨折って東京の知人どもへ聞き合わせるが、誰も知らぬらしい。神明参りの生姜市のことは、『近世奇跡考』三に出ておる。(七月十二日) (大正六年八月『風俗』二巻六号)
(327) 南方随筆
棄老伝説について
誰も知った信州|姨捨山《おばすてやま》の話のほかに、伊豆にも棄老伝説があるというのは(『郷土研究』三巻四号二四三頁)、棄てられた老人には気の毒だが、史乗に見えぬ古俗を研究する人々には有益だ。一九〇八年板、ゴムの『歴史としての民俗学』第一章などを見ると、今日開明に誇るヨーロッパ人の多くの祖先も都々逸御順《どどいつごじゆん》で、老いは棄てられ壮《わか》きは残る風俗で澄ましておったらしい。わが邦もとより無類の神国で、上代の民純朴だったは知れきったことながら、時世と範囲相応に今日から見ると、奇怪な習慣もずいぶん行なわれたは、大化の初年まで人死する時、人を絞して殉ぜしめ、信濃国で夫死すれば妻を殉ぜしめたなどで訣《わか》る。されば、地方によって老人を棄てる風もあったのだろう。昨年、押上中将から恵贈せられた『高原旧事』に、「飛驛の吉野村の下に人落しという所あり。むかしは六十二歳に限りこの所へ棄てしという」とある。さて親を棄てに行った子が、自分もその齢になれば棄てられると考えついての発意で、このことが止んだというのは、漢の皇甫謐の『孝子伝』、『万葉集』、『今昔物語』、グリンムの『独逸《ドイツ》童話』その他に多く見えて、欧亜諸邦に瀰漫した譚である。 (大正七年八月『土俗と伝説』一巻一号)
(328) インドの賤民
エルク、一名エルカル、一名イェルカルワーズまたエリカワーズまたエラケッジは、定住せずに漂遊しあるく。外面は籃《かご》作りまた占いを業とするが、内実は剽窃を事とし、他種の女子を盗んで婬を鬻《ひさ》がしむ。この輩テリングやタミルやカナリース諸国の辺境諸市の廓外に席《むしろ》作りの小屋に棲む、と一八八五年板、バルフォールの『印度《ィンド》事彙』一巻一〇五四頁に見ゆるが、『郷土研究』の「巫女考」「毛坊主考」に参看して、本邦の夙《しゆく》の者等と、人種は異なれど、同一の境遇は、類似の所業を生ずるものたるを察しうる。 (大正七年八月『土俗と伝説』一巻一号)
熊野と榎
尾芝古樟君の「勧請《かんじよう》の木」の説の中、熊野の神人《しんじん》に古くから榎本《えのもと》氏あって、榎の崇拝よりこの家号が生じたらしい、という予の説を引かれたが(『郷土研究』三巻九号五一五頁)、近ごろ、『続群書類従』巻七六所収『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』に、「孝安天皇の御宇、戊午の歳、本宮の五本榎に十二所権現を顕《あら》わす。帝皇に奏し、祝し奉る。丙子の年八月八日、熊野新宮に竜火落ちて焼けおわる。三所の御聖体鏡、飛び出でて榎の枝に懸かる、云々」とあるを見、これらの日付は架空とするも、古くより榎は熊野の神木たりしことを知った。この榎本という氏は、和歌山辺ではエノモトだが、熊野では必ずヨネモトと読む。
今も田辺などで、これを屋敷地の境界に裁え、根より芽を発して移り動かず、その位置を変ぜぬゆえ、めでたき木とする。(『和漢三才図会』五六に、一里塚に小山を?《つ》き、樹《う》うるに松あるいは榎をもってす、とあるもこの訳で(329)あろう。)ことに乾《いぬい》の隅に栽うるを吉とす。(『老媼茶話』に、蒲生秀行の乳母の骨を、寺の乾の隅の大榎の下に埋む、とあり。)地搗《じつ》きなどの節にも、「御内《おうち》の背戸の乾の榎木《よのき》、よのみ(榎実-余の実に通わす)ならいで、黄金《こがね》なる」と唄う。
このついでに言う。前掲『造功日記』に、景行天皇の乙酉の年、「金峰山の上山の蔵王堂、竜火焼きおわる」、また天平六年八月二日、「金峰山の上山の蔵王堂、竜火焼く」とある。この竜火は、奔星、俗に天火とて、隕石のことであろう。英語でも、ファヤー・ドレイク(火竜)と言う(『郷土研究』三巻七号三八六頁参照)。 (大正七年九月『土俗と伝説』一巻二号)
牛に引かれて善光寺詣り
南方「善光寺詣りの出処」(『郷土研究』一巻二号八八頁、一巻五号二九四頁)、藤原相之助「少年追奔牛図」(『郷土研究』一巻八号四八〇頁)参照
『一話一言』巻八に、遠州浜松木原権現、神職木原富丸の書状にいわく、「秋葉山近村に、鋪地《しきじ》村という処あり。市を去ること、二百歩ばかり、山のはに古き岩あり。鳥も翔《かけ》りがたきところの石へ、歌一首切りつけあり。今伝えて、牛が鼻岩と言う。その歌、『世をうしの花見車にのりの道、牽かれてここに廻《めぐ》り来にけり』。俗に弘法大師の歌と申し伝え候由、大師、高野を建立なき以前、この山に寺院を開かんと遍歴し給いしころのことなどと、俗に申し習わし候。数十丈の高岸にて、なかなか凡夫人力の及ぶところにあらざる由」。弘法の作とは疑わしいが、見る人が見たら、右の歌の体と詞から推して、牛に牽かれての諺は、いつごろ早く世にあった、と見当がつくだろう。 (大正七年十月『土俗と伝説』一巻三号)
(330) 獅子舞いの起り
石井民司氏の『国民童話』に、対馬に行なわるるものとして載せてある獅子|頭《がしら》の話は、雑賀君が報告した紀州田辺のもの(『郷土研究』三巻八号四七三頁)と大分違う。いわく、対馬の狐が支那に渡って、彼方《かなた》の諸獣と話すうち、獅子は、「われ一度吠ゆれば、十里四方の鍋釜がみな破《わ》れる」と言い、虎は、「自分のほかに千里一走りをよくするものはない」と誇る。さて、獅子試みに吼え出すに先だち、狐は地に小穴を穿ち隠れておったから身は破れず。獅子怒って、力一杯に呻《うな》り過ぎて首が抜けてしまう。次に虎と狐と競争するに、狐、そっと虎の背に跨り、千里の藪を過ぎた刹那、虎の前に飛び降り虎より早く走れるを示すと、虎全く欺かれて狐に降参した。さて、狐、かの獅子の首を持って日本に帰る。今も大神楽に使う獅子頭は、これに象ったのだ。獅子と虎とは狐を怖れ、今も日本に住むことなし、と(以上)。
この狐が虎を欺いたと同似の話は、外国にも多い。例せば、サー・アレキサンダー・ゴールズンの説に、フィジー島の伝説に、蝶が、鶴とトンガ島へ旅行するに、ひそかに鶴の背に駐《と》まり、その飛ぶに任せ、鶴が息《やす》まんとするごとに、その前へ飛び離れ行き、ここまでござれと呼んだので、鶴ついに羸《つか》れて死んだという。 (大正七年十月『土俗と伝説』一巻三号)
あやかし
佐渡の海で、あやかし〔四字傍点〕が漁船につくということ、茅原鉄蔵君の報告(『郷土研究』四巻一号五六頁)があったが、熊野で(331)もよく聞くところである。ただし、節分の熬《い》り豆をもってこれを避けるという風習の有無はまだ知らぬ。和歌山辺でも、田辺でも、あやかす〔四字傍点〕とは翻弄の意味で、大人が小児の相手になって面白がらすをも、酔客が芸妓を嬲《なぶ》って困らすをも、均しくあやかす〔四字傍点〕と言うておる。
海中の怪をあやかし〔四字傍点〕と謂うことは、三百年以上古いことと見えて、『義残後覚』(文禄中の著)巻四の第五章にも、「ある人のいわく、船にあやかし〔四字傍点〕という物のつく時は、かいしき〔四字傍点〕船が動かずして、何ともならず迷惑することあり。そのあやかし〔四字傍点〕というは、このタコなり」とある。章魚が舟行を妨げるということは、果たして今も言うことであるかどうか。コバンイタダキ(印魚)が舟行を妨げる話は、一六三八年アムステルダム板、リンスコテンの『東|印度《インド》航記』九一頁に見え、『和漢三才図会』にも、その図を出し、船留魚《ふなとめ》なる俗名を戴せておる。 (大正七年十月『土俗と伝説』一巻三号)
幣束から旗さし物へ
折口信夫「幣束から旗さし物へ」参照
(『土俗と伝説』一巻一号四頁)
一九一四年ボンベイ板、エントホヴェンの『グジャラット民俗記』八五-八六頁にいわく、「猴神ハヌマンは、ある樹に住むと信じ、これをチハリオ(布片着た)ハヌマンと呼ぶ。その樹の辺を過ぐる者、これに布片を捧げる。また沙漠を行く者、その中に孤走せる樹の陰に憩うを例とし、その樹の損害を防がんとて、精鬼マーモこれに棲むと言い、過客をして、おのおの布片と小銭を捧げしめる。また巫祝《ふしゆく》、毎村一木を択んで、精鬼の住処とし、三叉鉾の形を画きつけ、布片を結びつけ、時をもって寄進物を募り、自分らこれを頒つ。また、ある民はかかる樹に布片を捧ぐる代りに、旗を掲ぐ」と。布片はとりもなおさず、和漢の幣帛に相当す。(十月五日) (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
(332) 山鳥
中山太郎「一つ物」参照
【(『土俗と伝説』一巻三號一四九頁)】 『重訂本草啓蒙』四四に、「山鳥の尾の斑は、雉より粗にして、斜めに左右に排して十二あり。十三あるものは、俗に人を魅するという。邪鬼を射る蟇目《ひきめ》の鏑《かぶら》には、必ずこの尾を用いて箭羽《やばね》とす、云々。また、武官|箙中《えびら》の表指の箭にも、この尾と鷹・鷲羽とを雑えて箭羽とす、と野必大言えり」と出ず。『奥羽永慶軍記』一二に、「出羽の保呂羽山権現の使者は、山鳥なり。夜叉鬼権現を祭る。実に広大の霊地なり。一の鳥居仁王門より本社まで、二十里を隔てぬ。その間二十余郷ありて、両別当の領地なり」とある。惟《おも》うに、山鳥を神として、夜叉鬼権現と名づけたのであろう。熊野の奥山に、「庚申さんの鳥」とて、山鳥の形で全体火のごとく赤いのを、山民畏敬すると閏いたが、見たことなし。内田清之助氏の『日本鳥類図説』上に載せた、赤山鳥でなかろうか。これは九州にかなり多きも、本島にきわめて希《まれ》なり、と出ず。 (大正八年一月『土俗と伝説』一卷四号)
鳴かぬ蛙
南方「鳴かぬ蛙」、山中共古「七不思議の話」参照
(『郷土研究』三巻一二号七四三頁、七四八頁)
その後見聞した例を書きつけよう。『甲子夜話』五四に、家康、駿府城?の蛙を禁じたこと出で、『新著聞集』崇行篇に、「僧超誉、大阪塩町に閑居の庵を営みしに、庭の池中に蛙群れ鳴いて喧《かまびす》しかりければ、十念を授けて停止《ちようじ》せられしに、生涯のうちはかつて鳴かざりし」と載せた。『山州名跡志し鞍馬に、「土人いわく、この所|轡虫《くつわむし》ありといえ(333)ども、鳴くことなし」とあるも、似た話だ。
紀伊西牟婁郡南|富田《とんだ》村大字|栄《さかえ》に、禅宗花園派の観福寺というに、あまり遠からぬ世に、竜可《りゆうか》法印といふ住職あり。いつもみずから剣難の相ありと言うた。臨終近づいたから入定すべしとて、毎日中村の浜へ径《ゆ》くと、人多く随い見届けに来る。今日も不可なりとて還るゆえ、後には誰もその言を信ぜず、随い往かずなる。さて誰も来たらぬに乗じ、一日海に入って死んだ。その屍海底の岩に挟まり、どうしてもとりえぬから、切り離して出した。すなわち剣難の相ありと訣《わか》った。この僧一生神異のこと多かった。かつて堅田浦より田辺の江川浦へ渡るに、雨降り出で一同騒ぎ立つを、この僧鎮めた。この僧の乗船のみ、雨に沾《ぬ》れなんだ。この時、寺の中の蛙|聒《かまびす》しとて、紙に書いた物を小僧して池に投げ入れしむ。小僧披見すると、蛙鳴くべからず、とあり。これを投げ入れしも鳴き止まず。竜可、小僧に、汝、予が書きし物を見たろう、と言うた。さてまた何か書きつけた紙を渡すと、今度は見ずに池に投げ入れる。果たして鳴きやんで、今に至る。親しくその寺へしばしば出入りする人の話に、この寺の蛙を内外へ、持ち出ずれば鳴く、持ち入れば鳴かず、と。あるいは言う、田の蛙は鳴けど、深き池の蛙は鳴かず、と。またいわく、蛙は坐して鳴きうれど、浮きながら鳴きえず、と。
それから外国の例では、前回書き遺した分を追記すると、コラン・ド・プランシーの『妖怪事彙』に、仏国プリーのある沼の蛙は、聖ジャングールに制せられてより、一時に一疋しか鳴かぬと見え、『香祖筆記』一〇に「済南の明湖、蛙鳴かず」となり。『大清一統志』二二二には、「望京台は湖南湘陰県北望京鎮にあり。府志にいう、元の順帝、出でて靖江におり、迎えられて帰りて即位す。ここに至って、地名を問う。対《こた》えていわく、望京なり、と。すなわち高きに登って北望す。時に蛙鳴いて耳に聒《かまびす》し。帝、土神に勅してこれを禁じ、今に至るも声なし。俗にまたこれを禁蛙台という」と出ず。 (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
(334) 刀豆
山中共古「土俗談語」参照
(『土俗と伝説』一巻二号八九頁)
刀豆《なたまめ》二個を守りとして出ずれば、息災に戻るとて、四国巡礼の輩これを佩びる。白刀豆は、南天の葉に等しく解毒の効ある由。『本草図譜』四〇には、咽喉腫れて閉塞せる時、並びに肩擘に、細末として服用せば効あり、と見ゆ。 (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
富士講の話
中山丙子「富士講の畜」(『郷土研究』二巻八号四八六頁、二卷九号五五二頁)、南方「富士講の話」(同誌二巻一二號七二七頁)参照
中山君は、主として享保以来のことを述べられたが、その前にも、富士講の先駆と見るべきものがなかったでもない。徳川幕府の初めに出来た『醒酔笑』四に、「富士の人穴の勧進というて、門々《かどかど》をありく者あり、云々」。『甲斐国妙法寺記』、明応九年六月、富士導(道)者あること限りなし。関東乱により、須走へみな導者付くなり。永正十五、この年六月朔日、富士山禅定に、嵐もっての外に至って、導者十三人たちまちに死す、云々。天文二十二、六月、導者富士へ参詣多きこと言うに及ばず。天文二十三、この年正月、雪水富山より出で申し候こと、正、二、三月まで十一度出で申し候、云々。六月、導者は御座なく候。この他なお例多かろう。 (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
(335) 赤山明神
南方「赤山明神のこと」参照
(『郷土研究』四巻九号五四四頁)
慈覚大師が、三千大千世界を懸ける秤子を手に入れた夢譚の類話が、『淵鑑類函』三二一にある。いわく、「『六帖』にいう、上官昭容《じようかんしょうよう》、名は婉児《えんじ》。初め母の鄭方妊みしとき、巨人、大いなる称《はかり》を 昇《あた》え、これを持って天下を称量せよというを夢む。婉児生まれて月を踰《こ》えしとき、母たわむれに称量するは豈《あに》爾《なんじ》なるかというに、すなわち?然《あわわ》と応《こた》う。のち内に機政を秉《と》り、その夢に符《かな》えり、と」。大師の話は、たぷんこれに基づいて作られたのであろう。
やや似た例を、西暦紀元七二年ごろに生まれ、一四二年ごろ歿したスエトニウスの『十二皇帝伝《ヒストリアエ・カエサルム》』で見出だした。ヴェスパシアヌスが、帝位に登らぬうち、アカイヤの陣で、夢に、宮城の真中に天秤あり、一方の皿にクラウジウス、ネロの二帝、他方にヴェスパシアヌス親子を盛って、均等を示す、と見た。のち双方の帝家治世の年数がちょうど同じかったゆえ、この夢よく中《あた》ったと知れたそうだ。 (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
片葉の蘆
川村杳樹「諸国の片葉の蘆」参照
(『郷土研究』三巻一○号六〇三頁)
まことに、川村氏の言わるる通り、片葉の蘆の類似ばかり多くて、その説明や由来談に研究を補うべきもの現われぬのは気懸りだが、第一、片葉の蘆の植物分類学上、または病や寄生物のために片葉となるとすれば、病理学上の検査報告の見えぬのがもっとも闕陥である。白井博士の『植物妖異考』上、一六六頁で見ると、結び葦と片葉の(336)葦と同物らしいが、前者のみの解説あって、後者のはないらしい。 明治十三年の交、和歌山の岡公園が開かれ、それまで平屋敷地でまことに物凄かつた岩山と天然池が遊覧地となった後、池の辺に三十歳ばかりの男が茶店を聞いておったが、一向はやらず、ぶらつきおった。暇が多いといろいろの考えがつくもので、その男が一客に語るが、聞くとはなしに耳に入ると、片葉の蘆はこの辺で和歌浦にしかないというが、それ御覧、この池の蘆はみな片葉だ、と言う。自分もとくと見ると、みな片葉だった。その山の岩石を検すると、一里ばかり隔った和歌浦と同じ岩だった。今は全く俗化したれば、蘆もあるまじ。諸国にこの類のこと多く、同じ物が名所に生じて古伝のついたのと、さもない処にあって何の名も揚がらぬとあるのだ。 (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
第六天
問。第六天はどんな形をしていると考えますか。その他右の信仰の模様を御報告下さい。第六天の魔王だということだけは知っています。(杉本泉) (大正七年八月『土俗と伝説』一巻一号)
『曼荼羅私鈔』上に、「自在天は天魔なり。その宮殿は、第六天の上、初禅《よぜん》〔天〕の下にある大宝坊これなり」。『過去現在因果経』に、釈尊成道に際し、「第六天魔王の宮殿、自然に動揺す、云々」。『智度論』に言う、「その時、天魔、十八万の天魔の衆を将《ひき》い、みな来たって仏を悩ます、云々」。『須弥頂寿命経』中、「仏、須弥《しゆみ》の頂に下り、降三世《ごうざんぜ》をして大天および后妃を降伏せしむ、云々」。『太平記』巻二三、正成の霊、大森盛長に語る、「先朝(後醍醐天皇)は、元来|摩醯首羅《まけいしゆら》王の所変にておわすれば、今還りて欲界の六天に御座《ござ》あり、相|順《したが》い奉る人々は、ことごとく修羅の眷属となって、ある時は天帝と戦い、ある時は人間に下って、瞋恚強盛《しんいごうせい》の人の心に入り替わる」と。『塵添?嚢抄」一二に、「第(337)六天の魔王は、むかし降三世明王に降伏せられし時、毘盧舎那《びるしやな》悲怒の三摩地《さまじ》に入りおわって、すなわち、云々、摩醯首羅天王を加持す。天王返って復甦《ふくせい》し、寿命を増し、諸仏に帰依し、菩提心を発し、灌頂《かんじよう》受記しては、地位を証得すと言えり。これ儀軌に見えたり」と出ず。
これらいずれも、欲界の第六天と色界の初禅との中間におる魔羅波旬《まらはじゆん》天(奪命魔王)と、色界の頂上におる摩醯首羅天(大自在天)とを混同したので、摩と魔と字近く、音同じき上、前者は「嫉を懐《いだ》くこと、たとえば石魔の魔して功徳を壊つがごとし」、後者は、ヒンズー教徒が世界の主で破壊を司るとし、仏教徒が煩悩障《ほんのうしよう》の王として、その大敵とするところゆえ、かく二者が混同一視されたのであろう。『翻訳名義集』四、すでに「摩醯首羅、あるいはもって第六天となす人あり」とあれば(『仏祖統記』巻二に引きたる『因果経』すでに魔羅波旬を自在天王と柞《な》しおる)、この混同は支那で始まったのだ。
摩醯首羅天は、「八臂、三眼あり、大なる白牛に騎《の》る」(『経律異相』一)。『胎蔵界曼荼羅』に図あり、ヒンズー教の破壊大神シヴァと同神で、ジャワの古仏像中のシヴァは、日本の摩醯首羅同然、すこぶる軟化せるも、インド在来のシヴァは、相好《そうごう》なかなか苦味走り、司法の神としては、白面赤髪、三岐の鉾を持ち、二また四また八また十の臂と五顔ありて、白牡牛に乗り、三眼あり、その中の眼光よく諸神と一切の物を焼き亡ぼす。その大天として現ずるや、無数の蛇を飾りつけ、一手に三岐の鉾、他の手に絞殺繩を持つ。また蛇を耳に貫《ぬ》き、髑髏を瓔珞《ようらく》とす。また大腰に虎皮を絡《まと》い、兜《かぷと》の前額に恒河《ごうが》女神あって物凄く笑う像もある。『太平記』一二、解脱《げだつ》房が外宮《げくう》御前で見たという第六天の魔王の記載は、このシヴァすなわち大自在天の相好を、支那経由で伝訛したのだろう。
魔羅波旬とその三女と、無数の眷属の千変万化の「愛すべく、また怖るべき相好」は、『仏本行集経』二七|乃至《ないし》二九巻に、きわめて詳述してある。魔羅波旬は、欲界の第六天なる他化自在天の上に住するが、キリスト教の魔王同然、天に似て天にあらざる法敵ゆえ、便宜上、第六天の所摂とする(『仏祖統記』三一)。それから誤って、魔羅波旬をもっ(338)ぱら第六天と認め、延《ひ》いて頭字の似た摩醯首羅をも、第六天と呼んだのであろう。 (大正八年一月『土俗と伝説』一巻四号)
(339) 烏帽子の諸部の名称について
明治二十六年、予がロンドンで筆せる「課余随筆」巻五にいわく、「『和名抄』に、吉舌、ひなさきと訓じ、別に解説なし。田口・川上二氏の『日本社会車彙』、烏帽子《えぼし》の図を見るに、前面の凹中に小突起あるをひなさきと記せり。その他、ひたい、へり等、いずれも女根の名所なり。よって推し考うれば、吉舌は当時支那でクリトリスを呼びし俗称なるべし。想うに、古え邪視を辟《さ》くるの用意深くて、烏帽子の前面を陰相に象《かたど》りしならん。辟邪に陰相を用うる例、今年出たるエルウォーシーの『邪視篇《ゼ・イヴル・アイ》』に多く載せたり」と。このこと今となっては、他にも気づきたるあるも知れねど、桜井君の疑問(『考古学雑誌』九巻一号三八頁)を読むにつけ、抄出して参考に供す。 (大正八年一月『考古学雑誌』九巻五号)
(340) 衣服をキモノと呼ぶこと
昨年十月ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』二七一頁に、サー・リチャード・カーナック・テンプル一問を出していわく、「キモノ」という名を英人の書ける物に見る例、『ニュー・イングリシュ・ジクショナリー』に、一八八七年(明治二十年)より早きものなし。しかれども、ピーター・ムンジーが一六三七年(寛永十四年)澳門《アモイ》で見し葡人(と日本人の?)の間《あい》の子《こ》輩の服装を記せるに、その外衣は小さき「キモン」すなわち日本の上著なりし("their upoermost garments beeing little Kimaones,orJapan coates")(beeing,coates この二語の綴り方、今日の being および coats と異なり。原文のまま)とあり、これよりも古くこの語の見えた例ありや、と。
これに対《こた》えた拙文は、今年三月の同誌八〇頁に出たり。いわく、リチャード・コックスの日記、一六一五(元和元)年十一月六日の条に、「前月京阪出の書信二通を受け取る、キャプテーン・コピンダル報知に、皇帝(将軍秀忠)コピンダルの献上品を悦んで受納し、彼にケルレモン(kerremons)五、鎗頭十、箭鏃百、脇指三を賜い、また、薩摩王(島津)に書を与えて、英人その領内に通商するを許さしむ」とあり。その翌年三月十五日の条には、「この巡礼多人一人のアムマムブシュ(山伏)を先に立て Tenchadire(テンチャ寺?)に詣ず。巡礼いずれもその keremons(or coates)ケレモンすなわち上著の背に文字を書きつけたり」とあり。ケルレモンもケレモンもキリモンなる語を書き留めしにて、今も児女輩が音便上キモノをキリモノと訛り呼ぶところ多し、と。
英人がキモノなる名を記せしは、まずコックスぐらいが最も早しとして、さて本邦の紀録に、この語の最も古く見(341)ゆるはいつごろの物なりや。大方の高教を竢《ま》つ。喜多村信節の『瓦礫雑考』上巻の上下《かみしも》の条に、『安斎随筆』に『古今著聞集』を引いていわく、「下臈のきる手なしという布著物をて鎌を腰にさして、編笠をなん著けたりける」と載せたる布著物は布の著物の義なれば、キモノという名が、建長中すでに行なわれたるを知るに足るがごときも、手近き『著聞集』の板本にかかる文句さらに見あたらず。よって親切なる読者が、正しくその出処を指示されんことを祈る。 (大正八年七月『考古学雑誌』九巻一一号)
(343) スノリについて
本誌六巻一二号二四-二六頁に、?瓶子の「名物灘すのり」の説あり。予もかつて『斐太後風土記』巻一、酸海苔川の条に、生産魚類、云々、青貝、蜆、酸海苔、とあるを見て、その何物たるを検知したく、過ぐる大正五年、当時高山町にあった川口孫治郎君に書信でその標品を求めたところ、九月十八日返書を贈られた。その要点を記すと、この藻は高山の西方町余スノリ川にあって産出稀少、何たる実用品でなく、茶人などが賞味するのみ、石に着けるを剥ぎ取り、細かい沙の混ぜぬよう吟味ののち、小皿に入れて酢を少しく注ぎ用ゆ。酢であしらうが最も味|好《よ》きゆえスノリの名あり。酸海苔、簀海苔、洲海苔など書く。同封せる標本は『後風土記』の著者の令孫富田豊彦氏同道で再昨夕採りかつその説明を筆記したもので、目下深緑色、きわめて嫩《わか》く小さけれど、十一月ごろより大きくなり、色も紫を帯ぶる由、とあった。
予その標本を一見すると、深緑色と書かれた毛状の細い藻が乾いて暗オリーヴ色と変じおり、長さ二分より七分ばかりで、岩石上に叢生しおったらしく、虫眼鏡で覗いただけでもすぐカワモズク属の藻の無性世態と判った。もとカントランシア属またオノズアネラ属としたものだが、おいおい研究してカワモズクの無性世態たるに過ぎぬと知れたもので、亡友ウェスト教授は、その著『英国淡水藻説』(一九〇四年ケンブリッジ板)に、カントランシア属はおのずからカントランシア属で、カワモズク属の無性世態がそれに酷似するが、カントランシア属の藻残らずカワモズクの無(344)性世態でない、と主張した。予が経験しただけでは、本邦のカントランシア属の海に生ずるものは、カワモズク属の無性世態でなかろうが、淡水に産するものはことごとくカワモズク属の無性世態に過ぎぬらしく、予が紀伊と大和で集めただけで七態あり。他にレマネア属の無性世態のものが一つある。川口君より贈られた標品は、キュッチンのカントランシア・スコチカやフリースのカントランシア・カリベアに近いものらしく、叢生した中に微細のカワモズクに化しかかったものもあったので、すなわちカワモズクの無性世態と幼稚未熟の有性世態を兼現したものと判った。これと同一もしくは至って親《ちか》いものが田辺の会津川にもある。材料僅少で十分に分からぬが、会津川のも、川口君より贈られたスノリ川のも、予が検しえただけではバトラコスペルムム・モニリフォールムかバトラコスペルムム・ワグム、いずれかのカワモズクの嫩芽《わかめ》らしかった。
同年十二月八日に、川口君からスノリの成長したものをフォルマリンに浸して贈られた。それは一見して疑いなくカワモズクで、バトラコスペルムム・モニリフォールムだった。緑色に紫を帯ぶとあったが、受け取った時は美麗な鮮紫色になりおった。これは植物学教科書などにしばしば図せらるるもので、紀州などには到るところ小川や清流の溝?《こうとく》に生じ、岩石や木杭に付く。川口君の状に、前に送った嫩芽は土地の若い者の間違いで正品でなく、今度送ったものが正真のスノリだ、とあった。
しかるに上述通り、前に受けた嫩芽もカワモズクの嫩芽に相違ないから、決して土地の若い人の間違いでなく、とにかく飛驛のスノリは、紀州その他に多いバトラコスペルムム・モニリフォールムなるカワモズクと判った。カワモズクは生存中おびただしく粘滑透明な寒天質を被《かぷ》り、寒天同様食えそうな物だ。松本市の民俗学熱心家胡桃沢勘内氏(平瀬麦雨)の来状(大正六年三月二十三日出)にいわく、「長野県に産する淡水藻類にして食用に供すべきは、小生知るところにてはカワモズクの一種に候。この藻は当地方に多少産し候。当市清水のある小川に食用に供すべき藻を産すると聞き及び候が、たぶんカワモズクならんと存じ候」とあったので、紀州では一向ないことだが、信州ではカワモ(345)ズクを食用すると知った。
黒川道祐の『芸備国郡志』上に、「河水、苔を生ずるは稀《まれ》なり。高田郡吉田川には、冬月苔を生ず。形状風味は海苔に似、柔脆《じゆうぜい》にして食らうに堪う。また河蜷を生ず。倭俗、爾奈《にな》と訓ず。その形小さくして螺《にし》のごとく、その味淡くして蜆《しじみ》に似たり。吉田村多治井には、芹《せり》を生ず。その根白くして緒《いと》のごとく、風味他産に勝《まさ》れり。民間に伝え言う、不端の三物は吉田の名産なり、と。しかして毛利元就、州に知《ち》たるの日、この三物をもって朝廷に献ずという」。予この河ノリを見たく、明治四十一年、広島陸軍幼年学校教授栗山昇平氏に頼むと、氏より郡役所に請い、所員の好意で故老の口伝により件《くだん》の吉田川の蜷と川ノリを贈られた。その蜷は当地方に多き弘法大師の尻切れ蜷というものとさまで変りなく、河ノリはバトラコスペルムム・モニリフォールムの一異態で、初めオリーヴ色に褐色を帯び、乾かしおくと紫を帯ぶる段、紀州の紫に褐色を帯びたり、深緑で青を帯ぶると異なるが、やはり同種だった。このことは同四十二年七月の『東洋学芸雑誌』三三四号三六一頁に出した。
むかし毛利元就が朝廷へ献じたといえば、カワモズクは四百年前すでに食用されたので、信州でも飛驛でも食うところから見ると、今もずいぶんその他にも食用さるるであろう。当地方の小溝には只今諸処に繁りおるが、誰も気に留めず、名を問う人もない。全く海魚、海藻多くて、カワモズクなど食わずに事足るからだ。かく飛驛のスノリがカワモズクと分かった上は、この物別に珍しからず、諸国に多いゆえ、別段特別保護を要せぬであろう。また?瓶子が『北陸タイムス』より引かれて、越中の蘆付というノリは、ノストック属のものの由。しからば碧藻類の一種で、紅藻類たるスノリすなわちカワモズクとは何の縁故もない全然別類の藻である。
カワモズクを食用としたことは、早く貝原先生の『大和本草』に見ゆ。その巻八の三一葉表にいわく、「カワモズク、処々小流にあり。モズクに似て、その色青く、糸を束ねたるごとくにして美わし。羮とし、あるいは酢にて食す、味よし。ただし小瘡を発し、身を痒からしむ。病人および瘡ある人食すべからず。北に向かって流るる小河に(346)あり。他方に向かって流るる川にはなしという。漢名未詳、云々」と。川口君が贈られたのと同種の紀州に生ずるは紫色のもの多きも、青緑色のものも時としてある。和歌山郊外出水という小川にあるは美麗な青緑色で、その流れが東より西に走りおるから、北に向かう小河に限って産すとは虚説である。東牟婁郡萩付近の熊野川のごとき大川にも、渚の小石に付きおるから、小河ばかりにも産せぬようだ。(二月十七日) (大正十一年四月『飛騨史壇』七巻二号)
(347) 質問二則
明治四十年発行『続々群書類従』第四冊に、「大坂籠城之節籠候人数」と題せる書を収む。その終りに、右城中の物頭にて方々へありつき、あまねく人の知る者記しおくものなり、とあり。それに、籠城の士金森掃部、その時二十四、五歳、こは長門の弟で、出雲守下戚腹の子なり、与惣次郎という町人の子に遣わす、ということを載せある。『藩翰譜』系図三に、出雲守可重の三男重頼、慶長十八年従五位下長門守に叙任し、のち出雲守と改む、とあるから、掃部は可重の庶子で重頬の弟と見える。この掃部の名、『藩翰譜』系図にも、『飛驛遺乗合府』に収められた「金森家大系図」にも見えず。掃部の始末調べた人あらば教示を乞う。
また「金森家大系図」に、可重の室遠藤左馬亮慶隆女、甲珠院月渚慈円大姉、慶安四年辛卯十一月三日卒す、および後室那護屋因幡守女、慈弘院松室妙栽大姉、慶長二十年乙卯六月十日卒、とある。先立って死んだ人を後室と称えた訳|如何《いかん》。(五月十一日) (大正八年七月『飛驛史壇』四巻一二号)
(348) 金森氏で賤ヶ岳に働きし勇士
宝永三年楢林長教が書いた『室町殿物語』巻七「秀吉公、柴田合戦のこと」の条に、福島、加藤等の働きを述べて、「右の高名をば、世に余五の海七本鑓とて、名誉には言い振るなり。この外金森右衝門尉、伊木半七両人なり。桜井左吉、石河兵助二人はここにて討死せり」とある。この伊木半七、尾張生れで、名は遠雄、のち七郎右衝門尉と称え、豊太閤|黄母衣《きぼろ》の衆たり。大坂籠城の時、齢五十ばかり、石川貞矩と共に真田幸村に副として真田|郭《くるわ》を守ったが、どうなったか分からぬ。金森右衛門尉は、五郎八入道長近の一族らしいが、柴田・羽柴の軍《いくさ》には、長近柴田に加担したるに、この人のみ引き分かれて秀吉に属したらしい。『続群書類従』五八四の『豊臣記』上にも、七本鑓を記した末に、片桐、平野は合鎗、剰《あまつさえ》得首、金森五右衛門、伊木半七取首、と記すを見ると、金森五右衛門のち右衝門尉と改称したものか。また右衛門尉は五衛門尉の誤写かとも思う。そのころ北陸の外に金森氏の著われた者ありしを聞かず。十の九まで長近の一族と察するが、この人の所出、経歴、始終を知った人あらば一報を吝《おし》むなかれ。長近の父定近、初め美濃の大畑に住みて、大桑氏を大畑と改め、のち近江の金森に移って、金森と改めたと言えば、右衛門尉は長近に遠からぬ親族と見える。帝国書院刊本『塩尻』四五に、長近法印、可重を養子としてのち男子を生ぜしが早世せしとなん、法印の兄あり、その末今わが(名古屋)府下に奉仕す、とあり。右衝門尉、もしくはここに言える法印の兄の子ではなかろうか。 (大正十二年五月『飛驛史壇』七巻一二号)
(349) 飛騨の踊
本誌四巻一二号一六貢に、日台生の飛驛の踊に関する質問あり。按ずるに、喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻五下に、「『空穂猿』という狂言に、ひんだの踊りは一踊りということあり。いずくにも踊りあれども、こはことに名高き踊りなり。三絃の古き組歌『大幣』に、ひんだぐみ、船の中は何とおよるぞ、とまをしきねにかじを枕に、ひんだの踊りを一踊《ひとおど》り、一踊り。この類《たぐい》の歌五唄あり、そのうち三唄には、ひんだの踊りということなし。(そのなき方や古からんと思わる。始めその里にてその里の踊りとは唄うべからず。この踊り行なわれてよりぞ入りたるひんだなるべし。)『懐橘談』(承応二年、出雲の記行なり)、かぶきの歌に、比太の横田の若笛と唄うも、みな出雲の国里の名にして、この国よりぞ初まりける。また言う、日田という所に日田神あり、俗謡にいう比太の横田なり。古老伝え言う、郷の中に田領ばかりあり、形いささか長し、ついに田によりて横田明神なりと言えり。ひだと言うべきをひんだと言うは浜《はんま》千鳥の類なり。唱歌の音声に拠れり、かぶきの歌にとあるは誤りなり。国が歌舞伎よりは前にあること、猿楽狂言にても明らかなり」と見ゆ。この説に従えば、ひんだの踊りは飛驛と縁なく出雲の日田という地から起こった名らしい。
三十年ほど昔、そのころ丸善から売り出して大いに流行せし『大和文範』という浄瑠璃名作集を読んだ中に、毛谷村六助が吉岡一味斎の長女を助けて、その父の仇京極内匠を討った浄瑠璃あり。題号は「彦山権現誓いの助太刀」だったと記憶す。それに、吉岡の二女が親の聴《ゆる》しなしに若い武士に通じて生んだ男児を預かりし人が、祖父母の怒りを解かんため、かの男児を小猿と称し、その邸へ伴れ行き舞を演ぜしむる唄の中に「ひんだの踊りは面白や」という辞があったように覚える。この記憶があまり間違いおらずば、上出『空穂猿』の文句と合わせ考うるに、この踊は最初(350)人が踊ったこと論なきも、またずいぶん早くよりもっぱら猴に踊らせた物であろうか。日台生の御参考にまで申し上げおく。
山東京伝の『骨董集』上編中巻の末に後帙目録を出し、下巻後冊に、ひんだの踊り、掛踊り、伊勢踊り等の考、同じき古図|種々《くさぐさ》を掲ぐべき予告あり。しかるに下巻前後二冊出板ありしも、ひんだの踊り等の考も図も出おらず。宮武外骨氏『骨董集』の残分稿本を蔵すると聞き、六年前面会の節尋ねしに、至って麁略な物と承った。京伝のひんだの踊の考説は世に存するや否を知らぬ。 (大正八年十月『飛騨史壇』五巻二号)
(351) なぞなぞ
一
(前略)なぞのこと、小生東西の類例おびただしく書き集めたるもの有之《これあり》。しかるに御依頼に応ぜんと授索候ところ、右草稿ちょっと見当たらず。たぷん和歌山市なる倉庫中にほりちらしあることと存じ申し候。それではちょっと分からず。故に、さらに書き綴りて差し上げんと存じ候えども、ちょっとは間に合わず。故に記臆のまま少々紀州に小生幼時行なわれ候もの申し上げ候(今も知りたる人多し)。
薮の中に胡麻一升ナーニ(蟻)
木だん金だんからくりだん、急いで走るは飛脚だんナーニ(だんは段にて一節ということと存ぜられ候)(鉄砲)
四方白壁、中に大の字(豆腐)(以前、豆囲みな大字を印せり)
堂あつても仏なし、仏ないとて罰|中る(三味線)
お前そち行け、わりやこち行く、またはだだ(腹をはだだという)で逢いましょう(帯紐)
簸《み》の中にお姫様立つたのこれナーニ(筍)
(352) 朝早う首くくつて川へはまるもの(茶袋)
金山越えて竹山越えて金山のあちらに火がチョロチョロ(煙管)
四方白壁、中にチョロチョロ(行燈)
海中に柴一把(海老)
さしたらピンとする、抜いたらグニャとする(傘袋)
入る時入らぬもの、入らぬ時入るもの(風呂の蓋)
以上のごときもの、当地にてはアテバナシと申し候。『集古会誌』乙卯巻一の八葉表に、「いまだ謎を集めたるものを聞かず」とあり。これは誤りならん。『群書類従』五〇四巻に収めたる『後奈良院御撰何曽』などは、謎ばかり集めたるものなり。また慶長十八年ごろの筆記という『寒川入道筆記』にも、謎ばかりまとめておびただしく列ね「謎語のこと」と題しあり。ただし、これらはもっとも多く言語上の、もしくは文字上の謎なり。例せば、「股倉の狸何ぞ(またくらよりたを抜くなり)(枕)」、「紫の袈裟、墨染の袈裟何ぞ(むらさきのけの六字|除《の》ければさ残る、すみぞめのけの六字のければさ残る)(ササ)」のごとし。西洋に言う conundrum 支那にて言う謎なり。これに反し、室井平蔵君の寄せられたるところ、およびここに申し上ぐるは、事物と事物との相似を基としたる riddle 支那にて隠語という(?)、当地にて言うあてはなしにて、conundrum よりはずっと古きものに御座候。『松の落葉』にも、なぞの唄ありしと記臆致し候。当県東牟婁郡勝浦港などへ船碇泊する時、売淫女集まり来たり三絃弾き騒ぐに、なぞなぞという歌あり。最初に「座付き」体に、なぞの面白き事由をちょっと序し唄い、それより一人なぞをかけ、一人これを解く。かけるも解くも唄うてするなり。客多き時は順番に唄いなどす。これは十四、五年前までのこと、今日のことは存ぜず候。(大正六年八月二十八日) (大正九年二月『集古』庚申一号)
(353) 二
滋賀県高島郡西庄村井花伊左衛門氏報
1 家のぐるりに槍千本(ホダレ(氷柱))
2 家のぐるりに豆腐一挺(窓)
3 家のぐるりにツヅレ着て立って居る物(干菜)
4 家のぐるりに鉈一挺(犬の糞)(糞を柄のない鉈という)
5 ぐるり白壁、中チョロチョロ(行燈)
6 皺より婆さん、中チョロチョロ(提燈)
7 お前登りか、わしゃ下りや(釣瓶)
8 いる時の入らぬ物入らぬ時の入る物(風呂の蓋)
9 雨の降る日に足一本で飛んで歩く物(傘)
10 雨のふる日に目が三つで歯が二つで飛んで歩く物(下駄)
11 目が一つで日本中飛んで歩く物(銭)
12 山から風吹く、蕪がイコ(大きく)なる物(ブイブイ車(糸とり車))
13 朝まの夜《よる》から日の暮れまで首をくくって地獄の釜へはいって居る物(茶ン袋)
14 坊さん三人、数珠一連(カナゴ(囲炉裏の五徳))
15 黒犬の尻、赤犬が舐《ねぶ》る(鍋)
(354)16 一所に居てて(居ながら)お前昼間か、わしヨサリ(夜間)や(戸と障子)
17 針屋の隣の皮屋の隣の甘い物(栗)
高知県幡多郡田ノ口村大字出口福井俊雄氏報
1 削れば削るほど大きくなる物(穴)
2 足一本で日本中往来する物(傘)
3 食う時に食わぬ、食わぬ時に食う物(魚釣の弁当)
4 手なし足なし、髪ゆうて田の畔《あぜ》に坐る物(スボツキ(藁人形))(熊楠いわく、案山子か)
5 引けば引くほど短くなる物(地曳き網の網)
6 シダの中に団子一升(兎の糞)
7 人に陰《かく》れて御酒つぐつぐ餅ちぎる物(上?《じようせい》)
8 目一つ足一本で藪覗く物(鎌)
9 赤い舌で真黒のお尻なめる物(炊事の火)
10 毎朝早く赤頬冠りで庭掃く物(鶏)
11 わずか一寸八分の池で一生涯潰せぬ物(人の口)
12 年が年中腫れては潰え、潰えては腫れる物(岸打つ波)
13 手なし足なし胴もなし、口から食って目からひり出す物(篩)
14 正月過ぎて春過ぎて赤い小袖を脱ぎ捨てて、坊さん頭に皿を戴く物(罌子粟《けし》の実)
15 親が子を食う物(十六むさし)
16 前にあるかと思えば後にあり、後にあるかと思えば中にある物(鏡の姿見)
(355)17 下がれば下がるほど上がる物(釣瓶の羽根木《はねぎ》)
18 このよを越えてあのよを越えて天から覗くもの(三日月)
19 一生涯寝て居て働く人(足芸師)
20 親は立ち子は寝て働くもの(梯子)
紀州日高郡|上山路《かみきんじ》村五味小弥太氏報
1 朝早く細溝を走る物(雨戸)
2 黒木山にイノ木(榎か)、柴二枚(牛)
3 さす時ささぬ物、ささぬ時さす物(傘袋)
4 竹左エ門の腹下り、木左エ門がちょっと止める(自在鉤)
5 夜になると白い汁をたらす物(西洋臘燭)
6 さいて五、六寸、毛があって使う時唾しめす物(筆)
ついでに伺うは『一語一言』巻八に、題号不見、ある書の内に、間違った言葉を話さぬよう注意を列ねた内に、ナゾをナンドと言うべからず、とあり。蜀山人いわく、按ずるに今童部の詞は「ナゾナゾナア二、納《なん》どの掛金外すが大事」と言うは、このナンドと言う訛りのことにや、と。かかる言、今もいう所がありや。(熊楠)
紀州西牟婁郡北富田村大字|平《たいら》大橋道子女報
1 道にコンコ(香の物)二切れ(下駄の跡)
2 タンタンタル木、張りたる天井、紙天井、油の勢いで水走る(傘)
3 大口で飲む、小口で吐く(土瓶)
4 蓋あって底ない物(蚊帳)
(356)5 敲かぬ太鼓、鳴り太鼓、袖ふり太鼓、逃げ太鼓(蜂)
6 海に刀一本(太刀魚)
7 黒木山にヨドロ(柴)二本(牛)
8 竹さん腹いた、土さん押える(壁)
9 六角堂に坊様一人(ホオズキ)
10 重ね岩にヨドロ(柴)一本(挽き臼)
11 黒犬の尻、赤犬なめる(クド(竈))
12 道にモミジの葉一枚(鶏の足跡)
紀州田辺町加藤某氏報
1 引く時の引かぬ物、引かぬ時の引く物(木挽の座蒲団)(注。この辺で引く、敷く、共にヒクという人多し)
2 離れる時離れやすいのに、離そうと思うても離れぬ物(人の影)
3 上げる時上げず、上げぬ時上げる物(油揚げ)
4 往く時必ず二人づれ、帰る時は必ず一人(往復葉書)
5 毎日毎日あなたお上りですか、私お下りです(車井戸の釣瓶)
紀州日高郡竜神村無名氏報
1 木道金道カラクリ道、急いで走る飛脚道(鉄砲)
2 底にしても合い、口にしても合う物(俵)
3 黒山に白木二本(牛の角)
4 朝も夜も歌唄うて細道走る物(雨戸)
(357)5 海の中で船一パイ(鍋蓋)
紀州日高郡上山路五味鶯村氏報
1 六月の炎天に小池の鮒と思います(見ずに焦がれる)
2 門に日車、空行くお日様と思います(ついて廻りたい)
3 奥山の辛夷《こぶし》の花と思います(遠目に見るとなお美しい)
4 子守の傘と思います(逢って翳《かざ》したい)
これらは男女相思に取り交す艶文代用的の物らしい。むかしはよく流行したが、今は廃れて知る者少なし。
熊楠申す。東牟婁郡串本町などには、以前草合せということあり。五味氏の所報に等しき謎の代りに、物もて贈答せしなり。松葉と小石を贈るを、待つに恋しと解せしごとし。『古今要覧稿』に見ゆる闘草の草合せに名は同じく、実は異なり。(大正九年十二月二十一日早朝四時) (大正十年四月『集古』辛酉三号)
三
信州松本市東町二丁目一二一六胡桃沢勘内纂
左記は松本地方の謎にて、明治二十一年と三十三年と三十七年生れの婦女より伝え聞きたるものなり。
1 家のぐるりの太鼓(または鉦)敲きナーニ(雨垂)
2 曲がり路曲がって十の原(田)
3 夜が明けると家のぐるりを唄うたって廻る物(鶏)
4 播磨の国のうたのすけ(鶏)
(358)5 さがりゃさがるほど人にほめられる物(藤の花)
6 木の末に鼻汁垂らして居る物(栗の花)
7 とぎ屋|剥《む》いて板屋剥いて渋屋剥いて中の旨い物(栗の実)
8 天から落ちて地転んで葵の小袖を脱ぎ捨てて刃物くわえて口をあく物(胡桃)
9 木のうらにいずみき(揺籃)に這入ってる物(鈍栗《どんぐり》)
10 木のうらに円座しいて赤い顔して居る物(柿)
11 天竺から杖突いておりてくる物(榎の実)
12 四万四万のよしの中に家一軒太郎(八幡太郎義家)
13 天でがらがら地でぼくぼくお宮の前の黒鴉(神主)
14 隣へ行って鼻|揃《そろ》して居る物(草履)
15 隣へ行って黙って立って居る物(杖)
16 朝細道を行って夕方細道を返る物(雨戸)
17 お前あちらへ行け、わしゃ、こっち行って一所になる物(付け紐(小児の衣服の))
18 細路を行って突当りに井戸一つ(柄杓)
19 入らぬ時に入って、入る時に入らぬ物(風呂の蓋)
20 たんたんたるき、竹だるき、油のしょうじき、水はじけ(傘)
21 金山越して竹山越して向うの金山噴火(煙管)
22 お竹さが、お糸さを、負《おぷ》って、火の中を飛んで歩く物(機《はた》の管)
23 四角四面で四ツ脚で、中の九面の十文字、鷺と鴉の舞いちがい(碁盤碁子)
(359)24 細道から粉糠くわえ出す物(鋸)
25 足の黒い鳥が、白田へおりて、諸国のことを、囀る物(葉書)
26 海を一《ひと》またぎ(鍋の蔓)
27 海の中に木片《こつぱ》一枚(鍋蓋)
28 黒山に坊主三人(鍋の尻)
29 金の座敷で腹切る物(豆煎)
30 四角四面の色男(豆腐)
31 木段、かね段、からくり段、中は飛脚の通り路(鉄砲)
32 長くて丈《たけ》が五、六寸、夜《よる》する物と定まれど、間《ま》がよければ、昼もする、粘れば粘るほど紙の入る物(箱枕)
熊楠いわく、17、19、20、21、31に全く同一あるいはほとんど同一のもの、紀州にもあり。胡桃沢君およびこれらを君に伝えたる人々は、全くその辺の心得なしに、松本地方にもこれあるを証拠立てられたるものゆえ、ある謎の分布はずいぶん広いことと知らる。(大正十年一月三十一日夜十二時過)
長野県北安曇郡|北城《ほくじよう》村馬場葦洲氏蒐
1 三角四角まん丸の三人兄弟(油揚、豆腐、雁もどき)
2 乾いた着物を脱いでぬれた着物を着る物(物干竿)
3 お酒を呑んでぶらぶらして可愛がられる物(瓢箪)
4 御用のある時寝て、用のない時立って歩く物(琴)
5 下から上へぶら下がる物(水に映る藤の花)
6 一つ目の一本足(針)
(360)7 一つ玉に二つ玉がある物(頭、眼玉)
8 御用のある時頭を叩かれる物(釘)
9 中《あた》ってもわるくないはちはどんなばち(火鉢)
10 昼はかくれて夜になると出る物(行燈)
11 外白壁、中チャッカリ(同)
12 畠でお歯黒を付けてる物(茄子)
13 縮緬袋に粟一升(酸漿《ほおずき》)
14 青竹に節なし(葱)
15 海一またぎ(鍋の蔓)
16 向う山風吹く大根太る(紡?《つむ》)
17 お雪様お竹様ねかせてお照さま起こす(雪、竹、太陽)
18 厩に杵一挺(馬の頸)
19 頭と尻と一所に叩かれるもの(槌と鑿)
20 隣へ往つても戸間口に絶えず立って待って居る物(杖)
21 裏の畑に赤い尻を出しているもの(南瓜)
22 足四つで歩く物(草鞋)
23 お宮の中に黒鳥一羽(神主)
24 いつも赤い頭巾を冒つて木を敲く物(かっち)
熊楠注。啄木鳥を方言かっちと呼ぶは面白し。全くその舌頭もて木を啄く音に象ると見ゆ。雷をイカツチと呼ぶ(361)と同根の語らしい。『事物紺珠』に、啄木鳥を雷公採薬吏と異名せり。古ローマ人のピクス、古エストニア人のピッケル、いずれも啄木鳥を雷神としたのだ(一八九八年ニューヨーク板、デ・ケイ『鳥神篇』三一-三四頁)。
25 家のぐるりを騒いで歩く物(雨垂)
26 黒山に坊主三人(鍋の尻)
27 蚊帳の中の赤坊主(酸漿)
28 畠の中でいやいやする物(芋の葉)
29 外白壁、中どろどろ(卵)
30 四角畑に洟垂らして居る物(綿の花)
31 家の中に居て家と共に歩くもの(蝸牛)
32 寝る時頭を下にする物(蝙蝠)
33 坐った時に高く、立った時低い物(犬)
34 背中で歩く物、また背を下にして歩く物(船)
(大正十一年一月『集古』壬戌一号)
四
長野県西筑摩郡福島町小池直太郎氏集、尋常四年生七十五人ばかりの級の生徒より聞書
1 なんぞなんぞなアに菜っ切り庖丁俎板(東筑摩にては、このあと、それに付いて、なあにお馬のお尻、と付く)
2 梁間《はりま》の上の歌唄い何(鶏)
3 鼻から入って口から出る物何(郵便箱)
(362)4 金山《かなやま》越えて竹山越えて、また金山越えて向うの方に明りがある物(煙管)
5 村にたけ〔二字傍点〕の三つ付く物(御嶽、駒ヶ嶽、玉岳村)
6 お木《き》りさお立ちで、お竹さまお曲り、お臍が出べそで何(風呂桶)
7 点々はじきに水|弾《はじ》き(傘)
8 木どうかなどう金繰りどう、引けばひくほど飛脚が飛んで出る物(鉄砲)
9 朝別れて晩に行き逢うもの(門)
10 黒山に坊主三人(鍋の下)
11 海一またぎ(鍋の蔓)
12 木のうらで鈴を振っとるもの(皀莢《さいかち》)
13 木の枝で小さい時は笠冠つて居て、大きくなつてから顔が出るもの(柿)
14 針屋の隣の渋屋の隣のうまもの屋(栗)
15 用のある時に頭を叩くもの(釘)
16 入る時に入らなんで入らぬ時入る物(風呂蓋)
17 白い着物きて赤い帽子冠つて涙を垂らいて泣いて居る物。また、赤い帽子を冠つて白い着物をきて涙をぽろぽろこぼいて居る物。昼間白い着物きて居て晩になって赤い帽子を冠る物(?燭)
18 竹やぶに繩|一筋《ひとすじ》(蛇)
19 海に鶺鴒一羽(水桶に柄杓)
20 お赤(原注、寺か)のお小僧が三人腹切る物(豆)
21 なた三挺(あなた、こなた、そなた)
(363)22 家の周囲(ぐるら)鈴振って歩く物(雨っ垂れ)
23 秋になるとお化粧する物(柿)
24 細道屑くわえてあるくもの(蓆を作る時)
25 山でこいこい畠でたらく(薄、長芋)
26 夜になると店で舟漕ぐ物(番頭)
2 7細道通って向ういって円くなるもの(柄杓)
28 晩の一時時分になくもの(鶏)
29 朝早く細い道を通る物(雨戸)
30 きんたん、まんたん、岩の下の清水何(雉、俎、徳利酒)
31 黒い山に坊主三人|松明《たいまつ》点《つ》けてるもの(鍋の下の火)
32 晩になると一人先に行く物。また、晩にぶらぶらついて行く物(提燈)
33 山の奥から白い物冠つてオーイオーイ呼んで来る物(沢)(信州地方にては、流れ来る川、すなわち谷川をサワと言う)
34 朝お休みして夜になるとお早うする物(電気燈)
35 親が一人に子が何万人(千成瓢箪)
36 大きな口から呑んで小さな口から吐き出すもの(鉄瓶の湯)
37 黒山町の鍋下郡に火事があった何(鍋下の火)
38 夜往って朝復つて来るもの(雨戸)
39 二人揃って珠数繋いで地獄へ行く物(火箸)
40 往きも復りも小糠の御馳走(鋸)
(164)41 世界に大風呂敷一枚(天)
42 上《かさ》の方から白い手拭冠って、オーイオーイと呼ばって来るもの(川)
43 畑へ石垣作る物(馬鈴薯)
44 袋の中に粟一升(酸漿)
45 海に燕一羽(19と小異なり)(水桶に柄杓)
46 つめばつむほどふえるもの(貯金)
47 切っても切っても切れぬもの(水)
48 木の枝に茶碗敷の乗ってる物(そだみ)(そだみとは団栗に似て小さきもの)
49 左の腰にぶらさげて右の手に持てる物(軍刀)
50 木の枝に坊主いる物(小梨(ズミのこと))
51 障子一重に稚児千人(マッチ)
52 胡桃の下でお前そっち往けわしこっちいくで、またいき合うまいか(足袋の紐)
53 毎日夫婦伴れで歩く物(下駄)
54 木の枝に蒲団敷いて笑っとる物(柿)
55 青竹の節なし(根深(葱))
56 首なし皮なし手なし足なし白い物(雪)
57 遠くて近いもの(電話)
58 木の枝に石垣積んどる物(石榴)
59 木の上て石垣積んどる物(胡桃)
(365)60 冬になると白く、夏になると青くなる物(山)
61 穴七つ(耳に目に鼻、口)
62 高くて低い物(水に映ったお月様)
63 小さい時は皮が厚くて大きくなると皮が薄くなるもの(筍)
64 削れば削るほど、でかくなる物(節穴)
65 赤花に、にお二つ(乳)(原注。赤肌か。におは藁二本のにほか)
66 人が食わしてくれねば食いたいって口をあいてる物(皸《あかぎれ》)
67 恐ろしく面白いもの(軽業)
68 腹から食って背中へ出す物。また、往く時も返る時も糞をひる物 (鉋)
69 火の中へ入れると熱いって飛び出す物(栗)
70 右の手で持てんもの(右の手)
71 往く時うなって返りに歌謡ってくる物(人が肥《こえ》をしょって歩く時)(原注。この謎、平地に田畑ある地にては詰まらぬものなれど、木曽にして初めて意味をなす)
72 すいまえ(水前)すいしよ(水所)にゆうご(夕顔)の葉一枚(畳)
73 下(または底)がなくて蓋がある物(蚊帳)
74 お寺の中に小坊主一人(酸漿)
75 木の上にお歯黒付けて笑っとる物(栗)
(追記)
1 竹山の大風で向うの木山は大火事(火吹竹)
(大正十年三月十二日早朝)
(366)2 朝は頭を西に向け、夕は頭を東に向け、自然と姿の消え行くもの(立つ人の蔭)
3 この年の春から毎日使われて、来年の春に御暇を願うもの(暦)
4 四つ足太鼓に四つ羽鳥、羽を扇《あお》いでむくど〔三字傍点〕を散らし、下へ落とすは正味なり(唐箕)
5 生きて腐らぬ末代の橋懸け(石橋)
6 毎日使う物、時々減ったり増えたり、よく見ても見ず見ず言う物(水)
7 青天井にずいのう(篩)の目(星)
8 片|小縁《こべり》舟で風起きて、ごみを流して小砂を打ち寄するもの(板箕)
9 さす時ささぬ物、ささぬ時さす物(傘袋)(大正十年四月二日夜七時) (大正十一年三月『集古』壬戌二号)
五
長野県北安曇郡北城村字嶺方馬場治三郎氏輯
1 四角畑に牡丹一つ(火鉢と火)
2 熱田の宮に徳利の昼寝(無官の太夫敦盛)
3 目三つに歯二つ(下駄)
4 日本に藁三把(須原、安原、京の小田原)
5 萱屋の下の板屋の下の渋屋の下の旨い物(栗)
6 日本に弓一挺(虹)
7 日本に足袋三足(行く旅、来る旅、帰る旅)
(367)8 足三本でししろ〔三字傍点〕背負う物(ワタシ)
ワタシとは、下図のごとき板金製にて、後の長《たけ》一尺六寸五分、前長一尺二寸、幅二寸七分、脚長二寸三分、板金の幅四分、その厚さ一分。これは餅、握飯、塩魚を焼くに用ゆ。他地方には鉄の丸棒製なるを用ゆれども、この地方は平鉄を用ゆ。大小種々あり。握飯をいくつと言うて鍛冶に注文す。図するところは握飯四つ載せるものなり。
シシロとは、図のごとき木挽きが挽き割りし板なり
9 親はたけたけ子はりんりん、花は咲いても実のならぬもの(若荷の子)
10 日本に餅三切れ(銭持、金持、借金持)
11 めんめんすうすう毛虫にかあたけ(目、鼻、耳、眉)
幼児は目をメンメなどと言う。スウスウは息に象《かたど》る鼻のこと、毛虫は眉毛、カアタケは茅蕈にて耳。
12 日本に餅六切れ(血持、痰持、病気持、銭持、金持、借金持)
13 顔は丸々尾長鳥(柄杓)
14 青い座敷に黄金ばらばら(空の星)
15 内のぐるとを鉦叩いて廻る物(あもち(雨垂))
16 日本に笠一枚(太陽)
17 ?におの字の付く物(大骨、栂指、奥歯)
18 骨組、針ぼそ、袋かずき(茄子)
19 袋かずき針売り(茄子)
(368)20 日本に足袋五足(白足袋、黒足袋、行く旅、来る旅、帰る旅)
21 ここの間《ま》座敷に行燈八張(一間暗い)
22 川端にいい(好)女一人(ホーキ婆(蕗のとう))
23 いっとやっと飛んだとこ(いわい(弱)ちごー(稚子))
いっとやっととは、地方語にてようやくの意。とんだとことは歩いた処なり。地方では幼女子をチボまたはチゴといい、幼男子をコボ、コンボ、ボウと区別して申すようなり。
24 日本に鉈三挺(あなた、こなた、そなた)
25 サアと言われて帯解いてアアいいないいな(風呂)
26 朱塗の盆に糞チョクリ(武蔵坊弁慶)
27 たけ頃九寸、夜昼物とは言いながら、くしゃくしゃすればマアかいる(木枕の上に小枕)
28 川の中に布一反(川は河内《こうち》、布は野口)
29 石の上に血一つば(石は石阪、血は千国《ちくに》)
30 田と田と島の中廃|《よ》して家《うち》を作る物(八幡太郎義家)
31 板の上に血|一《ひと》塊り(鼬)
32 戸溝の上に櫛一枚(戸隠し様)
33 十里往って九里帰る物(徳利)
34 二つ子の火ぼす(弄)り(火箸)
35 三角書に坊主一人(酸漿)
36 天から落ちてじじいの神に笑われた(栃)
(369)37 隣へ往って大糞こく物(すり臼)
38 銅堂坊主千人(大根おろし)
39 多|下《しも》の新助、中飛んで藤三郎(鉤つけ)
40 崖に梨一つ(あぶなし)
41 一人で持てない、二人で持てる物(畚《ふご》)
42 切っても切っても切れないもの(水)
43 隣へ行って白粉つけて来るもの(篩)
44 木金に責められて千年|倒《さか》さまにぶら下がる物(麻)
45 見ても見ても見えぬもの(風)
46 歯一本で千年暮らすもの(鉤つけ(39参照))
47 板と金に挟まれて居る物(苧麻《まお》)
48 四足背中で歩くもの(草鞋)
49 臭にこいの座敷に昆布二枚(便所の踏板)
50 骨もない、皮もない、いきのほやほや(糞)
以下壬戌一號所載のつづき
35 始終ぶつかって居て音のしない物(瞼《まぶた》)
36 損して大穴の明いた時、穴をもって繕う物(網)
37 口から物を食って目から物を出すもの(篩)
38 馬のような顔で竹の葉のような羽根の物(バッタ)
(370)39 足なくて走り、口なくて呻《うな》るもの(風、波)
長野県北安曇郡小谷村戸土武田豊氏輯
1 内の内の力持(鉤つけ)
2 内の内の憎まれ物(ショウバイシ(商売師か))
(ショウバイシはジョウバイシの誤り。草鞋、草履等作る時、藁を槌で打つに用うる石。)
3 内の内の大飯食い(五徳)
4 日本にぐみ一つ(美濃の谷汲)
5 あの窓なぜ泣く(なくも道理はり付けられた)
6 アノ金(アノ〔二字傍点〕金はオ〔傍点〕金の誤り。)の頸に鈴一つ(火箸)
7 内のぐるりに針千本(金《かね》っ氷(氷柱))
8 おにヤ、おねヤ、黒いはざごが白い
おに〔二字傍点〕もおね〔二字傍点〕も、畑の土の盛り上がりたる処、ウネのこと。や〔傍点〕は接続詞。はざご〔三字傍点〕は畦と畦との間の地面にて、古い障子を白い紙で貼り替えた時の状を言う。
9 天から落ちて地ころんで金物くわえて火飛んだ(胡桃)
10 天でこっくり地でこっくり山田でこっくり八こっくり(手毬突き)
こっくりは手毬の跳る状か。坐睡《いねむり》をする時、頭を前へ下げたり上げたりするをこっくりというがごとし。山田は、遠方の山畑のみならず、家の側にある田畑以外ちょっと離れた田畑をみな山と言う。たとえば、学童に汝の内の衆は何処へ在ったと問うと、山へ行つたと言う。どこの山へ行ったと問えば、どこの山(田や畑)へ行ったと答う。思うに、山田は毬を手の甲へ上げた時のことならんか。
(371)11 毛(イ)千、目(イ)千、針千(菅簑)
12 池の上に舟一艘(鍋蓋)
13 兄弟三人首かしが(傾)り(五徳)
14 四つ子の背中焙り(囲炉裏《いろり》ぶち)
15 何年たっても十四の物(とおし(篩))
16 朝起きて畳の目を勘定する物(箒)
17 踏んだり蹴ったりいただいたり(二階)
18 木どう金どうからくりどう、急いで通る早男(鉄砲)
19 隣へ往つて頬ぺたたたかれて来る物(篩)
20 山からへそ巻いてくるもの(雪のごろ)
へそとは、麻を績ぐ時少しずつまいて小児の頭ぐらいの毬にし、水に浸して紡ぐ、この毬を言う。雪のごろとは、急傾斜地の積雪が晴天にあいて湿気を帯びると、わずかの雪の崩れが基となって転々大なる雪塊となって落ち来るを言う。ただし、なだれではない。
21 山に白い股引はいて居るもの(大根)
22 山で尻をむいて居る物(ハッツビ)
はだかほおずきのことと思うが、異なる点は熟しても赤色にならない。熊楠いわく、はだかほおずきにあらず、同科別属に隷するいがほおずき、またの名いねほおずきと見ゆ。
23 蚊帳の中に玉一つ(酸漿)
24 六角堂に僧一人、人も来たらず戸も明かぬ(同上)
(372)25 岩あ、まある霧や、ふる(粉挽臼)
26 岩の頭に枯木一本(同上)
27 がんがんぴしに棒一本(同上)
ひしとは岩山のことにて、削り立てたような岩山で、草木の生じてない岩石の崖を言う。ひし山、いおのひし、しょうぴし等、ひし名ある所多し。
28 がけのはなに麻《お》一かけ(馬の尻《けつ》)
29 割れてくれくれ生まない内に(卵)
30 赤牛や黒牛のけつなめる(炉に懸けた鏑)
31 天にも付かん地にも付かん中ぶらり(火山《ひやま》)
32 内見りゃ赤い物、外見りゃ黒い物、為《し》てみりゃ面白いもの(かるた)
33 千すりすつてん舟の片はじ(籾糠)
34 棚から落ちて孕む物(孕む〔二字傍点〕は歯むく〔三字傍点〕の誤り。)(かいもち)
35 棚から落ちて震いる物(蒟蒻)
36 小僧大鉢巻(はりまき)して屋根へ上る物(菰手石)
こもで石とは、蓆《むしろ》をあむ時、繩を巻く石のこと。現在は木にて作る。またコモズシロともいう。
37 小僧が腰の物さして井戸へ飛んだ(柄杓)
38 負けた角力に花入れた(桃に鶯、花違い)
39 山から鈴振って来る物(大豆)
40 天から貴人が舞い降って菩薩の衣を舞い揚げた(くるまや(水車屋)の米搗き)
(373)41 雀千本の竹藪をすべ(稈心)くわえて通る(蓆織り)
42 落ちそうで落ちん物(牛のきん玉)
43 入る時入らぬ物、入らぬ時入るもの(風呂の蓋)
44 いくら新しいものでも古いという物(篩)
45 笠冒つて頭出して居るもの(ランプ)
46 二人兄弟、中他人(煙管)
47 二つ子の火いじり(火箸) (大正十一年五月『集古』壬戌三号)
六
新潟県に行なわるる謎々。主として自分住所近辺に行なわるるものなれど、佐渡や頸城郡辺のものもあり。岩船、古志、三島、魚沼四郡のみ全く与らずという。
中蒲原郡大江山村星山貢氏報
(一) 作物に関する物
1 やま(畑のこと)ねごとばな〔五字傍点〕たらしてるもん(綿)
2 殿様三人針千本(栗)
3 釘屋の隣は皮屋、皮屋の隣は渋皮屋、そのまた隣は旨いもん屋(いが栗)
4 天から落ちて地ごろんで青葉のころもをふんぬいで、ほど(囲炉裏)中へはいって金《かね》くわえるもん(胡桃)
5 土の中ね瓢箪二つ(落花生)
(374)6 六角堂に小僧一人、人も詣らぬ戸も開かぬ(酸漿)
7 ちぐらの中の丸いもん(樫の実)
8 さん俵の上の赤いもん(柿)
9 天上からさん俵冒つて落ちるもん(柿)
10 天上から其赤な顔して落ちるもん(柿)
11 天上からチグラに乗って落ちるもん(シダミ(櫟の実))
12 あっちの屏風の陰に小僧千人、こっちの屏風の陰に小僧千人(石榴)
13 山から綿帽子冒つてくるもん(ぜんまい)
14 酒に酔った大根(人参)
15 赤い足した散切子(人参)
16 親は竹々、子は蓮華、蓮華の中に花が咲く(若荷(中蒲原))
17 親は高いタカーエ(竹)、子はチンコ(小さい)、チンコの頭に花が咲く(若荷(刈羽))
18 白い足してゾックリ立てるもん(大根)
19 三斗袋に粟一升(ほおずき)
20 天上から笠冒つて落ちるもん(ゴイシ(櫟の実))
21 畑中に赤い舌出して居るもん(なんばん)
22 蔓にぎりぎり絡まって天上へ往って赤い口あける(れいし(苦瓜))
23 借屋が十軒あつたが、一軒焼けた(芍薬)
24 朝日に向かって赤い口あけてるもん(無花果)
(375)25 天道様に向かってお歯黒付けてるもん(山椒)
26 魚の子(鮭の子)の木登り(茱萸《ぐみ》)
27 天上から棒をふりふり降りてくるもん(銀杏)
28 天上から桐油紙きて落ちるもん(無患子《もくろじ》)
29 こそこそ七こそ(桜こそ、枝こそ、葉こそ、花でこそ、見てこそ、よこそ、うらでこそ)
30 ヤマ(畑)ね赤い足して簪さしてるもん(蕎麦)
(二)家、家具、農具
1 あげたりさげたり、左五右衛門どん、人足揃えて小走りどん(自在鉤)
2 大男の達者持ち(自在鉤)
3 一段畑にうね一本(屋根のグシ(棟))
4 大口小口、鏡の上に弓一張(鉄瓶)
5 木だん皮だん竹のだん、中に菩薩が躍るらん(箕)
6 早起きして水へ飛び込むもの(柄杓)
7 朝早よ起きて水あぶるもん(柄杓)
8 早起きして畳の目を数えるもん(帚)
9 若い時白髪、年寄の黒髪(帚)
10 食い食い瘠せるもん(帚)
11 あっちの山ねボタ(ボタ雪は大片なる雪)ふる、こっちの山ねあられふる(綿切り)
12 泣き泣き太るもん(紬《つむぎ》)
(376)13 朝早う起きて地獄の底まで行ってくるもん(釣瓶)
14 井戸中ね地蔵様一体(釣瓶)
15 朝早う起きて上下走るもん(雨戸)
16 八人の小僧があっちの山飛び、こっちの山とぷ(こも槌(こも編みの槌))
17 八人の山伏が向う鉢巻で、あっちの山越え、こっちの山越えするもの(こも編みの菰づつ)
18 そんまそくらに駒一疋(角隈《すみこま》(隅の意))
19 四角四面の四つ脚で、中は九れんで十れんで、鷺と烏のたたかいは(碁盤)
20 たんたんたる木の竹たる木、油障子の水弾き(傘)
21 お竹とお葭《よし》と縛られて、何にもしねがんね縛られてあまり御笑止で顔隠す(壁)
22 黒犬のけつ、赤犬がなめる(鍋)
23 黒男の大屁こき(鉄砲)
24 年寄りの足(?燭(老足))
25 六角堂に小僧一人(六角提燈(六角形の骨に自家にて紙を張り用ゆるもの))
26 朝起きて障子の目数えるもん(はたき(払塵))
27 細道の井戸(柄杓)
28 入用の時入らず、入らん時入るもん(刀の鞘また弁当の蓋)
29 ニワ(納屋に相当す、越後では多く母家の一部分なり)の化物(唐箕)
30 細道塵|銜《くわ》えて走るもん(蓆機のサンゴ(藁を挿入する具))
31 掛けても掛けても拝まぬ仏(かけごも)
(377) 維新前後までは、ほとんど毎戸室と室との通路に戸の代りに蓆をかけ置きしものなり。その後ようやく減少し、二、三十年前まではなお各地に見られしが、今はほとんど稀《まれ》なりという。
32 一段畑に花三本(下駄の穴)
33 天上ねブワブワ、下ねゴワゴワ、おっ転びおっ下りコウツの角何(雷、石臼、瓜、茄子、茗荷)
34 鬼でもかずかんねもん(井戸)
35 内のぐるわにじゃ(蛇)一疋(小便所(ジャと訛る))
36 戸がててがたがた(外方(とかた、戸外のこと))
37 二つ子の火焚き、四つ子の背中炙り(囲炉裏)
38 朝早よ起きて細道走るもん(雨戸(15参照))
39 使わんときすごめて、使う時開くもん(傘)
40 使わんとき縦になって、使う時横ねなる(天秤棒)
41 目が三つ、歯が二枚(足駄)
42 親は起きてて子はねてるもん(梯子)
43 あんにゃ(兄)が家から火が出る、オゲ(弟)が家から煙が出る (煙管)
44 雁筍の吸物(煙管)
45 細道から煙が出る(煙管)
46 細道に火事がある(煙管)
47 白い鼠は泣き泣き太る(ツンヌキ(紡))
48 重荷かずきの駄賃とらず(履き物)
(378)49 頭たたかぬと言うこときかぬ物(釘)
50 見る時いらぬ物、いる時いる物(芝居の幕)
51 蓮華座に目が三つ(表付き下駄)
52 親子三人首曲り(五徳)
53 大川|一《ひと》跨ぎ(鍋の蔓またおかわ)
54 頭あっちゃい(熊楠謂う、熱い?)、尻痛い(?燭)
(三)食物
1 被れ草履(白米)
2 棚から落ちて歯をむくもの(牡丹餅)
3 天上から落ちてビクビクする物(蒟蒻)
4 孕み女と掛けて(鰻頭)
5 金の座敷に腹切つたもん(煎豆)
6 あの子可愛や乳足らぬ(ほしこ(ゴマメまたメザシ))
7 屋根葺の睾丸(釣し柿)
8 海の底にいろはのいの字(かながしら)
9 なんばなんばなななんば、なんばの尻べたに糸繩付けてジーハヨーハと引っ張るもん(納豆)
10 白石黒石ザンザラ石、浮いて流れる蓮の葉(カテメシ)
農家て食う雑飯。白石は米また大根の類なるべく、黒石は麦、ザンザラ石は小米、蓮の葉は大根の葉または干し菜。
(379)11 上白壁で中泥の水(卵)
(四)気象
1 家の周りを鉦敲いて廻る物(雨垂れ)
2 屋根に柴一把(カネコオリ(氷柱))
3 天上見れば煤がふる、下見れば綿がふる(雪)
4 家の周りに針千本(カネコオリ(氷柱))
(五)人事
1 お前あっちへいがっしやい、おれこっちへいぐ、結ぶの原で逢いましょ(帯)
2 一段畑に豆一つ(出臍)
3 婆に逢って爺にあわぬ(唇(発音の状をいう))
4 橋の上ね生首一つあけて見たれは歯がみえぬ(話)
5 骨なし皮なしズラクラばったり(屎)
6 敷居の上ね銭五文(御門跡様)
7 赤ズンド(筒)ね味噌フットツ(一杯)(肛門(しりご))
8 十八里の頭(クリクリ坊主)
9 削るほど太る物(穴)
(六)地名および人名
1 ぶちが尾くわえて走った(大淵(中蒲原郡大江山村字))
2 雷の半鳴り(半五郎(人名))
(380)3 爺様《じさ》子|負《ぶ》て産した(高山寺(北蒲原郡加治村大字))
4 二郎の背中丸一つ(次郎丸(同郡笹岡村の大字))
5 馬乗りほめた(馬越、沼垂、本所(新潟市、中蒲原郡大杉村))
6 あの子棒ふんで泣いた(牡丹山、中の山、麓(中蒲原郡石山村の大字小字))
7 石の上ね紙一枚(石上(南蒲原郡栗林村の大字))
8 竿の上穂一本(本成寺(同郡内の村名))
9 上ね木一本(上木戸)
10 下ね木一本(下木戸(中蒲原郡石山村大字))
11 前に簾がある(前須田(同郡須田村の大字名))
12 かめ担《かず》てガタガタ(亀田(同郡の町名))
13 田の中ね亀一疋(亀田)
14 山ね木一本(山木戸)
15 中ね木一本(中木戸(同郡石山村の大字名))
16 田中ね柴一把(新発田(同郡の町名))
17 袋冒つて匐《ず》った(袋津)
18 重(重箱)の中ね鮒(城《じよう》山、舟戸山(同郡亀田町の大字名、ジュウをジョウと訛る))
19 荷|担《かず》てガタガタ(新潟)
20 佐渡と越後(一ぜん火箸(越前東))
(七)ほとんど体をなさぬ無意味のものにて、小児同士の間に行なわれ、彼らの作と見ゆるもの
(381)1 七なんぞなんぞ、といでといで尖《とん》がって、くるくる廻って目が廻る
2 寒の内暗い(ガンクロ(寒の九日目))
3 下駄と足駄と片々同志(女中)
4 溜桶中にアブラゲ一枚、?《あ》げて食うもん根性賤し
これは謎をかけられ分からぬ時、「アゲタ」と言う。その時掛けた者かく言って囃すなり。
5 台の上ね紙八枚(ハネ杭(川中の))
6 川中ね地蔵様一体(ハネ杭)
7 川中ねグラグラしてるもん(ハネ杭)
8 けつもクラクラしてるもん(猴)
9 センナジ(セセラギか下水のこと)中ね蜜柑がある、取ってくえばやや(賤)しんぼ
熊楠謂う、紀伊東牟婁郡七川村で、台所の水を流す小溝をセセラギという。『塵添?嚢抄』巻五に、「不浄なる水をセセナキというは何の字ぞ、また片言か。セセナキとは誤りなり、セセラキと言うべし。湾と書く、また潺湲《せんえん》とも書くなり。ヤリ水のことと言えり。『白氏文集』、悟真寺の詩にいわく、「山を去ること四、五里にして、まず水の潺湲《せんえん》たるを聞く。これより車馬を捨て、始めて藍淡の湾《せせらぎ》を渉る」と侍り。溝あるいは小川のことなるべし。あながち不浄の水をしも言うべからず。常に不浄の水なんどの流れやらぬ所を言うも、小水の心なるべし。不浄の義にはあらず。『太平記』にも、セセラキ水に馬の足冷やして、と書けり。ただ小河なり」とあれば、文安・天文の間すでに溝や下水をセセラギまたセセナキと呼んだらしい。潺湲は小流の走る音らしい。(大正十年十二月二十日夜十一時) (大正十一年十一月、十二年一月『集古』壬戌五号、癸亥一号)
(382) 謎々余言
本誌庚申五号「八戸の謎々」について、大正九年十一月六日出、中道等氏より来状あり、いわく。
拙者差し上げ候謎の中に、「天上ガラガラ地カラカラ、十五六爺様のベコの角(サイカツ〔四字傍点〕)」は、サイカチに相違|無之《これなく》候。誰もが「十五六爺様の」と申すは何のことか分からず罷り在り候ところ、ツイ五日前に、それは「ジゴロビ、ジサガリ」(地転び地下りか)と言うが本当なりと、ある老人に承り、あるいはそんなものにてありしかと存じたることに有之《これあり》候。「海の向いの雁一羽(井戸車、あるいは釣瓶《つるべ》繩とも)」。これなどは何のことやら、言い聞かしたる人も、よくは知らずと申しおり候が、謎々の時は誰もすぐ思い出すと見えて出題する様子に御座候。
本年八月末より九月始めまで、小生高野山に滞在中、ある院主と話すに、その人「舎利弗《しやりほつ》の眼の鋭きは内に智慧あるゆえじゃほどに」と繰り返し言いしも、何の訳かさっぱり知らずに言いしように見受けて、後日他の人に問いしに、以前和讃とか論偈とか称えて、仏経中の成語を和解し、鄙俗半分の辞に作って小僧などに記誦せしめた物の由。それを何のことと分からずに、ただその辞を記臆したると見え申し候。
まずはそのごとく、最初何とか海の向いの雁一羽らしく見える井戸車、または釣瓶繩が、陸中の一地方に用いられし時、右様の謎行なわれしが、おいおい井戸車の製も変わり、一向、海の向いの雁らしく見えぬ今日に及んでも、この謎は依然俗間に行なわれおるらしし。さて、ジゴロビジサガリが十五六爺様と訛転さるるようになっては、容易《たやす》く本義を解しかぬることとなるべく、やや似たる例を一つ申し上げんに、当地方の小児、何の訳もなく「エビシリ赤い(383)な、猴の尻ぎんがりこ」ということあり。いろいろ聞き合わすに、英語のエービーシージーにちなんで、かかることを言い出せし、と申す。それでは猴の尻云々の意味分からず。
これは『嬉遊笑覧』に、「『犬筑波集』猿の尻木枯し知らぬ紅葉かな、『尤の草紙』赤き物猿の尻、『犬子集』むかしむかし時雨や染めし猿の尻。また丹前能、日高川の故事を語るところに、何ぼう畏ろしき物語にて候、猿が尻は真赤《まつか》いなと語る、とあり。これらみな幼稚の者の昔々を語る趣きなり。猿は赤いと言わんため、また猿と蟹の古語もあればなり。赤いとは、まづかくという言の訛りたるなり。まづかくは真如v此なり、それを丹心丹誠の丹の意に、まっかいと言えるは偽りなきことなるを、後にその詞を戯《ざ》れて猿の尻など言い添えて、ついに真ならぬようのこととなりて、今はまつかな嘘と言う。こは疑いもなく明白なるをまつかと言うなれど、実は移りて意の表裏したるなるべし」とあり。
この物語の末に猴の尻は真赤いなということ、一向この辺へ承らぬことながら、遠からぬ山村中に残り存せしかと思わる。その猴の尻と等しく鰕も煮れば赤いもの、そこへたまたま英語の稽古行なわれてABCDということ大流行となりLより、ABCDを鰕の尻と言い掛け、鰕尻赤いというより猴の尻の赤いが鰕の尻に移り去って、猴の尻の赤きをいわず、ギンガリコ(胼胝《たこ》、すなわち猴の尻の栗ムキと申し、厚き皮を被《かぶ》れる所を、この辺は旧くギンガリコと申す。ギンガリコはギクギク剥《む》くなど申す通り、栗の皮などを磨り剥く音の形容より出たることと察す)といい連ねて、語調を整えたると分かり申し候。
この通り、かかる童語や謎々の詞の変遷転訛はわずかに間一髪のかわりめより、思いの外のことになりゆくものゆえ、人間一代二代のあいだには原意を失いたること多かるべし。上述の皀莢《さいかち》の一条ごときも、全く何かと分からざるも、まず皀莢は、長さ尺余、幅寸ばかり、莢《さや》の皮薄く屈曲して、中に扁たき実あり、カラカラ鳴るものにて、莢の上も下もカラカラ鳴るゆえ、天上からから地からから、地ころび地さがりは、地に向かって垂下し落ちれば、地上を転(384)びまわるよりのことと存じ候。それを只今は八戸地方には皀莢を多く見ぬことともなりしにや、十五六爺様のベコの角と何のこととも分からぬように聞き取って、分からぬなりにすますこととなりたるように思わるるなり。(大正九年十二月二十一日早朝四時認) (大正十年十一月『集古』辛酉五号)
(385) 古来伝習男女間大和言葉
紀州日高郡上山路村大字|丹生川《にゆうのかわ》西面寛五郎集
熊楠申す。西面はニシオと訓む。『群書類従』巻四二四『見聞諸家紋』に、西面氏の紋、一の字の下に相対せる蝶一双を図す。そのニシオと訓むより推すに、あるいは西尾氏と同源なるにあらざるか。記して博雅君子の高教を俟つ。
1 一世二世とは思えども、お城の内の作り花と思います(美人に心掛けても及ばぬこと)
2 天に掛け橋、霞に千鳥と思います(以下、と思います、を略)(美人を欲しいけれども及びがない)
3 朝日に輝く軒の玉露(見上げて見れば美人である)
4 お滝の上の弓矢の稽古(主様が居ねば行って見たい)(熊楠いわく、沌壺に魅物《ばけもの》住むをぬし様という)
5 道海道《みちかいどう》の打懸け羽織(一度きて行っておくれ)
6 石の巾着、絵にかく戸棚(よもや明くとは知らなんだ)
7 石の手水鉢、紺屋の柄杓《ひしやく》(堅い約束相組みたい)
8 鰻の瀬上り、野辺のしおれ草(よれつもつれつ添うて見たい)
9 川端のさつきの花(美しく見るばかり)
10 お前様には秋田の土(地?)蔵様(あなた様には呆れ参った)
(386)11 お前様とは天井裏の釣鐘(あなたと添うて見たい)
12 椎の木の上に鎌八丁(やかましい)
13 きこくの生垣、近所の芝居(行きたいけれど行けぬ)
14 錦御前におこわの立て盛り(糞食らえ)
15 お前様には徳利の中の芝居(早く見たい)
16 四竹《しちく》三竹十三竹、唐の小町のヨウヨウ竹(これほど夜(節間)をこめて見たい)
17 あなた様へは雨落《あまおち》の小沙(外へこけ出て俟つ)
18 奥山の千本杉の若とう(お前ほど迷う美人はない)(熊楠注。とうは芽のことと見ゆ)
19 お前様へは岩のはざまの鰻(そんなことを言われては困ります)
20 せんだんの木、鶴おりて孔雀の鳥にやみ烏《からす》(幾千世幾千世と思う館でくらしたい)
21 庭にせんだん、孔雀の鳥(見上げて美しい)
22 八反畑にけしの花(お前様には見込みがない)
23 千里川だけ唐紅の豊年(女が月厄に居るを言う)
24 唐の横町三丁目紺屋の日(?)縮色(同断)
25 千打つ波の打返し(つらをはりてやりたい)
26 九ツ間に八ツ行燈(お前様と一間暗げて添うて見たい)(「間暗げて」は「枕(間暗)で」を正とす。)
27 浅黄襦袢に六月の樫(逢初で懐かしい)
28 峠々は千八百八峠の休み場の松のつり鏡(相持で添うてみたい)
29 峠々は千八百八峠のくら下の孔雀の鳥(空から見下げられても名は誉められる)
(387)30 せんだんの木に鶴一羽(他人より望まれても愛の主であります)
31 桐の小枕、錦の振袖(抱かれて添うて見たい)
32 萩の若とう(芽か)菜種の二葉(可愛らしい)
33 遠く隔てて千里が藪(お前のような人は怖ろしい)
34 空飛ぶ鳥でも心を残す(元の古栖に二度帰る)
35 奥山の千筋道(お前様には迷いました)
36 奥山の四本立の杉(お前様と世過ぎがして見たい)
37 お前様はまだ蛇の一年子(まだ穴は知らぬ)
38 峰の白雪、麓の氷(解け合うて縁を結びたい)
39 二階に糸萩、糸桜、萩の噂がないならば、お前の松の露になりとう思います(あなたの妻になりたい)
40 沖中の舟違い(互いに振り向いても逢いとうない)
41 奥山の一羽烏(一人でなきくらす)
42 奥山の一木桜(美しく見たけれどたびたび逢えぬ)
43 岡に釣舟、野原のあひる(あなたを見ずに焦がれる)
44 川向いの千両箱(欲しいけれども及びがない)
45 土手の蛙と枯木に螢(同断)
46 奥山のツツジ椿を御覧なさい(どんな所へ行つても立派に花が咲きます)
47 天より高くさく花も落ちてごもくの下になります(いかほど貴い美人でも堅固の門を開かれたら愚痴な男の下となる)
(388)48 あなたは夜《よる》着た飾(昼見ればさまでにない)
49 山で木の数、草の数、千里が浜の砂の数、三千余りの星の数(あなたのような人は世間に多くある)
50 天火に輝く沖の白雪(この解なし)
51 谷に大木、出合いに桜、空で申せば藤の花(同上)
52 樫の木の六本立(あなたの申すことは六《むつ》かしい)
53 石の鏡に小豆の豆腐(見えもせず寄りもせぬ)
54 堅い約束、石山寺の岩に証文、金の印(確《かた》い約束して見たい)
55 竹の丸橋、箱入り娘(行ったら落ちる)
56 小袖の袂に床の塵、結ぶの神があるなれば淡島の神(あなたに妻がなければ行ってあげたい)
57 あなた様には奈良の猿沢の池(七分の恋が身を焦がし、三分の水にも流れる)
58 あなた様にはお庭の梅の一枝(美人なれども鼻が低い)
59 二階に浄瑠璃、裏に三絃(逢って語りたい)
60 岡に夕立、昼降る雨(惚れてたまらん)
61 八畳の間に幼な子の居睡(しおらしや)
日高郡中山路村大字東の人五味清三郎氏に、四月十八日夜親しく聞きしは、大和言葉は恋に関し男女状をとりかわす時、また他人に伝言する時の用辞なり。「あがりど(上戸)の美徳」といえば、蹴り落とすぞ、「深山こぶしの花」といえば、遠眼によいと意味するごとし。かつて大和の天《てん》の川にて美女に物言い掛けしに、「天竺の物さしと思います」といいし。何のことか一向分からず、「物さしは鯨」という意で、せもさせぬということならんと思い、心|悪《にく》さに彼女に何のことか分かるはずなきよう、「なんばんけれけつ、ねこにょうにょう」と言いやりし(389)に、呆れ居たり、と。熊楠いわく、これは固なるかな、高叟が詩を解くやで、『著聞集』に見えた「たじろぐか渡しもはてで文見るは」と言い掛けられて無闇に怒った類だ。思うに、以前は天と天竺の別を知らぬもの多かりしこと、『地学事始』の序に福沢先生もいえり。天竺すなわち天の尺度とは、「及びも付かぬ、思い届かぬ」くらいの意ならん。かかる誤解あるゆえ、大和言葉を多く知り心得たる老人あって、分からぬことはそれに親しく伝習せしことと承る。五味氏より夜這いの時用うる手指の執り様をも聞いたが、ここには略す。 (大正十一年三月『集古』壬戌二号)
【追記】
熊楠いわく、右様の判じ物詞を、山路村(和歌山県日高郡上山路村)辺で大和詞と言うは故なきにあらず。『新編御伽草子』中なる『浄瑠璃十二段草子』九、やまとことば〔六字傍点〕の段に、「上るり、この由聞こし召し、こはいかに、この殿は諸事に賢《さか》しき人にてましますぞや、今より後は物言わじと思し召し、木幡山にはあらねども、ただ口なしとて音もせず、御曹司聞こしめし、大和詞に擬《なぞら》えて仰せけるこそ面白けれ、いかにや君聞こし召せ、陸奥の人目忍ぶにあらねども、物は言わじと候かや、津の国の難波入江にあらねども、よしともあしとも言わじとかや、わが恋は物によくよく譬うれば、信濃なる浅間の嶽の風情かや、筒井の水にもさも似たり、野中の清水の風情かや、繋がぬ駒にも譬えたり、云々」と長々述ぶると、返事ばかりはせばやとて姫答う。
「いかにや候、都の殿、浅間の嶽と候は燃え立つばかりの心かや、筒井の水の風情とはやる方なきとの風情かや、野中の清水と候は掻き分け参ると仰せかや、繋がぬ駒と候は主なき物と候かや、絃なき弓と候は引くに引かれぬ喩えかや、根笹の上の霰とは引かば落ちよの譬えかや、下這う葛の風情とは本《もと》は一つにて千々に心を砕くとかや、笛竹の風情とは一よこめと候かや、一村薄《ひとむらすすき》と候はただ一引きに靡けとかや、細谷川の風情とは一度は落ちて一つになれとの仰せかや、うつす水沫《みなわ》の風情とはただ一筋に思いきれとの心かや、二股川の風情とは廻り逢えとの心かや、清水坂の風情と(390)は人目繁きの喩えかや、化粧の帯の風情とは結び合えとの心かや、沖こぐ舟と候は焦がれて物を思うとかや、那智の御山の風情とは申さば叶えと候かや、埋み火の風情とは底に焦がれて上に煙の立つとかや、濃いくれないと候は色に出ずると候かや」と述べて、「十四と十五のことなれば馴れう馴れじの角力草《すもうくさ》、狂言綺語になぞらえて、詞に花をぞ咲かせける」とある。
もって古来かかる判じ物を大和詞と称えたと知る。また、この大和言葉は日高郡山路方面にのみ行なわれたか、他の地方にも行なわれたかを知らんと諸方へ聞き合わしたところ、西牟婁郡川添村および大都河《おおつかわ》村方面にも四十年ばかり以前行なわれたことあり、「空にかけ橋、霞に千鳥(到底及ばぬ)、紺屋の杓(あいくんで見たい)」など言うたと報知された人があった。(大正十一年三月二日) (大正十一年十一月『集古』壬戌五号)
(391) なぞなぞの小唄
謎のこと、いと古く物にみえたるは、『散木奇歌集』七に「ある人のもとになぞなぞ物語を数多《あまた》作りて解かせに遣わしたりけるを、異様《ことさま》に解きたりけるを、また遣わすとてよめる、『いかでもと思ふ心の乱れをば、逢はぬにとくる物とやはしる』」。なぞなぞ物語なる名、今もこの辺で「あてばなし」というに似おる。(『嬉遊笑覧』三に、『拾遺集』、なぞなぞの物語しけるところに、曽爾好忠「わがことはえも岩代《いはしろ》の結び松、千歳《ちとせ》をふとも誰かとくべき」。この時の謎合せは『小野宮右衛門督家歌合』一巻あり、その初めにおのの宮の右衛門督の公達の物語より出で来たりけるなぞ合せ、云々。清少納言に、人のなぞなぞ合せしけるところに、かたくなにはあらで、さようのことにろうろうしかりけるが、左の一番はおのれ言わん、さ思い給えなど頼むるに、その日になりて、云々、それにはりゆみと言い出でたり、云々。熊楠は『散木奇歌集』を最も古い謎の文献と思いおったが、『笑覧』に引いた右の例どもの方が古い。)『?余叢考』二二に、「謎《めい》はすなわち古人の隠語なり。『左伝』に、申叔展の言えるところの「山鞠窮《さんきつきゆう》」、「河魚の腹疾」、公孫の有山(氏)の「庚癸《こうき》」と呼べるは、その濫觴なり。また?詞《そうし》という。『国語』に、秦客、?詞を為《な》し、范文子よくその三を対《こた》う、と。楚の荘(王)、斉の威(王)、ともに隠語を好む、云々。劉?《りゆうきん》の『七略』に、『隠書』十八篇あり。すなわち并《なら》びに輯《あつ》め書となせし者ありしなり。しかれども、みな伝わらず、中略。その名づけて謎というは、すなわち曹魏より始まる。『文心雕竜』にいわく、魏代以来、君子は隠を嘲り、化して謎語となす。謎なるものは、その詞を廻互《かいご》して昏迷せしむるなり。魏の文(帝)、陳思(王)は、約してこれを密にす。高貴郷公《こうききようこう》はまた博く品物を挙ぐ、と。(392)しからばすなわち高貴郷公の時、またかつてこれを輯《あつ》めて編を成せしなり」。支那で古く隠語と言ったもナゾナゾ物語の名に近い。『叢考』の考証によって、古く支那に謎の編者あったと判る。『叢考』に多く挙げた例を見るに、文字の国だけあって、かの国の謎はもっぱら文字の離合を巧みに考え廻らした物だ。(西洋のシャラード(十八世紀に仏人の創製という)とロゴグリフに近くて、しかも別物だ。グラフォグリフとでも名づくべきか。)
リッドル、すなわち事物の相似によって謎かくることも支那にありや。只今ちょっとその例を見出だしえず。嘲詞、謔語などにそんな例多きも、謎を掛けるとは別だ。(リッドルの例は確かにある。『嬉遊笑覧』三に、元の李冶の著書から引いた「われに一張《ひとは》りの琴あって、一絃は蔵して腹にあり。笑うなかれ墨《くろ》きこと鴉のごときを、まさに人間の曲を尽す」。立派なリッドルだ。)
さて本誌庚申一号一三葉裏に、予「東牟婁郡勝浦港などへ船碇泊する時、売淫女集まり来たり三絃ひき騒ぐに、なぞなぞという歌あり。最初に、座付き体に、なぞの面白き事由をちょっと序し唄い、それより一人なぞをかけ、一人これを解く。かけるも解くも唄うてするなり。客多き時は順番に唄いなどす。これは十四、五年前までのこと、今日のことは存ぜず候」と書いたが、頃日上方に安来節大流行してこの田辺に及ぼし、拙家近処にかつて本家本元の安来辺で、七年間二枚鑑札で衆生を済度した年増女が移り来たって、時々三味ずるを聴聞すると、件《くだん》のナゾナゾの唄は全く安来節に外ならぬ。よって、かの地生れの摂陽商船株式会社紀伊川丸事務長杉山康智氏に問い合わしたところ、大正六年六月雲州安来町山本書店発行、安来節正調の家元渡部お糸著『心調安来節』(ジュオデシモ大、八十頁)一冊を贈られた。さっそく通覧したが、一向ナゾナゾの唄を見ず。よって只今かの地で廃《すた》ったことと諦めたが、幸いに杉山氏記臆のままを書きつけ、使いして送られた分をここに出す。
「なぞなぞ掛けうが解かんすか。とけますなぞならときもする。もしもとけないその時は、かけたあなたにあげてきく。サアサアおかけよなんありと。それじゃかけます、解かんすか。……と掛けてなんととく。そのなぞ私の胸にな(393)い、かけたあなたにあげてきく。その謎私が解こうなら、……(解答)心は……じゃないかいな。」(大正十一年十一月二十九日門司出、神戸南洋郵船株式会社サマラン丸船長、安井魁介氏の書信に、瀬戸内海の惣嫁輩の唄う出雲節に、「なぞなぞ掛けるが解かしゃんせ。サアかけなされや、何なりと。……と掛けたら何ととく。そのなぞ私が解こうなら、……と解くわいな。ヨウ解かしゃんしたその心。……じゃないかいな」というようながありました、と。)
熊楠が明治三十四年勝浦港で聞いたは、最初にナゾナゾの面白い由を序した浪速節のマクラのような詞ありて、その中に「淋しい時のうさ晴らし」などとあった。杉山氏はそれを忘れたらしい。とにかくこれでいよいよ出雲の安来節と分かった。熊楠は取りどころのない男だが、壮歳来諸方を遊歴し、自然心が剛強になり、あまり物に動ぜず。しかるに前陳の勝浦で、夜泊の船頭相手に森浦のお米《よね》という名題の船饅頭の大将が、きわめて美声でこのナゾナゾの唄を港内に徹するまで張り上げて唄うを聞いて、太史公が言った通り、詩にこれあり、高山は仰ぎ景行は行く、至るあたわずといえども心これに向かい行くで、何とぞその文句だけでも覚えたいと心掛けたが、あまりの美声に心|蕩《とろ》け、一辞も記すあたわず。
勝浦を去って十余年、あわれ誰かかの唄を唄えかし、文句を授からんと、親の仇同然に心懸けおったところ、四、五年前の春寒肌に逼《せま》る一夜、当時平瀬作五郎君と共に攻究した松葉蘭の胞子を顕微鏡で一心不乱に窺いおる最中、近処でかの唄と同調のものを、新宮からきた絃妓がひきだしたので、一心不乱に及び、椽に出て久しく聴いたが、ナゾナゾの唄は出なんだ。太《いた》く失望しながら、森浦のお米の顔が眼前にちらつき、夢中になって書斎へ入るに、思いもよらぬ片隅からしたので、書棚の針尖を前頭に打ち込み、引き外すとて一寸五分ほど皮を剥《む》かれ、流血|杵《たて》を漂わす体と相成り、当時使いおったこれもお米となんいう十七歳の美女に手を牽かれ、二、三町距てた医家へ道行きせしは、古今無双の烏滸《おこ》の男と、拙妻その他に大笑いされたは、伊賀越えの静馬でないが、どこまでもお米に祟らるる男である。
これがため、松葉蘭の研究は一時蹉跌し、ついに昨年濠州の学者に発見の先を越された訳で、某《それがし》ごとき大剛の者(394)も些細な唄に?倒するは、安来節によっぽど宿対ありとみゆ。これむかしツラキアのオルフェチウスのルラの音には心なき樹木も引かれありき、大樹緊那羅王《だいじゆきんならおう》瑠璃の琴を奏《かな》ずれば、大迦葉《だいかしよう》も起って舞うを禁じえなんだそうだが、頭に一寸五分の怪我までしたとは聞かない。かくナゾナゾをかくる三筋の糸ゆえに、張った心の弛む間もなく、難行苦修の甲斐あって、かの唄の過半を杉山氏から知りえたは無上の仕合せ、付いてはこの上、杉山氏が忘れた発端の文句を知った方々は、ちょっと書きつけて送らるるよう一同様へ願いあげおく。(大正十年九月十六日夜十一時) (大正十一年九月『集古』壬戌四号)
【付記】
『日本百科辞典』七巻、五十嵐氏筆「なぞ」の条に、謎は国製の漢字にして、「人を迷わす言」の義なり、支那にては隠語あるいは?詞《そうし》という、共にかくし詞の義なり、とある。国製とは日本できの意とみゆ。しかし、『増訂漢魏叢書』本『文心雕竜』(蕭梁の劉?撰)巻三に、「魏代以来、すこぶる俳優を非《そし》る。しかして君子は隠を嘲り、化して謎語となす。謎なるものは、その辞を廻互《かいご》して、昏迷せしむるなり。あるいは文字を体目し、あるいは品物を図象《かたど》る。繊巧にしてもって思を弄《もてあそ》び、浅察にしてもって辞を衒《てら》う。義は婉にして正ならんことを欲し、辞は隠にして顕ならんことを欲す。荀卿《じゆんけい》の「蚕の賦」はすでにその体を兆《きざ》し、魏の文(帝)、陳思(王)に至って約してこれを密にす。高貴郷公《こうききようこう》は博く品物を挙げ、小巧ありといえども、用《も》って遠大に乖《そむ》く、云々」とあれば、謎は曹魏の代からあった漢字で、和製でない。
いわゆる荀卿の「蚕の賦」は『荀子』二六篇に出で、功天下に被《こうむ》り万世の文をなし、礼楽もって成り、貴賤もつて分かる、老を養い幼を長ずる、これを待ってのち存す、名号美ならず、暴と隣をなす(蚕食という語)、功立ちて身廃し、事成りて家敗る、その耆老《きろう》を棄て、その後世を収む、人属の利するところ、飛鳥の害するところ(繭ができれば蚕は煮殺され、煮殺されねば蛾化して繭を破り出で人に棄てられ、生んだ卵は取って来年の用とさる。さて人に殺(395)されなんだ蛾は鳥に食らわる)、臣愚にして織らず、請う、これを五帝に占せん。ここまでが問いで、答えには、帝これを占していわく、これかの身|女好《じよこう》にして、しかして頭《かしら》の馬首なるものか、しばしば化して寿ならざるものか、壮に善くして老に拙きものか(若いうちは飼わるるが蛾となれば棄てらる)、父母ありて牝牡なきものか(雌雄の蛾より生まるれど蛾化せぬうちは交接せず)、冬|伏《ふく》して夏遊び、桑を食らうて糸を吐き、乱を前にして治を後にす(繭の内は糸が順序なく巻きつきおり、煮て引けば一糸をなす)、夏生じて暑を悪《にく》み、湿を喜んで雨を悪む、蛹もって母となし、蛾もつて父となす、三|俯《ぶ》三|起《き》、事すなわち大いに已《や》む、それこれを蚕の理と謂わん、蚕と判じおる。こんな風に礼、知、雲、箴の四つをも謎で問答しある。
これを始め、支那に詩体の謎が多い。西洋でも同様で、一二〇六年ごろヘルマン伯の催しで、ワルトブルヒの謎の大会あり。この技の達人、唄で謎をかけ、またとき、負けた者は生命を失うたという。ベーリング・グールド(一九〇五年、三板、一〇章)の説に、古え体格不良の者を社会から除いたごとく、脳力の良否を謎で試したゆえ、謎を解きえずして命を失うた咄多く伝わる、謎の大会に首を賭した話もそんな古風の残ったものだろう、と。明治三十四年ごろの和船や間《あい》の子船の乗組員には、一丁字も知らぬ者多かったが、ナゾナゾの小唄の宴に出て、ある才覚を顕わし、なかった智恵もつく例を、予は多く睹《み》た。よってベ氏の説をもっともと想う。(昭和二年七月十七日)
(396) 軍配団扇
本誌庚申四号五葉裏に、中村君は、戦国時代に軍配団扇が現われたと言われた。紀州東牟婁郡小口村のウネハタという僻地に、護良親王の遺物若干を蔵する旧家あり。その内に軍配団扇もありということで、明治十六年上野公園の絵画共進会に誰かが親王と義貞、正成を一幅に画いた時、それによって親王の手に軍配団扇を添えあったと記憶する。
『碧山日録』、応仁二年正月二十九日の条に、「幸子、東軍より来たって語る、云々、軍士多く紅絹と素練を割《さ》いて小さき旗旄《きぼう》を造り、腰間に挟《さしはさ》み、あるいは和歌を書し、あるいは詩句を書す。外国にこの作《おこない》ありや。いわく、元朝の臣|?伯常《かくはくじよう》、師《いくさ》を出だすに、すなわち一の団扇を持ってその事を指揮し、一場春夢の四字をもって扇上に書す。けだし陟罰臧否《ちよくばつぞうひ》、雌雄《しゆう》勝負は、ことごとく一夢の為《わざ》ならざるはなきを示せるなり。これその死を軽んずるなり。しからば、すなわち書するところの歌は、その蘊《つつ》めるところを発せしもの、容易ならざるか」とあれば、そのころはまだ軍配団扇がなかったらしい。支那画に孔明が団扇を持って軍に臨むところを作るあれど拠《よりどころ》を知らぬ。『晋中興書』にいわく、「広陵の相|陳敏《ちんびん》反す。顧栄、甘卓らと潜かに謀り、兵を起こして敏を攻む。栄、橋を発《ほど》き舟を南岸に斂《あつ》む。敏、万余人を率いて出でしも、済《わた》るを獲《え》ず。栄、麾《さしす》するに羽の扇をもってす。その衆潰散し、事平らぎて呉に還る」(『類函』三七九)。これたしかに軍に団扇を用いたのだ。(大正十年二月十五日午後四時)
(追記)『世説』第七巻に、「諸葛武侯、司馬宣王と軍を渭《い》の浜《ほとり》に治《おさ》め、日を克《さだ》めて交戦す。宣王、戎服《じゆうふく》して事に?《のぞ》み、(397)人をして武侯を見しむるに、独り素輿《そよ》に乗りて、葛巾《かつきん》をつけ、毛扇もて指麾《しき》するに、三軍その進止に随えり、と。宣王歎じていわく、諸葛君は名士と謂うべし、と」とあり。毛扇は羽毛の扇なり。 (大正十年九月『集古』辛酉四号)
(398) 軍配団扇の現われた時代について
沼田頼輔「軍配団扇の現われた時代について」参照
(『集古』辛酉五号一、二葉)
『古今要覧稿』二〇六巻に、「軍配団扇。『鎌倉志』、『和漢三才図会』、『軍器要法』。軍中にて士卒を差引するための団扇にて、尋常用うるところのものとはおのずから別なり。正誤。『単騎要略』にいう、団扇は涼を招き署を避くる所以の器なり、和朝車用に用い来たれることは、源義家朝臣、陸奥安倍貞任を攻められし時、卒《にわ》かに大雨降り下りて麾《き》の莟《しお》れしかば、代うるに団をもって命令せしにその軍勝利ありしより、後代その制の式を立て軍監の要具とせり、おのずからその理に叶いてまことに軍謀の助けとなる物なり。(『一話一言』二一に、『本朝武家根元』を抄して引く。「団は軍監のもつところ、源の頼義朝臣、安部の貞任を攻められし時、にわかに雨降りて旌のしおれしかば、団をもって軍謀せしに軍《いくさ》に利ありしより団を用ゆ。後代にその制は、うちわの軸の頭半月にして、径《わた》り一寸二分、下略。」)按ずるに軍陣に団を用うること、義家朝臣に始まりしごとく記したれども、すでに聖徳太子の団扇ありというによれば、ここに権輿せしにはあらず。ことに『後三年合戦図』、ならびに上野国新田後閑蔵するところ、みな扇にして団を用いたることなし。しかるを団を用いたると言えるは謬りなり」とあって、その前なる団扇の本条末には、太秦広隆寺蔵上宮太子の団扇の図を出す。革二枚で作り、縁ならびに柄を挟む所を革で縫い、表に輪宝、裏に雲、いずれも朱漆で画いた物の由で、取りも直さず軍配団扇の図だ。これが真物なら厩戸皇子すでに軍配団扇を用いたのだ。
京阪また知歌山ては、予の幼時、軍配団扇をもっぱら唐団扇《とううちわ》と呼び、予十四、五歳で本草を学ぶ時、グンバイウチウ(399)という草の図を見てもその名義を解せず、諸同学みな然り。その後東京へ上って初めて軍配とは上方でいう唐団扇と知り、この草の実の形が似たより名づけたと知った。今も田辺などの男女に軍配団扇と言うてもさらに通ぜぬ。黒田孝高の家臣秦桐若という勇士常に唐団扇を指物にして戦うたと何かで読んだから、唐団扇の名もそのころすでにあったので、唐冠、唐鍬、唐箕、それから本多平八と双び唄われた唐の頭、鶏のトウマル、植物のトウガラシ、トウゴマ、トウムギ、トウナスなどと同じく、足利氏の世以降、支那から渡った物の一つと思いおった。能狂言にもこの物を用うる場合があつたと記臆する。
沼田君は、児玉氏の紋は初めより軍配団扇であっただろ、と説かれた。『太平記』三一 、武蔵野合戦の条、「三番に饗庭《あいば》の命鶴《みようづる》、生年十八歳、容貌当代無双の児《ちご》なるが、今日花一揆の大将なればことさら花を折って出で立ち、花一揆六千余騎が真先に懸け出でたり。新田武蔵守これを見て、花一揆を散らさんために児玉党を向かわせ、団扇《うちわ》の旗は風を含める物なりとて、児玉党七千余騎を差し向けらる」。前文によると、これは二月二十日のことで、花一揆の頭領命鶴丸が梅花を一枝折って甲《かぶと》の真甲《まつこう》にさしたのだ。案の定、団扇を旗印にした児玉党に揉み立てられ乱雑して退却したので、尊氏方総敗軍となったのだ。このところを山陽の『外史』に面白く書きおり、吾輩幼時その文をあまねく誦し歩いた。したがって予十歳の時、『紀伊国名所図会』那賀郡粉河祭礼行列に大団扇を騎馬して持ち渡る者数人あるを見、粉河には児玉氏の家が著姓だったから尋ねると、果たしてその家々の人が団扇を持って渡る、と言った。そのころ児玉仲児とて高名の民権家あった。その子に亮太郎とて、原前首相に重用されたが原氏より少し前に死んだ人は、予の知人であった。伊都・那賀両郡、いわゆる川上地方には恩地、隅田、一色、土岐、山名など、南北朝時代の著姓の子孫今も少なからず。児玉氏も必ずそのころ武蔵より侵入して粉河に永住したものと知らる。
さて件《くだん》の粉河祭りの団扇は、予が親しく行列を毎度見た人より聞いたところも、また『紀伊国名所図会』に図するところも、上述秦桐若の唐団扇すなわち軍配団扇の指物とは違い、尋常の団扇のきわめて大きく、その柄はなはだ長い(400)物で、予幼時和歌山の消防夫が用いた大団扇に似おった。(大正十一年五月六日午後、沼田氏、熊楠を銀座二の十四高田崖旅館に訪る。その話に、平安朝にできたる『年中行事』すでに唐団扇の図あり、また前月鹿島神社に遊びしに、神宝に軍配団扇あり、柄長し、采配のごとく用いられたものと見ゆ、と。)
明暦の大火を叙べた『武蔵鐙』に、消防夫、正円形で中に渦紋ある物に長柄を付けたるを用い働く図あり、団扇と見える。元禄前後の板行、石河流宣の『大和耕作絵抄』、火の御番巡回の図には、梯を運ぶ二人の側に、一人は鳶口、一人は大鋸、一人は常形の大団扇の長柄なものと巨槌とを肩にして行く像あり。予が幼時、和歌山で消防に用いたは、それよりはるかに大きな団扇だった。
只今穿鑿しょうにも、当田辺町に『紀伊国名所図会』が一本もないが、中学校長伊藤宣将氏が粉河町出生なるを幸い聞き合わすと返事に、粉河祭りの行列は氏の幼年の時すでに中絶し、近ごろ復興したそうだが一度も見ず、ただし幼時粉河の画工湯川豊風が祭礼行列の図を額に画いて観音本堂西の大師堂へ揚げたるを見た、以前目撃したところを画いたらしい、その内に大団扇二本を人が担いで渡るあり、その団扇には馬を描きあったと記臆す、その他のことは一切知らず、とあった。
『和漢三才図会』二六にも、「団扇、和名|宇知波《うちわ》。方扇、俗に唐宇知波《とううちわ》という。軍配団扇はすなわち方扇なり。大将の用うるところ、その徳一ならず。采幣に代わって士卒を進退せしめ、盾に代わって矢石を避け、略《あらまし》涼を招き、蚊、蠅を除くなり。薄き鉄あるいは革をもってこれを作り、黒漆にして、一の小孔を透して明け、もって敵陣を窺うべし」とあれば、軍配団扇も多少風を起こすの用に堪うべきが、臆説かは知らぬが、犂をカラスキ、連枷をカラサオ、(400)枳をカラタチ、石竹をナデシコなど、同じ唐の字をカラと付けた物は、上に列ねたトウカムリ、トウマル、トウナス、トウキビなどよりははるか古く渡りおるように思う。(寛永二十一年三月、遊行三十六世他阿弥陀仏上人参内して、後水尾上皇御手触れしアンペラの唐団扇を賜わりしこと、『甲子夜話』五〇に出ず。)したがって比較的新しいトウウチワなる名から考えても、尋常の団扇よりずっと重くて、風を起こすに不便な点より考えても、後世は知らず、武蔵野合戦や源平|軍《いくさ》の節の児玉氏の団扇は粉河祭礼の物と同じく、軍配でなくて尋常の団扇であったと思わる。(大正十一年二月十四日夜)
(追記) 大正十一年三月四日、県立田辺中学校長伊藤宣将氏より来書。
先日御来示の粉河祭り渡御の列の団扇について、その後郷里の方へ問いにやりましたが、概要次の通りと承知しました。団扇二本、その大いさは、尺廻りの竹一本、長さ出来上りおおよそ間余のものをもって一本を製します。しかして、形は軍扇(熊楠いわく、軍配団扇をいう)ではありませぬ。やはり(尋常の)団扇で、一方には裸馬を描き、一方には伯市《はくじ》講と大書す。渡御は伯市講という講衆で主催するので、団扇は毎年新調します。それは粉河団扇の本家|菱谷《ひしや》氏がこれに当たり、往昔は米一俵をその張り賃と定めありて、菱谷主人が行列に団扇と共に従うのであります。菱谷は現在神戸市に住するも、祭礼にはわざわざ帰りてこの行列に加わり、団扇張りを務むる由。団扇の竹は、毎年例として対岸竜門村荒見の西十太夫氏より寄付せらるることとなっておるそうです。(熊楠いわく、その辺に北、南、東、西とて、清原氏の四家あり。他は知らず北氏は郷士なりし。天誅組一件の時、この辺へ浪士落ち来たるを食い留めんと土兵を募りし時、北長左衛門という人指揮官だったという。この人は明治十四、五年ごろ県会議員で、その子二人、予知人たりし。南朝廷臣の後とか言いおった。)団扇の列次は、神輿の前に随兵の稚児の騎馬あり、その次に団扇二本並行、その次に粉河の神輿、次に八幡の神輿、次にまた粉河の神輿ということになって、団扇は一本を人夫一人で捧げます。団扇の絵の馬は伯市講の印《しるし》ならんか、伯市講の幕もやはり(402)馬を描けり、とのこと。大字粉河以外より行列に加わるのは、児玉姓またはその分流等の関係ある人々にて、参加の家筋は一定不動の由。ただし団扇は右様粉河伯市講より調製する祭器の一つで、使用後は直ちに破毀しますが、紙片、破屑等も蝗《いなご》を防ぐとか言うて、みな争うて奪い合い帰る由。かくのごとき次第で、御来示の要項たる団扇と児玉党との関係は明瞭でありませぬ。目下いわゆる考古博雅の耆老も漸次死去しまして、充分に判らぬのは遺憾であります。
熊楠謂う、伯市講の伯市は、以前粉河町に馬の売買する者多く、その輩を博労と通称するから、博労を伯楽と書いて伯楽市を伯市と約《つづ》めたること疑いを容れず。惟うに、仏経に観音が白馬に化して羅刹国に苦しんだ漂民を救うた話あるより、わが国で千手観音を馬の守護尊とし、その堂の近所に馬市を催した例多ければ、南北朝戦争の際、武蔵の児玉党が紀州に討ち入って永住するに及び、その家の子郎等輩が粉河寺に千手観音を祀るを幸い、東国で手馴れた馬の取扱いを業とし繁昌したので、祭礼行列に主家の旗標したる団扇に自分らの商標たる馬を描いて持ち歩いたのである。さればこそ、粉河町外に住む児玉氏やその分流を限ってその行列に参加するの権利を付したのだ。故に児玉氏と団扇との関係は明瞭ならぬどころか、この参加権の一事は、二者の関係をよくよく明瞭にする力あると思わる。なおまた伊藤氏の書面に見える通り、粉河団扇とてここで古く団扇を名産に仕出したも、児玉氏の従者らが主家の旗印にちなんで作り始めた物と知らる。
団扇に書くこと。『松屋筆記』二に、弘長二年ごろ成った『真俗雑記問答抄』を引いて、「道風、御扇を点ぜしこと。道風十歳の時、始めて延喜聖主に召され、白き打輪《うちわ》を給い物を書きたりけるを、御門御覧じて思《おぼ》し食《め》されずして少し逆麟ありけるに、誤りて右軍が団扇の様を習いて参じ、忝《かたじけ》なくも白円の御扇の面を点ずと怠り状に書きたりければ、御門一期の恥なりとこそ仰せられけれ、云々」、与清いわく、「近世、三島自寛は誓いて団扇に物書くことをせず、その雅物ならねを厭うてなり。生産に、中村仏庵が強いて乞えるおり、白団扇に『老《おい》が身はまたこん秋も頼まれず今宵(403)の月ぞ命なりける』と一首書けるのみなりとぞ。されど上がりては王右軍や道風朝臣の跡もいちじるしく、下りては沢庵和乱や松花堂が書画の団扇を予まのあたり見しことあり。自寛は何《いか》ばかりのみやび人にて、左は思い上がれりけん」と出ず。 (大正十一年五月『集古』壬戌三号)
(404) 墓碑の上部に烏八臼と鐫ること
――付けたり、鬼臼という草のこと――
一
墓碑の上部に烏八臼とて、この三字から合成された※[(八/臼)+烏]の字を彫りつくる訳、何とも定かならず。『考古学雑誌』八巻八号に、清水東四郎君はその解義十説を列ね出された。第一に、これは爲の字だろう。第二に※[兒+鳥]《げき》の字で、この鳥、風にも水にも能《よ》いところから、むかしの支那人は船首に画いたから、死者行先の安全を祈る心でこの字を碑に用いたというので、清水君自身も、※[兒+鳥]の字は鳥篇で※[(八/臼)+烏]の字の烏篇なるに異なれば、あまり信ぜられぬ説だ、と説かれた。(熊楠謂う、死者の行路を舟行に喩えた詞、諸方に多く、日本でも天皇の御柩をミフネと訓ませたこと、『万葉集』その他にあったと覚える。)第三説は日月の合字。第四説は釈迦弥陀観音の合字。第五説は釈迦文珠普賢の合字。第六説は一円相すなわち○または空の意。第七説は優婆塞《うばそく》、優婆夷《うばい》ならんという。第八には梵字の合字の崩れた物。第九には吽《うん》字の合字。第十には大迦葉《だいかしよう》が成仏得道の印として弟子に授けた字形だという。
これについて、一昨年末三村君から拙解を求められたので、去年一月一日夜十二時付で返事を出した。その返書、左の如し。
(405) 御下問の烏八臼は、小生も多年心掛けおり候えども一向見当つき申さず。森?外氏の説と記憶致し候は、右は戴勝また※[笠+鳥]鳩《きつきゆう》また烏臼と申す鳥、よく烏や鷹を逐うゆえ、食肉鳥が墓を荒らし屍を食うを禦ぐためにこの字を刻せし由、『考古学雑誌』か何かで見及び候と覚え申し候。この他に烏木と申す木あり、日本でトウハゼと申す。ハゼの木と等しく秋末に紅葉し、その実より?を採るゆえの名と存じ候。カストレーンか誰かの説と存じ候は、木が青々したうちは誰も気を留めず、晩秋その黄落するを睹《み》て初めて心づき候も、その時はすでに晩かつた由良之助で間に合わず、古伝またかくのごとく、その事の起り、その正説の知れ渡れるあいだは尋常のこととして看過し、さてその事ようやく寝《や》み、その意義すでに失わるるに及び、学者大騒ぎしてその基因を捜れど多分は及ばずと有之《これあり》候。例せば、支那に豕《ぶた》を食うは上古来のことなれど、マルコ・ポロの紀行に一向支那について豕を記せず。日本の婦女、太古より月水ありしに相違なけれど、古典にその名を伝えず、と本居宣長が言われたごとし。そのごとく、当初何の世にか烏臼また烏八臼なる成語また物名あって、それに似たるより右の鳥や木の名も、墓上にこの三字を書くことも、それぞれ生じたるに、肝心の烏臼また烏八臼は何のことやら忘失されおわりたるものにあらざるか。かかることは一度その正伝を失した上は、今となってこれを見出だす見込みはなきものと存ぜられ候。
そののち三村君より知らされたは、『曹洞秘書』にいわく、墓の焼けるを鎮むる大事、桑の木あるいは桃の木をもって、高さ二尺ばかりに四面の塔婆を削り塔の四頭に※[(八/臼)+烏]の字を書き、新しき器物に新水を貯え、その水をもって硯を洗うて墨を磨り、漬萩《みそはぎ》の根をよく洗うて筆とし、※[(八/臼)+烏]字の下に施餓鬼《せがき》の文を一返書き写し、この塔婆を焼けるところの墓の中央に倒《さか》さまに打ち込み、その上に坐具を展《の》べてしばらく無心定《むしんじよう》に入り、次に施餓鬼の文を誦するなり、これすなわち如薪尽火滅の法なり、この時の観想は当人の力に在るものなり、と。
熊楠按ずるに、和漢とも古来桃を鬼が懼るとしたは『書紀』神代巻、『本草綱目』などに明らかで、仏典にも『瑜伽集要救阿難陀羅尼?口軌儀経』に、餓鬼に水を施すに、石榴と桃樹の下に瀉すれば鬼神怕れて飲食しえず、と(406)ある。『本草綱目』に、方書、桑の功を称す、最も神あり、と見ゆれば、これまた支那仏徒は鬼を制する力多しとしたであろう。ミソハギは、盂蘭盆聖霊祭に水を供うるに用いるゆえ水掛草と称す、別の意なし、ただ穂花長くて水を灌ぐに便なるから、と『和漢三才図会』九四末に記する。『藻塩草』に、水掛草、こはみそはぎの異名なり、七月十五日の忌水の儀なり。『蔵玉和歌集』に、手向水は七月十五日の水なり、花輪式にあり、「今日といへば幾代の人の手向水、あさかれとのみ思ふ罪かな」。これは足利氏の世に成った書だから、餓鬼に水をやる等にそのころすでに用いたのだ。『和名抄』に、鼠尾草、和名美曽波木。古えミソギする時、この草で水を掛けたからかく名がついたものか。予所蔵の『華実年浪草』七上に、誰の書入れとも知らず、鼠尾草、「本草」に「性、熱を治し、渇を止む、という」、よって鬼に水を手向くるに用いるなるべし、と筆しある。『大和本草』、『和漢三才図会』等、鼠尾草を『和名抄』の旧によってミソハギに充てたが、『本草啓蒙』『本草図譜』等には、ミソハギでなくてアキノタムラソウとしておる。文安元年に成った『下学集』下に、「鼠尾草は、また宿魂草とも言うなり」とある。この和製の漢名もまた死霊に水を供うるに用いたから出たのだ。
この三村君の教示に対して、去年一月九日夕六時付で、予は左の短書を出した。
御教示中の墓焼けは、墓より夜陰に鬼火が燃え上がることで、あたかも墓が焼けるように見ゆるを申す。小生幼時は往々聞き及び候も、このほどは一向承聞せず。かかることある時、その墓に埋もれたる人の魂が瞋恚《しんい》の?に焼かれおる由にて、いろいろ厭勝《まじない》など致し候。その一法として墓碑に※[(八/臼)+烏]を書くのかと存ぜられ候。したがって、八臼は?字の扁、烏は火の意味かと存じ申し候。周の武王の時、そのほか烏と火と縁ある物とした例は、大正五年十二月の『太陽』拙文「戦争に使われた動物」に記し置きしと記憶致し候。また厭勝に柱などを逆に打ち込む例は、二十年ばかり前小生大雲取山を越え候時、この山の西側至って急斜し毎度崩れて害をなす、これを鎮むるには榊《さかき》の坑を倒《さか》さまに打つべし、ただし打った人は三年間とかに死するはずと口碑の由、随従の荷持人足より承(407)り申し候。以上。(逆さ杭のことは、アッボットの『マセドニアン・フォークロール』。死んだ孕婦の尸の足裏に釘打つこと、Bompas,'Folklore of the Santal Parganas,'1909,p.41.また、M.A.Owen,'Old Rabbit the Voodo,'1893,p.281 に、釘を火玉の心に打ち当つることあり。『五雑俎』四に、「夷陵の竜角山に石穴あり。?《ふか》く黒《くら》くして際《はて》なし。その中に二巨石あり、相対して立つ。中間|丈《じよう》ばかりあり、陰陽石と名づく。陰石は常に湿《うるお》い、陽石は常に燥《かわ》く。水《おおみず》と旱《ひでり》と調《ととの》わざるごとに、居民、儀を具え、従って穴中に入る。旱すればすなわち陰石を鞭うち、潦《ながあめ》すればすなわち陽石を鞭うつ。応じて時に止まざるなし。ただし、鞭うつ者は三年を出でずして必ず死す。故に、人あえて為《な》さざるなり」。)
(参考)本篇を認むるとて件《くだん》の『太陽』を引き出し見るに、周の武王の時のこと見えず。その他書き洩らした例多ければ、ここに知りおる例をことごとく列ねる。『淵鑑類函』四二三に、『尚書中候』にいわく、「周の太子(武王)、発して孟津を渡る。火あり、天よりし、王屋に止まり、赤烏となる」。またいわく、「火あり、上よりして王屋を覆い、流れて烏となる。その色赤く、その声|魄《はく》す」。『尚書緯』にいわく、「火は陽なり、烏は孝の名あり。武王|卒《つい》に大業を成す。故に、烏は瑞|臻《おお》し」。『大清一統志』九八の「張恵伝」に、「永楽中、監察御史に任じ、雲南を巡按《じゆんあん》す、云々。?陵を過ぎ、居民数百家に延焼するを見る。みな言う、悪しき烏の火を銜《ふく》むあり、と。恵、文を為《つく》り城隍神《じようこうしん》に檄《げき》す。翌日、悪しき烏の江に投じて死せるあり」。『本草集解』に、「蜀の徼《さかい》に火鴉あり、よく火を銜む」。菅茶山の『筆のすさび』に、「烏の巣より火出ずることあり。あるいは野にある焼土などのたきさしの竹木を銜《くわ》え来たりて屋上に落とすことあり。筑前には、村落の近きあたりに巣を作らんとするをば必ず追い散らせよと、胥吏より触れ知らすことあり、と竹田器甫が話なり」。川口孫治郎君も、飛騨は板葺、草葺屋根多き国ゆえ、墓場に供えた?燭の余燼を烏が銜え去って、屋上で味わうた屑より失火すと言い伝うと述べられた(『飛騨史壇』二巻八号二三頁)。北米のツリンキート人や西南濠州諸部民は、烏が初めて火を人間に伝えた、と信ず(『郷土研究』三巻一二号七三一頁、拙文「牛王の名義と烏の(408)俗信」二節)。予幼時、中山白川営中問答の講談を聴いたのにも、このことの起りは朝廷へ献じた白烏を洛外へ放つと、たちまち火に化して京師を焼いたからだ、と言った。
墓が焼ける例は、今も露国の小農は、しばしば墓上に鬼火光るを見、恰好の祈念をせずば息まずという(一八七二年ロンドン板、ラルストン著『露国民謡』一一六頁)。「張麗華の墓は、上元県|秦淮《しんわい》賞心亭の天井《なかにわ》の中にあり。時に白光あり、匹練《ひつれん》のごとし。これを掬《きく》するに水銀のごとく、久しからずして流散す」(『類函』一八三)。ふたつながら細《くわ》しく判らねど、燐光が墓面に著き纏い現われたので、世にいう人玉や『和漢三才図会』に見えた七条朱雀の道元が火、河内平岡の媼が火のごとく、飛びあるいたのでないから、つまり墓焼けの一態だったらしい。また『呉書』から引いて、「孫堅の家は富春にあり、東城に葬る。塚の上にしばしば光の怪あり、雲気五色なり」という光怪も墓焼けの類か。『皇覧』にいわく、「蚩尤《しゆう》の塚は寿張県?郊城中にあって、高さ七丈あり。民、常に十月にこれを祀るに、赤気の出ずるあり、一匹の絳《あか》き帛《きぬ》のごとし。名づけて蚩尤の旗という」とあるも似たことだ。要するに、外国には墓焼けという称えがないからちょっと見分けがたい。ペンチコスト島民謂う、幽霊は特にその墓処に現じ、火の状なり、と(一八九一年板、コドリングトン『ゼ・メラネシアンス』二八八頁)。この幽霊がじっとしておったら、まずは墓焼けに近い現象であろう。インドや欧州に伏蔵すなわち財宝を埋めた塚が夜光る譚少なからぬが、死人と共に財宝を埋めた塚も少なくないから、これも言わば墓焼けの一種だ。その外には、コラン・ド・プランシーの『妖怪辞彙』やハズリットの『諸信および俚伝』等を見て分かる通り、鬼火の飛び廻る記載は欧州に多いが、静かに墓焼けを現ずるのはちょっと見当たらぬ。一八九五年の『フォークロール』に、デンマークのファイルベルク氏四種の鬼火を分叙した中にも伏蔵の火はあるが、特に墓焼けと見るべきものはない。氏は、伏蔵の火の話は多くリンネウスがピッスス・フォスフォレアと名づけた地衣が燐光を出すから起こる、と述べた。上に引いた張麗華の墓光や本邦で墓焼けと呼ぶものも、碑面に生えた地衣や塔婆に生えた細菌の所為が多かろう。
(409) さて『義残後覚』三に、蔚山の囲み解けた時、漢南勢三十万騎、生きて帰るを得た者十万に足らず、死骸七、八里に横たわり、蔚山の西南に七つ時より夜の子刻《ねのこく》まで、叡山ほどなる?燃え上がりては消え、消えては燃え上がり、その光に近辺の景気よく見えた、安国寺恵瓊施餓鬼してようやく消え失せた、とあるは、棄て去られた敗軍屍骸が揃うて鬼火を現じたので、まずは大たばの墓焼けだ。正銘の墓焼けに至っては、まず『大和本草』三、鬼火の条に、「また墓の燃ゆるところ多し、こは死人の血なり云々、飛び翻《か》くる火も、墓の燃ゆるも多くは雨夜にあり」。山岡元隣の『百物語評判』四に、一人のいわく、「近きころ西寺町のある寺に切腹せし人を葬りしが、夜ごとにその墓より火燃え出で候ゆえ、初めは小僧同宿などの見たるのみにて定かにもなく候ところに、後には住持聞きつけ、世に怪しきことに思い、さまざま経文など書きて弔いけれども、その験《しるし》なかりしに、このころは燃えず候由を申し候が、その墓の燃ゆるはどなる罪人にて、いろいろの弔いを受けても消えざるに、おのれと静まりたるも怪しく存ぜられ候。とかくこの理《ことわり》委《くわ》しく承らばや」と言いければ、先生答えていわく、「これ不思議なることに侍らず、その埋みし体、切腹せし人なれば血こぼれ出で、その血より燃え出ずる火なり、これを燐火と申し侍る。夜見え候は例の陰火なればなるべし。人の血のみに限らず、牛馬などを殺せし野原なども、その血のかたまり残りたる処は必ず燃ゆるものなり。さてその静まりしは、かの血も久しくなれば血の気尽きて土となるゆえ、おのれと止む理なり、云々」。
『因果物語』上に、東三河上野村兵右衛五郎という鍛冶の妻死して七日めより、その塚に天目ほどの穴できて、「鍛冶のほどの火のごとく焼けけり。七月盆過ぎに、わが処の全才《ぜんさい》行きて見るに火強く出ずる間、若竹を挿し入れて置くに、プチプチと焼けて燃え来たるなり、云々。後に牛雪和尚治め給うなり。兵右衛五郎も三年忌に死しけり。寛永五年のことなり」。職掌柄相応に、本当の火を出したと見える。『曽呂利咄』三、「都蓮台野に、大いなる塚の中に不思議なる塚二つありけり。そのあいだ二町ばかりありけるが、一つの塚は夜な夜な燃えけり。今一つの塚は、夜ごとにいかにも凄まじき声して『こいやこいや』と呼ばわる」。勇者在ってこれを咎むると、塚中より女の亡霊出でて、われ(410)をかの燃ゆる塚へ伴い往け、という。よって伴い往くと、かの塚に入って鳴動することやや久し。それから鬼となって出で来たり、自分の塚へ負い還らしめたのち礼物を与えた、とある。了意の『狗張子』五に、文禄三年ごろ伊勢|国司《こくし》の家の侍深見喜平、奥方の小姓杉谷源次を慕い、歌を贈りしを傍輩に泄聞《せつぶん》され、恨んで源次を殺し屠腹して死んだ、もろともに塚に埋めしに、夜々その塚に火燃え、人行路を絶ったので、国司、僧してその塚の前で誦経せしめて火は止んだ、と載す。(宝永四年江戸板、東の紙子作『風流比翼鳥』六の一一章に、久我《こが》の住人花沢助太夫の子助之丞、十三の美少年で、上杉則正の家人服部新五郎と?《じつ》す。嵐山甚平、助之丞を恋うれど従わず、朝とく起き出ずるところを、忍び入りて助之丞を殺し、自分も腹切りて死す。二人の屍骸を塚を並べて埋めしに、毎夜二つの塚より火燃え出で、昼中《につちゆう》のごとし。近きあたり人の通いも絶えたり。国主、僧を傭い、塚の前にて経をよみ弔うて、その火やむ、とあり。男色の怨光闘いし話は『和州旧跡幽考』四に見ゆ。ほとんど同時の著『南都名所集』二には、僧と?童の魂、火となり相会うとす。)西鶴の『好色五人女』二に、天満の七化物を列ね出した中に、鶯塚の燃碓《もえからうす》あり。墓でなくて碓が燃えたらしい。
厭勝《まじない》に杭を打ち込む例の最も著しいは、欧州、ことにその東部に多い。ヴァムピール(死霊が夜分屍体を脱け出して、生きた人の血を吸うもの)を制するに、尖った杭をその屍に打ち込むのだ(『大英百科全書』一一板、二七巻八六七頁)。
『酉陽雑俎』一三、『候白旌異記』にいわく、「盗《ぬすびと》、白茅の冢《つか》を発《あば》くに、棺内大いに吼《ほ》ゆること雷のごとし。野雉ことごとく?《な》く。内を穿《つらぬ》いて火起こり、飛?|赫然《かくぜん》たり。盗は焼かれて死す。伏火にあらざるか」。
兼良公の『多武峰縁起』に、定恵和尚、談峰に鎌足公の骨を痙《うず》み、その上に塔を起こし、「年を経たる後、塔の南に三間四面の堂を建つ、云々。堂の東なる大樹の辺に、異《あや》しき光時々現わる。和尚、この処を点《しる》して、方三丈の御殿を造り、大臣の霊像を安置す、云々。大職冠《たいしよつかん》の聖霊、当嶺に降神して以来、氏の長者ならびに一門の重臣、すなわち(411)本所怪所。凶事あるの時に当たっては、陵山鳴動し異《あや》しき光顕現す。ある時はその光遠く三笠山に至り、ある時はかの山同じく光を発す、云々」。
〔以下挿入部分不明の書き込み、入力者〕
『法苑珠林』二二、成都むかし大海たり、その鷲頭山寺に古塔あり、「塔は戒壇のごとく、三重に石もて砌《たた》む。上に覆《ふ》せたる釜《かま》あり、その数きわめて多し。かの土《くに》の諸人、ただ神冢なりという。つねに光明を発す。人、蔬食をもってこれを祭り、その福祚《ふくそ》を求む」。
『今昔物語』巻二七第二五語、「女、死せる夫の来るを見し語《こと》」、『琅邪代酔編』巻三三、「鬼、母の嫁《とつ》ぐを哭す」の条、見合わすべし。業火のこと、『老媼茶話』帝国文庫本、二八八頁、『捜神記』六、徐啓玄がこと、参照すべし。
元清作「誓願寺」の謡曲に、和泉式部の霊、石塔の石の火の光と共に失せにけり。『牛窪記』上に、稲垣平右衛門主従十六人、三河国本野ヶ原にて今川氏真の兵に銃撃されて死し、「かの十六人の死骸も手向けの塚前に理む。この手向け塚は道祖神の祠なり。旅の幣を手向くる神なれば、往来の人の問い聞きて哀れをかけん便なり。その後この塚の辺、夜な夜な啼声ありて、霊火燃ゆること折々なれば、あやしみ恐るる者多かりき。みなこれを姑獲塚とぞ名づけけり、云々」。
千人葬りし塚の上に火を焚き、海上保安の信号とせしことは、藤沢衛彦氏の『日本伝説叢書』下総の巻、二〇七頁に見ゆ。
二
程へて昨年末、三村君に請うて『曹洞秘書』を借覧すると、「知識荼毘棺出入次第」、「焼香大事」に次で、「読一返消災呪訓訳」なる一条あり。いわく、「経を挙ぐるの時、仏前に向かい住《とど》まって立ち、合掌すること法のごとくし、(412)南無熾盛光《なむしじようこう》大威徳消災吉祥|大陀羅尼《だいだらに》を黙念す。呪を誦ずるに従い、初め一息半歩をもって進んで炉前に到る。焼香し畢《おわ》り、入囀?入囀?光明光明?羅入囀?入囀?においてきわめて明るし。次いで心《むね》に当てて熾盛光の印を結ぶ。熾盛光の火、遍界不祥の妖気を焼き尽し、如意吉祥を成就せしむるを観念す。先のごとくして本位に復し、呪の尾《おわり》に至って円相を打《だ》す。こは法界一片の光明の、如意吉祥円満成就を返照するの義なり。熾盛光の印は二地に伏重して、両水をもってこれを押し、二火を立てて、頭を支えて火の形を作り、少しく二風を屈してこれを扇《あお》ぎ、二火をもって中指の下の文に就《つ》くる、これなり。呪の尾《おわり》の扇底迦は消災の義、室哩曳は吉祥の義、娑婆訶は成就の義なり。行者、よろしくかくのごとき秘訣を体悉すべし」と。門外漢のわれらに分からぬことながら、熾んに燃ゆる?光もて、一切の不祥妖気を焼き尽して、如意吉祥を成就すべく、一遍消災呪を誦すると言うは、今日もインドで、三月の望日にシャンカール神に殺されたカム神(大乗経の愛染明王同様愛の神)の祭りに、熾んにホリ火を焚いて一切不浄の慾念を焼減すと信ずるに同じ(一九一五年ボンベイ板、ジャクソン『コンカン民俗記』八九頁)。
『考古学雑誌』八巻八号清水君説に、墓碑に書く※[(八/臼)+烏]字の外に※[点+烏]※[歹+ムム]の二字もある由。※[点+烏]は分からぬが、※[歹+ムム]は『翻訳名義集』唐梵字体篇五五に、「苑師いわく、こは西域の万字にして、仏の胸前の吉祥相なり」とあるを、三村君が同誌八巻九号で報ぜられた。すなわち卍と同字で、吉祥円満を意味す。卍の音は万、周の長寿二年、則天武后この字を制し、吉祥万徳の集まるところだから万の音に定めた。「経中上下、漢本によればすべて一十七字、同じく呼んで万となす、梵本によれば二十八相あり」とあるから、※[歹+ムム]の音も万に違いない。さて清水君は明言せなんだが、※[(八/臼)+烏]※[点+烏]※[歹+ムム]と三字続けて碑上に出あったなら、この三字は、どうやら光明遍照、如意吉祥、円満成就の義を表わすもので、※[点+烏]※[歹+ムム]の二字は如意吉祥、円満成就を表わさんため卍字を繰り返し重ね、※[(八/臼)+烏]字は光明遍照を表わすべく?の字に代用したと考えられる。詰まるところ、※[(八/臼)+烏]字は遍界不祥妖気を焼き尽す熾盛光王如来の消災の徳を表わしたものと考う。
上文に言った故森?外氏の烏八臼の解釈は『考古学雑誌』八巻一〇号にある。その全文左のごとし。
(413) 『通志』昆虫草木略に、?鳩は 烏?ともいうとある。すなわち左のごとく説明している。「?鳩。『爾雅』にいわく、??なり、と。郭いわく、小さく黒き鳥にて、鳴いてみずから呼ぶ(熊楠いわく、「鳴いてみずから呼ぶ」とは、この鳥の鳴声、?鳩《きつきゆう》また??《びきゆう》と聞こえるというのだ)、江東にて名づけて烏※[臼+鳥]となす、と。按ずるに、こは??《くよく》に似て、冠なく長き尾あり。多く山寺の厨檻《ちゆうかん》の間にあり。今これを烏?と謂う」。次に『本草綱目』を見ると、この鳥についてさらに左のごとくあり。「?鳩、一にいわく、鵯?《ひきよう》、訛《あや》まって批?鳥と作《な》す、と。羅願いわく、すなわち祝鳩なり。江東にてこれを烏臼と謂い、また鴉臼という。烏よりも小さく、よく烏を逐う、云々、と」。すなわちこの説明によって、?鳩すなわち烏?は烏よりも小さいが、よく烏を逐う鳥であることが判る。しかしてこの鳥の学名はジクルルス・カテクスというのであるが、この学名を与えたスインホウ氏は、親しく支那に来て支那の禽類を研究した学者である。この学名によってこの科に属する鳥類の一般性を調べて見ても、猛鳥の性質を有し、烏を逐うに適していたことが特筆せられている。これによって考えて見ると、※[(八/臼)+烏]なる一字は烏?より変化したものと思わる。さて、この鳥の名を墓標に刻するに至った動機は、供物等に近づく烏を逐い払う考えから起こったものと思われる。最後にこの風俗が支那より伝来したものであるか、またはわが国にて創められたものであるか、この点についてはまだ文献を調査するの余裕を持たぬことは遺憾である。
蛇足の嫌いはあるかも知らねど、『本草綱目』巻四九の全文を出そう。いわく、「?鳩。時珍いわく、?鳩は『爾雅』に??と名づく、音は批及、と。またいわく、?※[皀+鳥]、音は匹汲、戴勝なり、と。一にいわく、鵯?、訛《なま》って批?鳥と作《な》す、と。羅願いわく、すなわち祝鳩なり。江東にてこれを烏臼と謂う、音?、と。また鴉※[臼+鳥]という。烏よりも小さく、よく鳥を逐う。三月となればすなわち鳴く。今、俗にこれを駕犂《がり》と謂い、農人もって候となす。五更となればすなわち鳴き、架々格々《カカクク》といい、曙に至ってすなわち止む。故に?《てん》の人は呼んで搾油郎《さくゆろう》となし、また鉄鸚鵡《てつおうむ》という。よく鷹鶻烏鵲《ようこつうじやく》を啄《ついば》む、すなわち隼《はやぷさ》の属なり。南の人は呼んで鳳凰の?隷《しもべ》となし、?《べん》の人は呼んで夏鶏となす。古え(414)催明《よあけをうながす》の鳥あり、喚起《かんき》と名づけしは、けだしすなわちこれならん。その鳥、大いさは燕のごとく、黒色にして、長き尾に岐《さけめ》あり、頭上に勝《かざり》を戴く、巣づくれる処には、その類《たぐい》再び巣づくるを得ず、必ず相闘って已《や》まず、云々。『月令』に、三月、戴勝、桑に降《くだ》る」と。『康煕字典』、臼宇の下に、「また鳥名なり。『読曲歌』に、長鳴き鶏を打ち殺し、烏臼の鳥を弾《はじ》き去る、とあり」とあって、まだきに鳴く庭鳥と更け行く鐘の音をわが邦で恨んだように、支那ではこの烏臼鳥と鶏を相引きする男女が怨んだのだ。?鳩から祝鳩に至る諸名はみなその鳴声に本づいたもので、駕犂は三月に田を犂き始める時鳴き始めるから、鉄鸚鵡は黒くて強いから、鳳凰?隷も小さくて健やかに働くから、夏鶏は夏中朝早く鳴くゆえ、催明、喚起も同様の理由による名で、戴勝は頭に毛冠あるからと見ゆ。
『重訂本草啓蒙』四五に、?鳩は詳らかならず、とあり。日本にないゆえだ。しかして、戴勝を?鳩と別物としてヤツガシラとし、和産なく舶来あり、云々、と述べおるが、小川氏の『日本鳥類目録』を見ると日本にも産するようだ。それから晋の師曠作という『禽経』に、「?鳩《しきゆう》は、戴勝、布穀なり」、司馬晋の張華の注に、「揚雄いわく、?鳩は戴勝にして、樹の穴の中に生まれ、巣に生まれず、と。『爾雅』にいわく、※[皀+鳥]?は戴?なり、?はすなわち頭の上の勝《かざり》なり、と。頭の上に尾起《さきた》つ、故に戴勝という。しかして農事はじめて起こるや、この鳥、桑の間に飛んで鳴き、五穀の種を布《ま》くべしという、故に布穀という。『月令』にいわく、戴勝、桑に降る、一に桑鳩と名づく、仲春、鷹の化するところなり、と」。ここに謂う戴勝はヤツガシラでなく、英語でクックー、日本でカッコドリまたカンコドリだ。「巣に生まれず」とは他鳥の巣に子を生み捨てその鳥に育てもらうを指し、「鷹の化するところ」とは外見きわめて鷹に似るからだ。(欧州にも、クックー冬月鷹に化すということ、『剣橋《ケンブリツジ》博物学』九巻三五三頁に出ず)。けだし戴勝とは頭に毛冠を戴くことで、『爾雅』に※[皀+鳥]?にも勝を戴くものある由見ゆる通り、世にも毛冠を戴いた鳥一、二に止まらず。(『剣橋博物学』同上頁に、スルニクルス属はクックーながら、きわめて?鳩族に擬倣すとあるから、毛冠を戴いたクックーもあるべし。)したがって、毛冠を戴いた鳥を一つに限らず載勝と称えたが、後にはもっぱらヤツガシ(415)ラを戴勝と呼んだのであろう。『和漢三才図絵』など、『本草綱目』時珍の説に習うて、?鳩と戴勝を同物としたが、モレンドルフの「山東省有脊髄動物篇」(一八七七年上海発行)『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』新編一一巻所載)には、?鳩はジクルルス・カテクスで、北京で黎鶏児と称うと言い(黎明に鶏同様鳴く小鳥の意か、熊楠)、戴勝は一名?また戴?、学名ウプパ・エポプスすなわちヤツガシラとしおる。して見ると、今の支那では?鳩と戴勝は全く別物の名だ。
烏臼という木は大戟《たかとうだい》科に属す。『重訂本草啓蒙』三一に、一名了臼、また?、また?油樹、日本名トウハゼ、またナンキンハゼとあって、本文にいわく、「烏臼は漢種なり。今諸国に栽うる者多し。その葉、形円に扁たくして尖りあり、数多く互生す。嫩なるは色紅、長ずれば色緑、枝葉はなはだ繁密にして、日光を透さず、納涼に宜し。故に「?臼の影に依る」と言う。夏月枝梢ごとに花穂を生ず。長さ三、四寸、黄白色にして栗穂のごとし。穂の本に実を生ず。形円、微扁にして、三道ありて続髄子のごとし。初めは緑色、熟すれば黒褐色、これを破れば三子あり、大いさ豆のごとし、外に白粉ありて核を包む。唐山にては、この白粉を採製して?とす、烏臼?と言う。唐山にて、漆およびハゼの実より?を採ることなく、烏臼実より採るのみなり。その?、虫白?《いぼたろう》より柔らかにして上品とす。これを皮油(『品字箋』)と言う。白粉の内に硬核あり、その内に仁あり、仁より採る油を清油(『物理小識』)、木油(『南寧府志』)と言う。食用に堪えず、ただ燈油となす。傘に用いてよく水を防ぐと言う。この?および油を採る法、『天工開物』に詳らかなり。秋に至り落葉の時、紅紫にして美し、故にナンキンハゼと言う」と。『本草図譜』八三に、その図あってナンバンシイなる日本名を加う。『大清一統志』一七八に、「寧波府、九峰山は奉化県の東六十里にあり。九峰は突兀《とつこつ》として烏?《うきゆう》多く、秋に霜ふれは葉は紅爛して春の花のごとし」。『図譜』には、嫩苗《わかなえ》の時は紅色にして美し、とあり。春|嫩《わか》き葉も秋落ちる葉も、赤く美わしいのだ。
一八九六年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントルの『植物自然分科篇』三篇五部九七頁にも、その図あり、学名サピウム・セビフェルム、もと支那と日本の産だが、のち東インドおよび南半球の暖地に弘まり栽えらる、と記(416)す。しかし宝永五年に成った『大和本草』一二に、烏臼木、近年異邦より来たるとのみ書いて日本名を記さぬを見ると、そのころようやく舶載したらしい。紀州などには一向見ぬ物だ。『重修植物名実図考』三五上に、「『本草拾遺』、烏臼の葉は?《くろぬの》を染むるによし。子《み》は多く取れ、圧して油となす。頭に塗れば、白を変じて黒となす。燈を燃《とも》すにきわめて明るし。一合を服すれば、人をして下痢せしめ、陰を去って水気を下す。『農政全書』、烏臼の樹は、子《み》を収めて油を取れば、はなはだ民の利となる。ほかの果実はたとい佳《よ》きものも、人を済《たす》くるの実用を論ずれば、これに勝るものなし。江・浙の人の種《う》うる者きわめて多く、きわめて大きければ、あるいは子《み》二、三石を収む。子の外がわの白き穰《わた》は、圧して臼油を取り、?燭を造る。子の中の仁《さね》は、圧して清油を取り、燈を燃《とも》すにきわめて明るし。髪に塗れば黒に変じ、また漆に入るべく、紙を造るに用うべし、云々。彼中《かしこ》の一畝《いつぽ》の宮《すまい》にては、もし数珠を樹《う》うる者あれば、生平《せいへい》用うるに足り、また膏油を市《か》わず。臨安郡中にては、田十数畝ごとに、田の畔《あぜ》に必ず臼数株を種《う》う。その田主、歳ごとに臼の子《み》を収むれば、すなわち完糧《かんりよう》すべし。かくのごとくすれば、租の額もまた軽く、佃戸《でんこ》は承種《しようしゆ》を楽しむ、これを熟田という。もしこの樹なく、田収を当てて完糧せんとすれば、租の額は必ず重し、これを生田という。両省の人、すでにその利を食《は》み、およそ高山、大道、渓辺、宅畔、これを種《う》えざるところなし。またすべて熟田をもって種うる者は、油に用うるの外に、その渣《かす》はすなわち田に壅《つちか》うべく、爨《かまど》に燎《た》くべく、火《ひだね》を宿《のこ》すべし。その実は?《くろぬの》を染むべく、その木は書を刻し、および器物を雕造《ちようぞう》すべし。かつ樹は久しく壊《く》ちず、合抱《ひとかかえ》以上に至れば子《み》を収むることいよいよ多し。故に一たび種《う》うれば、すなわち子孫数世の利となる。わが三呉の人家《ひとびと》は、およそ隙地《あきち》あれば、すなわち楊柳を種《う》うるも、余は人に逢えば、すなわち勧めて、これをして楊を抜きて臼を種えしむ」と、やたらに烏臼木の大功を説き立てある。しかして、野生もはなはだ多し、と述べおる。陶穀の『清異録』に、「江南の烈祖は素倹《そけん》にして、寝殿の燭に脂?を用いず、灌《そそ》ぐに烏臼の子《み》の油をもってす。ただし烏舅と呼ぶ。案上に燭を捧ぐる鉄人は、高さ尺五にして、楊氏の時の馬厩《うまや》中の物という。一日、黄昏に急がしく燭を須《もと》め、小黄門《ちやぼうず》を喚んで、わが金奴《きんど》(417)を?《と》り過《も》ち来たれといいしに、左右ひそかに相謂いていわく、烏舅と金奴とは正《まさ》に対《つい》と作《な》すに好《よ》し、と」とあれば、五代の時もっぱら江南に用いられたので、元の代までも北支那には知らなんだ由、『図考』に延べおる。
北魏の朝に成った『斉民要術』に烏臼を殊方異物中に列しあるは、当時北朝の人は南朝の事物を戎狄視したからであろう。上に孫引きした『本草拾遺』は、今を距《さ》ること千百八十四年、唐の開元二十七年、明州の人陳蔵器撰す。(『本草綱目』序例には、ただ開元中とある。本文は、二十七年前大英博物館でダグラス男を輔けて書籍目録を編む際、『粤雅堂叢書』所収、宋の銭易の『南部新書』辛巻より予これを見出だした。)それに、燈を燃やせばきわめて明らかだとあれば、烏臼の油を燈に用いること唐代すでにあったのだ。さて上に引いた李時珍の説に「五更となればすなわち鳴き、架々格々といい、曙に至ってすなわち止む。故に?《てん》の人は呼んで搾油郎となす」とある?鳩の記載を、『和漢三才図会』四三に注して、「按ずるに、こはいまだ何の鳥ということを知らず。けだし搾油郎とは油造家《あぶらや》の搾師《しぼりし》なり。つねに五更より槌を打つ。その所業《しわざ》、和漢異ならず」と言ったごとく、烏臼の油を搾る声とかの鳥の声と似おり、五更から早く声立つる所為も同じゆえ、かの鳥をも油の名と同じく烏臼と号《なづ》けたと知る。これを烏八臼と言う八は、猪の笹原と言うべきところを猪名の笹原と詠む同前、語勢を助け足すためにできたと察す。
烏臼という語の本義は、『本草綱目』烏臼木の条に、「時珍いわく、烏臼は、烏このんでその子《み》を食らう。よってもってこれに名づく、と」とあるが、これはムクドリが好んで実を食うからその木をムク、カシドリが多く棲むからその木をカシと名づくというような説で、冠履換地だ。(『和漢三才図会』四三に、「椋鳥《むくどり》は好んで椋の樹に棲む、故に俗呼んで椋鳥という。好んで椋および川楝《せんだん》の子《み》を食らう」。また、「橿鳥《かしどり》は好んで橿の樹に棲む、故に俗呼んで橿鳥という」とある方が理に近い。)あるいは言う、その木老ゆれば根下黒爛して白を成す、故にこの名を得、とあるも牽強らしく、全く江浙等の地方で油と言えば烏臼木の実より取り、毎朝早く起きてこれを搾る、それと同時に?鳩が鳴き出すから、この鳥を烏臼鳥と名づけたのだ。さて件《くだん》の木を烏臼と名づけたは何故か判らぬ。あるいはもと土蕃の語だ(418)ったのを音訳したものでもあろう。あるいは烏臼の臼は、?鵠鳩の鳩と同音ゆえ、烏臼は最初より鳥の名で、?鳩また?鳩同前、この鳥の鳴声によった名と言わんか。上に引いた通り、時珍が烏臼の場合に限り臼字の音は?と断わりある。?は臼の音キュウと異なり菊の音キュッだから、鳩と等しく鳴声とは聞こえぬ。
?鳩すなわち烏臼鳥がよく自分より大きい烏や鷹を追うことは、『本草』から上に引いた。小川氏の『日本鳥類目録』に?鳩族の鳥は一つも見えぬが、『剣橋博物学』九巻五二八頁には、一種(ブヒヤンガ・レウコゲヌス)だけ日本に達するよう載せおる。支那には少なからぬものか、モレンドルフは山東省のみに三種を挙げある。概して色黒く、嘴大きくて曲がり、その根に刺毛あり、尾は長くて二股に切り込む。虫を食い闘を好み、鷹、烏までも打ち負かす。アジア、アフリカ、濠州に棲む。英語でドロンゴ・シュライクと言って、まずはシュライクすなわちモズに似た鳥だ。すでに鷹や烏を追うから、?外氏が言った通り、彼らが墓の供物を取りに来るを禦ぎ、また予が三村君に書いた通り、彼らが屍骸を啖《くら》いに来るを防ぐため、烏八臼の字を碑上に刻したというはもっともらしく聞こゆるが、前述『曹洞秘書』の墓焼けを鎮むるに、この字を書いた塔婆を倒さまに打ち込み、その上に坐して無心定に入るなど、地中へ全く打ち込んだ文字が外から来る鳥どもに見えねば威《おど》しも利《き》かず。どうも烏、鷹よりは地下の屍体に示して光明遍照消災の表示とするように思わる。
(追記一)杭を打って厭勝《まじない》することの例、ただ一つ欧州よりヴァムピール(吸血鬼)を制するにこのことある由を申し述べたは、いかにも物足らぬ心せらるるより、いろいろ探したるところ、元文五年植村政勝著『諸州採薬記』に、「信濃国小田井宿を少し西へ行けば金井原、ここに高月《こうげつ》の輪芝と言えるあり、差渡し十七間あり。この輪の廻りへ、牛馬煩いの節、杭を打たば速やかに平癒す、と言えり。毎夜、右の輪に馬を乗せたる通り見ゆる由」とあり。これは輪芝に凄む鬼魅が、欧州のエルフ同前、夜中牛馬を乗り廻し苦しむるゆえ、杭を打って鬼魅を制する意と見ゆ。(一月二十日後八時)
(419)(追記二)原稿発送後三村君また示されしは、『十結諸作法大事訣』(宝永四年丁亥三月沙門隆日識、写本一冊)に「墓焼けを留むるの大事。帰命《きみよう》※[梵字]と朱書す。口伝によれば※[梵字]字をもって智水を観じ、亡者の三毒火を消滅するなり」とある由。これにて※[梵字]字を※[(八/臼)+烏]字で表わしたことと判る。仏典の訳字は明朝の諸帝の諱のごとく世に稀有の字を使い、はなはだしきは、今の支那の化学原素を記すに用いるごとき新製の字を使うたこと多し。※[(八/臼)+烏]字またその類と思わる。もし意味あってかく作りしものならば、本文に述べた通り、消災熾光に縁ある?の字にちなんだもので、?鳩のことには縁少なしといよいよ考う。また『碧巌録』七五に烏臼禅師の名ありと三村君教えらる、後日とくと調べ申さん。(一月二十三日前十一時)
(追記三)前号三葉表に、正しく墓焼けの例と見るべき記載は欧州に見当たらぬ由述べおいたところ、只今見出でたから申し上げる。英国ウィンチェスターよりアンドヴァーに往く道上に、「三人の室女《きむすめ》」と名づくる場処あり。この三女の名は伝わらないが、三人してその父を毒殺した罪で、頸から下を土に生き埋めされ、通りかかった人は決して食物を与えるなと厳命された。しかるに、騎馬で来たった一人これを怜《あわ》れみ、何気ない体で食い残りの苹果《りんご》の心を投げやったのを、三女のうちの一女が食うて三日生存した。三女こんな風で死んで後、その墓から三つの火が燃え上がる、とウィンチェスター辺の百姓が多く信ずるというのだ(一八五九年ロンドン板『ノーツ・エンド・キーリス選択集』二三四頁)。(五月二十一日早朝)
(追記四)また一九一五年ボンベイ板、ジャクソンおよびエソトホヴェソの『コンカン民俗記』四四および四五頁にいわく、タナのマニクプールで言い伝うるは、回教の聖人墓より赫耀たる光もしくは?が立つものあり、と。またウメラにある回教聖人の墓よりも火?と煙を出すものあって、はなはだ速やかに現滅す、と。しからば、インドにも墓燃ゆる例があると見える。(五月二十三日早朝)
(420) このついでに述ぶるは『本草綱目』に鬼臼という毒草あり。諸家の記載一ならねば、いろいろの植物を混同した名なるべしとも、メギ科の一、二属のものなるべしとも、ブレットシュナイデルの『支那植物篇』三に言われた。『重訂本草啓蒙』一三に、カサグサ、ツリガネソウ、ツリガネガサの和名を出し、漢渡なし、この草一根一茎にして大かざぐるまのごとく、茎頭に七、八葉輪次す、大かざぐるまより茎長し、葉下に小茎を出し、一花を開き下垂す、鈴鐸の形のごとく、貝母花に似たり、外は紫色、内は細金点ありて撒金『きんすなご》のごとし、この花葉下に隠れて見えず、故に羞天花の名あり、今この草絶えてなし、と記す。『本草図譜』二〇に、如上の和名三を出し、江戸染井の芸家伊兵衛著わすところの『地錦抄』に鬼臼の図を載す、今この物絶えてなし、故に目撃せずとてその図を写し出し、また伊予大洲人森桂輔、同国小山田の陰地にて一草を採り、予に写生を示すとてその図を出し、また天保九年資生馬場侯、天城山の絶頂より水沢の辺においてこの物を親しく目撃されて予に示さる、と記す。
『地錦抄』のは至って粗略だが、森氏の写生図はずいぶん真をよく模したらしい。大沼宏平氏はこれをコンニャク属の一種かと考えられたが(同書名疏二〇)、拙見をもってすれば『地錦抄』および『啓蒙』に謂うところは知らず、森氏が図したものは、日本本土一種もなしと一汎に心得られおるタッカ科の植物らしい。エングレルおよびプラントルの『植物自然分科篇』二篇五部一二九頁所載、タッカ・ピンナチフィダの図と、件《くだん》の森氏の写生を比べて見ても、葉の分かれ様、花実の成立、花蘂の長く出た様子、ことに根魁《こんかい》の形状がよく似おれば、今果たして絶えたか否は分からぬが、本邦本土にかつてはタッカ科(たぷんタッカ属)の一草が実在したるを、森氏の写生図が立証すと考う。『自然分科篇』件の巻に、この科二属十種あって、多くは東アジアの熱地に産し、支那にも一種あり、と記す。一八三六年板、エントリツヒェルの『ゲネラ・プランタルム』一五九頁や、一八五三年板、リンドレイの『植物界』一五〇頁に、この科の植物はコンニャク等を包む天南星科に近似す、と載せおる。
鬼臼のことは本題に関係なけれど、従来本草家が迷惑しおったもので、予この考えを出そうと思うこと久しきも、(421)然るべき場処を見当たらず、今烏八臼の臼の字に縁《ちな》みて鬼臼の弁を本誌へ出す。本誌読者諸君中には古えの本草の学を好まるる方も少なからざるべければ、その人々の批判を願いたい志からである。 (大正十二年五月、八月『集古』癸亥三号、四号)
【追記】
丹波康頬の『房内記』乾巻に、竜虎采戦の九状を洞玄子が述べたうち、「あるいは深く築《つ》き、あるいは浅く挑《あしら》うこと、?臼の雀を啄《ついば》むがごとし。(?はおそらく?の誤りならん。)(その状四なり。)」と出ず。?を?とすると、?は凹の義とあれば、凹臼之雀啄では意味分かりがたい。むしろ本のままに読んで、?は鴉に同字ゆえ、?臼また鴉臼とするがよかろう。『本草綱目』などには鴉と烏と同類別物としおるが、『広韻』などを見ると、古えは鴉は烏の別名で、?も鴉も烏も相通じたらしいから、鴉臼すなわち烏臼で、あるいは深く築き(築は擣に同じ、『康煕字典』に出ず)、あるいは浅く挑うこと、烏臼鳥が雀を啄むごとく、との意味と見える。(七月五日) (大正十三年三月『集古』甲子二号)
(422) 鎖鎌について
本誌の前身たる『集古会誌』庚戌巻三の五葉裏に、大橋微笑君は鎖鎌を元亀・天正ごろの発明物と言われた。しかるに、大正七年板、藤沢衛彦氏の『日本伝説叢書』播磨の巻一四〇-一四二頁に、享禄三年五月十一日、飾磨郡増位山随願寺の会式に、僧俗集まり宴飲中、美少年の喧嘩生じ、薬師寺の少年小猿打擲された恨みに水死し、それより闘争して八十二人死す、英賀《あが》の城より和平を扱い武士を遣わす時持たせた武具の中にくさり鎌十本、と載す。『播磨古所伝聞』より引き、『英賀日記』にも同じことに記する、とある。これによれば、元亀元年より四十一年前すでにこの物があったのだ。南米パタゴニア人(むかしのいわゆる長人国人)が用うるボーラズが鎖鎌に似て別物たる由は、大正七年九月の『太陽』三七頁に述べた。また大橋君は、従来画本に出おる鎖鎌は、その柄の元に鎖あり、実物は鎌の先に鎖あり、と言われた。今、『続帝国文庫』一五編の『北条五代記』の「おもすの浦の合戦」の画に出た鎖鎌は、柄の先で鎌の本に当たる処に鎖を付けある。(六月二十四日) (大正十三年三月『集古』甲子二号)
【追記】
本誌甲子四号六葉裏を読むに、大橋君は、予が鎖鎌の鎖は柄の本に着けるを正しとすと主張する、と解せられたようなり。これに反し、予は鎖鎌について何の知識を持たず、ただ甲子二号二葉裏において、『続帝国文庫』一五編『北条五代記』の「おもすの浦の合戦」の画の鎖鎌は、鎌の先でも柄の本でもなく、その中間で、鎌の本と柄の先に当たる、いわば鎌と柄の界《さか》い目ともいうべき処に鎖を付けあると、見たままを述べたるのみ。博文館出版で、この田舎に(423)さえ持った者が多ければ、東京では造作もなく見うることと察する。かようの処に鎖を付けて実用に立つか立たぬか、一切知り申さず。また明治十六年ごろ、上野博物館でたしか畠山如心斎という人が多くの武器を献納陳列した中に鎖鎌一本あるを見たが、鎖の付け処は一向記臆しおらず。 (大正十三年十一月『集古』甲子五号)
【補遺】
本誌甲子二号二葉に、鎖鎌が享禄三年すでに行なわれおったことを述べおいた。このごろ、また次の記事を見出だした。『筑紫軍記』三に、「天文十四年、筑前国大分郡鶴崎の城主吉岡掃部介鎮興が長男吉岡甚吉統益が郎等内野主殿介、喧嘩買わんという荒者八人と渡し合わせ、五人はきりふせ、三人は薄手《うすで》負いて逃げさりぬ。その後また武者修行して巡る鉄砕という者あり、府内に来て剣術を人に教えけり。ある時、内野主殿介、鉄砕と杖を争う。鉄砕、鎖を持す。主殿介まさに撃たんとして、鞘と共にこれを打つ。鉄砕、鎖をもって鞘をとる。すなわちこれを打つ。また鎖をもってこれをとる。すなわちいわく、勝ちぬ、と。主殿介怒って飛び入り、これを捕え、小剣をもってその喉にあつ。鉄砕、手を下して負けたりという。いかめしきことなり」とあり。鎖とばかりあって鎌の字がみえねど、とにかくこれも、元亀・天正以前に鎖をふり飛ばして敵の武器をからみとる武技があった証に立つ。 (大正十五年十一月『集古』丙寅五号)
(424) 毘沙門の名号について
クベラまたクビラが毘沙門天の異名なる由は、『仏教大辞彙』巻一倶肥羅天の条すでに述べある。熊楠いわく、この二名が一神を指すを立証するに最もよき文句は、梁朝に勅撰された『経律異相』巻四一に『羅閲城人民請仏経』から引いたものだ。仏が鶏頭|婆羅門《ばらもん》の供養を許した時、「釈提桓因《しゃくだいかんいん》(帝釈《たいしやく》)、毘沙門天王に語っていわく、拘?羅(クベラ)よ、汝はこの婆羅門を佐《たす》け、第三食を弁ぜよ、と。答えていわく、受教す、と」とある。クベラは実名、毘沙門は通称のごとくみえる。
アイテルの『梵漢辞彙』一九三頁には、この神前世夜叉なりしが、仏に帰依して沙門たりし功徳により、北方の神王に生まれかわった、その沙門となった時、他の沙門ども驚いて「伊《かれは》是《これ》沙門」と叫んだ、それゆえ毘沙門(ヴァイスラマナ、この男も沙門か、の義)の称えを得たとあるが、これは何の経に出たことか、識者の高教をまつ。「伊是沙門」は音義両訳らしい。金毘羅(蛟神)は、『大灌頂神呪経』巻七などをみると、毘沙門とは別神らしい。インドで古来鰐を拝する、その鰐神だろう。わが邦に金毘羅を航海の神とするも、この因縁か。仏弟子に金毘羅比丘あり、独処専念を称せられた(『増壱阿含経』三)。これも鰐を奉じた氏子だろう。 (大正十五年三月『集古』丙寅二号)
(425) 再び毘沙門について
本誌丙寅三号五葉裏に、黒井君は「南方熊楠氏は『毘沙門の名号について』と題していわく、『この神前世夜叉なりしが、仏に帰依して沙門たりし功徳により、北方の神王に生まれかわった、云々』と書かれたが、この事件を信じておるから申したのであろうが、小生の立場からはいささかの価値がないのである、云々、それのみならず、仏の時代と毘沙門の時代が異《ちが》っておる」と申された。しかし、熊楠は価値の有無にかかわらず、ただただこの話の出処を識者に問うたのである。そもそも国土の紀年史さえなかったインドに、夜叉が神王に転生した時代が知れおるだろうか。
丙寅二号の拙文は、まずクベラまたクビラが毘沙門だ、とは『仏教大辞彙』に出ある、と述べた。黒井君はクビラという発音は梵語にみえぬと言われたが、梵語ほど発音の多様なものなく、それがまた北インド、中央アジア、和漢と移るに伴って、いろいろ移り異《かわ》ったゆえ、一切の梵語にクビラなる発音の有無はよほど精査を要する。『仏教大辞彙』は、熊楠ごとき大空の一塵ほど梵語をカジリかいたえせ者よりは、恒河沙《ごうがしや》数倍えらい学者が集まり、大枚の黄白をかけて出したもの、それに倶肥羅をクビラと訓じ、毘沙門の異名としあれば、クビラという梵語もあつたとしてよい。ラテン語に、ローマ共和時代、帝国時代、帝国衰亡時代、それからローマ帝国滅後のいかさま語さえ盛んに研究され襲用されおるごとく、梵語にも種々の時代とその行なわれた国土の異なるにつれ、変遷転訛もあったので、どれもこれも梵語に相違ない。
(426) 次に、予は帝釈が毘沙門をクベラと呼んで仏の供養を佐《たす》けせしめたという『経律異相』の文を引いて、クベラは実名、毘沙門は通称のごとくみえる、と言った。仏経にこの類のこと少なからず。帝釈ごときも呼び捨て、また至って親しみ呼ぶには?尸迦《きようしか》と名ざされおる。帝釈は通称、?尸迦は氏名らしい。今はこんなことは知れ渡りおるだろうが、明治二十六年、予、大英博物館の宗教部長、故サー・ウォラストン・フランクスより列品の名札つけを頼まれた時、従前、仏教諸尊の名号を尊称、通称、実名、氏名、何の別ちもなく手当り次第につけあるは、ちょうど無差別に耶蘇、キリスト、救世主、ナザレスの大工の悴《せがれ》と手当り次第呼ぶようで不都合なれば、尊称と通称に限り名札に書くがよいと進言して、それに決した。少し後に土宜法竜師見えられ、このことを聞いて、まことに至当なことといわれた。仏教を奉ずる者が釈尊を瞿曇具寿《くどんぐじゆ》、道教の信徒が老子を李耳などいわば、真のその徒でないと自白するに等し(『阿毘達磨大毘婆沙論』一八一)。諸教の諸尊にそれぞれ名号が多いが、その名号がみなゴッチャクタに異名というべきにあらず、種々の用途に随って各別の名号が使われたということの例示までに、クベラも毘沙門も同一の神の名号ながら、使用の場合意味が差《ちが》うということを述べたのである。
次に「この神前世夜叉なりしが、仏に帰依して沙門たりし功徳により、北方の神王に生まれかわった、云々」の文句は、丙寅二号の拙文に明記しある通り、アイテル博士の『梵漢辞彙』一九三頁から引いたので、この書(一八八八年ロンドン出板)、本名『支那仏教学必携』、予在英のころ仏教のことを調ぶる者がみな持ったもので、アイテルは身支那におりいろいろ穿鑿したから、支那へ往かねば聞きえぬ珍説を多く書き入れある。黒井君は、熊楠が「この事件を信じておるから申したのであろう」と言われた。なるほど熊楠は、摂河泉三国の太守同様、毘沙門の申し子ということで、小児の時小学教場でさえ毘沙門の呪を誦したくらいこれを信仰したが、四十過ぎて一切経を通覧せしも、件《くだん》の『梵漢辞彙』に載せた話を見ず。よって丙寅二号五葉裏の上段一三、四行で、この話は何の経に出でおるか、識者の高教をまつと、明らかに自分の無智無識を告白した。
(427) アイテルが述べた通り、毘沙門にもいろいろあり、古梵教のクヴェラ、現時ヒンズー教のクヴェラ、仏教四王天にあって夜叉衆を領する富神毘沙門で、スクモとニシドチと蝉と同じ物ながら、世態が変わるに随って、形も姿も食物も動作も生活も全く異なるごとく、古梵教のクヴェラと仏教の毘沙門と同じからず。仏教の毘沙門は一切の夜叉の王たるに、ヒンズー教のはラヴァナに宝車を奪わるるほど弱い者なれば、これまた同じからず。『羅摩衍《ラーマ――ヤナ》』にも仏経と斉しくこれを黄金と財富の神としあるに、日本で信貴山が大繁昌するに反し、今のインドでクヴェラの像や画を求めても得ぬほどさっぱりもてないくらい、これまた違う。原来、仏教広博でインド諸教の説を取り入れたれは、その諸尊に関する伝説また『委陀《ヴエーダ》』や『プラナ』に限らず。インドに古く梵教の外に異類異族の教多かりしは諺になりあるほど、それにインド辺陲の諸国からトルキスタンや支那を経て日本へ入るまでに無数雑多の土地の伝説を摂取しおるべければ、『委陀』や『プラナ』くらい調べたところが、現存仏教の諸説を解くに足らず。
ついては、アイテルが述べた「この神前世夜叉なりしが、云々」の話が支那の経蔵にない以上は、チベット、蒙古、カシュミル、ネパル、セイロン、ビルマ、シャムやトルキスタン辺にそんな話があることか、と識者の高教をまつ次第である。アイテル博士に聞き合わせば判ったはずだが、熊楠右の話に初めて気づいた時、聞き合わせに手懸りなく、その後かの人物故したと聞いてそのまま打ち過ぎておりました。熊楠は右の話を信ずるどころか、出処さえも知らぬ者なれば、信じてよいか悪いかをさえ判じえず。誰かアイテル博士に代わってこの話の出処を教えられんことを切望する。
また乙丑二号二葉裏上段に、黒井君は「聖天(すなわち歓喜天)には鼠もついておる。右手の斧は小槌と代えて見て、左手の大根をもって大黒天の二又大根と思えば、ここで始めて大黒天の化身のように思わる。けれども、何の緑《ゆかり》もないから混合してはならぬ」と述べられ、さてその下段には、大黒天を「シヴァの息子ガネサ(歓喜天)の変名ではあるまいかと言わるるならば理由もつくが、いずれにしても研究の余地がある」と説かれた。研究の余地があるなら、何(428)の縁もないと断ずべからず。この文が発表されたは大正十四年三月だった。
その一年余前に、予は大正十三年の子歳をあて込んで、明くる新年号の『太陽』に例年の順で鼠の話を出すべく、十二年の十一月に早くその初分を草し、博文館へ送ったところ、九月震災の余響で『太陽』も体裁を改むることとなり、永々予を引き立ててくれた浅田江村君も退社し、予の原稿もサランパン。ひとまず返却となって、予は面を汚した泥鼠のチュウのねも出ず。その後中村古峡君の望みで十二禽の話の板権を売り渡したが、鼠の話は未完ゆえ、そのまま手許に残しおり、それには歓喜天と大黒天と何の緑もないどころでなく、関係大ありという説を述べある。この拙文は自分のみかは、誰が読んでも三嘆するから、歓喜・大黒二天のことを論ずる人の法螺の種にもと、チト長文ながらその部分を全写解放と出かける。ただし大正十二年後の年月を記したところだけは、只今書き加えるところに係る。 (大正十五年九月『集古』丙寅四号)
(429) 団扇の話につきて
中村君の団扇の話(『集古』庚申四号三葉裏一〇行)に、古今支那団扇の品質は羽、毛、竹、樹葉、象牙、蛇皮、油紙等を載せて絹を洩らされた。『淵鑑類函』三七九に、『西京雑記』にいわく、「(前漢の)天子、夏は羽の扇を設け、冬は繒《きぬ》の扇を設く」、謝霊運『晋書』にいわく、「孝武(帝)、奢飾を節して絹の扇を禁ず」、それから唐の太宗が飛白扇や?扇《がんせん》、綾扇を近臣に賜うたことを載するを見れば、漢代以来絹帛の扇も多かったのだ。
扇に書いた例は、沈約『晋書』、王羲之が老姥の竹扇に五字ずつ書いて毎扇百銭に售《う》らしめたことあり。
団扇に書いたのは、『大清一統志』一八一に『寰宇記』(趙宋の太宗の朝、楽史が編んだ『太平寰宇記』か)を引いて、「浙江台州府の石新婦山、かたわらに奇石あり、婦人の状《かたち》のごとく、石ことごとく紺色なり。(劉)宋の文帝、かつて画工を遣わし、山の状を模写せしむ。時の人、盛んに白団扇に図《えが》く」とあるなど最も古い一例だろう。またいわく、「(台州)府の括蒼山、高さ一万六千丈なり。『神仙伝』に、王方平は崑崙におり、羅浮(山)と括蒼山に往来す、と。(劉)宋の元嘉中、かつて名ある画《えし》を遣わし、状を団扇に写さしむ」。念のため、『神仙伝』巻二、王方平の条を見るに、それらの山に往来した由記しあるきりだから、元嘉中に団扇に画かしめたは、括蒼山の状で、王仙の状でないと分かっ(430)た。(十一月六日) (大正十年一月『集古』辛酉一号)
蛇に食いつかれぬ歌
羽柴君が本誌庚申五号五葉表に書かれた、越後の一村で伝うるこの歌と大同小異のが諸書に見える。大正六年二月の『太陽』拙文「蛇に関する民俗と伝説」一五二頁に述べおいたから、それを引こう。
いわく、『嬉遊笑覧』に、「『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて『あくまだち、わがたつ道に横たへば、やまなし姫にありと伝へん』というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は、『この路に錦まだらの虫あらば、山立ち姫に告げて取らせん』。『四神地名録』、多摩郡喜多見村条下に、この村に蛇除《へびよけ》伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり。この辺土人の言えるには、蛇多き草中に入るには、伊右衛門、伊右衛門と唱えて入らば、毒蛇に食われずという。守りも出す。蛇多き所は、三里も五里も守りを受けに来るとのことなり、奇というべし、と言えり。さてかの歌は、その守りなるべし。あくまだちは赤まだらなるべく、山なし姫は山立ち姫なるべし。野猪《いのしし》を言うとなん。野猪は蛇を好んで食らう。ことに蝮を好む由なり」。予在米のころ、ペンシルヴァニア州のどこかに、蛇多きを平らげんとて、欧州より野猪を多く輸入し、放ちしことありし。右の歌(を解するに、あながちにあくまだちを赤まだら、山なしを山立ちと説くと要せず)、蛇を悪魔とせしは、耶蘇《やそ》教説に同じ。アリノミ(梨)のアリに言い掛けた山梨姫とは、野猪が山梨を嗜むにや。識者の教えを俟《ま》つ。(已上『太陽』に出た拙文)
山梨のことは今年十一月の『太陽』一〇五頁に述べおいた。一八九〇年八月二十八日の『ユニヴァーシチー・コレスポンデント』に、仏人力ルメットの蛇毒試験の報告あって、その中に家猪は蛇咬の毒を感ぜず、しかしその血を人に注射しても蛇毒を防ぐあたわずとあったから、家猪の本種たる野猪はむろん蛇を何とも思わぬで
(431)あろう。
さて羽柴君が越後で聞いた蛇除の歌は、『萩原随筆』のと『四神地名録』のとを折衷したような「まだら虫や、わが行く先へいたならば、山たち姫に知らせ申さん」というので、越後の伝えには、まだら虫は蛇、山たち姫はホトロすなわち蕨の茎葉を指す名、と書かれた。このことについても、大正七年一月の『人類学雑誌』(三三巻一号四二六頁)に出した拙文を引こう。
いわく、『人類学雑誌』三二巻一〇号三一三頁に佐々木君いわく、「蛇に逢い蛇がにげぬ時の呪、天竺の茅萱《ちがや》畑に昼寝して蕨《わらび》の恩顧を忘れたか、あぶらうんけんそわか、と三遍称うべし。かくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなり」と。それだけでは何の意味とも分からねど、内田邦彦君の『南総俚俗』一一〇頁に、「ある時、蝮病んでしの根(茅の根のことなれど、ここはその鋭き幼芽のこと)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動くあたわざりしを、地中の蕨憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し上げて、しの根の苦痛より免れしめたり。爾後、山に入る者は、『奥山の姫まむし、蕨のご恩を忘れたか』と唱うれば、その害を免る」と載せたるを見て始めて釈きうる、と。
これで蕨の茎葉で蛇咬傷の処を撫で鎮める訳は分かるが、南総で蝮蛇を女性に見立て姫まむしと言うのが、越後で蕨の茎葉を山たち姫と呼ぶのと差《ちが》う。茅の幼芽は鋭くて人の足に立〔傍点〕ち傷《いた》める、この蝮も倒れた時茅の幼芽が立〔傍点〕って傷つけたから、山にあって人畜の身に立〔傍点〕ち困らせる刺《はり》が立つの意で、茅を山立ち姫と呼び、人を咬まば茅に告げて蛇の身に立たすぞと脅かした歌の本意でなかろうか。神代に萱野姫など茅を神とした例もある。もと茅を山立ち姫と言いしが、後には斉しく蛇が怖るる野猪をも山立ち姫と言ったものらしい。(大正九年十一月六日)
(追記)『郷土研究』三巻七号四二頁、前沢淵月氏の信州下伊那郡大河原鹿塩の渓谷に行なわるる俗信の報告中に、「蕨を探りに行く時は、初めに見た蕨で足をこすっておけば、その日は蛇に逢わぬ」とある。 (大正十年三月『集古』辛酉二号)
(432) 朝鮮の公孫樹
本誌甲子五号四葉裏を見ると、今年一月病歿された平瀬作五郎氏は、かつて新聞紙に出した「公孫樹の生活」中に、朝鮮にはこの木一本もなし、と述べられたらしい。平瀬氏は、生存中毎度予と共に松葉蘭の研究のために拙宅へ来られ、そのついでに公孫樹について談《かた》られたが、朝鮮にこの木なしと話されなんだ。
今年歿後、その小伝を城州花園中学内平瀬教諭謝恩会で発行した内に、平瀬氏の「公孫樹」一篇を載す。何年何月出た物と明記はないが、件《くだん》の「公孫樹の生活」より後に書かれた物らしく、その内に「先年、北京大学堂に教鞭を執れる某理学士の話によれば、北京・奉天にても、仏閣などに叮重に保育せられたる状況は、わが国におけるところに等し、云々。また朝鮮よりわざわざ写真を添えて贈られたる報告によるも、本邦におけると同様、宏壮なる老樹あり」と述べあれば、平瀬氏は知人等の注意により、満州にも朝鮮にもこの木あるを知り、みずからその誤りを正したと知らる。 (大正十四年五月『集古』乙丑三号)
徒歩運動について
本誌甲子五号一葉裏に見ゆる高島秋帆先生室内運動とほぼ似た話が、その前からある。松崎堯臣の『窓のすさみ追加』にいわく、三宅丹治は闇斎流にて勝れたる学者なり、忍《おし》の君に仕えて重職なりしが、直諫して大いに旨に違い、坐敷籠《ざしきろう》に押し入れられ、数百日ありけり、云々。かくて丹治は牢内を不断廻り廻りしけり。番人に向かいて、われらかように日夜廻りぬるを、みなみな不審して、心も乱れたるかと思われん、さにはあらず、やがて(433)死刑に行なわれん時、居すくみて、世にいう牢くたしになりて、腰など脱けぬれば、死様《しにざま》見苦しきものなるゆえ、その用意にかくあり、と言いける。ほどなく赦されければ、門人多く付き添い、京・江戸に往来し、名高かりしが、寛保三年のころ八十余にて終わりぬ、と。
飯田忠彦の『野史』巻二五五に、三宅重国|字《あざな》丹治、侍従阿部正武に仕え、適子の傅《ふ》たり。言行なわれざるをもって致仕を乞うて止まざるにより、宝永四年忍城に幽せられ、越えて三年、赦にあい京師に如《ゆ》く。「囹圄《れいご》にあり、毎旦《まいあさ》水を請うて洗浴す。布袍《きもの》綻び裂くれば、すなわち紙縷《こより》を撚《よ》ってこれを補綴す。食後には必ず囲いの中を匝《めぐ》ること数百回にして、約凡《およそ》一里なり。精神、平素よりも減ぜず。佐吏巡警これを睹《み》て、守る者に怠るなかれと誡《いま》しむ。重固聞いて恐れていわく、丈夫《じようふ》、一縷《いちる》もってこれを縛す、義としてあえて脱せず、余の然《しか》する所以《ゆえん》はただ脚疾に罹《かか》るを懼るるのみ、膝行《しつこう》して戮《りく》に就《つ》かば人に笑わるるところとならん、故に爾《しか》するなり、と」とある。 (大正十四年九月『集古』乙丑四号)
装飾として持つ杖
本誌甲子五号林君の「西洋から教わった風俗」に、日本の昔の杖は「すべて実用の物のみであって、西洋のステッキのごとく、一種の装飾品として携帯する物はなかった」と述べられた。
しかるに、喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻二中にいわく、「『見聞集』六、見しは今、江戸にて六、七年以来、高きも卑しきも杖をつく。さてまた桑の木は養生によしとて皆人好みければ、木うり、爪木《つまぎ》をこる者、深山を分けてこれを尋ね、背中に負い馬につけて江戸町へ売りにくる、当世のはやり物、よせいの道具なればとて、若き人たち買い取りて炎天の道のよきに杖をつき給うこと、まことに人の非《そしり》、世間の掟《おきて》をも憚らざる振舞、言に絶えたり。中略。ここに六、七年以前と言えるは、慶長の末または寛永の初めごろにや。かくおびただしくはやりしもほどなく止みたるが、(434)その後大かた竹杖なり。名古屋山三郎という土佐浄瑠璃、互いに深き鳴戸の沖に身は沈むとも君ゆえと心のたけの杖をつき、云々(竹杖を言いかけたり)。元隣が『宝倉』三、枚の条、若くてつく人は病めるか不礼か猟漁のためにして、みな良からざる業にこそ、云々、世を苦《にが》竹の杖よ、国につくべき栄えも俟たず、つかまく思えばつく、いななればつかず、云々。『一代男』、若き人遊所へゆくところ、大草履取りに笠杖もたせ(大草履取りは小草履取りというがあればなり)、『諸艶大鑑』二、立髪の小者にベンガラ島の風呂敷包、竹のネジ杖を持ち添え、『永代蔵』四、可惜《あたら》世をうかうかと送り、二十前後より無益の竹杖、置頭巾、長柄の傘さしかけさせ、世上構わず潜上おとこ、また五にも、同様の町人をいうに、長柄の差掛けかさに竹杖の勿体《もつたい》らしくともあり、かく持たする杖を余情杖とも化粧杖とも言う。天和より元禄ごろまでの絵に細杖もたする者多くみゆ、これなり。『色三味線』二、鵜殿葭の細杖けしょうに突いて(当世風の若き男なり)、鵜殿葭は蘆の一種大なる物なり、津の国島上郡鵜殿村の名産なり、云々」と。
鵜殿葭は、『本草図譜』一三の一〇-一一葉にその図あり。その茎で篳篥《ひちりき》の舌を作る。戴凱之の『竹譜』に「竹象蘆あり、よってもって名となす、云々。およそ今の?《ち》は、これにあらずんば鳴らず」とある物か。右の『笑覧』の文にみえた細杖、余情杖、化粧杖は、委細の点においてはステッキと全然同物でなかったろうが、いわゆる当世のはやり物、よせいの道具たるにおいては、ステッキと異ならず。したがって、日本にも古く一種の装飾威儀の具として携うる杖が行なわれたことあり、といいうる。
支那に、古く実用を外れ、装飾威儀が専務というべき種々の杖があったは、『淵鑑類函』の杖の条などに見える。例せば『新序』にいわく、「昌邑王《しようゆうおう》、徴せられて天子となる。?陽《けいよう》に到り、積竹刺杖|二枚《にほん》を置く。?《きよう》ついに諫《いさ》めていわく、積竹刺杖は驕蹇《きようけん》たる少年の杖なり。大王は大喪を奉ず、まさに竹杖を?《つ》くべし、と」。蹇は擾なりと字典にあれば、「驕蹇少年」とは『永代蔵』にいわゆる世上構わぬ潜上おとこで、戴氏の『竹譜』注に、「棘竹《きよくちく》は交州諸郡に生じ、叢生して数十茎あり。大いなるものは二尺の囲《めぐり》あり、内は至って厚実なり。夷人、破《わ》ってもって弓を為《つく》る。枝節(435)にはみな刺《とげ》あり、云々」。この大きな竹の刺《はり》を積み把ねて杖としたのを「積竹刺杖」と呼んだものか。何に致せ、「積竹刺杖」は珍異の物で、杖の必要もないみえ坊がこれを弄ぶこと、前漢のころ行なわれたらしく、西暦紀元前七四年、昌邑王賀が廃立された当時、支那に多少ステッキを翫ぶ風があったのだ。『類函』竹の条に引いた劉向の『新序』の件《くだん》の文は、『漢魏叢書』収むるところのかの書に見えぬから、本話の?末が分からぬ。『前漢書』にあるかも知れぬ。
西洋のステッキの沿革は一向知らぬが、知人ウィルフレッド・マーク・ウェッブ氏が一九一二年出した第二板『ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレッス』九一頁の書きぶりより推するに、英国人などもステッキはもと実用を主としたが、十六、七世紀に装飾の具となったらしい。 (大正十四年十一月『集古』乙丑五号)
徒歩運動古く日本にありしこと
本誌乙丑四号に三宅尚斎の例を挙げおいたが、そののち『簾中抄』下巻を往年借覧して抄しおいたのを見ると、「よゐ《ママ〕ひに物食いては少し歩《あり》きて後ぬべし、云々」とあり。宵に物食うたら少々歩んでのちに寝るべしということらしい。尾崎雅嘉の『群書一覧』有職類に、『簾中抄』写二巻、『拾芥抄』をかなにて和らぎかけるようのもの、三井寺の智証伝という、資隆公八条宮へ進ぜらるる書なり、とある。この八条宮は、後陽成天皇の弟知仁親王、寛永六年五十一歳で薨ず(『本朝皇胤紹運録』)とある方かと思う。果たして然らば、『簾中抄』は徳川時代の初朝に成ったものか。また『拾芥抄』は、義政将軍の時左大臣実煕公の著という。それにも右の訓えがありそうに思うが、座右にないから分からない。(九月十五日夕) (大正十五年一月『集古』丙寅一号)
(436) 数え唄について
本誌乙丑五号一葉裏に、山中君は、数え唄の古く見えたのは、寛永九年板の『薄雪物語』に、道命法師、こうじ売りに身を替えて見初めし局の向いにて?を売りける時に、うりつつ数えけるは、一つとや独り丸寝《まろね》の柚枕、たもとしぼらぬあかつきもなし、云々、以上二十一まであり、と述べられた。
予この物語を読んだことはあれど、たぷん忘れおわり、今初めて承った心地して、取り出し見んとするに誰か持ち去って自宅になし。ただし、一つとや等の唄の古いのが御伽草紙の『和泉式部』にあったと記臆するので、取り出して見ると、果たして二十一まであって、山中君が『薄雪物語』から引かれた一から三までと大同小異だ。「一つとや、ひとり丸寝のくさ枕、たもとしぼらぬ暁《あかつき》もなし」、「二つとや、ふたえ屏風の内にねて恋しき人をいつか見るべき」、「三つとかや、みても心の慰さまでなどうき人の恋しかるらん」とある。惟うに、この余もことごとく少しの差《ちが》いあるのみであろう。さてこれには道命法師が内裏の八講を勤めた時、うみの母と知らずに和泉式部を見初め、山に帰りても忘られず、今一目見ばやと思い柑子うりになりて、式部の局より出た下女に相子二十を数えてうるに恋の歌で数えた、としておる。この話は足利時代にできた物というから、『薄雪物語』よりは古く、これに出た二十一の数え唄がまずこの風の唄の鼻祖とも申すべきか。(十四年十二月五日早朝) (大正十五年三月『集古』丙寅二号)
(437) 手車の唱え辞
――台馬という児戯――
本誌癸酉三号二丁表、甲府では、手車の唱え辞に「おてんおてんの手車に、ちょとのせた」という由、三村君は言われた。小生記臆するところ、明治十九年ごろまで、和歌山で小児を手車して運ぶ男女は、多く「おてんおてんのてんぐるま、これは大事のてんぐるま」と唱えあるいた。また小学生など、手車に乗って闘い、敵手を突き落とし捗き落とし、組討ちして捻じ落とし、これをゲイウマと称えた。乗った者に限らず、乗せおる者同士も押し合って、倒しにかかるから、毎度真剣の喧嘩となり、堅く禁制されたことであった。(五月十日早朝) (昭和八年九月『集古』癸酉四号)
南方姓の訓み方について
本誌乙亥二号一〇葉裏下段の疑問に答う。南方氏は海草郡三田村、以前三葛(ミカツラ)と言った村に、南方(ミナカタ)新田という地ありて、そこより出た。明治十二、三年ごろ、紀三井寺詣でに、三葛村の官道を通り、片端から両側の家々の宿札を読むと、七、八十戸揃うて、和田、南方の二氏のみであった。この南方は、古来ミナカタで通し、ナンポウと呼んでは通ぜなんだ。明治十六年出京して共立学校に入った時、高橋是清先生が毎日ナンポウナンポウと呼ばるるので生徒を笑わせ、ランポウ君など言わるるに閉口した。紀州人ならで、南方(ナンポウ)十次兵衛とか、何かの院本にあったと思えど、記憶確かでない。 (昭和十年五月『集古』乙亥三号)
(438) 勢力という悪業者
下総国香取郡万歳村無宿、元相撲取、佐助、通称勢力富五郎は、博徒の首領で、子分と共に悪事も多かったので、『出羽三山参詣日記』(『集古』乙亥三号六丁裏参照)が成った嘉永五年より三年前の四月二十八日、捕吏と百姓どもに囲まれ、栗生郡金毘羅山で、子分栄助とともに自殺、時に三十七歳という(『実事譚』二八、二九)。『日記』にいわゆる「勢力という悪業者」は、富五郎か、その子分で、勢力と名乗った者、あるいはそのころ隣国までも喧伝された勢力に托して、娼婦がよい加減な身の上咄《ばなし》を述べたのであろう。
『南方随筆』に出した、武州人美津田滝次郎氏、少年のころ下総におり、富五郎の事蹟を多く知って語られたが、今は過半忘れた。ただ一つ二つ覚えおるものを記すと、勢力、一時の威勢すばらしく、村芝居へ来るごとに、案内者が大声で勢力様の御入《おんい》りと呼ばわる。その体、芝居にも優った芝居だった。ずっと若い時、神楽獅子という悪《にく》まれ者を土俵に抛げつけた時、一同「勢力勝った、神楽獅子負けた」と唄うて踊った。また維新直前、上総久留里の黒田家の主公、徳川氏のために籠城して官軍に抗せんとせしも、臣下応ぜず、みな退散した。その時主公泣いて、前年勢力が囲まれた時、若干の乾児《こぶん》そのために拒ぎ守った、今われ公義のために城を守らんとするに、一人の随う者なし、諸侯は博徒に及ばず、と歎じた由。前日エチオピアへ嫁入ると噂あった某姫の祖父ぐらいに当たる人だろう。(四月八日) (昭和十年九月『集古』乙亥四号)
(439) 南紀特有の人名
――楠の字をつける風習について――
森本樵作「紀伊見聞七則」一、桶という名参照
(『民族と歴史』四巻一号三三頁)
楠の字を人名につけることについて、予は明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号の三一一頁に次のごとく記した。いわく、「今日は知らず、二十年ばかり前まで、紀伊藤白王子社畔に、楠神と号し、いと古き楠の木に、注連《しめ》結びたるが立てりき。当国、ことに海草郡、なかんずく予が氏とする南方苗字の民など、子産まるるごとにこれに詣で祈り、祠官より名の一字を受く。楠、藤、熊などこれなり。この名を受けし者、病あるつど、件《くだん》の楠神に平癒を?る。知名の士、中井芳楠、森下岩楠など、みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ、今も海草郡に楠をもって名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬほどなり。予思うに、こは本邦上世トテミズム行なわれし遺址の残存せるにあらざるか。三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子|胡瓜《きゆうり》を食わず、金毘羅に詣る者蟹を食わず、富士に登る人|?《このしろ》を食わざる等の特別食忌と併せ攷うるを要す」(下略)。
予の兄弟九人、兄藤吉、姉熊、妹藤枝いずれも右の緑で命名され、残る六人ことごとく楠を名の下につく。なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので、四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。
(440) 『紀伊続風土記』付録巻四に引いた文明十二年深草社の願文に、額主紀楠丸とあり。同巻九に、年次|不知《しらず》、五月十三日政長(畠山?)が隅田(荘)葛原千楠丸に与えた文書を出し、同巻一に、元弘三年五月二日、大塔宮祗候人、保田宗顕・生地師澄等に押し寄せ放火されしため、栗栖千代楠丸が祖先来持ち伝えた松島村の地券紛失に関する文書を載せ、また正慶二年、建武四年、暦応三年の、紀犬楠丸の領地に関する文書を列ね、外に尊氏の下文ある池田庄内、豊田村地頭職事という文書をも掲ぐ。その文中には犬楠丸とあるに、文末には元弘三年七月十日紀犬楠判と著す。したがって、当時すでに何楠丸を何楠と略称する風が行なわれたと知る。予の幼時、楠を名とする者、家督を継げば何兵衛、何左衛門と改称するを常とし、予の弟が亡父の相続しながら常楠の名で押し通すを、幼稚らしく聞こえ、営業上不利益と非難した手代もあった。故中井芳楠氏も陸軍士官になった時為則と改名したが、退職後旧称に復した。これらを綜合して、楠を名とするは、旧く未冠者に限ったと知る。さて『東鑑』巻九に、文治五年二月二十一日、鶴岡舞楽に召された箱根の童形八人中に箱熊と楠鶴あり。巻一二に、建久三年八月十五日、鶴岡放生会舞童中に伊豆熊と沌楠あり。
宮武外骨氏は人名の楠は糞より転ぜしと説いた由。その詳を聞かねど、押坂部史毛屎、阿部朝臣男屎、節婦巨勢朝臣屎子、下野屎子など、本邦男女が屎を名とせしもの国史に散見し(『玄同放言』三上)、インドで小児を糞と名づける例多く、そのうちウコは糞塚の義で、邦俗大便をウンコと呼ぶに似ておるは妙だ(一九一四年ボンベイ板、エントホヴェソ『グジャラット民俗記』(一二三頁)。これらいずれも邪視を避ける用意で、邪視のことは『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号二九二頁已下と、大正六年二月の『太陽』「蛇に関する民俗と伝説」に述べおいた。穢らわしい名をつくるは避邪のためということ、予は在英中エルウォーシーの『邪視篇』を読んで甫《はじ》めて気づいたが、その実本邦で蚤《はや》く気づいた人があったは、元禄五年五十四歳で終わった岡西惟中の『消閑雑記』に次の文あるので知れる。いわく、「人の名に丸という字をつくること、まるは不浄を容るる器なり。不浄は鬼魔の類も嫌うものなり。されば鬼魔の類近づ(441)かざる心を祝して、名の下につく心なり。『古今集』の作者に、屎といい、貫之が幼名をあこくそという類多し。今も穢多の子にしてその名を穢多とつけ、また犬と名づくることみな同じ。これ玄旨法印の古今にて沙汰し給うとぞ」と。
宮武氏はこれらから推して人名の糞が楠に転じたと説いたであろう。その通りでは、予の名熊楠は熊糞、上に引いた犬楠丸は犬糞丸と、いかにも跳え向きの蔑しむべき名となるが、千代楠丸や滝楠丸は解釈されず。古来、楠を神木とし、はなはだしきは神体とさえする例多く、「神代巻」に天磐?樟船《あまのいわくすぶね》あり。また素戔嗚尊、鬚髯と胸毛より杉と檜を、眉毛より?樟を化成し、杉および?樟の両樹は浮宝となし、檜は瑞宮を作るべしと宣う、と記す。尊勝の宮殿や船舶を神聖とするは本邦に限らず、ポリネシア等にその例多し(一九一三年板、フレザー『サイケス・タスク』一〇頁)。故に上世もっぱら高貴の宮船の材料だった檜や杉と楠を神物としたに付けて、これを族霊(トテム)として人名につけるに及んだので、決して悪臭の糞から芳香の楠に転訛したのではない。
楠を族霊として人に名づけること紀州に限らず、土佐にも多し。ただし予が知ったかぎり、土佐では楠弥・楠猪・楠馬など、楠を名の上に置くが多く、紀州では定楠・清楠など名の下につけるが多きと違う。(紀州でも、和歌山市、海草郡およびその近郡に盛んに、南方諸郡には多からぬ。)これについて畏友寺石正路君に問い合わすと、さっそく返事があった。その大要は、
さて人名に楠字を用いること、土佐には例証多し。よほど貴県と類似したるものなれば、左に数例を申し上げ候。高知市の北半里、秦村の山麓に大なる楠の霊木あり。昔より安産の神と崇められ、信徒多く、桶神様と称し、小祠堂と神主様の者出で来たり信徒の祈願を取り次ぎ申し候、孕婦これに安産を願えば、神官その産児に楠代とか楠喜とか女性らしき相当の名をつけくれ、また生まれる小供の生立《おいたち》安全を祈願すれば、楠千代・御楠等名づけくれ候。秦村や高知市中に今にその習慣を続ける人多く、その故か楠を名とする人珍しからず候。面白きはお申し(442)越しの土方久元伯は、まさしく右の秦村生れにて秦山と雅号され、俗名は貴説通り楠左衝門に相違なく、今日同伯より承りえざるも、その俗名はたぶん件《くだん》の楠神より起こりたることと想像申し候。現にこの楠神の授名にて、小生隣家徳弘なる人の妻は楠、小供は楠行、楠千代、楠喜と申し候。
次に高知市の西三里、吾川郡弘岡上の村西澤に、高さ六十尺の大楠、樹齢八、九百年と申すあり。古来その下に子安地蔵の石像を安置したるが、自然その樹に巻き込まれしより、後世楠堂と称し(その木側に虚空蔵大菩薩を祭る)、安産守護の本尊とせられ、無嗣の者、難産の輩、祈願せば救わるとて参詣非常に多し。この楠に祈りて生まれた小供は、楠また樟の字を命名する例にて、その数すでに数百人に及べりと聞く。小生知人に同村生れ、目下工部学務に勤むる安並楠親と申す人|有之《これあり》候。
高岡郡横倉山北麓に楠神という村あり。同山の登攀口にて名を知られたる所なり。
長岡郡十市村にも、楠木を楠神と名づけ祭り、安全を祈り、その緑にて楠字を名につける。かくのごとく例証たくさんにて枚挙に勝えず。楠木を祭り、またその縁より人名に楠をつけるは貴県に劣らじと存じ候。
右、寺石君の来示を抄するところへ、仙台の彫刻家増田光城氏来たり、半年間藤白王子社近所に寓居したと語る。よって尋ねて現時も楠神は茂りおると知った。この外に楠字を幼児に授くる楠が紀州にあるや否を知らぬ。
右述の次第で考うるに、楠は諸方暖国に産すれど、その随処楠を人名につけず。土紀二州特にこれを人名につけるは、森本君が本誌四巻一号で言ったような、「楠の盛んに繁茂する所であるから、自然にこれを名につけるようになった」のでなく、二州に限って楠を族霊とする風が行なわれたこと、あたかも親が拘律陀樹神に祈って生んだゆえ、日蓮の名が拘律陀て、大迦葉《だいかしよう》は畢鉢羅《ひつぱら》樹神の申し子ゆえ、畢鉢羅と名づけられ、高名の美娼|?女《ないによ》は?樹より生まれたと言われ、今もインドに薔薇、マンゴ、サフラン、南瓜、大根等の名の人多きごとくだったからだ(『翻訳名義集』二。『仏説?女耆域因縁経』。エントホヴェン『グジャラット民俗記』一四四頁)。
(443) 本朝では古く植物で神や人に名づけた例、予が知っただけを陳ぬると、可美葦牙彦尊、鹿屋(茅?)野比女、熊野?樟日命、これは天照大神の御子で、熊野に今日楠を人名につけること少なきに、神代にはその例あったと見える。それから橘王、樟氷皇女、橘皇女や景行帝妃茅媛、日本武尊の妾弟橘媛、吉士伊企儺の妻大葉子(車前?)、この婦人は皇軍新羅を討って敗軍し、夫も子も討死した時、敵軍に捕われて歌を詠んだので名高い。難波吉士木蓮子、蘇我稲目(芽?)、迹見首赤檮、大海宿禰蒭蒲、葛城福草、神社福草、聖徳太子の同母弟殖栗皇子、また反正天皇降誕の節、瑞井を汲んで洗い参らすと、タジヒ(虎杖)の花その井に落ちありしゆえ、多遅比瑞歯別天皇と名づけ奉った(『古事記』と『書紀』)。若犬養宿禰檳榔、鴨朝臣吉備麿(『続紀』三と八)、藤原朝臣藤(『続後紀』一七)、小野朝臣篁、清滝朝臣藤根(『文徳実録』四と七)、藤原朝臣楓麿(『三代実録』一と二)、藤原朝臣菅根、これは菅公に恩を受けながら畔《そむ》いたんだ(『江談抄』)。長暦中の河内人川瀬吉松(『拾遺往生伝』上)、これらは多少族霊によった名らしい。
平安朝の末より童名に限って往々植物の名をつけた。倒せば、舞童幸松(『弘安八年大講堂供養記』)、童子春松、岩松(『後宇多院御幸記』)、『秋夜長物語』の梅若、謡曲「粉川寺」の梅夜叉、『幻夢物語』の花松、三宝院の上童春竹丸、如意松丸(『相国寺塔供養記』)、『続門葉集』の杉王丸、松菊丸、建武元年『東寺塔供養記』の大童子岩松丸、阿古松丸、御伽草紙の『榊』にみえた童竹松、『紫野千句』の宗松丸、春松丸、中には謡曲「桜川」の少年桜子ごとき、桜を神体とした社の氏子ゆえかく名づけたと明言しあれど、たぶんは今の芸妓・娼妓の名号と等しく、吉祥と品藻によってつけたらしく、中古、女の名に瞿麦、海松、玉松、笛竹、真賢木、綾杉(『類衆名物考』三八、三九)、高倉帝の寵婢葵、頼政の菖蒲、義仲の山吹などあるも同様とみえる。さて一つ珍なことは美童の名に植物をつけた例多きに反し、中古、遊女の名に草木に縁あるは少なく、相場長昭の『遊女考』載するところ、亀菊、白菊、牡丹とわずか三、四に過ぎない。(徳川氏の時の女郎の源氏名を植物に資《よ》ったもの、さまで多からず。貞享四年板、其角の『吉原源氏五十四君』のうち、桂、松ヶ枝、梅ヶ枝、桜木等五、六しかなく、明和七年刊、春信筆『吉原美人合』すべて百八十六娼の(444)うち、植物に縁ある源氏名の者は若菜、園梅、小桜、紅、梅枝、波菊、錦木、常夏、五百篠、槙の葉、花紫、玉菊、若松、村荻、桂木、二十に足りない。もしそれ動物を人名につけた例に至ってはまだ調べておらぬから、他日これを述べよう。)
(岩橋小弥太氏説(『民族と歴史』五巻三号二三四頁)に、『香取文書纂』に、文明五年の人身売り証文に、口入人虎楠花押とあり、長享三年付の田地改替状に、香通のおうむすめくす〔二字傍点〕、また永正二年付の本銭返屋敷売券にも、香取押手住人楠女という名が出でおる由。) (大正九年十一月『民族と歴史』四巻五号)
(445) トーテムと命名
一
森貞二郎君の「日本人名考」上(『民族と歴史』五巻四号二九三頁)に、「実際植物を人名につけた例も多いが、南方先生の御説のように、果たして族霊というものによった命名であろうか。族霊のあるという考え、すなわち鳩は源氏の鳥だ、狐は武田氏の守護神だ、などという考えは、古人にあったには違いないが、これを名につけるという考えはなかったらしい。その証拠は、平群木菟-子真鳥-子鮪、蘇我稲目-子馬子-子蝦夷-子入鹿、蘇我赤兄-子大?媛など、鳥を名とした人の子に魚を名とした人があり、草を名とする人の子が獣を名とし、孫は魚を名とし、曽孫が魚を名とするなど、決して代々一種類を限って採用しておらぬ。族霊を名につける考えが古人にあったならば、むしろ姓につけはしまいか。後世ならば紋所につけるに相違ない」とあるのは、相応もっともな議論と承る。それについて、只今もっぱらいうトーテムと個人トーテムとの区別を弁明して、トーテムと命名との関係に及び、ついでに森君の「人名考」上にみえた人名の考えについて、心づいたところを述べてみよう。
(446) 二
予が年来「族霊」と訳し来たったのは、英、仏、独語のトーテムである。これはもと北米インジアンの詞で、種々の意味をもつ。初めジェー・ロングがこの詞の旧態トータムなる詞を、その著『印甸《インジアン》通弁の海陸行記』(一七九一年板)に用いた時は、インジアンが断食して夢みた物、もしくは覡人《げきじん》より授かった物を自分の守護尊とする、いわゆる個人トーテムに限ったが、只今もっぱらトーテムと言うのは、米、阿、濠、亜諸州の諸民がそれぞれ、ある天然物と自家との間に不思議の縁故連絡ありと信じ、その物名を自分の名として、父子また母子代々襲用するを指す。最も多くの場合には、よほど差し迫った時の外は、自家の名とする物を害せず、また殺さず、しかして多くの場合には、その物がその人を守護し、夢に吉凶を示す、とある(『大英百科全書』一一板、二七巻七九頁)。
欧州でも昔譚《むかしばなし》に、人が動植物の子に生まれた伝多く(一九一四年板、バーン『民俗学必携』四一頁)、近世まで、アイルランドには鶏と鵝《がちよう》と兎、イングランドには鶏と兎を食わぬ民あり(一九〇八年板、ゴム『歴史科学としての俚伝』四章)、いずれもむかしトーテムを等奉した遺風という。果たして然らば河野、緒方二氏の祖が蛇を父とし(『予章記』。『平家物語』八)、美濃の健走家キツや大力女|美濃狐《みののきつね》が狐を母とし(『水鏡』。『今昔物語』二三)、猿楽の元祖は猿が宮女に生ませたといい(『嬉遊笑覧』五、永正四年作『旅宿問答』を引く)、『奇異雑談』には、エイ魚が人の子を産んだ話あり。また稲荷の狐、熊野の烏、日吉の猴、竹生島の鯰、春日の鹿、三島の鰻や、赤淵大明神のアワビ(『越前名勝志』)、新川大明神の猪、行事大明神の馬と蜈蚣《むかで》、田中大明神の白犬(『近江輿地誌略』六五、六六)から、金毘羅の蟹に至るまで、神社にはそれぞれ使い物あって、その多くは氏子信徒が食わぬがごときは、これら概して本邦にもトーテム尊奉があった余風とみえる。
(447) トーテムをもって氏族や部姓に名づけた例が世界に多ければこそ、予はトーテムを族霊と訳したので、動植や日月星辰を紋章とすること、例せば、南部氏が鶴の祥兆あって勝軍《かちいくさ》したからこれを紋とし(『藩翰譜』でみたと記憶す)、千葉氏が月星を紋とし、その家をつぐ者必ず身に月星の痣ありとの迷信より内乱に及んだ(『関八州古戦録』一四)など、もとはトーテム尊崇から出たことと思い、昨年斯学の巨擘《きよはく》沼田頼輔君を頼み、まず紋章に用いられた動物の目録を作り貰うて、今に研究しおる。上世民間のことは分からぬが、しばらく『新撰姓氏録』に顕われたところをみたばかりでも、著名の姓氏にトーテムの跡を印したのがある。倒せば、柿本朝臣はその家門柿木あるによって氏としたが、俗に人麿柿樹より生まれたという(『広益俗説弁』八)。これトーテム信念の発達を証して面白い。隋の詩人王梵志が林檎の木より生まれしという(『古今図書集成』庶徴典一八八)に対して面白い。上宮太子、ある家の辺に大俣の大楊樹あるをみて、家主に大俣連姓を賜い、また門に大榎木あるをみて、その家主を榎室連としたまう。履中帝、酒盞に桜花入り浮かぶをみて捜さしめ、求め得て桜を献じた者を若桜部連とす。櫟井《いちい》臣、葉栗臣、椋連、橘朝臣、氷宿禰、和禰部《わにべ》、鴨県主、榎本造、菌田《たけだ》連はその田に夜の間に菌が生じたので景行帝から賜わった姓の由。三枝部《さいくさべ》連は顕宗帝に三茎の草を献じて賜わった。和仁古は?子か。竹原、蝮部、鴨部祝、葛木直、桑原村主、大石、高槻連、菅野朝臣、麻田連その他なおあるべし。
反正天皇降誕の時タジヒ(虎杖)の花の瑞あり、よって多治比瑞歯別命《たじひのみつはわけのみこと》と号し奉り、諸国に丹治比部をおき、その主宰に丹比姓を賜う。また『三代実録』に、宣化天皇の曽孫多治比古王産まれた時、タジヒの花の瑞あり、成長の後、多治比公の姓を賜う、子孫中山、黒田等みな虎杖を紋とす(『甲子夜話』続九七)。藤原鎌足公は、家伝に藤原の第に生まれたとあるから、生まれた地名によって中臣を藤原と改姓されたのだ。しかるに冬嗣公に至り、その家の衰微を歎いて空海に相談し、南円堂を立て祈りし時、春日明神が「今ぞ栄えん北の藤波」とよんだ。この堂供養の日、他姓の顕官六人まで死んだから、代々の御幸にも源氏は向かわず(『源平盛衰記』二四)。また藤原氏の者が始めて献策した時、(448)紀氏の儒臣等、藤に巻き立てられてはわれらが流は成り立たじと嘆じた(『江談抄』一)。兼良公の『多武峰縁起』に、鎌足妊まれた時、その母身より藤花生じ、あまねく日域に満つと夢みたとか、『神明鏡』に、その母の玉門より藤生い出で、日本国に蔓延し花さくと夢みて孕んだといい、子孫多く藤を紋章とするは、藤が藤原氏に何の因縁あるか知らねど、何に致せ、事実藤原氏のトーテムとなったのだ。これらは只今もっぱらいうトーテムすなわち族霊の信念が本邦にあった証左だ。すなわち族霊に資《よ》つて姓氏や紋章につけたのである。
三
さて代々一種一類また数種類のトーテムを、一族中の各個人に命名した例が本邦にないかと言うと、あるともあるとも大ありだ。予の家などは、本誌四巻五号二八七頁にほぼ書いた通り、藤白王子の楠神から授かる楠、熊、藤等を代々男女につけ、惣領のみは元服して代々弥兵衛と改名したが、余の輩は一生改めなんだ。熊野|?樟日《くすびの》命の名「神代巻」に著われ、『古事記』に神武帝が熊野で大熊に逢い給いしことあり。藤は藤白なる地名の起因で、この地藤でも名高かったものか。むかし那智にことのほか美麗な藤があったと何かで読んだが、今探り当たらぬ。近江草津の立木明神も藤を愛する由(『伊勢参宮名所図会』)。
予が家の外にも、これらの名を代々こもごも用いたのと、代々続いてこれらのうちの一字ばかり用いて、藤右衛門-藤兵衛-藤七-藤助-藤吉および藤蔵などつけたものも少なからず。予は、姉が熊、妹が藤枝、従妹に藤と熊枝、従弟に藤楠、それから楠を名のる兄弟五人、件は熊弥、娘は藤枝、熊枝とつけんにも、すでに同名が一族にあるゆえ、せめて枝だけ保留して文枝と名づけた。外国にも一族に一トーテムを用いるも、数トーテムを用いるもある。辺鄙の民は以前苗字なき者多く、代々同名で牛とか馬とかで通じた例を控えおいたが、只今みえず。こんなこと、ことに賤(449)民に多くて、一家全く同名ゆえ、大熊小熊、大亀跛亀など言って別った。予が本家幾代も弥兵衛で、過去帳を繰らねば何代めのことか判らぬ。武内宿禰が非凡の長生したと同格だ。白石説のごとく、仁明帝ごろから基経の道其のと、動作や心性によった名が多くなったが、それ以前は?とか、桜麿とか、形ある物に取った名がもっぱら行なわれた。上流さえかくのごとくなれば、凡下賤民の名は一層左様だったろう。したがって予のごとく一家ことごとく熊、楠、藤を限り用うるような例が最も盛んだったろう。『能登名跡志』坤巻に、広国村の日野氏代々熊の字を幼名とす、と載す。調べたらおびただしく例あることと思えど、只今手が届かない。
清正幼名虎之助、その子息広は虎藤丸、藤原氏に古く武智麿と高藤あり、これらは一家に一物を限って名とした余風といいうる。馬琴は、『続後紀』に藤原の藤なる人あり、それと別だが武智麿は藤麿だと言った(『玄同放言』三上)。僧延慶の家伝に、この名は義を茂栄に取ると記す。藤の栄うるに倣《なら》えとて武智麿と名づけたので、馬琴の説は中《あた》れり。藤堂高虎は近江犬上郡|在士《ざいし》村の産、村の八幡宮の藤によって氏とす。よって年々その花を神職が伊勢のかの家へ献ずとあるも(『近江輿地誌略』七四)、同じく藤に比べて茂栄を祝って氏としたのだ。元明天皇、葛城王の忠誠を果中の長上たる橘が寒暑に凋《しぼ》まざるに比べ、橘宿禰の姓を賜うた(『続紀』一二)。諸果の兄の意で諸兄と改名した。その子奈良麿の後に清友、氏公、峰継、真直、清蔭、春行、実利、正通、真材、茂枝、貞樹、清樹、善根、三夏、長茂、良根、それから諸兄の弟佐為の後に綿裳、枝主、春成、高成、秋実、長盛、直幹、忠幹、列相。いずれも橘樹の諸相好や他の植物少々を名とす。諸兄の祖父栗隈王、曽祖父大俣王(上に出た大俣連参照)の名を合わせ考うるに、この一家は全く人ごとに木を名とせんとしたが、恰好な木の名に限りあれば、後世伊達政宗、松浦鎮信、織田信秀に同名二人あったような混雑を防ぐため、なるべく橘樹に縁ある形容詞を採用したと知る。
(450) 四
かくてわが邦に古来、只今もっぱらいうトーテムの尊奉が行なわれたのみならず、個人トーテムも盛んに行なわれ、また上述橘をトーテムとするに、一族にも個人にも併《なら》び行なうような例があったと知れる。この橘氏の例で類推するに、上世は鮪の藤のと、もっぱら物名を人名につけたが、それでは同名の人多くて混雑するゆえ、それを別たんため、男鮪とか、高藤とかつけて、他の鮪や藤を名とする人と異なるを示し、その男鮪、高藤を名のる人も多くなるにつけ、さらに男鮪や高藤の形容詞、美雄とか好相とかの名をその児孫につけることとなったので、むろん支那風の輸入に遭って、もっぱら支那にあった成語を採用したと考えらる。
トーテム信念の起因については学説一定せず。あるいはいわく、「初め形相動作の似たる等より、物名を人名としたこと多し。猛き人を虎、鈍者を亀というごとし。後世これを心得違うて、わが祖は虎、汝は亀の裔と信ずるに及ぶ」と。予幼時、支那史を学んだ時、帝舜が使うた才子八元中の伯虎、仲熊、叔豹、季狸を、人でなくて獣類と心得、同学中に土蜘妹、打?など『書紀』にあるを、まるで動物と信じおった人もあったから推すと、無理からぬ説だ。あるいはいわく、「男女交会するごとに必ずしも子を率まず。また一生長くつれそい、不断和楽しながら子なき者多し。されば蒙昧の世の人は懐妊を不思議の極とし、男女交会にいささかの関係なく、異物奇象に感じて始めて孕むと信じた者多し。かくて生まれた子は、その母を感じ孕ましめた物をその父と信じ、その後裔みなその物を祖とし敬う。これその一族のトーテムだ」と。
(梁の劉?の『新論』玉にいわく、華胥《かしよ》は大人の跡《あしあと》を履んで伏羲《ふつき》を生む。女?《じよか》は瑤光《ようこう》(星)の日を貫くに感じて??《せんぎよく》を生む。慶都は赤竜と合して唐堯を生む。握登は大いなる虹を見て虞舜を生む。修紀は洞流星を見て夏禹(451)を生む。夫都は白気の月を貫くを見て殷湯を生む。太?《たいじ》は夢に長人を見て文王を生む。顔徴は黒帝に感じて孔子を生む。劉媼は赤竜に感じて漢祖を生む。薄姫は蒼竜に感じて文帝を生む。微子は牽牛星に感ず。顔淵は中台星に感ず。張良は狐星に感ず。樊?《はんかい》は狼星に感ず。老子は火星に感ず。かくのごとき類《たぐい》は、みな聖賢の天の瑞相を受けて生まれたるものなり」と。例のキリスト教徒は、キリストがその母の夫の胤でなく、上帝がその母に孕ませたものと伝称し、それについて種々大議論を生じたは皆人の知るところで、一八二三年板、ホーンの『古神劇記』第五曲「ヨセフの悋気」、ヨセフ不在中に妻上帝の胤を宿せしを見て、わが妻を間男に盗まれたとなき騒ぐ。この俗見の方が学者の議論よりも事実に近い。)
少昊《しようこう》の妃が竜に感じて炎帝をうみ、附宝が電に感じて黄帝をうみ(『史記評林』一)、日本に、寸白《すばく》虫を腹に持った女がかの虫の子をうみ、信濃守となったが、寸白虫の敵薬たる胡桃酒を強いられて水に化し去った談あり(『今昔物語』二八)。また醜婦が天に祈り、望月の影映った用水を呑んで孕み、飛騨の匠《たくみ》を生んだ由(『斐太後風土記』)。その飛騨の匠が作った木偶が宮女に孕ませた子が、紫宸殿を作る三大工の祖といい(『塵添?嚢抄』五)、日吉山王の猿が大内女房に生ませた四子が猿楽を創作したから、大内裏へ猿楽参らずという。「さのみ人に違はぬ猿のなり形《かたち》」「浮名とらさる内裏上臈」とはこれを読んだものか(『申楽聞書』。『千句独吟之俳諧』)。諸国に木や石に祈って孕む信念広く行なわる(一九〇九年板、ハートランド『原始父格論』一巻二章)。してみると件《くだん》の説もまた道理あり。まずは両説兼ね信じて、第一説ごとく起こったトーテムも、第二説通り生じたのもあったというが穏当と考う。二者いずれが日本に例多いか知らねど、記録に存するだけでは、第一説の例の方が多いようだ。柿の木が家門にあったので柿本氏を称えたのを、後に人麿が柿から生まれたと誤り、藤原の地に産まれたゆえ藤原姓を賜わったを、その母の那処から藤が生える夢をみて鎌足公を孕んだなど唱え、その一門と藤に密接不思議の因縁厚く、藤が栄ゆればその家また盛ゆると信ずるに及んだごとし。
(452) 五
終りに、森君ならびに読者諸彦に対し弁じおくは、本誌四巻五号二八九頁已下の拙文に、只今もっぱらいうトーテムと個人トーテムを区別せず、概して族霊と訳載したは軽からぬ過失で、前者に限り族霊〔二字傍点〕、後者はまだ決定せぬが、差し当たり守護物精〔四字傍点〕とか、眷属物精〔四字傍点〕とか訳出したらよかったと惟う。前者の力は一群一族の人衆に及ぼし、後者の力はただ個人のみに及ぶのだ。かの文に引いた『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号の拙文に、トーテミズムの一語あって、これは昨今もっぱら族霊の信念をさすに用いらるる詞で、個人トーテムに関すること少なきより、至細の吟味なしに、族霊をも個人トーテムをも押しなべて族霊と書いた次第であった。今、森君の一問で始めて気づいた。今後は慎んで二者の区別に深く注意しよう。この段|別《わ》けて森君に鳴謝す。
六
森君の「日本人名考」は、まだ完結しないから、今日(四月十六日)まで拝読した分について、気づいたことを述べよう。
丸・麿 前年この名について、英米諸国でとっけもない囂議《ごうぎ》が起こった。憚るところあって子細はここに述べぬが、まずは軍制の調査上より、何故わが邦の船舶を、あるいは丸、あるいは艦、あるいは号とつけるかを疑うた人多く、したがって予は一九〇七年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一〇輯八巻に、二度まで「丸の説」を出したのを、英国海軍大将イングルフィールド氏(北洋探検で高名だったエドワード・イングルフィールド男の甥)の頼みで、海軍(453)通のヒル氏が摘要訳出して自見を付し、一九一六年六月十三日の『ロイド登録』に載せ、あまねく読まれた。
その拙文に書いた通り、麿の名がもっとも著しく国史に出始めたは、孝徳天皇の朝の初めに大臣になった安倍内麿と蘇我倉山田石川麿とからだが、それより前にも厩戸皇子の舎人に調使麿、まだ前の雄略天皇朝に播磨の賊文石小麿あり(『聖徳太子伝暦』。『書紀』一四)。麿を丸とかくことは、すでに弘仁中の作、『日本霊異記』にあり。例せば、上の二九に白髪部猪麿《しらがべのいまろ》、中の三に吉志火麿《きしのほまろ》、同九に大伴赤麿、同二四に捕牛鬼の名槌麿。しかるに、下の二五に中臣連祖父麿、祖父丸と二様に書し、二七の宝亀九年の記事中に秋丸なる悪人の名あり、三〇の延暦元年の記事に多利麿また多利丸、三二に呉原忌寸《くれはらのいみき》名は妹丸、三八に藤原朝臣仲麿また仲丸と両様にかきある。その人を在世中は麿と書いたであろうが、ともかく晩くとも弘仁中には、麿を丸とも書いたらしい。また『西宮記』追儺《ついな》の条下に、「国史にいわく、天長十年四月、勅して大舎人《おおとねり》の穴太馬麿を喚び、内豎《ないじゆ》の橘吉雄と双《なら》び立たしむ。その身の長を量るに、吉雄はなはだ短くして、その頭首は鳥丸の腋下に及ばず、云々。按ずるに、世人、今に及んで長人を呼びて馬丸というの興りか」とある。『続日本後紀』の本文には、「馬麿の腋下に及ばず」とある馬麿を『西宮記』に馬丸としたのだ。同記二三に強盗の名を列した中にも、藤原童子丸、六人部法師丸、秦犬童丸あり。その前にも純友の子重太丸というのが『今昔物語』にみえる。
森君は丸は糞をまるの転語と言うのを、自分の新案とでも惟われおるよう拝読するが、このことは他人がすでに先だって言われたところで、井上通泰博士の来示にもあった。岡西惟中の意見は本誌四巻五号「南紀特有の人名」に引いた。井沢長秀、和漢幼児のよく育つ厭勝《まじない》とて、賤物を名に付くる弁、これに近い(『広益俗説弁』後編四)。惟中の言によれば、細川幽斎がはやくこの類のことに気づいておったらしい。予は人名の麿と丸が果たして糞から出たか否を決しあたわぬが、『大鏡』に三条帝が兼家公の女《むすめ》綏子を愛して、炎夏の日氷を取りて、「まろを念《おも》い給わば、今はと言わざらんかぎりは置かせ給うなとて」持たせ給いし由。またそのころの盗人に調伏丸、多衰丸、鬼同丸あり(『今昔(454)物語』。『古今著聞集』)、『二中歴』には襷《たすき》丸(狛氏)、調服丸とす。藤氏の盛時に尊勝みずから麿と称え、貴人も盗賊もまた丸を名としたと知る。
七
王・力 森君は王のついた名は、たぶん不動明王の功力を仰いで無事に育つように祝した名だろうといわれたが、仏典に何王という例きわめて多い。竜王、牛王、馬王、猴王、蟻王、孔雀王、螺王、鵝王等だ。また仏・菩薩・鬼神の名に覚王、教王、蔵王、喜王、天王、医王、夜叉王、阿修羅王、魔王等すこぶる多い。唐の陸亀蒙の『小名録』に、宋の前廃帝小字法師、斉の鬱林王小字法身、梁の昭明太子小字維摩、唐の王維字は摩詰、梁の廃帝小字薬王、宣帝小字師利などあって、六朝仏教盛んな時、多く小字に仏菩薩や内典の詞をつけた。
わが邦またこれに倣うたので、薬王、舎那王、光王、寿王等、経文すでにその名の仏菩薩や国王あり。決して不動明王の功力を仰いでつけたでない。力〔傍点〕を人名につけるも同様で、小力、徳力、功力、業力、力士等の成語多し。決して五大力菩薩のみによったでない。
八
よし・とめ・せき この子かぎりで生まれないようにと、よし、とめ、せきをつける外に、すみという名もあって、女子が続いて生まるるを禦ぐためにつけられた由。拙母、名はすみであった。
(455) 九
楠 井上通泰博士近く書信して、熊楠等の名の楠はもと自謙の称、クソまたはコソから転じた由を教えられた。自分もこの説古くよりあるを知りおった。例せば、『類聚名物考』三九にいわく、「およそ上古の人名は、男も女も童《わらわ》も、すべてその故《ゆえ》知れがたきもの多し。されども、まずは魚鳥あるいは物に寄せてぞ付けたる。中ごろの世には、多く童の名には何コソ、某キなどいう類ぞ多き、云々。コソというは、『延喜式』の神武式第二巻、「下照比売社一座、あるいは比売|許曽《こそ》社と号《なづ》く」とみえたるこそ始めなるべき。あるいは糞という意にて謙辞なりとも言えり。キは君の略語にして、大キは大君なり」。(田辺町の俗、今も人を呼ぶに、文枝を文キ、友吉を友キという。これは尊んでいうのでないから君の意と思われぬ。)馬琴も言った通り、国史等に屎を名とした男女多ければ、クソまたコソを糞によった名とするはもっともだが、紀州、土州等に多き人名の楠までも屎やコソから出たとは受けがたい。
すなわち予の前論(『民族と歴史』四巻五号二八七頁以下)に述べた通り、土佐に今も楠を祀りて神とし、人名を授かる例多く、紀州は予が知るところ、藤白王子の楠神の外、『紀伊国神名帳』に従四位上楠本大神、これは先年合祀された(『和歌山県誌』下)。紀州に楠本氏多く、予の外叔母の夫楠本藤助、その子藤楠、あるいはこの大神の氏子で、藤白王子のそれのごとく藤、楠等をトーテムとしたものか。官幣大社|日前《ひのくま》・国懸《くにがかす》両大神宮にも付属の楠神があった。その他楠を神とし神木とした社多かったが、合祀で亡びてしまった。予の亡父の氏神日高郡大山神社の大楠は、むかし藩侯の命で切って、和歌山|懸作《かけつく》りの大手門を作った、と古老に聞いた。中古、楠の木の神に従四位上を授けたほど尊ばれしに反し、おいおい神木を利用するため、その崇拝を廃止せしめた所も多かろう。
紀伊ならでも楠を神木とする例多く、前論に挙げた土佐の諸例の外に、伊豆の走湯の末社、樹の宮は、楠を神木と(456)し、稜威勝れた社なり(『関八州古戦録』一二)。神代の熊野?樟日命、仁賢帝の女樟女皇女、藤原仲麿の子久須麿等は、この木を尊ぶに関した名らしく、『和泉国神名帳』に、従三位楠本社、従五位上楠本国津神社、従五位上信太楠木神社、従五位下楠本辻社、従五位上楠守社あり。和泉にも楠を名につけた人あり。例せば、大坂で名高い弁護士林竜太郎氏の従弟に、予が知人天野猪間楠氏あり。『三河国神明名帳』に従五位上楠本天神、『清滝宮勧請神名帳』に伊予国の楠本大明神、『若狭国神名帳』に従二位久須夜大明神あり。『延喜式』に出た古社で、楠に関した名と惟う。『東京人類学会雑誌』二四巻二八二号、出口米吉氏説に、「熱田社の西にある楠の古木を楠木の宮と崇む、この神に祈れば安産する由。紀伊の官幣大社『日前国懸両大神書立』にも、「楠神、社なく、楠木あり」とあり、駿遠の境大井川の上、篠が窪の楠繁れる森中に、楠御前という小祠あって、祈れば膳椀をかす。熱海の鎮守来宮大明神の神木は大楠で、武州吾妻大権現の票木《ひようぼく》は連理の楠なり」と(摘要)。『参宮名所図会』に清盛楠を載す。これも清盛が、その枝自分の冠に障るとてきらせたなどいうので、その強威を称すると同時に、神宮また楠を神木とした証に立つ。
かく諸国に古く楠を尊ぶ風広く行なわれたれば、本誌五巻三号二三四頁に岩橋君が、『香取文書纂』から引かれた足利時代紀泉土三州外の男女の名の楠も、必ず楠を守護物精もしくは族霊としてのことだろう。それをことごとく糞から転じたとは、いかにも受け取りがたい。さて予が知るところ、楠を人名につけた最も古い例は、『東鑑』九、文治五年二月二十一日、鶴が岡舞楽に召された箱根の童形楠鶴と、同書一二、建久三年八月十五日、同社放生会の舞童滝楠とだ。
十
奈良 奈良を人名につけたは奈良県人に多い由。何奈良は聞かぬが、楢次郎、楢八などは紀州にもある。森君は楢(457)は別に神木でもないと言われたが、実は今日何でもなくとも、古えは神に縁ありとして尊ばれたもの多し。例せば、『古事記』仁徳帝の御歌「川の辺に生ひ立てるサシブを、サシブの木」とあるは、『倭姫命世記』のササムノキ、『神名帳』の伊勢の竹佐々夫江の社のササブ、『字鏡』のサセブで、紀伊その他でシャシャンボというものだ。この木古く神に縁厚く至等の御詠にまで出たが、今は田舎の児童が採って実を食らうのみ。『和漢三才図会』、『大和本草』以下の博物書に、一向みえず。今日学校の講義にもさらにきくことなし(『古事記伝』三六参照)。
『古事記』に、垂仁帝の御子大中津日子命は吉備の石无《いわなし》の別《わけ》の祖と出た。石无を『続紀』に石成に作るが、何ごとか別らず。『類聚国史』に磐梨別の公とあって、和気清麿の本姓と載せたので、始めて和気氏もとは磐梨の別《わけ》と言ったと判る。磐梨は四、五寸に過ぎぬ矮木で、故伊藤圭介博士の『日本植物図説』や『日本産物志』に図説あり。『尺素往来』に岩棠子《いわなし》とあって、足利氏の世に賞翫されたと知るが、その前にも今もあまり知れず。『類聚名物考』一八に、甲斐国山梨郡山梨郷山梨岡神、『夫木抄』、甲斐にて山梨の花をみて、能因「甲斐がねに咲きにけらしな足引の、山梨の岡の山梨の花」。伊勢の一の宮は椿が岳の麓にあり、その地椿多し。『延喜式』に棒太神社、後世都波木大明神と言う(村田春海『椿詣での記』。藤堂元甫『三国地誌』二三)。山梨岡の神も、椿太神社と等しく、よくよく山梨に因縁深い神とみえる。この山梨という物、平安朝廷の食膳を記した『厨事類記』に、橘や柿と双《なら》んで時の美果に入りたれは、尊貴にも賞翫されたのだが、今はこの物生ずる山中でさえ、その名を知らぬ人多し。
楢、一名ハハソ、この時は古書に柞とかく。古歌に「影もみえぬ風は夕べになら坂や、児手柏《このてがしは》の招く三日月」など、奈良坂に児手柏を寄せたが多い。出口米吉君の「わが国における植物崇拝の痕跡」(『東京人類学会雑誌』二四巻二八二号)に、白石先生の『東雅』を引いて、カシワとは古え飲食物をもる木葉の総称なりしを、樹葉を主として用いたゆえ、ついにこの木をカシワと呼んだらしく、特に飲食物をもる木葉の守護神を葉守の神と言ったが、後には『枕草子』に見る通り、槲の木にこの神すむと言ったらしい、と言われた。これも今となっては何の要もないことながら、(458)今日もアフリカや多島州《ポリネシア》で、甘蕉等の葉に饌をもり、食いおわってその葉できれいに手指を拭うをみれば、皿鉢乏しき時に樹の葉は大必要だったのだ。さて槲の外にも多少その役にたつ葉をナラカシワ、コノテガシワなど言ったので、ハハソもハハガシワと言うから、通憲の歌に「名にしおはば葉守の神に祈りみん、ははその紅葉ちるや残ると」とあるはもっともだ、と出口君は言われた。楢もナラカシワで児手柏と等しくカシワの一類とみられたから、奈良坂にややもすれば児手柏を寄せたので、奈良はもと多少楢の木に縁あった名と思う。
『紀伊続風土記』七七にいわく、牟婁郡小口川郷諸村に社なく、木を神体として某森と唱うる所多し、と。むかし森と言ったは、多くは木を神体として祭った木立を言ったので、杜社相通じたとの白井博士の説を、中村代議士が先年神社合祀に関する質問演説に引かれた。徳大寺左大臣の詠に「夕かけて楢の葉そよぎふく風に、まだき秋めく神なびの森」。神林に楢、柞多きはみな知るところで、『連珠合璧集』「柞《ははそ》とあらば、森、佐保山、泉川、いわたの小野《おの》。楢の葉とあらは、柏、時雨ふりおける、名におう宮古事」とのせ、『後拾遺』「榊とる卯月になれば神山の、楢のはかしはもとつはもなし」と引いた。これで楢、柞は今日神林に多いが別に神木とされぬに反し、むかしはもっとも神に緑厚かったと知る。
さて『清滝宮勧請神名帳』に、楢大明神が二ヵ所にでておる。列神の前後から推すに、山城にあったらしい。これはこの木を神として祭ったよう思われる。捜したらまだ例があろう。熊野などでは楢とのみ言ってハハソと言わぬ山民多い。ホウソは疱瘡と聞こえるによる。『新撰姓氏録』に櫟井臣、葉栗臣等、楢と同科植物に因《ちな》んだ姓あれど、楢や柞の姓はみえぬ。橘奈良麿や天武帝の皇孫奈良など、地名によって名としたにしたところが、予が自分の名に因んで熊や楠を敬愛するごとく、楢に対し特異の感を懐いただろう。これ楢をトーテムとしたのだ。これで楢を名とするは楠と同じく、これを神とし、神木として、産児の加護を仰いでのことと判る。『日本霊異記』中巻に、楢の磐島は諾楽《なら》左京六条五坊の人なり、とある。『新撰姓氏録』にないようだが、奈良に古く楢を族霊とした姓があったのだ。
(459) 大正二年四月十八日、大和郡山生れ長島一氏老母(六十余歳とみゆ)にきく、自分幼時はなはだ弱かりしに、大和のナラ郡ナラ村のナラ神さんに願をかけ、ナラの字を借り用いてより至って息災なり、いま背負いおる孫女も左様する、男子は十五、女は十三まで立願し、燈明をあげ、大阪近所へ往けば必ず参らすべしと誓うのみで、別に楢の字を唱え、つける等のことなし、と。このナラ神様は上に引ける楢大明神と同異|如何《いかん》。とにかく楢を守護精とする旧俗あった証左になる。(大阪の山本明信氏より本誌編輯人への通知に、奈良の近郊に世俗楢神さんという社あり、この社に参って生まれた子供に楢の字を冠せると、不思議によく育つと言い、よく子供を亡くする家など、ことによく行なう習わしらしい、と。)
ついでにいう。楢と同属の木イチイに古く櫟また赤檮の字を当てた(『和名抄』と『書紀』)。イチガシとて、熊野で神林にしばしばみる。『書紀』に守屋大連を射殺した迹見《とみ》の首《おびと》赤檮《いちい》、『新撰姓氏録』の櫟井臣、『尾張国神名帳』の正四位下櫟屋大神、いずれもこの木で名づけたのだ。『紀伊続風土記』七七に、牟婁郡月野瀬村の祝明神森は、古来社なく櫟を神体とすという。一や市を人名としたうちには、初めこの木に採ったのもあろう。同属の槲《かしわ》は、上述の通り、上世もっぱら饌をもるに用いられたゆえ、膳夫をカシワデと訓んだらしい。『姓氏録』に膳夫《かしわで》大伴部の姓あり、『書紀』に膳臣巴提便《かしわでのおみはすひ》という勇士百済に使いして虎を殺した記事あり。これらと同科植物たる栗も殖栗王子、殖栗王、栗栖王、栗原王等の人名、『姓氏録』に出た栗栖、葉栗等から、後世『太平記』にみえた栗生、『奥羽永慶軍記』の一栗、また紀州には森栗、信州に栗田等の氏名多く、常陸の栗林氏の祖は、焼栗をまいて栗林が生じたから氏に名づけた由(『鹿島宮社例伝記』)。ただし栗何とか、何栗とかいう人名は聞き及ばず。お栗、栗枝等の女名も聞かぬ。まだいいたいこと多いが、あまり長くなったゆえ止めておく。 (大正十年六月『民族と歴史』五巻六号)
【補遺】
楢の木と命名。本誌五巻六号三九六頁に記した人名と楢の木の関係について、次のごとく補遺しておく。
(460) 大阪辺に楢神という小社あって、それから楢の一字を請うて小児につけるということ、山本明信氏から報ぜられたが、今按ずるに、『続日本後紀』巻一九、「嘉承二年十一月辛亥朔壬子、武蔵国播羅郡奈良神、播磨国佐用津姫神、並《とも》に官社に預かる」とある。この奈良神も楢の木の霊を祀ったでなかろうか。
ついでにいう。スキートおよびブラグデンの『ペーガン・レーセス・オヴ・ゼ・マレイ・ペニンシュラ』の二の三頁以下に、セマン人の子生まれた時、その場に近く見えた木をもってその子に名づくる。さて後産をその木の下に埋めるや否、その子の父が地上より胸の高さに至るまでの間、その木に刻み目をつける。カリ神、自分が倚《よ》って立つ木にもかかる刻み目をつけて、人一人地上へ送りつけた紀念とするを表わす。この木を伐らず。またその子生涯これと同種の木を害せず。またその実をも食わず。ただし女が孕んだ時、その子の名とする木を見に行き、その実を食う。東セマン人に至っては、自分も木と同時に死すと信ずる、とある。わが邦風も昔はこんなであったではないか。 (大正十年九月『民族と歴史』六巻三号)
【追記】
栗の字を人名につけること。本誌五巻六号三九九頁に、栗の字を人名につける例を聞き及ばぬ由書いておいたところ、女の名に栗の字をつけたのを見出だした。『武功雑記』(続史籍集覧本)下巻に、伴団右衛門一類赤尾勾当、北条左衛門大夫後室の使いし御栗という女房を妻《めと》る、とある。本誌にしばしば見えたアグリという名は、この栗に縁ありや否判らぬ。 (大正十年九月『民族と歴史』六巻三号)
(461) 出産と蟹
本誌五巻三号二三七頁に、森君は、「琉球で出産の式に蟹の子を這わすとの南方先生の御記述は面白いことですが、その理由は蟹のごとく健やかなれという祝意とは受け取りがたく思われます。と言うのは、蟹はむしろ脆くて人に害されやすい動物であるから、健やかに育つことを祝するならば、他に今少し適当な動物が選ばれそうに思われるのです」と言われたが、本誌四巻六号三七二頁を見て明らかなるごとく、予はただ蟹の健やかなるにあやかるよう右のごとくする、と聞いたままを記したので、別にその理由として自分の意見を演《の》べたではない。
末吉安恭君は純粋の琉球人だが、博く和漢の学に通ぜること驚くべく、麦生なる仮号もて『日本及日本人』へ毎度出さるる考証、実に内地人を凌駕するもの多し。この人三年前教示に、「沖繩で子の出産あれば、当日か翌日かに『川下り』(カーウリー)とて、先祖の位牌を祀れる仏壇の前に赤子を寝かせ、里経(芭蕉衣を黒く染めたる琉球固有の礼服)を上より被《かぶ》せ、その上に蟹を数疋(数は不定)這わせ候。その蟹は小蟹に限る。小指の先ほどに小さき蟹を取り来たりて放ち、その行き去るに任せ、行衛を求むることなし。蟹で間に合わぬ時は、夏などならば螽《ばつた》でもよし、「螽斯《しゆうし》、羽《はね》振たり」から出たのか知らず。果たして然らば、蟹も子を多く生むことにや。『川下り』と申せど、産婦が川に行くことなし。昔は知らず、産婦はかえって火に当たり、暖まること夏も冬も同じ、ジール(産蓐)と申す。今は産婆に掛かるゆえ、このことなし。明治十九年小生が生まれたころまでは火に当たりしなり、云々」と。これでは蟹の(462)子多きに倣えとて仕出かしたことのようだが、『郷土研究』二巻一〇号、鈴木百年君の「出産に関する沖繩の風俗」には、「蟹を這わしめるのは蟹のごとくよく這え、と言う意であると言う」とあるから、予がかつて末吉君の他の琉球人から聞いた、蟹のごとく健やかなれという意に合っておる。三十五年前、彼方の人数輩と談じた時のことゆえ、確かかにかく言った人の名を記臆せぬ。
かつて『郷土研究』三巻六号に述べおいたごとく、『姓氏録』や『古語拾遺』に、秦氏の祖が献じた絹帛《きぬ》が軟らかで肌を暖めたを賞して、仁徳帝が彼に波多公の姓を賜わった、爾来秦をハダと読むと出たるを、宣長は、「もしこれらの義ならば、温か、軟らかの言を取ってこそ名づくべけれ、肌という言を取るべき様なし」と難じた。いかにも不条理な命名ながら、たとい当初仁徳帝がかかる不条理な命名をなしたまわざりしにせよ、二書の編者も当時の多くの人も、肌を快くする絹を献じた人をハダ氏と名づくるを異常のことと思わず、自分らもそんな不条理な命名を行ないかねなんだと判る。
ヘルムホルツは造物主が人の眼をはなはだ拙く拵《こしら》えたを 訛《そし》り、ワラスはしばしば動植物が至って不出来に構成されおる例を挙げた。上帝にしてなおかくのごとし。いわんや下根の人間、東西とも古今世俗は、見聞の到る限りを尽し、精細な論理を極めてのち始めて物に名づくるような気遣いなし。松村任三博士いわく、「植物の命名に対する苦情に困る。ミツデウラボシなる羊歯《しだ》、必ずしも葉が三岐に限らぬ」と。人の学名はホモ・サピエンス(賢い人)だが、人間果たしてみな賢かろうか。一八八二年版、マクス・ミュラーの『言語科学』二巻六八頁に、アリアン諸語の馬の名はみなアス(鋭い、また迅い)語根より出た、と。馬ばかり鋭く迅いもので万々ないが、当初特に馬を鋭く迅いものと見てかく名づけた。英語で小麦をホイート、これホワイト(白い)の義に取る、差し当たりその粒が他の物どもよりも白いから名づけたまでで、一切の物に勝って白いと極めたでない、と。されば無法な法官、無芸の芸妓も多い。風俗信念も識狭く考浅いがちの人間に始まったゆえ、今日からこむつかしく穿鑿《せんさく》すると、まことに物足らず思うことが多(463)い。話が大分違うが、梵天は天地を創造したというも、インド人は一向これを祭らず、それより下級の諸神を崇め、日本でも大日如来を措いて不動や地蔵を持《も》て囃《はや》し、同位の菩薩ながら観音は盛んに拝さるるが、勢至《せいし》を拝する人きわめて少ない。これみな広く識り深く考えぬ鼻の先思案から出るのだが、世は概してこんなものなり。
文化開けた今日さえかくのごとくなれば、時代稽うべからざる遠い昔の琉球人が、蟹の子の生まれてたちまち健やかに走るを見て、たちまちわが子のそれにあやからんことを冀い、蟹を這わせてわが子の行先を祝うたという説明は、十分首肯される。今日のごとく討論や投票の末定めるのでなく、他人に模倣されるだけの創想力ある少数人が始めて行なつたか、何の気もつかずに蟹を這わせた人の子が強壮に育ったから始まったことか分からぬが、とにかく蟹の子の健やかなるをのみ微《わず》かに認めて、「蟹は脆くてむしろ人に害されやすい」というような穿鑿《せんさく》は做《せ》なんだこと、あたかも桜を賞する者がその花の美にのみ気をつけて、その香の梅に及ばず、盛りの牡丹に劣るを懸念せぬようであったろう。『世鋭』に、「支道林、常に数匹の馬を養《か》う。あるひといわく、道人の馬を畜《か》うは韻《みやび》ならず、と。支いわく、貧道《それがし》はその神駿を重んず、と」とあるも似たことだ。
さて、予が蟹の子を遣わすは人の子を健にするためと聞くと書き、鈴木君が蟹のごとく早くよく這えるという意であるというと書かれたは、ただ琉球一流にかく説明すると所聞を述べたまでで、決して固くこれが唯一理由と主張したのでない。末吉君の説かれた通り、子孫多かれと祝したのでもあろうが、とにかく一派琉球人はこの両説を持っておったというだけを知りおくは、仁徳帝の真の思召《おぼしめし》は判らぬながら、『古語拾遺』や『姓氏録』編成のころの人は、肌に快感を与うる絹によって秦をハダと訓み始めたと、今から思うと条理に合わぬ説明を、しごくもっともなことと合点したと知りおくと等しく、国民の一汎推理思想力の発達を研究するに大益あることと惟う。
それから森君が言わるる『古語拾遺』の蟹守の一件は、鈴木君の説によれば、すでに伊波文学士が唱えられた由だが、これは何の訳もなく蟹が産舎を這うのを掃部連の祖が掃い廻ったのでなく、必ず神代に今の琉球同然に蟹を(464)這わす式があったからのことで、すなわち神代すでに、健やかに這うとか、子孫多いとか、蟹にあやかるよう人の子を祝う式が行なわれた証拠と思わる。それを『古語拾遺』の記事通りのことがあったから、一汎琉球が産児に蟹や螽を這わす風が起こったと言わば、あたかも美女に唆かされて燕の子安貝を採ってもなかったから、思いを遂げぬことを、貝なかりけりと言い始めたとか(『竹取物語』)、人の妻となった牝狐が化け顕われて逃げ去る時、夫がすでに子さえあるに、憚らずきて共に寝よと言ったに甘えて、毎度きて寝たからキツネと言い始めたとか(『水鏡』)いうごとく首尾転倒で、かく物の起原や事の理由を釈かんとて拵えられた話を myth《ミツス》と称う(コックス『民俗学入門』六章)。これをことごとく正説と信ずると大間違いを生ず。
『日本紀』に、官軍と賊軍と相挑んだゆえ、その川を挑み河、敗走の賊兵が褌にびっくり〔四字傍点〕糞を漏らした地を糞褌《くそばかま》と名づく。今、泉河、葛葉というは訛りなり。倭迹迹姫命《やまとととびめのみこと》は箸で陰《ほと》を撞いて薨じたゆえ、その墓を箸の墓という。『播磨風土記』に、神功皇后、韓国より還幸の時、舂米女《よねつきめ》等の陰部を陪従の輩が婚《くな》ぎ断《た》った所を陰絶田《ほとたちた》という。『根本説一切有部毘奈耶』に、紺顔童子その師|大迦栴延《だいかせんねん》の衣を首に懸けて、空中を経過した国を濫波(懸掛)と号すなどある。いずれも地名を釈くために右様の誕《はなし》を作り出したらしく、そのころの人が、もってのほか糞とか陰部とか言って平気だった証左に立つが、ことごとくかかる奇事が実在してより生じた名でなかろう。ついでに申す、太平洋のモタ島では蟹が女を孕ますと信ずる由(『大英百科全書』一一板、二七巻八九頁)。本論に無関係だが珍事ゆえ記しおく。 (大正十年八月『民族と歴史』六巻二号)
(465) 民族短信民俗談片
スッパとカニサガシ
スッパという詞が本誌四月号「佐賀地方雑記」に見える。この名は足利時代すでにあった詞と見え、『続狂言記』二、「宝の笠」、同四、「六地蔵」(ここにはシテが、「罷り出でたる者は都に住居する大スッパでござる。見れば田舎者と見えて何やら呼ばる。ちと彼に当たって見ようと存ずる」とみずから述べる)等に見るところ、いずれも田舎者が物を買い求むるにつけこみ、あらぬ物を売りつける杜騙《とへん》をスッパと呼んだらしい。いわゆる神崎スッパはこれと関係なきか。
カニサガシ。これも「佐賀地方雑記」にあった。明治十一年ごろ、予和歌山市のある河岸で、当時いわゆる新平民が流木を拾うを見ておると、その一人が、「何某の方に生まれたは男か女か」と問う。いま一人が、「ガニジャ」(蟹なり)と答えた。なお一人、予の家へ雪駄直しに来る者がかたわらにあり合わせたので、何のことかと問うと、「蟹は女根と同じくよく物を挟むから、女の児を蟹と称う。工人のドウツキに唄うにも、『お杉おめこは釘抜きおめこ、股で挟んで金をとる』という。すべて女はよく挟むものじゃ」と博識ぶって答えた。そこでカニサガシとは女児を間引く意味ではなかろうか。(四月十四日) (大正九年六月『民族と歴史』三巻七号)
(466)【追記】
スッパについて。足利時代に、田舎者に、あらぬ物を売りつける杜騙をスッパと言ったらしいと、本誌三巻七号(七一二頁)に述べおいたところ、『甲陽軍鑑』三九品に、「家康は、味方が原合戦に負けて、その夜また夜合戦に出ずべき支度をもはら仕りたるに、家老の酒井左衛門尉、石川伯耆両人、スッパを出だし見せつれば、当方|脇備《わきぞなえ》を先へくり、跡備を脇へ繰り廻し、云々、二度めの軍もちたるを見て、夜軍に出ださず候」。また同書五七品、織田勢甲州へ討ち入った時、阿部加賀守「われら同心のスッパをもって敵の人数を見切り候に、ここかしこに陣を取り、猥《みだ》りに候えば」とて、川尻や滝川の陣へ夜討を勧めたが、勝頼その策を用いなんだ、とある。これらは探偵をスッパと呼んだらしい。
また安永元年板の亀友の『赤烏帽子都気質』二の二に、「さてこの勇介というは、弁舌よく、人に取り入ることの上手な、愛のある男と見ゆれど、心の内は世事にすばしかきスッパ、近所の息子や手代の遊びに行く中店にて文の取次ぎ、色茶屋の払銀《はらいがね》を請け取り渡してやるなど、親切にのら達《たち》の世話焼きしゆえ、云々」。これは惡才のきく者をスッパと言ったらしい。今も紀州などで人を紿《あざむ》くことを何とも思わぬ者をスバクラ者というは、これから出たのかと思う。 (大正九年十月『民族と歴史』四巻四号)
【再追記】
ガニサガシ。『重訂本草綱目啓蒙』四八に、小児胎屎を、かにくそ、かにここ、うぶはこ(対州)、と出ず。紀州田辺では今もかにここという。うぶはこは初屎の意、ここは田辺等で屎《くそ》を指す。初屎と対照して考えると、どうもかにくそ、かにここのかには、わずかに生まれた赤子を指す名らしい。穴から這い出す蟹に比べて言ったものか。琉球で出産の式に蟹の子を這わすことあって、その子蟹のごとく健やかなれと祝うのだと聞いたが、実は彼方でも初生の赤子を蟹と同名で呼ぶのであるまいか。この推察が当たったら、がにさがし、がにさしのがには、女児でなくて今生まれた赤子の義に相違なかるべし。語原の異同は只今ちょっと分からねど、ドイツ語で幼児をも蟹をも斉《ひと》しくクラッべ(467)と呼ぶを攷え合わすべし。 (大正九年十二月『民族と歴史』四巻六号)
停虜と賤民
外国征伐俘虜の子孫が特殊部落民となったという説が、本誌四巻一号(二六頁)に見える。後インド諸邦には近世まで、外国と戦うた時の俘虜を還さずに賤民とした例が多い。例せば、一六二一(元和七)年、暹羅《シヤム》の王子軍勢五万人と三百象、二百馬をもって陸路|柬埔寨《カンボジア》を攻め、暹羅の将軍リヤ・タイ・ナム水兵二万人を率いて柬国の一州を攻めた時、柬王プレア・チャイ・チェッサダ陸軍に将たり、太弟オッバラチ・プレア・ウタイ水師をもってバボルに会戦し、大いにこれを破る。暹羅兵あわてて逃げ路を失い、プレア・プットの塔中に匿《かく》れしを捕え、以前の数戦に獲た暹羅俘囚と合わせて、寺塔の工役を勤め、また大湖に漁せしめ、その利得を政府の収入とした。一七六九(明和六)年に暹羅王ルヘア・タク(実は支那人)柬埔寨を伐ちしに、安南帝柬国を援けしかば、暹羅軍|終《つい》に退去の節、柬人一万を拉し去って暹羅国の公役民とした(一八八三年パリ板、ムラ『柬埔寨《カンボジア》王国誌』二巻五八および八八頁)。
豊太閤の時はどうだか知らぬが(紀州その他にその時の俘虜が優遇された跡少なからず。士に取り立てられたもあり。『遠碧軒記』に綱吉将軍の母は高麗人の女が産んだとあるも、文禄慶長の際捕われて来た人の後なるべく、『赤穂義士伝一夕話』に、武林唯七は朝鮮から虜となって来た明人孟二寛の孫と見ゆ)、その前、外国征伐や異邦人来寇の節の捕虜で、右に引いた後インドの例同様、賤民となりおわった者が少なくないだろう。『和漢三才図会』七五には、「百済の琳聖太子の裔、大内弘貞の時、蒙古来たりて日本を攻めんと欲し、弘貞まさにこれに党《くみ》せんとす。北条政村、驚いて周防の国を弘貞に授け、和親を乞う。ここにおいて、蒙古もまた襲い来たることを得ざるなり」と出ず。このこと「大内系図」に見えず、真否はなはだ疑わしいが、『日本社会事彙』に列記せるごとく、王朝の盛時、本邦諸州(468)にあった韓人どもが徒党して乱を作《な》したのは、その子孫隔離卑蔑された一大原因と考えられる。 (大正九年十月『民族と歴史』四巻四号)
垣内
垣内のこと、本誌四巻一号(三四頁)に見えておった。『野沢名物焼蛤』は、大久保葩雪の『浮世草子目録』に年次不明とあるが、大抵享保以後天明以前の物と見て大違いがなかろう。その巻五に、野浦那須右衛門、奸計露顕して刑せられ、彼が取り立てた野沢の遊所町の潰された時、「忘八《くつわ》彦助女房おちく、同じく親左次右衛門夫婦、遊女町の者ども一列に追放仰せ付けられて追っ立てらるる折から、垣内(カイト)の者どもへ申しけるは、云々、われわれ若殿|仲秋《なかあき》様へ御直《おんじき》の訴状差し上げ申したき子細|有之《これある》間、何とぞしばらく御当地に徘徊の儀を願い申すと、染々《しみじみ》と歎くにつき、垣内らよりだんだんに諸役人へ申し上《のぼ》せけるに」。この垣内は警察の手先を勤むる賤民、紀州等で番太と言うところを、勢州で垣内と呼んだらしい。
紀州海草郡木本村に垣内氏多く、和歌山その他へも移住して、久しき間には帯刀を許され、士分と婚を通じたのもあったと聞く。この垣内は古来カイトと訓まず、カキウチと訓み、垣内太郎氏など県会議長であった。また熊野地方に竹垣内、柿垣内、田垣内などあり。これはいずれもカイトまたカイと訓むが、古来他|字《あざ》と交際に何の異《かわ》ったこともなく、その垣内とは、英語のプランティション(栽培地)に相当した意義らしい。多くある紀州の垣内中には、上に引いた伊勢の例のごとき賤民の住地もあったろうが、また本村と引き分かれて新たに栽培地を開いた良民の住地もあったことと惟《おも》われる。(八月一日) (大正九年十月『民族と歴史』四巻四号)
(469) 岡西惟中の歿年
本誌四巻五号二八九頁に「元禄五年五十四歳で終わった岡西惟中」と書いたについて、去年三月井上通泰博士から教示あり。その事の大意は、「惟中、実は正徳元年十月二十六日に七十三歳で死した。惟中筆『朗詠集』の法帖奥書に、一時軒七十一翁とあり、余が蔵する惟中の墨蹟に『元日、玉の緒に思ひもかけず七十に二とせ越ゆる春を見むとは』とあり、また惟中の筆道の弟子、備中の人姫井二七郎光好の随筆に、『岡西氏一時軒惟中、この人、宝永第八辛卯は正徳改元の年なり、この年十月二十六日、七十三歳にて卒。享保二十年冬十月二十六日、二十五年忌なり』とあれば、はや疑いなかろう。元禄五年はあたかも五十四歳だが、この年どうかしたことがあったのを、最初の操觚《そうこ》者が誤って歿と書き、それから後の諸書みなこれに拠《よ》って誤りを伝えたのである」。これは明治三十九年八月の『学燈』一〇年八号に出された由。
熊楠初め惟中の『消閑雑記』(百家説林本)に付した小伝から、何心なく右の通り書き移したが、のち『墨水消夏録』三に、惟中元禄五年八月十日浪華に歿す、とあるを見出だした。しかるに、元禄十四年著者の序ある『元禄太平記』七巻末章に、外題、学者岡西惟中、また歌学は密門契仲、岡西惟中と、当時高名の学者を列ねた中に数えあるを見て、不審に思いおったところ、井上博士の教示に拠《よ》ってその歿年を確かめ得たるは仕合せなり。直接本誌に要なきことなれど、予と同じく惑う人も読者中にあるべければ、あえて申し上げおく。 (大正十年九月『民族と歴史』六巻三号)
(470) 藤白王子社畔の大楠
南方「南紀特有の人名」参照
(『民族と歴史』四巻五号二八七頁)
『和漢三才図会』巻七六、紀伊のところにいわく、「若一《にやくいち》王子の社は、藤白坂の麓にあり。社領六石、毎九月十九日祭。社の近処に大木の楠あり。そのかたわらに、鈴木、亀井兄弟の石塔あり」と。この文は、元禄二年より八年までに筆せられた児玉氏の『紀南郷導記』に、この社の「拝殿の前に楠の大木あり。その下に昔の鈴木、亀井が石塔あり」と言えるに基づいたものか。 (大正十年十一月『民族と歴史』六巻五号)
件
喜田貞吉「件」参照
(『民族と歴史』六巻二号四〇七頁)
前年、柳田国男氏から化物について出処を問われ、返答に困った。維新前、坊間に行なわれた『世話千字文』という手習い本の注に、件《くだん》は人首牛身で云々とあったと記憶するが、確かならぬ。
田辺町の歯科医須川寛得氏いわく、二十六、七年前、東牟婁郡三輪崎の村外れ漁夫の家に、件《くだん》を檻に入れて養う。それはその家に生まれた子、成長しても白痴で獣のごとく這うのみ。顔はまるで牛で、人の体なり。ただし牛の毛は生えおらず。かかる者の言うことに偽りなきゆえ、証文に件のごとしと書く。その者臨終前に言うたことあり。聞き及んだが忘れた、と。
『康煕字典』に、件は、「物の別なり。俗に物の数を号《なづ》けて若干件という。『説文』に、件は牛にしたがう、牛は大な(471)るもの、故に分かつべし、とあり」とばかり見えて、怪物の義なし。全体|如v件《くだんのごとし》という文句はいつごろより文書に見えるか。大方の教えを俟《ま》つ。『郷土研究』三巻六四五頁に述べた通り、インドには古今牛を引いて誓言する。 (大正十年十一月『民族と歴史』六巻五号)
おばけ
森本樵作「がごぜに?ますぞ」参照
(『民族と歴史』六巻三号五一六頁)
予が二十歳近くなるまで(明治十九年ごろまで)和歌山では化物を「バケモノ」「バケモン」といい、「オバケ」という詞は東京より帰任した士族のみもっぱら用いた。たまたまこの詞を用いる婦人などはすぐに江戸語の一家と分かった。 (大正十年十一月『民族と歴史』六巻五号)
(473) 笹野才蔵の博多人形について
本山桂川「博多土俗品」参照
(『土の鈴』六輯八八頁)
『雨窓閑話』に「可児才蔵は大功武辺の者にして、関ヶ原の時見事なる高名をし、その外一代の戦功数うるに遑《いとま》あらず。笹をもって指物とするゆえ笹の才蔵といい、生得|徒《いたず》ら者にて心軽々しく大禄を好まず。福島家より七百石を得たり。ここに才蔵が郎等に竹内文右衛門という者あり。いつにても知行を半分わけにすべしという約束にて勤めおる。正則よりの俸禄七百石のうち三百五十石文右衝門に分かち与う。これも又右衛門が所行に似たり(福島家の大臣吉村又右衛門、眷族邸等を厚遇せしこと前文に載す)。さて才蔵は生得愛宕山を信仰して、われは愛宕の化現なりといい、あるいは太郎坊はわれなりなどいえり。人みな狂人かと思う。才蔵常に言うは、必ず愛宕の縁日に死ぬべし、と。果たして六月二十四日に死せり。その前宵より経を読誦し呪を唱え、身を清め、精進潔斎して身に甲冑を帯し、弓矢を手に持ち、牀几に腰をかけて、六月二十四日の夕方死去せり。今、芸州吉田辺に才蔵が石塔あり。心ある旅人は馬より下り、水を手向け、花を捧げなどすとぞ。こは福島家浪人の子孫この物語をしたり」と出ず。
『常山紀談』には「可児才蔵吉長は、尾州可児山の人にて大剛の者なり。篠《ささ》を指物にす。首を取りて篠の葉を口中に押し込み、投げ棄てて後の証としけるゆえ、世の人篠の才蔵と言い伝う。関白秀次に仕え、長久手の軍に秀次引き退かれしに、岡本嘉介、村善右衛等踏み留まりて支えしに、才蔵が来るを見て山に倚り懸かる心地せしとなり。さて才(474)蔵、『殿は何方《いずかた》にぞ』と問いて、その退かれたる方に行きけり。『目前の敵を見捨てて引き退きしは、聞きしにも似ぬ才蔵かな』と論じけるが、ある日|聚落《じゆらく》にて語り出して、才蔵に、『いかなる所存ありしや』と問う。才蔵聞いて、『何心なく殿の跡を慕いたるばかりなりき。いま人々の論を聞くにもっともなり。されば暇申すぞ』とて、宿へも帰らず直《すぐ》に立ち去りけり。後に福島正則招きて七百五十石の禄を与えらる。才蔵が下人に久右衛門という剛の者あり。才蔵その禄の半分を与え、竹内久右衛門という。才蔵が墓、芸州広島にあり、と言えり」と見ゆ。
『塩尻』七四に、「可児才蔵吉長、武勇世に語り伝う。されども秀次に忠なくして、のち福島家に仕う」とあって、その死に様を述べ、「時の人これを奇とせし。遺言して広島の矢賀という地の坂のかたわらに葬りし。石塔を立て、銘に尾州葉栗郡の住人可児才蔵吉良と刻めり。往来の士、心ある人は下馬せしこととかや」と載す。ここに秀次に不忠と言うたは、主として秀次自殺のみぎり殉死せなんだことを指したらしいが、長久手の戦に踏み留まらなんだ一条も多少含んだので、これは当時はなはだしくこの人の名を瑕《きず》つけたらしい。長久手敗軍に、秀次馬を求めしに応ぜず逃走したという記事を何かで見たが、その書只今この稿を草する室内にありながら、見当て得ぬ。それは『雲萍雑志』に、「後藤兵衛|尉《じよう》盛次に、平氏没落の時重衡逢い給いて、われ馬を射られたり、汝が馬を借せよとありけるを、盛次いなみて、今われ敵と戦うの時なり、逃げのび給うには歩《かち》にてもありなん、これは雨夜の傘なり、貸し参らせじとて走り行きて戦えりとぞ」とあると同類別態の話で、もと『平家物語』九に、三位中将(重衡)、一の谷敗軍の時、馬を梶原景季に射られて、「弱るところに、乳母子《めのとご》後藤兵衛盛長、わが馬召されなんとや思いけん、鞭を打ちてぞ逃げたりける。三位中将、いかに盛長われを捨てて何処《いずく》へ往くぞ、日来《ひごろ》はさは契らざりしものを、と宣えども、そら聴かずして、鎧に付けたる赤印どもかなぐり捨てて、ただ逃げにこそ逃げたりけれ」と記して、盛長馬を奉らざりしため重衡は生け捕られて南都に斬られ、盛長熊野地方に隠れおったが、ある時京へ上り、多くの人に嘲笑された、と述べおる。それを『雲萍雑志』に誤伝したので、才蔵も『常山紀談』に出た長久手敗軍の時のあまり美事ならぬ振舞に(475)よって、盛長のことを塗り付けられたと見える。
古河辰の『西遊雑記』一に「海田市と広島の間に可児才蔵といえる勇士の墓あり。かな書きにてささの才蔵墓と記せり。馬卒など乗り打ちすれば必ず落馬すと言う。福島家に仕えて軍功ありし人なり」とある。天明ごろまで畏敬されたのだ。故依田百川氏が何かへ出した説に、脇坂安治、才蔵と同じ戦場へ出て斉《ひと》しく高名したことあり。しかるに安治はのち封侯たりしに、才蔵は陪臣で畢《おわ》つた、とあつたと覚える。武勇一?の人で智略はその長処でなかったらしい。その愛宕信心もひとえに武勇を研いたからで、戦国前後この神を将士がもっとも尊信し、細川政元、加藤清正等、深くこれを崇めたと記臆する。されば才蔵が愛宕神を奉ずること厚く、後にはその化現と自称したり、予言通りにその縁日に終命したりしたので、その噂諸国に弘まり、愛宕崇拝の徒がこれを一方ならず畏敬したと見える。本人が遺言して官道近所に埋葬されたのも、かかる覚悟であったろう。したがって乗り打ちすれば墓前に落馬すとか、痘瘡神もその像を畏れ避けるなど、言い伝えたのであろう。
『常山紀談』に「ある説に、丹羽山城、谷山羽、笹野才蔵、稲葉内匠、中黒道随、渡辺勘兵衛、辻小作、兄弟の約束して武勇を励み、天下七兄弟と言いしという」と見ゆ。これは武道をもっぱらに研いた七兄弟で、男色に関したでないらしく、笹野才蔵を美少年に作ったは何故か詳らかならぬが、おそらくは巣林子傑作の戯曲、享保二年に出た『槍の権三《ごんざ》重ね帷子《かたびら》』の表小姓笹野権三が「槍の権三は伊達者《だてしや》でござる。油壺から出すような男。しんとんとろりと見|惚《と》れる男。どうでも権三は好い男。花の枝からこぼれる男。しんとんとろりと見惚れる男。いとし男と恋い慕われ」たり、「中にも笹の権三とて、武芸の誉れ世の人に、槍の権三は伊達者《だてもの》のどうでも権三はよい男。謡い囃《はや》らす美男草。女若《によにやく》二つの恋草を」と作られたりしたほど、女にも男にも慕われた美男の上に、武芸の達者とされておったから、同じく勇士の笹の才蔵と混和して、才蔵を博多人形に美少年に作ったものか。
件《くだん》の戯曲は、享保元年七月十七日、大阪高麗橋で、雲州松江の茶道役玉井宗義が、その妻おかんとその密夫、同家(476)中の池田軍次とを討った一件を、翌年近松が作ったもので、宗義を浅香市之進、おかんをお才、軍次を笹野権三と替名《かえな》した。宗義はおかんより十二歳、おかんはまた軍次より十二歳年長で、三人とも戌歳生れゆえ、珍しいことに噂したそうで、すなわちその通り戯曲にも述べてある。(松村操『実事譚』一六編)
熊楠『新著聞集』を閲《けみ》するに、大阪上八町目札の辻の、町の溢《あぷ》れ者槍の権蔵、博奕や人|請《う》けに立つを業とす。ある奉公人を世話したが、その者|欠落《かけおち》せるより、権蔵禁獄の上|梟首《きようしゆ》された。その妻したたか者で夜分獄門場へ往き、その首を窃《ぬす》み火葬し、その後|件《くだん》の欠落者を捕え訴え、その者斬首された、とある。これは享保前のことらしいから、近松はこの溢れ者の名を取って軍次を槍の権三と替名したんだろ。 (大正十年八月『土の鈴』八輯)
【追記】
可児才蔵について。本誌八輯二四頁に、この武士、「長久手敗軍に、秀次馬を求めしに応ぜず逃走したという記事を何かで見たが、その事只今この稿を草する室内にありながら、見当て得ぬ」と書きおいたが、只今見出でたから申し上げる。それは例の『塩尻』四五巻に出でおり、いわく、「才蔵は始め秀次に仕えて、長久手の役秀次敗せられし時、白山林の辺にて馬なかりしかば、才蔵におのれが乗りし馬を与えよと言われし時、雨降りの傘にて侍るとて、乗りながら走り過ぎしかば、時の人不忠にして義なき者と呼びしとかや。秀次、木下勘解由が馬を請われしかば、飛び下り秀次を乗せまいらせ、わが身は指物を突き立て、そこにて潔く討死せし。才蔵が所為と天地をなせり。されども勘解由がことは世にあまねく知らず、才蔵が故事は人多く語り侍るも口惜し、云々」。 (大正十二年四月『土の鈴』一八輯)
(477) 三角の銀杏
『本草綱目』三〇、銀杏の条に、「李時珍いわく、その核両頭尖る。三稜なるを雄となし、二稜なるを雌となす。雌雄同じく種《う》ゆべし。その樹相望んですなわち実を結ぶ」と。『重訂本草綱目啓蒙』二六にいわく、「葉の末、岐あるものを雌とす、実を結ぶ。岐なきものを雄とす、実を結ばず、云々。(実の内に)核あり、色白く、二稜、三稜あり、三稜のものを雄とす、これを三角銀杏という、云々。『五福全書』にいわく、「三稜のものは毒あり」と。また六、七稜なるもあり、はなはだ稀《まれ》なり」と。『和漢三才図会』八七には、「その葉、刻欠深きものは雄なり、実を結ばず。しかれども三稜の実を雄となし、二稜なるを雌となす時は、すなわち雄もまた実を結ぶか」とは、『本草綱目』を読み解かない説で、『綱目』いうところは、二稜の銀杏の核をまけば、よく実を結ぶ雌木を生じ、三稜の核をまけば、実を結ばざる雄木を生ず、と言ったのだ。銀杏の雌雄のことは、予未刊の著「燕石考」に述べあり。ここに省く。
さて予が幼時、和歌山の小学校の同僚生徒中に、嚢に三稜の銀杏を入れて、帯に結びつけ、守りとした者あり。何やらのまじないと聞いたが、よく覚えず。後年に及び、正徳二年団水が出した『一夜船』の雪曽法印の条を読むと、大野何某殿死し、世嗣願いとして、三歳の嫡子に譜代の家臣上風荻之進付き添い、上洛する前に社参して神楽の音に驚き、気絶して蘇《よみがえ》らず、荻之進主家の滅亡を嘆き、道上に野臥した乞丐の子を買い取り、京都の首尾を繕い、相続せしめた。しかるに姦臣謀って雪曽法印なる相人を招くと、この者若殿を見て乞丐の人相備わるという。荻之進これは姦臣の企みと悟り、天智天皇人相見に乞丐の相ありと言われて、即位前に悪因を果たさんため、西国に赴き、魚を(478)海士に乞いたまいしという俗説をひき、この若殿をその吉例にあやからしょうとて、夜に紛れ、つれ出して乞食する。ある夜、菰きた男が物をやろうと言うて小さい木の実を出し、これは三角銀杏だ、その木、仲夏に一陰来たる夜花咲いて、陰徳を顕わす霊木だ、三角は三十年一世の義で、一樹に三つ実《みの》る、これを懐中すれば毒食に向かう時神験あり、必ず身を離すな、と教えて、行方知れず。
これも吉瑞と懐中せしめ、四、五町過ぎると、夜の摂待《せつたい》の設けした男が、茶を汲んで若殿に施さんとす。その時若殿、懐中の銀杏の破《わ》るる音高きに驚き、茶を捨て、荻之進とともに一町あまり去るを、信施厚恩の茶を捨てた曲者遁さぬと、大勢追い来たる。先刻銀杏をくれた非人来たって棚橋の板三枚外しおくを知らず、追手踏み外して川に落つ。非人も伴して、若殿を荻之進の家に入る。荻之進その非人の素性を尋ぬるに、われは先年子を進じた非人で、その後影の形にそうごとく領内を徘徊するうち、若殿の素性を卑しみ滅ぼさんとする輩多きを知り、毒除け銀杏の実を進じ、橋板を外してその難を救うた。われもと筑前|天国《あまくに》の城主菊井家の総領太郎為久で、継母のために流浪中、妻はその子を生んで死んだ。仕方なきに貴殿にあげた。素性を言わばなお大野家に不足なき養子ぞと、系図を口授し、一軸を添えた。それより急ぎ上洛して天恩を蒙り、二人後見して領地安く治まり、姦臣どもは亡主を懐うに似て家を忘るるの失少なからずとて、放逐された、と見ゆ。
むかしは東西とも毒害すこぶる盛んに、したがってその予防に関する種々の迷信があった。例せば、預知子一名聖知子というは、支那産の蔓草の実で、サイカチに似る。衣領《えり》の上に二枚を綴りおくに、毒あるに遇えばたちまち声を出す。あらかじめ毒を知らすから右の名ありという。また喜望峰に金銀にはめた犀角の盃をもつ人多かった。酒をつぎ入れると沸き立ち、酒中に毒あればわれる、毒ばかり入れると盃が裂け飛んだという(『本草綱目』一八上。アストレイ『海陸紀行新全集』三巻三七六頁)。バートンの『千一夜譚』一巻一七頁、注三に、初代ジャーファールが回主アブダル・マリクに謁した時、指環に毒を仕込んでいった。しかるに回主の佩びた二つの石がおのずから打ち合うて音を発した(479)ので、回主が異変あるべきを暁ったと言う。類推して、日本には預知子同様、三角銀杏が毒に遭えば裂け、その音で毒ありと知ると信じ、最初は毒物予報の守り、それからただこれを佩ぶれば中毒せぬと信じたことと知った。近ごろこのこと何かに出おるやと出口米吉君に聞き合わしたところ、その返事に古い物に一向見えねど、明治四十一年博文館出版、奥村繁次郎氏の『家庭における吉凶百談』七九頁に、「小児の巾著の中へ入れおけば、剣難除けの守りとなるが、焼いて食うと三ツ口(兎唇)になるという」と出でおる由。
(大郷信斎の『道聴塗説』二編(文政九年記)に、むかし寛延四年四月、常州真壁郡野爪村の民、楢蕈《ならたけ》の大きさ四寸ほどなを四、五人打ち寄り吸物にして、酒を飲みかけたところへ、不二沢幸伯という医者来合わせ、一同の勧めのまま座につく時、腰巾著に入れおいた三角の銀杏ハッシと音してわれた。その音に驚き、先年兄道伯が、三角銀杏は毒を消すとむかしより言い伝うるから、汝も一つ懐中せよと与えられたのが、今われたは不審と思い、蕈をすかぬから酒ばかり受くべしと一、二盃飲むうち、病家に用あって立ち去った。ほどなく右の宴席から急ぎ来てほしいと人々馳せ来たり、往つて見ると、一客は即死、三人は腹が太鼓のように脹れて苦しむを療治して、幸いに本復した、と出ず。)
一八九二年板、リーランドの『エトラスカン・ローマン・リメインス・イン・ポピュラー・トラジッション』一八九頁にいわく、古サムニテス時代よりイタリアのベネヴェスト地方に常緑の大|胡桃《くるみ》あり、諸他の胡桃は二稜だが、この胡桃の実に三稜あり、怪我や地震や癲癇《てんかん》の難を免れしめ、ことに女人の陰中に納れおけば必ず男子ができると言うて高値に売る、また巫蠱《ふこ》の害を避くる守りとしてはなはだ尊ばる。しかし妖巫またこの果《み》を使い多くの邪悪をなす。これに似たは、東洋より持ち来らるる奇態な三角の乾果もてフロレンスで数珠に製し多く売り、また一つずつ魔法よけの守りにもする。その一種支那産の物はまさしく水牛の角と頭に似る。両様共に予これを蔵す、と載す。
三角の乾果とは菱だ。菱は東半球の原産で、現時ただ三種あり(一八九八年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントル(480)『植物自然分科篇』三輯七巻二二八頁)。その一種アマクサビシは支那に多く、『本草図譜』七三の図で知れる通り、二角で水牛の頭と角によく似る。欧州にも、日本、支那にもあるオニビシは四稜だが、日本、支那、インド共に多い通常のヒシは三稜で、これを三角の乾果と言ったのだ。
三角形を魔法除けの守りとするは、もと邪視を避くる力ありと信じたによる。詳説を『東京人類学会雑誌』二七八号二九八頁に述べおいた。さて三角形に避邪の力ありと言うには種々の理由あるべきが、同号に述べた通り、邪神や鬼魅は女陰をみれば力を失うと信ぜられたにもっぱら基づくので、諸民族が三角形を女陰の象徴としたからだ。先日パラオ島から還った人の話に、かの島人に日本流の陰相を画き示しても解せず、三角形の底を上に尖《さき》を下に描いて見せるとすぐ判る。これは土俗婦女の陰毛をことごとく除くゆえ、ただ孔辺の状さえ画けばよく判るのだ、と言った。本誌九輯、谷川君の「江戸時代のめんこ〔三字傍点〕」第七図に三角をもって牝戸を表わしたのをみて、予も即解したに伴れて、三角銀杏に想い及ぼし、この一文を草した訳である。
(むかしの本邦人は、珊瑚も毒に逢えば色が変わるとか、破れるとか信じたものか、元禄三年板『枝珊瑚珠』の序に、「珊瑚珠は毒を知らせ、咄は気を補う」とある。そんなこと『本草綱目』にみえず。ローマのプリニウスの『博物志』三二巻一一章には、珊瑚は確かに一切の危難を禦《ふせ》ぐと占者の説だ、と記す。)
(元禄八年成った『本朝食鑑』四には、俗に謂《い》う、銀杏の三稜方正のものを常に佩ぶれば争訟必ず勝ち、またよく人の誹謗を避く、予いまだ試みず、この理由あるべけんや、と記し、毒を避けるとは書いていない。) (大正十年十二月、大正十一年六月『土の鈴』一〇、一三輯)
(481) 柱松について
山口八九子「紀州田辺の燈籠祭と柱松」(『土の鈴』九輯八六頁)、山口八九子画「紀伊田辺柱松」(『土の鈴』一〇輯巻頭挿絵)参照
『郷土研究』三巻一号、柳田君の「柱松考」に柱松の事例をおびただしく列ねあって、「そのいかに弘《ひろ》くかつ久しく行なわれて居たかを説く」とて、徳川幕府時代以下の書どもを多く引かれたが、それより前に成った書とては、『長門本平家物語』のみを略引されあるのみ。柳田君は「近世にいわゆる盆の高燈籠と相似たる風習が、柱松という名をもって琵琶流行の足利時代にもすでに行なわれて居たことは、間接にこれから推測し得らるるというのである」と言われたが、『続々群書類従』の国書刊行会本なる「作者弁」には、この書は後鳥羽院政のころより後堀河院の間に作られた物、とある。果たして然らば柱松という物は、現時紀州田辺その他に行なわるるのと多少作法が違うにせよ、鎌倉時代すでにあったと言わねばならぬ。明和四年の跋ある高橋宗直の『?響録』下にも「柱松と申すものはいかなる物に候や。松明の類にて候。法然上人の絵伝の中に、葬礼の時、塚穴の辺に大いなる松明を地中へ本を掘り埋め燃やし置く体あり。これをはしら松と申す由承り候」と出ず。尾崎雅嘉の『群書一覧』民族類に、「円光大師絵詞伝四十八巻、巻首に法然上人行状画図とあり、『好古小録』にいわく、円光大師絵詞四十八巻、画は光信、書は当時公卿集書」とある物を指して、法然上人の絵伝と言ったらしく、あながち上人在世に柱松があった証拠になると限らぬようだが、この絵伝が出たよりも古く柱松が行なわれた証拠にはなるであろう。
(482) 『長門本平家物語』巻三なる本文は、柳田君これを大虚誕なればとて摘要に止められたが、むかしの柱松はどんな物だったか、それについてどんな虚誕が行なわれ、また信ぜられたかを見るに、第一の文献ゆえ、全文を写し出す。いわく、
「(治承元年六月、大納言藤原成親、平家を傾けんとしたこと露われ、流されて)淀の渡り、草津、葛葉《くずは》の渡し、禁野《きんや》、交野《かたの》山、心細くぞましましける。さるほどに柱松と言う所に着き給う。この名は大和言葉にはあらずして、仏説とも言いつべし。その故は、天竺に唯円上人と申す人ましましき。五天竺無双の僧なり。生は死の始めとて、年闌行法、功積んで期近づき給いしかば、唯円入滅し給いき。御弟子唯智と申す僧ありき。長老入滅し給いしことを歎きわび、別れしことを悲しみ、われ後れ奉って、輪廻《りんね》することの悲しさよと、窃かに覚されて、日数は積もれども、昨日今日のように覚えて、その思い浅からず。かかりしほどに、来年の初秋の中《なか》の五日の暮ほどに、いつよりも故上人の御事恋しかりければ、御墓所に詣でて、ようように御菩提を弔い奉ってましますが、御面影身にそう心地して、旧跡哀れに覚えければ、唯智思われけるは、『盂蘭盆経』には、七月十四、十五日には、亡者必ず裟婆に来て、弟子、子息恩愛の供養を受くるということあり。まことに来たり給うものならば、すなわち現じ給えと誓いつつ、御墓の御前に神応草|一本《ひともと》ありけり、わが朝には芭蕉というこれなり、かの神応草の枝に、不死教草という草の枯葉を取り掛けて、火をつけて、この光に現在に去り給いし影を現わし給え、現身照光明と唱え給えば、故上人、古えの形を少しも違えず、現ぜられたり。唯智心肝に銘(483)じ、哀れに覚えて流涕悲泣して、これほどに有難《ありがた》きを隠密せんこと無念なりとて、国中に流布せらる。これを聞く人々、名残惜しき父母親類に後れたる人、七月半ばの盂蘭盆に、葬所に光明揚げとて、夕に火を燈《とぼ》すことは、その光にて恋しき故人を見ん志なり。
「このこと少しも違わず、かかる風情わが朝にあり。崇神天皇の御宇に、花秋大納言と申しける人他界せられたりき。御子の少将と聞こえし人、後れ奉って後は、哀しみの心いつもその日の心地して、紅《くれない》の涙を流しつつ、むかしの唯智が跡を聞き伝えて、来年の七月|中《なか》の五日の暮ほどに、父の御墓に詣でつつ、ようよう後世《ごぜ》を弔い奉って、かの唯智がしわざを違えずして、御墓所の前に枯れたる木の一本ありけるに、草の枯葉を結びかけ、火を点《とぼ》して、『玉姿忍ばばわれに見せ給へ、むかし語りの心習ひに』と書きつけて火をかけられたり。まことにむかしの風情に違わず、故大納言現じて、御子の少将に見《まみ》え給う。少将手を合わせて随喜の涙ひまもなし。むかしの権化は従う弟子に施し、今の賢人は恋うる子に見え給う。そもそもこれをば諸名をさし伝えんとて、むかし漢国に六宮の明寿という皇《みかど》ましましき。大願を起こして、わが国中の衆生らが、たぐい少なからん者の、父母妻子死して、先立たんを恋慕せん者の、心を休むる術を得させんと誓い給う。かの誓いに応じて、天に声ありて告ぐ、汝が皇居より北に命還山という山あり。この山の頂に高部という松あり。その松を取って丸き柱と磨いて立てよ、という声あり。この教えによりて、かの高部の松を取りて、まわり一丈二尺、高さ五丈八寸に磨いて、かれをば真言秘蔵威勢移柱と名づけたり。西の角《すみ》に立てられたり。入るさの月の影うつる時、かの松の根にして、わかれし故人を念ずれば、入日の影に映じて必ず現ずと言えり。「されば天竺の神応草も、かの柱に似たり。わが朝の少将の古松もこれがごとし、然《さ》ればこは六宮の移柱にことよせて、これを柱松と名づくべしとて、初秋の十四、五日の暮、もしは彼岸を待ちて、高きも賤しきも草を結び、火をとぼし、霊に手向くる燈火《ともしび》を柱松とぞ申しける。わが朝にこの火をともし初むることは、この因縁ありしをもて、柱松という名を表わすこと、今に絶えず。成親、住吉、天王寺詣でどものありし時、かようの所々を過ぎしにも、何とも(484)思い寄らざりしが、わが身に歎きのある時ぞ、むかしの思いも知られける」。
右の文中、「光明揚げ」は献燈の意で、道路を明るくして冥界から来る先霊に便にした訳《わけ》、移し柱は故人の影を移し現ずるの義で、柱松はこの二つの目的を兼ねたという解釈のため、右の長縁起を作り出したのだ。『五雑俎』巻の二に、 閑人もっとも中元節を重んじ、家々楮陌冥衣を設け、先人の号位を具列し、祭ってこれを焼《や》く、中略、 背中《ほちゆう》に至りては、すなわちまた清晨に陳設はなはだ厳なり、子孫冠服を具え、門を出でて空を望み、揖譲 聲折《いじようけいせつ》して神を導いてもって入り、祭り畢ってまたこれを送って出ず、考思の誠と言うといえども、しかれどもまた戯れに近し、とある。祭ってこれを燎くは、「光明揚げ」で、空を望み神を迎うるは、移し柱と趣向は同じ。和漢の外の類例をも挙げたいが、只今きわめて忙殺されおる最中ゆえ、他日に譲るとする。(三月二十日稿) (大正十一年六月『土の鈴』一三輯)
【追加】
本誌一三輯一六頁に柱松という物鎌倉時代すでにあった由を述べて、『法然上人絵伝』ばかりを孫引きしおいたが、只今(大正十二年一月二十一日夜八時過ぎ)定家卿の『明月記』を見ると、「安貞元年七月十四日、天《そら》晴る。夜、中略、帰来の問、坤《ひつじさる》のかたに火あり。南風はなはだ至る。こは柱松の失か。伝え聞くに、姉小路堀川および三条坊門油小路、云々」とある。これ鎌倉時代たしかに盆の十四日の夜、柱松を焼く風あった証拠だ。安貞は後堀河帝の御時の年号だ。『月堂見聞集』二七には、享保十八年二月十五日、嵯峨釈迦堂の前に松葉を藤にて括り、高さ二十一間半ほど、横半間ほど、末広がりに致し、三本これを立つ。日暮れに及んで火をつけて燃やす、これ釈迦如来葬礼のまなび松明の由なり。もっとも郷民の作業なり。毎年かくのごとし、ただし松葉括りし胴を三角形にす。他の寺に無之《これなき》物ゆえにこれを記す。俗に柱松明《はしらたいまつ》という、と載す。これは七月でなくて二月の柱松じゃ。 (大正十二年四月『土の鈴』一八輯)
(485) 春駒の名義
本誌一一輯七八頁に本山君は、享保年中|波斯《ペルシア》馬が輸入されてから春駒の舞が起こった、と断ぜられた。享保十五年板『絵本御伽品鏡』巻上に、太鼓と三絃で春駒を舞わす図あって、今日も行なわるるこの舞の唄文句を採り、「春駒の夢に見たとやよしといふ、なみなみならずどこのおむすぞ」。かく唄う者は定めて平凡人であるまい、どこの息子ぞ、と言う意らしい。享保十年より年々輸入されたハルシャ馬が、十五年までに春駒という新称を受けたことになる。ところが、享保十年より十一年前の正徳三年、長州で代官より庄屋中へ出した触れ書に、「他国の穢多、云々、春駒、三味線挽き、小歌唄い、猿廻しの類、宿仕り候わば、庄屋、畔頭《くろがしら》へ付け届け候ように申し付くべく候こと」と見え(『郷土研究』二巻二号一二一貫)、帝国書院刊、『塩尻』六(元禄十六年記)には、「民間春駒とて祝辞するを、春馬(白馬御会)のことより起こるという人あり。按ずるに、春駒の辞は蚕事を祝することなり」と出ずれば、波斯馬初めて入ったより二十二年前、すでに春駒の称も舞もあったのだ。(十月二日早朝)
『嬉遊笑覧』巻五下に、「『故事要言』に、年の始めに馬を作りて頭に戴き歌い舞うもの、これを春駒と名づけて都鄙ともにあり、こは、禁中にて正月七日白馬を御覧のことあり、これを下に受けてし侍るにや。内田順也が『俳諧五節句』に、春駒これも万歳楽に似て、頭に馬の頭を戴きて舞うなり。『俳諧水鏡』に、春駒(俳)これまさい(万歳)てく(偶像)にて舞うものなり。鳥追(俳)、と記したり。しからばこれも万歳の一種にや」とあり。『故事要言』はたぷん『骨董集』上編下前一〇丁裏に、『年中故事要言』享保三年印本とあると同著だろう。内田順也は貞徳の門人梅盛の弟(486)子だから、むろん享保前の人であろう。『俳諧水鏡』はいつ、誰の作と知らぬが、何に致せ『笑覧』に引いた右の諸書の文より、春駒は享保十年より前すでに都鄙ともに行なわれ、以前は万歳の一芸だったと判る。(十月三日早朝)
瀬尾柳斎の『板児録抜萃』に、「和の駒疋、こは白馬節会《あおうまのせちえ》、春気発生の意、また馬、邪気を除祓《じよふつ》、また春駒、唱歌に、夢に見てさえ能《よ》いとや申す、これ祝詞なり」とあり。この書は享保十一年すなわち波斯馬初めて入った年より一年後筆したものだが、序文にみずから、「年老い古りにしことを思えば今は昔となりにけり、云々」と書きおり、ハルシャ駒が一年の間に春駒となったとも思われず。また古来あった駒牽き銭の意義を解くに、ハルシャ駒から昨今転成した春駒の名をもってすべき訳もなし。所詮春駒という称えも、夢に見てさえの歌も、享保前からあったと断じて可なり。(十月八日早朝)
吾輩十六、七のころ(明治十七、八年)東京に遊学中、薩摩人が、慶長中の荘内に伊集院氏龍城して主の島津家と戦うた時、島津家の平田太郎左衛門尉の子三五郎という美少年が、兄分吉田大蔵と攻囲軍中にありて共に陣歿した次第を述べた「賤の小手巻」という琵琶唄が学生間に大流行で、そのころ有名な岩崎巌々堂から出版された。その内に、「思う心は春駒の勇み立ったるごとく」という詞があったと記臆する。紀海音の戯曲(年代未詳、この人の作は元禄十二年より二十五、六年すなわち享保十年ごろまで盛んに出たという)、『小野小町都年玉』の初めに、年始の様を述べて、「春駒、こま栗毛、膝栗毛、云々、乗った姿の面白や、駒は名馬よ、乗手は上手、そこらでそこらで確《しつか》とせ、御世《みよ》は万歳祝い納むる」とあるから、年始に武士の乗り始めを言うたものか、または万歳が乗馬のまねして祝いに来たのか、いずれにしても春駒という語はハルシャ駒の前からあったものだ。(十月十日早朝)
辱知白井光太郎博士の『増訂日本博物学年表』には、波斯馬の初入を享保十年でなくて享保五年とし、この歳「清人伊孚九、幕府の求募に応じペルシャ馬二頭を輸入す。幕府南部家に下付し種馬となさしむ。南部氏住谷野の牧を開き畜養す。南部地方良馬を出すはこれに源由す」とあり。佐藤陽次郎氏の『南部馬史』六一頁に、慶長十七年伊達政(487)宗|私《ひそ》かに人を波斯に遣わし、良馬を購入して幕府の嫌疑を憚り、南部領に移放せしめたるが、木崎野牧の種馬となれり。また六四頁に、寛永年間家光公、波斯国より渡来せる種馬牝牡二頭を南部家に賜わり、南部家これを放牧してもっぱら馬種改良を計られたり、これ徳川将軍家外国馬種を輸入せる始めなり、とあり。この『南部馬史』は記事の所出を記せず、また引用書を挙げざるゆえ、むやみに信を置きがたきも、とにかく参考までに申し上げおく。(十月十四日午後)
『世諺問答』に、正月十五日に公けにて白馬を覧給うわけを、『十節記』『礼記』等より引き説きて、「正月七日に青馬をみれば年中の邪気を穣《はら》うという本文侍るなり。今の童部《わらわべ》の、春駒〔二字傍点〕というは、これより始まり侍るにや」とある。この書は天文十三年に一条兼冬公が十六歳で書いたものだ。必ずしも近時の春駒の唄がそのころあった証拠にはならねど、なにか馬のまねして春が来たのを祝い勇む戯れくらいはあったようだ。とにかく春駒という詞は、足利氏の末にすでにあった証拠になり、中山君の推測が中《あた》ったように思わる。(十月二十日早朝) (大正十一年十二月『土の鈴』一六輯)
(488) セノ木について
本誌一一輯五六頁に佐々木君が注されたセノ木は、座右の蔵書中にその名を見ぬが、天明八年に成った古河辰の『東遊雑記』二に、「白川《しろかわ》には、云々、土人セイの木と言うあり。上方に言う八ツ手に似たる木にて針多し。この木は石に化しやすく、土人切り倒して十年ばかりもそのまま置けば、土に付きし方は石となるとの物語なり。それ故にや、家々の踏み石はみなセイの化石なり。珍しき所も世にあることなり」と記す。セノ木が多く石に化するということ、『雲根志』にもあったと臆う。
大正九年八月、北海道の植物に詳しい坂口総一郎氏と高野山に遊び、ハリギリを見て北海道で何と呼ぶかと問うと、センノキと答えた。松村博士の『改正増補植物名彙』に、ハリギリ、北海道でセンノキ、学名アカントパナックス・リシニフォリウムとあり、牧野富太郎氏校訂『植物図鑑』九八一頁に、その図を出し、山地に自生する落葉喬木にして、高さ七、八丈、周囲丈余に達す、云々、とあるが、佐々木氏の巨木となるというに合うから、セノ木はハリギリまたセンノキと同物と見える。五加《うこぎ》科の木で、『植物名彙』に、ウコギ、タカノツメ、コシアプラ等、これと同属の邦産植物七種を列しある。(十二月三十一日午後十時) (大正十二年二月『土の鈴』一七輯)
【追記】
本誌一七輯一〇頁に、「セノ木が多く石に化するということ、『雲根志』にもあったと憶う」と書いた。予がもと蔵した『雲根志』は、在英中大英博物館に寄付してしまい、只今この田辺中にその完本を持った人がないから調べるこ(489)とがならぬ。しかるところ、今夜(四月四日夜)『甲子夜話』二九にちょうど『雲根志』の文を引きあるを見当たったから申し上げる。
その条は、「『雲根志』にいわく、仙台の近処に茂崎山あり。瀬の木多し。多く石と化す。上方《かみがた》に、せの木知る者|稀《まれ》なり。この生物を取り寄せ見るに、上方に言うタラノキなり。タラ、上方にて大木なし。太きもの杖のごとくにして針あり、その香うどに似たり。若芽を採りて、うどの代りに食す。茂崎山に、せの木一抱えあまり、あるいは二抱えなるもあり。古木、若木に限らず、枯れ倒れもせずして、立ちながら石となる。また老木といえども化せずして青々と生いたるあり。化したるものは全木根枝ともに石なり。杉のモクのごとく赤白ありて、破れてもまた美なり。近山の寺々、あるいは好事の人々、取り得て飛石に用い、あるいは山亭を飾るという」というのだ。
この文には、瀬の木をタラと同物となしおるが、タラは学名アラリア・キネンシスで、セノ木またボウダラまたアクダラは、学名をアカントパナックス・リシニフォリウム、共に五加科の木だが、別属別種だ。牧野氏校訂『植物図鑑』九九一と九八三頁を見よ。 (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
(490) 資料短信
紀州の瓦猿について
『土の鈴』一輯三五頁の前に写真を出されたる、和歌山付近山王権現の瓦猿は、小生幼時見たるものとは異なりおり申し侯。それは大要上図〔略入力者〕のごときものにて、桃を小股にあてて持ちおり。海外に永々おりて、明治三十四年に帰朝致し候節、かの小祠に納むるため新たに拵えたるを見たるに、やはり図のごときものなりし。記憶のことゆえ、十分精確ならざるも、右挿版図のごときものにあらざりしは確かに御座候。それと等しく、牛天神の瓦牛も、以前のは右の版図のとかわりおりたるように御座候。 (大正九年八月『土の鈴』二輯)
蚯蚓幟
天保五年花見月の自序ある、紀州田辺の人、紀世和志《きのせわし》の手筆に係る『弥生の磯伝ひ』(二巻あり)上に、「広島城下町(491)家に、色紙にて巡り六寸ばかり、または一尺ほどもある吹貫きの、五尺、六尺ぐらいなるを、細き竹の先にぶり下げて軒の下に出す。これを尋ねるに蚯蚓幟《みみずのぼり》という。男子ある家には四月|朔日《ついたち》より出すとぞ。宮島も同様なり」とありて図を出す。只今もあることにや。識者の教えを俟《ま》つ。 (大正十年十月『土の鈴』九輯)
『絵本満都鑑』の第十一図
安永八年高古堂主人の序ある『絵本満都鑑』(下河辺拾水画)第十一図は、田舎街道で鎗を立てさせ奴僕三人を従えた麻上下《あさがみしも》帯刀の立派な侍が、片手を土につかえて、土人形・土器を籠二つに入れた荷を卸《おろ》して片足を立て、片足を地上に曲げて、西行法師の土偶を掌に載せた老人が何か説明するを、謹聴するところで、詞書には「手足は土によごしつつ、少将の百夜《ももよ》の数ほど小町小町を売りあるき、身の黒主《くろぬし》とも、うのはとも、蘭のかたせの休みもなく、夕べ夕べはわが山里に帰りけり」とあって「土器《かはらけ》のなりもまんまる丸太夫智恵深草の親父分《おやぢぶん》なり」と狂歌を出す。これは全体何の故事を画いたものか、知人中誰も知った者なし。人形に縁厚き本誌に掲げて諸君の高教を乞う。 (大正十一年十二月『土の鈴』一六輯)
婚礼と?
今は知らず、三、四十年前まで、和歌山市で、去年妻を娶《めと》った家に、今年五月十四日早朝、小児ども?《あめ》クダイ(下(492)されの意)と呼ばわり押し寄するに、一々白いあを竹の皮に載せたるを一つずつ与う。与えざる時は、「?くれぬ家は、云々、焙烙《ほうろく》一つで貧乏せい、貧乏せい」と喚いて帰る。この?をヒッツキ?とか唱え、特にその製あり。きわめて粘着するゆえ、新夫妻もそのごとく粘着して離れぬようと祝うのだそうな。
支那にも似たこと唐代にあったと見えて、『酉陽雑俎』巻一に、婚礼の納采九事を挙げ、中に阿膠と乾漆あって、膠と漆とはその固きに取る、とあり。これまた一度合ったら永く離れぬようと祝したのだ。 (大正十一年六月『土の鈴』一三輯)
陰陽石崇拝
本誌一三輯九一頁に田士英君が出された図はきわめて面白い。一八四六年カルカッタ出板、『ベンガル皇立|亜細亜《アジア》協会誌』一五巻六一頁に向かって、ラッター大尉が出した陰陽石の図が、ほぼこれに似ておる。イが甲に、ロが乙・丙に似ておる。
これは、ビルマに近いアラカン国のキュンタス族が村外れの樹下に祀る石で、陰陽二神を表わす。イは陰神マユー・ナットを表わす。この神、勢力もっとも強く、マユー川口を護り、敵がそこから討ち入るを禦《ふせ》いで一国を安んず。ロは陽神プエ・ソアウング・ナットを表わす。この神は一村の守護神で、村に疫病、邪視、洪水、虎豹等が入らぬよう守りくれるという。陰陽石とも鬱金《うこん》で、黄に染めた綿糸で巻くこと図の(493)ごとし、とある。(十月五日夜) (大正十一年十二月『土の鈴』一六輯)
いびつ餅
本誌一七輯四〇頁、永井君が載せられた「いびつ餅」は、田辺に限らず、紀州到るところこれを作るが、いびつと呼ぶは田辺とその近処に限るらしい。端午にかしわ餅を作るが本式で、かしわ餅の不足を補うため??の菜を用うる。ところが田辺辺にはカシワがはなはだ乏しく、予の知るところ、カシワを植えた家は只今一軒しかない。他処ではイピツの葉で包んだ餅をもカシワ餅というが、田辺辺ではカシワを知らぬほど少なく、ただちにこれをイビツ餅またイビツと言うらしい。
『和漢三才図会』九六に、??契、和名サルトリ、一にオオウバラといい、俗にエビツイバラ、また五郎四郎柴という。「俗もって倭山帰来となす。西国の野人、葉を用いて麦餅《むぎだんご》を包み、呼んで五郎四郎といい、これを贈酬す。故に五郎四郎柴と名づく」とある。今も然りや。 (大正十二年四月『土の鈴』一八輯)
琉球の鬼餅
『球陽』巻一三にいわく、「尚敬二十三年(正徳三年、西暦一七一三年)、往昔の時より、六月吉を択び糯飯を蒸し、もって年浴となす。八月吉を択び糯米を蒸し、赤小豆を交え飯となし、名づけて柴指という。十二月庚子庚午に逢えば、糯米粉を椶葉《しゆろのは》に包み?となし、名づけて鬼餅という。この年に至り、改定して、年浴を六月二十五日、柴指を八月十日、鬼餅を十二月八日とす。『遺老伝説』に、新穀すでに熟して民功また成る。故に必ず吉旦を択び、糯米を炊ぎ蒸(494)して飯となし、家々祖宗に献じ、親戚に相贈りもって豊饒を賀す。この日大台所は恭しく御佳例盆を内院に献ず。かつ時大屋子《トキノオウヤクー》、吉方(歳徳神所在の処)の二水を取って王上に献ず。俗諺にいわく、耕業の時にあたり、牛馬すでに労す、この時に到り少しくその業を休ましむ、すなわち農夫この牛馬を拉し池に臨んで沐浴せしむ、故に年浴と号するなり、と。一説に、山留《やまとめ》すでに除かれて、世人川に到り水を撫す、故に年浴節と称す、と。二説同じからず、いずれが是《ぜ》なるを知らず」と。
柴指は内地の赤飯、鬼餅は柏餅またイビツ餅類似のものと見える。 (大正十二年四月『土の鈴』一八輯)
田祭りの餅について
本誌一七輯三九頁に図説が載せられた田祭りの餅は、今も紀州田辺近傍で土用丑の日に田の隅へ供えられる。さて、まもなく小児が盗み取って、夏煩い予防の効ありとて、その児の家内で頒《わか》ち食らう。ただ一つでも取ってくれば、細かく分かってあまねく頒ち食らう。かく盗まるる時はその田に利ありとて、田の主は少しもこれを咎めぬ。このこと永井氏の記事に見えぬから、ちょっと申し上げおく。 (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
繩掛地蔵
佐藤隆三「東京市内の地蔵めぐり」繩掛地蔵の条参照
(『土の鈴』一八輯三六頁)
宝永・正徳のころ出版された『本朝藤陰比事』に、よく似た話がある。巻二に、木綿|荷《にな》い売りの河内屋羽右衛門、昨二十一日いつものごとく所々|荷《にな》い歩くに、草臥《くたび》れて坂見町の裏町に荷を下ろし居眠りするうち、木綿一荷盗まれし(495)と訴う。その辺に胡乱《うろん》なるものなかりしかと問うに、塵塚の辺に石地蔵あったという。その地蔵が盗んだものであろう、惣《そう》じてその坂見町の裏店《うらだな》には商売確かならぬ者多く住むと聞けば、石仏まで行跡よろしからずとて、町の者を召し出され、町内に盗みしたる石地蔵あり、昼三人、夜五人ずつ急度《きつと》番せよと命ぜられ、昼夜八人ずつ番した。四、五日過ぎて、町中寄り合うて、何とも難儀なれば盗まれた金額を積もり、町中よりこれを弁じて一日も早く済ますべしと、いずれも同心して、家持・借家おしなべて木綿一疋ずつ割り付けて、家数ほど買い集め、木綿売り了簡したと申し上ぐる。その買い集めたる木綿を羽右衛門に示し、この内に其《その》方《ほう》目印の符牒でも付け置いた木綿なきかと問うと、目印のある木綿二疋出る。これによってその売主を吟味し、町内に盗人あるを見出だし処刑し、外の木綿は町中へ返し、盗品はことごとく羽右衝門に返された、とあって、江戸のこととしておらぬ。
大岡氏が在職せぬ前に出た『本朝藤陰比事』にこの話あるを見ると、大岡以前すでにあった話だ。 (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
蒟蒻問答について
本誌一八輯に宮武氏が述べられた、往年予が『日本及日本人』へ書いた禅学問答のような咄《はなし》は、三田村鳶魚、上松蓊諸氏から、これは蒟蒻《こんにやく》問答とて落語家の十八番たるもので、東京では誰も珍しとしないと承った。予が書いたころ、このような咄は日本と仏国の例のみを知りおったが、そののち鈴木真静君よりインドにもあると示され、次に『英領中央|阿弗利加《アフリカ》土人篇』の著者ワーナー女史からザンジバル、ジーホエール氏からスペインに、こんな問答の咄がある委細を報ぜられた。 (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
(496) 潮吹きの挽臼について
潮吹きの挽臼は、小生の知るところではノルウェー、スウェーデン、デンマーク、またアイスランド等にもっぱら行なわれたるように御座候。これに似たることはアラビア、セイロン、またわが国(田原藤太の不尽の俵等)、支那、ギリシアその他に多かるべしと存じ申し候。とにかくスカンジナヴィア人が本源らしく存じ申され候。 (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
(497) 孕石のこと
一
本誌一巻六号二三二頁に「ドイツには孕石《はらみいし》と言って、ガラガラ鳴る固形物を包んだ一種の石を真鍮に包み、産婦の左腰部に垂らしておく習慣がある」と見える。孕石とはドイツ語で何というか知らねど、あるいは別段そのような意味のドイツ名はなきも、本邦に孕石という物があるについて、ドイツでいわゆるアドレル・スタイン(鷲石)、一名クラッペル・スタイン(ガラガラ石)を、記者がかく訳したのかとも推察する。
藤沢衛彦君の『日本伝説叢書』伊豆の巻に、賀茂郡田子村平野山麓に孕石あり、高さ二丈、周り七、八尺ばかりで、出産を祈ると効験ありと信ぜられたが、今は畠に墜ち転がりおる由を記す。柳田氏の「生石伝説」(『太陽』一七巻一号)に出た通り、諸国に小石団結して大岩となったのが、風雨に削られて時々多少の小石を放ち落とすを、石が子を産むと誤り、産婦のマジナイに用いて子持石と名づく。すでに子持石と言えば孕石と唱える例も多々あることと記臆するが、差し当たり確かに孕石と唱うるは伊豆の一例しか知らぬ。その例あらば識者の報道を冀う。『雲根志』など見たらよいのだが、座右にないゆえ仕方がない。『類聚名物考』付録三に、『三河記』を引いて、家康幼時駿河に人質たり(498)し時侮辱された復讐に、後年高天神落城の節、孕石主水に切腹せしめた、とある。この孕石はたぶんもと地名でそこに孕石と呼ばれた石があったであろう。支那にもこんな石のあった証拠は、『淵鑑類函』二六に、「『郡国志』にいわく、乞子石は馬湖の南岸にあり。東の石腹中より一小石を出だし、西の石腹中に一小石を懐《いだ》く。故に?《ほく》人これに子を乞いて験あり、と」と出ず。
独語でアドレル・スタインと言う物は、露語でオーリヌイ・カーメン、仏語でピエール・デーゲル、西語でピエドラ・デ・アギラ、英語でイーグル・ストーン、いずれもギリシア名エーチテースの意訳で、鷲石の義だ。この石をまた独語でクラッペル・スタイン、露語でグレムチイ・カーメンと言うは、ガラガラ鳴るからガラガラ石の義だ。
西暦一世紀に書いたプリニウスの『博物志』巻一〇の三章に、鷲に六種ある由を述べ、四章にそのうちの四種は巣を作るに鷲石を用うる。この石は薬効多く、またよく火を禦《ふせ》ぐ。その質あたかも孕めるごとく、これを振れば中で鳴る。ちょうど子宮に胎児を蔵《おさ》むるごとく、石中に小石あり。ただし、鷲の巣から採ってただちに用いねば薬効なし、と記す。また三六巻三九章にいわく、「鷲石はつねに雌雄二箇揃うて鷲巣にあり。これなければ鷲は殖えず。したがって鷺は一産二子より多からず。鷲石に四種あり。第一、アフリカ産は柔らかくて小さく、その腹中に白く甘き粘土を蔵む。その質砕けやすく、通常これを女性の物と見る。第二に、雄なる物はアラビア産で、外見|没食子《もつしよくし》色(暗褐)もしくは帯赤色、その質硬く、中にある石も堅い。第三、シプルス島の産はアフリカ産に似るが、それより大きくて扁《ひら》たく、他の円きに異なり、内には好き色の砂と小石が混在し、その小石は指で摘《つま》めば砕くるほど柔らかい。第四は、ギリシアのタフィウシア産だから、タフィウシア鷲石と呼ぶ。川底より見出だされ、白く円く、内にカリムスと名づくる一石を蔵む。鷲石種々なれどこれほど外面の滑らかなのはない。これらの鷲石、いずれも牲《にえ》に供えた諸獣の皮に包んで、妊婦や懐胎中の牛畜に佩《お》びしめ、出産の時まで除かねは流産を防ぐ。もし出産前に取り去れば、子宮落脱す。また出産迫れるに取り去らずば難産す」。
(499) 一九〇五年版、ハズリットの『諸信および俚伝』一にいわく、「鷲石は臨産の婦人に奇効ありと信ぜられた。レムニウス説に、左腕に心臓から無名指へ動脈通う処あり。その辺へこの石を括りつけおけば、いかな孕みにくい女も孕む。孕婦に左様に佩びしむれば胎児を強くし、流産も難産もせず、また自分経験して保証するは、産婦の脇にこれを当つれば速やかに安産す、と。ラプトンいわく、孕婦の左臂や左脇に鷲石を佩びしむれば流産せず、かつ夫婦相好愛せしむ。また難産の際これを腿に括りつくればたちまち安産す。また蛇の脱皮《ぬけがら》を腰に巻きつけても安産す」と。
これは東西に例多き「似た物は似た思いを救う」という療法で、真珠が魚の眼玉に似ておるから眼病に利くとか、肉?蓉《にくしようよう》は陽物そっくりゆえ壮陽の功おびただしとか、虎や狼は犬より強いからその骨や肉は犬の咬毒を治すとか、黄金の色が似るから黄疸に妙だなど信ずるごとく、蛇が皮を脱《ぬ》ぎ穴を脱けるのが赤子の産門を出るに類し、鷲石の内部に小石を蔵せるが子宮に胎児を蔵むるに似たからの迷信だ。
一五六八年ヴェネチア版、マッチオリの『薬物論』には、「鷲石を振れば内部に音すること孕めるもののごとく、その腹中に一石あり。これを産婦の左臂に佩ぶれば流産を防ぐ。さていよいよ臨産となると、臂から脱してその腿に括りつくれば安産する。この石また盗人を見出だすの功あり。蒸餅《パン》にこれをそっと入れて食わしむるに盗人これを?むも嚥《の》み下すあたわず、また鷲石と共に煮た物をも嚥むことあたわず。その粉を蜜?か油に和して用うれば癲癇《てんかん》を治す」と出で、一八四五年第五版、コラン・ド・プランシーの『妖怪字彙』六頁には、「鷲石を孕婦の腿につくれば安産すれど、その胸に置かば出産を妨ぐ。ジオスコリデス説に、この石を焼いた粉を蒸餅《パン》に混じ、嫌疑ある人々に食わすに、少しでもその粉の入った蒸餅片を盗人は嚥みあたわず。今もギリシア人は呪言を誦して、右様の蒸餅を盗人探索に用ゆ」と筆す。これ鷲石内に一石を蔵すると盗人が取った物を懐中すると相似るより、この石よく盗人を見出だすと信じたものか、とまでは書いたが、何故癲癇に利くかはちょっと解きがたい。まずは気絶した患者が回生すると、鷲や人の子が産まれて世間に出るとを一視して、言い出したのであろう。
(500) それからバルフォールの『印度《インド》字彙』一に、プリニウスは鷲石が治療に効ある外に難船等の災禍を禦《ふせ》ぐと説いたとあるが、プリニウスの書に一向そんなことが見当たらぬ。たぷん暗記か引用の失だろう。さて「アラビア人これをハジャー・ウル・アカブと称え、タマリンド果の核に似たれど、中空しく、鷲の巣中に見出ださる。鷲これをインドより持ち来たすと信ず」と述べたまま、何に用ゆと書きおらぬが、必竟欧人同様、もっぱら産婦に有効とするのだろう。
プリニウス三七巻五九章に、メジアより来たるガッシナデという石は、その色オロブス豆のごとく、花紋あり、この石を振るえば子を孕むと判る。三ヵ月間孕むとあるから、それだけ歴《ふ》れば、石が子を生むのだ。同巻六六章には、ペアニチスは子を孕む石で婦女の安産を助く、マケドニアに産し、外見水が凝り固まったごとし、と載す。いずれも構造鷲石に似ながら鷲に係る話なき物らしい。
ベーリング・グールドの『中世志怪』一六章に、ソロモン王音せずに金石を穿つべききわめて堅い石を求め、鬼の言に随い水晶の板で鷲の卵を覆うと、母鷲遠方よりサムール石を持ち釆たって水晶を破り除く、よって巨人をしてその鷲の行先を追わしめその石を獲た、とあるも鷲石譚に近い。セミチク民族にいと古くこんな話があったは、カルデアの神話に、エタナその妻のために安産催生の霊草を、空気の神シャマシュの使者たる母鷲に乞い、それに抱きついて高くイシュター女神の天に登り、かの草を手に入れんと飛ぶうち、疲労極まり手を離して地に落ち身体微塵に砕け死んだと言うので判る(英訳、マスベロ『開化の暁』六九九-七〇〇頁)。
動物が産育を助くるとて特種の薬物を用うるという例は、支那で鸛《こう》が?石《よせき》で卵を暖めると言い(張華『博物志』四)、日本で鶴が朝鮮人参で卵を暖めるとか(『善光寺道名所図会』五)、鸛がイカリソウもてすでに煮熟された卵を孵すとか(『甲子夜話』一七)、アイスランドでも鴉が黒い小石をもってすでに煮固められた卵を孵すという(ベーリング・グールド、同前)等あり。これより推すと、プリニウスが鷲石なくんば鷲は殖えず云々と言ったは、鷲がその卵を孵さんがためにこの石を巣内に置くという信念に基づいたので、上述孕婦を安産せしむという場合と同じく、この石の内にまた(501)一石を包む様、ちようど鷲の卵内に鷲の子が潜在するに似たところから、鷲は鷲石の力を借りてその卵を孵し繁殖すと信じたのだ。
鷲石に上述の奇効ありと信ぜられた時代には、ずいぶんこれを尊重した。サウゼイの『随得手抄』一に、十七世紀に英国の教徒がバートレットなる人の宝蔵を掠めた内に雄鷲石一あり、ある医師三十金もてこれを購わんと申し出た、と録す。当時にしてはなかなかの大金だ。また一七一九年ヌーレムベルグ版、コルベンの『喜望峰博物志』に、喜望峰辺の小石原と沼沢に仮鷲石あり、円がかった栗大の石で、中空で砂等で盈《みた》され外面は錆を被《かぶ》る、大珍物として外客に進上さる、と見える。これ取りも直さず鷲石の記載だが、その辺の産はガラガラ鳴るべき小石の代りに砂塵を包んだ下等品で、あまり尊重されず、単に奇物として収拾されてたから、仮の鷲石と書いたのであろう。
全体この鷲石とは何物かと尋ぬるに、『大英百科全書』一一版一六巻にある通り、その純正品は褐鉄鉱の団塊、中空にして砂礫を蓄え、振ればガラガラ鳴る物だ。リレイのプリニウス註に、鷲石は粘土を混じた鉄石の円塊、中空にして他の石また礦末また少しの水を蔵すとあるが普通の品で、不純の褐鉄鉱だ。かかる物を鷲に引き合わしたはちょっと合点行かぬが、すべて人間の判断は必ずしも一々正確な論理法を踏まず、多くは眼前の遭際によって左右さるるもので、すでにもつてベーン先生の『論理書』にも、数日間ある地に遊ぶうち晴天ばかり続いたら、その地は年中晴天のみであるよう心得た人が多く、彼処《かしこ》はいつも天気のよい所など毎々言う、と説かれた。それと斉《ひと》しく当初この石を鷲石と名づけた地の鷲が巣くう巌崖にこの石多く、偶然巣の内にこの石を見出だすことも一度ならずあるので、気をつけて見ると、石中にまた小石を蔵せるをもって、これを石が子を孕んだ物と誤認し、延《ひ》いて鷲がこの石にその卵を孵す力あるを知って巣中に持ち込んだと合点し、妊婦に佩びしめたり括りつけたりして試みると利く場合もあったので、いよいよ産婦に偉効あると判断し、安産さえすれば跡が早くできるから亭主も大悦びに相違なく、したがってこれを佩ぶれば夫婦をして相愛せしむと信じたのだ。
(502) 二
さてこの鷲石は日本にないかと問うと、あるともあるとも大ありだが、ただこれを鷲と連ねた話はない。古来本草家や玩石家が禹余糧、太乙余糧など名づけ、邦名スズイシ、コモチイシ、イワツボ、ツボイシ、フクロイシ、タルイシなどいうのが鷲石だ。『重訂本草啓蒙』六に、「禹余糧、舶来・和産ともにあり。舶来の物は大きさ一、二寸、殻の厚さ一、二分ばかり、はなはだ硬く、黄黒褐色にして、打ち破れば鉄色なり。その内空虚にして細粉|盈《み》てり。また内に数隔ある物あり。葉にはこの粉を用ゆ。いわゆる糧なり、云々。その粉白色あるいは青白色を良とす。また黄色、黄白色なる物あり。和産は和州、能州、甲州、泉州、日州、薩州、筑前、但州、江州、越中、作州、その余諸国にあり」。
予が現住する紀州田辺に近い稲成村岩屋観音の堂を裹《つつ》める岩洞にも、この石多く、饅頭石と名づく。石中に硬き土ありて餡に似たり。柳里恭の『独寝』に、「甲斐の団子洗い村の団子山は全山団子だ。古伝に弘法大師ここで団子を作っていた姥に一つ望んだが、くれぬを憤り、印を結び団子をことごとく石にしたから、宅後の山へ捨てたという。この物を見るに大きさ鶏卵のごとく人の手で丸めてもなかなかこう丸くはなるまい。白雪のごとく滑らかで、割れば中ことごとく赤くて米のごとし、粉にしてつくれば痘瘡を治すとぞ。工夫して絵具にして、多く岩などのあいしらいの色や鳥の毛色に用いた。妙な色が出るが膠には合わぬ」と述べおる。熊楠も禹余糧の中に包んだ黄土で絵《えが》いたことがある。
一八五二年発行『ベンガル皇立|亜細亜《アジア》協会雑誌』二〇巻、ウィルフォード大佐の「インド古地理比較論」二四四頁にいわく、「ムダン岬に近き銅山に、白い結晶石が土に混じて稷《きび》の大粒ほどの細石をなす。シヴァ大神の不在中、そ(503)の妻日々飯を炊いで十二年続けて待ったが還らず。その間毎夜捨てた飯がこの石になったとあって、これを拾うて研《みが》き、穴をあけ糸に繋いで、千個一ルピーの割で順礼に売る」とある。それと同日の談で、支那でも古く鷲石中の細粉を、夏の禹王が諸侯を会稽した時|余《あま》した糧の化せるところとして禹余糧と名づけ、今も会稽山に多いと『本草綱目』一〇に出ず。一八七四年版、スーブランおよびチュールサンの『支那薬材篇』には、「予輩浙江の沿岸地方から得た禹余糧なる物は、西洋で鷲石と呼ばるる水酸化鉄で、鴨卵の大きさで、中空に小石粒多く蓄え、下痢を止むるに薬用せらる」とある。『本草』に、また太一余糧あり、太一は理化神君とも言い、禹王の師なり、その余糧がこの石になった、と言う。
禹余糧と太一余糧の区別、古来諸説一定せぬが、『本草啓蒙』に拠ると、石の外面滑らかなのが禹余糧で、粗《あら》くて小石や麁砂より混成せるが太一余糧らしい。いわく、太一余糧舶来なし、和産諸国にあり。形状、大小一ならず、大なるものは斗のごとく、小なるものは桃栗のごとし。禹余糧の形に似て、外面黄黒褐雑色、質粗くして大小の砂礫|雑《まじ》わり粘すること多し。『雲林石譜』(趙宋の杜綰編)に「外に多く砕石を粘綴す」というこれなり。その殻堅硬、打ち破る時は鉄のごとく光あり。裏面は栗殻色にして滑沢なり。殻内は空しくして粉あり、黒褐色なるもの多し、また黄褐色なるものもあり。全きものを用いて一孔を穿ち、粉を去って、小なるものは硯滴(水入れ)となし、大なるものは花瓶となす。およそ禹余糧、太一余糧ともに、初めは中に水あり(石中黄子という)、のち乾いて粉となり、久しきを経て石となる。その桃栗の大きさにして、内に石あるもの、これを撼《うご》かせば声ありて鈴のごとし。故にスズイシと言う。太一余糧は泉州、紀州、讃州、和州、城州木津辺の山にあり。そのうち和州生駒山に最も多し、名産なり、と。
『抱朴子』に、禹余糧を仙薬とし、これを服すれば飛行長生す、とあり。『神農本経』には、太一余糧を久しく服すれば、寒暑に耐え、餓《う》えず、身を軽くし、千里を飛行し、神仙たり、と載す。『本草綱目』に、この二石の薬効多く述べたうちに、催生の力あり、とある。して見ると支那には鷲につけた話はないが、やはり欧州と同様その中空にし(504)て小石を蔵むる態が、子宮に胎児を納めたごとき感あるより、産婦に験ありと信じたのだ。
ついでに申す。鷲と性慾を連結した話は諸方にある。今数例を挙げる。古ギリシアの伝うるところ、トロイ王トロスの子がガニメデス、艶容無双で大神ゼウスこれに執心のあまり、鷲をして取って天上せしめ、これを酒注ぎ役の小姓にして寵幸し、神馬二匹をもってその父に償うたということで、古来欧州の美術に大きな鷲がこの少年を運び昇天するところが多い。ローマで美少年奴酒の酌を勤むるをガニメデスと呼び、転じてカタミツスと言いしより、英語でお釜掘らす男子をカタマイトと言う(スミス『希臘《ギリシア》羅馬《ローマ》伝記神話辞彙』二、およびウェブスターの大字書)。
またツラキア生れの名娼ロドビスは、かつて高名の動物訓話作者イソップと共にサミア人ヤドモンの奴たり。のちサミア人ザンデスの奴となり、エジプトの大港ナウクラチスで芸妓を営業した。一日この女浴しおる間に鷲来てその靴片足を?み去り、エジプト王が裁判しおる前に落とす。王その事の奇にしてその靴の美しきに迷い持主を尋ねて息《や》まず、ついに探り当ててロドピスを后としたそうだ。ロドピスは赤頬の意味で、わが邦で婦女|頤《おとがい》赤きは彼処《かしこ》が臭いと言うが、この後はどうだったか記録に見えぬ。南インドのトゲ人の伝説に、老媼ムラッチの頭に鷲が留まり、それよりこの婆孕んで男児を生んだのがコノドルス人の先祖なりという(一九〇六年版、リヴァルス『トゲ人篇』一九六頁)。
北インドでヴィシュニュ神は金鷲に乗ると信じ、翼ある美童の像もて金鷲を表わす(一八四八年発行『ベンガル皇立|亜細亜《アジア》協会雑誌』一七巻五九八頁)。これは上述ギリシアのガニメデス譚に似ておる。いわゆる金鷲すなわち仏経の金翅鳥《こんじちよう》で、仏説に、むかしビナレ城にタムバ王世を治めた時、釈尊の前身、金翅鳥王に生まれ、年若し。一日少年に化してビナレに往き、王と博戯す。宮女輩その美貌に感じ王后に語る。他日、化少年また往って王と博戯する時、王后盛装して入って少年を視る。少年また王后を見てその麗容に驚き、相惚れとなる。鳥王すなわち暴風を起こし、天気を晦冥にし、宮人愕き走り出ずるに乗じ、后を?んで自分の住む竜島に伴れ行き、これと淫楽す。王その楽人サッガをしてあまねく海陸を巡り后を捜さしむ。サッガ、海商の船に乗って金島に渡る。商人輩船中の徒然を慰むるためサッガ(505)に音楽を演ぜよと勧む。サッガいわく、やすい御用だが、予が海上で奏楽せば魚驚いて船を破るべし、と。商人輩信ぜずこれを強いたから、やむをえず絃を鼓すると魚類大騒ぎし、一の大怪魚飛び上がって船に落ち、二つに破りおわる。サッガは板を便りに漂うと竜島に流れ寄る。鳥王は后を盗んで淫しながら、知らぬ顔して毎度ビナレ王と博戯に趣く。この時もちょうど博戯に往つた留守中で、后は出でて海浜に??《しようよう》するうち、本夫に仕えた楽工に逢い事情を聴きおわり、抱き伴れてその宅に帰り、十分保養して元気を快復せしめたのち、種々美装美食せしめてこれと淫楽し、鳥王還ればあらかじめこれを匿し置き、去れば情を起こしてこれと歓興す。かくて一月半ののち、ビナレの海商薪水を求めてこの島に上りしに便船して王宮に戻り、鳥王がタムバ王と博戯するを見、絃を鼓して、王后鳥王に盗まれて海島にあり、自分その島へ漂着してこれと歓会せしことを謡う。金翅鳥王これを聞いて后の好婬に呆れ、怒り去って后を将《も》ち来てタムバ王に返し、二度とビナレへ来なんだ、という(カウエル『仏本生譚』三巻三六〇語)。
唐の義浄が訳した『根本説一切有部毘奈耶雑事』二九に、この譚が出るが、大分|差《ちが》う。それには商船難破して商主死し、その妻一板に便り海洲に漂着して金翅鳥王の妻となり、その子を産む譚あり。また梵授王が妙容女を妃とし、その貞操を全くせしめんとて、金翅鳥王に命じて昼はこれを海島に置き、一切人間に見らるることなからしめ、夜はこれを王宮に伴れ来たらしめしに、楽工速疾と名づくるが、サッガ同様の難に逢い、その島に漂着して王妃に通じ、共に鳥王を紿《あざむ》き、伴れて王宮に還り、姦通のこと顕われて追い出され、賊難に逢って妙容賊帥の妻となり、速疾を殺し、種々婬婦の常なる醜行を重ねた次第を述べおる。それから本邦の羽衣伝説に類したギリシアの神話があって、女神アフロジテが川に浴するをヘルメス神が見て慾を起こし、鷲をしてその衣を攘《かす》め去らしめ、わが望みを叶えたら返しやるとてこれに通じたという(グベルナチス『動物志怪』二巻一九七頁)。プリニウスの『博物志』一〇巻六章には、セストス市の少女、鷲を育てしに、毎度鳥類を捉え来たって返礼した、少女死した時屍を焼く火中に投身して殉死し、市民、碑を建てこれを旌表《せいひよう》した、と見ゆ。何に致せ、鷲は美少年や婦女を好む鳥とされた物だ。
(506) 鷺と子孫繁殖とを連ねた信念が古ローマにあった。アウグスツス帝がリヴィア・ズルシルラと婚した直後、鷲が白牝鶏を后の前垂れに落とし、その牝鶏が月桂の枝を銜《ふく》みおった。卜《うらな》うてその大吉兆たるを知り、その枝を植えると大森林となり、牝鶏を畜《か》うと大いに繁殖したから、その地を牝鶏荘と名づけた。ネロ帝の末年その鶏みな死し、月桂林は萎み去ったので、帝統|焉《ここ》に絶ゆると知ったそうな(グベルナチス、二巻一九六頁)。鷲に?み去られた幼児が名人となり、あるいは著姓の祖となった例は本邦に少なからず。『元亨釈書』に出た奈良大仏の創立者良弁僧正、『翁草』三に記せる摂津高槻の鷲巣見氏の祖等である。(十月八日)
(追記)本文を書き終わって、一九一四年ボンベイ版、エントホヴェンの『グジャラット民俗記』五四頁を見るに、アヨジャーの王ダシャラタ、子なきを憂い牲《にえ》供えて擣ると、牲火《せいか》の中より神顕われ、天食パーヤスを授け、その三妃に頒《わか》たしむ。その時、一妃の分を驚|?《かす》め去って、アンジャ二女の手に落とす。この女また子なきを憂い、苦行中だった。今、天食を得て喜びはなはだしく、これを食うとたちまち孕み、生んだその子が『ラーマーヤナ』に有名の猴王神ハヌマンだ、とある。 (大正九年十一、十二月『性之研究』二巻二、三号)
(507) 東洋の古書に見えたキッス
本誌二巻三号八五頁に、ハヴェロック・エリスから孫引きされた故ハーン氏の書に、日本に愛の表象としてキスも抱擁も握手もなかったように見える。これはハーン氏が生存中目睹したところは左もありなん。だがこの文を読み損《そこ》ねて、多くの西洋人のごとく、東洋にこれらのことを愛の表象として行なう風が古来全くなかったと思わば、間違いもはなはだし。大江公資が源頼光の女《むすめ》で名歌の誉れ高き相模を居常抱懐したとか、秀吉が山崎の戦いに勝って、中川清秀の手を執って瀬兵御苦労御苦労と言ったことなど、史書に散見す。また浄瑠璃を日本の文学より排去せば知らず、いやしくも浄瑠璃を文学の一大部分を占むるものとせば、これらのことは浄瑠璃におびただしく載せおり、今さらその例を引くも管《くだ》なり。
さて『人類学雑誌』三四巻八号に、「四神と十二獣について」と題した拙文中、東洋の古書に見えたキッスのことを述べおいたのをここにその原稿のまま写し出し、ハーン氏の書を読み損ねて東洋に金輪際キッスはなかった、これ東洋人が天性西洋人に劣った証拠など心得違うた人の参考に供する。けだし西洋とてもパスカル等の偉人がこのことを非難せるものあり。予が在米中、キッスより種々の悪病を伝染すれば、ぜひこれを禁制すべしとて結社せる連中もあるように聞いた。伍子胥《ごししよ》のいわゆる、利を収むるは全うするに如《し》かず、害を除くは尽すに如かずで、悪いことは西洋に盛んなればとて真似るに及ばず、東洋にもキッスは行なわれたが、あまりよろしからぬこととして、おいおい廃止となったという履歴を知りおくも必要のことと思わる。件《くだん》の拙文中この雑誌に関係乏しき処を略して写し出すこと(508)左のごとし。
世間に舌を出すを、猥褻《わいせつ》の意に取る人多きも、チベット人などは然らず、舌を出すを敬礼の作法とす(スヴエソ・ヘジン『トランス・ヒマラヤ』巻一第一九版図)。これもと親愛を表するに起こり、親愛の極は男女歓会の際に存するは言うを俟《ま》たず。中略、蛇を婬事の標識とする理由は多々あるべきも、その舌を出してしきりに歓を求むるの状あるも、またその一大理由なるべし。知れきったことのようながら、東西の学者この説を出だせるあるを聞かず。よってここに記して、その参考に供す。
またちなみに言う。交会のさい口を接する動物は、蛇に限らず。『類函』四二三に、「俗に言う、鴛《おしどり》は頸を交えて感じ、烏は誕《よだれ》を伝えて孕む、と」。プリニウスの『博物志』にも、世に鴉は嘴をもって交わるゆえに、その卵を食う婦人は口より産す、と伝う。アリストテレスこれを駁して、鴉も鳩も同様雌雄好愛して口を接するを誤認せるなりと言えり、と載す。(紀州東牟婁郡|請川《うけがわ》村辺で、孕婦、鳩の巣を見れば難産す。鳩は口より子を産むゆえというも、雌雄の鳩しばしば接口するより謬り来たれるなり。)烏が相愛して口を接するは、予も見たり。また予の宅に今(大正九年秋)も四十疋ばかり亀を飼えるが、情慾発する時、雌雄見て啄き合う。その交会は泥水中でするらしく、ただ一度陸上で会うを見しことあるのみ。上に引ける『化書』に「牝牡の道、亀と亀の相顧みるは神交するなり」とあるも、もっともなるところあり。古え支那人、烏が口を接するを見るの多きより、鳴の字をもってキッスを表わす。『康煕字典』、鳴の字にこの義あるを言わず。思うに、仏経にこのこと多きより訳経者が用い始めたるものか。例せば、『根本説一切有部毘奈耶』に「?陀夷《うだい》、かの童女の顔容姿媚《かんばせあでやか》なるを覩《み》て、ついに染心《ぜんしん》を起こし、すなわちかの身《からだ》を摩触《なでさわ》り、その口を嗚?《おしょう》す」、『四分律蔵』に「時に比丘尼あり、白衣《びやくえ》の家内にあって住み、かの夫主《あるじ》が婦と共に口を嗚《お》し、身体を椚摸《なてさわ》り、乳を捉《つか》み捺《お》すを見る」、『仏説目連問戒律中五百軽重事経』下に「聚落中にて、三歳の小児を抱いて口を嗚(509)す。何ごとを犯せるか。答え、堕を犯せり」、外典にも「賈充の妻郭氏はなはだ?《ねた》む。男児あって黎民と名づく。生まれて載《とし》周《めぐ》る。充、外より還るに、乳母の児を抱いて中庭にあり。児、充を見て喜び踊る。充、乳母の手中に就《つ》いてこれに嗚す。郭はるかに望み見て、充は乳母を愛すと謂《おも》い、すなわちこれを殺す。児は悲思渧泣し、ほかの乳を飲まずして、ついに死す。郭のちついに子なし」(『世説』惑溺篇)。これ晋朝すでに小児や婦女を愛して、これに接口する風ありしなり。四十年ばかり前、和歌山中学校教師小賀直吉先生、『綱鑑易知録』を講ずる時、漢の忠臣|金日?《きんじつてい》が、その子が宮殿の下より殿上の宮女と戯るるを見て無礼とし、これを殺したとあるは、接口したるならん、と言われし。また『説郛』三一所収『玄池説林』にいわく、「狐の相媚ぶるや、必ず※[口/口]を先にす。注に、口をもって相接するなり」。これはわが邦の笑本に「跡は無言で口と口」などとある、口と口を合わせ作れるもの、『康煕字典』に見えねど、その音クと記臆す。かかる簡単なる字あるに気づかず、接吻などむつかしく訳せしは遺憾なり。
明治十九年、赤峰瀬一郎氏がサンフランシスコの景物を誇張して吹聴せし『世界之大不思議』とか言える書に、欧米人のキッスは唇をもっぱらとし、日本人のは舌を主とすとありしよう覚ゆるが、ルキアノスの『妓女対話』に、妓女レエナ、富家の婦人メギラと対食の次第を述ぶるうち、ギリシアには男女|親?《しんじつ》の際に限り、日本流に嗚口せしを徴すべき句あり。調査せば、なお多々例あるべし。アプレイウスの『金驢篇』巻六に、ヴェヌスその愛女の失踪を悲しみ、メルクリウスなして諸方に広告せしめていわく、失踪した女を発見せる者には、ヴェヌス自身の甘きキッス七回と、その艶舌もてきわめて微妙に触るること一回を聴《ゆる》さん、と。アラビア人、ペルシア人等また然りしは『千一夜譚』の処々に散見す。インドには『カマ経《ストラ》』に嗚すべき箇所八を挙ぐ。その第七はその唇、第八は口内とあれば、いわゆる欧米、日本の両流を兼ね行なうなり。『カマ経』また愛を示すに咬みつく作法と箇所を縷述せり。もしかかることの有無をもって民族の高下を言わば、欧米人は、キッスを知らずとて日本人を笑うと同時に、インド人のごとく咬む法を知らぬゆえ、インド人に頭を下げざるべからず。これキリスト徒が回々教を耶蘇《やそ》より六百余年|後《おく》れて出たと(510)て愍笑《びんしよう》すると同時に、キリスト教が仏教・儒教より後れおるを忘れたるごとく、支那人のいわゆる、青梅を喫せんと欲して歯の酸きを怕れ、喫せざらんと欲してさらに喉の乾くを惰る、というやつなり。
最後に述ぶ。欧米人の書に、日本人本来キッスを知らずということしばしば見るが、これほど大きな間違いはあるまじ。その古く文章に見える一、二を挙げんに、徳川幕府の初世に成る『醒睡笑』に、「児《ちご》と寝《いね》たるに、法師口を吸うとていかがありけん、歯を一つ吸い抜きたり」。足利氏の時編まれたる『犬筑波集』恋部に、「首をのべたる曙の空」、「きぬぎぬに大若衆と口吸ひて」。御伽草子は、当時児女のあまねく玩読せし無邪気の物なるに、その中の物草太郎、妻となすべき女を辻取りせんと清水の大門に立つに、十七、八歳の美女来たる。太郎見て、ここにこそわが北の方は出で来ぬれ、天晴《あつぱれ》疾く近づけかし、抱きつかん、口をも吸わばやと思いて待ちいたり。女、太郎に捉えられて、「離せかし網の糸目のしげければ、この手を離れ物語せん」。太郎、返歌に、「何かこの、あみの糸目はしげくとも、口を吸はせよ、手をばゆるさん」とあり。もって当時、情人と別るるに嗚し、戯れに強いて嗚するの風、今日の欧米同然本邦にも行なわれしを知るべし。鎌倉覇府の代に成りし『東北院職人歌合』に、巫女、「君と我、口を寄せてぞねまほしき、鼓も腹も打ち敲きつつ」。それより前、平安朝の書『今昔物語』一九に、大江定基、愛するところの美婦死せるその屍を葬らず、抱き臥して日を経るうち口を吸いけるに、女の口より悪臭出でしに発起してついに出家せり、とあり。
また以上は主として愛の表徴としてのキッスが本邦に古くあった証拠で、礼儀として恭敬を表するキッスは一向なかったようなれど、天主教盛んに行なわれた時、わが邦の信徒がローマ法皇に上《たてまつ》った書翰に、天地の間を主宰するパッパ(法皇)様の足を慎んで吸い進《まい》らせるという文句ある写しを、確かに見たことがある。いずれにしても、日本人はキッスを知らなんだでなく、知るに足らぬこととして知らずに済ますようになったのだ。(十二月九日夜) (大正十年二月『性之研究』二卷五・六合併号)
(511) 鮮人の男色
本誌五月号三四頁に鮮人男色の記事あり。大抵諸国男色の叙述は宗教に関するものなるに、彼方のみはそのことないらしく、予の寡聞をもってすれば、『古今図書集成』の辺裔典二八巻一三葉表に、梁の大同六年、新羅王直興立ち、「童男の容儀端正なる者を選んで、風月主と号《なづ》く。善士を求めて徒《ともがら》となし、もって孝悌忠信に励ましむ」、また梁の承聖三年、「伊?異斯夫に命じ、大伽?(すなわち今の高霊県)を討って、これを滅ぼさしむ。軍副の斯多舎、年十六なり、まず栴檀《せんだん》門より入って白旗を立つ。異斯夫、兵を引いてこれに臨み、ついにその国を滅ぼす。王、賞するに良田および虜《いけど》るところの三百口をもってす。斯多舎、その田をもって分かちて戦士に与え、生口《とりこ》は放って良人となす。始め武官郎と約して死友となす。武官の死するに及び、これを哭して慟すること七日にして、また卒す、云々」。これは『日本紀』九に出た、小竹《しぬ》・天野両|祝《はふり》の死なば共にと契約のことに同じ。ギリシアや日本の戦国時代通り武道を励ますために若契を奨《はげ》ましたと見ゆ。この王また、「源花を廃して花郎を置く。初め美女二人を簡《えら》び、奉じて源花となす。一は南毛といい、二は俊貞といい、徒《しもべ》三百余人を聚《あつ》む。俊貞、酒を置いて南毛に勧め、これを酔殺す。その徒もつて告げ、俊貞、誅《ちゆう》に伏す。ついに源花を廃し、更《あらた》めて美男子を取り、これを妝粧《かざ》つて花郎と名づく。あるいは道義を相|磨《ま》し、あるいは歌舞して相悦ぶ。邪正おのずから見《あら》われ、懌《えら》んでこれを用う」。最初武士道奨激のために外色を重んじたが、のちに女の嫉妬はなはだしきに懲りて、官妓の代りに?童を用いたと知らる。この王末年に剃髪して僧衣を披《き》、妃もまた尼となった由、『朝鮮史略』から引きおるところを見ると、この王は仏法篤信の人らしいが、(512)右の文に現われただけでは、男色奨励は武道が主で、宗教上の関係はなかったらしい。
ついでに申す、同誌三五頁に光成君は「日本にも徳川時代には陰間なる者が存するは存していた、云々。第一義的にもかつ伝統的にも武人階級の者であった」と言われたが、平安朝に成った『今昔物語』二六巻五語に、「児様(童姿)のうつくしかりつれば、京に上る人などの法師に取らせんなど思いて取りて逃げにけるにや」。鎌倉時代にできた、女入らずの、出家と児ばかりの歌集なる『続門葉和歌集』の序に、「何ぞ況《いわ》んや、木幡《こわた》里の駅馬を辞し、迷いて童郎の懇志を尋ね、栗陬野《くるすの》の児店を過《よぎ》り、咽びて行旅の別恨に向かうをや」とあれば、僧の愛のために美童を誘拐し、児店すなわち野郎店を設くること、江戸幕府よりずっと古くからあったと見える。(大正十年六月『性之研究』三巻二号)
(513) 若衆の名義起因――憎同士の非道行犯
従前僧徒の同性愛と言えば、われも人ももっぱら児小姓《ちごこしよう》を愛し野郎蔭間《やろうかげま》を翫ぶことのみのよう思うが常だったが、本誌三巻六号に出た鳶魚先生の「同性愛の異性化」(一)を読んで、右等の外に僧が僧を愛したことも少なくなかったと気がついたは、われも人も厚く先生に感謝するところである。したがって、その事例を挙ぐるもますます先生の立論を確かむることで、けだし無益でなかろうと存ずる。その事例を列ぬる前に、ちょっと若衆という語の起因について論じよう。
鳶魚先生は高野斑山氏の説に基づき、若衆なる語はもと遊僧すなわち風流閑雅な僧が延年の舞を演じたので、若延年衆という義から約出された、と説かれた。『東鑑』に、建暦二年十一月十四日、去る八日の絵合せのこと、云々、また遊女らを召し進《まい》らす、これらみな児子の形を写し、豹文の水干に紅葉、菊花などを付けてこれを著《き》る、おのおの、さまざまの歌曲を尽す、この上、上手の芸者、年若き属は延年に及ぶとなり。女が男装して擬するにすら年若き輩が勤めたくらいだから、延年の舞はもっとも児童に適した役と見える。柴屋宗長の『東路の津登《つと》』に、永正六年十月総州小弓に遊んだところに、「夜に入りて延年の若き衆声清きが、二十余人吹き囃し調べ舞い唄い、優に面白く盃の数そい、百たび心地狂するばかりにて、暁近くなりぬ」とあれば、当時は若延年衆と言わず、延年の若き衆と呼んだのだ。『法隆寺別当次第』、「実聡法印、延慶元年八月二十二日、参賀の次《おり》、聖霊院の前において、延年これあり、若音〔二字傍点〕二人、猿楽衆五人」。この若音〔二字傍点〕も延年の若き衆と同一と見える。(514)『真本細々要記』に、「文和三年二月二十七日、夜、井水のことにより、若衆逐電しおわんぬ。閉門にはあらず。堂内の仏具等を取りて、机以下をなげさがして(熊楠申す。和歌山辺の人は今も抛げ散らすをナゲサガス、垂レチラス、シチラスをタレサガス、シサガスと言う。本文を見て南北朝の時すでに南都でこの助辞を使うたと知る)、うせさまに老僧も逐電せずば恨むべき由触れ申したり。これによりて老若みな逐電の儀にて、下略」とある。十分判らぬが、井水の論から若い僧衆が逐電し、ついでに仏具等を狼籍《ろうぜき》して、老いたる僧衆の勤めもならぬようにし、老僧も若僧輩と共に逐電せずば意恨を懐くと脅《おど》したので、老僧も逐電ししまうたというので、今時中学校の初年生が脱走しさまに二年生のランプや書籍を破棄し、逼《せま》って加盟脱走せしむるようなやり方と察する。
この『異本細々要記』の文に、老僧に対して若衆の字を用い、これによりて老若みな逐電とあるを見ると、南北朝の時、若衆とは若い僧衆という義で?童を指したでない。『室町家御内書案』下に、永享二年富樫介への下文「白山の若衆徒〔三字傍点〕ら、南禅寺領に乱入し、云々」、その他若衆徒の字しばしば見え、『源平盛衰記』四、山門御輿振のことの条には、頼政、渡部唱をして山徒に説かしむるに、「大衆これを聞き、若き衆徒〔三字傍点〕は、何条《なんじよう》是非にや及ぶべき、ただ押し破って陣頭へ入れ奉れと言いけるを、物に心得たる大衆老僧は、さればこそ仔細あらんと思いつるにとて、神輿を抑え奉り、しばらく僉議《せんぎ》しけり」。ここにも老僧と若き衆徒を対えおる。また南北朝前の書に、若大衆という語もて若い僧衆を指した例があったと記憶すれど、只今見当たらず。
とにかく『異本細々要記』等から推すと、若き衆徒、若衆徒、それから若衆と約出されたので、延年の若衆は、若衆徒中の遊僧で延年の舞に長じた者を呼んだ名と説くべく、若衆なる名が延年の若衆から約出されたでなかろうと惟《おも》う。『東路の津登』に延年の若き衆とあるは遊僧でなく、歌舞の俗青年だったが、後世僧ならぬ祭文語りや説経師あったごとく、延年の歌舞を善《よ》くする俗青年を、依然旧によって延年の若き衆と言ったは言を俟たず。
『一話一言』一に、『ふくろの記』抄、「むかし一休、禿《かぶろ》、喝食《かつしき》などを若俗《わかぞく》と呼びたまえるも無骨にて法師らししと言(515)い伝え侍る」。禿《かぶろ》は七、八歳の小児が髪を延ばして頭に及んだをいい、髪を被《かぶ》るの義らしい。清盛、探偵のために十四、五もしくは十六、七の童部《わらんべ》の髪を頸の廻りに切って洛中を遊行せしめしを、この禿の体《てい》こそ心得ね、と私語した由(『源平盛衰記』一)。喝食は、『雍州府志』に「およそ喝食《かつしき》の体におけるや、もとは今画くところの寒山、拾得《じつとく》の貌《かたち》のごとし。しかるに、室町家ははなはだ禅宗の旨に帰依し、時々五山の寺院に来臨す。時に、僧徒喝食の中よりその容貌の美なる者を択び、白粉を傅《は》き臙脂を粧《よそお》い、斑紋の衣服を著け、黒衣の内に紅色の絹を縁《ふち》どり、膳を供し茶を献ぜしむ。これより流風となり、ほぼ婦人の粧のごとし。公方《くぼう》家もまた間《ま》まこれを寵す。僧徒これがために執著し、はなはだ戒法に違《たが》う。まことに歎息するに堪《た》う」。『一話一言』八に、『かた言』と題した慶安三年の刊本から、「聖道にては児《ちご》といい、禅律の両宗にては喝食《かつしき》と言うべしとなり。むかし僧にもあらず俗にもあらぬ人が寺院へ立ち入りて仏道を修行し侍るが、斎《とき》非時《ひじ》などのおりふし食物を呼びつぎ侍るより事起これり、と言えり。喝食の二字は食を呼ばわる心なりとかや。しかるを、いつのほどにや僧の慰みものになり侍りしと、ある禅僧の語られしまま、知らぬことながら書きつく」と引いた通り、禅宗が渡らぬ前に喝食の名は見えぬ。稚児と喝食は主に髪の風で別ったらしく、稚児は髪を長く肩に垂れ、喝食は肩辺で切ったと『守貞漫稿』八に出ず。同書にガッソウ、むかしの喝食を喝僧と言うなるべし、初芥子《はつげし》を置かざる小児、七、八歳に至り髪を長《のば》す風なり、とて出した図を見るに、喝食風でなくて上に言った禿風なり。祐信の『百人女郎品定』下に、カブロとて遊女太夫に随侍する童妓の像を出せるを見るに、みな髪を男髷に結《ゆ》いおるから、年歯も髪容も男の児小姓、喝食に当たるが禿に当たらず。カブロダネと題して女児の髪を延ばし初めた者を図しおるのが男児の禿に当たる。これに准じて男児の禿は稚児小姓《ちごこしよう》種また喝食種と呼ぶべきものだ。
小姓という語はいつ始まつたか知らぬが、南北朝の代に玄恵が作った『遊学往来』上に、まず打毬、鬮的《くじまと》、詩歌、作文、管絃等、大人の遊び、次に相撲、流鏑馬《やぶさめ》、犬笠懸、水練、早走等、若衆の遊びを叙べた次に、少性の遊びは、(516)ふり鼓、編木摺《びんざさら》、礫石《ずんばい》、独楽廻し、竹馬、小車等遊戯を本《もと》となす、諸学これより怠り終《つい》に無能者となる、と筆したから見ると、そのころ少性とは就学年齢ころ、すなわち七、八以上成年未満の者を指し、それより上を若衆と言ったらしい。男色の本家本元、古ギリシアで児童と青年を別ったに近く、文明十四年作、『若気《にやけ》勧進帳』にも、平朝臣井尻又九郎忠鋤、謹んで小僧、喝食、若衆に白《もう》す、と喝食(すなわち禅寺の稚児小姓)と若衆を別ちおる。玄恵よりややのち応永元年十二月二十七日大寒、御小姓、衆女、小姓、云々、と『鈴鹿家記』にあれば、少性すなわち小児という語から侍童を小姓ということになり、加之《そのうえ》女小姓までも義満将軍の時にできたので、すでに『雍州府志』から引いたごとく、禅家の喝食に倣うて幕府に男寵の小姓衆ができたらしい。『和漢三才図会』に、扈従の字を宛てたは牽強だ。
前に引いた『ふくろの記』抄を、太田南畝注していわく、『宗長手記』に俳諧の句あり。「尻抜かしたりスバリ若俗」(スパリの解は『嬉遊笑覧』九に出ず)、また「頼む若俗あまりつれなや」と。宗長この句あるは、一休二十九の時永享二年に、誰かが書いた『出法師落書』に、また十七、八ばかりなる射手は志賀五郎という若俗なりとあると共に、若俗とは一休以前からの通語で、『真本細々要記』に見るごとく、老僧に対して若僧衆、それを略して若衆と呼んだのを、おいおい僧でない青年の寺に蓄《か》わるる者をもこの名で濫称することとなったを疲《う》んで、一休が古風を守り、かかる青年を若僧に別ちて若俗と呼び通したのだ。『宗長手記』は大永年間の筆で、かの俳諧の句は大永三年の作で、「尻抜かしたりスバリ若俗」「もてなしの腹の音こそ聞こえけれ」、また「頼む若俗あまりつれなや」「引組《ひつく》んでさしも入ればやちがへばや」と本書に出ず。
いつ書いた物か知らぬが、どうも一休以前の物らしい『厳神鈔』にも、若俗の字が出る。僧同士の非道愛に大関係あればここに引かんに、いわく、「ここに智証大師の門人、別して顕密共に智証の御法流立てんとせるより、両大師の門人相分かれて、大いなる諍いになりにけり。すべて覚大師の門徒は三塔に充満《みちみ》ちて、多くの智証門徒は当谷千手院を本《もと》として、谷々に少々こそ交りたれ、人数雲泥少なきゆえに、覚大師の門徒の擬するようは、まず三塔会合して(517)智証門徒をことごとくその夜中に打ち殺すべしと議定し畢《おわ》んぬ。その時までは山徒の数珠をば弟子の末の余り糸を結び合わせてけり。覚大師門人、そのしるし替えんとて、ことごとく弟子の緒結び合わせたる所をとじ畢りぬ。智証門徒はこのことを知るべからず。故に、三塔会合の所にて数珠の緒を探りて智証の門徒をば闇討ちすべきの定め畢んぬ。なかんずく西谷座主良真は、天下第一の美僧〔二字傍点〕にて御《おわ》しけるを、三井の慶祚阿闍梨は、南谷蓮台房の坊主なりけるが、良真座主の若俗〔二字傍点〕に御すを、慶祚は全者〔二字傍点〕にて常に円融坊へ通いたまいけり。さるあいだ良真座主|如何《いかが》してか慶祚ばかりにこのことを告げ知らさんと思食《おぼしめ》しけれども、その隙《ひま》なかりけるを、いささか隙の御しける時、蓮台坊へ密《ひそ》かに御入りありてこの由を告げ給う、云々。大阿闇梨落ちさせ、誘次の便りある一の両人にこのことを告げて通りたまいぬ。聞き伝えて智証の門人ことごとくその夜の内に没落し畢んぬ」と。それより智証の徒三井寺に住んだ由を述べおる。慶祚は全者にての全者は、念者〔二字傍点〕の誤写であろう。全者ではさっぱり分からぬ。かつて大正九年四月一日の『日本及日本人』八〇頁へ出しおいた通り、『摩訶僧祇律』七に、「もし男子に衆多《あまた》の婦《つま》あれば、念者、不念者あり」、夫の気に入ったのと入らぬ妻があるというので、同性愛の兄分を念者というは、もと仏経の語であろう。
『厳神鈔』に、慶祚は恵心旦那等同時の人、とあり。西谷座主良真は、『明匠略伝』に西京座主に作り、永長元年七十五歳で遷化す。三井大阿闇梨慶祚は、同書に寛仁三年化すとあれば、慶神化後三年に良真が生まれたので、何ぼ慶祚が若契好きでも未生のお釜を握る訳にいかぬは必定だから、良真が慶祚を念者として、その難を救うた話は後年の付会と判り、この二僧の生存した時すでに念者と若俗なる二語があった証左にはならぬ。しかし念者という語が徳川時代以前より行なわれ、若俗という語は一休ばかり用いたでないことを示す。
『嬉遊笑覧』九にいわく、『古事談』に、長季は宇治殿(頼通公)若気なり。すなわち大童にて首服を加えず、云々。久しく不参の時はいみじく怨ぜさせ給いけり。大飲のあいだ酒事によって御覚えは下がりにけり。今按ずるに、男のなまめける者をニヤケたりというは、すなわちこの若気なり、とある。若気《にやけ》は若《にやく》げなるの意で、上に引いた『若気勧進(518)帳』や『本朝若風俗』(西鶴の『男色大鑑』の一名)いずれもニャケと訓むべし。後には肛門をオニャケと称え、「名の移りたるいとおかし」と『笑覧』に見ゆ。鎌倉時代に成った『古事談』すでに若気の語で男色の被愛者を意味しおれば、若俗という名も平安朝か鎌倉時代すでに行なわれおったかと惟わる。
男色の被愛着を若衆《わかしゆ》と呼ぶは、もっぱら江戸幕府時代のことと思う人多いようだが、室町時代からあったのが事実で、鳶魚先生は、ただ信長が常に唄うたという小唄のみを挙げられたから、信長以前の数例を列ねると、上に引いた『宗長手記』に阿濃津辺の海辺で、「休らうほどに、ここかしこより若衆誘引、所につけたる酒肴笛鼓などもて来たりて、興に入りしかば、云々、夜に入りて帰る。まことに浪を枕の心地せしに、きょうの若衆いずれありけん、旅寝をとぷらい、やがて帰りしあした、言い遣わしつ、思はずも葦のかりねのせぜの浪しき捨てられし名残なしやは」。アルキビアデスがソクラテスに打ち込んだごとく、宗長の高名を慕うあまり、その頽齢を厭わず据膳を振舞いにきた若衆があったのだ。それから、「不動も恋にこがらかす身か」「われよりもせいたか若衆待ちわびて」。また「下野の国那須助太郎とて、出家して、草庵の庭を一見とて立ち寄り、高野参詣など語りて瓦礫一首懇望、そのゆえは愛著せし若き者〔三字傍点〕を討死させて、愁傷に堪えずして、跡をだに弔わんとてなど、同行の僧語りし、哀れに覚えて」と書いて歌一首を載す。前出永享二年のころ、若衆徒と言うたのを古く『源平盛衰記』に若き衆徒と呼んだごとく、若衆を若き者とも称えたのだ。この手記の成った大永の直前の年号、永正十四年作、『閑吟集』、「新茶の若たち〔三字傍点〕、摘みつ摘まれつ、引きつ振られつ、それこそ若い時の花かよなう」。若たちは若衆に通ず。また、「われは讃岐のつるわの物、あわの若衆に膚触れて、あしよや腹よや、つるわのことも思わぬ」。
永正元年九月、薬師寺与一、切腹辞世に、「冥途にはよき若衆のありければ思ひ立たせる旅衣かな」(『細川両家記』)。その二年前八十二年で歿した宗祇の作という『児教訓』は、つらつら惟んみるに、世の中の、悪き若衆の振舞いを、きょうの雨中の徒然さに、大方ここに書きつくる、との発端で、若衆という語をしばしば出しおる。また信長の誕生(519)より三年前、享禄四年江州より甲斐へ猿楽下り、ナカサワにて能を致し候、猿楽と申し若衆と申し言語同断、見物このことに候、と『妙法寺記』に出ず。これは猿楽の芸といい、その役者の標緻《きりよう》といい、申し分なしとの意で、のちに土佐|少掾《しうじよう》正本『定家』に、「かいやりなげの花小袖、ふり長々と細作り、男色見せて 掴みさし」、同三世『二河白道』に、「また姫君も男色の、かかるほのかに見ればなかなかに、物の数かはこれこそは、年月願う色姿」と、美少年の標緻を男色と呼んだと一般、役者男の美貌を若衆と呼んだらしい。
かかる名称の変革推移は、法令をもって今年何月より若俗を廃して若衆と称すべしなど厳制しうるものでも、したものでもないから、若俗と若衆の名がふたつながら『宗長手記』等にあるも怪しむに足らず。ただし前者よりも後者の名が多く出でおるので、大永ごろには若俗という語が若衆という名に取って代わられる最中であったと知る。
それから徳川氏の世に女郎屋の若い衆、米屋の若い衆などいうごとく、血気盛んな若者という意で、男色に関係なき若衆という語も、室町時代にあった。寛正七年『飯尾宅御成記』に、「内衆若衆御太刀進上注文案」あり。その若衆は、布施新左衛門尉、矢野六郎左衛門尉、飯尾隼人佑等十三人、いずれも大人の名なれば、この若衆は壮夫輩というほどの意味じゃ。
義満将軍の時、九州探題だった今川貞世の作『今川大双紙』に、「人前にて香を焼《た》き、香炉を廻すこと、云々、ことに懐へ入れ留むること、努々《ゆめゆめ》あるべからず。若少人などには人執って袖へ入るることあり、それをも斟酌すべし」。大永八年筆『宗五大双紙』に、「故実と申すは、若人など前皿の山椒を食い、また焼物などのむしりにくきをむしりかね、手遠なる汁菜を取り候とて物をこぼしなど候こと、見にくく候」、「饅頭は飯椀に入れて汁椀を蓋にし候。蓋の汁椀にて汁を請うべし、さて、こを入るべし。若人などは汁を吸わぬもよく候」。若少人は、若人すなわち青年と少人すなわち少年を合わせ称えたので、若人を単に若《にやく》と呼んだ例もあったと記憶するが、今見当たらぬ。美童を少人と呼ぶことは徳川氏の世には多くあった。(例せば、西鶴の『武家義理物語』三、「かの少人に小謡《こうたい》、出家も座興に流行節《はやりぷし》(520)の小唄、云々」。)『宗五大双紙』に、「公方様にて猿楽の時、舞台に点《とぼ》され候有明の先をば、御供衆の内に若衆、御取り候」。これは前述壮夫輩という意味のもので?童ではない。(未完) (大正十年十一月『性之研究』三巻七号)
(521) 桑名徳蔵と橋杭岩の話
一 桑名徳蔵の話
『現代』の新年号へ酉歳の鶏に関する伝説を何か書いて出せと細谷君より頼まれた。『太陽』の新年号へ「鶏の民俗と伝説」を出すが、それと別にここに出す話は『太陽』へ出さぬとして、鶏に多少関連した話を書こう。
誰も知る通り、天照大神、天の石屋戸《いわやと》に閉《さ》し籠りたまいし時、八百万《やおよろす》の神、天の安の河原に集まり、思金《おもいかね》の神に思わせ、その謀で常世《とこよ》の長鳴鳥を鳴かせた(『古事記』。「神代巻」)。これは鶏鳴けば日出ずるゆえ、それを鳴かせて大神が再び現わるるよう催促させたので、『太平記』俊基朝臣東下りの文にも、旅館の燈|幽《かす》かにして鶏鳴暁を催せば、とある。されば『八犬伝』荒芽山の条に見えた通り、鶏が鳴くを限りに幽霊や化物は消え失せるとしたので、ペルシアの教典『アヴェスタ』にも、鶏鳴は悪鬼を退散せしめ、曙光を寤《さ》まし、人間を起こす、と出ず。グベルナチス伯いわく、「雄鶏は日を表わし、牝鶏は卵多く産んで豊富を表わすから、インドとペルシアで神視され、これを殺すを犯神罪とす」と。シセロいわく、「古人は故意に鶏を殺すを、父の息を止むるよりも軽い罪とせなんだ」と。ブリタニヤ公ジォフレイ一世は、英皇ヘンリー二世の第四子で、しばしば父や兄弟と戦うた怪しからぬ人物で、一一八六年二十八歳で死(522)んだ。この公ローマへ往く途上、その鷹が牝鶏一羽殺したところ、その持主たる女烈しく怒り、石を投げて公を殺したとか。今もイタリアにその通り牝鶏を尊ぶ主婦多く、東洋でも主婦の跋扈《ばつこ》を牝鶏の晨を告げるに比べる。
四世紀にキリスト教徒の詩人とて高名だったプルデンチウスは、キリストと鶏冠《とさか》(ラテン名クリスタ)の音相近きを利用し、「睡魔を逐い却《しりぞ》け、闇夜の械鎖を被り、旧き罪業を解き去り、新しい曙光をもち来たさんことを、鶏に比べてキリストに祈願」した、と。ハズリットの『諸信および俚俗』巻一にいわく、「古ギリシア・ローマ人は、鶏が日出の近づくを知らすをもって、これを太陽の神アポロの鳥とした。また、鶏鳴いて人をさまし仕事に就かしむるゆえ、これを営業の神マーキュリーの使い物とした。アキレスの幽霊は鶏鳴と同時に消えたという。幽霊果たして夜分出歩き、鶏鳴くと退散すべきや、とボーンは長たらしく論究したが、どの時代にも幽霊は夜に限るとされた。ユダヤ人は悪意ある幽公は必ず夜現わるとしたので、古キリスト教徒も同説を持し、一夜を昏《くれ》、夜半、鶏鳴、晨《あした》と四分した。四世紀の初めプルデンチウスが作った詩に、鶏鳴晨を迎えて夜半に横行した幽霊を追い払うを、死人再び起ちて上帝に会うに比べある」と。(されば、今座右に有り合わせた、故エーベリ卿の蔵書だったジョーンスとクロップの『マギャール民譚』を取っても、たちまち鶏鳴いて悪鬼消え失せた話が二条(三七および二八二頁)を見る。)支那でも、漢の焦延寿の『易林』に、巽《そん》を鶏となす、鶏鳴いて時を節すれば家楽しんで憂いなし、とあり。これは定時に鶏が鳴いて悪鬼を掃い、人を朝起きせしむればその家は無事だと言ったもので、心好むところを得、口常に嗤《わら》わんと欲す、公孫蛾眉鶏鳴夜を楽しむ、ともある。
かく太陽と鶏と関係が厚いところから、『淵鑑類函』四二五に、鶏は積陽南方の象たり、火は陽精物にして炎上す、故に月出でて鶏鳴くは類をもって感ずるなり、とある。同様の考えで、インド人も鶏の赤色を烈しい日熱に比べた。『仏本行集経』にいわく、むかし波羅奈《はらな》城に二人あって、親友たり。いずれも貧乏で世に知れず、緑豆一斗をもって畑仕事するところへ一人の辟支仏《びやくしぷつ》が来たので、一斗の豆をみな奉った。辟支仏は衆生を化するに説法も何もせず、た(523)だ神通を現ずるのみだ。この辟支仏も、二人の施しを受けて何も一言せず、直ちに神通を現じ、空に騰《のぽ》り去った。二人、さてはわれらの所願を叶え下さるるに相違ないと喜び、おのおの心願を念じた。その思いが届いて、一人は死後波羅奈城の梵徳王に生まれ替わり、今一人は婆羅門の家に生まれて優波伽摩那婆《うばかまなば》と名づけ摩那毘迦《まなびか》という無類飛切りの美女を娶ってすこぶる愛敬し、暫時も妻を見ずんば心すなわち悦ばず、まさにこれ「新しい内女房は沖の石」。しかるに、その後少しのことに腹立って妻が少しも夫に物いわず。これがため夫日夜心配して、インドの暦法で言うて夏四ヵ月も過ぎて秋が近づいた。その時、妻たちまち天に向かい、秋の節句に衆人みな逸楽する、われまた身を飾って楽しみたい、汝よろしく市へ往って塗香、抹香、諸花等を買い来たるべし、と言った。さては久しぶりで御機嫌が直ったと、歓喜踊躍して買物に出かけた。元来この男金銭一文を持って他村人に預けおいたから、ちょうど午時《ひるどき》で日が大地を炙《あぶ》り、陽炎|暉赫《きかく》、その諸地の色赤鶏のごとしとあって、地から立ち上る水蒸気に日光がうつりかがやき、地面が鶏の毛のように赤く見える最中に、家を出てかの村へ金銭を取りに往った。途上で妻の艶顔が眼前にちらつき、慾心纏い逼《せま》って口に淫歌を唱えたとあれば、『今昔物語』の瓜を切って妻に代用した旅人ほど御無沙汰しておったらしい。
その時王宮相去ること遠からず、梵徳王楼閣にあって涼みがてら昼寝してさめると、たちまちかの男の淫歌を聞いて心浮き立ち、面白く思うてその人を見たくなり、一臣を呼んで捉え来たらしめた。王かれを見て愛心を生じ、偈《げ》をもって問うたは、日中暉赫まさに炎熱、大地紅色赤鶏のごとし、汝今淫欲に耽著して歌う、云何《いかん》ぞここにおいて悩を生ぜざる、日光あまねく照らしまさに炎熾、地上|沙《すな》を融かしいよいよまた熱す、汝今淫欲に耽著して歌う、云何《いかん》ぞここにおいて悩を生ぜざる、と。優波伽摩那婆も偈もて答えた、大王今は熱悩にあらず、上天みずから炙る何の及ぶところぞ、ただ利を求めまた利を失うあり、此是《これ》悩中最悩となす、日光また大いに炎熾すといえども、これを悩中極下の悩となす、種々の諸事業を経営する、かくのごときを名づけて最大悩となす、と。これは、大地赤鶏のごとく輝《て》り(524)熱きも苦とするに足らず、金儲けに骨折るが一番苦し、と言ったのだ。王仔細に聞いて感心し、まず留まれと言って金銭二枚を与うると、今一枚くれたら自分が村に預けた分と合わせて四枚になり、秋の節句に妻と五欲の楽を受け得、と言う。王、四枚は少ない、倍にして八枚やろうと言うと、歓喜として今一銭増して下され、村に預けた分と合して十銭となるからと申す。
ここに歓喜とあるは、英語でバクシシュ、もとペルシア語のバクシダンより出ず。まずはわが邦でいう御祝儀だけれど、彼方のはわが邦と異《かわ》り、冠婚、出産等の慶事に限らず、寝ても寤《さ》めても著《き》ても脱いでも事ごとに祝儀料を乞うので、今は南インドには稀《まれ》だが、シリアとエジプトでもっとも盛んな、まことにいやな悪風だ。かつてアラビア人が天主僧の説教を熱望したので、往き向かうて講演すると、多人が静まり返って聴聞した。澆季《ぎようき》の世にありがたいこととその僧大いに感じ、悦んで去らんとするをみて、一同その僧を取り巻き、説法を聴いたバクシシュを強請したので、馬をひき来たって乗せくれた者に小銭を投げ与え倉皇《あわて》乗り帰ると、一同、この坊主は説数を聴かせながら祝儀をくれずに逃げるとはひどい、と罵り噪《さわ》いだ。説教を聞いた礼どころか、聴き賃をゆするのだ。ピエロッチの『パレスチナ風俗口碑記』に、バクシシュの弊を痛論しあり。例せば、喧嘩で死にかかった奴を助け、大疵を手当して病院へつれ込みやり、また落し主を尋ねて遺留品を届けた時もバクシシュを乞わるるので、はなはだしきは人の子に物をやるとその親がバクシシュを望む、いわんや少し名の立つのも嬉し、若盛りの娘や口説きよいように取り廻す新未亡人によい善根を施しやった時においてをや。何とも合点の往かぬことのようだが、そこは盗人にも三分の道理あり。人に物を施せば、神より善根を受くるゆえ施した人の功徳になる。必竟施しを受けてやったればこそ、かく善根を積みうる。だから、施しを受け、世話に預かりやった報酬を出すが当然という言い分と、リチャード・バートンの説だったと記臆する。論法もこう旨くなると、金を借り倒さるると世間から気の毒がらるるから、同情をかちえた謝礼を借り倒した奴へ渡さにゃならぬ理屈となる。
(525) さて優波伽摩那婆が王に九銭下されと言うと、王、それも少ない、八銭を倍して十六銭やろう、また一銭増されよと乞うと三十二銭やろう、さらに一銭を乞うと六十四銭、また一銭を乞うと百銭を与えた。なお一銭を乞うと、さらに一村を与えて封禄となし、常にこれを寵愛した。この宿縁によって、梵徳王が悉陀《しつた》太子に生まれ替わり、成道して故郷妙徳城に父王を訪うた時、優婆伽摩那婆の転生たる優波離《うばり》童子が最先《まつさき》に出家したという。けだし上述かの男の偈にも言った通り、金儲けぐらいむつかしいことはないに、かく一銭ずつ増し乞うて、そのつど王をして賜下銭を倍せしめ、終《つい》に談笑のあいだに一村を貰い寵臣となったは、よほどの弁才と心労を用いたのだ。
『根本説一切有部毘奈耶破僧事』にも右の話を載するが、大分|差《ちが》う。婆羅?斯《ばらにし》城に賢寿という淫女あって、男子と一宿するごとに金銭五百を得。端正という名の年少婆羅門がこの女と一宿を望めど、貧しくて叶わず。思いのたけを運ばんと、しばしば種々の花果を採って贈る志の厚きに、女も自然憎からず思えど、引く手|数多《あまた》の全盛ゆえ、そのことなしに打ち過ぎた。時に城中一節日に至り、一切の婦人みな妙服と諸瓔珞をつけ、おのおのその夫と家中で歓楽を享けたに、どうしたものか、当日賢寿を訪う客なし。あに謂わずや、「いやなお客もふる雪の夜は炬燵《こたつ》代りにだいてねる」と。自分の不景気に沁々《しみじみ》と日ごろわれに心を砕く男が可愛くなり、今日端正が来たれかしと念ずるところへたちまち来たので、汝去って花を採り、明朝来たって共に歓楽をなせと言うと、端正大悦びで自宅へ帰り、翌日彼女と遊ぶ面白さを揣摩《しま》して眠られず。天明近くなってようやく昏睡し、翌朝晩く起きて花を探りに往ったが、衆人に採り尽されてわずかに残った夜合花という詰まらないものを持ち行くと、これではいけない、速やかに去って別の好花を求め来たれと言う。青山たばこでなけれども色で焼く端正は、遠く寂林に在って好花を採らんと労苦を辞せず、みずから悦び歌い行く。たまたま梵授王猟して還る。あまり暑さに林に入って息《いこ》う最中、いと面白い歌い声に不審を立て、頭上赫日|炙《あぶ》り足下熱沙蒸す、端正喜んで行き歌う、如何《いかん》ぞ熱を怖れざる、と声をかけると、端正すかさず、日のわれを炙るを怖れず、思欲よくわれを焼く、世欲熱苦あり、日人を炙るあたわず、と答えた。王この男はよく涼しい話を(526)説くゆえ熱日に花を採って平気なるべしと思い、馬より下りて、端正に涼しい話を説けと命ずるに、種々と涼しいことを話し、王大いに涼しく覚えたので諸臣に向かい、もし人あってよく王の命を救わば何を賞賜すべきかと問うと、半国を分かち与えたまえと答う。卿われと宮内に同宿すべし、明朝卿に半国を賜わんと伴れ還って王と同宿せしむ。その夜、端正謀反を起こし王を弑《しい》して全国を取らんと思うたが、意を翻して頌を説いていわく、いまだ財を得ざる時貪愛を起こし、求めて得ざる時苦悩を生ず、設《もし》財を得る時も貪|息《や》まず、故に知る、財利は無利を招く、と。それより悟って、翌朝、王を見て仔細を明かし、林中に修行して辟支仏となったそうだ。
大地が赤鶏のごとく輝《て》る熱さも、金儲けほど苦にならぬというに似た話は、元魏の朝に漢訳された『賢愚因縁経』に出ず。仏在世に、舎衛国の五百賈客が宝を探りに海に入るとて、五戒を保った一|優婆塞《うばそく》を導師として海中へ乗り出すと、海神一の夜叉と現じ、形醜く色青黒く、口に長牙を出し、頭大いに火燃ゆるが来たって賈客に問うたは、世にわれよりも怖ろしいものありや、と。導師答えていわく、さらに汝に倍して畏るべきものあり、と。海神そは何ぞと問うに答えて、世に愚人あって諸不善をなし、死して地獄に入り苦を受くる畏ろしさ、汝に勝ること甚《いと》多しと聞いて、海神形を隠して去る。次に筋骨相連なるほど瘠せ衰えたものに化け出で、これに勝るものありやと問うに、餓鬼はそれどころの瘠せ様でないと答う。また、妙色《みようしき》の美女、釈迦もこれを見て今さら成道を悔やむほどのやつになって問うと、天上に生まれた身の美しさ、なかなか汝の比にあらず、出直してこいと言ったので、海神閉口して導師に珍宝を贈ったという。
かようの仏説を伝えて、治承中平康頼が書いたという『宝物集』五に、「天竺に商人あり、もろもろの宝を求めんがために、五百人の友を具して大海に浮かぶ。万里の波の上を風に任せて行くほどに、いずくともなく、色青く髪は赤くして口より火?を出し眼より光を放つもの、商人が船の側《はた》を捉えていわく、汝らわれより怖ろしき物をみたりや、と言う。五百商人おのおの心を惑わし肝を失いて船の底に隠れ入りぬ。その中に五戒を持《たも》てる俗一人ありけるが、物(527)言わでもなかなか悪しかりぬべければ、汝より怖ろしきものこそあれ、われら衆生が身中にある悪業煩悩なり。かの鬼のいわく、いかなるものぞ聞かまほし、と言う時に、汝ら百千を合わせ集めたる阿修羅《あしゆら》羅刹《らせつ》の中へ具して行かんとする悪業煩悩は、はるかに汝よりは怖ろしきものにあらずやと言いければ、鬼言うことなくて浪の中へ入りにけり、と言えり」と書いた。
これより転出したらしい俗話が『雨窓閑話』に見える。誰の作か知らぬが、嘉永前の著たるだけは確かだ。その一四章にいわく、「ある者の物語に、桑名崖徳蔵という者、名ある船乗りの名人にて、所々難海どもを乗りしことあり。この徳蔵申しけるは、月の晦日《みそか》に出船すること必ず斟酌すべし、と言えり。ある時、徳蔵|何方《いずかた》にてかありけん、ただ一人海上を乗り行きしに、にわかに風変わり逆波立ちて、黒雲覆いかかり、船を中有《ちゆうう》に巻きあげるようにて、肝魂《きもたましい》も消え入るべきを、徳蔵もさすがしたたか者なれば、ちっとも動ぜずして蹲踞《うずくま》りける向うへ、背の高さ一丈ばかりの大入道、両眼は鏡へ朱を注《さ》したるがごとき妖物出て、徳蔵に向かいて、わが姿の怖ろしきやと言いければ、世を渡るの外に別けて怖ろしきことはなしと答えければ、かの大入道たちまちに消え失せ、波風も静まりければ、徳蔵は辛き命を助かりけるとぞ。徳蔵のちにこのことを人に噺《はなし》しければ、人みな奇異の思いをなせり。ある時、徳蔵北海乗りける時、風烈しく方角をも分かたず吹きつけしに、船中食物切れて飢渇に及べり。ようやく新米の藁四、五束ありしを、潮《うしお》に浸しかみしめて、口腹を潤し命をつなぐ。同船の者三、四人ありLが、いずれも声をあげて泣き叫び、徳蔵に言うは、かようなる大風にて船を覆し、あるいは破船などせんとする時は、髻《もとどり》を放ち帆柱をきることと申すなれば、いざやその通りにせんという。徳蔵いわく、われはそのこと嫌《いや》なり、船主と生まれし上は、ただその職分を大切にして、外の心の動くことさらになし、また帆柱は船中肝心の道具にして、武士の腰の物のごとし。およそ侍たる者命が惜しきとて腰の物を打ち捨てるということやある。命は天命なり、風は天変なり、人力に及びがたし。また髻を払い出家になりたりとも、などや仏神《ぶつじん》の悦びたまわん、命惜しみての仕方なし坊主と、決句《けつく》笑わせたまわんか。われは戦(528)場にて討死の覚悟なり。天の助けあらば助かるべし、さなくばここにて死するとも本望なりとて、あえてたじろぐ気色なし。そのうちに風静まり波治まりて難なかりしとぞ。某の人いわく、徳蔵賤しき下郎なりといえども、その志の逞しく丈夫なること、なかなか言わん方なし。妖怪《あやし》の物出現して詞《ことば》をかけし時、世渡りの外に怖ろしきことなしと言いしは、まことに名言と言うべし、云々」と。
西沢一鳳の『伝奇作書』残篇中巻に載せた安永ごろ(?)の大新板浪華歌舞伎当狂言外題見立角力番付、西の前頭に桑名屋徳蔵入船噺あり。付録外巻に、明和八年並木正三作とあって、たぶん化物と海上問答の件を作った物と察すれど、その道に疎き予は見たことなし。(明和三年成った上田秋成の『諸道聴耳世間猿』五の三にも、桑名屋徳蔵が大晦日の夜航海して化物と問答したことを出す。)(暁鐘成の『雲錦随筆』二に、「大坂より江戸へ諸色《しよしき》を積みて運送する大舶《おおぶね》を菱垣《ひがき》と號す。年中東武に上下なす中に、十月に到り新綿を積みて下るを規模とし、一番二番三番と江府《えど》に著岸の遅速を励む。もっとも前後によって損益あることにして、大いに勝負を争うことなり。これを番船という。いずれも千石以上の大舶なり。世に名高き桑名屋徳蔵、松右衛門など言えるは、この菱垣の船頭なり。今も帆木綿《ほもめん》と言える織帆《おりほ》は、この松右衛門の工夫より始まりし由、故にこれを松右衛門帆という」。同じく鐘成の著『噺の笛』五に、文化四年よりこの番船が江戸に著する遅速を賭して勝負を争うこと流行盛んに、「出帆の日よりいろいろ名目をつけて、札を売り買うこと昼夜を分かたず。あだかも当島の米市に等しく、いろいろの虚説空言をもって売り買うゆえに、札の高下おびただしく、また南鐐一片をもって売買の相場一貫文と定め、財布などに数多《あまた》いれ、取引の節などは、大地に突き列《なら》べるありさま言語に絶せり。むかしよりかようの勝負ありといえども、かほどにはずみしこと稀《まれ》なり」とあって、文化五年十月には北大津屋の辰蔵の船先着し、桑名屋亀蔵の船二番着たりし由を記す。よって桑名屋の船頭、そのころは徳蔵がなくて亀蔵が著名だったと知る。小倉藩士小島礼重の『鵜の真似』に、「三十年ぐらいにも相成るか、大坂に桑名屋徳蔵とて大勇の荒乗りの船頭あり。類をもって集まる習いにて、同気性(529)の船子召し抱え、いかなる荒波にも押し切り、大金を賺《もう》くる申合せ、船中にて帆足にふられ、その外にても海へ落ち込み候ても、決して助け合い申すまじくとの申合せの由、盛んなることなり。七月、正月の十六日に、日本国船をのる者なし、しかるに徳蔵急用にて大金になること有之《これあり》、十六日船を出だしける。不思議にも、国名は忘れぬ、洋中に忽然と一城出で来たり、その中に声ありて、徳蔵恐ろしき物は何か、と言いける。徳蔵泰然として答えけるは、天地間恐ろしき物は商売なり、それ真中を乗り割れと下知しければ、言下に一城も消え失せける。ある時走り船の時、徳蔵誤り海中へ落ち込みける。かねて申合せにはあれども、さすが船子ども簀板を投げ込まんとしければ、徳蔵海中より手をふりけるが、走り船ゆえ、はや行き過ぎぬ。徳蔵もついに死にける由、嗚呼《ああ》惜しむべし、豪傑武者もあやかり者なり」と出ずと、宮武省三君が示された。著者小島氏は、文化十二年より天保四年まで盛えた人で、文化元年より三十年前とみれば、安永三年ごろ徳蔵のこと盛んに世に称せられたとみえる。まずは享保より宝暦ごろまで、もっとも活動した人物と推察する。)
(これより大分前、貞享五年に出た西鶴の『日本永代蔵』一の三に、大坂の巨商の名を列した内に桑名屋あって、鴻池や淀屋の上に挙げられおり、それが文化中に至ってなお衰えなんだのだ。)
地体《じたい》むかしはもちろん唯今までも、わが邦人は船乗りなどをともすれば賤しき下郎呼ばわりして、その事蹟を等閑に付するから、欧米にある職業史とかその方の口碑の研究とかいう物ができおらず、学者はそんなことを屑《いさぎよ》しとせず、千篇一律で『古事記』にどうあり、『東鑑』に何と出たとしゃべくれど、それらは帝室や権門の筆乗たるに止まり、一汎国民の成立に渉《わた》った物でないから、かかる物ばかりに、見える見えぬを論ずるばかりでは、お国自慢にならず、反って編史の大不行届きを暴《さら》すこととなる。近く地方郷土史編纂のやり方を親《まのあた》りみるに、これは正史に見えぬ、この年代が知れぬ、それは鄙俗なことなど言って、実際正史になく年代が知れず鄙俗なればなるほど一層精究すべき多大貴重の材料を、挙げて抹殺湮滅し去るは大いに可惜《あたら》しきことだ。
(530) 予の寡聞かは知らねど、件《くだん》の桑名屋徳蔵ごときも、いつどこに住んだ人やら何たる考説も出ないらしいのみか、その言行の一、二も、今日わずかに残存する老人で、古く和船の船頭水夫だった人々の児孫のあいだにチラホラ伝えられ、やがて久しからぬうちに忘れ果てらるるに相違ない。よって予が従来この辺で聞き知りえた話どもを述べて、他日本邦の航海史や船乗伝説集を大成すべき人にいささかたりとも資《と》り用ゆるところあらしめよう。予が二十年間住居する紀伊西牟婁郡沿海諸村民は、古来航海を業とした者多く、兵庫、大阪より諸国へ出した千石船の船頭は、多くこの辺の産だったから、自然航海に係わった口碑を少なからず留めおる。(例せば、西宮の辰馬家の千石船が、沖で竜巻に出あい、船に竜の鱗を三枚留めあって、それよりかの家大いに繁昌したなど、この辺でもっぱら言い伝う。かの家にそんな口碑を存せるかは知らず。過ぐる大正八年夏、予、藻類を見分に鴨井という小邑にゆき、民家に昼寝しおると、三十二、三歳の女がきて、その家人と話《はなし》に、わが夫は日本船に乗って喜望峰に往ったところ、大戦のためその辺に人物欠亡して、わが夫がその辺を往復する外船の船長となり、もはや三年も経つに帰らぬから内が淋しうてならぬなどいいおった。そのころそんな例が多かったが、いずれも学校など卒業したでなく、父祖以来の薫習《くんじゆう》のまま早く乗り出した輩であった。)
田辺町に住む植坂久米吉《うえさかくめきち》とて、至って記憶よき理髪師、幼時千石船の船頭から隠退しおった老父の話そのまま語ったは、小浦《こうら》の徳蔵は何国の人か知れず、船頭の神と呼ばる。その時まで帆は一方にのみ用いられ、ただ風に随って行ったのを、この人風に逆らうて行くべき三方帆を発明した(篇末の付録、安井氏の文を見よ)。
大晦日《おおつごもり》に船出するを大凶とし、あえて犯す者なかったところ、この人ことさらにその夜航行するに、海上に城のような物現わる。一同|何方《いずかた》へ避くべきと問うに、徳蔵、城ならば門あるべし、その門をつききれとて突進すると、大きな音して消え失せた。跡へ大入道出て、汝何物が怖ろしいかと問うに、世に商売ほど怖ろしい物なしと言うと、また消えて無事だった。この人の妻も偉物《えらもの》で、夫に向かい何を目あてに夜航すると問うに、山を目あてにすると答えた。(531)妻それはいけない、北斗|四三《しそう》の星の少し北なる子《ね》の星は一夜に三寸動き、三寸戻るゆえ、まずは動かぬ同然、それを目あてにしたまえ、と。教えの通り、徳蔵が実行した。この女、貧家に生まれ家の格子に紙障子なし、毎夜臥して格子を通して諸星を見るに、みな天を横切って動く。子の星すなわち北辰のみはちっとも動かずと知れた。すべて女はえらい者で、亭主を必死に働かせながら、自分は寂然と動かずに十二分に快く楽しみ、また寝ておって星の数から夫の鼻毛までも読む。早く帰って奥様を大事になされませ、と忠告された。
また三年前、六十ばかりで死んだ広畑《ひろはた》岩吉とて、こんなことには二本足持つ百科全書と言うべき人の話に、瀬戸の正三《しようざ》は舟乗りの神と言わる。沖の暗いのにの唄は、この人初めて蜜柑を積み届けた時、江戸の人が唄うたのだ。この人闇夜に航海して、某の風で、某の時刻に、いずれの海、いずれの辺に船ありと知った。また、よく黒潮に船を乗り込みやった。ある闇夜、大風中に洋《なだ》を行くに、乗子に向かい、汝ら十六人命を助けやろうか如何と問う。何とぞ助けたまえと答うると、しからばわが命を背くなとて、取柁《とりかじ》と三度呼び、次に面柁《おもかじ》と呼んだ。その時大きな怒濤、船のうしろに中《あた》った、そこは七十五里灘のかかりの何とかいう島で、船がまさにそれに当たるべきを闇中に知りおったのだ。また、兵庫で千石船を作るを見て、このアフリは宜しからず、三年後某の処で破れんと言うた。船匠輩、汝は乗ることを知れど造ることはわれらに及ばずとて服せず、しからばわれその船に乗るべしとて乗り行く。三年めに鳥羽沖で船人いわく、この船に水洩れ込む、と。正三いわく、われすでに知る、面柁裏のアプリ口《ぐち》にドンザ(船人が著るドテラ)三枚突っ込め、と。果たしてそこより水洩れ入りおった、と。また、正三の妻、夫に向かい、君は常に大海に難苦す、その偶《つれあい》としていたずらに睡るべきでない、よって年ごろ天をみて考うるに、北方に動かぬ星一つあり、それを目当てに航海されよ、と。正三笑って、げに女は女だけの智恵だ、星が見える夜は何人も航海し得、われは星の見えぬ闇夜もよく船をやると言うた、と。小浦とはどこか知らず、瀬戸は田辺湾の入口の瀬戸崎なるべく、藤九即の宮とて古来船乗りが尊崇する社あり。右の二譚を比ぶるに、どうも小浦の徳蔵と瀬戸の正三は同人らしく、小浦生れの徳蔵が(532)兵庫の桑名屋という船持ちの船頭だったから桑名屋徳蔵と通称せしを、芝居外題に略して桑名徳蔵としたことと惟う。ここに正三と書くが、広畑氏はただショウザと伝えたのみ。どう書くのか、実名か綽号《あだな》か分からない。
(富田中村とて、むかし千石船の船頭多く出た地の旧家の末で、今は世になき人の話には、瀬戸の正三は小浦の徳蔵とは別で、大船の船頭にあらず、常に海上に船住居して意の趣くままに、往来の諸船に漕ぎつけ、種々の戯れをして船人を慰め、また驚かしたものの由。ただし、どんな戯れをなしたという委細は伝わりおらぬらしかった。されば植坂氏の話を参考しても、広畠氏が伝えた瀬戸の正三の話は全く小浦の徳蔵の事蹟らしい。北辰《ほくしん》のその所に居て衆星これに共《むか》うがごとし、と『論語』に出おる。その北辰を見当に船をやることが、そのころ初めて日本の船頭に知れたとは決して信ぜられぬが、すべて奇篤《きとく》なことを偉人になすりつけるは何国も同風で、徳蔵の妻が初めて北辰のみ少しも動かぬを知ったとは、ずっとむかし、日本に北辰の動かぬを確かに知らぬ者が多かった痕跡を示す。似た例を挙げようなら、予がかつて『ネーチュル』に書いた通り、むかしの欧州人は、金星が日出前と日没後に異方に現ずると知らずに、暁の明星、宵の明星と別物視したこと、旧い日本人と一般だった。今から思うと想像もつかぬたわけたことのようだが、実はわれわれがこの二明星は今の金星に外ならぬと知り抜いておるは、教科書鵜呑みのお蔭で、果たして左様と知り明らむにはなかなか永く続けた観察を要する。ところが、漢の王充の『論衡』には金星と木星が太白と長庚に現ずるとあるから、そのころの支那の星学家は、金星が現ずる暁の明星、宵の明星と、木星が現ずる暁の明星、宵の明星と二種四様の明星ありと信じたと見える。誤見は誤見として、かく誤るには当時の学者に相当の理屈もあったのだろう。一条兼良公は、菅丞相より後に生まれて菅公以後のことを多く識ったを一の誇りとした由。われわれは徳蔵の妻が北辰不動に気づいた迂を笑うべきでなく、すべからく自分で観察を重ねず、書物丸呑みの他力本願て安々と押し通しうる世に生まれ出たるを感謝すべしだ。)
そこで熊楠、鹿爪らしく謹んで按ずるに、『古今著聞集』偸盗第一九に、正上座《しようじようざ》行快という弓の上手が、三河より(533)熊野神に奉る米の船を全うするとて海賊を射る話あり。『剣の巻』に、比叡山僧が阿波の上座に謀られて禁獄された狂歌あり。上座とは、もと僧官で米の廻漕に乗込みなどした者らしく、そんなことから後世までも熊野で船頭を上座と呼び、それより徳蔵をもショウザと呼んだでなかろうか、とこじつけおく。徳蔵がどこ生れであったって、徳川時代の人たるに疑いなし。その人に子の星を夜航の目当てにせよと妻が教えたとはどうも時代後れだ。上世誰かの妻が、天に北辰目当ての一件を教えたという口碑ありしを、霊験といえば弘法に、力業といえば弁慶に塗りつけたように、日本航海術の第一人だった徳蔵を偉くせんため、かかる口碑までもその伝に付け加えたであろう。青蓮花の中間を行き去り示して、帝釈に羅?《らごう》の命を断たしめた舎脂《しやし》夫人、琴を弾じ語って秦王を荊軻《けいか》の剣より免れしめた王の宮人、夫に入れ智慧してその難作の文を成さしめた赤染衝門等、妻の忠告が大いに夫を助けた例はすこぶる多い。
(近ごろ炉辺叢書に収めて刊行された雑賀貞次郎君の『牟婁口碑集』五五-五八頁、瀬戸正の話、五九-六〇頁、橋杭岩の話には、本稿に載せない異伝が出おる。あわせ読まれたい。)
二 橋杭岩の話
ここに示すは、紀伊西牟婁郡東南瑞串本町付近の海岸より一列に排《なら》び出た橋杭岩で、桑名屋徳蔵大晦日の夜、妖怪とここで問答した。(『紀伊続風土記』七六に、「橋杭岩は、橋杭(鬮野川《くじのかわ》村のうちの小名《こな》)の東海中にあり、また立岩ともいう。陸を去ること二十間を始めとして、順次に海上に立ち並ぶこと、実に橋杭を列するがごとく、海中六、七町のうちに連なり立つ。その数すべて二十一、海底深く測るべからずして、岩の水を出ること三間ばかりより八間ばかりに至るものあり。その直立の長さ思うべし。杭の相去る間、あるいは七、八間、あるいは十間余、布置よろしきを得て直立峻抜、刀をもって削るがごとし、真に鬼工なり。相伝えて、太古この地より大島へ橋を(534)架け渡したりし、この橋杭|遣《のこ》りしなりという。古座浦の古老相伝えていう。先年津浪の時、海水一旦沖中に集まり大島の辺海水涸れたりしに、島形を望めば、その下一面に空隙のところありて、橋杭の上に橋板を置きし形ありしという。しかれば、上古大島まで陸路をつづけしはいざ知らず、遠くさし出でたる地の波に砕かれて、その遺りたるを橋杭というも知るべからず。穴門《あなと》の例もあれば、土人の伝え一概に虚談と言いがたし」。この辺、時に濃霧|咫尺《しせき》を弁ぜず、そんな時この橋杭岩が城壁のごとく見えたのだろう、としばしば聞いた。)
(大正十三年十二月ごろ、新宮町の弁護士田村四郎作氏来訪の節話に、昨日勝浦港で乗船、橋杭岩付近にて濃霧大いに起こり、文字通り咫尺を弁ぜず、危険極まり、船長以下なすところを知らざりし。これが夜間だったらわれらの命はなかったはず、と。予はあまり聞かなんだことだが、この辺に時たま濃霧起こると途方を失うらしい。そんな時は橋杭岩が城のように現わるるぐらいは造作もなかろう。)
維新戦争の際、奥羽に向かわれた九条道孝公が、仙台で横死した世良修蔵を参謀とし航行の途次、串本の豪家矢倉氏へ浴湯《ゆあみ》に上陸したという。その時定めしこの岩の奇観に驚かれただろう。海岸の路傍に弘法大師の小祠あり。その前の海中二町ほどのあいだ、高く尖った大岩が一行に立ち並んで、橋杭の状をなす。向うに見ゆる大島は古来|蛸《たこ》と名づくる婬女の巣窟たり。諸国より集まる船頭これを一夜妻にし、その鉄漿《かね》つけに五十両も費やして誇ったが、今は公娼制度でやっておる。「たんと出しそうなは和泉式部なり」とあるだけに、式部も大島の名を聞いておったものか。その集三に、例の人にて物いう所に立ち寄りたれど音もせねば帰りて恨みたるに、「声だにも通はんことは大島や、いかに鳴門《なると》の浦とかはみし」とある大島は、ここかと思えど、鳴門近所にも大島があるのかも知れぬ。写真に見える海浜の松原を姫の松原と呼び、北に行けば伊串《いくし》をへて西向いの渡し〔二字傍点〕あり。これらの名所を入れて一首ドドくれと、琴瑟至って調うた夫妻がこもごも望みければ、南方先生、「姫の松原橋杭入れて、北の方伊串わ、たしもやる」とは、『散木奇歌集』に入りそうな。
(535) 橋杭岩は土伝にいわく、むかし弘法大師、大島と陸のあいだに、一夜に橋を渡さんとて杭を植えしに、天のジャコ悦ばず。鶏の宿《とま》り竹の中に湯を通し、鶏、例より早く鳴いたので、大師仕事を打ち切り、杭のみ化石して現存す、と。このことについて予、大正二年七月の『郷土研究』へ一文を出し、類話少々略述した。その後も捜索しておびただしく類話を集めたうち、若干を例示すると、南北朝の時成った『峰相記』に、「播磨の生石子高御倉《おうしこたかみくら》は夫婦と顕われたまえり。天人降り、石にて社を造らんと擬するところに、夜明けるあいだ押し起こすに及ばず、返り上りおわりぬ。今にあり。社の大なること、さらに凡夫の所為にあらず」と出で、河内の磯長村に、聖徳太子が自分の墓を築くつもりで、山より石を五百運ぶつもりのところ、四百九十九まで運んで鶏が鳴いたので止めた。越後、佐渡の間に、羅石明神が橋を架けんと眷属どもに石を運ばせるうち、アマンジャクという惰《なま》け者、まだ夜半過ぎぬに鶏声を擬したので、眷属散り失せ橋は成らなんだ。羽後の男鹿半島の神山にすむ鬼が、近処の田畑を荒らすゆえ、村民、鬼に、一夜のうちに百の石段を神山に築き上げよ、それが成らずば村へ出るを止めよ、成ったら毎年一人ずつ鬼に食わせる、と言った。鬼承諾して九十九段築き上げると、一番鶏が鳴いたので、鬼姿を晦《くら》まし、九十九段は今に残る。下野《しもつけ》の戸室《とむろ》山の九十九穴は、むかし弘法ここに百穴を穿つ、九十九穴事終えた時、近所に一軒正月の餅を搗き出したので、以後元朝に餅を搗いたら祟るべし、と言って去った。むかし天狗が一夜中に富士山を築き上げようとして畚《もつこ》で土を運び、今一畚で富士と同じ高さになろうという時、鶏が鳴いた、天狗口惜しと一零《ひとしずく》落としたが擂鉢池となり、今一畚で本物の富士となったはずの山を榛名富士、また俗に一畚山《ひともつこやま》という。アマンジャクが駿河の富士山を少しずつ取り崩して、その土を海に棄てたが伊豆の大島となり、翌晩もまた棄てにゆくに、箱根山辺で夜が明け、やむをえずそこへ棄てたのが二子山だそうな(高木敏雄君の『日本伝説集』四三頁等)。
支那では、浙江省の連山は、秦の始皇、浙江に石橋を渡さんと欲して成らず、今、山下石柱数十江際に列す、また青山と名づく。橋杭岩そっくりだ。また、後趙の将軍麻秋、麻城を築くに工を督する厳酷で昼夜止まず、必ず鶏鳴い(536)てすなわち息む。秋の女《むすめ》麻姑これを憫れみ、偽《ま》ねて鶏鳴をなし群鶏みな鳴く、秋覚ってこれを撻《う》たんとし、姑逃れて山洞に入り女仙となったという。江西の九十九井は、周の仙王、夫人と約し、一夜内に汝は?《きぬ》百反を織れ、われは百の井を開かん、と言った。四更に及び、夫人は百反織りおわり、鶏鳴くまねをすると群鶏みな鳴いた。仙王は九十九井を開いたが、鶏声を聞いて止めたのだ。青州の嫌城は、石氏の嫗が、夜中に城を築いて居民を囲み鶏鳴前ことごとくこれを食おうと妖物が相談しおるを聞いて大いに懼れ、手で箕《み》を拊《う》って鶏鳴を擬するに、群鶏みな鳴いたので妖物驚き去った。民これを徳とし、石婆婆廟を立てた。これは妙計で、「鶏を一つ煽って箕をしまひ」という川柳と同意だ。インドのストルン河辺に銅造の堂あり、古え半神プラフタンが、神女カイサカッチーの艶容に現《うつつ》を抜かしヤイノを極めると、一夜内によく鋼で堂を立てたら思いを叶えよう、だが立ておわらなんだら、「その後で稲田大蛇を丸で呑み」といった口でなく、正其の上の口で呑んでしまうが、とみなまで言わせず、エース・オーライと諾して建築にかかり、戸ばかりできあがらないうちに、神女、神通をもって早く日を出し、プラフタン愕き林中に逃れたが、捉われて女神の朝飯にされた。南洋ソサイエチー島のオプノワ港口の左側に大山あり、狭い地峡に本島へ続けられ、その地峡の一側がオプノワ港、他側がクック港と分かれおる。この山、もと島内諸山と連なったを、土地の諸鬼が取り離して百マイルほど遠いリーワード島に移しかけた時、夜が明けたので今ある所に捨ておいた。その時、一鬼が抛げた槍が通り抜けた穴、径八、九尺なるが現存すとは、上野妙義山を射貫いた百合若大臣の箭の跡や、支那湖南の天門山頂のようなものか。(『大清一統志』一七九、二一〇、二三一。『古今図書集成』禽虫典三六。『ベンガル皇立|亜細亜《アジア》協会雑誌』一四巻四七八頁。エリス『多島海島《ポリネシア》の研究』二巻七章。『諸国里人談』三)
欧州での例は、ドイツ・ウッケルマルクのパールスタイン村の人が湖を廻って仕事に通うを厭い、魔にわが魂をやるから一番鶏の鳴くまでに湖を横切った堤を築いてくれと望むと、お易い御用とその夜鶏の初鳴きまでに仕上げそうだから大いに惧れ、急に鶏を起こすと、はや夜明けと心得、定刻より前に鳴いたので魔は逃げ去り、石は抛げ散らされ、(537)堤は未完で今にある。グライヒベルヒ城は魔が一夜に建てた。初め城主が敵に攻められ困《くる》しんだ揚句、鶏鳴前にこの城を築きくれたら娘を魔にやろうと約するを、娘の乳母が立ちぎき、聞こえませぬ、とでるところを黙り返って妙計を案じ、魔がやっと城を築き上げる時、忽然火を藁塚に放った。南無三《なむさん》夜が明けたと鶏鳴き、魔あわてて娘と間違え、その父を掠め去った。だから、その城壁の石一つ不足しおる。フランクフォルトのサヒセン・ハウセル橋上の鉄杭頂に鍍金《めつき》の鶏あり。伝え言う、一工この橋を建つるに、定期の三日前ようやく半分しか成らず、よって魔の助力を乞い、成就したら一番に橋を渡る者を与うる約束をした。そのつもりで魔が橋を仕上げたところ、かの工人渡り初めに鶏一羽を追い歩ませた。渡り初めは人に限ると心得おった魔、紿《あざむ》かれて大いに怒り、鶏を二つに裂いて橋に抛げつけ、穴二つ明いたのが残りあるという。スイスに有名なシェリネンの魔橋、ルックのセストリ橋など、魔が懸けた物で、仏国のサン・クルーの橋は工人力及ばず、渡り初めの者を与うる約束で魔の力を仮り建ておわり、人の代りに猫を授くると、魔受けてきわめて不機嫌だった由。(クーン『マルキッシェ・サーヘン』二一〇頁。ベーリング・グールド『奇態な遺風』一章。コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙』二巻四四六頁)
ベーリング・グールドは、これらの伝説について長く論じた。その要点は、最初数本の杭に皮を張った小屋をそこここと持ち歩いて住み渡った、きわめて蒙昧の人間は、建築に深く注意せなんだ。世が進んで礎《いしずえ》をすえ土台を築くとなっては、建築の方則を知ること浅きより、しばしば壁崩れ柱傾くをみて、地神の不機嫌ゆえと心得、恐るるあまり、地の幾分を占用する償いに人を牲し、その血を地に濺《そそ》いで地神を慰めた。建築に限らず、旅行や戦争の前、また新造の船を卸すにも、人を殺してそれぞれの神に祈った。
ここで熊楠ちょっと中言す。こんなことは余所事《よそごと》でなく、日本にも多かった。例せば、頼朝、泰衡を平らげて宇都宮に報賽した時、生虜、樋爪五郎を生贄《いけにえ》に掛けた(『群書類従』二四『宇都宮大明神代々奇瑞之事』)。『人類学雑誌』二七巻に、出口米吉君は、尾張の国玉社や国府宮で、正月道行く人を捉え、潔斎させた上|俎《まないた》にのせ、庖丁、(538)真名箸《まなばし》もて料理の体を擬し、餅を負わせて追い立て、その人転んだ処に塚を築き上の餅を納めたのを、古え、人に災厄を負わせて責め殺し、そこに塚を築いた遺習と断じ、国史より、王朝の代に国家大事ある時、奴婢を祓柱《はらえつもの》として徴《め》された考証あり。雛祭は、古代、人に罪過を負わせて追流《ついる》する前にこれを好遇したより出たらしい、と述べられた。ついて想い起こすは、上出、広畑氏より聞いたことあり。船の船玉《ふなだま》は、帆柱の下の台板を深く鑿ち、木造の双陸《すごろく》の骰子《さい》二つと、大豆を頭にした紙雛二つ納む。骰子二つとも舳《おもて》に向かう方三点、艫《とも》に向かう方四点で、内に向かって二と二が相対し、五と五が外に向かい、上は一で下は六たるべく双べ据え、オモテ三合せ、トモ四合せ、中二(荷)ドッサリと唱えて祝い込むる、と。
(『松屋筆記』六〇に、『船長日記』を引いて、「すべて船玉とは船のヌシなり。帆柱を立つる筒の下に納めおくことなり。紙雛一対、その船主の妻の髪毛少し、双六の賽二つ(サイの目の置き方あり)、この三品を納めおくを船玉というなり。難船ある時には必ずこの船玉去るなり。難船したる船をみるに、必ず船玉はなきものなりとぞ。難船ある前に、何ぞに化して逃げ去ることもありと、云々」。『天野政徳随筆』一に、「ある人おのれに問いけるは、元船《もとぶね》にて申すこととて、南三、北四、天一、地六、東二、西五、また向三合、手前四合、左右十界勧請中二ということこれあり。いかなることにかと、おのれもさること心得ずと申したりき。その後、『秉穂録』をみれば、二篇巻下にいう、船中に祭る船魂は十一面観音なり、女人の白髪数茎と双六の采二つ、一を上にして六を下にし、二を内にす、大観通宝四、五銭、同じく箱に入れて檣の下に納めおく。大観は観音に象るという、とみえたり。これによれば、船魂に采を祭ることをいえる方言とみゆ」とあり。時代と地方の異なるに伴れて祝詞に多少の差《ちが》いがあるのだ。)
今も西洋風の進水式に、必ず葡萄酒の赤いのを罎詰のままわる。これ新造船を新造すなわち処女に比べ破素に擬して船卸しを祝うので、早く於乃麗加良駝於廻志率土手遠止流渡志毛利《おのれからだをまわしそつとてをとるわたしもり》など女と船を同視したは東西一規だという人あれど、ベーリング・グールド説に、こは古く人牲の頸を折ってその血を舳に濺《そそ》いだ遺風で、それと斉しく、むかし人(539)を建築の土台に埋めた代りに、今も罎一本と銭を欧州で埋める由。右の船玉納むる穴に、紙雛と采を入れて透間《すきま》あらば、銅銭十二文を加え木片で固く封じ込む、その十二文をほしさにそれほど固く封じた物を開く奴あり、と聞いた。かたがた出口氏の説と合わせて、この紙雛は最初、船の竣成に人を牲した遺俗の物と知る。それから仁徳帝の御宇に、堤を築くに人を沈めたこと、『書紀』に出で、伝説に清盛、島を兵庫に築いた時、松王童が身を捨て竣工したというは嘘とするも、この工事一たび破れた時、人柱立てらるべきなど公卿僉議ありしに、なかなか罪劫《ざいごう》なるべしとて、石面に経文を書いて功成ったと、『平家物語』にあれば、以前はそんな節は人柱を用いたので、長柄《ながら》の橋の外に、紀州の彦五郎堤(『郷土研究』二巻六号三四六頁、それから高木君の『日本伝説集』に出た例およそ八つあり。
また伊予の大洲城は、お亀という女を生埋めして築いたのでお亀城と言うときき、和歌山城などにもそんな話あるを幼時聞いた。こんなことをいうと、和歌山の人は頭から湯気を立て、南竜公の悪口をきくように怒るが、それこそ大きな勘違いで、初めてこの城を立てたは徳川氏でなくて、天正十三年、桑山重晴の所為だ(『野史』一九九)。家光将軍の時、日本を旅した蘭人カロンの記に、諸侯が城壁を築く時、多少の臣民が礎としてその身を壁下に敷かれんと願うことあり。みずから好んで敷殺された者の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、その者許可を得て礎下に掘った穴にみずから横たわるを、重い石を下ろして砕き潰さる。ただし、そんな志願者は平素苦役に飽き果てた浮かむ瀬もない奴隷だから、辛い浮世に永らえるよりはと進んで死を願うのかしら、と録す。
これらいずれも、ベーリング・グールドが言った通りのことが日本にもあった証拠で、むやみに自国を無垢らしく説かんとて、それは外国譚の焼直し、これも名称の誤解から訛伝したなどと説きちらすと、いと旧い国にあるべき物が日本に限って一切なかったこととなり、あたかも毛はむさい物だからって、自分の母や娘の無毛を誇ると一般となろう。ついでに述ぶ。『近江輿地誌略』一七に、日吉山王の荒祭に坂本法師ら甲冑を帯し剣を執って出ずる者三百人ばかり、濫行して人を傷つけ、日吉の神輿、血を見ねば渡らずと罵ったとて厳しく難じあるが、実際今も血を見ねば(540)お渡りが済まぬという祭礼、諸国に多きは、欧米人が葡萄酒をキリストの血と尊ぶごとく、上世血をもって神を祭った遺風に過ぎぬ。
これまでが熊楠の註。これからまたベーリング・グールド説の受売りだ。氏は、ロムルスがローマを創めた時、深い穴を掘って人生必要の一切の物の初穂を集めて投げ込み、最後にファスツルス、キンクチリウス二人を生埋めして大石を覆《かぶ》せたり、カルタゴ人がフィレニ兄弟を国界に埋めて守護神としたことを述べた後、コルムバ尊者がスコットランドのヨナに寺を建てた時、昼間仕上げた工事を夜中土地の鬼神が壊《こわ》すを防ぐため、みずから身を献じた徒弟一人を生埋めしたので、欧州がキリスト教に化した後も人柱は依然久しく行なわれたと知ると説き、さていわく、かくて牲を供えて地神を慰めるという考えは、おいおい人柱もて土地の占領を確定し、人柱が建物を堅固にして破れ動かざらしむという観念に変わった。さればキリスト教化後、諸国に建てた寺塔、城壁等に人馬鶏狗を礎下に埋めた伝説あって、実際改築の節、その遺骸を伝説通りの箇処より見出だしたもの多しとて、多く例を挙げた。日本にも陸前の堰上《せきがみ》神社は、古え堰を築くに成らず、人柱を立て始めて成った。後年、洪水に人柱の遺骨上がりしを祀るといい、阿波の綿打橋はこれを架くるに、朝一番に通りかかった綿打屋を搗き込んで成った。維新後、架け替えの際その遺骸を掘り出すを睹た人現存す、と聞く(『郷土研究』三巻四号二四一頁。二巻九号五六四頁。)けだし最初人を牲にして神を祭ったが、おいおい馬や犬鶏を代用に及んだので、さてこそ猫や鶏を渡り初めさせて、せっかく人牲受用を楽しんで働いた鬼神を紿《あざむ》いた話が諸国にあるのだ。
さて欧州の古城旧邸に、黒犬や白女や光る小児等が夜現ずるは、いずれもこれを建てた時生埋めされた人畜の幽魂じゃと、ベ氏はその例を数々挙げおる。類推するに、近江の馬川橋は洪水の節白馬現われ往来の人を悩ます、故にここの川を馬川と言い、また橋にも名づく(『近江輿地誌略』八五)。これは秦の二世皇帝、白馬を沈めて涇水《けいすい》を祀り、梁の始興王|憺《たん》が白馬を殺し江神を祭って洪水を退け、露国で馬を沈めて雨を祈ったごとく(『史記』六。『南史』本伝。故オス(541)テン・サッケン男の直話およびその著『牛化蜂論』付記)、近江でむかし堤あるいは橋を固めるため白馬を沈めた亡霊が現わると信じたに基づく。『東鑑』等に、川から牛鬼が出た話あり。何の訳とも書いていないが、近年まで諸国に行なわれたごとく、穢れを洗うため水神が雨をふらすように、牛を屠って淵に沈むること、古代盛んに行なわれた残痕とみえる。『老媼茶話』にみえた姫路城天守の怪女や島原城の大女、姫路城のオサカベ姫、猪苗代城の亀姫、『甲子夜話』に出た大坂城の怪物《ばけもの》などのうちには、人柱に行なわれた者の精霊少なからじ。右の次第ゆえ、魔が工人を助け建築を遂げた後、約束通りその人の魂をくれず、紿かれたを憤って、永劫この工事を完成させやらぬと断言した多くの話が欧州にあり。いずれも如法の牲を供えずば竣工は望まれぬと確信した時代にできた物であると、ベーリング・グールドは説いた。
熊楠いわく、上述の理窟より推すと、串本の橋杭岩など今一息で工事|竣《おわ》るべきところを、天のジャコが鶏を鳴かせて失敗せしめたというは、欧州等に多き魔橋譚と同源異趣向で、天のジャコ様な妖物に人や鶏を牲《いけにえ》に供えず、弘法大師などが単に自分の力で建てにかかったから、妖物の助力を得ぬばかりか、反ってかれに鶏鳴きを利用されて事敗れたというので、やはりどんな豪傑も牲を鬼神に供えねば工事成らずと信ずる者多き世にできた話だ。
さてベーリング・グールドは述べおらねど、人間に近い猴類が、夜眼が利かず、眠ってのみおることは申年《さるどし》(大正九年)の『太陽』に述べおいたが、人の眼も夜分しごく利かぬもので、燈光の発展せぬ世に、人が夜を怖れたことは努論を要せず。一七二五年というと享保十年、新井白石が死んだ年出たヘンリー・ボーンの『世俗考古篇《アンチキクテス・ブルガレス》』に、当時の英国俗間もっぱら信ぜしは、夜半に鶏鳴いて、鬼精ども人界を去ってそれぞれの住処へ帰る、と。よって早起きを大事とする田舎では、鶏鳴を聞いて快く仕事に往けど、鶏鳴かぬうちは何を見、何を聞くも、ことごとく幽公の所業《しわざ》と思い怖る、と記した。たった二百年前の英国さえこの通りだから、他は類推すべし。されば東西共に古来、鬼神、妖怪、仏、菩薩の働きは、もっぱら夜分挙行さるとした。実際われわれがこの世に生まれ出たのも、「長恨歌」にい(542)わゆる夜は夜をもっぱらにした父母の神秘作用からしたのだから、考うれば考うるほど、夜と不思議とは一体二名のようだ。上に『峰相記』から引いた播磨生石子高御倉のこと、藤沢氏の『日本伝説叢書』播磨巻に『石宝殿略縁起』を引いて、二神心を合わせ五十余丈の岩を切りぬき、一夜の間に二丈六尺の石の宝殿を作る、とあり。紀伊の由良法燈寺は、上野赤城山の天狗来たり、里人に燈を滅《け》し静まらしめて一夜に建てた由。江州錦織寺一丈五尺の錦の斗帳は天女が一夜に織り成し、同寺の毘沙門堂は、一夜に一尺余の松を生じた昆沙門の霊験に感じて伝教大師が建てたといい、善光寺の如来、信濃へ移る時、昼は善光、如来を負い、夜は如来、善光を負うたという(『新著聞集』勝跡篇。『近江輿地誌略』六九。『平家物語』二)。(ずっと古くは『書紀』五に、倭迹迹姫命《やまとととひめのみこと》の墓は、昼は人作り、夜は神作れり、と出ず。英国東サセッキスのウジモール小村の寺は初め立ちし時、昼間積んだ物が夜中になくなる。よって夜番して覗うと、数輩の天使来たって材木を沼のあちらへ運び去ったから、さらにその処に建てたという。)
アイル・オヴ・マンの俚伝に、かの島にフィンノッデルリー(毛魅《けおに》)あり。精魅《フエヤリー》ども総会の夜、村女を挑みて会に往かず。精魅一同より除名されて、最終裁判日まで島に留まる。野人の体《てい》で長き粗毛全身を被《おお》う。一紳士大厦を建てんため石多く切り出すうちに、最後の大白石を諸人総がかりで動かしえず。ところが、頼まれもせぬに毛魅深切にこの石どもを一夜内に運びおわった。その紳士返礼に帽と衣裳一具を贈るに、こんな物をきては面白からずとて逃げ去ってまた来たらなんだとは、そのことや布洗う女の脛の白きに心穢れて仙籍を脱しながら多くの材木を法力で一度に運んだ久米仙に似通う(一九二〇年板、ホドソン『ウジモールの今昔』。ケートレイ『精魅誌』ボーン文庫本四〇二頁。『今昔物語』一一巻二四語)。かく仏神、鬼魅、聖人、名僧が、夜間超人的の働きをした例無数だが、なかんずく悪性の鬼神の働きはことに夜に限らる。そはザラツストラの教えに、古く明と善、闇と悪を一視した通り、悪事は闇中に行なわれやすいからで、したがって人が夜を怖るるだけ、それだけ多く悪鬼邪精は日を畏るとしたのだ。さて本篇の発端に説いた通り、鶏は日の随一の象徴だから、鶏声を聞かば鬼神も力を逞うしあたわずとし、延《ひ》いて弘法大師などの善意の夜業(543)すら、鶏一たび鳴けばすなわち遂げぬと信じたのである。
終りに付言す。橋杭岩の伝説に、天のジャコが栖《とま》り竹《だけ》に湯を通し、鶏に暖を感ぜしめて早鳴きさせたというこの一事は、本邦以外にない話らしい。果たしてそう旨くゆくものか。誰でも実験した方は教示を吝むなかれ。(『好色一代男』二、「旅の出来心」の条、宿の女の懺悔話に、「また冬の夜は寝道具を貸すようにしてかさず。庭鳥のとまり竹に湯を仕かけて、夜深《よふか》に鳴かせて夢覚まさせて追い出だし、いろいろつらく当たりぬる。その報いいかばかり」ともあれば、むかしの旅舎にしばしばあったことらしい。)予が『郷土研究』一巻四号二三九頁に書いた通り、紀伊の国日高郡竜神村は、古来温泉で著名だが、その辺に比丘尼剥ぎという処あり。むかし熊野参りの尼一人来たり宿る。金多く持てるを知って、宿主が悪徒を集め、鶏が栖《とま》る竹に湯を通し暖めて夜半に鳴かせ、暁近しと尼を紿《あざむ》き早立ちせしめ、ここで待ち伏せ、金が敵《かたき》の世と諦めよと惨《むご》く殺して、金を奪い分配した。その時、尼怨んで永劫この地の男が早く妻に先立って死すべしと詛《のろ》うて絶命した。果たして今に竜神全村の家ごとに夫早く死し、妻は永々後家世帯して空閨に蚊帳の幅広きを歎《かこ》つという。なぜかく詛うたかを聞き泄《も》らしたが、たぷん宿主の妻が尼のまさに死なんとするその声悲しきに居溜まらず、その場へ駆けつけて夫を諫めたのでもあろう。それからというものは、村に凶変頻発、これただごとでない、と尼を小祠に祀り鎮めたが一向祟り止まず。予が往った少し前にも大火あって一村ほとんど焼け尽きたのを、かの尼の詛いに由ると噂しおった。西鶴の『本朝二十不孝』二、「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋《くさのや》」の一章、小説ながらむかしの辺土にこんな事実はしばしばあったのだ。
(竜神に、むかし紀伊国主が泊り浴したという宿家あって、土人が上の御殿と尊称す。かの「人知れぬ大内山の山もりは」と読んで四位の昇殿を免《ゆる》された兵庫頭頼政の五男頼氏、この山中へ落ち来て竜神和泉守と号した後胤で、維新前、陸奥宗光伯の父伊達自得がこの家に舎《とま》った時まで、主人の名に代々政の字をつけると聞いて、「桜ばな本の根ざしを尋ねずばただみ山木と見てやすぎなむ」と口遊《くちずさ》んだほど由緒正し。二十年ほど前、例の後家の治世で、その(544)弟は幼時和歌山に留学した時、予と知り合いたり。後家の独り娘が予より若いこと十四、五歳、原来、山高く水清い土地で天の成せる麗質の上に、古来千里を遠しとせず、峰の白雲踏み分けつ、後家当て込んでくる上方の浴客に倣《なら》うて風俗都雅と評判高い美人の多い竜神にも、これはまた不世出の尤物だったが、女の嗜みの第一たる裁縫のお稽古に、この田辺町なる名誉の仕立職で、予と親交ある者方に寄留、師事しおった。曩祖《のうそ》頼光を始め、頼国、頼家、頼綱、仲政、頼政と、代々名歌の誉れ絶えなんだ上に、順徳天皇が赤染衛門、紫式部と並称したまいし入道一品の宮の相模や、「人こそ知らね乾くまもなし」とよんだ二条院讃岐、また宜秋門院の丹後など高名な才媛を出した系図を辱しめず、かの独り娘も性識通敏で、ヨシコノの名吟遠近に伝唱さるるのみならず、歌、俳諧から花、茶の湯までも勝れてやる。なおそれよりもありがたいというは、髪ほどよく縮んで足の親指反り、笑う時眼尻やや下がって口が大分小さい。むかし相模の夫大江公資は、公用を闕《か》くまでも相模を懐抱して秀歌を案ずと噂に立ったと、『中古歌仙三十六人伝』とかにある由。同じ筋目のかの女こそ貴公の好逑《こうきゆう》、これを求めて手に入れたら、似るを友とかやの風情で熊公のすいたりければ、かの女房も空しくよがらずと芳名|竹帛《ちくはく》疑いあらじ、大丈夫の世におる、まさに力めて××を立て人より先に鞭を著くべし、今もし時にのって取らずんば必ず他に取られて後悔すとも及ぶまじと、張永年が益州占領を玄徳に勧めたごとく、百千の身振り手つきをして裁縫師が説かれたが、何分気がかりなは比丘尼の怨念、自分早死してかかる尤物に「大きかったで諦めが後家わるし」の歎あらしむるも無慙なり、また、「思ひだしますとは後家のすきな様」に聞き取って、日夜多勢が押し懸くるをあの世で見ておるも辛抱のならぬはずと、左思右考の末断わりおわった。その後かの女は、母歿しても湯屋の主《あるじ》とならず、家を近親に譲って大阪に出で、浄瑠璃|三味《じやみ》で高名の師匠に配たり。その人今にますます壮んに、三十年や四十年のうちに死すべくもあらず、妻は全く改造されてややもすればお先へ失礼しそうな、と聞く。これ熊楠一世一代の仕損じ、掌中の珠を逸した憾み、地老い天荒むも永く泯《ほろ》びじ。)
それはそうと、あまり入れ言が長くて忘れおった。比丘尼剥ぎにやや似た話を、『郷土研究』一巻二号一一七頁に(545)吉川泰人氏が書かれた。阿波の桑野村へ六部姿の僧が来て宿ると、宿主、その僧が金の鶏と一寸四方の箱へ収めうる蚊帳を持つと聞いて、翌朝早立ちした僧を追い、濁りが淵で斬り殺した。金の鶏は翼を鼓して飛び去り、蚊帳のみ手に入れて現存する。その家で今に餅をつくと必ず血を混ずるゆえ挽き餅をつくというので、定めてその夜蒸し餅を搗いてその僧に食わせたというのを書き落としたであろう。田辺付近|鉛山《かなやま》村にも、邯鄲《かんたん》夢の枕という物を所持する泊り客を宿主が殺した跡で、右は何の奇特もない品と分かったという詰まらぬ話あり。殺された者の小さい墓碑が路傍にあるを、昨年もみた。詳説も聞いたが別嬪のことばかり書く混雑に忘れおわった。金の鶏については、改めて『太陽』へ書く。 (大正十年二、三月『現代』二巻二、三号)
【付録】
桑名徳蔵について拙文を『現代』へ出した後、神戸住人で南洋郵船株式会社サマラン丸船長たる安井魁介氏より来状あり。自分同様未聞を聞く人少なからじと思い、大正十年九月発行『現代』二巻九号に出した。その状左のごとし。
桑名徳蔵については、小生子供のおり怪談めきたることを数多《あまた》聞かされ候も、只今記憶明らかならず。また妲己《だつき》お百に結びつけられたる講談を読んだるよう記憶致し候も、これまた対お百の関係さえ明白ならず。とにかく徳蔵が運用術の名人たりしことは確からしく、たぶん御存知ならんが、「徳蔵廻し」と(546)いうことをちょっと申し上ぐべく候。帆船が逆風に向かって航行する時は、風の方向より、横帆船は六十五度、縦帆船は四十五度の角度まで針路を取ることを得。むかしの和製の大船は横帆装置なるゆえ、六十五度|乃至《ないし》七十度の針路にて逆航し、風を左舷また右舷に受けかえながら(日本語マギル)縫行したり(第一図)。この風の受け替え方、すなわち船の方向転換に二様あり。上手《うわて》廻し(ジャッキング)および下手《したて》廻し(ワヤリング)という(第二図)。上手廻しが利益なることは、図について見るも明らかなるも、運用しがたき船および乗りよき船にても荒天の際には上手へ廻さぬ時あり。この時は風に順うて転ぜざるを得ず。小生聞きたるところによれば、昔時の大和船は下手廻しのみを行ないしが、桑名徳蔵始めて上手廻しを考出したり。よって上手廻しを「徳蔵廻し」という、と。
南方先生 大正十年六月十九日 ジャワ、サマラン港にて 安井魁介
(547) 西施乳について
『同人』五月号に、月斗氏は「河豚を西施乳とは誰が名づけたものか、支那の詩人に河豚の詩がないことを思えば、支那では食わなかったらしい。あるいは馬琴あたりがつけたものかも分からない、云々」とあるが、『華実年浪草』一〇に、『本草綱目』から「河豚は今、呉越に最も多し、云々。率《おおむ》ね三頭相従うをもつて一部となす。かの人、春月にはなはだこれを珍貴す。もっともその腹の腴《つちすり》を重んじ、呼んで西施乳《せいしにゆう》となす」と引きあるを見れば、支那人は古来河豚を珍味とし賞翫したので、西施乳は河豚の腹下の肥えたところを称した呉越の支那人の方言で、決して馬琴を始め邦人がつけた名でないと判る。この『年浪草』は、吾輩壮時まで和歌山などでは俳人必読の書だったが、今は月斗師すら顧みないのかしら。
それから、『漁隠叢話』に、梅聖兪の河豚の詩を出す。いわく、「春の洲《す》に荻《おぎ》の芽生じ、春の岸に楊《やなぎ》の花飛ぶ。河豚この時に当たって、貴きこと魚《うお》と鰕《えび》も数《かず》ならず」。永叔謂う、これは柳の綿が飛ぶ時、河豚が肥るのを詠んだ物だ、と。梅聖兪は、宋の嘉祐五年、五十九歳で卒す。有名な学者だから、決して支那の詩人に河豚の詩がないとはいわれぬ。 (大正十三年六月『同人』五巻六号)
【追記】
再び西施乳について。『一話一言』(明治十六年刊本)巻二の三三葉表に、「明の陳継儒の『記事珠』に、宋の張耒が(548)『明道雑志』を引いていわく、「余、真州の会上にあって、仮河豚を食らう。こは江?《こうかい》を周《も》ってこれを作り、味きわめて珍《うま》し。一《ひとり》の官妓あり、余に謂いていわく、河豚の肉は、味すこぶる?に類し、これに過《まさ》る、また?には脂※[月+聿]なし、と。(※[月+聿]は論咄の反。河豚の腹中の白き?《つちすり》なり。土人これを謂いて西施乳という。)」。按ずるに、仮河豚は今いう河豚もどきなり」と出ず。宋の時すでに河豚を賞するのあまり、河豚もどきまで作ったと知る。また西施乳という名も宋代すでにあったと判る。 (大正十三年七月『同人』五巻七号)
【増補】
三たび河豚について。本誌六月号に述べた宋の梅堯臣の河豚魚の詩は、支那で名高いものらしいが、本邦にはあまねく知られないらしいから、まるで写し出すとする。「春の洲《す》に荻《おぎ》の芽生じ、春の岸に楊《やなぎ》の花飛ぶ。河豚この時に当たって、貴きこと魚《うお》と鰕《えび》も数《かず》ならず。その状すでに怪しむべく、その毒また加うるなし。忿《いきどお》れる腹は封豕《おおぶた》のごとく、怒れる目はなお呉《ご》の蛙のごとし。庖煎《ほうぜん》いやしくも所を失すれば、喉《のど》に入って?邪《ばくや》の剣とならん。かくのごとくして?体《からだ》を喪わば、何ぞ歯牙に資するを須《もち》いん。持して南方の人に問えば、党護《とうご》しまた矜誇《きようか》す。みな言う、美《うま》きこと度《はか》りなし、誰か謂《い》わん死すること麻のごとし、と。われ語れども屈するあたわず、みずから思いて空しく咄嗟《とつさ》す」というのだ。
それから、宋の毛勝の「水族加恩簿」は、いろいろの魚どもを官吏に見立て、その功に随って位号を授くる体に作ったものだが、河豚に対しては「爾《なんじ》は黄薦可なり。沢《なめら》かにして嫩《やわら》かきこと貴ぶべし。しかれども、経治《けいち》を失すれば、その毒に敗《やぷ》れ傷《そこな》わる。故に、世は醇疵隠士をもって爾《なんじ》の目となせり。特に三徳尉兼春栄小供奉を授く。」とある。
これらを見ても、支那では楊花飛ぶ春のころ、ことに河豚を賞美したと知る。所|異《かわ》れば品異るで、『和漢三才図会』に、干河豚は夏月汁にして食らう、すべて河豚は九月より二月まで出で、冬月もっともこれを賞する、とあると異なれり。
(549) 明の趙鼎思の『琅邪代酔編』三九に、趙宋朝の初めの人、杜光庭の『録異記』を引いて、??魚《こういぎよ》は文《もよう》斑《まだら》にして虎のごとし、俗に言う、これを煮て熟せずに食らえば必ず死す、と。饒州の呉生なる者、夫婦仲よし。一旦《あるあさ》、酔うて牀上に身を投ぜし時、足を妻が扶け舁《かつ》ぐと、誤って妻の胸に中《あた》り死んだのを知らず、妻の族これを訟《うつた》え獄に繋がる。生の一族心配して、せめては死刑の恥を免れしめんと??魚を鱠《なます》にしてさし入れたのを、幾度食らうても恙《つつが》なし。そのうち赦に会うて家に還り、胤嗣繁盛して八十まで生き延びた。それこれを烹て熟せざるもなおよく人を殺す、しかるにその生肉を食らうこと数回にして害をなすあたわざるは固《まこと》に命あるか、とある。??は一に??《こうい》に作り、河豚のことで、その形醜きより侯夷と名づけた、と『本草綱目』に見ゆ。文斑にして虎のごとしとは、本邦で虎ふぐという物か。
王充の『論衡』に、万物太陽の火気を含んで生ずるものみな毒あり、魚にあってはすなわち鮭と※[魚+多]※[魚+叔]と、故に鮭の肝は人を死なしめ、※[魚+多]※[魚+叔]は人を螫す、とあり。『山海経』に、敦薨《とんこう》の山、その中赤鮭多し、註に、今??を名づけて鮭魚となす、という。『山海経』は夏禹王の作といい、註は東晋の郭璞作る。王充は東漢の章和二年、年ようやく七十とみずから筆しおるから、西暦紀元一世紀の人だ。これで、ずいぶん古くから支那人は河豚に毒あるを知りおったと判る。
また河豚を唐の代すでに支那人が食いし証は、『酉陽雑俎』続集巻八に、「??魚の肝と子とともに毒あり。この魚を食らえば必ず艾《よもぎ》を食らえ、艾よくその毒を已《や》む。江淮の人この魚を食らうに必ず艾を和す」と出ず。この書は唐の段成式の著で、この人は今から一千六十一年前、咸通四年に死んだ。 (大正十三年九月『同人』五巻九号)
(550) 牡丹を夏の花とするについて
飯田忠彦の『野史』二六一巻に『統奇人談』を引いて、肖柏かつて牡丹を詠じた歌に「春さかぬ花の心や深見草」、しかしてのち連俳家みな牡丹をもって首夏につくること、けだし肖柏より始まる、と載す。馬琴の『俳諧歳時記栞草』にも『貞享式』を引いて、牡丹、杜若、この二名は和漢の違いあって、詩には牡丹を春とし、歌には杜若を春とす、中古に俳諧の加減より二名を夏に用いたるは、初夏には花の少なきゆえとぞ、と記す。
熊楠按ずるに、明応七年に成った『漢和法式』夏部に、杜若、牡丹、以上勅式、とあり。予は連歌のことを一向知らぬが、勅式とは誰が定めたものか。宗祇の『吾妻問答』に、「この道の再興は、故二条摂政殿好みすかせ給いて好士を撰び給いしに、そのころの達者善阿、順覚、救済、信照、周阿、良阿など侍るや。当時も千句などということ侍れども、式目を定め法度を正しくせられて、末代にその旨を守るはかの御時よりのことなれば、この折節をさして上古とは申すべきかな」とあり。二条摂政とは良基公で、文和年中『菟玖波集』を撰んで勅撰に准ぜられ、応安二年に新式を造られたというから、その新式を勅式というものか。『蔵玉和歌集』はこの公が義満公の問に答えて作った由(『群書一覧』歌学類)だが、それにも深見草、名取草、共に牡丹のこととして夏の部に入れた。牡丹、フカミグサ(『延喜式』)、ナトリグサ(『万葉集』)と『本草啓蒙』一〇に、牡丹、フカミグサ(『本草和名』)と『本草図譜』六に出ず。良基公の薨後五十六年にできた『下学集』下にも、牡丹また名取草ともいう、とあれば、足利将軍の世まで通用された名らしい。それから良基公が新式を作った応安二年より七十五年前の永仁二年ごろ和歌に名あった勝間田長清が撰ん(551)だ『夫木和歌抄』には、杜若を春部六に、牡丹を夏部二に入れ、百首御歌「夏木立庭の野すぢの石の上に満ちて色こきふかみ草かな」と慈鎮和尚の詠を出しておる。
よって惟うに、牡丹を夏に用いたのは、俳諧の加減からでもなければ肖柏の句に始まったのでもなく、頼朝と同時代の慈鎮和尚すでに夏の牡丹をよみ、『夫木抄』にも夏の物とし、連歌を再興した良基公またこれを夏の部に入れたので、『続奇人談』や馬琴の説は誤謬と見るの外はない。さて杜若は『夫木抄』には春とあるが、良基公の『連歌新式』には夏としたとみえる。 (大正十四年三月『同人』六巻三号)
(552) 真田が謡について
(この年五月の『同人』一一頁、「蕪村講義」一九に、蕪村が高野を下る日、「かくれ住みて花に真田《さなだ》が謡《うたひ》かな」とある句を、諸子が評して、蕪村が高野に上って帰るさ、途にこの九度山村を過ぎ、とある花の家からゆかしくも謡の声をきき、由ある人の隠棲らしく思われ、懐《おも》いを幸村が閑居の当時にはせての吟詠で、劇的気分の句である(圭岳)。幸村は九度山村に隠棲十四年に及んでおる。この名将の蟄居的生活をしておった時代を、想像したと言うより脚色したものであるが、高野山麓の花に実際謡を聞いて真田を脚色したのであるか、あるいは真田も謡も共に脚色中の材料に止まるかは疑問である。高野を下る日とわざわざ前置きのあるのは、旨く謡が聞こえたことの暗示になるときめれば、圭岳説は成立するが、善意の解釈にすぎはせぬか。そこまで前置きを尊重せぬと、花は実、謡は虚、真田は虚の虚になる。換言すれば、現実の物は九度山の花ばかりである。いずれにしても、この句の表面に現われた謡の現実性は稀薄なもので、同じ作者の「岩に腰われ頼光《らいくわう》のつつじかな」より概念的な分子が多く、印象が明らかでない(裸馬)。幸村蟄居時代に組み初めたと言われる真田紐は、今にも残っている。蕪村の歴史的観察がこんなヒントから得られたとすれば、ちょっと面白いと思う。百年余をへた蕪村時代の句として瓢逸味があるともいえる(朝冷)。むろん蕪村の脚色全部である。それがどこまで劇になっているかで、この句の価値が定まるものである。一幕物として軽い成功とみてよい(月斗)。
まずはこんなことで済んだつもりで、講者も読者もおるらしい。幸村が真田紐を組んだなどは、あまり古からぬ捏(553)造説で、俳道に名ある菊岡沾涼の『近代世事談』一に、「天正のころ、真田阿波守(安房守が正し)左衛門(幸村)の父、浪人のみぎり、大小の柄《つか》を木綿の打糸にて巻きたり。ある人これを笑う。阿波守いわく、たとえ上に錦をきたりとも、心にぶくば用に立つまじ、この魂をみるべし、となり。両腰ともに相州正宗にぞありけれ。世人その木綿の紐を呼びて真田打という」と出ず。天正のころ浪人したとは、主家甲州の武田が亡びてのち数年、安房守が北条へついたり徳川に属したり、終《つい》に秀吉につくまでのあいだ、落ち着かなんだあいだを指したのであろう。予は蕪村が史籍に詳しかったか否を知らぬが、真田紐からヒントを得て真田が謡を吟出するほどなら、もちっと直接に、真田の故跡を弔うて謡を連想し出す訳があると思い、次の短文を『同人』へ出した。)
飯田忠彦の『野史』巻一六二に、慶長五年九月三日、秀忠の軍が上田城をせめた時、牧野康成兵を進めしに、昌幸・幸村父子、兵八千をもって伏を設けこれを誘う、と。康成の子忠成、白旗を揮うて進む。昌幸父子、騎を堤に駐め、掌を鼓して「高砂」の曲を謡う。榊原康政はるかに見て怒り、二千余の兵を督し、左道《ひだりみち》に廻り後路を絶たんとし、渡辺守綱は銃を率いて進む。松沢五右衛門、昌幸を諫めていわく、臣康政の勢を察するに、かれ必ず後路を断たん、兵を収むるに如《し》かず、と。ここにおいて、昌幸、曲を止めて城に入る。康政、忠成城門に薄《せま》るを、正信(本多)固く制して師を収むとあって、『翁草』と『武辺咄聞書』をひきおるが、『常山紀談』にもこの記事はあったと記憶する。それから関ヶ原役平らいで、昌幸、幸村を携えて九度山に蟄居剃髪し、慶長十三年六月、年六十五で終わったとあるから、この蕪村の句は上田の戦いに真田父子が「高砂」を謡うたことから思い起こして、隠棲中も花の下で何かの謡をつれ謡うたであろうと察しての吟と惟う。 (大正十四年八月『同人』六巻八号)
【増補】
真田昌幸、幸村、幸昌と三代いずれも武功のほかに諸芸に達しおったらしく、九度山閑居中、昌幸囲碁を好み毎々幸村と戯奕した由、『武将感状記』一に出で、『常山紀談』に、「上田攻めの時、牧野父子馳せ向かう。その間二町ば(554)かりもあらんに、真田父子八十四人の手鼓を拍って『高砂』の謡をうたう。榊原、にくき奴かなと言うままに、真先に馬を乗り出だす。その兵二千ばかり、うしろを取り切らんとすれば、渡辺半蔵も鉄砲を打ち懸けて進みしかば、松沢五右衛門、敵の付入り心許《こころもと》なく候、とく城に入らばやと諫めて、真田、『高砂』の謡も終わらずして引き入れけり」とある。この昌幸は、はなはだ家康に不快な人で(『野史』一六二)、それが主従八十四人も揃うて敵の前で「高砂」を謡うたのだから、ずいぶん名高かったろう。また『常山紀談』に、大坂冬の役済んで、越前家の臣原貞胤を幸村旧好ありとて招待し、酒盃数献の後、幸村鼓を打ち、その子幸昌に舞わせ興じた、とある。
『甲子夜話』続八五に、江戸の軍講者《ぐんだんしや》大坂へ往って、江戸同然に徳川氏の武運をほむれば聞く人さらになく、羽柴勝軍、太閤の威勢、金の瓢箪等をほめ立つれば、来衆最も多し、かの土の人心なお旧染を脱せず、とある。旧友高野礼太郎民話に、氏が生まれた信州松代の藩士が大坂へ往くと、真田の家中と言い囃され大もてだった、と。されば中井積善が、身大坂に住みながらその著『逸史』に、関ヶ原・大坂二役の西軍を賊と呼びあるは、はなはだ江戸幕府に媚びたものだ。ただし、当人は長い物に巻かるるを達見とでも思うたであろう。とにかく豊臣贔屓の上方では、われら幼時まで『真田三代記』の講釈|甚《いた》く持て囃され、真田を称揚すること、その後の西郷さんに等しかったから考えると、真田父子が謡をよくしたことは、蕪村のころまであまねく知れ渡りおったことと惟う。
(555) 春蝉について
本誌七月號安保君の「春蝉について」に「この蝉は南日本の山林に普通見ますが、云々」とあるが、この物紀州ではマツムシ、またはマツセミと言い、山谷よりは平原の松の並木に多く、その鳴くは決して喧しからず、徐かに糸をくるように長く引いて鳴くから、これを聞くと眠りを催すと一汎にいう。一昨年五月、徳川頼倫侯を大磯付近の高麗寺山荘に訪うた途次、街道の松原に多く鳴きおったのが全く紀州のと異《かわ》らず、幼時和歌浦街道を毎々歩いて聞いたと異らなんだ。エゾハルゼミも、東北と北海道に限らず、大正九年八月、高野山の湯川辻付近で雌雄交合して喧しく声を立てながら高い木から落ちたのを、同行の坂口総一郎氏が拾うた。だから、マツムシすなわちハルゼミは南日本、エゾハルゼミは東北と北海道に限り生ずると、そう判然たる区画は天然になきように思わる。 (大正十三年九月『同人』五巻九号)
(556) サネキという木
俳書にサネキなる名の木は見えぬが、『現存和歌六帖』に、「青山と名にこそたてれおのづから、峰のさねきは花咲きにけり」信実朝臣、とあり。これは何物でしょうか。大方の教示を俟つ。 (大正十四年三月『同人』六巻三号)
(557) 餅を福と称うること
一
山東京伝の『骨董集』上編上巻に、「むかし目黒不動尊の門前にて、ごふくの餅というを売る。もとはお福の餅なるを、呉服の餅と謬まれり、とある物に記せるは僻事《ひがごと》ならん。愚按ずるに、こは御服《ごふく》の餅なるべし。物食うことを中ごろはぶくすと言えり。神仏に日ごとに物を供《くう》ずるを日服《ひぶく》と言えるも、中古より後の詞《ことば》に見ゆ。かの餅も、もと不動尊に供じたる物なれば、御服と言いしなるべし。後に忌服《きぶく》の服と同字なるを忌みて、御福《おふく》と言い替え、福を得て帰る心にて、土産にも求めしならん。むかし浅草の茶屋(今二十軒茶屋という)にて、ごふくの茶まいれまいれと呼び入れしも、観音に供ずる茶という心にて、御服の茶ということならん、云々」。果たして御服が御福に転じたものか判らねど、京伝より前に餅を買うて福を得るという俗信が行なわれたことは確かだ。
足利時代の末つ方、天文元年に成った『塵添?嚢抄』三に、「年始には人ごと餅を賞翫するは、何の心ある。餅は福の物なれば、祝い用うるか。むかし豊後国|球珠郡《くすのこおり》に広き野ある所に、大分郡に住む人、その野に来たりて、家造り、田を作りて住みけり。あるに付けて家富み、楽しかりけり。酒呑み遊びけるに、取り敢えず弓を射けるに、的《まと》のなか(558)りけるにや、餅をくくりて的にして射けるほどに、その餅白き鳥になりて飛び去りにけり。それよりのち次第に衰えて迷い失せにけり。跡は空しき野となりたりけるを、天平年中に速見郡に住みける訓邇《くに》と言いける人、さしもよくにぎわいたりし所のあせにけるを、あたらしとや思いけん、またここに渡りて、田を作りたりけるほどにその苗みな失せければ、驚き恐れて、また作らず捨てにけりといえることあり。餅は福の源《みなもと》なれば、福神去りけるゆえに衰えけるにこそ。福の体なれば年始にもてなすべし。二人|対《むか》いて餅を引き割るをば福引と言い習わせるも故なきにあらざるか。また内裏には餅の名を福生菓といえる、と言えり」。
『嬉遊笑覧』四に、件《くだん》の餅を射た話の本源として『豊後風土記』を引く、いわく、大足彦天皇《おおたらしひこのすめらみこと》(景行帝)、豊国直《とよくにのあたい》らの祖|菟名手《うなで》に詔《みことのり》し、豊国に遣わし治めしむ。往きて豊前国仲津郡|中臣《なかとみ》村に至る。時に日|晩《く》れて宿る。明日|昧爽《まいそう》、たちまち白鳥あり、北より飛び来たり、翔《かけ》りてこの村に集まる。菟名手すなわち僕者に命じ、その鳥を看せしむるに、鳥化して餅《もちい》となり、片時の間にさらに化して芋草《いも》数千許株《いくらもと》となり、花葉冬栄ゆ。菟名手これを見て異となし、歓喜していわく、化生の芋未曽有なり、実に至徳の感、乾坤の瑞、と。すでにして朝廷に参上し、挙状して奏聞す、云々、と。
熊楠いわく、『豊後風土記』によったのでなかろうが、芋から福を得た話が『金陵地名考』に出ず。加賀金沢の伏見寺の開基藤五郎、城州の生れで氏姓賤しからず、藤の五郎という。のち賤しくなりて常に芋を食うたから、芋掘り藤五郎と呼ばれた。大和長谷の里人幾玉右近万信という長者の娘王和五、形清くすくやかなれば、美清女と称せらる。この国へ来たり、藤五郎に嫁す。藤五郎芋掘る所みな金なるを宝と知らず。妻の教えで始めて知った。ある夜、藤五郎夢の告げに任せて、閻浮檀金《えんぶだごん》の薬師の像を得、すなわち伏見寺を建て、その本尊とした。また三つの金の牛を作って納めた。藤五郎は薬師十二神将のうち宮毘羅《くびら》大将の化身だ、と。『華実年浪草』一上に、「いものかみ、芋頭を言う。頭をかみと言うこと、いわゆる祝語なり。玄蕃頭、木工頭のかみを借りて言う。芋魁《いもがしら》、正月の羮および嘉祝に必ずこ(559)れを用うるは多子の義に取るなり」と書す。
なお餅を福と呼ぶことについては、『華実年浪草』一上に、「『雑談抄』にいわく、和俗に七日の粥を福|沸《わか》しと呼ぶ、福とは餅の異名なり、その故は、古え福引とて餅を二人して引き合うこと侍りしとや、その上餅の異名を福生果と言えり、今朝粥に餅を和して煮熟するを言うと、云々。野州辺にて鏡餅を福出《ふくで》と称す、福生果より言うにや、云々」と。
同巻に、「大服は点茶の名なり。(予の蔵本、ここに誰かの書き入れあり、いわく、福茶とも言う、服の字を忌んでなり、と。)『紀事』にいわく、その式茶を点じ、あるいは塩梅、椒《さんしよう》を茗碗の内に漬けて、合家これを飲む、また賓客に献ず、これを大服という、梅を用うるは、高年ののち面皮皺を生ず、しかして塩梅の皺面に倣《なら》わんと欲するなり、椒はこれを服すれば、人をして身軽くよく走らしむ、云々。『淡海志』にいわく、正月詞に祝うて、勢田には大服茶を点じて、吹きたり廻りたりと言うて呑み、矢橋にはこれに異なり、早に粥を食うて今日はよきかい日和なり、と言うと、云々。これ互いに旅人の多きを悦ぶなり。
熊楠いわく、熊野の勝浦港に雨風《あめかぜ》という料理店あり。風雨|暴《あ》れすさむ時船出ず、乗客、水夫|留《とどま》り飲む者多きを冀い祝うての名と聞いた。たまたまむかしの勢田の旅舎の心掛けに同じ。
今式にいう、大服ということ、古格ありといえども忌むべし、服という文字なれば、作になりて宜しからず、近く松崎蘭如という俳人あり、大ぶくと作るとも何ぞ禍福その詞に由らんやとて、『大服や三口にちゃうと寿福禄』とせしに、その年、類孫の愁ありて服を受くること三度、云々」。京伝が、御服の餅の服の音を忌んで御福の餅と言い替えたと言うたは、これらを読んでの思いつきらしい。
『嬉遊笑覧』一〇上にいわく、「『山家集』に、みやだてと申しけるはしたもの、としたかくなりて、様《さま》かえなどして縁《ゆかり》につきて吉野に住み侍りけり。思いがけぬようなれども、供養を演《の》べん斜にとて果物《くだもの》を高野の御山へ遣わしたりけるに、花と申す果物侍りけるを見て、申し遣わしける、折櫃《をりびつ》に花のくだ物つみてけり、吉野の人のみやだてにして、(560)とあり。果物の円扁にして花弁に似たるなり。吉野にて、春のころ花餅とも御福ともいいて売る物は、竹串を半ばまで団扇のごとく細く裂きたるに、小さき花びら餅をさしたるなり。(江戸にて近ごろ諸仏の縁日には辻に出て売る物あり、これなり。下に言うべし。)これは、もと吉野に華供ということあり、また歳首に蔵王権現に供えたる餅を砕き、他の米を加え、二月一日、本堂にて諸人に施し、また山中の僧俗にあまねく賦《くば》る、これを餅配りという。くわしく『滑稽雑談』に出でたり。『山家集』に花の果物と言えるはこれなり」。また「『山家集』にみやだてと言いしはみやげのことに言えり」とて、考証を列ぬ。熊楠いわく、それをここにはこの名の女に言いかけたのだ。
後に「御福の餅は神社、仏閣いずくにもあり」とて、目黒のごふく餅のことを述べ、「その始めは吉野の御福の餅に傚《なら》いし物とみえたり。餅はもとより福の名あれど(『 壌嚢抄』などにその由みえたり)、御福とは何にまれ神仏に供えたるをおろして賜わるを然《しか》いえり。『著聞集』に、鞍馬寺の別当すずを人の許《もと》へ遣わすに、『このすずは鞍馬の福にて候ぞ。さればとて、またむかでめすなよ』。すずは小竹《しの》なり。ここはその竹の子をいうなり。こは供え物ならぬをも、その地に産する物は福と言いしなるべし。蜈蚣《むかで》は鞍馬の使者と言い習わす。それをさえ福と言いしとみえて、この歌あり」と記す。神地の産物を土産に持ち帰り、また食うべからざる蜈蚣までも福と言うたから攷えると、目黒のごふく餅は本来御福餅で、御服餅とした京伝の説は曲解と思う。
『笑覧』同巻に、「『祇園物語』に、あたりなる焼餅《やきもちい》と申す物一つ参るべくもや候、云々。老人一つ取りて手の内したたかに覚え、よく見れば中にはあずきを包み、上に薄様《うすよう》ほど餅を張りつけたり。これならば、あずきとてこそ売るぺけれ、餅と名をつけて偽れることこそ軽薄なれ、お足一つに替ゆる物だにかかる偽り多ければ、ましてほかのことよろず軽薄ならぬはなし、云々、とありて、下文に鶉焼は薄皮の十字(熊楕注す、十字は饅頭の異名)の類《たぐい》ならん。あまりに軽薄なるによりて、翁の涙流し感ぜられ候も理《ことわり》なり、と言えり」とありて、「紀州道成寺の絵巻物に、女の路行くところに従者餅を進めてふくた養わせたまえるとあるも、この類の餅なるべし、云々。
(561) 熊楠いわく、その画を見るに、尋常の餅のごとし。上に引いた『華実年浪草』に、野州辺で鏡餅をフクデと言う、とある通り、フクタは福出しの意で、餅をフクタと称えたので、鶉焼や薄皮饅頭の特称でなかろう。
さて件《くだん》の鶉焼とは、その鳥の丸く膨《ふく》らかなれば准《なずら》えて名づけたるか。後世|腹太《はらぶと》という餅これなり。皮薄くして、餡は赤小豆に塩のみ入れて砂糖はなく、ただ大に作りたる物なり。大ふく餅ともいう。のちその形を小さく作り、餡も漉《こ》し、粉に砂糖を加えたるを、もっぱら大福餅と呼ぶ。腹太餅は近ごろまでもありしが、今は絶えたり」と述ぶ。
熊楠いわく、鶉焼も、薄皮饅頭も、大福餅も、現にあり。似た物ながら、成分製法みな違う。砂糖加減は古今の異《かわ》りあるべきも、それぞれ形はむかしも今もあまり違うまい。腹太が大腹、それより大福と改称したとはさもあるべし。だが、物の名は必ずしももっぱら一源に出ずるに限らない。大福は大腹より移ったと同時に、大なる福を得るという延喜を祝うてつけた称えだろう。
二
『野史』一二六に、北条氏康の三男安房守氏邦は、信長弑せられた直後、神流川の大戦にその臣滝川一益を破ったが、秀吉東征に際し、鉢形城を守り前田、上杉等に攻められ戦ううち、城から火が出で防ぎがたいから開城して、正竜寺に退き僧となって宗青と號し、のち加賀に住んで慶長二年歿した。能書で連歌の名人という。この人の妻を大福御前と称う。城に火事起こった時、輿に乗ると火すでに逼り、侍婢や従者みな焼け死んだ。賊あり、軍《いくさ》に乗じて資財を掠めおったが、この奥方を誑《たぶら》かし縛って信州野麻の民に売り、その妻とした。一日、麦を門に曝すところへ馬子が通った。その往き先を問うて書を托し、猪股の正竜寺へ達したので、その辺に隠れおった旧臣、その主君の御台が飛んだ所にあると驚きあわて、輿を舁《か》かせて急ぎ来たり、その身代《みのしろ》を贖い、猪股へ伴れ帰った。そこで尼となって庵に住ん(562)だが、居常怏々として悦ばず、一日髪を剃り沐浴してみずから喉を掻き切って歿した。遺書に、われここに到りしはこの寺に死なんと欲してなりとあり、と載す。
これより詳しいことを予は知らぬが、この奥方が信州の百姓の妻となっておったうちに、夫氏邦はすでに、その主君で甥なる氏直と共に、秀吉のために高野山に放たれ(『野史』二七、氏直伝)、それからかつて鉢形城を前田利家に明け渡した縁につけて加賀へ移住したゆえ、ついに再会の期なく、せっかく恥を忍んで名もなき百姓の婦に成り下がったのが、まるでしられ損になった。よって大いに失意しての自殺で、この寺で死なんとて永らえたとは、今一度夫に逢いたくて、ならぬ苦辛を忍んだという意と見える。スパルタのヘレネー、インドのシーター、唐の韓?《かんこう》の妻柳氏、いずれも暴力をもって奪い去られたが、天運回りてまた本夫の手に返った。東漢の名士|蔡?《さいよう》の女《むすめ》、名は?《えん》、字は文姫、博学にして才弁あり。また音律に妙に、書道の大家たり。衛仲道の妻たりしが、乱に遭うて胡騎に獲られ、南匈奴の左賢王に没せらるるもの十二年、ために二子を生んだ。曹操もと?と善かったので、その後なきを痛み、金璧をもって重く償い還し、董祀に妻《めあわ》せた。?みずから大節を傷《やぶ》りしを悲しみ、また胡王に産まされた二子を忘れあたわず、ために「悲憤」一篇を作った(『古今事類全書』後集一一)。こんな非凡の女傑でも情感は別な物で、おのれを虜掠した胡王に添臥して二子まで産むを免れず、また故国へ救い戻された後までその子供を忘れなんだ。これに比すれば、大福御前が無名の百姓の妻となってその子を孕んだ沙汰のないだけは喜ぶべし。されど、ヘレネーやシーターや柳氏がのちついに本夫の手に復ったと比べると、及びもつかぬ不幸な婦人と気の毒千万に存ずる。
この氏邦の妻の称えなる大福という語は、『義経記』巻一に、「そのころ三条に大福長者あり、その名を吉次信高とぞ申しける」。例の『徒然草』に、「ある大福長者のいわく、人は万《よろず》をさしおきて、一向《ひたぶる》に徳をつくべきなり」。『和漢三才図会』に、『仏説摩訶迦羅大黒天神経』なる偽書を引いて、われ一切貧窮無福の衆生において、大福徳のために今優婆塞形を現ずなどあって、一身一家の繁昌を祝うため盛んに用いられたこと、今も大福帳の名を存するので知る(563)べし。
『華実年浪草』一上にいわく、「『雑談抄』にいわく、帳面に大福の字を題す。その根源、洛陽の上菩提薬師堂より始まれり。縁起にいわく、本尊は推古天皇六庚午、聖徳太子彫刻し給い、大和国広瀬郡宮田郷に伽藍を建て、薬師をもって本尊とし、造営事終わって大工鍛冶諸商人に金銀を賜う。おのおの富貴の身となる。奈良北京難波堺の輩、この縁にあやからんとこの堂に来たり集まりて、帳の上書を大福帳と題すること大福寺よりの義によれりと、云々。文亀のころ、この寺今の京に移り、今絶ゆ」と。熊楠いわく、上菩提は上醍醐の誤刊だ。この薬師仏霊験のこと載せて伝記にあり、病者あれば金銀箔を持ち来てこの像に貼るに霊応あり、古今これをなす者絶えず、と『山州名跡志』一四に見ゆ。
『薬師如来本願功徳経』に、人死する時、閻摩《えんま》の侵入その神識を引いて閻摩法王の前に置くと、この人のうしろに同生神(倶生神のこと)あり、その所作に随い、もしくは罪、もしくは福、一切みな書し尽し、閻摩法王に与えると、法王その人を推問し、所作の善悪を計《かぞ》えて処分する。もしよくこの病人のために、薬師仏に帰依し如法供養せば、閻摩の使者に取られた神識を取り戻すことができる。さて七日、二十一日、あるいは三十五日、また四十九日して、あらゆる善悪業報を臆い出し、なるほど悪いことはせぬものとみずから改心して罪を脱れるから、薬師様はありがたい、と説きある。薬師のお経にかく閻摩帳のことが載りおるから、またその帳には罪と福を記して勘定差引するとあるところから、罪業に対する宗教上の福分を営業的の福利と混同して、帳に大福と題するに及んだと見える。
『??《ほき》内伝』などもっぱら道家から出た暦占書に大福の字を見ず。これに反し、石橋臥波君の『宝船と七福神』に引かれた『仏説摩訶迦羅大黒天大福徳目在円満菩薩陀羅尼経』に、大黒天を大福徳自在円満菩薩と称し、衆生に大福徳を与うるを本願とすと見え、『毘沙門功徳経』に、「大福われに聚まる、云々。丑寅に向かいて名号を唱うること一百八遍せよ。大福徳を得べきなり」とあるなど、大福徳といい大福という語は、もと仏経から出たものと思う。西晋訳(564)『阿育王伝』に、大与婆羅門、大福徳人を生まんとて大種姓の女を妻《めと》る、とある。餅の名の大福餅、北条氏邦の室大福御前、共にこの名をつけたころ、仏典から出た大福なる成語が盛んに行なわれたによる。
餅を神仏や嘉儀に供え祝うこと、日本に限らず、稲を常食とする国は概して同様で、あたかもユダヤ教、耶蘇教の徒が?包《パン》を供うるがごとし。『淵鑑類函』餅の条に、祭祀に種々の餅を用うること見える。例せば、盧諶《ろしん》『祭義』にいわく、春雨に鰻頭、湯餅、髄餅、牢九を用ゆ、夏秋冬またかくのごとし、夏祠別に乳餅を用い、冬祠に環餅を用うるなり、と。インドの諸例は、ジャクソンのグジャラットとコンカンの『民俗記』に多く見える。されば、餅を福と称することも、餅を作る諸国には必ずそれぞれあったことだろう。『類函』に 『柳氏旧聞』にいわく、唐の粛宗、太子たりし時、父玄宗に侍食した。玄宗命じて羊の臑《うで》を割《さ》かしむると、刃が汚れたのを餅で拭いた。玄宗熟視して懌《よろこ》ばず。しかるところ、太子、汚物を拭うた餅を徐かに挙げて、食うてしまった。それを見て玄宗はなはだ悦び、太子に向かって福まさにかくのごとく愛惜すべしといった、と。これは餅は福ある物ゆえ、むやみに使い捨てぬ風が唐朝に行なわれた証拠で、当時餅を福と呼んだ証左にも立つ。それより二百年ほど後に陶穀が書いた『清異録』に、湯悦、士人に駅舎に逢う、士人|揖《ゆう》してその中の一物を食らわしむ、これ炉餅各五事、細かに味わうに餡料同じからず、もって問う、士人歎じていわく、これ五福餅なり、と記す。これも餅を福と言った証拠で、五福餅の音が偶然目黒のごふく餅に同じきも妙だ。目黒のごふく餅は決して五福餅から出たのでなかろうが、餅を福と言った例が、支那に二つまであれば、ごふく餅は本来御福餅で御服餅でない論拠を強める。
さて支那で餅を福と呼んだは、本来支那にあったことか、また外国から移ったことか、さだかに知れないが、玄宗在位の時より二、三百年前、西晋の朝に漢訳されたという『仏説放鉢経』に、インドで餅を福とした話が出ているから、あるいはインド移入かもしれぬ、その話は、前世無数劫の時、羅陀那祇《らだなぎ》仏世に出ず。その教えを受けた惹那羅耶《じやならや》菩薩、朝起きて托鉢して還る街上に、一乳母ありて長者の子を抱きおる。その子、名は継摩羅波休、この沙門を見て(565)乳母を離れ、沙門の所へ趣《おもむ》く。沙門砂糖をつけた餅を授くるを食うてはなはだ旨いから、沙門に随い行く。乳母驚いて逐いかくると、小児は餅を食ってしまって、乳母の方へ還ろうとする。沙門また餅をやると、小児それを食う。ついに沙門に随って城を出で、羅陀那祇仏の処へ行き、仏の三十二相八十種好の美形を見て飽かず、諸菩薩比丘を見て大いに歓喜した。沙門すなわち小児に手と口を洗わしめ、鉢の餅を与え、これを仏に奉れ、汝、今安穏を得、のちその福を得、と教えた。小児すなわち鉢餅を持って仏前に至り、餅を取って仏の鉢に入れ、それより餅を諸菩薩比丘に配り廻り、一同満足飽食したが、鉢中の餅は一向減らず。こんなに仏菩薩比丘に餅を奉ること七日、小児大いに歓喜し、われ日に一餅をもって仏菩薩および比丘僧に奉ること七日、われ必ず福を得ん、と言った。この一功徳によって、果たして仏となるを得た。その時の惹那羅耶菩薩は今の文殊で、小児は釈迦如来、文殊の教えで小児が餅を仏に奉った功徳で釈尊に転生したから、文殊は釈尊の恩人だということじゃ。
ここにいうところの福は、善い報いの義だが、のちのち福と言えば利潤、ことには僥倖的の儲けをいうように変わったと共に、餅を人に食わせて満足せしめて善報を得るという福から移って、買ったり貰ったり、また盗んでまでも、食いさえすれば福利を得という非分の福に変わって来たのだ。(七月二十三日早朝稿成る) (大正十三年六、八月『日本土俗資料』二、四輯)
(567) ひだる神
柳田国男「ひだる神のこと」参照
(『民族』一巻一号一五七頁)
ここに『和歌山県誌』から、ある書にいわく、云々、と引いたは、菊岡沾涼の『本朝俗諺志』で、本文は、「紀伊国熊野に大雲取、小雲取という二つの大山あり。この辺に深き穴数ヵ所あり、手ごろなる石をこの穴へ投げ込めば鳴り渡りて落つるなり。二、三町があいだ行くうち石の転げる音聞こえ鳴る、限りなき穴なり。その穴に餓鬼穴というあり。ある旅僧、この所にてにわかにひだるくなりて、一足も引かれぬほどの難儀に及べり。折から里人の来かかるに出あい、この辺にて食求むべき所やある、ことのほか飢え労《つか》れたりといえば、跡の茶屋にて何か食せずや、という。団子を飽くまで食せり、という。しからば道傍の穴を覗きつらん、という。いかにも覗きたりといえば、さればこそその穴を覗けば必ず飢えを起こすなり、ここより七町ばかり行かば小寺あり、油断あらば餓死すべし、木葉を口に含みて行くべし、と。教えのごとくして、辛うじてかの寺へ辿りつき命助かる、となり」とある。
予、明治三十四年冬より二年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキに付かれたことあり。寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず、一度は仰向けに仆れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くを免れた。それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌《きざ》しある時は少し食うてその防ぎとした。
(568) 『俗諺志』に述べたような穴が只今雲取にありとは聞かぬが、那智から雲取を越えて請川《うけがわ》に出で川湯という地に到ると、ホコの窟というて底のしれぬ深穴あり。ホコ島という大岩これを蓋《おお》う。ここで那智のことを咄《はな》せば、たちまち天気荒るるという。亡友栗山弾次郎氏方より、元日ごとに握り飯をこの穴の口に一つ供えて、周廻を三度歩むうちに必ず失せおわる。石を落とすに限りなく音して転がり行く。この穴、下湯川とどこかの二つの遠い地へ通りあり。むかしの抜け道だろうと聞いた。栗山家は土地の豪族で、その祖弾正という人天狗を切ったと伝うる地を、予も通ったことあり。いろいろと伝説もあっただろうが、先年死んだから尋ぬるに由なし。この穴のことを『俗諺志』に餓鬼穴と言ったでなかろうか。
また西牟婁郡安堵峰辺ではメクラグモをガキと呼ぶ。いわゆるガキが付くというに関係の有無は聞かず。 (大正十五年三月『民族』一巻三号)
【追記】
予、那智辺におった時ガキに付かるるを防ぐとて、山行きごとに必ず握り飯と香の物を携え、その萌しあれば少しく食うて無難を得た由はすでに述べた。これに似たこと、一九二三年ケンブリッジ板、エヴァンズの『英領北ボルネオおよびマレイ半島の宗教俚伝風俗研究』二七一と二九四頁に出ず。マレイおよびサカイ人が信ずるは、食事、喫煙等を欲しながらそれを用いずに森に入ると、必ず災禍にあう。望むところの食事、喫煙を果たさずに往って、蛇、蠍《さそり》、蜈蚣《むかで》に咬まれずば、まことに僥倖というものだ。これをケムプナンと呼び、ひだるいながら行くという意味だ。かようの時は、自分の右の手の中指を口に入れて三、四度|吮《す》えば災に罹らぬ、とある。
松崎白圭の『窓のすさみ追加』下に、柔術の名人が、近所に人を害して閉じ籠った者を捕えよと、その妻が勧めても出てず、強いて勧めてのち、しからば食を炊ぐべし、食気なくては業《わざ》をなしがたしとて、心静かに食事してのち押し入りて、初太刀《しよだち》に強く頸を切られながらその者を捕えた、と記したごとく、腹がたしかでないと注意不足して種々(569)の害にあうのである。 (大正十五年七月『民族』一巻五号)
【増補】
道中で餓鬼に付かるるということ、もっとも古く見えた文献は、『雲萍雑志』である(『民族』一巻一号一五七頁)と言われたが、それと予が引き出した『本朝俗諺志』(『民族』一巻三号五七五頁)と、いずれが古いか。ふたつながら予の蔵本にこれを書いた年を記しおらぬから、見当がつかぬ。
また紀州有田郡糸我坂にこのことあるというについて、糸我坂は県道で、相応に人通りある処であると言われたが(『民族』一巻一号一五七頁)、明治十九年、予がしばしばこの坂を通ったころまでは、低い坂ながら水乏しく、夏日上り行くに草臥《くたび》れはなはだしく、まことに餓鬼の付きそうな処であった。和歌山より東南へ下るに藤白の蕪坂を越え、日高郡より西北へ上るに鹿ヶ瀬峠を越えてのち、労れた上でこの糸我坂にかかる。そんな所でしばしば餓鬼が付いたものと見える。
さて、この発作症をダリと呼ぶことも文献にみえぬでない。安永四年に出た近松半二、栄善平、八民平七の劇曲『東海道七里渡』第四段、伊勢亀山の関所を種々の旅人が通るところに、奥州下りの京都の商人、「なるほどなるほど、仙台へ下りし者に相違もあるまじ、通れ通れと言えど答えず、体《たい》を縮め、大地にどうと倒れ伏す。こは何故と番所の家来バラバラ立ち寄りて、みれば旅人の顔色変じ、即死とみえたる、その風情、和田の今起、声をかけ、まてまて家来ども、旅人が急病心得ず、篤《とく》と見届け薬を与えん、イデ虚実を窺いえさせんと、静々と歩みより、フウ六脈《りくみやく》たしかに揃いしは、頓死にてはよもあるまじ、しかし、この腹背中へ引っつきしは心得ず、オオそれよ、思い当たりしことこそあれ、唐土《もろこし》斉の王死して餓鬼の道に落ち、人に付いて食事を乞う、四国の犬神《いぬかみ》に同じ、この病神をさいでの王と号す、俗には餓鬼ともいい、だりともいう、この旅人にも食事を与えば立ちどころに平癒せん、ソレソレ家来ども、飯を与えよ、早く早くと、その身は役所に立ち帰り、窺う間に家来ども、もっそう飯《めし》を持っていで、旅人の前に差し(570)置けば、不思議なり奇妙なり、伏せたる病人ゆるぎおき、アア嬉しやな有難《ありがた》や、このころ渇せし食事にあい、餓鬼道の苦患《くげん》を助からんと、すっくと立ちて、そもそも餓鬼と申すは申すは、腹はぼてれん太鼓のごとく、水を飲まんとよろばい守れば、水はたちまち火?となって、クヮックヮッ、クヮクヮクヮックヮ、クヮクヮックヮクヮ、クヮックヮラクヮノクヮ、かの盛切りの飯取り上げ、一口食ってはあらあら旨《うま》や、あら味よやな、落ちたる精力、五臓六府の皮肉に入りて、五体|手足《しゆそく》はむかしに違わず、鬼もたちまち立ち去るありさま目前に、みるめ、かぐ鼻、関所の役人、皆皆奇異の想いをなし、呆れ果てたるばかりなり。和田の今起、声をかけ、コリャコリャ旅人、病気はいかに、ハイこれはこれは、先ほどよりにわかにひだるうなりますと、とんと正気を失いましたが、只今御飯を下さるとたちまち本性《ほんしよう》、全くこれはあなた様方のお蔭、エお有難う厶《ござ》ります、と一礼述べて急ぎ行く」とある。餓鬼に付かれたありさまを、よく備《つぶ》さに記述しあるから、長文ながら全写した。
さて、この餓鬼が人に付くということ、仏典にありそうなものと見廻したところ、どうもないようだが、やや似たことがある。元魏の朝に智希が訳出した『正法念処経』一六に、「貪嫉《たんしつ》心を覆い、衆生《じゆじよう》を誣枉《ふおう》し、しかして財物を取る。あるいは闘諍《とうそう》を作《な》し、恐怖して人に逼《せま》り、他《ひと》の財物を侵す。村落、城邑において他の物を劫奪《きようだつ》し、常に人の便を求めて劫盗《きようとう》を行なわんと欲す。布施を行なわず、福業を修めず、良友に親《ちか》づかず。常に嫉妬を懐《いだ》いて他の財を貪り奪う。他の財物を見れば、心に惡毒を懐く。知識、善友、兄弟、親族に、常に憎嫉を懐く。衆人これを見れば、みな共にこれを指して弊悪の人となす。この人は、身|壊《やぶ》れて悪道に堕ち、蚩陀羅《しだら》餓鬼の身を受く(蚩陀羅は、魏にては孔穴《あな》と言い、義には伺便という)。遍身の毛孔より自然《おのずから》に火?《ほのお》たち、その身を焚焼し、甄叔迦《しんしゆくか》樹の花盛りの時のごとし(この樹の花は赤きこと火の聚《かたまり》の色のごとし、もってこれに喩う)。飢渇の火、常にその身を焼くがために、呻《うめ》き号《さけ》び悲しみ叫ぶ。奔突して走り、飲食を求索め、もってみずから済《すく》わんと欲す。世に愚人あり、塔に逆らいて行き、もし天廟を見れば順行恭敬す。かくのごとき人には、この鬼は便《てがかり》を得て人身の中に入り、人の気力を食らう。もしまた人あり、房に(571)近づき穢《え》を欲すれば、この鬼は便を得てその身中に入り、人の気力を食らい、もってみずから活命す。自余《じよ》の一切は、ことごとく食らうを得ず(下略)」と出ず。この人の気力を食らうというが、邦俗いわゆる餓鬼が付くというに一番近いようだ。 (昭和二年七月『民族』二巻五号)
(572) フクラシバ
本誌一巻三号四四一頁に、「紀州伊都郡小原田村の薬師山のごときは、フクラシバ(梛?)と榊と二種の木にも檜の葉を生じ」とある。フクラシバを梛? とされたは、梛をチカラシバともいうから、シバを便りに、フクラシバも梛であろうかと惟われたのであろう。
フクラシバは、梛とは別類の喬木で、冬青《もちのき》科に属し、『本草図譜』八五の九葉表に図あり。フクラモチ、フクランジョウ、フクラジョ、フクラジなど異称さる(『重訂本草啓蒙』三二)。熊野では染料とする。近衛家煕公の口授を筆記した『槐記』続編一、享保十六年六月十五日の条に、フクラの冬青樹たる由を記して、「『救荒本草』には凍青と出だせり。このフクラは日本にて笏《しやく》に作る木なるがゆえの御吟味なりしが、正しく『本草』に象笏に代えてこの木を笏に作る由を載せたり。正しき凍青なるべし。これにて思うに、昔人のなすところ、多くはその説漢より出ず、日本のことなりと思うに、謬れることあり、と仰せらる」と出ず。一位の木で笏を作ったとは誰も知るが、フクラシバで笏を作ったことは、知った人が少ないから記しおく。フクラジョウ、フクラジョ、フクラジのジョウ、ジョ、ジ、みな樹の音で、フクラはどう書いたか知れねど、けだし支那名を和読したものだろう。また『大和本草』に、フクラ、叢生す、高さ六尺に過ぎず、木柔らかにして、曲斧の柄にまげてよし、とあるはフクラシバと異物らしい。(三月六日) (大正十五年七月『民族』一巻五号)
(573) 椰子に関する旧伝一別
予、九歳、十歳のころ、好んで諸種の節用集を読み抄した。そのころ和歌山の町家ごとに節用集と大雑書とは必ず一部ずつ備えあったから、ずいぶん多種を見たが、大抵の節用集の動物門に海髑子と書いてヤシと振仮名しておったが、何のこととも分からず、十六歳で東京へ出で、初めてこの名が源順の『倭名類聚抄』に出るを知った。その亀貝類一一〇、錦貝の次にこの名を列ね、「崔禹の『食経』にいわく、海髑子(夜之)(狩谷?斎の箋注にいわく、下総本に和名の二字あり、夜之《やし》と訓じ、輔仁に依る、と)、この物神霊を含み、人を見ればすなわち海中に没す。髑髏に似て鼻目あり、故にもつてこれに名づく、と(箋注にいわく、『本草和名』の引くところ、海の上に在の字あり、按ずるに海髑子、夜之、並びにいまだ詳らかならず、と)」と記す。
この海髑子は何物かさっぱり分からず、なにかウニやタコノマクラ様の動物で、すてきに人頭に似た物らしく想われたので、大英博物館でいろいろその類の標本を調べたが、相応の品を見つけなんだ。しかるに、このほど種々の書を読んで、これはどうも椰子にほかならぬと知るに及んだ。まず椰子の講釈からやらかそう。
『本草啓蒙』二七に、椰子、通名ヤシオ、津軽でトウヨシノミとあって、支那の異名を四つ挙げた中に哥具(『東西洋考』呂宋《ルソン》の方言)と載せたは、西欧でこれをココまたココアと呼ぶに基づく。さていわく、和産なし、熱国の産なり。実は四辺の海浜に漂流し来たる、故に四国、但州、佐州、奥州、若州等の地にままあり。(中略)今四辺に漂着するもの、形、桃実のごとくにして頭尖り、長さ八、九寸、径《わたり》五、六寸あるいは三、四寸、また三稜なるもあり、云々。外(574)皮は黒褐色にして薄し。この内に二寸ばかり厚く包める皮あり、云々。この内に核あり、大いさ三寸ばかり、はなはだ堅くして厚さ二、三分、形|円《まる》く一頭尖り、三孔ありて人面のごとし、故に『釈名』に越王頭という(下略)。ざっとこうだ。(岡田挺之の『秉穂録』二上に、志摩国ナキリの海辺は、異国と水路通ずるにや、椰子年々流れ寄るという、とあり。)越王頭の名は、もと西晋の恵帝の時大臣だった?含が、むかし広州刺史だった時、見聞した植物を記載した『南方草木状』に見え、この事はブレットシュナイデルが言った通り、純粋な植物学的な最古の支那書である。その下巻に、椰子の形質を説いたあとで、俗にこれを越王頭という、云々。むかし林邑王、越王と故怨あり、侠客を遣わし刺してその首を得、これを樹に懸けると、にわかに化して椰子となる。林邑王これを憤り、命じて剖いてもって飲器となす、南人今に至りこれに傚《なら》う。刺さるる時に当たり、越王大いに酔う。故にその漿《しる》なお酒のごとしという、と。けだしチベットその他に、人を殺してその髑髏を盃とする俗あり、髑髏盃のこと支那書にもしばしば見え、日本でも、信長が浅井、朝倉を滅した時、二将の頭顱《とうろ》を盃とし、天正二年正月、岐阜で功臣どもに賜宴の節用いたと言い、『閑田次筆』に、高野蘭亭、盲人だったが盲ら滅法に乱暴な人で、元弘の忠臣大館宗氏の墓を発《あば》き、その頭顱を盃に作った由記し、他にも和漢の数例を挙げた。東南アジアでも、旧くこのこと行なわれたから、?含が筆した伝説も生じたと見える。
(マカイル尊者、腐った髑髏で食らうこと(「英国抜書」一六表七三頁)、髑髏より食らうこと(同上)。これらは小説だが、歴史に見えるも、名高きはロムバード王アルボインのこと(ギボン、四五章)。欧州の髑髏盃の例、『ゲスタ・ロマノルム』五六章やナヴァル王后の三十二話やガワースの『コンフェッショ・アマンチス』などにある。プルシャワルスキ、ラマ髑髏椀で食らうこと(「英国抜書」一八表一一頁)。多島州の例(「英国抜書」四六表三五頁)。ロヒホルツいわく、刑死のものの髑髏で飲む者は、癲癇を治すと信ぜらる、と。ライン地方トリエルにあるテオズル尊者の銀被せの脳盃は、熱病に験あり。上バヴァリアのエビルスベルヒにあるセバスチアン尊者の銀被せの髑髏は、巡礼来たり、こ(575)れを盃として加持されたる酒をのみ、黒死病を防ぐと信ず。ウェールス・ペムブローク州のテイロ尊者の井の水を、かの尊者の髑髏盃で飲めば、なにかの病を治すという(一八九六年九月、『フォークロール』七巻三号、ピーコック「刑死罪人と俗医方」二七六頁)。十二年間、髑髏盃で飲み食いし巡礼(一七八二年板、ソンネラ『東|印度《インド》および支那航記』一巻五三頁)。水戸義公の髑髏盃(『甲子夜話』五、続四一)。一七九六年、英国のマーソン儀を行ないしもの、髑髏盃を用いしこと(サウゼイ『コンモンプレース・ブック』三七五一桁)。「匈奴の冒頓単于《ぼくとつぜんう》、月氏を破り、その王を殺し、頭をもって飲器となす」(『水経注』二)。『史記』豫譲伝、「襄子《じようし》、智伯を怨み、その頭に漆して飲器となす」。一八七六年板、ギル『南太平洋の鬼神誌および民謡』五章、見合わすべし。)
それから、李時珍は件《くだん》の『南方草木状』を引くとて、林邑王が越王の首を取って樹に懸くると椰子となり、その核なお両眼あり、故に俗にこれを越王頭というと言うたが、本文には核に両眼ある由は見えぬ。実際発芽に必要な二孔あって両眼とみえ、核のホゾ跡が口のようにみえるから、時珍流に両眼としても、蘭山流に三孔としても差しつかえないが、『南方草木状』の本文を見ぬ人が、時珍の引いた文は撮要に自注を混じたものと知らず、両眼あるゆえに越壬頭というと?含が述べたよう心得るを、予防のため断わりおく。さて時珍、右の伝説を辞して、この説|謬《あやま》るといえども俗伝えてもって口実となす。南人その君長を称して爺となす、すなわち椰の名けだし爺の義に取るなり。相如が「上林の賦」に胥余と作り、あるいは胥耶(これがさかさまなら、ヤシオの音に打ってつけだが、そうそうわが身勝手に字の置き替えもならず、とかく浮世はままならぬ)と作ると言ったが、その訳は釈きおらぬ。想うに漢時、南支那の蛮語か。椰の核が人の面相を具うる由は広く行なわるる説で、支那に限らぬ。
マレー人は、椰子に両眼あり、よって人の頭に落ち当てず、と信ず(一九一四年板、バーン『民俗学必携』三一頁)。一八八二年パリ板、グベルナチス伯の『植物志怪』二巻一〇二頁に、ラムシオいわく、椰子を木から取ると、離れた跡に穴一つ、その上にまた穴二つ、この三つの穴がちょうど猫が鳴く面相を示す。葡《ポルトガル》語で鳴くことをコカというから、(576)椰子をココと称えた、と。ウェブストルの字典には、もと葡語で、小児をおどす醜い仮面をココと言うた、椰子のホゾが猴《さる》面に似るからそれに比べてココと称えたというが、ギリシアで古く椰子をコウキ、エジプトの椰子の一種をコイクスまたコイコスと呼んだから考えると、醜面によって名づけたとは如何《いかが》、というように述べある。しかし、椰子が三穴あるによって人面ごとく見えるは実際で、葡人以前にアブ・ファズル(十六世紀にアクバール帝に寵用された文豪)が、インドの風俗を書いた中に、殺された人の死骸が手に入らぬ時、礼をもってこれを葬らんとするには、葭で人形を拵え、椰子を戴かせて故人の頭に象り、ダク木の薪で被い、祈?してこれを焼くとあり、とグベルナチスの説だ。インドで椰子を人牲の首に代用すること多きは、クルックの『北|印度《インド》俗教および俚俗篇』に見え、コンカンのクンビ種は、族人死するごとに椰子をその像に代わって拝むという。(椰子、人に似ることいろいろ(サウゼイ『コンモンプレース・ブック』二輯四三四頁)。異人の首、椰子になった話(一九一〇年板、カー『パプア精魅談』九一頁)。宇宙を椰子殻に基づき想像せしこと(ギル『南太平洋の鬼神誌および民謡』一頁)。)
『本草啓蒙』に言える通り、椰子は時に日本に流れつくから、むかしより海辺の人の眼についたに相違ないが、その何物たるを知るに及んだはいつごろのことであろうか。綱吉将軍の時できた『大和本草』にその条なく、付録一に至って、海榔子は「海中に生ずるところの藻の実なり」、その形椰子に似て小なりなど、書きあるをみると、椰子は木の実ということを『本草』で学び知った人々のほかは、椰子も海藻の実ぐらいに心得ただろう。インドでは、椰子をスリ神すなわち弁才天の好物とするが、日本の仏教にそんなことはないらしい。仏典に、椰子をナリケーラなる梵名で記し、セイロンの南数千里に那利稽羅洲あって、小人これに住み、人身鳥嘴で椰子を常食すと説き(アイテル『梵漢辞彙』一〇六頁)、『大唐西域記』には、二巻果木の名目中に那利薊羅果と出し、一〇巻に迦摩縷波国人は?包《パン》果とこの果を栽培す、と書いたばかりである。(『立世阿毘曇論』二に、八洲の名を挙げたる中に椰子洲あり。)したがって仏書を読む日本人も、件《くだん》の名は椰子を指すと知らずに過ごしたらしい。
(577) (唐の実叉難陀訳『大方広仏華厳経』七八に、「海島の中に椰子樹を生ず。根茎枝葉、および花果を、一切の衆生つねに取って受用し、しばらくも歇《や》む時なし。菩薩|摩訶薩《まかさつ》の菩提心の樹も、またかくのごとし。始めて悲願の心を発起せしより、すなわち成仏に至るまで、正法《しようぼう》世に住《とど》まり、常世、一切世間を利益し、間歇あるなし」。椰子の功を菩薩に比せしなり。延祐庚申および紹興三年の序ある宋の建康の沙門宗永の『宗門統要続集』四に、「廬山《ろざん》の帰宗智常《きすうちじよう》禅師に、また因《ちな》みに李渤《りぼつ》問う、教中に須弥《しゆみ》に芥子《けし》を納《い》ると道《い》えるは渤すなわち疑わず、芥子に須弥を納ると言えるはこれ妄談なるなきや、と。師いわく、人の伝うるに使君は万巻の書籍を読むと、是《ぜ》なりや不《いな》や、と。李いわく、しかり、と。師、手をもって頂を摩《な》で踵に至っていわく、都来《すべて》椰子の大いさのごとし、万巻の書籍いずくに向かいて着けたるや、と。李、首を俛《た》るるのみ」。)
支那書には、漢の東方朔作という『神異経』に、「東南荒中に椰樹あり、高さ二十余丈にして、葉は甘瓜のごとし。二百歳にして葉落ちて花を生ず。花もまた二百歳にして落ち尽して萼を生ず。越王頭と号《なづ》く。萼の下に子《み》を生じ、三歳にして成熟し、甘瓜のごとく※[柬+見]を少《か》く」と『淵鑑類函』に引きある。※[柬+見]の字音練とあれど、何の義か分からず。『康煕字典』に、※[柬+見]音凍、視貌《みるさま》、と出ず。その誤写で、見ること少なしという意味か。『漢魏叢書』に収めた『神異経』の本文ははるかに長いもので、さらに越王頭の字なく、椰樹を邪木、二十余丈を三千丈とし、末文に、「その子《み》、云々、甘美なり。これを食らえば、人をして身に沢《うるおい》あらしむ。三升を過ごすべからず、人をして冥酔せしめ、半日にしてすなわち醒む。木高くして、人取れども得るあたわず。ただ木の下に多羅(国名)の人あれば、縁《よ》ってよくこれを得。一に無葉と名づく。世人・後生、葉を見ず、故にこれを無葉と謂《い》うなり」とある。これは後日に、『交州記』に「椰子、漿《しる》あり。花を截《き》り、竹筒をもってその汁を承け、酒を作ってこれを飲む」、『唐書』に「訶陵《かりよう》国の俗、椰樹の花をもって酒を為《つく》る」など見えた通り、その未開の花箆《かへい》の汁を?酵させて、元禄文学にしばしば出るアラキ酒を作ることで、高い幹に登って椰子をとるになかなかの手際を要するは、ワラスの『マレー群島記』に書かれ、したがって、ある国(578)には特にこれに務むる人あり、それが多羅の人であろう。椰樹の葉は、熱地で屋根を葺くの大用あれど、遠地へ送るほどの必要がないから、支那本部へはむかし届かず。その実ばかり見てその樹に葉なしと想うたは、ちょうど日本人が海椰子を藻の実と心得たに同じ。こんな次第で、花で酒を作るとか、葉がないとか、椰樹の記載を支那より伝えて読んだって、全く日本で想像だもつかぬことのみゆえ、おいおい椰子と打ち出して輸入されるまでは、たまたま漂着する物をみても椰子とは気づかなんだはずだ。
さて椰子を椰子と名乗って日本へ始めて持ち来たったはいつごろか知れぬ。『庭訓』『尺素』等諸往来に載せず。文安元年成った『下学集』に、「椰子、この実の中に漿《しる》あり、これを飲めば酒のごとく酔うなり」、また「椰子盃。椰は木の名なり。横に椰子を截って盃となす。もし毒をもって盃中に投ずれば、酒たちまち沸涌《ふつよう》し、人をして害なからしむ。しかれども、今人その盃中に漆《うるし》するは、それ椰子の用を失するなり。梯子厚の句に、水を?《く》む勺《しやく》は椰に仍《よ》る、といえるはこれなり」。その前約三百三十年に出た『本草衍義』に、「椰子の殻は酒器となすべし。もし酒の中に毒あれば、すなわち酒|沸《わ》き起こり、あるいは裂《さ》け破《わ》る。今人その裏《うち》に漆するは、すなわち椰子を用うるの意を失う」と説いたによる。『下学集』より一年後に成った『?嚢抄』には、唐の酒器にヤシオの柄杓という物あり、文字は何ぞ、もしこれ椰子盃のことか、ヤシオの柄杓ということ、いまだ知らず、和訓なるか、もし言い誤るか、人に尋ねらるべきなりとあって、椰子盃毒を予防すること並びに盃中に漆ぬるは謬りだ、と述べおる。して見ると、文安ごろチラホラ支那より椰子盃や柄杓が輸入され、稀《まれ》に用いられたのだ。
(『香祖筆記』八にいわく、椰盃、毒を見ればすなわち裂く、嶺南人多く製して食器となし、もって蠱《こ》を辟《さ》く、と。支那では盃となして飲料の毒を防いだのみならず、椀となして食物の毒をも辟けたのだ。また同書には、椰子にて食椀にすることあり。やはり毒消しのためなり。トンガ島のツブー、父の仇討たぬうちは椰子盃で飲まぬと誓うこと(一八九四年板、トムソン『首相の優遊』三三四頁)。林邑国の范文、「王子を外国より迎え、海行して水を取り、毒を椰子(579)の中に置き、飲ませてこれを殺し、ついに国人を脅やかし、みずから立って王となる」(『水経注』三六)。)
西洋でも、以前椰子の値きわめて貴《たか》く、一箇が英貨四百ポンドするを怪しまなんだ。独帝ルドルフ二世は四千フロリン出すも一椰子を買い得なんだ(一八七二年板、ラインド『植物界史』二四二頁)。(『善見毘婆沙律』八に、ある比丘、海中にて椰子殻を拾い、刻んで盤とし、それにていずみに飲み、盗まる。諸律師が裁判を開くと、持主の比丘、われこれを海中にて拾う、という。価はと問うと、かの地では椰子を食らいすすっては捨て破《わ》り、また薪に燃やす、全く値なし、と答えたとある。されば、仏滅を去る遠からぬ世には、椰子がインド内地に行き渡らず、珍しがられたのだ。)むかし日本でもずいぶん尊ばれたと察する。明治五年ごろ、『開化往来』なる一書大いに行なわれた時、椰子の名を載せたが、われら受持の小学教師みなその何の役にたつ物かを知らず。その図はあらぬ物で、椰子は群生するを知らず、ただ一箇樹頂より垂れた体にしてあった。もっとも横浜、神戸の異人店でしばしば見たが、誰もその使い道を知らず、台湾占領、南洋航海が開けて、初めて椰子を貿易するに至ったと考う。
(本文『民族』に出てのち、『続群書類従』七九五『東大寺勅封蔵開検目録』に、木地厨子一脚、納、下鞘一具、云々、海?子口とあるを見出だした。もと海髑子一口とでもあったを誤写したであろう。果たして然らば、足利時代より古く椰子器は伝来しあったので、椰子を海髑子と書いたは『和名抄』に限らぬと知る。――と書き終わって三年ほどのち、『古名録』三六に、「椰子、今名ヤシオ、一名耶子(『延喜式』)、夜之(天文写本『和名抄』。『倭名鈔』に海髑子、和名夜子という)、也之(『本草和名』に海髑子、和名也之という)」とあるを見た。撰者畔田氏は、椰子と海髑子と一物たるをすでに知りおったが、何故これを海髑子というかを明らかに示さなんだのだ。)
したがって按ずるに、むかし椰子が産地を離れて支那の浜辺へ漂着した節、その三孔が目鼻口、全体が髑髏と見えるを訝かって触れ廻るうち、波にさらわれ流れ去ると、何がな吹き立てようとの宿望から、この物神霊あり、人を見れば海中に没す、と食事も忘れて宣伝した。それを崔禹が聞き込んで、海髑子の一条を『食経』に出したのだ。予、那(580)智山におったおり、山の神の錫杖(土アケビ)は霊草で、見つけた者、家に帰り用意して採りに赴くと必ずモー見えぬもの、と聞いた。病気の神薬とかゆえ、誰かまず失敬するか、自分その所を忘れるかだろう。さて邦人が椰子を拾うて唐人に名を問うと椰子と答えたまま、夜之と聞き書きしたのだ。以前の支那音は、今日いわゆる唐音にあらず、漢音、呉音ソックリのが多かった。例せば、アラブ人が入唐して諫鼓を目撃した記事に、府庁ごとに一の鐘を知事の頭上にかけ、ダラーと呼ぶ、寃訴する者これを鳴らす、と。これは銅鑼にほかならず。今の唐音でトゥンロとよむより、呉音でドウラと訓む方、当日の唐音ダラーに近い。また永楽中、サマルカンドのシャー・ルックが明国へ遣わしたサジ・カジアは、馬夫をマフとせず、漢音通りにバフと書き留めた。(一八四五年パリ板、ルイノー『西暦九世紀に印度《インド》と支那へ渡ったアラブと波斯《ペルシア》人の記行』四〇頁。一八六六年ロンドン板、エール『支那および支那行路』二〇三頁)
されば、『和名抄』のヤシなる和名は、椰子の二字の唐代の唐音丸取りたるや疑いなし。そのころ来朝した唐人、不文かつ本草等を知らず。この物の名をヤシと知ったまでで、その南方遠地の木の実たるを知らず。邦人またこの物を見て、しごく変な物とのみ訝かるところへ、崔禹の記載が、海髑子なる名と共にはなはだよくこれと合うを読んで、海髑子、和名ヤシときめちまったのだ。蛮民が両脚を抜いて売ると知らずに、風鳥生来脚なく終身飛び通しと心得たり、韃靼のシダの根がステキに羊児に似るより、彼方の羊は地下に産まれると説いたなど、時代相応にもっともな判断だ。(一九〇五年板、ハズリット『諸信および俚伝』一巻五〇頁。一八八四年板、フォーカード『植物伝鋭』一二一頁等。参照、『淵鑑類函』四三六、羊三。『坤輿外記』無対鳥の条)
崔禹の『食経』はいつできたか分からぬ。『本草綱目』一上に、李時珍いわく、古え淮南王の『食経』、崔浩の『食経』、竺喧の『食経』等あり、みな食医(食物療治)の意を祖とす、と。崔禹とは崔浩の誤写でないか。浩は南北朝の魏の謀臣で、『倭名類聚抄』の著者源順が卒した永観元年前五百三十三年に刑死した。(五月七日稿) (大正十五年七、九月『民族』一巻五、六号)
(582) シシ虫の迷信ならびに庚申の話
『拾芥抄』は、その上の本巻「唐家世立部」を明の穆宗で打ち留め、上の末巻「本朝世系年立部」に明正天皇を今上皇帝と称えあるなど、おいおい書き足したものらしいが、同巻の終りに、「写本にいわく、かの本は洞院の相国これを抄せらる。よりて杲守《こうしゆ》僧正これを留め写す。当寺(石山)の座主、相伝し深く秘せしめ、箱の底に納めらる、云々」とあり。それによってか、山本北山の『孝経楼浸筆』四には、この書を後花園院の御宇、洞院左大臣実照公作とした。『野史』八五にも、「この公、致仕ののち東山に閑居す。時の人呼んで東山左府という。その著わすところの『拾芥抄』、『名目抄』等、並びに世に行なわる」と記す。
『槐記』一に、『拾芥』は東山左府実煕の作なり。左府は和漢の英才にて、また続く人あるまじ、ずいぶんの入用のことを、つまみ挙げられて、しかも出処正しく、重宝の書なり、云々。むかしも水戸黄門に天下の英才を集められし時、仕官を望む人あれば、まず古参の宿儒老才の人出合うて、初めて及第の時の挨拶に、必ずその方『拾芥抄』を見られたるや、ことごとく済まされたるや、と尋ぬ。答えて、いかにも見侍り、何にてもお尋ね候えと申す人は、才のほども知られたり、抱ゆるに足らず、と仰せらる。また、『拾芥』はなかなか私式の及ぶところにあらず、吟味はずいぶん致し候えども、その本書をことごとく正すほどは臣が及ぶところにあらずという人には、よほどの英才なりとて抱えられける、と見ゆ。
水戸様を感心させようとて言うでないが、熊楠年来『拾芥抄』をみるに分からぬこと多い。その随一がシシ虫だ。(583)上の本巻「諸頌部」に、志志虫《ししむし》鳴く時の歌、「しし虫は、ここにはななきそ、しらははか、しづがやにゆきて、なきをれ」。『二中歴』は、いつ誰の作と知らねど、歴代の号を後花園帝までで止めたをみれば、『拾芥抄』と同時のものであろう。相似たことどもを録しながら、これはかれよりもずっと多く広く載せある。『拾芥抄』の多分はこの書より抄出したものか。その巻九に、志々虫鳴く時誦む、志々牟之八、古々加(爾ィ)八奈々支曽、加良波々加、志爾之津加止(也ィ)爾、由支天奈支乎礼。次に異伝をのせて、一にいう、志々牟之与、伊多久奈々支曽、加良比止乃、志爾之津加世爾、由支弖奈支乎礼。これより約二百七、八十年前、二条帝に奏覧した藤原清輔の『袋草紙』四には、志々虫鳴く時の歌、「ししむしは、ここにはななきそ、しらははか、Lにしつかとにゆきてなきをれ」と出ず。その『袋草紙』より少なくとも百八、九十年前、天禄元年源為憲が撰した『口遊』の禽獣門には、志々虫波、古々爾波那々支、加良波々加、之爾之都加土爾、由支天那支遠礼とす。
いずれも誤写、脱字あって読めにくく、十分な意味が判らぬが、『袋草紙』と『拾芥抄』にシラハハ、『口遊』と『二中歴』にカラハハとあるは、『二中歴』の一にいうの歌にカラヒトとあるより推して、韓種の老女の義で、シラハハは新羅姥の義、件《くだん》の歌の心はシシ虫め、ここで鳴かずに韓姥また新羅姥が死んだ塚処に往きてなけ、というのらしい。西洋にも異人種を忌むのあまり、悪い物はユダヤ人の処へ往けと唄うた例が多い。
さて、もっとも分からぬはシシ虫で、『新撰字鏡』、『和名抄』等にこの名見えず。平安朝より室町時代までそのマジナイ歌を載せ続けたから、よほど嫌われた虫とみえるが、何物と知れぬは残念ゆえ、諸君子の教示を仰ぐ。以下これに関する自分の臆測説を述べる。
『重訂本草啓蒙』三九に、トカゲの一種、山野|草莽《くさむら》の中におり、人をみればはなはだ恐れ走るものをシシ虫という。一名シシムショウ(筑前)、カナキチョ(仙台)。形ヤモリに似て瘠せ、長さ六寸ばかり、灰色あるいは褐色、背に黒条一道あり、脇に黒斑あり、四足に五指あり、云々、とあり。紀伊田辺でカナドカケ、学名タクドロムス・ヤポニクス。(584)拙宅地でも、夏、時々みる。常のトカゲより多く竜がかりおる。本草家のいわゆる蛇舅母で、支那にもインドにもこの属が生ずる。予この物鳴くを聞かず、その記事も読まねば、どうも『拾芥抄』等に出たシシ虫でないと惟う。
止むを得ずしてこじつくるなら、『拾芥抄』等のシシムシは、チャタテムシでもあろうか。後藤梨春の『物品目録』に、チャタテ虫を何かの漢名にあてあったと覚えるが、四十年近く見ないから忘れた。加藤雀庵の『囀り草』には、「李石が『続博物志』九の巻に、「人家に小虫あり、至って微にして響《こえ》はなはだし。これを尋ぬるに、ついに見るべからず。窃虫と号《なづ》く。大いさほ半ば胡麻《ごま》のごとく、形は鼠婦に似る。両《ふたつ》の角あって白色なり。その頭を振ればすなわち声あり。孟康朝《もうこうちよう》、賦を作り、これを鬼魅《きみ》に比す」とあり。これ、わが俗茶立虫と號する物なり。かかる小虫、かの国にもすでにあるは、和漢の風土大方同じきがゆえなるべし。(中略)わが俗は、その声の茶を立つるに似たるというにより、その名を呼び初めしものなるべけれど、その実はかの声身より発するにあらず。李石が、その頭を振りて声ありと言えるも、いまだ精しからず。こは、かの虫両角をもて紙をかくの音なり。『紅毛雑話』巻三に、近ごろ舶来のミコラスコーピユムといえる顕微鏡《むしめがね》にてみたる茶立虫の図あり(とてその図を出し)、全体虱に似たり、眼黄なり、鼻の先に撥《ばち》の形の角あり、これをもって紙をかくなり、とあり、云々。この虫、秋七、八月ごろ更けて声あり、閑夜、寝覚めの枕に聞こゆるは、またおかしき物なり。俳諧にこれを四時の部に収めざるは遺憾というべし。よろしく秋の一景物として可ならん」と書いて、「わが世ふけぬ、秋の寝覚めの茶立虫」、また「茶立虫、茶に浮かされてねぬ夜かな」と愚吟を出しある。
(本稿発送後、榊原篁州の『榊巷談苑』を見るに、『囀り草』より先に『続博物志』の窃虫を茶立虫に当てあり、また後文に予が引いた『五雑俎』九の浙中郡斎の小虫、云々の文を出し、こは茶立虫なりと明言しおる。なお後藤梨春の『物品目録』下に『五雑俎』の文を出し、今謂う茶点虫の類か、とある。この書は宝暦二年板らしい。榊原篁州は宝永三年五十一で歿したれば、むろんその説は梨春より先に出たるなり。)
(585) 往年、会津の生れで須川賢久、この人はよほど和漢の学に達し、兼ねて外国語にも通じおった。その翻訳に係る『具氏博物学』はよほど盛んに行なわれたもので、吾輩一生その恩沢を忘れえぬが、件の窃虫を英語のデッス・ウォッチ(死時計)に宛ておったと記臆す。これ、まことに至当だ。(これは記臆の誤りなり。)
この死時計、すなわち茶立虫に関する迷信は欧州で盛んだ。例せば、ハズリツトの『諸信および俚伝』(一九〇五年ロンドン坂、一巻一七二頁)にいわく、『ロビンソン漂流記』の著者デフォーいわく、小虫が古い押入れに生まれ、外へ向かって身を脱しようとて穴を咬み穿つ、その昔ちょうど時計のごときを聞いて、さては何か災難が迫りおる、今か今かと心動止まずに数月を過ごす愚人を多く見た、と。ワリスはいわく、死時計なる小甲虫は、塵や朽木中にしばしば隠れて独りおる。鞘羽虫類中最も小さいもので、その色暗褐、不規則な淡褐の点あり、腹にヒダあり、両翼は透明な甲で蓋わる。他の甲虫と同じく、音をきくとて頭をもたげるらしい。上唇は堅くて光沢あり、袂時計のように規則正しく音を立てるので、訳を知らぬ人は驚き、これを家内に変事ある兆、またおのが命の早使いと想像するが、この虫を箱に入れおけば、音を聞き、音を出す体を目撃しうる。そは小さい嘴《くちばし》で箱の内側を敲くので、これは偶《つれあい》を呼ぶためという人もあれど、食を求むるためらしい、と。またバックスター説に、「思慮ある友人で、死時計の音を懼れたのが数輩あった。この三年ほどのあいだ、予はしばしば試みて、ちょうど虱に似て一層白く、また足疾い小さい虫が、紙を敲いてこの音を出すを知った。この虫は、もっとも普通に壁や壁板に張りつけた紙の裏にすみ、夏暑い時のほか、その音をきくこと稀《まれ》だ」と。
『剣橋《ケンブリツジ》動物学』五と六の巻を見ると、死時計に大と小とあり、大死時計はアノビウム属の甲翅虫で、器材や建築の木に穴をほり、その損害おびただし、小死時計は、外見白蟻に似た羅翅虫で、学名アトロポス・ジヴィナトリア、至って小さい、大小ともに全くつれあいを招くため、身柄不相応な大きな音を敲き出すとのことだ。『紅毛雑話』の茶立虫は、小死時計に当たる。『五雑俎』九に、「浙中の郡斎にかつて小虫あり、??《すくもむし》に似て、小さきこと針の尾《さき》のごと(586)し。好んで紙窓の間に縁《よ》り、よく足をもって紙を敲いて声を作《な》す。静かにこれを聞けば滴《したた》る水のごとく然《しか》り、これの跡をつくればすなわち躍《は》ぬ」と言えるは、穴に潜まず、走り廻るアトロポスの一種だろう。十年ほど前、今は故人となった知己が独居して、毎夜室内に変な音をきき病み出した。ところへ朋輩が来て音が襖から出るを確かめ、引手を外すと甲翅虫一疋あり。これを取り去ってより異音も絶え、病気も直った、とみずから話された。これはたぶんアノビウム属の小虫だったろう。こんな次第で、むかし邦人がシシムシとて忌んだは、おそらく死時計すなわち茶立虫と惟う。
シシムシの名義は難解だ。『嬉遊笑覧』七に、「『拾芥抄』に、「庚申の夜、彭侯子《ほうこうし》、彭常子《ほうじようし》、命児子《みようじし》、ことごとく幽冥の中に入り、去ってわが身を離れよ、と誦《じゆ》す」、注に「今按ずるに、庚申ごとに、寝ぬるに向かいてその名を呼べば、三尸《さんし》永く去り、万福おのずから来たる」とあり。この誦文もと何に出たるか、云々。この誦は庚申を守るにあらで、寝るがためなりとみゆ。その説もまた相違せり。今俗庚申の夜の誦歌に、しし虫はいねやさりねやわがとこを、ねぬぞねたるぞ、ねぬぞねたるぞ(このししむしを、あるいはしょうけらはとも言えり)。こは『袋草紙』に、庚申せで寝る誦文、しゃ虫は、いねや去りねやわが床を、ねぬれどねぬぞ、ねねどねたるぞ、と言えるこれなり。しゃ虫はただ虫ということなり。しゃは罵詞にて、古えしゃ顔《かお》など言うを、今しゃッつらと言うはこれに同じ。こを誤りてしし虫と俗に言うは、外の歌とまがいたるなり。『拾芥抄』に、志々虫鳴く時の歌あり、云々(上に引けり)。『袋草紙』には、しし虫鳴く時、しし虫は、ここにはなきそ、ししらはば、かしこのしづが、とにゆきてをれ、とあり。(安斎いわく、ししらははとは、死にそうならばなり。あいしらう、ひきしらうの類なり。今も夏より秋かけて、草むらの中に小さき虫のきりぎりすに形似て青く、夜になればシイシイと鳴くあり。これを馬追虫という。その鳴音につきて古えはしし虫といいしが、死々と聞きなして忌むゆえ、まじないの歌あるにや。)『正章千句』、双六は身体がけに打ちなれて、寝たるぞねぬぞふかす申まち」(以上『笑覧』の文)。
(587) 熊楠いわく、『笑覧』に引いた『袋草紙』の歌、誤写あり。『口遊』と『二中歴』、ともにカラハハガと出し、『拾芥抄』にシラハハとあれば、『二中歴』の異伝の歌にカラヒトノとあるを合わせ攷えて韓姥、新羅姥と解くべし。それに『袋草紙』、もと『口遊』なるカラハハガ、シニシツカトニ、ユキテナキヲレと並行して、シラハハガ、シニシツカトニ、ユキテナキヲレとあったのを、そのシニシツカトニをシシラハバ、カシコノシヅガトニと誤写したと知らず、臆測もて釈いたので、『二中歴』や『口遊』を見なんだからの過ちだ。ここで中入りに、ちょっと庚申待ちについて一弁しょう。
唐の段成式の『酉陽雑俎』二に、庚申の日、伏尸、人の過ちを言い、本命の日、天曹、人の行いを計る。三尸、一日に三たび(天に)朝す。上尸(名)は青姑、人の眼を伐る。中尸は白姑、人の五蔵を伐る。下尸は血姑、人の胃命を伐る、云々。またいわく、一は人の頭中におり、人をして思欲多く車馬を好ましむ、その色黒し。一は人の腹におり、人をして食飲|恚怒《いど》を好ましむ、その色青し。一は人の足におり、人をして色を好み殺を喜ばしむ。七たび庚申を守れば三尸滅し、三たび庚申を守れば三尸伏す、と。
『一話一言』に引いた『太上感応篇』に、三尸神あり、人身中にあり、庚申の日ごとに天曹に詣り、人の罪過をいう。注に、三尸、人身にあり、庚申の日ごとに、身中七魄と天曹に詣り、人の罪過をいう、すなわちその職なり。按ずるに、経に説く、修真の人まずまさに三尸を絶ち去るべし、一にいわく、三たび庚申を守れば三尸伏し、七たび庚申を守れば三尸滅すと、守るとは寝ざるなり、三尸その過ちを言うを欲せざるなり、云々。『群談採余』にいわく、道家言う、人身、三尸虫あり、三彭という、庚申日ごとに人の睡るに乗じ、その過悪をもって上帝に陳《の》ぶ、故に学道者この夕に遇わば、すなわち睡らず、と。
『嬉遊笑覧』に、「『太上三尸中経』にいわく、人の生まるるや、みな形を父母の胞胎に寄せ、五穀の精気を飽味す。これをもって、人の腹中にはおのおの三尸九虫あって、人の大害となる。常に庚申の日をもって、上りて天帝に告げ、(588)もって人の造罪を記す。分毫までも録奏し、人の生籍を絶ち、人の禄命を減じ、人をして速やかに死せしめんと欲す。死後、魂《こん》は天に昇り、魄《はく》は地に入るも、ただ三尸のみ遊走す。これを名づけて鬼といい、四時八節、その祭祀を企つ。祭祀もし精ならざれば、すなわち禍患《わざわい》をなす、云々。およそ庚申の日に至れば、夜を兼ねて臥せず、これを守る、云々」と引いて、『穎陽経』の説までは、人の慾心は三尸の所為なるゆえに、三尸を去ることはすなわち慾を断つことなり、しかるに三尸九虫の説に至りては、その虫、人の罪悪を天帝に訴うるとす、とある。
『類聚名物考』二五に、「『無量寿経』下に、修善《しゆぜん》を知らず、悪逆無道なれば、のちに殃罰《おうばつ》を受く、自然に趣向し、神明記識し、犯す者は赦さず、と。嘉祥《かしよう》の説を鈔引していわく、神明記識すとは、名籍まず定まり、蹉跌せざるなり。一切の衆生、みな二神あり、一は同生と名づけ、一は同名と名づく。同生女は右肩の上にあって、その作悪を書《しる》し、同名男は左肩の上にあって、その作善を書す。四天の善神、一月に六たび反《かえり》みて、その名籍を録し、大王に奏上す。地獄もまた然り、一月に六斉し、一歳に三覆し、一載に八校し、差錯《たが》わざらしむ。故に、犯す者あれば赦さざるなり、と。已上《いじよう》」と記す。仏教にこんな説があったのだ(『薬師如来本願功徳経』、『塵添?嚢抄』一五、『和漢三才図会』四、参照)。唐の法琳の『弁正論』二に、唐初、道家すでに六斎、十直、甲子、庚申、本命等の斎あり、これらは仏説から取ったものらしい。なかんずく三尸九虫が人の造罪を天に告ぐるを防ぐため、庚申の夜臥さずというは、六斎日の仏説に傚《なら》うたのだ。これと同流のこと、『酉陽雑俎』に竈神の六女、月の晦日に天に上り、人の罪状を白《もう》し、大罪者は紀を奪い、小罪者は算を奪う。『五雑俎』二に、「俗、みな十二月二十四日をもって竈《かまど》を祀る。いわく、竈の神この夜天に上り、一家の行なうところの善悪をもって天に奏するなり、と。この日に至れば、婦人女子多く斎を持す、云々。今、?《びん》の人、直言を好み隠すなき者をもって、俗なお呼んで竈公《そうこう》という」。
(『抱朴子』内編六、「またいわく、身中に三尸あり、三尸の物たるや、その形なくして、実に魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。この尸は、まさに鬼と作《な》り、みずから放縦遊行し、人の祭?《さいらい》を饗《う》くるを得(589)べし。ここをもって庚申の日に到るごとに、すなわち天に上って司命に白《もう》し、人のなすところの過失を道《い》う。また月晦《つごもり》の夜には、竈の神もまた天に上り、人の罪状を白《もう》す。大なれば紀を奪う。紀とは三百日なり。小なれば算を奪う。算とは三日なり(あるいは一日に作る)」。明の高濂の『遵生八牋』九に引いた諸書、大抵上尸を彭倨、中尸を彭質、下尸を彭矯としある。人の魂魄と別に人の腹中におり、人が死にさえすれば人体を離れ、自在に悪事をなしうるゆえ、何とかして人を速やかに死せしめんと、細かに人の罪条を控えおく。庚申の日これを天帝に上告するゆえに、庚申の一昼夜眠らねば三尸が天へ上告に出かけ得ず、その人は長生し得、というのだ。三尸の形は、あるいは小児、あるいは鳥に似て、みな長さ二寸の毛を生じ、人の身中にあり、人死すれば出でて鬼となり、その人の生きた時の形で、衣服も長短もその人と異ならずという。つまり自分が寄生しおる人の体から脱け出て、その人の形を仮りて悪事のありたけやって見たさのあまり、その人の罪を告発して、一日も早くその人を死なしむるを不断の志願とするのが三尸だ。九虫は、蛔虫、白虫、肺虫、隔虫、赤虫、胃虫、尸虫、蟯虫、肉虫、いずれも人の臓腑に寄生して病を生ずる動物だ(『本草綱目』四二参取)。この九虫を三尸の子分と見たのであろう。また、『琅邪代酔編』三九、「甲子と庚申の日には、?瑁《たいまい》すなわち口を閉じて食らわず」。
東晋の覚賢が訳した『観仏三昧海経』巻の二に、魔王の三女、その父が仏成道して魔衆失業とくるを愁うるを見、無類の美容を現じ、五百美女を従え往ってその心を乱さんとした時、仏寂然不動、白毛をもって擬して、三女をしてその身内の穢相を見せしめると、腸腑の間に多くの虫あり、「その数満ち足りて八万四戸あり、戸ごとに九億の諸小虫あり、云々。みな四口あり、口を張って上に向かう、云々。脾腎肝肺、云々、かくのごとき中間に、また四虫を生じ、四蛇のごとし。上下を合して、同時に諸蔵を?食《そうしよく》す。滓《かす》尽き汁出でて、眼に入れば涙となり、鼻に入れば洟《はな》となり、口に聚まれば唾となり、口より放てば涎となる。薄皮厚皮、筋髄諸脈、ことごとく諸虫を生ず。秋毫よりも細く、数はなはだ衆多《あまた》にして、つぶさに説くべからず」。隋代に訳された『大威徳陀羅尼経』に、「婦人は、五つの疽虫戸、(590)陰道の中にあって、その一々の虫戸に八十虫あり。両頭に口あって、ことごとく針鋒《はりさき》のごとし。かの疽虫、常にかの女を悩まし、これを食嗽《しよくそう》し、それをして動作せしめ、動きおわればまた行なう。かれの動かしむるをもって、この故に悩と名づく、云々」。東晋の法顕等訳『大般泥?経』に、「また三|恒河沙《ごうがしや》の優婆夷《うばい》あり。みな五戒を持し、功徳《くどく》具足す。現に女の像となって、衆生を化度し、おのれの体を呵責し、なお四蛇八万戸虫のその身を侵食するがごとし」。これらは、もっぱら女の体内に虫多く住んで諸不浄を生じ、婬慾を起こさしむと説いたのだが、この戸虫なる仏家の名から、文字がよく似た尸虫という名を道家が作り出したものか。神道、道教、共に日本、支那、太古来のものながら、現今の体裁を備うるまでには細大とも仏教から採ったことが多い。
(熊楠が見及ぶところ、三尸なる語は、初めて晋の葛洪の『神仙伝』に見ゆ。劉根が華陰山で仙人韓衆に教えを乞うと、衆いわく、必ず長生を欲せばまず三尸を去れ、三尸去れば志意定まり嗜慾除かる、毎月|朔《ついたち》と晦《みそか》と十五日に、三尸天に上って人の罪過を白《もう》し、人の命を縮める、人が死んだら祭らるるごとに供え物を食いうるから、早く死んでほしいのだ、と。劉根は前漢末の人というゆえ、これが三尸説のまず発端だろう。)
『嬉遊笑覧』に、「『寂照堂谷響集』に、庚申を守ることは仏法になき由を言いて、また問を設けて言う、庚申の本地を青面金剛とす、青面金剛は、『陀羅尼集経』第一〇巻にいわく、大青面金剛呪法、呪にいわく、云々、また壇法および画像の法をとく、そのうち片言も庚申、?猴等の因縁なし、ただ利を好む者強いて付会して庚申の本尊とするものなり、と言えり。三猿の形は、もと天台大師三大部のうち止観の空仮中の三諦を、不見、不聴、不言に比したることあり。それを猿に表わして、伝教大師三つの猿を刻めりとかや、云々、と『遠碧軒随筆』に言えり」と出ず。(熊楠いわく、故サー・モニエル・ウィリアムスの『仏教講義』に、オックスフォードの博物館に金剛尊の像あり、三猿を随えたりとみえ、文の前後より推すと、日本製でなくチベット辺の物らしいから、友人を介して問い合わせたが、ちようどサー・モニエルが死んだ後で、分からずに仕舞うた。その前に支那に久しくおり、拳匪の乱に戦死した楢原(591)陳政氏に尋ねたが、北京その他で三猿像を見ず、と答えられた。スタインがコータンの遺址で猴神の土塑像を見出だした由は、その書で読んだ。西域等の研究盛んな今日、庚申三猿が何国で初めてできたらしいぐらいのことは、もはや判りおるはずだが、予は便宜を欠くゆえ知り及ばない。)
故土宜法竜僧正、明治二十六年パリのギメー博物館にあった時、予、大英博物館宗教部陳列品の札つけに参与したついでに、庚申の本地について問い合わせた返書にいわく、「青面金剛は毘首奴《ヴイシユヌ》より転ぜしなり。毘首奴に黄、赤、緑の三色あるも、深緑が彼の常の色なり。よって彼は深緑色の名を得たるなり。またハヌマン猴神は、この神の眷属でシーター后取り還しの合戦に大功あり。故にインド中到る処、大樹下また諸堂にこの神がハヌマンを随えし像、またハヌマンのみを祀る。それに種々の像あり。四猿同時に合掌し、また棒をもつあり。普通には、右手に棒、左手に花を持って毘首奴に随伴するが多し。毘は例の四手で、立像、坐像、種々あり。故に予は、この毘首奴とハヌマンの像より転じて、青面金剛と三猿という物になれりと察す。このほか例の金翅鳥《こんじちよう》も常に毘神の乗り物たること、『バーガヴァット・プラナ』に詳し」と。
熊楠謂う、この説当たれり。予は、四猿の代りに、二猿を祀れるを見たことあり。三猴のもインドにあるべし。『仏像図彙』に出た青面金剛の、左右童子は二猴、その下なる四句文刹鬼は、赤、青、黒、肉色の四鬼で、四猴に基づいただろう。(支那でいわゆる三尸は、もと長い毛を被《かぶ》れる小児形の者というたが、ちょうど猴の形に合うゆえ、三尸が三猿に漸次化しおわったのだ。ただし、青面金剛は支那での創作にあらず。『仏説陀羅尼集経』一三に、「尼藍跋羅陀?、こは青面金剛を言うなり」とある。)
さて熊野には、むかし金翅鳥に擬して鶏をこの神の眷属としたこともあるにや。川島草堂氏話に、山奥に庚申の鶏というて、山鶏に似て全身赤きものある由。グジャラット地方で、ハヌマンを祈る呪にこの猴神を、金剛神の錠前また金剛石の釘と称う。だから、猴を金剛神の眷属とするは日本で始まらなんだ、と知る。猴がよく盗むはインドで知(592)れ渡りおり、果を盗んだ者、猴に転生すという(一九一四年ボンベイ板、エントホヴェン『グジャラット民俗記』五五頁。大正九年五月と十二月の『太陽』拙文「猴に関する民俗と伝説」。一八九六年板、クルック『北|印度《インド》俗教および俚俗』一巻八六頁)。『内裏雛』一に、庚申の夜妊みし子は遊魂の卦に中《あた》りて、その子生まれて盗人になるゆえ、寝ねずして夜を明かす、云々。庚申待ちすることは、三尸の神とて人の身の内に善悪よく考え、この夜、天の三台の星、天尊の宮に到り訟《うつた》え言う、その人の科《とが》大なれば十二年の命を奪い、小なれば六十日の命を奪う。このゆえに長命を願う者は庚申待ちを祭ることなり、と見ゆ。
インドでも、ハヌマン猴神を祀れば長生すると信ず。これ『大和本草』に、猫死ぬる時きわめて醜いから隠れて人にその屍をみせぬとあるごとく、インドに多いハヌマン猴は屍を人にみせぬという。したがって、登天したように心得て不死の獣としたから、猴神ハヌマンを祀って長生を求むるのだ(一八八五年板、バルフォール『印度《インド》辞彙』二巻一三頁。一八六一年板、テンネント『錫蘭《セイロン》博物志』一一頁)。毘首奴《ヴイシユヌ》は万物保存の神だから、もちろん寿命を与える。故に、毘首奴とハヌマンとから転成した庚申神に延命を祈るは、自然の筋道だ。『和漢三才図会』に、およそ病人、庚申の日に逢えば必ず快からぬ者多い。けだし六十花甲のうち、支干の五行比和するもの、ただ十二日、これを十二専という。庚申もその一で、この日もっとも合交を忌む。故に、その夜寝ねずして守るは道家養生の本なり、とある。かかることユダヤ人も行なうた由、何かで読んだ。
慶長ごろの作なる『尤の双紙』下に、庚申の夜の盗人は、必ずあらわるるなり、この夜、盗も休業した、と見える。宝永十年、松江重頼編『犬子集』雑上に、読人知らずで、「あらはれぬるは怪し盗人」「何ごとも祈ればかのへさるの夜に」。元文三年成板、其磧の『御伽名代紙衣』三の二、不流行の女郎、「三十日ながらお茶ひく身で隠れ男すれば露わるると言う、庚申の夜も内におり、云々」。『筑紫琴の唄』にある通り、叶え猿に通うより、庚申の夜?れば万事叶うとしたらしい、と「猴に関する民俗と伝説」に述べおいたが(今も田辺の諺に、「相談は庚申様の夜にせよ」という(593)は、叶えざるの意味の上に、この夜相談をすると眠らないからだろう)、インドでもハヌマン猴神を企業の神として祀る(バルフォール『印度辞彙』二巻一三頁)。しかるに、ジュボアがその著『印度人の作法、風習および礼式』(一八九七年板、二巻六四四頁)に、猴の盗み上手なのも、人に神視さるる一理由だと言ったごとく、猴の手の長きこと驚くに堪うる。したがって、足利義政将軍の初年にできた『下学集』に、「この夜は盗賊の事を行なうに利あり。故に諸人眠らずして夜を守るなり。ある説にいわく、この夜夫婦婬を行なえば、すなわちその妊むところの子は必ず盗となる。故に夫婦の夜を慎むところなり」と書いた。
今は知らず、二十年ばかり前まで、熊野の田舎でかく信ずる者多く、また、同時に庚申を信ずれば盗難を免かるとし、失踪人や紛失物を戻し、盗人を捕うるに、その像に祈り、繩で縛る。お尋ね物が出てきたら解いてやると、まるで神を泥棒の人質にとるのだ。盗難繁き処にはこの風盛んに、盗もまた気味悪くなって取った物を返した例多く、毎村、庚申講を組んで順次青面金剛一連の絵像を祭りまわった。盗難しばしば到る旅宿は営業ならぬから、田舎の旅宿が大抵その講元だった。庚申塚を道側に立つるも、もっぱら盗難少なく、道路安全を冀うてのことで、インドの村の入口に必ずハヌマン像を立つると同根だろう。七種の菓子は庚申の供物だが、元禄前より大黒にも備え、今の童は天満宮に供うる物とのみ思うもおかしと『用捨箱』に言ったが、同書に引いた『世説愚案問答』に、「むかしは庚申の七色《なたいろ》、甲子の七色とて、鳥目一銭にて七色の供物を売りたり。その調え様は、干菓子、砂糖|大豆《まめ》、煎餅様の物を調う」。
インドで、今もダードモクホジャール、ラーロ、ハールダース等の田神に、七種の穀豆、小麦、小豆、キンアズキ等を混じ煮て供えねば、村人に殃《わざわ》いすと言う等を参照するに、七色の供物は庚申に限らぬと見ゆ(エントホヴェン『グジャラット民俗記』六一頁)。『一切如来大秘密王微妙曼拏羅経』に七種の閼伽《あか》瓶を説くなど考え合わすべく、支那人やマレー人が人ごとに七魄ありと説くような信念から起こったものか(『遵生八牋』九。スキート『巫来《マレー》方術篇』五〇頁)。
(594) ちなみに言う、土宜僧正が青面金剛の本身といわれた毘首奴の多くの称号中に、ダーモラダ(繩つき)とあり(一九一三年三板、ウィルキンス『印度神誌』一二九頁)、熊野で盗や紛失品を求めて庚申像を繩つきにすると、多少の関係あるも知れず。
(明和二年刑死した盗魁真力徳次郎は実に庚申の夜孕まれたという。また、数年前病死した、紀州生れで北海道で長く苦役の末、恩赦で出獄した人あって、その仲間では知れ渡った者の由。あるとき、「南方先生、よいことを教えてあげようか。」南「教えてくれ。」「まず所を大阪心斎橋通り、時節を誓文払い、呉服店の売出しの夜とすると、表に並べる用水桶を取って、いきなり店の真中のランプに抛げつける。一同ソレ失火と、どさくさ紛れに、イヨー大変大変と呼ばわりながら駆け込んで、あり合わせた絹物を持てるだけ持って、一目散に逐電します」と、呆れ返ったよいことを教えくれたので、無言で逃げ帰った。この人は庚申の日に生まれた。隣人ども祝いにゆくと、父がまことに困ったことと弱り切っておった、と今も言い伝える。庚申に孕んだに限らず、生まれたものも手が長いというらしい。)
橘南谿の『西遊記』に、長崎の人、盂蘭盆に墓場で観燈の酒宴をすること、京坂の花見に異ならず、終夜大打ち死にをやらかし、少しも威容なき状をのべ、タヴェルニエーの『六紀行』(一六七六年パリ板、巻一)にも、アルメニア人がサント・クロア祭の前夜、酒肴を携えて墓場に詣り、死人を追想して哭泣し、その間々《あいあい》に大愉快底抜け騒ぎを催し、洗礼や婚礼すらできぬ貧民さえ、この夜墓場で酒宴のできぬを大不幸とするの状を述べある。庚申待ち、またこれらに異ならず。世に伝うるところ、大宝元年正月七日、庚申神、天王寺傍に降る、日本最初の庚申なり。この日、僧住善、帝釈の使い猿の告げにより、始めて祭ったという。(『摂陽群談』一二。『和漢三才図会』四。『一話一言』三八)
『和漢三才図会』に、庚申待ちは、相伝う、文徳帝の時、智証大師入唐してこれを伝え来たると、宇多・酸醐の朝もっぱらこれを行ない、菅丞相、庚申の詩あり、と。またいわく、本朝には、朱雀天皇天慶二年、内裏始めて庚申の御遊あり、と。しかるに、『垂加文集』に言えるごとく、『続紀』に、神亀元年庚申、聖武帝が諸司長官等を召して宴を賜(595)うた、とあり。『西宮記』に、延喜帝庚申御遊のこと見ゆれば、朱雀帝に始まれるにあらず。一条帝、長保元年六月九日庚申、三尸の御遊あり。同五年六月二日庚申、殿上三尸を守る。『大鏡』に、藤原師輔、村上帝の庚申の御遊に双六して、只今自分の娘が孕みおる皇子が男ならば重六出でよと言って打つと重六出たので、その座にあった藤原元方が、さては自分の外孫たる広平親王は御兄ながら、やがて生まるべき弟の親王におしのけられて即位しえずと失望して死んだ、とあり。『栄華物語』には、天元五年正月庚申の御遊中に、三条帝の御母女御超子が頓死のことあり。(『東山往来』に、「庚申の作法、ほぼ陳《の》べ申すべし。一の秘法にいわく、伺命神あり、つねに庚申の日において、上りて天帝に向かい人事を算計す、もし罪重き者は紀を去る、これ十二年なり、罪軽き者は算を去る、これ一年なり、すなわち生籍を削って死籍に付す、云々、と。しかしてすなわち人寿を増減するは、まさにこの日にあり。よって、ことにまさに善行を修むべし。戯笑のことに至っては、夜に入って睡りを覚《さ》まさんがためなり。『庚申経』にいわく、人身に三尸あって人の短を伺う。その睡眠する時もっとも便を得るものなり。上尸は頭に着き、耳目を鈍くし、口中に病を生ぜしむ。中尸は腹に着き、異想を生ぜしめ、ならびに寸白《すばく》等の病を発せしむ。九虫は、かの流類《たぐい》なるゆえなり。下尸は足に着き、行歩を佳《よ》くせざらしめ、患苦多くあらしむ。この三尸の形は、人に似、馬に似、鬼に似たり。形容は小なりといえども、よく大悪を生ず。庚申の日は、かれが伺い求むる時なり、云々、と。しかればすなわち諸衆は、まず講説を修め、妙義を論談せよ。次に、夜に入れば、睡りを治めんがためのゆえに、あるいは巡《めぐ》りて経を読み、あるいは『倶舎《くしや》』等の本頌を頌《じゆ》すべし。この魔の十軍中の五軍は、凡人に着きやすく、睡眠これより起こる。よってもし倦眠の起こる者は、したがって邪をもって邪を破るの術もて狂を致さんか。いわゆる巡りの猿楽等なり。それ猿楽の条は、山代の翁の語、大原姑の歌、右遶供奉の左行舞、七条大子の安飯声、しばらく万人の腸を截《た》つといえども、なお一世の報を結ばず。このゆえに、しばらく猿楽を許さんか。ただし、双六《すごろく》に至っては、人|一双《ひとくみ》一双相対す。その心なき童子は睡目を驚かさず。これに加うるに、無益の戯れにおいて勝負の報を結び、一念の執心によって万代(596)の怨讐を作《な》す。また相論の間に、瞋怒《しんど》を致し放言を作す。牛骨の無情に向かいて、邪執の祈誓を作すものなり。庚申の日、何すれぞ罪を治めてかえって罪を作るや。よって弟子の意において、博奕《ばくえき》のことは、何ぞ受け申さざらん。不具。謹言」とあり。)
山崎闇斎いわく、日月星辰の祭は天子のことなるを、道士犯しぬるより、釈氏も傚いて、日待ち月待ちすとて酒をのみ、碁、双六を打ちて夜を明かし朝に至る人の愚かなる、これに引かれて財を費やすのみならず、天罰を顧みざるは悲しむべし、と(『広益俗説弁』四)。まずはそんなことで、最初三尸九虫が罪過を密告するを怖れ、身を慎み、夜を守ったが、退屈のあまり、空腹の予防に少々の物を食い、睡りを防ぐ心がけで巡りの猿楽等をやり出したのが、だんだんと緩み出し、ついには碁、双六はさらなり、大浮かれに宴遊したので、予の家に古く伝えた、徳川の中期に板行したらしい百人一首の絵本には、庚申待ちとて大酔した男の耳を三絃片手な年増芸妓が牽きなぶる体の画あり。また「若衆をするは構はぬかのえさる」という句の下に、長老が襦袢裸の?童に酒を強いる絵も見た。こんな次第ゆえ、気の利いた連中は平安朝のむかしすでに失敬して庚申の遊びに参加せず、『袋草紙』なる、庚申せで寝る誦文、「しゃ虫は、いねや去りねやわが床を、ねぬれどねぬぞ、ねねどねたるぞ」を唱えて、平気で寝たのだ。この心は、三尸の虫よ、わが床を番せずに離れ去れ、われは身を床に横たえるが、心は眠りおらぬというのだ。
『嬉遊笑覧』に、後世シャ虫をシシ虫としたのを誤りのように言ったが、シャ虫、シシ虫、共に尸虫のことで、音便上シムシといわずにシャ虫またシシ虫とよんだのだ。今この歌を知った者はよほど少ないが、庚申祭盛んな世にはいと知れ渡りおったので、『武徳編年集成』一一に、元亀元年十二月十六日、信長、佐和山城辺磯野郷に至り、丹羽長秀、水野信元に対顔す。今度(浅井、朝倉と)の和睦は庚申の夜の俗歌と思うべし、と宣う。こは和睦してせぬがごときという心なり、とある。件《くだん》の歌のシシ虫をあるいはショウケラに作ると『笑覧』に言いながら、その義を解かずにあるが、これは障礙等の意であろう。(『本草綱目』には、尸虫を人身に寄生する九虫中最も大害をなすもので、(597)その状犬馬の尾または薄筋のごとく脾に依っておると記しあれど、普通に三尸九虫をあわせて尸虫と言ったと見え、また『遵生八牋』九によれば、夫妻、同室寝食を忌むは甲寅と庚申の日で、甲寅には指の爪、甲午には脚の爪をきれば、三尸を制し得、とある。)
これを要するに、西洋でウォームなる英語、またそれに相当する語が、今日の動物学でいう蠕虫、昆虫等に限らず、蛇、トカゲ等の爬虫から神異を極めた想像動物の竜、それから狐や?《はりねずみ》や鼬《いたち》までもウォーム(虫)で通称したごとく、支那でも古く一切の動物を虫とし、『大戴礼』に、これを羽虫、毛虫、甲虫、鱗虫、裸虫と分かちある。したがって、尸虫など虫とあるばかりでどんな虫か分からず。青面金剛随伴の衆にちなんで三尸を三猿としたらしいが、一方には茶立虫がその身至って微小で、普通に目につかず、さて夜間不思議に大きな音を立つるより、これを人の行いを番して天に告ぐる尸虫として、シャ虫またシシ虫と唱え、大いに怖れ憚り忌んだもの、と熊楠は惟う。(やや似たことは、マレー半島のネグリト人は、人間があまり悪くなると、天上のクペルン神の使者たる蜻?が、池下の婆神ヤグマノイドに告げて、池から水を溢れ出し悪人を滅ぼさしむ、というのだ(一九二三年ケンブリッジ板、エヴァンス『英領ボルネオと巫来《マレー》半島の宗教、民譚、風習の研究』一四八頁)。)
(慈覚大師『入唐求法巡礼行記』一に、承和五年十一月、大師揚州にあり、「二十六日の夜はみな睡らず。本国の庚申の夜と同じきなり」。これは智証大師帰朝せし天安二年より二十年前、本邦に庚申の夜を守ることあった証拠で、『和漢三才図会』に、文徳帝の時、智証大師入唐してこの風を伝えた、とあるは誤謬だ。また『風葉和歌集』、恋「庚申しける夜、書きて女に見せ侍りける、うつぼの侍従ナカスミ、祭使、ぬるまなくなげく心を夢にだに逢ふやと思へばまどろまれけり」。予は『宇津保物語』がいつ作られたか知らぬが、むかしより物語類の最も古いものの一と言われたこの書に、小説ながらもうこんなことを出しあるを見ると、平安朝の早いうちから庚申待ちが厳格に守られなんだらしい。) (大正十五年九月『民族』一巻六号)
(598) 水乞鳥のこと
『郷土研究』二巻三号七四六頁〕に、早川孝太郎君いわく、水恋い鳥は、先世姑を虐待した報いで鳥に生まれ、全身緋色だ、水を飲まんとすれば緋色水に映り、火と見えて飲むあたわず、わずかに雨露で渇を凌ぎ、常に水恋しと鳴くという、と。この参河の伝説と少し異なるのが、紀州日高郡竜神村に行なわる。いわく、この鳥、その親重病で水を望むにより、水を汲みに行った時、自分の影水に映って美しきに見とれ、久しく留まるうち親が死んだ、その罰で今に水を得ず、一日雨ふり続くるもわずかに三滴しか喉に入らず、常に水を乞うて鳴く、よって水ヒョロと名づく、と。ヒョロはホシイということらしい。
熊楠按ずるに、『正法念処経』一六に、「また第二の業あり、かくのごときものは、この鍼口餓鬼の中に堕つ。丈夫《おつと》あって、その婦人《つま》に勅し、沙門、婆羅門に食を施さしむ。その婦、慳惜《ものおしみ》して実《まこと》にはあれどなしと言い、その夫に語っていわく、家にあるところなし、はた何等《なに》をもって沙門およびもろもろの道士に施与《ほどこ》さん、と。かくのごとき婦人は、夫を誑《あざむ》き財を悋《おし》んで布施せざれば、身|壊《やぶ》れ命終わって、鍼口餓鬼の中に堕ち、その積習によって多く悪業《あくごう》を造る。この故に、婦人は多く餓鬼道の中に生まる。何をもっての故ぞ。女人は貪欲にして嫉妬多きがゆえに、丈夫に及ばず。女人は小心軽心にして、丈夫に及ばず。この因縁をもって餓鬼の中に生まれ、すなわち嫉妬悪業は失われず壊れず朽ちざるに至る。餓鬼の中において脱《だつ》するあたわず、業尽きて脱するを得。これより命終わって、畜生の中に生まる。畜生の中においては、遮?迦《しやたか》鳥の身を受け(この鳥はただ天雨を食らうのみ。口を仰《あおむ》けて天の雨水を承けて、これを(599)飲む。余の水を飲むを得ず)、常に飢渇を患《うれ》え、大いなる苦悩を受く」とある。只今座右に梵語字彙がないから、遮?迦は何鳥と分からないが、とにかくインドに雨の水しか飲みあたわぬ鳥の話があったので、水乞鳥の説は、この仏経説に基づいたと惟わる。
水乞鳥、野州で水ホシドリ、城州大悲山でミズヨロ(紀州竜神村のミズヒョロに近い)またキヨモリと言うは、火の病で水に渇するという酒落だ。その他多くの方言を『本草啓蒙』四三に列ねある。学名ハルクオン・コロマンズス。本邦の本草学者これを支那の翡翠に当てたが、それは学名ハルクオン・スムルネンシス、南支那やインド・セイロンの産だ。東南アジアから日本、北支那まで産するヤマショウビン(学名ハルクオン・ピレアツス)も、支那で翡翠というが、古詩文に羽を重賞したものではないらしい。水乞鳥の歌、伊勢、俊頼、西行、寂蓮と四人の詠を『夫木抄』に載せあり。伊勢が、夏のいと暑き日人のもとに遣わしける、と序して、「夏の日に燃ゆるわが身のわびしきに水こひ鳥の音をのみぞなく」と詠みたれば、この鳥が常に水に渇するという譚《はなし》は九百余年前すでにあったので、それが今も片田舎に村話となって存するのだ。 (昭和二年五月『民族』二巻四号)
(600) 蜀黍について
柳田国男「玉蜀黍と蕃椒」参照
(『民族』三巻四号七四一頁)
今のことは知らず、予の幼時から丁年まで、紀州ことに和歌山市とその付近では、蜀黍をトキビ(トウキビの略)、玉蜀黍をナンバと謂つた。今も田辺町とその付近で然《しか》いう。田辺町で以前も今もモロコシというは、そんな穀物でなくて、東京でフジマメ、和歌山でカキマメ、『本草啓蒙』に鵲豆に当てた豆だ。
元禄八年成った人見元徳の『本朝食鑑』一に、「黍《きび》、種類多し。本邦用うるところは四、五種に過ぎず。稲黍《いなきび》は用うるところ少なくして味もまた佳ならず、農間飯粥として食らう、云々。糯黍《もちきび》は粒大に色赤くして粘る、餅および団子として食らう、味美にして上饌となす。あるいはモロコシという、云々。唐黍《とうきび》なるものあり、すなわち蜀黍なり。糯黍の粒大に色赤きものにして、茎穂もまた高大、味もまた美なり」とあり、次条に、「南蛮黍、これすなわち玉蜀黍なり。今俗、南蛮黍をトウモロコシ、蜀黍をトウキビと称す、云々。あるいはいわく、唐黍は中華の種、南蛮黍は南蛮の種にして、近代長崎より来たって処々に種《う》ゆ。故にその国名をもって黍の字の上に冠らしめて、本邦の黍に別つ所以なり。これこの理あるに似たりといえども、南蛮黍を別にトウモロコシといえば、中華よりもまた(日本へ)種を移すか。唐の字、古えよりモロコシと訓じ、黍もまた同訓なれば、すなわち俚俗おそらくは誤り称するものならん」と出ず。
前条と合わせ攷うるに、初めモロコシとトウキビは別で一物ならず、キビの粒赤くて粘る、いわゆるモチキビをモ(601)ロコシと称え、蜀黍をトウキビ、さて玉蜀黍を唐から新舶来のモロコシすなわちモチキビの意味で、トウモロコシと俗称しただろう、と人見氏の推測だ。この推測の当否は措いて、モロコシとトウキビは何の時何の地でも同一品を指す名でなかったことも、以前ある地でモチキビをモロコシと称えたことも、件《くだん》の『食鑑』の条によって判る。
百七年後成った『本草啓蒙』一九に、黍の和名コキビ、モチキビとのみあって、モロコシの名を挙げず。そのころ、もっぱら蜀黍をモロコシキビと言ったと見える。
蜀黍をトウキビと言うはいつごろよりか知らねど、文禄五年愚軒が見聞を録した『義残後覚』一に、三好・松永、義輝将軍を弑し、「その後松永京都の守護として在家の地子諸役を改めけるに、名にしおう都もふり果て、とうきび〔四字傍点〕を束ねて柱にしたるわら屋、所々にありければ、ただ在郷のごとし」とあれば、永禄のころ、蜀黍すでに京都近く種《う》えられ、トウキビと呼ばれたと知る。『柳亭記』上に、「この書文禄の奥書あれど、寛永の後に書き集めし物なるべし」とあり。しかし、戦国時代京都の人家に蜀黍の柱とは、当時の実況を言い伝えたもので、後人の捏造でなかろう。 (昭和三年七月『民族』三巻五号)
(602) 紀州田辺より
杖の成長した詰
本誌一巻一号七四頁に載せた例より古い槐《えんじゆ》の杖が成長した話は、『八幡愚童訓』上に、神功皇后、「御産の時、槐の枝を倒さまに立て取りつけたりしかば、やがて生えつき、今にあり。当時の木は三度まで生え替わりたる木なれども、一枝なお逆なる形なり。宇美槐とて、国母仙院を始め奉り、御産平安御祈御仏衣木、この槐を用いらる」と見ゆ。
東洋でもっとも古い杖の生えついた話は、『山海経』の大荒北経に、「大荒の中に山あり、名は成都載天という。人あり、両《ふたつ》の黄蛇を珥《みみかざり》とし、両の黄蛇を把《も》ち、名は夸父《こほ》という。夸父、力を量らずして日影を追わんと欲し、これを禺谷《ぐこく》に逮《およ》ぶ。まさに河に飲まんとして足らざるや、大沢に走らんとし、いまだ至らずしてここに死す」。海外北経には、夸父渇して、「河と渭《い》とに飲み、河と渭にて足らず、北のかた大沢に飲まんとし、いまだ至らずして道に渇して死す。その杖を棄つるに、化して鄧林《とうりん》となる」。『淮南子』『博物志』ともにこのことを載せあれば、ずいぶん古い伝説らしい。法顕の『仏国記』にいわく、祇?精舎《ぎおんしようじや》の西北四里ほどに得眼木という榛林あり、五百盲人、仏の説法を聴いてみな眼があいた喜びのあまり、杖を地にさし礼し去った、その杖が生長したのだそうな。
(603) 欧州で著名なは、英国グラストンベリーの山査樹《さんざし》で、むかし英国教化に来たヨセフ尊者が、ここまで来て労《つか》れて地に坐し、この木で作った杖をさしたのが生えついて大木となったので、毎年十二月二十四日に莟《つぼ》み出で二十五日に花さいて、正しくキリストの誕辰を祝うた。霊験灼然と驚いて求むる者異国にも多いから、最寄りのブリストルの商人ども花を採って海外輸出、大ボロ儲けをした。のち清教徒これを嫌い、その二大岐の一つを伐ったところ、たちまち神罰を蒙り、その刺《はり》が眼に飛び入って一眼になった。残った一大蚊もまた内乱中に伐り倒されたが、近所の酒屋主人がその一枝を蔵し栽えたのが長じて、相変わらずクリスマス当日花を開き、その夜散りおわった。一七五二年暦日改正とあって従前の一月五日が新暦の十二月二十五日となった時、新暦のクリスマスが果たしてキリスト降誕の日であろうか、すべからくこの木の花で判ずべしと、二千人以上の有難屋連が件《くだん》の酒店へ来たり、ロハで見物勿体なしと飲み続けてまてども、さらに花咲かず。新暦は不正に極まったと大騒ぎを持ち上げたので、近村の牧師連駆けつけ、暦は改正されてもクリスマスは旧暦を用ゆべし、と諭して解散せしめた。
また英国ケントのセヴン・オークス(七本槲)は、もとパレスチナなる同名の地を摸したものか。ジーン・スタンレイ説に、カインがアペルを殺した神罰に五百年間弟の屍を負いありき、さてここに埋め、墓のしるしに杖を立てると長じて七本の槲《かしわ》となったのがパレスチナに存す、と(フォーカード『植物俚談』三五二および四七一頁)。それから『大唐西域記』巻一の終りに見えた象堅卒都婆辺なる釈尊の使うた楊枝が森になったは名高い談《はなし》だが、インドには仏教外にもそんなのがあり、ジャクソンの『グジャラット民俗記』一三七頁に、韋紐《ヴイシユヌ》教の聖人ラール・バーヴァが用いた楊枝から生えたというバニヤン樹が崇拝さる、と記す。 (大正十五年三月『民族』一巻三号)
(604) 衣を隠された神女
金田一京助「求婚伝説より羽衣・三輪山伝説へ」参照
(『民族』一巻二号二二〇頁)
衣を隠された神女が隠した者の妻となる話が必ずしも小説にあらざるは、パルフォールの『印度《インド》事彙』に出た次の記事が立証する。いわく、カンナノールの女主は、その隣地とラッカジヴ中の三島を、その祖先より伝え領す。この女主は回教を奉ずるモプラ人で、一族中の年長の女が女主となる。伝え言う、むかしここでナイル人の婦女の一団が水浴する場へモプラ商人どもが来た。女どもあわてて衣服を取って逃ぐるに、若い女一人、その衣を持ち去られ、水を出るあたわず、一人のモプラ男これに布を与え、身を被わしめた。そこの風で、男から衣を受けたらすなわちその妻となった訳だから、詮方なくこれに嫁した。この女は富家の一人娘だったので、王がこの女に領地を与え、世々女主に相続支配せしめた、と。 (大正十五年三月『民族』一巻三号)
ミソサザイは鷹の一属
早川孝太郎「鶏の語その他」参照
(『民族』一巻一号一七九頁)
ミソサザイは鷹の一属というは、羽の斑紋と色が多少似たからだろう。タカフとて黒白の斑あるものあり、と『本草啓蒙』に見ゆ。『華実年浪草』八に、『詩経』に「肇《はじ》め允《まこと》にかの桃虫なるに、?《ひるがえ》り飛んでこれ鳥となる」、注に「桃虫は小鳥なり、鵰《ちよう》は大鳥なり。鷦鷯《しようりよう》(ミソサザイ)の雛、化して鵰となる。故にいう。古語に、鷦鷯、鵰を生ずというは、始め小にして終り大となることを言えるなり、と」。鵰は『博物新編』などに禿鷲と訳した英語で、いわゆる(605)ヴァルチュール。日本にないが、まずは鷲に近い物だ。これも羽の色や紋が似るから、この小鳥が禿鷲に化すと信じ、小身から出世するに比べたのだ。
グベルナチス説に、モンフルラト地方の俗説に、ミソサザイが鷲と飛びつくらをするに、潜んで鷲の翼の下に宿りおった、とは知らず鷲高く騰って労《つか》れた時、ミソサザイたちまち身を挺してその上に飛び、勝利となった。それからミソサザイを鳥王と呼ぶから、鷲常にこれと仇たり、とプリニウスが言ったのだろう。ガスターの『ルマニア鳥獣譚』三〇一頁に、諸鳥飛びっくらをして最勝者を王に立てんとした時、ミソサザイ上述の詐謀で王となったが、事露われて一同大いに怒り、その身を寸断しょうとすると、ミソサザイ木の穴に隠れて出でず。諸鳥、梟《ふくろう》をして番せしむると、梟、原来ノラ者で眠りおわる。隙を伺うてミソサザイは逃げ去った。一同また立腹のあまり、梟に飛びかかり、梟、身をもって遁れた。以来梟は昼間世に出ることなし、と出ず。
早川君が言われた、この鳥が野猪の耳に入ってこれを負かした話は、これに似ているようだが、吾輩に初耳だ。その詳を述べられんことを願いおく。 (大正十五年三月『民族』一巻三号)
虎杖をゴンパチということ
柳田国男「虎杖および土筆」参照
(『民族』三者五号九二四頁)
熊野で一汎に虎杖《いたどり》をゴンパチと呼ぶは、「至って仮初《かりそめ》なる流行に始まるものと見てよかろう」と言われたが、ウェブストルの字書に、一時多人が行ない出すのが風俗(カストム)、それが久しく続けられると習慣(ユーセイジ)になる、とある。この定義より考うれば、昨今のように政府から制定命令してかかるにあらざる限りは、いかな民俗もおおむね最初は「至って仮初な流行」より起こったこと必定だ。さてゴンズイというもとの名義を、白井光太郎博士に尋ね(606)たところ、牛王杖で牛王の符を挟み持つにこの枝を用いたから、と教えられた。例推するに、ゴンパチは牛王葉くらいの原意で、何か牛王加持の際これを用いた熊野固有の習慣の痕跡を留めた名称であるまいか。 (昭和三年九月『民族』三巻六号)
人を土地に執着せしむる水
今年一月十九日発行『ノーツ・エンド・キーリス』一五六巻三号四六頁に出たビンノール氏説に、英国数ヵ処に不思議の井や泉あって、一たびその水を飲んだ人をして、爾後永くその井や泉のある邑《むら》に住まんと思わしめ、また左なくとも死ぬ前にきっとその邑に還らんと志さしむと信ぜらる、リンカーン州のアシュ井、ヨーク州ウィルトンのダイアナ井等がその例だ、とあり。そのダイアナ井の水を飲んだら、乞食してもウィルトンの地を離れ去らぬという俚諺もある由。
本邦にも、こんな井泉の例は、南方先生に思いつく婦女同様、ずいぶんザラにありそうだが、さし当たり一つも想起しえないから、読者諸彦の高教を俟つ。(三月十一日夜) (昭和四年四月『民族』四巻三号)
〔2018年3月14日(水)午後4時10分、入力終了〕
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