2024年6月10日月曜日

イー、エー、ゴルドン 高楠順次郎訳 弘法大師と景教との關係 (一名、物言ふ石、教ふる石)

イー、エー、ゴルドン 高楠順次郎訳 弘法大師と景教との關係 (一名、物言ふ石、教ふる石)
イー、エー、ゴルドン 高楠順次郎訳 弘法大師と景教との關係 (一名、物言ふ石、教ふる石)

底本:「弘法大師と景教」丙午出版社
   1909(明治42)年9月14日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「秘教」と「祕教」、「游學者」と「遊學者」の混在は、底本通りです。

(一名、物言ふ石、教ふる石)

[#ページの左右中央]


本書はゴルドン夫人の艸せられしを、可成原意を損せざる樣に注意したるも、譯文拙劣にして全豹を示すこと能はざるを憾む、原意の徹底せざる所はその責譯者に在り。夫人はその老躯を以て今夏再び嚴島に游び、更に讃岐に渡り、大師の降誕地を訪ひ、遂に高野山の靈廟に詣せり、夫人の大師追慕の念深きを知るべし。


[#改ページ]

「我れ爾曹に告げん、此輩もし默止せば
 かの石は直ちに呼號すべし。」(耶蘇)

 佛教に關する予が智識は至て乏しく、唯日本在住の間に於て斷片的に學得し、且つ有名なる支那學者に就き、法華の法門を研究したるが、今某大徳の需に應じて、覺束なくも一文を草して世に公にせんと欲する所以なり、この支那學者は曾て馬鳴の起信論を譯し、その進歩せる大乘教理と、耶蘇教義との間に於て驚くべき同似點を發見したり。予もまた佛教徒たる諸友の厚意によつて、佛耶の兩教義を比較し、其間に於て喜ぶべき思想の融和を認めたり。假令語句の間に於て全然同一なるものなく、且つ現時に於ては精確なる歴史上の連鎖を追跡すること不可能なる如きも、此兩者の間には眞正なる精神的連鎖の慥に存在せることを感ぜざるを得ず。今予は不幸にして此大問題に關し無智なりと雖も、益進で之を攻究し、一層深く教理に悟入せんことを希望して止まざることを茲に表白するものなり。
 若しその古傳の研究愈進み、兩教聖典の對照その宜しきを得ば、現に不可能視せらるゝ歴史上の連鎖も、遂に發見し得らるべく。從つて夫の精神的連鎖も愈明確なる根據を有するに至り、佛耶兩教徒相互の利益となるべきは明白なり。
 我聖書中に云へることあり、「ベレア」の民は小亞細亞の他の都府の民よりも尊し、何となれば彼等は日々聖書を讀み、その事の果して然りしや否やを尋究せりと。凡そ相互の教義を公平明白に、且つ正直に比較攻究することは、兩者相損することなきは勿論、現時尤も必要を感ずるは、兩教中眞に精神ある人々が、相互にその寳藏を闡明し、明白に兩者の教義を了解するにあり。何となれば精神界の事物は精神なき人に對しては遂に愚盲不了たるを免る可からざればなり。
 予が昨夏此の風光明媚なる勝區に遊樂せる間に於て、最も深き印象を與へたるものありとせば、そは弘法大師の感化の偉大なることにてありき。此に於て予は從來大師に就ては、唯その名の外、殆一切を知らざりしことを愧ぢざるを得ず。而るに今その名の斯くも屡話頭に上るを聞き、且つ千百年の後に於てその感化、尚民心を支配し、種々の方面に於て性格の印象を留めたるを見るに及びては、予は實に大師が如何に驚嘆すべき人傑にして、その性格の如何に強固なりしかを感賞せざるを得ざりき。
 我英國の戯曲詩家セークスビーアは説けり。

"The evil that men do lives
after them - the good too oft
lies buried with them."

「惡事は行ひたる人の後までも生殘り、
 善事は多く人と倶に葬らる。」

 悲むべし、この言は實に社會の實状を寫したるものなりき。而るに今や然らず、偉大なる「弘法大師」の名は、國民の間にかくまでもその芳香を存せり。
 予が始めて大師を知りしは、嚴島=彼の神聖なる、美麗なる内海の一島=にてありき。予は一日彼の快絶奇絶なる深林を過ぎ、絶壁を攀ぢ、山の頂上に達して一の巨大なる聖火を見たり。こは實に予が世界周遊中に於て見たる最も奇異なるものなりき。斷木マルタを燃せるこの聖火は、弘法大師が千百年前支那より歸朝せし時、此地に點火せし以來、曾て滅せざる所なりと云へり。予はこの木頭火に耶蘇教のユールロツグ(耶蘇降誕祭の木頭火)との間には思想の連絡あるを信ず、この聖火に近く奧の院あり、此に參じてその幔幕及その前の懸燈に於て、叉斧(ダブルアツクス斧が交叉した絵)の印章あるを見たり。
 この叉斧は實にアリヤン時代以前に於て、地中海のクリート島=紀元前三千八百年アゲードのサルゴン大王の上陸せし島=に於て天神の表章として用ゐられ、天上の鳥を表せしものなりと謂へり。近時ドクトル、アーサーセー、イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンス氏がゼウス神(zeus 即太陽神)の生宮と稱せらるゝ岩窟、及クノソス(Knossos)の王宮(古來ミノトール(怪牛)の迷宮と稱せられし處)を發堀せし際、この叉斧の印を發見したり。さればこの紀章は歴史以前より廣く用ゐられたるものなるべし。
 弘法大師も又筆法に熟し、五筆運用の技を逞くし、假名文字を四十八字の教歌となし。

色は匂へど散りぬるを
    わが世誰ぞ常ならむ
有爲の奧山今日越えて
    淺き夢見じ醉ひもせず

"Fragrant flowers are very sweet,
But one day they will fade away,
Who can say "This world's unchanging"?
Crossing o'er the mount of changes to-day,
We shall find no dreaming, nor illusion
          But Enlightenment!

と云へり。
 又次に京都に來りたるに、幸運にも予は盆祭に會せり。予は實に愉快を以てその奇異なる盆火(Bon fire)を見たり。鳥居、舟、秘密殿、大文字等の光景を平安城を圍める山の斜面に顯はせり。こは恒に世界の漫遊客の怪み見る所なるが、これ亦弘法大師の考案に出でたるものなりと謂へり。千百有餘回の秋に亘りて弘法の遺志の、尚年々行はるゝは驚嘆すべき事實に非ずや。予は此に於て暫く埃及三角塔時代死書(The Book of the dead)と、これらの奇習慣との間に於ける關係を示し、試みにその連絡を畫かんと欲す。是れ予は此點に於て尤も弘法なる偉人格に興味を感じたるにより、茲に可能的大師の人格に關する一切を闡明せんことを决心したるを以てなり。
 大師は曾て千百餘年に於て自ら法を求めて支那に遊學し、當時支那の中心にして首都たる長安に在留したり、この一事のみを以てするもその勇猛、剛邁の氣象を示して餘りあるものと謂ふべし。兩三年客遊の間に於て惠果大阿闍梨に就き密教を攻究し、而してその所謂眞言宗=大日の秘教=を得て歸朝したり、思ふにこの遍照の大日こそ實に嚴島の聖火及京都の標火(Beacon-fire)の根底に横はれる秘密なる可し。大師在唐の間に於て一の秘密を傳受せられ、深く之れを心中に藏し、遂に日本國に於て千歳不磨の方法に於て、國民の腦底に印象せんことを計りたるものなるべし。大師は疑ひもなく在唐の間に於て、かの「大光明」(A Great Light)=高きに昇れる旭日の如く國民を覺照し、=闇きに坐し死の影に住ふものを照し、=平和の道を導く=かの偉大なる光輝を證得したるものなり。而してこの光明を永久的に實現的に國民の眼球に映ぜしめ、人をしてこの祭火を照し經に依りて大毘盧舍那佛=一切處に遍滿せる大日=の教義を演暢したり。ヒーブルー人はこの思想をイマニユーエル=我と倶に在る神=なる一語に依て言明したり、如是唯一神の實現を感ずるは耶蘇教に於ては最も貴重なる眞理なり。而して弘法は如何にしてこの美麗なる眞理を學得したるか、予は熱心に之を知らんと欲するも、未だその要を得ず、されども予は切にその實際を發見するの目的を以て歴史的秘鍵を得て、この搜索を遂げんことは最必用なる攻究なるべきを信じて止まざるものなり。
 聞く所に依れば日本第一流の學者の一人たる白鳥博士は、「東西歴史の示す所に依れば弘法大師が基督教より、或るものを學びたる點なかるべからず」と云へりと。
 紀元八百四年に大師が長安に到りし時は=弘法も、傳教も、倶に企業心に富める遊學者にして、皇命を奉じて入唐し、宗教の攻究調和を計るべき目的を有したるものなれば、=當時長安に於ける第一流の紳士、宗教家、政治家に會見を求むべきは論を俟たず。事實に於て我々は惠果阿闍梨より祕教を傳受したることを知れり、その隨學の結果が、弘法の進歩したる神佛融和主義となりたるを見れば、惠果の事跡に於て尚一層東西史上の連鎖を發見し得べきやも知るべからず。弘法及傳教兩大師は、長安に於て必かの有名なる大石碑を見たるなるべし、こは兩大師の入唐より僅に二十三年前、=紀元七百八十一年=に建てられたるものにして、幅五尺、高一丈の豐碑、上には一千八百七十字の刻文あり、題して「景教流行中國碑」と云ふ。景教はネストル僧正の派に屬する耶蘇教にして、唐太宗の時=紀元六百三十五年=波斯の大徳阿羅本及その隨員に依て、支那に開教せられたるものなり、阿羅本アロベンは青雲を占ふて聖典を載せ、風律を望んで艱險を亘り、以て傳教の任を全ふせりと云ふ。唐代の太宗皇帝、長孫皇后は世界史上に於ける最も英明にして機智に富める二統治者にして、衞軍の威武大に振ひ、王化四方に潤ひ、民心安堵、夜、戸を鎖さゞるに到れり。茲に於て帝の注意は文化教育の上に集中せられ、長安に於て一大圖書殿を建設し、二十萬卷の書を藏し、啻に親ら讀書に身を委ぬるのみならず、凡べての吏人をして自己の讀書修養に務めしむるに至れり。この圖書殿は、その接侍室、讀書室と共に精神的修業の中心となり、宗教に關する諸問題も、亦此の舘内に於て攻究せらるゝの盛に達せり。その帝立の大學は、亦その名四方に高く、朝鮮その他の諸國は、その王子をも送りて就學せしむるに至り、政府に於ては帝國内第一流の人物を網羅するを得たりと謂へり。
 此時に方つて、波斯國の大徳、景教僧の長安の郭外に來るや、英明なる太宗は、宰相房玄齡をして儀衛を具して之を西郊に迎へ、宮中に請ぜしむ。皇帝、大臣倶にその聖教を聞き、眞理に悟入せり、景教の經典は、圖書殿に於て譯せられ、新教に關して屡々下問せられ、第一に國の統治者中に景教の傳授せらるゝを見、最も思想あり、精神ある上流の學者及遠來の游學者の間に教化の行はるゝに至りたり。此時に於ても太宗皇帝は、熱心なる儒教者にして、世々盛に行はれたる佛教、老子教には多くの同情を有せざりき。
 貞觀十二年秋七月太宗文皇帝の詔勅を景教碑に載せ、左の如く記せり。

道無常名。聖無常體。隨方設教。密濟群生。大秦國大徳阿羅本。遠將經像。以献上京。詳其教旨。玄妙無爲。觀其元宗。生成立要。詞無繁説。理有忘筌。濟物利人。宜行天下。所司即於京儀寧坊。造大秦寺。一所度僧廿一人。(中略)巨唐道光。景風東扇。旋令有司。將帝寫眞。轉横寺壁。(下略)

 西安府誌に屬せる長安の地圖には、波斯胡寺の舊跡は尚記載せらるゝを見る、殊に景教碑の記す所の事實の疑ふ可からざるは、豐碑の現存と倶に種々の史跡に徴して明白なるものなり。
 この牌文は[#「牌文は」はママ]三一妙身。無元眞主。阿羅訶。(Aloha)即上帝の徳を賛するに始まり、創世紀の造物説を述べ、天地人生の創造偏僻する所なきも、惡魔裟彈(Sathan)の誘惑に依り、空有の論を生し、祷祀の俗を爲し、精神界の混亂を來たし、陰雲常に世を掩ふに至る。茲に於て三一分身。景尊彌施訶。(Messiah)※(「楫のつくり+戈」、第3水準1-84-66)隱眞威。同人出代。遂に救世主の出世となり、大秦國に耶蘇の降誕を見る。救主の應現より遂に能事斯畢。亭午昇眞の贖罪の話に移り、廿七部の經(舊約聖書)を留め三一淨風。無言之新教を確立せしを説き、左の教説を立てたり。

一、靈關、浴水(洗禮)の禮を設けて以て浮華を滌ぎ虚白に返らしめ。

二、十字の印を持して、以て四照を融和し。

三、木鐘を打つて仁惠の音を震ひ。

四、東方を禮して、以て生榮の路に趣き。

五、鬚を存ずるは外行ある所以。

六、頂を削るは内情なき所以。

七、藏獲を畜へずして、貴賤を人に均くし。

八、貨財を聚めずして、身を貧窮の地に置き。

九、食を齋斷するは、識を伏藏する所以。

十、身を禁飾するは、健康を有つ所以。

十一、一日に禮讃七時大に存亡を庇し。

十二、七日一薦心を洗ひ素に反る。

眞常之道。妙而難名。功用昭章。強稱景教。惟道非聖不弘。聖非道不大。道聖符契。天下文明
 夫れより景教東來の歴史を述べ、波斯大徳阿羅本の入唐、經書の飜譯、太宗の詔勅より景風東遷の事跡を述べ、高宗の時に到りて化風愈揚り、諸州に令して景寺を建てしめ、阿羅本を崇めて鎭國大法主となす。景風十道に遍く、國富み民休し、家に景福を仰ぎしが、武后垂拱、聖暦年間に到りて、釋子の排擠に會ひ、先天年間に於ては士人の誹謗を受け、一時停滯せしも、玄宗即位の後に於ては、五帝の寫眞を寺内に安置し、親ら景寺に臨みて壇場を建立す。法棟再立ち、道名正に復す、天寳の載、波斯の僧(譯者曰、著者は茲に佶和と惠果と同人には非ずやとの疑問を附し置けり。惠果は支那人にして關内道慶長郡昌應縣の人と傳へらる如何にや。)佶和東來し、同列、十七人興慶宮に於て功徳を修し天額を賜ふ、肅宗、代宗或は景寺を増建し、或は天香を供し、又は御饌を賜ふて景風を宣揚す。徳宗の治世に至りては、更に波斯より金紫光祿太夫、同朔方節度副使、試殿中監賜紫袈裟僧伊斯遠く玉舍の城より中夏に來り、傳法の事に從ひ、徳化大に行はれたる事蹟を述べ、建碑の來由を示せしものなり。
 この碑文は景教の僧、景淨(Adam)の撰文にして建中二年に時の法主僧寧恕の配下に於て建設せられたるものなり。
 バーカー教授はその「支那及宗教」なる書に於て、この碑文に見えたる唐人の名は、皆實際史上の人物たることを證言せり。將軍郭子儀、高力皆史上に名ある人にして、阿羅本を迎へたる宰相房玄齡は、太宗建國の大半を助成せる人なり。この撰文者たる景淨(Adam)の名さへも、近時高楠博士の發見に依れば佛教書「貞元釋教録」中にその名を留めたりと云ふ。
 貞元釋教録(般若傳)卷十七に依れば、景淨は佛教僧と共に佛書の飜譯に從事したり、その記事左の如し。
 而してこの般若三藏は曾て、景淨と共に佛經を譯したるも徳宗の爲に非認せられ、更に新組織を爲し譯成したるものは、大乘理趣大波羅密經として一切經中に存す。
 景淨は建中三年に景教碑を建て五年の後即、貞元二年には如上の佛經連譯を爲したるが、其後二十三年を經て貞元二十年には、弘法大師は入唐して、かの般若三藏に就き、親く梵言を攻究せり。或る學者は般若三藏と稱するもの二人ある如く説けるも、こは全く誤謬に因れるものにて、景淨(アダム)の同譯者たる般若も、弘法大師の請益師たる般若も同一たるは殆ど疑なきものゝ如し。
 弘法、傳教の長安に着せし時には、市内に四大景寺あり、一大景教碑あり、卓識英邁の資を以て新智識を得るに熱中せる大師其人にして、十字架を冠し異文字を刻せる碑文を見ず、皇帝の御影を掲げ、奇異の樣式を表せる寺院を訪問せざるの理由あるべからず。もし大師にして景教中國流行碑の大榜を見ば、必ずやその何ものなるか、その所謂處女より生れたる彌尸訶(メサイア)とは何ものなるか、その贖罪昇天とは何事なるかを問究めんとするは勿論、先つその寺院に入り、東西の語に通じたる大徳景淨に逢ひ、その教義を質問し、且かの「光翼」(神の顯現を表す)の奇標を見て、その説明を求めて、その好奇心を滿足せしめたるは、火を見るよりも明かなり。この光翼の神標は、太古埃及の三角塔の古棺に刻せられ、アツシリヤの寺院に彫出せられ、シリアにては耶蘇教に化して、尚この標識を全世界の主宰神を表するものとして用ゐたり。當時支那には、已に六朝百七十餘年間景教は民間に行はれ、全國六人の僧正あり、長安はその首座にして、景淨(アダム)は實にその僧正にてありき。されば種々の方面に於て目に觸れ耳に入るものもありしなるべし、故に碑文以外の事實も大師には知られ、教義の精細も亦探究せられしやも知るべからず。新智識に汲々し、尋究して止まざるは、實に日本學生の特色なり。如此太宗の賞讃を博したる景教の何物たるを知らずして、長安を辭するは、到底眞言、天台の創立者たる兩大師には不可能の事なりとす。(譯者曰、以上數項重複の處多きを以て略譯してその意を示す。
 日本に於ける眞言宗に大日教義の存在せると、今世紀に到る迄嚴島、京都に於て祭火の相續せるとは、かの奇絶なる石碑の言明せる教網を見修し、思惟したるの證左なりと信ずるに躊躇せず、その教説とは何ぞや、碑文に云く、
景尊彌施訶(メサイア)同人出世室女聖を誕し、以て廿四聖舊約の懸記に應し、其の教法に依りて家と國とを理し、三一の淨風を設け、無言の新教を立て、正信以て人心を養ひ、八境を制して世道を拓き、塵垢を練つて眞淨を成し、以て三常の門を啓く、生を開き死を滅し、景日を懸けて闇府を照らし、魔妄是に於てか摧破せられ、慈航に棹して明宮に登り、含靈是に於てか救濟せらる、能事既に畢り、亭午登天眞に昇る。

 譯者曰、著者は八境は佛教の八戒と同じく、三常の門は盆祭の火の鳥居と同じく、景日は大日にして、慈航は盆祭の舟、明宮は盆火の宮殿に均しく其間相關するものあるが如くに注せり。

 弘法大師は支那より歸りて、嵯峨天皇の灌頂、即洗禮を爲したり、即、大日教の秘密に入るを示せるものにして、新約馬太傳(二十八卷、十八=二十)の耶蘇の言を味へばその意義明了なるべし。

天のうち地の上の凡べての權を我れに賜はれり、是故に爾曹行きて萬國の民に洗禮を施し、之を父と子と聖靈の名に入れて弟子となし、且我が凡べて爾曹に命ぜしことを守れと、彼等に教へよ、夫れわれは世の終りまで常に爾曹と偕に在るなりと。

 大師は又嵯峨帝の命に應じ、十住心論十卷を作りたるも餘りに精細に過ぎ、更に命に應じ秘藏寳鑰(Key to the Secret Godown)三卷を著せりと云ふ。大師に對する信仰は、啻に上一人に止まらず、國民の心情を汲引せることは千萬の民衆が、死後高野山大師靈廟の側に、その終焉の墓碑を建てんと希望せるの一事にても明白なりと謂ふべし。
 承和二年空海寂し、凡九十年の后に到り、醍醐帝延喜二十一年に及びて、「弘法大師」の謚號を賜ふ。かの阿羅本に與へられたる「鎭國大法主」「大徳」の尊號と妙に相似たるに非ずや。
 夫れ天意の秘密は得て知るべからず、かの景教碑は「物言ふ石」の資格として、日出處より遠來せる學問僧にその教を傳へ、能事終りて四十年の後一たび土中に埋もれ、凡八百年間無言の石たりしは亦奇と謂ふべし。佛國のポーチエーはこの碑文の疑ふべからざるを證明し、且想像して、此の碑文は多分紀元八百四十五年=會昌五年武宗破佛の亂に埋沒せられたるものなるべしと云へり。然るに千六百二十五年即、明の天啓五年に於て偶然に長安の郭外に於て工夫の爲に發堀せられ、その不朽の文字は再び眞理を宣揚し得るに到れり。
 馬太傳二十一卷四十二耶蘇云はく

聖書に録せり、爾曹未だ之を讀まざるか。
「工匠の棄てたる石は、家の隅の礎石となれり、是れ主の行ひ玉へることにして、我れらの目に奇とする所なり。」と
是故に我れ爾曹に告げん、神の國を爾曹より奪ひ、その果を結ぶ民に與へらるべし。
この石の上に墜るものは壞れ、この石の上に墜ればその物碎かるべし。

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