2024年6月12日水曜日

先代旧事本紀



Re::れんだいこのカンテラ時評779れんだいこ2010/08/11
 【「「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その1】

 2010.8.7日付け毎日新聞余録の「人の情熱は実にさまざまだからこそ…」のエッセイが気に罹ってしようがない。「先代旧事本紀」を偽書とする観点から一文をものしているのだが、れんだいこは、ここ当分頭を悩まされてきた。本文で一応の決着をつけることにする。この余録記事が、れんだいこの「先代旧事本紀」研究に拍車をつけ再度踏み込ませてくれたことには感謝する。「先代旧事本紀」の読解については「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)考」に記す。
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/jyokodaico/kujikico/top.htm)

 「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)は、単に「旧事紀」(くじき)、「旧事本紀」(くじほんぎ)ともいう。全10巻から成る史書で、記紀神話に添った形で神代の天地開闢から説き起こし、初代の天皇から推古天皇に至る事績を記載している。推古朝に編纂された体裁になっており、蘇我馬子らの序文がある。後に、先代旧事本紀を基にして「先代旧事本紀大成経」(延宝版)他2本が創られている。両書を比較してみるのも興味深いが、れんだいこにはその余裕がない。学会の研究は進んでいるのだろうか。

 「先代旧事本紀」の執筆年代で気になるのは、日本書紀の推古二十八年条の次の記述である。「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」。これによれば、記紀に先だって官選国史が編集されたことになる。これこそが我が国最古の国撰史書と云うことになるが幻の書となっている。

 先代旧事本紀の序文から見れば、先代旧事本紀が我が国最古の国撰史書として編纂された可能性がある。しかしながら、「先代旧事本紀は、日本書紀の推古二十八年条の記述に合わせて成立年代をさかのぼらせた偽書である」とする説もあり、そう理解すべき節々があるので真偽の判定が難しい。但し、偽書説の立場に立つと雖も推古朝にわが国最初の歴史書が編纂されたことまでは否定できない訳で、先代旧事本紀の内容を精査して判断するのが学問的営為であろうと思われる。残念ながら、我が国の古代史研究は本来為すべきこうした研究に向かわず、入口辺りでの偽書か真書かの二項判断を楽しむ傾向がある。

 留意すべきは、先代旧事本紀の史書としての位置づけであろう。先代旧事本紀は、いわゆる古史古伝の中でも記紀記述とも整合的であり、偽書云々には馴染まない。他の古史古伝が記紀神話の異聞異伝記述であるのに比して、記紀記述を踏まえつつ記紀が触れなかった記述を修正したり、新たな史料を加えているところに特徴がある。もっと踏み込んだ云い方をすれば、記紀が抑制した出雲王朝-三輪王朝神話を大胆に併載している。このような場合でも偽書扱いすべきだろうか。慎重な読みとりを要するとするのが学問的態度となるべきではなかろうか。これについては後述する。

 一応、ここまで、「先代旧事本紀」の何たるかを見たとして、2010.8.7日付け毎日新聞余録の「人の情熱は実にさまざまだからこそ…」を批評しておく。次のように述べている。

 「人の情熱は実にさまざまだからこそ世の中は面白い。しかし、時にちょっと困った方向にとんでもない情熱が注がれることがある。『旧事大成経』という江戸時代に禁書になった偽書をめぐる騒動も、そんな『困った情熱』の産物だった▲この書物、実に74巻にわたり壮大な古代神話を記しているが、まったくの偽作だ。志摩の伊雑宮(いざわのみや)が天照大神の本宮だと主張するために作られ、偽作にかかわった僧と浪人は流罪に処せられた。驚くのはその迫真の出来栄えで、学者や神道家たちもすっかりだまされた▲『作者、豪才強魄(ごうさいきょうはく)畏(おそ)るべし。真正の歴史を修めば、その功赫然(かくぜん)たらんに。惜哉(おしいかな)』とはある儒者の言だ。その才能で本物の歴史を研究していれば、すごい業績をあげたろうと惜しんでいる(今田洋三著「江戸の禁書」)」。 

 これによれば、余録氏は、先代旧事本紀偽書説の立場から、「実に74巻にわたり壮大な古代神話を記している先代旧事本紀執筆者の努力」を揶揄していることになる。問題は次の事にある。この余録氏は恐らく旧事大成経を読んだことはあるまい。今田洋三著「江戸の禁書」の観点を鵜呑みにして「変わった情熱」例として挙げているに過ぎない。

 余録氏は、先代旧事本紀の記述を荒唐無稽としているようだが根拠があったとすればどうなるのだろうか。れんだいこは、「ある儒者の言」の「驚くのはその迫真の出来栄え」、「作者、豪才強魄(ごうさいきょうはく)畏(おそ)るべし。真正の歴史を修めば、その功赫然(かくぜん)たらんに。惜哉(おしいかな)」の謂いの方に興味を覚える。今日の如く出版するのが困難な時代に、74巻を記すには余ほどの伝えたい遺したい意思と必要があったと窺うべきであろう。

 かくて、中身こそが詮索されるべきであるということになるが、記紀を補足する結構な文章になっていることを知るまい。つまり、余録氏は、当のものを読まずして、今田洋三著の「江戸の禁書」の観点を借用して頭から偽書説で事なかれして平然と批評していることになる。安逸極まれりと云うべきではなかろうか。一般に、人の話を受け入れることは必要ではあるが、それは信頼に足る方向でのことであり、逆方向に向かうべきではなかろう。ここに眼力が要る訳で、余録氏の場合は不明眼力の典型であろう。

 世にこういう手合いの物知りが多い。少々話を発展させると、偽書説問題は他にもある。オカシナことに国際金融資本の陰謀を明らかにする「シオン長老の議定書」なぞは端から偽書扱いされている。ところが、国際金融資本肝いりのナチス糾弾文書「アンネの日記」については真書扱いすると云う変な傾向にある。これをどう了解すべきだろうか。

 要するに、国際金融資本体制テキストの通説に添って受け止める方が無難と云う精神によって偽書、真書が値踏みされているのではなかろうか。更に述べれば、ホロコースト譚でのナチスによるユダヤ人虐殺数なぞは話を大きくすればするほど正義かのように説く傾向がある。これを国際金融資本式「西の横綱級の反戦平和論」とすれば、東の横綱が南京大虐殺で、これも犠牲者数を大きくすればするほど正義かのように説く傾向がある。

 その癖、太平洋戦争末期での米軍B29編隊による日本列島各地での市民無差別虐殺の都市空襲、広島・長崎への原子爆弾の投下に対しては止むを得なかった論に加担して恥じない。つまり、戦勝国側の歴史観、同じく戦勝国側に有利な反戦平和論の観点のものを請け売りしているのに過ぎない。その手の内で踊ることしかできない作風によって生み出されたものが通説化されている。戦後65年を経た今、そろそろ根本的に見直すべきではなかろうか。これを歴史再検証と云う。決して修正ではない。

 2010.8.11日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評780れんだいこ2010/08/11
 【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その2】

 もとへ。先代旧事本紀の話に戻る。我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺、815年に新撰姓氏録と云う順になる。先代旧事本紀は、これらの前に綴られたのか以降に記されたのかの詮議をしなければならない。  

 先代旧事本紀の序文によると、聖徳太子と蘇我馬子が著したとしている。実際の編纂者として、興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)が推定されている。興原敏久氏は、「諸系譜」によれば物部系の人物(元の名は物部興久)であり、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ。物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫であるとされている。平安時代前期の官吏にして明法博士から大判事となり、「弘仁格式」、「令義解(りょうのぎげ)」の撰修に関わっている。その興原氏の活躍の時期が先代旧事本紀の成立期と重なっている。これを踏まえて、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお、1812-92)は、著書「先代旧事本記折疑」で、概要「先代旧事本紀の序文はおかしいが本文はよろしい。その選者は興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)であろう」と述べている。異説として、興原敏久説の他に石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。

 その執筆年代の手掛りとして、先代旧事本紀には807年成立の古語拾遺からの引用が為されているからして、成立は807年以降と推定される。但し、その稿は、後の転写者が書き加えたと推定することも可能であり、原文がそれより先に完成されていた可能性は残る。今日に伝わる先代旧事本紀を前提として執筆年代を確認することにすると、研究者の間では、平安朝初期の大同年間(806年~810年)、弘仁年間(810年~824年)、延喜年間(901年~922年)の延喜書紀講筵(904年~906年)以前の間と考えられている。特に807年~833年とみる説が有力である。

 本文の内容は古事記、日本書紀、古語拾遺と同文箇所も多い。これをどう見るかと云うことになる。国学者・本居宣長の「古事記伝一之巻」の中の「旧事紀といふ書の論」という一節での先代旧事本紀論が参考になるので確認しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す)

 「世に旧事本紀と名づけたる十巻の書あり。これは後の人の偽り輯(あつ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子の命の撰び給いし真の紀には非ず。『序も、書紀の推古の御巻の事に拠りて後の人の作れる物なり』。然れども、無き事をひたぶるに造りて書くるにもあらず。ただこの記と書紀とを取り合せて集めなせり。それは巻を披(ひら)きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑わん人もあらば、神代の事記せる所々を心とどめて看よ。事毎にこの記の文と書紀の文とを、皆本(もと)のままながら交へて挙げたる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接(つげ)りとか云うが如し。又この記なるをも書紀なるをも並べ取りて、一つ事の重なれるさえ有りて、いといとみだりがはし(粗雑である)。すべてこの記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのケジメいとよく分れてあらわなり。又往々(ところどころ)古語拾遺をしも取れる、それもその文のままなれば、よく分れたり。『これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に嵯峨の天皇と云うことも見えたれ』。かくて神武天皇より以降の御世御世は、専ら書紀のみを取りて、事を略して書ける。これも書紀と文全く同じければ、あらはなり(明らかである)。且つ歌はみな略しけるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載せたる。仮名まで一字も異ならずなん有るをや。

 さて又、某本紀、某本紀とあげたる巻々の目(名前)ども、みなあたらず(内容と合致しない)。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻の尾張の連、物部の連の世次(系譜)と、十の巻の国造本紀と云う物と、これ等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。『いづれも中に疑わしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし(見分けるべきである)』。さればこれらのかぎりは、今も依り用いて助くること多し。又この記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、これもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。『旧事大成経という物あり。これは殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀というものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者という徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなる多し。古学を詳しくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし』」。

 本居の上述の観点で明らかなように、江戸期の国学以降の通説は、先代旧事本紀をして、古事記、日本書紀、古語拾遺の文章を適宜に継ぎ接ぎしたイカガワシイ記述姿勢が目立つと見立てている。しかし、これは逆裁定ではなかろうか。少なくとも、先代旧事本紀も含めて記紀、古語拾遺が下敷きにした原文が存在しており、各書がその編纂動機に添って任意に都合のよいところを抜き書き編纂しているに過ぎないとも窺うべきではなかろうか。あるいは、先代旧事本紀執筆者の姿勢は、記紀、古語拾遺の記述を「継ぎ接ぎ」したのではなく、記紀、古語拾遺の記述を前提にして踏まえつつ、新たに挿入したい伝承を「継ぎ接ぎ」したと窺うべきではなかろうか。つまり、「継ぎ接ぎ」の主体を「記紀、古語拾遺と同文」の側ではなく、「新たに挿入した歴史史料」の方に向けるべきではなかろうか。「継ぎ接ぎ」と云う言葉は同じだが、この言葉が指している意味を理解する方向が逆であることを確認したい。

 つまり、先代旧事本紀が、記紀、古語拾遺と同文箇所が多いのが「継ぎ接ぎ」ではなく、記紀も含めて他の史書にはない独自の伝承や神名を挿入しているところが「継ぎ接ぎ」と窺うべきではなかろうか。先代旧事本紀の真価はここにこそある。よって、先代旧事本紀編纂者の意図と動機の解明こそが窺われるべきではなかろうか。そういう意味で、「継ぎ接ぎ」を「記紀、古語拾遺と同文」に求めるような逆さ観点よりする世の偽書論は何の役にも立たない。とりわけ注目されるのは、記紀が記述を抑制した出雲王朝、三輪王朝につき相応の言及をしていることである。そういう意味で、いわゆる古史古伝の祖とでも言い得る意義を保っている。これが先代旧事本紀の値打ちと云えよう。してみれば、先代旧事本紀は偽書説で遇されるべきではなく、記紀を補足する第三国撰史書とも云うべき位置づけを獲得しているのではなかろうか。

 2010.8.11日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評781れんだいこ2010/08/11
 【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その3】

 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」で、尾張氏、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する記述をしている。神武天皇の東征以前に物部氏の祖・饒速日(にぎはやひ)の尊が畿内大和へ東遷降臨し、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下り王朝を創始していた云々と記している。現存するかどうかは別として尾張文書、物部文書の伝承ないしは文献からの引用ではないかと考えられる。

 これにつき、日本書紀は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)について、神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して神武天皇もそれを認めたとしている。しかし、饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかには触れていない。これに対し、先代旧事本紀では、「神代本紀」では神武天皇系譜とは別系と記し、「天神本紀」などでは同じ天孫系に位置づけている。この二元記述をどう窺うべきだろうかと云うことになる。

 また、物部氏が「食国(おすくに)の政(まつりごと)を申す大夫」、「大臣」、「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調している。物部氏と石上神宮のつながりも精緻に言及している。物部氏の政治的権威付けが見て取れるが、問題は、その記述の正確度であろう。虚史を記して居れば偽書と云うことにもなろうが、それなりの史実を記しているとすればむしろ研究対象とすべきではなかろうか。

 付言しておけば、饒速日(にぎはやひ)の尊譚は他の古史古伝でも伝承されている。これにつき、佐治芳彦氏は、著書「超古代の謎を解く13の鍵」の中で、「長髄彦(ながすねひこ)こそ日本民族の国主であった」と題して次のように述べている。

 「神武天皇の東征軍に対して、先住民のチャンピオンである長髄彦が果敢な抵抗を行い、神武軍を苦戦に追い込んだが、結局敗れたことは記紀とほぼ同じである。だが、問題は、その長髄彦が戦死していないことである。長髄彦は『大倭国ヲ棄テ、陸奥国ニ往ク」とあるからだ。陸奥に亡命した長髄彦は、塩を焼き、それを民に施したとある。『東日流外三群誌』では、津軽の十三湊(とさみなと)に亡命し、先住民や漂着民を合同して『荒吐(あらはばき)』族として統一し、その荒吐王となり、善政をしいて民力を増強、故地回復を狙うことになっている。それに対して『大政経(たいせいきょう)』では、宮城県の塩釜付近に落ち着き、製塩の法を民衆に教えたことになっている。だいぶスケールが小さいが、それでも記紀の叙述よりはマシであろう。結局、記紀がどの様に長髄彦を逆賊視しようとも、日本民衆の意識の底には、この神こそ、やまとのくにの国主であったという記憶が残っていたということである。おそらく『大成経』も、この記憶を忠実に伝えようとしていたといえるだろう」。 

 つまり、「饒速日(にぎはやひ)―長髄彦(ながすねひこ)神話譚」は記紀神話には隠されているが、異聞異伝としてはかなり有力な伝説で、敗者側の神話故に隠されてしまったと見ることが可能なのではなかろうか。日本の古代史研究における記紀神話依拠では見えてこない世界があるということである。

 巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」にも、他の文献に存在しない独自の所伝がみられ、およそ130の国造名や設置時期、初代国造の系譜が掲げられている。702(大宝2)年に編纂された「国造記」に基づくものであることはほぼ確実である。そこに記された原資料としての各国造の系譜や伝承は、6世紀中頃から後半に形成されたと推定されている。国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見が有力である。そういう意味で、先代旧事本紀は記紀ないしは他書に見られない所伝を載せた貴重な歴史資料となっている。

 このことから判明することは、先代旧事本紀執筆者の狙いが、大和王朝の官僚ないしは統治機構の正統性を裏付ける為の各氏族の歴史的素性を明らかにさせることにあったのではなかろうかと云うことになる。平安朝時代になるや歴史的な反目主体である天孫族と国津族の仕切りが不明となりつつあった。その時代に於けるおける各氏族の箔付けをせんが為の新たな歴史書が必要となり、先代旧事本紀執筆者がこの負託を引き受けたのではなかろうか。物部氏の役割を贔屓目に記述すると云う偏りが目立つのは事実であるが、それに伴い出雲王朝―三輪王朝系の伝承を大幅に取り入れたのはむしろ功績ではなかろうか。こう理解すると、世上の単なる偽書判断の皮相さが分かろう。

 そういうこともあって、先代旧事本紀は、江戸中期までは日本最古の歴史書として記紀より尊重されることもあった。つまり、記紀を踏まえつつ、記紀の足らざるところを補っている先代旧事本紀の価値が史料的に認められていたと云うことであろう。読み取り方としては、この方が正解ではなかろうか。鎌倉時代の僧・慈遍は、先代旧事本紀を神道の思想の中心と考えて注釈書「舊事本紀玄義」を著し、度会神道に影響を与えた。室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも先代旧事本紀を重視し、記紀と先代旧事本紀を「三部の本書」としている。これは、記紀よりも出雲―三輪系王朝譚を採りいれた先代旧事本紀の価値を正当に評価していたと云うことであり、この方が正解であろう。

 江戸時代に入って、先代旧事本紀の内容に推古朝以降の記述もあることが問題にされ始めた。徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らの研究によって偽書であるとされた。1670(寛文10)年、水戸藩の今井有順が「神道集成」を編纂し、続いて「三部本書弁」で旧事紀(くじき)に疑惑を投げかけた。徳川光圀は「後人の贋書」とし、信用できないとした(栗田寛「国造本紀考」)。1731(享保16)年、多田義俊は「旧事記偽書明証考」(「旧事紀偽撰考」ともいう)を著し、偽書説を後押しした。1778年、伊勢貞丈(1715-1784年)は「旧事本紀剥偽」を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。「神道独語」でも同様の主張を展開した。考証の大家として有名だった伊勢貞丈が偽書説を打ち出して以来、「大臣蘇我馬子宿弥奉勅集撰」という序文だけでなく、内容の全てまでが無価値とされるようになった。

 以降、次第に読まれなくなってしまった。明治以降、序文に書かれた本書成立に関する記述に関してはともかく、本文内容に関しては偽書ではないとする学者もあったが、通説は偽書説となっている。この流れが本当に正しいのかどうか。江戸期の国学、明治以降の皇国史観、今日に至る歴史学の古史古伝偽書包囲網、これをもっとアクロバット的に記紀まで否定した津田史学的な偽書観こそ変調であり低能さを示しているのではなかろうか。

 本居史学の真の意図がどうであれ、本居に代表される偏狭さが後の皇国史観の水路になっており、この閉塞を打開する為にも偽書説の再考こそが望まれていると窺うべきではなかろうか。学問とはこういう風に問うべきものであり、決して正しくない偽書説を振り回して学問的営為を止めるべきではなかろう。しかも、偽書、偽説と看做すべきものを真書とし、真書、真説と看做すべきものを偽書と評するをや。そう、これが云いたかった。漸く結論に辿り着いた。

 2010.8.11日 れんだいこ拝

【原田 実/氏の「「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考】
 『先代旧事本紀』と『大成経』

 一般に『先代旧事本紀』(略して『旧事紀』ともいう)と呼ばれているのは聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、その存在はすでに平安時代から知られていた。その成立時期を推定するにあたっては、次のような手掛かりがある。
1,『先代旧事本紀』巻十、国造本紀に、弘仁十四年(八二三)、越前国から加賀国を分けたという記述があり、『先代旧事本紀』全体の成立はそれ以後と思われる(ただし後世の 追記という可能性もある)。
2,『先代旧事本紀』には、忌部広成の『古語拾遺』からの引用とみられる個所があり、し たがってその成立は『古語拾遺』が編纂された大同二年(八〇七)以降であることは間違いない。
3,承平の日本紀講筵私紀に、藤原春海による『先代旧事本紀』の論が引かれており、そこ から春海による延喜の『日本書紀』講書の際(九〇四~九〇六)には、すでに『先代旧事 本紀』が流布していたことがうかがえる。
4,貞観年間(八五九~八七六)編纂の『令集解』巻二に、物部氏の祖ニギハヤヒの十種神 宝に関する記述があるが、これを『先代旧事本紀』からの引用と見れば、すでにこの頃、 その書物も存在したということになる。 

 三上喜孝氏は以上の論拠を検討し、次のようにまとめておられる。
「『旧事紀』の成立時期は、早く見積ったとして八〇七年~八五九年、遅く見積ったとし て八二三年~九〇六年になる。いずれにせよ九世紀初頭から十世紀初頭までの百年のあい だに成立したことは、まず動かないであろう」(三上「『先代旧事本紀』はどのように読 まれてきたか」『季刊邪馬台国』第四〇号)
『先代旧事本紀』の成立を九世紀とみれば、八世紀の『古事記』『日本書紀』よりは遅れ るとしても、上代の史書としては早い時期に属するものであることは間違いない。その内 容について、天御中主尊、国常立尊に先行する始源神・天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊 の名を伝えるなど、記紀にない神話・伝承を多く含み、しかも、その序文においては、聖 徳太子撰録と明記されたこともあって、近世初頭まで『先代旧事本紀』は記紀よりも古い 史書・神書として珍重されることになった。 

 室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶は、自らの神道教学の祖を聖徳 太子に求め、『先代旧事本紀』を、記紀と共に三部の本書(神書)に数えている。 

 だが、先述した如く、その叙述には聖徳太子以降の時代について言及する個所があるの みならず、聖徳太子と敵対したはずの物部氏の始祖伝承(ニギハヤヒ降臨)が重視されて おり、太子撰というのは信じ難い。おそらく何人かが律令国家確立の過程で没落した諸氏 族の伝承をまとめたものが太子に仮託され、広まったものであろう。『日本書紀』には、 推古天皇二八年、聖徳太子が島大臣(蘇我馬子)と共に「天皇記及び国記、臣連伴造国造 百八十部併て公民等の本記」を撰録したとある。太子は日本最古の史書の撰者として、ま さにふさわしい人物だったのである。『先代旧事本紀』はまた、太子信仰と結びついたこともあって、近世までに数多くの異本 を派生している。『太平記』巻六は、楠木正成が、四天王寺の宿老の寺僧から聞いた話と して、卜部家に「前代旧事本記」という三十巻の本が伝わっていたとする(ただし、この 話は『先代旧事本紀』と『日本書紀』の混同から生じたものかも知れない)。『先代旧事本紀』異本の内、現存するものはササキ伝三一巻本・七二巻本・伯家伝三十巻本 (『旧事紀訓解』)の三種、いずれも刊本として残されている。 

 そして、その中でも、公開時、特に物議をかもしたのが『先代旧事本紀』七二巻本(附 二冊)こと延宝版『大成経』である。 

 磯宮の謎  

 話は垂仁朝、伊勢神宮創建まで遡る。『日本書紀』によると、垂仁天皇の二五年三月、 、崇神天皇の皇女・倭姫命は、倭の笠縫邑(奈良県桜井市大神神社境内の檜原か)に祀ら れていた皇祖神・アマテラスの御神鏡を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探す旅に出た。こ の神の神威が強すぎて、大和の国内で祀ることができなくなったためである。倭姫命は近 江、美濃をめぐって伊勢にたどりつき、五十鈴川のほとりに斎宮を建て、ようやくそこに 皇祖神を鎮めることができた。この宮を磯宮という。それは伊勢内宮の起源でもある。 

 また、『止由気宮儀式帳』などによると、外宮は、雄略朝、内宮の皇祖神が倭姫命の夢 に現れ、食物を得ることができないと訴えたために、二度と飢えることのなきよう、丹波 国の与謝郡から伊勢の地に食物を司る神・豊受大神を勧請したものと伝えられている。 

 伊勢神宮は朝廷の宗廟として、その創建以来、私幣禁止を原則としており、律令では皇 后や皇太子といえども天皇の勅許なしでは幣帛を供えることができないとされていた。今 でも伊勢神宮に賽銭箱がないのはこのためである。平安末期以降、御師といわれる下級神 職を通して民間からの寄進を受け入れるルートも開いてはいたが、神宮全体の財政を考え た場合、国家による保護は、その死命を決することになる。だが、国家はどうしても内宮 の方を重視する傾向がある。 

 一方、伊勢神宮では、古来、外宮が内宮に優先して供進の品を受け取る慣習があり、そ こから鎌倉時代までには参詣者が外宮に参拝してから内宮に行くことが通例となっていた 。これは豊受大神が天照大神のいわば台所を預かる神であることを思えば、自然なことで あり、神嘗祀り・月次祭・祈年祭など神宮の重要な祭礼でも内宮より外宮に先に奉仕する 定めとなっている。 

 しかし、外宮先拝の礼がいったん定着してしまうと、今度は外宮の神官の間に、実は外 宮の神は内宮の神よりも上位の神格なのではないかという発想が生じても仕方あるまい。 そこで、外宮では鎌倉時代、いわゆる神道五部書を広め、豊受大神は単に食物を生産する だけの神ではなく、天御中主尊、国常立尊と同体で世界万物の始源神であるという宣伝を 行うようになった。この外宮の主張に基づく神学こそ、いわゆる伊勢神道である。 

 神道五部書とは『倭姫命世記』『造伊勢二所太神宮宝宮本記』『天照坐伊勢二所皇太神 宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本紀』の五書をいう 。これらが五部書と総称されるようになったのは、近世、これらの書が垂加神道の教典と されてからである。それらはいずれも古人に仮託されてはいる。しかし、実際には鎌倉時 代中頃、外宮の神官が古伝に基づきつつ、造作したものと思われ、すでに吉見幸和(一六 七三~一七六一)の『五部書説弁』において、偽書と断ぜられている。 

 さて、内宮側の史料『皇大神宮儀式帳』には伊勢内宮は礒宮(磯宮)から現在の位置に 移ったとある。これによれば、現在の伊勢内宮と別に、それよりも古い礒宮があったこと になる。一方、神道五部書の一つ『倭姫命世記』によると、アマテラスの御神鏡は丹波・ 大和・紀伊・吉備・伊賀・近江・美濃・尾張・伊勢・鈴鹿の諸国を廻ったあげく現在の内 宮の地に納まったが、その道程では伊勢国の伊蘇宮に一年間止まったことがあるという。 『倭姫命世記』では、この礒宮は斎宮の礒宮とは別の宮とされているが、両者の間に混同 が生じることは避けられなかった(伊蘇宮は『延喜式』式内社の礒神社のことと思われる)。 

 また、同じく五部書の一つ、『造伊勢二所太神宮宝基本紀』にやっかいな記述がある。 それによると、往古、朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を納める際、内宮・外宮・別宮と別 に「斎宮親王の坐す礒宮」にも八十口を進めたという。この記述が古伝に基づくものとす れば、斎宮の礒宮は内宮や外宮と同格の社だったということになる。 

 さらに伊勢別宮の一つに伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)という神社がある。この社は 『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』でアマテラスの遥宮とされ、祭神はアマテラスの御魂と される。しかし、『倭姫命世記』ではこの宮の祭神を天日別命(伊勢国を開いた神)の子 ・玉柱屋姫命としており、さらに最近では天武天皇を祭神とするという説(石原知津『伊 勢神宮はなぜここに在るか』績文堂、一九九二年)も出されるなど、疑問の多い神社であ る。さて、この伊雑宮という名は礒宮ともまぎらわしい。ここから後世、大問題が生じる ことになるのである。 

 源平合戦の頃から戦国時代にかけて、伊勢とその周辺の地はしばしば戦乱に巻き込まれ た。特に伊雑宮は志摩の九鬼水軍から大規模な略奪を受け、再建もままならなかった(こ の時、伊雑宮から奪われた文書がいわゆる「古史古伝」の一つ『九鬼文献』のタネ本にな ったとする研究者もある)。江戸時代、伊雑宮はたびたび幕府や朝廷に伝来の文書を提出 し、再建の願いを出したが、なかなか容れられることはなかった。その上、万治元年(一 六五八)、伊勢内宮より、伊雑宮が幕府に提出した文書の中に、偽作の神書があるという クレームがついた。 

 すなわち、伊雑宮提出の『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、伊雑 宮こそ本来の礒宮にしてアマテラスを祀る真の日神の宮であり、外宮はツキヨミを祀る月 神の宮、内宮にいたっては天孫・ニニギを祀る星神の宮に過ぎないというのである。 

 このような主張を内宮が受け入れるはずはない。伊勢神道を奉ずる外宮にしても同様で ある(もっとも外宮はすでに神道五部書を偽作した前歴があるのだが、当時の神官は、そ の事実をもはや知らなかっただろう)。幕府はこの問題の処置に頭を痛めた。 

 寛文二年(一六六二)、幕府は伊雑宮再建のためにようやく重い腰を上げた。しかし、 それはあくまで内宮別宮の一つとしての扱いであった。さらにその翌年には、偽書を幕府 に提出した門により、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その主張が全面的に認め られなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる。 

 『大成経』出現  

 延宝七年(一六七九)、当時、江戸の出版界では知られる存在だった戸嶋惣兵衛の店か ら、不思議な本が出版された。それは『神代皇代大成経』という総題が付された一連の神 書であり、神儒仏一体の教えを説くものであった。 

 序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、推古天皇が四天 王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものである。さらにその原史料とな った文書は、小野妹子と秦河勝が、それぞれ平岡宮(河内の枚丘神社?)と泡輪宮(?) で、神から授けられた土簡(タブレット)に刻まれていたという。 

 その内容は次の通りである。
 首一・神代皇代大成経序、首二・先代旧事紀目録、巻一・神代本紀(天地開闢と祭祀の 発祥)、巻二・先天本紀(偶生神七代の系譜)、巻三・陰陽本紀(国産み・神産み神話) 、巻四・黄泉本紀(黄泉国神話)、巻五~六・神祇本紀(三貴子の出生)、巻八~九・神 事本紀(天岩戸神話)、巻九~十・天神本紀(ニギハヤヒの事蹟)、巻十一~十二・地祇 本紀(出雲神話)、巻十三~十四・皇孫本紀(ニギハヤヒの子孫の事蹟)、巻十五~十六 ・天孫本紀(日向神話)、巻十七~二二・神皇本紀(神武~神功)、巻二三~二八・天皇 本紀(応神~武烈)、巻二九~三四・帝皇本紀(継体~推古)、巻三五~三八・聖皇本紀 (聖徳太子伝)、巻三九~四四・経教本紀(神道教理)、巻四五・祝言本紀、巻四六・天 政本紀、巻四七~四八・太占本紀、巻四九~五二・暦道本紀、巻五三~五六・医綱本紀、 巻五七~六〇・礼綱本紀、巻六一~六二・詠歌本紀、巻六三~六六・御語本紀、巻六七~ 六八・軍旅本紀、巻六九・未然本紀、巻七十・憲法本紀、巻七一・神社本紀、巻七二・国 造本紀、以上、全七二巻・付録二冊。 

 なお、『大成経』の本格的刊行が始まる前に、延宝三年、経教本紀の中の「宗徳経」、 翌四年には同本紀の中の「神教経」が刊行されている。また、延宝三年には、憲法本紀と 同じ内容の本が『聖徳太子五憲法』と題して刊行された。版元はいずれも戸嶋惣兵衛であ る。『聖徳太子五憲法』とは、一般に聖徳太子の十七条憲法として知られているものが、 実は五憲法の一つ「通蒙憲法」に過ぎず、太子は他に「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲 法」「神職憲法」各十七条をも発布していたとする文献である。また、「通蒙憲法」にし ても、その内容は『日本書紀』所載のものとやや異なり、『日本書紀』で第二条とされて いる「篤く三宝を敬へ」が『大成経』では第十七条とされている上、三宝の内容も「仏法 僧」から「儒仏神」に変えられている。 

 五憲法はいずれも儒仏神三教調和の思想を基調としている。それはまた『聖徳太子五憲 法』に限らず、その後に刊行された『大成経』各巻でも繰り返される主張である(五憲法 の内容については野澤政直『禁書聖徳太子五憲法』新人物往来社、一九九〇、参照)。 

 さて、『大成経』は世に出るや、たちまち江湖の話題を呼び、学者や神官、僧侶の間で 広く読まれるようになった。 

 外宮の祭神はツキヨミか  

 ところが『大成経』が広まるにつれ、伊勢両宮の神官たちは、この奇書が秘めている危 険性に気付いた。すなわち、『大成経』は、伊雑宮を日神の社とし、外宮・内宮をそれぞ れ月神・星神の宮とする伊雑宮の主張を裏付け、さらに強調するような内容になっていた のである。ここにそのいくつかの例を挙げてみよう。
『日本書紀』には一書として五穀の起源に関する有名な神話がある。日神アマテラスが弟 の月神ツキヨミを保食神の処に使者として送ったところ、保食神が食物を口から出すのを 見たツキヨミがこれを不潔だと怒り、殺してしまった。そしてその保食神の死体から牛馬 と五穀が生じ、天熊人の手を経てアマテラスの下にもたらされたというものである。 

 しかし『大成経』の神話では、保食神の殺害者はツキヨミではなく、天熊人だとされて いる。そして、ツキヨミは保食神の体から生じた五穀を集め、これをアマテラスに献上し たという。したがってツキヨミは五穀をもたらした功労者ということになる。 

 しかも、その後、ツキヨミは「丹波の与謝の真奈井の豊受神宮」に祭られたという。こ の神社は伊勢外宮の元宮だから、『大成経』に従えば、外宮の祭神はツキヨミということ になってしまうのである(ただし、月神=農耕神とする民俗信仰の存在などから、『大成 経』の五穀起源神話の方が『日本書紀』のそれよりも古形ではないかとする論者もある。 松下松平「『旧事紀』訓解出版の思い出」『歴史と現代』二-二所収、歴史と現代社、一 九八一、田中勝也『異端日本古代史書の謎』大和書房、一九八六、等)。 

 また、『大成経』「神皇本紀」中、垂仁天皇二五年の条では、日本媛命(倭姫命)によ る伊勢神宮創建を語っているが、その中では日本媛命が猿田彦大神の神示に従い、天照大 神の神霊を飯井大神宮(伊雑宮)に遷したとされている。すなわち、これによると皇祖神 たる日神アマテラスを祭るのは、伊勢内宮ではなく、伊雑宮だということになる。 

 さらに刊行当初の『大成経』には伊雑宮の社格が内宮・外宮よりも上位にあることを示 す「二社三宮図」までが付されていた。
『大成経』のベストセラーは伊雑宮によって仕組まれたものではないか。伊勢両宮の神職 たちはそのような疑いを抱き、幕府に詮議を求めたのである。 

 伊勢神宮が国家の宗廟であり、幕府もタテマエ上は朝廷の権威に支えられている以上、 その秩序を乱すような異説は厳しく取り締まられなければならない。内外両宮からの度重 なる訴えにより、幕府は『大成経』刊行の背後関係を調査し始めた。 

 『大成経』弾圧事件  

 天和元年(一六八一)、幕府はついに『大成経』を偽作と断じ、禁書として、その版本 を回収した。また、戸嶋惣兵衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、と関係者一同の刑も定まり 、『大成経』事件は一応の終結を迎えた。 

 ただし、潮音は時の将軍・綱吉の生母、桂昌院の帰依も厚い高僧であった。そのため、 彼は特に罪を減じられ、謹慎五十日の上、上州館林の黒滝山不動寺(群馬県北甘楽郡磐戸 村)に身柄を移されるに止まっている。 

 伊勢内宮・外宮の追求と幕府の処分はその後もさらに進み、天和三年九月には、ついに 『大成経』の版木までが焼かれてしまった。しかし、潮音はその天和三年、『大成経破文 答釈』(無窮会神習文庫蔵)を著し、なおも自らが偽作者に非ざること、『大成経』が真 正の古典であることを弁じ続けていた。 

 さて、天和二年五月、幕府は将軍・綱吉が打ち出した政策方針(忠孝奨励、奢侈禁止な ど)を徹底させるため、諸国に命じて五枚の高礼を立てさせた。そして、その内の一枚に は、毒薬、偽薬、偽金の禁と並べて、次の項目が掲げられていたのである。
「新作之慥ナラザル書物、商売スベカラザル事」(『正宝事録』) 

 すなわち新作で、その由緒の明らかでない書物を売買してはならないということである 。これは徳川幕府によって成文化された最初の出版統制令といわれる。その公布に際し、 『大成経』弾圧事件が影響を与えたことは想像に難くない。 

 明和八年(一七七一)、京都本屋仲間は、幕府の出版界への介入を防ぐため、『禁書目 録』という自主規制リストを作った。弾圧に対し抵抗ではなく、自主規制を以て応じると いうのは今も昔も変わらぬ日本出版界の体質のようだが、それはさておき、『禁書目録』 の売買禁止目録、絶板(絶版)目録のそれぞれ筆頭には、「先代旧事本紀」の名が掲げら れている。これが『大成経』のことを指すことは言うまでもない。 

 しかも、絶板目録では「先代旧事本紀」の植字板・版本を挙げた後、御丁寧にも「礼綱 本紀」「聖徳太子五憲法」「同頭書」「聖皇本紀」など『大成経』の一部の巻名を記して 、そのバラ売りまで禁じているのである。 

 また、天明の頃、水戸彰考館の館員だった小宮山楓軒は、師の立原翠軒から伝授された という偽撰書目録(伊勢貞丈選)を伝えているが、その筆頭にも「大成経」の名が挙げら れているのである(今田洋三『江戸の禁書』吉川弘文館、一九八一)。 

 ちなみに、『大成経』弾圧事件の経緯等に関しては、すでに次の書籍や論文などで論じ られているので、くわしくはそれらを参照されたい。 

宮武外骨『筆禍史』(一九一一)
河野省三『旧事大成経に関する研究』(国学院大学宗教研究所、一九五二)
鎌田純一『先代旧事本紀の研究』(校本の部・研究の部、吉川弘文館、一九六二)
今田洋三『江戸の禁書』(前掲)
岩田貞雄「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」(『国学院大学日本文化研究者紀要』第 三三輯、一九七四)
小笠原春男「偽書『大成経』出版の波紋」(ジャパンミックス編・刊『歴史を変えた偽書 』一九九六年) 

 これらの諸論考では、いずれも伊雑宮を『大成経』偽作のいわば黒幕的存在とみなして いる。しかし、私はその主犯が別におり、伊雑宮がなんらかの形で『大成経』偽作に関わ っていたとしても、それは偽作者にかつぎあげられただけではないかと考えている。その 偽作者の正体については改めて後述することにしたい。 

 なお、「大成経」という呼称は延宝版『大成経』ばかりではなく、『先代旧事本紀』サ サキ伝三一巻本に対しても用いられる。こちらは寛文十年(一六七〇)、京極内蔵助を版 元として、源能門なる人物の跋文付きで刊行されたものであり、内容は延宝版『大成経』 の序から巻三四までと対応している。その跋文によると、ササキ伝『先代旧事本紀』には 刊行された三一巻の他に、所蔵者が秘伝とする雑部数十巻があったという。 

 これは延宝版『大成経』のタネ本、もしくは『大成経』偽作者による試作品に当たるも のだろう。最近、先代旧事本紀刊行会から『先代旧事本紀大成経』(宮東斎臣註解)とし て刊行されているのは、このササキ伝三一巻本の方である。 

 長谷川修の潮音観  

 『大成経』偽作者の一人と目された潮音について、『総合仏教大辞典』(法蔵館)は次の ように述べる。 

 

  ちょうおん 潮音(寛永五 1628-元禄八 1695)黄檗宗の僧。肥前小城郡
  の人。号は道海また南牧樵夫。承応三年(一六五四)長崎で隠元に会い、寛文元年(
  一六六一)黄檗山にいたり、隠元・木庵に師事した。上野館林の藩主の帰依を受け、
  万徳山広済寺を開いて第二世となる。儒典を究め神道を学び、開山となること二十余
  カ寺、受戒者一〇万人余と伝える。著書、指月夜話七巻、霧海南針一巻など。〔参考
  〕潮音禅師年譜、続日本高僧伝五   

 この辞典の記述には、『大成経』との関連はまったく言及されていない。同辞典の編纂 委員は、高僧の履歴に、スキャンダラスな偽書・禁書との関係を記すことを忌避したので あろうか。潮音が宗派興隆のためにも尽くし、今なお、黄檗宗黒滝派の祖として、同宗派 内での尊敬を集めていることは間違いない。しかし、宗門の外を一歩出れば、潮音の名は むしろ『大成経』との関わりにおいて知られているのである。神宮皇学館大学学長を務め 、最後の国学者といわれた山田孝雄などは、潮音のことを「妖僧」と断じている(「所謂 神代文字の論」『芸林』第四巻一~三号、一九五三)。 

 潮音は仏教界では尊敬すべき高僧として、国学界では憎むべき文献偽作者として、百八 十度異なる人物評価がなされていることになる。 

 また、潮音について、従来の毀誉褒貶とは異なる視点から、その人物像を描こうとした 論者もある。たとえば、「古代史推理」三部作(『古代史推理』新潮社、一九七四、『幻 の草薙剣と楊貴妃伝説』六興出版、一九七七、『近江志賀京』同、一九七八)を著した作 家・長谷川修(一九二六~一九七九)である。彼は、『大成経』の著者を潮音と断定し、 さらに彼を「古代史研究の先達」と賞賛した上で次のように述べている。
「延宝・天和の頃といえば、俳諧の芭蕉、『万葉代匠記』を書いた契沖、小説の西鶴、数 学の関孝和、その他、新井白石(ただし彼はまだ二十代であった)、山崎闇斎、木下順庵 、山鹿素行・・・など、ここに一々挙げきれないくらい多数の学者や能才たちのひしめい ていた時代である。これらの人たちはみんな、後世に多大な影響を与え得た非凡な連中で あり、彼等の中に混って、しかも将軍綱吉の師匠格に当る潮音が自信を持って世に問うた 大著『先代旧事大成経』が、そんなに凡庸なものであったとは到底思えない。もともと聖 徳太子撰録の『旧事紀』も焚書になっているのだから、その点でも焚書の価値すらもなか った平安初期の『先代旧事本紀』に較べて、この潮音の『大成経』の方は、まず焚書にさ れるだけの価値を具えていたに違いない、と大いに興味をそそられるのである」(『古代 史推理』一六六~一六七頁)
「契沖の学風は、精密で創見に富む考証を積み重ねるやり方で、これは宣長に受け継がれ て、宣長の『古事記伝』は『古事記』の一語一句について綿密な考証を積み重ねている。 これに対して潮音の方は、別に大して資料を用いず、すべて彼の直観によって、大著『大 成経』を仕上げたのではないかと推測される。たぶん彼の伊勢神宮論も、別に志摩国伊雑 宮の資料を引いたものではなく、彼独自の直観から生み出されたものだっただろう。する と彼はどういう風にして、そんな古代史論を組み上げることが出来たのだろうか」(同書 一六八頁)
「『記紀』は聖徳太子撰録の『旧事紀』を原本に用いている。すると『記紀』を読んで、 その底にある『旧事紀』の原形を洞察すること-これが古代史をさぐる一つの有力な方法 になる。従来高僧と云われる人には、独特の直観力と深い洞察力を持つ人が多いが、江戸 時代の潮音もこの種の能力に優れた人で、彼は『記紀』の語る虚構古代史から、立ちどこ ろにその背後にある『旧事紀』の原形が見通せたのであろう。従って彼の『先代旧事大成 経』は、彼が『記紀』の背後にみた『旧事紀』の原形の姿を、そのままとらえたものだっ ただろうと想像される。ともかく『記紀』を読んで、そこからわが国古代史の真相を直ち に読み取る人がいても不思議はないし、またそういう人が当然いた筈なのだ」(同書一六 九頁)
「さきに『先代旧事本紀』と呼ばれる二つの偽書について述べたが、一方が平安初期のた ぶん神道系の人によって書かれたものに対し、他方は江戸時代の仏門の僧によって書かれ たものであった。だが両書の古代史に関する洞察の深さという点では、まず雲泥の差があ った筈である。わが国の古代史は謎に包まれているというが、奈良・平安時代以後、仏門 系の人たちには恐るべき直観力を具えた人が多く、そして彼等の中には日本の古代史につ いて、実に透徹した目と深い洞察を持っていた人たちが、かなりの数いたことだけは確か なのだ。ただ不幸にして、その人たちの書き残したものは、非凡な著作の常套的に蒙る運 命として、何時の時代にも抹殺されてしまっているのである」(同書二一〇頁) 

 長谷川は「古代史推理」三部作で歴史研究における作家的想像力の必要性をくりかえし 説いている。彼によれば、「古代史が明確にできないというのも、それは何も学者たちの 怠慢ではなく、怠慢を責められるのはむしろ作家の方」(『近江志賀京』まえがき)だと いうのである。彼の潮音観には、作家としての経験と想像力を駆使して、古代史の謎に挑 んだ長谷川自身の姿が投影されているように思われる。なお、長谷川のユニークな記紀成 立論やその他の業績には、今後、大いに顕彰されるべき点があると思うのだが、なぜか、 彼の著書の多くは、小説も含め、現在、次第に入手が困難になりつつある。これも「非凡 な著作の常套的に蒙る運命」によるものなのであろうか。 

 それはさておき、長谷川は、潮音が無から有を作り出すようにして『大成経』を世に出 したと考えていたようだが、それは疑わしい。むしろ、潮音は『大成経』が世に出るにあ たって、その学識と令名を利用されたとみなすべきである。
『大成経』偽作の真の主犯、それは潮音と共に処罰の対象となった長野采女(永野采女、 一六一六~一六八七)と思われる。長谷川の賛辞は潮音よりもむしろ采女にこそ捧げられ るべきであった。 

 しかし、『大成経』弾圧事件以降、采女の存在は潮音の華々しい業績の影に隠れてしま った。そのため、後世、潮音を偽作の主犯とする誤解が広まったのである。

http://www.rendaico.jp/kodaishi/jyokodaico/kujikico/kujikico.html

 【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その2】

 もとへ。先代旧事本紀の話に戻る。我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺、815年に新撰姓氏録と云う順になる。先代旧事本紀は、これらの前に綴られたのか以降に記されたのかの詮議をしなければならない。  

 先代旧事本紀の序文によると、聖徳太子と蘇我馬子が著したとしている。実際の編纂者として、興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)が推定されている。興原敏久氏は、「諸系譜」によれば物部系の人物(元の名は物部興久)であり、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ。物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫であるとされている。平安時代前期の官吏にして明法博士から大判事となり、「弘仁格式」、「令義解(りょうのぎげ)」の撰修に関わっている。その興原氏の活躍の時期が先代旧事本紀の成立期と重なっている。これを踏まえて、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお、1812-92)は、著書「先代旧事本記折疑」で、概要「先代旧事本紀の序文はおかしいが本文はよろしい。その選者は興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)であろう」と述べている。異説として、興原敏久説の他に石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。

 その執筆年代の手掛りとして、先代旧事本紀には807年成立の古語拾遺からの引用が為されているからして、成立は807年以降と推定される。但し、その稿は、後の転写者が書き加えたと推定することも可能であり、原文がそれより先に完成されていた可能性は残る。今日に伝わる先代旧事本紀を前提として執筆年代を確認することにすると、研究者の間では、平安朝初期の大同年間(806年~810年)、弘仁年間(810年~824年)、延喜年間(901年~922年)の延喜書紀講筵(904年~906年)以前の間と考えられている。特に807年~833年とみる説が有力である。

 本文の内容は古事記、日本書紀、古語拾遺と同文箇所も多い。これをどう見るかと云うことになる。国学者・本居宣長の「古事記伝一之巻」の中の「旧事紀といふ書の論」という一節での先代旧事本紀論が参考になるので確認しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す)

 「世に旧事本紀と名づけたる十巻の書あり。これは後の人の偽り輯(あつ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子の命の撰び給いし真の紀には非ず。『序も、書紀の推古の御巻の事に拠りて後の人の作れる物なり』。然れども、無き事をひたぶるに造りて書くるにもあらず。ただこの記と書紀とを取り合せて集めなせり。それは巻を披(ひら)きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑わん人もあらば、神代の事記せる所々を心とどめて看よ。事毎にこの記の文と書紀の文とを、皆本(もと)のままながら交へて挙げたる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接(つげ)りとか云うが如し。又この記なるをも書紀なるをも並べ取りて、一つ事の重なれるさえ有りて、いといとみだりがはし(粗雑である)。すべてこの記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのケジメいとよく分れてあらわなり。又往々(ところどころ)古語拾遺をしも取れる、それもその文のままなれば、よく分れたり。『これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に嵯峨の天皇と云うことも見えたれ』。かくて神武天皇より以降の御世御世は、専ら書紀のみを取りて、事を略して書ける。これも書紀と文全く同じければ、あらはなり(明らかである)。且つ歌はみな略しけるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載せたる。仮名まで一字も異ならずなん有るをや。

 さて又、某本紀、某本紀とあげたる巻々の目(名前)ども、みなあたらず(内容と合致しない)。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻の尾張の連、物部の連の世次(系譜)と、十の巻の国造本紀と云う物と、これ等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。『いづれも中に疑わしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし(見分けるべきである)』。さればこれらのかぎりは、今も依り用いて助くること多し。又この記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、これもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。『旧事大成経という物あり。これは殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀というものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者という徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなる多し。古学を詳しくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし』」。

 本居の上述の観点で明らかなように、江戸期の国学以降の通説は、先代旧事本紀をして、古事記、日本書紀、古語拾遺の文章を適宜に継ぎ接ぎしたイカガワシイ記述姿勢が目立つと見立てている。しかし、これは逆裁定ではなかろうか。少なくとも、先代旧事本紀も含めて記紀、古語拾遺が下敷きにした原文が存在しており、各書がその編纂動機に添って任意に都合のよいところを抜き書き編纂しているに過ぎないとも窺うべきではなかろうか。あるいは、先代旧事本紀執筆者の姿勢は、記紀、古語拾遺の記述を「継ぎ接ぎ」したのではなく、記紀、古語拾遺の記述を前提にして踏まえつつ、新たに挿入したい伝承を「継ぎ接ぎ」したと窺うべきではなかろうか。つまり、「継ぎ接ぎ」の主体を「記紀、古語拾遺と同文」の側ではなく、「新たに挿入した歴史史料」の方に向けるべきではなかろうか。「継ぎ接ぎ」と云う言葉は同じだが、この言葉が指している意味を理解する方向が逆であることを確認したい。

 つまり、先代旧事本紀が、記紀、古語拾遺と同文箇所が多いのが「継ぎ接ぎ」ではなく、記紀も含めて他の史書にはない独自の伝承や神名を挿入しているところが「継ぎ接ぎ」と窺うべきではなかろうか。先代旧事本紀の真価はここにこそある。よって、先代旧事本紀編纂者の意図と動機の解明こそが窺われるべきではなかろうか。そういう意味で、「継ぎ接ぎ」を「記紀、古語拾遺と同文」に求めるような逆さ観点よりする世の偽書論は何の役にも立たない。とりわけ注目されるのは、記紀が記述を抑制した出雲王朝、三輪王朝につき相応の言及をしていることである。そういう意味で、いわゆる古史古伝の祖とでも言い得る意義を保っている。これが先代旧事本紀の値打ちと云えよう。してみれば、先代旧事本紀は偽書説で遇されるべきではなく、記紀を補足する第三国撰史書とも云うべき位置づけを獲得しているのではなかろうか。

 2010.8.11日 れんだいこ拝

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