Re::れんだいこのカンテラ時評779 | れんだいこ | 2010/08/11 |
【「「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その1】 2010.8.7日付け毎日新聞余録の「人の情熱は実にさまざまだからこそ…」のエッセイが気に罹ってしようがない。「先代旧事本紀」を偽書とする観点から一文をものしているのだが、れんだいこは、ここ当分頭を悩まされてきた。本文で一応の決着をつけることにする。この余録記事が、れんだいこの「先代旧事本紀」研究に拍車をつけ再度踏み込ませてくれたことには感謝する。「先代旧事本紀」の読解については「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)考」に記す。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/jyokodaico/kujikico/top.htm) 「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)は、単に「旧事紀」(くじき)、「旧事本紀」(くじほんぎ)ともいう。全10巻から成る史書で、記紀神話に添った形で神代の天地開闢から説き起こし、初代の天皇から推古天皇に至る事績を記載している。推古朝に編纂された体裁になっており、蘇我馬子らの序文がある。後に、先代旧事本紀を基にして「先代旧事本紀大成経」(延宝版)他2本が創られている。両書を比較してみるのも興味深いが、れんだいこにはその余裕がない。学会の研究は進んでいるのだろうか。 「先代旧事本紀」の執筆年代で気になるのは、日本書紀の推古二十八年条の次の記述である。「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」。これによれば、記紀に先だって官選国史が編集されたことになる。これこそが我が国最古の国撰史書と云うことになるが幻の書となっている。 先代旧事本紀の序文から見れば、先代旧事本紀が我が国最古の国撰史書として編纂された可能性がある。しかしながら、「先代旧事本紀は、日本書紀の推古二十八年条の記述に合わせて成立年代をさかのぼらせた偽書である」とする説もあり、そう理解すべき節々があるので真偽の判定が難しい。但し、偽書説の立場に立つと雖も推古朝にわが国最初の歴史書が編纂されたことまでは否定できない訳で、先代旧事本紀の内容を精査して判断するのが学問的営為であろうと思われる。残念ながら、我が国の古代史研究は本来為すべきこうした研究に向かわず、入口辺りでの偽書か真書かの二項判断を楽しむ傾向がある。 留意すべきは、先代旧事本紀の史書としての位置づけであろう。先代旧事本紀は、いわゆる古史古伝の中でも記紀記述とも整合的であり、偽書云々には馴染まない。他の古史古伝が記紀神話の異聞異伝記述であるのに比して、記紀記述を踏まえつつ記紀が触れなかった記述を修正したり、新たな史料を加えているところに特徴がある。もっと踏み込んだ云い方をすれば、記紀が抑制した出雲王朝-三輪王朝神話を大胆に併載している。このような場合でも偽書扱いすべきだろうか。慎重な読みとりを要するとするのが学問的態度となるべきではなかろうか。これについては後述する。 一応、ここまで、「先代旧事本紀」の何たるかを見たとして、2010.8.7日付け毎日新聞余録の「人の情熱は実にさまざまだからこそ…」を批評しておく。次のように述べている。 「人の情熱は実にさまざまだからこそ世の中は面白い。しかし、時にちょっと困った方向にとんでもない情熱が注がれることがある。『旧事大成経』という江戸時代に禁書になった偽書をめぐる騒動も、そんな『困った情熱』の産物だった▲この書物、実に74巻にわたり壮大な古代神話を記しているが、まったくの偽作だ。志摩の伊雑宮(いざわのみや)が天照大神の本宮だと主張するために作られ、偽作にかかわった僧と浪人は流罪に処せられた。驚くのはその迫真の出来栄えで、学者や神道家たちもすっかりだまされた▲『作者、豪才強魄(ごうさいきょうはく)畏(おそ)るべし。真正の歴史を修めば、その功赫然(かくぜん)たらんに。惜哉(おしいかな)』とはある儒者の言だ。その才能で本物の歴史を研究していれば、すごい業績をあげたろうと惜しんでいる(今田洋三著「江戸の禁書」)」。 これによれば、余録氏は、先代旧事本紀偽書説の立場から、「実に74巻にわたり壮大な古代神話を記している先代旧事本紀執筆者の努力」を揶揄していることになる。問題は次の事にある。この余録氏は恐らく旧事大成経を読んだことはあるまい。今田洋三著「江戸の禁書」の観点を鵜呑みにして「変わった情熱」例として挙げているに過ぎない。 余録氏は、先代旧事本紀の記述を荒唐無稽としているようだが根拠があったとすればどうなるのだろうか。れんだいこは、「ある儒者の言」の「驚くのはその迫真の出来栄え」、「作者、豪才強魄(ごうさいきょうはく)畏(おそ)るべし。真正の歴史を修めば、その功赫然(かくぜん)たらんに。惜哉(おしいかな)」の謂いの方に興味を覚える。今日の如く出版するのが困難な時代に、74巻を記すには余ほどの伝えたい遺したい意思と必要があったと窺うべきであろう。 かくて、中身こそが詮索されるべきであるということになるが、記紀を補足する結構な文章になっていることを知るまい。つまり、余録氏は、当のものを読まずして、今田洋三著の「江戸の禁書」の観点を借用して頭から偽書説で事なかれして平然と批評していることになる。安逸極まれりと云うべきではなかろうか。一般に、人の話を受け入れることは必要ではあるが、それは信頼に足る方向でのことであり、逆方向に向かうべきではなかろう。ここに眼力が要る訳で、余録氏の場合は不明眼力の典型であろう。 世にこういう手合いの物知りが多い。少々話を発展させると、偽書説問題は他にもある。オカシナことに国際金融資本の陰謀を明らかにする「シオン長老の議定書」なぞは端から偽書扱いされている。ところが、国際金融資本肝いりのナチス糾弾文書「アンネの日記」については真書扱いすると云う変な傾向にある。これをどう了解すべきだろうか。 要するに、国際金融資本体制テキストの通説に添って受け止める方が無難と云う精神によって偽書、真書が値踏みされているのではなかろうか。更に述べれば、ホロコースト譚でのナチスによるユダヤ人虐殺数なぞは話を大きくすればするほど正義かのように説く傾向がある。これを国際金融資本式「西の横綱級の反戦平和論」とすれば、東の横綱が南京大虐殺で、これも犠牲者数を大きくすればするほど正義かのように説く傾向がある。 その癖、太平洋戦争末期での米軍B29編隊による日本列島各地での市民無差別虐殺の都市空襲、広島・長崎への原子爆弾の投下に対しては止むを得なかった論に加担して恥じない。つまり、戦勝国側の歴史観、同じく戦勝国側に有利な反戦平和論の観点のものを請け売りしているのに過ぎない。その手の内で踊ることしかできない作風によって生み出されたものが通説化されている。戦後65年を経た今、そろそろ根本的に見直すべきではなかろうか。これを歴史再検証と云う。決して修正ではない。 2010.8.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評780 | れんだいこ | 2010/08/11 |
【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その2】 もとへ。先代旧事本紀の話に戻る。我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺、815年に新撰姓氏録と云う順になる。先代旧事本紀は、これらの前に綴られたのか以降に記されたのかの詮議をしなければならない。 先代旧事本紀の序文によると、聖徳太子と蘇我馬子が著したとしている。実際の編纂者として、興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)が推定されている。興原敏久氏は、「諸系譜」によれば物部系の人物(元の名は物部興久)であり、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ。物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫であるとされている。平安時代前期の官吏にして明法博士から大判事となり、「弘仁格式」、「令義解(りょうのぎげ)」の撰修に関わっている。その興原氏の活躍の時期が先代旧事本紀の成立期と重なっている。これを踏まえて、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお、1812-92)は、著書「先代旧事本記折疑」で、概要「先代旧事本紀の序文はおかしいが本文はよろしい。その選者は興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)であろう」と述べている。異説として、興原敏久説の他に石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。 その執筆年代の手掛りとして、先代旧事本紀には807年成立の古語拾遺からの引用が為されているからして、成立は807年以降と推定される。但し、その稿は、後の転写者が書き加えたと推定することも可能であり、原文がそれより先に完成されていた可能性は残る。今日に伝わる先代旧事本紀を前提として執筆年代を確認することにすると、研究者の間では、平安朝初期の大同年間(806年~810年)、弘仁年間(810年~824年)、延喜年間(901年~922年)の延喜書紀講筵(904年~906年)以前の間と考えられている。特に807年~833年とみる説が有力である。 本文の内容は古事記、日本書紀、古語拾遺と同文箇所も多い。これをどう見るかと云うことになる。国学者・本居宣長の「古事記伝一之巻」の中の「旧事紀といふ書の論」という一節での先代旧事本紀論が参考になるので確認しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す) 「世に旧事本紀と名づけたる十巻の書あり。これは後の人の偽り輯(あつ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子の命の撰び給いし真の紀には非ず。『序も、書紀の推古の御巻の事に拠りて後の人の作れる物なり』。然れども、無き事をひたぶるに造りて書くるにもあらず。ただこの記と書紀とを取り合せて集めなせり。それは巻を披(ひら)きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑わん人もあらば、神代の事記せる所々を心とどめて看よ。事毎にこの記の文と書紀の文とを、皆本(もと)のままながら交へて挙げたる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接(つげ)りとか云うが如し。又この記なるをも書紀なるをも並べ取りて、一つ事の重なれるさえ有りて、いといとみだりがはし(粗雑である)。すべてこの記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのケジメいとよく分れてあらわなり。又往々(ところどころ)古語拾遺をしも取れる、それもその文のままなれば、よく分れたり。『これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に嵯峨の天皇と云うことも見えたれ』。かくて神武天皇より以降の御世御世は、専ら書紀のみを取りて、事を略して書ける。これも書紀と文全く同じければ、あらはなり(明らかである)。且つ歌はみな略しけるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載せたる。仮名まで一字も異ならずなん有るをや。 さて又、某本紀、某本紀とあげたる巻々の目(名前)ども、みなあたらず(内容と合致しない)。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻の尾張の連、物部の連の世次(系譜)と、十の巻の国造本紀と云う物と、これ等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。『いづれも中に疑わしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし(見分けるべきである)』。さればこれらのかぎりは、今も依り用いて助くること多し。又この記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、これもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。『旧事大成経という物あり。これは殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀というものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者という徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなる多し。古学を詳しくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし』」。 本居の上述の観点で明らかなように、江戸期の国学以降の通説は、先代旧事本紀をして、古事記、日本書紀、古語拾遺の文章を適宜に継ぎ接ぎしたイカガワシイ記述姿勢が目立つと見立てている。しかし、これは逆裁定ではなかろうか。少なくとも、先代旧事本紀も含めて記紀、古語拾遺が下敷きにした原文が存在しており、各書がその編纂動機に添って任意に都合のよいところを抜き書き編纂しているに過ぎないとも窺うべきではなかろうか。あるいは、先代旧事本紀執筆者の姿勢は、記紀、古語拾遺の記述を「継ぎ接ぎ」したのではなく、記紀、古語拾遺の記述を前提にして踏まえつつ、新たに挿入したい伝承を「継ぎ接ぎ」したと窺うべきではなかろうか。つまり、「継ぎ接ぎ」の主体を「記紀、古語拾遺と同文」の側ではなく、「新たに挿入した歴史史料」の方に向けるべきではなかろうか。「継ぎ接ぎ」と云う言葉は同じだが、この言葉が指している意味を理解する方向が逆であることを確認したい。 つまり、先代旧事本紀が、記紀、古語拾遺と同文箇所が多いのが「継ぎ接ぎ」ではなく、記紀も含めて他の史書にはない独自の伝承や神名を挿入しているところが「継ぎ接ぎ」と窺うべきではなかろうか。先代旧事本紀の真価はここにこそある。よって、先代旧事本紀編纂者の意図と動機の解明こそが窺われるべきではなかろうか。そういう意味で、「継ぎ接ぎ」を「記紀、古語拾遺と同文」に求めるような逆さ観点よりする世の偽書論は何の役にも立たない。とりわけ注目されるのは、記紀が記述を抑制した出雲王朝、三輪王朝につき相応の言及をしていることである。そういう意味で、いわゆる古史古伝の祖とでも言い得る意義を保っている。これが先代旧事本紀の値打ちと云えよう。してみれば、先代旧事本紀は偽書説で遇されるべきではなく、記紀を補足する第三国撰史書とも云うべき位置づけを獲得しているのではなかろうか。 2010.8.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評781 | れんだいこ | 2010/08/11 |
【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その3】 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」で、尾張氏、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する記述をしている。神武天皇の東征以前に物部氏の祖・饒速日(にぎはやひ)の尊が畿内大和へ東遷降臨し、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下り王朝を創始していた云々と記している。現存するかどうかは別として尾張文書、物部文書の伝承ないしは文献からの引用ではないかと考えられる。 これにつき、日本書紀は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)について、神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して神武天皇もそれを認めたとしている。しかし、饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかには触れていない。これに対し、先代旧事本紀では、「神代本紀」では神武天皇系譜とは別系と記し、「天神本紀」などでは同じ天孫系に位置づけている。この二元記述をどう窺うべきだろうかと云うことになる。 また、物部氏が「食国(おすくに)の政(まつりごと)を申す大夫」、「大臣」、「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調している。物部氏と石上神宮のつながりも精緻に言及している。物部氏の政治的権威付けが見て取れるが、問題は、その記述の正確度であろう。虚史を記して居れば偽書と云うことにもなろうが、それなりの史実を記しているとすればむしろ研究対象とすべきではなかろうか。 付言しておけば、饒速日(にぎはやひ)の尊譚は他の古史古伝でも伝承されている。これにつき、佐治芳彦氏は、著書「超古代の謎を解く13の鍵」の中で、「長髄彦(ながすねひこ)こそ日本民族の国主であった」と題して次のように述べている。 「神武天皇の東征軍に対して、先住民のチャンピオンである長髄彦が果敢な抵抗を行い、神武軍を苦戦に追い込んだが、結局敗れたことは記紀とほぼ同じである。だが、問題は、その長髄彦が戦死していないことである。長髄彦は『大倭国ヲ棄テ、陸奥国ニ往ク」とあるからだ。陸奥に亡命した長髄彦は、塩を焼き、それを民に施したとある。『東日流外三群誌』では、津軽の十三湊(とさみなと)に亡命し、先住民や漂着民を合同して『荒吐(あらはばき)』族として統一し、その荒吐王となり、善政をしいて民力を増強、故地回復を狙うことになっている。それに対して『大政経(たいせいきょう)』では、宮城県の塩釜付近に落ち着き、製塩の法を民衆に教えたことになっている。だいぶスケールが小さいが、それでも記紀の叙述よりはマシであろう。結局、記紀がどの様に長髄彦を逆賊視しようとも、日本民衆の意識の底には、この神こそ、やまとのくにの国主であったという記憶が残っていたということである。おそらく『大成経』も、この記憶を忠実に伝えようとしていたといえるだろう」。 つまり、「饒速日(にぎはやひ)―長髄彦(ながすねひこ)神話譚」は記紀神話には隠されているが、異聞異伝としてはかなり有力な伝説で、敗者側の神話故に隠されてしまったと見ることが可能なのではなかろうか。日本の古代史研究における記紀神話依拠では見えてこない世界があるということである。 巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」にも、他の文献に存在しない独自の所伝がみられ、およそ130の国造名や設置時期、初代国造の系譜が掲げられている。702(大宝2)年に編纂された「国造記」に基づくものであることはほぼ確実である。そこに記された原資料としての各国造の系譜や伝承は、6世紀中頃から後半に形成されたと推定されている。国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見が有力である。そういう意味で、先代旧事本紀は記紀ないしは他書に見られない所伝を載せた貴重な歴史資料となっている。 このことから判明することは、先代旧事本紀執筆者の狙いが、大和王朝の官僚ないしは統治機構の正統性を裏付ける為の各氏族の歴史的素性を明らかにさせることにあったのではなかろうかと云うことになる。平安朝時代になるや歴史的な反目主体である天孫族と国津族の仕切りが不明となりつつあった。その時代に於けるおける各氏族の箔付けをせんが為の新たな歴史書が必要となり、先代旧事本紀執筆者がこの負託を引き受けたのではなかろうか。物部氏の役割を贔屓目に記述すると云う偏りが目立つのは事実であるが、それに伴い出雲王朝―三輪王朝系の伝承を大幅に取り入れたのはむしろ功績ではなかろうか。こう理解すると、世上の単なる偽書判断の皮相さが分かろう。 そういうこともあって、先代旧事本紀は、江戸中期までは日本最古の歴史書として記紀より尊重されることもあった。つまり、記紀を踏まえつつ、記紀の足らざるところを補っている先代旧事本紀の価値が史料的に認められていたと云うことであろう。読み取り方としては、この方が正解ではなかろうか。鎌倉時代の僧・慈遍は、先代旧事本紀を神道の思想の中心と考えて注釈書「舊事本紀玄義」を著し、度会神道に影響を与えた。室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも先代旧事本紀を重視し、記紀と先代旧事本紀を「三部の本書」としている。これは、記紀よりも出雲―三輪系王朝譚を採りいれた先代旧事本紀の価値を正当に評価していたと云うことであり、この方が正解であろう。 江戸時代に入って、先代旧事本紀の内容に推古朝以降の記述もあることが問題にされ始めた。徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らの研究によって偽書であるとされた。1670(寛文10)年、水戸藩の今井有順が「神道集成」を編纂し、続いて「三部本書弁」で旧事紀(くじき)に疑惑を投げかけた。徳川光圀は「後人の贋書」とし、信用できないとした(栗田寛「国造本紀考」)。1731(享保16)年、多田義俊は「旧事記偽書明証考」(「旧事紀偽撰考」ともいう)を著し、偽書説を後押しした。1778年、伊勢貞丈(1715-1784年)は「旧事本紀剥偽」を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。「神道独語」でも同様の主張を展開した。考証の大家として有名だった伊勢貞丈が偽書説を打ち出して以来、「大臣蘇我馬子宿弥奉勅集撰」という序文だけでなく、内容の全てまでが無価値とされるようになった。 以降、次第に読まれなくなってしまった。明治以降、序文に書かれた本書成立に関する記述に関してはともかく、本文内容に関しては偽書ではないとする学者もあったが、通説は偽書説となっている。この流れが本当に正しいのかどうか。江戸期の国学、明治以降の皇国史観、今日に至る歴史学の古史古伝偽書包囲網、これをもっとアクロバット的に記紀まで否定した津田史学的な偽書観こそ変調であり低能さを示しているのではなかろうか。 本居史学の真の意図がどうであれ、本居に代表される偏狭さが後の皇国史観の水路になっており、この閉塞を打開する為にも偽書説の再考こそが望まれていると窺うべきではなかろうか。学問とはこういう風に問うべきものであり、決して正しくない偽書説を振り回して学問的営為を止めるべきではなかろう。しかも、偽書、偽説と看做すべきものを真書とし、真書、真説と看做すべきものを偽書と評するをや。そう、これが云いたかった。漸く結論に辿り着いた。 2010.8.11日 れんだいこ拝 |
【原田 実/氏の「「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考】 | ||||||
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もとへ。先代旧事本紀の話に戻る。我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺、815年に新撰姓氏録と云う順になる。先代旧事本紀は、これらの前に綴られたのか以降に記されたのかの詮議をしなければならない。
先代旧事本紀の序文によると、聖徳太子と蘇我馬子が著したとしている。実際の編纂者として、興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)が推定されている。興原敏久氏は、「諸系譜」によれば物部系の人物(元の名は物部興久)であり、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ。物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫であるとされている。平安時代前期の官吏にして明法博士から大判事となり、「弘仁格式」、「令義解(りょうのぎげ)」の撰修に関わっている。その興原氏の活躍の時期が先代旧事本紀の成立期と重なっている。これを踏まえて、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお、1812-92)は、著書「先代旧事本記折疑」で、概要「先代旧事本紀の序文はおかしいが本文はよろしい。その選者は興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)であろう」と述べている。異説として、興原敏久説の他に石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。
その執筆年代の手掛りとして、先代旧事本紀には807年成立の古語拾遺からの引用が為されているからして、成立は807年以降と推定される。但し、その稿は、後の転写者が書き加えたと推定することも可能であり、原文がそれより先に完成されていた可能性は残る。今日に伝わる先代旧事本紀を前提として執筆年代を確認することにすると、研究者の間では、平安朝初期の大同年間(806年~810年)、弘仁年間(810年~824年)、延喜年間(901年~922年)の延喜書紀講筵(904年~906年)以前の間と考えられている。特に807年~833年とみる説が有力である。
本文の内容は古事記、日本書紀、古語拾遺と同文箇所も多い。これをどう見るかと云うことになる。国学者・本居宣長の「古事記伝一之巻」の中の「旧事紀といふ書の論」という一節での先代旧事本紀論が参考になるので確認しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す)
「世に旧事本紀と名づけたる十巻の書あり。これは後の人の偽り輯(あつ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子の命の撰び給いし真の紀には非ず。『序も、書紀の推古の御巻の事に拠りて後の人の作れる物なり』。然れども、無き事をひたぶるに造りて書くるにもあらず。ただこの記と書紀とを取り合せて集めなせり。それは巻を披(ひら)きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑わん人もあらば、神代の事記せる所々を心とどめて看よ。事毎にこの記の文と書紀の文とを、皆本(もと)のままながら交へて挙げたる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接(つげ)りとか云うが如し。又この記なるをも書紀なるをも並べ取りて、一つ事の重なれるさえ有りて、いといとみだりがはし(粗雑である)。すべてこの記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのケジメいとよく分れてあらわなり。又往々(ところどころ)古語拾遺をしも取れる、それもその文のままなれば、よく分れたり。『これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に嵯峨の天皇と云うことも見えたれ』。かくて神武天皇より以降の御世御世は、専ら書紀のみを取りて、事を略して書ける。これも書紀と文全く同じければ、あらはなり(明らかである)。且つ歌はみな略しけるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載せたる。仮名まで一字も異ならずなん有るをや。
さて又、某本紀、某本紀とあげたる巻々の目(名前)ども、みなあたらず(内容と合致しない)。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻の尾張の連、物部の連の世次(系譜)と、十の巻の国造本紀と云う物と、これ等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。『いづれも中に疑わしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし(見分けるべきである)』。さればこれらのかぎりは、今も依り用いて助くること多し。又この記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、これもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。『旧事大成経という物あり。これは殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀というものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者という徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなる多し。古学を詳しくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし』」。
本居の上述の観点で明らかなように、江戸期の国学以降の通説は、先代旧事本紀をして、古事記、日本書紀、古語拾遺の文章を適宜に継ぎ接ぎしたイカガワシイ記述姿勢が目立つと見立てている。しかし、これは逆裁定ではなかろうか。少なくとも、先代旧事本紀も含めて記紀、古語拾遺が下敷きにした原文が存在しており、各書がその編纂動機に添って任意に都合のよいところを抜き書き編纂しているに過ぎないとも窺うべきではなかろうか。あるいは、先代旧事本紀執筆者の姿勢は、記紀、古語拾遺の記述を「継ぎ接ぎ」したのではなく、記紀、古語拾遺の記述を前提にして踏まえつつ、新たに挿入したい伝承を「継ぎ接ぎ」したと窺うべきではなかろうか。つまり、「継ぎ接ぎ」の主体を「記紀、古語拾遺と同文」の側ではなく、「新たに挿入した歴史史料」の方に向けるべきではなかろうか。「継ぎ接ぎ」と云う言葉は同じだが、この言葉が指している意味を理解する方向が逆であることを確認したい。
つまり、先代旧事本紀が、記紀、古語拾遺と同文箇所が多いのが「継ぎ接ぎ」ではなく、記紀も含めて他の史書にはない独自の伝承や神名を挿入しているところが「継ぎ接ぎ」と窺うべきではなかろうか。先代旧事本紀の真価はここにこそある。よって、先代旧事本紀編纂者の意図と動機の解明こそが窺われるべきではなかろうか。そういう意味で、「継ぎ接ぎ」を「記紀、古語拾遺と同文」に求めるような逆さ観点よりする世の偽書論は何の役にも立たない。とりわけ注目されるのは、記紀が記述を抑制した出雲王朝、三輪王朝につき相応の言及をしていることである。そういう意味で、いわゆる古史古伝の祖とでも言い得る意義を保っている。これが先代旧事本紀の値打ちと云えよう。してみれば、先代旧事本紀は偽書説で遇されるべきではなく、記紀を補足する第三国撰史書とも云うべき位置づけを獲得しているのではなかろうか。
2010.8.11日 れんだいこ拝
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