Resurrection Of Awa
賀立神社(かだちじんじゃ)

徳島県阿南市椿町蒲生田に波の上を跳ぶ兎をみごとに彫っている彫刻のある賀立神社(かだちじんじゃ)が御座います。
「大穴牟遲神に袋を負せ、從者として率て往きき。ここに氣多(けた)の前(さき)に到りし時、裸(あかはだ)の兎伏せりき。」と古事記に書かれるように、大国主命(大穴牟遲神)は、「氣多の前」で兎に会います。
「氣多の前」とは、"橋げたのような岬"と連想され、徳島県阿南市蒲生田岬から沖の伊島の間には「橋杭の瀬」と呼ばれる岩礁群が連なっています。
そしてその蒲生田には、「岬の橋杭」伝説が残っており、「燈下録」という江戸時代(文化九年・1812)の書物に書かれ、阿波の民話集「お亀千軒」飯原一夫著にも収録されています。
『伊島と蒲生田間に連なる、橋杭の瀬と呼ばれる岩礁は、昔、神様が伊島まで橋を架けようと思い、山から大岩を運んできて、海の中に橋の杭を立て始めた。
そこに通りかかった天邪鬼(あまのじゃく)に「倒れんように番をしとれ」と言って、また、山に大岩を運びに行った。
天邪鬼は、神様がいない間に大岩でできた橋の杭を海の中に倒してしまった。
帰ってきた神様は、今度は倒れないようにと頑丈に作ったが、天邪鬼は、神様がいない間に端から倒していった。
とうとう神様は、根負けして橋を架けるのをやめ、何処かに行ってしまった。
それで残った伊島と蒲生田間に連なる岩礁群を橋杭の瀬と呼ぶようになった。』
とあります。
蒲生田岬から伊島へと続く岩礁群の図

実は椿町周辺の神社には、「波の上を跳ぶ兎の彫刻」が彫られており、一つは、阿南市椿泊町にある佐田神社の拝殿の柱の礎石に彫られた二羽の兎。前の兎が、後の兎を導いているように彫られています。

もう一つは、阿南市福井町土佐谷の金刀比羅神社の境内の後世山遙拝所の拝殿に彫られた「波の上を跳ぶ兎」。後ろ足を跳ねて波の上を跳んでいます。

そして、蒲生田岬突端の浜にある賀立神社本殿内にある波兎ですが、兎の後ろ側に彫られた大波などもみごとに彫られています。

他にも兎の彫刻を彫った神社は時々見ることがありますが、「この地区のように波の上を跳ぶ兎をみごとに彫っている彫刻を他の神社では見たことがない。とあり、蒲生田岬周辺は、稲羽の素兎の話を彷彿とさせる所である。」(阿波古事記研究会)としています。
ちなみに、上板町神宅に鎮座する「葦稲葉(あしいなば)神社」(祭神:倉稲魂命、創祀年代不詳)があり、あの有名な伏見稲荷大社の元社と思わしき神社があります。
この「いなば」も阿波にあったのです。
柿本人麻呂曰く、阿波は隠国「言挙げせぬ国」、ルーツが阿波にあったとしてもそういわなかったという地なのです。
また、古事記原文には 「稻羽之素菟」 と記載されておりますが、通説では、稲羽は鳥取県の旧因幡国とされています。
さらに、「蒲生田」という地名ですが、大国主神がうさぎに「真水で体を洗い"蒲(ガマ)"の花粉の上で寝転がるといい」と言ったとされたとあり、やはりこの地がそうだったのでは!?…などと想像が膨らみますなぁ~。

少し写真では読みにくいのですが、湿地植物群落として、蒲生田大池の北東部一帯にヒメガマ、アンペライが生茂り、いわゆる蒲生田の地名の由来となっている。とあります。
ここからはほぼ写真日記です(笑)
蒲生田岬付近到着、賀立神社の標識発見!
そういや小さい頃は蒲生田のことを「がもうだ」ってずっと言っていたし思ってました。
周りの人にもそれで普通に通じました(笑)
実は「かもだ」のようです(´・ω・`)

扁額

地神塔(通称おぢがみさん)、五角形の石柱で、正面に天照大神、左周りで大己貴命、少彦名命、埴安姫命、倉稲魂命となっている徳島独特の祭礼ですね(´ω`)

ここにも阿波古事記研究会の看板発見。
コアな古事記ファンからすれば、若干場の雰囲気から察するにチープ感が否めませんが、ライト層にはよいかも…(´▽`A``

「撫でうさぎ」: 撫でると、良縁、健康長寿、病気平癒、いじめ封じのご利益。

賀立神社の狛犬

若干ダウンタウンの浜ちゃんっぽいチョット独特な狛犬ですなー。

本殿です。中の木彫りに兎が彫られているらしい。

そこから徒歩で400m程海岸沿いを行くとかもだ岬に到着。

何かオブジェがあったのでそこから覗く伊島とパシャリ。

快晴だったため、伊島と更に奥に薄っすらと見える和歌山県が確認できました!

かもだ岬灯台上から伊島―和歌山方面を眺望。
すごくいい眺めですなー。素兎も飛んできそうです(笑)

ふと横のジャングルに見えるのは…

朱塗りが綺麗な鳥居が…
しかしどうやって行くんだろうな…
気になりましたが、体力が尽きていたので今回調査できず。。。

以上、「稲葉の素兎in阿波」の舞台でした!
神名考察 大宜都比賣
![l_531707939fcd0[1]](https://blog-imgs-83-origin.fc2.com/k/o/r/korakusan/20160330190704cef.jpg)
古事記の国産みに書かれた神々の中で、古事記に何度も現れるのは、実は阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)のみです。
ここでは国産みにおける大八島の国名及び神名から考察したいと思います。
⦿ 産まれた順番
① 淡路島:(淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま))
② 四国:伊予之二名島(いよのふたなのしま):(愛比売(えひめ)・飯依比古(いよりひこ)・大宜都比売(おおげつひめ)・建依別(たけよりわけ))
③ 隠岐島:隠伎之三子島(おきのみつごのしま):(天之忍許呂別(あめのおしころわけ))
④ 九州:筑紫島(つくしのしま):(白日別(しらひわけ)・豊日別(とよひわけ)・建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)・建日別(たけひわけ))
⑤ 壱岐:伊伎島(いきのしま):(天比登都柱(あめひとつばしら))
⑥ 対馬:津島(つしま):(天之狭手依比売(あめのさでよりひめ))
⑦ 佐渡:佐度島(さどのしま):なし
⑧ 近畿:大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):(天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ))
漢字に注目してください。漢字には意味があります。
「依」:頼りにする
「別」:一緒にいたものから離れ離れになる
という意味です。
まず淡路島は、淡道之穂之狭別島であり、この場合、穀物の「穂」の狭い島の別れた国ということで、記紀では一番先に産まれたのも関わらず、その実は何かから別れた国ということです。
よってこれは古事記という物語を作るにあたり、国産みするときに施した構成上のネタであると考察ができます。
また、隠岐島、筑紫島なども神名は全て「別」が付くのです。
次に壱岐島は、魏志倭人伝で紹介されている「一大国」であり、天比登都柱は、天一柱と解釈できます。
この地が当時外交の重要拠点であったことがわかります。
何故ならこの島は「別」ではないのです。
天之狭手「依」比売である津島こと対馬国は、狭手の島であり、一柱の国に依っているからであると解釈できます。
ただ単に面積でいえば対馬の方が大きいのですが、壱岐島の方が九州側から近く、九州側の国を治めていた国主からすれば九州側国→壱岐→対馬(限界範囲)だったのでしょう。
それは魏志倭人伝記述の副官卑奴母離(ひなもり)の管轄地(對馬國(対馬)・奴國・不彌國(福岡県))からもわかります。
佐渡島に関しては当時の支配範囲の限界境であると推測され、神の名前すらまだ与えられていません。
そして最後の近畿ですが、天御虚空豊秋津根別とあり、「豊秋」は穀物の穂のなる豊かな秋であり、「根別」は根から別かれた国ということなのです。
こちらも「別」の国であり、更にいうと根元から別れた国ゆえに「根別」なのです。
ここであえて順をすっ飛ばした四国に注目してください。
阿波・伊予の二国の神名は「別」「依」がないのです。
以前にも紹介しました、伊予之二名島の「二名島」は四国を大きく西側(予)と東側(伊)に分けて「伊」「予」之二名島とし、西側が、愛比売(麗しい女性の意味)と、建依別(雄々しい男性の意味)でその容姿を表しているのに対し、東側が、飯依比古(飯を産する男性の意味)、大宜都比賣(五穀を産する女性の意味)と穀物から産する食の神々であることに気付くのです。
そして更に東に移動すると淡路島に至り、穂のなる狭い「別」の島になり、また更に東に移動して、秋に豊かに実る穀物の穂のなる「根」から「別」れた国(天御虚空豊秋津根別)に至るのです。
このことは、本来は四国から始まる物語であると考察でき、またメッセージとして稲作が東に伝播し、大和(奈良)に至ったということです。
これは以前にご紹介した銅鐸文化の発展経路と同じコースを意味します。
要するに稲作の分布域の移動を意味し、より良い地に波及し、移動していったのです。
古事記では、淡路島を物語で最初に出現させることにより、起源の中心地であった四国を見事にカムフラージュさせたのです。
また、土佐の神である建依別は「依」「別」であり、隣国から「別」れたが「依」っていることです。
そして飯依比古も「依」ですから飯(米)に「依」比古(男の名)なのです。
これも五穀の女神である、阿波の神「大宜都比賣」に依存しているのです。
このことにより古事記の話は実は、何も「別」のない伊予国(愛媛)側の「予」と阿波国(徳島)側「伊」をルーツとしたネタだったのです。
そして国産みで出現した他の神々がその後全く出現しないのに対し、阿波の大宜都比賣は須佐之男命とのやり取りから、蚕と五穀(稲、粟、小豆、麦、大豆)が生まれた話を含め何度も登場します。
阿波国の神である大宜都比賣(おおげつひめ)の「ケ」は、古語で食のことを「ケ」といい、後に、生きていく上で不可欠な「衣・食・住」のすべてを「ケ」で表現し、今日、「気」という言葉が、元気・勇気・やる気・気にする・気がない・気が早い・けがれ(気が枯れる)等々、日常にも使われ、物質的なものにとどまらず本源的エネルギーも含め「気」が使われています。
日本書紀では、ツクヨミがウケモチを斬り殺す話にかわります。
ちなみに神名のウケも豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味なのです。
古事記の話は、阿波を意図的に隠しているというネタであり、その実は阿波中心の話と考察できるでしょう。
大和(根別)のルーツは、阿波(元)からなのです。
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