https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10200233465
一つは皇族だったからという理由があります。 個々別々の部署が個々別々の皇族に累を及ぼさないようにとの配慮がありましたた。 たとえば、真実は異なりますが、米内内閣の総辞職のきっかけとなった陸軍大臣畑は、自分に対する辞職勧告は時の参謀総長閑院宮から出されたものと、"信じ込んでいました"。ですが、東京裁判の場では陸軍内のといったぼかした言い方にしています。 おまけ的理由では伏見宮は戦中段階で意見を表明などしていても既に病身で、かつ高齢故裁判が難しかったのもあります。 最大の理由は、戦犯対策で海軍の組織的隠蔽があったからです。 戦前の対米問題、特に昭和16年秋以降の軍部の動向について、頭の悪い人ほど陸軍機密誌を持ちだして「陸軍はこれだけ戦争を望んでいた」という傾向がありますが、一方の海軍は徹底的な証拠隠滅を行いました。 何故かと言えば対米戦は、海軍が望んだからです。 伏見宮は「戦力が充実している今ほど好機だ」と発言していますが、実はこれは海軍で主流の意見でした。米国が同時期い発表した軍備計画によって昭和18年段階で、米国の海軍力は日本のそれを圧倒するのが明らかになったからです。山本五十六もそんな伏見宮や海軍大臣に「南進するなら、英米に先制奇襲攻撃をしよう」と献策して同意をもらっているからです。更に昭和16年1月には海相及川に"重ねて"真珠湾攻撃の構想を語り、2月の段階で具体的準備をしました。 伏見宮に批判的で、かつ対米避戦派だったとされる井上ですが、そんな彼は後任の軍令部総長に永野を押しています。また永野は組織の主流の意見とは別に、海軍第一委員会なる諮問組織を作ってます。この表面的事象だけとらわれて、第一委員会がーと愚かなことを言う人がいますが、第一委員会は作戦計画=真珠湾攻撃による対米戦に関与しておらず、また人員は軍務局長の岡によって配されていました。それ以前に4月に、日米了解案が芽吹き、これは近衛が喜び、現役を退いていて海軍組織内の事情を知らない米内も同じく、東条ですら納得した案だったのに、海軍はまるで素っ気なくて、交渉に関わった人間をひどく困惑させています。「時期的に今が好機」の海軍にとっては中途半端な妥協はむしろ困ったのです。 伏見宮に累が及ぶとは、そうした昭和15年から海軍が対米戦に前のめりになっていた事情が白日の下にさらされることになります。当然に伏見宮個人の責任問題ではすまなくなります。 「自分たちが引き起こした戦争でぼこぼこに負けた」海軍にはとても出来ない相談でした。これがために「やむを得ず」といった体裁をひたすらとり、海軍軍人は伏見宮を守ることで、ひいては自分たちや自分たちの組織を守ったのです。 おかげで海軍はA級戦犯処刑者を出さず、陸軍がー東条がー、「南部仏印進駐やったけど米国とは戦争するつもりはー」といった安っぽい嘘に多くの人が騙されて、戦後から現在に至るまで組織的名誉を守るという点で大成功を収めているわけです。
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