なぜ湖底に?日本で初発見の「水中遺跡」 長年論争が続く謎に迫ったボーリング調査、見えてきたのは縄文時代の諏訪湖の姿
■縄文時代中期とみられる土器の破片も出土
考古資料の調査研究に取り組む一般社団法人大昔調査会(諏訪市)の三上徹也副理事長によると、同遺跡からは、今回のボーリング調査の結果と一致する、縄文時代中期のものとみられる土器の破片も出土している。三上さんは「積極的な土地利用があったわけではないかもしれないが、(縄文時代中期ごろに)地上に露出していた可能性はあるのではないか」と指摘。今回の調査結果について、「考古学的な積み重ねの大きな後ろ盾になる」としている。
■「曽根遺跡」とは
高島尋常小学校(現上諏訪小学校)教員だった橋本福松(伊那市出身)が1908(明治41)年、諏訪湖底で矢尻2個を発見。以後、南北350メートル、東西210メートルのエリアで矢尻や黒曜石のかけら、土器片など推定1万点以上が出土した。水中にある理由を巡り、「湖底にくいを立てて生活していた」「陸地だった部分が地滑りを起こし湖底に沈んだ」といった「曽根論争」が起きた。諏訪市出身の考古学者藤森栄一(1911~73年)は湖周辺に点在する遺跡の標高調査を基に、諏訪湖が縄文期に拡大、縮小を繰り返し、曽根遺跡は水位上昇で水没したとの説を65年に専門誌で発表した。
0 件のコメント:
コメントを投稿