2025年7月23日水曜日

車山高原レア・メモリーが語る諏訪の字源と語源

車山高原レア・メモリーが語る諏訪の字源と語源

車山高原レア・メモリーが語る諏訪の字源と語源

 「諏」は「聚謀」を言い、「諏訪」とは「多くの人に問いはかる」を意味する。『新唐書.卷一五八.張建封傳』には『軍中事多所諏訪(陣中さかんに作戦会議をした)』とあり、「諏」とは大勢に謀ることであり、「訪」とは広く謀ることである。つまり諏も訪もともに謀るという意味がある。正確には「議る」が妥当である。

 諏訪大社発祥の地にある諏訪大社前宮は、宮川の三角州を望む高台にある。諏訪大社の古代勢力の人々は、諏訪湖をかつては「州端の海」と呼び臨んでいたようだ。
 (故爾に其の大国主神に問ひたまひしく、「今汝が子、事代主神、如此白しぬ。亦白すべき子有りや。」ととひたまひき。
 是に亦白ししく、「亦我が子、建御名方神有り。此れを除きては無し。」とまをしき。
 如此白す間に、其の建御名方神、千引の石を手に擎げて来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びに如此物言ふ。然らば力競べ為む。故、我先に其の御手を取らむ。」と言ひき。
 故、其の御手を取らしむれば、即ち立氷に取り成し、亦剱刃に取り成しつ。故爾に懼りて退き居りき。爾に其の建御名方神の手を取らむと乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如、み批ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去にき。
 故、追ひ往きて、科野国の州羽の海に迫め到りて、殺さむとしたまひし時、建御名方神白ししく、 「恐し。我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他處に行かじ。亦我が父、大国主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。此の葦原中国は、天つ神の御子の命の随に獻らむ。」とまをしき。 )

 「州」は「2つの川の流れの中に囲まれた土地」の象形文字から「中州」を意味する「洲」という漢字から成立した。諏訪大社発祥の地に建つ諏訪大社前宮は、高遠から南下する藤沢川の河岸段丘から、諏訪湖の南岸に広大な三角州を形成する2つ川、「宮川」と「上川」が並走する八ヶ岳の西南麓を一望する。
 『端』には、はし・すえ・はた等が通常の使い方であるが、「端正」・「端麗」・「端立」・「端良」など、「ただしい。きちんとしている。」と言う意味でも多用される。「端門」とは「宮城の正門」であり、「端座」・「端詎」に通じるのであれば、諏訪大社上社の御神体守屋山を背景に、その発祥の地である「前宮」が「端立」する光景が浮かぶ。
 当寺の諏訪湖の南方に広がる沖積地は、坂室から木船に至るまで入り江と湿地が入り組んでいた。湖南(こなみ)西部は沖積地から急峻な傾斜で、有賀峠や後山の山地にかけ上がっている。一方、現在の小坂から中州、高部、宮川までは湖岸沿いに、広い扇状台地が展開していた。

  『古事記』では建御名方神(たけみなかたのかみ)が「科野国洲羽海」に逃れ来たとある。『日本書紀』では「須波」、続日本紀では「諏方」と書いた。持統天皇の勅祭に関する記述では「須波神」としている。『令集解(りょうのしゅうげ)』では須芳山嶺(すわやまのね)の道を改修したと記している。『延喜式』神名帳では「諏方」とあり、上社『大祝信重解状』の藤島社伝説で「藤諏方ノ森」と書いている。平安時代初期の『倭名類聚抄』で初めて「諏訪」と「方」に「言」の偏がつく。
 和銅6(713)年の『続日本紀』に「畿内7道諸国郡郷の名は好字を用いよ」と令したと記されている。しかし諏訪の字は、その後も一貫しない。
 江戸時代の初め諏訪郡主頼忠は、長男頼水を高島藩初代藩主とし、4男頼広を上社大祝に立てた。以後その嫡流が、それぞれ継承する祭政分離をした。そして「藩主家」は「諏訪」を、「大祝家」は「諏方」を「姓」とした。
 正保4(1647)年に作成された『正保信濃国絵図』には「高島藩諏訪出雲守居城」とある。隣藩松本藩が享保9(1724)年に編纂した『信府統紀』には「諏方大祝部は代々諏方氏なり、近年守護の名字は諏訪と書く、神職には下の字の偏を除きて、諏方と書くとかや」と記録している。江戸期になると「藩主家」と「大祝家」の表記を変えていたことが分かる。
 中世・近世では「諏方」が多く用いられている。天保5(1834)年、高島藩は「2月6日以後は諏訪と書くよう」藩命を出している。しかし江戸時代後期の編纂物の多くは「諏方」を用いている。明治6年の町制施行で上諏訪町となり、昭和16年、諏訪市制施行となり、現代では「諏訪」が主流となる。 諏訪の語源も諸説あって 本居宣長の「古事記伝」で、国ゆずりの神話から、スワ地方は行きずまり、すぼまりの地形から「建御名方神の出雲より逃れ来て、此湖岸に至り、終に道絶え逃るすべなく、須夫麻理太(すぶまりた)へる由の名にやと」説き、それを簡略化して「スワ」となったとしている。平田篤胤は『古事記伝』で、同じく国ゆずりの神話から、建御名方刀美神が「すは此処ぞ我が住むべき国也」と述べたからとしている。いずれも空疎で牽強に過ぎる。

 古代や現代の諏訪湖の風景と地形を想像すれば「洲輪」が浮かぶ、湖岸の光景と湖の波うつ情景からは「須波」「洲波」が発想される。建御名方神の名前の由来は水潟(みなかた)に通じる。諏訪の現在の地形は、氷河期の終わり頃に形成された。諏訪湖東岸大和(おわ)から四賀までの山麓とその山間の谷が台地を構成して、長い干潟を通して諏訪湖に臨んでいた。現在の諏訪市役所や上川・沖田の周辺は、湖面であった。湖の南方に広がる沖積地は、坂室から木船に至るまで入り江と湿地が入り組んでいた。湖南(こなみ)西部は沖積地から急峻な傾斜で、有賀峠や後山の山地にかけ上がっている。一方、現在の小坂から中州、高部、宮川までは湖岸沿いに、広い扇状台地が展開していたようだ。
 承平年間(931年~938年)に、源順(みなもとのしたごう)が編纂した『倭名類聚抄』には「菅郷」は土武(土無;下諏訪町富部)・佐補(佐布;上伊那郡中箕輪村)・美和(上伊那郡高遠町)・桑原(上諏訪上・下桑原)・神戸(中州から四賀)・山鹿(南大塩村を中心に豊平・湖東地区)・弖良(てら;上伊那郡手良村)の7郷とあり現在の上伊那も含まれていた。室町時代初期に作成された「諏方大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」には、「信州の至り給えし時、伊那郡と諏訪郡との堺に大田切と云う所にて」とあり、当時の諏訪郡は現在の駒ヶ根市の大田切川以北にまで及んでいた。
 「菅郷」の「スゲ」が「諏訪」に転化したとなれば、菅が多く繁茂する郷であるから大いに説得力がある。しかも、至る所に繁茂し、カサスゲ・マスクサ・コウボウムギ・カンスゲなど日本には約200種もある。スゲは、実用的に蓑・笠・敷物に用いられいるが、同じ目的にはワラやカヤ、イグサなどイネ科・イグサ科・ミクリ科に属するものも種々あり、今でも東南アジアの一部での雨具には、葉巾の広いのを笠に、比較的に狭いのを蓑にするなど、目的によって使い分けがされている。スゲの類は軽く光沢があるので笠や装飾品などに用途が広い。
 菅は、万葉集に長歌・短歌合わせて、なんと64首にも引用されている。「古事記中 神武」にも、「芦原の しこけき小屋に 須賀たたみ、いやさや敷きて」と詠まれている。
 (大和物語の中に「苔の衣(こけのころも)」が使われる。こけ-む・す は【苔生す・苔産す】は、「長い年月を経るなどの意」を暗に示すことが多い。「しこけき」の「し」は強意の副助詞、古語の助動詞「き」は過去を表わす。
 いやさやしく【弥清敷く】は、【さや】がさやさやと清らかな音がするさまであれば、いかにも【清らかに敷き重ねる】。)

 万葉集では、草本類で比較すれば、スゲはハギやアシに次いで多く49首も詠まれている。
 あしひきの 名負ふ山菅 押し伏せて君し結ばば 逢はずあらめやも
 (「あしひきの」は「山」を導く枕詞、大和の山々はなだらかな裾野、その稜線を表しか?
 ただ、万葉集では山菅(ヤマスゲ)詠んだ歌が13首ある。湿地や川岸に繁茂するスゲとは別種とされている。

 菅は現代の植物学で言うとカヤツリグサ科のスゲ属に類する腺形の葉の植物である。万葉集や古事記に出てくる菅は、果たしてどの種に該適すべきか不明であるが、蓑・笠・敷物・家萱、そして自給肥料として重要な刈敷など実用的な用途が広い、日常には不可欠な生活用材である。ワラやカヤやイグサなどイネ科・イ科・ミクリ科に属するものも種々ある。現代でも東南アジアの一部での雨具は、葉巾の広いのを笠に、比較的に狭いのを蓑にするが目的によって使分けされる。スゲの類は軽いことと光沢があるので笠や装飾品に用いられる。
 
 諏訪湖の標高は759m、芦ノ湖の725mを超えている。

  諏訪湖周辺の宿、飲食店にみられる屋号「鵞湖(がこ)」の由来は、正安2(1300)年、下諏訪町東町中に慈雲寺を開山した元の渡来僧一山一寧(いつさんいちねい)が名付けた事に始まる。 僧は、台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)の出身で、中国の信州、現在の江西省鉛山県の鵞湖を、日本の信州諏訪湖の美称とした。

 二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖(クビライ)の後を継いだ成宗は、平和裏に日本を従属国とするべく愚渓如智に3度目の使者を命ずる。当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があった。そのため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓如智が使者に選ばれた。
 しかし、弘安5年(1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(1284年)には対馬まで辿り着くも、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。度重なる難事と老弱とが重なり、代わりに愚渓の後継で観音寺の住職となった一山一寧を推薦した。 成宗は一山一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本に朝貢を命じる国使に任じた。正安元(1299)年に博多入りするも、伊豆の修禅寺に幽閉された。その学識と有徳が知れ渡ると、執権北条貞時は鎌倉近くの草庵に移した。僧俗問わず連日、その草庵を訪れた。貞時も厚遇し衰退していた鎌倉の建長寺を再建し、その住持として迎えた。
 後に浄智寺を経て、正和2(1313)年、規庵祖円禅師の後継として、後宇多法皇の招請をうけ、京にのぼり南禅寺の住持となり、文保元(1317)年10月24日に南禅寺で逝去した。71才であった。花園天皇より「一山国師」と諡号された。師は南宋朱子学の新注を日本に伝え日本朱子学の祖ともされる。特に書画に巧みで、また門人希望者に「偈頌(げじゅ;経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をたたえた言葉。4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い。)」の作成を課した。権力の保護を受けた禅林には、多くの禅僧が集まり、弟子として育成した。後に五山文学の祖とも言われている。門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。

 高島藩3代藩主諏訪忠晴は絵画をよくし、文才もあり、鵞湖子を号した。大坂城山里御門番江戸火消役などの政務に励む一方、寛文4(1644)年、諏訪市博物館の所蔵の「御枕屏風おまくらびょうぶ)」六曲一双を画工に命じて作製させた。諏訪市有形文化財となっている。当時の諏訪地域全域が俯瞰的に描かれ、江戸前期の村落配置や高島城、城下町などの成立期に近い様子をうかがい知ることのできる。屏風の左隻(させき)は諏訪湖、高島城、城下町、宿場町、主な河川、街道などが画題で、諏訪湖上で投網をする漁師や、天竜川への流入部・弁天島も見える。右隻には雪の八ケ岳と、その山麓の集落が描写され、頼岳寺や諏訪大社上社、神宮寺などは、特に細密に描かれている。
  5代藩主忠林(ただとき)は生来から病弱だったため、藩政から逃避して学問の世界にのめり込んだ。詩人としては一流で鵞湖詩と号し、漢詩に鵞湖を多く詠み、以来広く詩文に採り上げられ有名になった。詩集に「鵞湖詩稿」などがある。
 享保18年(1733年)には領内を『諏訪藩主手元絵図』に描かせて、後世の貴重な資料となっている。諏訪の領地の全貌を知るために、各村に命じて描かせた村絵図をもとにして絵師により統一的に描きあげられた。高島藩の統治下にあった109か村を下筋 (23か村) 、東筋 (42か村) 、西筋 (35か村) の3つに分けてそれぞれの分冊として絵地図の形式でまとられている。筑摩郡 (東) の3千石領 (9か村) は西筋に加えられている。

 高島藩の所領は当初は2万7000石だったが、第2代藩主・忠恒は大坂の陣に参陣した功績により元和4年(1618年)に5000石を加増され、3万2000石となった。第3代藩主・忠晴は、明暦3年(1657)3月、忠恒の遺言により忠晴の弟の頼蔭と頼久にそれぞれ1000石を分知して3万石となった。
 諏訪頼蔭に、千石余の埴原村が与えられ、この ときから埴原村は、諏訪氏の分家領となった。頼久は、現在の松本市の市街地の南東の寿地区の村々をあわせて 千石を受けた。
 寿台は元々は松本藩領であったが、移封に伴い藩主の石高にずれが生じたため、1618年に松本藩から高島藩に5,000石分の領地として割譲された。)
 それま での高島藩の東5千石領は、 高島藩3千石と、埴原(諏訪頼蔭)と百瀬(諏訪頼久)の 両知行所に分けられた。
 延宝5年(1677)5月、 年貢が不足するのを理由に、 埴原知行所の諏訪頼蔭は願い 出て、和泉村から110石余 (上和泉)、白姫村から75石 を分けて埴原へ加増された。 和泉村(上和泉は埴原へ)と 神田村は、本家領として諏訪高島藩の所領のまま幕末まで継続 した。
 (松本市の南東部に位置する中山は、江戸時代には、埴原村・和泉村・神田村の三村に分かれていた。 最初は松本藩の領地だったが、その一部の村 が松本藩から分かれて諏訪高島藩の分家領となった。)

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