2024年6月14日金曜日

日ユ同祖論


http://www.rendaico.jp/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/nithiyudosoronco/kaisetu.html
日ユ同祖論解説

 更新日/2021(平成31.5.1栄和/令和3).7.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日ユ同祖論」につき検証考察する。 「ウィキペディア日ユ同祖論」、「日ユ同祖論の謎」その他を参照する。

 日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)とは、日本人とユダヤ人は、共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説であり、理論的にはユダヤ人の祖日性、日本人の祖ユダヤ性の二種が考えられようが、専らユダヤ人の祖日性としての民族的同一性、古代イスラエルの全12支族のうち「失われた10支族」の一部が日本に渡来し、天皇制王朝を創建したという天皇制のルーツとしてのユダヤ性が問われる。

 2009.5.22日 れんだいこ拝


【日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)考】

 日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)は、日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説である。日ユ同祖論は、主に三つの立場がある。その1は、古代イスラエルの「失われた10支族」が日本に渡来したという説。その2は、古代イスラエルの「失われた10支族」のみならず12支族が日本に来たという説。その3は、古代日本人はユダヤ人の先祖であるという説。


【古代ユダヤ人の12支族とは考】
 まず、「ユダヤの12支族」について確認しておく。旧約聖書によれば、紀元前2000年、古代バビロニア王国が隆盛を誇っていた時代、メソポタミア地方に一つの家族が住んでいた。家族の長の名はアブラムで、彼は広大なメソポタミアの平原を羊とともに移動しながら暮らしていた。そのため地元のメソポタミアの人々は、彼らのことを「移動する人々」という意味で「ハビル人」と呼んだ。後に、彼らはユーフラテス川地域からパレスチナ地方、エジプトへ移動したため、「川の対岸からやって来た」という意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれる。

 アブラムは後に神からの勅命を受け、アブラムをアブラハムに改名する。彼はイシュマエルとイサクという2人の息子をもうけ、イシュマエルは「アラブ民族の父」となる。一方、イサクはエサウとヤコブという双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変えたが、彼こそが『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」となる。

 このヤコブ(イスラエル)は4人の妻に12人の息子を生ませ、生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。父ヤコブの死後、それぞれ皆一族の長となり、ルベン族、シメオン族……という支族が誕生した。ヤコブの12人の息子等を祖先とするのが、イスラエル12支族であるとされている。

 ただし、レビ族だけは祭祀を司る専門職であるため、通常、イスラエル12支族には数えない。レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とする。

 父ヤコブに最も可愛がられていた11男ヨセフは、一番下の弟ベニヤミンを除いた兄たちの嫉妬をかい、エジプトに売られてしまう。ところが、当時世界中を襲った大飢饉から逃れるため、ヤコブと息子たちの一族が全ての財産と家畜を伴いエジプトに赴くと、そこで彼らを迎えたのは、ファラオに次ぐ地位であるエジプト首相に就いていた11男ヨセフだった。

 ヨセフは兄弟たちを許し、イスラエル一族はエジプトの地で子孫を増やして大いに栄えた。だがヨセフの死後、ヒクソス人が駆逐されると、ヘブライの勢力を恐れたファラオが、彼らを奴隷の境遇に突き落としてしまった。こうして、イスラエル12支族はエジプトで奴隷状態にされた。

 そうした中、一人の男が立つ。名はモーセ。苦境の中にあったイスラエル人が待ち望むメシアにして、偉大なる大預言者であった。彼は紀元前1290年に全イスラエル民族を率いてエジプトを脱出し、紅海を渡り、カナンの地に住み始める。これを「出エジプト」と云う。

 以後40年間にも及ぶ集団放浪生活を送ったが、この間に"神"はイスラエル民族に「十戒石板」・「マナの壷」・「アロンの杖」という三種の神器と、それを入れる「契約の聖櫃(アーク)」を授けた。これは"神"とイスラエル12支族との契約の証しで、古代ヘブライ教(原ユダヤ教)の成立を意味した。

 紀元前1250年、大預言者モーセの後を引き継いだヨシュアは、イスラエル12支族を率いてヨルダン川を横断し、 約束の地カナン(パレスチナ地方)へと侵入した。イスラエル12支族は、神が約束した土地であるという大義のもとで先住民と戦い、瞬く間に征服し、支族ごとに12の領地に分割した。ここにイスラエル王国の基礎が築かれたわけだが、当初は戦争の英雄がイスラエル12支族を統治していた(士師時代)。

 紀元前1000年頃、預言者サムエルはサウルという英雄を王にして、統一国家を作ろうとした。だが、サウルは傲慢さゆえに失脚。代わって羊飼いの青年ダビデが大王として選任される。ダビデは混乱していた全イスラエル民族を完全に統一し、ここに歴史に名を残す「イスラエル統一王国」が誕生した。

 この「イスラエル統一王国」は、ダビデの息子ソロモンの時代に頂点を極めた。イスラエル史上最大の栄華を誇ったソロモン王は、それまでの移動式の幕屋を堅固な固定式の幕屋にするため、贅沢な材料を大量に使用して巨大な神殿を建設した。世に言う「ソロモン第一神殿」である。

 「イスラエル統一王国」が国家として隆盛を誇る反面、民は重税と強制労働に大きな不満を抱いていた。それがソロモン王の死後、噴出し、ソロモンの息子レハベアムが即位すると、エラフイム族のヤラベアムが反乱を開始した。戦火は王国内に拡大し、内乱へと発展した。

 紀元前925年、「イスラエル統一王国」が大分裂した。ヤラベアムを支持するルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、エフライム族、マナセ族の10支族、そしてレビ族の一部が、サマリアを首都とする「北イスラエル王国(北朝)」の建国を宣言した。

一方、ソロモンの息子を正統と考えるユダ族、ベニヤミン族の2支族、そしてレビ族の一部は、エルサレムを首都とする「南ユダ王国(南朝)」の建国を宣言した。

 イスラエル統一王国の分裂は、単に政治的な面にとどまらず、宗教的な面においても分裂を引き起こし。南ユダ王国は、以前と同じようにソロモン神殿で「絶対神ヤハウェ」を信仰していた。それに対して北イスラエル王国は、黄金の子牛像を作り、これを礼拝、偶像崇拝に陥ってしまった。これは「ヤロベアムの罪」と呼ばれている。

 北イスラエル王国の偶像崇拝は、日ごとに激化し、パレスチナ地方の異教の神々をも礼拝し始めた。そして、ついには本来の古代ユダヤ教とは全く異質な偶像崇拝信仰と化した。神は北イスラエル王国にエリヤ、エリシャ、ホセアといった預言者を送り、民族の霊的回復を図ったが、この預言者たちの必死の呼びかけも空しく、もはや信仰的回復は不可能となっていた。

 紀元前722年、メソポタミア地方に勢力を急速に拡大してきたアッシリア帝国が、パレスチナ地方に侵入し、北イスラエル王国は必死の防戦にも拘らずあっけなく滅亡してしまった。しかもイスラエル10支族はそのままアッシリア帝国へ連行され捕囚( ニネベ捕囚)にされた。アッシリア王サルゴンの年代記によれば、「サマリア(北イスラエル王国の首都)の貴族階級27,290人をアッシリアに連行した……」とある。

 北イスラエル王国滅亡を目の当たりにした南ユダ王国のユダ族中心のイスラエル2支族たちは「ダビデ王統」を守り続けた。が、北朝滅亡から135年後の紀元前587年、 新バビロニア王国によって滅亡させられた。南朝のイスラエル2支族はバビロンへと捕囚され、「ソロモン神殿」は破壊された。ユダ族の人々は国も神殿も王も失った。

 紀元前538年の新バビロニア王国の滅亡と、その後のペルシア帝国の寛容な宗教政策によって、南朝のイスラエル2支族はパレスチナ地方へ帰ることができた。彼らはソロモン神殿を再建し、徹底した契約厳守の律法主義に基づく「新ユダヤ教」を作り、現在のユダヤ人へと至る"目に見える歴史"をたどった。

 南朝のイスラエル2支族が故郷の地に帰還した時、既にアッシリア帝国は滅亡しており、そこへ捕囚されていたイスラエル10支族はパレスチナ地方へ帰ってきてしかるべきであった。しかし、彼らは帰って来なかった。もごく一部が帰還し、大部分が帰って来なかった。しかも捕囚されたアッシリア帝国の地にも、彼らの姿は無かった。イスラエル10支族は、いつの間にか歴史の表舞台から消えた。紀元1世紀の著名な歴史家フラビウス・ヨセフスは、「ユダヤ古代誌」の中で、イスラエル10支族は膨大な数になっていて、ユーフラテス川の彼方に広がっていると記述している。聖書外典の「第二エズラ書」は、イスラエル10支族は絶対神ヤハウェを信仰し、過去と同じ過ちを犯さないために、信仰の邪魔する者が存在しない土地を目指したと伝えている。

 「これらは、ヨシア王の時代に捕らえられ、その領土から連れ出された支族である。アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として連れて行き、河の向こうへ移した。こうして彼らは異国へ連れて行かれた。しかし彼らは異邦人の群れを離れ、かつて人のやからが住んだことのない更に遠い地方へ行こうと相談した。それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守るためであった。こうして彼らはユーフラテス川の狭い径を通って入って行った」(エズラ第4書13:39〜47)。

 これが「世界史最大の謎の1つ」とされ、「失われたイスラエル10支族」の追跡が関心事になっている。他方、ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、離散し、ユダヤ人と呼ばれるようになった。これを仮に古代ユダヤ人と命名する。セファルディムとも呼ばれる。古代ユダヤ人は有色人種である。

 なお、「ユダヤ人」という言葉は、紀元1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスによる造語だと言われている。


【近代ユダヤ人とは考】
 現在の白系ユダヤ人とは異なる。これを仮に近世ユダヤ人と命名する。近世ユダヤ人はアシュケナジムとも呼ばれ、8世紀頃、ハザール人がユダヤ教に改宗して、ユダヤ人を名乗ったことに由来するとの説がある。従って、日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、近世ユダヤ人との繫がりではなく、古代ユダヤ人とのものであり、本来は歴史学的興味以上のものにはならない。このことを確認しておく必要がある。

【秦氏考】

 秦氏(秦一族)は渡来ユダヤとする説がある。これを確認しておく。ケン・ジョセフの「日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編」(徳間書店)は次のように記している。

 秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰しアッシリア以降の中東の共通言語であるアラム語を話していたとされ、ユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。

 秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年ころから数回にわたって日本に渡来したとされ5世紀末には2万人程度になり、背が高く容貌が特徴的だったとされている。5世紀末に、秦酒公は日本酒技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされている。秦氏は絹技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕え、絹事業(ハタ織り)で財をなして豪族となり、皇極天皇(642~645)に関する日本書紀(720年成立)ではウズマサ(アラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)(インド北部ではユズマサ)に由来するともいわれる。)(ヘブライ語でヨシュア・メシア:選ばれた者ヨシュア、ギリシャ語でイエス・キリスト)を信仰する豪族として秦河勝という人物が登場する。さらに、秦大酒は748年に大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれる。

 秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万(19万ともいわれている・諸説あり)もの人々が日本に帰化したと伝えられている。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住んだのだが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったという。京都の太秦を本拠地としつつも、一部は大分の宇佐に住み、一説には710年ころに成立したともいわれるヤハダ神(YHWDH:ユダ/ユダヤ)を信仰し八幡神社を創設した。八幡神社は749年ころに急に勢力を持ち始め、大きな勢力となって奈良に上京し、このときはじめて神輿をもたらし、これが神輿の起源ともいわれ、八幡神社は全国に広まった。

 秦氏は平安京の造成に尽くしたとの説もあり、仏教勢力から逃れるため794年平安京遷都が行われ、その直後に京都で祇園祭が始まった。また、秦公伊呂具は稲荷神社(イナリ:JNRI/INRI:ユダヤの王・ナザレの・イシュ(イエス):当時の支配者ローマの公用語ラテン語でのキリストの別称)を創建したとされ、さらに元伊勢には秦氏の関与するものが多く、伊勢神宮の遷宮に関与したとの説もある。松尾大社は秦都理が創建したといわれる。京都の下鴨神社は秦一族の族長を記念して建てられたともいわれ、皇室の儀式を多数執り行ってきた。

  景教はユダヤ教に近いとされるがキリスト教であり、秦一族は南王国に由来するユダヤ人との見方が有力である(ただし、秦一族には舟の家紋を持つものが多く、十支族のゼブルン族が舟の紋章を持つこととの関係も指摘されている)。ウズマサ明神を祀る京都太秦の大酒神社は古くは大辟神社といい、大辟は中国ではダヴィといいダビデを意味するとされる。 また、秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)はユダヤ人あるいは天狗のように鼻が高い。

 なお、神社神道の起源に関して、そもそも神社の創建は、仏教の寺院に触発されたものと推測されており、神社の創建は仏教伝来(538年)以降とする説が有力であり(『神道概説』学生社)、最初の本格的仏教寺院は飛鳥寺(596年)といわれる。そして例えば最初の伊勢神宮の創建は674年とする説が多数説とされる。


【日本語とヘブライ語の相似考】

 川守田英二は『日本言語考古学』や『日本へブル詩歌の研究』で以下のような例を提示した(川守田は、ヨッド=I、アイン=Y、シン(sh)。=S という置き換え法を採っており、以下はこれによる。)

アッパレAPPR栄誉を誇る
アラ・マーYL・MHどうした理由・何?
アナタANT貴方
アナニヤシYNNI・ISYヤハウェは応えた・救護をもって
アノーAYNH私に応答させてください
アリガトウALI・GD私に(とって)・幸運です
オイAWI泣く
オニYNI私を苦しめるもの
オハリAHR終端
オヤAWIH禍いなるかな
グルGWR団結する
グルGWL回る
コラKRA自制せよ
サヨウナラSYIR・NYRHサーイル・ニアラー 悪魔は追い払われた
サラバSLMHシャロマー 平安あれ
スケベーSKBH肉欲的に寝る
ソーラ(ン)SWR注目せよ(「敵」も同じ綴り)
ダマレDM・ALI沈黙を守れ・私に(対して)
ドシンDSN肥満
ノコッタNKIT征服した
ハッケ・ヨイHKH・IHI投げうて・よろしく
ハイHIH生きている/居ます
ヒリHIL痛みを感じる
マズMH・ZH何?・これは
ヨイショIH・ISYヤハウェは・助ける
ワルYWL凶悪な者
 興味深い日本語とベトナム語の相似が指摘されている。確かタミル語との相似も云われていたと思う。
漢字音読み漢越音
古代こだいcổ đại(コーダイ)
注意ちゅういchú ý(チューイー)
留意りゅういlưu ý(ルウイー)
同意どういđồng ý(ドンイー)
悪意あくいác ý(アックイー)
意見いけんý kiến(イーキエン)
国歌こっかquốc ca(クオックカー)
愛国あいこくái quốc(アイクオック)
衣服いふくy phục(イーフック)
管理かんりquản lý(クアンリー)
記念きねんkỷ niệm(キーニエム)
楽観らっかんlạc quan(ラックアン)
観念かんねんquan niệm(クアンニエム)
天然てんねんthiên nhiên(ティエンニエン)
大路だいろđại lộ(ダイロ)
暗殺あんさつám sát(アムサット)
観察かんさつquan sát(クアンサット)
軍備ぐんびquân bị(クアンビ)
改革かいかくcải cách(カイカック)
感動かんどうcảm động(カムドン)
独断どくだんđộc đoán(ドックドアン)

【日ユ同祖論の系譜考】
 1690年、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが来日し、著書「日本誌」の中で、日本神話に登場する高天原はバビロニアにあったと主張した。

 1823年、ドイツ人のシーボルトが来日し、著書「日本」の中で、日本人の起源の候補の一つとして、中央アジアを挙げた。ただし、彼が日本人とイスラエルの失われた10支族との関わりについて、どこまで意識していたのかは不明である。

 明治時代、貿易商として来日したスコットランド人の宣教師ノーマン・マクラウド(Nicholas McLeod、マクレオッド)が、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、「日本人はユダヤの失われた十部族の末裔である」と述べ、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し体系化した。1875(明治8)年、著作「日本古代史の縮図」(The Epitome of The Ancient History of Japan、長崎日の出書房)を出版し、日ユ同祖論を唱えた。これを嚆矢とする。同書では、10支族の内の主要な部族が朝鮮半島を経由して日本へ行ったが、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったと記している。1901年、同書は、「ユダヤ大百科事典」のニューヨーク版にある失われた10支族の項目に引用されたと云う。

 マクラウドは続いて朝鮮に行き、十部族の内の主要な部族は朝鮮半島を経由して日本へ行ったが、ダン族など残りの部族はそのまま半島に留まったとの観点から「朝鮮ユダヤ同祖論」をぶちあげている。

 これにつき、「雲の柱・火の柱 アウトロー神学者の終末世相診断」の「注意!日ユ同祖論も策略の可能性あり!」は次のように記している。
 「日ユ同祖論と言う議論があります。旧約聖書の中でアッシリアに捕囚されたイスラエル王国の人々が日本にまでたどり着いたという仮説です。私は個人的にはこの仮説を信じています。しかし聖書と聖書の神以外の全てを疑ってみるという立場から、日ユ同祖論も疑ってみる必要があると思います。小石泉牧師著の「世界を動かすユダヤ教の秘密」には、日本に初めに日ユ同祖論を伝えた人物について以下のように記してあります(p.40)『もともと日本人ユダヤ人論、日ユ同祖論を最初に日本に持ち込んだのは、マクレオッドというイギリス人であった。彼はユダヤ人ではないと言うが、ユダヤ人でない人間が、そんな事に関心を持つだろうか。この男はその後、朝鮮に行って「朝鮮ユダヤ同祖論」をぶちあげたと言らのだからほとんどマニアだったのだろう(あるいは扇動者か)。もっとも韓国でも朝鮮民族はへブル民族のダン部族の末裔だと真面目に言うのを聞いたことがある。この他、アメリカインディアン、アソグロサクソンなど同祖論は世界中に多くある。実はイルミナティ、世界統一を計っている連中は自分たちの足掛かりの無い国では、この同祖論で足掛かりをつけるのだという。日本の場合、特に他の追随を許さない天皇制というシステムがあってこれを味方につける事は必然となる。その際、同祖論は有益である』」。
 日本人による同祖論は中田重冶(1870-1939)、佐伯好郎(1871-1965)、小谷部全一郎(1867-1941)らの明治期の宗教思想家たちによって広められていった。中田重冶は、聖書の「日いずる国」、「東」などの語はすべて日本の暗喩であると主張した。佐伯好郎は、「渡来民秦氏とはユダヤ人のことである」と唱えた。

 1930(昭和5)年、小谷部は「日本及び日本人の起源」を著し次のように述べている。
  「天の高天原にしても、漢字が伝わったとき、それ以前からあったことばに漢字をあてはめたことは当然なこと。それなのに国学者たちは、漢字からその意味を捕らえようとしているが、これがそもそもの誤りだ。アメ・タガマ・ハラとは、ノアの方舟伝承が伝わったことで、アララト山のあるアーメニヤ(アルメニヤ)タガーマ州を指しており、しかもそこにハランという町があった。この町はアブラハムの出身地として知られ、この伝承が漢字で形を変えて高天原として伝えられたのである。ノアがを方舟を出て神に礼拝を捧げたのが七月十七日。日本では毎年祇園祭がこの日に行われる。その祇園はエルサレムを指す「シオン」ではないか?神輿は方舟を記念するかのように水に入るし、鳩を象徴する鳥までが神輿につけられている。イスラエルでは失われた十部族が東に向かったといわれており、その中心的宗族はマナセで、それが勇敢なガド族とともに神宝を持って、はるか東の我が日本列島に渡来したのである。天皇を「ミカド」と呼ぶが、それはガドと似ている。ガドの七人の息子の一人は紛れもなく「ニッポン」(エッポン)だ。ユダヤ人は王も神器も失ったが、日本には王も神器もある。ソロモンはエルサレムに神殿を建てた。ソロモンとは平安の意味で、日本では平安宮が栄えていたではないか。このように神がダビデに誓約された王位継承は、なんと日本で保たれているのだ」(「日本・ユダヤ連合超大国」より)。

【日ユ同祖論者考】
 日ユ同祖論の代表的論者は次の通りである。
ノーマン・マクラウド
小谷部全一郎1868年1月17日 - 1941年3月12日
(慶応3年12月23日―(昭和16年))
日本の牧師(神学者)、教師、アイヌ研究家
佐伯好郎1871年9月15日) - 1965年6月26日
(明治4年8月1日―昭和40年)
日本の言語学者(英語学者、西洋古典学者、ローマ法学者、東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。
酒井勝軍 1874年3月15日 - 1940年7月6日)キリスト教伝道者
安江仙弘1888年1月12日 - 1950年8月14日日本陸軍の軍人 、最終階級は陸軍大佐。
山根キク1893年6月1日 - 1965年4月23日日本の考古学、歴史学 の女性ジャーナリスト。政治家。
手嶋郁郎1910年 - 1973年12月25日無教会派の流れを汲むキリスト教系宗教団体、キリストの幕屋の創始者
三浦一郎1914年6月6日 - 2006年3月13日日本の西洋史学者 、エッセイスト

【日ユ同祖論絡みの著書考】
 日ユ同祖論絡みの著書は次の通りである。

1727E・ケンペル「日本誌」
1875N・マックレオド「日本古代史の縮図」 長崎日の出書房
1908明治41佐伯好郎「太秦を論ず」
1911明治44木村鷹太郎「世界的研究に基づく日本太古史」
1928昭和3酒井勝軍「橄欖山上疑問の錦旗」、「天孫民族と神選民族」
1930昭和5小矢部全一郎「日本及び日本人の起源」
1933昭和8中田重治「聖書より見たる日本」中田重治全集刊行会 
1950昭和25三村三郎「世界の謎 日本とイスラエル」 八幡書店
1956昭和31川守田英二「日本ヘブル詩歌の研究」日本へブル詩歌出版委員会
1971昭和46手島郁郎「太秦ウズマサの神-八幡信仰とキリスト景教」(キリストの幕屋 創設者)東京キリスト聖書塾
1972昭和47川瀬勇「日本民族秘史」
1972武智時三郎 『日本学とイスラエル』 思兼書房 
1974与那城勇『琉球エデンの園物語』  
1975昭和50M・トケイヤー「ユダヤと日本・謎の古代史」、産業能率大学出版部
1977昭和52篠原央憲「天皇家とユダヤ人」
1979鹿島昇『倭人興亡史』新国民社
1982B・シロニー『天皇陛下の経済学』 光文社 
1982昭和57『失われた十部族の回復』  いのちのことば社
1982昭和57B・シロニー「天皇陛下の経済学」
1982篠原央憲『天皇家とユダヤ人』 光風社出版
1983J・アイデルバーグ『大和民族はユダヤ人だった』 たま出版
1984柞木田竜善『日本超古代史の謎に挑む』 風濤社
1984昭和59鹿島昂「シルクロードの天皇家」
1984昭和59J・アイデルバーグ「大和民族はユダヤ人だった」
1985J・アイデルバーグ『鰻と蛇ー大和民族はユダヤ人だったか』  
1985昭和60松井桃楼「消えたイスラエル十部族」 柏樹社 
1987昭和62小石豊「日本人とユダヤ人の連合を世界が恐れる理由」 光文社
1988曺世杖『日本民族とその運命分水嶺』  
1989淵江淳一『神道とイスラエル古代思想とキリスト教』 東京宗教研究所
1989平成元B・シロニー「ミレニアムからの警告」光文社 
1989渕江淳一「神道とイスラエル古代思想とキリスト道」
1990川守田英二『日本の中のユダヤ』 
1992川瀬勇『日本民族秘史』 山手書房新社 
1992水上涼『ユダヤ人と日本人の秘密』 日本文芸社
1992宇野正美『古代ユダヤは日本に封印された』 日本文芸社 
1993B・シロニー『ユダヤ人と日本人』 日本公法
1994淵江淳一『日本の秘義』 ライフネットワーク企画出版部 
1994平成6小石豊「日本・ユダヤ連合超大国」光文社 
1994宇野正美『古代ユダヤは日本で復活する』 日本文芸社 
1994佐藤熊三『日本民族に秘められた謎』 聖書を学ぶ会
1995久保有政『古代日本にイスラエル人がやってきた』 レムナント出版
1997ヴァンミーター美子『幻の橋』 
1997小石豊『古代ユダヤの大預言』  
1997宇野正美『古代ユダヤの刻印』    
1999M・トケイヤー『日本・ユダヤ封印の古代史』  
1999畠田秀生『古代ユダヤから21世紀の日本へ』  
1999ヴァンミーター美子『聖書に日本発見』  
1999ケニー・ジョセフ『日本の地蔵対ジィーザス』  
2000久保有政/ケン・ジョセフ共編『日本・ユダヤ封印の古代史②仏教・景教篇』  
2000ン・ジョセフ シニア&ジュニアケ 『十字架の国・日本』 
2004照屋 善彦、山口 栄鉄、 新川 右好『英宣教医ベッテルハイム―琉球伝道の九年間』
2005ラビ・エリヤフ・アビハイル失われたイスラエル10支族  
2006エリーエリヤフ・コーヘン『大使が書いた日本人とユダヤ人』  
2006与儀喜美江『沖縄の風習と聖書』 那覇出版社
2005畠田秀生クリスチャン雑誌「ハーザー」24回シリーズ
『日本文化の中のユダヤ性』
マルコーシュ出版
2007知念金徳『沖縄風習とキリスト教』 那覇出版社

【世界各地のユダヤ同祖論考】

 18世紀の人リチャード・ブラザーズは、イギリス王家はイエスの祖先、イギリス王はイスラエルの後継者で、イギリス人こそが、ユダヤの失われた10支族の末裔だと述べている。これがブリテイッシュ―イスラエルニズムつまり英ユ同祖論の始まりである。彼の死後、エドワード・ハインが「イギリス国民と失われたイスラエル10支族の47の同一点」(1874年)を発表。これに触発された感じで4年後、スコットランド人マクラウドが日ユ同祖論を発表した。次のように比較されている。

英ユ同祖論――イギリス人はエフライム族、アイルランド人はダン族、アメリカ人はマナセ族。
日ユ同祖論――日本人はエフライム族、朝鮮人はダン族

英ユ同祖論――イギリス王家はダビデ王の子孫。
日ユ同祖論――ダビデ王が垂仁天皇。

英ユ同祖論――イギリス王家の獅子とユニコーンはイスラエルのシンボル。
日ユ同祖論――狛犬は、獅子と一角獣だからイスラエルのシンボル。

英ユ同祖論――アーサー王伝説は旧約聖書にそっくり。
日ユ同祖論――古事記は旧約聖書にそっくり。
 (http://en.wikipedia.org/wiki/British_Israelism

 「英ユ同祖論」から始まり「日ユ同祖論」、「韓ユ同祖論」、エチオピア人同祖論、ネイティブアメリカインディアンとユダヤ同祖論、アメリカ黒人はユダヤ人の末裔であるという説も存在している。アングロサクソンとの同祖論もある。「ユダヤ・アラブ同祖論」もある。

 日本人はユダヤ人の末裔なのですか?」のアンサーを転載しておく。
 「世界中にユダヤ同祖論はあります。紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされユダヤ10部族の行方がわからなくなったことから、ユダヤ人の同朋探しがはじまりました。ちなみにユダヤ同祖論は中国、インド、中東、アフリカ、南米北米インディアンと世界各地に散らばっています。日ユ同祖論はもともと英国人のN・マックレオドが1875年に出版した英文書『日本古代史の縮図』で唱えたものだそうです。

 いまだにこのような幻想があるのはユダヤ側の『仲間がもっと多くいてほしい』という願いと日本人側の『より深いルーツへのあこがれ』があるとヘブライ大学の日本学者ベン・アミー・シロニー教授は分析しています。以上、『トンデモ本の世界』洋泉社を参考に書きました。この本で参考文献としてあげられていたのは『増補ユダヤ人論考』新泉社、『ユダヤを知る事典』東京堂出版、『ユダヤと日本人』日本公報、『歴史読本別冊 ユダヤ=フリーメーソン謎の国際機関』新人物往来社、『超古代史の謎に挑む』風濤社です。参考にしてみて下さい。ちなみに自分は嘘だと思っています。そもそも今のユダヤ人自体も出自が怪しいものですからね。それについてはこれを参考にしてみて下さい。イスラエルにいるユダヤ人と聖書のユダヤ人は関係ないと主張している本です。『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』(シュロモー・サンド著 出版:武田ランダムハウスジャパン)。黒海とカスピ海にあったハザール王国は8世紀から9世紀にかけてユダヤ教を国教とししました。しかし13世紀にモンゴルに滅ぼされ、この国の人々が各地に散ることになります。これが現在のユダヤ人だというのです。長文失礼しました」。

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