http://www.rendaico.jp/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/nithiyudosoronco/kaisetu.html
日ユ同祖論解説 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和/令和3).7.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「日ユ同祖論」につき検証考察する。 「ウィキペディア日ユ同祖論」、「日ユ同祖論の謎」その他を参照する。 日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)とは、日本人とユダヤ人は、共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説であり、理論的にはユダヤ人の祖日性、日本人の祖ユダヤ性の二種が考えられようが、専らユダヤ人の祖日性としての民族的同一性、古代イスラエルの全12支族のうち「失われた10支族」の一部が日本に渡来し、天皇制王朝を創建したという天皇制のルーツとしてのユダヤ性が問われる。 2009.5.22日 れんだいこ拝 |
【日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)考】 |
日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)は、日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説である。日ユ同祖論は、主に三つの立場がある。その1は、古代イスラエルの「失われた10支族」が日本に渡来したという説。その2は、古代イスラエルの「失われた10支族」のみならず12支族が日本に来たという説。その3は、古代日本人はユダヤ人の先祖であるという説。 |
【古代ユダヤ人の12支族とは考】 |
まず、「ユダヤの12支族」について確認しておく。旧約聖書によれば、紀元前2000年、古代バビロニア王国が隆盛を誇っていた時代、メソポタミア地方に一つの家族が住んでいた。家族の長の名はアブラムで、彼は広大なメソポタミアの平原を羊とともに移動しながら暮らしていた。そのため地元のメソポタミアの人々は、彼らのことを「移動する人々」という意味で「ハビル人」と呼んだ。後に、彼らはユーフラテス川地域からパレスチナ地方、エジプトへ移動したため、「川の対岸からやって来た」という意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれる。 アブラムは後に神からの勅命を受け、アブラムをアブラハムに改名する。彼はイシュマエルとイサクという2人の息子をもうけ、イシュマエルは「アラブ民族の父」となる。一方、イサクはエサウとヤコブという双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変えたが、彼こそが『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」となる。 このヤコブ(イスラエル)は4人の妻に12人の息子を生ませ、生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。父ヤコブの死後、それぞれ皆一族の長となり、ルベン族、シメオン族……という支族が誕生した。ヤコブの12人の息子等を祖先とするのが、イスラエル12支族であるとされている。 ただし、レビ族だけは祭祀を司る専門職であるため、通常、イスラエル12支族には数えない。レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とする。 父ヤコブに最も可愛がられていた11男ヨセフは、一番下の弟ベニヤミンを除いた兄たちの嫉妬をかい、エジプトに売られてしまう。ところが、当時世界中を襲った大飢饉から逃れるため、ヤコブと息子たちの一族が全ての財産と家畜を伴いエジプトに赴くと、そこで彼らを迎えたのは、ファラオに次ぐ地位であるエジプト首相に就いていた11男ヨセフだった。 ヨセフは兄弟たちを許し、イスラエル一族はエジプトの地で子孫を増やして大いに栄えた。だがヨセフの死後、ヒクソス人が駆逐されると、ヘブライの勢力を恐れたファラオが、彼らを奴隷の境遇に突き落としてしまった。こうして、イスラエル12支族はエジプトで奴隷状態にされた。 紀元前1000年頃、預言者サムエルはサウルという英雄を王にして、統一国家を作ろうとした。だが、サウルは傲慢さゆえに失脚。代わって羊飼いの青年ダビデが大王として選任される。ダビデは混乱していた全イスラエル民族を完全に統一し、ここに歴史に名を残す「イスラエル統一王国」が誕生した。 この「イスラエル統一王国」は、ダビデの息子ソロモンの時代に頂点を極めた。イスラエル史上最大の栄華を誇ったソロモン王は、それまでの移動式の幕屋を堅固な固定式の幕屋にするため、贅沢な材料を大量に使用して巨大な神殿を建設した。世に言う「ソロモン第一神殿」である。 「イスラエル統一王国」が国家として隆盛を誇る反面、民は重税と強制労働に大きな不満を抱いていた。それがソロモン王の死後、噴出し、ソロモンの息子レハベアムが即位すると、エラフイム族のヤラベアムが反乱を開始した。戦火は王国内に拡大し、内乱へと発展した。 紀元前925年、「イスラエル統一王国」が大分裂した。ヤラベアムを支持するルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、エフライム族、マナセ族の10支族、そしてレビ族の一部が、サマリアを首都とする「北イスラエル王国(北朝)」の建国を宣言した。 一方、ソロモンの息子を正統と考えるユダ族、ベニヤミン族の2支族、そしてレビ族の一部は、エルサレムを首都とする「南ユダ王国(南朝)」の建国を宣言した。 イスラエル統一王国の分裂は、単に政治的な面にとどまらず、宗教的な面においても分裂を引き起こし。南ユダ王国は、以前と同じようにソロモン神殿で「絶対神ヤハウェ」を信仰していた。それに対して北イスラエル王国は、黄金の子牛像を作り、これを礼拝、偶像崇拝に陥ってしまった。これは「ヤロベアムの罪」と呼ばれている。 北イスラエル王国の偶像崇拝は、日ごとに激化し、パレスチナ地方の異教の神々をも礼拝し始めた。そして、ついには本来の古代ユダヤ教とは全く異質な偶像崇拝信仰と化した。神は北イスラエル王国にエリヤ、エリシャ、ホセアといった預言者を送り、民族の霊的回復を図ったが、この預言者たちの必死の呼びかけも空しく、もはや信仰的回復は不可能となっていた。 紀元前722年、メソポタミア地方に勢力を急速に拡大してきたアッシリア帝国が、パレスチナ地方に侵入し、北イスラエル王国は必死の防戦にも拘らずあっけなく滅亡してしまった。しかもイスラエル10支族はそのままアッシリア帝国へ連行され捕囚( ニネベ捕囚)にされた。アッシリア王サルゴンの年代記によれば、「サマリア(北イスラエル王国の首都)の貴族階級27,290人をアッシリアに連行した……」とある。 北イスラエル王国滅亡を目の当たりにした南ユダ王国のユダ族中心のイスラエル2支族たちは「ダビデ王統」を守り続けた。が、北朝滅亡から135年後の紀元前587年、 新バビロニア王国によって滅亡させられた。南朝のイスラエル2支族はバビロンへと捕囚され、「ソロモン神殿」は破壊された。ユダ族の人々は国も神殿も王も失った。 紀元前538年の新バビロニア王国の滅亡と、その後のペルシア帝国の寛容な宗教政策によって、南朝のイスラエル2支族はパレスチナ地方へ帰ることができた。彼らはソロモン神殿を再建し、徹底した契約厳守の律法主義に基づく「新ユダヤ教」を作り、現在のユダヤ人へと至る"目に見える歴史"をたどった。 南朝のイスラエル2支族が故郷の地に帰還した時、既にアッシリア帝国は滅亡しており、そこへ捕囚されていたイスラエル10支族はパレスチナ地方へ帰ってきてしかるべきであった。しかし、彼らは帰って来なかった。もごく一部が帰還し、大部分が帰って来なかった。しかも捕囚されたアッシリア帝国の地にも、彼らの姿は無かった。イスラエル10支族は、いつの間にか歴史の表舞台から消えた。紀元1世紀の著名な歴史家フラビウス・ヨセフスは、「ユダヤ古代誌」の中で、イスラエル10支族は膨大な数になっていて、ユーフラテス川の彼方に広がっていると記述している。聖書外典の「第二エズラ書」は、イスラエル10支族は絶対神ヤハウェを信仰し、過去と同じ過ちを犯さないために、信仰の邪魔する者が存在しない土地を目指したと伝えている。 「これらは、ヨシア王の時代に捕らえられ、その領土から連れ出された支族である。アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として連れて行き、河の向こうへ移した。こうして彼らは異国へ連れて行かれた。しかし彼らは異邦人の群れを離れ、かつて人のやからが住んだことのない更に遠い地方へ行こうと相談した。それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守るためであった。こうして彼らはユーフラテス川の狭い径を通って入って行った」(エズラ第4書13:39〜47)。 これが「世界史最大の謎の1つ」とされ、「失われたイスラエル10支族」の追跡が関心事になっている。他方、ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、離散し、ユダヤ人と呼ばれるようになった。これを仮に古代ユダヤ人と命名する。セファルディムとも呼ばれる。古代ユダヤ人は有色人種である。 なお、「ユダヤ人」という言葉は、紀元1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスによる造語だと言われている。 |
【近代ユダヤ人とは考】 |
現在の白系ユダヤ人とは異なる。これを仮に近世ユダヤ人と命名する。近世ユダヤ人はアシュケナジムとも呼ばれ、8世紀頃、ハザール人がユダヤ教に改宗して、ユダヤ人を名乗ったことに由来するとの説がある。従って、日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、近世ユダヤ人との繫がりではなく、古代ユダヤ人とのものであり、本来は歴史学的興味以上のものにはならない。このことを確認しておく必要がある。 |
【秦氏考】 | |
秦氏(秦一族)は渡来ユダヤとする説がある。これを確認しておく。ケン・ジョセフの「日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編」(徳間書店)は次のように記している。
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【日本語とヘブライ語の相似考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
川守田英二は『日本言語考古学』や『日本へブル詩歌の研究』で以下のような例を提示した(川守田は、ヨッド=I、アイン=Y、シン(sh)。=S という置き換え法を採っており、以下はこれによる。)
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興味深い日本語とベトナム語の相似が指摘されている。確かタミル語との相似も云われていたと思う。
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【日ユ同祖論の系譜考】 | |
1690年、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが来日し、著書「日本誌」の中で、日本神話に登場する高天原はバビロニアにあったと主張した。 1823年、ドイツ人のシーボルトが来日し、著書「日本」の中で、日本人の起源の候補の一つとして、中央アジアを挙げた。ただし、彼が日本人とイスラエルの失われた10支族との関わりについて、どこまで意識していたのかは不明である。 明治時代、貿易商として来日したスコットランド人の宣教師ノーマン・マクラウド(Nicholas McLeod、マクレオッド)が、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、「日本人はユダヤの失われた十部族の末裔である」と述べ、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し体系化した。1875(明治8)年、著作「日本古代史の縮図」(The Epitome of The Ancient History of Japan、長崎日の出書房)を出版し、日ユ同祖論を唱えた。これを嚆矢とする。同書では、10支族の内の主要な部族が朝鮮半島を経由して日本へ行ったが、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったと記している。1901年、同書は、「ユダヤ大百科事典」のニューヨーク版にある失われた10支族の項目に引用されたと云う。 マクラウドは続いて朝鮮に行き、十部族の内の主要な部族は朝鮮半島を経由して日本へ行ったが、ダン族など残りの部族はそのまま半島に留まったとの観点から「朝鮮ユダヤ同祖論」をぶちあげている。 これにつき、「雲の柱・火の柱 アウトロー神学者の終末世相診断」の「注意!日ユ同祖論も策略の可能性あり!」は次のように記している。
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日本人による同祖論は中田重冶(1870-1939)、佐伯好郎(1871-1965)、小谷部全一郎(1867-1941)らの明治期の宗教思想家たちによって広められていった。中田重冶は、聖書の「日いずる国」、「東」などの語はすべて日本の暗喩であると主張した。佐伯好郎は、「渡来民秦氏とはユダヤ人のことである」と唱えた。 1930(昭和5)年、小谷部は「日本及び日本人の起源」を著し次のように述べている。
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【日ユ同祖論者考】 | |||||||||||||||||||||||||||
日ユ同祖論の代表的論者は次の通りである。
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【日ユ同祖論絡みの著書考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日ユ同祖論絡みの著書は次の通りである。
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【世界各地のユダヤ同祖論考】 | ||
18世紀の人リチャード・ブラザーズは、イギリス王家はイエスの祖先、イギリス王はイスラエルの後継者で、イギリス人こそが、ユダヤの失われた10支族の末裔だと述べている。これがブリテイッシュ―イスラエルニズムつまり英ユ同祖論の始まりである。彼の死後、エドワード・ハインが「イギリス国民と失われたイスラエル10支族の47の同一点」(1874年)を発表。これに触発された感じで4年後、スコットランド人マクラウドが日ユ同祖論を発表した。次のように比較されている。
「英ユ同祖論」から始まり「日ユ同祖論」、「韓ユ同祖論」、エチオピア人同祖論、ネイティブアメリカインディアンとユダヤ同祖論、アメリカ黒人はユダヤ人の末裔であるという説も存在している。アングロサクソンとの同祖論もある。「ユダヤ・アラブ同祖論」もある。 「日本人はユダヤ人の末裔なのですか?」のアンサーを転載しておく。
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