2024年6月9日日曜日

世界遺産に隠された聖徳太子の正体と平家の野望 | ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

世界遺産に隠された聖徳太子の正体と平家の野望 | ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

世界遺産に隠された聖徳太子の正体と平家の野望 | ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

世界遺産・厳島神社、3000もの島が点在する瀬戸内海において、古来神が宿る島とされた厳島に建てられた壮麗な社殿。
平安時代の神殿造りの粋を集めた建築美、潮の満ち引きを計算して建てられた緻密な構造、そしてその姿は自然と調和することで、訪れる者に驚きと感動を与えている。

厳島神社は1996年に人類の創造的才能を表す傑作など4つの項目で評価され、世界遺産に登録された。
満潮になると海の上に浮かんでいるように、床の高さが計算されている。
厳島神社は、東回廊、中央部、西回廊からなり、東回廊を通り中央部から出口に至る西回廊へと進むつくりになっている。
檜皮葺の屋根は独特の曲線美を描いている。
通常神社や寺は東や南を向いているが、なぜか厳島神社は北西を向いている。
その謎は聖徳太子が握っていた・・・
火焼前(ひたさき)、正面に見えるのは高さ16mの大鳥居。
楠木の巨木で作られている。
流されないのは海底に柱が打ち込まれているのではなく、鳥居の頭を重くしているからだという。

火焼前の奥に高舞台、祓殿、拝殿、幣殿、その奥に本殿がある。
厳島神社の美しさは海と山の絶妙なバランスから成り立っている。

見る角度によって異なる姿を見せる社殿、さらに季節の移ろいを投影するかのように、いくつもの表情を秘めている。
厳島神社の美しさは、無限の広がりを見せている。
春、満開の桜が朱色の社殿を包み込む。
夏、夜空を彩る花火が、厳島神社のシルエットを幻想的に浮かび上がらせる。
まさに一期一会の美しさ。
本殿を抜け、西回廊へ。

この厳島神社に魅せられたのは平清盛だけではない。
当時の天皇や貴族も参拝に訪れている。
平家が滅んだ後もその信仰は途絶えることなく豊臣秀吉もあつく庇護したという。
いったい厳島神社に何があるというのか。

御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の3女神。

厳島神社は平清盛が建てたのか?
今の社殿の形は清盛が建てたが、お宮としてはそれより古くからあった。
593年にお宮は建てられ、推古天皇、聖徳太子の時代、もう一柱御祭神が祀られていた。

厳島神社を抜け、隣り合わせにある大願寺、神仏分離が行われた明治時代までは、厳島神社に含まれていた。
御本尊は弁財天、元々厳島神社の本殿の中に祀られていた。
弁財天は女性の仏、日本三大弁財天の1つに数えられている。
現在は秘仏とされ、見ることはできない。

そのルーツは古代ペルシャの女神アナーヒター、ゾロアスター教の海の女神。
ゾロアスター教とは、紀元前1400年~1200年頃に預言者ゾロアスターによって始められ、日本では拝火教という名で知られる。
西暦200年ごろに繁栄したサーサーン朝ペルシャでは国教となり、全盛期を迎える。
その特徴は水、火を神聖なものと崇めること。
イランに残るゾロアスター教の神殿は、必ず川海湖など、水の近くに建てられている。

厳島神社の高舞台で行われる舞楽、抜頭、厳島神社の神職に伝わる一子相伝の舞。
1年に1回、元日の日の出から、およそ3時間にわたり舞われる。
ところがその面は、異様に鼻が高く、明らかに異国の顔。
さらにそのストーリーが胡人、つまりペルシャ人が猛獣に父を噛み殺され、復讐をするというもの。

平清盛が造営した厳島神社とゾロアスター教が、同じ海の女神を祀っている。
そしてペルシャを舞台にした舞、これはいったい何を意味しているのか?
古代オリエント文明研究家・岡田明憲「平家は西のほうの人たち、すなわちペルシャ人、ササーン朝ペルシャの末裔ではないか。」
実は世界遺産、奈良の興福寺、大乗院寺社造時期に、こんな1文が残されている。(『大乗院寺社雑事記』)
゛外来人が営む倉が、京都三条坊門にある。
彼等は外国との貿易などをしているが、そのことごとくは平の姓を名乗っている。"
謎を解くカギは舞楽にあった。
現在の社殿の形になった時に、平清盛が大阪の四天王寺の舞楽を伝えたといわれている。

四天王寺は厳島神社と同じ、西暦593年に建立された。
この寺の地下には竜が住んでいるという伝説がある。
30000坪の敷地、昔はその10倍あったという。
執事・南谷惠敬「浪速は今でこそ西の方は街並みだが、元々はすぐそばまで海だった。
その海はずっと瀬戸内海に続いていた。」
四天王寺も海の近くに建てられていたのだ。
厳島神社の舞楽は元は四天王寺から伝わった?
「聖霊会という法要、聖徳太子の御霊を慰めるため、聖徳太子の命日に行う法要がある。」
この寺を聖徳太子は、叔母の推古天皇が即位した西暦593年に摂政に就任、十七条憲法や冠位十二階を定め、中央集権国家を目指した。
昔の記録には、必ず抜頭だけは舞っていた。
なぜペルシャの話を舞うのかはわからないという。
秦河勝の子孫が舞楽を行っている。
秦氏は京都を本拠地にした豪族。
秦河勝は交易で得た富で、大和王朝では重要な地位につき、聖徳太子の厚い信頼を得ていた。
古代からの書物をまとめた『群書類従』によれば、秦氏は渡来人であることがわかる。

京都、秦氏が治めた太秦、太秦の秦は秦氏の秦。
木嶋坐天照御霊神社、通称「蚕の社」、秦氏が創建したといわれる。
元々は水の神をまつったことが始まりといわれる。
宮司・神服一夫「秦氏を象徴する鳥居がある。
三柱鳥居、真ん中に石が組まれて御幣が立っている。
本殿の主祭神が鎮座する場所。
本来は周辺が池で、池の中に主祭神が鎮座する磐座が建っている。」
日本で唯一という三柱鳥居、神が鎮座するという石の山を高さ5mの鳥居が囲む。
水が涸れる前は池の中にそびえたっていた。
「常に湧水がこの辺りを一面埋め尽くしていた。
ゾロアスター教の拝火神殿に合致してる。
もしかしたら、秦氏はペルシャ人だったかもしれない。」

聖徳太子の側近、秦氏はペルシャ人で、だから厳島神社の舞・抜頭はペルシャの物語なのか?
そして秦氏が疫病を鎮めるために始めたというのが、2009年に世界無形文化遺産に認定された祇園祭。

祇園祭山鉾連合会元理事長・深見茂「今のペルシャ・イランのみならずその近辺一帯の文化が日本に流入して祇園祭の根底にある思想を形成したのではないか。」
確かに山鉾にはペルシャを思わせる絵柄が・・・

月山、羽黒山、湯殿山からなる出羽三山。
多くの修験者が訪れる。
ここを開いたのが聖徳太子の従兄弟・蜂子皇子と伝えられているのだが、その顔がなんと、肌は黒く、鼻が高く、大きな目、まさに異国の風貌。

従兄弟である聖徳太子の肖像画とは似ても似つかない。
よく知られている聖徳太子の顔、最近の学説では、中国の敦煌にある壁画を真似て描かれたといわれている。
つまり聖徳太子の本当の顔は謎に包まれているのだ。

太子最古の記録『上宮聖徳法王帝説』によると、太子の母親の名前は穴穂部間人(あなほべのはしひと)とある。
大阪外国語大学名誉教授・井本英一「゛はし"というのはどういう経緯で入ってきたかというと、゛は"というのは5・6世紀の漢音゛パル"。
゛し"は゛シーグ"。
ペルシャ人のことを゛パルシーグ"、゛はし"は外来語でペルシャ人に間違いない。」
穴穂部間人の間人とは、ペルシャ人のこと。
「祇園祭の゛ぎおん"はペルシャ語の魂を表す゛ギヤーン"。
゛ヤーン"という音は゛ヨン"になって゛ギヨン"になって゛ギオン"になる、これは間違いない。」
祇園祭の語源もペルシャ語。
聖徳太子の側近、そして母親までもペルシャ人だったのだ。
聖徳太子はペルシャ人だったという可能性がある。

そして太子が政治を行った現在の奈良県高市郡、飛鳥宮水落遺跡。
6世紀終わりに初めて都が飛鳥へ移ってきた。
推古天皇が宮を置く、これが飛鳥時代の始まり。
推古天皇が即位した593年から遷都されるまでおよそ100年間日本の都だった飛鳥宮。
聖徳太子が政治を行ったこの都の最大の特徴が、縦横に張り巡らした水道管から豊富な水を供給し、池や噴水を多く備えた水の都だった。
ゾロアスター教の国サーサーン朝ペルシャの首都ペルセポリスと同じだった。
さらにペルセポリスの特徴が、都市全体が北西に傾いていること。
古代オリエント文明研究家・岡田明憲「北西方向は神聖な方位の1つ、冬至の太陽は南東方向に出る。
南東方向にでる冬至の日の出を正面から見るためには北西に自分が位置しなければならない。」
ゾロアスター教では、冬至の太陽は春にむけて復活するという意味を持つ。
厳島神社も北西に向いているので、冬至の太陽が神社の真後ろに昇る。
水、舞楽、北西の方向、そして京都奈良で導き出されたのは、聖徳太子、そして平家の人々がペルシャ人だった可能性。
平清盛が厳島神社を造営したのは、同族である聖徳太子の繁栄にあやかるためだったのかもしれない。

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