新・景教のたどった道(60)景教を日本に紹介した人々(4)桑原隲蔵 川口一彦
日本に景教を紹介した人物に、東洋史学者の桑原隲蔵(じつぞう、1870〜1931)がいます。筆者の蔵書の中から、桑原隲蔵著の『考史遊記』(岩波書店)と『東洋史説苑』(弘文堂)の表紙を複写掲載し、『考史遊記』552ページ以降からの解説により、彼について紹介します。岩波書店から『桑原隲蔵全集』が刊行されています。
1. 彼は福井県敦賀市の鳥の子屋という製紙業者に生まれ、歴史が好きなことから東京帝國大学の漢学科で学び、大学院では東洋史を学びました。東京高等師範学校教授の時に、2年間中国清国に行き、そこで景教碑を見たことや碑にまつわる事柄について論じています。帰国後は京都帝國大学で東洋史を講じました。
2. 『考史遊記』の80ページ以降に、景教碑に関して記しています。彼は1907(明治40)年9月26日、西安に滞在し、金勝寺に出向いて原碑を見ています。そして、どうして景教碑が仏寺の金勝寺・崇聖寺にあるかを説いています。1623あるいは25年に金勝寺境内の土の中から発見された景教碑は、唐の781年に景教会堂があった長安の義寧坊大秦寺に建てられ、845年の武宗皇帝の迫害で碑は土に埋められ、翌年に仏寺の崇聖寺がこの地に移転し、『長安県志』にそのことが書かれていることを紹介しています。明の時代には崇仁寺と改称しその後、金勝寺と名付けています。
私たちの「日本景教研究会」のメンバーが実際に西安に行き、金勝寺が大秦寺に存在していたことの距離を実測し、大秦寺がこの金勝寺にあったことを発表しました。
3. 『考史遊記』の446、447ページに、碑と碑の拓本一幅とが写真として掲載されていますので、それを載せました。この写真を見ますと、碑の側面に彫られた碑亭(碑を覆う屋根のこと)の建設が1859年で、しかしそれがすでに壊れてなくなっていることが分かり、野ざらし状態だったことがうかがえます。
4. 『東洋史説苑』の277ページ以降から抜粋して説明します。明代に発見された景教碑の拓本を最初に作成したのが1625年で、それをラテン語に訳したのがトリゴオールらしく、やがて幾人かが拓本したり訳したりして、特にセメドは1628年に西安で景教碑を見、41年以降漢文から多国語に訳して碑の存在を広めたとあります。しかしその後、碑についての真偽のうわさが広まり、桑原は碑が唐代に造られたことや金勝寺に設置された真実を9項目で擁護しています。
5. 京都大学総合博物館には、フロムが寄贈した石膏で造った景教模造碑が設置されています。フロムは桑原と親交があり、それは13個制作した中の一つです。フロムはデンマーク人で、1907年に清国西安に出掛けて景教碑を海外に持ち帰ろうと企画しましたが、当局に見つかり、結局同等の原碑そっくりの模刻碑を高額で造り、ローマのバチカンに買い手を通じて移送させた人物です。桑原は、フロムの模刻碑の海外運搬移送と原碑の碑林博物館への移送とを目撃した中の一人でした。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
『桑原隲蔵全集』(岩波書店、1968年)
『考史遊記』(岩波書店、2001年)
『東洋史説苑』(弘文堂、1927年)
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