2. アミシャブによる10部族の調査結果との比較
3. ノアの洪水の要素による年代修正と古代日本人のDNA
4. 弥生人以降の変化と秦氏について
5. 遺伝メカニズムの考察
6. まとめと今後の方向性
(参考文献)
1. Y染色体DNAによる日本人のルーツ
ミトコンドリアDNA分析(母系遺伝)では、日本人を構成する系統は大体2種類に分けられ、しかもその一つはアジア系ではなく、むしろアフリカ系に近い、アジア系とは非常に異なるDNAが含まれていることが明らかになった。(Y染色体の遺伝子がほとんど機能を持たない形式的な"しるし"であるのに対し、常・X染色体の遺伝子は、人種の形質に大きな影響を与える。)( → ミトコンドリアDNAの系統樹 )
一方、父系遺伝するY遺伝子のDNAには、さらに明らかな大きな特徴があることが判明している。旧石器時代(?)にシベリア経由で北海道に来たC3系統(中央・北アジア系)、縄文時代(?)に華北・朝鮮半島経由で来たD2系統、弥生時代に同じく華北・朝鮮半島経由で来たO2b、O3系統(東アジア系)が、北海道(アイヌ)から沖縄島までの日本列島のヒト集団を形成したと考えられる。
日本列島のDNAは、このD、O系統でほとんどを占め、D2の割合は半分弱にも達する。D2は日本列島にまんべんなく分布し、特にアイヌ人には9割近くも集積している。(本土の山間部にもやや多い。) 大陸からの弥生人が流入した地点の九州では若干少ない。沖縄島では若干多いが、それよりも南の八重山諸島にはD2は無い。
このD2系統には、特徴的な変異:「YAP」(ヤップ)とよばれる挿入部分(300塩基)をもち、これは D、E系統のみに含まれ他には存在しない。E系統は、北・西アフリカ、ナイル川沿い、地中海沿岸などのアフリカ・中東に広く分布し、ナイジェリアにその祖型(DE*)があるという報告がある。そこからかなり昔に分岐した D系統は、現在、日本とチベットのみに著しい集積が見られ、他の地域では非常に少ないか全く無い。
東アジアで比較的多い朝鮮でさえ2~4%と少ないということは、絶滅されたというよりは、その中心集団が日本列島に移動しきったためと考えられる。
また、イスラエルの失われた10部族の調査機関、『アミシャブ』によると、このチベット近辺には、シンルン族(メナシュ(=マナセ)族)、カレン族、チャンミン族という10部族、特に、マナセ族の宗教・伝統を今もなお継承している民族が存在していることが明らかにされている。また、アミシャブは日本について、文化的考察から、日本人と失われた10支族の間に何らかのつながりがあることを否定できないとしている。
唯一、特別な動きをしたヨセフの記録は、創世記41:50-52に書かれてある。ヨセフの妻 エジプトのオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテからそのままエフライム、マナセに入ったが、母系遺伝するミトコンドリアDNAの分析ではよく説明していると見ることができた。
しかし、Y染色体の遺伝子は単純に父系遺伝するので、YAP他のD系統の特徴が、あたかも先祖の父親がハム系のように見えるのである。これは、5.で考察する。
マナセ族の末裔の居住地(by.アミシャブ):
2. アミシャブによる10部族の調査結果との比較
失われたイスラエル10部族は、今から約2700年前に、アッシリア捕囚の民となって以来、歴史から忽然と消えてしまった。しかし、その痕跡から、エルサレムには、『アミシャブ』(1975年設立、著者ラビ・アビハイル氏はその幹部)という名の、世界に離散しているイスラエルの10部族を帰還させるために調査する特務機関がある。
アミシャブが認める、"失われた10支族"とは、
1) ユダヤ教を信じていること、
2) ユダヤ教を信じていない場合は、ユダヤ独特の習慣(割礼、安息日(サバト)など)を維持しているかどうか、になり、
その他、身体的特徴、服装、語り継がれてきた伝承、などがチェックポイントとなる。
こうして、アフガニスタン、パキスタン、カシミール、中国、ミャンマーなど各地に、10部族の末裔が現在も住んでいることが明らかになったと報告している。
* 10支族とは、ルベン(レアの子)、シメオン(レアの子)、レビ(レアの子)、ユダ(レアの子)、ダン(ビルハの子)、ナフタリ(ビルハの子)、ガド(ジルパの子)、アシェル(ジルパの子)、イッサカル(レアの子)、ゼブルン(レアの子)、ヨセフ(ラケルの子)、ベニヤミン(ラケルの子)であったが、モーセの時代にレビ族が祭司一族として除外され、代わりにヨセフ族がマナセ族とエフライム族に分けられた。
** レビ族には、コーヘン(祭司職、アロンの子孫)の特徴あるDNA配列がY染色体上にあり、アフリカ南部のレンバ族(外見上は完全な黒人、割礼、安息日、豚肉とカバの肉は食べない)にはこれがあることが発見された。(1997年、スコレスキー・イスラエル工科大、ハマー・アリゾナ大) それは、9つの部位においてある特定の遺伝子の突然変異がコーヘンでは非常に多く起こっているが、普通のユダヤ人(ユダ族+ベニヤミン族の一部)の間ではそれほど一般的でなく、ユダヤ人でない集団の間では稀であり、アシュケナージ系コーヘンで45%、スファラディー系コーヘンで56%、一般のユダヤ人では全体の3~5%であることが分かった。
レビ族の大部分は、南ユダと北イスラエルの分裂の時、ヤロブアムから職を解かれ、南ユダへ移動した。(Ⅱ歴11:13-15) したがって、このDNA配列によっては、イスラエル10部族の手がかりを知ることはできない。また、その後、ダン族はエチオピアへ移動し、ベト・イスラエルとなった。最終的には、レビ族が一つの族に数えられ、ダン族が除かれ、12部族となる。(黙7:4-8、これは、9節の異邦人クリスチャンと区別されている。)
アッシリア捕囚(BC721)の時、一部は、ペルシア北部(現在のクルディスタン)のメディアの諸都市に捕囚され、代わりにクト人がイスラエルに移入させられた。残りは「ゴザン川、ハボル、ヘラ、ハラ」(Ⅱ列17、18、Ⅰ歴5)であるが、この「ゴザン川」とは、ユーフラテス川支流であり、いずれも現在のシリア近辺の都市である。(→ アフガニスタンの イスラエル10部族の行方 2019 11 13 改)
また、「シニムの地」(イザ49:12、43:5)とは、東の国々(パキスタン、カシミール、チベット、中国、(日本)など)を意味し、終わりの時にこれらの地から帰還することが預言されている。
(1) シンルン族(ブネイ・メナシェ、メナシュ族):
シンルン族は人口100~200万人で、インド-ビルマ国境の山岳付近(インド側はミゾラム州、マニプール州、ナガランド州、アッサム州、トリプラ州、ビルマ側はチン州のティディム地域)に住んでいる。彼らの伝承によれば、中国からタイとビルマを通って逃亡してきたのであり、途中で持っていた聖典の巻物も奪われてしまったという。シンルン族は、ビルマでは「ルシ(=10の支族)」と呼ばれ、歌や祈りのことばには「マナセ」という名前が出てくる。これは、彼らがマナセ族の末裔であることを物語っており、シンルン族はユダヤ教に回帰し、イスラエルに帰還することを望んでいる。(すでに一部はイスラエルに移住し、ユダヤ教に改宗している。)
* マナセ族は、BC457年に再びペルシャに捕囚され、ペルシャ王ダイレオスとクセルクセス(アハシュエロス)の支配下に置かれた。BC331年にアレクサンドロス大王がペルシャ、アフガニスタン、インドを征服すると、10支族はアフガニスタンなどに離散し、そのころから彼らは偶像崇拝者になった。(その後、イスラム教の支配により強制的にイスラム教に改宗させられたが、長老や祭司はトーラーを隠し持っていたといわれる。)
一部は中国中央部まで行き、BC231年に現在の中国の開封(河南省)にユダヤ人居留区を作った。中国においてユダヤ人は奴隷同然の扱いだったので、同化を嫌い山岳地帯へ"洞人"や"山人"として洞窟生活を送った人々もいた。(陸のシルクロード時代が廃れる18cまでは、開封はユダヤ人交易商人で栄えた) 18世紀にはこの中国からの難民はインドのマニプル州とミゾラム州へ移動した。
(2) カレン族:
カレン族は人口600~800万人で、ビルマに住んでいる。この地域にユダヤ教やキリスト教が伝来する以前から聖書に関する知識を有し、シンルン族と同様に中国から逃亡する際、聖典の巻物を失うなどの伝承を持っている。彼らの信仰する神は、「ユィワ(Yiwa)(すなわち、ヤーウエ(YHWH)」)」と呼ばれる。カレン族には"白い人が再び聖なる巻物を持って尋ねてくる"という預言が伝承されていたが、1810年アドニラム・ジャドソンがビルマ宣教を行い、カレン族は彼が示した聖書を見てこれが失われた巻物であると信じ、すべてバプテスト派キリスト教に改宗した。改宗者はビルマのエリート層を形成した。
(3) 羌岷(チャンミン)族:
チャンミン族は人口約25万人で、中国四川省の中国-チベット国境のミンコウ付近に住んでいる。彼らは一神教を信仰し、部分的に戒律に従い、ユダヤ起源の伝承も多い。第一神殿の時代の犠牲を捧げる習慣がある。ただし、セム系の外見的な特徴はほとんど残っていない。
* このチベット系民族の羌(タングート、蔵人)は、384年(-417)後秦を建国し、その末裔が朝鮮半島から「秦氏」として日本にやって来た説がある。すると、秦氏はマナセ族のイスラエルという可能性がある。( → 4.(2) 秦氏について )
(4) パタン族(パシュトゥン人):
パタン族の人口は約1500万人で、大部分はアフガニスタン(800万人)とパキスタン(1000万人、国境付近の200万人は遊牧民)に住んでいるが、一部はイラン、インドなどにもいる。外見上ユダヤ人に似ていて、アミシャブもこのパタン族について特に重要視している。アフガニスタンにおけるパタン人の居住地域はアフガニスタンの国土の半分にも及ぶ。
パタン族は、ルベン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフの息子など、失われた支族の部族名を持っている。(ラバニ族=ルベン、シンワリ族=シメオン、レヴァニ族=レビ(レヴィ)、ダフタニ族=ナフタリ、ジャジ族=ガド、アシュリ族=アシェル、ユスフ・ザイ族=ヨセフ、アフィリディ族=エフライム)
また、彼らの伝承によれば、彼ら自身が「バニ・イスラエル(イスラエルの子ら)」であるという。パタン族は、イスラム教徒(スンニ派)に改宗しているが、旧約聖書を持ち、生後8日目の割礼(cf.イスラムは8日目ではない)、フリンジ(ふさ)のついて衣類、サバト(安息日)、ヘブライ語の名前(イスラエル、サムエル、ガブリエルなど)、食物の清浄・不浄の区別、門柱に血を塗る、贖罪の山羊などの、典型的なユダヤの慣習を持っている。
またその言語にもヘブライ語起因の単語が数多く含まれている。
(* 同時多発テロの首謀者、サウジアラビアの大富豪の息子ビンラディンをかくまったアフガニスタンの支配者層"タリバン"を構成した主要民族が、このパタン人であり、06年になって再びイスラム原理主義者らによるテロが始まっている。)
(5) カシミール族:
カシミール族の人口は500~700万人で、インド北部とインド-アフガニスタン国境に住んでいる。地名(ピスガ、ネボ山、ベイト・ペオールなど)、人名、宗派名などはイスラエルにあったものがそのまま用いられている。彼らは外見上ユダヤ人と酷似し、言語、習慣も共通点が多い。
(6) エチオピアのベト・イスラエル:
エチオピアのベト・イスラエルは、王国が分裂した時ダン族が自ら捕囚となってエチオピアに向かった民であり、ユダヤ教の"賢人"もカバラに通じた者もいなく、成文化されたトーラーだけを守って暮らしている。(ミカ書の「足の萎えた者」(ミカ4:6)とは、口伝のトーラーをもたない彼らのことを言う) エチオピアのユダヤ人はイスラエルへの移民を開始し、すでに8万人に達している。
* 彼らのY染色体のDNAには、普通のアフリカ人と変らないほど、A、E系統が入っている。(A3b2:40%、E3:50%、J2:5%、K2:5%、検体数22人)
(7) 日本:
日本-イスラエル同祖論(親戚論)を支持してきたユダヤ人の研究者(ラビ・マーヴィン・トケイヤー、ヨセフ・アイデルバーグなど)は多い。アミシャブのラビ・アビハイル氏は、短期間日本に滞在して日本古来の文化や習慣を調査した(滞在中、三笠宮殿下とも会談した)だけであるが、彼の結論として、
"これらの証拠は充分に根拠のあるものであり、日本人と失われた10支族の間に何らかのつながりがあることは否定できないであろう"
、と書いている。
彼が挙げた日本の中のユダヤ性の特徴は、(* 全体の一部に過ぎないが)
・ 割礼(三笠宮殿下の友人のモラウカ・ダ・ソーカ氏によれば、皇室・天皇の子息は生後8日目に割礼を施される)
・ 月経の規定、 ・ 清浄と不浄の規定、 ・ 葬式と埋葬、 ・ 服喪、 ・ 日本の暦(太陰暦)、 ・ 仮庵祭
・ フラクテリ(経札)と山伏のトキン、 ・ フリンジ(房)、 ・ 初子の贖罪、 ・ 血族による復讐、 ・ 両親の尊重、
などを挙げている。
(8) その他、アミシャブでは、ユダの離散ユダヤ人について、クルディスタンのベニヤミン族の末裔、インド・ケララのクナン族、スペインとポルトガルのマラーノ、ペルーのブネイ・モシェ、ウガンダのバユダヤ、メキシコのデレホ・レイェルシャライムなどを挙げている。
今後、アミシャブは、遺伝子調査中心のイスラエルの末裔探しをする予定になっている。エフライムを名乗る民はかなりいるが、ごく一部アフガニスタンのアフィリディー族を除いて、Y染色体DNAがD系統でないマナセ族、エフライム族は、世界のどこにいるか現在まで確認されていない。
3. ノアの洪水の要素による年代修正 と 古代日本人のDNA
(1) ノアの洪水の要素による年代修正と縄文時代:
炭素14法による年代測定は、きわめて微量の放射性炭素14(現在の濃度:C14/C12=1.2×10-12)の測定なので、測定に高度な技術が要る上に、測定誤差がかなり大きい。(他の放射性物質では、測定値として全く使用できないほど誤差が大きい) そして何よりも、炭素14の量が大昔から変わらず一定であることを前提としている。
しかし、多くの証拠によって、広範囲な大洪水(ノアの洪水)による地球規模の激変期が存在したことが明らかになっている。 この大変化によって、大気にあった「大いなる水の層」が消滅して現在のような大気圏構造になり、飽和曲線的に炭素14の量が増加し現在の比率になったと考えられる。(炭素14の量は現在も増加中で、今から約30000年で飽和するといわれる)
すなわち、創造からノアの洪水までの上空には、厚い水蒸気の層があって、1次宇宙線に起因する炭素14の生産量がはるかに少なく、C14/C12の値は現在よりもかなり低い割合で一定していたと考えられる。したがって、古い遺物については、実際よりもはるかに長い年月が経ったように測定されるのである。たとえば、世界中にあるノアの洪水の時(4000年前)に閉じ込められた化石は、約7万年前と測定されるのである。
(→ 地層年代とノアの洪水)
この初期値は、いくつかの試算によって現在の5~15%程度と推定され、グラフにすると次のようである。
すると、縄文前期(6000~5000年前)といわれる年代は、(初期値・曲線の設定によっては)神武天皇が即位したといわれる頃(BC660年頃)と重なってしまうのである!(C14の半減期5730年≒6000年より現在の半分、そこからC14/C12飽和曲線に戻して交わる所)
縄文草創期(1万年前、たとえば横須賀・夏島貝塚のカキ殻、木炭による測定:9400年、考古学的には合わない)。
縄文前期(6000-5000年前、貝塚、土偶、丸木舟、装飾品・勾玉、海面上昇、気温の上昇)には10万の人がいたと言われ、文化の中心は東日本であった。
縄文中期(5000~4000年前、最盛期26万人、抜歯、気温低下始まる)
縄文後期(4000~3000年前、16万人に減少、交易漁労民、製塩、ストーンサークル)
縄文晩期(3000-2300年前、気温2℃低下、海面低下(隆起)(魚介類死滅)により7-8万人に減少、東北:銛漁、北九州・近畿:縄文水田)
縄文時代のすべてを通してBC1500-BC200年ほどであろう。
草創期: 夏島貝塚(神奈川) 前期: 南堀貝塚(神奈川)、竪穴住居(奈良時代まで確認)
中期: 姥山貝塚(東京) 後期: 大森貝塚(東京)、加曽利貝塚(千葉、国内最大の貝塚)
晩期: 亀ヶ岡遺跡(青森、亀ヶ岡式土器)、板付遺跡(福岡、最古の農村跡)、菜畑遺跡(佐賀、水田跡)
このときまでに、東アジア系の人々(北海道は北アジア系)が農耕や鉄器、文字などの文化が無いまま日本列島の隅々にまで住んでいた。彼らは、縄文遺跡から良く知られているように、竪穴式住居に住み、石器を使用し、漁労・狩猟、ドングリなどの植物食採取、粟・ヒエの栽培・雑穀の酒、文字なし、抜歯の習慣などの生活で、平均寿命は20歳くらいだった。遺骨の様子から、弥生人と違って、あまり部族間の争いはなかったようであるが、栄養失調と病気が見られる。
したがって、単純に、次の可能性が考えられる。BC721年アッシリア捕囚となった北イスラエル10部族の民は、「アッシリア帝国内」(Ⅰ列15、17)や「ユーフラテスの彼方」(Ⅰ列14)、また、遠くアフガニスタン北部(「ゴザン川」(Ⅰ歴5))に連行され、一部はその地に残ったが、東方憧憬・太陽神崇拝(エゼ8:16)の強いエフライムの民は、ニネヴェ滅亡(BC612)のすでに50年前には東のはずれの日本列島(「シニムの地(?)」(イザ49:12))にやってきて、短期間に突然定住したことになる。"天孫降臨"の神話と系図はきわめて旧約聖書的(=アブラハム、イサク、ヤコブの系図と同じ)である。また、神武天皇が、船やラバ、ラクダに乗ってやって来た絵が存在する。
このように、中期~後期の縄文人は、イスラエルの捕囚以降という比較的新しい時代に生活していた。(可能性は少ないが)もし、神武天皇が実在していたならば、この時期に、他の東アジア系と共に日本にやってきて日本に移り住んだはずである。
(2) 古代人のDNA分析の特徴:
古代人のDNA分析は、保存の度合いによって可能なものでもかなり難しく、ミトコンドリアDNAがやっとであり、小さな断片に壊れているならば得られる情報は少ない。また、Y遺伝子の情報は聞かれない。
* シベリアのマンモス(1999年発掘、3万5千年前=ノアの洪水の時:4000年前、凍土層-15~-20℃)のDNAは、全体の5分の1しか残っていなかったのでクローンは作れなかった。因みに、人間のクローン(弥生人のクローンなど)を作ることは"クローン法"(2001年6月施行)によって禁止され、違反すると10年以下の懲役または1000万円以下の罰金になる。
宝来氏による、縄文人のミトコンドリアDNAの初期の報告による南方系説(インドネシア)は例外的(3検体)であったが、後に、宝来氏、篠田氏らが縄文人の個体数を50人以上に増して調べた結果、縄文人と同じミトコンドリアDNAハプロタイプを持つ現在の人々は東アジアなどに広く分布(韓国、カザフ、ウイグル、ブリヤート・モンゴル、インド、ヨーロッパ、中国・台湾の漢族、アフリカなど)していて、しかも、弥生人DNAもこの地理的分布パターンとあまり違わないという結果であった。
* 中妻遺跡は埼玉県白岡町にあり、縄文中期~弥生時代までの長い時間の遺跡が残っている。
** 4の、17個体については、NHKが"日本人のルーツはブリヤート人である"と誤報した。
つまり、(測定個体数は多くはなく、遺跡の地域も偏っているが、)縄文時代・弥生時代初期の時点では、この結果から単純に、日本の"先住民"としてはほとんど東アジア系の人しかいなかったことになる。
すなわち、Y染色体DNAのO系統(東アジア系)が本土日本と沖縄に、C3系統(北アジア系)が北海道に、それぞれ先住民として存在し、D2系統が増えだしたのはそれ以降ということになる。(あるいは、居ても居住地が偏っていたり、人口が少なかったのかもしれない。)
弥生時代~古墳時代にかけては、支配階級にあったD2系統の民が一夫多妻制のため急増し、ミトコンドリアDNA(母系)とY染色体DNA(父系)のアフリカ・中東系の比率がアンバランスになったと考えられる。
また、チベット系マナセ族の末裔と考えられる「秦氏」一族についても、4~5世紀の古墳時代に移住してきたので、このD2を日本にもたらした影響は大きいと考えられる。
いずれにしても、これらの古代集団は、現代日本人と異なり、東アジア系ばかりであり、アフリカ・中東系などはほとんど存在していない。
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