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以下断片的感想です。
阿波が皇室発祥の地というのは総合的に正しいだろう。ただしそれは阿波が栄えていたからとか古かったからというわけではない。
当時栄えていた場所ほど戦火の舞台になっただろうからだ。
古代イスラエル系の渡来人は争いを避けて四国の山上、中洲に住み着いたのだろう。特に山上は宗教的にも意義があった。古代ギリシアなどにもそれは見られる。
結局阿波の宗教システム、婚姻形式が採用されたということだ。
902年の記録として阿波から男が駆り出されていたとある。そしてこれは以前から続いていたらしい。古墳時代から近畿に阿波から進出していたことは氏姓、土器から確かだ。
日本書紀を精読すれば藤原京が二つあったのも確かと思われる。
笹田孝至説は納得できる。
善入寺島について言えば、平安時代に善入寺島の地形は変化していたと江戸時代の平田篤胤系の学者が記載しているし、考古学的にもそれは確かだ。ただし中洲がなかったとも言い切れない。善入寺島近辺には、見上げる側にも見下ろす側(種穂山)にも忌部神社があるのだ。
九州開発は景行天皇以降だろう。
ただしそうした阿波以外の伝承を否定するのは難しい。
文化人類学的に並置し、判断してもらうしかない。
理性的に判断すれば阿波起源は揺るがないが…
なにしろ1300年以上騙され続けてきたのだ。定説をひっくり返すのは大変だが、とはいえ子供たちの代まで騙そうとするのかと考えると黙ってもいられない。
九州、畿内説の人には一度徳島に来てもらいたい。式内社だけでも巡ればある程度のことはわかる。
岩雲花香
西拝師県旧跡録
吉野川
https://freeassociations2020.blogspot.com/2024/01/blog-post_32.html @
https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/2006500629405666731
【メンバーシップ限定対談 御殿人 三木信夫ご当主】 https://youtu.be/pdht1WhV5ps?si=Rd_A1SNmxdgIobo1 @YouTubeより
https://youtu.be/pdht1WhV5ps?si=Rd_A1SNmxdgIobo1
43:50
参考
西拝師県旧跡録
《此の西拝師なる梅林に沿ふ梅川内を横流せる吉野川は元は西拝師の岩津西の切戸より北に向ふて西谷に流れ王子川を過ぎ梅川内を経て善地堀に至り、今の東林村川久保を通過し吉野川に流出せしが、光孝帝の御代に当る仁和二年八月に大洪水対岸なる麻植郡川田の木綿麻山の麓大に決潰して木綿麻川に流れ込み漸次流域を南移し、堀河帝の承徳二年八月に又も洪水ありて種穂の山角を壊き去り大なる川淵を生じ、津昨見命の子孫なる米倉の一族の神穂倉及び忌部伊字川神社とも流失し終に水流は東する事となれり。其時に川淵の奇石怪岩を現出し風景うるはしく旅客相踵ぎ諸船輻湊するの繁地と変ぜり。故に其北岸を初め岩浜と称し後に岩津と名づけ、其南岸を船戸と呼ぶに至れり。…》
岩雲花香翁 書誌情報 : 著者 岩雲花香翁顕彰会 編 出版者 岩雲花香翁顕彰会 1958
以下『吉野川』毎日新聞社1960年24~5頁 より
吉野川の流路
阿波郡阿波町岩津はもと四国山地の地続きで旧川田村に属し、結晶片岩系の南岸の地質である。これが南岸から北岸に移ったのは、いまから約八六〇年前のこと。ここに生まれた国学者岩雲花香の手記である西拝師県旧跡録 (元西林村の古記録) はこの付近の河道についてこう説明している。
「吉野川はもと岩津西の切戸から北に向って西谷を流れ、 王子川を過ぎ、梅川内を経て善地堀に至り、いまの東林川久保を通って吉野川に流れていた。 光孝帝の御代にあたる仁和二年(八八六) 八月に大洪水があって、麻植郡川田の木綿麻山(ゆうまやま、高越山の別名)のふもとが大いに決壊して木綿麻川(川田川)に流れ込み、だんだん流れが南に移った。 堀河帝の承徳二年(一〇九八)にまた洪水があって種穂の山間をくだき去って大きな川渕をつくり、ついに水流は東することになった。そのとき川渕には奇岩怪石ができて風景がうるわしく、諸船の集まる繁栄地となった。 そこ北岸をはじめ岩浜とよんだが、のち岩津と名づけ、南岸を船戸とよぶようになった」
両資料ともに国会図書館デジタルコレクションから
『岩雲花香翁』1958
《此の西拝師なる梅林に沿ふ梅川内を横流せる吉野川は元は西拝師の岩津西の切戸より北に向ふて西谷に流れ王子川を過ぎ梅川内を経て善地堀に至り、今の東林村川久保を通過し吉野川に流出せしが、光孝帝の御代に当る仁和二年八月に大洪水対岸なる麻植郡川田の木綿麻山の麓大に決潰して木綿麻川に流れ込み漸次流域を南移し、堀河帝の承徳二年八月に又も洪水ありて種穂の山角を壊き去り大なる川淵を生じ、津昨見命の子孫なる米倉の一族の神穂倉及び忌部伊字川神社とも流失し終に水流は東する事となれり。其時に川淵の奇石怪岩を現出し風景うるはしく旅客相踵ぎ諸船輻湊するの繁地と変ぜり。故に其北岸を初め岩浜と称し後に岩津と名づけ、其南岸を船戸と呼ぶに至れり。…》
岩雲花香翁 書誌情報 : 著者 岩雲花香翁顕彰会 編 出版者 岩雲花香翁顕彰会 出版年月日 1958
https://dl.ndl.go.jp/pid/2983563/1/20
『吉野川』1960年24~5頁
書誌情報:出版者毎日新聞社出版年月日1960
吉野川の流路
阿波郡阿波町岩津はもと四国山地の地続きで旧川田村に属し、結晶片岩系の南岸の地質である。これが南岸から北岸に移ったのは、いまから約八六〇年前のこと。ここに生まれた国学者岩雲花香の手記である西拝師県旧跡録 (元西林村の古記録) はこの付近の河道についてこう説明している。
「吉野川はもと岩津西の切戸から北に向って西谷を流れ、 王子川を過ぎ、梅川内を経て善地堀に至り、いまの東林川久保を通って吉野川に流れていた。 光孝帝の御代にあたる仁和二年(八八六) 八月に大洪水があって、麻植郡川田の木綿麻山(ゆうまやま、高越山の別名)のふもとが大いに決壊して木綿麻川(川田川)に流れ込み、だんだん流れが南に移った。 堀河帝の承徳二年(一〇九八)にまた洪水があって種穂の山間をくだき去って大きな川渕をつくり、ついに水流は東することになった。そのとき川渕には奇岩怪石ができて風景がうるわしく、諸船の集まる繁栄地となった。 そこ北岸をはじめ岩浜とよんだが、のち岩津と名づけ、南岸を船戸とよぶようになった」
https://dl.ndl.go.jp/pid/3006126/1/23
岩雲花香
岩雲 花香(いわくも はなか、1792年(寛政4年3月11日) - 1869年(明治2年)4月25日)は、江戸時代後期の国学者。歌人。阿波国出身。
生涯
1792年(寛政4年3月11日)に阿波国(現在の徳島県阿波市阿波町岩津)で生まれる。17才のときの母の死を機に全国を周遊し、多くの国学者や歌人を歴訪した。1830年(文政13年9月21日)には江戸で平田篤胤に入門した。篤胤のもとでは神代文字について研究し、尊王攘夷を主張した[1]。
1853年(嘉永5年11月)の新嘗祭の夜半、姉小路家の案内で孝明天皇に拝謁した。著書に「西拝師県旧跡禄」、「詞つかひ合鏡」(柳沢信郷と共著)、「やをかの日記」、歌集「花鏡」などがある。1862年(文久2年)、生まれ故郷である阿波市阿波町岩津(岩津橋付近)に神代文字の歌碑を建てた[1]。神代文字の歌碑は全国で唯一である[2]。門徒に尾形長栄、二宮将胤、野口多三郎などがいる[1]。
1869年(明治2年)4月25日、没する。享年78歳[1]。
脚注
- ^ a b c d 藤井喬『阿波人物誌』(原田印刷出版、1973年)
- 阿波町教育委員会「鯰の歌碑 説明版」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2983563/1/52
岩雲花香翁 書誌情報 : 著者 岩雲花香翁顕彰会 編 出版者 岩雲花香翁顕彰会 出版年月日 1958
吉野川
書誌情報:出版者毎日新聞社出版年月日1960
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572480/1/43
おえぐんし
https://dl.ndl.go.jp/pid/2983563/1/20
10
り早雲氏に改む
とあれば飛雲氏も亦其縁により名づけしなるべし。
而して岩雲氏は忌部系に多く襲用せらる例に則とり雲の字に所在地岩津の岩を冠らし岩雲を氏とし下記の如く真人の代に
始めて岩津の神主となるを以て其名も真人と賜りしとの口碑あり。蓋し真人といへるは天武帝の十三年に諸氏の族を改め
て八色の姓を作りし時、其第一に真人の爵を置きし事は普ねく国史に記する所なり、以来家門の由緒を詮考上表して是等
の爵位を授与せられしを以って或は岩雲氏と共に真人をも授与せられしならんか、而も岩雲真人が神職となりし事は「西
拝師県旧跡録」に拠れば、今を距る約七百五十年前の正治元年に岩雲真人が、長白羽命の裔を以て岩津の八幡宮及び杉尾
大明神の神主となり、神領百貫の地を与へられし記事あり、 是ぞ岩雲花香先生の祖にして全く勤王を以て起ち、勤王を以
て神に奉ぜし跡歴然たり。即ち左に摘要すべし。
《此の西拝師なる梅林に沿ふ梅川内を横流せる吉野川は元は西拝師の岩津西の切戸より北に向ふて西谷に流れ王子川を過
梅川内を経て善地堀に至り、今の東林村川久保を通過し吉野川に流出せしが、光孝帝の御代に当る仁和二年八月に大
洪水
対岸なる麻植郡川田の木綿麻山の麓大に決潰して木綿麻川に流れ込み漸次流域を南移し、堀河帝の承徳二年
八月に又も洪水ありて種穂の山角を壊き去り大なる川淵を生じ、津昨見命の子孫なる米倉の一族の神穂倉及び忌部伊字
川神社とも流失し終に水流は東する事となれり。其時に川淵の奇石怪岩を現出し風景うるはしく旅客相踵ぎ諸船輻湊す
るの繁地と変ぜり。故に其北岸を初め岩浜と称し後に岩津と名づけ、其南岸を船戸と呼ぶに至れり。其後、後鳥羽上皇
の北条氏を滅さんとする内意あるに当り正治元年の春、阿波宰相の中将信成郷は宮方の武運長久を祈誓し梅川内の八幡
宮を此の岩津に遷し、別に大巳貴命の大社を造営し杉尾大明神と斎き、岩雲真人を以て其神主とし神領百貫の地を与へ
られ、同地の松岡山真光寺を両社法楽の僧となし寺領三十貫の地を寄附せらる。此の外に逆賊撲滅の祈願として神社仏
閣を再興せられしもの少からず。云々》
当時、後鳥羽天皇は鎌倉幕府の専横を慨して討伐せんとし先づ位を土御門帝に譲り頼朝の薨ずるに及んで其機に乗ぜんと
せは実に岩雲真人が神主となりし正治元年の事なりき。又近刊の「徳島県阿波郡誌」 歴史の部にも左の如く記せり。
《岩津の淵は光孝天皇仁和二年八月及び承徳二年八月大洪水の際、種穂山角崩壊して成りしものなるが其際巨巌の流失せ
ず淵の中に留りしもの岩津渡頭の奇勝として人口に膾炙す(中略)彼の有名なる岩雲花香のなせる古代文字の一大石碑
は岩津埠頭に立ち頗る有名なり。 八幡神社。祭神足仲彦天皇、誉田別天皇、息長足皇后にして正治元年春阿波宰相中将
信成武運長久の御願により梅川内の八幡宮を今の所に遷宮す、今の社殿は元文二年八月の再興なりかけるの
杉尾神社。祭神大己貴命(同書地理の部に梅川内の八幡宮を岩津に移し、又同時に大己貴命の神徳を仰ぎ大社を造り杉
尾大明神と崇め奉祀云々とあり) 享保十三年六月の再興、社頭より吉野川を望む景色よし、信成郷の建立なり。
真光寺 信成郷真光寺を建立し八幡神社、 杉尾神社の法楽僧とす。》
とありて、全く前掲の記事と符節を合す如かりき。
... 承徳二年の大洪水の際させらる。中通、小島、岩津等の岩石は晶質剝岩にして吉野川南岸のも同じければ此等の口碑に根の存するを知るべし、而し第章地形地質二五こじま別所に巨樟あり、太古三島村の三條磧に水流れ居りし頃は此巨樟の根に舟を繋ぎしっ寅の年 .
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