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平清盛と聖徳太子のルーツを探って
3月末、テレビ東京系列で「世界遺産"三大迷宮"ミステリー」という、かなりショッキングな、興味津々の番組がありました。
厳島神社から始まる問題提起。厳島神社は水を利用した建物であり、北西向きに建てられており、舞楽「抜頭」はペルシャの踊りであることから謎解きが始まります。
祭神がゾロアスター教からのものだった・・・。そこから平清盛と聖徳太子の関係を探っていくと、聖徳太子のブレーン・秦河勝が登場し、彼らの先祖が同じペルシャ人だというところにたどり着きます。
その根拠になるものを京都、奈良、はては出羽まで足を延ばしつぶさに検証していきます。
★ 厳島神社の高舞台での舞楽「抜頭(ばとう)」はペルシャ人の物語であること。
★ 厳島神社は593年から始まる。
★ 厳島神社の隣にある大願寺は、神仏分離令により、厳島神社から弁財天を持ってきて祭神としている。
★ 推古天皇の飛鳥宮は593年から始まり、聖徳太子は摂政であった。
★ 聖徳太子が活躍した飛鳥の宮は、水の回路をめぐらした水の都であった。
★ 厳島の大願寺と大阪・四天王寺(593年創建 聖徳太子の御霊を慰めるために創建)には、弁財天(ペルシャに起源)、抜頭という共通のキーワードがあり、ペルシャとのつながりがみえてくる。
★ 太秦(うずまさ)にある渡来人、秦氏のゆかりの神社「木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)」には三本足の鳥居の中に祀る神がゾロアスター教と合致する。それは水の中に建てられていた。
★ 秦氏は、山城を拠点にして織物や交易で莫大な富を築く。秦河勝は聖徳太子の有能な側近として歴史にも名を残す。
★ 祇園祭の山鉾の懸装がペルシ絨毯。代表者も、ペルシャ一帯の文化は祭りの思想に大きな影響を与えたと証言。
★ 聖徳太子の母親、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の「はしひと」は「ペルシャ人」という意味。
★ 出羽三山神社を開山したのは、聖徳太子のいとこ、蜂子王子で、肖像画は顔は真っ黒で、鼻が異様に高く異相の人である。見慣れた聖徳太子の肖像画は、中国・莫高窟の壁画を真似て書かれたものだという。
★ 厳島神社の社殿とペルシャのペルセポリスの宮殿向きは、同じ北西向き。冬至の南東からの日の出は春に向けての復活であり、それを北西から拝する事はとても重要なこと。
以上のことを整理すると、聖徳太子も平清盛も秦河勝も先祖はペルシャ人で、ゾロアスター教の影響を受けているということでした。
平清盛は、先祖をペルシャ人に持つ聖徳太子にあやかるために、水の中に、北西向きに厳島神社を建てたのではないか…というのが番組の結論でした。
いくつかのキーワードが共通だからという理由でこの説を導くのは、かなり危険を伴いますが、見ている方はなぜかわくわくしてしまうのです。
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ここに出てきた「秦河勝」で思い出したのが、司馬遼太郎の短編小説です。たしか秦一族の先祖は大陸から渡来した集団で、帰化人として日本歴史上に重要な役割を果たし名を残した・・・だったような。
急に、もう一度読んでみたい!秦氏の先祖を確認したい!という欲求がわきてきました。
しかし、その文庫本はもう処分してしまっていて、本のタイトルすら忘れてしまいました。
そこで、検索、検索、検索して探しだしたのが『 兜率天の巡礼 』という短編のタイトルです。
それは「ペルシャの幻術師」(文春文庫)に収められていることがわかりました。ラッキー!
すぐにパソコンで購入手続き。なんとリユースで48円で出品されているのです。プラス送料250円で、数日後に手にすることができました。帯までついていて、大切に本を扱っていた前のオーナーの人柄がしのばれます。
*-∞-*-∞ 司馬遼太郎 『 兜率天の巡礼 』 ∞-*-∞-*
うだつの上がらない主人公の大学教授は、ある日、長く病床にあった愛妻を失くしてしまいます。従順なその妻が亡くなる数日前に突然に発狂した事からこの物語が始まります。
ある講演会がもとで大学を追われた主人公は、妻のすざましいまでの発狂の原因をさぐるべく、そのルーツを求めて調査を始めると、意外なことが次々にわかってきたのでした。
妻の本家の当主から、「自分たち秦氏の祖先は、千数百年前にコンスタンチノープルを追われた景教徒のユダヤ人ではなかったか」という衝撃的な話を聞きます。
秦氏がはるばる日本にやってきた経緯と古代キリスト教の一派の景教の東遷について知るべく、異常な執念を持って文献を読みあさるうちに、時空を超えて5世紀のコンスタンチノープルに飛び、教授はネストリウスになり替わります。
5世紀、東ローマ帝国のコンスタンチノープルで宗教会議で敗れたネストリウス派は、キリスト教界から永久に追放されます。コンスタンチノープル、ペルシャ、インドと、遠く東へ流亡の旅に出て再び故郷に戻ることは許されませんでした。
東へ東へと逃げ延びながら、200年かかって唐にたどりついたのが7世紀の中ごろ。時の太宗に滞在を許され、キリスト教を「景教」と称し、そこに「大秦寺」を建立するに至ります。( この寺を詠んだ漢詩も残っており、史実であることを証明しています)
しかし9世紀の中ごろ、武宗が過酷で大規模な廃仏毀釈を行なった際に、大秦寺も巻き込まれた形で寺院は破壊され、景教徒たちは永久に歴史の文献から姿を消すことになります。残されたネストリウス派の人々はまたしても「孤絶の天涯」をさまようことになります。
これとは別に、景教徒の日本渡来は唐よりもはるかに古く、コンスタンチノープルを東へ逃れ、ペルシャを経て、インドへ入り、インド東岸を離れて中国沿岸地帯をつたいつつ赤穂の比奈の浦に流亡してきたのが秦氏の先祖になっています。
彼らは、秦姓名乗り、そこに大闢( だいびゃく )神社を建て、境内にイスラエルの井戸「いすらい井戸」を掘ります。「大闢」はダビデの漢語訳で、後には大避神社とよばれるようになります。ちなみに大秦国とは中国表記のローマ帝国のこと。
『日本書紀』には、秦氏の先祖は秦の始皇帝の末裔 功満王の子 弓月ノ君が、山東120県の民を率いて日本に帰化したと明記されていますが、秦氏末裔の当主は、英のゴルドン女史の立てた説によりユダヤ人説を信じています。
秦姓は、「大秦(ローマ帝国)」の秦であり、秦の始皇帝の末裔ではないということです。
秦一族の先祖、普洞王は河内からたけのうち峠を越えてやがて大和に達し、飛鳥のおおきみ(天皇)を訪ねます。これまでの流浪の地と違って平和で穏やかな風土の大和を気に入り、女性を娶りその子孫にあたるのが秦川勝ということになっています。ようやく信ずべき形で世に現れたのが6世紀のこと。コンスタンチノープルを追放されてから100年を経ていました。
秦一族は拠点を播磨から京都・太秦に移し、養蚕の技術を使って織物で財をなし、川勝は聖徳太子を強力にバックアップし、歴史にもそのに名を残すほどになります。
秦氏が京都太秦に建立した大闢の社(大酒神社)に、三本足の鳥居や「やすらい井戸」にユダヤ人の痕跡を残しています。河勝が建立した広隆寺は、聖徳太子の別墅として献上されました。
旅の最後に、教授が「兜率天の曼荼羅」の壁画を求めてたどり着いたのが、嵯峨野の上品蓮台院弥勒菩薩堂。秦一族の何者かが建てたという弥勒堂に、その壁画がありました。
薄暗い堂の中で、ろうそくの明かりを頼りに剥げ落ちたしみだらけの壁画の中に妻に似た顔を発見し、自分も壁画の中に入ろうとするような錯乱状態の中で意識を失います。そしてろうそくの火が燃え移り堂は炎上してしまいます。それは昭和22年8月31日。焼け跡から一体の焼死体が発見されたというところで、この物語は終わります。
『 日本の景教の衰微の原因は穏やかで豊饒で美しい山河の日本の風土にある。インドでもシリアでも、肌骨を刺す自然の中にこそすぐれた神は生まれる。自然が人間の肉体をいじめないところに神は育たない。
大和には、個性の弱い、温和な、妥協性に富んだ生活の神々がいて、微笑をもって彼らを迎え入れたため、やがて景教徒はユダヤの神を祀ることを忘れさせた。
100年を経たずして唯一神エホバの神は、日本の神々と同格になり、それぞれ名を変えて各地の神社に素性も知られずに祀られることになった 』というのを景教消滅の経緯としています。
テレビでは聖徳太子の祖先もペルシャ人ということになっていますが、この小説では、秦氏との関係は『仏陀の徒であった摂政の太子は秦氏が異教の神をいだいていることを暗に知りつつも陽に口を緘していたようであった。秦氏の感謝はかくて政治資金に現れるのである。それにもまして、秦の長者川勝は、この魅力ある怜悧な青年と語れる快感をできるだけ多く持ちたかったのも本心であろう』 としています。
テレビでは秦氏の先祖はゾロアスター教、この本では景教。共通しているのは、「ペルシャから来た」「ペルシャを経由してきた」ということです。まだまだ謎の部分があるところに興味が尽きません。
史実と想像と幻想を隙がないほどがっしりと組み合わせて、読者を引き込んでしまう巧みさに司馬氏の作品の魅力があります。
最近では聖徳太子はいなかったとか、藤原氏の時代に記録を抹殺されたとかいろいろな説もありますが、まだ十分な記録が残っていない古代には、そこはかとないロマンをかきたてる余白の部分がたくさんあり、作家の数だけロマンあふれる小説ができそうです。
それに、日本人のルーツは?自分がどこからきてどこへ行くのか?と、やはり自分の足元は気になるものです。
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