2024年6月1日土曜日

法然上人絵伝

法然上人絵伝 屏風

 
 鎌倉時代以降に多く流布した「法然上人絵伝」は、昭和版として再版を熱望され、兵庫県無量光寺の住職小川龍彦の発願と、柳宗悦と、小川の畏友・望月信亨の協力により、芹沢銈介に依頼されました。
昭和十二年、望月がそのいきさつを「工藝」に綴った一文の中に以下のようにあります。
「芹澤さんは謙遜な人柄の方です。宗祖の巌にして寛な人格と実に通うところがあるのです。それに絵本の手法が型なのでいよいよ個人的なものが消えて了って、無心の作が得られるのです。私は真に宗祖を伝する人と技を得たと思いました。」

 芹沢による「絵伝」は「御影」三図と共に、昭和13年11月、その試作が日本民藝館に展覧され、高い評価を得ました。
 「絵伝」全巻六十四図は昭和十六年三月、和綴本百部が日本民藝館より刊行されようとしましたが、戦争による混乱により、何とか製本頒布した四十部も焼失したり、紛失したりしました。
 昭和二十九年、印刷の縮小版が刊行され、さらに昭和五十二年、芹沢自身による手彩色による再版本として、雁皮紙本限定百部が刊行されました。

法然上人絵伝 額装



極楽から来た

 昭和三十六年六月より朝日新聞に連載された佐藤春夫の小説「極楽から来た」の挿絵として作られました。
法然上人の生い立ちから修行時代、浄土宗を建てるまでの足跡を分かりやすく記しています。
挿絵集は昭和三十六年七月、百七十三図の型絵染限定百五十部が吾八から刊行されました。
これも法然上人絵伝の一種と言えましょう。
その後再摺りされたものも多く、芹沢の物語絵の中でもっとも人気の高い一集です。

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