史実に残されなかった巨大噴火
白頭山が10世紀に巨大な噴火をしていることは明白な事実です。これは有史以降最大級の噴火で、古代都市ポンペイを滅ぼしたとして知られるヴェスビオ火山の噴火と比べても同じかそれ以上の噴火規模と見積もられています。しかし、10世紀といえば中国は五代中国期、朝鮮は高麗が国家としてあり、史実を記録する文化があったにも関わらず、噴火の時期や推移についての記述を一切見つけることができないのです。
■ なぜ、白頭山の10世紀巨大噴火は文献資料に残されなかったのでしょうか?
鶴園 裕「高麗・朝鮮から見た渤海・白頭山への関心」より
この10世紀の中国では,唐(618-907)末を経て、五代十国の変動期、すなわち、後唐(923-936)や南唐(937-975)と呼ばれる地方政権乱立の混乱期にありました。また、東北アジアでは、渤海(698-926)が滅び契丹(遼)(916-1125)が興り、東丹国が成立するという変動期にあったと考えられてます。この時期、白頭山に最も近い地域を領域支配していた国家は、契丹族が建国した遼です。しかし、契丹文字で記録された資料は少ない上に、未解読文字も多いのです。しかも、一部の漢文資料は正史の形で残されているものの、その後の女真族による金やモンゴル族による元の支配によって、10世紀当時の資料は隠滅され、あまり残されていません。
この時期、この地域で比較的安定した国家としては、新羅王国末期の後三国時代の混乱を制して朝鮮半島の中部地方を中心に成立した高麗(935-1392)ですが、10世紀初めのこの時期には東北アジアとの国境線はあいまいで、現在の中国・朝鮮の国境線よりもさらに南が高麗の支配地域でした。それゆえにこそ、先の高麗成宗10(991)年の記事では、前後の脈絡もなく女真族支配に関する一行のみが記載されています。言葉を変えて言えば、この時期、白頭山への関心は存在するものの、実効的な支配は行われていなかったと考えられます。10世紀の白頭山が大爆発を起こしたとされるこの時期には、「正史」に記録を残せるような安定した王国や政権が中国側には存在せず、仮にそのような記録が残されたとしても、文献資料としては残りにくい環境にあったようです。いわば文献資料的には東北アジアの10世紀は、ある種の資料的な空白期となっています。
画像をクリックすると大きな画像で見ることができます
0 件のコメント:
コメントを投稿