2024年6月5日水曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 二つの豊玉比賣神社(下)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 二つの豊玉比賣神社(下)

短絡的に考えれば「天石門別」は忌部の系統、「和多都美」は海部の系統が祀ったようにも見えます。

二つの豊玉比賣神社(下)

二つの豊玉比賣神社(上)
二つの豊玉比賣神社(中)
の続きとなります。

さて、延喜式にあるこの二つの「豊玉比賣神社」

ご存知のように、この「延喜式」社名はありますが「祭神名」は記載されておりません。

また由緒等も記載されておりません。

なので、他の資料などを元に祭神を確認していくわけです。

前に出したこの「阿波志」などを見ても和多都美豊玉比賣祠(神社)」については、三代実録に記載があるとの記述で

三代実録原文には

『三代実録』巻四十四元慶七年(八八三)十二月二日甲午 二日甲午 授阿波国従五位下和多都美豊玉比 神・白馬神並従五位上

との記載もあり

比定社は三社(雨降神社、王子和多都美神社、王子(玉子)神社)とあるものの、存在自体がはっきりしておりますが、「天石門別豊玉比賣神社」については「今廃」のみで、三代実録にも神階授与の記録がありません。

さらに言えば「阿波国(続)風土記」においてさえ「天石門別豊玉比賣神社」については

上記のように調査した担当者によって城内にあるとか、名東郡矢野村にあるとか記述が違っております。

「名東郡矢野村」云々の記載においては「杉尾と称す」の記載もあり、あるいは「八倉比賣神社」との混同とも見られる書き方となっております。

ただし、「天石門別豊玉比賣神社」=「天石門別八倉比賣神社」が絶対ありえないとは、ワタシは言いません。

後でどんな資料が発見されないとも限りませんので(笑)。

まあ、確率で言うのもおかしいんですが、個人的には99%(笑)ありえないとは思いますが。

余談でした、要は「天石門別豊玉比賣神社」の由緒などがはっきりしないということです。

そこで「二つの豊玉比賣神社(中)」で出した「名神序頌」の記載

「天石門別豊玉比賣神社本在猪山城墟穪龍王宮往古自一宮龍王峯遷之」

が重要な意味を持ってくると思われるのです。

さらには社名を見ていただきたい。

「天石門別豊玉比賣神社」

「和多都美豊玉比賣神社」

御祭神「豊玉比賣」を祀るのに、なぜ別々の神社に祀られているのか?

「祀った一族の系統が違う」?

もちろんそれも考えられます。

短絡的に考えれば「天石門別」は忌部の系統、「和多都美」は海部の系統が祀ったようにも見えます。

ならば忌部と海部の祖神は同じか?いや違うでしょう。

との疑問が出てくるはずです。

「海部」の祖神が「豊玉比賣」なのは何の問題も無いんですが、「天石門別」と冠する場合は違います。

研究者によって見解は違います。

「永井精古」は「天石門別神」が忌部の神であるため「豊玉比賣」を「天石門別神」の系譜に連なる忌部の神としております。

社名に冠する「天石門別」や「和多都美」は祭神の系譜の一部を現すのが一般的でしょう、ならば同一神社名に冠する「形容詞」違う場合は?

一つ思いつくのが「同名異神」。

あくまで説として挙げましょう。

「天石門別豊玉比賣神社」と「和多都美豊玉比賣神社」の御祭神は違う。

「和多都美豊玉比賣神社」の御祭神は神武天皇の祖母である「豊玉比賣」であるが「天石門別豊玉比賣神社」は忌部の系統である別神である、と。

出口延経「神名帳考証」

興田(奥田)吉従の説として玉造部の遠祖としての「豊玉者」である「豊玉比賣」であるとの説を現しております。


また鈴鹿連胤「神社覈録(じんじゃかくろく)」においても大山為起の「延喜神名式比保古」の記載と興田(奥田)吉従の説を併記し同様に玉造神である「天明玉命」であると記され「祭神明か也」とあります。

大山為起(おおやまためおき)は慶安4年(1651)生まれで、山崎闇斎門下であり、本居一派の興田(奥田)吉従とは時代も学派も違います。

それが同一の説に行き着いていることを軽々に見過ごしてはならないでしょう。

ともあれ、「仮に」「天明玉命」だったとしましょう。

「天明玉命」は別名

「櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)」

「天明玉命(あまのあかるたまのみこと)」

「天羽明玉命(あめのはあかるたまのみこと)」

「天豊玉命(あめのとよたまのみこと)」

「玉祖命/玉屋命(たまのやのみこと)」

「天櫛明玉命(あめのくしあかるたまのみこと)」

「羽明玉(はあかるたま)」

であり

太玉命の率いる五神(天日鷲命:阿波忌部の祖、手置帆負命:讃岐忌部の祖、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇:筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱。


伊耶那岐神の子。高魂命の孫とも伝へられ、玉作連、玉祖連の遠祖と仰がれる神。


天照大御神が天岩戸に隠れた時、八坂瓊之五百箇御統曲玉をつくり大神を慰めた。


天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。

(玄松子の祭神記から引用させていただきました)

であり、いわゆる忌部の系譜に連なることは明らかであり、そういう意味で「天石門別」を冠してもなんら違和感がないように思えます。

以上の

「徳島城に祀られる以前は一宮で祀られていたこと」

「祭神が明らかでないこと」

「忌部神に同名神が存在し『天石門別』を冠すること」

などなど..

より「天石門別豊玉比賣神社」の御祭神は「神武天皇の祖母である『豊玉比賣』ではなく」「太玉命の系譜に連なる『天豊玉命』ではないか」との説を提起したいと思います。

 でも「天豊玉命」なら「豊玉比賣」じゃないと仰るかもしれませんが妃神であったかもしれないし、「天豊玉命」が比賣神であったかもしれません。
その辺りは検証困難なので突っ込まないでいただきたいんですが(笑)「天石門別豊玉比賣神社」の御祭神が何が何でも「神武天皇の祖母である『豊玉比賣』である」とか言わずに別の可能性も考えていただきたく、この稿を書かせていただきました。
(ここらってね、すっごく色んなトコに気を遣って書いてんのよ〜(笑))

さらに付け加えれば、この説によって城内の「天石門別豊玉比賣神社」を貶めようとか、いう気持ちは全くございません。
ただ「二つの豊玉比賣神社(上)」で書いたように

蜂須賀家の阿波国入国は天正13年(1585)。
「阿淡年表秘録」によれば城主が「龍王宮」に参拝した記録が残るのは
元禄五年 壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
元禄九 丙子年六月八日 公松厳寺、勢見山観音、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。

とあるのは、もしかしたら徳島城内へ一宮から勧請されたのが、この頃であったかとの推測も可能です。

蜂須賀家入国時に、あるいは「和多都美豊玉比賣神社」としてあったのが一旦廃社され、元禄に勧請されるまでの100年程の間に「和多都美」であったことが忘れられてしまったのかもしれません。

それを入国時に一時期築城した地である、一宮にあった「天石門別豊玉比賣神社」を勧請したのかも.......... 。

まあ、それにしても(笑)

『この文に依っても天石門別豊玉比賣神社は最初名西郡入田町の竜王峯に鎮座したことが了解せられる。現に名西郡入田町の建治寺の所在地は「中の竜王峯」といい、その東に「東の竜王峯」、西に「西の竜王峯」がある。いずれの峯も松林の中に小祠が祭られていて、村人の話に拠ると、天石門別豊玉比賣神社は山麓の方の八幡神社に合祀せられたという。

また佐那河内村大宮八幡神社神職井開兵部の談にも、ここは元は天石門別豊玉比賣神社鎮座の地で今は同社境内の猿田彦神社に合祀されている由である』

とありますように、一宮、入田は「天石門別豊玉比賣神社」やら「猿田彦大神社」の元社や「麻能等比古神社」はあったわ、とマジでえらい場所なんですね〜。

それが遷座された佐那河内もすっごいですけどね〜。

と妙なまとめをして終わらせていただきます(笑)

おまけ

徳島城内「天石門別豊玉比賣神社(龍王宮)」跡

龍王楠のところから


参道跡が残ってて

 排水設備のような建物の裏を通ると石段跡の様な...

   突き当たりの石垣の辺りに祠があったはず

 ハトがいました(笑)

  帰りに寄った「麺屋 六根」

 つけ麺を注文しないという「ひねくれモン」

あ〜、くどいスープ(笑)

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