2024年6月20日木曜日

日本紀元(Nihon Kigen) 東洋をつくった景教⑩達磨と使徒トマス

日本紀元(Nihon Kigen) 東洋をつくった景教⑩達磨と使徒トマス

日本紀元(Nihon Kigen) 東洋をつくった景教⑩達磨と使徒トマス

インドから中国に禅の仏教を伝えた人とされています。 しかしこのだるまに関し、京都の金戒光明寺に、 興味深い絵が保存されています。 景教研究家のエリザベス・A・ゴードン女子が、 住職の許可を得て撮影した仏教画ですが、 もとは中国から伝来したといいます。 法然上人によって発見されたとの伝説があり、 従って12世紀以前に描かれたものでしょう。 絵は、上中下の3段から成り、 下段では達磨(頭に布をかぶっている人物)が、 人々に語っている光景となっています。 中断では、一同が空虚な墓の前に行っています。 そして上段では、


聖者が後光を放ち、雲に乗って昇天するのを、一同が拝んでいる。かつて仏教の僧侶からキリスト教の牧師になった経歴を持つ道籏泰誠氏は、この絵について、 「これは言うまでもなく、キリストの復活・昇天の絵を仏教化したものだ」  と述べている。ゴードン女史も、 「中世のイエスの絵と同じく、これは主イエスの復活と昇天の絵に違いない」  という。この絵は、達磨が聖者の復活・昇天について人々に語っている、という体裁をとっている。だが達磨の姿を見てみると、頭に布をかぶり、顔にひげを生やしていて、どうみても中近東の人々特有の格好だ。とくに、ユダヤ人の格好である。カール・ルートビック・ライヘルト博士は、 「ダルマの絵を見ると、その容貌は中国人やインド人ではなく、まったくユダヤ人の特徴がある」  と述べている。かつてキリストの使徒トマスは、先に述べたようにインド、中国方面に伝道に行った。この絵は、使徒トマスが復活のキリストに出会った時の体験を人々に語っている光景を、仏教化したものに違いない。すなわち、使徒トマスが達磨に置き換えられ、仏教画に作り替えられているのだ。  では、達磨と、トマスはいったいどういう関係なのか。達磨は使徒トマスのことなのか。それとも、達磨とトマスは別人なのか。達磨伝説と、トマスのことが習合しただけなのか。  達磨は、伝説化されていて、謎だらけの人物である。達磨は一般には禅宗をおこした人物とされ、6世紀に生きたと言われている。ところが達磨が書いたという「二入四行の説」には、禅の思想がない。また6世紀に生きたというのも、多くの異説や矛盾点があり、信憑性がない。達磨は南インドの生まれと言われている。そこは、トマスの宣教地でもあった。一方、ダルマの出身をペルシャとする書物もある。『開元目録』(8世紀)には、 「ときに西域の沙門菩提達磨という者がいた。彼はペルシャの人だった」  とある。ペルシャは景教徒たちの故郷だ。使徒トマスも、インドに来る前はその地域で伝道した。  さらに、禅宗において達磨の忌日は10月5日である。しかし、仏教では死んだ日の前日に仏事を行なう習慣があるから、本当の彼の命日は10月6日だろう。これは、ギリシャ正教会がトマスの召天日として祭日にしている10月6日と、一致する。  また、トマスはインドでは「トマ」(Toma)と呼ばれていた。それがなまって「達磨」(Dharma)の名になったのではないか。TとDは発音が近いから、入れ替わりやすい。中国ではとくにそうだ。このように、どうもトマス伝説が仏教化されて、達磨になっている。  達磨は「インドから中国に禅の仏教を伝えた人」ということになっている。しかしトマスも、インドから中国へ伝道に行っている。トマスは北京あたりまで伝道に行って、それからまたインドに帰っている。つまり、6世紀頃にも達磨伝説を形成する仏教僧がいたと思われるが、やはり達磨伝説のおおもととなった人は使徒トマスだろう。  ところで、ダルマ人形というのがある。頭に赤い布をかぶって、ひげを生やした人物の、あの丸い人形だ。倒してもまた起きあがる――「七転八起」の言葉を表した人形である。ところがこの「七転八起」というのは、もともと聖書の思想である。今から約3000年前に記された旧約聖書・箴言24章16節に、 「正しい者は七たび倒れても、また起きあがるからだ」  と記されている。「七転八起」は聖書の思想なのである。使徒トマスは七転八起の人だった。このようにダルマ伝説には、使徒トマスの伝説が習合している。ここに、もう一つの「仏教の中のユダヤ」がある。

2024年6月19日水曜日

フリードリヒ・マックス・ミュラー - Wikipedia 1823-1900

フリードリヒ・マックス・ミュラー - Wikipedia

フリードリヒ・マックス・ミュラー

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フリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1823年12月6日 - 1900年10月28日[1])は、ドイツに生まれ、イギリスに帰化したインド学者サンスクリット文献学者)、東洋学者比較言語学者比較宗教学者仏教学者

経歴

フリードリヒ・マックス・ミュラーは1823年12月、デッサウに生まれた。「フリードリヒ・マックス」という名前は、母親の兄弟フリードリヒと、名付け親となった作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』の主人公マックスから取られている[2]

詩人であった父ヴィルヘルムはミュラーが4歳の時に死去する。ミュラーは父の影響で詩や音楽に関心があり、1829年にライプツィヒのニコライ・スクールでは音楽と古典の勉強を続けるも、知人であったフェリックス・メンデルスゾーンは別の進路を勧めた。

ミュラーはライプツィヒ大学に入学し、1843年、20歳の時に哲学博士号を取得。さらにベルリン大学サンスクリット学者フランツ・ボップ、哲学者フリードリヒ・シェリングの下で学び、フランクフルトではアルトゥル・ショーペンハウアーに会っている。しかしミュラーに最も影響を与えたのはウジェーヌ・ビュルヌフ(彼のいとこは、アーリア至上主義の創始者として知られるエミール・ビュルヌフ英語版)であった。1845年、ミュラーはパリでビュルヌフに師事し、サンスクリットを学ぶ。ミュラーはビュルヌフの勧めで『リグ・ヴェーダ』の校訂に取り組み、以後文献学者としてサンスクリット文献の校訂と翻訳につとめる。

1848年、ミュラーは駐英大使クリスティアン・C・J・フォン・ブンゼンによってイギリスに招かれる。ブンゼンはイギリス東インド会社の援助によって『リグ・ヴェーダ』の校訂・翻訳を行う人物として、ミュラーに白羽の矢を立てたのである。1849年『リグ・ヴェーダ・サンヒター』全6巻の刊行が始まる(1873年に完結)。1850年にオックスフォード大学教授となった。1854年には、現代諸語のタイラー講座の教授となった。

1858年、オール・ソウルズ・カレッジのフェロー(研究員)となった。1860年、サンスクリットのボーデン講座教授の地位をモニエル・モニエル=ウィリアムズと争って敗れるが、1868年にはミュラーのために比較文献学の講座が開設された。1870年、講義においてダーウィンの進化論(human evolution)に対して、人間と動物は言語によって明白に隔てられていると強調する[3]。友人であったジョン・ラスキンもこの考えに支持を表明した。

1875年、ミュラーは大学を定年退官するも、教授職号は死去するまで保持した。1879年には『東方聖書(東方聖典叢書)』全50巻の刊行がスタートし、1894年に完結した。

1881年、カントの『純粋理性批判(Critique of Pure Reason)』を翻訳し、今まであった翻訳の誤りを正した。カントの思想を直接的に忠実に表現した著作として「純粋理性批判」を評価した点は、ショウペンハウアーと一致する。アーリアの世界において『ヴェーダ』から始まりカントの『純粋理性批判』で終わったと考えたようである。

1887年、『思考の科学』The Science of Thought(邦訳なし)を刊行。言語を要素ごとに分類し、第3章ではカントの哲学について、第4章では人間と動物を分ける言語という壁について論じている[4]

1900年、イギリスに渡って以来オックスフォードに住み続けたミュラーは同地で死去した。

研究内容・業績

神話研究

  • ミュラーが師事したビュルヌフの甥は人種差別主義者として悪名高かったが、ミュラーもまたそのような思想に影響を受けていたと言われる。ミュラーの研究は比較神話学研究に影響を与え、さらに、共通起源をもつとされたインド人ヨーロッパ人には「アーリア人」の名称が与えられ、その実在と拡散というモチーフをもつ歴史観もまた拡大した。これは、ヨーロッパの卓越性を証明づけるものとしての人種主義的な要素を含む「アーリア神話」となって後代に学問的のみならず、社会的、政治的にも大きな影響を与えることとなった。
  • ミュラーは仏教の擁護、すなわち当時は一般的であった仏教≒ニヒリズムという図式を否定し、仏陀と仏教を擁護した。
  • ミュラーは神話を「言語の病」によって生じたと主張し、またインド神話ギリシア神話の固有名の間に対応関係が見出せるとした。さらに印欧語族神話を太陽神話として読み解くことを提唱、同様に神話を暴風神話として読み解いたアダルベルト・クーンらとともに自然神話論的な解釈を展開した。ミュラーの言語偏重ともいえるこうした学説はその後マンハルトらの儀礼を重視する神話研究者たちに取って代わられ、両者の影響をうけたフレイザーを継いだ人類学的な解釈などによって明確に否定された。ミュラーの研究は現在では省みられないもの、一時は一学派を形成し、現在にいたる神話学の隆盛に火をつけた。

評価

「1860年から1880年代まで、大雑把なことを言えば、神話や宗教に関心をいだくようになった人々は、その領域がマックス・ミュラーの神話理論によって、完全制覇されていることを、知らなければならなかった。」[5]と言われている。

日本に与えた影響

交友関係

家族・親族

著書

新版の日本語訳
  • フリードリヒ・マックス・ミュラー『比較宗教学の誕生 - 宗教・神話・仏教』国書刊行会〈宗教学名著選 第2巻〉、2014年10月。ISBN 978-4-336-05689-4
島薗進奥山倫明ほか編集委員、松村一男下田正弘監修、山田仁史・久保田浩・日野慧運訳

脚注

  1. Max Müller German scholar Encyclopædia Britannica
  2. Arie L. Molendijk (2016). Friedrich Max Müller and the Sacred Books of the East. Oxford University Press. p. 13. ISBN 978-0198784234normal 
  3. ^ 1873年、進化論に関する手紙をダーウィンに直接送っているという。ダーウィンに対しては全体的には熱心な読者だったという。
  4. ^ "この著作がオンラインで読める". 2020年8月24日閲覧。
  5. ^ Robert Ackermanを中沢新一が『南方民俗学』で翻訳したものを引用 (1911). The Myth and Ritual: J.G Frazer and the Cambridge Ritualists. london, Garland 
  6. ^ 松居竜五, 月川和雄, 中瀬喜陽, 桐本東太『南方熊楠を知る事典』講談社〈講談社現代新書〉、1993年4月20日。ISBN 4061491423全国書誌番号:93037179https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002244107-00 

参考文献

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関連書籍

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関連項目

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末松謙澄 - Wikipedia

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末松謙澄

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末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日1855年9月30日〉 - 大正9年〈1920年10月5日)は、日本明治から大正期のジャーナリスト政治家歴史家正二位勲一等子爵帝国学士院会員。幼名は千松(または線松)、号は青萍。

生涯

豊前国京都郡前田村(現・福岡県行橋市前田)に大庄屋役末松房澄[1]と伸子の4男として生まれる。慶応元年(1865年)より地元の碩学村上仏山私塾水哉園にて漢学国学を学んだ。慶応2年(1866年)の第二次長州征討(小倉戦争)時には、末松家は戦火で焼け出された。

明治4年(1871年)に上京、佐々木高行宅の書生となり、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候していた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学教授を引き受けるなど互いに勉学に励み、明治5年(1872年)に東京師範学校東京教育大学筑波大学の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年中に中退。高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込み、明治7年(1874年)に同社記者となり、笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期にアメリカ合衆国に留学していた箕作佳吉の記事を東京日日新聞に掲載させたという。

明治8年(1875年)、社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として出仕、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉を任された黒田清隆に随行、日朝修好条規の起草に参画した。明治9年(1876年)に工部省権少丞に任ぜられたが、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕に転じ、山縣有朋の秘書官として九州へ従軍、9月に西郷隆盛宛の降伏勧告状を起草した。同年太政官権少書記官となるが、翌明治11年(1878年)に英国留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習として2月10日出航、4月1日ロンドンに到着した[2]

英国滞在中はしばらく公使館に勤務したが、歴史研究に専念するため明治13年(1880年)12月に依願免官、明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した(箕作佳吉の兄菊池大麓の紹介があったとされる)。留学中はラテン語ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で学生生活をしのいだ。明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。この間、文筆活動もめざましく、明治12年(1879年)に義経=ジンギスカン説を唱える論文 The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsuné を出版(6年後、慶応義塾生・内田弥八による和訳『義経復興記』が日本で出版されベストセラーとなる)。また明治15年(1882年)には「源氏物語」を初めて英訳し、英国詩人の詩を多数邦訳した。

第1次伊藤内閣鹿鳴館時代の明治19年(1886年)に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため福地源一郎・外山正一と共に演劇改良運動を興し、明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させた。明治21年(1888年)に法学修士号を取得、同年から2年がかりでバーサ・クレイの『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年(1889年)4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間文部省参事官内務省参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で福岡県から出馬し当選、衆議院議員となり政界入りした。大成会中央交渉会に属し、政府寄りの立場を取った。

明治25年(1892年)に第2次伊藤内閣が成立すると伊藤の引き立てで法制局長官に就任、在任中の明治28年(1895年)に男爵に叙せられ、翌明治29年(1896年)6月25日に補欠選挙の互選で貴族院議員となった[3]。同年に法制局長官を辞任するも明治31年(1898年)の第3次伊藤内閣逓信大臣になり、明治33年(1900年)に伊藤が創立した立憲政友会へ入会、同年成立の第4次伊藤内閣内務大臣を務めた。辞任後は明治29年から毛利氏および家政を統括していた井上馨の依頼で、長州藩に関する毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと山路愛山笹川臨風堺利彦斎藤清太郎ら新規採用組も同様であったため、長州藩出身者から疎まれ、井上に更迭された前総裁宍戸璣が人事の不満を暴露した記事が新聞に掲載されるなどして、編纂事業は凍結、日露戦争開始による新たな任務遂行のため一時中断された[4]

明治37年(1904年)からの日露戦争時には、伊藤を含めた政府・元老らから、日本の対ヨーロッパの立場説明、好意的世論の形成、および黄禍論拡大防止を含む日本への悪感情緩和の広報活動を命じられた。宣戦布告した2月10日カナダ・アメリカ経由で渡欧(2月24日に伊藤から同様の命令を受けた金子堅太郎が渡米)、3月に英国に到着すると広報活動を開始、英国・フランスを主として戦争に対する日本の弁護、偏見に対する反論演説を展開した。明治38年(1905年)には黄禍論の沈静化を政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年(1906年)1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月3日に枢密顧問官に任じられ[5]、同月19日、貴族院議員を辞職[6]。翌明治40年(1907年)に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。

明治44年(1911年)、中断していた毛利氏歴史編纂事業が、明治維新全体の歴史を纏めた一級資料『防長回天史』として初版脱稿。ローマ法の研究にも傾倒し、大正2年(1913年)に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、同4年(1915年)に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、全世界で大流行していたスペインかぜに罹患したことが原因で死去。享年65。子が無かったため、甥の春彦が爵位を継いだ[7]

墓所は東京都品川区南品川4丁目の清光院法名は蓮性院殿古香青萍大居士。

栄典

位階
勲章等

親族

  • 父:末松房澄(1879没・享年60) - 通称七右衛門、号は臥雲。18歳で庄屋役、安政元年に郡中諸帳面吟味役、同2年より京都郡久保黒田両手永大庄屋役を務め、村役人として治水灌漑事業を指導、新田開発に貢献[1]。子は6男4女。
  • 長兄:末松房泰(1841-1920) - 衆議院書記官、1900年の編著『冠詞例歌集』附録に「末松臥雲先生経歴」収録。
  • 妻:生子(1868-1934) - 初代内閣総理大臣伊藤博文の次女
  • 養子:春彦(1896-1977) - 甥、弟凱平の次男
  • 養女:澤子(1899-1942) - 義妹、伊藤博文の庶子で生子の異母妹。会津藩出身の工学者大竹多気の長男虎雄に嫁ぐ[21]。虎雄は大蔵官僚で会津会会員
  • 末松謙一(元さくら銀行頭取) - 大甥(謙澄の弟の孫)

出典

  1. ^ a b 伊東尾四郎 編『京都郡誌』京都郡、1919年、(第十章人物・末松七右衛門)21-24頁。normal 
  2. ^ 松村、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井、P546、小山、P134 - P135、伊藤、P159。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
  4. ^ 松村、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井、P546、小山、P135 - P147、伊藤、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。
  5. ^ 『官報』第6801号、明治39年3月5日。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
  7. ^ 松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。
  8. ^ 『太政官日誌』明治9年1月-6月
  9. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
  10. ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
  11. ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
  12. ^ 『官報』第8624号「叙任及辞令」1912年3月22日。
  13. ^ a b 『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
  14. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  15. ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
  16. ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
  17. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  18. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  19. ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
  20. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  21. ^ "大竹多気展 大竹家・松田家東の家系". 山形大学工学部広報室. 2014年6月4日閲覧。霞会館、P768、伊藤、P378。

伝記[編集]

  • 玉江彦太郎『青萍・末松謙澄の生涯』葦書房、1985年
  • 玉江彦太郎『若き日の末松謙澄 在英通信』海鳥社、1992年。ISBN 4874150071

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
西郷従道
日本の旗 内務大臣
第15代:1900年 - 1901年
次代
内海忠勝
先代
野村靖
日本の旗 逓信大臣
第7代:1898年
次代
林有造
先代
尾崎三良
日本の旗 法制局長官
第4代:1892年 - 1896年
次代
神鞭知常
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
末松(謙澄)家初代
1907年 - 1920年
次代
末松春彦
先代
叙爵
男爵
末松(謙澄)家初代
1895年 - 1907年
次代
陞爵

古事記談義

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