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フリードリヒ・マックス・ミュラー - Wikipedia 1823-1900
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フリードリヒ・マックス・ミュラー
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フリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1823年12月6日 - 1900年10月28日[1])は、ドイツに生まれ、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)、東洋学者、比較言語学者、比較宗教学者、仏教学者。
経歴
フリードリヒ・マックス・ミュラーは1823年12月、デッサウに生まれた。「フリードリヒ・マックス」という名前は、母親の兄弟フリードリヒと、名付け親となった作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』の主人公マックスから取られている[2]。
詩人であった父ヴィルヘルムはミュラーが4歳の時に死去する。ミュラーは父の影響で詩や音楽に関心があり、1829年にライプツィヒのニコライ・スクールでは音楽と古典の勉強を続けるも、知人であったフェリックス・メンデルスゾーンは別の進路を勧めた。
ミュラーはライプツィヒ大学に入学し、1843年、20歳の時に哲学博士号を取得。さらにベルリン大学でサンスクリット学者フランツ・ボップ、哲学者フリードリヒ・シェリングの下で学び、フランクフルトではアルトゥル・ショーペンハウアーに会っている。しかしミュラーに最も影響を与えたのはウジェーヌ・ビュルヌフ(彼のいとこは、アーリア至上主義の創始者として知られるエミール・ビュルヌフ(英語版))であった。1845年、ミュラーはパリでビュルヌフに師事し、サンスクリットを学ぶ。ミュラーはビュルヌフの勧めで『リグ・ヴェーダ』の校訂に取り組み、以後文献学者としてサンスクリット文献の校訂と翻訳につとめる。
1848年、ミュラーは駐英大使クリスティアン・C・J・フォン・ブンゼンによってイギリスに招かれる。ブンゼンはイギリス東インド会社の援助によって『リグ・ヴェーダ』の校訂・翻訳を行う人物として、ミュラーに白羽の矢を立てたのである。1849年『リグ・ヴェーダ・サンヒター』全6巻の刊行が始まる(1873年に完結)。1850年にオックスフォード大学教授となった。1854年には、現代諸語のタイラー講座の教授となった。
1858年、オール・ソウルズ・カレッジのフェロー(研究員)となった。1860年、サンスクリットのボーデン講座教授の地位をモニエル・モニエル=ウィリアムズと争って敗れるが、1868年にはミュラーのために比較文献学の講座が開設された。1870年、講義においてダーウィンの進化論(human evolution)に対して、人間と動物は言語によって明白に隔てられていると強調する[3]。友人であったジョン・ラスキンもこの考えに支持を表明した。
1875年、ミュラーは大学を定年退官するも、教授職号は死去するまで保持した。1879年には『東方聖書(東方聖典叢書)』全50巻の刊行がスタートし、1894年に完結した。
1881年、カントの『純粋理性批判(Critique of Pure Reason)』を翻訳し、今まであった翻訳の誤りを正した。カントの思想を直接的に忠実に表現した著作として「純粋理性批判」を評価した点は、ショウペンハウアーと一致する。アーリアの世界において『ヴェーダ』から始まりカントの『純粋理性批判』で終わったと考えたようである。
1887年、『思考の科学』The Science of Thought(邦訳なし)を刊行。言語を要素ごとに分類し、第3章ではカントの哲学について、第4章では人間と動物を分ける言語という壁について論じている[4]。
1900年、イギリスに渡って以来オックスフォードに住み続けたミュラーは同地で死去した。
研究内容・業績
神話研究
- ミュラーが師事したビュルヌフの甥は人種差別主義者として悪名高かったが、ミュラーもまたそのような思想に影響を受けていたと言われる。ミュラーの研究は比較神話学研究に影響を与え、さらに、共通起源をもつとされたインド人とヨーロッパ人には「アーリア人」の名称が与えられ、その実在と拡散というモチーフをもつ歴史観もまた拡大した。これは、ヨーロッパの卓越性を証明づけるものとしての人種主義的な要素を含む「アーリア神話」となって後代に学問的のみならず、社会的、政治的にも大きな影響を与えることとなった。
- ミュラーは仏教の擁護、すなわち当時は一般的であった仏教≒ニヒリズムという図式を否定し、仏陀と仏教を擁護した。
- ミュラーは神話を「言語の病」によって生じたと主張し、またインド神話とギリシア神話の固有名の間に対応関係が見出せるとした。さらに印欧語族神話を太陽神話として読み解くことを提唱、同様に神話を暴風神話として読み解いたアダルベルト・クーンらとともに自然神話論的な解釈を展開した。ミュラーの言語偏重ともいえるこうした学説はその後マンハルトらの儀礼を重視する神話研究者たちに取って代わられ、両者の影響をうけたフレイザーを継いだ人類学的な解釈などによって明確に否定された。ミュラーの研究は現在では省みられないもの、一時は一学派を形成し、現在にいたる神話学の隆盛に火をつけた。
評価
「1860年から1880年代まで、大雑把なことを言えば、神話や宗教に関心をいだくようになった人々は、その領域がマックス・ミュラーの神話理論によって、完全制覇されていることを、知らなければならなかった。」[5]と言われている。
日本に与えた影響
- 1876年にサンスクリット(梵語)研究のため渡英した南條文雄が、オックスフォード大学でミュラーに師事した。南條文雄は彼からヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、帰国後、日本に近代的な仏教研究方法を伝え、フランスのエティエンヌ・ラモットやシルヴァン・レヴィとともに、日本の近代仏教学の基礎となった。
- 著書の一つ 『比較宗教学』 は、南條文雄によって邦訳され、現代でも読み継がれている。
- 1893年、パリの東洋学のメッカであるギメ東洋美術館で仏教関係の資料の調査と研究を行うことを目的として渡欧した土宜法竜は、短期間イギリスも訪れ、オックスフォードのミュラーを訪ねている[6]。
- 彼のサンスクリットおよび仏教学資料の2万冊にも及ぶコレクションは東京帝国大学へ寄贈され、「マックス・ミュラー文庫」として収蔵されていたが、1923年の関東大震災により焼失した。
交友関係
- ミュラーはまた、ルドヴィコ・ザメンホフやレフ・トルストイと親交があったウラジーミル・マイノフ(1871年–1942年?)の影響を受けたエスペランティストの一人でもあった。
家族・親族
- 父:ヴィルヘルム・ミュラーは詩人として知られる。シューベルトが曲をつけた『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』の作詞者として有名。イギリス首相を4度務めたウィリアム・グラッドストンとは親友であり、ヴィクトリア女王とも親交があった。
- 息子:ヴィルヘルム・マックス・ミュラー(英語版)(1862年 – 1919年)はドイツで学んだ後にアメリカへ渡り、エジプト学の研究者になった。
著書
- 新版の日本語訳
- フリードリヒ・マックス・ミュラー『比較宗教学の誕生 - 宗教・神話・仏教』国書刊行会〈宗教学名著選 第2巻〉、2014年10月。ISBN 978-4-336-05689-4。
脚注
- Max Müller German scholar Encyclopædia Britannica
- Arie L. Molendijk (2016). Friedrich Max Müller and the Sacred Books of the East. Oxford University Press. p. 13. ISBN 978-0198784234normal
- ^ 1873年、進化論に関する手紙をダーウィンに直接送っているという。ダーウィンに対しては全体的には熱心な読者だったという。
- ^ "この著作がオンラインで読める". 2020年8月24日閲覧。
- ^ Robert Ackermanを中沢新一が『南方民俗学』で翻訳したものを引用 (1911). The Myth and Ritual: J.G Frazer and the Cambridge Ritualists. london, Garland
- ^ 松居竜五, 月川和雄, 中瀬喜陽, 桐本東太『南方熊楠を知る事典』講談社〈講談社現代新書〉、1993年4月20日。ISBN 4061491423。全国書誌番号:93037179。https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002244107-00。
- 松原孝俊・松村一男編 編『比較神話学の展望』青土社、1995年12月。ISBN 978-4-7917-5421-2。
- ハンス・G・キッペンベルグ(ドイツ語版) 「第3章 諸言語が語るヨーロッパの初期宗教史」 『宗教史の発見:宗教学と近代』 月本昭男・渡辺学・久保田浩訳、岩波書店、2005年5月、55-79ページ。ISBN 978-4-00-023412-2。
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末松謙澄 - Wikipedia
末松謙澄
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末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日〈1855年9月30日〉 - 大正9年〈1920年〉10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。正二位勲一等子爵。帝国学士院会員。幼名は千松(または線松)、号は青萍。
生涯
豊前国京都郡前田村(現・福岡県行橋市前田)に大庄屋役末松房澄[1]と伸子の4男として生まれる。慶応元年(1865年)より地元の碩学村上仏山の私塾水哉園にて漢学・国学を学んだ。慶応2年(1866年)の第二次長州征討(小倉戦争)時には、末松家は戦火で焼け出された。
明治4年(1871年)に上京、佐々木高行宅の書生となり、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候していた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学教授を引き受けるなど互いに勉学に励み、明治5年(1872年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年中に中退。高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込み、明治7年(1874年)に同社記者となり、笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期にアメリカ合衆国に留学していた箕作佳吉の記事を東京日日新聞に掲載させたという。
明治8年(1875年)、社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として出仕、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉を任された黒田清隆に随行、日朝修好条規の起草に参画した。明治9年(1876年)に工部省権少丞に任ぜられたが、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕に転じ、山縣有朋の秘書官として九州へ従軍、9月に西郷隆盛宛の降伏勧告状を起草した。同年太政官権少書記官となるが、翌明治11年(1878年)に英国留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習として2月10日出航、4月1日ロンドンに到着した[2]。
英国滞在中はしばらく公使館に勤務したが、歴史研究に専念するため明治13年(1880年)12月に依願免官、明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した(箕作佳吉の兄菊池大麓の紹介があったとされる)。留学中はラテン語・ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で学生生活をしのいだ。明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。この間、文筆活動もめざましく、明治12年(1879年)に義経=ジンギスカン説を唱える論文 The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsuné を出版(6年後、慶応義塾生・内田弥八による和訳『義経復興記』が日本で出版されベストセラーとなる)。また明治15年(1882年)には「源氏物語」を初めて英訳し、英国詩人の詩を多数邦訳した。
第1次伊藤内閣・鹿鳴館時代の明治19年(1886年)に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため福地源一郎・外山正一と共に演劇改良運動を興し、明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させた。明治21年(1888年)に法学修士号を取得、同年から2年がかりでバーサ・クレイの『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年(1889年)4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間文部省参事官、内務省参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で福岡県から出馬し当選、衆議院議員となり政界入りした。大成会、中央交渉会に属し、政府寄りの立場を取った。
明治25年(1892年)に第2次伊藤内閣が成立すると伊藤の引き立てで法制局長官に就任、在任中の明治28年(1895年)に男爵に叙せられ、翌明治29年(1896年)6月25日に補欠選挙の互選で貴族院議員となった[3]。同年に法制局長官を辞任するも明治31年(1898年)の第3次伊藤内閣で逓信大臣になり、明治33年(1900年)に伊藤が創立した立憲政友会へ入会、同年成立の第4次伊藤内閣の内務大臣を務めた。辞任後は明治29年から毛利氏および家政を統括していた井上馨の依頼で、長州藩に関する毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと山路愛山・笹川臨風・堺利彦・斎藤清太郎ら新規採用組も同様であったため、長州藩出身者から疎まれ、井上に更迭された前総裁宍戸璣が人事の不満を暴露した記事が新聞に掲載されるなどして、編纂事業は凍結、日露戦争開始による新たな任務遂行のため一時中断された[4]。
明治37年(1904年)からの日露戦争時には、伊藤を含めた政府・元老らから、日本の対ヨーロッパの立場説明、好意的世論の形成、および黄禍論拡大防止を含む日本への悪感情緩和の広報活動を命じられた。宣戦布告した2月10日にカナダ・アメリカ経由で渡欧(2月24日に伊藤から同様の命令を受けた金子堅太郎が渡米)、3月に英国に到着すると広報活動を開始、英国・フランスを主として戦争に対する日本の弁護、偏見に対する反論演説を展開した。明治38年(1905年)には黄禍論の沈静化を政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年(1906年)1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月3日に枢密顧問官に任じられ[5]、同月19日、貴族院議員を辞職[6]。翌明治40年(1907年)に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。
明治44年(1911年)、中断していた毛利氏歴史編纂事業が、明治維新全体の歴史を纏めた一級資料『防長回天史』として初版脱稿。ローマ法の研究にも傾倒し、大正2年(1913年)に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、同4年(1915年)に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、全世界で大流行していたスペインかぜに罹患したことが原因で死去。享年65。子が無かったため、甥の春彦が爵位を継いだ[7]。
墓所は東京都品川区南品川4丁目の清光院、法名は蓮性院殿古香青萍大居士。
栄典
- 位階
- 1876年(明治9年)6月3日 - 正七位[8]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[9]
- 1890年(明治23年)7月11日 - 従四位[10]
- 1898年(明治31年)2月14日 - 正三位[11]
- 1912年(明治45年)3月20日 - 従二位[12]
- 1920年(大正9年)10月6日 - 正二位[13]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[14]
- 1890年(明治23年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[15]
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[16]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 男爵・勲三等旭日中綬章[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[18]
- 1907年(明治40年)9月23日 - 子爵[19]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[20]
- 1920年(大正9年)10月6日 - 旭日桐花大綬章[13]
親族
- 父:末松房澄(1879没・享年60) - 通称七右衛門、号は臥雲。18歳で庄屋役、安政元年に郡中諸帳面吟味役、同2年より京都郡久保黒田両手永大庄屋役を務め、村役人として治水灌漑事業を指導、新田開発に貢献[1]。子は6男4女。
- 長兄:末松房泰(1841-1920) - 衆議院書記官、1900年の編著『冠詞例歌集』附録に「末松臥雲先生経歴」収録。
- 妻:生子(1868-1934) - 初代内閣総理大臣伊藤博文の次女
- 養子:春彦(1896-1977) - 甥、弟凱平の次男
- 養女:澤子(1899-1942) - 義妹、伊藤博文の庶子で生子の異母妹。会津藩出身の工学者大竹多気の長男虎雄に嫁ぐ[21]。虎雄は大蔵官僚で会津会会員。
- 末松謙一(元さくら銀行頭取) - 大甥(謙澄の弟の孫)
出典
- ^ a b 伊東尾四郎 編『京都郡誌』京都郡、1919年、(第十章人物・末松七右衛門)21-24頁。normal
- ^ 松村、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井、P546、小山、P134 - P135、伊藤、P159。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
- ^ 松村、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井、P546、小山、P135 - P147、伊藤、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。
- ^ 『官報』第6801号、明治39年3月5日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。
- ^ 『太政官日誌』明治9年1月-6月
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
- ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
- ^ 『官報』第8624号「叙任及辞令」1912年3月22日。
- ^ a b 『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
- ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ "大竹多気展 大竹家・松田家東の家系". 山形大学工学部広報室. 2014年6月4日閲覧。霞会館、P768、伊藤、P378。
伝記[編集]
- 玉江彦太郎『青萍・末松謙澄の生涯』葦書房、1985年
- 玉江彦太郎『若き日の末松謙澄 在英通信』海鳥社、1992年。ISBN 4874150071
参考文献[編集]
- 花房吉太郎, 山本源太 編『日本博士全伝』p14‐18 「文学博士 末松謙澄君」,博文館,1892. 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 松村正義『ポーツマスへの道-黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』原書房、1987年。ISBN 4562018453
- 鳥谷部春汀『明治人物評論・正』博文館、1898年
- Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566
- "Suematsu Kencho, 1855-1920: Statesman, Bureaucrat, Diplomat, Journalist, Poet and Scholar," by Ian Ruxton, Chapter 6, Britain & Japan: Biographical Portraits, Volume 5, edited by Hugh Cortazzi, Global Oriental, 2005, ISBN 1901903486
- 霞会館 華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年
- 小山騰『破天荒 <明治留学生>列伝』講談社選書メチエ、1999年
- 『日本近現代人名辞典』臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編、吉川弘文館、2001年
- 伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』講談社、2009年/講談社学術文庫、2015年
- 城戸淳一『京築の文学散歩』花乱社、2020年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 末松謙澄について
- 末松 謙澄:作家別作品リスト(青空文庫)
- Suyematz, Kenchio (1882). Genji Monogatari : The Most Celebrated of the Classical Japanese Romances. London: Trubner (源氏物語英訳。17帖のみの抄訳。Hathi Trust リンクは米国内のみ有効?色刷り扉絵の画像は無い)
- Japanese Literature - Including Selections from Genji Monogatari and Classical Poetry and Drama of Japan - プロジェクト・グーテンベルク (同上の電子プレーンテキストを収録)
公職 | ||
---|---|---|
先代 西郷従道 | ![]() 第15代:1900年 - 1901年 | 次代 内海忠勝 |
先代 野村靖 | ![]() 第7代:1898年 | 次代 林有造 |
先代 尾崎三良 | ![]() 第4代:1892年 - 1896年 | 次代 神鞭知常 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 | 子爵 末松(謙澄)家初代 1907年 - 1920年 | 次代 末松春彦 |
先代 叙爵 | 男爵 末松(謙澄)家初代 1895年 - 1907年 | 次代 陞爵 |
内務卿 | |||||||||||||||||||||
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内務大臣 |
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引継職 |
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古事記談義
slowslow2772 @slowslow2772 「古事記をすごいと言うあんたがすごい」 instagram.com/reel/C8eFyGOBG… pic.twitter.com/gsnsWGPtT4 2024/06/21 21:23 http...
![](https://abs.twimg.com/sticky/default_profile_images/default_profile_normal.png)
-
レムナント2018/04 典である。インドの高名な宗教学者アーマンド・シャー博士は、 「キリストの使徒トマスの福音に対抗して、シャカを聖人から救い主に昇格させたのが大乗仏教である」と述べている。 28頁 Armand Shah 不明 田村芳朗 - Wikipedia 1921~...
-
slowslow2772 @slowslow2772 古神道修験道家 表博耀~古神道と神楽の歴史~ youtu.be/j35Smx_Maug?si… @YouTube より The answer is "Avinu Malkeinu,"...
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日本人起源の認識が根本的に変わりそうな「三重構造説」理化学研究所など発表 進むヒトゲノム研究、弥生時代は前後期あった?(夕刊フジ) - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/d531ec32a3297a5a6e7f472f29c...