2024年6月29日土曜日

…遺伝子調査の結果は意外なものでした。 - 日本語の起源 くまら掲示板

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日本語の起源 くまら掲示板

シンルン族になぜDもEも見出されなかったか

 最後に、もう一つの質問にお答えしておきましょう。
 インド北部やミャンマーに、シンルン族(メナシェ族)と呼ばれる人々がいます。
 彼らは、私たち日本人と同じような顔つきをした東洋人ですが、古代からイスラエル人の文化伝統を持ち、イスラエルの失われた10部族調査機関アミシャーブによっても、10部族の子孫と認められた人々です。
 彼らはユダヤ教を学び直し、すでに1000人以上がイスラエルへ帰還して、普通にユダヤ人として生活していることで有名です。

 しかし、彼らの遺伝子調査の結果は意外なものでした。
 彼らのY染色体を調べてもE系統もD系統も見出されませんでした。さらにJ系統やCMHも見出されなかったのです。
 彼らのほとんどはアジア人に典型的なK系統、O系統がみられるだけでした。
 しかし、DNA科学者たちは、シンルン族のミトコンドリアDNAも調査しました。Y染色体DNAが父系の遺伝情報を示すのに対し、ミトコンドリアDNAは母系の遺伝情報を示します。
 その結果は、シンルン族の人々は中近東、およびウズベク(中央アジア)のユダヤ人に近縁であることを示していました。
 なぜ、シンルン族の父系の遺伝情報を示すY染色体DNAの結果が、典型的なアジア人のものだったのでしょうか?

 じつはシンルン族のたどった歴史を知るならば、彼らのY染色体にD系統もE系統もみいだされなかった理由は、容易に理解できます。
 というのは、シンルン族は中国を放浪していたとき、他民族に支配され、奴隷にされて苦役を課せられたのです。男性は奴隷に駆り出され、村に二度と戻って来ることがなかった。女性は中国人に犯されることが多かったのです。
 したがってそこに生まれた子どもたちは、シンルン族男性のY染色体ではなく、中国人男性のY染色体を持つことになりました。
 また中国では、戦争があると、征服された民族の男子は皆殺しにあうことも多くありました。だから男系のY染色体は、きわめて残りにくかったのです。

 このように、苦難の歴史があるとき、Y染色体は残りにくいのです。消滅してしまうことさえあります。
シンルン族の父系Y染色体にD・E系統が見出されず、母系ミトコンドリアDNAにのみユダヤに近縁なものが発見されたというのは、こういう悲しい歴史を物語っています。
 これを思うと、今日も日本人の40%近い人々にY染色体D系統が残っている事実は、貴重なことでしょう。
日本人も混血していますが、D系統が約40%も残ったのです。
それは現代ユダヤ人や古代イスラエル人と、日本人との強い結びつきを物語っています。
(詳しくは拙著『日本とユダヤ運命の遺伝子』(学研)をお読み下さい)

天皇の王冠は「イスラエルとユダの統一紋章」! 古代日本史・古代イスラエル/ユダヤ史ファンにとって必読のバイブルである。


https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/aw/review/4198618879/R3JKEH367B4IZN

山中英雄
2015年10月24日に日本でレビュー済み
 ノーマン・マックレオドは明治初期の日本に約12年間滞在したスコットランド商人で、「日本ユダヤ同祖論」を説いた人物としても有名である。本書は国会図書館に埋もれていたノーマン・マックレオド著「日本古代史の縮図」掲載の「挿し絵集」300点余を紹介し、いわゆる「日ユ同祖論」の論点の幾つかを解説したものである。 本書の興味ポイントをまとめると下記のようになるが、最大のポイントは、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」は、古代日本に古代北イスラエル国王家エフライム族が渡来し、その後に秦氏等のダビデの血をひくユダ族が渡来して、イスラエルとユダ統一の天皇家になった物的証拠であり、今も皇室に保管されていると思われることである。
 私見だが、平安京遷都した桓武天皇以降の天皇家はイスラエルとユダの統一王家であり、平安時代以降の日本は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)の再興と思われる。つまり、平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)の再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿で、内宮には新約聖書のイエス・キリスト、外宮には旧約聖書の唯一神ヤハウエが祀られている。 この時に、イスラエルとユダの統一王家実現を記念して、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」が製作されたと思われる。
 これ以外にも数多くの興味深い古代イスラエル/ユダヤ関連情報が満載されており、古代日本史・古代イスラエル/ユダヤ史ファンにとって必読のバイブルであり、このレビューが今後の購読者の参考になれば幸いです。

(1)挿絵図は当時の日本人画家が描いたものだが、繊細・精緻でよく書けている
 特に、天皇が使った王冠、京都御所清涼殿の天皇座前にある獅子とユニコーン像、天皇即位式に使われる高御座のユニコーン像などは、どのようなツテで描いたのか不思議であるが、恐らく政治家、役人などに多額の賄賂を使ったのだろうね。

(2)驚くべき日本語とへブル語の類似性
 京都の護王神社で神官見習いをしたユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、日本語にはへブル語起源の言葉が非常に多く、日本語とへブル語の間に、意味も発音も似通った5000以上の類似語を見出している。本書には、その内の代表的な約100の日本語とへブル語の類似例が紹介されているが、双方の発音と意味がよく似ている言葉が多いのに驚かされる。やはり、日本語(大和言葉)起源のひとつはへブル語だね。

(3)「ひい、ふう、みい・・・・」がへブル語とはびっくり!
 ユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、日本語で数をかぞえるときに用いる「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とうお」はへブル語で、すこしの訛りを修正すれば、「ひゃ、ふぁ、み、よつ、ついあ、ま、なーね、やあ、かへな、たうお」となり、「ヒャファ、ミ、ヨツイア、マ、ナーネ、ヤカヘナ、タウオ」と発音される。 その意訳は、「誰がその美しいかた女神を連れ出すのでしょう。彼女が出てくるために、誘いにいかなる言葉をかけるのでしょう」あるいは、「たが、そのうるわしめを出すのやら。いざないに、いかなる言葉をかけるやら」という美しい詩文になる。
 これは女祭司コヤネが女神アマテラスを岩屋戸から出そうとした言葉としてぴったり当てはまっているのである。日本人は神話とこうした言い方の関係を忘れ、ただ数をかぞえるときの言葉として用いるようになったが、これは古代の日本にへブル語を理解する人がいた証拠だと主張。単なる数をかぞえるときの言葉と思っていたが、全く驚きの意味だね! 神話もちゃんと意味があるのだね。神話時代の日本人は普段からへブル語を使っていたのかな。。。。
そうすると、これはへブル語が日本語(大和言葉)起源のひとつである証拠だね。

(4)八咫鏡の裏面にある文字はへブル語?
 八咫鏡裏面の文字の解読については二つの説がある。一つはヘブル語とする説であり、もう一つは古代日本の神代(じんだい)文字の一種「ヒフ文字」とする説である。
 元海軍のエリート将校の矢野祐太郎氏は細心の注意を払って八咫鏡裏面の模様を書き写したという。だがヘブル語を知らない彼のことだから、どこまで正確に書き写せたか、という問題もある。それに八咫鏡は非常に古いものである。若干の傷みや、しみ等もあるであろう。そのために、もとの模様を読みとるのが難しい部分もあったに違いない。現代ヘブル語と古代ヘブル語のアルファベットの形は若干違う、という問題もある。 古代ヘブル語も地域によってまた違う。これらの問題もありこの写しの中央の七文字がはたして本当にヘブル語なのかということは、まだ断定できないのが実状である。矢野祐太郎氏が伊勢神宮の八咫鏡を見て書いたという写し円内の文字はエヘイェ・アシェル・エヘイェ(我は在りて有る者)? それともオール・ヤハウェ( )?

(5)古代日本に北イスラエル国王家エフライム族が渡来して古代天皇家になった証拠
① 旧約聖書と日本神話の類似性
 日本の神話におけるニニギ尊からウガヤフキアエズ尊、神武天皇に至る系図は、旧約聖書におけるヤコブ、エフライム、ヨシュアに至る系図に物語の骨子が瓜ふたつである。
  
② キルギス人の伝説
 中央アジアのキルギス人に「マナス叙事詩」があり、キルギス人はマナセ族の子孫であることを示している。その伝説によれば、昔ふたりの兄弟がいて、ひとりは山の方へ行ってキルギス人の先祖となり、もうひとりは海の方へ行って日本人の先祖になった、つまり、キルギス人と日本人は兄弟という。
 この伝説は日本にある「山幸彦・海幸彦」によく似ており、双方の起源は同じで、両民族の先祖は繋がっている。ヨセフの息子はマナセとエフライムであり、キルギス人がマナセの子孫ならば、そこから分かれた日本人の先祖となった兄弟はエフライムであり、エフライム族が日本にやってきたことになる。

③ 神武天皇の和風諡号はエフライム族出自の証明
 神武天皇の和風諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」であるが、ユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、これはヘブル・アラム語で、すこしの訛りを考慮すれば、「カム・ヤマトウ・イヴリ・ベコ・シュメロン・マクト」と発音され、その意味は、「サマリアの王、ヤハウエのヘブル民族の高尚な創設者」あるいは「ヤマトの創始者はヘブル人であり、その王国サマリアから渡来した」である。サマリアとは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家である。 つまり、神武天皇は北王国イスラエル=サマリアから渡来した王家のヘブライ人であり、日本の天皇家はエフライム族の王統を継いだものということになる。

④ 天皇家のシンボル「獅子とユニコーン」
 ユニコーンは頭に角がひとつある動物で、架空の動物、想像上の動物だが、日本の皇室に古くから伝わっている。 京都御所の清涼殿にある天皇の座の前には獅子とユニコーンの像があり、天皇の即位式に使われる高御座にもユニコーンのデザインがある。 
 また昔、天皇が使った王冠にもユニコーンの図柄があった。 麒麟と獅子が盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている図柄になっています。ノーマン・マックレオドは、この麒麟を一角獣のユニコーンと捉え、ユニコーンが北イスラエル王国の王家の属するエフライム部族の紋章・シンボル、そして、獅子が南ユダ王国の王家の属するユダ族の紋章・シンボルであることから、この図柄を「イスラエルとユダの統一紋章」と解しました。
▼天皇の冠は獅子とユニコーンが盾を左右から支えている図柄で、「イスラエルとユダの統一紋章」である。 その中央上部は天皇の冠でユニコーンが描かれている。 
▼王冠の下には十六菊花紋と12頭の獅子がいる(10個の獅子と2個の獅子)。 
これはイスラエル12部族に由来する。
▼ユニコーンの起源は古代イスラエルにあり、もともとエフライム族とマナセ族が属するヨセフ族の紋章、シンボルだったのである。 ヨセフの末子相続人のエフライムがこの紋章を引き継いでいる。
▼京都御所の清涼殿にある天皇の座の左右に獅子とユニコーンがあった。
▼天皇即位式に使われる「高御座」にユニコーンのデザインがある。
▼古代の京都御所の門には、10頭の獅子、2頭の子獅子、統一イスラエルの紋章、雄獅子、雌獅子、ユニーコーンが門に描かれていた。また、雌牛バアル(金の子牛)の2つの像が見えるが、これらは疫病が発生したときに、それを遠ざけるために置かれたものである。現在は焼失して存在していないが、西本願寺の唐門が似ていると言われている。

 獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」は、古代日本に古代北イスラエル国王家エフライム族が渡来し、その後に秦氏等のダビデの血をひくユダ族が渡来してイスラエルとユダ統一の天皇家になった物的証拠であり、今も皇室に保管されていると思われる。
 これは私見だが、平安京遷都した桓武天皇以降の天皇家はイスラエルとユダの統一王家であり、平安時代以降の日本は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)の再興ではないかと思われる。
 なぜならば、歴代天皇で桓武天皇のみ煌びやかな衣装と王冠の肖像画、桓武天皇は平安京遷都に際し、イスラエル人が一貫して行っていた「旧約聖書」の「創世記」から登場する儀式の燔祭(ハンサイ;主に羊などの動物を祭壇で灰になるまで焼いて神に捧げる儀式)を行い、更に、エルサレムはへブル語で「平安な都」の意味、つまり平安京である。
 あるブログによれば、実は、このユダヤ教の燔祭を、かのソロモン王が行っているのだ。しかも、エルサレム城とソロモン神殿が完成したときに、である。 「王はすべての民と共に主の御前にいけにえをささげた。ソロモン王は牛二万二千頭、羊二万二千匹をささげた」(「列王記・下」第7章4節)
 数は別にして、まったく同じである。桓武天皇と行った儀式は同じである。城の完成の記念として行われた儀式という性格もまったく同じだ。秦氏は原始キリスト教徒エルサレム教団の南朝ユダ族で、この日本にエルサレム城=平安京を建設しようとしたのだ。だからこそ、あれほどまでに躍起になったのだ。一族をあげて、なんの見返りも期待せずに、あれほどの巨大事業を行ったのは、まさしく神聖な信仰からくるものだったからなのだ。しかし、平安京が日本のエルサレム城だとすると、どうしても腑に落ちないことが、ひとつだけある。平安京とは宮都である。秦氏の都ではない。秦氏が建設したのには違いないが、秦氏の首長「太秦」のための都ではない。あくまでも天皇の都である。当時であれば、桓武天皇のために建設された都なのだ。
 ところで、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されおり、日本の公式記録によって皇室に百済の血が入っていることが確認できている。中丸薫著「古代天皇家と日本正史」によれば、飛鳥~奈良時代の天皇はすべて百済・新羅系天皇で、桓武天皇祖父の天智天皇は百済・武王の王子と主張している。この場合は現天皇家始祖の百済・武王出自が問題であるが、高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)次男の百済初代温祚(オンソ)に繋がれば、扶余族~北イスラエル王国王家エフライム族出自となり、神武天皇の古代天皇家と同じ出自になる。
 従って、桓武天皇の時またはその前に、ダビデの血をひくユダ族の秦氏の血が天皇家に入ってイスラエルとユダの統一王家が実現したので、秦氏は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興であるエルサレム城の平安京建設と、ソロモン第3神殿の伊勢神宮建設に邁進したと思われる。
 つまり、平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿である。ちなみに、伊勢神宮の内宮には新約聖書のイエス・キリスト、外宮には旧約聖書の唯一神ヤハウエが祀られている。そして、この時に、イスラエルとユダの統一王家実現を記念して、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」が製作されたと思われる。
 日本の神社には入り口の左右に狛犬があり、今は左右両方とも「狛犬」と呼んでいるが、本来は右側を「獅子」、左側を「狛犬」、すなわち「獅子とユニコーン」である。ユニコーンの起源は古代イスラエルにあり、もともとエフライム族とマナセ族が属するヨセフ族の紋章、シンボルだったのである。
 神社の狛犬は必ず「阿吽」の形になっており、一方は口を開け「阿」、一方は口を閉じている「吽」。
この阿吽は、元来へブル語やギリシア語の「アーメン」の意味である。また阿吽は、日本語の「あ」「ん」に相当し、最初と最後の文字である。神社の狛犬のうち、「あ、阿」は獅子(ユダ族)であり、「ん、吽」はユニコーン(エフライム族)で、歴史はユダ族に始まり、エフライム族の回復によって終結するので、終わりの日に両族はひとつとなる。 
 エフライム族のシンボルはユニコーンで、東北アジアで頭に角のある動物は「鹿」しかいないので、「エフライム族の末裔の扶余族は鹿をトーテムとした」のではないかと思われる。

⑤ Y染色体DNAのD2系統の多い日本本土・琉球とチベット近辺にのみ、それぞれエフライム、マナセとしての古代ユダヤの伝統が受け継がれている。Y染色体DNAのD2系統を持ち、なおかつ、ユダヤ文化の独自性を持った大きなグループが、短期間で東の方へ移動して、朝鮮半島から日本に入って住みついた、としか考えようがない。このD2系統には、特徴的な変異:「YAP」(ヤップ)とよばれる挿入部分(300塩基)をもち、これは D、E系統のみに含まれ、他には存在しない。
 12部族のうちのエフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統であり、現在、エフライムを自称する民族は多いので、神様は、この特別な変異のしるしを エフライムとマナセだけに与えたのではないだろうか?  ヨセフ族、エフライム族にはリバイバルにかかわる特別な祝福が預言されている。
XY(ヨセフ)+ XX (YAP)(DE *:アセナテ)→ XYYAP(D:マナセ、エフライム)

⑥ エフライム族末裔の夫余族の「夫余はヘブル=フル」のヘブライの意味
▼大和民族となる前の呼び名のシウク、またはシウクシクは震えのことである。扶余のフヨ、またはプヨとはシウクと同じ意味のフルエ、またはフルからきている説がある。シウクが大和王朝や大和民族の古い呼び名なのかというと、それは朝鮮半島にあった騎馬民族の辰王朝が、わが国に渡って来たという説によっている。
 辰国の本当の名称はシウクであって、その王朝はシウクシと言った。意味はふるえる、または、ゆらゆらと言うことであるらしい。それを中国風にあらわしたものが辰国であり、辰国の名称と大和民族となる前の呼び名は同じシウク、またはシウクシクである。その後、辰王朝は九州へ渡ったが、残った分家と同系部族がまとまって作ったのが百済となった馬韓である。辰国のもう一つの跡地に、百済とは別に、百済から分かれた氏族と、秦の亡命貴族との合体によって作られたのが新羅である。
▼扶余(フヨ)はツングース語で鹿(プヨ)の意味としているが、これはずばり、ヘブライ人によくある名前のフルからきているのかもしれない。
▼古代北イスラエル王国エフライム王家の紋章は一角獣(ユニコーン)であり、北東アジアで角のある鹿が選ばれ、鹿(プヨ)=扶余(フヨ)となったのではないかと思われる。
▼高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)の長男沸流(フル=ヘブル)の子孫が出雲に渡来してスサノオノミコトが出雲王国を建国した。
▼スサノオノミコトの父は(フツ)、スサノオノミコトは(フツシ)、ニギハヤヒミコト(フル=ヘブル)として石上神宮に祭られていることから、スサノオノミコトの出雲王国とスサノオノミコト5子のニギハヤヒミコト建国の大和出雲王国は、エフライム族末裔による古代北イスラエル王国再興であり、この大和出雲王朝の末子相続人イスケヨリヒメに邪馬台国女王卑弥呼孫の磐余彦尊が婿入りして大和出雲王国と邪馬台国が統合した「大和朝廷」が成立し、磐余彦尊が「神武天皇」即位している。
そうすると、神武天皇の和風諡号の意味が理解できる。
 つまり、スサノオノミコトは高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)→満州の北扶余国王 解慕漱(ヘモス)・解夫婁(ヘブル)→古代北イスラエル王国王家エフライム族に繋がるが、「神武天皇」の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人研究家ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、 これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明している。

⑦ 万世一系の天皇家は世界で最も長く続いている王家
 聖書預言によれば、今もエフライム王室が古代から絶えることなく世界のどこかで存在していることであり、それに当てはまるのは日本の皇室しかない。北朝正統論の立場でいうと、北王国が正統なのは実は議論するまでもなく明白なのです。
 仮に聖書の記述を信ずるならば、イスラエル=ヤコブの嫡子ヨセフの嫡子エフライムと続く正系、嫡流が聖書に明記されているから。だからこそ北王国が「イスラエル」と呼ばれたのです。
 ユダ王国などは建て前上、反乱勢力にすぎない。失われた10部族=北王国の方が正統であり、この「失われた10部族」がそろわない限り南王国の子孫にすぎないユダヤ人が「イスラエル」を自称することは本来まちがっているのです。
 イスラエルによる「エフライムの、その子孫は、多くの国民となる」という預言は当たらなかったのだろうか。 いや、エフライム王家の血統である天皇家を擁く日本民族はその預言を実現している!
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エフライム族 - Wikipedia

エフライム族 - Wikipedia

久保有政は、皇室のルーツをエフライム族の王家であるとしている[2]

エフライム族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

エフライム族(エフライムぞく)は、イスラエルの12支族の中の1部族であり、ヨセフ族から分かれた2部族(マナセ族、エフライム族)の内の1つである[1]

エフライム部族に割り当てられた地域は、北はメクメタテ、南はベテ・ホロンゲゼルに及ぶ中央パレスチナの丘陵地帯であり、パレスチナの中でもっとも豊かな地域の一つである。

聖書の中でエフライムは重要な位置をしめて、シロベテルが礼拝の中心地になった。ヨシュアエルアザルの墓はエフライムの山地にあった。

やがて、古代イスラエル王国が分裂すると、北イスラエル王国の首都シェケムのすぐ隣にエフライムの領土があった。初代北イスラエル王国の王ヤロブアム1世はエフライム出身であったので、紀元前745年頃から、北イスラエル王国はエフライムと呼ぶようになった。

士師記第12章でのエタが率いるギレアド族との内戦で「シボレテ」という言葉を正しく発音できない方言を利用され、捕えられ、四万二千人のエフライム族が殺害された(シリア・エフライム戦争)。

日ユ同祖論

久保有政は、皇室のルーツをエフライム族の王家であるとしている[2]

出典

  1. ヨシュア記 第14章 4節 ウィキソース
  2. 久保 2003 p.170

参考文献

  • 『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1985
  • 久保有政『日本の中のユダヤ文化』学研研究社、2003年

マナセ - Wikipedia

マナセ - Wikipedia

マナセ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マナセヘブライ語: מְנַשֶּׁה[1]古希: Μανασσής)は、ユダヤ人男性の名。ヘブライ語で「忘れさせる者」の意。旧約聖書の登場人物としてのマナセは、以下の通りとなっている。

  1. ヨセフの長子で、ヤコブの孫。本項で詳述する。
  2. マナセ (ユダ王) - 南王国ユダの第14代の王。
  3. パハト・モアブの子と、ハシュムの子。ともに捕囚中に異邦人の女と結婚し、帰還後にはエズラの勧めによって離婚した(エズラ記 10:30、33、44)。
  4. ユディトの夫。同族・同じ家系の裕福な男性で、麦の刈り入れの際、日射病に倒れて寝込んだ末に死亡した。(ユディト記

マナセは、ヨセフの長子で、ヤコブの孫。弟はエフライム。母親はエジプトのオンの祭司ポティ・フェラの娘アセテナ創世記 41:45、50)。

概要

ヨセフは「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」ので、マナセと名付けた(創世記 41:51)。ヤコブはマナセを祝福し「この子も一つの民となり、大きくなるであろう」と言った(創世記 48:13-20)。マナセはアラム人のそばめによって子孫を儲けた(歴代誌上 7:14)。ヨセフは長生きして、マナセの子マキルを見ることができた(創世記 50:23)。こうしてマナセはイスラエルの12部族の一つ、マナセ族の先祖となった。

マナセ族

イスラエルの部族で、失われた10支族の1支族。ヨセフの子マナセを祖とする。ヤコブが祝福を与えた際、手を交差してエフライムを長子とし、マナセを次位に置いた(創世記 48:13-20)。これは、マナセ族がエフライム族より小さな役割を果たすことを示していると考えられる(申命記 33:17)。マナセ族は7家族から成り、イスラエル人がエジプトから出た約1年後の調査では、20歳を超えた男子は32200人であった(民数記 1:34、35)。約40年後、荒野でモーセによって数えられた人数は52700人であり、エフライム族の数を上回っていた(民数記 26:28-34、37)。荒野においては、マナセ族はペダツルの子ガムリエルの指導者によって、エフライム族とベニヤミン族と共に西側に宿営を張った(民数記 2:18-24)。

モーセは、ヨルダン川の東側の領域のヘシュボンの王シホンバシャンの王オグの国を滅ぼした後、その征服した土地を、ヨルダン川の西側の領地を征服する戦いにも参加するという条件付きで、ルベン族とガド族とマナセ族の各部族に与えられた(民数記 32:31-33、申命記 29:7、8)。その際、ギレアドの土地とバシャンの全土はマナセ族に与えられた(民数記 32:39、40、申命記 3:13-15)。残りの半部族は、ヨルダン川の西側の領域で、西は地中海、南はエフライムに、北はアシェルに、東はイサカルに接していた(ヨシュア17:10)。また嗣業の土地として、ベト・シェアンイブレアムドルエン・ドルタナクメギドと周辺都市を与えられた(ヨシュア記 16:9、17:11)。

士師ギデオンはマナセ族の出身であった(士師記 6:15)。ダビデツィクラグにいた時、マナセ族の千人隊の長の幾人かが彼の味方について(歴代誌上 12:19-20)、ヨルダン川の西側から18000人が、東側から何千人ものマナセ族がやって来て、ダビデをイスラエルの王に立てた(歴代誌上 12:31)。後に偶像礼拝に傾き、東側のマナセ族はアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世によって補囚された(歴代誌上 5:23-26)。

脚注

  1. ラテン文字翻字: men-ash-sheh'

参考文献

  • 引用聖句は『新共同訳聖書』日本聖書協会。
  • 小型版 新共同訳聖書辞典、キリスト新聞社、1997年。
  • 岩波キリスト教辞典、岩波書店、2002年。
  • キリスト教人名辞典、日本基督教団出版局、1986年。
  • 聖書辞典、日本基督教団出版局、1988年。

李信の子孫|表舞台から消された羌族との関係|ZUUMA|新解釈キングダム・中国古代史妄想局

李信の子孫|表舞台から消された羌族との関係|ZUUMA|新解釈キングダム・中国古代史妄想局

イスラエルの調査機関アミシャーブのDNA調査により、中国の羌族は代表的なマナセ族の末裔だと断定されています。

李信の後裔とされる拓跋部の李氏は、機会があれば詳しく書きますが、驚くべきことに羌族の血が流れていたようです。その李氏は、漢民族を重用して巨大な戦力を作ったとされています。

よって、李氏(拓跋部)が討った匈奴という構図は、羌族vs匈奴という見方をすることも出来ます。多民族間の覇権争いだったんですね。そしてその羌族は、ヤコブ(ユダヤ人の先祖)の後裔なのです。

https://note.com/kazugaga/n/nf00f39f0d134

李信の子孫|表舞台から消された羌族との関係

見出し画像

前回の記事です。

今回は、もう少し李信やキングダム登場人物の足跡を少し追ってみたいと思います。

3~4世紀、中国北方や西方で活動していた氏族が、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌。この5勢力がしのぎを削った時代が五胡十六国時代と呼ばれています。

この群雄割拠の時代を終わらせたのが、拓跋珪こと道武帝です。北魏を建国するわけですね。彼が、キングダムで大活躍している李信の後裔というわけです。

私見ですが、古代中国では民族紛争(遺恨戦争)が多かったと思っています。

なぜか。それにはまず、古代イスラエルの失われた10氏族(枝分かれしたマナセ、エフライムを入れて12氏族)についての、画像をご覧ください。

12氏族

イスラエルの調査機関アミシャーブのDNA調査により、中国の羌族は代表的なマナセ族の末裔だと断定されています。

李信の後裔とされる拓跋部の李氏は、機会があれば詳しく書きますが、驚くべきことに羌族の血が流れていたようです。その李氏は、漢民族を重用して巨大な戦力を作ったとされています。

よって、李氏(拓跋部)が討った匈奴という構図は、羌族vs匈奴という見方をすることも出来ます。多民族間の覇権争いだったんですね。そしてその羌族は、ヤコブ(ユダヤ人の先祖)の後裔なのです。

見えてきましたでしょうか。もちろん、純血(単一血族)はありえませんので、混血は進んでいたとしても、勢力地からどの「色濃い血族」が支配してきたのかは史実が証明している通りです。

かなり端折って、キングダム以降の登場人物を血族の観点から書いておきます。

✅始皇帝…古代イスラエル人(古代ユダヤ人)の後裔として、中華を史上初めて統一(父親から分かるように、中原の民ではなかった)。
✅呂不韋…始皇帝の父親、古代イスラエル人(ユダヤ商人)。呂氏の始祖である姜子牙(呂尚)は羌族である。
✅李信…秦に使えた将軍。後裔は羌族と混血して北魏の太祖・拓跋珪に。
✅劉邦…漢民族。始皇帝を倒し漢民族初の統一国=前漢を建国。妻は呂雉(当然、羌族)。呂氏は劉一族により誅殺される。
✅拓跋珪(道武帝)…李信の子孫で、北魏を建国。

なんとなく、流れが見えてくると思います。今では少数民族である羌族は、古代中国において相当のチカラを持っていた民族でした。それが漢以降、その活躍の痕跡すら消されてしまっているのは、「漢民族による中華統一」が前提であり、異民族による中華統一はあってはならないのです。

日本の天皇を万世一系としなければならないために創作された記紀の神話のように、羌族の筆頭であった呂氏は漢以降、表舞台から消されてしまうのです。呂不韋は悪者であり、呂雉は中国三大悪女の1人であり、シルクロードの開拓も羌族ではなく漢の時代の武帝の功績であり、呂氏の血が流れていた始皇帝は暴君とされているのです。

本当にそうであったかもしれませんが、私が見てきた限り、必要以上に少数民族は表舞台から消されています。特に羌族の呂氏に関しては。生きているうちには叶いそうにありませんが、始皇帝の遺伝子分析が出来たら、もう少し詳しいことが分かってくるかもしれません。

今の中国(少数民族は国家を統べることは出来ない)に通じるものが、古代中国から流れている気がしてなりません。これこそが、私が羌族や呂氏について深堀りしている理由であり、日本人では恐らく司馬遼太郎が少し感づいていたかもしれない古代中国の秘密なのです。

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契約の民の流浪史

契約の民の流浪史

 一方、神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)に率いられる北九州の豪族は、その後朝鮮半島に新羅を建国したらしい。しかし邪馬台国も大和王権もしばしば新羅に出兵し、百済よりの外交姿勢を採った。応神天皇の時代にも二度出兵し、新羅の妨害を退け、秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて日本に帰化するのを助けた。イスラエルの調査機関アミシャーブによれば、秦氏はマナセ族の末裔らしい。仮に『本朝皇胤紹運録』の記述が正しいとすれば、継体天皇直系の現皇室もマナセ族の末裔と言うことになりそうだ。
http://www.seanewsonline.com/ebook/intro0506.htm

契約の民の流浪史



契約の民の流浪史 (キリスト教の起源)



村上厚

 

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[序文]  チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアからパレスチナにかけた地域には、古くから農耕民と遊牧民が共生する都市国家が興亡して来た。大部分の都市国家の主役は農耕民だったが、遊牧民は、西方のエジプトのみならず東方のインドや中国とも交易し、異文化融合の触媒を務めて来た。
 これらの遊牧民には、メソポタミアやエジプトの文化的背景を有するルベン族、シメオン族、レビ族、ユダ族、ゼブルン族、イッサカル族、ダン族、ガド族、アシェル族、ナフタリ族、ヨセフ族、ベニヤミン族以外に、チベット人や日本列島の先住民縄文人に特徴的な『Y染色体D』遺伝子を保持し、古モンゴロイド(Paleo-Mongoloid)に属すると見られるエフライム族とマナセ族が含まれ、それぞれ異なる氏神を奉じていたが、今から3000年乃至4000年前に単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合を組織、農耕民に替わって歴史の表舞台に登場した。契約の民の誕生である。
 ユダヤ教は元来排他的で内向的な宗教だったが、イスラエルの十二部族が、古モンゴロイドに属し外向的且つ融和的なエフライム族とマナセ族を取り込んだことにより、ユダヤ教やキリストは、地中海沿岸地域のみならず、中央アジアやインド中国、さらには日本列島まで伝播、また東方キリスト教諸教会の原点とされる景教が、イスラム教の誕生や大乗仏教運動の起爆剤の役割を担った。こうしてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒として、生き続ける契約の民の総数は,今や34億人に達すると言う。




第四部:トマスの東方伝道
[9]トマスの北京伝道と倭国のえにし

 さて久保有政氏によると、トマスはイエスが昇天した2年後、したがって西暦35年頃、アッシリアからインドに赴いた後、チベットを経由して中国に伝道、西暦62年に現在の北京に至り、教会(会衆)も組織したらしい。それにしても、トマスは何故後漢の帝都洛陽や長安ではなく、薊県(けいけん)と呼ばれた北辺の地方都市に赴いたのだろうか。パウロにしろヨハネにしろ、当時の使徒達は皆、ユダヤ人コミュニティーがすでに存在した地域に伝道しており、恐らく当時の北京にもユダヤ人コミュニティーが存在していたものと見られる。
 そういえば、中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、秦の王賁(おうほん)将軍が魏の王都大梁(現在の河南省開封)を陥落させた紀元前231年に同市に最初のユダヤ人コミュニティーが形成されたと記されていると言う。そのほぼ十年後の紀元前226年に王賁将軍は燕の王都薊城(北京)を陥落させ、紀元前222年に燕を滅した。
 秦の母体と見られる羌族(きょうぞく)は文字通り羌(ひつじ)を放牧する遊牧民で、イスラエルの失われた十部族の帰還援助組織アミシャーブによれば、典型的なマナセの末裔という。
 このため王賁将軍には直属のユダヤ人傭兵部隊が存在し、同将軍が転戦した地域にはこうした傭兵部隊の家族のコミュニティーが形成されたのではなかろうか。
 ちなみに春秋戦国時代から秦漢時代に書かれた中国最古の地理書『山海経』には「蓋国は燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」と記されている。これが中国の書籍に『倭』が登場する最初の例とされる。どうやら春秋戦国時代から秦漢時代にかけて『倭』は『燕』の一部と見なされていたようだ。だとすれば、トマスが燕の古都薊城を訪れた当時、同地のユダヤ人コミュニティーは、饒速日尊がエフライムの協力の下に近畿地方に建てた大和国や、応神天皇の時代に日本に帰化したマナセ族の末裔の秦氏と密接な関係を保持していた可能性がありそうだ(後述)。



○エフライムとマナセが皇室の朝鮮ルーツを媒介

 日本書紀と古事記の記述は、皇室が新羅と百済双方と血縁を有することを暗示しているが、イスラエルの失われた十部族の中のエフライム族とマナセ族がどうやらその媒介を務めたようだ。
 最初に降臨した饒速日尊が近畿地方に王権を樹立した際、天遜族の証しとして『ヤーウェの民』を意味するアラム語『ヤー・ウマト』にちなんで自らを大和王権と称したことから縄文人を含む日本列島居住者がヤマト族を自称するようになり、その後誕生した邪馬台国の国号にもなった。
 北九州の筑紫地方を地盤とした朝鮮系豪族(磐井?)の東征将軍(神武天皇)は、近畿地方を制圧した際、大和王権の名称を引き継ぐとともに、自らを『サマリヤの王、ヤハウェのエフライム族の高尚な創設者』を意味する神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと:カム・ヤマト・エフライム・ペコ・シュメロン・マクト)と称した。このことから、饒速日尊はエフライム系ユダヤ人の協力の下に大和王権を樹立し、神武天皇もその伝統を引き継いだことが窺える。
 一方、神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)に率いられる北九州の豪族は、その後朝鮮半島に新羅を建国したらしい。しかし邪馬台国も大和王権もしばしば新羅に出兵し、百済よりの外交姿勢を採った。応神天皇の時代にも二度出兵し、新羅の妨害を退け、秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて日本に帰化するのを助けた。イスラエルの調査機関アミシャーブによれば、秦氏はマナセ族の末裔らしい。仮に『本朝皇胤紹運録』の記述が正しいとすれば、継体天皇直系の現皇室もマナセ族の末裔と言うことになりそうだ。
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ブネイ・メナシェ - Wikipedia

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ブネイ・メナシェ

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2015年3月

ブネイ・メナシェヘブライ語: בני מנשהメナシェの子どもたちの意)とは、インド北東部(マニプールミゾラム)の少数派ユダヤ人

失われたユダヤ10支族の1つであるマナセ人(メナシェ族)の末裔という言い伝えを持つが、チベットビルマ系の山岳狩猟部族の系統に属し、永らくアニミズムを信仰していた。しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、宣教師の影響でほぼ全員がキリスト教に改宗。

1953年、部族の長がイスラエル帰還の夢を見たのをきっかけに、突如としてユダヤ教に回心。一度は部族ぐるみで徒歩によるイスラエル移住を図るも、大自然に阻まれて挫折。しかしこれ以降、徐々にユダヤ教徒が増えていき、1972年までには数百人の部族民はユダヤ教の信仰に戻っていたという。20世紀後半、彼らの主張を調査していたユダヤ教ラビが彼らの主張に基いて、彼らをブネイ・メナシェと名付けた。ミャンマーからインド北東部にかけて、ミゾ、クキ、チンといった名前でよばれるチベット・ビルマ系の言語を話す少数民族が分布、彼らは同じチベット・ビルマ語族といってもしばしば互いに言葉が通じないほど異なることも多いが、歴史的なつながりや相互の交流等もあって同系統の民族とされている。これらの一部からユダヤ教徒となる者が出た形である。

イスラエルのユダヤ人団体はこれを知り、ブネイ・メナシェをイスラエルに移住させるべく尽力。この結果、1994年から2003年にかけて800人のブネイ・メナシェはイスラエルのユダヤ人入植地に移民した。彼らの入植地はガザ地区やヨルダン川西岸地区など、特に争いの多い地域である。彼らがイスラエル入植を許されたのは、パレスチナ問題での領土争いを背景に、ガザ地区やヨルダン川西岸地区でのユダヤ人口を増やし、これらの地区におけるイスラエルの覇権を既成事実化したいというイスラエル政府の意向が関係していたともいわれる。また、イスラエル現地ではこれを経済移民として捉える向きも多いという。

2004年セファルディムの主席ラビであるシュロモ・アマルから、正式にメナシェ族の末裔として認定を受ける。ただし彼らがメナシェ族の末裔であるとの人類学的な根拠は薄く、アマルの決定は民族的なものというよりもむしろ政治的なものであったといわれている。これ以降、ブネイ・メナシェは帰還法のもとに堂々とイスラエルに移住できるようになったが、彼らは永らくユダヤ教から離れていたため、イスラエル移住には完全な改宗を経ることという条件が付けられた。

2005年9月、ラビ委員会によって700人のブネイ・メナシェは完全にユダヤ教へ改宗。この段階で、9000人が改宗手続を待っていた。

2005年11月、インド国民であるブネイ・メナシェをユダヤ教に改宗させてイスラエルに移民させることについてインド政府から抗議を受けたため、イスラエル政府はブネイ・メナシェの改宗を中止すると決定。武器輸出の得意先であるインドから不興を買うのを恐れたためといわれている。

イスラエル政府はガザとヨルダン川西岸からのユダヤ移民の引揚を決定したため、2005年以降、ブネイ・メナシェの立場は極めて不安定になっている。

関連項目

Amazon.co.jp: 日本とユダヤ 運命の遺伝子 (ムー・スーパーミステリー・ブックス) : 久保 有政: 本



(5)Y染色体DNAのD2系統の多い日本本土・琉球とチベット近辺にのみ、それぞれエフライム、マナセとしての古代ユダヤの伝統が受け継がれている。
 Y染色体DNAのD2系統を持ち、なおかつ、ユダヤ文化の独自性を持った大きなグループが、短期間で東の方へ移動して、朝鮮半島から日本に入って住みついた、としか考えようがない。このD2系統には、特徴的な変異:「YAP」(ヤップ)とよばれる挿入部分(300塩基)をもち、これは D、E系統のみに含まれ、他には存在しない。 12部族のうちのエフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統であり、現在、エフライムを自称する民族は多いので、神様は、この特別な変異のしるしをエフライムとマナセだけに与えたのではないだろうか? ヨセフ族、エフライム族にはリバイバルにかかわる特別な祝福が預言されている。
      XY(ヨセフ)+ XX (YAP)(DE *:アセナテ)→ XYYAP(D:マナセ、エフライム)

(6)エフライム族末裔の夫余族の「夫余はヘブル=フル」のヘブライの意味
▼大和民族となる前の呼び名のシウク、またはシウクシクは震えのことである。扶余のフヨ、またはプヨとはシウクと同じ意味のフルエ、またはフルからきている説がある。
シウクが大和王朝や大和民族の古い呼び名なのかというと、それは朝鮮半島にあった騎馬民族の辰王朝が、わが国に渡って来たという説によっている。 辰国の本当の名称はシウクであって、その王朝はシウクシと言った。意味はふるえる、または、ゆらゆらと言うことであるらしい。それを中国風にあらわしたものが辰国なのである。つまり、辰国の名称と大和民族となる前の呼び名は同じシウク、またはシウクシクである。その後、辰王朝は九州へ渡ったが、残った分家と同系部族がまとまって作ったのが百済となった馬韓である。辰国のもう一つの跡地に、百済とは別に、百済から分かれた氏族と、秦の亡命貴族との合体によって作られたのが新羅である。
▼扶余(フヨ)はツングース語で鹿(プヨ)の意味としているが、これはずばり、ヘブライ人によくある名前のフルからきているのかもしれない。
▼北イスラエル王国エフライム王家の紋章は一角獣(ユニコーン)であり、北東アジアで角のある鹿が選ばれ、鹿(プヨ)=扶余(フヨ)となったのではないかと思われる。
▼高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)の長男沸流(フル=ヘブル)の子孫が出雲に渡来してスサノオノミコトが出雲国を建国した。
▼スサノオノミコトの父は(フツ)、スサノオノミコトは(フツシ)、ニギハヤヒミコト(フル=ヘブル)として石上神宮に祭られていることから、スサノオノミコトの出雲国とスサノオノミコト5子のニギハヤヒミコト建国の大和・出雲国は、エフライム族末裔による古代北イスラエル王国再興であり、この大和・出雲国の末子相続人イスケヨリヒメに邪馬台国女王卑弥呼孫の磐余彦尊が婿入りして大和・出雲国と邪馬台国が統合した「大和朝廷」が成立し、磐余彦尊が「神武天皇」即位している。 
そうすると、「神武天皇」の和風諡号の意味が理解できる。
 つまり、スサノオノミコトは高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)→満州の北扶余国王 解慕漱(ヘモス)・解夫婁(ヘブル)→古代北イスラエル王国王家エフライム族に繋がるが、神武天皇の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明している。

(7)万世一系の天皇家は世界で最も長く続いている王家
 聖書預言によれば、今もエフライム王室が古代から絶えることなく世界のどこかで存在していることであり、それに当てはまるのは日本の皇室しかない。
北朝正統論の立場でいうと、「北王国が正統なのは実は議論するまでもなく明白なのです。
 仮に聖書の記述を信ずるならば、イスラエル=ヤコブの嫡子ヨセフの嫡子エフライムと続く正系、嫡流が聖書に明記されているから。だからこそ北王国が「イスラエル」と呼ばれたのです。
 ユダ王国などは建て前上、反乱勢力にすぎない。失われた10部族=北王国の方が正統であり、この「失われた10部族」がそろわない限り南王国の子孫にすぎないユダヤ人が「イスラエル」を自称することは本来まちがっているのです。
 イスラエルによる「エフライムの、その子孫は、多くの国民となる」という預言は当たらなかったのだろうか。 いや、エフライム王家の血統である天皇家を擁く日本民族はその預言を実現している!

slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

https://x.com/slowslow2772/status/1870755067856564444?s=61     slowslow2772 ⁦‪@slowslow2772‬⁩ 使徒トマス pic.x.com/cQvfnZHbWu   2024/12/22 17:55 ...