写楽の正体はとっくに判明しているのに…物語の最終盤であえて史実無視の設定を放送する「べらぼう」の残念さ
写楽の正体はとっくに判明しているのに…物語の最終盤であえて史実無視の設定を放送する「べらぼう」の残念さ
■正体は徳島藩主お抱えの能役者 江戸時代末期の町名主で文化人でもあり、『江戸名所図会』などの著作で知られる斎藤月岑は、天保15年(1844)に刊行された『増補浮世絵類考』に次のように書いている。「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯(註・徳島藩主)の能役者なり」。つまり、写楽とは八丁堀に住む徳島藩主お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛だ、というのである。 この説はドイツの牧師兼著述家で、浮世絵研究家でもあったユリウス・クルトも、写楽の最初の評伝『SHARAKU』で採用している。ただ、斎藤十郎兵衛が実在したことを示す史料がなかったため、写楽は「謎の人物」とされ、「写楽とはだれか」という謎解きが盛んになった時期があった。 しかし、現在では斎藤十郎兵衛の実在が確認され、写楽イコール十郎兵衛というのが、すでに定説になっている。 たとえば、三代目瀬川富三郎が江戸の文化人について記した『江戸方角分』に、「号写楽斎地蔵橋」と書かれていたことがわかった。これは浮世絵師の写楽斎が、八丁堀地蔵橋に住んでいた、という意味である。また、埼玉県越谷市にある斎藤家の菩提寺、法光寺で発見された過去帳に、八丁堀の地蔵橋に住んでいた徳島藩士の斉藤十郎兵衛が58歳で死去し、文政3年(1820)に千住で火葬された、と記されていることもわかった。 ■リアルすぎる役者を描けた納得の理由 ほかに徳島藩主だった蜂須賀家の古文書や能役者の名簿などにも、斎藤十郎兵衛の名が確認されている。もはや写楽が十郎兵衛であったことを疑う余地は、残されていないといっていい。 さらにいえば、「東洲斎」という姓の漢字を入れ替え、「斎東洲」とすれば「さいとうじゅう」と読める。実際、「洲」という字は江戸時代には「しゅう」ではなく「じゅう」と、濁点をつけて読まれていたという指摘もある。 写楽が描いた役者の大首絵は、良くも悪くもリアルだった。リアルすぎるあまり、理想化された役者の絵姿を求めるファンには、いまひとつ不評だったといわれる。大田南畝は『浮世絵類考』に次のように書く。「歌舞伎役者の似絵をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず」。歌舞伎役者の似顔絵をあまりにリアルに描きすぎたので、長く支持されなかった、というのだ。 しかし、それほどリアルに描けたのは、描き手の十郎兵衛自身が役者だったからではないだろうか。松嶋雅人氏は次のように書く。「十郎兵衛も演者です。その絵は役者の所作や舞台上での身体の使い方を知っている人の描きぶりだとよく指摘されます。しかし彼は役者絵の定石や、大衆娯楽である歌舞伎界の不文律に疎かった。固定観念がないからこそ、すさまじくリアルな役者絵を、自由に描くことができたのではないでしょうか」(『蔦屋重三郎と浮世絵』NHK出版新書)
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