佐賀県立名護屋城博物館(唐津市)は、名護屋城跡に隣接する国の特別史跡「前田利家陣跡」(同市鎮西町)で、堀に渡された陣の出入り口となる施設「枡形(ますがた)土橋」とみられる遺構が見つかったと発表した。 【イメージ図】名護屋城、前田利家の陣 同様の形状をした施設は全国でも例が少ないうえ、城に使われるような技法も施されていた。巨大な陣跡で見つかった異例の遺構に、専門家は「陣と言うよりも、まるで城だ」と指摘する。 ◇諸大名の陣で2番目の大きさ 名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮半島に大軍を送った文禄・慶長の役に合わせて1591年に築城され、7年間にわたり大陸侵攻の拠点となった。 面積は約17ヘクタール、周囲には諸大名の陣が約160カ所築かれ、全国から20万人超が集まったとされる。城跡は国の特別史跡に指定されている。 豊臣政権を支える五大老の一人だった前田利家は、名護屋城に隣接する場所に陣を構えた。前田陣は1977年度以降の発掘調査の結果などから、「筑前山」と称される丘陵部約13ヘクタールに大小200を超える曲輪を配し、大きさは諸大名の陣で2番目に大きいことなどが判明していた。 2000~06年度の調査では、丘陵西側の裾野に掘立柱建物や池泉、井戸などの遺構を確認。庭園や茶室との関連性もうかがえるといい、秀吉が前田陣を訪れていたという記録もあることから、陣の一部が「おもてなし」の空間とされていたと考えられている。 ◇専門家「まるで城」 25年度は「おもてなし」空間の北西側の区域を調査。その結果、幅約6メートルの石塁や小さな玉石(約3センチ以内)が敷かれた「玉石敷(たまいしじき)」の遺構を確認。石塁の北西部には隅に置かれる「角石」や入り口付近に置かれ、権威を示す1枚石「鏡石」(幅約2・2メートル、高さ約1・1メートル以上、厚さ30センチ)も見つかった。 この区域の周辺は地形図などから、陣を囲むように堀があった可能性が高い。調査結果から、堀に渡された土橋が方形となった枡形土橋(南北約22メートル、東西約18メートル)があったと考えられるという。 城主の権威を高めるための鏡石や玉石敷の装飾は一般的な陣では見られず、土橋部分が枡形となった例も大坂城や松本城などほとんどない。これらの状況から、枡形土橋は「おもてなし」空間につながる導入部として造られたとみられる。 4日、前田利家陣跡で開かれた発表会に同席した歴史学者の平山優氏は「(名護屋城の様子が描かれた)肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)で陣はあまり立派に描かれていなかった。精査する必要がある」、千田嘉博・名古屋市立大教授(城郭考古学)は「陣のイメージを塗り替える画期的な調査結果だ。規模などからも陣と言うよりも、まるで城だ」と評した。 名護屋城跡では23、24の両日、「名護屋城大茶会」と「出張!お城EXPO」のコラボイベントを開催。平山氏が参加するクロストークのほか、人気の学者4人によるフォーラムなどもある。今回の発掘成果に関する現地説明会も開かれる。 問い合わせは県文化課(0952・25・7236)。【石川貴教】
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