海部氏の謎1⃣ 海部氏が代々奉斎した籠神社の「闇」
海部氏の謎シリーズ①
珍彥と彥火々出見命の「闇」
下画像は、丹後國一宮 籠神社『倭宿禰命像』で、ケーブルリフト乗り場口から入ると亀の像とともに参拝者を出迎えてくれる。
この倭宿禰命を籠神社では
別名:珍彦、椎根津彦、神知津彦 籠宮主祭神 天孫 彥火明命 第四代 海部宮司家四代目の祖。神武東征の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建國の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰 やまとすくね の称号を賜る。外に大倭国造、倭直とも云う。
と、像隣の案内板で説明している。
『日本書紀』巻第三 神武紀 には、
至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。…(略)乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。
と、あり、珍彥 うずひこ を倭國造にしたと記している。
この珍彥は、神武天皇が九州を出発して速吸門 はやすいのと に来た際に、船に乗って来た漁人(國ツ神)であり、航路の先導をしたとされる。その後、椎根津彥 しいねつひこ の名を賜ったとなっている。
注目すべきは、「珍彥本人が 國神 」と名乗っていること。
『勘注系図』の前段によれば、珍彥は火明命の孫、宇豆彥命として出ている。
ここで『勘注系図』を含む海部氏系図について簡単に説明したい。
海部氏系図について
海部氏系図とは、『籠名神社祝部氏係図』一巻(本系図)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』一巻(勘注系図)からなり、本系図は海部氏始祖 彦火明命から平安時代初期の海部直田雄まで記載されているが、代々の宮司のみの記載。また、途中、二、三世と第五世から第十八世までを欠いている。
『勘注系図』は、始祖 彥火明命から始まり、その直系子孫の兄弟姉妹も註付きで記している。始祖から第三十四世までが記され、各神、人の事跡により詳しい補注を加え、当主の兄弟やそこから発した傍系をも記す箇所もあり、『記』『紀』はもちろん、『先代舊事本紀』などの古記録にも見られない「独自」の伝承を記すとともに、「本系図」上代部で省略されたと思われる箇所も『勘注系図』で補ってはいる。しかし、いろいろと問題が多い のは事実。
さて、火明命の孫とする宇豆彥命(珍彥)に戻す。
宇豆彥命
珍彥は、神武天皇が速吸之門にさしかかったときに海路を案内するために出迎えた國ツ神である。土地の神や豪族が支配者を出迎える説話は、支配者への服従を意味する。速吸之門にどうして珍彥がここにいたのかという問題もあるけれど、この話は大和土着の國造が「古くから王権に仕えていた」事実の説話化ではないだろうか、とも考える。←まあ、大和だから…
『先代舊事本紀』國造本記では
大倭國造 橿原朝 御世 以 椎根津彥命 初為 大倭國造
と、ある。
珍彥は、神武天皇に服従した人物として出ている。と、なると、倭國造は海路を案内する海人族であり、漁民の頭という理解なのだろうか。『先代舊事本紀』皇孫本記には
誕生彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊。次武位起命。大和國造等祖。
臣是國神
なのに、なぜ彥火明命を祖とする珍彥は「臣是國神」と名乗ったのか。果たして珍彥は、「國ツ神」なのだろうか。なぜ『記』『紀』では、珍彥を「國ツ神」としたのだろうか。
例の『勘注系図』によれば(原文(引用)は、読み飛ばし可。)
始祖 彥火明命。
亦名 天火明命 亦名 天照國照彥火明命 亦名 天明火明命、亦名 天照御魂命、此神 正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊 第三之御子、母 高皇産靈神女 栲幡千々姫命也、彥火明命坐於高天原之時、娶 大己貴神女 天道日女命、生 天香語山命、天道日女命者、亦名 屋乎止女命、(大己貴神 娶多岐津姫命、亦名 神屋多底姫命 生 屋乎止女命、亦名 高光日女命)、上天到于御祖許、然后降座于 當國之伊去奈子嶽矣。(略)往昔豊宇氣大神天降于當國之伊去奈子嶽坐之時、天道日女命等、請於大神五穀及桑蠶等之種矣、便於其嶽、堀眞名井、灌其水、以定水田陸田、而悉植焉、 則大神見之大歓喜、詔阿那邇恵志面植彌之与田庭、然后復大神者、登于高天原焉、故云田庭也。(略)
天照大神の子である天押穂耳尊の子、彥火明命は高天原にいたときに大己貴神の女、天道日女命を娶り…(略)その後、伊去奈子嶽に降臨した。そして五穀や桑蠶などの種をもたらし、眞名井を掘り、その水で水田陸田を開発した。それを大神がご覧になって大そう喜ばれ、以来、この地を「田庭」と云うようになったとしている。
然后、天祖乃二璽神寶(息津鏡及邊津鏡是也、副賜天鹿兒弓天羽〃矢)、授于火明命、而詔汝宣降坐于葦原中國之丹波國、奉齋此神寶、而速修造國土矣、故爾火明命受之、降坐于丹波國之凡海息津嶋
天祖の二璽神寶、即ち息津鏡と邊津鏡を火明命に授け、葦原中國の丹波國へ降臨し、この神寶を奉斎して速かに國土を修造せよ、と命ぜられた。火明命は命を受け、丹波國の凡海息津嶋へ降臨された」とある。
つまり、天孫 彥火明命が降臨したのは旦波國(タニハ國)の凡海息津嶋 おほしあまおきつしま 。その上で『勘注系図』は、彥火明命の三世孫が宇豆彥命(珍彥)と伝えている。
※凡海息津嶋とは、籠神社から東の海上、20キロ余の冠島と沓島。
冠島沓島遙拝所 2022年7月14日(木)撮影 冠島と沓島は、籠神社の海の奥宮とされている。右側が冠島。
遙拝所は、籠神社の倭宿禰命像近くの府中駅からケーブルカーで7分。
このように実際には旦波に降臨した天孫系の火明命裔としての宇豆彥命(珍彥)を、「國ツ神」としたのは何故か。そしてなぜ、倭國造として任じたのだろうか。
國ツ神問題を解くカギ
『勘注系図』では、宇豆彥命は倭宿禰命の父祖としている。だが、海部氏本系図では宇豆彥命を省略し、始祖火明命からすぐに倭宿禰命へつなぎ、そこにただ「三世孫」とだけ記している。この本系図には丹後國庁の印が押されている。(丹後國庁の角印は、各当主の上に押され、二十八個を数える。)つまり、本系図は丹後國庁に提出する系図であるから、具合の悪い宇豆彥命は削除した とも考えられる。(倭宿禰命は削除していず、本系図に載せている。)
『日本書紀』では、彥火明命を瓊々杵尊の子とし、かつ彥火々出見命弟としている。系図にすると以下の通り。
┌─火酢芹命
天照大神──天忍穗耳命──天津彥彥火瓊々杵尊──├─彥火々出見命
└─火明命
だが、『勘注系図』巻首 始祖彥火明命では、
此神 正哉吾勝勝也速日天押穂耳命 第三之御子
と、瓊々杵尊を通さず、ダイレクトで天押穂耳命の第三御子としており、『日本書紀』とは所伝が異なっている。海部氏側と『日本書紀』では系譜伝承が異なっているとしか言いようがなく、真偽のほども確かめようがない。また、海部氏系図(本系図)では、上代部分は三神の記述以外は欠いた状態である。
これらを考えてみると、『日本書紀』の編者の立場では九州に降臨した天孫 瓊々杵尊の神話をメインとすることは当然であって、海部氏側(本系図)でも削除してしまわねば都合が悪い所伝であれば、『日本書紀』と『勘注系図』とでどちらに軍配を上げるかとするならば、誰しもが『日本書紀』とするだろう。
むしろ、海部氏側に始祖とする火明命が 彥火々出見命の弟 であっては困る事情があったのではとすら考える。
旦波國に降臨した彥火明命の直系を強く主張する海部氏では、 彥火々出見命の親神としての彥火明命を主神 として 養老三年より 籠神社で奉斎している。それまで奥宮「龍宮」の地で祀っていた彥火々出見命を、わざわざ境内社の「恵美須社 えびすしゃ 」に移している。(格下げ蟄居?)
御祭神 彥火々出見命、倭宿禰
由緒 大化以前の籠宮の元神であり主祭神であったと伝えられる
と、記している。それまで祀っていた彥火々出見命を恵美須社に蟄居させ「養老三年から彥火明命を籠神社で奉斎することにした」ならば、海部氏にとっては「始祖 彥火明命は、彥火々出見命の「弟」であってはならない」という重要な命題があったのだろうと思われる。また、皇孫 瓊々杵尊の存在も、海部氏には不要だった のかもしれない。
大胆かもしれないが、海部氏は養老三年に系図の改竄(系譜仮冒)をしたのではないかと考えている。
【安曇系統】
大己貴命──綿積豊玉彥命──布留多摩乃命──武位起命──珍彥(倭國造祖、明石國造祖)
確かに、彥火明命の直系を系譜仮冒しようとしているのに、大己貴命からの流れの珍彥を海部氏系図に入れてしまったのでは不具合だろう。だが、彥火々出見命を籠神社で祀っていたところに、この氏族の真実が隠されている ようにしか見えない。
丹後國には日向神話の神を祀る神社は(瓊々杵尊を祀る)比沼麻奈爲神社のみと思い込んでいたら、籠神社も彥火々出見命を祀る神社だったのだ。これら、海人族としての 安曇族や宗像族の集団 が日向神話を持って日本海で活躍したからこそ、日向神話の神々が日本海側各地の神社で祀られているのである。
つまり、「海部氏は、彥火明命裔などではなく、安曇族等の海人族の一派(國神)であった」ろうと考えられる。宇豆彥命が「臣是國神」と名乗った通りなのである。=であるから、『海部氏系図』等を秘伝にせねばならなかったという事実。





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