2025年11月6日木曜日

藤原定家(1162-1241)は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわが…



藤原定家(1162-1241)は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」と書いた。定家が『明月記』を書き始めた時期の、源平争乱が激化した治承四(1180)年の記事の中に、「九月、世上乱逆追討雖満耳、不注之、紅旗征戎非吾事」とあるところから、すでに19歳で定家は、政治、軍事から距離を置いて和歌の道に生きる決意を持った証しとされ、60歳で迎えた承久の乱に際してもこの心であったと理解されていたが、辻彦三郎は、『明月記』の個所は、後世、寛喜二(1230)年、70歳前後の定家自身による追記であるとした(辻彦三郎『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館、1977年、94頁)。
ちなみに林直道『百人一首の秘密』によれば百人一首は10×10の歌織物として構成されており、後鳥羽上皇と和歌を楽しんだ水無瀬離宮(水無瀬殿)の周辺の情景が定家によって暗示されているという。

藤原定家(1162-1241)は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」と書いた。定家が『明月記』を書き始めた時期の、源平争乱が激化した治承四(一一八〇)年の記事の中に、「九月、世上乱逆追討雖満耳、不注之、紅旗征戎非吾事」とあるところから、すでに十九歳で定家は、政治、軍事から距離を置いて和歌の道に生きる決意を持った証しとされ、六十歳で迎えた承久の乱に際してもこの心であったと理解されていたが、辻彦三郎は詳細な研究の末に、『明月記』の治承四年の個所は、後世、寛喜二(一二三〇)年、七十歳前後の定家自身による追記であるとした(辻彦三郎『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館、昭和五十二年、九四頁)。

林直道『百人一首の秘密』によれば百人一首は10×10の歌織物として構成されており、後鳥羽上皇と和歌を楽しんだ水無瀬離宮(水無瀬殿)の周辺の情景が定家によって暗示されているという。


藤原定家(1162-1241)は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」と書いた。定家は、自分は歌人であって、政治家でも武士でもないのだから、戦さは自分には関りがないとしているのである。この言葉はこの個所の記述により有名になり、定家が『明月記』を書き始めた時期の、源平争乱が激化した治承四(一一八〇)年の記事の中に、「九月、世上乱逆追討雖満耳、不注之、紅旗征戎非吾事」とあるところから、すでに十九歳で定家は、政治、軍事から距離を置いて和歌の道に生きる決意を持った証しとされ、六十歳で迎えた承久の乱に際してもこの心であったと理解されていたが、辻彦三郎は詳細な研究の末に、『明月記』の治承四年の個所は、後世、寛喜二(一二三〇)年、七十歳前後の定家自身による追記であるとした(辻彦三郎『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館、昭和五十二年、九四頁)。

林直道『百人一首の秘密』によれば百人一首は10×10の歌織物として構成されており、後鳥羽上皇と和歌を楽しんだ水無瀬離宮(水無瀬殿)の周辺地図が定家によって暗示されているという。

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藤原定家(1162-1241)は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわが…

藤原定家(1162-1241)は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」と書いた。定家が『明月記』を書き始めた時期の、源平争乱が激化した治承四(1180)年の記事の中に、「九月、世上乱逆追討雖満耳...