2025年11月1日土曜日

中国の最初の王朝。『史記』では三皇五帝に次いで禹が建国したと伝え、殷に滅ぼされたとされている。その実在は疑われていたが、最近は考古学上の発見が相次ぎ、中国では実在した最初の王朝として公認されている。日本の学会では、青銅器文化の二里頭文化の時期に該当するが、甲骨文字が出土していないので国家の発生とは認めておらず、依然として殷を最古の王朝としている。

 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、殷(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子の桀は暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され殷王朝に交代したという。日本においては、夏王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説明にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、夏王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では夏王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「夏王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが予想されている。

夏王朝実在説

 この夏王朝は、黄河中流域における農耕社会の形成の中で造られた伝説的な王朝であって実在したものではないと考えられていたが、最近黄河中流の竜山文化を夏王朝の時代とする主張も有力になっている。現在注目されているのは、1950年代に発見された、河南省の二里崗遺跡(前1600年頃)と二里頭遺跡(前2000年頃)の青銅器文化である。これらの遺跡で殷墟よりも古い青銅器が見つかっている。二里崗遺跡は殷時代にあたるとされており、それより古い二里頭遺跡を夏王朝のものとする説も有力になっている。二里頭から見つかっている城壁を夏王朝の都とする説がかなり有力となっている。

Episode 夏王朝の都発見か

 2004年7月21日付『朝日新聞』朝刊は、「中国の伝説上、最古の夏王朝(紀元前21世紀~同16世紀)の都があったと推定されていた河南省偃師市の「二里頭遺跡」から、大規模宮殿を持った古代都市跡がこのほど発見された。中国科学院考古学研究所などは、今から3600年以上前の中国最古の都ととしており、夏王朝が殷王朝(紀元前16世紀~同11世紀)に先立つ王朝として実際に存在した可能性が一段と強まった。」と新華社通信のニュースを掲載した。遺跡からは面積10万平方メートルに及ぶ整然とした都市であり、宮殿跡は東西300m、南北360~370m、城壁の幅約2m、順序よく配列された建築群や、青銅器の祭祀用品が見つかっているという。

参考 中国の教科書での夏王朝

 中国の中学校歴史教科書では、夏王朝について、原始社会から奴隷制社会に移行に伴って紀元前21世紀に成立した中国史上最初の世襲制王朝である、と定義している。その最初の王都の陽城の位置は不明であるが、最近の発掘によって河南省登封県の城跡が有力とし、夏の後期の宮殿跡が河南省の二里頭遺跡であるとしている。<『世界の教科書シリーズ5中国中学校歴史教科書・中国の歴史入門』小島晋治/並木頼寿監訳 明石書房 p.76 右図も同書より>

二里頭遺跡とは

※二里頭遺跡が夏王朝の都であるとする根拠は次のようなことが挙げられている。
  1. 遺跡の中心の宮殿区は回廊で囲まれた巨大な正殿と広い中庭をもち、後の中国歴代王朝の宮殿と基本的に同じ構造と規模をもっている。王を中心として多数の臣下が執務する宮廷儀礼の場であったことが想定される。
  2. 宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。また多種多様な青銅製容器は宮廷における飲酒儀礼で用いられたものである。これらはこの時期に宮廷儀礼、ひいては「礼制」を整えた王朝の成立を意味している。
  3. 二里頭の宮殿建設には、延べ20万人ほどの動員が必要とされたと考えられるので、労働力の国家的な動員があったと想定される。また、二里頭文化期には銅製武器や鏃などが急増しており、国家権力の成立に伴う戦闘が拡大したと考えられる。
これらの事実から、岡村秀典氏は「夏王朝」は実在したと断定している。<岡村秀典『夏王朝 中国文明の原像』2003初版 講談社学術文庫版 2007年 p.266-273>

初期国家論

 夏王朝の実在は肯定的に見られるようになってきたが、その性格についてはまだ議論が定まっていないようだ。夏王朝は実在したとしても、それは本格的な古代国家であったのではなく「初期国家」あるいは「初期王朝」ととらえる見解も出されている。
 宮本一夫氏は、新石器時代終末期に各地に首長権が形成されるようになったが、この首長制社会は初期国家段階とは言えない。次の青銅器時代開始期である二里頭文化期は、文献史料で言う夏王朝期にあたり、文献史料における夏王朝とはこの二里頭文化の政治勢力を指すであろう。二里頭文化期は各地の宗教祭祀を統合して、「礼制」を導入し、身分標識としての酒器を青銅器という貴重な素材で製作し、階層秩序を新たに作ることに成功した。しかしそれはただちに強力な王権の成立という段階にたっしたわけではなく、王権の形成期であり、初期国家形成期または萌芽期と位置づけられる、と述べている。そして本格的な初期国家段階は殷王朝の統治から、としている。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 講談社 2003 p.354-358>
 初期国家とは、文化人類学者のエルマン=サーヴィスが提起した概念で、国家が原始的な状態から次第に複雑、巨大化していく過程の最初の段階とされるもので、王と貴族、平民、奴隷などの階層制度、官僚や司祭者の存在、貢納制度、都城や宮殿の存在、などが指標とされている。<参考 宮本同上書 p.369 /竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 山川出版社 2010 p.42>

現在、存在が明らかにされている中国最古の王朝。本来は商といった。巨大な殷王の地下墓である殷墟が発見されている。前16世紀に黄河中流域を支配した、甲骨文字と青銅器をもつ文明段階の地域王朝であった。前11世紀に周に交替する易姓革命で滅んだ。

 前16世紀中ごろ、殷の湯王が、の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた(このような武力による政権交代を、放伐という)。都は河南省の二里崗文化(二里頭文化に続く青銅器文化の段階)に属する偃師商城がそれに当たると考えられている。以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。前14世紀の19代の王盤庚のとき、河南省安陽県の殷墟の地に遷都し、以後最後の紂王が前11世紀に周に倒されるまで続く。甲骨文字によるとこの都は大邑商と言われ、殷も当時はといった。殷は高度な青銅器製造技術を持ち、甲骨文字を使用した。
注意 殷と商 日本の世界史教科書ではこの王朝名を「殷」、あるいは「殷(商)」とし、用語集などでは「殷は商とも称した」、あるいは「商は殷の別名」とも説明されているが、現代中国の歴史教科書では、商を正式な国号としている。 → の項を参照

殷王朝

 現在、『史記』などの文献情報が、考古学の発掘調査などによって確かめられ、修正されている。ほぼ認められていることは、次のようなことである。
 紀元前1600年頃、夏王朝の桀王が治世が乱れたので、湯王(成湯ともいう)が立って夏を滅ぼし、殷(当初は商と言った)王朝を建てた。湯王は名臣伊尹いいんの補佐を受けて統治を行い、国は治まった。都ははじめははく(河南省偃師えんし)商城に置かれたが、たびたび遷都され、後期の王の盤庚の時に河南省安陽市の現在、殷墟と言われる所に定着しそれ以降、最後の紂王まで続いた(なお現在では、殷墟は出土した甲骨文からは盤庚より三代後の武丁以後のものとされている)。

邑制国家・神権政治

 殷王朝は、殷王の支配する殷(当時は商と言われた)は一つの都市であり、周辺のと言われる都市国家との連合体を形成しており、その中で最有力であったので大邑と言われた。このような邑の連合体からなる殷王朝の国家形態を邑制国家と定義されている。
 殷王は占卜(うらない)によって政治を行い、歴代の王の霊や神霊に対する祭祀が最も重要な任務とされ、その多分に宗教的な権威による祭政一致を行ったので、その国政のあり方は神権政治であった。また王が占いを行うときに使われたのが甲骨文字であった。
 また殷は青銅器製造技術を独占し、他の都市国家の首長に対して青銅器の祭器を分与することで権威を保っていたと考えられている。ただし、殷王と連合体を組む邑の範囲、つまり殷の勢力範囲をどこまでと見るかについては、華北の相当広い範囲と見る見方と、黄河中流域の狭い範囲とする見解とが対立している。
 殷墟などから甲骨文字や青銅器とともに大量の人骨が見つかっていり、かつては殷王の所有した奴隷の遺体と考えられ、そこから殷代は奴隷制社会であったと考えられていた。現在の中国でもどのように説明されているが、日本などではこれらの人骨は祭祀などの犠牲とされた周辺民族であって奴隷ではないとの理解から、古代中国では奴隷は存在したものの、主要な農業労働力となっていたのではないので奴隷制社会であったことは否定的に見られている。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社新書 などによる>

Episode 酒池肉林

 殷王朝の最後の王である紂(ちゅう)王は、中国王朝の歴代支配者の中でもすこぶる評判が悪い。美貌の妃妲己(だっき)を溺愛し、いわゆる「酒池肉林」の贅沢を極め、諫める臣下を「炮烙(ほうらく)の刑」で虐殺するという、暴君ぶりを発揮したとされているからだ。紂はけして無能な天子ではなく、聡明で弁が立ち、行政手腕もあり、知的能力に加えて素手で猛獣と格闘するほどで、まさに鬼に金棒、怖いものなしだった。ところが即位9年目に後宮に入った妲己の美貌に心を奪われた頃から、歯止めのきかない享楽の日々を送ることになった。鹿台という御殿に財宝を集め、犬や馬や珍奇なものをあつめ、沙丘という離宮の庭園には野獣や鳥を放し飼いにした。レジャーランドと化した沙丘に酒を満たした池を造り、樹木に干した肉をひっかけて肉の林にした。そこで裸の男女に鬼ごっこをさせ、自分は妲己を侍らせ、一晩中牛飲馬食をむさぼった。これが「酒池肉林」だ。紂の無道に耐えかねて反旗を翻した諸侯に対して用いられたのは炮烙(ほうろく)の刑であった。油を塗った銅の柱を横にして上から吊るし、下から火を焚いて熱くなったところを受刑者に渡らせる。受刑者は熱さに飛び跳ねながら,焼け死んでしまう。などなど、際限のない奢侈と淫虐の果てに、周の武王の率いる諸侯同盟軍に攻められ、追いつめられて鹿台の宝物殿に登り、宝石をちりばめた衣装を身につけて火中に身を投じたという。<井波律子『酒池肉林』1993 講談社現代新書 p.10-14 殷の紂王から始まり、始皇帝から西太后まで次々と繰り返される権力者たちの暴虐、さらに貴族や商人の贅沢など、権力や富の危うさを中国贅沢史という題材で追求している、真面目な本。>

周への交替

 紂王の話は、歴史事実としては怪しい。王朝が交代するときはたいがい前の王朝のことを悪く書くのが中国の歴代王朝の「正史」の書きぶりだからだ。『史記』など中国の史書でも周王朝を理想化する傾向があるので、紂王を一方的に暴虐な王とかたづけることはできないだろう。ただ、500年にわたる王朝権力の中で権力が腐敗の極みに達していただろうことは想像できる。落合淳思氏は『古代中国の虚像と実像』では酒池肉林を史実では無いと断じ、近著『殷』で、後世の歴史書の伝える伝説的な殷王朝像から離れて、同時代史料である甲骨文字から殷王朝の実態を再構成しようとしている。
 中国河南省安陽市小屯村にある殷王朝の王の地下墓坑の遺跡。甲骨文字の彫られた獣骨の出土地として知られていた地を、1928年から発掘が開始された。1937年の日中戦争の開始で中断されたが、1950年に中華人民共和国の考古研究所が発掘を再開し、殷王朝の様々な遺跡、遺物が出土した。その特色は、甲骨文字の彫られた獣骨、青銅器類が多数出土したことと、巨大な地下墓坑で殉死者のみられる王墓の発見である。この遺跡の地は紀元前14世紀の殷王第十九代の盤庚から第三十代の最後の紂王まで、後期殷王朝の都であった。殷時代には(または大邑商)と言われていた。

殷墟の発掘

 殷墟で発見された殷王の王墓と思われる巨大な地下墓坑は十数カ所に及ぶ。それらの王墓から、青銅器と甲骨文字とともに多数の人骨が見つかっている。その中の一つ、第一〇〇一号大墓をのぞいてみよう。墓の正室は長方形で南北18.9m、東西13.75m、東西に幅3.8mの耳室がある。深さは10.5m。四方に階段状の墓道がついている。王の棺は中央の板張りの槨室の中に収められている。

大量の人骨の出土

 殷墟から大量の甲骨文字を刻んだ亀甲や獣骨、おびただしい数の青銅器などが出土したが、それらとともに人々を驚かせたのが大量の人骨の出土だった。しかもこの殷墟で発見された大量の人骨は、首が切られたものなど、傷つけられたものが多かった。中国では当初、これらの人骨は奴隷のものであるとの説が有力になり、殷代が奴隷制社会である証拠であるとされた。しかし、甲骨文字の研究が進んだ現在では、これらの人骨は下記のように祭礼の犠牲とされた人骨であるという見方が強くなっている。 → 中国の奴隷の項を参照
殷王墓の殉葬者 底の下にも墓坑があり、そこには石製の戈(カ。武器の一種)で武装し、一匹の犬をつれた兵士が埋められていた。中央の墓室の周りには台があり、そこにも棺に入れられた六人が埋葬されていた。これらは王を守るために殉葬されたものであろう。この王墓は古い時代に盗掘されていたので殉葬者の正確な数はわからない。さらに驚くのは、南の墓道には、59人もの首を斬り取られた遺骸が何層にも埋められていた。下層のものは20歳以下で、両手を背中でしばられ、その場で首を斬られている。切断された首はまとめて墓室の出口などに埋めてあった。首を斬られたこれらの人々は、王の霊に対して犠牲として供えられたものであったろう。そのほかこの王墓には王に仕えていたと思われる人々も埋められていた。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.182-184 から要約>

殷墟の新発見

 1999年、安陽の殷墟付近で大きな発見があった。すでに発掘が進んでいた宮殿宗廟区から川を挟んだ東北寄りの地区に、外郭城壁や宮城・宮殿跡などが発見され、殷墟よりも早い時期の都で有るとみられている。具体的には盤庚が遷都したところとする説が有力である。その後、武丁の時代に火事なの原因で廃棄され、目と鼻の先の殷墟に遷ったのではないかと考えらている。それまで殷墟は盤庚以後の王都と見られていたので、修正がせまられることとなった。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社新書 p.59>

Episode 軍隊を率いた王妃

 文化大革命が終わる1976年には、殷墟婦好墓が発見された。小屯村の西北の未盗掘の大型墓で、副葬品として大量の青銅器や玉器が出土した。その青銅器の銘文から婦好という女性の墓だと言うことがわかったが、この名は伝世文献は見えず、甲骨文の中に武丁の王妃の一人としてその名が見える女性である。甲骨文によって、彼女は王室の祭祀や庶務に従事するほか、王に命じられて人を集め、従軍していたことがわかった。このように殷王の妃が軍隊を率いて出征していることが殷墟出土の青銅器の甲骨文で判明したことは研究者を驚かせ、現在、殷墟宮殿宗廟区にその姿が大きな像として作られている。<佐藤信弥『同上書』 p.60>

世界遺産 殷墟

 北京の南約500㎞、安陽市の西北約3㎞にある殷墟は、後期殷(商)王朝の最後の首都として、紀元前1300年頃~紀元前1046年まで栄えた都市。文献や資料によって都だったと実証されている遺跡としては中国最古のもので、古代中国の文化や工芸とともに青銅器時代の繁栄を伝える。当時の王族の墳墓では唯一完全な形で残る妃の墓(婦好墓)はじめ、多くの皇族陵墓や宮殿が発掘されており、出土した大量の埋葬装飾品は当時の手工業のレベルの高さを示す。神託に用いた牛の肩甲骨や亀の腹甲などに神託の結果などを刻んだ甲骨文字は、世界最古の書記体系や古代中国の信仰、社会システムの発達を証明する貴重な遺物である。2006年、世界遺産に登録された。<ユネスコ 世界遺産センター HP> → World Heritage Convention -The List- Yin Xu Gallery
 亀甲や獣骨に刻まれた文字で、漢字のもととなった文字。古代中国の時代に、殷王が戦争や狩猟に際して占うために使われたので卜辞とも言われる。殷墟からも多数発見された。甲骨文字はその後、周時代の青銅器に刻まれた金文、前3世紀末に篆書、3世紀の隷書を経て、7世紀に現在のような楷書に発展する。 → 文字

Episode 甲骨文字の発見と解読

 今から100数年前、清朝末の1899年に著名な学者であった王懿栄(おういえい)は、持病のマラリアの薬として北京の薬屋から「竜骨」を買い求めた。袋から取り出してみると、古そうな骨が出てきた。同席していた劉鉄雲がよく見ると、文字らしいものが彫られていた。二人はこれが金文よりも古い文字ではないかと考え、薬屋にどこから買い求めたか尋ねたところ、河南省の田舎で農民が掘り出していると聞いた。二人はたくさんの文字の刻まれた骨を集め、研究を始めた。ところが、1900年に義和団事件が起こり、王懿栄は外国軍隊が北京に入ったことを憤って、自殺してしまった。事変後、劉は王懿栄の集めた骨を譲り受け、1903年に「甲骨文字」と名付け、殷王朝の王が占いに使った卜辞であることを明らかにした。劉の友人の羅振玉(らしんぎょく)と王国維(おうこくい。いずれも著名な学者であった)は1911年、「竜骨」の出土する河南省安陽の小屯村の発掘を始めた。そこで得た甲骨文字を研究した王国維が、甲骨文に現れる王名は、『史記』に出てくる殷の歴代の王名と一致することを証明し、殷王朝の実在が明らかになった。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版>

甲骨文と『史記』殷王名の一致

 甲骨文の初期の解読における大発見は、文中に見える王の名が『史記』殷本紀などに記された王の世系と大まかに一致したという点であった。この問題は羅振玉や王国維によって早くから指摘されており、現在では『史記』の系譜に多少の訂正を加える形で殷王の世系が復元されている。このように、甲骨文はそこに記載された卜占の内容も含めて、殷代史を検討する上で最も重要な手掛かりである。<中国出土資料学会編『地下からの贈り物』2014 東方書店 p.11>

甲骨を用いた卜占

 甲骨を用いた卜占の素材は主に亀の腹甲と牛の肩甲骨で、卜兆が現れやすくするために裏面に円形の鑽(さん)や楕円形の鑿(さく)と呼ばれるくぼみを彫り込んで、くぼみの部分に熱した炭あるいは木の棒などをあてて表面に現れたひび割れを読み解く。占いを行う人を貞人といい、貞人が読み取った卜兆は絶対的な存在である上帝の意図とされ、判断が下される。それが終了した後、卜兆の部分を避けて卜占が行われた日付、内容、貞人の名などが甲骨文字で刻まれる。甲骨文は硬い素材に刻み込まれるので基本的には直線的な字体を呈しており、同時期の文字である金文とのあいだで書体上の相違が生じる。実際に文字を刻んだ人々は貞人とは別の専門的技能者であったと考えられる。<同上書 p.12-13>

甲骨文字は「何で」書いたか

 甲骨文字は、亀の甲羅や動物の骨に書かれた文字であることは教科書の説明ですぐ判るが、「何で」書いたのかは意外と説明がない。硬い素材に刻みを入れるのだから相当硬く尖ったものでなければならないが、考えてみれば殷や周の前半までは青銅器時代で鉄は使われていない。何で刻んだんだろうか。と思っていたら阿辻哲次さんの『漢字のいい話』にこんな一節があった。
(引用)亀の甲羅と動物の骨は、どちらも非常に硬い素材である。だからそれに文字を刻むには、彫刻刀のように刃先の鋭利なナイフが必要だった。かつて、古代の金属加工の高水準がまだ理解されていなかったころには、ネズミなどの齧歯類の動物の鋭い歯を加工して作った道具で文字を刻んだのではないかと推測されたこともあった。しかし甲骨文字の出土地である「殷墟」の発掘で、精巧な細工をほどこした玉や銅で作られた彫刻刀が何本か発見された。亀の甲羅や動物の骨に文字を刻んだのは、おそらくこのような刀であっただろうと今では推測されている。
 ただ実際に亀の甲や牛の骨に文字を刻む実験をおこなった中国人学者の経験を伺ったところでは、甲羅や骨に直接文字を刻むのでは硬すぎで微細な線は刻めないとのことで、最初に甲羅や骨を煮て柔らかくしてから文字を刻みつけたのではないかという。模擬実験で、亀の甲羅を熱湯の中で数時間煮沸すると、かなり軟らかくなったとの由である。
 ところでいっぽう、甲骨文字の中には「筆」の最初の字形である「聿」という字があって、それは墨液を含ませたか、あるいは乾いて毛先が広がった筆を手に持って、まさに文字を書こうとしているさまをかたどってた象形文字である。甲骨文字の中にこのような字形の文字があるということは、とりもなおさずその時代にすでにすでに現在のような筆があって、文字を表記するために使われていたことをものがたる。そして現実に、甲骨文字の中には、骨や甲羅などの表面に墨や朱で書かれたものも発見されている。つまり甲骨文字にはナイフで刻んだものと、墨や朱で直接書かれたものの二種類があるわけだ。<阿辻哲次『漢字のいい話』2020 新潮文庫 p.259>

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