天學傳概 李祖白
李祖白「天学伝概」康熙三年(1664年) 『明末清初天主教史文獻叢編』所収。
マテオ・リッチの弟子筋による短いが興味深いテキスト。
(李祖白はドイツ人のアダム・シャールの弟子なので、厳密にはマテオ・リッチの系譜ではない。徐光啓を介して繋がっているが)
[→追記:マテオ・リッチに倣って李祖白はユダヤを如徳亜と表記している。
今のところ1602年以前に如徳亜(=ユダヤ)の用例は見つかっていない。
マテオ・リッチの造語なのか当時から一般に膾炙されていた言葉を採用したのか?]
日ユ同祖論ならぬ中ユ同祖論。
李祖白はこれで斬首✖️絞首刑○とされている(のちに名誉回復)。
李祖白は使徒トマスが中国に来ていたと考えていたようだ。景教碑などの資料を読み込んでいる。
時と場所によっては自分もギロチン行きということか。
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https://x.com/yojisekimoto/status/1986036147081138509?s=61
徐光啓(1562-1633)
明朝末の政治家・農学者。上海の人で、イエズス会宜教師マテオ=リッチの著した世界地図、『坤輿万国全図』を見て西欧の学問に憧れ、マテオ=リッチの滞在する南京に赴き、1600年南京でマテオ=リッチにより、キリス卜教の教義を授けられ、1603年には洗礼を受けた。翌年進士に及第して官につく一方マテオ=リッチに西欧諸学を学び、エウクレイデスの幾何学書の前半を漢訳して出版。のち一時官を辞して農学の研究につとめ、中国の農学を集大成しさらに西欧の知識を加え、大作『農政全書』を完成。一方でサツマイモなどの普及につとめる。後金のヌルハチが率いる女真軍の勢力が増大し明軍が劣性になると、砲術を中心とする西洋兵学の導入を進言し、マカオより大砲を購入。大戦果を上げている。崇禎帝の即位により重用され、礼部尚書(文部大臣)になり、アダム=シャールらと西洋暦法を導入した崇禎暦書作成に従事した。
明末清初天主教史文獻叢編 | NDLサーチ | 国立国会図書館
内容細目:
1 . 辯學遺牘 / (意大利) 利瑪竇等撰 ; 周駬方點校代疑篇 / (明) 楊廷筠撰 ; 周駬方點校. 2 . 三山論學紀 / (意大利) 艾儒略撰 ; 周駬方點校天學傳概 / (清) 李祖白撰 ; 周駬方點校破邪集卷第一-卷第二 / (明) 徐昌治編輯 ; 周駬方校. 3 . 破邪集卷第三-卷第六 / (明) 徐昌治編輯 ; 周駬方校. 4 . 破邪集卷第七-卷第八 / (明) 徐昌治編輯 ; 周駬方校闢邪集 / (清) 鍾始聲等撰 ; 周駬方點校. 5 . 不得已 / (清) 楊光先撰 ; 周駬方點校(提供元: 国立国会図書館蔵書)
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000003145 李祖白(-1665年)、中国明朝末から清朝初年までの天文学者、カトリック教徒。
生涯
幼い頃、西洋の宣教師である湯若望に教えられ、欽天監に仕えた。明朝の天啓六年(1626年)、李祖白は湯若望が『遠鏡説』という本を書くのを手伝い、ガリレオが発明した現代望遠鏡の製造方法を中国に紹介した。
清朝順治年間、李祖白と利類思は『天学伝概』を共著し、文章の中で中国文化の西洋説を提起し、楊光先などの激しい反対を招いた。康熙三年、楊光先は書に唐若望を非難し、康熙を投獄させた。康熙4年、当時欽天監歴科主事を務めていた李祖白は、この事件で凌遅の死刑判決を受け、その後孝庄皇太后の斡旋で刑を減刑して絞首刑にし、息子の李実ら五人と一緒に処刑された。[1]
康熙帝が親政した後、康熙8年にこの事件を正し、元の官に恩を抱いた。[1]
参考文献
- 王新龍。大清王朝3.中国演劇出版社。2013-11-20: 74.ISBN 9787104030461。
174
択日の争いと「康熙暦獄」
黄一農
伊東貴之(訳)
タイトル中国 : 社会と文化 (6)出版者中国社会文化学会出版年月日1991-06
康熙曆獄
康熙三年七月、楊光先は再び攻撃を展開し、礼部に暦官・李祖白
の著『天学伝概』 (5) が衆人を惑わしていると密告し、更にイエズ
ス教会が不軌を企んでいると訴えた(6)。当時の政治的状況は、既
順治末期とは大いに異なり、補政大臣・蘇克薩哈の支持の下、前
述の礼部尚書恩格徳の積極的な活動もあって(7)、数日後、吏・
礼二部は旨を奉じて湯若望、利類思 (Lodovico Buglio ) 安文思
Gabriel de Magalhães )、 南懐仁らのイエズス会士および李祖白ら
中国籍の監官、奉教人士を会審し、各省のイエズス教士は地方官に…
~~~~~~~~
康熙三年(1664年)
天学伝概
李祖白
抜粋:
《何以言 之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏 羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。
惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。
何以言之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時,事一主,奉一教,紛岐邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逳。而大東大西,有人之始,其時略同。
史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時代に、中国に人が現れた始まりである。
ただこの中国最初の民は、まさにユダヤの子孫のように、西から東へ移り住んだものであり、天の教えは彼らが本来心に抱いていたものである。子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この学問が中国に根付いた当時は、今よりはるかに隆盛であったに違いない。唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒め合い、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに励まし合った。生誕の地や救世の宗徒が多い者たちは、中土で教えを広め、その事績は西方の史書に記されている。
なぜそう言えるのか?開闢の時、初人の子孫はユダヤに集住し、東西南北の他には人の住むところなし。当時、一主を事え、一教を奉じ、紛岐する邪説は生じる由なし。その後、人口日増しに繁り、遠く離れて散らばる。大東大西に人の住む始まりは、その時期ほぼ同じであった。
…
呂秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。
呂秦が周を代え、法律を任じ、《詩経》《書経》を棄てた。かつての文献は全て炎に焼かれ、天学の詳らかなところはもはや見られぬ。悲しいことよ!西漢の元寿に至り、天主が降誕し救世を成し遂げると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事は西方の史書に記されている。このうち中州に近い地域では、明の末期に十字教の教規が伝わり、天主が救世を成し遂げ、功を十字に結んだことから、この名を教義とした。これこそがトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩に遡る頃、大秦国(すなわちユダヤ国)の修道士アロボンが経典と仏像を携え、遠くから再訳して来朝した。これを受けて宰相は郊外で出迎え、経典を宮殿内で翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景寺を設置させた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教行は唐にあって、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証し得る。
…
凡此諸文,何莫非天學之微言法語乎?其不但言帝又言天者,天即帝 也。猶臣民間稱君上為朝廷,朝廷即君上也。審是則中國之教,無先天學 者。惜乎三代而還,世風日下,民生苦於戰争,士習壞於功利。
凡そこれらの諸文、天学の微言法語でなくして何ぞあろうか。帝のみならず天とも言うのは、天即ち帝なり。臣民が君上を朝廷と称するに如く、朝廷即ち君上なり。これを審らかにすれば、中国に先天の学を説く者なし。惜しむべきは三代に遡れば、世風は日増しに下り、民は戦乱に苦しみ、士大夫の習いは功利に堕した。》
宗徒聖多默者
聖多默( S. Thomas Apostolus)
阿羅本
阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。
如德亞
を自動翻訳はユダヤと訳せない
明末清初天主教史文獻叢編
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校 天學傳概 興隆 (清)李祖白撰 周驒方點校
天學傳概
天學傳概目録
天學傳概前言 周弭方
天學傳概序 許之漸
天學傳概 李祖白
天學傳概前言
《天學傳概》,李祖白撰,清康熙刻本,九行二十字,白口單邊。今海内外僅梵蒂岡在中國天主教史、中西思想公 教廷圖書館有藏。
李祖白,字然真。明天啟六年與湯若望合作,譯《遠鏡説》。入清,湯若望順治元年 八月十一日《請給新曆供費兼陳本局要務疏》云:「如順天生員宋可成、副榜監生李祖 白、儒士掌乘、焦應旭,此四人者,文理優通,有志曆學,訪舉在局,効力多年。」二十五日 旨下,李祖白等「以効力有年,勤敏可加,相應照例量帶欽天監博士職銜」(見《西洋新法 曆書奏疏》二卷)。至順治六年刻《西洋新法曆書》,李祖白成欽天監夏官正。
祖白以弟子禮事湯若望。順治十七年七月,湯氏立聖母堂碑於北京教士公墓。祖 白有跋,刻於碑陰。跋云:「吾師湯道未先生,諱若望。西海熱爾瑪尼亞國人。幼齡學 道,入耶穌會,以宣傳天主正教爲務。三十遊中華,爲天啟二年。嗣以夙諳曆學,歲己 巳由大學士徐文定公薦,應召來京修曆,凡十餘載。恭遇國朝建鼎,遂用西洋新法,造 曆頒行。洊荷恩禮優異,迄今未艾云。門人李祖白謹識。」湯氏纂定《西洋新法曆書》 中,《渾天儀說》一卷、《五緯表》十卷,镌受法門人中,有「祖白」名。
康熙二年癸卯孟冬,祖白「公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次,以代口答」。是即《天學傳概》,許之漸序。此書一出,天下大譁。楊光先即投《與許青嶼( 漸)侍御書》,狂訾祖白。是年冬,因曆法事,朝廷議湯若望、李祖白不軌,罪至極刑。後 因京師連續地震,朝中不敢遽用;再議,若望得開釋,欽天監附教官員李祖白、宋可成、 宋發、朱光顯、劉有泰五人俱處斬。至康熙八年,湯若望、李祖白之欽天監案,始得平反昭雪。
《天學傳概》是天主教名著,在中國天主教史、中西思想交匯史上,均有獨特地位。 祖白也曾參與教會其他書籍之校刻。高一志譯《聖母行實》,卷三修潤者題「虎林 李祖白」。虎林,今安徽贵池,古吴封地,故是書祖白自署「燕吴後學」。
本次整理《天學傳概》,以台灣吳相湘氏《天主教東傳文獻續編》影印本為底本,除 了徑直訂正引文中的一些錯訛外,其他文字没有任何改動。
二〇〇〇年五月六日北京 周驛方謹序
天学伝概 李祖白
明末清初カトリック史文献叢編
11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校 天学伝概 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校
天学伝概
天学伝概目録
天学伝概前言 周弭方
天学伝概序 許之漸
天学伝概 李祖白
天学伝概前言
『天学伝概』は李祖白が撰し、清康熙刻本、九行二十字、白口単辺である。現在、国内外ではバチカン市国の中国カトリック史・中西思想公教廷図書館にのみ所蔵がある。
李祖白、字は然真。明天啓六年、湯若望と協力して『遠鏡説』を翻訳した。清代に入り、湯若望は順治元年8月11日付『新暦供費請給兼本局要務陳疏』において「順天生員宋可成、副榜監生李祖白、儒士掌乗、焦応旭の四名は、文理に優れ、暦学に志をもち、局に招かれ、長年尽力してきた」と記している。二十五日、勅旨が下り、李祖白らは「長年尽力し勤勉で敏捷であるため、例に照らし欽天監博士の職名を兼任させる」とされた(『西洋新法 暦書奏疏』二巻参照)。順治六年『西洋新法暦書』を刻印した際、李祖白は欽天監夏官正となった。
祖白は弟子として湯若望[アダム・シャール]を敬慕した。順治十七年七月、湯氏は北京の宣教師墓地に聖母堂碑を建立。祖白が碑陰に跋文を刻む。跋文に「我が師湯道未先生、諱は若望。西洋ドイツ国人。幼少より道に学び、イエズス会に入り、天主正教の宣教を志す。三十歳で中華に赴き、天啓二年となる。嗣に歴学に精通していたため、己巳の年に大学士徐文定公の推薦により召され、京に赴いて暦を修め、十余年に及んだ。恭しく国朝の建鼎に遇い、遂に西洋の新法を用いて暦を造り頒布した。相次いで恩恵と礼遇に浴し、今に至るまで衰えを知らない。門人李祖白謹んで記す。」 湯氏が編纂した『西洋新法暦書』の中に、『渾天儀説』一巻、『五緯表』十巻があり、受法門人の中に「祖白」の名がある。
康熙二年癸卯の孟冬、祖白は「公余の少しいつかの間に、客人が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代えた」 。これが『天学伝概』であり、許之漸の序文である。本書が出ると、天下は大いに騒然となった。楊光先は直ちに『許青嶼(漸)侍御書』を投じ、祖白を激しく誹謗した。この年の冬、暦法の問題により、朝廷は湯若望・李祖白の不軌を議し、極刑に処した。後に京師で連続地震が発生したため、朝廷は急いで採用できず、 再議の結果、若望は釈放され、欽天監の付教官吏である李祖白、宋可成、宋発、朱光顕、劉有泰の五人は全員斬刑に処された。康熙八年になって、湯若望と李祖白の欽天監事件はようやく平反され、昭雪された。『天学伝概』はカトリックの名著であり、中国カトリック史、中西思想交流史においていずれも独特の位置を占める。祖白は教会の他の書籍の校訂・刻印にも参加した。高一志訳『聖母行実』巻三の修潤者は「虎林 李祖白」と題している。虎林は現在の安徽省貴池市、古の呉の封地であるため、本書で祖白が自ら「燕呉の後学」と署名している。今回の『天学伝概』整理は、台湾の呉相湘氏編『天主教東伝文献続編』影印本を底本とし、引用文中の誤りを直接訂正した以外は、他の文字に一切手を加えていない。
二〇〇〇年五月六日 北京 周驛方謹序
日本の歴史教科書では「アダム・シャール」と表記され、かつては西洋でも Schaal と書かれることも多かった[2]。しかし、Schallのドイツ語での発音は「シャル」が近い。中国名は「湯若望」(拼音: Tāng Ruòwàng とうじゃくぼう)。]
天學傳概序
自天地之心見,而後君師之道興。帝王之所以為治,聖賢之所以為學, 未有不本乎天者也。黄軒迄今,世無異治,而教統一裂,人自為學,家自為 師,若水火之不相謀,要無不尊天以立說者。一彼一此之間,往往陽擯其 名,而陰竊其實。雖道家之幽渺,釋子之虚寂,窮其所託,與吾儒之盡性至 命,不有殊途而同歸者乎?惟是斁倫毁紀,捨君臣父子之大,而躭夫幽渺虚 寂,以别求其所謂天,此二氏之教,吾儒所以辭而闢之也。彼行之不著,習 矣不察,終其身於君臣父子,而莫識其所為天,即儒者或不能無弊。如欲循 其弊以為救,仍莫若尊天以立說。相傳開闢以來,有所為天主教學者,驟而 聆其語,若儻怳而弗可據。即其於吾儒當告之以二帝三王之道,日月星辰 之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,不應瀆 告之以其學也。久之而親,其人繹其書,以昭事不墮為宗旨,克己愛人為工 夫,悔過遷善為入門,生死大事有備無患為究竟;其於二帝三王之道,日月 星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,靡 弗相始終相表裏。超出乎二氏之上,而後知其學,何莫非吾儒之學也?其 教自漢唐流傳中土。
明萬曆辛巳,耶穌會士西泰利子,航海九萬里而來,建 堂於宣武門内。一時名公卿,多樂與之遊。至國朝恩禮倍渥,通微教師實 總曆務,復勅建東堂,再可利子、景明安子主之,余俱樂與之遊。而然真李 子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。惟向者福 清葉相國,《贈西賢》詩有云:「言慕中華風,深契吾儒理。」又云:「拘儒徒 管窺,達觀自一視。」誠化其同異之見,取所為尊天以立説者。究其指歸,精 其義蘊,即不言學,並不言教可也。而一切窮神達化,更有進乎此者,抑非 余之所及知也已。
康熙三年歲在甲辰春王正月柱下史毘陵許之漸敬題
天学伝概序
天地の心が見えて初めて、君師の道が興る。帝王が治める所以、聖賢が学ぶ所以、天に本ぜずして成ったものはない。黄軒(黄帝)の時代から今日に至るまで、世に異なる治め方はなく、教えは統一されながら分裂し、人々は各自で学び、家は各自で師となる。水と火が相容れないが、要するに天を尊んで説を立てる者はいない。彼とこの間の往々にして、陽にはその名を排し、陰にはその実を窃む。道家の幽玄、仏子の虚寂も、その拠り所を究めれば、儒家の「性を尽くし命に至る」と、道は異なれど帰処は同じではないか。ただ、倫を廃し紀を壊し、君臣父子の大を捨てて幽玄虚寂に耽り、別に所謂天を求めること、これ二氏の教えが儒者が辞して斥ける所以である。彼らが実践を明らかにせず、習わしを深く察さず、終生君臣父子の道に留まり、天の働きを認識しないならば、儒者にも欠陥が生じかねない。もしその欠陥を正そうとするなら、やはり天を尊んで説を立てるに勝るものはない。伝承によれば、開闢以来「天主教学」を唱える者たちがいたが、その言葉を聞けば突如として怪しく頼りない。たとえ儒者に接しても、二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転を説くべきであり、彼らの学問を安易に語るべきではない。時を経て親しく接するにつれ、その書を読み解くと、事象の明示と堕落防止を宗旨とし、己を克ち人を愛することを実践とし、過ちを悔い善へ改めることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転に至るまで、これらと相補相表裏をなさないものはない。二氏(仏教・道教)を超越し、初めてその学問が、何一つとして我が儒者の学問でないものはないと知る。その教えは漢・唐の時代から中国に伝わる。
明の万暦辛巳年(1581年)、イエズス会の宣教師シレリ[マテオ・リッチ]が九万里の海を渡って来訪し、宣武門内に堂を建立した。当時、名高い公卿の多くが喜んで彼と交わった。我が朝に至っては恩恵と礼遇が倍増し、通微教師が実際に諸務を統括し、さらに勅命により東堂が建立され、再可利子と景明安子がこれを司った。私もまた皆と共に喜んで彼らと交わった。しかし、真に李子が私をその言葉に契りある者と見なしたのか、著書を手にし、利子を通じて私に序文を求め、その大略を述べるに至った。かつて福清の葉相国が『西賢に贈る』の詩にこう詠んだ。「中華の風を慕い、我が儒理に深く契く」 また「拘儒徒は管窺に過ぎず、達観は自ずから一視す」とも。誠にもして同異の観を化じ、天を尊ぶことを説く所以を取らざるを得ぬ。その指帰を究め、その義蘊を精すれば、学を言わず、教を言わずとも足るべし。然れども一切の窮神達化は、これより更に進むものあり、抑えもって余の及ぶ知らざるに過ぎぬ。
康熙三年 甲辰の春 王正月 柱下史 毘陵許之漸 謹題
天學傳概
燕吳後學李祖白撰
天學,天主教學也。天主為萬有之初有,其有無元而為萬有元。德福圓滿,知能渾全;妙性超然,奥窮思悟,中土尊稱之曰上帝。兹以其為天地之主宰,故質稱天主也。而其教則為人而立,别人於蠢動,儕人於天神,令向真原而求真福。大要以昭事不墮為宗旨,以克己愛人為工夫,以悔過遷善為入門,以生死大事有備無患為究竟,誠吾人最喫緊之實學,而其從來遠矣。緬昔天主上帝,於厥世始,開闢乾坤,發育萬物,所以資人安居利用者悉備。而生初人,男女各一,其靈性賦以當然之則,好善惡惡,秉為彝常,永不能脱。凡遇忠孝大節,舉仰慕之若渴;凡遇奸頑大,舉疾視之若讎。 自古稱為性教,愚非不足,聖非有餘,豈不然乎?只以性叅氣禀物誘交侵, 失其初良,而不敢漫言率也,則繼之以書教。後開闢三千七百有一年,天主 於西納山西距中國四萬里°頂,降石碑二,明列十誡為目,括以愛主愛人為綱。是書教者,所以為性教之申命也。而不惟是,又後千四百九十七年,天主之教世,又有進焉者。先是詔示人間,兼遣神人,此因舉世沉迷,躬自降救,下取人性以接本性,而生如德亞國初人亦生於此,西納山在其界内。之白稜郡,名耶穌。在世三十有三載,所顯奇跡甚衆。命死者活即活;命瞽者見即見;巨浪雄風, 命息即息;虐魔恣害,命退即退。蓋與化成功用萬有應命而出者,同一神異也。詳明誡理,簡定新規,群心大服,名其教為寵教,以見教由主寵,非人 分所應有云。較前性書二教,恩施此尤摯矣。然則天學之傳及中土,其時 亦可得而稽乎?日有斯人,即有斯教,中土人與教同時並得也。何以言之?方開闢時,初人子孫,聚處如德亞,此外東西南北,並無人居。當是時, 事一主,奉一教,紛歧邪説,無自而生。其後生齒日繁,散走遐逖。而大東 大西,有人之始,其時略同。考之史册,推以曆年,在中國為伏羲氏,即非伏羲,亦必先伏羲不遠,為中國有人之始矣。

惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。 受之也,豈偶然哉?其見之《書》曰:「昭受上帝,天其申命用休。」曰:「予畏上帝,不敢不正。」曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」曰:「惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百 殃。」曰:「顧諟天之明命。」曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上 帝。」曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」見之《詩》曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天 鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」曰:「口我來牟,上帝率育。」曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」《魯論》曰:「獲罪於天,無 所禱也。」曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」曰:「丘之禱久矣。」曰:「畏天命。」
《中庸》曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」《孟子》曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」曰:「順天者存,逆天 者亡。」曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」
天学伝概
燕呉の後学 李祖白 撰
天学、天主教を学ぶなり。天主は万有の始有であり、その有無は元であり万有の元である。徳福円満、知能渾全;妙性は超然として、奥は思悟に窮む。中土では尊称して上帝と称す。ここに天地の主宰であるゆえ、質をもって天主と称す。その教は人のために立てられ、人を蠢動(ちゅうどう)より別し、人々と天神を同列とし、真の源に向かい真の福を求めさせる。大要は、事象を明らかにし堕落しないことを宗旨とし、己を克ち人を愛することを工夫とし、悔い改め善へ移ることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。誠に我らにとって最も喫緊の実学であり、その由来は遠い。昔、天主上帝は、その世の初め、乾坤を開き、万物を発育させ、人が安住し利用するために必要なものは全て備えた。初めに創造された人は男女一人ずつであり、その霊性には当然の法則が備わっていた。善を好み悪を憎むことは、生まれながらの常であり、永遠に逃れられない。忠孝の大節に遇えば、渇くが如く仰慕し、奸頑の大悪に遇えば、仇の如く憎む。古来これを性教と称し、愚者も不足せず、聖者も余りあることはなく、まさに然りではないか。ただ性の参は気禀に誘われ、物に交じり侵され、初めの良さを失うゆえ、軽々しく率直に語れぬゆえ、これに書教が続く。開闢後三千七百一年の時、天主はシナイ山西(中国から四万里)の頂に降り、石碑二枚を刻み、十戒を明示し、主を愛し人を愛することを綱として括った。この書教は、性教の申命たる所以である。それのみならず、さらに千四百九十七年後、天主の教えが世に広まる中、また進歩する者が現れた。先に人間に詔示し、神人を遣わした。これは世が迷い深まったため、自ら降臨して救い、下界の人性をもって本性を受け継ぎ、生けるものとして現れた。この時、ユダヤの初の人もまたここに生まれ、シナイ山はその境内にあった。白陵郡にあって、名はイエス。世に三十三年の間、現した奇跡は極めて多かった。死者に命じれば即座に蘇り、盲人に命じれば即座に視力を得た。荒れ狂う波や強風も、命じれば即座に鎮まり、暴虐の魔も、命じれば即座に退散した。これは、万物が神の命令に応じて現れるのと同じ、神の異能によるものである。戒律を詳明に定め、新規則を簡潔に確立し、衆人の心を大いに服従させた。その教を寵教と名付け、教が主の寵愛によるものであり、人の分として当然のものではないことを示した。以前の二つの宗教と比べ、この恩恵は特に深い。
では天学が中土に伝わる時期は、果たして推し量れるだろうか?この地にこの人物が現れた時、すなわちこの教が生まれた時であり、中土の人々は教と同時にこれを得たのである。何故そう言えるのか。天地開闢の時、最初の人類の子孫はユダヤ一箇所に集まっていたが、東西南北の他には人の住むところなかった。
当時、人々は一主を事え、一教を奉じ、紛れもしい邪説は生じる余地もなかった。その後、人口が増え続け、人々は遠く離れて散らばっていった。そして大東と大西に人が住み始めたのは、ほぼ同時期であった。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時期に、中国に人が現れた始まりである。
ただこの中国における最初の人々は、まさにユダヤの末裔のように、西から東へ渡り、天学を心に抱いて来たのである。
子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この時この学問が中国にあったならば、必ず今世よりも倍増して明晰であったであろう。延々と唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒めを告げ、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに警鐘を鳴らした。生けるもの及び救世の宗徒の多い者たちは、中土で教えを伝え、その事績は西方の史書に蔵されている。これを受け継いだのは、果たして偶然だろうか?『書』にこう記されているのを見よ:「昭は上帝を受け、天は命を申して用いて休む」。「我は上帝を畏れ、敢えて正さずにはおかない」。「惟皇上帝、衷を下民に降す」。「上帝は下民を妥佑す」。「唯簡在上帝之心」。曰く「惟上帝不常、作善降之百祥、作不善降之百殃」。曰く「顧諟天之明命」。曰く「天佑下民、作之君、作之師、惟其克相上帝」。曰く「我亦不敢寧於上帝命、弗永遠念天威」。『詩経』に曰く:「文王は上に在り、天に照る。文王昇降し、帝の左右に在り。」曰く:「唯この文王翼翼、上帝に照事す。天鑑は下に在り、命は既に集う。上帝汝に臨む、心を二うることなかれ。」曰く:「皇しき上帝、下に臨み赫々たり。」 「天の怒りを畏れ、戯れを敢えてせず。天の変りを畏れ、駆け巡ることを敢えてせず。」曰く:「広大なる上帝、下民の庇護者。天は衆民を生み、その命は決して偽りなし。」曰く:「我が来牟(きむ)、上帝が率いて育む。」曰く:「赫々たる姜嫄(こうえん)、その徳は他と異なる。上帝はこれ依り……『二心なく憂いなく、上帝は汝に臨む。』」『魯論』曰く:「天に罪を得れば、祈る所なし。」曰く:「我が否むところ、天はこれを厭う、天はこれを厭う。」曰く:「丘の祈りは久しい。」曰く:「天命を畏れる。」
『中庸』に曰く:「郊社之礼、所以事上帝也。」曰く:「上天之載、無声無臭、至矣。」『孟子』に曰く:「楽天者、保天下。畏天者、保其国。」曰く:「順天者存、逆天者亡。」曰く:「雖有悪人、齋戒沐浴、則可以事上帝。」 曰く:「その心を存じ、その性を養うは、天を事える所以なり。妖寿は二たからず、身を修めてこれを待つは、命を立てる所以なり。」
凡此諸文,何莫非天學之微言法語乎?其不但言帝又言天者,天即帝 也。猶臣民間稱君上為朝廷,朝廷即君上也。審是則中國之教,無先天學 者。惜乎三代而還,世風日下,民生苦於戰争,士習壞於功利。呂秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。
凡そこれらの諸文、天学の微言法語でなくして何ぞあろうか。帝のみならず天とも言うのは、天即ち帝なり。臣民が君上を朝廷と称するに如く、朝廷即ち君上なり。これを審らかにすれば、中国に先天の学を説く者なし。惜しむべきは三代に遡れば、世風は日増しに下り、民は戦乱に苦しみ、士大夫の習いは功利に堕した。
呂氏と秦が周を代え、法律を重んじ『詩経』『書経』を棄てた。古の典籍は全て烈火に遭い、天学の詳なるは再び見られず、哀れなり!西漢元寿の世に至り、天主降誕と救世の業が成就すると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事跡は西洋史に記されている。この中州の近き地に、明末に十字教規が伝播したのは、天主が救世の功を十字架に成し遂げたゆえに、その名を教義としたのであり、これこそトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩を経た頃、大秦国よりユダヤ国の修道士アロボンが経典と仏像を携え遠路来朝した。宰相が郊外で出迎え、宮殿内で経典を翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景教寺を置かせた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教は唐に伝わり、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証できる。
[アロボン 阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。
歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。
「大秦景教流行中国碑」によると、唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。]
又後九百四十六載,遡天主降生千五百八十一年,為明萬曆辛巳。耶穌會士西泰利子,自歐羅巴梯航九萬里東來,庚子底燕京,貢聖像、西琴、自鳴鐘等物。朝廷義隆柔遠,恩禮備至。
縉紳先生與之遊,講究天主大道,多所契合。著有《實義》《畸人》 等書行世。服從其教,感其化者比比。辛亥卒於京,賜地葬焉。於是熊、 龐、陽、龍諸子,先後接踵來京司教事,而晉有高則聖,閩有艾思及,江南有畢今梁,併顯聞於時。崇禎己巳,庭議修曆。徐文定公素折節西賢,為性命 交。知其旁通曆學,時以少宗伯領督修,疏薦函璞鄧子,未幾病殁。續薦余 師道未湯子,暨味韶羅子[1]。曆垂成,羅又病殁。獨余師與曆事相始終。 入國朝,用其法造《時憲曆》,頒行天下。命掌欽天篆,辭再三不允。至辛卯,遂荷世祖皇帝特達之恩眷,錫嘉名,晉崇階,更念其將老,勅户部查給地畝,任作生壙。而且駕數臨堂,諮求教學,賜《御製文》有銘。西泰氏舊堂之 東偏,師為倣西式,改創新堂,寬數倍,於其東階,恭勒綸音於石,以垂不朽, 天下聞而榮之。堂近宣武門,屬城西。東華門舊燈市之南又一堂,欽賜於 順治乙未,改建於康熙壬寅。堂亦西式,相偕在内行教者,再可利子、景明 安子也三。人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有中丞匯白佟、廉察鶴沙許二公[三];信嚮綦堅。
宦遊所到,捐貲營築,以奉天主。俸入不為己有,而為天主有。其視明葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、 李卿、楊京兆數君子[四];樂為道侣身主者,又何讓乎江南之蘇淞二郡,浙之武林,江右之南昌之建昌之南贛,楚之武昌,閩之福州之建寧之延平之汀州,蜀之重慶之保寧,咸有新堂,西賢居焉。前己丑,余師為曆學計久遠,特 疏上請,敦伯南子[五]以知曆赴闕庭,仰給大官。同時遵旨入内地者,又十餘人。
また九百四十六年後、天主降誕千五百八十一年に遡り、明の万暦辛巳年にあたる。イエズス会の西泰利子(シチリ)がヨーロッパから九万里の航海を経て東来し、庚子年に燕京(北京)に到着し、聖像、西洋の琴、自動鳴鐘などを献上した。朝廷は遠方を慈しむ義を重んじ、恩恵を尽くした。
[利子はマテオ・リッチのことだろう。]
紳士や先生たちが彼と交わり、天主の大道を論じ合うと、多くの点で意気投合した。著書に『実義』『畸人』などがあり世に出回った。その教えに従い、その感化を受けた者は枚挙にいとまがなかった。辛亥年(1688年)に京で逝去し、賜地にて葬られた。これを受けて熊、龐、陽、龍ら諸子らが相次いで京に赴き司教の務めを担い、晋には高則聖、閩には艾思及、江南には畢今梁らが現れ、共に世に名を馳せた。崇禎己巳年(1637年)、朝廷で暦法の修訂が議された。徐文定公(徐文定)はかねてより西賢を敬い、性命の交わりを重んじていた。その暦学に精通していることを知り、当時少宗伯として修暦を監督していた彼は、函璞鄧子を推挙したが、間もなく病没した。続いて余師道未湯子と味韶羅子[1]を推挙した。暦が完成間近となった頃、羅もまた病没した。余師のみが暦事の始末に最後まで携わった。明代に入ると、その法を用いて『時憲暦』を編纂し、天下に頒布した。欽天篆の掌管を命じられるも、三度辞退したが許されなかった。辛卯年、ついに世祖皇帝の特段の恩寵を受け、嘉名を賜り、崇階に昇進した。さらに老齢を慮り、戸部に命じて戸畝を支給させ、生墓を築くことを許された。さらに数度にわたり御座を堂に臨ませ、教学を諮問し、『御製文』に銘を賜った。西泰氏の旧堂の東側に、師は西洋様式を模倣し、新堂を改築した。広さは数倍となり、その東階に、石に綸音(皇帝の勅令)を刻み、不朽のものとした。天下がこれを聞き、栄誉とした。堂は宣武門に近く、城西に属する。東華門旧灯市南にもう一堂あり、順治乙未年に欽賜され、康熙壬寅年に改築された。堂も西洋様式で、共に内部で教鞭を執る者は、再可利子、景明安子の三名である。人々はこれを東堂と呼び、宣武門の堂と区別した。天学が京師にあることは、四方の望みであり、京師の堂構えが一新されて以来、格別の恩恵に浴している。そして四方の西賢が鐘を鳴らす地では、士民の敬慕の念が一層高まっている。折しも中丞匯白佟、廉察鶴沙許の二公[三]が、信仰を堅く持ち、官途を巡る所々で財を投じて堂宇を営み、天主を奉じた。俸給は己のためではなく天主のため。明の葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、李卿、楊京兆の諸君[四]が、自らを道友の身主と為すことを惜しまなかったならば、江南の蘇松二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州など、 道友として主を奉じることを喜びとする者、江南の蘇淞二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州・建寧・延平・汀州、蜀の重慶・保寧に新堂を建立し、西の賢人たちがそこに住まうに至った。己丑の年、我が師は暦学の計算を久遠にわたり行い、特に上奏して請い、敦伯南子[五]を暦官として闕庭に赴かせ、大官の御用を仰いだ。同時に詔に従い内地に入った者は、また十数人に及ぶ。

我國家肇造區夏,一統無外,名公鉅卿,相與黼黻皇猷於上,而輦轂內 外,或省會之衝,或鄉邑之僻,每有西賢至止,時出其所學,為世津梁,指正 真之定極,杜誑惑之旁蹊,於以下肅人心,上襄王化。唐虞三代之風,庶其 再見於今日歟?利西泰而下,著述號最富者,《進呈曆書》百餘卷,業蒙宣付 史館。他若理器殊彙,莫非教學攸關,成書又三百卷。有經、有史、有超形 性學、有形性學、有修學、有天文學,板藏京師、江南、浙、閩、秦、晉各堂。且總計載來圖書七千餘部。群賢感荷帡幪,賓至忘返,共矢協佐同文,抑首翻矣。 譯,川至日昇,殆無窮竟。嗚呼!此又秦火以前未有之盛事也,漢唐無論矣。
癸卯孟冬,公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次之,以代口答。
我が国家は区夏を創建し、一統して外なきをなし、名公巨卿は 共に皇猷を黼黻し、輦轂の内外、あるいは省会の要衝、あるいは郷邑の僻地において、西賢が訪れる度に、その学問を時折披露し、世の津梁となり、真の定極を指し示し、誑惑の傍蹊を断ち、これにより下には人心を整え、上には王の化を助けた。唐虞三代の風潮が、今日再び見られるのだろうか?李西泰以降、著述で最も豊富なのは『進呈暦書』百余巻で、すでに史館に奉納されている。その他、理器殊彙など、いずれも教学に関わるもので、成書はさらに三百巻に及ぶ。経典あり、史書あり、形性を超えた学問あり、形性を論じた学問あり、修養の学問あり、天文学あり。版木は京師、江南、浙、閩、秦、晋の各堂に蔵される。総計して来たる図書七千余部を載せ。群賢は恩恵に感銘し、賓客は帰りを忘れ、共に協力を誓い、同文を助けることを誓う。訳すこと、川の流れのように日増しに、ほぼ尽きることがない。ああ!これはまた秦の焚書以前にも例を見ない盛事である。漢唐は言うまでもなく。
癸卯の年の初冬、公余のわずかな暇に、客が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代える。
校記
[一]鄧玉函,字函璞;湯若望,字道未;羅雅谷,字味。
[二]利類思,字再可;安文思,字景明。
[五]南懷仁,字敦伯 。 以上耶稣會士。
[三]佟國器,字思遠,號匯白;許纘曾號鵠沙。
[四]葉向高,謚文忠;徐光啟,謚文定;韓,宰相,蒲州人;劉宇亮,宰相,绵竹人;李之藻,仕光禄寺卿,故稱;楊廷筠,官京兆尹,故稱。
以上中國官吏。其中葉向高、韓、劉宇亮,家人有領洗入教者,而本人尚難確定。
校記
[一]鄧玉函、字は函璞;湯若望、字は道未;羅雅谷、字は味。
[二]利類思、字は再可;安文思、字は景明。
[五]南懷仁、字は敦伯。以上イエズス会士。
[三]佟国器、字は思遠、号は匯白;許纘曾、号は鵠沙。
[四]葉向高、諡は文忠;徐光啓、諡は文定;韓、宰相、蒲州人;劉宇亮、宰相、綿竹人; 李之藻、光禄寺卿に任じられたため称される;楊廷筠、京兆尹の官職にあったため称される。
以上は中国官吏。このうち葉向高、韓、劉宇亮は、家族に洗礼を受けて入教した者がいるが、本人については未だ確定が難しい。
遠隔複写申込書 (控え) 申込ID: 21276020 申込日: 2025/10/26 利用者ID:E12096558 利用者名: 様 請求記号 : HP74-C10 タイトル: 明末清初天主教史文獻叢編// 周方編校 選択した巻号等: 1-5 記事・論文名: 天學傳概 / (清) 李祖白撰; 周方點校 著者名: 李祖白、 周方 巻号、ページ:表紙 95表~102 不明 目次、奥付は、ありませんでした お申込みの論文の目録は、上記に 含まれていました。国立国会図書館 関西館 文献提供課 複写貸出係 Tel: 0774-98-1313 お問い合わせの際は利用者IDと申込IDをお知らせください。
西泰利子
多分マテオ・リッチのこと
利玛窦(義大利語:Matteo Ricci,1552年10月6日—1610年5月11日),号西泰,又号清泰、西江,天主教耶稣會意大利籍神父、传教士、学者。明万历十一年(1583年)前往中國居住。在明朝颇受士大夫的敬重,尊称为"泰西儒士"。他是天主教在華传教的开拓者之一,也是第一位阅读中国文学并对中国典籍进行钻研的西方学者。他除传播天主教教义外,还广交中国官员和社会名流,传播西方天文、数学、地理等科学技术知识。他的著述不仅对中西交流作出了重要贡献,对日本和朝鲜半岛上的国家认识西方文明也产生了重要影响。[1]
1984年獲得天主之僕稱號。2022年教宗方濟各宣布利玛窦為可敬者。[2]天主教馬切拉塔教區于2011年開始對耶稣会士利玛窦神父列真福品进行审理[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿羅本
阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。
歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。
「大秦景教流行中国碑」によると、唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。
貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。 唐高宗時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。
李祖白は以下で死去
康煕の暦獄
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康煕の暦獄とは、清王朝の康煕三年(1667年)、楊光先(1597年-1669年)の訴えをきっかけとして、西洋暦法の編纂に関わったイエズス会の宣教師や漢人が断罪された事件。宣教師は一部を残して北京を追放され、漢人の協力者のうち、数名が斬罪に処された。このあと数年間、西洋暦法は停止された。イエズス会士らは欽天監の職を追われて、数名を残して首都から遠ざけられた。各地のキリスト教の教会も閉鎖された。事件の背後には満州人と漢人、あるいは満州人同士の政治的な闘争があり、イスラム教徒も含めた文化的な闘争が絡んでいた。
時間以 天地之所 鬼神之所以幽,物類之所以會,江河之所以说,不富 分所應有云。前性書二教,恩施此尤纳矣。然則天學之傳及中土,其時
時間とは天地の所為 鬼神が幽かに働く所以 物類が集う所以 江河が流れる所以 富めるも貧しきも応ずべき有る云う。前性書二教、恩施この尤も納む。然るに天学の中土への伝来、その時は
人稱東堂,以别於宣武門之堂。天學之在京師,為四方之望, 自京師堂構一新,叨恩格外。而四方西賢鐸振之地,士民益奮欽崇。會有 红"仰給大官。同時遵旨入内地者,又十 ×
禮備至。
人子孫,某處如德亞,此外東西南北,並無人居。
『御製文』に銘があり、
人の子孫、某処に如徳亜あり、このほか東西南北、並に人居ず。
《御製文》有銘,西泰氏孩 红"仰給大官。同時遵旨入内地者,又十
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《天學傳概》(以下簡稱《傳概》)是中國天主敎傳敎史上的一部名著。康熙二年 ... 今觀《傳概》作者李祖白署名前冠“燕吳後學”四個字,“燕”指的是順天,“吳”即指其 ...
清初中國天主敎名著《天學傳概》
歴史(編纂學)
陳占山

澳門望德敎堂(設色版畫)
I. Wathen delt 繪畫 I. Clark dirext製版 (約1811年)
《天學傳概》(以下簡稱《傳概》)是中國天主敎傳敎史上的一部名著。康熙二年(1663)成書後,立即被作為宣敎要籍,在敎徒中廣為散發;三年楊光先發起排敎案,又將其列為最重要的罪證材料。但敎案中,《傳概》遭禁,書版被燬,後絕少流傳。幸1966年台灣吳相湘先生據羅馬梵蒂岡所藏原本影印,收載於由他主編、台灣學生書局出版的《天主敎東傳文獻續編》第2冊中,筆者所據即此。吳先生之舉,對於加強、擴大《傳概》的流傳起了有益的作用,惟所憾者其編著發行基本局限於台港,別處尚罕觀。這種情形限制了不少學者的徵引,同時也影響了對《傳概》本書的研究。鑒於此,筆者撰文擬進行兩方面的工作: 一、對《傳概》有關問題作簡要評價;二、將《傳概》從吳氏編著中抄出,作必要處理,忝列文後,期一併刊出,方便學人。
先進行第一方面的工作,祗涉及三個問題。
一、關於《傳概》的作者
此問題過去曾產生過嚴重的混亂,有兩種錯誤的説法: 一説作者,或主要作者為利類思和安文思。如主要依據明清間在華傳敎士發回歐洲的書信、文件,由德魏特所撰《湯若望傳》寫道:
1664年,有一本駁斥《辟邪論》的著作出現,題名《天學傳概》。這部著作的主要作者是利類思與安文思二位神甫。奉敎官員約翰·李祖白乃欽天監一監副,給這本著作加了一番修辭潤色之工,而以他的名義付印發行。(1)
費賴之於1875年撰訖的《在華耶穌會士列傳》中,也將此書歸於利類思作(2),可見此説由來已久。值得注意的是桀誤流傳,許多現代學者對此竟已深信不疑。如張力、劉鑒唐先生説:
《天學傳概》一書,本為傳敎士利類思所著,華人李祖白、許之漸僅作序文、弁首而已。(3)
又如樊洪業先生也稱“傳敎士安文思和利類思……寫出《天學傳概》一書”(4)。另一説認為作者是李祖白,但利類思和安文思也相當程度地參與了該書的撰寫。如裴化行在1945年發表的《西書漢譯考》中,雖稱此書為李祖白撰,但其後加括弧書上利類思、安文思二人的名字。(5)這種作法後來為許多有關敎會著譯目錄沿用。
《傳概》的作者是李祖白。凡稍備中國天主敎傳敎史知識者,祇要大概瀏覽一下這部著作,都不難得出這一結論。書首頁於“天學傳概”書名下,即署“燕吳後學李祖白撰”,而原書僅有的一篇序言<許之漸序>也説:
然真李子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。
其中,“然真”為祖白字,“利子”指利類思,“李子”“持所著書”,是與書前撰者署名一致。又,書內在言及湯若望時,每稱“余師”或“師”。李祖白為湯若望門人,其有此稱,正合情理。可見,此書出於李手,顯而易見。對此,方豪先生以同樣理由早就指出過了。(6)不過,對這一問題的指正如果僅限於此,則未完整。因為上舉事實并不能否認利類思和安之思有可能參與撰寫《傳概》的説法。如力主《傳概》的作者為李祖白的方豪先生,就同時也接受前所舉第二種錯誤説法。(7)值得注意的是台灣清華大學黃一農敎授對此有進一步的推論。他指出:
事實上,由內文〔指《傳概》之中〕稱許湯若望以治曆之功掌理欽天監,并荷順治皇帝“鍚佳名,晉崇階”,且謂南懷仁“以知曆赴闕庭,仰給大官”等敦述,可推知此書與利類思與安文思二人應無太大關係,因安文思等敎士曾於順治五年起,發表一連串文件抨擊湯若望擔任監正一職有違耶穌會“不宦”的誓約,且批評其負責編製含有迷信內容的曆書,以致在敎內掀起一長達十數年的滔然大波,此案直到康熙三年時,始因敎皇的裁決而塵埃落定,而利類思在此一紛爭中的立場則是支持安文思的,故兩人應不太可能讚同書中視湯若望及南懷仁出任監官為揚敎之舉的態度。(8)
此推論可信,可以排除利、安二人參與《傳概》一書撰寫的可能。
導致有關《傳概》作者錯誤説法的原因可能很多,但主要應是本文一開始就指出的事實: 此書後來流傳很少,故大多數論者實未睹原書。
李祖白何人? 毋庸諱言,很長時期此問題在學術界是不很清楚的。包括方豪敎授,除了辨證《傳概》為其所作外,對李祖白其人也沒有再作深入的考證。使李氏的生平事蹟由隱而顯,在學人面前突兀出來,此乃歸功於黃一農敎授的工作。1991年黃先生發表所撰<康熙朝涉及“曆獄”的天主敎中文著述考>(9)一文,有效地挖掘徵引了一些鮮為人知、或被前人忽視的材料,如順治末年所造《御屏京官職名冊》、李銳《觀妙居日記》及李祖白為傳敎士羅雅谷《哀矜行詮》所作序文等,對李氏的事蹟作出了令人信服的考證。茲據之略述於下:
祖白生平不詳,原籍杭州,與被譽為中國天主敎三大柱石的李之藻、楊廷筠二人誼屬同鄉,或受其影響,早在明崇禎初就已“奉敎(……)有年”,後出任天文官遷籍順天府,曾為順天副榜監生。今觀《傳概》作者李祖白署名前冠“燕吳後學”四個字,“燕”指的是順天,“吳”即指其原籍杭州。祖白於明末即在曆局中追隨湯若望學習西法,但一直未獲授職,僅得以“供事生員”掛名其間,順治元年因編製《時憲曆》有功,授欽天監博士,十年六月題補為夏官正。康熙四年四月初四日,因楊光先排敎案與其他四名奉敎監官同遭處斬。據黄先生考證可知,祖白不止為《傳概》的作者,實也是晚明清初西學東漸的積極促進者,是湯若望等改訂、頒行西洋曆法的得力助手。
二、關於《傳概》的撰寫意圖
就筆者所見有關論著,除黄一農先生前揭文外,幾眾口一辭,説《傳概》的撰寫意圖是為駁斥楊光先的《辟邪論》的。如前引《湯若望傳》即是,方豪先生也沿襲此説。筆者發現這種説法同樣由來很久,費賴之前揭書已如是説,而蕭若瑟《天主敎傳行中國考》持論最詳,也最普遍地被後來乃至當今有關中國天主敎史著作所援引,因而最具有代表性。其文曰:
康熙冲齡踐祚,光先揣知輔政大臣螯拜等不喜西士;且鰲拜素性好疑,居心暴戾,同僚多被傾軋。光先以為機會可乘,遂遊説於權貴之門,百方詆譭西士所傳之敎與西洋曆法,作《辟邪論》,譭謗聖敎,刷印五千餘本,散佈各處。利類思神父以謠言繁興,聖敎日晦,作《天學傳概》書,揭明聖敎道理。凡《辟邪論》所載謠言蜚語,逐條辨明。奉敎顯官許之漸、李祖白各作序文弁首,極言聖敎道理之美善。此書印行之後,楊光先見之,如瘋如狂,積恨愈深,又作一書名《不得已》,較《辟邪論》誣枉尤甚。(10)
現可據此作些分析。首先,我們發現引文中有四處明顯的誤説:
其一,《辟邪論》撰於順治十七年,非“康熙冲齡踐祚”之後。
其二,利類思非《傳概》作者,上文已詳。
其三,今見《傳概》祇有許之漸序并無李祖白序。其書本來如此,一定不誤,攻擊最力的楊光先,也一定是此書最早的研讀者。而在其<與許青嶼侍御書>和<請誅邪敎狀>兩文中,從未提到《天學傳概》除許之漸序外,更有李祖白序。
其四,許之漸并不奉敎(其非天主敎徒)。
這四處誤説使我們有理由懷疑蕭若瑟整個説法的可靠性。《天學傳概》首言天主敎基本宗旨,次述其敎的由來及在華的歷史,并援引儒家典籍加以説明,最後是其敎在華現狀。除此而外,并無其它。而蕭氏説“凡《辟邪論》所載謠言蜚語逐條辨明”,與《傳概》內容相去甚遠。又,在《傳概》全文之末,李祖白對其書的撰寫意圖曾有專門交待:
癸卯孟冬,公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次之,以代口答。
此與其書內容完全相符。又,從這段文字亦可反推《傳概》卷端必無祖白所撰序文,否則,就不會在全書之末才交待其著作的緣起了。因此,以紹介“天學今昔之概”的《傳概》是一部地地道道的宣敎書,而非駁斥異端的護敎類著作。綜觀全文,其針對楊氏及其《辟邪論》并無片言隻語,更不要説“逐條辨明”了。所以,前引蕭書及其它一切敎會史書説《傳概》是為駁斥《辟邪論》而撰,實無任何根據。從這一點又再一次可以説明,大部份有關論者一定是未睹原書而人云亦云。值得進一步思考和應給以高度注意的恰恰是,成書於楊光先《辟邪論》、《拒西集》等激烈抨擊天主敎之書後的《傳概》,對當時頗為轟動的上述揚氏之作,何以無片言隻語的表示呢?
三、《傳概》的影響與學術特點
《傳概》之成為中國天主敎傳敎史上的一部名著,最主要的原因是楊光先把它作為發起康熙三、四年排敎案的罪證材料。由此,在一定程度上,《傳概》的影響可以從這次排敎案前後它所受重視的程度得到説明。
《傳概》撰於康熙二年(1663)十月,許之漸序作於三年正月。同年三月二十五日,楊光先致長信給許之漸,極詆此書,并嚴辭威逼要許撤序。許置之不理。四個月後的七月二十六日,楊向朝廷呈上<請誅邪敎狀>,正式發起排敎案。“控告的狀辭便多半都是以這本著作〔指《傳概》〕為口實,而一切曾與這部著作之撰述及散佈有關的人們,俱遭它的株連。”(11)楊光先認定由李祖白撰寫的《傳概》“主謀者湯若望,求序者利再可,作序者許之漸,傳用者南敦伯、安景明、潘盡孝、許謙”(12)。
據現有文獻記載看,楊光先以《傳概》等發案,最大限度地鼓動和迎合了正慾“率祖制、復舊章”,不滿順治以來開明政策的滿洲權貴和漢族守舊士大夫的仇敎情緒。所以,一方面立案迅速,楊的狀告一上,禮部竟“本日具疏題參”(13),一改中國封建官僚機構辦事拖沓之風;另一方面,審判嚴密,“竟絲毫不苟且地遵守了訟訴上的一切例行手續”(14)。不過,《傳概》對整個這場排敎案的作用和影響似也僅此而已。隨着審訊工作的全面展開,傳敎士的“罪狀”一一被挖掘出來,此書反而演化成一個不怎麼重要的因素。如遭焚書燬版之事,無論是在敎案審訊期間作出的一系列階段性的判決書,還是最後的終判決書中,都不見提及。(15)而被楊光先指為參與此書撰述及發行的一干人犯中,純與之相關的許之漸、潘盡孝、許謙三人,最後所受處罰也僅僅是落官無職而已。不過,湯若望等人於康熙八年八月獲全面平反,但諭旨仍禁止“伊等聚會散給《天學傳概》及銅像等物”(16)。
作為一部傳敎書,《傳概》最大的學術特點是“言辭未免過於膽大”(17),“措辭造意,都不能不説有欠考慮”(18),因而最大限度地衝擊了當時中國傳統文化的認識氛圍,傷害了正統士大夫服膺的道統觀念;同時也表明入清後天主敎“適應儒家”的工作,已進入了一個嶄新的階段。關於前一方面,此不再贅。祇要瀏覽一下楊光先的<與許青嶼待御書>和<請誅邪敎狀>兩文,對此就可以有深切的感受;至於“適應儒家”,這裡略須剖明。簡而言之,適應儒家即是指天主敎徒中的智識份子,為爭取中國民眾,特別是廣大士大夫的皈依、信奉,借用儒家經典中的一些詞匯乃至理論,詮釋天主敎義,以説明天主敎在中國是“古已有之”和“天儒”是“相通”的。這一工作自利瑪竇始,至李祖白時前後已近一百年,其成效十分顯著。李祖白書實為前人(傳敎士和以徐光啟、李之藻、楊廷筠代表的一批中國士大夫)這方面工作的繼續。今閲此書,不到三千言的篇幅,竟引用《尚書》九十五言、《詩經》一百一十言,《論語》二十六言、《中庸》二十言、《孟子》二十九言,真可謂極“適應”之能事了。一位敎中學者據此指出“李祖白也是清初天主敎友中,從事適應儒家運動的一位功臣”(19),應是較中肯的。
值得注意的是李祖白的適應儒家與其前輩比較起來,有一個顯著的不同: “往時利瑪竇引用中夏之聖經賢傳,以文飾其邪敎,今祖白逕謂中夏之聖經賢傳是受邪敎之法語微言。”(20)這不僅在中國天主敎著述史上,即使在整個中國文化史上都是石破天驚的。加之,李祖白又據《舊約·創世紀》推衍出“中國之初人,實如德亞之苗裔”的怪論,所以楊光先以其説是:
盡我大清而如德亞之矣,盡我大清及古先聖帝聖師聖臣而邪敎苗裔之矣,盡我歷代先聖之聖經賢傳而邪敎緒餘之矣,豈止於妄而已哉! 實欲挾大清之人,盡叛大清而從邪敎,是率天下無君無父也! (21)
《天學傳概》應予以珍視,它代表了明清之際從敎士大夫的一種“文化情緒”,有着獨特的學術價值,在中國天主敎傳敎史及整個中國文化史上,都實在是值得認真去研究的。至於這部著作的其他價值,見仁見智,暫可不論。
接下來做第二項工作。筆者所據影印本,正文凡七頁,半頁九行,行二十字。四週單邊,單魚尾。正文前是<許之漸序>,共五頁,半頁六行,行十二字。現對原文分段、句讀;引文核對原著,經書并明篇目;人物字號等,酌出簡注。
《傳概》: <許之漸序>
自天地之心見,而後君師之道興。帝王之所以為治,聖賢之所以為學,未有不本乎天者也。黃軒迄今,世無異治,而教統一裂。人自為學,家自為師,若水火之不相謀,要無不尊天以立說者。一彼一此之間,往往陽擯其名而陰竊其實。雖道家之幽渺,釋子之虛寂,窮其所托,與吾儒之盡性至命,不有殊途而同歸者乎? 惟是斁倫毀紀,舍君臣父子之大而耽夫幽渺虛寂,以別求其所謂天,此二氏之教,吾儒所以辭而辟之也;彼行之不著習矣。不察終其身於君臣父子,而莫識其所為天,即儒者,或不能無弊。如欲循其弊,以為救仍,莫若尊天以立說。
相傳開辟以來,有所為天主教學者。驟而聆其語,若徜
而弗可據。即其於吾儒當告之,以二帝三王之道,日月星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,不應瀆告之,以其學也。久之而親其人,譯其書,以昭事不墮為宗旨,克己愛人為工夫,悔過遷善為入門,生死大事有備無患為究竟。其於二帝三王之道,日月星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,靡弗相始終、相表裡,超出乎二氏之上。而後知其學何,莫非吾儒之學也。
其敎自漢唐流傳中土,明萬曆辛巳,耶穌會士西泰利子,航海九萬里而來。(22)建堂於宣武門內,一時名公巨卿,多樂與之遊。至國朝,恩禮倍渥,通微敎師(23),實總曆務。復敕建東堂,再可利子,景明安子主之,余俱樂與之游。而然真李子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。惟向者福清葉相國(24)贈西賢詩,有云“言慕中華風,深契吾儒理”,又云“拘儒徒管窺,達觀自一視”,誠化其同異之見,取所為尊天以立說者。究其指歸,精其義蘊,即不言學,并不言敎可也。而一切窮神達化,更有進乎? 此者抑非余之所及知也已。
康熙三年,歲在甲辰,春王正月,柱下史昆陵許之漸敬題。(25)
《傳概》正文
天學,天主敎學也。天主為萬有之初有,其有無元而為萬有元。德福圓滿,知能渾全,妙性超然,奧窮思悟,中土尊稱之日“上帝”。茲以其為天地之主宰,故質稱天主也。而其敎則為人而立,別人於蠢動,脩人於天神,令向真原而求真福。大要以昭事不墮為宗旨,以克己愛人為工夫,以悔過遷善為入門,以生死大事有備無患為究竟。誠吾人最吃緊之實學,而其從來遠矣。
緬昔天主上帝,於厥世始,開闢乾坤,發育萬物,所以資人安居利用者悉備。而生初人,男女各一。其靈性賦以當然之則,好善惡惡,秉為彝常,永不能脫。凡遇忠孝大節,舉仰慕之若渴;凡遇姦頑大
本冊第 87 頁開始
全文於本冊的 頁
歴史(編纂学)
清初中国天主敎名著『天学伝概』
陳占山

マカオ望徳敎堂(設色版画)
I.Wathen delt 絵画 I.Clark dirext製版(約1811年)
『天学伝概』(以下『伝概』という)は、中国の天主敎伝敎史上の名著である。康熙二年(1663年)に成書した後、直ちに宣敎の要籍として、敎徒の間で広く配布された。3年、楊光先は敎事件を提起し、また最も重要な罪証資料に挙げた。しかし、敎事件では、『伝概』が禁止され、本版が破壊され、その後ほとんど流布しなかった。幸い、1966年に台湾の呉相湘氏がローマのバチカンに収蔵されている原本を複写し、彼が編集し、台湾学生書局が出版した『天主敎東伝文献続編』第2巻に収められ、筆者はこれに基づいている。呉氏の行動は、『伝概』の普及を強化し、拡大するのに有益な役割を果たしたが、残念なのは、その編纂と発行は基本的に台湾と香港に限られており、他では珍しい。このような状況は、多くの学者の引用を制限し、同時に『伝概』という本書の研究にも影響を与えた。これを理解して、筆者は文章を書くために二つの方面の作業を行う予定だ:一、『伝概』に関する問題を簡潔に評価する;二、『伝概』を呉氏編著からコピーして、必要な処理として、文章を列挙した後、一期一斉に刊行して、勉強に便利になる。
まず第一方面の仕事を進めて、三つの問題に関わっています。
一、『伝概』の作者について
この問題は過去に深刻な混乱を生んだことがあり、二つの間違った説法があります:一説作者、または主な作者は利類思と安文思です。例えば、主に明清の間に中国伝敎士がヨーロッパに送り返した書簡、文書に基づいて、徳魏特が書いた『湯若望伝』にはこう書かれている:
1664年、『辟邪論』を否定する著作が出現し、『天学伝概』と題した。この著作の主な作者は利類思と安文思の二人の神父です。奉敎官吏のジョン・李祖白は欽天監一監副で、この著作に修辞的な修正を加え、彼の名義で印刷して発行した。(1)
費頼之が1875年に執筆した『在華イエス会士列伝』の中で、この本も利類思作(2)に帰属し、この説は古くからあることがわかります。注目すべきは、多くの現代学者がこれを確信していることです。緊張力、劉鑒唐先生の説のように:
『天学伝概』という本は、伝敎士利類思が書いたもので、中国人の李祖白、許之漸は序文、弁頭だけを書いた。(3)
また、樊洪業さんも「伝敎士安文思と利類思......『天学伝概』という本を書いた」と言った(4)。別の説では、作者は李祖白であるが、利類思と安文思もかなりこの本の執筆に関わっている。例えば、裴化行が1945年に発表した『西書漢訳考』の中で、この本は李祖白が書いたと名乗ったが、その後括弧で利類思、安文思の二人の名前が加わった。(5)このやり方は後に多くの関連敎会の著作翻訳目録に沿用された。
『伝概』の作者は李祖白です。中国の天主敎伝敎史の知識を少し知っている人は、この著作をざっと見て、この結論を出すのは難しいことではありません。本のトップページは「天学伝概」という本名の下にあり、「燕呉後学李祖白撰」と署名され、原書の唯一の序文<許之漸序>も説いている:
然真李子以余為有契乎其言也、持所著書、属利子索余序、因述其大略。
その中で、「然真」は祖白字で、「利子」は利類思を指し、「李子」「持所著書」は書前の作者の署名と一致している。また、本の中で湯若望に言及する時、毎回「余師」または「師」と呼ぶ。李祖白は湯若望門の人であり、この呼び名があり、情理に合致する。この本は李手から出たもので、明らかであることがわかります。これに対して、方豪さんは同じ理由でとっくに指摘した。(6)しかし、この問題に対する指摘はこれに限られれば、完全ではない。上挙事実は利類思と安之思が『伝概』の説法を書く可能性を否定できないからです。力主『伝概』の作者が李祖白の方豪さんであるように、同時に前に挙げた第二の間違った説法を受け入れる。(7)注目すべきは、台湾の清華大学の黄一農敎がこれについてさらに推論したことです。彼は指摘した:
実際、内文〔『伝概』中を指す〕によると、許湯若望は暦を治める功で欽天監を統括し、荷順治皇帝の「鍚佳名、晋崇階」、南懐仁は「知暦で阙庭に行き、大官に仰ぎ与える」などの敦述は、この書と利類思と安文思の二人とあまり関係がないと推測できます。安文思などの敎士が于順治五年から、一連の文書を発表し、湯若望が監正職に就いたことはイエズス会の「宦官」の誓約に違反していると非難し、迷信的な内容を含む暦書を編纂したと批判し、敎内で十数年にわたる大きな波紋を巻き起こした。この事件は康熙三年まで、敎皇の裁定によって決着し、利類思はこの争いの中での立場は安文思を支持しているので、二人は本の中で湯若望と南懐仁の監官就任を揚敎と見なす態度に賛同する可能性は低い。(8)
この推論は信憑性があり、利、安二人が『伝概』という本の執筆に参加した可能性を排除できる。
『伝概』の著者の誤った説法の原因は多いかもしれませんが、主に本文の冒頭で指摘した事実です。この本はその後ほとんど流布されていないので、ほとんどの論者は原作を実際に見ていません。
李祖白は誰?言うまでもなく、長い間、この問題は学術界ではよく知られていない。方豪敎授を含めて、『伝概』が彼のためにやったことを判証する以外に、李祖白其人に対してこれ以上の深い検証をしなかった。李氏の生涯の事績が隠されて現れ、学者の前で突如として現れたのは、黄一農が教えた仕事のおかげです。1991年、黄氏は「康熙朝の「暦獄」に関する天主敎中国語著作考」(9)という文章を発表し、順治末年に作った『御屏京官職名簿』、李鋭『観妙居日記』、李祖白為伝敎士羅雅谷など、あまり知られていない、または先人に無視された資料を効果的に発掘して引用した。『哀矜行詮』の序文などは、李氏の事績について説得力のある検証を行った。以下に略記します:
祖白の生い立ちは不明で、出身地は杭州で、中国の天主敎の三大柱石と称される李之藻、楊廷筠の二人は同郷の友情で、その影響を受けて、早くも明崇祯初に「奉敎(......)有年」、後に天文官に就任して順天府に移籍し、順天副榜監生だった。今観『伝概』の作者李祖白の署名前冠「燕呉後学」の四文字、「燕」は順天を指し、「呉」は原籍の杭州を指す。祖白は明末に暦局で湯若望に従って西法を学んだが、ずっと授職されず、「供事生員」と名乗っただけだった。順治元年に『時憲暦』を編纂した功績により、欽天監博士を授けられ、十年六月に夏官正と補った。康熙四年四月初四日、楊光先排敎事件で他の四人の奉敎監官と一緒に斬首された。黄さんの検証によると、祖白は『伝概』の作者であるだけでなく、実は晩明清初西学東漸の積極的な推進者でもあり、湯若望らの西洋暦法の改訂、公布の有力な助手である。
二、『伝概』の執筆意図について
筆者が見た関連論著について、黄一農氏の前暴露文を除いて、数人の口論で、『伝概』の執筆意図は楊光先の『辟邪論』に反論するためだと論じた。先に『湯若望伝』を引用したように、方豪さんもこの説を踏襲した。筆者は、この説法も古くからあることを発見し、費頼は以前、本を公開し、すでにこのように説き、蕭若瑟の『天主敎伝行中国考』は最も詳細で、最も広く、後、さらには現在の中国天主敎史に関する著作に引用され、最も代表的なものです。その文曰く:
康熙は年齢を踏襲し、輔政大臣の螯拝などが西士を好まないことを先見知り、鳌拜は素性が疑心暗鬼で、怒り狂い、同僚の多くは非難された。光先はチャンスが乗れると考え、権力者の門を遊説し、西士が伝えた敎と西洋暦法を百方から誹謗し、『辟邪論』を作、聖敎を誹謗し、五千冊余りを刷印し、各地に散らした。利類思神父は噂が盛んになり、聖敎日が不明瞭で、『天学伝概』の本を作り、聖敎の道理を明らかにした。『辟邪論』に載っているうわさや噂は、一つ一つ識別する。奉敎顕官許之漸、李祖白はそれぞれ序文弁首として、極言聖敎道理の美善。この本が出版された後、楊光はそれを先見し、狂ったように狂って、憎しみが深まり、また『やむを得ず』という本のタイトルを作ったが、『辟邪論』よりは、特に冤罪だった。(10)
これに基づいて分析することができます。まず、引用文に明らかな誤説が四つあることがわかりました:
その一つ、『辟邪論』は順治十七年に書かれたもので、「康熙冲齢践祚」の後ではない。
二つ目は、利類思非『伝概』の作者で、上記は詳しく述べた。
第三に、今『伝概』の祇有許の漸序は李祖白序がない。その本はもともとそうで、絶対に間違いない。最も攻撃力のある楊光先も、この本の最初の研究読者であるに違いない。しかし、その<許青嶼侍御書>と<請誅邪敎状>の2つの文章の中で、『天学伝概』は許之漸序以外に、李祖白序が言及したことがない。
その四、許之漸は敎(その非天主敎徒)を奉らない。
この四つの誤説は、蕭若瑟の説法全体の信頼性を疑う理由がある。「天学伝概」は最初に天主敎の基本的な趣旨を述べ、次にその敎の由来と中国における歴史を述べ、儒家の典籍を引用して説明し、最後にその敎の中国における現状を述べた。これ以外に、他に何もない。蕭氏は「『辟邪論』に載っている噂を一つ一つ識別する」と説いたが、『伝概』の内容とはかけ離れている。また、『伝概』の全文の最後に、李祖白はその本の執筆意図について特別に述べた:
癸卯孟冬、公余少暇、客有問天学今昔の概要者、謹守所聞論次之、代口答。
これはその本の内容と完全に一致している。また、この文章から『伝概』の巻末には祖白が書いた序文がないに違いないと推測できます。そうでなければ、全書の最後に彼の著作の縁を告白することはありません。したがって、「天学今昔の概要」を紹介する『伝概』は、異端を反駁する護敎類の著作ではなく、地道な宣敎書である。全文を総合的に見ると、楊氏とその『辟邪論』に対しては一言も言わず、ましてや「逐条識別」を説く。だから、前引用蕭書及びその他すべての敎会史書説『伝概』は『辟邪論』に反論するために書かれたもので、実に何の根拠もない。この点からもう一度説明できるのは、ほとんどの関係者は原書を見たことがなく、人云亦云であるに違いないということです。さらに考え、高度に注意を払う価値があるのは、楊光先の『辟邪論』、『拒西集』など天主敎の書を激しく非難した後の『伝概』が、当時かなりセンセーションを巻き起こした上記の揚氏の作品に対して、なぜ一言も言わずに表現するのか?
三、『伝概』の影響と学術的特徴
『伝概』は中国天主敎伝敎史上の名著になったが、主な理由は楊光先がそれを康熙三、四年排敎事件を起こした罪の証拠資料として利用したからだ。このことから、ある程度、『伝概』の影響は今回の排敎案前後の重視度から説明できる。
『伝概』は康熙二年(1663)十月に書かれ、許之漸序は三年正月に書かれた。同年3月25日、楊光先は許之漸に長書を送り、この書を酷く非難し、厳辞威強に許に辞退却させた。許置之は無視する。四ヶ月後の七月二十六日、楊は朝廷に<誅邪敎状を請う>を提出し、正式に敎案を発動した。「告発の状辞典の多くはこの著作〔『伝概』を指す〕を口実とし、この著作の執筆と拡散に関係したすべての人々は、その株連に遭った。」(11)楊光先は李祖白が書いた『伝概』を「主謀者湯若望、序を求める者利再可、作序者許之漸、伝用者南敦伯、安景明、潘尽孝、許謙」(12)と認定した。
既存の文献記録によると、楊光はまず『伝概』などで事件を起こし、「率祖制、復旧章」を最大限に煽り、迎合し、順治以来の開明政策の満州権力者と漢族の旧士大夫を守る恨み感情に不満を抱いた。だから、一方では立件が迅速で、楊の訴えが上ると、礼部はなんと「今日有疏題参」(13)、中国の封建官僚機構の事務処理の先延ばしの風を一変した。他方では、裁判が厳格で、「訴訟上のすべてのルーチン手順を少しも守った」(14)。しかし、『伝概』は今回の事件全体に対する役割と影響はこれだけです。尋問作業の全面展開に伴い、伝敎士の「罪状」が一つ一つ発掘され、この本は逆にあまり重要ではない要素に進化した。焼書毀版事件は、敎事件の審問期間に下された一連の段階的な判決書であれ、最後の最終判決書であれ、言及されていません。(15)楊光先は、この本の執筆と発行に関わった一派の人犯の中で、純粋に関係のある許之漸、潘尽孝、許謙の三人で、最後に受けた処罰もただ落官無職に過ぎなかった。しかし、湯若望らは康熙8年8月に全面的に正されたが、勅旨は依然として「伊などの集まりが『天学伝概』や銅像などに散らばれる」ことを禁じている(16)。
伝敎書として、『伝概』の最大の学術的特徴は「言辞は大胆すぎる」(17)、「言い回しは意味を醸し、考慮不足を言わずにはできない」(18)、当時の中国伝統文化の認識の雰囲気に最大限に衝撃を与え、正統な士大夫が納得した道統観念を傷つけた;同時に表明から清に入った後、天主敎の「儒教に適応する」という仕事は、すでに新しい段階に入った。前の面については、これ以上余計なことは言わない。楊光先の<許青嶼と御書を待つ>と<邪を誅して敎状を請う>の2つの文章を見て、これについて深く感じることができます。「儒家に適応する」については、ここで少し説明する必要があります。簡単に言えば、儒教に適応することは、天主敎徒の中の知恵のある部分を指し、中国の民衆、特に大多数の士大夫の帰依、信奉を勝ち取るために、儒家経典の中のいくつかの語彙、さらには理論を借りて、天主敎義を解釈し、天主敎が中国で「古有有之」と「天儒」が「相通」であることを説明する。この仕事はリマドゥから始まり、李祖白の頃まで100年近くが経ち、その成果は非常に顕著です。李祖白書実は先人(伝敎士と徐光啓、李之藻、楊廷筠を代表とする一団の中国士大夫)という方面の仕事の継続です。今この本を読んで、三千語にも満たない篇幅で、『尚書』九十五言、『詩経』百十言、『論語』二十六言、『中庸』二十言、『孟子』二十九言を引用して、本当に「適応」できると言える。ある敎中学者はこれに基づいて「李祖白も清初天主敎友の中で、儒教運動に適応した功臣である」(19)と指摘し、比較的的確であるべきだ。
注目すべきは、李祖白の儒教への適応と前任者と比べると、顕著な違いがあることです。「昔、リマドウは中夏の聖書の賢伝を引用し、文でその邪悪を飾ったが、今祖白は中夏の聖書賢伝は邪悪のフランス語の微言を受けたと言った。」(20)これは中国の天主の著作史だけでなく、中国文化史全体でも石破天驚である。加えて、李祖白はまた『旧約・創世記』に基づいて「中国の初めの人、実に徳亜のミャオ系のようだ」という怪論を推演したので、楊光先は次のように説いた。
我が大清を尽くして徳亜のように、我が大清及び古先聖帝聖師聖臣を邪悪に敎苗裔を尽くし、我が歴代の先聖の聖書賢伝を如くして邪を敎緒余を尽くし、妄にとどまらないわけがない!大清を挟もうとする者は、大清に反逆して邪悪に従う、天下を無君無父も率いる!(21)
『天学伝概』は大切にすべきであり、明清の頃から士大夫から「文化感情」を代表し、独特の学術的価値があり、中国の天主敎伝敎史及び中国文化史全体において、真剣に研究する価値がある。この著作の他の価値については、人それぞれで、しばらくは気にしない。
次は二番目の仕事をします。筆者がコピーした本、本文は7ページ、半ページ9行、行目は20字です。四周片側、単魚尾。本文の前には<許之漸序>があり、全部で五ページ、半ページ六行、行十二字です。原文を段、句読みに分け、引用文は原作を照合し、経書は編目も明記し、人物の字号など、簡注を酌量します。
『伝概』: <許之漸序>
天地の心から見て、後君師の道興。帝王が治める理由、聖賢が学問する理由は、天に本乎しない者はいない。黄軒は今まで、世に異治はなく、教は統一して裂けた。人は自ら学び、家は自ら師となり、もし水と火が共謀しなければ、天を敬わない者はいない。あれこれの間に、よく陽はその名を搸し、陰で事実を盗む。道家の幽渺、釈子の虚寂、貧しくその所頼、我儒の尽性至命と、道が分かれて帰る者はいないか?ただ斁倫が紀を滅ぼし、君臣父子の大を惜しみ、夫の幽渺虚寂を耽らせ、そのいわゆる天を求めず、この二氏の教、吾儒は辞して辟之也;彼行之不着習矣。君臣父子に身を察知せず、天を知らず、儒者であり、欠点がないわけにはいかない。もしその弊害を追おうとするなら、まだ救うと思って、天を尊ぶなら立言するな。
開辟以来、カトリックの学者だったと伝えられている。突然その話を聞いて、まるで彷徜
そしてフォコは根拠。すなわち、吾儒に告ぐべき、二帝三王の道、日月星辰の行、天地が着く理由、鬼神が幽か、物類が繁る理由、川が流れる理由、それを冒涜すべきではなく、その学問も。久之而其人親、其書を翻訳し、昭事不堕を宗旨とし、己の恋人を克を工夫とし、悔い改め、善を移すことを入門とし、生死の大事には備え、危険がないことを究極である。二帝三王の道、日月星辰の行、天地が着る理由、鬼神が幽か、物類が繁る理由、河川が流れる理由、靡弗相始終、相表里、二氏を超えている。後になってその学問を知ったのは、我が儒教の学問ではないか。
その敎は漢唐から中土に伝わり、明万暦辛巳、イエズス会士西泰利子、航海九万里から来た。(22)建堂は宣武門内にあり、一時は公巨卿と名付けられ、多楽は彼と遊んだ。国朝に至って、恩礼倍渥、通微敎師(23)、実総歴務。復勅は東堂を建て、再び利子を可し、景明安子主之、余皆楽と遊。しかし、真李子は余を契り、その言にも従え、所著書を持ち、利子索余序に属し、その大略を述べる。唯向者福清葉相国(24)は西賢詩を贈った。「中華風を慕い、吾儒理を深く理解する」という雲があり、また「儒徒を拘って覗き、達観自一視」という雲があり、その同異の意見を誠化し、天を尊んで立説する者である。究其指归、精其義蕴、即ち言わず学、言わず敎可也。そして、すべての貧神達化は、さらに進歩する?この人は余の及ばない。
康熙三年、歳は甲辰、春王正月、柱下史昆陵許之漸敬題。(25)
『伝概』本文
天学、天主敎学も。天主は万有の初めであり、その有無元は万有元である。徳福円満、知性全、妙性超然、奥貧思悟、中土尊称の日「神」。これを天地の主宰者とし、天主とも称する。その敎は人のために立ち、他人は蠢き、人を天神に脩り、真原に向かって真福を求める。大要は昭事不堕を宗旨とし、己と恋人を克を工夫とし、悔い改め、善を移すことを入門とし、生死大事に備え、危険がないことを究極とする。誠我人は実学を一番厳しく食べるが、その昔から遠い。
ミャンマーの昔、天主神は、厥世から、天地を開拓し、万物を発達させたので、資人安住利用者は備えている。生まれて初めての人は、男女それぞれです。その霊性は当然の則を授け、善悪悪、常を貫き、決して抜け出せない。忠孝の大節に出会ったら、憧れを渇望する。姦淫に出会ったら、頑強に
本冊第87ページから
全文は本冊のページにある
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