2024年5月11日土曜日

ゴルドン夫人 The Lotus Gospel: Or, Mahayana Buddhism and Its Symbolic Teachings Compared Historically and Geographically With Those of Catholic Christianity : 洋書

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ゴルドン夫人

弘法大師と景教との関係 : 一名・物云ふ石,教ふる石  書誌情報 : 著者 イー・エー・ゴルドン 著, 高楠順次郎 訳 出版者 丙午出版社 出版年月日 明42.9

東博:
(東博の羊像2体。早大にある羊像と同じく、ゴルドン夫人が寄贈したもののはず。)

以下は早大石羊

 

日本にある石羊の中でも東博と早大は似ているので東博もゴルドン夫人関連か?

Waseda DaigakuTosyokanKiyou_30_Nakamura

E・A・ゴルドン夫人の生涯
中村悦子

 こうして一九一六(大正五)年の末に「早大ゴルドン文庫」が誕生した。 それは夫人の深い探求心によって集められた宗教、民族学などを中心とする貴重なコレクショであった。その中の一つに、現在も図書館の玄関脇に据えられている一対の石羊がある。 夫人が朝鮮の義州で入手したというこの石羊のイチハツ紋の台座の柱には、現在はよくわからないが、輝く真珠とそれを破壊しようとからみつくトカゲ、そしてラテン様式の七つの十字架が彫られていたらしい。夫人は著書の中でこれらの文様と、中国景教碑の文様、二世紀のシリアの神学者バル・ダイサンの詩「真珠賛歌」、紀元前六世紀の頃のメロエ神殿彫刻とを関連づけ、更に石羊の角はユダヤ教会で罪の日に吹くショファー(角笛)と同一であると論証している。つまり夫人はこの石羊を古代宗教の東アジア伝播のあかしと見たのであった。大隈侯も「これは消すことこのできない石に刻まれた証拠である」と語ったという。

本来の配置



中村悦子


早大旧図書館創立の当初から、通用口の両側に据えられていた一対の羊の石像も、彼女がキリスト教東漸の証拠として、朝鮮義州で入手した研究資料であった。

35:

早大ゴルドン文庫には、敦煌などの考古学探検で著名なM・A・スタインがカシミールからゴルドンに宛てた手紙がある。そこには、ゴルドンが奈良で発見した口―タス・プリンセスの絵と、敦煌千仏洞の絹絵の類似に対する驚きが述べられ、それを指摘したゴルドンに対する感謝の言葉が記されている。また、オックスフォード大学の比較言語学教授A・H・セースはゴルドンの著書、World-Healer or Lotus Gospelを読んで、その推薦文に「比較宗教について今まで書かれた中で最も興味深く、仏教と原始キリスト教の間にある密接な関係を美事に証明した、自分の仮説もここで証明された」と記し、「この書は東洋の宗教研究に新時代を築くであろう」と絶賛している。この時期はゴルドンにとって最も活力に満ちた日々であったに違いない。だがそこに、二つの悲報がもたらされた。一

37:

没頭し、宿所とした京都ホテルから、たった一度外出しただけだったと伝えられている。その間、親身も及ばぬ世話をしたのが京都ホテル支配人淡川康韶であった。その息女佐々木孝子さんは父に連れられて時々訪れた部屋で、ベッドに上半身をおこして書き物をしていたゴルドン夫人の姿を記憶している。夫人は高野山や東寺の知友、特に高野山管長土宜法龍等に学問上の疑義を質しながら、研究と執筆に没頭し、つぎつぎに著書を世に送り出していたのである。それらは、仏耶一元論の集大成としてのLotusGospel(改定版)、『大道無方・仏耶一元』という日本語書名を持っAsian Christology and Mahayana,その他Heirlooms ofEarly Christianity Visible in Japan等である。また、かつて彼女が編纂したTreasures of Darkness and Songs of Ascentを再版して病院や施設に寄付し、病む人や老人の心の安らぎを願った。また当時、米国で高まった排日運動に抗議し、ユダヤ人への援助も惜しまなかった。その枕頭には常に、大隈から見

38:

仏耶の一元を、その言語、儀式、思想の各方面から探究した彼女は、神仏習合を仏耶の関係に置き換えて、本地垂迹説に似た仏耶一元論を構築していたのである。一九二二年大隈が逝き、翌年土宜が没した。そして一九二五年六月一七日、ゴルドン夫人は京都ホテル一号室において、ひっそりと亡くなった。享年七十四。戒名は密厳院自覚妙理大姉。欧米人として真言密教最初の潅頂をうけた彼女の葬儀は、京都東寺において仏式で営まれた。高楠順次郎、浜田耕作、西田天香等幅広い会葬者の中に、東京から駆けつけた英国大使C・エリオットの姿もあった。日本仏教に傾倒していたエリオットは、ひとしお深く盟友ゴルドンの死を悼んだに違いない。彼はこの翌年大使を辞任した後、再び仏教研究のために来日し、やがて病を得て、帰国の船中で客死するという、ゴルドンに似た生涯を送っている。

高野山奥の院の墓碑は、ゴルドンが生前に自分でデザインしたものである。「弘法大師が唐において証得したという、高く昇った旭日の如く国民を覚照し、闇い所に座し死の影に住まうものを照し、平和の道に導くという、大光明(A Great Light)=遍照の大日」を象徴する球を、八葉蓮華の台と十字架が支えるこの構図は、まさしく仏耶一元による平和への祈念であった。だが、彼女の死後間もなく日本の元号は大正から昭和に改まった。ナショナリズムのが台頭、外来思想の排斥、ともはや仏耶一元論を受容する時代ではなくなった。それにつれて日英蜜月の時代を築いてきたゴルドン夫人の名も忘れられていったのである。

仏耶一元大道無方

Asian Cristology [sic] and the Mahāyāna; a reprint of the century-old "Indian church history" by Thomas Yeates, and the further investigation of the religion of the Orient as influenced by the apostle of the Hindus and Chinese by E. A. Gordon. With sketch map and illustrations  書誌情報 : 出版者 Maruzen 出版年月日 1921



Elizabeth Anna Gordon (1851–1925)

Messiah, the ancestral hope of the ages, "the desire of all nations," as proved from the records on the sun-dried bricks of Babylonia, the papyri and pyramids of Egypt, the frescoes of the Roman catacombs, and on the Chinese incised memorial stone at Choʾang, by E. A. Gordon ..  書誌情報 : 出版者 Keiseisha 出版年月日 [c1909]




ASCENSION SCENE,
(In Kurodani Temple, Kyoto; founded by Hönen, the Saint of Amida-Buddhism, or "St. Francis d'Assisi of
Japan," who ascribed his inspiration to Zendo, a Chinese teacher and writer on the Sakhavati Gospel: Cir A.D 1211).
(See p. 202; illust. p. 31.) Note Robe of Blessed ness" worn by Ascending One; also EMPTY TOMB, and Ananda
"looking in"; and cf. John 20, 2-9. Dharma Daishi (at foot) is said to be one of the two Indian priests who brought
the Buddha's Image and Books to China A.D. 67. Aranda's pupil, Arhat Madhyantika, carved the Image of Maitreya
above Bamian, called "the Mountain of LIGHT." (See pp. 20, 182, and Map of India, p. 23).

昇天シーン、
(阿弥陀仏の聖者、すなわち「日本の聖フランシスコ・ダッシジ」である法然によって創建された。
日本の聖フランチェスコ・ダッシジ」と呼ばれ、中国の教師でサハバティ福音書を書いた善導にインスピレーションを得たとされる: 西暦1211年)。
(p.202、図版p.31参照。) 昇天する者が身に着けている「祝福の衣」、「空っぽの墓」、「アナンダ」にも注目。
「ヨハネ20, 2-9参照。ダルマ大師(足元)は、仏陀の像と書物をインドに持ち込んだ二人の僧の一人と言われている。
仏像と書物を中国に持ち込んだ二人のインド人僧侶の一人である。阿蘭陀の弟子である羅漢マディヤンティカは、バーミヤンの上に弥勒菩薩像を彫った。
「光の山 」と呼ばれるバーミアンの上に彫った。(20、182頁、インド地図23頁参照)。







『阿弥陀仏と基督 上巻』道籏泰誠 1932年139頁より
139頁

婦人雑誌
1908.09

高楠
仏耶の接触
一般論


E. A.  ゴルドンの学問・思想形成奥 山 直 司


さて,『弘法大師と景教』は『マタイによる福音書』第21章43–44の引用で終わる.和訳がないそれ以降(『 メ シ ア 』 p. 16, l.  7–p.  28)についても一言しておこう.この部分では,

使徒聖トマスのインド,さらには中国への伝道説,

明帝感夢求法説,鳩摩羅什等の訳業,ネストリウス派の東方布教等がやや散漫な筆致で語られ,Q&Aからなる追記で締め括られる.その中には,当時西洋の学界で大乗仏教の創始者に擬せられていた馬鳴(Aśvaghoṣa)が南インドで聖トマスと接触した可能性も,上述した「大乗は仏教ではない」とのリチャードの言葉と共に述べられおり(p. 17),当時のゴルドンに対するリチャードの影響の大きさを感じさせる.


同年10月1日に挙行された高野山景教碑の開眼供養は,ゴルドンの日本における活動を代表する盛儀であった.この式典における挨拶の中で,ゴルドンは次のように述べている.

今日,奥之院の森に長安出土の景教碑がかく建立されたことは,東と西,仏教とキリスト教との間に大いなる「両部橋」(Ryōbu-bashi)が建設されたことを祝うことでもあると信じます(Gordon 1911a).

仏教とキリスト教は融和を目指すべきであり,そのための橋渡し役に相応しいものは,両部曼荼羅の理論を持つ真言密教―それは,ゴルドンの考えでは,尊敬する空海がネストリウス派に学んで創始したもの―である.これがゴルドンの両部耶蘇論である.そしてこのような理想を象徴するものこそ,この日空海の霊場である高野山奥之院でヴェールを脱いだ景教碑であった7).

3.3  佐伯好郎と古代日本ユダヤ人渡来説
 佐伯は,ゴルドンが来日した1907年に「払菻考」(佐伯  1996a)を発表してネストリウス派キリスト教研究の口火を切り,翌年には「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(佐伯  1996b)を発表して,秦氏ユダヤ民族説を唱えていた.二人がいつから相知ったかははっきりしないが,佐伯は『弘法大師と景教』に注目して,『日本百科大辞典』第3巻に執筆した「けい―けう(景教)」の項(佐伯  1910)でこの書に言及し,自著『景教碑文研究』(佐伯  1911)にはその全文を掲載している.ゴルドンは佐伯の説を受け入れ,古代日本にユダヤ人が移住して日本文化に影響を与えたと信じ,この視点から日本仏教と神道を解釈してゆくことになる.

4.  まとめ(1) 
 ゴルドンは,リチャードの大乗仏教とキリスト教の一元論を支持する一方,真言密教に含まれた形でのネストリウス派日本伝来説を主張した.この二重の連鎖が彼女の仏耶一元論を特徴付けている.(2) ゴルドンは釈慶淳に学び,真言密教を橋渡し役とした仏教とキリスト教の融和を理想とした.これが彼女の両部耶蘇論である.(3) ゴルドンは佐伯好郎の説を受け入れ,古代日本ユダヤ人渡来説を支持した.

1)ゴルドンの経歴と再評価の試みについては,Hall  1975,中村  1989, 1994,安藤  2010,Koyama  2013,奥山  2017を参照のこと.2)ゴルドンは,1891年,世界一周の家族旅行の途中で日本を訪れている.3)祖風宣揚会によって東寺境内に設立された病院.4)真言宗豊山派の学僧で,釈雲照の高弟.豊山大学の教授・学監を務めた.5)その後,高野山景教碑の写真を付した私家版が,1912年と1915年に出されている.この論考は1909年10月発行の『六大新報』317,318,319にも連載されている.6)ゴルドンは空海と共に最澄も長安に入ったとするが,これは事実と異なる.7)このレプリカの特徴とそこに込められた意味については,奥山  2017を参照のこと.
〈略号〉『メシア』  See Gordon 1909.
『蓮の福音』  See Gordon 1911b.

〈参考文献〉
安藤礼二  2010「エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人をめぐって」『宗教研究』363: 140–141.
奥山直司  2017「物言う石―E. A.ゴルドンと高野山の景教碑レプリカ―」小峯和明監修・原克昭編『宗教文芸の言説と環境』笠間書院,330–335.
佐伯好郎  1910「けい̶けう(景教)」『日本百科大辞典』第3巻,三省堂書店,1079–1081.
― 1911『景教碑文研究』待漏書院.
― 1996a(1907)「払菻考」法本義弘編『佐伯好郎遺稿並伝』上,大空社,299–309.
― 1996b(1908)「太秦(禹豆麻佐)を論ず」法本義弘編『佐伯好郎遺稿並伝』上,大空社,309–326.
さわ(佐和隆恵) 1910「ゴルドン夫人を訪ふ(両部耶蘇の説を聞く)」『六大新報』358: 1011.釈慶淳  1910「両部耶蘇論」『六大新報』372: 5.
中村悦子  1989「E. A.ゴルドン夫人の生涯」『早稲田大学図書館紀要』30: 208–211.
― 1994「E. A.ゴルドンの人と思想―その仏耶一元論への軌跡」『比較思想研究』21: 29–39.六大新報社編  1909「仏教凝の英婦人」『六大新報』315: 55.
― 1910「釈慶淳師とゴルドン夫人」『六大新報』362: 19.

Gordon,  E.  A.  1909.  Messiah, The Ancestral Hope of the Ages,  “The Desire of All Nations,”  As Proved from the Records on the Sun=dried Bricks of Babylonia, the Papyri and Pyramids of Egypt, the Frescoes  of the Roman Catacombs,  and on  the  Chinese Incised Memorial  Stone  at  Cho’ang. Tokyo: Keiseisha.
 ―. 1911a.  “On the Consecration Ceremony of the Nestorian Tablet  ‘The Teaching Stone.’”『三密』4: 6–7.
―. 1911b.  The Lotus Gospel,  or Mahayana Buddhism and its  Symbolic  Teachings. Compared Historically and Geographically with Those of Catholic Christianity. Tokyo: Waseda University Library. Hall, Manly P.  1975.  E.  A.  Gordon,  Pioneer  in  East-West  Religious  Understanding:  A  Memorial  Tribute. Los Angeles: Philosophical Research Society. Koyama, Noboru. 2013.  “Elizabeth Anna Gordon (1851–1925).”  In  Britain & Japan: Biographical Portraits, vol. VIII, comp. and ed. Hugh Cortazzi, 351–359. London: Routledge. Richard, Timothy.  1907.  The Awakening of Faith in the Mahayana Doctrine̶The New Buddhism by the Patriarch Ashvagosha. Shanghai: Christian Literature Society.―. 1910. The New Testament of Higher Buddhism. Edinburgh: T. & T. Clark.―. 1916.  Forty-Five  Years  in  China:  Reminiscences. New York: Frederick A. Stokes Company Publishers.

近代仏教の東西交渉ティモシー・リチャードの仏書翻訳と仏教理解
孫  知 慧
East-West Communication and Modern Buddhism: Timothy  Richard’s  Translations  of  Buddhist  Scriptures   and  His  Understanding  of  Buddhism SON  Jihye

Tozaiken


リチャードは晩年、アーサー・ロイド(ArthurLloyd、1852-1911)やエリザベス・アンナ・ゴルドン(ElizabethAnnaGordon、1851-1925)らと出会い、仏教研究の重要性をさらに実感した8)。リチャードは1907年上海で開かれた中国宣教百年記念大会で日本仏教と阿弥陀仏を論じた著書を入手し、翌年、東京で著者のロイドを訪ねた。聖公会の宣教師でもあったロイドは、慶応義塾と東京帝国大学の教授を歴任し、日本仏教の研究にも尽力した人物である9)。ロイドが主宰した食事会でリチャードは、大主教、総領事、学者らと対話を交わしながらアジア地域宣教の苦情を吐露したが、それに対してロイドは「宣教現地の宗教と宗派に対する理解不足」を指摘し、比較宗教研究に努めることを勧めたという10)。また、リチャードが日本で出会ったゴルドンは、景教が空海を通じて日本に伝来し、仏教(真言密教)と習合したと主張し、キリスト教と仏教の教えはもともと同根であったとする「仏耶一元論」を提唱した人物である11)。中国における景教の存在を物語る「大秦景教流行中国碑」12)のレプリカを、日本の高野山と韓国の金剛山に建立したこともある13)。彼女もまた、従来の宣教

師が、東洋現地の宗教を無視してきた傾向を指摘した。この見解は、リチャードに深い興味をもたらした。四、このような思潮は、当時西洋で流行した「比較宗教学」の趨勢とも関わる。19世紀中期からマックス・ミュラー(MaxMüller、1823-1900)をはじめ西洋の学者の間で、「世界宗教」という観念と比較宗教研究の必要性が唱えられるようになった。1893年シカゴ万国宗教会議の開催もその動きに少なからず刺激を与えた。これは、近代という時空間で生じた宗教学・神学の変化、西洋と東洋の出会いが生み出した一つの現象であった。リチャードの仏教研究もこの流れと無関係ではなかった14)。リチャードは当時代火急の課題は「東西交渉」であり、「キリスト教と仏教の歴史・教理的類似性」を探ることによって、両者(東西)をつなぐことができると信じたのである。そして晩年になると、リチャードの仏教への期待はますます高まっていた。

8 )“I.Studyofbuddhism”,“II.ProfessorLLoyd”(Forty-five  Years,  pp.334-336).
 9 )井上哲次郎「アーサー・ロイド氏と仏教」、井上『懐旧録』(春秋社松柏館、1943年)


を参照されたい。イギリス人宣教師ロイドは、1884年に聖公会の宣教師として来日し、福沢諭吉の家庭教師のほか、慶応義塾大学や商船学校で英語教師をつとめた。1903年に立教大学の総理を辞任してから東京帝国大学で英語を教えた。
彼の著書
The Wheat Among the Tares:  Studies  of  Buddhism  in  Japan (Macmillan,1908)および
The  Creed  of  Half  Japan(Smith,Elder&Company,1911)

 は、リチャードが古代における大乗仏教とキリスト教間の接融・交流を確信するに霊感を与えた。10)Forty-five  Years,  p.336. 11)安藤礼二「エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人をめぐって」(『宗教研究』83、日本宗教学会、2010年)p. 141。GordonのThe  Lotus  gospel:  or,  Mahayana  Buddhism  and  its  symbolic  teachings  compared  historically and  geographically  with  those  of  Catholic  Christianity(WasedaUniversityLibrary,1911)には「空海の墓」の写真が、World-Healers,  or  the  Lotus  Gospel  and  its  Bodhisattvas,  compared  with  early  Christianity(Shanghai:CLS;London:E.L.Morice,1913)には「高野山景教碑と僧侶」のイラストレーションが載せられている。12)781年、長安の大秦寺の僧景浄の撰。ネストリウス派が635年に派遣した阿羅本が中国に来て景教を伝えて以後の歴史を述べている。1625年に西安で出土し現在は西安の碑林に保管されている。13)James.S.Gale,“TheDiamondMountains”(Transactions  of  the  Korea  Branch  of  the  Royal  Asiatic  Society 8,1922)を参照されたい。

14)ミュラーは各宗教の伝統的特性に注目し比較研究を進めたが、リチャードはあらゆる宗教からの共通的真理と価値の発見に注目した。15)“II.InterCommunicationinAncienttimes”(Higher  Buddhism,  p.6). 16)“XIII.JourneytoT’ien-T’aiMountain,1895”(Forty-five  Years,  pp.269-285)

その他の出版物
リチャードのCalendar of  the  Gods  in  Chinaは、中国における一年間の宗教的行事・意味を説明した著書である。序文に「現在中国の宗教一般を、偶像崇拝、迷信であると嘲笑するのは、彼らの怒りを招くだけで、けっして賢明ではない態度である」とし、教育と説教を通じてキリスト教に目覚めるよう引導すべきだと述べている62)。続いて中国の宗教の現況を紹介し、各日に当たる神や賢者の誕生・儀礼・行事などを英文で記述している。下は、仏教界の賢者の誕生記念日について説明した例である。
・馬鳴王誕(6 月23日)ThefestivaloftheBuddhistsaintMaMing(Ashvagosha)the fouderofMahayanaschoolwholivedinthefirstcenturyoftheChristianera.・龍樹大王誕(7月23日)FestivalofthefamouseBuddhistpatriarchNagarguna,oneofthe foundersoftheMahayanaSchool.

次に、A Mission  to  Heaven:  a  great  Chinese  epic  and  allegoryは、仏教教理書ではないが、玄奘法師(602?-664)の印度求法行をモチーフにした小説『西遊記』を英訳し1913年に上海で出版したものである63)。ここでも彼は、『西遊記』の内容はキリスト教思想であり、登場人物の「玄奘法師」を「イエスキリスト」の比喩とし、一行の孫悟空らを教化するとともに、全人類の救援に力を尽くして天国へ引導したと強調する64)。彼は、同書の翻訳が中国におけるキリスト教伝播に貢献すると期待感を強く表わしている。このように、リチャードは、強引と思われるほど「キリスト教と仏教の驚くべき類似性」を繰り返し述べたが、これによって彼の仏書翻訳の基本目的と仏教観が容易に把握できる。彼の布教への熱望によって、当時、アジアの人々自身とは違う見方、独特のアジア宗教理解を見せたのは注目に値しよう。


。。。



高楠順次郎 







久保有政
仏教の成立

弥勒信仰はもともと、インドで発生したものである。使徒トマスがインド宣教をした後に、仏教界で信仰されるようになった(1世紀半ば以後)。弥勒は「シャカの次の仏」である。シャカの死後56億7000万年ののちに、地上に出現するという。  つまり未来の救い主、メシアだ。これは使徒トマスが説いた「再臨のキリスト」を仏教化したものである。比較宗教学者エリザベス・A・ゴードン女史は、 「インドのマイトレーヤは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシヤ、ギリシャ語のキリストである」  と述べた。このインドの弥勒信仰が、のちに中国に入り、朝鮮半島に入った。とくに朝鮮の新羅では、弥勒に対する信仰が盛んになった。

。。


空海の高野山真言宗も親鸞聖人の浄土真宗もキリスト教の教えを含んでいる! | 日本の歴史と日本人のルーツ
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12584951696.html

仏教の仏とキリスト教の神(改訂版) Kindle版 


https://kakaku.com/tv/channel=12/programID=12513/page=33/


#14

京都の黒谷にある祭壇の横に、非常に古い絵が掛けられています。中国人芸術家によって描かれた時期は不明で、3 つの場面で構成されています。 (1) 最下層には、オリーブに似た暗い葉の木々の下、小川のほとりに座っている修道士のグループがいます。ダルマは離れて座り、陰鬱な疑惑と暗い当惑の中で迷っています。 (2) 中央部分では、仏陀のお気に入りの弟子であるアーナンダ*、つまり不安で畏怖の念を抱いた弟子たちが続いて、死体の上に横たわるための蓮の花を抱えて岩墓に入ろうとしています。彼は空の墓を見つけて驚きながら戻り始めます。
(3) 第三セクションでは、祝福のローブを着たシャカが雲の上の蓮華に昇ります。これにはほとんどの僧侶が驚きますが、「蓮華の師」であるダルマの歓喜と崇拝のエクスタシーには驚かされます。その容姿は、語られない言葉を表しています、
私の主、そして私の神です!」アナンダという名前は喜びを意味します (Eitel. p. 11)



神道と仏教とをただす 森山諭
1981














阿弥陀仏と基督. 上巻(基督教優越性叢書 ; 第4巻). 国立国会図書館請求記号: 特233-32. 国立国会図書館原本代替請求記号: YD5-H-特233-32. 国立国会図書館書誌ID ...

阿弥陀仏と基督 上巻. 阿弥陀仏と基督 上巻. ¥5,500. 小林書房. かごに入れる. 気になる本に追加(ログインで利用可能). 気になる本の使い方. 会員登録がお済み


基督教優越性叢書 第4巻 阿彌陀佛と基督 上巻 単行本 – 1934/11/20 


  • 出版社 ‏ : ‎ 求道舎出版部 (1934/11/20)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1934/11/20

https://dl.ndl.go.jp/pid/1056429/1/5



阿弥陀仏と基督 上巻 (基督教優越性叢書 ; 第4巻)

書誌情報:著者道籏泰誠 著出版者求道舎出版部出版年月日昭和7



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Elizabeth Anna Gordon (1851–1925)
NOBORU KOYAMA
PART V: WRITERS
MRS GORDON AND JAPAN
In 1891, Elizabeth Anna Gordon (née Henry) and her husband,
John Edward Gordon (1850–1915), embarked on a round the world
tour. This was not untypical at that time for people of their class
and generation. Two years later, she published a memoir recording
her experiences, ‘Clear Round!’: or Seeds of Story from Other Coun-
tries: Being a Chronicle of Links and Rivets in This World’s Girdle. Japan
had evidently made a very great impression on her, and her reminis-
cences of the country fill several chapters. She was struck, in particu-
lar, by Japanese religious life and children’s education. Shortly before
they returned to Britain, the Japan Society London was established:
she and her husband joined the Society, in February 1892, almost
immediately after their return. ‘Clear Round!’ was successful, since it
ran into three editions. It may even have contributed to the promo-
tion of a favourable attitude towards Japan among the reading public
before the conclusion of the Anglo-Japanese Alliance in 1902. Sixteen
years later, Elizabeth Anna Gordon returned to Japan with a large




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27

consignment of English books, as part of the ‘Books for Japan’ project
which she had organized with the aim of furthering Anglo-Japanese
cultural and religious understanding. From her mid-fifties onwards,
she lived almost continuously in Japan, except for a few years after the
First World War. She died in Kyoto in 1925.
Books were a central feature of Elizabeth’s life. She published at least
thirteen titles, primarily on the subject of Christianity and Mahayana
Buddhism. Eight were published in London; the other five titles were
published in Tokyo. She was clearly precocious, having written five
books before her marriage at the age of twenty-eight. She was also
a major book collector, eventually amassing an enormous library. She
initially collected books for her own studies of world religions, but
later collected books with the aim of distributing them to the Japanese
public.Her collections on religious studies ended up in Japanese univer-
sities as the Gorudon Bunko (Gordon Collection or Gordon Library)
at both Waseda University Library and Koyasan University Library. Her
collection of English books (around 100,000 books) which she and
her colleagues collected was called the Dulce Cor Library. It was called
Nichi-Ei Bunko or Nichi-EiToshokan in Japanese, i.e. the Anglo-Japanese
Library. This library formed the core of Japan’s first public library,
Hibiya Library, when it was opened in Tokyo in 1908.
RELIGIOUS STUDIES AND WRITINGS
Elizabeth Anna Gordon, highly religious by inclination, studied
Christian history in her youth, and, after studying under Max Müller,
extended her interests into the study of comparative religion – in par-
ticular, Mahayana Buddhism and Christianity. Her combined studies
of Christianity and Buddhism were published in Japan as a series of
four books: The Lotus Gospel; or Maha ̄ya ̄na Buddhism and its Symbolic
Teachings Compared...with Those of Catholic Christianity (1911), ‘World-
Healers,’ or the Lotus Gospel and its Bodhisattvas, Compared with Early
Christianity (1913), Asian Cristology and Maha ̄ya ̄na (1921) and Messiah:
the Ancestral Hope of the Ages,‘the Desire of All Nations’, as Proved from the
Records on the Sun-Dried Bricke of Babylonia, the Papyri and Pyramids of
Egypt, the Frescoes of the Roman Catacombs, and the Chinese Incised Memo-
rial Stone at Cho’ang (1906). In these works Elizabeth Anna Gordon
argued for what she believed to be the close relationship between,
and common ancestry of, Mahayana Buddhism and early Christianity.
In particular she emphasized the importance of Buddhist texts and
their transmission in the development of religious conduct. She
attempted to trace their journey eastwards, where she believed the

エリザベス・アンナ・ゴードン(1851-1925)
小山のぼる
パートV:作家
ゴードン夫人と日本
1891年、エリザベス・アンナ・ゴードン(旧姓ヘンリー)は夫のジョン・エドワード・ゴードン(1850-1915)と共に日本一周の旅に出た、
世界一周の旅に出た。
ツアーに乗り出した。これは当時、彼らの階級や世代にとっては珍しいことではなかった。
当時としては珍しいことではなかった。2年後、彼女はその体験を記録した回想録『Clear Round!
を出版した。
を出版した: この世のガードルにおけるリンクとリベットのクロニクルである。日本
は彼女に大きな印象を与えたことは明らかで、日本での回想は数章を埋め尽くしている。
の回想はいくつかの章を埋めている。彼女は特に
特に日本の宗教生活と子供たちの教育に衝撃を受けた。英国に戻る少し前に
英国に戻る少し前に、ジャパン・ソサエティー・ロンドンが設立された:
彼女は夫とともに、帰国直後の1892年2月にこの協会に入会した。
帰国直後の1892年2月、夫とともに入会した。クリア・ラウンド!』は3版を重ね、成功を収めた。
クリア・ラウンド!』は3版を重ね、成功を収めた。それは、日本に対する好意的な態度を広めることに貢献したかもしれない。
日英同盟が締結される前に、読者の間に日本に対する好意的な態度を広めることに貢献したのかもしれない。
1902年に日英同盟が締結される前に。16年後
その16年後、エリザベス・アンナ・ゴードンは大部の本を携えて日本に戻った。


consignment of English books, as part of the ‘Books for Japan’ project
which she had organized with the aim of furthering Anglo-Japanese
cultural and religious understanding. From her mid-fifties onwards,
she lived almost continuously in Japan, except for a few years after the
First World War. She died in Kyoto in 1925.
Books were a central feature of Elizabeth’s life. She published at least
thirteen titles, primarily on the subject of Christianity and Mahayana
Buddhism. Eight were published in London; the other five titles were
published in Tokyo. She was clearly precocious, having written five
books before her marriage at the age of twenty-eight. She was also
a major book collector, eventually amassing an enormous library. She
initially collected books for her own studies of world religions, but
later collected books with the aim of distributing them to the Japanese
public.Her collections on religious studies ended up in Japanese univer-
sities as the Gorudon Bunko (Gordon Collection or Gordon Library)
at both Waseda University Library and Koyasan University Library. Her
collection of English books (around 100,000 books) which she and
her colleagues collected was called the Dulce Cor Library. It was called
Nichi-Ei Bunko or Nichi-EiToshokan in Japanese, i.e. the Anglo-Japanese
Library. This library formed the core of Japan’s first public library,
Hibiya Library, when it was opened in Tokyo in 1908.
RELIGIOUS STUDIES AND WRITINGS
Elizabeth Anna Gordon, highly religious by inclination, studied
Christian history in her youth, and, after studying under Max Müller,
extended her interests into the study of comparative religion – in par-
ticular, Mahayana Buddhism and Christianity. Her combined studies
of Christianity and Buddhism were published in Japan as a series of
four books: The Lotus Gospel; or Maha ̄ya ̄na Buddhism and its Symbolic
Teachings Compared...with Those of Catholic Christianity (1911), ‘World-
Healers,’ or the Lotus Gospel and its Bodhisattvas, Compared with Early
Christianity (1913), Asian Cristology and Maha ̄ya ̄na (1921) and Messiah:
the Ancestral Hope of the Ages,‘the Desire of All Nations’, as Proved from the
Records on the Sun-Dried Bricke of Babylonia, the Papyri and Pyramids of
Egypt, the Frescoes of the Roman Catacombs, and the Chinese Incised Memo-
rial Stone at Cho’ang (1906). In these works Elizabeth Anna Gordon
argued for what she believed to be the close relationship between,
and common ancestry of, Mahayana Buddhism and early Christianity.
In particular she emphasized the importance of Buddhist texts and
their transmission in the development of religious conduct. She
attempted to trace their journey eastwards, where she believed the


ブックス・フォー・ジャパン "プロジェクトの一環として、英書の委託を受けた。
日英の文化的、宗教的な理解を深めることを目的とした「Books for Japan」プロジェクトの一環である。
日英の文化的・宗教的理解を促進することを目的としていた。50代半ば以降、彼女はほとんど日本に住み続けた、
第一次世界大戦後の数年間を除いて、ほとんど日本に住み続けた。
第一次世界大戦後の数年間を除いて。1925年に京都で亡くなった。
エリザベスの人生の中心は本であった。彼女は少なくとも13冊の本を出版した。
少なくとも13冊の本を出版した。
仏教をテーマに少なくとも13冊の本を出版した。8冊はロンドンで出版され、残りの5冊は東京で出版された。
東京で出版された。彼女は明らかに早熟であった。
彼女は明らかに早熟で、28歳で結婚するまでに5冊の本を書いた。彼女はまた
本の収集家でもあり、最終的には膨大な蔵書を集めた。彼女は
当初は世界の宗教を研究するために本を集めていたが、のちに、世界の宗教に貢献するために本を集めた。
その後、日本の一般大衆に頒布する目的で本を集めた。
彼女の宗教学に関する蔵書は、日本の大学に「ごるどん文庫」として収蔵されることになった。
宗教学に関する彼女のコレクションは、早稲田大学図書館とゴードン文庫として日本の大学に収蔵された。
として日本の大学に収蔵された。彼女の
彼女の収集した英語の蔵書(約10万冊)は、早稲田大学図書館と高野山大学図書館の「ゴードン文庫」として日本の大学に収蔵された。
ドゥルセ・コル文庫と呼ばれていた。と呼ばれていた。
日英文庫」または「日英図書館」と呼ばれていた。
図書館である。この図書館が日本初の公共図書館の核となった、
1908年に東京で開館した日比谷図書館の中核となった。
宗教学と著作
エリザベス・アンナ・ゴードン


RELIGIOUS STUDIES AND WRITINGS
Elizabeth Anna Gordon, highly religious by inclination, studied
Christian history in her youth, and, after studying under Max Müller,
extended her interests into the study of comparative religion – in par-
ticular, Mahayana Buddhism and Christianity. Her combined studies
of Christianity and Buddhism were published in Japan as a series of
four books: The Lotus Gospel; or Maha ̄ya ̄na Buddhism and its Symbolic
Teachings Compared...with Those of Catholic Christianity (1911), ‘World-
Healers,’ or the Lotus Gospel and its Bodhisattvas, Compared with Early
Christianity (1913), Asian Cristology and Maha ̄ya ̄na (1921) and Messiah:
the Ancestral Hope of the Ages,‘the Desire of All Nations’, as Proved from the
Records on the Sun-Dried Bricke of Babylonia, the Papyri and Pyramids of
Egypt, the Frescoes of the Roman Catacombs, and the Chinese Incised Memo-
rial Stone at Cho’ang (1906). In these works Elizabeth Anna Gordon
argued for what she believed to be the close relationship between,
and common ancestry of, Mahayana Buddhism and early Christianity.
In particular she emphasized the importance of Buddhist texts and
their transmission in the development of religious conduct. She
attempted to trace their journey eastwards, where she believed the


宗教研究と著作
エリザベス・アンナ・ゴードンは信心深く、若い頃はキリスト教史を研究していた。
マックス・ミュラーに師事した、
マックス・ミュラーに師事した後、比較宗教学(特に大乗仏教とキリスト教)に関心を広げた。
特に大乗仏教とキリスト教について。特に大乗仏教とキリスト教である。
キリスト教と仏教に関する彼女の複合的な研究は、4冊のシリーズとして日本で出版された。
として日本で出版された: 蓮の福音書、または大乗仏教とその象徴的教えの比較...』(『大乗仏教とその象徴的教えの比較...』)という4冊のシリーズとして日本で出版された。
その象徴的な教えをカトリック・キリスト教と比較したもの。
菩薩と初期キリスト教の教えとの比較』(1913年)、『世界のヒーラー』(1913年)、『アジア
World- Healers' or Lotus Gospel and its Bodhisattva, Compared with Early Christianity (1913), Asian Cristology and Maha ̄na (1921) and Messiah:
メシア:日干し煉瓦の記録から証明される時代の先祖伝来の希望、「万民の望み」』(1921年)。
バビロニアの日干し煉瓦の記録、エジプトのパピルスとピラミッド、エジプトのフレスコ画から証明されるメシア:時代の祖先の希望、「万民の望み」。
エジプトのパピルスとピラミッド、ローマのカタコンベのフレスコ画、そして中国の長安(チョウアン)の刻まれたメモリアル・ストーンから証明された。
Cho'ang (1906). これらの著作でエリザベス・アンナ・ゴードンは
の間に密接な関係があり、共通の祖先がいることを主張した、
エリザベス・アンナ・ゴードンは、これらの著作の中で、大乗仏教と初期キリスト教との間に密接な関係があり、共通の祖先が存在すると主張した。
特に彼女は、宗教的行いの発展における仏典とその伝来の重要性を強調した。
特に彼女は、宗教的行為の発展における仏典とその伝達の重要性を強調した。彼女は
その東方への旅をたどろうとした。


https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/66/2/66_744/_pdf



51
27
Elizabeth Anna Gordon (1851–1925)
NOBORU KOYAMA






PART V: WRITERS
MRS GORDON AND JAPAN
In 1891, Elizabeth Anna Gordon (née Henry) and her husband,
John Edward Gordon (1850–1915), embarked on a round the world
tour. This was not untypical at that time for people of their class
and generation. Two years later, she published a memoir recording
her experiences, ‘Clear Round!’: or Seeds of Story from Other Coun-
tries: Being a Chronicle of Links and Rivets in This World’s Girdle. Japan
had evidently made a very great impression on her, and her reminis-
cences of the country fill several chapters. She was struck, in particu-
lar, by Japanese religious life and children’s education. Shortly before
they returned to Britain, the Japan Society London was established:
she and her husband joined the Society, in February 1892, almost
immediately after their return. ‘Clear Round!’ was successful, since it
ran into three editions. It may even have contributed to the promo-
tion of a favourable attitude towards Japan among the reading public
before the conclusion of the Anglo-Japanese Alliance in 1902. Sixteen
years later, Elizabeth Anna Gordon returned to Japan with a large

E. A. ゴルドンの学問・思想形成 奥山直司
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/gordon/index.html


1. はじめにE. A. ゴルドン(Elizabeth Anna Gordon, 1851–1925)は英国の宗教研究家で,明治末期から大正末期にかけて多年を日本で過ごし,1925年に京都で没した人物である.ゴルドンの事績として,日英文庫の創設,早稲田大学と高野山大学へのゴルドン文庫の寄贈,高野山奥之院と朝鮮の金剛山長安寺門前における「大秦景教流行中国碑」(西安碑林博物館所蔵.以下,景教碑と呼ぶ)レプリカの建立などを挙げることができるが,彼女の本領は研究と著述,そして思索家・信仰者としての内面への沈潜にあったと考えられる.ゴルドンは,当時の日本仏教界では,熱心な西洋人女性仏教研究家として,よく目立ち,珍重される存在であった.没後は長く忘れられていたが,近年,彼女を再評価する動きが見られる1).ゴルドンの思想は,「仏耶一元論」とも,また「両部耶蘇論」とも呼ばれている.本稿は,この人物の研究の一環として,彼女の仏教・キリスト教の比較研究が劇的に進展したと見られる最初の4年間,すなわち1907年8月の2度目の来日2)から,1911年10月の高野山景教碑建立前後までに的を絞り,彼女の学問と思想の形成過程を考察するものである.滞日に至るまでのゴルドンの経歴はここでは詳述しない.ただし,彼女が20歳の年からキリスト教に関する書物を立て続けに出版した信心深い学究肌の女性であったこと,オックスフォードでマックス・ミュラー(F. Max Müller, 1823–1900)に師事した比較宗教学の徒であったこと,そして熱烈な日本びいきであったことは,予め念頭に置かなければならない.


2.  1907–1911のゴルドンの動静

3.3  佐伯好郎と古代日本ユダヤ人渡来説佐伯は,ゴルドンが来日した1907年に「払菻考」(佐伯 1996a)を発表してネストリウス派キリスト教研究の口火を切り,翌年には「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(佐伯 1996b)を発表して,秦氏ユダヤ民族説を唱えていた.二人がいつから相知ったかははっきりしないが,佐伯は『弘法大師と景教』に注目して,『日本百科大辞典』第3巻に執筆した「けい―けう(景教)」の項(佐伯 1910)でこの書に言及し,自著『景教碑文研究』(佐伯 1911)にはその全文を掲載している.ゴルドンは佐伯の説を受け入れ,古代日本にユダヤ人が移住して日本文化に影響を与えたと信じ,この視点から日本仏教と神道を解釈してゆくことになる.4.  
まとめ
(1) ゴルドンは,リチャードの大乗仏教とキリスト教の一元論を支持する一方,真言密教に含まれた形でのネストリウス派日本伝来説を主張した.この二重の連鎖が彼女の仏耶一元論を特徴付けている.
(2) ゴルドンは釈慶淳に学び,真言密教を橋渡し役とした仏教とキリスト教の融和を理想とした.これが彼女の両部耶蘇論である.
(3) ゴルドンは佐伯好郎の説を受け入れ,古代日本ユダヤ人渡来説を支持した.


1)ゴルドンの経歴と再評価の試みについては,Hall 1975,中村 1989, 1994,安藤 2010,Koyama 2013,奥山 2017を参照のこと.
2)ゴルドンは,1891年,世界一周の家族旅行の途中で日本を訪れている.3)祖風宣揚会によって東寺境内に設立された病院.4)真言宗豊山派の学僧で,釈雲照の高弟.豊山大学の教授・学監を務めた.5)その後,高野山景教碑の写真を付した私家版が,1912年と1915年に出されている.この論考は1909年10月発行の『六大新報』317,318,319にも連載されている.6)ゴルドンは空海と共に最澄も長安に入ったとするが,これは事実と異なる.7)このレプリカの特徴とそこに込められた意味については,奥山 2017を参照のこと.


〈略号
〉『メシア』  See Gordon 1909.


『蓮の福音』  See Gordon 1911b.


〈参考文献〉
安藤礼二 2010「エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人をめぐって」『宗教研究』363: 140–141.
奥山直司 2017「物言う石―E. A.ゴルドンと高野山の景教碑レプリカ―」小峯和明監修・原克昭編『宗教文芸の言説と環境』笠間書院,330–335.

E. A.  ゴルドンの学問・思想形成奥 山 直 司


同年10月1日に挙行された高野山景教碑の開眼供養は,ゴルドンの日本における活動を代表する盛儀であった.この式典における挨拶の中で,ゴルドンは次のように述べている.

今日,奥之院の森に長安出土の景教碑がかく建立されたことは,東と西,仏教とキリスト教との間に大いなる「両部橋」(Ryōbu-bashi)が建設されたことを祝うことでもあると信じます(Gordon 1911a).

Gordon,  E.  A.  1909.  Messiah, The Ancestral Hope of the Ages,  “The Desire of All Nations,”  As Proved from the Records on the Sun=dried Bricks of Babylonia, the Papyri and Pyramids of Egypt, the Frescoes  of the Roman Catacombs,  and on  the  Chinese Incised Memorial  Stone  at  Cho’ang. Tokyo: Keiseisha. ―. 1911a.  “On the Consecration Ceremony of the Nestorian Tablet  ‘The Teaching Stone.’”『三密』4: 6–7.―. 1911b.  The Lotus Gospel,  or Mahayana Buddhism and its  Symbolic  Teachings. Compared Historically and Geographically with Those of Catholic Christianity. Tokyo: Waseda University Library. Hall, Manly P.  1975.  E.  A.  Gordon,  Pioneer  in  East-West  Religious  Understanding:  A  Memorial  Tribute. Los Angeles: Philosophical Research Society. Koyama, Noboru. 2013.  “Elizabeth Anna Gordon (1851–1925).”  In  Britain & Japan: Biographical Portraits, vol. VIII, comp. and ed. Hugh Cortazzi, 351–359. London: Routledge. Richard, Timothy.  1907.  The Awakening of Faith in the Mahayana Doctrine̶The New Buddhism by the Patriarch Ashvagosha. Shanghai: Christian Literature Society.―. 1910. The New Testament of Higher Buddhism. Edinburgh: T. & T. Clark.―. 1916.  Forty-Five  Years  in  China:  Reminiscences. New York: Frederick A. Stokes Company Publishers.


佐伯好郎 1910「けい̶けう(景教)」『日本百科大辞典』第3巻,三省堂書店,1079–1081.― 1911『景教碑文研究』待漏書院.― 1996a(1907)「払菻考」法本義弘編『佐伯好郎遺稿並伝』上,大空社,299–309.― 1996b(1908)「太秦(禹豆麻佐)を論ず」法本義弘編『佐伯好郎遺稿並伝』上,大空社,309–326.さわ(佐和隆恵) 1910「ゴルドン夫人を訪ふ(両部耶蘇の説を聞く)」『六大新報』358: 1011.釈慶淳 1910「両部耶蘇論」『六大新報』372: 5.
中村悦子 1989「E. A.ゴルドン夫人の生涯」『早稲田大学図書館紀要』30: 208–211.― 1994「E. A.ゴルドンの人と思想―その仏耶一元論への軌跡」『比較思想研究』21: 29–39.六大新報社編 1909「仏教凝の英婦人」『六大新報』315: 55.― 1910「釈慶淳師とゴルドン夫人」『六大新報』362: 19. Gordon, E. A. 1909. Messiah, The Ancestral Hope of the Ages, “The Desire of All Nations,” As Proved from the Records on the Sun=dried Bricks of Babylonia, the Papyri and Pyramids of Egypt, the Frescoes of the Roman Catacombs, and on the Chinese Incised Memorial Stone at Cho’ang. Tokyo: Keiseisha. ―. 1911a. “On the Consecration Ceremony of the Nestorian Tablet ‘The Teaching Stone.’”『三密』4: 6–7.―. 1911b. The Lotus Gospel, or Mahayana Buddhism and its Symbolic Teachings. Compared Historically and Geographically with Those of Catholic Christianity. Tokyo: Waseda University Library. Hall, Manly P. 1975. E. A. Gordon, Pioneer in East-West Religious Understanding: A Memorial Tribute. Los Angeles: Philosophical Research Society. Koyama, Noboru. 2013. “Elizabeth Anna Gordon (1851–1925).” In Britain & Japan: Biographical Portraits, vol. VIII, comp. and ed. Hugh Cortazzi, 351–359. London: Routledge. Richard, Timothy. 1907. The Awakening of Faith in the Mahayana Doctrine̶The New Buddhism by the Patriarch Ashvagosha. Shanghai: Christian Literature Society.―. 1910. The New Testament of Higher Buddhism. Edinburgh: T. & T. Clark.―. 1916. Forty-Five Years in China: Reminiscences. New York: Frederick A. Stokes Company Publishers.〈キーワード〉 『弘法大師と景教』,Timothy Richard,仏耶一元論,両部耶蘇論(高野山大学教授)








由愛
⁦‪@tenjounoao_yume‬⁩


高野山にある景教碑見てきました。中国にある本物より大きく、いろいろと違いが。建てたのは、仏教とキリスト教は同じだという考えを持っていたゴルドン夫人。京都で亡くなり、景教碑の隣にお墓があります。#景教 #高野山pic.twitter.com/8bPlDMXaOH

2020/03/11 21:57


https://x.com/tenjounoao_yume/status/1237724272878997511?s=61




由愛
⁦‪@tenjounoao_yume‬⁩


高野山に来たら必見なのが景教碑。一の橋を渡ってすぐの二手に分かれた道を右に進み、次の分かれ道で左に行くと、ちょうど司馬遼太郎文学碑の裏側辺りにエリザベス・ゴードン(E.A.ゴルドン)夫人が建てた、西安にある大秦景教流行中国碑の模刻碑(レプリカ)があります。#景教 #高野山 pic.twitter.com/DJCLbik7Fv

2020/03/30 18:57


https://x.com/tenjounoao_yume/status/1244564308387704833?s=61


https://gururinkansai.com/keikyohi.html








龍谷ミュージアム元館長のつぶやき
⁦‪@tirisawa‬⁩


中国西安の碑林博物館に所蔵されている「大秦景教流行中国碑」の複製が高野山奥の院にあることをご存知でしょうか。碑を忠実に再現したのはオックスフォード大学でマックス・ミューラーに学んだ宗教学者のゴルドン夫人。同門の高楠順次郎らと知り合ったことが彼女の人生の転機となりました。

2023/07/30 19:18


https://x.com/tirisawa/status/1685595802268540928?s=61






Shinya Watanabe 渡辺真也
⁦‪@curatorshinya‬⁩


空海の高野山が、キリスト教の信仰故に国外追放されたキリシタン大名、高山右近の甲冑を守り続けたのは、長安での留学時代にキリスト教に触れていた空海が、いずれキリスト教信者が日本に来た時は優しくしてやってくれと言い残したからだろう。そこにゴルドン夫人や折口信夫は引き寄せられた。 pic.twitter.com/EsheuJ3fZb

2023/06/03 12:26


https://x.com/curatorshinya/status/1664836030975836160?s=61




miyo
⁦‪@lalalamiyo‬⁩


ゴルドン夫人のところ。思い出したけど、松村みね子がアイルランド文学の翻訳を始めるのはご本人の回想にも鈴木ビアトリスに勧められてとあるけど、神智学研究者の先生から全否定され(笑)、それより前に日本に来ていた神智学者から勧められたからで資料もあるとのことだった。資料公開されてるのかな pic.twitter.com/ZCIKEkJR85

2023/11/26 21:22


https://x.com/lalalamiyo/status/1728750982060982326?s=61

紋章叢話
作成者: 沼田頼輔 · 1935









違鉞紋
ちがいまさかり


ゴルドン夫人の遠鉞の解釋 15
イー・エー・ゴルドン夫人は、久しく我國に滞在して基督教史の研究に従事した人である。 異敬
中國流行碑を模倣して、高野山に建立したのもこの夫人であつた。 本邦に滞在中 『弘法大師と異
敬』と云ふ一書をはして、空海が入唐中ネストリア宗の僧侶に接近して、耶蘇にも關係があつ
たと云ふことを稱道したのである。その書中に、違鉞紋について異説を立ててゐるからこれを左
紹介する。
予が始めて大師を知りしは、厳島(彼の神聖なる美麗なる内海の一島)にてありき。 予は一日彼の快絶奇絶
なる深林を過ぎ、絶壁を、山の頂上に達して、一の巨大なる聖火を見たり。こは子が世界中に於い
て見たる最も奇異なるものなりき。木を燃せるこの聖火は、弘法大師が千百年前、支那より朝時
此地に火せし以来、せざる所なりと云へり。手はこの木頭火と、耶のユールロッグ(耶蘇
ゴルドン夫人の遊鏡の解
一六一


紋章叢話
一六二
祭の木頭)との間には、思想の連絡あるを信ず。この聖火に近く、奥の院あり。此に参して、その幕及びそ
ダブルブックス
の前の懸に於いて、斧の紋章あるを見たり。この斧は、質にアリヤン時代以前に於いて、地中海の
クリート島(紀元前三千八百年アゲードのサルゴン大王の上陸せし島)に於いて、天神の表章として用ひら
れた天上の鳥を表はせしものなりと云へり。近時ドクトル、アーサー・イワンス氏が、ゼウス Zeus即ち太陽
の生宮と稱せらるる岩窟、及びクノソス Knossos の王宮(古來ミノトール怪牛の迷宮とせられし皮)を登
せし際、この斧の印を發見したり。さればこの紋章は、歴史以前より慶く用ひられたるものなるべし。



弘法大師と景教との関係 - – 古書, 1909/1/1
イー・エー・ゴルドン (著)



弘法大師と景教との關係 - ゴルドン - 青空文庫


https://www.aozora.gr.jp
>cards
>files







本書はゴルドン夫人の艸せられしを、可成原意を損せざる樣に注意したるも、譯文拙劣にして全豹を示すこと能はざるを憾む、原意の徹底せざる所はその責譯者に在り。



古本夜話653 ゴルドン、高楠順次郎訳『弘法大師と景教』

https://odamitsuo.hatenablog.com
>古本夜話






2017/4/25 -本書はゴルドン夫人の艸せられしを、可成原理を捐せざる様に注意したるも、訳文拙劣にして全豹を示すこと能はざるを憾む、原意の徹底せざる所はその責訳者 ...



弘法大師と景教 - イー・エー・ゴルドン - 日本の古本屋

https://www.kosho.or.jp
>products
>detail







著者 イー、エー、ゴルドン原著 ; 高楠順次郎譯 · 出版社 イー・エー・ゴルドン · 刊行年 明治45年 · ページ数 17p 小冊子 · サイズ 16x23cm · 状態 良好.



弘法大師と景教の関係。ゴルドン著 高楠順次郎訳。

https://ameblo.jp
>entry-12628902006






2020/10/1 -日英図書館主唱者でイギリス人のイー・エー・ゴルドン夫人という人が書いたものを高楠順次郎先生か翻訳したものです。明治42年のものです。 弘法大師空海 ...



E. A. ゴルドンの学問・思想形成 - J-Stage

https://www.jstage.jst.go.jp
>article
>ibk
>_pdf



ここでは,彼女の場合を3人の人物との関わりにおいて考えてみよう. 3.1 リチャードと仏耶一元論. 『弘法大師と景教』は,ゴルドンの仏教・キリスト教比較 ...


異説日本史
宗教思想篇上. 第16巻
1933




三弘法傳教大師も基督教の感化をうけたといふ説
次に、最澄・空海の開いた天台・真言も、景教の思想の咸化をうけたであらうとも推論せられてゐる。
支那における景教が隆盛に赴くと、徳宗の建中二年 (T)に波斯僧の景淨アダムが『景教流行中國碑』
を建て、その布教の盛況を示した。わがから天台宗を創めた傳教大師最澄や真言宗を創めた弘法大
師空海が入店したのは、その景碑建設二年の後であった、
そこで、弘法大師と景敬との係について高野山に建碑したかのゴルドン夫人は、かう述べてゐる、
基督教の慱来


異說日本史 宗教思想篇上
二〇四
『弘法や傳が長安に着いた頃には、市内に四つの大きな景教の寺院があり、大きな景の碑が建てら
れてゐた。 卓識英邁にして新智識を得るに熱心な大師その人が、十字架を冠し、 異文字を刻した碑文を
目に見ず、天帝の御影をかげ、奇異な様式を探つてゐる寺院を訪はなかったとは想像せられぬ。もし
大師にして、景教中國流行碑といふ大文字を見れば、必ずやその何であるかを問ひ、また謂ゆる處女よ
生れ出でた彌戸詞(メサイア)とは何であるかを問ひ、またその贖罪昇天とは何であるかを問ふたで
あらう。そして、その寺院に入り、東西の言語に通じた大徳景浄に面して、その教義について問ひ質
し、且つその光翼の奇妙な標を指さして説明を求めて、大師の好奇心を満足させたであらうことは、火
を見るよりも明かである』と。


小田光雄 · 2020
次の書籍のコンテンツと一致: – 36 ページ... ゴルドン夫人が来日したのは、(中略)明治四十年( 1907 )のことである。第一次大戦後イギリスに一時帰国するが、その後ふたたび日本を訪れ、研究生活のさなか、六年間そこから一歩も外へ出なかったという京都ホテルの一室で死亡した。その墳墓は高野山「景 ...




紋章叢話
books.google.co.jp › books


沼田頼輔 · 1935
次の書籍のコンテンツと一致:... ゴルドン夫人の遊鉞の解釋一六一イー・エー・ゴルドン夫人は、久しく我國に滞在して基督教史の研究に従事した人である。異教中國流行碑を模倣して、高野山に建立したのもこの夫人であつた。本邦に滞在中『弘法大師と異教』と云ふ一書を著はして、空海が ...


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The Lotus Gospel: Or, Mahayana Buddhism and Its Symbolic Teachings Compared Historically and Geographically With Those of Catholic Christianity
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The Lotus Gospel: Or, Mahayana Buddhism and Its Symbolic Teachings Compared Historically and Geographically With Those of Catholic Christianity ハードカバー – 2016/8/29
英語版 Elizabeth Anna Gordon (著)




The Lotus Gospel: Or Mahayana Buddhism and Its Symbolic Teachings Compared Historically and Geographically With Those of Catholic Christianity (Classic Reprint) ハードカバー – 2018/9/7
英語版 Elizabeth Anna Gordon (著)


0331547236


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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/The_Lotus_gospel_-_or%2C_Mahayana_Buddhism_and_its_symbolic_teachings_compared_historically_and_geographically_with_those_of_Catholic_Christianity_%28IA_lotusgospelormah00gordrich%29.pdf


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p.234


Dhârma, called Tamo in China, is said to be the Apostle St. Thomas, who, according to an old 17th century Padrè, "beamed out the Rays of the Gospel" there, after he had preached in the Indies.*




* As a matter of fact, Indo-Syriac tradition ascribes seven ancient churches to St. Thomas himself. (Yule's note to Marco Polo. vol. 2. p. 366).






ダルマは中国ではタモと呼ばれ、17世紀の古いパドレによれば、使徒聖トマスがインドで宣教した後、そこで「福音の光線を放った」と言われている*。




* 実のところ、インド・シリアの伝統では、7つの古代の教会が聖トマス自身のものであるとされている。(実際、インド・シリアの伝承では、7つの古代の教会が聖トマス自身によるものとされている(『マルコ・ポーロ』2巻366ページへのユールの注)。










THE LOTUS GOSPEL
233
the truest Resurrection. "Except a Corn of Wheat die
it abideth alone, but if it die it bringeth forth much
fruit." (John 12-24). The immense reproductive powers
of the Fish similarly caused its adoption as a Christian
symbol.
In the Yamada Museum there is a picture of Shâka
"crowned with the Rainbow," (as in Revel. IV. 3; x. 1.,)
the type of Reconciliation.
Beside an altar in Kurodani, Kyoto, there hangs a
very ancient picture. Painted by a Chinese Artist at a
date unknown, it is in three scenes. (1) In the lowest,
is a group of monks seated by a Brook, beneath dark
foliaged trees resembling olives. Dhârma sits apart,
lost in brooding doubt and gloomy perplexity. (2) In the
central section the Buddha's favourite disciple, Anânda,*
i.e. followed by anxious, awe-struck disciples, is about
to enter a Rock-tomb carrying a Lotus-lily to lay upon
a dead body. He starts back in astonishment at finding
an Empty Tomb.
(3) In the third section, Shâka, arrayed in Robes
of Blessedness, is ascending upon a Lotus above the
Clouds, to the amazement of most of the monks, but
to the rapture and adoring ecstasy of Dhârma, "the
Lotus Teacher," whose looks express the words un-
spoken,
MY LORD AND MY GOD!"
At Fukuoka in Kyushu, most interesting statuettes
of Dhârma are made. His radiant face is turned sky-
wards and his eyes start from their sockets, amazed by
* The Sanscrit name Anânda signifies Joy. (Eitel. p. 11).
† As in Kyushu there are thousands of hidden Christians, descended
from the survivors of the worse-than-Dioclesian persecution in the 17th
century, it may be interesting to trace out the origin of this statue of
Dharma in that neighbourhood.


234
THE LOTUS GOSPEL
some unwonted sight. It is noticeable that he carries
a flabellum in his right hand, for this was used in the
early Church to protect the holy Oblation "from the
little flying creatures," like the Fans still carried in the
Procession of "the Curtains" to the Shintō Shrine of Isé.
Dhârma, called Tamo in China, is said to be the
Apostle St. Thomas, who, according to an old 17th
century Padrè, "beamed out the Rays of the Gospel"
there, after he had preached in the Indies.*
In this connection the following citation is valuable:
"Dr. Grierson tells me that there is Indian evidence, which ought
not to be ignored, in favour of a visit of Thomas to India.
"On the value of that evidence I am not competent to speak; but
this much seems fairly proved; that if the Apostle came to India at all, he
would come, to the North-West and not to the Malabar coast and would
there meet the king actually named in the Legend; that Christianity may
have touched India from the side of Bactria in the 3rd century; that
Christianity, and in particular its doctrine of the Incarnation, may very
well have been one of the factors which shaped the latter growth of
Brahmanism."t
In the pictures "Christ in Gethsemane," and "
Ap-
pearing to Mary," (B. 88, B. 221, issued by the Travel
Bureau, Boston University,) there are most striking re-
semblances to the special features of this Kakemono,
viz.; its division into three scenes, the grouping of dis-
ciples and the Rock-tomb. The dates given are 1260-
1455. (These prints, it is advisable for all to study
who would compare Christian with Buddhist Art.)
In an old temple on the Tōkaidō is another re-
markable Mandala, a Ryobu picture of Buddha's death-
story combined with the Ascension of Jesus Christ.
* As a matter of fact, Indo-Syriac tradition ascribes seven ancient
churches to St. Thomas himself. (Yule's note to Marco Polo. vol. 2. p.
366). See Appendix I.
† Early Church History, vol. IV, p. 462. by H. M. Gwatkin.






THE LOTUS GOSPEL 233 the truest Resurrection. "Except a Corn of Wheat die it abideth alone, but if it die it bringeth forth much fruit." (John 12-24). The immense reproductive powers of the Fish similarly caused its adoption as a Christian symbol. In the Yamada Museum there is a picture of Shâka "crowned with the Rainbow," (as in Revel. IV. 3; x. 1.,) the type of Reconciliation.


 Beside an altar in Kurodani, Kyoto, there hangs a very ancient picture. Painted by a Chinese Artist at a date unknown, it is in three scenes.
 (1) In the lowest, is a group of monks seated by a Brook, beneath dark foliaged trees resembling olives. Dhârma sits apart, lost in brooding doubt and gloomy perplexity. 
(2) In the central section the Buddha's favourite disciple, Anânda,* i.e. followed by anxious, awe-struck disciples, is about to enter a Rock-tomb carrying a Lotus-lily to lay upon a dead body. He starts back in astonishment at finding an Empty Tomb. (3) In the third section, Shâka, arrayed in Robes of Blessedness, is ascending upon a Lotus above the Clouds, to the amazement of most of the monks, but to the rapture and adoring ecstasy of Dhârma, "the Lotus Teacher," whose looks express the words un- spoken,


MY LORD AND MY GOD!"
At Fukuoka in Kyushu, most interesting statuettes of Dhârma are made. His radiant face is turned sky- wards and his eyes start from their sockets, amazed by * The Sanscrit name Anânda signifies Joy. (Eitel. p. 11). † As in Kyushu there are thousands of hidden Christians, descended from the survivors of the worse-than-Dioclesian persecution in the 17th century, it may be interesting to trace out the origin of this statue of Dharma in that neighbourhood.


234 THE LOTUS GOSPEL


some unwonted sight. It is noticeable that he carries a flabellum in his right hand, for this was used in the early Church to protect the holy Oblation "from the little flying creatures," like the Fans still carried in the Procession of "the Curtains" to the Shintō Shrine of Isé.


Dhârma, called Tamo in China, is said to be the Apostle St. Thomas, who, according to an old 17th century Padrè, "beamed out the Rays of the Gospel" there, after he had preached in the Indies.*


In this connection the following citation is valuable: "Dr. Grierson tells me that there is Indian evidence, which ought not to be ignored, in favour of a visit of Thomas to India. "On the value of that evidence I am not competent to speak; but this much seems fairly proved; that if the Apostle came to India at all, he would come, to the North-West and not to the Malabar coast and would there meet the king actually named in the Legend; that Christianity may have touched India from the side of Bactria in the 3rd century; that Christianity, and in particular its doctrine of the Incarnation, may very well have been one of the factors which shaped the latter growth of Brahmanism."t In the pictures "Christ in Gethsemane," and " Ap- pearing to Mary," (B. 88, B. 221, issued by the Travel Bureau, Boston University,) there are most striking re- semblances to the special features of this Kakemono, viz.; its division into three scenes, the grouping of dis- ciples and the Rock-tomb. The dates given are 1260- 1455. (These prints, it is advisable for all to study who would compare Christian with Buddhist Art.) In an old temple on the Tōkaidō is another re- markable Mandala, a Ryobu picture of Buddha's death- story combined with the Ascension of Jesus Christ.


* As a matter of fact, Indo-Syriac tradition ascribes seven ancient churches to St. Thomas himself. (Yule's note to Marco Polo. vol. 2. p. 366).


See Appendix I. † Early Church History, vol. IV, p. 462. by H. M. Gwatkin.




ロータスの福音
233
本当の復活。 「小麦のトウモロコシが死ぬことを除いて
それは孤独に存在するが、死ねば多くを生み出す
実です。」(ヨハネ 12-24) 計り知れない生殖力
同様に、魚のキリスト教徒としての採用を引き起こしました。
シンボル。
山田美術館には釈迦の絵がある
「虹の冠をかぶった」 (黙示録 IV. 3; x. 1. と同様)
調整のタイプ。
京都黒谷の祭壇の傍らに、
非常に古い絵。中国人アーティストによって描かれた
日付は不明ですが、3つのシーンで構成されています。 (1) 最低の場合、
暗闇の下、小川のほとりに座る修道士のグループ
オリーブに似た葉の木。ダルマは離れて座っていて、
陰鬱な疑惑と暗い当惑の中で迷っている。 (2)
中央部分は仏陀のお気に入りの弟子、アーナンダ*
すなわち、不安と畏怖の念を抱いた弟子たちが続きます。
睡蓮を抱いて岩墓に入る
死体。彼はそれを見つけて驚いて戻り始める
空の墓。
(3) 第三セクションでは、ローブを着たシャカ
祝福の光が、上空の蓮華の上に昇っていきます。
ほとんどの修道士たちは驚いたことに、雲がかかっていましたが、
ダルマの歓喜と崇拝のエクスタシーに、「
ロータス・ティーチャー」という言葉がその表情に表れている。
話した、
我が主、そして我が神よ!」
九州の福岡で最も興味深い小像
ダルマが作られます。彼の晴れやかな顔は空に変わりました-
病棟と彼の目は眼窩から始まり、驚きました。
* サンスクリット語の名前「アナンダ」は喜びを意味します。 (アイテル、11ページ)。
† 九州と同様に、何千人もの隠れキリシタンの子孫がいます。
17世紀のディオクレティアヌス帝の迫害よりもひどい迫害の生存者から
今世紀、この像の起源をたどってみると興味深いかもしれません。
あの近所のダルマ。


234
ロータスの福音
見慣れない光景。彼が運んでいるのは注目に値する
右手には鞭毛があり、これは
初代教会は聖なるオブレーションを「
小さな空を飛ぶ生き物たち」
伊勢神宮への「幕」の行列。
ダルマは中国ではタモと呼ばれ、
使徒聖トマス、古い 17 世紀によれば、
世紀のパドレ、「福音の光を照らした」
彼がインド諸島で説教した後、そこでした*。
これに関連して、次の引用が貴重です。
「グリアソン博士は、インディアンの証拠があると私に言いました。
トーマスのインド訪問を支持する意見は無視できない。
「その証拠の価値については私には話す能力がありませんが、
このことはかなり証明されているようです。もし使徒がインドに来たとしても、彼は
マラバル海岸ではなく北西に来るでしょう。
そこでは伝説の中で実際に名前が挙げられている王に会います。キリスト教がそうなるように
3世紀にバクトリア側からインドに触れた。それ
キリスト教、特に受肉の教義は、
それは、後の成長を形作った要因の 1 つでした。
バラモン教。」
写真では「ゲツセマネのキリスト」と「
あ~
メアリーへの祈り」(B. 88、B. 221、旅行社発行)
ボストン大学事務局) 最も印象的な点は次のとおりです。
この掛物の特徴と似ていて、
つまり; 3 つのシーンに分割し、グループ化します。
シプルスと岩の墓。与えられた日付は1260年からです。
1455. (これらのプリントは、すべての人が勉強することをお勧めします)
誰がキリスト教美術と仏教美術を比較するでしょうか。)
東海道の古い寺院には、もう一つの再考があります。
注目すべき曼荼羅、釈迦の入滅を描いた両部絵―
イエス・キリストの昇天と結びついた物語。
* 実際のところ、インド・シリアの伝統では、古代の 7 つの宗教が信じられています。
教会を聖トーマス自身に捧げました。 (ユールのマルコ・ポーロへのメモ。第 2 巻、p.
366)。付録 I を参照してください。
† 初期教会歴史、第 1 巻。 IV、p. 462. HM グワトキン著。






ロータスの福音 233 最も真実な復活。 「小麦は死なない限り単独で残りますが、死ねば多くの実を結びます。」 (ヨハネ 12-24)。魚の計り知れない繁殖力も同様に、キリスト教のシンボルとして採用される原因となりました。山田美術館には、和解の一種である「虹の冠をかぶった」シャカの絵があります(黙示録 IV. 3; x. 1. にあるように)。



京都の黒谷にある祭壇の横に、非常に古い絵が掛けられています。中国人芸術家によって描かれた時期は不明で、3 つの場面で構成されています。 (1) 最下層には、オリーブに似た暗い葉の木々の下、小川のほとりに座っている修道士のグループがいます。ダルマは離れて座り、陰鬱な疑惑と暗い当惑の中で迷っています。 (2) 中央部分では、仏陀のお気に入りの弟子であるアーナンダ*、つまり不安で畏怖の念を抱いた弟子たちが続いて、死体の上に横たわるための蓮の花を抱えて岩墓に入ろうとしています。彼は空の墓を見つけて驚きながら戻り始めます。
(3) 第三セクションでは、祝福のローブを着たシャカが雲の上の蓮華に昇ります。これにはほとんどの僧侶が驚きますが、「蓮華の師」であるダルマの歓喜と崇拝のエクスタシーには驚かされます。その容姿は、語られない言葉を表しています、
私の主、そして私の神です!」アナンダという名前は喜びを意味します (Eitel. p. 11)


† 九州には 17 世紀のディオクレティアヌスよりひどい迫害の生存者の子孫である隠れキリシタンが何千人もいるのと同じように、その起源をたどってみると興味深いかもしれません。 267 234
ロータスの福音書
彼が右手に鞭を持っているのは注目に値します。これは初期の教会で聖なるオブレーションを「小さな飛行生物から守るために」使われていたからです。 」、今でも伊勢神宮への「幕」の行列に参加するファンのように。中国ではタモと呼ばれるダルマは、使徒聖トマスであると言われており、17世紀の老神父によると、彼はインド諸島で説教した後、そこで「福音の光を照らした」という。* これに関連して次の引用は貴重である:「グリアソン博士は、トーマスのインド訪問を支持するインド側の証拠があるが、無視すべきではないと私に告げている。」その証拠の価値について、私には語る資格がない。しかし、これはかなり証明されているようです。もし使徒がインドに来るとしたら、マラバル海岸ではなく北西に来て、そこで実際に伝説に名前が挙げられている王に会うだろう。キリスト教は3世紀にバクトリア側からインドに触れた可能性がある。キリスト教、特にその受肉の教義は、バラモン教の後期の成長を形作った要因の一つであった可能性が非常に高いと考えられます。「ゲツセマネのキリスト」と「マリアに現れた」という写真(B. 88、B. 221、ボストン大学旅行局発行)には、その特徴と最も顕著な類似点がある。この掛物の 3 つの場面、弟子たちのグループと岩の墓への分割。日付は 1260 年から 1455 年である。アート)東海道の古い寺院には、もう一つの注目すべき曼荼羅があり、仏陀の死の物語とイエス・キリストの昇天を組み合わせた両部の絵が描かれています。トーマス自身(マルコ・ポーロへのユールのメモ、第 2 巻、366 頁) † 初期教会史、第 4 巻、462 頁を
参照。




https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/gordon/index.html






 
WEB展覧会No.36
石羊とゴルドン文庫
 



「石羊」  モ4-518 (ゴルドン文庫)
 ゴルドン文庫所収文物のひとつ。ゴルドン夫人(Gordon, Elizabeth A.)は1851年英国の名門に生まれ、多年ビクトリア女王に女官として仕えた人である。キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期には日本を訪れた。日頃から大隈侯を敬慕し、名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、本学にその研究に関する蔵書・仏画・軸・物品等を寄贈された。
 石羊は李氏朝鮮時代に王陵の守護として置かれたものである。このほかに文(人)石、武(人)石、望柱石、石馬、石虎などがあり、円形の墓を外敵から守るように外向きに取り囲んでいる。
 寄贈後、はじめは大隈会館に置かれたが、大正14年の図書館新築後、教職員入口に移され、以来昭和30年の増築を経て今日まで図書館(現高田早苗記念研究図書館)を見守ってきた像である。
「鎌倉喜久恵「E.A.ゴルドン(1851-1925)」 ふみくら:早稲田大学図書館報」No.38(1992.12.5)p.2より転載

石羊(左) 高田図書館入り口から見た様子 石羊(右)


 

E.A. ゴルドン(1851-1925) 「ゴルドン文庫」旧蔵者
エリザベス・アンナ・ゴルドンの名を知らぬ人は多いかも知れぬが、日比谷図書館に収められた10万余の「日英文庫」(Dulce Cor Library)の恩恵を蒙った人は多いことと思う。この文庫の創設に力を尽くした人こそゴルドン夫人である。
 E.A.ゴルドンは1851年イングランドのランカシャーに生まれた。後にスコットランドの貴族ジョン・エドワード・ゴルドンと結婚、共に名門として知られた家柄であった。ゴルドン夫人はヴィクトリア女王の女宮をつとめるなどしたが、のち、オックスフォード大学に入学、比較宗教学を学んだ。同門に日本入留学生高楠順次郎が居り、その交友が後に夫人と日本を結びつけるきっかけとなったと思われる。
 在学中にアジア宗教学に興味を抱いた夫人は1891(明治24)年、夫との世界旅行の途次日本に立ち寄った。この滞在で日本の自然と文化と国民性に魅せられ、帰国後すぐ、創立間もないジャパン・ソサエティに入会し、英国在留中の日本人に何かと援助の手をさしのベ「英国における日本の母」ど慕われるようになった。
 その後、高楠順次郎らから、日本に洋書が少ないとの嘆きを聞いた夫人は、英・米・カナダの新聞紙上で「英国の文化を日本に伝え、同時に彼我の親善を図るため、日本に洋書を贈ろう」と、図書の寄贈を呼びかけた。日露戦争による日本への関心が強まっていた時期と相侯って、たちまち10万冊に近い図書が夫人のもとに届けられた。夫人はそれを携えて1907(明治40)年再び来日し、高楠を介して東京市に公開を条件に図書の全てを委託した。束京市では、早速整理に要する経費として5375円75銭を議決してその厚志に応えた。
 これを機会に夫人は日本に在留し、そのテーマとする「仏基一元」の研究にとりかかった。それは、仏教もキリスト教も元は一つ、同根であることを実証しようとするものであった。8世紀の頃、唐の長安に建てられた「大秦景教流行中国碑」の複製を高野山に建てたのも、その研究の一環であった。研究の成果は新聞・雑誌に寄稿、著書の刊行も数冊に及んでおり、1925(大正14)年には名誉講師として本学の教壇に立ち、「比較宗教学について」「西遊記」などの講演も行なっている。
 ゴルドン夫人は大隈侯を深く敬仰していた。侯が自からの邸内に学の独立と自由を標榜して大学を設立し、その門戸を広く開いて、国籍を問わず朝鮮・中国・インドなどの留学生を受け入れ、更に1885(明治38)年には清国留学生部を設けるなど「見返りを期さない他者に対する献身」が、英国在留の人々ヘの援助を惜しまなかった自らの心情と強く共感するものがあったからであろう。その著書「"World-healers,"or,The Lotus Gospel and its Bodhisattvas」(1913刊)巻頭には、そのことを記して大隈侯への献辞としている。
 研究に明け暮れる夫人に突然、第一次世界大戦に従軍中の長男戦死の悲報がおそった。夫人は急ぎ帰国するに際して、それまで日本で収集した研究資料、図書約1500冊、仏画・器物約500点を同好の士の研究に資するために、と早稲田大学に寄贈された。大隈侯敬慕の念からであり、大学はこれを「ゴルドン文庫」として記念することとした。
 帰国した夫人のその後の動静は未詳であるが、1920(大正9)年には再度来日して、京都ホテルに滞在し研究三味の日々を送っていたことはわかっており、その間に著書も数冊刊行されている。この来日の折りには夫も既になく、体も弱っていて6年間の滞在中1日も外出することなく過ごされたという。1925(大正14)年6月27日、宿痾の腎臓病が悪化、京都ホテルの一室で生涯を閉じた。74才であった。
 旧図書館の象徴として事務所入口(現高田早苗記念研究図書館入口)に立つ一対の羊の像もゴルドン夫人寄贈の文物の一つで仏基一元の一つの証しとなるものであるといわれる。当時建築中の図書館にこの像を置くことは当初からの案であったというが、夫人の没年に図書館の建築が成り、訃報を聞きながら石羊の取り付けを行なったのも、奇しき因縁と思える。
 葬儀は京都東寺で仏式によって行なわれ、墳墓は高野山、景教碑の傍らにある。





イー、エー、ゴルドン 高楠順次郎訳 弘法大師と景教との關係 (一名、物言ふ石、教ふる石)

底本:「弘法大師と景教」丙午出版社
   1909(明治42)年9月14日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「秘教」と「祕教」、「游學者」と「遊學者」の混在は、底本通りです。

(一名、物言ふ石、教ふる石)

[#ページの左右中央]


本書はゴルドン夫人の艸せられしを、可成原意を損せざる樣に注意したるも、譯文拙劣にして全豹を示すこと能はざるを憾む、原意の徹底せざる所はその責譯者に在り。夫人はその老躯を以て今夏再び嚴島に游び、更に讃岐に渡り、大師の降誕地を訪ひ、遂に高野山の靈廟に詣せり、夫人の大師追慕の念深きを知るべし。


[#改ページ]

「我れ爾曹に告げん、此輩もし默止せば
 かの石は直ちに呼號すべし。」(耶蘇)

 佛教に關する予が智識は至て乏しく、唯日本在住の間に於て斷片的に學得し、且つ有名なる支那學者に就き、法華の法門を研究したるが、今某大徳の需に應じて、覺束なくも一文を草して世に公にせんと欲する所以なり、この支那學者は曾て馬鳴の起信論を譯し、その進歩せる大乘教理と、耶蘇教義との間に於て驚くべき同似點を發見したり。予もまた佛教徒たる諸友の厚意によつて、佛耶の兩教義を比較し、其間に於て喜ぶべき思想の融和を認めたり。假令語句の間に於て全然同一なるものなく、且つ現時に於ては精確なる歴史上の連鎖を追跡すること不可能なる如きも、此兩者の間には眞正なる精神的連鎖の慥に存在せることを感ぜざるを得ず。今予は不幸にして此大問題に關し無智なりと雖も、益進で之を攻究し、一層深く教理に悟入せんことを希望して止まざることを茲に表白するものなり。  若しその古傳の研究愈進み、兩教聖典の對照その宜しきを得ば、現に不可能視せらるゝ歴史上の連鎖も、遂に發見し得らるべく。從つて夫の精神的連鎖も愈明確なる根據を有するに至り、佛耶兩教徒相互の利益となるべきは明白なり。
 我聖書中に云へることあり、「ベレア」の民は小亞細亞の他の都府の民よりも尊し、何となれば彼等は日々聖書を讀み、その事の果して然りしや否やを尋究せりと。凡そ相互の教義を公平明白に、且つ正直に比較攻究することは、兩者相損することなきは勿論、現時尤も必要を感ずるは、兩教中眞に精神ある人々が、相互にその寳藏を闡明し、明白に兩者の教義を了解するにあり。何となれば精神界の事物は精神なき人に對しては遂に愚盲不了たるを免る可からざればなり。
 予が昨夏此の風光明媚なる勝區に遊樂せる間に於て、最も深き印象を與へたるものありとせば、そは弘法大師の感化の偉大なることにてありき。此に於て予は從來大師に就ては、唯その名の外、殆一切を知らざりしことを愧ぢざるを得ず。而るに今その名の斯くも屡話頭に上るを聞き、且つ千百年の後に於てその感化、尚民心を支配し、種々の方面に於て性格の印象を留めたるを見るに及びては、予は實に大師が如何に驚嘆すべき人傑にして、その性格の如何に強固なりしかを感賞せざるを得ざりき。
 我英國の戯曲詩家セークスビーアは説けり。

“The evil that men do lives
after them - the good too oft
lies buried with them.”

「惡事は行ひたる人の後までも生殘り、
 善事は多く人と倶に葬らる。」

 悲むべし、この言は實に社會の實状を寫したるものなりき。而るに今や然らず、偉大なる「弘法大師」の名は、國民の間にかくまでもその芳香を存せり。  予が始めて大師を知りしは、嚴島=彼の神聖なる、美麗なる内海の一島=にてありき。予は一日彼の快絶奇絶なる深林を過ぎ、絶壁を攀ぢ、山の頂上に達して一の巨大なる聖火を見たり。こは實に予が世界周遊中に於て見たる最も奇異なるものなりき。斷木マルタを燃せるこの聖火は、弘法大師が千百年前支那より歸朝せし時、此地に點火せし以來、曾て滅せざる所なりと云へり。予はこの木頭火に耶蘇教のユールロツグ(耶蘇降誕祭の木頭火)との間には思想の連絡あるを信ず、この聖火に近く奧の院あり、此に參じてその幔幕及その前の懸燈に於て、叉斧(ダブルアツクス斧が交叉した絵)の印章あるを見たり。  この叉斧は實にアリヤン時代以前に於て、地中海のクリート島=紀元前三千八百年アゲードのサルゴン大王の上陸せし島=に於て天神の表章として用ゐられ、天上の鳥を表せしものなりと謂へり。近時ドクトル、アーサーセー、イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンス氏がゼウス神(zeus 即太陽神)の生宮と稱せらるゝ岩窟、及クノソス(Knossos)の王宮(古來ミノトール(怪牛)の迷宮と稱せられし處)を發堀せし際、この叉斧の印を發見したり。さればこの紀章は歴史以前より廣く用ゐられたるものなるべし。  弘法大師も又筆法に熟し、五筆運用の技を逞くし、假名文字を四十八字の教歌となし。

色は匂へど散りぬるを
    わが世誰ぞ常ならむ
有爲の奧山今日越えて
    淺き夢見じ醉ひもせず

“Fragrant flowers are very sweet,
But one day they will fade away,
Who can say “This world's unchanging”?
Crossing o'er the mount of changes to-day,
We shall find no dreaming, nor illusion
          But Enlightenment!

と云へり。
 又次に京都に來りたるに、幸運にも予は盆祭に會せり。予は實に愉快を以てその奇異なる盆火(Bon fire)を見たり。鳥居、舟、秘密殿、大文字等の光景を平安城を圍める山の斜面に顯はせり。こは恒に世界の漫遊客の怪み見る所なるが、これ亦弘法大師の考案に出でたるものなりと謂へり。千百有餘回の秋に亘りて弘法の遺志の、尚年々行はるゝは驚嘆すべき事實に非ずや。予は此に於て暫く埃及三角塔時代死書(The Book of the dead)と、これらの奇習慣との間に於ける關係を示し、試みにその連絡を畫かんと欲す。是れ予は此點に於て尤も弘法なる偉人格に興味を感じたるにより、茲に可能的大師の人格に關する一切を闡明せんことを决心したるを以てなり。
 大師は曾て千百餘年に於て自ら法を求めて支那に遊學し、當時支那の中心にして首都たる長安に在留したり、この一事のみを以てするもその勇猛、剛邁の氣象を示して餘りあるものと謂ふべし。兩三年客遊の間に於て惠果大阿闍梨に就き密教を攻究し、而してその所謂眞言宗=大日の秘教=を得て歸朝したり、思ふにこの遍照の大日こそ實に嚴島の聖火及京都の標火(Beacon-fire)の根底に横はれる秘密なる可し。大師在唐の間に於て一の秘密を傳受せられ、深く之れを心中に藏し、遂に日本國に於て千歳不磨の方法に於て、國民の腦底に印象せんことを計りたるものなるべし。大師は疑ひもなく在唐の間に於て、かの「大光明」(A Great Light)=高きに昇れる旭日の如く國民を覺照し、=闇きに坐し死の影に住ふものを照し、=平和の道を導く=かの偉大なる光輝を證得したるものなり。而してこの光明を永久的に實現的に國民の眼球に映ぜしめ、人をしてこの祭火を照し經に依りて大毘盧舍那佛=一切處に遍滿せる大日=の教義を演暢したり。ヒーブルー人はこの思想をイマニユーエル=我と倶に在る神=なる一語に依て言明したり、如是唯一神の實現を感ずるは耶蘇教に於ては最も貴重なる眞理なり。而して弘法は如何にしてこの美麗なる眞理を學得したるか、予は熱心に之を知らんと欲するも、未だその要を得ず、されども予は切にその實際を發見するの目的を以て歴史的秘鍵を得て、この搜索を遂げんことは最必用なる攻究なるべきを信じて止まざるものなり。
 聞く所に依れば日本第一流の學者の一人たる白鳥博士は、「東西歴史の示す所に依れば弘法大師が基督教より、或るものを學びたる點なかるべからず」と云へりと。
 紀元八百四年に大師が長安に到りし時は=弘法も、傳教も、倶に企業心に富める遊學者にして、皇命を奉じて入唐し、宗教の攻究調和を計るべき目的を有したるものなれば、=當時長安に於ける第一流の紳士、宗教家、政治家に會見を求むべきは論を俟たず。事實に於て我々は惠果阿闍梨より祕教を傳受したることを知れり、その隨學の結果が、弘法の進歩したる神佛融和主義となりたるを見れば、惠果の事跡に於て尚一層東西史上の連鎖を發見し得べきやも知るべからず。弘法及傳教兩大師は、長安に於て必かの有名なる大石碑を見たるなるべし、こは兩大師の入唐より僅に二十三年前、=紀元七百八十一年=に建てられたるものにして、幅五尺、高一丈の豐碑、上には一千八百七十字の刻文あり、題して「景教流行中國碑」と云ふ。景教はネストル僧正の派に屬する耶蘇教にして、唐太宗の時=紀元六百三十五年=波斯の大徳阿羅本及その隨員に依て、支那に開教せられたるものなり、阿羅本アロベンは青雲を占ふて聖典を載せ、風律を望んで艱險を亘り、以て傳教の任を全ふせりと云ふ。唐代の太宗皇帝、長孫皇后は世界史上に於ける最も英明にして機智に富める二統治者にして、衞軍の威武大に振ひ、王化四方に潤ひ、民心安堵、夜、戸を鎖さゞるに到れり。茲に於て帝の注意は文化教育の上に集中せられ、長安に於て一大圖書殿を建設し、二十萬卷の書を藏し、啻に親ら讀書に身を委ぬるのみならず、凡べての吏人をして自己の讀書修養に務めしむるに至れり。この圖書殿は、その接侍室、讀書室と共に精神的修業の中心となり、宗教に關する諸問題も、亦此の舘内に於て攻究せらるゝの盛に達せり。その帝立の大學は、亦その名四方に高く、朝鮮その他の諸國は、その王子をも送りて就學せしむるに至り、政府に於ては帝國内第一流の人物を網羅するを得たりと謂へり。
 此時に方つて、波斯國の大徳、景教僧の長安の郭外に來るや、英明なる太宗は、宰相房玄齡をして儀衛を具して之を西郊に迎へ、宮中に請ぜしむ。皇帝、大臣倶にその聖教を聞き、眞理に悟入せり、景教の經典は、圖書殿に於て譯せられ、新教に關して屡々下問せられ、第一に國の統治者中に景教の傳授せらるゝを見、最も思想あり、精神ある上流の學者及遠來の游學者の間に教化の行はるゝに至りたり。此時に於ても太宗皇帝は、熱心なる儒教者にして、世々盛に行はれたる佛教、老子教には多くの同情を有せざりき。
 貞觀十二年秋七月太宗文皇帝の詔勅を景教碑に載せ、左の如く記せり。

道無常名。聖無常體。隨方設教。密濟群生。大秦國大徳阿羅本。遠將經像。以献上京。詳其教旨。玄妙無爲。觀其元宗。生成立要。詞無繁説。理有忘筌。濟物利人。宜行天下。所司即於京儀寧坊。造大秦寺。一所度僧廿一人。(中略)巨唐道光。景風東扇。旋令有司。將帝寫眞。轉横寺壁。(下略)

 西安府誌に屬せる長安の地圖には、波斯胡寺の舊跡は尚記載せらるゝを見る、殊に景教碑の記す所の事實の疑ふ可からざるは、豐碑の現存と倶に種々の史跡に徴して明白なるものなり。  この牌文は[#「牌文は」はママ]三一妙身。無元眞主。阿羅訶。(Aloha)即上帝の徳を賛するに始まり、創世紀の造物説を述べ、天地人生の創造偏僻する所なきも、惡魔裟彈(Sathan)の誘惑に依り、空有の論を生し、祷祀の俗を爲し、精神界の混亂を來たし、陰雲常に世を掩ふに至る。茲に於て三一分身。景尊彌施訶。(Messiah)※(「楫のつくり+戈」、第3水準1-84-66)隱眞威。同人出代。遂に救世主の出世となり、大秦國に耶蘇の降誕を見る。救主の應現より遂に能事斯畢。亭午昇眞の贖罪の話に移り、廿七部の經(舊約聖書)を留め三一淨風。無言之新教を確立せしを説き、左の教説を立てたり。

一、靈關、浴水(洗禮)の禮を設けて以て浮華を滌ぎ虚白に返らしめ。

二、十字の印を持して、以て四照を融和し。

三、木鐘を打つて仁惠の音を震ひ。

四、東方を禮して、以て生榮の路に趣き。

五、鬚を存ずるは外行ある所以。

六、頂を削るは内情なき所以。

七、藏獲を畜へずして、貴賤を人に均くし。

八、貨財を聚めずして、身を貧窮の地に置き。

九、食を齋斷するは、識を伏藏する所以。

十、身を禁飾するは、健康を有つ所以。

十一、一日に禮讃七時大に存亡を庇し。

十二、七日一薦心を洗ひ素に反る。

眞常之道。妙而難名。功用昭章。強稱景教。惟道非聖不弘。聖非道不大。道聖符契。天下文明  夫れより景教東來の歴史を述べ、波斯大徳阿羅本の入唐、經書の飜譯、太宗の詔勅より景風東遷の事跡を述べ、高宗の時に到りて化風愈揚り、諸州に令して景寺を建てしめ、阿羅本を崇めて鎭國大法主となす。景風十道に遍く、國富み民休し、家に景福を仰ぎしが、武后垂拱、聖暦年間に到りて、釋子の排擠に會ひ、先天年間に於ては士人の誹謗を受け、一時停滯せしも、玄宗即位の後に於ては、五帝の寫眞を寺内に安置し、親ら景寺に臨みて壇場を建立す。法棟再立ち、道名正に復す、天寳の載、波斯の僧(譯者曰、著者は茲に佶和と惠果と同人には非ずやとの疑問を附し置けり。惠果は支那人にして關内道慶長郡昌應縣の人と傳へらる如何にや。)佶和東來し、同列、十七人興慶宮に於て功徳を修し天額を賜ふ、肅宗、代宗或は景寺を増建し、或は天香を供し、又は御饌を賜ふて景風を宣揚す。徳宗の治世に至りては、更に波斯より金紫光祿太夫、同朔方節度副使、試殿中監賜紫袈裟僧伊斯遠く玉舍の城より中夏に來り、傳法の事に從ひ、徳化大に行はれたる事蹟を述べ、建碑の來由を示せしものなり。
 この碑文は景教の僧、景淨(Adam)の撰文にして建中二年に時の法主僧寧恕の配下に於て建設せられたるものなり。
 バーカー教授はその「支那及宗教」なる書に於て、この碑文に見えたる唐人の名は、皆實際史上の人物たることを證言せり。將軍郭子儀、高力皆史上に名ある人にして、阿羅本を迎へたる宰相房玄齡は、太宗建國の大半を助成せる人なり。この撰文者たる景淨(Adam)の名さへも、近時高楠博士の發見に依れば佛教書「貞元釋教録」中にその名を留めたりと云ふ。
 貞元釋教録(般若傳)卷十七に依れば、景淨は佛教僧と共に佛書の飜譯に從事したり、その記事左の如し。
 而してこの般若三藏は曾て、景淨と共に佛經を譯したるも徳宗の爲に非認せられ、更に新組織を爲し譯成したるものは、大乘理趣大波羅密經として一切經中に存す。
 景淨は建中三年に景教碑を建て五年の後即、貞元二年には如上の佛經連譯を爲したるが、其後二十三年を經て貞元二十年には、弘法大師は入唐して、かの般若三藏に就き、親く梵言を攻究せり。或る學者は般若三藏と稱するもの二人ある如く説けるも、こは全く誤謬に因れるものにて、景淨(アダム)の同譯者たる般若も、弘法大師の請益師たる般若も同一たるは殆ど疑なきものゝ如し。
 弘法、傳教の長安に着せし時には、市内に四大景寺あり、一大景教碑あり、卓識英邁の資を以て新智識を得るに熱中せる大師其人にして、十字架を冠し異文字を刻せる碑文を見ず、皇帝の御影を掲げ、奇異の樣式を表せる寺院を訪問せざるの理由あるべからず。もし大師にして景教中國流行碑の大榜を見ば、必ずやその何ものなるか、その所謂處女より生れたる彌尸訶(メサイア)とは何ものなるか、その贖罪昇天とは何事なるかを問究めんとするは勿論、先つその寺院に入り、東西の語に通じたる大徳景淨に逢ひ、その教義を質問し、且かの「光翼」(神の顯現を表す)の奇標を見て、その説明を求めて、その好奇心を滿足せしめたるは、火を見るよりも明かなり。この光翼の神標は、太古埃及の三角塔の古棺に刻せられ、アツシリヤの寺院に彫出せられ、シリアにては耶蘇教に化して、尚この標識を全世界の主宰神を表するものとして用ゐたり。當時支那には、已に六朝百七十餘年間景教は民間に行はれ、全國六人の僧正あり、長安はその首座にして、景淨(アダム)は實にその僧正にてありき。されば種々の方面に於て目に觸れ耳に入るものもありしなるべし、故に碑文以外の事實も大師には知られ、教義の精細も亦探究せられしやも知るべからず。新智識に汲々し、尋究して止まざるは、實に日本學生の特色なり。如此太宗の賞讃を博したる景教の何物たるを知らずして、長安を辭するは、到底眞言、天台の創立者たる兩大師には不可能の事なりとす。(譯者曰、以上數項重複の處多きを以て略譯してその意を示す。
 日本に於ける眞言宗に大日教義の存在せると、今世紀に到る迄嚴島、京都に於て祭火の相續せるとは、かの奇絶なる石碑の言明せる教網を見修し、思惟したるの證左なりと信ずるに躊躇せず、その教説とは何ぞや、碑文に云く、
景尊彌施訶(メサイア)同人出世室女聖を誕し、以て廿四聖舊約の懸記に應し、其の教法に依りて家と國とを理し、三一の淨風を設け、無言の新教を立て、正信以て人心を養ひ、八境を制して世道を拓き、塵垢を練つて眞淨を成し、以て三常の門を啓く、生を開き死を滅し、景日を懸けて闇府を照らし、魔妄是に於てか摧破せられ、慈航に棹して明宮に登り、含靈是に於てか救濟せらる、能事既に畢り、亭午登天眞に昇る。

 譯者曰、著者は八境は佛教の八戒と同じく、三常の門は盆祭の火の鳥居と同じく、景日は大日にして、慈航は盆祭の舟、明宮は盆火の宮殿に均しく其間相關するものあるが如くに注せり。

 弘法大師は支那より歸りて、嵯峨天皇の灌頂、即洗禮を爲したり、即、大日教の秘密に入るを示せるものにして、新約馬太傳(二十八卷、十八=二十)の耶蘇の言を味へばその意義明了なるべし。

天のうち地の上の凡べての權を我れに賜はれり、是故に爾曹行きて萬國の民に洗禮を施し、之を父と子と聖靈の名に入れて弟子となし、且我が凡べて爾曹に命ぜしことを守れと、彼等に教へよ、夫れわれは世の終りまで常に爾曹と偕に在るなりと。

 大師は又嵯峨帝の命に應じ、十住心論十卷を作りたるも餘りに精細に過ぎ、更に命に應じ秘藏寳鑰(Key to the Secret Godown)三卷を著せりと云ふ。大師に對する信仰は、啻に上一人に止まらず、國民の心情を汲引せることは千萬の民衆が、死後高野山大師靈廟の側に、その終焉の墓碑を建てんと希望せるの一事にても明白なりと謂ふべし。  承和二年空海寂し、凡九十年の后に到り、醍醐帝延喜二十一年に及びて、「弘法大師」の謚號を賜ふ。かの阿羅本に與へられたる「鎭國大法主」「大徳」の尊號と妙に相似たるに非ずや。
 夫れ天意の秘密は得て知るべからず、かの景教碑は「物言ふ石」の資格として、日出處より遠來せる學問僧にその教を傳へ、能事終りて四十年の後一たび土中に埋もれ、凡八百年間無言の石たりしは亦奇と謂ふべし。佛國のポーチエーはこの碑文の疑ふべからざるを證明し、且想像して、此の碑文は多分紀元八百四十五年=會昌五年武宗破佛の亂に埋沒せられたるものなるべしと云へり。然るに千六百二十五年即、明の天啓五年に於て偶然に長安の郭外に於て工夫の爲に發堀せられ、その不朽の文字は再び眞理を宣揚し得るに到れり。
 馬太傳二十一卷四十二耶蘇云はく

聖書に録せり、爾曹未だ之を讀まざるか。
「工匠の棄てたる石は、家の隅の礎石となれり、是れ主の行ひ玉へることにして、我れらの目に奇とする所なり。」と
是故に我れ爾曹に告げん、神の國を爾曹より奪ひ、その果を結ぶ民に與へらるべし。
この石の上に墜るものは壞れ、この石の上に墜ればその物碎かるべし。


ジュリアス・シーザー

3:2

アントニー 

わが友人、ローマ市民、同胞諸君、耳を貸してくれ。 私がきたのはシーザーを葬るためだ、称えるためではなく。 

人間のなす悪事はその死後もなお生きのびるものであり、 善行はしばしばその骨とともに埋葬されるものである。 

シーザーもそうあらしめよう。高潔なブルータスは 諸君に語った、シーザーが野心を抱いていたと。 そうであれば、それは嘆かわしい罪にほかならず、 嘆かわしくもシーザーはその報いを受けたのだ。 ここに私は、ブルータス、その他の諸君の許しをえて──

The evil that men do lives after them; The good is oft interred with their bones. William Shakespeare, Julius Caesar. Tags: acts, death, deeds, evil, good ...

"The evil that men do lives after them; The good is oft interrèd with their bones” is a quote spoken by Mark Antony about Brutus.

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I come to bury Caesar, not to praise him. The evil that men do lives after them;. The good is oft interred with their bones;. So let it be with Caesar. The ...

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I come to bury Caesar, not to praise him. The evil that men do lives after them;. 75 The good is oft interrèd with their bones. So let it be with Caesar. The ...



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3章 景教碑文
景教と日本
 佐伯好郎は、その『景教碑文研究』待漏書院(明治44年)(復刻版:大空社)1頁~124頁において、次のように述べている。


 現在(明治44年)の日本は、ペルー提督の渡来以来、「西洋崇拝の迷夢を打破せられ国民的自覚の第三期に入らんとする」〔佐伯『景教碑文研究』4頁〕。だから「日清日露両戦役以後の事実を出発として、外国の宣教師によりて宣伝せられし基督教さへ将に日本化せられんとするの現象を呈して」いる。かつて採り入れられた支那仏教は、今や日本仏教に変じており、漢学変体の奈良朝は、鎌倉時代の日本となり、奈良の大仏は一寸八分の観音像となった。これが和魂漢才である〔佐伯『景教碑文研究』6頁〕。 
 漢唐の時代には、ヨーロッパとアジアとの陸上交通によって、外国の文物が中国に伝わり、インド、ペルシア、ローマ、その他の西域諸国の文物が、漢から唐にいたる時代には、日本にも伝来していた〔佐伯『景教碑文研究』9頁/11頁〕。だから、『続日本書紀』には、ペルシア人の渡来が記されている〔佐伯『景教碑文研究』14頁〕。玄宗皇帝(在位712~756年)当時、唐へ派遣された景教の宣教師は、エデッサあるいは、ササン朝ペルシアの医学を修めた修道院の出身者であった〔佐伯『景教碑文研究』15頁〕。唐の長安には、大秦寺が建てられたが、それは当初「ペルシア教」の「ペルシア寺」と呼ばれた〔佐伯『景教碑文研究』16頁〕。景教碑文によれば、唐時代の300年の間の約200年間、景教は国教として扱われ、ペルシア渡来の師アラボン(阿羅本)は、「鎮国大法王」として、国内の景教を統治した。阿倍仲麻呂も真備も最澄も空海も、その他幾千もの日本からの留学生たちは、この頃の「世界の長安」にあって学んだのである。当時のヨーロッパは、「暗黒時代」と称されているが、7世紀~9世紀の唐にあって、世界の光がここを照らしていた〔佐伯『景教碑文研究』17~19頁〕。日本で興った孝徳天皇(在位645~654年)の大化の改新は、このような大陸の情勢に刺激されたからであり、日本の歴史が世界の歴史に入ろうとした時期にあたる〔佐伯『景教碑文研究』22頁〕。 
 今(明治の)の日本は、日英同盟と日露戦争を通じて、世界歴史的な戦争を遂行し、20世紀初頭の世界の歴史に入ろうとしている。景教流行中国碑は、この意味において、日唐文明の性質を明らかにするロゼッタストーンであり、日本文明を照らす一大炬火(たいまつ)である〔佐伯『景教碑文研究』24~25頁〕。 
■景教流行中国碑
 景教流行中国碑は、明朝の末期の「天啓」時代(1621年~27年)に、長安の民の一人が地面を鋤(す)いているときに偶然発見された。イエズス会のアルバレズ・スメドー(Alvarez Semedo)が、1625年に、この碑の発見に関して言及している〔佐伯『景教碑文研究』28~29頁〕。スメドー自身が1628年に長安に入り、石碑を検証し、漢文は理解したが、その他の文字は理解できなかった。3年後の1631年に、宣教師アントニオ・フェルナンデー(Anton Fernandez)が、石碑の横文字がシリア語であることを確認した。清朝では、1805年になって、ようやく、王昶の編集による『金石萃編』の第200巻に、石碑の漢文部分が載せられている〔佐伯『景教碑文研究』32頁〕。 
 日本では、1814年に、幕府の書籍奉行の近藤重蔵が、王昶の『金石萃編』を通して、碑文を読破し、それが、厳禁の耶蘇(ヤソ)教であることを知った。以後、日本でこれを読む者がいなかった。明治になって、文学博士の中村敬宇が、その『天道遡源(さくげん)』に石碑の漢文を載せたが、幕府のキリシタン厳禁の余波を受けて、その存在さえも知る者がいなかった。明治40年6月10日に、アメリカのコロンビア大学のホルム教授(Prof. Fritz Von Holm)が、長安に赴いて、石碑の買収を試みたが果たせず、原石と同じ物を用いて、石碑の模造碑を彫刻して、アメリカへ持ち帰った。この模造碑が、明治41年6月16日に、ニュー・ヨークの市立中央博物館に安置され、これを契機に、景教碑文が欧米において注目されるようになった。このことが中国を刺激して、明治41年に、発掘されてから280年後に、石碑は、長安の西安府の城外にあった金勝寺(唐代の大秦寺が廃寺となった跡地に金勝寺が移転してきた)の庭から、西安城内の碑林へと移されて「国宝碑」とされることになった。この時、京都大学の桑原隲蔵(しつぞう?)博士は、その場に居合わせて目撃している〔佐伯『景教碑文研究』付録90頁〕。20世紀になり、欧米の学者が中国の文明に注目し始めると、景教碑文は、中国文明を知るために注目されるようになった。碑文の移転については、京都大学文学博士桑原隲蔵が、『藝文』第一号(明治43年/1909年4月)に「西安府の大秦景教流行中国碑」と題して載せている〔佐伯前掲書同頁〕。 
 こういうわけで、景教石碑は、皇帝の命令で大秦寺が廃寺にされる折に、石碑が壊されることを恐れた信徒たちが、これを地中に埋没したと考えられる。そうだとすれば、この石碑は、建てられてから、わずか60年あまりしか地上に姿を見せていなかったことになる。この期間は、奇しくも、最澄と空海の入唐の20年前から、入唐の40年あまり後の期間にあたる。石碑は、発掘されるまで、約780年間も地中に眠っていたことになる〔佐伯『景教碑文研究』41頁〕。この石碑については、欧米の学者の間で、一時偽造説が出たたことがある。しかし、後漢の2世紀頃には、ローマ(大秦)からパルティア(安息)とクシャーナ朝のバクトリア(大夏)とを経由して、銅銭や鉄貨幣を用いて、東西の交易が盛んであった。現在も遺る敦煌の石室遺書にも、唐代の景教について「惟獨神威無等力」と記されていることを思えば、現在では石碑の真正性が認められている〔佐伯『景教碑文研究42~48頁/54~55頁〕。これには、真正説を主張したワイリー(Alexander Wylie)や四書五経を英訳したウィリアム(Dr.Williams)や東洋学者ポチエー(M.G. Pauthier)たちの努力に負うところが大きい〔佐伯『景教碑文研究』75頁〕。 
■日本における景教研究
 翻(ひるがえ)って日本では、中村正直が初めて石碑に注目した後も、研究に観るべきものがない。わずかに、文学博士高楠順次郎が、1896年に、フランスの東洋研究専門学会が発行する機関誌『通報』(T'oung Pao)において、景教碑文を書いたと思われるペルシア人の景浄(「大秦寺波斯僧景浄」とある)が、当時長安に居たインドの仏僧プラジューナ(般刺若)と共に、『大乗理趣六波羅密教』を胡(こ/ウ)(唐代では西域一般を指す)のテキストから漢文に訳したことを報告し、景浄が多くの仏教用語を用いて、景教の布教に努めていたと告げている〔佐伯『景教碑文研究』英文5~8頁〕。先に述べた桑原隲蔵博士の論文は明治43年(1910年)であり、佐伯氏の『景教碑文研究』は明治44年(1911年)である。先の文学博士桑原隲蔵(しつぞう?)による「西安府の大秦景教流行中国碑」(1909年)が契機となって、「高野山の高僧、同大學林の教授諸氏及び英国人イー・エー・ゴルドン夫人(Mrs. E.A.Gordon)」たちの協力によって、「今年(1910年)9月」〔佐伯『景教碑文研究』77頁〕に、中国の原物(?)の模型碑が高野山に建立された。なお、この高野山の模造碑は、2020年現在、京都大学文化博物館にも展示されている。 
■景教の十大特徴
 佐伯氏は、景教の特徴として、次の10項目をあげている〔佐伯『景教碑文研究』83~85頁〕。 
(1)マリアを「神の母」(テオトコス)とすることに反対する。カトリックとの違い。 
(2)十字架を「しるし」とするが、それ以外のしるしを認めない。 
(3)死者のための「亡霊慰安」の祈りを禁じないが、死後の「贖い」を認めない。カトリックとの違い。 
(4)聖餐のパンと葡萄酒の「キリスト化体」説を認めず、パンと葡萄酒の「変質霊在」説を採る。カトリックとの違い。 
(5)法王、(管長)、大徳、僧、執事、及び四種の教会補助者の八(九)階級制度を採る。 
(6)僧侶の妻帯を禁じない。カトリックとの違い。 
(7)断食励行を特徴とする。 
(8)法王のみ菜食を原則とするが、高僧以下は、肉食を禁じない。 
(9)法王(総管長)は、3人の管長の互選による。管長は、6人の大徳の長である。 
(10)聖書と祈祷文と讃誦は、シリア語を本則とするが、ギリシア語またはラテン語の使用を禁じない。カトリックとの違い。ただし、漢文が用いられていたことは明白である。 
                 ネストリオス派と景教へ

古本夜話653 ゴルドン、高楠順次郎訳『弘法大師と景教』

 新仏教運動に寄り添うかたちで明治四十三年に、スウエンデンボルグの『天界と地獄』とブラヴァツキーの『霊智学解説』が翻訳刊行された。前年に、これも同様に大きな影響を与えたと思われる一冊が出版されている。それは日英図書館首唱者イー・エー・ゴルドン原著、高楠順次郎訳『弘法大師と景教』で、丙午出版社からの刊行である。

 この著者のゴルドンに関しては各種事典などでも立項されていないと思われるので、安藤礼二の『光の曼陀羅』(講談社)における、簡にして要を得た紹介を引いてみる。

光の曼陀羅

 高野山に「景教碑」のレプリカを建てたのは、エリザエス・アンナ・ゴルドン(Elizabeth Anna Gordon 1851-1925)という女性である。現在日比谷図書館に収蔵されている十万冊に近い英語の洋書「日英文庫」の創設に尽力した人物として知られる彼女はまた、オックスフォード大学でマックス・ミュラーについて比較宗教学を学び確信し、その調査・研究のために日本に長期間滞在していた学究でもあった。ゴルドン夫人が来日したのは、(中略)明治四十年(1907)のことである。第一次大戦後イギリスに一時帰国するが、その後ふたたび日本を訪れ、研究生活のさなか、六年間そこから一歩も外へ出なかったという京都ホテルの一室で死亡した。その墳墓は高野山「景教碑」の傍らにある。

 このゴルドン夫人の研究の一端が『弘法大師と景教』で、本文タイトルは「弘法大師と景教との関係」(一名、物云ふ石、教ふる石)」とあり、これも安藤によれば、明治四十二年八月の『新仏教』にカッコ内のタイトルで掲載後、四十四年に景教研究家の佐伯好郎による「景教碑」の碑文翻刻を付した小冊子『弘法大師と景教』として出版された。ただこれは様々な異版もあるようで、私が読んだ国会図書のデジタル版は四十二年刊行で、佐伯の翻刻は付されていない。

 高楠はその序に当たる、次のような一文を冒頭に置いている。

 本書はゴルドン夫人の艸せられしを、可成原理を捐せざる様に注意したるも、訳文拙劣にして全豹を示すこと能はざるを憾む、原意の徹底せざる所はその責訳者に在り。夫人はその老躯を似て今夏再び厳島に遊び、更に隠岐に渡り、大師の降誕地を訪ひ、遂に高野山の霊廟に詣せり、夫人の大師追慕の念深きを知るべし。

 ゴルドン夫人が「老躯を似て」とあるのは高楠より十一歳年上で、明治四十二年には五十八歳だったからだが、当時の日本女性の平均寿命が四十五歳に満たなかったことを考慮すべきだろう。高楠にとって、ゴルドン夫人は本連載514のマックス・ミュラーの同門であるにしても、かなり年の離れた姉弟子で、やはり同104でもふれた『東方聖書』の編纂や翻訳に携わっていたと推測される。

 ゴルドン夫人の『弘法大師と景教』における主張を要約してみる。古伝の研究が進み、仏教やキリスト教の聖典の正しい対照がなされれば、在りえないはずの歴史上の連鎖や精神的連鎖も発見されるであろうし、それは両教徒の相互の利益となるはずだ。私は厳島で初めて弘法大師を知り、その近くの奥の院の幔幕などのダブルアックスの印章を見て、そこにキリスト教との思想の関連を信じるにいたった。聖火は大師が帰朝した時から点火されたもので、それはキリスト教のクリスマス聖火を彷彿とさせる。ダブルアックスは太古の地中海の島で天上の鳥、すなわち天神の表章であると同時に、ゼウスが生まれたとされる岩窟やミノートールの迷宮を発掘した時に発見されたものだった。また大師が伝えたとされる奇異な盆火からはエジプトの『死者の書』との相関を連想した。

 大師は長安で密教を攻究し、真言集=大日の秘教を得て帰朝したが、そこには聖火や標火の根底に横たわる秘密の伝授があり、それこそはキリスト教から学んだもので、八〇四年当時の長安には二十年ほど前に建てられた大石碑があった。それは「景教流行中国碑」という。景教はネストル派に属するキリスト教で、太宗皇帝時代の六三五年にペルシアのアロペンとその伝道師たちによって開教された。太宗は経典の翻訳、布教を勧め、地方にも広がった。

 この時代に景教は大いなる「流行」を見た。大師が長安に着いた時には市内に四大景寺と一大景教碑があり、寺院の「光翼」(神の顕現を表す)の奇標を見て、説明を求め、好奇心を満足させたにちがいない。そうして大使は景教の教義の精細も探究し、新知識を吸収し、それを真言宗の大日教義へと繰りこんだ。

 帰朝してからの嵯峨天皇の灌頂、即洗礼にしても、それは同様であり、また「マタイ伝」のキリストの言と行為にも共通している。これが大師と真言宗の秘密である。それを大師は『秘蔵宝錀』(Key to the Secret Godown)にこめたのである。

 かくして空海と景教の出会いによる秘儀の伝授を通じての真言宗の成立という物語が示され、「景教碑」はそのことを伝える「物云ふ石、教ふる石」としてエピファニーする。それは四十年後に土中に埋もれ、そのまま約八百年の間、「無言の石」として存在していたのだ。それがゴルドン夫人をして、高野山にレプリカを建てさせた理由となる。なお人物表記などは高楠訳に従っている。

 また一方で、安藤礼二は折口信夫が『弘法大師と景教』を読み、それを「死者の書 続篇」へと取りこみ、フィクションとして再構成したことも指摘している。
死者の書

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2019/11/13 -この石羊は英国人のキリスト教および仏教研究家で早稲田大学の名誉講師として教壇(比較宗教学)にも立ったエリザベス・アンナ・ゴルドン夫人 ...

据えられている一対の石羊がある︒夫人. が朝鮮の義. 州. で. 神殿彫刻とを関連づけ︑更に石羊の角. はユダヤ教会で贖. 罪の日に吹くジョファ. ー. ︵角笛︶と同一であると ...

https://search.yahoo.co.jp/search?p=ゴルドン夫人%20石羊&ei=UTF-8 

中村
17:37 12月8日 ( 日 )
Waseda DaigakuTosyokanKiyou_30_Nakamura

E・A・ゴルドン夫人の生涯
中村悦子

ゴルド文庫
和漢書
五八六冊
書一、
一、四四三
「ゴルド文庫」の創設者である夫人に私が最初に関
心を持ったのは、明治・大正期の女子教育に大きな足跡
を残した実践女子学園の創立者、下田歌子を調べている
時であった。
華族女学校の学監であった歌子が、一八九三(明治二
十六)年皇女教育視察のために渡欧した際、ロンドンで
懇切に世話をしてくれた親日的な女性があった。ハイド
パークの傍の「みやのした」と日本名をつけた自邸に歌
子を寄宿させ、当時としては非常に困難だったヴィクト
リア女王の謁見まで実現させた女性、それがゴルドン夫
人だったのである。その後調べを進めるに従って、夫人
の日本文化への貢献の大きさと、英国貴族の身で、日本
を愛しついには日本に骨を埋めたその生涯に私は深い興
味を抱くようになった。 夫人が私の二つの母校のそれぞ
れの創立者と厚い友情で結ばれていた事にも縁(えにし)
を感じないではいられなかった。まだ不明の点も多い
が、ここに夫人の一生の概略を記してみよう。
エリザベス・アンナ・ゴルドンは、一八五一年イング
ランドのランカシヤー地方の名家ヘンリー家に生まれ、
後にスコットランドの貴族ジョン・エドワード・ゴルド
の妻となった。 ゴルド家は「太平天国の乱」を鎮圧
した司令官として勇名を馳せたC・G・ゴルドン将軍の
一族で、古くから名門として知られていた。一八九七年
の英国紳士録によれば、ジョンはエジンバラ大学出身
で、 ネス湖に近いエルギンとネアン地方を選挙区とする
保守党の議員であり、ロンドン商工会議所会員としても
活躍していた。
一方、夫人は数人の子女を育てながら、ヴィクトリア
女王の女官をつとめ、さらにオックスフォード大学を一
PERALATY

-208-

ASIA
よう。
八八六年に三十五才で卒業している。この時大学で比較
宗教学、サンスクリットの大家F・M・ミュラー博士に
師事したことと、同門の日本人留学生高楠順次郎らと知
り合ったことが彼女のその後の生き方を決定したといえ
大学でアジア宗教に魅せられた夫人は、夫との世界旅
行の途次、一八九一 (明治二十四)年にはじめて日本を訪
れた。
anod d
この時の旅行記 “Clear Round" には「日の出の国」
「天使の子の国」として、日本の美しい自然と、穏やか
微笑を浮べ上品で清潔で屈託ない国民と、その高い文
化が描かれている。版を重ねて広く読まれたこの本は、
英国人の日本への好感を生み、日英同盟の締結に有利に
作用したと評価された。
旅から帰った夫妻は、その年発足したジャパン・ソサ
エティに入会し、一層日本とのつながりを強めた。ロン
ドンで下田歌子と出会ったのはこの頃であった。 夫人の
「姉妹母子もただならぬ懇情」に、二人の間には国境を
文庫創設者を語る
越えた友情が芽ばえた。その後夫人は他の英国在留日本
人にもさまざまな援助を惜しまず、「英国における日本
の母」と慕われたという。
そして十数年が過ぎ、夫人は日本と新たな結びつきを
持つこととなった。日本に洋書が少いと同門の高楠らが
嘆くのを聞いた夫人が、 それを英・米・カナダの新聞に
訴えたのが発端だった。それは日露戦争後の日本への関
心の高まりを背景に大きな反響をよび、夫人のもとに九
万冊余の書籍が届けられた。 一九〇七 (明治四十) 年八月
一九〇七(明治四十)
の末、夫人は再び来日してこれらの本を日比谷図書館に
寄託した。こうして「日英文庫」 (Dulce Cor Library)
とよばれる厖大な書籍が日本にもたらされた。これが日
本の文化にどれ程の貢献をしたかはかりしれない。 しか
もこの洋書寄付運動を、夫人はその死まで十七年の長き
にわたって続けたのだった。
この再来日を機に夫人は日本に留まって、かねてから
の持論である仏耶一元の研究にとりかかった。それは仏
教とキリスト教の同根をあらゆる方向から実証しようと
T
ビー
-209-

するものであった。夫人は中国の景教を媒介として、 キ
リスト教が空海の真言密教に伝えられたに違いないと考
えた。八世紀の頃、唐の長安に建てられた「大秦景教流
行中国碑」の複製を高野山に建立し、漢字とシリア文字
で書かれた碑文の研究を進めたのもそのためであった。
夫人はこのほか、ザヴィエル記念碑の建立やエジプト
発掘などにも援助の手をのべた。また名誉講師として早
大の教壇に立ち、『愛国婦人』などの新聞や雑誌に寄稿
し、講演も行なった。 “Speaking Stone” “The Glories
of Christ" "Symbole of the Way" "In the Name of
the Messiah” “The Lotus Gospel” などなど、多く
の著作を丸善や早大図書館から出版し、『弘法大師』な
どの仏教書の英訳も手がけた。
だがこうした充実の日日に突然、第一次世界大戦に従
軍していた長男戦死の悲報がもたらされた。急いで帰国
しなければならなくなった夫人は、それまで研究のため
収集した洋書約一五〇〇冊、仏画や器物など五〇〇余点
早稲田大学に寄贈することとした。 大隈夫妻を敬慕し
ていた夫人が、「学問の独立を標榜する大学で自由に同
好の士の研究に資する」ことを望んだためだった。
 こうして一九一六(大正五)年の末に「早大ゴルドン文
「庫」が誕生した。 それは夫人の深い探求心によって集め
られた宗教、民族学などを中心とする貴重なコレクショ
であった。その中の一つに、現在も図書館の玄関脇に
据えられている一対の石羊がある。 夫人が朝鮮の義州で
入手したというこの石羊のイチハツ紋の台座の柱には、
現在はよくわからないが、輝く真珠とそれを破壊しよう
とからみつくトカゲ、そしてラテン様式の七つの十字架
が彫られていたらしい。夫人は著書の中でこれらの文様
と、中国景教碑の文様、二世紀のシリアの神学者バル・
ダイサンの詩「真珠賛歌」、紀元前六世紀の頃のメロエ
神殿彫刻とを関連づけ、更に石羊の角はユダヤ教会で
罪の日に吹くショファー(角笛)と同一であると論証して
いる。つまり夫人はこの石羊を古代宗教の東アジア伝播
のあかしと見たのであった。大隈侯も「これは消すこと
このできない石に刻まれた証拠である」と語ったという。
-210

EM
さて大隈侯らに惜しまれて去った夫人がそれからの数
年をどのように暮したか、はっきりしない。だが一九二
○(大正九) 年頃には再度来日していて、 京都ホテルで研
究三昧の日を送っていたことがわかっている。
この時期、夫人は既に夫と愛息を失っており、高齢と
なって宿痾にも冒されていたらしい。「淋しき異邦人」と
自らを呼ぶ夫人にはかつての闊達さは望むべくもなく、
京都ホテルでの晩年の六年間、ただ一度しか外出しなか
ったといわれている。だが研究心は衰えることがなかっ
た。学問上の疑問については誰彼となく手紙でただしな
がら、“Heirlooms of Early Christianity Visible in
Japan" "Indian Church History" “Asian Christology
and the Mahāyānā" 等の著作を次々と上梓した。 そ
の一方で、 ユダヤ問題や排日運動にも心を痛めて発言を
続けた。学問とヒューマニズムに生きた晩年であった。
一九二五 (大正十四年六月二十七日、かねてからの腎
臓病が悪化して京都ホテルで逝去、七十六歳であった。
葬儀は京都東寺において仏式で営まれ、遺言によって高
文庫創設者を語る
野山奥の院と朝鮮金剛山長安寺に分骨して葬られた。 戒
名は「密厳院自覚妙理大姉」。仏耶一元の研究に生涯を
かけた人にふさわしく、 高野山景教碑の傍らの、 八葉蓮
華に十字架を配した墓の下に眠っている。
先般高野山大学を尋ねた私は、夫人の死後収められた
蔵書(高野山ゴルドン文庫)に混って部厚い遺稿が残され
ているのを知った。 ホテルの一室で病と戦いながら書き
続けたものだろうか。びっしりと書きこみの残る草稿を
見ながら、家族も国も捨てて研究に没頭した夫人の心を
思って、私はいつか深い感動に包まれていった。
Hi
E.A.GORDON
COLLECTION
書集ンドルゴ
學大田租早
館鴦鍋附
Waseda University
Library
1916
ゴルドン文庫蔵書票
-211-



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slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

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