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2024年5月16日木曜日

金春禅竹『明宿集』現代語訳 ミシャグチ

 


表章・伊藤正義校注『金春古伝書集成』)[『動かぬ故に能という』99頁]


金春禅竹『明宿集』現代語訳所収


精霊の王 (講談社学術文庫) Kindle版 

中沢新一  (著)   形式: Kindle版

https://www.amazon.co.jp/dp/B07T1YGWR6/


1964年に発見された能楽芸論である金春禅竹『明宿集』を中沢新一が現代語訳して『精霊の王』巻末に載せている。
(「翁」を中心に秦河勝の功績と思想が説明されている。ただし大分仏教に偏ってはいる。)
中沢新一の功績としてはかなり大きい。
本書のキーワードである「ミシャグチ」についてだが、
「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」 という意味だという都市伝説があり、これを考慮すると中沢新一が度々言及してきた諏訪の御頭祭とのつながりも見えてくる。
つまり(以下仮説)物部系と秦氏系は祖先を同じくして密かに繋がっており、秦氏系は仏教を偽装(法華経や達磨伝説は聖トマスの影響を受けたという説がある)することで生き延びたのである。
物部系も滅びたわけではなく諏訪にいち早く逃げて独自の神道を維持した。
国譲りも同族同士の交渉だった。
(蛇を信仰するのがおかしいという人もいるが、映画『十戒』にも出てきたアロンの杖を思い出してほしい。)
ただし中沢新一は本質的にアカデミックな人なのでそこまで踏み込んでいない。(仮説扱いだとしても)ここに踏み込んだら日本の大学では教えられないからだ。
とはいえ文化人類学を中心に状況は変わってきていると思う。

《諏訪のこの祭は、別名「ミサクチ」の祭ともいう(ミシャグチともいう)。ミサクチは、ミ・イサク・チで、真ん中にちゃんと「イサク」の名が入っている。手束正昭牧師(日本基督教団高砂教会)は、この「ミ・イサク・チ」は「イサクの古い物語から」の意味のヘブル語と解釈している。》
(久保有政『日本とユダヤ 聖徳太子の謎』)

《前宮の主祭神は八坂刀売神だが、本来はミシャグチという神だった。古代史研究家の清川理一郎氏はミシャグチを「ミ・イサク・チ」と解釈し、預言者イサクとの関係を考察している。》
(飛鳥昭雄『…「隠岐」の謎』)

久保有政 · 2014
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... イサクを捧げようとした地=モリヤの丘と同じく、モリヤ山(守屋山)のふもとでそれが行われてさた。諏訪のこの祭は、別名「ミサクチ」の祭ともいう(ミシャグチともいう)。ミサクチは、ミ・イサク・チで、真ん中にちゃんと「イサク」の名が入っている。手束 ...

失われたユダヤの龍宮城「隠岐」の謎

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飛鳥昭雄, ‎三神たける · 2022
次の書籍のコンテンツと一致:
... ミシャグチという神だった。古代史研究家の清川理一郎氏はミシャグチを「ミ・イサ宮はク・チ」と解釈し、預言者イサクとの関係を考察している。、 イサクは大預言者アブラハムのひとり子で. ↑エルサレム神殿の至聖所と聖所の一直線上にあるオリーブ山 ...

猿田彦と秦氏の謎: 伊勢大神・秀真伝・ダビデの影

清川理一郎 · 2003 · ‎プレビューは利用できません
『記紀』に抹殺・貶められた出雲神族の祖先神サルタヒコ大神の真髄!サルタヒコの復権・復活が古代史像を変える。
画像がありません

諏訪神社謎の古代史: 隠された神々の源流

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清川理一郎 · 1995 · ‎プレビューは利用できません

諏訪神社謎の古代史: 隠された神々の源流 単行本 – 1995/3/1 

清川 理一郎  (著)


『記紀』に抹殺・貶められた出雲神族の祖先神サルタヒコ大神の真髄!サルタヒコの復権・復活が古代史像を変える。

古代インドと日本: 海のシルクロードを探る

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清川理一郎 · 1995 · ‎スニペット表示
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海のシルクロードを探る 清川理一郎. 清川理一郎(きよかわりいちろう) 1934 年東京 ... ミサクチ神と洩矢神の祭祀と文化」(古代オリエント博物館情報誌『 ORIENTE 」 8 ... 清川理一郎発行所株式会社新泉社東京都文京区本郷 2-5-12 振替 00170-4-160936 電話 ...

月刊文化財発掘出土情報 - 第 121~124 号 - 44 ページ

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1993 · ‎スニペット表示
次の書籍のコンテンツと一致: – 44 ページ
... 清川理一郎さんは、「ミサクチ神の祭について」と題し、神長官守矢家の祖先神とされる「洩矢神」と、古代オリエント時代のエルサレムの聖地「モリヤの丘」を対比し、両者の関連を指摘した。諏訪研究会は、諏訪大社を中心とした古代諏訪の歴史や習俗を研究 ...

遺跡と発掘の社会史: 発掘捏造はなぜ起きたか

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森本和男 · 2001 · ‎スニペット表示
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... 清川理一郎著隠された神々の源流諏訪大社で行なわれる御柱祭,ミサクチ神の祭祀である御頭祭が語っているものは?文化の波状理論と KJ 法を駆使し,インド・ネパール,西アジア,南ロシア,古代オリエン卜等,世界的視野から謎の神々の驚くべき素顔を解き明す ...

八幡大神の神託: 隼人征伐から源平争乱までの事件史 - 253 ページ

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清輔 道生 · 1995
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... 清川理一郎著隠された神々の源流諏訪大社で行なわれる御柱祭,ミサクチ神の祭祀である御頭祭が語っているものは?文化の波状理論と KJ 法を駆使し、インド・ネパール,西アジア,南ロシア,古代オリエント等,世界的視野から謎の神々の驚くべき素顔を解き明す ...

海のシルクロードを探る 清川理一郎. 清川理一郎(きよかわりいちろう) 1934 年東京 ... ミサクチ神と洩矢神の祭祀と文化」(古代オリエント博物館情報誌『 ORIENTE 」 8 ... 清川理一郎発行所株式会社新泉社東京都文京区本郷 2-5-12 振替 00170-4-160936 電話 ...

旧約聖書の神の伝承を伝える諏訪大社・前宮のミサクチ神と洩矢神の祭祀と文化(清川理一郎). 12, 遺跡巡りの旅ーイランー(小宮妙子). 20, 私説古代学入門(4)(堀 晄).


諏訪神社 謎の古代史 清川 理一郎(著) - 彩流社 | 版元ドットコム

  1. https://www.hanmoto.com
  2. >isbn

... ミサクチ神と洩矢神の祭祀と文化』 (古代オリエント博物館情報誌「ORIENTE」8号)に掲載。 所属研究会 古代オリエント博物館・友の会 諏訪研究会. 上記内容は本書刊行 ...



https://aom-tokyo.com/publication/oriente.html



8号1993年11月発行【在庫なし】


01 クシャン朝「豊穣の女神」金貨(津村眞輝子)
03 旧約聖書の神の伝承を伝える諏訪大社・前宮のミサクチ神と洩矢神の祭祀と文化(清川理一郎)
12 遺跡巡りの旅ーイランー(小宮妙子)
20 私説古代学入門(4)(堀 晄)
23 アイン・ガザル遺跡の生と死ーヨルダンの巨大新石器時代集落の保存を訴えるー(G・O・ローレフソン)
31 特別展紹介・研究部便り

手束正昭 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E6%98%AD



手束正昭

手束 正昭(てづか まさあき、1944年 - 2024年2月8日)は、日本の牧師、神学者。米国キングスウェイ神学大学名誉神学博士。

日本基督教団高砂教会元老牧師[1]、 「日本基督教団聖霊刷新協議会」創立者、「日本民族総福音化運動協議会」総裁[2]。日本のカリスマ運動の指導者。「日本を愛するキリスト者の会」副会長[3]。

神学・歴史認識

ネストリウス派の研究者でもあり、ネストリウス派を初期のカリスマ聖霊運動だとしている。手束には『キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』 と題する著作があるが、彼は自由主義神学者、パウル・ティリッヒの研究者であり、福音派系の聖霊の第三の波派ではない。彼は自由主義神学の再評価を他の聖霊派に求めた。

https://x.com/slowslow2772/status/1791099098860585220?s=61


「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」 – @mabumaroのTumblr

https://www.tumblr.com/mabumaro/93638664331/ミシャグチとはヘブライ語でイサクの犠牲

「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」

mabumaro

柳田國男の「石神問答」、中沢新一の「精霊の王」でミシャグチのことを調べているのだが、柳田は民俗学の祖と言われるだけあって地名と神の関連に拘り、中沢は宗教学者の側面から天台のややこしい教条を持ちだして来る。誰にも解明できないとされているミシャグチを音韻で解明しようとした柳田のやり方は正しいと思うのだが、その彼をもってしても解決できなかった。中沢はその「精霊の王」で新しい解釈を目指している。ミシャグチは宗教学、民俗学、考古学という垣根を取り払って考えなければ解明できないだろう。

ところで最近ミシャグチの事を調べていて感じたのが宮崎駿の作品である。胎児性をイメージさせる巨神兵(漫画版ナウシカ)、タタラ製鉄=出雲族、アシタカ=土着の民(もののけ姫)は建御名方と洩矢神の戦いを感じさせる、湛の木、精霊(となりのトトロ)湛の木の大木の大きなうろに落ちたメイは、かつて諏方上社御室社で大祝と神長官が行った秘儀(中世までは諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室(つちむろ)が造られ、現人神(あらひとがみ)の大祝や神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした)を彷彿とさせる。極めつけが草壁タツオが、信州の在野の考古学者でミシャグチの研究もしていた藤森栄一氏をモデルにしていることだ!

ミシャグチはユダヤとの関連があるということで調べ始めたのだが、「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」という事実を知り、日ユ同祖論こそがミシャグチの謎を解き明かす鍵を握るのではと初心に立ち返っています。


金春禅竹の秘伝書 明宿集 Kindle版 

松本恵司  (著)   形式: Kindle版


7.秦河勝の事   一、秦河勝ノ事。太子ノ御目禄ニ記シ給フ儀ニ云ク。抑、コノ河勝ハ、昔推天皇ノ御宇ニ、泊瀬川ニ洪水出ヅ。水上ヨリ一壷ノ壷流レ下ル。人不審ヲナシテ、磯城島ノアタリニテ取リ上ゲ見レバ、中ニ只今生レタル子アリ。スナワチ抱キ取ルニ、人ニ佗シテ云ク、「我ハコレ、大唐秦ノ始皇帝ノ再誕ナリ。日本ニ値遇アテ、今スデニ来レリ。急ギ朝ニ奏スベシ」ト。ヤガテ此由奏聞ス。御門奇特ニ叡覧アテ、君辺ニ置カレテ、成長ニ従ヒ、才智世ニスグレ、賢臣・忠臣ノ誉レヲ受ク。ソノ後、上宮太子ノ御身ヲ離レズ随順シタテマツル。守屋ノ逆臣ヲ滅ボシ給イシ時、太子ノ神通ノ御矢ニ当テ、櫓ヨリ落ツルトテ、法華ノ文ヲ唱ヘテ、「如我昔所願、今者已満足」ト。河勝次ノ文ヲ唱ヘテ、「化一切衆生、皆令入仏道」。ソノ頃ワ、コノ経、漢土ヨリイマダ渡ラザリシ時ナリ。イヅレモ権者ノ方便、利生アラタナリ。カノ河勝ニ猿楽ノ業ヲ仰セ下サレテ、橘ノ内裏紫宸殿ニテ翁ヲ舞ヒ初ム。上ニ記セルゴトシ。   然バ、コノ因縁・テ以テ思フニ、カノ秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ。ソノユエハ秦ノ始皇ハ漢土(大唐)ノ御門、王ワ上ニ記セルガゴトク翁ニテマシマス。河勝マタ始皇ノ再誕ト名ノリ給エバ、翁ニテマシマス事疑ヒナキ所ナリ。サテコソ、コノ道ヲモシ給へ。   業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空舟ニ乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。蜑人舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当所近離ニ憑キ崇リ給シカバ、大キニ荒ルヽ神ト申ス。スナワチ大荒神ニテマシマス也。コレ、上ニ記ストコロノ、母ノ胎内ノ子ノ胞衣、襅ノ袖ト申セルニ符合セリ。[胞衣ワスナワチ荒神ニテマシマセバ、コノ義合エニリ]。ソノ後、坂越ノ浦ニ崇メ、宮造リス。次ニ、同国山ノ里ニ移シタテマツテ、宮造リヲビタヽシクシテ、西海道ヲ守リ給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申シタテマツルナリ。コヽヲ以テモ、翁ニテマシマスト知ルベシ。サレバ翁ノ御事、大荒神トモ、本有ノ如来トモ、崇メタテマツルベキ也。秘文ニ云ク、「意荒立時、三宝荒神。意若寂時、本有如来」。コノ文ノ心ヲ知ルベシ。  山ノ里ヨリ、大和桜井ノ宮ニ影向シマシマス由、一説アリ。  

 河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝ニ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、太子、唐ノ舞楽ヲテナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廾調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。尚行末千秋万歳、家業長久ニシテ、際限アルベカラズ。タヾ信ヲ以テ冥ヲ加エシメ給フベキ也。当家ノ子孫、謹ンデ仰ギタテマツレ。   昔ワ、翁ヨリ始メテ、六十六番ノ猿楽ナリシヲ、昼夜ノ神事アラザル謂レ、マタ深キ義ヲ御思惟アリケルカ、太子ノ御教エニヨリ、六十六番ヲ式三番ニ約ム。多義コノ中ニ籠モレリ。   氏安ノ妹婿、元興寺ノ紀ノ権守ト云者、コレワ不知人ニテアリシガ、氏安ニ具シテコノ業ヲナス。後ニ、事ノ縁ニ従イテ江州ニ下向シ、ソノマヽ日吉ノ猿楽トナル。今ノ日吉・山階ノ座、ソノ子孫トイニリ。山王・三輪一体ニテマシマセバ、猿楽モ、和州ヨリ始マリテ江州ニ分カチ、神事ヲナス。結縁シカラシムルトコロナリ。   ソレヨリ、日本国ニアマネク分カチヤリ、六十六ケ国、在々所々ニ神事猿楽ヲナス。モシソノ国ニナケレバ、他国ヨリ越エテ神事ヲスルナリ。源、当座根本ノ宗梁トシテ、昔ワ諸国諸座ヨリ年貢等ヲ上グ。近頃マデノ事ト、老者ハ申シコトナリ。然共、今ワ末世強情ノ時ナレバ、是ヲ用イズ、結句、宗梁式ノ儀ヲ嘲リ、頭ヲ振リ、義ヲ絶ツ。サレバ今、口外モ憚リアルニナリテ、心ノ底ニ思エルバカリ也。カヤウニ申モ憚リアレ共、コノ秘伝二冊、外見ニ及ボスコトナケレバ、スコブル荒言ニ及ベリ。   昔、泊瀬与喜ノ宮ノ神主アイマス大夫、神慮奇特ノ人ナリシガ、ソノ歌ニ云、「泊瀬山 谷ノ埋レ木 朽チズシテ コンハルニコソ 花ワ咲キツゲ」カヤウニ詠ジケンモ、深義ヲ知レリト感ジ存ズル也。然バ、因縁ヲ思エバ泊瀬猿楽ト号スベキコト、根本ナルベシ。  観音薩埵ノ利生、三十三身ニ身ヲ分カチ、長者・居士、童男・童女、夜叉・鬼神等ノ面色ヲナシ給フモ、翁ノ妙用、観音薩埵ノ威力、一体ニテマシマス也。コノ因縁ニヨテ、河勝モコノ山河ヨリ出現シマシケルヨト、感応肝ニ銘ズ。スナワチ、コヽワ補陀落山トシテ、根輪際ヨリ涌出ノ瑪瑙ニ、生身ノ十一面観自在尊現ワレ給フ。宗廟・社稜モ来臨アリ。天満天神現人神モ随身シ給フ。ナニ事カコノ尊ノ恵ミニアラザルベキ。三十三身、三十三身ヲ、身ヲ合ワスレバ六十六番ノ猿楽。ソレヲ、要ヲ取リ肝ヲ拾イテ三ニ約ムレバ式三番。上アレバカナラズ中・下アリ。法アレバスナワチ報・応アリ。空・仮・中ノ三諦アリ。正・像・末ノ時節アリ。真・相・行ノ位アリ。ミナコレ、観音薩埵・翁ノ作用、イヅレモ差別ナキ物ナリ。事々モ無碍也。事理モ無碍ナルベシ。[権実モ差別ナク、善悪モマタ不二也」。コヽニヨテ、観音自在尊トイエリ。与喜ノ神主ノ深キ志ヲトブラヒテ、愚詠一首、観音・翁ノ結縁ニアヅカリタテマツランノ敬心ニ供エタテマツル。      カリニ出デシ水ノ流レヤ ソノマヽ深キ江ニ籠モルラン 

 8.聖徳太子御作の鬼面   一、面ノ段ニ有ル可キ儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置シタテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ仰付被シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。諸天・善神、仏・菩薩ト初メタテマツリ、人間ニ至ルマデ、柔和・憤怒ノ二ノ形アリ。コレ、善悪ノ二相一如ノ形ナルベシ。サルホドニ、降伏ノ姿、怒ル時ニハ夜叉・鬼神ノ形ト現ワレ、柔和・忍辱・慈悲ノ姿ヲ現ワス時、面貌端厳ニシテ、本有如来ノ妙体也。然者一体異名ナリ。マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利之有リ。コレラノ重宝相伝之義、他座ニ准ゼザル所ナリ。タヾ信・不信ヲ思フベシ。神儀云、「如来ノ身蜜ハ舎利也。如来ノ口蜜ハ経巻也。如来ノ意蜜ハ神明ナリ」ト、云々。仏舎利アリ、経巻アリ。神明又、翁・鬼二面ト崇メタテマツレバ、三宝守護ノ座、三蜜ノ結縁ノ所也。仰ギテモナヲ余リアルベシ。   然者、願ヲ興シテ、月々ニ三宝ヲ供養シタテマツレ。定置ク所ノ日ワ、毎月一日、朔日ヲ以テ、翁ノ面ヲ拝シ、同ジク御影ヲ掛ケタテマツテ、敬礼、供養シタテマツルベシ。慈悲広大ノ御事ナレバ、方便ノ殺生ヲモ嫌ワセ給ワザルユエニ、肉物ヲソナウベシ。三寸ワモトヨリ諸神用給ウ所也。ソノ外、温槽ノ礼奠、少水ヲ掬ンデモ・、心ザシヲ見エタテマツラバ、納受得益アルベキコト、タナ心ヲ指スガゴトクナルベシ。十五日ニワ、御舎利ヲ供養シ、舎利礼ヲナシ、妙典ヲ読誦シタテマツレ。廿八日ワ、鬼面ヲ供養シタテマツレ。コレスナワチ、荒神ノ御縁日ニテ、事理相応ノ儀アリ。コノ三日ヲ以テ、カマエテカマエテ精進潔斎ノ心ヲナスベシ。力ナク、世ニ従ヒ、人ニ順ズル儀ヲ背カバ、立チ返リ、神慮ニ合ウベカラズ。悪シキニ交ワリ、魚鳥ノ肉ヲバ食スルトモ、信マタソレニヨルベカラズ。タヾ正直ニシテ敬イタテマツラバ、冥加アルベシ。差合アラバ、人ヲシテ供養セシメタテマツテ、間断アルコトナカレ。  9.河勝の御墓所太秦寺   一、河勝ノ段ニアルベキ儀。秦ノ河勝ノ御墓所、異説定有る可し。一説。   都太秦寺ニ之有リ。本堂ノ未申、塔婆ノ前、石ノ塔、証見アラタニ拝見シタテマツル。尋ネテ崇メタテマツルベシ。マタ御堂ノ東ニ池アリ。中島ノ頂上ニ秦ノ始皇ノ髑髏ヲ収ム。コレ希代不思議ノ深秘ナリ。マコトナルカナ、河勝ノ先生ノ髑髏ニテマシマセバ、アワレニモ感セラレキ。モシ持来シ給イケルカ、マタヲノヅカラ飛来シマシマスカ。詳シク尋ヌベシ。コヽヲ以テ太秦トハ秦ト書ケリ。河勝ハ当寺本願ニテマシマスユエ也。当寺ヨリチト西ニ離レテ霊場アリ。桂宮院ト号ス。古今ニ桂ノ宮トアルワコレナルトカヤ。ソノ所ニ、河勝ノ御垂述、大避大明神マシマス。コレスナワチ桂宮ナルベシ。社ノ前ニ一宇ノ小堂アリ。太子手ヅカラ槌ヲ上ゲ、材木ヲ取テ、造リ現ワシ給エル御堂ナリ。入堂結縁スレバソラ恐ロシク、行道スレバ足裏ノ置キ所ヲ覚エズ。御本尊ヲ拝シタテマツレバ、同御作ノ二臂ノ如意輪観自在尊、御面貌マコトニ衆生ノ苦ヲ嘆キ給ヘル御ヨソヲイ、感涙押エガタシ。カレトイヽ、コレトイヽ、甚深ノ由緒、他ニ異ナル霊場也。太子ハ猿楽ノ道ヲ興シ給エル権化ナレバ、スナワチ翁ノ化来ナリ。モトヨリ王子ニテマシマセドモ、位ニツキ給ワザリシ。日羅上人、偈ニ、改メテ粟散王ト称シタテマツル。王ハコレ翁ナリ。河勝マタ翁也。秦ノ始皇モ翁ナリ。化身・先生ノ骨髄、コノ寺ニ留ツテ、末世ノ衆生ヲ度シ、慈尊ノ暁ヲ待チ給フラン。心アラン猿楽、歩ミヲ運ビ、帰敬シタテマツルベキ也。  10.春日・翁一体の事、翁の使者




精霊の王 (講談社学術文庫) Kindle版 

中沢新一  (著)   形式: Kindle版

そもそも「翁」という神秘的な存在の根源を探究してみると、宇宙創造のはじまりからすでに出現していたものだということがわかる。そして地上の秩序を人間の王が統治するようになった今の時代にいたるまで、一瞬の途切れもなく、王位を守り、国土に富をもたらし、人民の暮らしを助けてくださっている。この「翁」の本体(本地)を探究してみると、胎蔵界と金剛界をともどもに超越した法身の大日如来であり、あるいは無限の悲願をこめて我らを包摂する報身の阿弥陀如来でもあり、または人間の世界で教化をおこなう応身の釈迦牟尼であり、つまるところ法身・報身・応身という真理の三つの存在様態を、一身にみたしていらっしゃるのである。この完全充足した一身を三つの存在様態(三身)に分けてあらわすところは、猿楽で言うところの「翁式三番」の表現となってあらわれる。こういう神としての示現(垂迹)を知れば、ますますいろいろなことがわかってくる。  第一は住吉の大明神である。あるいは諏訪明神としても、塩竈の神としても示現をなさる。伊豆の走湯権現として示現したときには天皇の勅使と直接対面をおこない、筑波山では驚異的な岩石の形をもって出現して、参詣の人々に深い感銘をあたえて結縁しているのである。このように列島のところどころにおいて、神の形態としての示現垂迹をなさっているのではあるが、迷妄に曇った眼にはそのことの真実は見えず、愚昧な心にはまったく理解すらできない。神秘的な解釈ではこう言われる。本地垂迹はすべて本体は一つであって、不増不減、常住不滅の神秘の唯一神に集約される、と。その唯一神のお名前は、別紙口伝にしるされていよう。 
 その昔、天つ神七代の末、国つ神(地神)の四代目に当たられる火々出見尊は山の幸の狩猟を得意としていたが、海の幸の捕獲に得意な兄の火進尊と、ある日猟場の交換をおこなって、慣れない釣り糸を海に垂れていらっしゃったとき、うっかりと釣り針を魚に食いちぎられてなくしてしまった。兄の尊はなくした釣り針を返せとはげしく弟の尊を責めたので、どうすることもできずに海辺で悲しんでおられた。そのとき塩土翁が出現して、粗い目で編んだ大きな籠をつくって、それに乗せて、弟の尊を竜宮にお送り申し上げた。そのときの塩土翁というのが、すなわちこの「翁」の神秘的な姿であった。かくして神話の時代には神々を導き、歴史の時代には天皇の末裔たちをお導きくださる。すなわち「翁」は、天と地の媒介者なのである。このほかにも『日本書紀』に散見する関連の記述はあるが、いずれも安易な解釈を許さない。人間の世界のことに目を移せば、「翁」は歌道の家に生まれて、『伊勢物語』の作者である在五中将業平として出現した。この方は「カタイ(乞食)翁」といわれて、感情に身を任せる愚かな女性たちを導いて、深遠な性愛の道を教えた。『古今集』の歌仙として出現したときには、「三人翁」と言う呼び名をもって、一つの本体を三つに分裂させてあらわれ、生老病死の歌をお詠みになった。これらはみな根源の力の示現であって、「呼び方に呼応して表出はおこる」という道理は、とうぜん「翁」の神秘な出現にもあてはまるのである。

 一、「翁」の面のいわれについては、秘密中の秘密であるから、別の口伝を必要とする。ここではそんなわけで、簡単な解説を加えるにとどめよう。そもそも真理そのものの神秘的な出現などを、喩によらずいったいどんなふうにして写し取ることなどができようか。喩ということに関して、「花を弄べば香ばしい香りは衣に満ち、水をすくい取れば月は手の内にある」とも、「月が山の陰に隠れたならば、扇を挙げて見えない月に喩える」と言われる。仏教におけるいわゆる「三宝の掟」にも、土を捏ね木を彫って造った仏像をほんものの仏と思い、教えを記した経巻や赤軸を仏法そのものと思いなし、剃髪して墨染の衣をまとった凡夫を僧と見なすとある。悟りを開いた釈迦の生身の身体は、涅槃の雲のうちにお隠れになってしまい、五濁に満ちた悪世となり果てた今日にあってみれば、もはや木を刻んだり土を捏ねたり絵に描いたりした仏の像を、仏と見なすしかない。仏法についても僧伽についても、事情はまったく同じである。そうならば、信仰がありさえすれば、生きた身体もそれを模して表現したものも、差別などはないではないか。そういう象徴物が人々に利益をもたらし、真理の道に導く方便の働きをおこなうことに関しては、さながら釈迦が実際に生きて活動していた当時と、変わらないのである。このことを念頭において、面の働きを思考するのだ。ただ信仰と不信仰の間の差別は、厳然として存在する。このように、生身も木身と同等に見なければならない。
  まず、面には六つの感覚器官(六根)が備わっている。すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意の六根において、眼・耳・鼻・舌の各根については、誰の目にもあきらかである。残りの二つの根についても難しいところはない。なぜならば、身根とは肉体に備わった触感のことを指しているが、木でつくられた面でも変わるところがないからである。さて問題なのは意根であるが、これについても深く思念をめぐらし芸に工夫を凝らすことによって、面にも意根の備わっていることを理解しなければならない。もしこのことがはっきりと理解されたならば、その人はもう即身成仏を実現できた人といわなければならない。  
 さらに深い秘密の解釈にはつぎのように言われている。面に眼・耳・鼻・舌の七つの穴がある。これらの穴は北斗七星をあらわしている。これを山王上七社と申し上げ、また山王権現と崇敬すべきなのである。またそこには医王善逝薬師如来としての意味もこめられている。したがって山王はまた三輪明神でもあらせられるのだから、三輪の御室山こそ「翁式三番」の形であるよ、と崇めなければならない。玄賓僧都の活躍していた昔、三輪明神御自らが仏教に帰依して受法・受衣をなさったが、そのときの御神詠に「三輪川の清くも浄き唐衣、くるると思ふな取ると思はじ」と、おうたいになった。この歌はまことに無所得の心の状態をあらわしており、三輪明神の清浄にして無限の慈悲をたたえた御心を、曇りなくしめすものである。施しをする者も施しを受ける者も、すべてのものにはほんらい自他の相違はなく、施しものの移動があってもそこには減るものも増えるものもなく、すべてが無所得なのであるから、なんの過ちもおこってはいない。三輪の神は「翁」と御一体であらせられるのであるから、猿楽をおこなおうとしている芸人は、この御神詠に読み込まれた神の御心をじゅうぶんに酌んで、神事において臨時の芸能をおこなうとき、いざ報酬を受けるという段になっても、「くるると思ふな取ると思はじ」という無所得の涼しい心境を保てるようにならなければならない。ただ演ずる者も見る者も、この芸能によってともどもに悟りへの機縁をつかむことになってほしいものだとのみ、思うべきである。(ここに法華経法師品「如来室ニ入ル」の文章挿入)したがって、自分がいま身にまとっている衣装は、畏れ多くも「翁」の着る忍辱慈悲の衣を着せられたものであると観念し、いま食べている食事は「翁」の口中にあった護摩にくべられる五穀をいただいているのであると、思考しなければならない。心をつねに引き締めて、どんなささいな行為をもゆるがせにしない心構えが必要である。

 一、「翁」の姿を図像に描きあらわすことは、まったく杜撰な行為のように思われるかも知れないが、序文の中でも語っておいたように、私にはひそかに思い願う筋があって、住吉大神に祈誓をおこなったとき、大神がおしめしくださったお告げのままに描き出してみたのである。このことは、さきに記したとおりである。「翁」像のわきに書き加えられた讃には「百福荘厳常法身、云々」とあるが、この意味はかくかくしかじかである。これは住吉大神のお告げに「日・月・星宿、影を宿すぞ」とお示しになったことと、符合している。さて「翁」はこの図像で立烏帽子を着けているが、これはあざやかな光を放つ太陽と月をあらわしている。手に持つ御数珠は、星座を連ねたお姿を示し、御檜扇は十二の月をあらわして、昼も夜も途切れることなく衆生と結縁を結び続けていらっしゃる形を示している。水干は母の胎内にあっては胞衣と言われた胎児を覆う衣の袖にほかならず、九重の紫の御袈裟は忍辱慈悲の衣であり、紫の色は赤色でもなくまた黒色でもない「中道」の色彩であって、そのまま極端に偏らない現実の真実相を体現した御姿を表現することになっている。また御靴は大地を表現している。こうして「翁」の舞は舞われるが、そのとき鼓を打ち颯爽として鈴を振る所作がなされる。これは阿弥陀如来来迎の作法である。キリーク・サ・サクとなる鈴の声は、阿弥陀三尊(弥陀・観音・勢至)の真言をそれぞれあらわしている。このような重要な所作である、けっしてなおざりにこれをおこなってはいけない。面を顔に当てて「アゲマキ」と上げるときに、即座に神妙なる働きのあらわれでるための心の用い方があるが、これについても別紙口伝に詳しいことが書かれている。こういう訳であるから、どういうところにあっても衆生が「翁」の結縁にあずかれないということはないのである。神事であれ、それ以外の臨時におこなわれる猿楽であれ、貴賤が群れ集っているそうした衆生を、阿弥陀如来来迎の様子を示すことによって、結縁をおこなうという形態を取るわけである。これについての春日大神の御託宣もあるはずである。およそ「翁」の作法次第は、本式にやれば以上に述べたごとくであるが、現在では簡略化した形でおこなわれている。

 その昔、聖徳太子の御代のことであるが、太子は橘の内裏において猿楽舞いを舞うことによって、国には平和がもたらされ、天下太平が実現されるであろうとお考えになられて、秦河勝に申しつけて、紫宸殿で「翁」の舞いをおこなった。そのときの「翁」の姿はこのたび描かれた図像のとおりである。そののちだいぶんに時代が下って村上天皇の時代、天皇はその昔に聖徳太子のお書きになった直筆の文章を御覧になり、そこに猿楽舞いを奏すれば国は穏やかにして天下太平がもたらされるという文を見出し、そのことばを深く信ぜられて、秦河勝の子孫に申しつけて、紫宸殿で「翁」を舞わせたのである。しかしそののちは、時代の退廃とともに猿楽もすっかり軽薄なものとなってしまい、まるで遊芸人のもてあそびごとのように落ちぶれてしまった。まったくこれ以上の嘆きはないといったありさまである。しかしながら宿神のお恵みによって、「翁」の威徳にはまったく変わるところがなかったのである。まこと真っ暗闇に燈火を得たごとくである。これは仏や菩薩が凡俗の間に混じって衆生の救済を図る「和光同塵」を方便となさるやり方であって、諸国に猿楽の神事はおこなわれ、諸処方々で休む暇もないといった盛況である。またあるときは、神事のほかに臨時の芸能としてもおこなわれ、貴賤こきまぜてあらゆる階層の人々がこれをよろこんで見物している。たしかに猿楽は長いこと衰退した状態にあって、天皇の叡覧の栄誉には浴さなくなってしまったけれども、大衆がこれを見捨てることがなかったというお恵みは、まったく「翁」の巧みな利生方便の働きによるというほかはない。 

 その昔天の岩戸においては神楽を奏することによって、かたじけなくも天照大神は閉ざされていた岩戸をお開きになった。そのときの神楽が何かと言えば、猿楽なのである。昔は「神楽」と呼んでいたのを、聖徳太子が「神」という漢字の旁をいじって、「申楽」と名づけることになった。天才のなさることである、さだめし深い理由があるにちがいない。 

 仏陀がまだ生きていらっしゃった頃のこと、祇園精舎において供養がおこなわれたさい、天魔による妨害を鎮圧するため、後戸の場所で、大弟子たるアーナンダやシャーリプトラたちが、この神楽を舞った。そのときの舞いがまた、今日言うところの猿楽なのである。これらの伝説はみな、聖徳太子直筆の目録の中に書かれているそうである。

 一、「翁」を宿神と申し上げることは、かの住吉大神の御示現なさったときの姿と符合している。太陽と月と諸天体の光が地上に降下して、昼と夜の区別ができ、物質が生まれ、またその光は人に宿ったのである。太陽・月・星の三つの光は猿楽に言う式三番に対応するものであるので、太陽・月・星宿(星宿神=北極星)の意味をこめて、宿神とお呼び申し上げているのだ。「宿」という文字には、星が地上に降下して、人間にたいしてあらゆる業をおこなうという意味がこめられている。星の光はあらゆる家に降り注ぐ。そのようにどのような家にも招かれ歓待されるというのが星宿神たる北極星のお恵みではあるが、とりわけ宿神とお呼び申しあげている「翁」の威徳は、どんなに畏敬をこめて仰ぎ見てもあまりあるものがある。

 一、「翁」という文字については、秘密灌頂と口伝がある。多くの場合には、「公」の「羽」と書いてある。王を鳥に譬えているわけである。領国のあらゆる領域に恩恵をほどこそうという慈悲の御心がなくては、とうてい賢王とは言われない。そこで王たる者の眼は四方の世界にキッとばかりに注がれて、なにひとつ見逃すことがなく、その耳は四方の世界の物音をなにひとつ聞き漏らさないように、注意を張りつめている。このように、王たる「翁」はあらゆる領域の上を飛翔する能力を備えているという意味をこめて、「公」の「羽」と書くのである。王位とはすなわち「翁」である。また「翁」を「公」の「羽」と書くことについては、比叡山王社の伝承もある。これについての秘伝は別にある。したがって王は山王であり、山王は「翁」であり、元来一体のもののそれぞれが分身となっていると言える。大づかみに「翁」の本質を思い浮かべて深く思念してみると、存在の以前である神秘的な無にほかならないのであるから、時間の原初であるとてつもない過去を「翁」という概念でとらえていることがわかる。父も母も未だ生まれていない未発の状態にある、存在の真如(本来の面目)のことを「翁」と呼んでいるわけである。生死を超越しているから「翁」である。無限であるから「翁」である。常に生起しているから「翁」である。慈悲の心を「翁」と言うのである。このように観念しながら、存在とも非存在とも思える自分の心のうちに、この「翁」を発見するようにつとめなさい。自分の心のうちにこの「翁」と出会うことができたならば、その人は自分のもともと所有していた田地を取り戻すことができた人(本来の自己の心の本性を知った人)と言うことができる。

 一、「翁」の舞は、まことに重大事である。これは猿楽の本舞であるので、とくに思念と工夫を凝らして舞わなければならない。一声をあげてそこから舞に移る際に、合掌の仕草を絶対にしてはいけない。合掌の仕草は、神社・仏閣、地位の高い人々や貴い方々などを拝するときの手の格好なので、「翁」が自分に向かって合掌するというのは道理にあわないので、この仕草はしてはいけない。当意即妙の舞姿のみがふさわしい。さてまたこの「舞」は、左右左という順序で舞い始めてはいけない。これは吉野山に出現した天女の舞の場合である。「翁」においては、右左右の順序で舞わなければならない。右の手から舞い始めるのは、至高の神態を表現する舞曲にふさわしい、とは世阿弥(至翁居士)が私どもに言い置いた教えでもあるので、そこにはさぞかし深い意味がひそんでいるのであろう。舞の心構えとは、物に拘泥せず、人の目を気にせず、心のうちにいっさいの思いが浮かんでこない無心無相の状態にあって、謡と舞、身体と心とがひとつに集中されたまま、楽の音に乗せて舞うのである。応無所在、宇宙を舞う日月のような気品をもって、鋭い利剣のような性質をもって、障りになるものは塵一つないという状態で、舞曲をおこなうべきである。この鋭い利剣の性質は、そのまま遊芸としておこなわれる猿楽の舞楽にも適用される。この利剣の性質を心中深くひそめて、末端の芸にいたるまで、いささかの曇りもない態度で舞うことができれば、その人の能はまことに強力なものとなって、どんな物にも負けない格調を生み出すであろう。この剣は不動明王の手にする利剣であり、文殊菩薩の持つ智剣でなければならない。じっさいそれは、一念不生(どのような思念も生まれない)の剣なのである。このような事情であるから、「翁」の舞の出来不出来で、その日の芸能全体の吉凶を知ることができると言われる所以である。 

一、秦河勝の事績は、聖徳太子の著した御目録の中に記されている。それによると、そもそもこの河勝のことは、その昔の推古天皇の時代に、泊瀬川に洪水がおこり、上流からひとつの壺が流れ下ってきたことが発端となった。人々はこの壺を不審に思い、磯城島のあたりで拾い上げてみると、壺の中にはたったいま生まれたばかりの子供が発見されたのである。急いでその子供を抱き取ってみると、そばにいた大人の口を借りて、こう語り出した。「ぼくは秦の始皇帝の生まれ変わりだよ。日本に生まれ出る機縁があって、こうして出現しました。急いで朝廷にぼくのことを報告してください」。しばらくしてこの報告は、天皇のお耳にも入った。天皇もこの子供の出現をいたく奇特なことと思し召して、自分のおそば近くにお召し寄せになり、親しくお育てくださることになった。その子供は成長するにつれて、抜群の才能と知恵をしめすようになり、賢臣よ忠臣よとたいへんな栄誉を受けるようになった。そののちは聖徳太子のおそばから離れることなく、忠実にお仕え申した。太子が反乱をおこした物部守屋を攻め滅ぼされたときのことである、神通力のこめられた太子の放った矢に当たった守屋は、櫓から転げ落ちた。そのとき守屋は「如我昔諸願、今者已満足(私がその昔に立てた願いが満たされ、今は満足である)」と唱えた。これに唱和して河勝は即座に「化一切衆生、皆令入仏道(一切の衆生をうながして、皆が仏道に入るようにいたしましょう)」と唱えたという。これはいずれも法華経の言葉であるが、その頃はまだこのお経は我が国にはもたらされていなかった。守屋も河勝もどちらも尋常でない人であって、そうした人たちの用いる方便は、意外なやり方で人々に福祉をもたらすものである。聖徳太子はこの河勝に命じて、猿楽の技をおこなわせた。橘寺の御殿の紫宸殿において、「翁」は河勝によってはじめて舞われたのである。太子の御目録に記されているとおりである。したがって、こういう因縁や結縁のことを考えてみるに、この秦河勝は「翁」が人間に仮現なさった存在であることは、まったく疑いの余地がない。その理由をあげてみよう。秦の始皇帝は中国の皇帝である。つまり王であり、王とはすでに述べたごとく「翁」にほかならない。河勝はまた始皇帝の生まれ変わりと名乗っているので、ますます「翁」であることは疑いがない。そういうお方であったからこそ、猿楽の道を創始されることになったのであろう。そののち、猿楽の技を子孫に伝えたあと、現世に背を向けて、空舟に乗り込んで、西方の海上に漂流をなさったが、播磨の国の那波にある尺師の浦に打ち寄せられた。漁師たちが舟を陸にあげてみると、たちまち化して神となった。あたり一帯遠くの村々にまで憑いて祟りをおこなったので、大変に荒れる神と呼ばれた。すなわち大荒神となられたのである。この大荒神については、すでに書いたように、母の胎内の胎児を包む胞衣の象徴である、「翁」のまとう襅の袖と呼ばれるものに符合している。胞衣はすなわち荒神であるので、この対応は正しい。そののち、坂越の浦に神社をつくってお祀りすることになった。そののちは播磨国赤穂郡上郡(山の里)の諸処に勧請され、おびただしい数の神社が建てられて、西海道の守りの神とはなったのである。そのあたりの人たちはこの神社を、猿楽の宮とも宿神ともお呼び申し上げている。このことをもってしても、いよいよ秦河勝は「翁」であったことを知らなければならない。したがって、「翁」のことは大荒神とも、本有の如来とも崇敬すべきなのである。ある秘文に言う。「その心が荒れ立つときは三宝荒神、その心が寂静のときは本有如来」。この文の含意を深く理解すべきである。のち播磨の山の里から、大和国桜井の神社に示現なさったという伝承もある。

  秦河勝には三人の子があったが、一人は武士となり、一人は楽人となり、もう一人は猿楽者となって、それぞれの伝統を伝えた。武芸を伝承した子孫は、いまの大和長谷川党の人々である。楽人の技芸を伝えた子孫は、我が国における仏法最初の寺である四天王寺に依って、百二十調の舞を舞いはじめた人々である。そして、猿楽を伝えた直系子孫が、我々円満井座の金春太夫である。秦氏安から数えて、いまにいたるまで四十数代に及ぶ。なお行く末は千秋万歳、家業繁盛して、限りがあってはなるまい。ただ深い信心をもって、この家の伝統にますますの利益をもたらすように努力すべきである。当家の子孫たちよ、謹んで敬い奉れ。  昔は「翁」からはじめて六十六番の猿楽の演目があったが、昼夜の神事が立て込みすぎるという理由からであろうか、またはもっと深い意味を御思慮なさったためであるか、聖徳太子の教えにしたがって、六十六番を式三番に短縮したのである。式三番のうちには、たくさんの意味が込められているわけである。
  氏安の妹婿である、元興寺の紀権守という人は、もともとは猿楽には素人であったが、氏安にしたがってこの技芸を習得した。そののち、さまざまな機縁にしたがって江州(滋賀県)に下って、そこに居着いて日吉猿楽をはじめた。いまの日吉・山階にある猿楽座は、その子孫だと言う。山王と三輪は一体であることから、猿楽もまた大和にはじまって江州に移し分けて、神事をおこなうこととなった。結縁がもたらした出来事である。それ以来、日本中にたくさんの分流ができて、六十六ヵ国の処々方々で神事猿楽をおこなうようになった。もし自分の国の中に猿楽座がないときには、他国から招いてでも神事をなすのである。もともとは円満井座が猿楽芸根本の惣領であったから、昔は諸国にある座から年貢などを徴収していたこともある。それもつい最近までそうであったと、老人たちは語っている。しかし、今は末世で人々の心も頑なであるために、年貢などはなから納める気もなく、あげくは惣領などという考えそのものを軽蔑して、拒否の姿勢を示して、関係を義絶するにいたっている。しかし、こんなことを口外することも憚られるようになってしまったので、ただ心の中で思っているだけである。こんなことを書くこと自体憚りがあるとも言えるが、この二冊の秘伝書は身内の回覧にとどめるものであるので、大変な暴言を吐いてみたまでである。
  昔、長谷寺の地主神である初瀬与喜神社の神主である愛増太夫という方は、霊的な直感力の大変にすぐれた方であったが、その方がこういう歌を詠んだ。  

 初瀬山谷の埋もれ木朽ちずして金春にこそ花は咲き継げ 

 深い真実を見ていらっしゃった方だからこそ、このような歌をお詠みになったのだろうと感心する。したがって歴史的な因縁を考えれば、むしろ「初瀬猿楽」という名称こそ、根本の意義をつかんでいると言えるだろう。初瀬観音に代表される観音菩薩は衆生を救うために、三十三の異なる姿に自身を分けて、長者・居士、童男・童女、夜叉・鬼神などのさまざまな面貌をあらわされたが、これをもって見ても、「翁」の絶妙なおこないと観音菩薩の威力とは、まったく一体であることが知られる。この因縁によって、秦河勝もこの初瀬川を取り巻く山河から出現なさったのであると、深い感動を禁じ得ない。すなわちここは観音菩薩の浄土ポタラ山であり、その外輪山から湧出した瑪瑙に、生身の十一面観自在尊があらわれたのである。末社には皇室の先祖神も土地神も来臨されている。与喜神社には天満天神の現人神もいて、観音菩薩を守っている。まったくこの菩薩のはかりしれない恵みのおかげである。三十三身と三十三身をあわせれば、不思議なことに六十六番の猿楽に符合する。それを肝要な部分を拾い集めて三つに要約すれば、式三番ができあがる。上があればかならず中と下とがある。法身があれば、報身と応身がある。真理に空・仮・中の三種がある。時間には正・像・末の三時がある。書に真書・草書・行書の三つの様式がある。これらはみな、観音菩薩の働きとも「翁」の働きとも呼んでよく、そこには差別がない。現象は互いに自在につながりあっており(事事無碍)、現象と理法もまた互いに自由に結びあっている(事理無碍)。潜在的なものと現実化されたものにも差別はなく、善と悪もまた違うものではない。こうしたことから、観音菩薩を自在尊というわけである。与喜神社の神主の深いお志を受けて、私も一首。観音・「翁」の結縁にあずかりたく思う信仰心に、この歌をお供えしたい。  
 仮に出でし水の流れや初瀬川そのまま深き江(縁)に籠もるらん


一、面についての必要な知識を述べよう。「翁」に対して、当座では鬼面を安置申しあげているが、この鬼面は聖徳太子の御作品である。秦河勝に猿楽の技を仰せつけられたとき、河勝にくださったものである。これは「翁」の示すひとつの側面を表現している。諸天・善神や仏・菩薩からはじまって人間にいたるまで、柔和と憤怒のふたつの形がある。これは善悪というふたつの相もひとつである(一如)ことを表現する形である。そのため、愚かな衆生を調伏するために怒りの表情を示すときには、夜叉・鬼神の形となってあらわれるが、柔和・忍辱・慈悲の姿をあらわすときには、その表情は荘厳にして、本有如来の神秘的なお姿を示される。したがって憤怒と柔和は一体であり、それぞれのあらわれに対して与えられた異名にほかならない。また河勝が物部守屋の首を打ったことに対する報賞としていただいた仏舎利も当座にはある。これらの貴重な宝物を相伝してきたことにおいて、ほかの猿楽座に一線を画している。問題はただ、それを信じるか否かである。神秘説に言う。如来の身密は舎利であり、如来の口密は経巻であり、如来の意密は神明である、と。当円満井座には仏舎利があり、経巻があり、神明についても「翁」と鬼の二面であらわされたそれを尊崇しているのであるから、三宝がお守りくださっている猿楽座、三密の結縁の果たされている座なのである。まったくいくら賛仰してもしたりないほどに尊いことである。このような事情であるから、発願して毎月ごとに三宝を御供養申しあげなさい。その日取りを定め置こう。毎月一日は「翁」の面を礼拝し、そのときには「翁」を描いた掛け軸をかけて、敬礼して、御供養申しあげるのである。慈悲広大なる「翁」のことであるので、方便のために殺生をおこなうことさえ嫌われるということがないので、肉を供え物として供える必要がある。御神酒はもともと諸神の供養に用いられている。そのほか、温槽粥の供物を捧げるとき、それがたとえわずかな量であっても、その行為にこめられたこころざしを見届けてくだされば、「翁」はそれをよろこんでお受け下さること、まったく疑いがない。十五日には仏舎利の供養をおこなう。まず舎利に向かって礼をおこなってから、ありがたいお経を上げるのである。二十八日は鬼面を供養申しあげる。これは荒神の御縁日であって、事相についても理相についても、それぞれの作法がある。これら三日の御供養にあたっては、よくよく心を整えて、精進潔斎の心構えを実践しなければならない。みずからは権力をふるわず、世の中の動きや人々の考えにしたがうという猿楽の徒にとって必要な心構えに背くと、すぐに反応がやってきて、「翁」の神慮からはずれることになってしまう。善くない友人たちと交わって、魚や鳥の肉をたくさん食べるようなふるまいをしているときでも、「翁」への信心だけはなくしてはならない。ただただ正直で、「翁」を敬い申し上げていれば、きっと幸福が与えられるだろう。用事が入ってしまっているようなときでも、人に頼んで供養の儀式は続けてやってもらい、けっして中断するようなことがあってはならない。 一、河勝について知っておかなければならないこと。秦河勝のお墓がどこにあるのかについては、諸説は紛々であろう。一説には京都の太秦寺にあるという。本堂の西南の方角にある卒塔婆の前に石塔があって、これがそうだというのである。私も実際に見ておこうと拝見したことがある。ぜひとも訪ねてお参りするがよい。また御堂の東には池がある。その池の中島の頂上に秦始皇帝の髑髏を納めてある。まったく希代の不思議、神秘の極みというべきであろう。まことにこの髑髏は河勝の前世のものであるのだと思うだけで、感激して涙を抑えることもできない。これは中国からわざわざ運んできたものなのか、あるいは骸骨みずから飛来してきたものなのか、詳しいことをもっとよく調べる必要がある。こういう理由で、「太秦」に「秦」の文字を用いているのである。太秦寺が河勝の菩提寺なので、このような仕儀となったわけである。この寺から西の方に少しいくと、桂宮院という霊場がある。古今集に「桂の宮」と詠われているのが、ここのことだという。ここに河勝の御霊の垂迹として、大避大明神が鎮座ましましていらっしゃる。これが桂宮の本体である。この社の前に小さなお堂があるが、これは聖徳太子みずからが槌をふりあげ、材木を組み合わせておつくりになった御堂なのである。このお堂に入ってみると、あたりには空恐ろしいような気配がみなぎり、裸足の足で板敷きを踏むと、足裏の置き所がないほどに感動してしまう。本尊は太子御作の二臂の如意輪観音、そのお顔を拝してみると、衆生の苦しみをごらんになって深い嘆きを抱いている御様子で、ありがたさに感涙を禁じえない。始皇帝の髑髏といいこの観音像といい、並々ならぬ深い由緒を持っており、他のものとは一風異なる霊場であることがわかる。聖徳太子は猿楽の道を創始した神のようなお方であり、「翁」の化身と呼んでよいお方だ。もともと皇太子であられた方であるのに、天皇位にはおつきにならなかった。百済僧日羅上人は、法詩の中で太子のことをあらためて粟散王とお呼びになっている。すでに述べたように、王とは「翁」のことである。河勝もまた「翁」である。秦始皇帝も「翁」である。前世・化身の神髄がこの寺には残され、末世の衆生を救済し、慈しみが暁の中に開け放たれるときを、お待ちになっていらっしゃるのだろう。心ある猿楽の徒は、ぜひともここまで足を運んで、帰依の心を奮い立たせるべきである。 一、春日明神と「翁」が一体であること。そもそも春日と申し上げるのは、天皇家のご先祖やもろもろの土地神の大先祖として、天照大神のおそば近くにいて、天下のことを補佐する神様でいらっしゃる。この神が「翁」と御一体であることは、秘密中の秘密に属する重大事であり、特別に口伝と灌頂がある。したがって天地と同じようにして、「翁」と春日はたがいに師となり模範となって、影と形のような関係にある。また「春日」という文字は「二つの大日」という意味であることを知っている必要がある。横の棒三本のうち二本を上へ揚げて、引き離してみると、「二・大・日」に分解するであろう。これは春日が神と仏の世界をあわせた両部曼陀羅であることをしめしている。つまり、この神の本地は大日覚王如来なのである。かたじけなくも天照大神の要請を受けて、鹿島・香取のある芦原の中津国に降りて、荒ぶる神々を従わせ、ついにはそこを平和な世界に作り替えたのであるから、この神の御威徳に勝る神などはいないのではなかろうか。それだけではなく、衆生のなした行為についてその善悪を分け、まちがいのない賞罰を与えるのであるが、そういう衆生に対しては深い憐れみをたれて慈悲をほどこし、罪のある者であってさえ、お見捨てになるということがない。「翁」もまた慈悲は広大にして、人間の仕事や行為のうちに働いて、人々を悟りに導く方便としての福祉は、国土にあまねく浸透している。そのため本質を同じくしているところから、大和猿楽を四つの座に分けて、そのそれぞれを春日神社の四社に宛てて、毎月二月五日に大神の御前で「翁」を舞わせるのである。これは十二大寺でおこなわれる法会の最初をなすものとして、神々のお気持ちをお鎮めするためにおこなう神事なのである。多武峰において、毎年十月の維摩八講がおこなわれるさいの八講猿楽の神事も、大和猿楽四座があいつとめている。春日の御子孫といえば大職冠藤原鎌足公であるので、この一事をもってしても、「翁」と春日明神の御一体のことはあきらかである。総じて多武峰では古風なやり方を踏襲しているので、年始には六十六番の猿楽をおこなっていた。また「翁」のきわめて厳かで神秘的な面も保存されている。長きにわたって猿楽の芸を務め上げて、この面を着けて舞ったのちに、一座の最長老として認められると伝えられている。  そもそも「春日」の文字を見ても、円満井座と結縁があって「春」の文字が用いられている。深い因縁があることを考えて、この神を尊崇すべきである。昔は座名がたびたび変わったという。「円満井」というのは一族が長らく暮らしていた土地に由来する名前であるので、この名を称するようになってから、すでに久しいと思われる。ところが我が祖父に及んで「金春」と号するようになり、猿楽の達人の誉れを得て、その名を子孫に伝えたわけである。このような名前を自ら思いつくところから見ても、祖父はただ者ではなかった。これもまた「翁」の絶妙な働きと解するべきである。他の座においても、至翁居士や日翁禅士などが、天下にその名を轟かせた。彼らの道名を見ても、「翁」の働きを感じるではないか。一般的に言って、大きな座小さな座を問わず、そこの長たる者はみな「翁」の使いであると理解しなければならない。法華経に「如来使者」という言葉が出てくる。これを見ても、真理の働きに世俗も神聖も差別がないとわかる。古人の解釈には「すべての行に一つの門がある。真如の理解をもって行ずれば、すべてが道にかなう」と。「三界はただ心のみである。心のほかに別のダルマなどない」とも述べられている。ただただ心を正直に保ち、私を滅して、「翁」の恵みを尊んで、猿楽に励めば、まっすぐな極楽往生を得る最上の道、これにまさるものはない。したがって座親といえば「翁」の使いなのであるから、万事につけて不足のところのある座親であっても、座子はこれを敬わなければならない。座親もまた座子を尊重して、お互いが師となり模範となって、助け合うことによって、魚と水のような関係が築かれれば、そこから発生する思慮はとてつもなく深いであろう。こういうことが正しい座のあり方であるということを知りつつも、人はしばしば迷うものである。そのような時、自分自身を反省して、恥らいの気持ちを持つことができれば、利他のおこないに変わっていくことができる。しかしこれは筆のついでに書いたまでで、心ある人たちはこのようなことはとっくに悟り知っていることであろう。  ここにまた注意すべきことがある。如来使者について説かれている経文に、濁世にはみだりに仏法を説いたり、人の心を惑わすような連中が「稲麻竹葦」のように現れる、という意味のことが書いてある。この文章に照らしてみると、いまはまさに末世のただなか、猿楽の座も本流からつぎつぎに末流の分かれがおこり、その末流からさらにそのまた末流が発生してくるといったありさまで、まことに「稲麻竹葦」のごとしである。正直にして正しい道を歩み、すぐれた技をもってみずからの道を興すというのなら、真実の「翁」の使者と言えるだろう。これに反して、ただ世を貪り、ただ生活のために芸を弄んで、人の心を惑わすならば、我は神職なりといったところで、じっさいは無惨なもので、これは道に立ちふさがる魔障というべきであろう。このことはいくら言っても言い足りない。一座を興すほどの実力があって、猿楽興行をおこなおうと企てるならば、たとえ多少は芸風が未熟なところがあったとしても、神事をおこなって「翁」の御心に叶うことができますように、という強い願いをこめて取りかかってほしい。これは返す返すも肝心な重要事である。また、座元のしっかりとした猿楽座の場合であっても、道に立ちふさがる魔障があることは、よく知っておかなければならない。近年、神事にかこつけて数を頼んで勧進元にたいして無理を要求して、過分な進物や俸禄をむさぼる輩がいる。昔の人がこう言っている。「薄くすることもなく、厚くすることもしない。芸の意味とともに隠すのである」と。つまり、厚遇を受けたのに断って薄い待遇を求めるのは、相手方の深い志に背くことになるだろうし、軽い待遇を受けたのを不服として厚遇を求めるのは、猿楽の精神に反するだろう。ところが、処々方々において、神事に用いる物ばかりではなく、楽頭の権利を言い張って、山の木を勝手に伐採して、よそに運び出して世俗の用に使おうとする連中がいる。里を荒らす放埒を働く輩がいるのだ。神事の時に必要な山木を伐るのは、そこに滞在している期間だけに許されることである。その限度を越えて伐採することなどは、許されない。かならずや天がご照覧あろう。地神の眼が見逃さないであろう。自分一人の秘密であるなどと思い込もうとしても、天頂には北斗七星がおるぞ。なにもかもがお見通しなのである。ところが、近年の神事に猿楽の徒があらわれると、まるで軍隊が乱入して人々の暮らしを荒らすような体たらくがみられる。こんなことをしていると、世の中の流れが大きく変わったときには、自然と猿楽家業などは廃れてしまうだろう。道にとって、これほどなさけない芸事以外の妨げはない。心を引き締めて、謙虚な気持ちをもって、ゆめゆめ無道なふるまいをしてはならない。 一、法華経と「翁」が一体であること。「昔法華と呼ばれる霊山があり、現在は阿弥陀と名づけられる西方浄土があり、未来において娑婆に示現するときは観世音と呼ばれる、三世に利益をもたらすものは御一体である」との南岳慧思禅師の言葉がある。ここには、阿弥陀・観音・「翁」が御一体であることを、詳しく解明してある。ここからも、法華と「翁」が御一体であることに、なんの不審もなかろう。下品・中品・上品など人々の品に応じて来臨なさるところの、仏・菩薩・諸天善神・十羅刹など、また阿難・舎利弗などをはじめとして、経文の一々の文字にいたるまで、みな「翁」の神力の表現であると信じなければならない。ことに『法華経』の薬王菩薩品・妙荘厳王・観音品など、その題名を見ただけでもあきらかである。そこから優れた文章を引用してくるとよい。およそ法華経は過去・現在・未来にわたる三世の諸仏すべての本願を述べたお経であり、一乗主義を表明したすばらしいお経であるので、どんな短い一節を口にするだけでも、最高の道に到達できるようになることは、まったく疑いがない。また阿弥陀如来は無限の悲願を抱いて、無知の者たちや無道の生き方をしている者たちでさえ、称名念仏をするならば、たちまちにして浄土に迎え取ろうとの誓願を立てて下さったのである。いずれにせよ、信心があれば、なに疑いをさしはさむことなどがあろう。  ただし、この「翁」の家業に生まれついたものは、ただひたすらにこの道だけに心をかけ、ふた心なく芸の道に精進して、心を正直に保って「翁」を深く信じておれば、べつに特別な修行というものは必要としない。この「翁」の芸道こそ法華経に説かれている教えなのであるよ、これこそまさしく阿弥陀如来来迎へのまっすぐな道であるよ、と思念しなさい。それでこそ、「翁」・法華経の不二一体の所以が立とうというものである。ただ願わくば「翁」の心を知っていただきたい。もしそれを知るならば、すぐに如来の悟りに到達するであろう。しかしながら「翁」の御心を直観することもできず、また「翁」への信心もわき出てこないという方々は、ただただ法華経を読み、念仏を称えることによって、来世での救済は約束されよう。この世はまったく仮の世である。さきに述べたように、如来の意密は春日明神にほかならないのであるから、その意密について観想するのである。これこそ仏心宗のおおもととも本来の面目とも言うべき肝要のところである。 

 私の望みは、猿楽に「神真宗」とでも名づけるべき形而上学があらわれてくれることである。またたとえそこまで高度な直観的認識に到達することがなかったとしても、ひたすらに「翁」の神秘的な力をお頼み申しあげるならば、浄土に往生するよい縁となるであろうことは、まったく疑う余地のないところである。皆の者、くれぐれも猿楽の技を、世間に言うところの異端的な世渡りと思い込んで、悪道に入り込まないように。たとえ法華念仏以外のほかのお経に説くところを信仰しているとしても、「翁」の道への信仰を持っていなければ、真理(法)そのものを誹ることになってしまうだろう。もしもそんなふうだと、来世の果を得ることのできない人となってしまうのではないか。なによりも「翁」を畏れ、敬うことである。この信仰の源泉である無限の深さをそなえた「翁」の御心を知り抜いておれば、猿楽以外のどんな行為をおこなう場合でも、妨げとなるものは一切なくなるであろう。「翁」との結縁をもって、すべての衆生に徳を分け与えるように。来世に出現する地獄の主である閻魔大王もまた、「翁」の分身であるから、罪業の深さをおそれる人は、今生で「翁」を信じ申しあげることこそ必要である。 一、住吉明神に祈誓すること。そもそも「翁」のお姿を描くについて、伊勢や春日の神々にお祈りするのではなく、まず住吉の神に祈誓を申しあげたことについては、特別な理由がある。この神はもともと「翁」と御一体である上に、和歌の守護神でもあらせられる。そもそも猿楽の芸態(風姿)は、「翁」をはじめとして、歌舞をもって本体としている。ところがおそらく最近の猿楽芸人は、おおかた「歌舞」という言葉をしょっちゅう耳にしていながら、その言葉の真実の意味を理解していないと思ったほうがよい。印度のヴェーダ聖歌、中国の漢詩、我が国の和歌、これらは皆同じ本質を持っている。毛詩の序文にはこうある。「詩と言うものは志である。心のうちに宿っている状態では志であるが、その志が言葉に表現されたとき詩となる。この間の事情を正確に言うことは不可能であって、それを思うと嘆きの心に襲われる。いや嘆くなどということでおさまらない。そこで手には舞を出し、足を大地に踏み出すのだ」と。古今集の漢文序文にはまた「和歌はその根を心中に下ろし、その花を詩歌として咲き出せるのである」とある。かな序文には「やまと歌は人の心を種として、多様な言葉の葉を芽吹かせるのである」と書かれている。これらの中国や我が国の文章にこめられた意味を考えてみると、和歌に十の様式があるのがわかる。その中からさまざまな種類の心の働きが分化してきたのではあるが、それらのうちの最初に来るのが「幽玄」である。幽玄を手掛かりとして、とてつもなく深遠な心の働きにいたることができる。吟詠は流れる水に似て、けっして留まることのないのがよく、また意味や音韻の間につながりのある親句とつながりのない疎句についての慣例を正確に守り、五七五七七の句が五音に通じていて、神妙な心の動きをたくみにつないで作歌された、昔の名人たちの古歌を書き連ねて、詠唱するのである。微妙な感覚のふるえが含蓄された曲をつくり、表現されている心の動きについての正確な理解をもって、詠吟の声にあわせて身体の動きを生み出すようにすれば、自然と和歌の連なりは芸術的な美を備えるようになって、音・曲・舞の三業はそのまま身・口・意の三業として、一心に統合されるようになる。そのとき、極上の幽玄が実現され、無のうちに神妙に舞うような、舞の姿が出現する。これこそが真実の舞なのである。そのときには、狂言綺語の戯れであっても、仏を讃え、仏法を世に広める因縁となることができる。そうなれば、住吉明神もこれをよろこんでお受けくださるであろう。このような心構えを、「身動足踏の生曲」すなわち破動風の鬼・天女の舞や、その基本となる武士の身ごなしである軍体にまで、及ぼしていくことが出来れば、その人は一生世俗を脱した幽玄風を実現した芸人となることができるであろう。したがって、和歌は猿楽の生命であるとして敬わなくてはならない。この問題についてのこまかい注意配慮については、別に口伝がある。まさにこのような理由によって、住吉神社に祈誓申しあげるのである。  このような私の気持ちが神の御思慮に通じたのであろうか、私に霊夢が訪れ、「翁」のお姿をはっきりと見届けて、これを絵姿に描き出すことができた。これはまったく疑う余地のない事実である。住吉明神社におこなわれる御神事の中でもとりわけて九月十三日におこなわれる、名月の相撲会がある。この時節に参詣申しあげることができたことも、名月の時節といい、十三日が虚空蔵菩薩の御縁日であることといい、天体(星宿)からのお告げによることであって、まったく有り難いことであった。虚空蔵菩薩はまた「翁」の秘密の姿をあらわしている。虚空は遍在して、完全な充実を保ったまま、増えることもなくまた減ることもない。「蔵」にはまた「隠す」という意味が含まれ、「隠す」ことがあればまた「現れ」がともなう。有と無との際限のない転換がおこっているのである。このような「翁」のお恵みに、あずかっていない者などは一人としていないはずである。 


一、「翁」と「人丸(柿本人麻呂)」の御一体のこと。人丸がこの世に出現したのは、ただ和歌のためである。「翁」もまた、和歌をもって猿楽の技の基本としている。「翁」と人丸の考えには、まったく違いがないのである。本地を考えてみても、胎蔵界の大日如来は「阿字」を観想して、そののち上方を仰いで歌を詠みいだしたと言われている。人丸はその姿も「翁」と同じである。古今伝授の中に、「三人の翁」ということが説かれているのは、まったく第一にこの事を語っているのだという。一説には、この「三人の翁」とは、山部赤人・在原業平・あるいは橘諸兄のことであるとも言い、とかく諸説が多い。いずれの説も捨ててはならない。 

一、天満天神は本地が十一面観音であられるのだから、これもまた翁であられる。そのお力は上に記しておいた。 

一、式三番の事。三番猿楽に、父の助(ちちのじょう)が登場なさる。これは、おおかた以上に説いてきたように、法身・報身・応身という仏の三身と理解することができる。ところが、三番猿楽といって中間に登場してくるのは、過去・未来の時間を現在時間で代表しているために、三番猿楽と言っているのである。そこに含まれている意味は、信じがたいほどに深い。過去・現在・未来すべてにわたる智慧をもって、過去・未来を含み込むことによって、現在を生きる衆生を救済なさるという、まことに有り難い御威徳である。

 一、「翁」が戦争の神でもあらせられることは、まったく明らかである。なんといっても和歌の神であらせられながら、住吉明神は神功皇后の時代に異国を攻めていらっしゃるところは、この神の威力が他の神々のものとは異質であることを物語っている。そのとき以来、異国を降伏するために、西の方角に向かって立っていらっしゃる。君徳の恵みの深いことを思うと、末世の今、まったく頼もしい神であることよ、と崇め申しあげることを勧める。したがって、「翁」を軍神と申しあげるわけである。東国の武士はこのあたりの事情を知っているのだろうか。武士たちは、その鎧唐櫃に「翁」の面を一つずつ納めると聞いたことがあるが、この習慣の意味は、詳しく調べてみる必要がある。  

 ここで考えるに、この「翁」の妙体について、これまで列挙してきた諸神・諸仏は、みなものごとの現象面(事相)にあらわれた意義内容に関連したものばかりであった。ところが「翁」の真実に一層深く関わる存在の本性面(理相)に目を移せば、天体にあっては百億の銀河、百億の日月、地上にあっては山河大地、森羅万象、草木や鉱物などにいたるまで、みなこの「翁」の分身のおこなう霊妙なる働きにあずかっていないものなどは、ひとつとしてないことがわかる。法華経の文句に「芥子ほどの身体生命でさえ無視してかえりみないものなどはない」と説かれている。どんな微細なものであっても、存在の真如(菩提)でないものなどはない、ということを信じなければならない。

 一、禅・教・律・真言などの祖師はすべて「翁」と御一体であること。達磨大師が東方に渡ってこられようとしたときのこと、聖徳太子の前世である中国人の衡山思禅士に向かって、自分はきっと日本に渡りましょうと誓って、まず印度から中国までやってこられたのではあったが、禅の教えはまだ時機が熟さなかったので、いらっしゃることができなかった。その後、太子は厩戸にお生まれになったが、これも達磨大師が馬に生まれて太子のご誕生を待ち受けていたためであった。そのとき馬になった達磨大師は大いにお喜びになったと言う。そのためにお誕生とまったく同時に二人のご対面があったわけで、ここから厩戸皇子と申しあげることになったのである。太子三十八歳のとき、勝鬘経をお説きになられたときのことであるが、池の蛙がいっせいに歓喜の声で鳴き出した。池の蛙こそ、達磨大師の化身であったのだった。太子はまた、片岡山の道ばたに伏す一人の乞食にお会いになったことがある。このときは達磨大師は真実のお姿を現されていた。太子はその乞食にこう歌いかけた。「しなてるや片岡山の飯に飢ゑて、臥せる旅人あはれ親なし」。すると達磨大師である乞食はこう返した。「いかるがや富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名は忘れめ」。このように内面を相照らしあった二人は、たがいに師となり弟子となって、教えあったお姿などを見ても、衆生を救済するための方便に違いなく、「わが大君の」の歌からは、太子と大師はともに「翁」の霊妙なる働きを体現したお方たちだったことが、知られるのである。このように「禅」と「翁」は御一体である。 「教」とは円融三諦を説く天台教学のことであるが、これを興されたのは伝教大師最澄である。法華経が根本教典であるが、そこに説かれた薬王菩薩が伝教大師となってやってこられたのである。根本中堂に安置されたご本尊医王善逝も同じようにして、「翁」と御一体であったことは、隠れようもないことである。「律」は興正菩薩の興された律の教えであるが、この方が亡くなられたのかそうでないのかは、謎に包まれている。ある秘伝には、春日神社一ノ御殿に入って、そのままお隠れになったという。それならば「翁」の作用身ということになろう。 「真言」は、弘法大師空海の広めた神秘の教えである。真言はまことに不思議な仏の教えである。本地は胎蔵界・金剛界両部の曼陀羅であり、覚王はかの大日如来である。つまり「翁」の肉体身でいらっしゃる。ほかの祖師は肉身そのまま三昧の禅定に入られることはなかった。弘法大師はまことに、即身成仏というものの機密をあらわにして見せられたのだ。神秘に包まれた実習について、口外は禁じられている。ほかの祖師や先徳についても、以上の例にのっとって理解なさい。それらの内面の悟りを深く理解し、外面にあらわれるふるまいをよくわきまえ、言葉に表現されたもの(事相)を通じて、その奥に潜んでいる存在の真理(理相)を理解してほしいものである。 

一、諸天・諸明王はみな「翁」と御一体であるとは言いながら、ことに摩利支天の顕現の姿は日輪でいらっしゃる。すなわち「宿神」にほかならない。歓喜天の尊容は、まさに荒神と同一であって、すなわち「翁」である。ことに歓喜天は性愛の道を守り、天地に遍在している。これについては、秘伝が別にある。弁財天もまた御一体である。愛染明王・不動明王については、大日如来の二つの変化身であるが、この秘密についてはあきらかにしないでおこう。五大尊(五大明王)、四天王、これまた御一体である。 

一、地蔵菩薩は春日明神の本地の中でも、とりわけ方便のために処々方々に示現して、巷にあふれている。国土草木はみなこの尊のお姿にほかならない。「地」は顕在化する金剛界をあらわし、「蔵」は陰伏する胎蔵界をしめし、いずれを考えてみても大日如来の変化である。ここにいたって世界を見渡してみれば、有情のものも無情のものも、ありとあらゆるものが「翁」なのだと会得される。 一、法華経二十八品の文章は、すべて引用申しあげるべき重要なものである。序文に列挙されている諸仏・諸王の名前を見てみると、「王」の文字がたくさんあらわれている。また提婆品には天王如来についての記述もある。そこに登場する龍女成仏のくだりにいたっては、「妙・法」を分解訓読して「少・女・氵・去=少女の水を去る」蓮華経つまり妙法蓮華経と題しているところを見ても、この龍女がとても深遠な意味を含んでいるのがわかる。衆生は三毒の妄想の力によって、本来の悟った心を眩まされてしまうのであるが、その三毒の手本として、御年八歳の龍女がとりあげられているのである。まず三毒のうちの「貪欲」は女性の形としてしめされ、「怒り」は蛇体としてしめされる。「愚かさ」は幼い姿として表現されている。この三毒をしめす姿のままで、鱗を重ね、頭上には角を生やしながら、即身成仏の機会を得て、霊山の説法所に至り、宇宙全体の価値を持つといわれる如意宝珠を如来に奉ったのであった。すると如来は即座にそれをお受け取りになった。その様子を見ても、龍女の成仏は疑いがないものと見える。その場にいた智積菩薩はこのことを知らなかった。龍女はそのまま男に変容して(変成男子)、南方無垢世界に到達したのである。釈尊と龍女は、このように金剛界と胎蔵界の両尊である。つまり「翁」と等しいということである。提婆と龍女の心の本性は、生命活動を方便として用いて悟りにいたる「翁」の本意をあらわしているものと、理解することができる。その理由は、提婆は男子でしかも悪逆の心をもっていたが、一念発起して菩提心の道に精進することによって、教典に特別な記載を得たからである。これは、男子の姿を変えないで、そのまま成仏にいたったという手本をしめしている。龍女もまた三毒の主であるけれども、女性としての姿を変えないで、そのまま即座に即身成仏を実現した。聖俗の姿を変えないままに、ともに悟りの縁を得たこと、これも唯一心のなせるわざである。  ところで、神祇は正直をもっぱらの宗旨となさっているので、出家僧は自然とお参りしなくなっている。出家によらず、ただ世俗のすがたのままで、直接に天地がまだ未分化であった開闢の時をお示しになるのが、神である。ところが時代が下って、人の心も汚染されてしまってからは、釈迦如来(西天の真人)に教えをお譲り申しあげて、御神託をすっかりやめてしまわれたのである。人の心がすっかり衰弱して下劣になっていくにしたがい、髪を剃り衣を染めて、仏教を敬って、末世の人々を導かれようと神々はなさったのであった。神祇もこれにならって、仏法を崇め、衆生の救済をおこなってきた。おおもとの神の自然体に到達していれば、末法の世界におそれを抱く必要はない。しかし、それを会得できないのであれば、末法の世界を嘆いて、仏法を尊み申しあげるのがいいだろう。このあたりのことをよく理解して、天地の内密の真理に基づいて、「翁」の化身である俗体は演じられなければならない。 

 一、以上説き来ったように、「翁」は日月星宿が人の心に宿ったものなのである。つまり、あらゆる人がそれを心に宿していながら、そのことを知っていると知らないとの違いがあるのである。返す返すも、人々の心とはそのようなものである。それを知らなければ、真理から遠ざかっていくことをおそれるべきである。これについて、さまざまに工夫し、思考を深めていきなさい。 (以下は、坂十仏著『伊勢太神宮参詣記』からの引用につき省略)



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 それにしても、禅竹が『明宿集』という奇跡のような内容をもった書物をひそかに書き著していたとは、当の金春家の人々ばかりではなく、能楽史の専門家でさえ、想像もしなかったことだった。それが昭和三十九年に、偶然に発見された。そのときの様子を金春家の御当主、金春信高氏は次のように書いている。  その後、表(章)さんと、その友人で禅竹研究に大きな業績を立てておられた伊藤さんとが協力して、金春関係の伝書を公刊する話が具体化し、その調査などのため、東京へ転じた拙宅へしばしば表さんが訪ねてくる様になつたが、どんなに忙しい時でも、私は表さんを歓迎し、長々とおしやべりしては、家内に笑われた。ところで、表さんは自分の専門以外の事にはほとんど関心を示さない。自然、話題はすべて能楽の、しかも歴史的な事に限られていた。その面については打てば響く様に応対する表さんの態度は、いつも自信にみちみちていて、いかなる事態にも動ずる事がない様に見えた。ところが、ある日、そんな表さんを動揺させ、生つばを飲ませる様な事件が発生した。すなわち、新資料『明宿集』の発見である。

  昭和三十九年の暮近く、私は、表さんに見せるべく蔵書の整理をしていた時、ヨレヨレになつた数枚の反古紙を見つけ、何だか見覚えのある字だなと思い、すぐにそれが禅竹自筆の『六輪一露秘注』(寛正本)の字に似ている事に気がついた。急いで『六輪一露秘注』と比較してみると、実によく似ている。これはヒヨツとすると禅竹自筆の伝書かも知れないぞとは思つたが、禅竹にしては内容があまりにも故事つけ過ぎるので、半信半疑な気持であつた。表さんが来た時、早速、私は例の反古紙を見せた。表さんは、ホーと言う様に落ちついた態度で反古紙を見て、「なるほど禅竹の字のようですね」と言う。勢いを得た私は具体的に似ている点をセカセカと説明した。それにとりあわず、静かに内容を読んでいた表さんの眼が次第に輝き、時々生つばを飲んでは、食い入る様に紙面を見つめている。その様子が唯事ではない。私も胸がドキドキして来た。そして、「どうです、禅竹でしよう」とか、「こんな内容のものを他で見た事がありますか」などと、遠慮しながら尋ねたりした。しかし、エヽとか、イヽエとか返事する表さんの様子は全く上の空と言つた感じで、一向に目は紙面から離れない。やがて、顔を上げた表さんは、「まさしく禅竹です。惜しいことに途中が飛んでいて七枚しかありません、どこかに残りがありませんか」と言つた。その時はもういつもの表さんに戻つていた。私が内容の不審な点を指摘すると、表さんはキツパリと否定して、世阿弥にも似た考えがあることや、禅竹の他の伝書との共通点を例を上げて説明し、内容から見ても禅竹著述に相違ないと断言し、奈良の宝山寺にある禅竹の文書もこれと同様の紙質である事をも言い添えた。それで私も、これが禅竹自筆伝書であることに確信を持つことができたのである。その後、残りの四枚も、奈良に残してあつた文書の中から発見されたので、ここに、金春禅竹自筆の著述『明宿集』全十一枚の全貌が明らかになり、全くの新資料として、本書にも収録されているのである。(表章・伊藤正義校注『金春古伝書集成』)[『動かぬ故に能という』99頁]

  多くの専門家たちを驚かせたのは、そこに「翁」が宿神であり、宿神とは天体の中心である北極星であり、宇宙の根源である「隠された王」であるという主張が、はっきりと書きつけられていたことである。私たちはこの書物をとおして、はじめて中世に宿神と呼ばれていた芸能の神=精霊の活動について、なまなましくも正確な知識を得ることができるのである。この書物に書かれていることを出発点にして、私たちはとてつもない精神の冒険に旅立つことができる。『明宿集』は日本文化が発掘した、ある種の『ナグ・ハマディ文書』なのである。



ミシャグジ信仰:洩矢神と守矢氏とともに

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2021/2/27 -日本とイスラエルの古代史は融合できるとする説があります。実は、ミシャグジもユダヤ民族と関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名 ...


幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体 ...

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2019/11/13 -タケミナカタが古事記で創作された神で、もともと諏訪明神とは非業の死を遂げた豪族・物部守屋を祖ともする守矢氏により祀られる憑き神「ミシャグチ」が、 ...


「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」 - Tumblr

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ミシャグチはユダヤとの関連があるということで調べ始めたのだが、「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」という事実を知り、日ユ同祖論こそがミシャグチの ...


同化ユダヤ人のすばらしい日本への貢献 | 書籍案内 - 文芸社

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クナトノ大神やミシャグチ神、摩多羅神の姿を通して、同化ユダヤ人の実像が浮かび上がる! 定価:1,980円 (本体 1,800円). 判型:四六並. ページ数:220. 発刊日:2024/05 ...


建御名方神、物部氏(守屋)の関係・・・・ミシャグチ、ユダヤ

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2010/4/13-回答 4 件

間違っているかもしれません。 洩矢神諏訪の土着の神で、御頭祭はこの神様の神事。ユダヤに似た伝承あり。洩矢神社(岡野市)は守屋山を御神体とする。 建 ...

ユダヤ教、旧約聖書と、日本の神道との共通点について調べ ...-2010年5月12日

ミシャクジって何ですか? - 蛇なんですか?石 ... - Yahoo!知恵袋-2021年4月25日

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日本神道=ヘブライ? - あ や し い 書 簡 箋

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2010/6/28 -何やらユダヤ(イスラム~ヘブライ)と関係がある・・・などとも云われ、ミシャグチをヘブライ語にすると、「イサクの犠牲」。 旧約聖書「創世記」では、 ...


信じられないほどの執念・情念・信仰をもつユダヤ系渡来人

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  2. >歴史・地理

2020/9/27 -生贄の祭りがあり、幼子が登場する。神社の古い神様の名前を「ミシャグチ」神といい、名前の謂れははっきりしない。生贄はこの神に関わるものである ...


御頭祭 - 日本文化海外普及協会

  1. https://japan-pr.jimdo.com
  2. >神社グループ
  3. >御頭祭

しかし、ミシャグチ神は蛇神とされており、イサクもアブラハムも蛇神ではなく、ユダヤ教やキリスト教では、蛇は悪の存在です。蛇が神様扱いなのは東洋ですが、人類初の文明 ...

14:33

ユダヤの痕跡!?諏訪大社のヤバすぎる〝儀式〟の真実とは!

  1. https://www.youtube.com
  2. >watch

... たことがありました。 16:45. Go to channel · 【諏訪大社】絶対に深掘りしてはならない〝ミシャグジ信仰〟の真実! TOLAND VLOG•176K views · 9:44. Go ...

YouTube-TOLAND VLOG

2022/3/25


吉備津神社 七十五膳据神事の七十五の起源についての考察

PDF
  1. http://kiwarabi.html.xdomain.jp
  2. >...

2015/5/23 -諏訪大社の祭政体はミシャグチ神と呼ばれている。 ... んさい・古代ユダヤ教で,生け贄の動物を祭壇で ... イスラエルの失われた十支族の一支族の信濃渡来とは ...

時刻: 5月 16, 2024
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