第21節 四天王寺の舞楽 滑稽・猥雑な所作
四天王寺の舞楽の沿革については、かつて四天王寺貫主だった木下寂善の記述がある。それによると推古天皇以前は主として三韓の楽が伝えられていたが、聖徳太子が小野妹子を隋に遣わし、留学生を送って以来、平安朝の初期までは中国から唐楽が伝えられた。そこで文武天皇の時には雅楽寮を置いて伎楽を司らせた。日本の古楽は大歌所の所管となり、雅楽寮では外国のものだけを扱った。聖武天皇の御代に南天竺の菩提那林邑の仏哲が渡来して大安寺に属し、印度舞すなわち林邑楽を伝え、桓武天皇の頃には、渤海楽が伝わった。平安朝の中頃に雅楽寮が楽所となり舞楽も日本的なものになってきた。これを業とする家柄がすでに平安朝の頃から定まっていた。これは聖徳太子が舞楽を奨励して、これを学ぶものには、課役を免ぜられたのに始まり、後代には諸寺の斎会には必ず舞楽を併せ演ずるようにさせたからであるという。 京都には、代々神楽を専門にやっていた多氏、豊原氏(今は豊氏という)、また安倍氏や大神氏(今は山井氏という)など神楽のヒチリキや笛の家柄があった。
奈良には狛氏があった。高麗から来た家柄といい、山城狛という所に住んでいたから姓を狛というとも伝えられている。左舞の家柄でさらに分かれて上氏、芝氏、奥氏、窪氏、久保氏、辻氏等となった。
大阪天王寺の専属の楽人は秦氏を名乗っていたので天王寺流の舞楽を「秦姓の舞」と称した。朝鮮、印度、中国などの外国舞楽を専門となし、薗氏、林氏、東儀氏、岡氏の四氏がこの家から分かれた。
ここで伎楽について云えば、朝廷の儀式に演じられる外来の仮面劇と思われがちだが、その内容は、西域の異民族の日常を滑稽かつ猥雑な所作に反映させたものが少なくない。それに輪をかけて演者たちの趣向が凝らされて、観客をひきつける力をもっていた。
林屋辰三郎は、鎌倉時代の「教訓抄」によると「伎楽」として「師子、呉公、迦楼羅、金剛、波羅門、崑崙、力士、大孤、酔胡」の九種と唐楽の「武徳楽」があると挙げている。 この楽舞に必要な伎楽面の一般的なセットは、この九種に「師子児、治道」を加えて十一具ということでほぼ一致している。したがって、伎楽はこの仮面をつけて行われる演伎であるとして、林屋はさらに各演曲について次のように簡単にコメントを施している。
一 「治道」は行列の先頭に立つ露払いのきわめて特徴的な鼻高面である。 二 「師子」は師子の手綱をとる師子児。 三 「呉公」は呉女に対する貴公子の登場。 四 「迦楼羅」は毒蛇を食う霊鳥の風姿。 五 「崑崙」は南方黒人の奴で、呉女に懸想して、陽物を打ちふる仕草をして、やがて金剛、力士によって制裁を受ける。 六 「波羅門」はインドの四姓の最上位の階級にある僧侶、学者たちだが、これらが襁褓を洗濯する場面を見せて、揶揄される。 七 「大孤」は継子の孤児二人を脇につれて、危なげな老歩を仏前にはこぶ寸劇。 八 「酔胡」は酔胡王と酔胡従八人と一緒になって胡人の酔態を演ずる。
この林屋のコメントから分かるように、伎楽の曲目のほとんどすべてに観客の哄笑をひき出す猥雑で滑稽な仕草や場面が見られる。あとで見る「採桑老」がくりかえし所望されて演じられたのも、それに含まれた庶民的で日常性の濃い所作が観客に親しみを与えずには置かなかったからである。 とくに注目されるのは鎌倉時代に大内楽所において演奏されなくなった曲目が、四天王寺に伝えられている場合が多いことである。林屋が指摘しているところでは、たとえば、「蘇莫者」という曲は、天王寺の舞人のほかは舞わぬ舞であるとされていた。「蘇莫者」が敬遠されたのは、「龍鳳抄」によると、舞の体が黄色の蓑を着た金色の猿の形であるということで、その舞容が賤しめられたところにあるという。 また「還城楽」にしても、蛇を手に取って舞うという甚だグロテスクな舞であった。演者は顔面に朱を注ぎ、憤怒のいかめしい面をつけ、蛇を真中に置き、輪を作って舞い、遂には蛇をわしづかみにする。次に蛇を振りまわし、歓喜の姿で乱舞する。この舞楽は、西域の人が好んで蛇を食するところから、蛇を捕えて悦ぶさまをあらわしたものともいわれ、一名「見蛇楽」とも称された。「還城楽」については、中国の玄宗皇帝が韋后の乱を平定し、夜おそく帰城したときに作ったという言い伝えがあるが「還城楽」と「見蛇楽」が同じ発音であるために、混乱して呼称されたのではないかとも云われている。宇治殿(藤原頼通)の童舞では「マコトノ蛇形ハウトマシキ也」として、蛇のかわりに紙の輪を用い、やがてはススキや女郎花を折って輪にして舞ったという位で、上品な舞とは云いがたいが、未開人の土着的な踊りを源流とした庶民的な色彩の濃いもので、四天王寺の舞楽にも伝えられたのであった。そうした舞楽のもっとも代表的な例が次に見る「採桑老」である。 採桑老の舞 この舞については舞人の多資忠とその子の時方が山村吉貞・政連父子のために殺害されるという事件から始めねばならない。多資忠は舞の名手であった。寛治二年(一〇八八)十月、法勝寺で、「採桑老」をはじめて舞って絶賛されている。多資忠が殺害されたのは康和二年(一一〇〇)六月十五日の夜半である。この事件は公家社会に大きな衝撃を与えた。
多資忠の祖父は多正方である。多正方の弟は秦公信である。秦公信は「鼻ヲカム手」を始めて「採桑老」にとり入れた舞人である。秦公信は自分の子の秦公定(公貞)に「採桑老」を伝授した。秦公定は、白河院の仰せで「採桑老」を多資忠の子である多近方に伝授した。多近方は多資忠が殺害されたのち、秦公定の子となっている。林屋辰三郎はこの間の入り組んだ人脈を「採桑老相承」の系図に次のように示している。 「採桑老」に手鼻をかむことを所作する「鼻ヲカム手」をとり入れたのは秦公信である。その子の秦公定(公貞)は、元永元年(一一一八)宇治一切経会で舞楽があったとき、「採桑老」を舞っている。 この会の模様を「中右記」は書き留めている。それによると、複数の楽人が舞い終って退出する段になって、豊原時元や狛行高はそれぞれ五領の纏頭を与えられた。つまり衣裳五領を賜った。天王寺の舞人である秦公定には衣裳一領が下された。散所の楽人はもともとこうした会には参加しなかったが、今日は公定の「採桑老」の舞が特別によかったので、衣服を下賜されたのである、と述べている。
これについて、林家辰三郎は次のように言及している。 「この記事(「中右記」)のなかでも、公定は楽人とも舞人とも書いているので、ここでは楽人・舞人の両者が特別に使いわけられていないことが知られるのであるが、かれは『採桑老』を舞って感興を与えたにかかわらず、纏頭一領であった。……それもこのような纏頭にはふつう散所楽人はかかわらないのだが、特に議あって最低の纏頭が行なわれたというのである。この記事は天王寺楽人が散所楽人であり、ふつうは褒賞からも除外される存在であったことを示していると思う」(「中世芸能史の研究」)
その翌年の元永二年(一一一九)十月、白河院が北面で舞を叡覧したときもやはり秦公定が「採桑老」を舞った。しかし、その答舞である林賀の上演をめぐって「天王寺舞、答舞は勅仕せざる事也」という意見が出されたという。結局のところ、然りと雖も許容なく、仍これを舞うことで納まったが、このような些細なやりとりのなかにも、四天王寺楽人に対する冷遇の実態がうかがわれると、守屋毅は「日本芸能史(第二巻)」の中で述べている。
他の寺院の楽人が四天王寺舞人と共演することは仲間から擯斥されたのであった。 「楽所補任」によれば、天養元年(一一四四)八月十五日の放生会で、右近府生行貞(狛行貞)という楽人を、左右の舞人(楽人)らが相談して、ついに「擯出」してしまったという。大内楽所の構成員が行貞を追放したのは、狛行貞が近来、天王寺に居住しており、彼寺天王寺の楽人舞人と同座しているのは、これまで例がない、という理由によってであった。しかし、狛行貞は制止を加えられても承知せず、追放されたのちは、天王寺に住んで、天王寺の舞人として、七十五歳で死んでいる。これまで見たように、四天王寺の楽人・舞人は明らかに差別されていた。
狛行貞は興福寺楽家に所属している狛氏の一族と思われる。狛氏は左方舞を担当した。これに対して、右方舞を舞った多氏は大内(宮中)の楽所に所属していた。「左右の舞人」とあるのは、左舞の狛氏と右舞の多氏が手を組んで、狛行貞を追放したことをいうのであろう。 「『楽所補任』には、天永元年(一一一〇)から弘長二年(一二六二)までにわたって大内楽所に採用された楽人の名を記しているが、そこには時として、興福寺の狛氏をはじめ、薬師寺・東大寺あるいは八幡などの楽人が招かれる例を多々見るにもかかわらず、四天王寺楽人の任用は、少なくともこの間、一件も見出せないのである。それらは、彼らの技量が拙かったからではなく、いやむしろ演技面では優れた実力を有しながら、彼らが『散所楽人』と呼ばれることがあったような、その隷属的身分による差別的処遇であったと考えられている」(「日本芸能史」2)
しかし四天王寺の舞には他に見られない特徴と魅力があった。
林屋は次の点を指摘している。 「元来、『採桑老』は桑を採摘する老翁の姿を模しているので、五十にして衰老に至り、六十は行歩宜しきも七十にして杖に懸りて立ち、八十にて座巍々、九十にして病を得、百にして死疑無しというような推移をうつし出すのであるから、この『鼻ヲカム手』というのは、老翁を現わすにふさわしいはなはだ写実的な演技であるといわねばならない。しかしそこにはやや滑稽を伴なうので宮廷では考えおよばれない芸能だが、天王寺においてはこれをよくなしえて、この舞をきわめていきいきしたものにしたと考えられる」(「中世芸能史の研究」)
吉田兼好は「徒然草」の中で、 「何事も辺土は、賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ、都に恥ぢず」 と高く評価している。この評価からみれば、四天王寺の舞は卑近なテーマを演目の中に取り入れたが、けっして野卑ではなかったということが分かる。しかしながら、それでもなお社会的には疎外されたままであった。その理由を林屋は三つ挙げている。
一つには、四天王寺じしんが国家的保護をはなれ、むしろ太子の遺跡として社会的事業に重点を置き、かつ浄土教信仰の中心となったといういきさつが、他の諸寺の動向とはおのずから異なるものであったということ(つまり興福寺のように、背景に摂関家のような政治的勢力をもたなかったこと)。
二つには、四天王寺の地理的環境からも、中国からの帰化人がこの付近に多く居を占め、天王寺楽人もほとんど秦氏であったという点。
三つめには、四天王寺の楽人が散所の楽人として、音楽を提供するかわりに課役を免ぜられるという、四天王寺への隷属的地位に置かれていたということ。
このうち、第一と第二は、四天王寺の楽人が他寺の楽人より低く見られたとしても、林屋が指摘するように、疎外され排斥されるまでになった理由としては充分とは思えない。四天王寺楽人のほとんどが秦氏であったということが、執拗に擯斥された理由とは考えにくい。秦氏は多氏や狛氏と共に、楽家として認められていた。
また「四天王寺年表」(棚橋利光編)を開けば、平安・鎌倉時代に朝廷や貴顕の信仰が篤く、多くの高僧も四天王寺を訪れているのを知ることができる。もし四天王寺の楽人が排斥された理由を考えるとすれば、四天王寺の楽人が散所の楽人であったことが決定的であったと思われる。 それについて林屋は次のように述べている。 「平安時代中期以後、荘園領主たる貴族・社寺は、自己の荘園と並んで散所を領有するようになっていた。散所は、元来領主がその住民に対して清掃・駕輿丁・運搬その他の雑役を負担せしめるために、領主の直下や交通の要衝、さては荘園内部におかれた年貢免除の土地をいうのだろうが、やがてその住民じたいを指すようになったのである。ところで、天王寺もまた散所をその付近に設けており、天王寺楽人はその散所に属せしめられていたのであった。他寺の楽人は、その境遇としては天王寺に比してあまり変わらない場合にしても、特に散所民とは規定されていなかった。天王寺の場合そうした身分を明確化している点で、はなはだ特徴的であったと思われる。こんにち大阪市天王寺区の西南、四天王寺域に近く伶人町なる町名をのこしているところがある。この地はその名の示すように、近世まで天王寺の楽人らの居住地であったところである」(林屋、前掲書)
四天王寺楽人と大和猿楽者
これまで、天王寺楽人が大内の楽人と同席を拒まれた状態であったことを述べてきたが、「明宿集」に秦河勝の子孫に三流あり、一は武人、二は猿楽、三は天王寺の楽人とあるように、秦河勝を先祖と仰ぐ円満井座の猿楽者と天王寺の楽人との間には根強い結縁意識があった、と服部幸雄は推測している(「宿神論」)。
服部によれば、興福寺に所属して芸能の奉仕に従った円満井座の大和猿楽の芸能民が興福寺楽人とは近づかず、積極的に四天王寺楽人との結縁関係を強調しているのは、同じ秦姓を名のる彼らの散所民として置かれた処遇の共通による一族共同体的意識によるところが大きかったといえるだろうとして、その例に観世流の番外曲として伝わった謡曲「上宮太子」をあげる。「上宮太子」の後ジテ聖徳太子が四天王寺の舞楽の由来を説いて次のように言う。 「げに伝え聞くこの楽を。……又我が朝に伝へしは、推古天皇の御時、百済国の伶人、来りて舞楽管弦の、秘曲を伝へ尽しければ、其時我も悦びて、普く四方に弘めけり。四天王寺の楽人も、此時よりぞ始まれり。」 これを見ても、四天王寺の楽人の秦氏と円満井座の猿楽の金春の家とは、ともに河勝を守護神と仰いだ芸能民であり、あたかも兄弟のような強固な同族意識をもっていたことが推測できる。 四天王寺舞楽の芸能は、同じ舞楽ではあっても、大内の舞楽とはちがって、庶民的であり、滑稽、物真似的要素を含んでいる。このことも、彼ら楽人の置かれた散所民としての社会的地位と無関係ではなく、より散楽的な、その意味で猿楽に相通ずる性格を備えていたことは、猿楽芸能民の芸とその質を同じくするものであった、と服部は述べている。彼はさらに次のように強調する。 「平安時代以降に登場した多数の芸能民の中に秦姓を名のる一群があり、いずれも社会的に差別され、卑賤視されながらも、迫害に耐えて芸能を創造し伝承するわざに従ってきた。しかし秦氏が帰化人の後裔であるという理由で、差別されたのではない。そのことは、秦氏の後裔であると高唱することが、彼ら芸能民たちの誇りとさえなっていたことでも明らかである」と。暗に林屋説を批判した服部説に私は賛意を表する。 三方楽人 しかし時代は移り、社会にも大きな変動が訪れた。応仁元年(一四六七)からおよそ十年の間、京都は戦乱の巷と化した。その大乱は日本史を二分するほどの節目であった。それからさらに百年、京都を中心として芸能文化の構図にもこれまでに見られない現象が出現した。 天正五年(一五七七)から六年にかけて、四天王寺楽人の立場に大きな変化が見られることになったと南谷美保は云う(「天王寺楽所史料」序)。
南谷によれば、その経緯のあらましは次の通りである。応仁の乱以後、ともすれば不足しがちであった京都の楽人を補充するものとして、初めて天王寺楽人の中から、禁裏より官位を賜わり、京都に住まいする禁裏付きの楽人が召し出された。最初は数名にすぎなかったが、江戸初期には、京都、奈良、天王寺のそれぞれに等しく、十七家が楽家として認められるに至った。近世に、宮中に勅仕する雅楽家には三つの系統があった。宮廷直属の京都方と興福寺所属の南都方、それに四天王寺所属の天王寺方の楽人である。これらを総称して三方楽人と呼んだ。 これまで社会的に差別され、卑賤視されてきた天王寺楽人は、古くから宮中に出仕していた京都及び奈良の楽人たちと知行配当についても対等の地位を得るに至った。この時代の四天王寺の楽人の立場は、中世までのものとは全く異なるものとなった。天王寺楽人たちと四天王寺との関係は途絶えることはなかったが、京都住まいをして主に禁裏関係の業務に日常的に携わる楽人と、主に四天王寺での演奏をおこないながら、必要があれば京都へも上る楽人とに分かれた。天王寺楽所の楽人たちは、江戸時代の初めには、すでに、林、東儀、岡、薗の四家に分かれていたが、この四家がさらに分かれて出来た十七家が、ひとしく官位を頂戴し、それぞれの家が京都と大坂とに分かれて住まいしていたのである、と南谷は述べている。
このあと、四天王寺楽人は四天王寺の隷属を脱しようとして寺側と交渉をくりかえし、はげしい争論に及んだ。それはながい間、「散所の楽人」として蔑視された四天王寺の楽人が、時代の変遷とそれに伴う待遇の問題に目ざめた当然の自己主張であり、みずからの自由と権利を求めての折衝であった。 四天王寺の西北方に伶人町の町名が残っている。ここは明治になるまで、東儀、岡、林、薗などかつての秦姓の伶人諸家が居住していたところである。これら楽人は、四天王寺にいても、自分は四天王寺に仕えているのではなく、御所に仕えているのだ。つまり御所の楽人であるという誇りをもっていた。 三方楽人は御所に奉仕するとともに、江戸幕府によって、江戸城内紅葉山に集められ、紅葉山楽人として活動していたが、明治になると、三方楽人も紅葉山楽人も一括して、宮内省式部職に楽部を置いて奉仕させられることになった。 宮内省に呼ばれて天王寺楽人たちは上京したが、任命の辞令がなかなか下りないのに待ちくたびれ、しびれを切らして、大阪に帰ってきた人たちがいた。その人たちを中心にして、万延元年二月以来途絶えていた聖霊会の舞楽法要が、明治十二年二月、十九年ぶりに復興され、今日にいたっているのである。 第IV章 永奴婢の末裔
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第19節 秦河勝の命運 河勝の亡命地
秦河勝は伝承の靄につつまれた人物の趣きを呈しているが、れっきとした実在の人間である。「日本書紀」には、推古十八年十月、新羅と任那の使者がみやこにやってきた際、秦河勝が新羅の客を朝廷に誘導したと記している。秦氏が朝鮮半島(それも新羅か加羅あたりから)の渡来氏族であることを考えると、秦河勝が外交の衝にあたったことはまことにふさわしい役目であったことはまちがいない。 その秦河勝が聖徳太子と親交のあったこともよく知られている。「日本書紀」には推古十一年十一月に、聖徳太子から与えられた仏像を本尊として、広隆寺は秦氏の氏寺となった。また、聖徳太子が没して一年余の推古天皇三十一年七月には、新羅、任那(加羅)から仏像、金塔、舎利、灌頂幡などが送られてきた。仏像は「葛野の秦寺」である広隆寺に、またほかの仏具は難波の四天王寺に納めた、と「日本書紀」は述べている。これらは聖徳太子の供養のための贈物だったかも知れない。
ここに「秦寺」とあるからには、河勝の指図によることはたしかである。
しかし秦河勝と聖徳太子との親密な関係は、太子没後、彼の置かれた社会的、政治的立場を危うくさせることにもなった。蘇我蝦夷・入鹿は聖徳太子の嫡子である山背大兄王と秦河勝の関係に警戒の眼を向けていた。
秦河勝が大生部多に制裁を加えたと「日本書紀」にあるのは、皇極天皇三年(六四四)のことである。これによって、河勝がこの頃まで健在であったことがたしかめられる。しかし当時の政治情勢はけっしておだやかではなかった。この頃、蘇我蝦夷・入鹿父子の横暴は眼に余るものがあった。前年の皇極二年(六四三)には、蝦夷はひそかに紫冠を子の入鹿に授け、大臣に擬する不遜な振舞いも見られた。その年、山背大兄王が入鹿によって殺されるのを河勝は目のあたりにしている。
山背大兄王の側近の三輪文屋君は、山背大兄王に深草の屯倉にのがれ、そこから馬で東国に行き、再起をはかることをすすめている。秦河勝の根拠地の太秦と深草は近いところにある。山城国の深草は、京都市伏見区深草稲荷から深草大亀谷にかけての地で、山城国の葛野郡太秦に次ぐ秦氏の有力な根拠地であった。深草にいた秦大津父は欽明帝に寵愛され、大蔵の管理出納をまかされた。三輪文屋君は山背大兄王に秦氏を頼れと進言したにひとしい。そこで入鹿の迫害が及んでくることをひしと感じた河勝は身の危険を避けるために太秦をはなれ、ひそかに難波から孤舟に身をゆだねて西播磨にのがれ、秦氏がつちかった土地に隠棲したと推測される伝承が伝えられている。世阿弥の「風姿花伝」並びに世阿弥の娘婿の禅竹の「明宿集」にその記述が見られる。 「風姿花伝」神儀篇にいわく、
彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ〔奉り〕、此芸をば子孫に伝へ、〔化人〕跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変(れ)り。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。「大きに荒るゝ」と書きて、大荒大明神と名付く。今の代に霊験あらた也。
とある。
この箇所を「明宿集」は次のごとく記している。
業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空舟ニ乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。蜑人舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当所近離ニ憑キ祟リ給シカバ、大キニ荒ル神ト申ス。スナワチ大荒神ニテマシマス也。
「風姿花伝」には「化人跡を留めぬ」とあり、「明宿集」には「世ヲ背キ」とある。これは、言外に河勝の置かれていた当時のきわめて困難な政治状況をほのめかす言葉でもある。一方河勝が播磨国での隠遁生活を目指したというのは、そこが都から遠く離れて、追手の力の及ばぬところであったという地理的条件に加えて、播磨が秦氏の一大勢力の拠点であったからでもある。つまり河勝の亡命にとって安全な土地であったからである。地元では、河勝は大化三年(六四七)に八十三歳で播磨国の坂越で死んだと伝えられてもいるが、もとより伝承の域を出るものではない。また河勝は播磨国で不遇な晩年を送り、死後は霊神となって、諸人に憑き、祟りをなしたと、「風姿花伝」も「明宿集」も述べているが、それは河勝の荒びた晩年の心境を伝えたものであろう。 サクは裂くこと さて、秦河勝が漂着した西播磨の坂越という地名は、「風姿花伝」や「明宿集」ではシャクシと読ませているが、現在はサコシと呼んでいる。シャクシやサコシは柳田国男の説にしたがえば、外部から悪霊が侵入するのを遮るという意味をもっている。境や関所などに多く見られる地名には、坂越のほかに、さまざまな漢字を宛て、左宮司、社宮司、左久神、作神、左口、石神、佐護神、尺神、社軍司、杓子神など、おびただしいが、いずれも、遮るとか、塞と同じ意味で、シャグジ、シャゴシ、サグシ、サクジンなどの呼称をもっている。柳田は「石神問答」の中で、サカ、サキ、サク、サイ、スク、スキ、ソウ、ソク、ソコなどが同一語源からいろいろと分化した語であって、それらの語はすべて隔絶の義があるとしている。播磨の坂越については柳田の説の通りと思われる。しかしこれらすべてを一括して柳田説で解釈することに、私は次の理由から疑義を呈したいのである。 「日本書紀」は雄略天皇十五年に、秦酒公に秦の民を賜うたという記事を伝えている。秦酒公は、百八十八種の勝をひきいて、租税の絹織物を朝廷に積んだので、太秦の姓を与えられた。では秦酒公の「酒」という名は何を意味するか。
京都市右京区太秦東蜂岡町に大酒神社がある。広隆寺の東にあり、広隆寺の伽藍神となっているが、もとは広隆寺桂宮院の内にあった。秦氏の氏神であり、一説では秦河勝の霊を祀るという。十月十二日夜おこなわれる広隆寺の牛祭には、牛に乗った伽藍神の摩多羅神が四天王をしたがえて現われる。大酒神社は大辟神社や、または大裂神社とも記したというから、このサケは酒ではなく、避(辟)または裂の意であると解してよい。
赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る大避神社もその一つである。「明宿集」にそこが荒神と呼ばれたとあるのは京都太秦の大酒神社を勧請したからであろう。同神社の石段の上に立つと、河勝が葬られたという坂越湾の生島が真向いに見える。大避神社は相生市若狭野町下土井にもあり、千種川流域に大小三十余の分社、分祠がある。そこは秦氏の地盤であった。 秦氏は土木事業の専門家であった。 日本各地を見渡しても秦氏とその同族によって河川が修理され、地堤がきずかれ、荒野が耕地に変えられた例は京都の大堰川(桂川)の葛野大堰(「伝暦」)のほか豊前の三角池、河内の茨田池などかず多く見られる。こうしたことから秦氏が開拓事業に活躍していたことは紛れもない。 孝謙帝の天平勝宝五年(七五三)頃、赤穂郡人の秦大炬なる者があり、坂越庄の墾生山や石塩生荘の堤を造ったが、強固でなく、またそれを修理することができなくて退却した云々の記事が見える。今井啓一は、秦大炬は河勝の三、四世の児孫ではなかろうか、と推測している。 蹴裂伝説 中山太郎が「蹴裂伝説」と名付けた伝説が、日本各地に見られる。昔、湖沼であった処を神が足で蹴り裂いて水を流し、土地を開墾したという話で、全国的に分布している。たとえば、阿蘇火口原が湖水をたたえていた時代、阿蘇大神が、数鹿流の滝のところを蹴り裂いて水を流したという。また山梨県東八代郡右左口村(現甲府市右左口町)の佐久神社は、太古、甲斐の湖の水を排して土地を開くために、山を切り裂いた神を祀るという。佐久神社の佐久は裂くの意をもつ。同じく山梨県の南巨摩郡鰍沢町の蹴裂神社も、安曇氏の祖神の日金析命を祀るという。日金析命の析は裂の意である。大分県由府市湯布院町の宇奈岐日女神社の末社として、ナベクラの地に、蹴裂神社が祀られている。湯布院盆地が湖であったとき、力自慢の道臣命(蹴裂権現)に命じて湖壁を蹴破らせて田畑を開かせたという。
また長野県の佐久では、諏訪明神の御子神が新開の神として佐久平の開拓をはじめたので新開神社(のち新海神社)に祀る。新開の地を略して「佐久」となったといわれる(「長野県の地名」)。つまり、佐久の地名の由来は、佐久盆地を切り裂いて開墾したことだと云う。
これらを見ると、神社名や地名には、切り裂いて開拓するという意味の「サク」という語が用いられている場合がある。 そこで秦酒公の「酒」や大酒、大避、大裂の名を冠する神社名は、山川を切り開き開拓する意味をもつ「裂」からはじまるのではないか、と云うのが私の考えである。古代の土木開拓事業の熟練者であった秦氏にまつわる「サカ」「サク」「サケ」などの語が、必ずしも柳田説では解釈し得ないことをここに強調して置きたいのである。 第20節 猿楽 諸座の名称
第20節 猿楽 諸座の名称 秦河勝影向の地
禅竹の「明宿集」には、秦河勝が空舟に乗って播磨国の坂越の浦に着いた後のことが記されている。それによると、河勝は坂越の浦から山の里に移って宮造りをおびただしくして、西海道を守ったと述べたのち、「山の里ヨリ、大和桜井ノ宮ニ影向シマシマス由、一説アリ」とある。山の里については、赤穂に河口をもつ千種川の中流に赤穂郡上郡町山野里がある。山野里は昔は山里、または山ノ里とも称した。今井啓一によると、以前は赤穂郡内の神社の三分の一は秦河勝を奉祀した大避社であったという。大和の桜井の宮というのは、「元興寺伽藍縁起流記資財帳」には「桜井等由羅宮」とみえる。豊浦宮は推古天皇の皇居のあったところで、のち推古十一年に、小墾田宮に遷居ののちは、豊浦寺に施入された。 一九七〇年に、今日の向原寺の本堂の傍を発掘してみると、下から豊浦寺の講堂の跡と見られる版築工事による土壁や敷石、礎石の穴などが現われた。さらにその下から、推古天皇の豊浦宮の跡と見られる石敷の舗装が見つかった。推古帝の皇居が豊浦宮から小墾田宮に移されたあと、豊浦寺が建てられ、その土地が今日の向原寺にまで引きつがれてきたことが明白になった。建物周囲に石敷舗装を施すのは飛鳥宮殿の特徴である。 この向原寺というのは、欽明帝の時代、向原にあった蘇我稲目の家を、寺に変えたものである。それを物部守屋が焼いてしまったが、のち、戸皇子が再興して、蘇我氏に賜うた。蘇我氏は葛木臣であったので葛木寺と称した。葛木寺は高市郡豊浦村にあって、豊浦寺とも云った。また向原の音がコウゲンということから広厳寺とも云った。江戸時代以来ふたたび向原寺と称して現在にいたっている。 この向原寺の傍らに桜井という井戸があった。桜井という地名はここから起った。桜井はまたの名を「榎葉井」と呼んだ。 催馬楽「葛城」に次の歌がある。
葛城の 寺の前なるや 豊浦の寺の 西なるや 榎葉井に 白璧沈くや 真白璧沈くや オシトト トオシトト
歌意は、豊浦寺(葛木寺)の西にある榎葉井(桜井)に白玉が沈んでいる、というものである。オシトト、トオシトトははやし言葉である。これとほぼ同じ歌が「日本霊異記」や「続日本紀」の宝亀元年の童謡の歌詞にも載っている。 私がここで問題にしたいのは榎葉井である。
推古紀二十四年に「掖玖人二十口来けり。先後、並せて三十人、皆朴井に安置らしむ」とある。 この「朴井」は「榎葉井」と同じで、「桜井」と一所であると「地名辞書」は言う。 崇峻紀三年三月「学問尼善信等、百済より還りて、桜井寺に侍り」とある。この桜井寺は豊浦寺のことである。これからして、桜井または榎葉井と呼ぶ井泉の近くの向原に、寺があって、それはかつて向原寺と呼ばれ、のちには桜井寺、葛木寺、広厳寺と言った。その土地が豊浦にあったから豊浦寺とも称した、ということになる。このあたりは蘇我稲目以来の本拠地であった。 しかし榎葉井、または朴井は、物部氏族の居住地でもあった。孝徳紀に、物部朴井連椎子と云う人がいた。また文武紀二年に「直広肆榎井朝臣倭麻呂、大楯を竪つ」とある。 また「旧事本紀」の「天孫本紀」には「物部荒猪連公」とその弟たちの「物部弓梓連」「物部加佐夫連公」「物部多都彦連公」はすべて「榎井臣等の祖」となっている。物部守屋は物部荒猪連にとっては、祖父の兄、つまり大伯父にあたっている。
そして物部守屋の子の物部雄君連は、榎井連小君と称した。雄君連は大海人皇子の舎人で、壬申の乱にも功績があり、天武帝から内大紫の位と氏上を賜わったという。守屋亡きあと物部氏の本流はこれから始まった。 その雄君連の本貫が榎井(榎葉井)に置かれていたことが確認できる。
この物部氏の拠点であった榎葉井(榎井)に向原寺がある。また榎葉井と同じ桜井に寺があって、そこに百済から伎楽をもたらした味摩之が居住させられていた。その寺とはたぶん向原寺であるが、そこにさらに、秦河勝の伝承が加わるのである。
推古紀二十年に、百済人味摩之が帰化し、伎楽を伝えたとある。それによると味摩之は呉国で伎楽を学んだという。呉楽というのがそれであるが、もともと古代チベットやインドの仮面劇で、西域を経て中国南朝に伝わって散楽と呼ばれたものであるという。この舞は厳粛なものではなく、滑稽卑俗なものとされている。
朝廷は味摩之を桜井に住まわせ、少年を集めて伎楽の舞を習わせた。真野首弟子、新漢済文の二人が、その舞を習い伝えたという。百済からの帰化人の味摩之は、向原寺(豊浦寺)辺に止住せしめられたと考えられる。 榎葉井から円満井へ 味摩之は一人でなく複数の百済帰化人であったという説がある。「聖徳太子伝暦」の出雲路家蔵ひらがな本には、味摩之に註して、「舞人の惣名なり上下十八人きたる」とある。つまり演技者集団の渡来があったと考えられている。林屋辰三郎は、このひらがな本は、足利氏の末期に書き下されたものらしく、けっして史料的な価値の高いものとはいえないが、しかし味摩之を渡来者集団と考えるのはきわめて自然のように思われると云っている(「中世芸能史の研究」)。
それよりはるかに時代をさかのぼる文保二年(一三一八)になった醍醐寺三宝院本「聖徳太子伝記」に「味摩之は十八人の伶人で、これに就いて学習したのは河勝とその子息五人、孫三人、秦川満とその子息二人、孫三人の十五人」と述べてある(藪田嘉一郎「新楽寺鏡銘と大和猿楽」)。
このように、味摩之渡来の頃から秦氏との関係が密接であると伝承されてきた。
したがって、四天王寺の伶人が秦河勝にはじまると「明宿集」が述べているのはとうぜんであると云わねばならぬ。四天王寺の舞人は猿楽の伝統と源流を共にしながら、もう一つの別の流れを形作ったことが、「明宿集」に述べてある。 河勝の御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初、四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。
つまり河勝の子に三人あって、一人は武芸を伝えた。長谷川党である。一人は猿楽を伝えた。円満井金春の座である。もう一人は伶人を伝えた。四天王寺の伶人(楽人)であると述べている。 「百済国より渡りし舞師味摩之妓楽を写し留めて、大和国橘寺一具、山城国太秦寺一具、摂津国天王寺一具、寄せ置く所なり」 と「教訓抄」が引く古記にある。 一具とは面や鼓笛や装束一揃いという意味であろう。ここでも河勝の意向が働いていたと推考される。また河勝一族と味摩子(味摩之)との結びつきを推測することができる。「風姿花伝」第四神儀には「大和国春日御神事相随申楽四座」として「外山 結崎 坂戸 円満井」と記されている。また「秦氏安より、光太郎、金春まで、二十九代の遠孫なり。これ、大和国円満井の座也」とある。 これを見ると秦氏安から金春まで二十九代つづいてきたのが、大和の円満井座ということになる。円満井座は秦氏安を中興の祖として連綿として続いていることに誇りをもっていた。 だが円満井という名称は何にもとづくものであるか、その解釈はすこぶる困難であると、能勢朝次は「能楽源流考」で困惑の体である。能勢は諸説を披露しているが、それらは円満井座を円満寺または円満院に由来するものとして考察しているのがすべてである。それに対して、世阿弥や禅竹の書いたものには、ことごとく「円満井」と記されている。それを見ると、「円満井」は「円満寺」の訛りであるとは云いがたい、と能勢は批判する。「むしろ逆に、円満井と聞いた所を、円満寺と書くといふ誤りの方が、可能性が多いのではあるまいか。又、金春が円満院と称する土地に住し、それを以て座名とするものであるならば、その事情の最も明かな筈の金春の記録には正しく円満寺又は円満院と記されるべく、一般的な訛りは第三者の側に起るべきではなからうか。従って、世阿弥や禅竹のものに円満井と記されたのが座名として本来で、円満寺といふのは類似連想から生じた訛りではないであらうかと思はれる。」 と反論している。しかし能勢自身の見解は何も述べておらず、お手上げの状態である。能勢が紹介した諸説の一つには、高野辰之が円満井座は、摂津三島郡吹田町にある円満寺に奉仕していた猿楽であったために、こうした座名が生まれたものであるという意見を述べている。次に小滝久雄が大和西の京(奈良市西ノ京地区)薬師寺南方の円満寺のあたりとしている説がある。さらに野々村戒三が小滝説に同調して、円満寺は古くは円満院と称せられていて、円満院が円満井に転訛したと推測している。これら高野、小滝、野々村の説に対する能勢の批判と反論は先に述べた通りである。 これらに対応して林屋辰三郎は「中世芸能史の研究」の中で、円満井座の座名は小滝・野々村両氏の考証にしたがって、西ノ京に元亨四年(一三二四)の頃までは存在した円満寺あるいは円満院という寺名から生じたものであろうとしている。それも円満寺付属の猿楽座とみるより、その周囲の円満寺と呼ばれていた地名のところに居住していたという見方をとっている。それでも能勢と同じく一抹の不安をおぼえるというので、西ノ京の円満寺という領域のなかに円満井と称する聖井があって、修正あるいは修二会が行われていたかも知れない、と推測している。林屋説はもとよりまったくの想像にすぎない。しかし実際の井戸を想定しているところに、私の説にわずかに近いものを感じる。 そこで私はこれから自説を述べてみようと思う。結論を最初に云えば、私は円満井というのは、榎葉井に由来する言葉と考えている。唐突な云い分のようであるが、かならずしもそうでない理由を次に述べる。秦河勝が大和の桜井の宮に影向したという伝承は、河勝が桜井すなわち榎葉井に神となって姿を現わし、来臨したことを意味している。あと、河勝の子孫が円満井金春大夫として猿楽を代々伝えていったことを述べているのだから、榎葉井は円満井座の象徴的な発祥の地であったと考えられる。 「明宿集」にも「昔ワ座名タビタビ変レリ。円満井ワ惣名字ノ地ナレバ、呼ンデ長久也」とあって、円満井が地名であることを認めている。 これまで述べたように、推古二十年に百済人の味摩之が来朝し帰化した際、朝廷は味摩之を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、伎楽の舞を習わせた。一方「明宿集」には一説では河勝は大和桜井ノ宮に影向したとあり、さらには秦河勝が壺に入って泊瀬川を流れ下ったとある。そこで泊瀬猿楽が根本であるとも云っている。したがって、味摩之と秦河勝はともに桜井を出発点としている。桜井は味摩之の学統を受けつぐにも、秦河勝を源流とする猿楽にも原点と呼ぶのにふさわしい場所であったのである。「明宿集」も「河勝モコノ山河ヨリ出現シマシケルヨト、感応肝ニ銘ズ」と言っている。とすれば、桜井すなわち榎葉井(朴井)を金春流の座名にしたことはいたって自然であるといわねばならない。「えのはゐ」から「えんまんゐ」への音韻の変化はごく自然で無理がない。それにあとから円満井をあて、さらに円満院という寺院名をあてたにすぎない。 秦楽寺と楽戸 円満井座は竹田座とも云った。竹田は地名であるが、その場所はどこを指すか。 奈良県磯城郡田原本町大字竹田はかつて西竹田村と呼ばれていた。西竹田村と改めたのは、同郡内の竹田村(現橿原市東竹田町)と区別するためで、もと竹田は広域の地名であった。 「大和猿楽四座の一つである金春円満井座は、座を竹田に構えたので竹田座とも称した。奈良時代の散楽戸以来、平安期の寺奴の猿楽、春日若宮祭の猿楽などで活躍した大和猿楽は、円満井座であろうといわれる。『花伝書』『円満井座法式』は円満井座猿楽の先祖を秦河勝に求め、また『本朝文粋』は河勝の子孫秦氏安を中興の祖という。これらの説は伝説的ではあるが、竹田近辺は古来秦氏一族の居住地でもあった。この竹田が、現橿原市東竹田か田原本町の西竹田かは断じ得ない。しかし西竹田近くの十六面には、往昔一六の面が天降ったことによる地名との口碑があり、十六面の近傍には往昔の金春屋敷の跡といい伝えられている所がある」と「奈良県の地名」は要領よく述べている。現在、田原本町大字十六面の地名が残っている。竹田に居をかまえて活動した金春円満井座について「風姿花伝」には次のように記している。 「氏安より相伝へたる聖徳太子の御作の鬼面、春日の御神影、仏舎利、是三、この家に伝はる所なり」 とある。また「申楽談儀」には、 「大和、竹田の座、出合の座、宝生の座と、うち入〳〵あり。竹田には(河勝よりの)根本の面など、重代あり。」 とある。「根本の面」とは「風姿花伝」にある「聖徳太子の御作の鬼面」のことである。さきに天から面が降ってきたという伝承の十六面という地名もこれに由縁するのであろう。 下間少進の伝書を写し伝えたという奥書のある「風姿花伝」の、大和の猿楽四座を記した条に次の文章がある。 「金春、春日に宮仕え、すなわち先祖のために秦楽寺を立つ。此の門前に金春屋敷あり、そのうちに、天照大神の御霊八咫鏡陰を移し給うと云い伝うなり。故に金春の家を円満井と云うなり」 しかし円満井が、もともと榎葉井の地名に由来することは前述した通りである。それでは、金春屋敷は何故鏡作明神を勧請したか。それは古代中世では、井戸に鏡を入れて、井戸の魂とする風習があったためで、榎葉井から出発した金春は、円満井の座名にあやかって、井戸の神を大切にしたと考えられる。 さきの「風姿花伝」の文章の中で、金春は先祖のために秦楽寺を立つ、と述べている。先祖とは云うまでもなく秦河勝をはじめ秦氏安などの面々である。 「地名辞書」は「秦楽寺は多村大字秦荘に在り、楽戸秦氏の氏寺ならん」と記し、「新楽寺」については「此寺けだし、楽戸秦連の氏寺にして、郡郷の所管諸書相異なるは、境界の移動に因れるか」と述べている。 ここで「秦楽寺」と「新楽寺」の関係について述べて置く。双方とも楽戸秦氏の氏寺というのは共通しているが、秦楽寺は現在田原本町大字秦庄にある。その秦楽寺はもとは田原本町大字蔵堂(杜屋)に置かれていたが、杜屋から秦荘に移された。そこで杜屋にあったもとの秦楽寺は新楽寺と改名した。したがって杜屋の新楽寺のほうが、秦荘に移された秦楽寺よりも古い寺なのである。 ところでこの杜屋には楽戸があった。「延喜式」の雅楽寮式の「伎楽」の「楽戸郷」には、「大和国城下郡杜屋に在り」という原注が施されている。楽戸は楽生を出すために設定された戸で、雅楽寮に所属している。雅楽寮式では、四月八日、七月十五日の斎会の折の伎楽人を、杜屋にある楽戸郷から選びあてる、としている。蔵堂は蔵人、大蔵、財人とも書いて、秦氏系の伎楽伶人のことであり、したがって、蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。 ここで秦楽寺と楽戸とがかつて同じ杜屋郷(蔵堂)に所在していたことを考えると、秦楽寺は楽戸秦氏の氏寺であったことは間違いない。秦河勝の後裔を自称する伎楽人が楽戸にいたと推定するのは自然である。 秦楽寺は楽戸秦氏の氏寺であったが、その楽戸が分裂した。そこで秦楽寺は一方の秦氏(金春の祖か)が、自領の秦荘に移したと藪田嘉一郎は推測している。杜屋郷の旧寺は新楽寺を名乗ったが、享保十九年に廃絶した。一方秦荘に移された秦楽寺も、享保十九年の前に退転してしまった。そのあと二十年たって再興されたが、それは秦楽寺の寺名を名乗るだけの新寺であるという(「新楽寺鏡銘と大和猿楽」)。 とはいえ、私は現在の秦楽寺を訪ねて秦河勝の木像が安置してあるのを見ることができた。 アジマという地名 円満井座という座名が物部氏に由縁のある榎葉井の名にあやかって生まれたように、他の猿楽の座名も物部氏に関連があり、注目される。 田原本町大字蔵堂(もと杜屋郷)に村屋坐弥富都比売神社がある。梵鐘(寛永十五年)には森屋大明神とある。神武紀には、村屋神が祝(神官)に憑って、自分の祀られている神社の中道から軍衆がやってくるから、神社の中道を塞げ、と神勅を下したとある。祭神の弥富都比売の弥は敬称、富都はフツの御魂と云うから物部神である。私は大矢良哲の案内でその神社に伝わっている「物部系図」を見せて貰ったことがある。それによると、物部守屋の敗亡の後、守屋の子の物部雄君連公がひそかに逃げてきて、室屋(村屋)にかくれたが、そのとき、自分の家の滅亡を憂慮して、祖先からの系図を綴り、それを長子の認勝に伝えたということが記されている。ところが室屋の館のぬしの室屋邦重には子どもがなかったので、物部認勝を子としてあとを継がせた。認勝は村屋神をまつる神長官祝となり、三輪君根麻呂の娘の国媛を妻としたとある。この系図は江戸中期のものとされているから、どの程度信頼が置けるかおぼつかないが、物部守屋の子の雄君ではないにせよ、血縁の者がこの室屋を頼って逃げてきたというのは、一応うなずける気がする。というのも、室屋はほかにも村屋、守屋、杜屋、森屋とさまざまに表記されてきており、そこは物部守屋とまえから、由縁のある土地と思われるからである。この神社の境内に物部神社が祀ってあることも注目に値する。しかもそこは秦氏の楽戸と秦楽寺があり、秦氏の芸能の拠点としては注目すべき所である。これは物部氏と秦氏との関係を暗示するものである。 私は守屋から目と鼻の間にある田原本町の大字味間の木村という旧家をおとずれたことがある。木村家はもと庄屋をしていた家柄であるが、奥座敷には、神棚のような形式で、味間見命がまつられている。そこに掲げられた神額にも味間見命と記されていた。以前は九月の祭のときは近所の人たちも庭先までやってきて拝んだというが、今は多神社の神主がやってきて祭を施行するだけにとどまっているという話であった。田原本町の味間は中世には味間庄のあったところであるから、味間という地名の由来も古いと見なければならぬ。そこに祀られている味間見命がニギハヤヒの子であるからには、そこは物部氏の根拠地の一つであったとみることができる。 味間見命は「旧事本紀」には、可美真手命または宇摩志麻治命とも記されている。 私の考えによれば、物部氏は筑後に起ったきわめて古い豪族である。筑後川の下流の流域は三潴郡である。そこに水間君がいた。「旧事本紀」に物部阿遅古連は水間君等の祖なりとあるから、水間君は物部氏族である。物部氏は弥生時代の中期、倭の大乱の時期に、筑後から瀬戸内を通り、大和に東遷したと私は考えている。そのことは「白鳥伝説」に詳述したのでここにくりかえさないが、その移動の過程で、彼らは由縁のある地名や神社を残した。それを西から辿って見ると、次のごとくである。すなわち、 水間(水沼)→水間→味間→味間→味間 という風に変化しているのが跡づけられる。これを見れば、田原本町の味間に物部氏族の祖神であるニギハヤヒ命の子の味間見命が祀られていることに合点がゆくのである。 久保文雄は、「大和国には、川上、五ヶ所、十座等の唱門師の座があり、十座の支配下に属する唱門師部落でも、大和国中で数十ヶ所存在した。味間村周辺に果して唱門師村があったか否かは不詳である」と云いながら、次のように問題を提示している。 「ただ次の事例は、味間村の姿相を模索するある暗示になるかも知れない。第一例は丹波多紀郡の篠山の西一里の味間村であり、発音も同じアジマである。この村は『夙』部落である。ここは丹波の須知村などから、播磨の揖保郡へ出る街道を少し西に入っている。第二例は自らをショモンジと称していた越前万才の人達の居住地が、越前今立郡味真野村(アジマノ)であること、第三例は、尾張の院内万才の根拠地も西春日井郡味鋺村である事等である。大和の味間村を唱門師村と推測するのではないが、アジマという村には、探求すべき何かを暗示しているように思われる。」(「世阿弥一族と大和の補巌寺」「芸能史研究」一〇号所収) 久保がここで示している第二例から考えてみよう。福井県今立郡味真野村は今は越前市味真野町(野大坪)上大坪町で、そこには古くから越前万歳が伝えられている。その本拠地である旧野大坪・上大坪は大正頃までは数十人の男が、毎年正月から二月にかけて、新春の「祝禱人」として、越前・加賀の両国に出向いていた。この大坪という地名は、「舞楽宇津保の舞」の「宇津保」の転訛したものとされている。「うつぼ」は矢を盛って腰に背負う用具で、中空の籠である。「靭」とも記す。靭は「ゆき」で矢を入れて携帯する容器、木または革で作った長方形の箱形の筒である。「うつぼ」に靭の字を宛てるのは誤用であると「広辞苑」にはあるが、誤用されたのは、「うつぼ」も「ゆき」も矢を入れる容器であるからであろう。 ところで、「越前今立郡志」に記す味真野村大字野大坪に伝わる由緒書には、大坪は、「『靭』先河内首三男使主智、御所の馬飼郡なりしが、皇子の飼馬のご祈禱をつとめ、其の因縁にて初春毎にの前に万歳楽より出づ、祖を奏し、又宇津保舞をまふ。よって野宇津保万歳の称を給へり。」とある(堀一郎「わが国民間信仰史の研究」㈡)。 ここに「靭」先河内首と見えるのは判読しがたいが、「靭」は「靭」とも読む。弓削は「和名抄」で「ゆけ」と清音で訓ませている。そこで「弓削」と「靭」とを同一視して、弓削氏のこととすれば、味真野の大坪に弓や矢を製作する弓削の民がいたことになり、そこが弓削物部の由縁の地であって、傍ら万歳の職を営んだということも推測される。もとより仮定のことにすぎないが、山一つへだてた谷に水間村があることも気にかかる。慶長の頃には水間村に含まれていた印内村(越前市南中町)には白鳳時代に草創されたという大日院がある。大日院の院内を印内と宛字したのである。 インナイというのは、特殊民の一種である。敦賀市の旧田島村はもと陰内村と称していて、舞々が住んでいた。幸若五郎右衛門がこの地に移り住んでから田島村と称した。福井県丹生郡越前町西田中はもと印内村と云われ、幸若舞を家柄とした幸若が住んでいた。静岡県掛川市付近に居住していた院内は、声聞身とも呼ばれ、千秋万歳にたずさわっていた。愛知県知多郡では、養父村(現東海市養父町)の陰陽師は三州院内村より来る故に院内というと云われた。つまり地名の院内がまずあり、そこに住む者の呼称にもなったのである。 ところでさきほど述べた味真野から二里ぐらいのところに位置する越前市南中町の印内(旧村)にある大日院の七つの堂では堂主がすべて院籍であってかつ神職の故に血統優良なるものとして一般人民と縁組をしないという(「福井県の地名」日本歴史地名大系)。 これは印内の大日院に関与する人々がみずからを特殊民と認めたことにほかならない。 重ねて云う。水間から味間、味間、味真野と地名が変動することもある。 さきに引用した、野宇津保万歳について由緒書には「又鎌倉にも出て祝言をなす。頼朝より『証文士』の位を授かる。その状扇に書いて下されしに、その扇の骨一本偶然に折れ損じたる故に、後世野宇津保証文士は骨が一本足らぬ等と云はれるのであるとの事だ」とある。「証文士」は唱門師のことである。被差別民は骨が一本足りないということは方々で云われている。 久保がここで示している第三の例、尾張の西春日井郡味鋺村(今は名古屋市北区楠味鋺)は寛文十一年(一六七一)の記録によれば、陰陽師が十五軒あり、そのうち頭分が三軒あった。身分は神職と同様、寺社奉行の支配を受けた。「雑志」「尾張名所図会」は十六人とし、万歳をつとめたとある。 その味鋺には式内社の味鋺神社があって、祭神には宇麻志麻治命を祀ってあるのが注目を引く。 味鋺神社の東北二町のところに、物部神社がある。祭神の宇麻志麻治命は、物部氏の祖神のニギハヤヒの子である。「神名帳考証」や「日本書紀通証」には、味間見命を祀るとある。 久保文雄が述べている丹波のアジマの例については倉光清六も味間と夙との関係を次のように述べている。 「篠山より一里余西に味間村あり、そこに夙という村ありしも、今は名のみにて人家はない。又東一里余の所に上宿あり。……氷上郡前山村宇宿といふ所、ここも他から縁組を厭ふ風がある。」(「民族と歴史」第五巻第四号「夙」名義考) 「丹波のしゆく」(「申楽談儀」)もこの味間村の猿楽のことを指すのであろう。丹波にせよ、越前にせよ、尾張にせよ、アジマを名乗る地名の人々が万歳を仕事としたり、唱門師となっているのはなぜか、不明な点が多いが、ショウモンジ、万歳、院内などが夙と関連のある雑多な芸能賤民であることから、物部氏の系統にも無縁ではない部分が認められるのはたしかである。 ミマジという名 世阿弥の「申楽談儀」によると、「近江は敏満寺の座、久しき座なり」とある。敏満寺と書いて「みまし」「みまじ」と訓ませている。この敏満寺がどこにあったか、はっきりしない。そこで諸説が生まれることになった。 吉田東伍は後世に宮増と称した猿楽の座の前身を「みまし」の座と考えた。この宮増説を能勢朝次は批判していう。「宮ます」の「宮」はみやという例はあるが、みと訓む例はない。したがって、宮増の訓は「みやます」であって「みまし」ではない。「みまし」が「みやます」に転訛することはない。また「みやます」が「みまし」に音韻を転訛することも考えられない。さらに、宮増大夫および宮増座は近江猿楽系ではないのだから、吉田東伍説は妥当でないという(「能楽源流考」)。 では敏満寺の座についてはどうであろうか。近江国犬上郡敏満寺村(滋賀県犬上郡多賀町敏満寺)に敏満寺跡がある。敏満寺の村名は寺名からとったものである。この敏満寺は水沼村と関係があると考えられる。水沼村の故地は現在の多賀町大字敏満寺一帯に比定されている。 能勢朝次は村名も寺名も「びんまんじ」であるところから、これを早く呼ぶときは「ん」の発音を省いて「びまじ」ともなるという。また「ば行」と「ま行」は通音であるから「びまじ」はさらに「みまじ」と転訛しないとも限らないと云う。つまり「びんまんじ」から「みまじ」になったという説である。 能勢説にたいして、香西精は異説を述べる。すなわち「敏」は古く「びん」よりも「みん」とよまれるのがふつうであった。そこで「みんまじ」であった可能性があり、「みんまじ」から「みまじ」への転訛は、発音の上から、いたって自然、円滑であったとする。もと「みんまじ」または「みまじ」であったが、敏を「びん」と訓むのが通常になってから、当世風に「びんまじ」の読み方に移行したのもふしぎではないとしている(「世阿弥新考」)。 吉田東伍の説は受け入れがたい。能勢説は「びん」から「みん」へ、香西説は「みん」から「びん」へと逆のコースで音韻転化を説明しようとしているが、これらの説すべてに欠けているのは、敏満寺がもと水沼村にあったという歴史的背景への考慮である。 敏満寺というのは寺名である。その寺名は何に由来するか。それは寺の所在地がもとの水沼村であったということである。そこには水沼池があった。もともと水沼のある原野であった。そこを近江国司が開発した。天平勝宝三年(七五一)の近江国水沼村墾田地図があって、水沼池として描かれている。そのほとりに敏満寺が建てられた。池は敏満寺の大門のそばにあったので、水沼池は大門池とも呼ぶことになった。今も大門池の名は残っている。 こうして最初は水沼があった原野を開発して水沼村が作られ、その水沼村の水沼池のほとりに寺が建てられたので、それを敏満寺と呼ぶようになったのである。では「みぬま」がどうして「みまじ」になったか。「じ」は寺であるから省くとして「みぬま」から「みま」への音韻の変化が考えられねばならない。それは前に述べたように、筑後川の下流に蟠踞した水沼(水間)氏の豪族名が地名に転化してミヌマをミマと呼ぶようになったことを想起すればよい。 こうした例は奈良県に現存する。奈良市水間町(水間と書いてミマと訓ませる)付近に水間町と沓掛町をむすぶ水間峠がある。水間町の集落にある八幡神社は九月九日の神事に翁舞を演じた。そのときの能面七面が残っている(山路興造「翁の座」)。 この八幡神社の翁舞はどこからもたらされたか。それは水間の地名と関わりがあるにちがいない。この神社は東大寺の鎮守の手向山八幡を勧請したものとされているが、祭神は品陀別命(応神天皇)と宇麻志間遅命である。品陀別命は八幡宮の主神として勧請されたものであるから、もとは宇麻志間遅命だけを祭神とする神社であったと考えられる。物部阿遅古連公は水間君等の祖なりとあるが、奈良市水間町の場合もそこの豪族の水間氏が物部氏の祖神宇麻志間遅命を祀ったのであろう。 いずれにしても水間(水沼)がミマという発音に転訛することは現実的におこなわれているのであって、近江の敏満寺の地名ももとは水沼がミマになり、そのミマに相当する漢字として敏満が選ばれたのであろう。「興福寺官務牒疏」に、伊吹山三修上人の高弟の敏満童子が開いたとあるが、それが理由であろうか。 兵庫県の敏馬はかつて摂津国兎原郡、いまは神戸市中央区灘にある。人麻呂の「珠藻刈る敏馬を過ぎて……」の歌で知られている。この場合も「敏」を「み」と訓ませている。みぬめはみぬまに由来する。水沼は「ぬ」という助辞を省いて、「みま」と訓ませることができる。したがって敏満寺を「みまじ」と訓むことは、敏満童子をわざわざ持ち出さなくても可能である。 「和名抄」に阿波国美馬郡があり、その中に弥都波売神社がある。祭神はミツハの女、すなわち水の妖精である。したがって美馬の郡名も、もともとはミツハまたはミヌマに由来すると推察される。折口信夫は「水の女」のなかで、ミヌマ、ミツハなどのツ、ヌを領格の助辞とみて切り捨てたミマ、ミメなどの郡郷の称号ができている、と述べている。それは、阿波の美馬郡を念頭に置いて言っているとみて差支えない。摂津国の敏馬や阿波国の美馬ももとはミヌマ、ミツハから出た地名である。ということからして敏満寺の敏満もミヌマ→ミマという地名をあてたものと考えるのが最も妥当である。 それでは話を変えて、帰化人の「味摩之」と「みまじ(弥満寺)」とはどのような関係にあるのだろうか。 藪田嘉一郎は次のように述べている。 「この円満寺も弥満寺(敏満寺?)も味摩之という名目から出た名称であると思われる。こういうと甚だ突飛のようだが、元来味摩之は一人の伶人の固有名詞ではなく、伶人の集団に与えられた名目と思う。前引の醍醐寺『聖徳太子伝記』からこれが窺われるが、林屋辰三郎氏は出雲路本『仮名伝暦』の注から、味摩之の帰化は同時にその演伎者集団の渡来が考えられると云われた。まことに卓見であるが、私は一歩を進めて、味摩之そのものを伶人集団の名目なりとするのである。これが後世に妓楽人をミマシといい、居住地もミマシといい、集会所にもその名をつけ、好字を選んで弥満寺・円満寺と名つけることになった所以ではあるまいか。彼等の集会所は当時寺院の形態をとるのが最も便利であったろう。秦楽寺が楽戸の集会所であり、祇園犬神人の集会所が愛宕念仏寺であったことを想起する。」 このように述べて、藪田嘉一郎は円満寺や近江の敏満寺は百済人の帰化人である味摩之の名に由来するという。しかし味摩之は大和の豊浦寺のある桜井に居住していたのであり、それが飛び離れた後世の近江国犬上郡多賀町の旧敏満寺村の地名や寺名になったとは考えにくい。第一に遠隔の時代と場所であり、第二に百済帰化人の人名が地名になることはあり得ない。それよりも敏満寺という地名が水沼の名に起こり、それがミマとなって、ミマにある寺をみま寺と呼んだと考えるほうが自然である。それに敏満という漢字を宛てたのは後のことである。その場合、味摩之という人物を想起したのであったとすれば、味摩寺という寺名にしたのではなかろうか。それなのにわざわざ敏満という字をあてたのはこれまで私が述べたような理由があったからにちがいない。 ついでに守山猿楽について一言して置く。近江の守山(滋賀県守山市)には、近江猿楽の一つの守山猿楽があった。文明十七年(一四八五)九条政家が京都五条坊門東洞院(現京都市中京区)で見た勧進猿楽では、十一歳から十四、五歳の守山の猿楽衆が興行していた。また天文十九年(一五五〇)三月、奈良春日社頭で猿楽が催された際にも「森山の衆」が興行していた。少年たちの歌舞は都の貴顕に賞讃された(能勢朝次「能楽源流考」)。 ところで、守山市勝部はもとの勝部村である。村名は用明天皇の時代物部守屋と中臣勝海が開墾した物部郷勝海村に由来するとされる。また古代に勝部が居住したことによるともされる。近江の勝部は物部氏族とされている。守山市勝部には勝部神社が鎮座し、物部布津命や宇麻志間知命を祀る。このあたりは「和名抄」の栗太郡物部郷とされ、その庄園の物部庄は奈良興福寺領であった。興福寺は藤原氏の氏寺であり、春日社は藤原氏の氏神であって、両者の関係はきわめて緊密であった。ということから守山猿楽が春日社頭で舞を披露したときは興福寺領であった物部庄、ひいては、勝部神社の関係者もそれと一緒に連動して活躍したと推測される。 サカトの名 「風姿花伝」に記された大和猿楽四座の一つが坂戸である。坂戸座は金剛座である。「旧事本紀」の天神本紀に天から降った五部造の中に「坂戸造」がある。また二十五部の中に「酒人物部」がある。 「和名抄」大和国平群郡に坂戸郷(坂門郷)がある。坂戸郷は法隆寺の西方、旧立野にあたる。法隆寺ときわめて関係の深い場所である。 坂戸郷の立野には風神で有名な竜田神社がある。藪田嘉一郎によれば、坂戸座はもともとこの竜田神社に神楽を奉仕していた楽人であったと考えられるという。 楽人は竜田本宮または新宮に神楽を奉納し、竜田神を鎮守し勧請した法隆寺の法会にも参加したので、その末流が坂戸座の猿楽になった、とする。猿楽は法隆寺関係の法会に古くからおこなわれており、坂戸大夫が楽頭をつとめていた。 しかし坂戸の神楽や猿楽は、平群郡坂戸郷から発生したのではなく、大和国十市郡の香久山付近に起ったようである。 世阿弥の「風姿花伝」第四神儀には、天香久山で天照大神が天岩戸にかくれた時、天鈿女命が歌舞したことから猿楽は始まったとある。坂戸は坂門、尺度、坂田、酒人とも記す。そこは坂戸物部の由縁の地と考えられる。坂戸氏が大和盆地の開発の進むにつれて盆地の中央部へ支族を送った。そうしてできた里が平群郡の坂戸郷であった、と考えられると藪田は云う(「坂戸座源流考」)。 これまで見たように、各地の猿楽の生まれる風土に物部氏の影が微妙に落ちているのはたしかであるが、その理由は今のところ不明というほかはない。それは奈良坂の夙人が弓削夙人と称したように、物部氏を名乗る一派が職人として、賤民の社会に混在したのかも知れない。桜井のばあいは、物部氏の榎井連と円満井座の名称の由来に、地名の榎葉井を通してのつながりが見られる。前に述べたように、秦楽寺や秦氏の楽戸のあった杜屋(味間)も、物部氏と深い関係があるが、秦氏の活動の中心となっていた。また近江は秦氏の有力な根拠地であったから、かつて物部氏と秦氏の間になにがしかの関連があったと思われる。 第21節 四天王寺の舞楽
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