隠された聖徳太子 ――近現代日本の偽史とオカルト文化 (ちくま新書 1794) 新書 – 2024/5/10
日本史上、最も神秘に満ちた「聖人」――聖徳太子。近代において「人間太子」も登場するが、それは無論ただの人間ではない。日本が「西洋化」する中、彼と西洋との繋がりが語られる。そして「オカルトブーム」では、前近代と異なる形で「超能力者」として新たな命を吹き込まれる。様々な姿の太子を描く人々は、何を求めてきたのか。太子の「謎」は、人間の「隠されたもの」への強い関心を搔き立てる。本書では「歴史」と「偽史」の曖昧な境界を歩みつつ、その真相を読み解く。
【目次】
まえがき
序 隠されたものへの視点―偽史から聖徳太子を考える
第一章 一神教に染まる聖徳太子
第一節 学術界における聖徳太子とキリスト教の「事始め」
第二節 秦氏はユダヤ教徒だった―佐伯好郎の業績によせて
第三節 フィクションへの展開―中里介山の聖徳太子観
第二章 乱立するマイ太子像
第一節 池田栄とキリスト教の日本伝来
第二節 聖徳太子と戦後日本のキリスト教
第三節 司馬遼太郎と景教
第三章 ユダヤ人論と怨霊説
第一節 手島郁郎と一神教的古神道
第二節 梅原猛と怨霊説の登場
第三節 怨霊meets景教―梅原猛『塔』について
第四章 オカルト太子の行方
第一節 漫画の中のオカルト太子―山岸凉子『日出処の天子』
第二節 予言者としての聖徳太子の再発見
結 隠された聖徳太子の開示
あとがき
†外国人の研究者による後押し 実は、佐伯が一九一一年刊行の大著『景教碑文研究』をまだ構想中の段階で、もう一人の論者が国内で同様の説を唱えていた。しかもそれは日本人でなく、アイルランド出身の著述家で仏教研究者のエリザベス・A・ゴルドン(一八五一─一九二五)である。彼女は一九〇七年に来日し、佐伯論文が発表された一九〇八年の夏から広島や京都を実地調査して、諸宗教平等主義の立場からMessiah: The Ancestral Hope of the Agesという著作の執筆を始める。その中の一章である"King-Kyao-Pei, or the Speaking Stone"の翻訳が、当時の仏教革新団体の機関誌『新仏教』の一九〇九年八月号に、「物言ふ石、教ゆる石」というタイトルで掲載された。翌九月、その論考は『弘法大師と景教』という題目の下、改めて一冊の形で丙午出版社から刊行された。仏教とキリスト教という二つの宗教は本質的なレベルでは同一であると主張したゴルドンは本書で、真言宗の教祖・弘法大師空海が入唐していた頃にネストリウス派が流行しており、空海はそれを自身が構想しつつあった密教の体系に取り入れ、自国の日本で広めたという。 例えば、真言宗の「大日」の理解は、ヘブライ人の唯一神から影響を受けたものである、などとゴルドンは主張している。また、明治末期における中国史研究の代表的存在だった白鳥庫吉(一八六五─一九四二)もそのような可能性を示唆しているとして、「東西歴史の示す所によれば弘法大師が基督教より、或るものを学びたる点なかるべからず」とゴルドンはいう(16)。彼女はこれで、自身の主張は単なる思いつきではなく、それなりの学術的な根拠も持つという印象を与えることに成功したとも考えられる。なお、学問上の資格でいえば、ゴルドン自身も十分にもっていた。彼女は当時、日比谷図書館に収められた十万点もの「日英文庫」の創設者だったのみならず、上記でも触れた東洋学者のマックス・ミュラーの下、イギリスの名門オックスフォード大学で学んだ経験があり、ミュラー夫人とも親しい関係にあった(17)。なおゴルドン論考のインパクトは大きかったようで、彼女は後に上記の「大秦景教流行中国碑」のレプリカを造らせ、弘法大師空海が入定しているとされている聖地・高野山奥之院に設置し、その開眼の儀式が一九一一年十月一日に行われたという。そしてその石碑は今も、高野山で見られるのである(18)。 ゴルドン「物言ふ石、教ゆる石」に関して、さらにもう一つ着目すべき点がある。それは、論考の日本語訳者である。翻訳は、明治末期の当時、インド学・仏教学における最高権威の一人で、東京帝国大学教授の高楠順次郎(一八六六─一九四五)によるものだった。高楠自身もゴルドンと同様、ミュラーの下で学んだ経験があり、恐らくその関係で彼女のために日本での案内をすることとなったと思われる。なお、興味深いことに、高楠がヨーロッパに留学中の一八九六年、中国仏教資料に見るネストリウス派の活動についての論考「仏教のテキストに発見されたメシアという名称」("The Name of ‘Messiah’ Found in a Buddhist Book," T'oung Pao, vol. 7, no. 5, 1896)を発表しており、それが佐伯の刺激となったようである──佐伯は、自身の『景教碑文研究』に、ゴルドン「物言ふ石、教ゆる石」のみならず、高楠論考も英文のまま付録として載せている。
16 イー・エー・ゴルドン『弘法大師と景教』(高楠順次郎訳、丙午出版社、一九〇九年)、四頁。この白鳥発言の出典は詳らかでないが、恐らく間接的にゴルドンに伝わったものであると思われる。なお、白鳥は数年後の論説において、ゴルドンがいうほど直接的な発言ではないが、弘法大師へのキリスト教の影響については、間接的ながら次のように語っている──「唐時代に伝教大師、弘法大師が参つた時に長安に於ては如何なる宗教が都にあつたかと云ふと、摩尼教、景教と云ふものであります、それからゾロアスターの教へ、それから希臘に於ては景教、最後にはマホメツト教が這入つて居る、啻に思想ばかりでは無い、物質的の方面も悉く集まつて居る、其処へ弘法大師がヒヨコツと行つたのです」(「東洋史上より観たる日本国」『弘道』二五四、一九一三年五月、二五─二六頁)。
17 中村悦子「E・A・ゴルドンの人と思想──その仏耶一元論への軌跡」(『比較思想研究』二一、一九九四年)を参照。
18 奥山直司「物言う石──E・A・ゴルドンと高野山の景教碑レプリカ」(原克昭編『宗教文芸の言説と環境──シリーズ日本文学の展望を拓く・第3巻』笠間書院、二〇一七年)。
19 佐伯好郎『景教碑文研究』(待漏書院、一九一一年)、九四─九八頁。
20 佐伯『景教碑文研究』、一一一─一一六頁。
21 これらの人物の「日ユ同祖論」とその特徴について、宮沢正典『ユダヤ人論考』(新泉社、一九七三年)、五七─七一頁を参照。 22 P. Y. Saeki, The Nestorian Monument in China (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1916), p. 93. 23 井上光貞監修・笹山晴生訳『日本書紀 下』(中公文庫、二〇二〇年)、一六三頁。 24 『日本書紀 下』、二四二─四三頁。 25 例えば石井公成「聖徳太子と芸能」(『国立能楽堂』四六七、二〇二二年十一月)参照。 26 中村文雄『中里介山と大逆事件──その人と思想』(三一書房、一九八三年)。 27 大村治代「中里介山『夢殿』試論──〈宗教小説〉の試みに関する考察」(『国文学研究ノート』三八、二〇〇四年)、二六頁。 28 鈴木貞美「中里介山における仏教思想」(『日本研究』二〇、二〇〇〇年)、二九三頁。 29 鈴木「中里介山における仏教思想」、二九九頁。 30 大村「中里介山『夢殿』試論」、一二頁。 31 中里介山「聖徳太子研究(六)」(『峠』六、一九三六年五月)、二─三頁。 32 大澤絢子『親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか』(筑摩書房、二〇一九年)、一四七─一八三頁。 33 高橋孝次「草津湯ノ沢地区と中里介山夢殿」(滝藤満義編『日本近代文学と病』千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書第一八四集、二〇〇九年)、三一頁。 34 新川登亀男『聖徳太子の歴史学──記憶と創造の一四〇〇年』(講談社、二〇〇七年)、六〇─九九頁。 35 「『夢殿』掲載禁止」(『隣人之友』一二、一九二九年九月)、一〇頁。
60頁
全員キリスト教徒
97小谷部
103
ゴルドン
マル・トマ
142
手島郁郎、内村鑑三
149
柳田國男、川守田英二
158
救世観音像
2023年のNHK-BS番組よりはずっとマシな「日ユ同祖論」批判である。
第一章佐伯好郎(49頁~)関連の扱いもフェアである。ただし全体構成が『東日流外三郡誌』(17頁)やイザヤ・ベンダサン(第三章)や五島勉(第四章)と並べられているので調べるうちに否定しきれなくなっただけだと思う。
(服部之総は佐伯の言説に驚いたそうだが、服部も井上章一もフグ計画がどのような殺し文句で根回しされていったかを知らなかったのかもしれない。)
以下感想箇条書き、
日ユ同祖論を展開するのが一時期「全員キリスト教徒」(60頁)であったのはプロテスタントがユダヤ教へリバイバルであることと関係がある。
ハイネは「(スコットランドの)新教徒は全員ユダヤ教徒ではないのか?」と述べたことがある(ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』)。
ペルシア人の渡来()には反応せずユダヤに反応するのはユダヤ人が理解されていないからだ。
ゾンバルトの言うようにユダヤ人の功績は無記名証券の確立(トビト書)にある。
「日ユ同祖論」はハプログループEの不在により日本で使う人は減ったが、用語の由来としてはアイヌとの同祖論を証明しようとして果たせずユダヤにたどり着いた小谷部全一郎()の苦闘の軌跡を考えると安易に言葉狩りの対象にすべきではないと思う。
(マクラウドが影響を受けたケンペルも厳密には渡来説だが)
秦氏がユダヤ人だとするなら日本という国家はまさしくユダヤ人との共同作業の産物と言えるのではないか?少なくとも秦氏がいなければ違う姿で建国されたろう。
(最終的に政治的には秦氏は排除されたが)
ゴルドン夫人のマル・トマ(103頁)理解などは久保有政(38頁)も近年展開しているが大筋で否定しきれない。キリスト教徒のインド布教は歴史的事実だからだ。
手島郁郎(142頁~)が内村鑑三の跡を継いだ面があるという指摘は正しい。例えば内村鑑三はこう書いている。
《日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者[*]が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。》
『日本の天職』内村鑑三1924年
引用者注*
スコット (W. Robertson Scott) のことか?
柳田國男影響を川守田英二が受けたとしているが(149頁)、西欧文明や仏教の影響を日本文化から差し引いた姿を見た点は共通しているとしても少し誤解を与える指摘だ。
青森民謡ナギャドヤラの生成論で両者は対立(柳田は恋愛説、川守田は聖戦説)しているからだ。
救世観音像(158頁)については実は明治時代に徳島県の現法谷寺から流出したという説がある(知ってて無視したなら不誠実だ)。
つまり今日聖徳太子について述べるなら四国を調べる必要がある(そうなると実体が明らかになるのでオカルト批判にならない)。
総括的に述べるなら、
日ユ同祖論批判には以下二つの前提があるべきだ。
・日本には様々な渡来系の人たちが来た。
・失われた十支族の痕跡はシルクロード沿いに多々見られる。
後者は日本史プロパーには扱えないということだろう。現在では文化人類学の方に希望を感じる。
本気で日ユ同祖論を否定したいなら八咫の鏡を公開させて、ヘブル語で書かれていないと確認すればいいだけだ(宮内省が許さないだろうが)。
批判の矛先が違うのである。
一神教について()はユダヤ教は多神教的だったし(バール信仰)、神道は一神教的(稲荷大神秘部)な側面があるということだろう。
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