2024年5月31日金曜日

倭の魂ここにあり(倭大國魂神社) - awa-otoko’s blog

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倭の魂ここにあり(倭大國魂神社)

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倭大国魂神社の鎮座する阿波は倭の国であり、奈良は大倭坐大国魂神社の鎮座する大倭の国である。

奈良地方は、国生みの八番目に生み出された「大倭豊秋津嶋」と名付けられております。

豊秋津嶋とは「豊葦原の水穂国(天孫の治める国)」、「秋津嶋倭」の用例からみても帝都の「やまと」を指します。すなわち、「大倭豊秋津嶋」とは、「大倭の倭」。つまり大倭地方に拓かれた新しい帝都の意味であります。

さて、前置きはここまでとして、さっそく「倭大国魂神社」について書いていきましょう。
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倭大国魂神社」が鎮座する阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、現在の三好郡と、木屋平村を除いた美馬郡を合わせた七郷からなり、徳島県の中西部に位置し、山地が九〇㌫を超える山処(やまと)の地。
美馬郡では、土(はに)の神を祀る式内社「波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社」、神々の母神である伊邪那美命を祀る式内社「伊刺奈美(いざなみ)神社」高天原に通じる橋を神格化した式内社「天椅立(あまのはしだて)神社」など、記紀神話草創の地方を示す神々が祀られております。
このように太古の神々が鎮まる美馬の地に、「倭大国魂神社」が定められているのです。
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倭大国魂神社」の鎮座する美馬郡美馬町重清の境内には「大国魂古墳」数基と、下段に「八幡古墳群」が現存しています。しかし近代の開墾により、多く破壊されている模様。
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また、神社の東側(重清城台地)からはサヌカイト製の石鏃や、阿波の青石による石斧、石鎗の出土も確認されており、この地が古くから拓かれていたことがわかります。

倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれ、「みま(き)」との関わりを示しているのです。
天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるその名を冠したもの。
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(伊香色許謎命: 崇神天皇の母を祀る式内社 伊加加志神社の摂社 王子神社祭神崇神天皇とする日本唯一社)
また「初国知らしし…」とは、神武天皇以来、皇居は吉野川下流域に設けていたのが、天孫として初めて中、上流域の美馬郡に皇居を構え、その域(くに)を治(し)らした意味。
そして「五十瓊殖(いにえ)」とは「多くの瓊(勾玉)を造り所有する」という意味を踏まえた和風諡号なのです。
このように「崇神天皇」関係の解説も含めて、
「阿波に倭大国魂神が祀られてる」

ということが「阿波に帝都」があったということを証明できるのです。

阿波国風土記ノゴトクハ、ソラヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波国ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山クダケテ、大和国ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

「ソノ山クダケテ、大和国ニフリツキタルヲ… 」

これを阿波は倭、大和(奈良)は大倭として区別しているのですね。

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間違いなく倭の魂は阿波国に残されています。

倭大國魂神社・伊射奈美神社 – 偲フ花

倭大國魂神社・伊射奈美神社 – 偲フ花

倭大國魂神社・伊射奈美神社

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徳島県美馬市に鎮座の、「倭大国魂神社」(やまとおおくにたまじんじゃ)を訪ねました。

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境内に入ると、まず見えてくるのは「八幡神社」です。

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祭神は「応神天皇」「神功皇后」「姫大神」の三柱。

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小笠原長親が南北朝期に、重清城築城の守護のため、石清水八幡宮の分霊を勧請し奉祀したことが由来とされ、「重清八幡神社」(しげきよはちまんじんじゃ)とも呼ばれています。

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目的の場所はここからさらに奥、

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長い階段を登った先にあります。

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まずは七五三の15段、

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続いて女の厄払いの33段、

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ラストスパート男の厄払いの61段、合わせて109段の階段を駆け上がります。

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フッ、ヒザがイったか。

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やれやれ、ありました、倭大國魂神社。

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とても素朴な神社です。

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由緒は不詳。平安時代の『延喜式』神名帳の美馬郡条にある「倭大国玉神大国敷神社二座」に比定される古社だということです。
祭神は「大国魂命」と「大己貴命」。

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大己貴は一般に出雲の「大国主」の別名と考えられていますが、本来は「大名持」、つまり二王政における主王の役職名です。
そして大国魂とは、「玉主命」「大国栖玉命」などと呼ばれる「天石門別神」(あまのいわとわけのかみ)のことではないでしょうか。

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と、まあ、それはさておき、僕がここに来た目的はこの神紋です。

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何でも、当社に元駐イスラエル大使のエリ・コーエン氏が参拝した折、この神紋を見て「これは、メノラーに似ている」と言ったのだとかどうとか。
そこから、阿波ユダヤ説につながるわけですな。

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これは梶の葉、もしくは柏の葉を表しているようで、どちらも古くから神前に供える「幣」として使われきた植物です。
梶の葉紋は阿波忌部氏の家紋にも使われています。

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美馬市美馬町字中鳥に「伊射奈美神社」(いざなみじんじゃ)があったので、参拝してみました。

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「延喜式」に、阿波国美馬郡所在の式内社11社のうちの1社として、伊射奈美神社の名がみえます。

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イザナギを社名とする式内社は、淡路の伊弉諾神宮をはじめ7社ありますが、イザナミを社名とする式内社は阿波国美馬郡の1社のみだそうです。
伊射奈美神社の比定社は他にもありますが、当社の神紋が伊弉諾神宮と同じ「十六菊花紋」であり、当社が有力なのではないかと思われます。

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もうひとつ、伊射奈美神社は比定地として有力な根拠となるのは、本来当社は、この先の吉野川にある川中島「中島」に祀られていたということです。

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川中島に祀られる神といえば、阿波島の阿波姫が思い浮かびます。
そしてイザナギが出雲のクナト王だとすれば、イザナミは幸姫のことであろうということになります。

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四国の一族は、川に浮かぶ島、海に浮かぶ島を女性の胎内、子宮と捉えていたのではないでしょうか。
そこに、王家に嫁いだ姫巫女神を祀ったのだろうと僕は考えます。

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三島も島姫を敬う「御島」だったのではないかと、思うのです。

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【阿波の神社を行く!】忌部神社の摂社に祀られた天村雲神伊自波比売神とは?延喜式内社「天村雲神社」

【阿波の神社を行く!】忌部神社の摂社に祀られた天村雲神伊自波比売神とは?延喜式内社「天村雲神社」

【阿波の神社を行く!】忌部神社の摂社に祀られた天村雲神伊自波比売神とは?延喜式内社「天村雲神社」

阿波の神社を行く!

927年に編纂された延喜式神名帳に、麻植郡の小社として、「天村雲神伊自波夜比売神社 二座」と記されています。

そこには、天村雲神(あめのむらくものかみ)と伊自波夜比売神(いじはやひめのかみ)の二神が祀られていました。

何しろ1000年以上も前のことですから、今では、その神社がどこにあったかよくわからなくなっています。

天村雲神伊自波夜比売神社には、二つの候補があります。

山川町川田字村雲にある天村雲神社

ひとつは、吉野川市(旧麻植郡)山川町川田字村雲に天村雲神社です。

山川町村雲 天村雲神社

天村雲神社は、高越山から流れる川田川が吉野川に合流する際に堆積した扇状地にあります。神社からは、霊峰高越山がきれいに見えます。

先代旧事本紀は、天村雲命の別名を天五多手命(あめのいたてのみこと)と記しています。倭名類聚抄によると、麻植郡には、忌部郷(いんべごう)と射立郷(いたてごう)がありました。天村雲神社の辺りが射立郷で郷名は、天五多手命に由来するのではないかという説があります。

霊峰 高越山

この堤防の高さから考えると、川田川は、氾濫を繰り返していたように思われます。天村雲神社が平安時代からここにあったならば、何度も洪水で流されているような気がしますが・・・。

山川町山崎字流にある天村雲神社

もうひとつは、吉野川市山川町山崎字流の天村雲神社です。

山川町山崎流 天村雲神社

こちらの天村雲神社は、川田川の東側の段丘上の台地にあります。周囲の道も細く、小さな神社です。しかし、近くの字名に雲宮という地名があり、昔の社地はもっと広かったのではと思わせます。

境内には、忌部社摂社 牟羅久毛神社という石柱が建っていました。

忌部社摂社 牟羅久毛神社

こちらの天村雲神社の南側の忌部山の麓に山崎忌部神社があります。山崎忌部神社の祭神は、天日鷲命、后神言筥女命(こといいらめのみこと)、天太玉命、后神比理能賣命(ひりのうめのみこと)、津咋見命、長白羽命、由布洲主命、衣織比女命です。

山崎忌部神社の近くには、忌部山古墳群や金勝寺古墳など、6世紀頃に造られた古墳があり、忌部山型古墳という独特の石室形状から、忌部一族が築造したのではないかと言われています。

【阿波の古墳を行く!】古代阿波のカギを握る「忌部山古墳群」(徳島県吉野川市)

阿波忌部氏の祖神である天日鷲命を祀る忌部神社の裏山を忌部山といいます。6世紀後半に忌部山に数多く築かれた古墳は、天井をドーム状に持ち送り、玄室を隅丸に築く独特の「忌部山型石室」という構造をしています。

【阿波の古墳を行く!】これよく残ったなあ・・・。「金勝寺古墳」(徳島県吉野川市)

横穴式石室の玄室平面を胴張隅丸に築く忌部山型古墳、典型的忌部山型古墳の金勝寺古墳を捜査!

なぜ、天村雲神がこの地に祀られたのか?

天村雲命は、古事記や日本書紀には登場しません。その他の書物から探ってみました。

「先代旧事本紀」では、饒速日命の孫、海部氏系図では、天火明命の孫として、天村雲命が登場します。また、饒速日命の天孫降臨にお供した32人の中に、度会神主の祖の天牟羅雲命がいます。

度会氏は、伊勢神宮外宮禰宜を世襲している一族です。

度会氏の系図ともいえる「豊受大神宮禰宜補任次第」は、天牟羅雲命から始まっています。天牟羅雲命の亦名を天二上命、後小橋命と記し、次のような系図が掲載されています。

神魂命―櫛間乳魂命―天曽己多智命―天嗣桙命―天鈴桙命

―天御雲命―天牟羅雲命―天波与命ー天日別命

さらに、天牟羅雲命が瓊瓊杵尊の天孫降臨の時に、天から水を地上に持ってきた功績により、天二上命と後小橋命の2つの名を賜ったと書かれています。

似たような伝承が、京都府の籠神社の奥宮真名井神社にも伝わっています。

この水は籠神社海部家三代目の天村雲命が神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水です。天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、次に当社奥宮の眞名井原の地にある井戸に遷しました。その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。

籠神社HPより引用normal

麻植郡射立郷には、かつて小橋の地名があり、天村雲命は、神武天皇が日向に居たころの后である阿比良比売の兄の阿多小橋君ではないかという説もあります。

【阿波の神社を行く!】日向にいた時の神武天皇の妻を祀る神社がなぜ阿波に?「伊比良咩神社」

「いびらめじんじゃ」と読みます。祭神は、阿比良比咩命、大己貴命、素戔嗚命となっています。阿比良比咩命は、神武天皇が日向に居たころに妻としていた女性です。日向にしか痕跡がない女性がなぜ阿波で祀られているのでしょう?

先代旧事本紀や海部氏系図では、天村雲命を天香語山命の子としているので、天村雲命と天牟羅雲命は、別神のような気がします。阿多小橋説も決め手に欠けます。

次に、天村雲命がこの地に祀られている訳について考えてみました。

天村雲神自波夜比売神社は、忌部神社の摂社になっています。摂社とは、主祭神やその神社に深いかかわりがある神様を祀っています。

忌部神社の主祭神は、天日鷲命です。

「先代旧事本紀」の国造本紀に「天牟久怒命孫 天日鷲命」が伊勢国造になったとあります。この天牟久怒命が天村雲命であるとして、天村雲命と天日鷲命とを関係づける説があります。

しかし、「伊勢国風土記逸文」には、伊勢国を平定し、伊勢国造になったのは、天日別命だと記されています。

815年に編纂された「新撰姓氏録」も「伊勢朝臣 天底立命六世孫 天日別命之後也」と伊勢国造の祖を天日別命としています。

また、「左京神別 弓削宿祢 高魂命孫 天日鷲翔矢命之後也」「右京神別 久米宿祢 神魂命五世孫 天日鷲命之後也」と記されていることから、「国造本紀考」も「新撰姓氏録考證」も神代に活躍した天日鷲翔矢命と国造本紀に記された天日鷲命は別神であり、国造本紀に記された天日鷲命は天日別命であると論じています。

そうなると、阿波忌部の祖が、天日別命となってしまいます。これはさすがにおかしいと思います。

国造本紀の「天牟久怒命」を「あめのむらくも」と読ませるのにも無理があります。

また、写本のどこかで、「天牟久毛を天牟久怒」と間違ったのなら「天日別を天日鷲」と間違っても不思議ではないと思います。都合のいいところだけ写し間違えたというのもかなり無理があります。

江戸時代に記された「大麻彦神社傳来書上帳」には、「天日鷲命が清麻梶をすすぎ給い洗いし井戸」として「丹(あか)の水」と呼ばれる井戸があったと記されています。そして、そこには、かつて御井ノ社として、天日鷲命と天二上命の二神の祠があったと伝えています。

天二上命とは、天村雲命の亦名です。大麻比古神社の背後にある大麻山には天村雲命が持ち帰った「天の眞名井の水」と同じ名の付く天真名井とよばれる泉が湧いています。

【阿波の神社を行く!】神奈備大麻山の頂にある奥宮「弥山神社」

阿波国一の宮の「大麻比古神社」の奥宮が、大麻比古神社の背後の大麻山の山頂にあります。その名を「弥山神社(みやまじんじゃ)」と言います。 「弥山」とは、神が宿る山とされ、大麻比古神社の背後にそびえる標高538mの大麻山のことを地元の人は、弥山とも呼んでいます。 いざ、大麻山登山!

「式内調査報告書(皇學館)」には、「古代史村落より見たる式内社の研究(志賀剛)」より、天村雲神社の境内には、東南隅に旱天にも涸れない清泉が湧いていたということが記されています。

忌部一族は、かつて大麻比古神社にあった御井ノ社と同じように、清水が湧く井戸に清水の神様として天村雲命を祀っていたのだと思います。

天日鷲命との関係を探るよりも、この方がずっとしっくりきます。

神に神聖なる織物を捧げていた忌部一族にとって、麻と同じように大切なのが清水だったのかもしれません。

伊自波夜命とはいったい誰?

天村雲命以上にわからないのが伊自波夜命です。

第一に、天村雲命の妻神ではないかという説があります。これは、延喜式神名帳に「天村雲神伊自波夜比売神社 二座」と記されていることを根拠にしていると思われます。ただ、並坐されているからといって必ずしも夫婦神とは限りません。

第二に、伊自波夜比売神を音が似ていることから、長野県の諏訪大社に祀らている建御名方神の御子神である出速雄命の子の出早比売命(いずはやひめのみこと)だという説があります。

諏訪大社の元社は、延喜式神名帳に記された「阿波国 名方郡 多祁御奈刀弥神社」だという説を根拠にしていると思われます。

Wikipediaを見ていると、天村雲命の父の天香語山命が越ノ国を出速雄命が信濃国を開拓したので、互いの子どもを結婚させたという戦国時代の政略結婚のような説もありました。

第三に、延喜式神名帳に、「志摩国 答志郡 粟島坐伊射波神社」の祭神のひとりである玉柱屋姫命ではないかという説もあります。

「粟島」の「あわ」という音や「伊射波」が「いしは」とも読めることもそうですが、玉柱屋姫命が天村雲の裔、伊勢国造天日別命の子の伊佐波登美命の娘であるという伝承を根拠としているようです。

第四に、「式内調査報告書(皇學館)」には、「古代史村落より見たる式内社の研究(志賀剛)」より、境内に清泉があったことから、天村雲命を雨神として祀り、伊自波夜比売命は、水の「イズム」ことを早かしめる姫神として相祀ったのではないかと推察しています。

つまり、「いずむはやひめ」が「いじはやひめ」になったというのです。絶対に違うとは言い切れませんが、これは、もはや大喜利ものかと・・・。

第五に、「古代氏族系譜集成」には、阿波忌部・忌部連系図として、天日鷲翔矢命の横に「母伊自波夜比売命」と書かれています。しかし、何を根拠に記されているのか全く分かりません。

結局のところ、伊自波夜比売命については、どの説も決め手を欠きます。とりあえず、第四の玉柱屋姫命説は、伊勢国造の天日別命と阿波忌部の祖の天日鷲命は別神だと思うので、違うと思います。

まとめ

「天村雲神伊自波夜比売神社 二座」として阿波国麻植郡に祀られた天村雲命と伊自波夜比売命についていろいろと探ってきました。

私としては、一番有力なのは、高天原から「天真名井の水」を葦原中国にもたらした天村雲命を清泉の神として祀ったのではないかと思います。そして、伊自波夜比売命も同じように水の神様として祀られたのではないでしょうか。

ただ、ひとつ気になるのは、忌部神社の摂社に天太玉命と天石戸別命を祀る岩戸神社があります。その岩戸神社の境内に忌部一族が麻を晒したと伝えられている洗ったという「岩戸の甌穴」という泉があります。

天村雲命を祀るならここが最適のような気がしますが・・・。

岩戸の甌穴

阿波にある全国的有名神社の元宮




どちらが元社か?
の議論はつきませんが、
阿波にはこういう元社と呼ばれる神社が
本当に沢山存在します。
諏訪大社 75頭の神事 多祁御奈刀弥神社75膳の神事
(77) 『大国主の古墳です』

由緒神社の元社の真偽検証もいいですが、
一社だけならまだしも、
多くの元社と呼ばれる古い神社が
奈良や出雲ではなく、誰もが現在は
田舎と思っている人口も少ない
阿波に多く存在することの意味を
大きく考えるべきだと私は思います。
これだけ多くの元社由来の捏造を
阿波に固める方が、たいへん難しく
無理があると思うのは私だけでしょうか?
(77) 『卑弥呼の金印です』


八鉾神社 出雲大社

樫原神社 橿原神宮 

多祁御奈刀弥神社 諏訪大社

鴨神社  下賀茂神社

住吉神社 住吉大社

熊野神社 熊野大社

宇佐八幡神社 宇佐神宮

天村雲神社 伊勢神宮外宮

天石門別八倉比売神社 伊勢神宮内宮


https://youtu.be/rpWsAfgUBgc?si=AyfMhqtjqM4EUIvz

42m


阿波の元宮説を斬る、宇佐神宮には関わってはいけない理由 https://youtu.be/w67wnR1Q1GM?si=o2XOAZ7-U2TlJdSP @YouTubeより


https://youtu.be/w67wnR1Q1GM?si=o2XOAZ7-U2TlJdSP




https://阿波古代史.xyz/category1/category12/


阿波にある全国的有名神社の元宮記事一覧


https://阿波古代史.xyz/category1/category12/

阿波にある全国的有名神社の元宮記事一覧

出雲大社

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宇佐八幡神社

宇佐神宮と言えば、誰もが大分にある宇佐神宮を思い浮かべることでしょう。ではその宇佐神宮は元宮なのでしょうか?725年(神亀2年)には確かに現在の大分に創建されたのでしょうが、「宇佐」の名前の由来は伝わっていないのではないですか?阿波の国では宇佐とは元々、「宇狭」。阿波は古代、「倭の国」(いのくに)と...

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樫原神社

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白鳥神社

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下加茂神社

ここが鴨神社とともに、空海によって京都に移された下賀茂神社の元宮です。この地域は古代加茂宮と呼ばれ、天皇家の聖地でした。江戸時代に京都の上賀茂神社から使者が来て「御社の祭りの仕方が違うので変更するように。」との話があったことが三好町史に残っています。当時、時代をときめく名社である上賀茂神社が地方の小...

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住吉神社

阿波にある住吉神社。その元宮は、今は埋め立てられて陸続きになっておりますが、江戸時代以前は禁足地として海に浮かぶ「玉島」に鎮座した豊玉媛神社の摂社として存在したのです。そして現在は藍住町に移されております。ここの神社は今でも重厚さがあって、阿波でも私が好きな神社の一つです。住吉神社と言えば、大阪は摂...

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大山祇神社

画像は現在の大山にある大山寺です。全国に系列社10000社をもつと言われる伊予の国の一宮、大山祇神社。この元宮は阿讃山脈の東にある大山です。頂上に大山寺が現在でもあります。古代、「~大山」という地名は全国に数々ありますが、単に「大山(おおやま)」と呼ばれていたのはここだけだそうです。つまり、「神宮」...

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諏訪神社

徳島県名西郡石井町にある諏訪神社。古事記の中にも出てくる、タケミナカタとタケミカヅチが力比べをしたと伝わる「力石」(ちからいし)が伝わる、現在の長野県諏訪大社の元宮です。古来、「多祁御奈刀弥神社」(たけみなとみじんじゃ)として呼ばれた神社です。諏訪神社力石そもそも信濃国の諏訪神社は691年に創建され...

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天岩戸神社

徳島県美馬郡つるぎ町一宇にある天岩戸神社です。「天岩戸」の項でも書きましたように、林道ができる前は、参拝するにも命がけの神社でした。今では便利になった反面、場を維持する重要性が増したと思います。ご縁があると思われた方は、是非一度お参りくださいませ。

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秋葉神社

多家良町丈六にある秋葉山に鎮座する秋葉神社です。ここは勝浦川にのぞむ燈台跡です。この秋葉神社は上州の秋葉神社にここから移したとも伝わるところです。上州は忌部が開拓していった地方ということから考えると、それが正しい伝承だと思います。

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勝占神社

「出雲大社」の項でも書いたように、出雲大社の元宮の候補地の一つである「勝占神社」です。ここがオオナムチ神(阿波では大国主命という言い方はあまり出てこないですね)の葬場との話が伝わる重量な場所です。

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熊野神社

「熊野神社は、阿波と紀伊とどちらが本家本元?」阿波の熊野神社は八咫烏ではなく、菊花紋、桐紋の由緒正しき社紋を有しております。そのご祭神は「隈野久須比命(くまのくすひのみこと)」。伊太郡隈野庄の氏神となり、隈野庄総鎮守「熊野大明神」として祀られています。

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⑦天皇陵と周辺の土地計画 | 日本の歴史と日本人のルーツ 結論

天皇陵と周辺の土地計画 | 日本の歴史と日本人のルーツ

結論

応神天皇以前、奈良盆地時代は海人族安曇氏(C1)が開発した条里制地割の水田に、越系弥生人(O2a)が入植して乱雑に住宅を建設していたが、ここに斉系弥生人(D2)の天皇家が入植し、御陵を建設した。

秦氏(D2)出身の応神天皇は奈良を嫌い大阪の河内に入植するが、この時は少数の越系弥生人と混住しながら新天地を開発することになる。次世代の仁徳天皇の時代ころまでには渡来した秦氏と共にインフラ整備が進み、大阪湾沿岸の大規模の水田開発(条里制地割)を行った。当時、牛馬も輸入され大規模開発や世界一の前方後円墳を建設した。

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12064942616.html

天皇陵と周辺の土地計画

応神天皇以来に秦氏系の渡来人が増加したと定説では言われている。奈良盆地から河内平野(大阪平野)に進出し、父親の仲哀天皇の御陵の建設以来、河内平野を開発することになる。

現在の水田、住宅街の航空写真を分析して、当時を推測する。

応神天皇自身の墓の建設時期までは、インフラ整備も不十分なせいか、乱雑では無いが、綺麗な条里制地割は応神天皇陵周辺と道明寺あたりには無い。次の仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の御陵周辺には素晴らしい条里制地割の土地(現在の住宅街)が広がっている。

仲哀天皇より以前の天皇は奈良盆地にあり、乱雑な住宅街の中にある。ただし、水田地帯は綺麗な条里制地割になっている。

ただし、神功皇后は仲哀天皇より後に亡くなられているのに、御陵は河内では無く奈良盆地にある。仲哀天皇と神功皇后の御陵については、時代の流れに反しており、治定の再検討が必要です。

結論

応神天皇以前、奈良盆地時代は海人族安曇氏(C1)が開発した条里制地割の水田に、越系弥生人(O2a)が入植して乱雑に住宅を建設していたが、ここに斉系弥生人(D2)の天皇家が入植し、御陵を建設した。

秦氏(D2)出身の応神天皇は奈良を嫌い大阪の河内に入植するが、この時は少数の越系弥生人と混住しながら新天地を開発することになる。次世代の仁徳天皇の時代ころまでには渡来した秦氏と共にインフラ整備が進み、大阪湾沿岸の大規模の水田開発(条里制地割)を行った。当時、牛馬も輸入され大規模開発や世界一の前方後円墳を建設した。

参考

① 仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の御陵周辺の土地計画

{A285B283-8294-479E-8B70-CB8F71CB97B8:01}
仲哀天皇陵(左)、応神天皇陵(右)

{7D408AAB-D978-416A-B76C-F6EF2C6788CC:01}
土師ノ里と道明寺、土師氏、菅原氏の故郷(参考)
{226B4027-8CE8-4DE4-8BBD-E73E356CD436:01}

仁徳天皇陵(右)、履中天皇(左)


{F3110838-9EB1-443B-97B6-8F509BC91D66:01}

反正天皇陵

② 神功皇后以前の御陵周辺の土地計画

{A27F5B3F-089F-4276-B33C-00D20C7F8009:01}
神功皇后陵(中央上)、成務天皇陵(中央下)

{7B75294A-76A4-456A-9107-BA0B7AC95CE7:01}
崇神天皇陵(上)、景行天皇陵(下)

③ 日本列島は海人族安曇氏が開発した(参考)

④ 呉系弥生人と越系弥生人の渡来ルート(参考)

⑤ 弥生人の中国大陸からの渡来ルート(参考)

⑥ 呉系弥生人と越系弥生人(参考)

⑦ 条里制地割は山東半島の斉国あたりがルーツ(参考)

⑧ 斉系弥生人は山東半島の斉国から渡来した(参考)

応神天皇秦氏の渡来は、仲哀天皇と神功皇后の穴門の豊浦の宮における熊襲征伐と三韓征伐以降、考古学的には古墳時代中期(4世紀後半、参考)



11 秦氏、土師氏、応神天皇(参考)

20240202『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道 第五章 | PlanetWork五番町 BLOG

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