2025年2月5日水曜日

切腹後、自分の「はらわた」を敵に投げつけ、凄絶な最期を遂げた村上義日とは?(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

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切腹後、自分の「はらわた」を敵に投げつけ、凄絶な最期を遂げた村上義日とは?

世界遺産吉野山の蔵王堂。(写真:イメージマート)

 武将が敗北を悟ると、切腹して果てることは珍しくなかった。鎌倉時代末期、護良親王に仕えた村上義日は、切腹後、自分の「はらわた」を敵に投げつけたので、そのエピソードを紹介することにしよう。

 義日は信泰の子として誕生したが、生年は不詳である。村上氏は河内源氏の流れを汲み、信濃に本拠を置く名族だった。なお、名前は義日であるが、ほかに「義光」、「義暉」と表記する史料もある。

 鎌倉時代末期、鎌倉幕府は内外で諸問題が起こり、その対応に追われていた。後醍醐天皇は天皇親政を実現すべく、2度も鎌倉幕府を打倒すべく挙兵したが(正中の変、元弘の変)、いずれも失敗に終わり、ついに隠岐島に流されたのである。

 元弘元年(1331)の元弘の変に際して、義日は子の義隆とともに護良親王(後醍醐天皇の子)に従った。護良親王も父の後醍醐天皇と同じく、打倒鎌倉幕府を悲願としていたのである。

 六波羅軍に敗れた護良親王は、楠木正成が籠る赤坂城に逃れたが、そこも落城したので、十津川、熊野へと落ち延びた。逃避行を続けながら、護良親王は各地の地侍らに檄を飛ばし、再び鎌倉幕府を倒そうとした。義日は、求めに応じた1人だったのである。

 護良親王が十津川、熊野へと落ち延びたとき、活躍したのが赤松則祐、平賀三郎、そして義日の3人だった。『太平記』には、護良親王が3人を高く評価して「赤松則祐が忠は孟施舎が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝の勢いをもしのぐ」と称えたという。

 元弘3年(1333)、幕府方の二階堂貞藤は、護良親王がいる吉野山に攻め込んできた。軍勢の数は、約6万という大軍だった。護良親王が率いる軍勢は防戦したが、敵は本陣がある蔵王堂にまで攻めてきた。

 「もはやこれまで」と敗北を悟った護良親王は、最後の酒宴を催していたが、義日は逃げて再起を期すよう促した。その後、義日は護良親王の鎧を着用すると、死を覚悟して身代わりになったのである。

 義日は「これから自害するのを見て、お前たちの武運が尽きたときの切腹の手本にせよ」と絶叫すると、潔く腹を切っただけでなく、自分の「はらわた」を取り出して敵に投げつけた。これには、敵も驚いたに違いない。

 さらに、義日は太刀を口にくわえると、そのままうつぶせになって、凄絶な最期を遂げたという。「烈士」と称される所以である。この話は、『太平記』に書かれたものである。

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